これは2020年4・6月と2024年5・6月に書いたものを集めました


     「共産主義と自由」について  
              2024年7月12日

 2024年4月27日に日本民主青年同盟主催の「学生オンラインゼミ・志位和夫日本共産党議長の講演<「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに>」が行なわれました。続いて6月25日に志位氏の講演「『自由に処分できる時間』と未来社会論 マルクスの探究の足跡をたどる」が行なわれました。

 それらの全体の趣旨には積極的に賛同しますが、間違いが一点あり、さらに展開すべき課題があるように思います。(1)講演では、物象的依存性とは資本主義的搾取・従属関係を表現しているとされていますが、それは誤りです。(2)未来社会論においては、現代資本主義の分析とそれに伴う社会主義的変革の展望をさらに展開する課題があります。

 (1)について、以下の<A><B><C>と<D>の始めの部分とで触れています。(2)について、<D>で問題提起しています。なお<A><B>は2020年3月14日に志位委員長(当時)が行なった改定綱領学習講座に関する私のメールです。この講座の当該部分では自由時間論が直接話題になっているのではありませんが、資本主義社会から未来社会に継承すべき「五つの要素」の最後の「人間の豊かな個性」について論じる中で物象的依存性に言及しています。

<A> 日本共産党中央委員会あてメール 2020年4月20日
<B> 「日本共産党中央委員会 質問回答係」からのメールへの返信 2020年6月23日
<C> 物象的依存性とは何か――『経済』2024年6月号の感想(2024年5月31日)から
<D> 自由時間論と社会主義的変革――同前、7月号の感想(2024年6月30日)から

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

<A>

    日本共産党中央委員会御中
 コロナ禍に際し、人々の苦難に向き合う活動に取り組みつつ、その立場から、政権を厳しく批判し積極的に政策提起されていることに敬意を表します。「しんぶん赤旗」日刊紙・日曜版とも食い入るように読んでいます。
 それとは別になりますが、当メールを送ったのは、志位委員長による改定綱領学習講座の中に訂正すべき一点があると考えたためです。下記内容をご検討下さい。
        2020年4月20日


     改定綱領学習講座における人類史把握の問題点

<1>「物象的依存性」とは資本主義的搾取関係ではない

 改定綱領学習講座(以下では「講座」)の第五章「社会主義革命の世界的展望にかかわるマルクス、エンゲルスの立場」において、マルクスの「1857-58年の経済学批判草稿」(*注)から人類史の三段階把握が紹介されています。

  ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  
(*注)私が「『資本論』草稿」と表記しない理由については、友寄英隆氏の「21世紀資本主義の研究のために――科学的社会主義の理論的課題」/『季論21』第47号・2020冬号/所収、参照。以下では、本草稿の従来からの通称「経済学批判要綱」を「要綱」と略記。
  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 三つの段階は次のように説明されています。第一段階は「人格的な依存諸関係」、第二段階は「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」、第三段階は社会主義・共産主義の段階であり、「諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個性」と規定されます。 
 問題は第二段階に関する「講座」での以下の説明です。

  ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  
 第二の段階(第二段落)は、「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」です。これは資本主義社会のことです。この社会になって初めて、人格的な隷属は過去のものになります。労働者は資本との関係で、搾取・従属関係におかれていますけれども――そのことをマルクスは「物象的依存性」という言葉でのべています――、人格的には独立しています。こうした人間の「人格的独立性」が、社会全体の規模で現実のものになるのは、資本主義の段階であるわけです。この段階になって初めて、社会全体の規模で、人間の豊かな個性が発展することができるようになり、個人の権利や自由についての自覚が大きく発展することも可能になります。ただ、この段階は、「人格的独立性」を獲得したけれども、まだ搾取のもとにおかれているという限界があります。
  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ---- 
 
 これは、「個人」「個性」の発展について、人類史上で資本主義段階の果たす積極的役割を指摘しており、きわめて重要な個所です。しかし、「物象的依存性」という言葉の意味として、「労働者は資本との関係で、搾取・従属関係におかれています」と説明しているのは間違いです。これはおそらく第14回党大会(注:これは誤りで、2020年6月23日付「日本共産党中央委員会 質問回答係」の返信メールによれば、1980年の第15回党大会)で「要綱」のこの部分を党として始めて提起したときも同じ説明だったと記憶していますが、誤りが継続されていると思います。

 「物象的依存性」とは、商品生産が発展し、前近代の共同体が解体されて、それまでのように人間と人間との社会関係が直接現われる状態から変わって、商品の交換を通して間接的に結ばれるようになった状態を指します。商品生産社会は古い共同体を解体して、独立・自由・平等の個人を形成し、人間の「人格的独立性」を実現します。「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」はそれを表現していると考えられます。

 第一段階の前近代の共同体と第三段階の未来の共同体では、「自然成長的」にであるか「自覚的」にであるかという大きな違いがあるにしても、諸個人の社会的関係が、ともかく直接に人格的な関係として現われるという意味では同じです。両段階では労働の共同的=社会的性格が、直接に人格的な関係として現われるのに対して、第二段階ではそれが「諸物象」の社会的関係として現われます。『資本論』では、この第二段階の関係を第1部第1篇「商品と貨幣」第1章「商品」第4節「商品の物神的性格とその秘密」で解明しています。

 簡単に言えば、「要綱」の人類史の三段階把握は、<前近代の共同体→市場経済→未来の共同体>という捉え方です。これは『資本論』で言えば「商品=貨幣」関係の論理次元に相当する議論であり、それが「要綱」の貨幣章で展開されています。したがってここでの第二段階は資本主義を表象しているにしても、「資本=賃労働」関係を捨象した単純商品生産の論理次元で捉えられており、搾取関係をまだ問題にすべきところではありません。

 生産関係を捉えるに際して、(1)社会的分業のあり方として、「共同体か市場か」が問題となり、(2)生産手段の所有関係を基にして、生産過程が「搾取か非搾取か」、搾取であれば「どのような形態の搾取か」が問題となります。比喩的に(1)をヨコの生産関係、(2)をタテの生産関係と呼びたいと思います。『資本論』では(1)が「商品=貨幣」関係の論理次元で、(2)が「資本=賃労働」関係の論理次元で捉えられますが、前近代から未来社会まで歴史貫通的に両方の生産関係を重ねて捉えることで、史的唯物論を豊かに構築していくことができると思います。

 「物象的依存性」に関わって、搾取関係を捨象した次元でそれを捉えることの意味は、「市場経済を通じて社会主義へ」という路線に照らすと分かりやすくなります。そこでは資本主義的搾取の廃絶が目指されますが、少なくとも近未来には市場が残るので、搾取をなくそうとする中でも「物象的依存性」は存在します。ここでは、「物象的依存性」を資本主義的搾取・従属関係と等置する説明の誤りは明白となります。


<2>資本主義批判のあり方

 以上のように、私は「物象的依存性」を資本主義的搾取・従属関係と見なすことを批判します。そこでは、生産関係の重層性を反映した経済理論の体系性の観点を重視しています。それは二つの狙いを持っています。一つは、資本主義批判のあり方を明確にすることであり、もう一つは史的唯物論の展開です。

 資本主義社会は前近代の搾取社会と比べると、ヨコの生産関係において、全面的な商品生産を土台にしているという点で異なっていますが、タテの生産関係において、搾取関係が存在するという点では共通性があります。ただし搾取が現象的には見えないので、被搾取者が(搾取者も)それを意識しないという点で、搾取が明白な前近代の搾取社会とは区別されます。

 資本主義的搾取・従属関係が商品生産における独立・平等な関係として現象する「領有法則の転回」がブルジョア・イデオロギーを規定しています。その結果、ブルジョア社会科学は資本主義における搾取を否定し、資本主義経済を市場経済と同一視します。商品=貨幣関係を土台としつつ、その上に資本=賃労働関係が展開する重層的な資本主義経済を、単層の市場経済として描き、市場メカニズムの全能性を「証明」するのが、ブルジョア社会科学のバイブルである新古典派理論の存在意義だろうと思います。したがってブルジョア社会科学の魂は、その表面において「市場(競争)崇拝」を高く掲げ、その裏面においては「搾取の否定」を暗黙の前提に抱えています(マルクス主義批判の際には公然と搾取を否定する)。

 新自由主義とは、情報化・金融化が全面化した現代のグローバル資本主義において、19世紀に始まる新古典派理論を新たに展開した現代ブルジョア経済学諸潮流の総称だと言えます。それは「市場原理主義」を看板に掲げつつ、資本の魂である搾取強化に邁進し、それがもたらす「生産と消費の矛盾」激化による実体経済の不振の上に、貨幣資本の過剰を「打開」する金融化を全開させます。金融化は資本主義の寄生性・腐朽性を究極まで推進します。
 新自由主義は、それまでの労働運動などの成果である資本への民主的規制を排して搾取強化を図るので、資本蓄積の法則が貫徹し、必然的に貧困と格差を拡大します。ここで、現代資本主義の最大の問題とされる貧困・格差の拡大を、資本=賃労働関係次元における搾取強化から捉えることが肝要です。通俗的には、市場経済における競争の激化を原因と捉えます。すると、そこに諸個人の能力や努力の違いが持ち出されて、自己責任論に流し込まれる傾向が生じます。そういう中で、新自由主義の本質を「市場原理主義」と捉えて、もっぱら競争激化を批判するのでは問題の核心を外しています。「資本主義経済=市場経済」という間違った現象論的把握が「支配的イデオロギー=世間の常識」となっていることへの意識的批判が必要です。

 以上では、資本主義経済を商品=貨幣関係と資本=賃労働関係の重層性において捉え、特に後者を資本主義のアイデンティティと見なし、搾取経済として資本主義を把握することの重要性を指摘しました。次いで、資本主義の土台である市場経済(*注)の問題に触れます。                   

  ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  
(*注)ただしこの資本主義市場経済は、単純商品生産を表象した商品=貨幣関係に解消するわけにはいきません。単純商品生産の表象が経済理論の始めに来るのは、資本主義経済の本質を概念的・段階的に理解する必要からです。現実の資本主義市場経済は、労働力市場や金融市場など、資本=賃労働関係を前提にした市場を含みますし、そもそも商品にしても、資本主義経済においては多くの部分が商品資本として流通しています。しかし、ともかくそれらの市場流通は、生産過程外にあって、「諸物象」の社会的関係としての物象的依存関係の場という、「要綱」における人類史の第二段階の特性を持っています。
  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 COVID-19のパンデミックによって、リーマンショックを上回り、20世紀の世界大恐慌に匹敵するコロナ恐慌が引き起こされています。津田大介氏は「パンデミックに対抗できているのは(グローバル企業などではなく)国家だけだという点が決定的に重要」という政治思想史家の将基面貴巳氏の指摘を紹介しています(「朝日」3月26日付「論壇時評」)。これはむしろ資本主義市場経済の破綻を意味していると言えましょう。

 コロナ恐慌において、弱者・貧困層が圧倒的な被害をこうむるということは、搾取・資本蓄積の問題ですが、国家の強力な介入がなければなすすべがないという状況は、資本主義市場経済の破綻という性格の問題です。

 「自粛要請には補償を」というスローガンは商品流通の論理を超えています。その実現には膨大な財政支出が必要となり、その財源は富裕層・大企業に求められますが、当面はつなぎの国債でやるしかありません(3月31日放送のBSフジ「プライムニュース」での志位委員長の発言。「しんぶん赤旗」4月2日付)。グローバル資本がいかに強大な政治的・経済的権力を持っていても、資本主義市場そのものは危機解決能力はなく、徴税権を持ち、通貨と国債を発行できる国家だけが、恐慌に対処するための有効な力を持っています。

 さらに言えば、コロナ恐慌は資本主義的な生産力発展のあり方への反省を要求しています。イタリアやアメリカでは医療崩壊が起こっています。日本も瀬戸際にあります。何とか踏みとどまっているドイツと比べて、イタリアの医療体制の貧弱さが問題とされています。EUの緊縮政策の影響が出ているのです。日本集中治療医学会の4月1日の理事長声明によれば、ICU(集中治療室)の人口10万人あたりのベッド数がドイツの29〜30床に対し、イタリアは12床程度と差があります。ところが日本はベッド数がイタリアの半分以下の5床程度です(「しんぶん赤旗」4月7日付「主張」)。

 医療崩壊の最中にあるニューヨーク州のクオモ知事は、会見で病床やICU不足の理由をきかれて「われわれの医療システムは基本、民間だからだ。必要以上の設備投資はしないし、高額なICUベッドは臨時用として設置しない。これは米国のどの州も同じだ。今回の事態で、(われわれは)どうすることもできない」と答えています(「しんぶん赤旗」4月8日付)。まさに資本主義的「合理性」「効率」の本質を告白しています。

 新井紀子氏は、一方で、今コロナ対策で大活躍する研究者たちが、「したい仕事」とはいえ、これまで安い給料で過酷な研究に従事してきたことを称えつつ、他方で、国の膨大な研究開発予算が科学振興とは名ばかりの産業振興予算であることを指弾し、以下のように事態の本質を射抜いています(「朝日」4月10日付)。

  ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  
 今回の危機は、普段多くの人々が忘れていた国立の大学と研究機関の存在意義を改めて示した。私たちは危機の時に専門家に頼らざるを得ない。「なんでそんなことのために危険を冒すの?」と思うようなことに熱中し、人生を賭す人々がいてくれるからこそ、万が一の危機を乗り越えることができるのだ。これは理系に特有のことでもない。世界で紛争が起きた時、少数民族が迫害された時、日本の対応を決める上で、その分野の研究者の存在は不可欠だ。だが、紛争も迫害も、中期目標で予想できることではない。
     *
 グローバル化する世界だからこそ、予測不能な未来に備えて国家はリスクヘッジのために、不思議な「研究者集団」を税金で確保しておく必要がある。国家の体力は、平時の状況では測れない。危機に対応するための余裕を平時に維持できるか否かが問題なのである。平時を基準にした最適化ばかり求める財務省主計局の考え方の、本質的な誤りについて指摘する報道を、ほとんど見かけないのは残念である。
  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 「平時を基準にした最適化ばかり求める財務省主計局の考え方」とは、新古典派理論による資本主義的効率に偏した考え方ということでしょう。生産力発展では、まず何よりも万人が十分に食べることができて、安定した生活ができることが第一の目的とされるべきでしょう。資本主義的生産力発展は潜在的にはすでにそれを達成しています。ただし分配が歪んでいるので現実化していませんが。

 第一の目的を達成したら、次いで個々人の発達を促進し、様々なリスクに備えるという課題に取り組むことになります。そこでは一見するとムダと思えるものを抱える余裕が要求されます。しかし資本主義はその余力がありながらも、そうすることに耐えられません。利潤第一主義は目先の効率を優先します。同じく時間と労力を使うとすれば、リスクに備えるため人間社会に必要なコストを負担することよりも、些末な利便性を作り出して儲けの元にすることが選択されます。それを抑制するのは資本への民主的規制であり、規制主体は労働運動や市民運動などもありますが、政治の力、国家権力が最大のものでしょう。そこで規制されるものは、搾取の主体としての資本であり、野放図な資本主義市場経済です。

 コロナ恐慌への対処では、まず何よりも人々の苦難を軽減し、地域経済・国民経済の再建を果たす具体的な政策提起と実践において真価が問われます。その中でも、市場を土台とする搾取経済としての資本主義の本質が、眼前の社会危機の根源にあることが常に意識されるべきでしょう。重層的な資本主義批判が必要です。


<3>史的唯物論の展開


 「講座」では、先の「要綱」の人類史把握について、「『個人』『個性』の発展という角度から、人類史の発展を三つの段階に概括」したと指摘されています。それはもちろん重要な観点ですが、それにとどまらず、従来からの五段階把握<原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→共産主義>に三段階把握を重ね合わせることで、「個性の発展」を含んだ人類史として、史的唯物論を構成することができるように思います。

 古い論稿ですが、中川弘氏は「人類史は、その具体的姿としては、まさに抽象の度合いを異にした『多くの規定と関係とをふくむ一つの豊かな総体』にほかならないと思われる」として、当時の諸説を総括して五つの視座を摘出しています(「唯物論的歴史観の確立」、服部文男編『講座 史的唯物論と現代2 理論構造と基本概念』/青木書店、1977年/所収、29〜32ページ)。それらを総括して重ね合わせることは私には難しいですが、そこで「要綱」の三段階把握は第二の視座とされ、通説の五段階把握は第五の視座とされており、両者を重ねることは比較的容易だと思います。先述の私見に従えば、ヨコの生産関係の発展(三段階把握)の上にタテの生産関係の発展(五段階把握)を重ねる形にして、史的唯物論の「標準理論」を構成してはどうかと思います。しかし、まったく不勉強で私が知らないだけで、もっと適切な説があるかもしれないので、この辺で止めておきます。


◎さいごに

 膨大な「講座」の中の一点だけの訂正を求めるために、冗長な拙文を送り、誠に失礼しました。一点とはいえ、重要な意義を持つ箇所だと考えています。これは一介の素人の所説に過ぎませんが、無視せず、しかるべき研究者の意見も参考にして、ぜひ訂正されることを切に希望します。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 以上の拙文に対して、2020年6月22日に「日本共産党中央委員会 質問回答係」から「日本共産党として、どういう問題意識で探究してきたのかについてお知らせすることで、お答えとしたいと思います」という趣旨の回答メールが送られてきました。そういうことで縷々説明はされましたが、私が問題とした点については回答がありませんでした。そこで以下のように返信して交信は終了しました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

<B>

    日本共産党中央委員会 質問回答係 御中

 大変にお忙しいところ、ご回答の労に感謝いたします。

 今回の綱領改定で、発達した資本主義国における変革に関連して、「五つの要素」が定式化されたことは非常に大切だと認識しております。そこに至る1970年代から現在までの理論的探究についてご教示くださり、ありがとうございます。

 ところで「改定綱領学習講座」についての私の問題提起は次の内容です。――講義の中で、「経済学批判要綱」において、マルクスが「物象的依存性」という言葉で述べているのは資本主義的搾取関係のことである、としているのは間違いである――

 先のメールでは、関連する問題意識を長々と述べすぎたので、この肝心の部分があいまいになったかもしれません。私の指摘の直接的根拠は、「要綱」の当該部分は、資本=賃労働関係を捨象した商品=貨幣関係の次元で物象的依存性を論じているので、それを資本主義的搾取関係と等置してはならないということです。

 また傍論として次のことを指摘しました。市場経済を通じて社会主義へ、という変革の路線において、資本主義的搾取をなくす過程においても、市場経済は存在するので、そこに物象的依存性はあります。したがってこのことからも、物象的依存性と資本主義的搾取関係とを等置するのが誤りなのははっきりしています。

 私の問題提起は細かい点へのクレームではありません。経済理論と史的唯物論の基本的理解に関わる大切な論点だと考えています。それについての回答がいただけなかったことは残念です。学問を大切にする姿勢を深められることを希望します。

 コロナパンデミック恐慌において、人々の受難に立ち向かう活動に敬意を表します。その中で「国民意識に一過性でない深い変化」が起こっていることを捉え、安倍政権打倒、真の社会変革に向けて奮闘していきましょう。皆様お元気で。
              2020年6月23日

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++  

<C> 『経済』2024年6月号の感想(2024年5月31日)から

 

         物象的依存性とは何か

 学生オンラインゼミ・志位和夫日本共産党議長の講演<「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに>が民主青年同盟主催で427日に実施され、「赤旗」紙上に51214161820日と5回に分けて連載されました。これは「人間の自由」を基軸に、共産党や社会主義・共産主義への誤ったイメージを是正するきわめて積極的意義を持った企画です。それは前提として、講義内容に関わって間違いを一つ指摘します。講演は学生などからの疑問に答える形で行なわれました。その第32問への回答の中に以下の説明があります。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 Q32 人間の豊かな個性と資本主義、社会主義の関係についてお話しください。 

資本主義のもとで広がった「人間の個性」が、未来社会で豊かに開花する

 

 中山 それでは、最後の五つ目の要素です。「人間の豊かな個性」と資本主義の関係、人間の個性が未来社会でどうなるのかについて話してください。

 志位 マルクスは『資本論草稿』のなかで、「人間の個性の発展」という角度から人類史を3段階に概括する、すごい考察をしているんです。

 第1段階は、マルクスが「人格的な依存諸関係」と呼んだ社会です。原始共同体から奴隷制、封建制までの社会です。 …中略…

 第2段階は、マルクスが「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」と呼んだ段階です。これは資本主義社会のことです。資本主義は、「人間の個性」という点で、それまでの社会のあり方を大きく変えるんです。資本主義のもとでは、資本家と労働者は、法律的、形式的には平等になるでしょう。だから、そういうもとで初めて、独立した人格や、豊かな個性が、社会的規模で現実のものになります。「人間の個性」という点でも、資本主義は、未来社会の重要な条件をつくりだす歴史的な意義をもつことになる。マルクスはそういう捉え方をするんです。

 ただ同時に、ここでも強調したいのは、マルクスは「物象的依存性」という言葉で表現していますが、資本主義のもとでは、資本家と労働者は、形式的には平等になりますが、労働者は、実質的には資本家による搾取と支配のもとに置かれています。そのことは「人間の個性」の発展という点でもいろいろな制約をつくりだします。 (下線は刑部)

 人間が人間を搾取するということは、人間のなかに支配・被支配の関係をつくります。つまり本当の意味での平等とはいえない関係をつくりだす。これがさまざまな差別をつくる根っこになり、「人間の個性」という点でも制約をつくりだします。

…中略…

 志位 マルクスは『資本論草稿』で、第3段階を、「自由な個性」の段階と呼び、社会主義・共産主義において、それが実現すると言っています。個人の自由な発展を最大の特徴とする社会、自由な意思で結合した生産者たちが共同で生産手段をもち、生産を意識的計画的な管理のもとにおく社会でこそ、本当の意味で「自由な個性」が実現する。これがマルクスがのべた展望でした。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 Q32への回答のテーマは、「人間の豊かな個性」と資本主義の関係という問題ですから、個性の制約要因としての搾取に対して批判的に言及すること自体は当然とも言えます。しかし「物象的依存性」は資本家階級による労働者階級に対する搾取・支配関係を表現した言葉ではありません。これでは「物象」とは何かが分かりません。

 ここでは、まずマルクスによる人類史の三段階把握が『資本論草稿』にあることが指摘されています。この『資本論草稿』は詳しく言えば『1857-58年の経済学草稿』であり、その中の『経済学批判要綱』(以下『要綱』)の「U 貨幣にかんする章」の〔貨幣の成立と本質〕に当該部分があります。『要綱』では、「U 貨幣にかんする章」の後に「V 資本にかんする章」が続きます。したがって、人類史の三段階把握が登場するのは、資本主義的生産関係を捨象して、商品=貨幣関係の中で貨幣を研究する論理次元です。資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開する構造になっており、経済理論で搾取を解明するのは後者を分析する段階で行なわれます。原始共同体は搾取のない共同体です。奴隷制や封建制などの前近代の搾取経済では共同体を土台として、それぞれの搾取関係が展開されます。人類史の三段階把握は、搾取の有無やそのあり方を解明する以前の論理段階で、共同体と市場経済(商品=貨幣関係)の歴史的移行を考察し、<前近代の共同体→市場経済→未来の共同体>として大きく人類史を俯瞰しています。共同体においては、経済を通じた人間同士の社会関係がはっきり分かるのに対して、市場経済においては人と人との関係が物と物との関係として表れるので、経済における人間同士の社会関係が直接には分かりません。人々はバラバラに独立して見えますが、結果的には商品=貨幣関係を通じて社会的につながっています。そこで、市場経済の特徴は「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」と言えます。それでは、『要綱』の叙述の中に物象的依存性とは何かを見ましょう。

 まず人類史の三段階把握を見ます(『マルクス 資本論草稿集1 1857-58年の経済学草稿』1分冊、大月書店、1981年、138ページ、ドイツ語部分は省略)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

人格的な依存諸関係(最初はまったく自然生的)は最初の社会諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性は狭小な範囲においてしか、また孤立した地点においてしか展開されないのである。物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的諸欲求、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす。それゆえ家父長的な状態も、古代の状態(同じく封建的な状態)も、商業、奢侈、貨幣、交換価値の発展とともに衰退するが、同様にまた、これらのものと歩みを同じくして近代社会が成長してくるのである。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 商品=貨幣関係による近代社会の生産力発展が「一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的諸欲求、普遍的諸力能」を形成し、それによる「諸個人の普遍的な発展」が「第三の段階」に引き継がれ、「諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性」を実現します。この生産力発展は実際には利潤第一主義の資本主義がもたらすものですが、ここでは狭小な共同体の解体と市場経済の全面的発展の次元で捉えられています。余談ながら、「諸個人の社会的力能」「自由な個体性」などの表現に見られる、個人と社会全体の発展とを不可分に捉える見地は、『共産党宣言』の共産主義社会像=「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」にも通底しています。あえて言えば、17歳のマルクスが職業選択に関して、「歴史は、世の中全体のために働きそれによって自分自身を完成して行く人を、偉大な人物と名づけるのである」(岩波新書、大内兵衛『マルクス・エンゲルス小伝』、11ページ)と言った問題意識から一貫しているのかもしれません。

 閑話休題。先の引用部分はきわめて有名ですが、物象的依存性が何かについて、詳しくはその直前に書かれています。さらにその前にはバラバラな諸個人が交換価値を通して社会的関連を形成する商品=貨幣関係の内実が書かれています。まずそこを見ます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 相互にたいし無関心な諸個人の相互的で全面的な依存性が、彼らの社会的連関を形成する。この社会的連関は交換価値というかたちで表現されているが、各個人にとっては、彼自身の活動または彼の生産物はその交換価値というかたちで初めて各個人のための活動または生産物となるのである。各個人は一つの一般的な生産物を――つまり交換価値を、すなわち対自的に孤立化され、個体化されたそれを、貨幣を生産しなければならない。他方では、各個人が他の諸個人の活動のうえに、または社会的富のうえにおよぼす力は、諸交換価値の、つまり貨幣の所有者としての彼のうちにある。彼は彼の社会的力を、彼の社会との連関と同じように、彼のポケットのなかにたずさえている。活動――その個別的な現象形態がどうであろうと――と、活動の生産物――その特殊的な性状がどんなものであろうと――とが、交換価値であり、すなわちすべての個体性、独自性が否定され、消しさられている一つの一般的なものである。     同前 136137ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように、市場経済において、諸個人の全面的な依存関係は交換価値において表現されます。彼らの活動とその生産物が交換価値を持つことによって、彼らの社会的力が個別なものではなく一般的な通用性を獲得します。そのような社会関係においては、諸個人の持つ社会的力や諸個人の相互的関係は直接現われることなく、逆に彼らを支配する外的力として現われます。交換価値を通じる諸生産物の一般的交換――物象と物象との社会的関係――が人間同士の社会的関係を表現し支配することが以下のように力説されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 活動の社会的性格は、生産物の社会的形態と同じように、生産への個人の参加分と同じように、ここでは諸個人に対立して疎遠なもの、物象的なものとして現われる。それは、諸個人の相互的な関係行為としてではなく、諸個人に依存することなく存立し、無関心的な諸個人の相互的衝突から生じるような諸関係のもとへ諸個人を服属させることとして現われる。各個々の個人にとって生活条件になってしまっているところの、諸活動と諸生産物との一般的な交換、それらの相互的な連関は、彼ら自身には疎遠で、彼らから独立したものとして、つまり一つの物象として現われる。交換価値においては、人格と人格との社会的関連は物象と物象との一つの社会的関係行為に転化しており、人格的な力能は物象的な力能に転化している。社会的な力を交換手段がもつことが少なければ少ないほど、つまり交換手段がいまだに直接的な労働生産物の性質や交換者の直接的必要とかかわりあいがあればあるほど、諸個人を結びつける共同団体――家父長的関係、古代の共同団体、封建制度、ギルド制度――の力は、まだそれだけ大きいにちがいない。 …中略… 各個人は社会的な力を一つの物象の形態でもっている。この社会的な力を物象から奪いとってみよ。そうすると諸君は、それを諸人格のうえに立つ諸人格にあたえざるをえない。

          同前 137138ページ   (下線太字は刑部) 

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 市場経済においては、本来諸個人が持っている社会的な力を物象が持ち、逆に諸個人を支配しています。この倒立関係を再転倒して正立させるべく、マルクスは「この社会的な力を物象から奪いとってみよ」と言います。市場経済が唯一のものではなく、それとは違った性格の共同体もあったのだ、という事象を提示することで、市場経済の表象に埋没することなく、経済理論としての分析力(抽象力・想像力)を喚起しているのでしょう。こうして商品=貨幣関係の中で疎外された意識を幻惑から解き放ち、客観的に生産関係を捉える正気を取り戻した上で、その直後に、初めに引用した人類史の三段階把握を開陳しています。

 補説すると、『要綱』のその叙述だけから、マルクスが人類史の三段階把握を、共同体と市場経済との継起を主軸とする形で構想していた、とまでは断言できないかもしれません。しかし市場経済の疎外的構造の中で、物象が人間を支配してしまう、という自由の制約がここで述べられていることは確かです。以上のように、物象的依存性は搾取概念とは独立に商品=貨幣関係の論理から説明されます。実はこの問題について2020314日の志位和夫委員長(当時)による改定綱領学習講座においても今回の講演と同様の認識が示され、当該部分は、「改定綱領が開いた『新たな視野』〈4〉」(「赤旗」2020412日付)にあります。当時私は訂正すべき一点としてメールし、だいぶ後に担当者から丁寧な回答をいただきましたが、周辺説明が大方で、肝心の問題点についてはかみ合った回答になっていませんでした。今回の講演テーマからすれば、物象的依存性の捉え方自体は主要内容ではありません。しかしその誤りは経済理論の基本への無理解を示すものとなっており、放置せず必ず是正すべきです。



++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 

<D>  『経済』2024年7月号の感想(2024年6月30日)から

 

         自由時間論と社会主義的変革

 

 先月号の感想の中の「物象的依存性とは何か」において、学生オンラインゼミ・志位和夫日本共産党議長の講演<「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに>427日)での「物象的依存性とは資本家階級による労働者階級に対する搾取・支配関係を表現した言葉」だという主張は誤りであることを、マルクスの『経済学批判要綱』(1857-58年の経済学批判草稿)の当該部分の叙述に基づいて指摘しました。今回それを補足します。

 「物象的依存性」概念を含む人類史の三段階把握は『要綱』の中で、「V 資本にかんする章」に先立つ「U 貨幣にかんする章」に登場します。つまり論理次元として、資本=賃労働関係(搾取関係)に先立つ商品=貨幣関係の次元で議論が展開されます。商品=貨幣関係がもたらす人と人との関係性、あるいはそこにおける人間性が物象的依存性として捉えられ、その人類史的意義が自由との関係では二面的に評価され得ます。一方では、前近代の共同体社会に比べて、人格的依存関係から解放されて自由になり、他方では、人間が物象に支配される疎外関係に置かれ、平たく言えば、諸個人が制御できない市場に翻弄されることで自由が抑圧されます。

 だから「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」とは、人間の自由としては、共同体の抑圧からの解放と市場経済への従属という二面的性格を表現しています。これは論理的には資本主義的搾取の存在以前にすでに言い得ることです。マルクスは資本主義的搾取だけでなく、商品=貨幣関係そのものの止揚を目指していたので、この二面性の確認は重要です。物象的依存性を資本主義的搾取と同一視しては、物象的依存性の持つこの特殊性が分かりません。奴隷制・封建制という前近代社会と、近代資本主義社会とは、搾取社会という点では共通であり、ともに人間の自由を抑圧します。しかし共同体と市場経済という違いにおいて人間の自由のあり方は対照的です。人類史の三段階把握に登場する、人格的依存性と物象的依存性という対概念がそれを鮮やかに示しています。しかもそこで注意すべきは、前近代の共同体社会に対して市場経済社会は自由だと単純に言っているだけでなく、後者の二面性を捉えていることです。その上に改めて搾取経済としての性格を加えて考えるというのが近代資本主義社会の重層的把握と言えます。

    *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** 

 上記のオンラインゼミに続いて、625日には志位和夫氏の講演「『自由に処分できる時間』と未来社会論 マルクスの探究の足跡をたどるが開催されたので、リアルタイムで視聴しました。オンラインゼミではマルクスの言葉は平易に要約されていましたが、今回の講演では、『資本論』と経済学草稿その他の原典に即して、本格的に自由論・未来社会論が考察されました。「共産主義と自由」という大テーマへの挑戦の一つとして積極的に評価しうる企画だと思います。

 講演の初めの方で、マルクスの自由論に決定的な影響を与えた匿名パンフレットの内容が紹介され、資料5として掲載されています。――「人々がそれまで12時間労働していた所で現在6時間労働し、そしてこれが国民の富であり、これが国民の繁栄である、ということになりましょう……。富とは自由であり――休養を求める自由であり――生活を楽しむ自由であり――心を発展させるべき自由であるのです。それは自由に処分できる時間であり、それ以上のものではありません」(蛯原良一氏の翻訳による)

 私たちを含め、資本主義社会に生涯を送る人間は資本主義市場経済によって決定的に人間性を規定されているので、人間とは「剰余価値追求」、「生産のための生産、蓄積のための蓄積」に生きて、「金がすべて」であると思っています。もちろんそうでないという人もいますが、それは以上への反発以上のものではなく、同一平面の発想でしかありません。それに対してこのパンフレットの人間観・社会観は、富の本質を自由時間に求めるという点で次元が違います。あえて言えば、この後のマルクスの自由論の展開は彼の科学的経済学によってこの命題をただ敷衍したものだとさえ言えます。

 ところでこのパンフレットの著者がディルクという人物だということを、20世紀日本の経済学者・杉原四郎氏が解明しました。講演はそれを指摘していましたが、実は杉原氏の理論的貢献はそこにとどまらぬ大きなものがあることは、おそらく志位氏も了解済みでしょう。山口富男氏の「マルクスによる未来社会の探究と自由な時間=@ディルク抜粋から『資本論』へ」1(本誌5月号所収)によれば、「マルクスのディスポーザブル・タイム論については、杉原四郎氏による一連の研究がある(『経済原論T』同文舘、とくに第二章第一節「時間の経済」ほか)」(98ページ)ということです。

 講演で資料6「社会の発展は、時間の節約にかかっている」として引用されている部分(『マルクス 資本論草稿集1 1857-58年の経済学草稿』第1分冊、大月書店、1981年、162ページ)を杉原氏は引用し要約した上で、以下のように論じています(下線は刑部)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 このような見解はいわばマルクスの思想的核心であって、とくにわれわれにとって重要なことは、それが彼の価値論や剰余価値論を生み出した基盤であり、かつそれらをささえている支柱として働いているということである。労働が価値の源泉でありその尺度であるというマルクスの主張は、けっして単に商品社会に関してだけでなく、経済一般に通じるものとしてなされているのであるが、こうした主張は、人間生活にとって最も本源的な資源としての時間があるということ、労働時間がその時間の基底部分を構成するということ、そして生活時間から労働時間をさしひいたのこりの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能となること、したがって労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえないということ、このような認識をまってはじめて成立することができる。そしてこのような認識にもとづいてはじめて、労働の生産力の発展が人間の歴史をつらぬく基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望もひらけうるであろう。生産力の発展と合理的な配分とは、労働時間の節約のための二つの本質的な解決策にほかならないからである。    53ページ

杉原四郎『経済原論1―「経済学批判」序説―』(マルクス経済学全書1)

同文舘、1973年  第2章「経済本質論の展開」 第1節「時間の経済」より

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 本来なら、この著書を全部読み返すのが良いのですが、時間がないので気がついたところだけを引用しました。杉原氏は資本主義や商品経済にとどまらぬ経済一般を捉える「経済本質論」から考察し始め、その中で「時間の経済」の重要性を指摘しています。「人間生活にとって最も本源的な資源としての時間」にまず着目し、労働時間と自由時間のそれぞれの意義、ならびに労働時間短縮の重要性に説き及んでいます。マルクスの『資本論』と経済学草稿などの自由時間論についてその発想の端緒から基本的部分までを圧縮して述べています。この問題についての先駆的研究の一つと言って間違いないでしょう。

 確か志位講演でも触れられていたように思いますが、マルクスは労働時間だけでなく、生活時間全体に問題意識を持っていたと考えられます。これは今日、フェミニズム経済学が提起してきた、家事労働の経済理論への組み込みに通じる問題だと言えます。その際に、家事労働などの価値生産性をどう扱うかが問題となりますが、まずそれは措いて、家事労働・家内労働・市場労働あるいは不払い労働・支払い労働という形態を問わず、いずれも投下労働として存在するという一点から出発することが必要と思われます。

価値は「通説では市場で実現した商品を再生産するために社会的平均的に必要な抽象的労働の分量とされてい」ます(和田豊『価値の理論』第三版、桜井書店、2019年、90ページ)。通常はこの労働が投下労働とされますが、それはすでに一物一価などの市場法則を経過した加工済みの概念であり、現実の具体的な投下労働ではありません。労働価値論はその真の投下労働から出発することで現実経済を度量深く反映することができます。したがって、「共産主義と自由」=「自由時間論」の検討は、人間の生活時間に着目することで、労働価値論の深化と拡張につながります。

志位講演は、マルクスの『資本論』だけでなく経済学草稿なども検討することで、自由時間論を軸にした共産主義社会論を前進させました。それはさらに現代資本主義分析と結合させることが求められます。現代社会の中に未来社会像へのつながりをどう見いだすかが大切だからです。

空想的社会主義と科学的社会主義とを分かつものは、資本主義社会の展開の中に、社会主義に向かう変革の客観的条件と主体的条件との形成を見いだせるか否かにあります。たとえば、生産力発展による自由時間の拡張をどう実現するかが問題です。資本主義的雇用制度下では、生産力発展は失業不安に転化します。失業を避けるとしても、資本は生産力発展による潜在的自由時間の形成、その実現可能性を剰余労働時間に転化してしまいます。労働者に自由時間を与える代わりに、それを剰余労働時間とします。そのためにはムダな使用価値をも「創出」します。そこに形成されるのが「消費社会」です。こうして資本は労働時間だけでなく「自由時間」にも管理を及ぼし生活を支配します(以上について、初歩的で雑駁な問題提起に過ぎないが、拙稿「生産力発展と労働価値論」――政治経済研究所編『政経研究』第86号、20065月、所収――参照)。

 たとえば、ベーシックインカムは、資本主義的雇用制度下での(賃下げを伴う)時短による低所得化の対策として機能するかもしれません。しかし資本主義的搾取を前提に再分配でそのように「解決」することは社会主義的変革とは違い、労働者が生産の社会の主人公になる道ではありません。生産力発展による自由時間増大の可能性を実際にどう活かすのかを考えることは未来社会論とそれを切り開く社会主義的変革論の重要な要素であると思います。

マルクスのテキストに内在し、そこに学び本質をつかむこと自身は重要ですが、それを現代的にどう活かすかこそが、革命家マルクスの真意に沿うことになります。そうでなければ、訓詁学と空想的社会主義にとどまります。自由時間論を現代の労働時間短縮闘争に結びつけるのは当然ですが、社会主義的な変革像をどう組み入れていくかがさらに問われています。

 そうした理論的営為は若者のイデオロギー的獲得という課題においても重要です。新自由主義の厳しい搾取の被害者たる若者たちが社会主義支持に傾く可能性は潜在的には高まっていますが、あくまで日本社会における支配的イデオロギーは新古典派理論を基礎とする資本主義市場崇拝です。あるいは競争崇拝、「自助」強要の自己責任論です。その下で、経済社会の理性的運用は不可能であり、社会主義・共産主義の理想はユートピアに過ぎず、まったく非現実的だというのが通念です。それに対して、諸個人が日々の利害関係をかいくぐって生きていく上での卑近な処方箋は、資本主義イデオロギーに基づく「現実主義」が提供しています。ビジネス書や生き方のマニュアル本の類い、またおそらく大方のネット情報がそれであり、若者たちの周囲はそれで埋め尽くされています。そうした「空気」の中で、自由時間論に基づく共産主義社会の本来の理想だけでなく、そこに至る社会変革の中長期的展望、さらにその前に、日々の厳しい現実を生きて打開する方策を重ね合わせて正しく提示していく、もっと言えばともに闘って要求実現していくことが求められます。せっかくマルクスに触れたり、社会主義支持に向かうか、という若者たちが、「何だ、結局ナイーヴな信仰に過ぎないじゃないか」という「大人」の誤解に逆戻りしてしまわないようにするにはどうすべきか、という問題意識を常に持つべきです。

 

                                   店主の雑文・目次に戻る  

                                  MENUに戻る