これは名古屋古書組合の機関誌『古書月報』104号(2009年4月28日刊)に投稿したものです |
歌の翼は時代を飛べるか
-音楽雑感オムニバス-
以下の拙文は毎日ラジオで音楽を聞いて浮かぶよしなしごとなど。あいまいな記憶で確認もしてないので、間違いがあるかもしれない。誤りをご指摘くだされば幸いです。
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キャット・スティーブンスの「雨に濡れた朝」は一九七○年代前半の曲ではないかと思う。僕が中学生か高校生のころだろう。昨今でもテレビCMのバックに使われたりするからスタンダード名曲として残っているといえる。ピアノ伴奏が印象的だ。
大人になってからクラシックを聞き初め、ベートーベンのチェロソナタ第三番を聞いたとき、ピアノ伴奏のかもしだす格調高い高揚感が気に入った。どこかで聞いたことがあるような気もしたのだが、今になって思えば「雨に濡れた朝」を連想していたのかもしれない。
別に似ているわけではないだろうが、この曲のピアノ伴奏もクラシカルな格調高さと高揚感をたたえている。人から見ればつまらない思い入れだろうが、自分にとってはちょっとした「発見」なのだ。
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日本の大衆音楽は演歌・歌謡曲とJポップとに二分される。二分とはいっても、売れているのはもっぱらJポップの方で、演歌・歌謡曲はとるに足らない勢いしかない。音楽業界の周縁にかろうじて生き残っている程度だろう。ただし売れ行きの問題とは違って、日本人の心の中ではその存在感はもっと大きいかもしれない。が、いずれにせよ、かつてJポップの先達たちがひっそり生きていたことを思えばまさに今昔の感がある。
なにせあの名古屋が生んだ不世出のポップ・デュオ、ザ・ピーナッツでさえ、「国籍不明の曲を歌っている」などと非難されていたのだ。確かその曲って「情熱の花」じゃなかったか。オリジナルはカテリーナ・バレンテのヒット曲だから国産品じゃなくて「洋モノ」ではある。それが気に入らなかったのだろうが、そもそも原曲をたどればベートーベンの「エリーゼのために」に行きつく。国籍不明どころか、これ以上に由緒正しい曲があろうか。こういう時代を生きてきたザ・ピーナッツとその師、作曲家・宮川泰は限りなく偉大だといえる。愛らしいキャラクターが幸いしたとはいえ、この時代、いや今日に至るまでもこれほど老若男女の区別なく愛されたJポップがあったろうか。
戦後まもなくジャズのブームがあったし、五○年代にはロカビリー、六○年代にはビートルズの登場に合わせてグループサウンズのブームがあった。だがいずれも若者だけの音楽だった。しかもグループサウンズのヒット曲はずいぶん歌謡曲風だ。中でもブルーコメッツは「大人の」グループとしてかなり歌謡曲寄りの路線をとっていた。しかし実は彼らはたいへんな実力派で、本格的なロックが演奏できた、ということを最近ラジオでよく聞く。そうはいってもその実力が十分に発揮される時代ではなかった。
本格的なロックバンドのブームは八○年代以降になるだろうが、演歌・歌謡曲とJポップとの勢力逆転はおそらく七○年代に起こったのではないか。以後、元に戻ることはない。
確か一九七○年の最大のヒット曲は渚ゆう子の「京都の恋」だろう。僕はこの曲が逆転劇の象徴だと思っている。ミリオンヒットを記録しながら、渚ゆう子は当時のテレビのベストテン番組には出られなかった。作曲者がベンチャーズ、つまり外国人なので日本の歌謡曲のベストテンには入れない、というわけだ。しかし「最大のヒット曲を締め出すテレビ番組って何なんだ」。おそらくそういう話になったのだろう。ほどなくして、外国人の作品を歌う歌手もベストテン番組に出られるようになった。
文化的にいって、それがいいことか悪いことか、あるいは外国人作曲のJポップとは何か、ということはここでは問わない。しかしこれがある種の「開国」であって、もはや流れを止められなくなったことだけは確かである。「京都の恋」が大ヒットし、それをきっかけに外国人作曲のヒット曲がベストテン番組に解禁されたことは一つの「事件」であったろう。ベンチャーズは有名だが渚ゆう子はそれまで無名だった。だからこのヒットと「事件」は必ずしも業界が意図したことではないだろう。商業主義と作為の結果ではない、ということだ。当時おそらく見えないところで人々の音楽指向は変化しつつあったのだ。その琴線に触れたからこそ「事件」は起こったにちがいない。
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先日、NHK教育テレビの「視点・論点」という十分間のオピニオン番組にジェロが出演して、演歌を熱く語っていた。音楽は何でも聞くけれど、演歌が一番素晴しいというのだ。子どものころ、日本語が分からないままに音楽としての演歌を好きになったという。日本語を学び演歌の歌詞が理解できるようになってますます好きになったのだが、子どものときに聞きながら推測していた意味と実際の歌詞とが一致している場合が多い、とも言っていた。つまり演歌の歌詞と曲とは一体であり、その組み合わせには必然性があるということだ。
彼がこのように思えるのは日本人の血が流れているためだろうか。それとも国民性とはかかわりない普遍的な事情によるものだろうか。簡単には分からない。音楽には民族性があるが、その理解は国境を超えるとも言うのだから。
こんなふうにアメリカ黒人の青年、ジェロから演歌の歌詞の素晴しさを説教された。確かに良いものはたくさんあるだろう。とはいっても「勝手な男と耐える女」などといった類の時代錯誤的なものも目立つ。こういうのは聞くに耐えない。しかしそういうものも含めて、同時代の人々の真情はそれなりに捉えているのかもしれない。大衆の琴線に触れなければヒットしないのだから、プロの作詞家が精魂込めた作品ではあろう。
「北の宿から」は阿久悠作詞だろうか。「着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます」。淡谷のり子は「演歌なんか大嫌い。なんで着てもらえないセーターを編まなければいけないのよ」と一蹴したが、この絵になる感情描写の妙に感じ入る人も多いだろう。
洋楽を聞き始めたティーン・エイジャーのころの僕は日本語の歌を聞くこと自体が恥ずかしいという感覚を持っていた。さすがに三十過ぎると演歌も聞けるようになったし、四十過ぎてからはロックがうるさくなって演歌のほうが耳になじむようにさえなった。以下はまったくの素人の憶測に過ぎないけれども、こんなことを思っている。
演歌の旋律は、日本の伝統的な五音音階(ペンタトニック)を基礎にしているだろう。それぞれ独自のペンタトニックを持つ民族音楽が世界にはいろいろある。人々はそれを空気のようにして育ち血肉にしているが、場合によってはやがて西洋の七音音階の旋律に触れることになり、カルチャーショックを受ける。このとき人によっては、今まで聞いていたものが単調かつ素朴であか抜けないと思える。そして聞くのが何となく恥ずかしいとさえ感じると、洋楽に乗り換えることになる。
もともともっていた五音音階への素朴な共感を脱して、「恥ずかしくない」洗練された音楽を追及していくと、やがては調性そのものを廃棄して十二音技法に至り、微分音に、さらにはあらゆる表現様式における前衛的手法の追及へと向かっていくのではないか……。ちょっと話が極端に飛躍してしまった。実際そこまで行く人はほとんどいない。
しかしたとえばここで、演歌を聞くこと自体が恥ずかしい、とさえ感じてしまったとしても、それは単にきらっているのではなく、きわめて矛盾した感情にちがいない。実のところしばしば「恥ずかしい」は「好き」の裏返しだったりするのだから。何となれば人間が一番好きな性交は一番恥ずかしい行為ではないか。
歳をとれば原点回帰で、体に染みついたペンタトニックを臆面もなく愛好できるようになる。だけどこれは「否定の否定」であって、古今東西の音楽に触れて豊かになって帰ってきた、と思うことにしている。
演歌に向けるジェロの情熱には敬服した。たいした若者だ。だけど彼の原点はどこにあるのだろう。そう思っているうちに、そういえば今の日本の若者たちの音楽的原点て何だろうか、分からない、ということになった。藤圭子の娘である宇多田ヒカルが将来演歌を歌うことはあるのだろうか。彼女もまた「たいした若者」だから目が離せない。派遣切りと闘ったりしているやはり「たいした若者」たちも歌は聞くだろうけど、我々おじさんたちとは接点があるだろうか。
誰しも自国と世界の両方の文化から影響を受けている。つまり個々人は民族的なものとグローバルなものとの交点に存在している。それぞれのあり方で。音楽の嗜好もそのあり方の一つである。大衆音楽については個々人というよりも世代ごとの特徴と差異が大きいだろうけど…。
今どきの若者たちは幼少より日本のペンタトニックに慣れ親しんでいないかもしれない。しかし和食を初めとした日本文化の様々な要素には日本人としてぜひ守っていきたいものも多いし、むしろ世界的な普遍性を持つものさえあるだろう。日本の大衆音楽もその一つかもしれない。
実際、沖縄では今も民謡が生活に根づいていて、若者たちはそれを基礎に新しいポップスを生み出し、しかもそれが外国でもヒットしてきた。ザ・ブームは本土のバンドだが、沖縄音階を取り入れたそのヒット曲「島唄」は世界中で親しまれている。何年か前には、紅白歌合戦でアルゼンチンの歌手が「島唄」を日本語で歌うという珍事、いや快挙が実現した。音楽に限らず、自国の文化を見直しつつ、双方向的に自由な世界的交流が展開される新しい時代がやってくるのではないか。「たいした若者たち」に期待したい。
どうもこう書いてもいかにも上滑りで演歌ほどの迫力はないのが残念だが……。
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日本を代表する指揮者、大野和士(かずし)は思った。イタリアオペラの殿堂ミラノスカラ座で森進一が「おふくろさん」を歌ったらどうなるか(「朝日」夕刊、一九九八年一月一四日)。まず聴衆はあの悪声にショックを受けるだろう。「これは何だ」。それから研究が始まり、歌詞の内容を知り、演歌とは何かを理解する。しかし問題はここから。大野は言う。「真の感動を得られるかどうかは、十分理解した上で、自分の感性を通して、森進一の『おふくろさん』を総体として受け止められるかどうかにかかっています。そうすれば、実演ならではの迫力で森さんが歌う時、多くの人がインターナショナルな意味で胸をうたれると思う」。
知識は大切だけど、自分自身の感性を通したとき初めて普遍的な感動が生まれる。あたりまえにも思えるが、クラシックには一部に頭でっかちのファンがいるから、(僕じゃなくて)大野和士が改めてそういうのも意味がある。
演歌であろうとクラシックであろうと普遍的な感動は誰にも伝わるだろう。大野は一九九○年代、ユーゴ内戦時、クロアチアのザグレブ・フィルの音楽監督を努め、灯火管制が敷かれる下で演奏した。いつもより大勢の人々がひっそりと集まり、会場の中では大きな拍手をして、ひっそり帰っていった。人間は困難に直面し、尊厳が危機に瀕したときこそ、音楽を芸術を求めることを大野は知った。今、彼は日本では、若い歌手のピアノ伴奏をして、介護施設や子ども病院を回る「大野和士の、こころふれあいコンサート」をボランティアで行なっている(「しんぶん赤旗」二○○八年九月二九・三○日)。
この活動のきっかけになったのは、十五年くらい前から始めた、親しみやすい解説つきのオペラコンサートだ。ここでのアンケートで、定年退職した世代がこれまであまりに忙しくてコンサートにも行けない実態があることを実感した。それは今も変わらない。大多数の人々にとって芸術は決して身近ではない。この現実に対して大野は「私は何をもって音楽家であり続けるのだろう」と自問せざるをえない。その経験から彼は「こころふれあいコンサート」をライフワークにしたいと考えている。
立派な演奏さえすれば指揮者は賞賛される。しかしそこにとどまらず、人間にとって芸術とは何か、芸術家の役割は何か、ということに真摯に向き合う音楽家が達した境地は芸人の境地に似ていると思う。
福祉活動を続ける杉良太郎に、インタビューの名手・佐田智子が聞いている(「朝日」夕刊、一九九八年一○月一日)。よけいな注釈抜きに紹介したい。
(佐田)日本の芸能の本質って何ですか。
(杉)大衆の他人を思う心、人を思い、想う心じゃないか。あるいは人間を含めた自然を想う心かなあ。
僕は芸能界で先生がいないんで、孤児の子どもたちとか、お年寄りとか、ハンディを背負った人たちから教えてもらうことが多いですね。お世辞使わない。おべんちゃら言わない。素直に泣くし、素直に喜ぶし。
そこに真実がある。真実を見るっていうのは大変なことですよ。それに触れた時は本当にもう良かったなあと。福祉と芸能って、同じ。僕の先生はこの人たちだって、いつの日かから、そうなっちゃったんですね。
(佐田の杉評)芸能界のスターになることが貧しさから脱出する最短の道と信じられた時代に、鮮やかに軌跡を描いた一人。大衆から出て大衆に支えられ、得たものを並外れた持続力で社会に還し続けている。恐ろしくまじめな、胸の中で太鼓の鳴っている人なのだ。
ひたむきもまじめも遠い価値のように思える世紀末に、この人の「時代劇」に重ねて、人々は自分の真実を探している。
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大野和士は昨年九月からフランス国立リヨン歌劇場の首席指揮者に就任した。ここからはこの劇場の話。斬新な演出そして若手の登竜門としても知られるエネルギッシュな劇場である。それだけでなく、町全体を巻き込んだ、音楽の教育普及プログラムも行なっている(「赤旗」同前記事)。移民が多く、若者の暴動も起こる貧しい地区に、劇場は舞台装置を作る工場を建てた。「そして、地域の子どもたちにその場でリズム教育をし、安い食券を配り、劇場の食堂で給食サービスをして」いる。
ヒップ・ホップの若者たちに対して、支配人が思いきって劇場の使用を許した。最初は居心地悪そうだったが、やがて彼らはヒップ・ホップの世界大会で優勝した。今や彼らはオペラの演目によっては劇場のダンサーとして契約され、子どもたちのリズム教育にも参加している。「劇場が中心になって音楽をつくり、演奏のノウハウを教えた結果、劇場が社会教育、生涯教育のシンボルとなり、その実践者となった」。
リヨン歌劇場のこの実践は、音楽のもつ教育力のみならず地域への変革力をも感じさせる。実は国全体でこうしたことを行なっているところがある。
南米ベネズエラでは参加型民主主義による底辺からの様々な社会変革が進んでいる。二月二○日、NHK教育テレビ「芸術劇場」は、「青少年を貧困と犯罪から救え、ベネズエラの音楽教育、エル・システマが生んだ奇跡の響き」と題して、グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラを紹介した。
音楽教育組織「エル・システマ」では無料で教育を受けられ、楽器も貸与される。参加者は約二五万人、オーケストラは四百、合唱団も百におよぶ。「エル・システマ」は国を挙げての社会政策として取り組まれている。子どもたちをオーケストラに参加させることで犯罪や非行を防ぎ、更正も促している。早くからみんなで奏でることの楽しさを実感させることが大切なのだ。
四百のオーケストラの頂点にあるのが、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラである。情熱的な演奏が世界的に注目され、昨年初来日も果たした。そして「エル・システマ」の生んだ最高の大器が二八歳の指揮者グスターボ・ドゥダメルであり、今秋から名門ロサンゼルス・フィルの音楽監督に就任する。こうした頂点の高さは広い裾野に支えられてこそ。音楽に接する権利が子どもたちに保障されることで、音楽芸術の持つ教育力が存分に発揮されている。
競争の中で落ちこぼれがあって当たり前、伸びるものだけ伸びればいい、それも個性だ、という人間観や教育観では良い社会はできない。貧困をなくしてすべての子どもを尊重することが不可欠だ。ドゥダメルは、音楽は社会(「世界」だったか?)を変える、と語っている。普通、音楽家はそこまで言うのは傲慢だと思うだろうが、おそらく彼は掛値なしにそう実感しているに違いない。「エル・システマ」はヨーロッパでも導入され始めている。
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音楽は戦意高揚に利用されもするし、平和の象徴ともなる。
終戦直後、古賀政男は作曲の筆を折って故郷で百姓をしていた。米兵が自分を探していると聞いて、戦争協力を追及されるのではないか、とおびえていた。しかしやってきた米兵は彼に再び作曲するように要請した。日本の占領支配を担うGHQは戦後復興に歌を利用したかったのだろう。こうして古賀政男は戦後再出発し、国民的作曲家として活躍した。
このエピソードはラジオでいわば美談として聞いたのだが、別の見方もある。戦時中も反骨精神を通した淡谷のり子は、音楽関係者の戦争犯罪が裁かれないのをいぶかしく思っていた。日本の音楽にはもともと思想性がなく、問題視するには当たらない、とGHQが判断しているらしいと聞いて彼女は暗然となる。誇り高い音楽家の淡谷のり子にしてみれば、日本の音楽がバカにされたと感じられたのだろう。
ダニエル・バレンボイムは、ユダヤ人のピアニストにして指揮者である。故エドワード・サイードはパレスチナ出身でアメリカ在住の思想家であった。二人は語らって、十年ほど前に、ウエスト・イースタン・ディバン・オーケストラを結成した。団員はイスラエルとアラブ諸国との青年たちから成る。彼らは政治問題をめぐっては互いに激論もかわすが、いったん音楽に入れば見事なアンサンブルを聞かせる。バレンボイムは、オーケストラでは誰であれ共通の楽譜に基づいて協調しなければならない、相互理解せねばならないことが大切だ、という意味のことを述べている。
この新オーケストラは二○○五年だったかに、幾多の困難を乗り越え、ついにパレスチナ自治区のラマラでの公演を実現する。ユダヤ人とアラブ人との混成楽団による歴史的快挙である。しかし周知のようにパレスチナをめぐる政治情勢はいっこうに改善のきざしはなく、戦乱は収まらない。
バレンボイムは聴衆に向かって訴える。このオーケストラは平和の使者として世界中で賞賛されてきたが、現実がそうはなっていないことはみんな知っている。音楽が平和を作り出すことはできない。世界中の人々が相互理解・寛容の精神を深めることが大切だ、と。バレンボイムは謙虚に語るが、その気高い意志が世界に向かって発せられることで、音楽の力は静かに根づいていくだろう。いつか和平が成り、彼の地でこのオーケストラによるベートーベンの第九が聞かれることを願わずにはおれない。
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昨年の佳曲、アンジェラ・アキの「手紙 拝啓 十五の君へ」はこれからも各地の中学校の卒業式で永く歌い継がれるにちがいない。これは合唱コンクール中学校の部の課題曲として作られ、彼女は練習に励む各地の中学生たちと交流する。彼ら彼女らの切実な悩みを聞き出し、寄り添うなかで、歌は深まっていく。歌われることで歌は成長していく、ということをアンジェラ・アキは実感する。
悩むのは「十五の僕」ばかりでなく「五十の僕」かもしれない。共感は世代を超えて広がっている。
今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて
苦しい中で今を生きている
この曲は何よりもアンジェラ・アキの真摯な生き方が生み出した精華である。しかしそれはまた時代が生み出した叫びであり、同時に、時代を射貫き超えようとする意志(時代の自己認識)でもあろう。誤った経済政策がもたらした社会の荒廃、そして百年に一度の経済危機のなかで、人々は厳しい現実を直視しながらも希望を捨てるわけにはいかない。
「手紙 拝啓 十五の君へ」はまさにそこに生まれた歌だ、と僕には感じられる。
(刑部泰伸)