これは、吉崎祥司の著書『「自己責任論」をのりこえる』の目次、抜き書き、メモです |
吉崎祥司『「自己責任論」をのりこえる 連帯と「社会的責任」の哲学』
(学習の友社、2014)
<目次>
はじめに
T 自己責任論―成立と機能
「自己責任論」の成立/「自己責任論」の前段階
「努力すれば報われる」論/「自己責任論」の焦点化・全社会的拡大
「自己責任論」と新自由主義的「構造改革」の同時的展開
「自己責任論」の機能と本質
歴史が否定した「自己責任論」の新自由主義による復活
U 日本型「自己責任論」の特徴と批判的検討
「自己責任論」の諸特徴
(1)「社会的責任」の否定・相対化としての「自己責任論」
社会的責任と個人的責任
(2)「個人化のポリティクス」
“社会などというものは存在しない”!
(3)「能力の個人還元主義」
「能力の共同性」
(4)「内閉化という深い抑圧」
(5)「自立」と「自己責任」
「政策言語」としての「自立」/「自立支援」政策の本質
(6)「自己決定」と「自己責任」
「自己決定」の積極的意義/自己決定の危うさ
(7)人びとの分断と敵対をもたらす「自己責任論」
人びとを分裂させ対立させる「自己責任論」/「敵意の醸成」
V 「自己責任論」への対抗
(1)「社会的責任」の観念を確立すること
―「自己責任」から「社会的・公的責任」へ
「社会的責任」とは/「社会的責任」の具体的内容
「社会的責任」の物的基礎としての「社会的財産」―社会保障の財源
(2)「個人化のポリティクス」の克服―孤立から共同へ
個人主義の成立
新自由主義的「自己責任論」の根底にある極端な「個人主義」
人間の本源的な共同性―「社会関係のアンサンブル」としての人間の本質
(3)「能力の共同性」という認識の獲得
教育機会の不平等と職業教育・職業訓練の不在/「能力の共同性」
能力は固定したものではない/能力のちがいと報酬の格差
能力の自然的補完ということ
(4)真の「自立」観念の獲得
―「個(孤)の自立」から「依存的自立」へ
「自立」観念の肥大化と一面化/「自立」の通俗的観念
「自立」の条件性・偶然性・限定性/「個の自立」から「依存的自立」へ
(5)「自己決定」から「共にする決定」へ
「自己決定」の諸前提・諸条件/「自己決定」の前提としての十分な情報
「自己決定」が不可能な存在/「自己決定論」の疑似性と抑圧性
「自己決定」はいかに可能か
(6)「内閉化」の圧力への対抗
「居場所」をつくること/「内閉的抑圧」に抗する社会文化の形成
W 新自由主義とは何か
(1)新自由主義の本質
至上のものとしての「財産権の自由」
(2)自由主義の歴史的諸形態
古典的自由主義/社会的自由主義/自由とは何か
社会的自由主義と科学的社会主義/新自由主義と自由主義
自由主義の正統の発展
(3)新自由主義の思想的基礎―批判的検討
「自己所有権」論の前提/「自己所有権」論の「嘘」
「財産権の自由」の最大化をもたらす「市場の自由」
「トリクルダウン理論」と格差の積極的肯定
福祉国家の否定と「構造改革」/新自由主義にとっての「国家」
(4)新自由主義の目標
構造改革による自由市場体制のグローバル化/福祉国家の解体
「国民国家の」崩壊?/「社会(的)なもの」の消去
(5)新自由主義的価値観の注入
人びとの価値意識・精神態度の改変/「所有的個人主義」の再現・強化
煮詰められた所有的個人主義としての新自由主義/新自由主義に抗して
X 新自由主義との対抗の基軸としての「社会権」の再建
(1)なぜ社会権の再建か
「福祉国家」の事実上の不在
(2)社会権とは何か
社会権の歴史/憲法のなかの社会権
(3)社会権をめぐる日本の現状
生存権の蹂躙/教育を受ける権利の侵犯/労働権の侵害
社会保障権の破壊
(4)異様なまでの社会権侵害
ヨーロッパの社会権保障/日本の状況/日欧のちがい
「再分配」のいっそうの圧縮/社会保障削減の「理由づけ」
(5)貧困急増の直接的要因と「社会権」の衰退
「日本型雇用」と社会保障/国家的・法的規制の不在
国家の正当(統)性
(6)社会権にかんする社会的合意の未成熟
社会運動と社会権/社会権を求める社会的合意・社会文化の未形成
思想・理論界での社会権の相対化
中心的な理論的課題としての社会権の再構築
(7)平等の意識の後退と再分配のいっそうの縮減
「平等」意識の後退/再分配の本格的追求
社会文化・労働者文化の形成という課題
Y おわりにかえて―社会権の基礎としての人間の根源的平等
(1)なぜ、「弱者」は救済されなければならないのか
弱者とは誰か/なぜ、「弱者」は救済されなければならないのか
(2)出発点としての「内発的義務」―人間的行為の根源にあるもの
内発的義務/「共通善」としての救済
(3)人間の根源的平等と社会変革
人間の「究極的一致」としての平等
「人間の尊厳」の根拠としての根源的平等
あとがき
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
<同書からの要約あるいは抜き書き>
はじめに
「常識的な自己責任観」VS「いわれのない」自己責任論 (1ページ)
現在の自己責任論は、「自分で決めたことには自分が責任をとる」といった通俗的な理解とはちがって、明白な政治的意図をもった「政策言語」(イデオロギー)です。(同前)
T 自己責任論―成立と機能
「自己責任論」の成立/「自己責任論」の前段階
「努力すれば報われる」論/「自己責任論」の焦点化・全社会的拡大
「自己責任論」と新自由主義的「構造改革」の同時的展開
景気回復・グローバル競争勝利のため規制・保護の打破と競争主義の徹底
その構造改革がもたらす雇用破壊・社会保障縮減
それへの批判の封じ込めのため
競争・規制緩和の必要性とその犠牲・負担の受容を迫る
競争の結果としての敗北を個人的問題にする (10ページ)
「自己責任論」の機能と本質
自己責任論の機能
@競争を当然のこととし、
A競争での敗北を自己責任として受容させ(自らの貧困や不遇を納得させ)
B社会的な問題の責任のすべてを個人に押しつけ(苦境に立たされた“お前が悪い”)
Cしかもそうした押しつけには理由がある(不当なものではない)と人びとに思い込ませることによって
D抗議の意思と行動を封殺する(“だまらせる”)
競争の二種類 emulation 競い合い 切磋琢磨
competition 蹴落とし (11ページ)
歴史が否定した「自己責任論」の新自由主義による復活
U 日本型「自己責任論」の特徴と批判的検討
「自己責任論」の諸特徴
(1)「社会的責任」の否定・相対化としての「自己責任論」
仕事の機会と仕事の報酬とは、多数の社会的諸力の複合によって決定されるのであって、どのような個人も、そして明らかにいかなる個々の労働者も、この社会的諸力を形成することはできないのである。もしこの諸力を統制できるとしたら、それは共同社会の組織された行ないによって、したがってまた責任の正しい分担によって可能なのであり、それらに対処することは共同社会の務めである。
ホブハウス (17・18ページ)
社会的責任と個人的責任
問題は、個人的な責任に属するものが多少なりとも見られたとしても、社会的な要因が決定的であったり、より重要であったりする場合に、個人に責任がないことを個人に負わせようとすること、あるいは不当に過大な責任を負わせようとする、または個人が背負いようもないものを個人に押しつけようとすることで、そこに「自己責任論」の誤りがあります。 (19ページ)
(2)「個人化のポリティクス」
新自由主義的な自己責任論は、自己責任を強調することで、さらに進んで、さまざまな問題を、徹底して一人ひとりの個人の内部に閉じ込めようとします。つまり、社会的な責任の問題を個人の責任に解消しようとするだけでなく、社会問題一般を個人の問題に還元・解消することで、客観的・現実的な諸問題や諸矛盾から目をそらさせたり、それらの問題や矛盾に対する批判や抗議を封じ込め、抵抗の意思を砕こうとします。言いかえれば、人びとを「原子のような個人」へと分断し、人びとが見舞われるあれこれの困難の原因を個人的なあるいは心理的な問題に還元することで、「社会」というものを消去しようとします。(19ページ)
“社会などというものは存在しない”!
(3)「能力の個人還元主義」
「能力の共同性」
一人では能力を形成することも行使することも出来ない (21ページ)
(4)「内閉化という深い抑圧」
仕事に就けないのは、自分の無能や意欲のなさによるのだ、そしてそれは、他人のせいでなく、まさに自分のいたらなさによるものなのだから、誰に助けを求めてもならないし、求めない、あるいは社会に評価されるような「能力」を何ももたず、社会に貢献できない自分は、社会にとっていわば「負担」であり、無視され放置されてもやむをえず、沈黙するほかない、といった想念が少なからぬ若者たちをとらえているようです。 (23ページ)
抑圧された者たちを徹底的に無力化していく思考回路として自己責任論を捉える必要あり(同前)
被害をこうむっている側に自分に責任があると感じさせてしまう、困難を内閉化させる抑圧様式が日本社会のいたるところに蔓延(同前)
(5)「自立」と「自己責任」
「政策言語」としての「自立」/「自立支援」政策の本質
人に迷惑をかけない、すべてを自己責任として刃を自分に向ける、といった抑圧装置としての自立観 (24ページ)
(6)「自己決定」と「自己責任」
「自己決定」の積極的意義/自己決定の危うさ
条件整備なしの「自己決定」→「選択の自由」ではなく「選択の強制」
(27ページ)
(7)人びとの分断と敵対をもたらす「自己責任論」
このように、「自己責任論」は、社会的責任を個人的責任に解消することで、社会的責任を否定しつつ、個人を社会から切断し、あらゆる問題を個人のうちに閉じ込めたうえで(「個人化のポリティクス」)、そこでの困難は能力の不足・欠如に起因する(「能力の個人還元主義」)と思いこませることで、当の個人の「声」を封じます(「内閉化」の圧力)。同時に、一面化された「自立」観念を前面に押したてて、「自立・自助」の政策言語を鼓吹し、「自由な選択」のうえでの「自己決定」なるものの結果としての「自己責任」を要求します。そうした、多重的な抑圧の構造の帰結として、「自己責任論」は、人びとの間に幾重もの分断と敵対をもたらします。 (28ページ)
人びとを分裂させ対立させる「自己責任論」/「敵意の醸成」
政財界+メディア→生活保護バッシング 「世論」の支持 特にワーキングプア層
「弱者の特権」を言い立て「内部対立の構造」の形成 (29ページ)
新自由主義的自己責任論が威力をふるう理由
・格差社会を容認する風潮の強まり
・雇用環境の悪化と生活の厳しさによって、精神的余裕なく、
他者に厳しくなっている
・「激化するグローバル競争」と「国家財政の緊迫」意識の注入が
自助・自己責任の意識の受容を拡大 (30ページ)
V 「自己責任論」への対抗
(1)「社会的責任」の観念を確立すること
―「自己責任」から「社会的・公的責任」へ
「社会的責任」とは/「社会的責任」の具体的内容
「労働権」と「生活賃金を求める権利」および「公的扶助」の権利の保障
(33ページ)
「社会的責任」の物的基礎としての「社会的財産」―社会保障の財源
社会保障の財源を税金から出すことへの批判
私的所有権・個人の財産権の侵害
自分の労働・努力で築いた財産・富はあくまで個人的・私的なもの
しかし財産・富は個人的なものであると同時に、それ以上に社会的・集団的
富・財産は一人では築けない 社会的基礎を持つ ホブハウス (35ページ)
(2)「個人化のポリティクス」の克服―孤立から共同へ
個人主義の成立
新自由主義的「自己責任論」の根底にある極端な「個人主義」
人間の本源的な共同性―「社会関係のアンサンブル」としての人間の本質
人間は本源的に共同的な存在であり、本質的に他者依存的、他者関係的な存在である (39ページ)
社会的分業 「相互依存の体系」としての社会 (36・37ページ)
相互依存性・共同存在性・相互応答性としての人間の社会的存在
豊かな人間関係は人間の発達を可能にする
個人の成熟は社会の豊饒をもたらす
→他者が自分のうちに入りこんでいる
資本主義の現実ではこれらは見えにくい
個人主義 人間の本源的あり方を個人としての存在の仕方に求め、人間の本源的共同性を認めない (40ページ)
(3)「能力の共同性」という認識の獲得
教育機会の不平等と職業教育・職業訓練の不在/「能力の共同性」
能力は固定したものではない/能力のちがいと報酬の格差
能力を形成・発揮できる環境・文化・社会の必要性
e.g. メガネは視力の低下を補う
段差のない道路は車いす利用により
歩行能力の維持と生活空間の拡大を可能に (43ページ)
能力形成の機会を歪め踏みにじっている支配層は「能力の自己責任論」を声高に主張して自らの責任を糊塗している
それに対して能力を形成・発揮する環境を充実せよと要求する必要あり
(44ページ)
生まれつき能力に恵まれないとしても、本人の責任ではないから、不利な扱いを受けるいわれはない 努力も環境に左右される
→恵まれない人たちの環境の改善が優先されるべき
ロールズの格差原理「不平等は最も不利な人々の福利を増進するばあいにのみ許容されるのであり、生来の資産のより少ない人たちのためにより多くの資産が費消されなければならない」 (45・46ページ)
能力の自然的補完ということ
つまり、能力の不足や不全があったとしても、そのように補い合えば済むことで、それは、人びとの多くにとって何の不都合もないことでしょう。能力の不足や不全を自然に補い合う関係が拡大すれば、ことさらに個人の能力の不足や欠如をあげつらういわれはなく、また、能力をあくまでも個別性のもとでとらえなければならない必然性もなくなってきます。もっぱら個人的優越、個人的創意などばかりを云々することの理論的根拠も、希薄になってくるでしょう。(48ページ)
能力差による不平等を当然視するようなこれまでの社会関係を変換し、不平等の根拠となっている能力差を自然に補完し合うような関係として社会を再形成することで、人は人間的に成熟していくでしょうし、そのことによって社会もゆたかになっていくでしょう。 (49ページ)
能力というものは本源的に共同的なものであって、安易に個々人に還元されることを許さないものであり、したがって、個々人間の能力主義的差別を許容するものではないはずです。そういう意味では、能力主義は、けっして「いわれのある差別」ではありません。むしろ、能力主義に「いわれ」があるとみなす見解は、近代主義的・個人主義的な能力観にとらわれたものであり、原理的に誤ったものと言わなければならないでしょう。 (49ページ)
(4)真の「自立」観念の獲得
―「個(孤)の自立」から「依存的自立」へ
「自立」は抽象的には積極的なもの=独立+自律 (50ページ)
「自立」観念の肥大化と一面化
「政策言語」としての「自立」
@他の基本的諸価値(特に人間の共同性・関係性)からの切り離し
A「個としての自立」への一面化
B「経済的(就労的)」自立=「自助」への一面化
C「自己責任化」
D「自立」に困難がある者の排除 (50.51ページ)
「自立」の通俗的観念―その基礎としての「物象化」
誰にも頼らず生活できることはあり得ない←社会的分業で生活が成り立つ
(51ページ)
にもかかわらず、「ひとりでやっていける」という観念が成立しているのは、商品生産と交換が普遍的なものとなった資本主義社会に固有の「物象化」(人と人の関係が物と物の関係として現われる)という現象によるものです。つまり、資本主義という(全面的に物象化した)社会関係のもとでは、人は貨幣を手にすることによって、他の生身の具体的な人間(たとえば食物の生産者)とは没交渉のままで生活できる(物資・サービスを購入できる)、という感覚が得られます。お金をもってさえいれば、他人に依存することなく経済的に自立できる、という思い込み・倒錯が生じたのです。 (52ページ)
cf ホリエモン「カネで何でも買える」
「自立」の条件性・偶然性・限定性
勤労階層の多くにとって、経済的自立は条件的・偶然的、一時的・部分的
(52ページ)
それに必要な貨幣を稼ぐ能力は個人のものではない:能力の共同性(53ページ)
「個の自立」から「依存的自立」へ
こうして、自立とは、誰にも面倒や迷惑をかけず、誰にも頼らず助けを請わず、他人の手を借りずにやっていくということではありません。相互に依存し、援助しあいながら、頼りになる共同社会(コミュニティ)を維持するための義務を果たすことが、「一人前」ということであり、自立ということの基本的な意味であるでしょう。なぜなら、人間はもともと関係的・共同的な、相互依存的な存在であるからです。自立は、そうした関係性や能力の共同性を前提にしており、いわば関係のなかに自立があります。つまり、自立は、本質的に共同的な、相互自立的なものです。個人としての自立は、そうした「自立の共同性」のうえに成立します。 (53ページ)
「依存的自立」とは、他者に従属することを意味するのではありません。自立とは、相互に依存しながらも、他者の言いなりにならず(独立して)、自分としての考えや意志をもって行動する、ということです。国家との関係で言えば、国家に必要な援助を要求しつつ、そのことを理由としての、また要求したこと以外についての干渉や介入を認めないのが、自立というものです。憲法学の言い方を借りれば、国家に対する保護請求権を確保し、行使しつつも、国家の不当な干渉は許さない(国家権力を制約するものとしての憲法=基本的人権)、ということになるでしょうか。 (54ページ)
「依存的自立」「相互的自立」という人間存在の本質的なあり方にもとづいて、集団や共同の努力、信頼や依存することの大切さを知り、作り上げていくことが必要です。言いかえれば、「自立」という目標と、他の人びととの「豊かな関係性を築いていく」という目標とを結びつけていくこと、が求められています。
(55ページ)
(5)「自己決定」から「共にする決定」へ
「自己決定」の諸前提・諸条件/「自己決定」の前提としての十分な情報
「自己決定」は常に条件的・限定的・相対的 自分では自己決定したつもりでも
実際には状況の「圧力」や「傾向性」の下で行なわれる (55ページ)
必要な情報を十分に獲得できるのはまれ (56ページ)
「自己決定」が不可能な存在/「自己決定論」の疑似性と抑圧性
たとえば労働者は仕事上・生活上の基本的事項を決定できない (57ページ)
以上から「自己決定」は疑似的であり、自己責任に直結できない (58ページ)
「自己決定」はいかに可能か
「自己決定」の主体は「強い個人」を想定するが
実際には「弱い個人」が困難を引き受けている
「自己決定」から「共にする決定」へ 仲間が求められる (59ページ)
(6)「内閉化」の圧力への対抗
「居場所」をつくること―「助けて」と言える場の形成
内閉的抑圧に苦しむ人々から自生的にその「場」は生まれない
「場」の形成は労働運動などの課題 (61ページ)
「内閉的抑圧」に抗する社会文化の形成
「場」の形成の他に社会的な制度・文化の形成も課題 (62ページ)
支配層による分断支配 「他者の厳しいまなざし」
「強者」や「権力」に対する無力感→同類や「弱者」にはけ口
ヨーロッパの社会文化:「生活は勤労(収入)と社会保障で成り立つ」
(63ページ)
この確立した社会文化・社会意識、制度思想の下では
社会問題に関する「自己責任論」が存在する余地はない
「連帯」の用法 反対の二つ
支配層:権利としての社会保障の否定としての「自助」「共助」
社会運動:生活保障に関する公的・社会的責任の徹底要求 (64ページ)
W 新自由主義とは何か
(1)新自由主義の本質
至上のものとしての「財産権の自由」
新自由主義が至上のものとする自由 (66ページ)
「私的所有(私有財産)の自由」「市場の自由」→富裕層の特権的自由
*(刑部コメント)
経済的自由の3層:人間の自由・市場の自由・資本の自由
3つの自由は相互に同調もし対立もする
新自由主義の本質は資本の自由、人民が目指すのは人間の自由
(2)自由主義の歴史的諸形態
古典的自由主義/社会的自由主義/自由とは何か
社会的自由主義と科学的社会主義/新自由主義と自由主義
自由主義の正統の発展
(3)新自由主義の思想的基礎―批判的検討
1.理論的基礎「自己所有権論」→「私的所有権」の絶対化
2.人間の本質:財産や能力など自分の所有物の最大化を目指す活動・活力
それへの規制・制限・束縛がないことが自由
3.そうした活動・活力を生み出し、所有物の最大化を可能にするもの:競争
妨げられぬ競争を可能にするのが「市場の自由」
4.規制緩和・民営化 構造改革の経済思想 「市場の自由」の最大化
5.格差や貧困その他の困難は競争的活力の源泉 (77ページ)
「自己所有権」論の前提/「自己所有権」論の「嘘」
排他的な個人の利益が絶対→個人の権利の固守 人間の共同的存在性は無視
ロック「自己労働に基づく私的所有」 この論理は貨幣蓄財による大所有を経て
資本家階級の私有財産の自由「他人労働に基づく私的所有」の正当化に転化
(78ページ)
「自分だけのもの」と思っても実際には、他人や社会に帰すべき要素がある
(79ページ)
「財産権の自由」の最大化をもたらす「市場の自由」
弱肉強食の「市場の自由」は格差を拡大する
しかし自由意思に基づく等価交換だからということで市場の弱者への配慮はない
「市場の自由」は人間の自由という自由の本質的要請には応えない
それでも「市場の自由」は最重要だというのが新自由主義の立場 (81ページ)
*(刑部コメント)
より本質的な「資本の自由」で捉える
等価交換の問題:領有法則の転回
市場競争一般とその中での資本間競争とを区別する 目的:価値or剰余価値
資本主義での格差拡大は市場競争一般におけるそれとは違う 原因:搾取
剰余価値を目的とする資本主義生産での競争に際限はない 過労死の必然性
「トリクルダウン理論」と格差の積極的肯定
貧困や格差は、能力が低い、努力が足りないが故の「自己責任」
格差のもとでこそ、人は、奮起し、努力し、自立・自律と成功をめざして、最大限の能力を発揮するものであり、それこそが個人と経済社会の双方の成長を実現する (82ページ)
福祉国家の否定と「構造改革」/新自由主義にとっての「国家」
「小さい」としても「強力な国家」 (84ページ)
社会保障の削減 小さい政府
市場秩序をつくり、市場の防衛・拡大には軍事介入も辞さず
強い国家 (84・85ページ)
(4)新自由主義の目標
構造改革による自由市場体制のグローバル化/福祉国家の解体
「国民国家の」崩壊?/「社会(的)なもの」の消去
社会の消去の後に残るのは個人と国家だけ (91ページ)
国家が強力にバックアップする「市場ルール」の下での個人の自由、もっぱら経済的自由ばかりが謳歌される 強者の「私的所有の楽園」の出現 (92ページ)
新自由主義下でのNPOの二面性 (91ページ)
民衆側:生活破壊への抵抗の基盤
支配層:小さな政府による公務の縮小の穴埋めを「市民団体」にやらせる意図
(5)新自由主義的価値観の注入
人びとの価値意識・精神態度の改変/「所有的個人主義」の再現・強化
煮詰められた所有的個人主義としての新自由主義/新自由主義に抗して
X 新自由主義との対抗の基軸としての「社会権」の再建
現在はひどく損なわれている社会制度を再建し、確立することが、「自己責任論」の克服にあたっての制度的・文化的な基軸になります。 (98ページ)
(1)なぜ社会権の再建か
国際的にも希有な明文の生存権規定(第25条)をはじめ相当程度の社会権規定をもつ憲法の存在にもかかわらず、人口の多数が労働と生活の全般にわたる困難と不安に苛まれている現状と、これに対する批判的な意識や運動の低迷はきわめて深刻です。 (99ページ)
「福祉国家」の事実上の不在
福祉国家の法的・制度的、思想的基盤としての「社会権」の衰退が現状を招いています。 (99ページ)
福祉国家の二面性 新自由主義はその積極的側面を根こそぎにしたい (99・100ページ)
(2)社会権とは何か
社会権の歴史/憲法のなかの社会権
自由権は、資本主義経済社会のもとでは、勤労階層の不自由、人びとの自由の抑圧と不平等を解決できませんでした。 …中略… 社会権は、あるいは、自由の現実的諸条件・諸前提を整備することで、自由権を実質的に保障し、あるいは自由権の一部(所有権の自由や「契約の自由」)を制限することで、不平等や勤労階層に対する自由の抑圧をとり除きます。 (101ページ)
日本国憲法の権利保障は多分に形式的、消極的で、必ずしも実質的、積極的なものではない (101・102ページ)
e.g. 「居住の自由」は自由権だが資力がなければ実現できない 社会権としての居住の権利がなければならない
→自由権を実質化するものとしての社会権、自由権の前提としての社会権
ヨーロッパなどでは社会権として「居住権」は認められているが、日本ではそうではない
(102ページ)
日本では「勤労の権利」は国家責任による具体的な権利として認められていない
逆に「勤労の義務」が強調される
公務員の争議権の禁止は欧米では考えられない (104ページ)
(3)社会権をめぐる日本の現状
現在の日本では、社会権(生存権・社会保障権・教育を受ける権利・労働権が相互に関連しながら)の損壊がきわだっている (109ページ)
生存権の蹂躙
生活保護受給者は、217万人、160万世帯(14年3月)に達しています。いっそうの格差拡大をともなう貧困が、このように急激かつ大幅に増大する21世紀日本の現状は、産業革命期以降のヨーロッパの古典的貧困を髣髴とさせるものでさえあります。しかも経済的困難ゆえの毎年多数の自殺、生活保護抑制行政がもたらした、あとを絶たない餓死、健康保険料や窓口支払いが困難なための病死や受診抑制の増大、介護殺人や虐待などが頻発するにいたっています。そして、そうした驚愕すべき事態が、社会の一大事として受けとめられているようには、とても思えません。これはアメリカを別として、「先進諸国」や「経済大国」に例をみない、まことに異常・異様な事態です。 (107ページ)
教育を受ける権利の侵犯/労働権の侵害/社会保障権の破壊
(4)異様なまでの社会権侵害
ヨーロッパの社会権保障/日本の状況/日欧のちがい
「再分配」のいっそうの圧縮/社会保障削減の「理由づけ」
(5)貧困急増の直接的要因と「社会権」の衰退
「日本型雇用」と社会保障/国家的・法的規制の不在
安定した雇用の崩壊、貧困と生活困難の拡大をもたらした基本的要因は、こうして日本においては、国家による雇用・生活保護と規制(労働規制・企業規制その他)が存在せず、したがってまた、そうした国家的保障・規制と表裏をなす法的・制度的基盤である社会権が機能不全をきたしていたことにあります。というのも、端的には、雇用と生活の保障に関する国家責任を(非人間的な労働の規制や、社会的富の再分配によって)果たすことが、現代国家の存在理由(正当化の根拠)であり、国家のそのような機能を確定するのが社会権であったはずだからです。
しかし日本では、国家の正当(統)性を担保する雇用と生活の保障というその基本的機能が、もっぱら利潤追求を本質的な衝動とし、使命とする企業に委ねられたままでした。雇用と生活の保障が権利として確立され、政治の基本課題とされなかったところに、失業や非正規・不安定雇用の急速な拡大が、ただちに貧困に結果する構造的要因がありました。貧困の増加と深まりは、日本では雇用と労働、生活にかんする国家の本格的な介入と規制、保障が実現されておらず、社会権が確立していないことの現れであると言えましょう。社会権の弱体は、そうした国家体制の未形成ないし未成熟に起因していました。 (121・122ページ)
国家の正当(統)性
ヨーロッパ型の福祉国家: 社会運動と社会意識、社会の文化の蓄積が、雇用や生活などの社会保障を国家の責務とする社会的合意を作りだし、権力機構であり、抑圧性を本質とする国家に突きつけたもの (122・123ページ)
日本は対照的: 「雇用は労使の問題」 「社会の底割れ」「底なしの貧困」状態でありながら、生活保護バッシング演出し、保護基準の切り下げ 雇用保障・社会保障の拡充ではなく解体的圧縮・縮減に狂奔 (123ページ)
(6)社会権にかんする社会的合意の未成熟
社会運動と社会権/社会権を求める社会的合意・社会文化の未形成
労働運動・社会運動が社会権や福祉国家の確立を主要課題としてこなかった
国家に対する雇用と生活の安定の要求を軽視する結果になった
その原因 ・右:企業利益の増大前提の安定した雇用と賃金の要求
・左:福祉国家の欺瞞性への警戒
<社会権と福祉国家>
福祉国家の制度的・思想的基盤をなすものとして、
社会権と福祉国家は表裏の関係
しかし・福祉国家は歴史的限界を持つ
←資本主義の一定の歴史段階の修正形態
・社会権は歴史的により普遍的
資本主義社会のみならず社会主義社会における人権原理でもある
・福祉国家は社会権の確立に応じてまともになる (124ページ)
現代のヨーロッパ型福祉国家の基盤には、労働能力と勤労意欲があっても個々人は貧困に陥りうる、という歴史的事実の認識がありました。それゆえ、勤労収入と社会保障の双方で生活を営むのが当然とみなされ、社会権も確固とした位置づけを得ています。ところが日本社会では、生活は労働能力と勤労意欲をもつ各個人が、市場からの収入で各人の責任で営むべきだというのが通念であり、「労働能力と労働意欲があれば市場収入で最低生活は可能だという大前提」(前掲、後藤道夫)に立ってきました。
そこから、一般に社会保障は、一時的また恒常的な労働能力の喪失という例外的事態に備えるもの以上ではないと観念され、人権としての社会権という感覚も弱いままでした。また、社会保障を補足的・補完的なもとだけとらえるため、「先進諸国」に例を見ないような、基礎的社会サービス(医療・介護、教育・保育など)の有料化・高額化や、生活保護世帯からの公租公課(税・社会保険料)の徴収が自明視され、これらを不当として異を唱える声も大きくありませんでした。 (125ページ)
日本社会では、雇用保障と生活保障に関する国家責任の回避が、同時に企業に対する規制と監督の放棄ともなり、その必然的結果として、もっぱら勤労者個人の自己責任のみが強調される、ということになります。 (125ページ)
思想・理論界での社会権の相対化
「権利は必ず義務を伴う」と言って、受給者は相応の責任を果たすべきという主張
その観点から保険主義の賛美 しかし
人が人であるということ、そのことだけに基礎をもつ「人権」とは、必ずしも「権利」に「個人の義務」が対応しなくてもよいものです。人権は、義務であれ何であれ、他のものと交換で与えられるようなものではなく、「侵すことのできない永久の権利」であることが、あらためて確認される必要があります。社会権は、「個人的義務」の対応を予定せず、求めない「権利」の次元に成立するものです。 (126ページ)
国家嫌い≠フ批判的精神
日本で特に多い知的世界の国家忌避感も、社会権についての合意とその確立を阻んできました。
国家の公共的機能に関する理論的認識の未確立・未成熟
「保護か自由か」という二項対立
自由権擁護のあまりに、国家への請求権として立てられる社会権に消極的に
憲法解釈において社会保障の権利性の位置づけがきわめて弱い
(127ページ)
中心的な理論的課題としての社会権の再構築
労働運動の主流、社会運動・市民運動、社会の文化・意識状況としても、思想や理論の世界からも、大勢としては社会権の重要性の合意が得られてこなかった (128・129ページ)
(7)平等の意識の後退と再分配のいっそうの縮減
「平等」意識の後退/再分配の本格的追求
日本では再分配要求が弱く富裕層批判がない (131ページ)
いろいろなデータでは、平等を求める戦後日本社会の意識は、必ずしも低いわけではありませんでした。しかしその意識は、戦後の一時期をのぞき、趨勢としては、富の不当な集積の批判や再分配の要求に強く結びつくものではなかったようです。「大衆社会」化とか社会運動の問題性などは別としても、その理由は、端的には、再分配の要求が正当である根拠が必ずしも承知されてこなかったことにある、と考えられます。そこから、社会的な平等の意識も、直感的でともすると「人並み意識」にとどまってしまったように思われます。つまり、これまでの社会的平等の意識は、格差解消や平等実現の社会条件や必然性の認識に支えられたものではなかったのです。 (132ページ)
社会文化・労働者文化の形成という課題
ひるがえって日本社会では、雇用や生活の安定の最終責任を国家に要求することを当然とする世論や社会意識は、育ちにくいものでした。雇用保障と生活保障にたいする国家責任の回避が、貧困の急増と格差の激化をもたらしました。社会保障が、いわば例外的に事態に備える補充的・補完的なものと受けとられるかぎり、残るものは「自己責任」だけでした。公共的責任の欠如という事態を糊塗するためには、災厄の原因を個人の責任に由来するとみなす「自己責任論」が恰好のものだったでしょう。生活保護バッシングも、そこから演出されました。受給者の窮状は、勤労意欲と努力を欠いた自己責任によるものであり、社会的救済を求めるなどおこがましい、といった具合です。
国家責任を要求する社会的意思の弱さ、そうした要求をはぐくむ社会文化の未成熟を克服することが、日本社会が当面する課題でしょう。このような社会精神の造出は、しかし強く意識的でなければならず、おそらく広義の社会運動のたゆまぬ努力・活動によるバックアップなしには、よくなしえないものでしょう。そしてその鍵となるのは、おそらく、資本の前での働く者の間の競争を禁止する盟約であった「団結」や、「分け合い」・「相互扶助」の伝統といった、労働者文化の再建・形成であるでしょう。 (133・134ページ)
Y おわりにかえて―社会権の基礎としての人間の根源的平等
(1)なぜ、「弱者」は救済されなければならないのか
弱者とは誰か
弱者とは経済・社会体制の被害者
労働者・農民・自営業者・失業者・高齢者・母子世帯・障害者・傷病者
(137・138ページ)
なぜ、「弱者」は救済されなければならないのか
すべての人間が基本的人権をもっており、その基礎が人間の尊厳にあるから
基本的人権とは何か
「それを失うと自分が自分でなくなるような大事なことがら」
それを保障する「正義にかなう社会」=「生命と自由を尊重し、権利と責任をしっかりと分担しあい、人間の尊厳と平等を保障しあう社会」 (139・140ページ)
(2)出発点としての「内発的義務」―人間的行為の根源にあるもの
内発的義務/「共通善」としての救済
人間の尊厳という観念の出発点=「内発的義務」という感性や感覚、感情
「いのちの共苦・共鳴」
ルソー 「共感」=「生きとし生けるあらゆる他者への同一化から生じる感情」
セン 「そもそも人間は他人の福祉や自分たちが帰属する社会のあり方に無関心ではいられない存在なのだ」 (140・141ページ)
ちなみに、「権利」とは、先天的に与えられている(天賦人権説)といったものではなく、本源的には他者と接しているうちに内発的義務の意識が生じてくるという関係が双方向になるとき、つまり「おたがいに尊ばれるということが実感される」とき、そのようなものとして人間が相互応答的であり、相互扶助的な存在であることが感知されるときに、生まれるものでしょう。内発的義務の双方向性が、「人の尊さ」という思念に結晶するとき、権利という社会的観念が成立する、ということです。 (142ページ)
(3)人間の根源的平等と社会変革
人間の「究極的一致」としての平等
「究極的な一致」というのは、本源的には、人はみな、いわば“ただの人間”として同様であり、同等である、自由に生き・生きたいということになんのちがいもない、ということを意味するでしょう。そうした平等な存在である他の人間が、苦境に陥っている状態を放置することは、ほんらい、人として耐えがたいことであり、人間とその社会の義務として許されないことのはずです。 (143ページ)
相違の承認としての平等 画一主義的平等ではない (同前)
言うまでもなく、人はみな異なっており、だからこそ、異なったままでその尊厳や権利が同等に保障されなければ、というのが平等ということの意味です(だから、平等とは「同一」ではなく、いわば「同一と区別の統一」が平等だ、ということになります)。 (144ページ)
「人間の尊厳」の根拠としての根源的平等
こうして、人間の根源的平等の観念が、すべての人間を「尊厳ある存在」とし、その生命と自由の最大限の尊重を核とする人権の思想と制度の根源にあります。しかも、この人間の尊厳を基礎とする基本的人権は、社会権の成立をまってはじめて、真にその名に値する内実をそなえるものになりました。「人間の尊厳」の基礎をなし、その実質を保障するものは、社会権です。社会権の確保がなければ、人権も人間の尊厳も砂上の楼閣と化すでしょう。実感とは少なからず遠いかもしれませんが、現代は、ほんらい、社会権を実質の基礎とした「人間の尊厳」を基礎とする、そうした基本的人権を社会編成の原理としており、また人間関係の模範的原理としています。 (144ページ)
あとがき
*(刑部コメント)
人権・平等・共感などについて小山内美江子の下記の言葉を思い出します。
* * * * * * * * *
人権というのは、条文や条件ではなくて、人間の生きる喜びまで到達したときに、
はじめて確立するのだろうと思うんです。
……
異質なものがあっていいのだということ、そこに人権を考える基本がある。異質の
ものが虐げられているならば、それを感じる心、それと一緒に生きていく気持ち、そ
の人が浮かびあがることは、自分にとってもとても楽なことなんだという考え方。そ
ういうものが一人一人にあって人間ですよ。
小山内美江子,黒沢惟昭「金八先生と語る人権教育」(『世界』99年11月号)P58
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