月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文(2012年2月号〜7月号)からハシズム関係の部分を抜き出しました。 |
ハシズム批判の基盤的論点
折々に書いた物なので、系統性はありませんが、ハシズム批判の基礎となるような重要な諸論点を扱っています。理論的な即効性や実用性は乏しいですが、汎用性はあると思います。
ハシズムと民主主義 (2012年1月31日)
北野和希氏の「橋下維新、躍進の理由」(『世界』2月号)は、要するに『世界』の読者を叱り付けた論稿でしょう。橋下徹大阪市長の圧勝を快く思わず「有権者を、政治家を見抜く能力に欠け、甘言やばらまき政策によって投票行動を決める人々と考えるような、有権者を小ばかにし、自らは『有能者』として『上から目線』で見ているよう」(217ページ)な「民主的」「市民的」な人々は「選挙を媒介として成立する民主主義を否定していることに気付いていない」(同前)と批判しています。さらには「橋下氏の躍進は、有権者の投票による選挙結果なのである。橋下氏の政治観を見ようともせず、表層的な言動や政治行動から批判しているだけでは、橋下氏の真の狙いも有権者がなぜ橋下氏を支持するのかも、理解できないだろう」(同前)と手厳しく指摘し、橋下氏の政治観や狙いならびに有権者が彼を支持する理由を分析しています。ただし橋下氏の政策そのものの当否についてはほとんど語られていないので、もっぱら主に選挙をめぐる民主主義観について橋下氏を擁護し、「民主的」「市民的」な人々を批判する内容となっています。『世界』の論稿としては意外性があり、興味深い論点を提供しています。
北野氏は橋下氏の政治観を「選挙絶対主義」と実に的確に指摘しています。「有権者の投票による選挙こそが、全ての始まりであり、終わりなのであ」り(211ページ)、「有権者を自らの生死を決める有能な裁判官であり、極めて優れた感覚を有した市民と位置付けている」(同前)と。この政治観の首尾一貫性と(大衆蔑視でない)民主的性格を北野氏は高く評価しています。橋下氏はメディアを巧みに利用するだけではなく、メディアを注視することで、有権者が求めるものをつかみ、自分の感覚の「正しさ」を試している、とも指摘しています。従来の政治家・政党の「有権者の意識と外れた主張や理解をえようとしない姿勢」(217ページ)とは違って、このように優れた市民感覚を橋下氏はもっている、というわけです。確かにここには、左右を問わず、普通の人々の生活感覚と遊離しがちな政治姿勢への批判として傾聴すべき点があります。しかし「選挙絶対主義」とか橋下氏の有権者観は正しいものなのだろうか。
民主主義において、その制度上、選挙が頂上にあることはいうまでもありません。橋下氏の圧勝を快く思わない「民主的」「市民的」な人々も、選挙結果に不満は持っても、それを尊重すべきことは当然と考えているはずです。しかし頂上にある選挙は広い裾野に支えられて初めて生きてきます。町内会やPTAのような地道な地域活動、署名やデモ、メディアへの投書、インターネットを通じた発言等々、多彩な政治参加が日常不断にあって、それらのある時点での総括として選挙は位置付けられます。選挙は巨大な民主主義の山の一部であって、たとえ頂上であってもそこですべてを見渡せるわけではないのだから、選挙結果への白紙委任を意味する「選挙絶対主義」は正しくありません。選挙後もその結果を尊重し前提しつつも、様々な民主的政治活動が続けられ、それが行政に影響を与えることは当然です。その他に人権とか教育などその原理的性格からいって、そもそも時々の選挙結果からは相対的に独立した問題もあります。教育委員会の自立性などが選挙結果如何で左右されるようなことがあってはなりません。
残念ながら日本社会ではまだ政治活動は奇異なこと、自分はかかわりたくないことという感覚が根強くあります。たとえば街頭署名などもフツーの光景として受け入れられているようには思われません。ビラ配布が弾圧されても世論の怒りが沸騰するなどということは決してありません。こうした中で事実上、選挙だけが民主主義の政治イベントとして捉えられる傾向があります。選挙開票結果のテレビ(ネット)観戦を中心とする観客民主主義、おまかせ民主主義が定着しており、それは安易な「強力な指導者待望論」に流れ込みやすく、この政治風土に咲いた徒花が「選挙絶対主義」ではないでしょうか。橋下氏が選挙に賭けて、敗れれば潔く引き下がる覚悟だということから、その政治観の民主主義的一貫性を示すものとして「選挙絶対主義」を北野氏は称えていますが、そもそもそれは民主主義の矮小化の枠内での潔癖感や高揚感に過ぎません。東日本大震災・福島第一原発事故後には、既成の政治勢力ではない若者らが主体となって、ネットなどを通じた新たな集会・デモが開催されるなど、矮小化された民主主義を打ち破るかもしれない動きが端緒的ながら見られます。それと対比するならば、「選挙絶対主義」の時代錯誤性が浮き彫りになります。
橋下氏の有権者観ははたして民主的でしょうか。ここでは北野氏が政策評価を措いていることが問題です。橋下氏の政策は、新自由主義構造改革の「選択と集中」によって大都市の繁栄を導くことが第一であり、それがあたかも時代の閉塞感を打ち破るかのように捉えられていますが、人々の生活や労働への配慮(それこそが今日の政治の中心課題だが)は後景に退いています。「小泉改革」同様の破綻済みの路線に過ぎません。教員基本条例案や職員基本条例案に見られるファッショ的姿勢はそれだけで民主的政治家としては失格です。橋下氏の政策が普通の人々の利益に反することは明白であり、それがまだ知られていないうちに、選挙で勝って自らの政策を強行しようというのでしょう。そのために有権者の意識に寄り添っているわけで、閉塞感への反発のような漠然とした次元では共感を得られても、具体的な政策次元では、たとえば町内会・商店街などから離反が見られます。これについて山口二郎氏は述べています。
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私は大阪W選挙に三回応援に入りましたが、図書館や障害者支援、子育てサークル等の地域活動をしている人たちの間では橋下さんを支持するという人は全くいないという話を聞いて、非常に腑に落ちました。先ほどのトクヴィルの議論にあるように、直接顔をあわせながら議論をする小さな空間が基礎単位になっていくので、ローカルポピュリズムに対する防壁とは、そうした地域での活動なのだと思います。
片山善博、山口二郎、柿崎明二座談会「なぜ政治が機能しないのか」
(『世界』2月号所収) 181ページ
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橋下氏と有権者とのつながりは今時のマスコミを介した情緒的なものに過ぎず、それが既成の政治家と比べて一見密接なようであっても、決して民主政治を前進させるような性格を持っていません。橋下氏のこれまでの言動から判断すれば、弁護士であるにもかかわらず、人権や民主主義に対する基本的な見識にも欠け、過剰な自己責任論に固執しています。端的にいえば俗物です。現状ではこのような人物は一定の人々の強い共感を得られます。そうした水準で橋下氏と多くの有権者はつながっています。だから観客民主主義やおまかせ民主主義を克服して、本当の草の根民主主義・参加型民主主義をつくっていく課題があるときに、そこから目をそらせ、民主主義を低い水準に押し留める役割を橋下氏は果たしているのです。北野氏の称える「橋下時代の民主主義」の本質はそういうものだと私は考えます。似非「草の根民主主義」としてはアメリカのティーパーティー(茶会)運動が想起されます。今日ではそれに対抗する「99%の人々」の運動が起こってきました。前者は支配層に奉仕する運動であり、後者は支配体制の本質を理解し対抗する人民の運動です。残念ながら日本はまだ「茶会」次元の運動がこれから全盛を迎えようとしており、「99%の人々」の運動次元はわずかしか見えていません。
以上のような見方は、北野氏からすれば「上から目線」の傲慢な議論と見えるでしょう。しかし北野氏の議論は、人々の意識に寄り添って民主的なようでありながら、民主主義の水準の現状に無批判であり、結果としてそこに忍び寄るファシズムに無警戒となっています。民主主義のあり方と政策の検討とはセットで行われねばなりません。橋下氏の政策(それは極めて危険なものだが)の検討をとりあえず措いて、その民主主義観の庶民性や形式的徹底性だけを称えるのは誤りです。確かに革新勢力などが、人々の意識を捉えあぐねている現状があり、それを情理兼ね備えて獲得することが重要な課題となっています。そこに進む上で北野氏の問題提起を生かして「橋下時代の民主主義」に内在する努力は必要でしょう。選挙によって決定するというのは民主主義の最重要な形式であり、不満があってもそれが最大限尊重されるのは当然ですが、形式は民主主義の必要条件であっても十分条件ではありません。民主主義が必要で十分なものに前進するためには、人民自身が実質的に社会を支配するという内容へのヴァージョンアップが求められます。
日本国憲法は、自覚的な主権者としての国民を想定しています。その一つの前提として、自らの利益と社会全体のあり方を判断できる有権者の存在があります。現状では小泉フィーバーや橋下ブームのように自分で自分の首を締める投票行動が多く見られます。橋下人気はもちろん彼の特異なキャラクターによる部分が大きいのですが、彼がいなくても他の誰かが多少違ったやり方で同様の役割を果たすだろうと思います。二大政党が行き詰まっているときに、ある爽快感をもって人々の目を支配の本質からそらして、支配層の危機を救い、現体制を大枠では維持する、という役割です。人々の利益に反する支配体制なのに、それをあえて支持する投票行動をとらせるように組織する人物がそこに必要とされます。そのトリックスターを生み出す状況について、内橋克人氏の言葉が示唆的です。内橋氏は「国民皆年金など基礎的な社会保障からさえも排除された人たちが多数派となる『貧困マジョリティ』」の形成を問題にし、彼らの特徴について以下のように述べます。
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「米国はじめ国内外の最強の秩序形成者に抵抗する力もなく、生活に追われて政治的な難題に真正面から対峙するゆとりもない。同時に、精神のバランスを維持するために『うっぷん晴らし政治』を渇望する。政治の混乱を面白がり、自虐的に極めて反射的に、表面的に評価して、選挙権を行使する。大阪市の橋本徹市長の『ハシズム現象』も貧困マジョリティの心情的瞬発力に支えられている面が大きい。『地方公務員は特別待遇を受けている』とバッシングし、閉塞状況下の欲求不満に応えていくやり方だ」
「朝日」1月8日付
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貧困化による閉塞感が有権者の政治判断力を歪めているのです。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』には、ルンペン・プロレタリアートの危険性が指摘されていました。「ところどころでプロレタリア革命によって運動になげこまれるが、彼らの生活状態全体から見れば、むしろよろこんで反動的陰謀に買収されやすい連中である」(国民文庫『共産党宣言 共産主義の原理』41ページ)。もちろん内橋氏の「貧困マジョリティ」を当時のルンペン・プロレタリアートと同一視するものではありません。ただ貧困や生活状態の不安定が反動勢力に利用されやすいということは共通しています。今日でも、ヨーロッパと比べれば日本では社会保障体制が弱いため、貧困と生活不安が蔓延しています。このことが「将来の安定よりも、とりあえず今日のわずかな収入を優先せざるを得ない」状況を生み出し、腰の落ち着いた求職活動を阻み、非正規雇用増加の一要因となっていることが、反貧困運動の中で指摘されています。それと同時に、この余裕のなさはじっくりとものを考える時間を奪い、判断材料を買うこともできず、結果として多くの人々がしっかりした政治判断をしにくくなっていると思われます。雇用の正常化、ならびに社会保障削減への反撃は、健全な民主主義社会を維持するためにも不可欠の課題なのです。
マスコミの問題も重要です。商業マスコミの大勢とNHKが、世論の反対を無視して、野田政権の「社会保障と税の一体改革」を強力に推進している状況は深刻です。ジャーナリズムの役割を投げ捨てて、有権者をミスリードする偏向報道の大政翼賛化が固着しています。というよりも、支配層の一員としてのエリート主義的使命感による確信に満ちた報道姿勢だというべきでしょう。…「大企業の国際競争力を維持することが日本の生き残る道であり、そのためにすべての国力を動員する政治を確固として推進しなければならない。自分の生活状況からそれに反対するような遅れた国民意識を啓蒙しなければ日本の危機は救えない」…察するにそんなところか。経済のあり方について言いたいこと・考えたいことはいくらでもあるけれどもここでは措きます。
今月のNHKの「世論調査」は調査の名を借りた世論誘導に他なりません。消費税率引き上げには反対が多いのですが、そこで重ねて「その前提として選挙の議員定数の削減をやった後ならどうか」と聞いて、「賛成が多い」という結果を無理やり作り出しています。本来、議員定数と消費税率とは関係ない問題なのに全く恣意的な質問項目です。議員定数を削減してから消費税を引き上げるというのは支配層の描く勝手なシナリオであり、公共放送たるNHKがその姿勢を重ねるべきものではありません。消費税率の引き上げだけでなく、どさくさにまぎれて選挙制度も改悪して民意を国会に反映させなくしよう、という策動を世論調査という名の世論誘導で行うのは糾弾されるべきです。それに議員定数の削減を消費税率引き上げの前提とする、というこの無理な組み合わせは、内橋氏のいう「うっぷん晴らし政治」の心情におもねるものであり、その意味でも民主主義の破壊行為です。
有権者の前には、自らの利益ならびにあるべき社会のあり方を自由・自主的かつ公正に判断することを歪めるような要因が、このように幾重にも張り巡らされています。しかしいやしくも社会変革を目指すのならば、そのような状況を把握した上で、それを改善する闘いを進めつつ、日常的な民主的活動の積み重ねの先に、その総括としての選挙決戦での勝利を目指さねばなりません。結果として、もし負けならば負けなのであり、そこで内実のない形式民主主義を罵倒しても見苦しいだけです。形式民主主義そのものは尊重されねばなりません。選挙戦に入れば、所与の条件の下で有権者の意識を獲得することに全力を尽くす以外にありません。来る総選挙では、橋下氏を初めとするいわば日本版「茶会」勢力がおそらく猛威を振るうでしょう。民主勢力は彼らを蔑視したり軽視したりするのでなく、彼らに劣らぬ備えと覚悟が必要ですが、現状では圧倒的に遅れをとっています。
繰り返せば、ハシズムの政治基盤は観客民主主義・おまかせ民主主義といった長年の政治状況であり、経済基盤は新自由主義構造改革が生み出した貧困化と格差構造でしょう。このように強固な政治経済基盤の上に咲き誇った徒花を摘み取る力を今のところ私たちは持っていません。もちろん根本的な解決は、対米従属と大企業本位という二つの異常を克服する政治改革以外にありません。日本の進路におけるこの隠された本流を一人でも多くの人々に見えるようにするにはどうしたらよいか、正直言って私には見当がつかないけれども、とにかく今が大事です。
「橋下劇場」を許すな (2012年2月28日)
幸福の追求にとって、未来社会の展望は重要ですが、とりあえずは当面する問題をどう解決するかが問われます。野田内閣が提起し、財界・マスコミなどが強力に推進している「社会保障と税の一体改革」を阻止すること、とりわけ消費税増税を許さない闘いをどう展開していくかが問題です。そこでは人々の間に広くある「増税は困るが財源はあるのか」という疑問に答えることが運動のポイントになっています。2月7日、日本共産党が「消費税大増税ストップ! 社会保障充実、財政危機打開の提言」を発表したことはまさに時宜にかなっています。
これは第一に、社会保障と財政の問題解決を、日本経済全体の民主的改革とあわせて提起したこと、第二に、社会保障の再生・充実と財政危機の打開を同時に進めていく上で、二段階に整理していることが特徴的であり、非常に総合的かつ現実的な内容になっています。
それを前提にしつつ、今後説明を補っていくべきと思われる点を二つばかり指摘します。一つは、大企業・大資産家の課税逃れをどう抑えるか、という問題です。もう一つは、経済改革の見通しにおける試算での経済指標の適切さです。たとえば消費者物価上昇率が平均1.2%程度、名目成長率が平均2.4%程度というのは、現状からすれば非現実的に映ります。もちろん経済改革を実施した上での予想ということですが、より説得力をもたせる説明が必要でしょう。
時宜にかなった提起というのは、「政府案の提出ならびに人々の関心のあり方との兼ね合い」ということだけでなく、橋下徹氏の「維新の会」などの策動との関係でも言えます。先述の「危険な『希望』にすがる流れ」の問題です。民主・自民の二大政党政治が行き詰まっているときに、その間隙を縫って橋下氏らが絶大な人気を得ています。ただしその人気の中身を見ると、政策的内容がなく、漠然とした期待のバブルに過ぎません。ここで来るべき総選挙の最大の争点である消費税増税に焦点を当てて、人々の生活に密着し地に足のついた政策論争へと、政治闘争の舞台を設定しなおすことが喫緊の課題となっています。民主主義擁護と政治変革のためには、すでにマスコミがしつらえている「橋下劇場」を終演させることに全力を尽くすべきです。それには「思想調査」問題などでの圧倒的攻勢とともに、ニセの政治闘争(既成勢力VS橋下ら)からまともな政策論争へ舞台設定をシフトすることが最重要です。
「朝日」2月12日付けのインタビュー「覚悟を求める政治 橋下徹・大阪市長に聞く」が反響を呼んでいるようです。ここでまず気になるのが「政治家の賞味期限」と言っていることです。この不真面目さ。まともな政治家ならば理想を目指して地道に長く続けようとします。賞味期限を問題とするのは、人々をいつまで騙し続けられるか、この人気は遅かれ早かれ胡散霧消する、という自覚があるからでしょう。確かに彼は人々がいやがることを提起しています。「既得権益の打破」という一見よさそうな言葉の中身の多くは、支配層への打撃よりも福祉などの切捨てです。その意味ではポピュリストではありません。しかし閉塞状況の中で「あいつなら何かやってくれる」という幻想に乗っています。そうした文脈の中では、人々を叱りつけたとしても、逆に「耳に痛くても言うべきことを直言する正論の人」であるかのように受け取られます。しかし生活者からはそんな上滑りな説教はやがて見放されるでしょう。だからこそ彼は賞味期限が切れる前に道州制などの実現へ道をつけたいという使命感に熱気を込めており、そこに人を惹きつける迫力が生じています。二大政党政治が行き詰まっているとき、橋下氏の使命感と人気を利用することに、支配層は一つの活路を見いだそうとしていますが、「橋下劇場」のリスク管理は彼らにとっても定かだとは思えません。
「朝日」インタビューで橋下氏は要するに「国際競争に勝てるようにもっと努力せよ。さもなくば日本は没落して生活水準も下がる」と人々に向かって説教しています。彼の経済の見方は生産力主義的で、生産関係を見ません。発展途上国と比べて日本の生活がよいということを言い、国内で貧困と格差が広がっていることを無視します。わが国における現状の獲得物をこれまでの人々の努力の成果と見るのならば、同時にそこにある貧困について資本の搾取・収奪の結果だという認識もあるべきです。彼からすればそこは自己責任なのでしょう。しかしたとえば正規雇用が原則の社会ならば、多くの労働者はまともな生活が営めるのに、様々な不安定雇用が常態化した今日の日本では、多大な労働支出が正当に報われていません。ここで問題なのは個人の努力の有無ではなく、社会システムのあり方です。大資本への民主的規制が働いている社会ならば貧困はずっと少なくなります。
つまり人々の生活水準を規定するものが何かを考えるのに、財界と同様にもっぱら国際競争だけに目を向けることが誤りなのです。日本経済の最大の問題点は、そこではなく大資本が強搾取で蓄えた巨大な内部留保が国民経済の中に還流しないことです。ここには観点の対決があります。対立図式は<国際競争力VS内需循環型国民経済>あるいは<個別企業の利潤増強VS内部留保を活用した国民経済の循環の再生>となります。「合成の誤謬」あるいは「生産と消費の矛盾」を克服するために、賃金の引き上げを起点とする経済改革によって内需循環型国民経済をつくることが必要です。そのときに、競争力強化のため努力せよというのは、相変わらず搾取強化路線を推進し、格差と貧困を拡大し、循環不全の国民経済の困難をますます大きくするものです。経済を見るときに、階級的問題を見ずに、人間的努力の一般論に解消していることことが間違いなのです。ここからは<努力する者VSしない者>あるいは<既得権益に安住する者VS新たな努力で挑戦する者>という対立図式が生じ、公務員バッシングなどへと向かいます。支配層の常套手段である分断支配に手を貸す結果となります。
ここで米国に目を転じてみます。草の根保守主義・ティーパーティー(茶会)の運動は、極端な小さな政府の主張から社会保障を敵視しているように、あからさまに人民内部の矛盾を誇張し拡大しています。彼らはその理念だけでなく、分断支配への協力という点でも支配体制に奉仕しているのです。次いで始まったウォール街占拠に始まる99%の人々の運動では、彼らが支配の構造を理解し敵と見方を正確に見通して、人民内部の分裂を克服し分断支配を断ち切ろうとしていることが最重要です。ここから日本の世論状況を評価するなら、橋下劇場などに見られるように、いまだ「茶会」段階が拡大し続けています。政治的対決点を正確に提起して分断支配を打破する「99%の運動」段階の日本版を創造していくことが必要です。
再び橋下氏の努力論について。そもそも努力とは人間一般について言いうるものですが、彼が力説しているのは資本主義的努力です。もちろん彼もその議論を受け止める人々も、それを努力一般だと思っています。しかし彼が言うところの努力はもっぱら競争の上に乗った努力です。「努力」に象徴されるものには、向上心、精進、自己実現、発達、進歩、前進などがあり、それは歴史貫通的な人間の良きもの・美質を表現しています。対して「競争」は資本主義市場経済を象徴しています。誰でも怠惰はよくない、努力すべきだと思っていますが、なかなか難しいとも感じています。そこに橋下氏が努力を強調すると、多くの人々は自己反省しつつ努力しようとなるかもしれませんが、それは際限ない競争の悪循環の扉を開ける資本主義的努力(搾取強化)への道なのです。
職人気質というのは使用価値そのものへの執着であり、職人はあたかも使用価値を目的とする生産者であるかのように思われます。しかし現代においては彼は商品経済の中に生きているのであり、生産の目的は価値です。市場で彼の生産物の価値を実現して、生活に必要な消費手段と次期の生産手段とを買う必要があります。彼はしばしば「売れるもの」を作るために、自分で納得できるよいものを作ろうという気持ちと葛藤しつつ、何らかの妥協を迫られることがあります。ここにあるのは商品経済における使用価値の実現と価値の実現とのある種の矛盾です。世に職人気質が賞賛されるのは、このような矛盾の中でもなお使用価値への執着を持ちつづける生産者への共感があるということです。それは努力というものの本源的形態への支持、憧れであり、それが商品経済の中で損なわれることを惜しむ気持ちです。
商品経済はさらに資本主義経済に転変し、生産の目的は価値から剰余価値になります。使用価値の追求が価値の追求へ転変したの続いて、価値量の無限の追求へとさらに「進化」します。使用価値への執着はさらに軽視ないしは変質し、軍需生産や公害製品など負の使用価値さえ大量に登場し、使用価値と価値との矛盾は頂点に達します。あるいは剰余価値追求は労働現場においてカローシさえ生み出します。
生産一般から商品経済へ、さらに資本主義経済へ、この二段階の転換によって人間の努力(に象徴される美質)が資本に従属し変質します。上の例はそうした疎外形態がはっきりと分かるようになったものです。しかしそのような究極的形態は別として、資本主義社会の中で努力しささやかな成果を得るという日常的経験の積み重ねにおいては、資本の運動が人間の美質を実現する良きものに見えてきたり、人間の美質が資本の運動を通じてこそ実現されるように見えてきます。ここに橋下氏の「努力」言説が人々の心にフィットする根拠があります。事実、人々の無数の努力が私たちの経済社会を形成しているのであり、資本主義経済の土台となっています。しかしその努力のあり方において、ディーセントワークの追求など、人々が主人公になった社会に近づけていくのか、それとも橋下流にもっぱら競争と結びつけて資本主義的疎外形態の方向に純化していくのか、厳しい対決があるのです。
橋下氏は逆境から努力して今日の成功を勝ち得たという経歴を持っています。だから彼は、競争社会を所与のものとしてそこで努力して勝ち上がることが正しいという教訓を得たのではないでしょうか。私たちの発想は逆です。その努力は資本主義的に疎外されたものであり、その前提である競争社会を人間的な社会に変える必要があり、そのための努力こそが求められています。ここで非科学的な精神主義のスポーツ指導者の再生産が思い出されます。不当なしごきに心身にダメージを負って脱落していく選手が多い中で、「幸い」にもそれに耐えて生き残った選手がいると、彼が指導者となって同じ誤りを繰り返すことになります。自分の「成功」を客観視できず、間違った状況の改善を怠って、自分に合わせて他人に無理強いする。これではスポーツはよくなりません。しかし実際には、非科学的な精神主義のスポーツ指導者は少なくなっているでしょう。それは科学的に状況を改善する指導者が登場しているからでしょう。政治もそうならねばいけません。
マスコミ全体も同様でしょうが、このインタビューを載せた「朝日」の体たらくときたら…。橋下市長が常軌を逸した「思想調査」に及んでも、何らまともに批判せず、相変わらず「橋下劇場」の片棒をかつぎ続けています。2月19日付では星浩氏が、「永田町」と比べて橋下氏の「覚悟」と「決断」を礼賛し、消費税増税などを煽っています。なるほど、支配層の政策断行にとって「橋下劇場」はたいへん有用なわけだ。マスコミは権力の監視者ではなくその僕となり果てています。だから民主主義の危機にも鈍感なのでしょう。
以上、橋下批判としては無用の議論が多すぎ非効率だったかもしれません。しかし誰であろうとも、それぞれのやり方で橋下氏のあの本気・熱気には取り組むべきだと思います。その際に現存するものとしての「橋本徹現象」を合理的に理解することが前提となります。湯浅誠氏の「社会運動の立ち位置 議会制民主主義の危機において」(『世界』3月号)は社会運動家として建設的な変革のあり方・考え方を考察した秀逸な論稿です。そこでは政治の仕組みと世論状況とが冷静に分析され、橋下徹現象の理解もその一環として位置付けられた上で、社会運動のアプローチが考察されています。さらに精読し熟慮したいと思います。
人間観の尊厳 (2012年2月28日)
臨床教育学者・田中孝彦氏の「子どもとともに、地域と学校の『復興』を考える―教師たちの震災体験を聴いて」(『前衛』3月号)は感動的な論稿です。被災した子どもたちの作文などを通して、彼らを単に「ケアの対象として見るだけでなく」「主体として理解することが重要だ」(52ページ)と田中氏は提起しています。そこには「生き残ることができた自分の生命の重みをしみじみと感じた子どもたち、人々の生命を大切にする地域や学校のあり方に思いをはせた子どもたち、この厳しい体験を生かして生き方を考えた子どもたち」(57ページ)がいたのです。こうした思いの中からたとえば「恐怖と不安に脅えながらも、なお自分が周囲の人たちとともに生きていくために、何を大切にしていけばよいのかという問いを抱き、それを考えようと」(52ページ)しています。だから教師の課題は実に水準の高いものになります。
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これからの「復興」の中で教師に問われてくるのは、教育の原点に立ち戻って、一人ひとりの教師が一人ひとりの子どもたちについての理解を深め、その子どもたちが求めている学習の質を考え、それを創り出す一歩を踏み出すということではないだろうか。
53ページ
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福島県から他県に避難したある高校生は、県内に住み続ける人との間に生じた溝に深く傷つきながらも、考え学び、それを表現しなければならないと思っています。ここには「生命の危険から避難することと、人間関係やコミュニティを維持し創造することとを、どうしたら結びつけられるのかという、重い問題」(60ページ)に直面しながらも「痛々しさを感じさせるほど、深く、鋭く、原発問題を考えている」(同前)姿があります。人間の内面の深さを決して粗略に扱ってはならないのです。浅薄な人間観と社会観で破壊的言辞を振り回すことがいかに恥ずかしいことか。たとえ自分流の「覚悟」があると自負していても。
先述のように、新自由主義や橋下劇場との対決点は経済像の次元(大資本の国際競争力が第一か、地域内循環経済が第一か)にありますが、人間観の次元にもあります。分かりやすい例は橋下氏の政策を支えているだろうと思われる人間観です。それはおそらく競争ないしは強制で動かす対象としての人間観です。それに対して、最も受動的な存在と考えられる被災した子どもたちにおいても確かな主体性が育っているのです。一人ひとりの主体性を尊重し、分断に抗して連帯を求める人間観によって新自由主義を克服することも重要な課題です。
保守イデオロギーの暴走 (2012年3月26日)
「朝日」3月3日付夕刊によると、大阪府立和泉高校(中原徹校長)の卒業式では、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加えて、実際に歌ったかどうかを口の動きで管理職がチェックして府教委に報告していました。中原校長は「他校の校長は『斉唱』まで確認していないと思います」「ちなみに3人とも組合員」と報告しています。橋本徹大阪市長は「これが服務規律を徹底するマネジメント」「ここまで徹底していかなければなりません」と賛辞を送っています。
「ここまでやるか」か、「ああ、やっぱり」か。権力者の意向を忖度して十二分に期待に応えるお山の大将と、それにご満悦の権力者。諸個人の良心と尊厳を踏みにじって恥じない卑劣な共演。この校長は生徒にいったい何を教えるのか。監視・密告と阿諛・追従(あゆ・ついしょう)に満ちた社会を子どもたちに贈ろうというのだろうか。
こういう最低の教育者に媚びられて喜ぶ最低の政治家。彼は選挙に勝った、つまり民意を代表しているのだから何をやってもいい、と思っています。そもそも「選挙による白紙委任」は民主主義にそぐわない考え方ですが、政治家がそれを改めない場合、彼の独善と過信による暴走を止める切り札は世論を変えることです。
いかにもありがちな端役が登場して、いよいよ橋下劇場は「日本一の勘違い男による馬鹿殿行状記」の様相を呈してきました。橋下劇場を、志村賢にも負けない爆笑喜劇に終わらせるのか、「昭和維新」のような悲劇へと導くのか、決するのは人々の動向です。ジャーナリズムの使命を放棄したマスコミ状況下では、もどかしくとも、ていねいな話し合いによって空気を変えていくことが必要です。
ここで思い出されるのは、2005年の9.11総選挙です。郵政民営化法案が参議院で否決されたのを受けて小泉首相が衆議院を解散し総選挙で大勝しました(小選挙区制マジックがあったとはいえ)。今日ではまるで小泉勝利が容易だったかのように受け止められていますが、それは結果論であって、実際には解散・総選挙は自民党分裂の危険性をも冒した大博打であり、それを断行した小泉氏の権力闘争のセンスは抜群であったと言わねばなりません。当時、郵政民営化を中心とする小泉構造改革に対する論戦では、反対派がだいぶ追い込んでいるかのように感じていましたが、それはそういう立場で闘っている者の「実感」であって、普通の人々は小泉劇場の熱気に支配されていました。社会変革を志向し、実践する者は自らの経験による狭い実感から、しばしばそうした錯覚に陥る可能性があることに注意する必要があります。その後、構造改革による格差と貧困化の進行が政治批判を招き、2009年総選挙での政権交代に至りました。もはや構造改革が錦の御旗のように振られることはなくなりました。しかし資本主義経済そのものは新自由主義構造改革のイデオロギーと政策を絶えず再生産するものです。小泉人気の根強さはそれを示しており、橋下人気につながっています。
橋下氏は思想調査という・想像を絶する暴挙にまで至りました。無批判という自殺行為的状況に陥っているマスコミを尻目に、反撃の運動は広がっています。しかし広範な人々の中の空気を奪還できたは分かりません。と言うか、おそらくまだまだとてもとても、という状況でしょう。橋下劇場のあまりのばかばかしさと自らの理論的確信から、危険な状況を軽視する、ということは許されません。具体的な反撃の運動と結んで、地道な対話の積み重ねによって「量から質への転化」を実現し、世論上の「空気」を逆転することが必要です。残念ながら今のところそんなことしか言えませんが…。
当面する反撃にはあまり役立たないでしょうが、以下では橋下氏など保守政治家のイデオロギーの位置付けについて若干考えてみます。これからも有象無象のプレイヤーたちが登場してくるに違いないので、その捉え方の準備が必要だからです。2000年の拙文「今日の政治経済イデオロギー」では自分なりにイデオロギーの鳥瞰図を描いてみました。その「要約」から引用します。
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イデオロギーの鳥瞰図
グローバル化、対米従属の国独資、政官財癒着などへの対応によって分類した五潮流
(1)ブルジョア教条主義:新自由主義など
(2)ブルジョア現実主義:ケインズ右派など
(3)真正保守主義、反動派
(4)市民主義:ケインズ左派など
(5)科学的社会主義
ブルジョア教条主義の成立(根拠)と帰結
…中略…
ブルジョア教条主義の推進するグローバル化・規制緩和の帰結は、生活・労働の破壊と
経済のカジノ化である。
イデオロギー諸潮流と今日の政党状況
自民党:新自由主義を中心としつつ、ケインズ右派、真正保守主義をも利用して階級支
配を維持しようとしている。
民主党:新自由主義的経済政策を基本としつつ、市民主義的政治手法を取り入れている
が、これは危険なミスマッチである。
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今これを見ると「鳥瞰図」の(4)に市民主義と並んで社会民主主義を入れるべきだった、と思います。またその後の展開として、新自由主義構造改革による格差拡大・貧困化への批判から民主党内に福祉国家的(社民的)傾向が強まり「国民生活第一」を掲げて政権交代を果たしたことが重要な変化です。もちろんその後再び、新自由主義が完全に中心となり、自民党以上に自民党的な野田政権が成立しました。
上記の保守三潮流は対米従属の国家独占資本主義の枠内という共通性を持ちつつも、それぞれ独自のイデオロギー的基礎を持っています。しかし現実政治の次元では、各政党あるいは各政治家がそれらを複合的に抱えている場合が多くなっています。後述するようにそれには根拠があります。
高度成長時代の主流派であったブルジョア現実主義は今日では傍流であり、「構造改革」全盛時には「守旧派・抵抗勢力」と揶揄され凋落していますが、保守層などの既得権益を守るためしばしば新自由主義政策を批判することで存在感を持っています。それが一定の保守良識派的様相を呈する場合もあり、革新派と連携する可能性もありますが、支配層の中での影響力は限定的でしょう。
ブルジョア教条主義としての新自由主義と真正保守主義・反動派(保守反動派)とは本来ならば水と油の関係です。保守反動派は国家と共同体的社会関係を基礎にした伝統的権威主義による安定した社会を望みます。対して新自由主義は、(強い国家だが)小さな政府を掲げ、共同体的関係を破壊する市場の拡大を推進し、社会の安定を犠牲にしても国際競争力強化を重視します。
弱者救済を保守反動派は擁護し、新自由主義は排斥します。だから場合によっては、新自由主義に反対して保守反動派と革新派が一点共闘を組むこともありえます。亀井静香氏が推進した金融円滑化法を民商が支持するというようなことです。しかし現状の大勢としては、今日の主流派である新自由主義派が保守反動派を利用して支配体制を維持しようとしています。新主流派ブロックとでも言いましょうか。
新自由主義構造改革は必然的に格差と貧困を増大させ、社会を不安定化し解決策を持ちません。ビラまき「有罪」などに見られるように、治安体制の強化と反対派への政治弾圧は新自由主義国家の強権性を現していますが、それを補強するものとして保守反動派のイデオロギーが求められています。新自由主義政策の下で分断され疎外された人々が、家族・世間・国家などへ「共同体」として帰属する意識を持つことで、資本主義経済の矛盾から目をそらすことが期待されます。もちろんその共同体意識は、下からの変革的志向を持つ自立的な連帯感としてのそれではなく、天皇制イデオロギーなどの伝統的保守的権威主義としてのそれです。天皇崇拝のような意識は時代とともに低下しているとはいえ、今日では「日の丸」「君が代」はむしろ通常化し、それを拒否するのは特殊な少数派という雰囲気があります。また中国・韓国・北朝鮮などへの嫌悪感を煽る風潮もあふれています。だから一路反動化というような単純な話ではないのですが、「普通の人々」が格差・貧困・分断・疎外に際して、その原因としての新自由主義政策(本質的には資本主義そのものなのだが)に目を向けるより、公務員バッシングやアジア蔑視の排外的国家主義などに乗りがちになり、反動イデオロギーに対して抵抗感が薄れる傾向になることは否定できません。公務員バッシングは既得権益バッシングの中心にあります。既得権益というとすべて悪であるかのように言われています。しかし確かにたとえば「原子力村」の既得権益は悪ですが、既得権益ということで社会保障そのものがバラマキ批判にさらされています。さらには人類が血と汗と涙をもって獲得してきた既得権益が基本的人権です。教員への「君が代」強制は、公務員と基本的人権双方への既得権益バッシングなのです。ここには新自由主義=既得権益バッシングが保守反動と結びつく一例が示されています。
もちろん保守反動派の中には、その本来の性格からして新自由主義を強く拒否する流れもありますが、逆に支配層の主流としての新自由主義派はプラグマティックに保守反動派を利用しようとしているように思われます。たとえば橋本徹氏の「君が代」強制にしても、保守反動のロマン主義的情熱からというよりも、公務員の服務規律の遵守に力点があります。首長(→教育委員会)→校長→教員という上意下達の専制システムの構築こそが重要なのです。その一方で競争(他県と・学校間・教員間など)を重視していることを考え合わせると、ここには「個別企業の中における資本の専制支配(労働者間競争の組織化を含む)」と「市場での自由な競争」とから成る資本主義経済の仕組みとの一定の類似性が指摘できます。つまり「君が代」強制というブルジョア民主主義以前の前近代的現象の底には現代の資本主義システムが貫かれているように思えるのです。そしてまたこのシステムの貫徹において、保守反動イデオロギー(あるいはそこまで積極的に言わずとも、「君が代」強制に疑問をもたないような受動的保守主義による大勢順応的姿勢)が有効に活用されているという関係にも注意すべきでしょう。思想調査という反動的暴挙もその前近代的な野蛮な性格だけでなく、資本の専制支配の反映という性格からもとらえることが必要です。生成期の資本主義はブルジョア民主主義をまとって歴史を切り開いてきましたが、現代の新自由主義段階の資本主義は(場合によっては)ブルジョア民主主義を押しつぶす性格を持ちうることに注意すべきです。前者では資本主義における「市場の自由」という側面が反映されているのに対して、後者では「市場の自由」が喧伝されながらも実のところ「資本の専制支配」の側面が強く反映されているということです。しかもそれが個別資本の中だけでなく政治領域にまで拡張されるとあからさまな政治反動となります。橋下劇場を見ていると、ウェットな保守反動のロマン主義というよりも、ドライな資本の専制支配という性格が強いように、また後者が前者を利用しているように思われます。
本来的には新自由主義派と保守反動派との新主流派ブロックは野合に他なりません。そこでは後者が望むような安定的な社会関係が実現するわけではなく、新自由主義構造改革の矛盾の隠蔽に後者のイデオロギーが利用されるだけです。この野合を生み出すのは、新自由主義的資本蓄積様式の行き詰まりでしょう。経済成長の鈍化に際して、もっぱら搾取強化で利潤を増大させようとする結果、労働者の購買力を減少させ、消費不況を招き、売上不振の中でも搾取強化で利潤を確保するという悪循環に陥っています。こうして資本の現実的蓄積が停滞すると過剰貨幣資本が投機に回されます。新自由主義的資本蓄積とは、アンティ・ディーセントな搾取とカジノ化をその二大特質とする寄生的・腐朽的な現代資本主義の資本蓄積様式だといえます。そこでは富の蓄積と貧困の蓄積の二極化が激化し、人々に対しては搾取強化(首切り・賃下げ・労働強化など)・福祉切り捨て・増税などが強制され、まるで軍国主義時代の「欲しがりません、勝つまでは」状況さながらとなります。新自由主義は人々に何の希望も与えられず、「耐える覚悟と努力」を説教したり、保守反動のロマン主義に逃げたりすることになります。
小泉純一郎氏は「痛みに耐えよ」と言いました。ただし「その先によい生活が待っている」という幻想を抱かせました。もちろんそれは無残に破れ、格差と貧困に社会は荒廃し、「国民生活第一」の民主党へ政権交代しました。しかし民主党政権も構造改革に回帰し、人々に痛みを押し付けています。つまり日本資本主義体制の支配層の到達点としては、いまや資本主義の「売り」であった「人々の生活の豊かさの実現」を放棄するという地点にあるということです。この荒廃を前にして、支配層の一部から、開き直って、人々に耐える覚悟と努力を説教し、はては公然とブルジョア民主主義を破壊する者が現れました。これはまだ支配層の統一的な到達点ではないと思いますが、その人気の如何によってはどうなるか分かりません。
支配層とその中の跳ね上がり者とは強大ですが、上記のように両者とも人々の生活の希望は語れず、さらに後者は自由と民主主義に公然と敵対しています。いずれにせよ客観的にはとてもまともな生活者に支持される内実を持たない連中です。これは今日の日本資本主義(および世界資本主義)の到達点に規定された現状なのです。だからハシズムに対抗するには、その個々の現れに機敏に反撃していくことがまず必要ですが、根本的には政治経済の大きな流れを語ることが大切です。対米従属と財界・大企業奉仕の「二つの異常」の見地をしっかりと踏まえつつ、「社会保障と税の一体改革」という名の一体改悪への対案である日本共産党の「提言」に基づいて、日本経済の変革と社会保障の充実・財政危機の打開について正面から語っていくことが重要だと思われます。
ハシズム克服への基盤的論点 (2012年4月26日)
(1)民主的法秩序の破壊
民主主義の危機としてのハシズム現象を支える政治状況はどのようなものでしょうか。
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いまの日本では、いくら間違っていると言っても、「間違っていてもいいじゃないか。あんなやつらの権利は踏みつぶしてしまえ」という声が通ってしまう政治の現実があります。…中略…日本の場合は、(憲法に…注・刑部)書かれている水準は高いかもしれないが、権利の行使を主張する声が小さい、ないしは、その権利を叩き潰すことが改革だという指導者や民衆がふえていることに、注意が必要です。
小堀眞裕「国会の機能不全を深刻化させる比例定数削減の愚 民主主義の『閉塞』打破に何が必要か」(『前衛』5月号所収)82ページ
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これは実に分かりやすく現状の政治危険の性格を言い当てています。たとえば「憲法を破る」と公然と言い放つ(憲法遵守の義務を負う特別公務員であるはずの)都知事が選挙で選ばれてその地位に居座っているというやり切れない現実とはこういうものなのです。それを次にもう少し分析的に見ていきます。
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言うまでもないことだが、ここに民主主義は、多数決原理や適正手続といったものだけでなく、基本的人権・自由権・平等権や法治主義を含むものである。しかるに、この基本的前提とされるべきものを踏みにじるような強権的な政治・行政手法や反動的な改革・施策が一部の自治体において公然と進められ、マスコミ等も含めて社会的に容認ないし黙認され、さらには、適正な法秩序を構築し護持していくべき司法においても容認される傾向が目立っている。
藤田英典「政治は教育現場に何をもたらしたか <未完のプロジェクト>としての教育の意義を」(『世界』5月号所収)80ページ
言うまでもなく法律や条例の制定は立法府(議会)の権限に属するが、法秩序は当該社会の構成員(議員及び行政府職員を含む)と司法(裁判所)が憲法およびその他の諸法令の理念・原則や諸規定を尊重し遵守していくかどうかにかかっている。その社会的・司法的な構築のプロセスが、近年、上記のような問題領域を中心に司法でも一部の立法府や行政府でも揺らぎ、憲法の基本的な理念・原則や規定を疎かにし歪めていく傾向が目立つようになっている。教育基本法に<心のありよう>を律するような規定五項目を盛り込んだ同法改正や大阪における上記諸条例の制定は立法府におけるその典型例であり、他方、一連の君が代関連訴訟における原告敗訴の判決は司法における典型例である。しかも、そうした傾向が立法府や行政府において目立つようになっている現在、最高法規(憲法九八条)である憲法の理念・原則と規定を護持する権限と責務を持つ司法府が、その権限と責務を適正に果たさないとしたら、この国とその法秩序に未来はないと言っても過言ではなかろう。憲法に立脚するのでなく、立法権・行政権が定め実施している法令や慣行(ポピュリズム)に流されるようでは、司法の権限と責任は地に墜ち、法秩序は混迷し、正義と良識が立ち行かなくなるであろう。そうならないためにも司法には、その権限と責任を自覚し、予断やポピュリスティックな民意なるものに左右されることなく、適正かつ十全な審理を行い、正義に適う良識的でまっとうな判決・判示を行っていくことを期待したい。
同前 87ページ
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確かに近年、民主的法秩序の崩壊は立法・行政・司法の全域に渡って進行してきました。ハシズムはその特異性が目立つけれども、以上のように見てくると、実は<支配層全般の傾向と一定の「民意」との合作で、民主的な法秩序がずっとなし崩しにされてきた>ことの延長線上にある「正統な」現象であるとさえ言えそうです。しかしこの藤田氏の批判は上から目線による歯噛みでもあります。法秩序の破壊者に堕した立法・行政・司法が自然に立ち直っていくことは望めないので、人々の中からいかに現状を克服していくか、人々がどうやって憲法的理念を獲得していくか、という問題設定に移行することが必要でしょう。
(2)選挙制度改革運動からの教訓
ハシズム阻止の闘いは守りの闘いではなく、民主主義を創っていく攻めの闘いにしなければなりません。「人々の無知や勘違いを嘆きながら、悲愴な覚悟でマイナスをゼロまで押し戻す」のではなく、「ひどい政治の中でいよいよ切実な要求実現の闘いを推し進めるためにも民主主義制度を前進させる必要を自覚していくプラスの過程」を形成していく必要があります。こんなひどい政治状況の中でそんなことができるのか。前記の小堀論文と、小沢隆一・西川香子・平井正・穀田恵二各氏による座談会「民意を反映する選挙制度の実現を―選挙制度をめぐる動向と国民の運動」(『前衛』5月号所収)が大いに参考になります。
人々の生活と労働を系統的に破壊していく政治が続く原因としては、小堀氏や藤田氏が指摘し、かつての小泉フィーバーや今の橋下ブームに見られるような、民意そのものの勘違いがあるのですが、たとえそれが正されたとしても民意の反映しない選挙制度の問題もあります。「小選挙区制による政治は、実際には、多数が代表されるわけではなく、相対的最大少数派による少数決にすぎない」(小堀論文、75ページ)のですから、本当のところ、民意の次元において敵は議席数ほど強大ではありません。しかも小堀氏のイギリス政治研究によれば、目的意識の不明確な多数派よりも、それが明確で持続的な少数派のほうが実際に世の中を動かしてきました(84ページ)。今日の日本において、まだまだ小さいながらもそうした萌芽を感じさせるのが選挙制度改革の運動です。身近な経済要求ではなく、民主主義制度そのものを問題にし、運動化するのは非常に難しいと思われるのですが、それに反して、今のところ衆議院比例定数削減を阻止する成果をあげている運動からは多くのことを学ぶことができます。
ちょっと考えると、二大政党にとって有利な比例定数削減は、彼らがその気になればすぐにでも実現しそうです。しかし実際のところ、国会での「衆議院選挙制度に関する各党協議会」では、小選挙区制に問題があり、民意をより反映する選挙制度へ改正すべきだ、ということが、民主党を除いて、共通認識になっています(『前衛』5月号上記座談会、53ページ)。小選挙区制下で小泉チルドレンとか小沢ガールズといったバブル議員が大挙して誕生し、自民党議員からさえ「政治の劣化」(同56ページ)という言葉が出てくる状況になっています。小沢隆一氏は「小選挙区制が、民意をうけとめ、民意を政治につなげていくうえで、問題の多い選挙制度だということが実感をもって各党のなかで語られるようになった」(同前)と評価しています。本当だろうか、と思うのですが、たとえば自民党の加藤紘一氏も「有権者にとっては、候補者に意見の対立がなくなり選択肢が狭まるうえ、獲得票数の議員配分に納得感がないなど、弊害ばかりが目立っている」(同65ページ)と具体的に述べているのだから、それなりにきちんと考えられた上での実感となっているのでしょう。
私たちからすれば、本質的には、もともと人々の利益に反ししたがって民意に逆行する政策を大枠として掲げている保守政党の議員が民意を尊重するというのは矛盾に見えます。しかしもちろん彼らも選挙で選ばれ民主的な議会のルールにのっとって活動する(実際にはしばしばそれを破るとはいえ)わけですから、その意味では民意を気にするのは当然です。バックにある選挙区に思いをはせれば、消費税増税に簡単に賛成するわけにはいかない。さりとて政策理念としては反対する立場にない彼らの迷走は、しばしば「政局」に重要な影響を与えます。私たちは「政策抜きの政局」を厳しく批判しますが、こうして見るとあながちそこには積極的意味がないわけでもなさそうです。こういうときには(いつもは政局報道にしか能のない)マスコミが右側から「政局批判」を展開し「正しい政策」に基づく決断を保守系議員たちに求めます。「社会保障と税制の一体改革」(=社会保障削減と消費税増税)が議論される今国会でも、スリリングな展開が予想されますが、私たちが馬鹿にしがちな「政局」を究極的に左右するのは民意であることを再確認して、世論の獲得に力を入れることが重要です。
とはいえ、これまでの大勢としては、保守政党の新自由主義政策がかなりの程度貫徹し、構造改革による人々の生活と労働の蹂躙が続き、民意が無視され、閉塞感が充満するという惨状に帰結しました。これこそが「政治の劣化」の本質です。そうした中でも突出した徒花的現象としてバブル議員らによる「政治家の劣化」があるのではないでしょうか。人々が主人公という民主主義の内容が破壊されつづけてきただけでなく、公正な選挙制度という民主主義の形式も小選挙区制によって破壊されました。というか、後者によって前者に拍車がかけられてきました。「政治の劣化」とは本来この両者から来ていますが、民主政治の内容を問わない次元においては、その形式の誤りは、「政治家の劣化」などを通して、保守政治家においても一定の良識があれば実感されるということでしょう。民主政治の内容を決定すべく、民意獲得を目指した政策対決が公平に実行されるためには、公正な形式民主主義、なかでも民意を正しく反映する選挙制度が必要条件となります。その一点で広範な政治家の合意が形成されることは(「政治の劣化」の本質に対する見方は分かれても)たいへんに意義深いと言えます。
以上のような国会議員次元での良い変化は歓迎すべきですが、私たちにとって本質的には人々の中での変化がいっそう重要です。座談会のハイライトもそこにあります。「議員は自分たちにとって役に立たないから定数を削減した方がいい」というポピュリズムが席捲する中で、比例定数削減攻撃を許さない運動をどう作ってきたのでしょうか。
まず指摘されるのが、守りから攻めへの方針転換です。単に「比例定数削減反対」を強調するだけでなく、運動の重点を「小選挙区制を廃止して、民意を正しく反映する選挙制度に変える」方向に転換したことが重要でした。これで問題の全体像と本質がはっきりしました。次いで「憲法の原則、議会制民主主義のあり方から、はたすべき議員の立場、国会の役割」などについて「運動の側からも接近」(「座談会」58ページ)したことが、比例定数削減(=小選挙区制の比率を高めること)の意味を切実に明らかにしました。
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まず国民の要求、労働組合や民主団体の構成員の要求が国会に届いているかどうかを考えることから議論をすすめるという工夫をしました。そこでは今の国会は、私たちの要求を受けとめていないということが明らかになり、その原因が小選挙区制にあることも明らかにされました。そして、さらに比例定数を削減し、その小選挙区制の比率を高めれば、いっそう国民の声がとどかなくなるという議論の筋道を提起したのです。
同 57-58ページ
消費税増税反対を掲げてたたかっている運動では、アメリカ独立戦争のスローガンになった「代表なくして課税なし」というストレートでかつ根源的な問いかけに迫っています。それぞれの団体や構成員のところで、経済要求や制度要求とは異なる次元の課題である民主主義の問題が、自分たち自身の問題として議論がされはじめたということです。そういう意味ではこの一年半で運動が新しい段階に来ている、最初のむずかしさを乗り越えてきたということが言えるのだと確信をもっています。
同 58-59ページ
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運動主体の取り組みはこのように前進したということですが、それでは一般の人々の反応はどうでしょうか。ここで重要なのが運動にとっての客観情勢の変化です。当初は、議員定数削減支持のポピュリズムが支配的な中で署名が広がりませんでした。しかし2009年の民主党への政権交代に対する期待感が、2010年末あたりから同政権の裏切りに対する激しい怒りに変わったところで、「こういう政権党が生き残るためにおこなうのが比例定数削減なんだということが伝わ」(59ページ)り、宣伝の雰囲気が変わり署名も伸びました。「選挙制度の問題を入り口にもしながら、苦しくて生きていけないこの社会を何とかしてほしいという声が宣伝に集まってきている」(60ページ)ような状況にまでなっているというのです。こうして以下のような運動の総合的な好循環が現れています。
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守りから攻めへと運動が世論をおしあげ、それが国会の動きにつながる、世論が選挙制度の抜本的改革を要求する、こういうなかで運動のスローガンも発展し、取り組みも広がる、それがまた国会の動きに跳ね返る。こうして当初あった運動の難しさも乗り越えていったのではないでしょうか。 同 60-61ページ
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以上のように、この座談会は運動の前進と理論の深化との相互関係を豊かに語ったもので、非常に重要です。しかしあえて醒めた言い方をすれば、それは先進部分の実感としては確かなものでありながらも、十分に人民的広がりを持ったものだとまではいえないでしょう。選挙制度抜本改革の世論が増えてきたことは画期的ですが、議員定数削減ポピュリズムを克服するまでには至っていないと思います。この運動の貴重な教訓をさらに理論化し、様々な諸運動へと意識的に広げ実践していくことが求められます。
さらに座談会から浮かび上がってくる民主主義の本来のあり方を、小泉・橋下ポピュリズムと対比させることで、それを克服していく方向性を考えてみたいと思います。日本では「ヨーロッパとの比較で見ると新自由主義がかなり強烈に一人ひとりをつかまえ」ており、「一人ひとりが孤立化させられて」(70ページ)自己責任論が強固に存在しています。そうすると「国民一人ひとりが自分の身近な人たちと一緒に、いろいろな意見交換をするなかで考えを持ち、声を集め、それでもって政治的な意思をつくりあげていく」(71ページ)あるいは「議会を中心に、いろいろな民意を寄せ合って、議論してすすめる政治の大切さをしっかりと感じて」(67ページ)いくといったことができにくくなります。その上さらに貧困の中での忙しさもあって、じっくり考え話し合うという民主主義の重要な過程をショートカットするところに、興味本位で選挙に投票し、後はトップに任せるという、劇場型政治・観客民主主義・お任せ民主主義が成立します。新自由主義・孤立化・自己責任論が、福祉削減・労働規制緩和などといった政策内容だけでなく、民主主義破壊をも規定しているのです。これを克服する最も確実な方法は、座談会でも示されたように、諸要求の実現運動において、選挙制度を含む民主主義的な政治過程全体の重要さを実感し独自に追求していくことです。さらに言えば、必ずしも諸運動にかかわっていない人々も多いわけですから、新自由主義・自己責任論といったものを克服するイデオロギー闘争をあらゆる場面で展開していくことが必要です。ただ今日のマスコミ状況では、全国的レベルでそうした場を確保することは困難であり、インターネットの活用など工夫が求められます。
(3)自己責任論の検討
ハシズムは極端な自己責任論から成ります。高木隆造氏(宮古市・63歳・教員)は「自己責任」という標語がバブル崩壊後に出てきたときの感触から語り始めます(「読者談話室」18-19ページ、『世界』5月号所収)。
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僕は、「自己責任」とは、困っても誰も助けない、生活基盤を奪われても当然とする意識や規範と感じ取った。危ない時代がやってくるのではという不安が訪れた。「自己責任」の上にその責任を明らかにする評価やルールが生まれてきたら「連帯」なぞ軽く吹っ飛ぶのではないかという不安でもある。
…中略…
橋下氏の打ち出す教育改革はこうした時代の流れに乗ったものであり、この四〇年間の流れの集約点でもある。人々の連帯を崩して分断し、それぞれを競わせ、敗者を打ち捨てる。この「格差社会」の論理の申し子として橋下氏の改革も繰り広げられていると認識することが肝要である。がんばれない人々を蹴落とす「がんばろう日本・東北」ではない、「助けあおう人々」、「格差をやめよう、選別をやめよう、人々」である。
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実に的確な分析です。ただし自己責任論が広く受容されるのは原理的な根拠があり、「それへの意識的な批判」や「格差と貧困に対する是正の施策」が定着していない日本社会でそれが跋扈するのはむしろ当然ではないかと私は思います。いささか荒っぽい図式となりますが、経済学的に原理的に考えてみます。
前近代的な共同体社会を徐々に解体して、商品経済社会が生まれてきたとき、人々は独立・自由・平等を獲得することで自己責任を担う基盤を確立し、自己責任において生きていかなければならなくなりました。今日もまた商品経済社会である以上、人々は日々自己責任において生きており、自己責任論を自然なイデオロギーとして受容しています。
しかし商品経済社会の全面的確立は資本主義経済社会の成立でもあります。資本主義経済の本質は資本=賃労働関係という搾取関係です。労働者は剰余労働を搾取され、必要労働としての賃金は日々何とか生きていけるだけの水準でしかありません。病気・事故・失業等々、様々な自然的社会的要因で苦境に陥ったとき、自己責任を担えるものではありません。
つまり商品経済は日々人々に自己責任論を受容させるのですが、資本主義的搾取関係は実質的にその実行を不可能にしており、ここに資本主義経済(商品経済を土台とした資本=賃労働関係の搾取経済)の一つの矛盾があります。それを緩和するために現代資本主義においては社会保障制度があります。だからこそ社会保障分野では自己責任論をめぐる攻防が激しく展開されます。こうした資本主義経済の現実の矛盾は、階級闘争とその妥協による一時的な「解決」をいつも繰り返しており、その際のイデオロギー闘争の重要なテーマが自己責任論となっています。
自己責任論には強固な基盤があるのでその克服は難しいのです。しかし抽象的理論においては、資本主義経済の土台は商品経済の全面化となっていますが、実際の経済においては公共的領域などに非商品経済は広範に存在しています。また今回の大震災に際していわれた「絆」とは非商品経済的行動様式を象徴する言葉です。資本主義的商品経済といえども歴史貫通的な経済の共同性を免れるものではない以上、商品経済的にうまくいかない部分(近代経済学的には「市場の失敗」と呼ばれる)は、政府・自治体なり「市民社会的公共性」なりの非市場的な直接的共同性で補っていく必要があります。現代資本主義は「小さな政府」論からの攻撃にさらされているとはいえ、たとえば保育のように個人生活そのものが社会化され公的に担われる部分が拡大してきた等々、福祉国家的要素が大きくなっており、そうした非商品経済的領域を起点に自己責任論を点検していくことができます。
自己責任論についての原理的関係は以上のように考えますが、もちろん今日の問題を考えるには様々な要因を追加しなければなりません。しかし橋下氏は、新自由主義グローバリゼーション下の格差・貧困社会を所与のものとして議論を展開しており、その前提そのものの誤りを衝いていかなければ、勝負になりません。間違った土俵設定に乗らないためには原理的考察から出発することが必要です。
なお自己責任論が特に喧伝され始めたのは、私の記憶では、2004年にイラクにおいて、高遠菜穂子・郡山総一郎・今井紀明の三氏が現地武装勢力によって誘拐され解放されるという事件があったときでした。このように自己責任論は基本的には経済用語ですが初めは政治用語として利用されました。危ないところへのこのこ出かけていったやつが悪いというのです。しかしそもそも現地の日本人にとって危ない状況を作ったのは日本政府でした。2003年のアメリカのイラク侵略を支持し、翌年陸上自衛隊をイラクに派遣しました。従来、中東の紛争にかかわったことがないため、この地域では比較的良好だった対日感情を一挙に害したのです。高遠さんは何年にもわたって現地で人道活動を続け必要とされてきたのに、後から起こったアメリカの侵略戦争と自衛隊の派遣によってとんでもない被害を受けたのです。悪いのは日本政府であり、それを隠すために高遠さんらに「自己責任」を押し付け、世論もまんまとそれに乗せられ、自己責任論バッシングの嵐となりました。このときほど日本人として恥ずかしいことはありませんでした。
拘束されていたとき、高遠さんはインドで学んだ非暴力主義を武装勢力に向かって、しばしば激しい口調で説いたそうです。すると相手は反発するどころか、もっと知りたいと近寄ってきたというのです。現地での人道活動の実績もあり、彼女らは理解されてやがて解放されました。まさに自分自身で身を守って「自己責任」を果たしたのです。それだけに本来話し合って理解できる人間同士を引き裂いた侵略戦争の実行者・加担者の責任は限りなく重い。
この経過からもわかるように、たとえ自己責任論に経済原理上の根拠があるとしても、それは政治的・恣意的に利用されてきました。ハシズムの構成要素としての自己責任論に負けてまた恥ずかしい思いをするのはごめんです。
(4)教育「改革」と経済像・民主主義像
閑話休題。橋下氏の教育「改革」は新自由主義グローバリゼーションに従属しているのだから、それを批判するのに憲法の幸福追求権や生存権を提出する場合も、その土台としてのオルタナティヴな経済像をあわせることが必要です。経済要求から発する競争と強制の教育像に対して、単に経済からの教育の分離を主張するのは、誤った機械的反発の潔癖主義です。経済というのは何も競争と利潤追求一本槍ではなく、人間尊重の経済もありえます。そうした土台にふさわしい・競争と強制ではない教育のあり方を提起するのが、橋下教育「改革」への根本的な批判となるでしょう。
橋下教育「改革」への言及はないけれども、実質的には、その貧困な人間観・社会観・教育観へのオルタナティヴを提起しているのが、佐貫浩氏の「今日における教師の専門性のあり方を考える」(『前衛』5月号所収)です。
「学校も多くの親もが、個人の競争的サバイバルにとらわれて、子どもたちに学力競争に勝てというメッセージを送り続ける」(196ページ)という現状こそが橋下氏の思考回路と方針にぴたりと一致しています。しかし今日の労働状況は生存権を保障しない非正規労働が増大しており、学力競争はその中で「若者を正規雇用と非正規雇用へ配分する冷酷なセレクションの役割を果たしてい」ます(195ページ)。こんなひどいイス取りゲームを強要して、「生存権保障も、未来への希望も、自分の学力の『自己責任』でつかむもの、そこでの絶望もまた『自己責任』というメッセージ」を送ることが「いかに子どもたちを生きにくくしているか」(196ページ)に気づかねばなりません。佐貫氏の以下の怒りには深く共感します。
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競争で勝てない「学力」を理由に、生存権を保障できない非人間的条件の労働を割り当てる現代日本の人権剥奪こそが、最大の社会的不正義なのである。 198ページ
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新自由主義グローバリゼーションの生み出す現状を所与のものとする限り、橋下メッセージの強い呪縛にとらわれます。その前提を疑う社会観を押し出すことが重要なのです。先に自己責任論の一般論として、資本主義的搾取下では、自己責任の実現が不可能だと指摘しました。佐貫論文では、現代日本資本主義における新自由主義的労働政策による過酷な現状によって、自己責任の実現はさらにいっそう不可能であるとされます。このように見ると、自己責任論批判が原理から出発して具体化されていると言えます。
佐貫氏は学力におけるオルタナティヴを提起しています。「知識基盤社会」という考え方に立つ学力観が流布されていますが、これは「グローバル戦略に立って世界を制覇する企業戦略の側から求められる労働の質と性格」(196ページ)に規定されたものです。それは社会を支えるのに不可欠な普通の大量の労働に対する積極的な位置付けや関心を欠いています。そしてグローバル資本の世界戦略に資する労働力だけが「正規労働」基準とされ、この基準「以下」は非正規労働力とされる差別が正当化されます。しかし今求められるのは「知的競争で他者を打ち負かさなくても、普通の能力でもって、人間的な労働生活を送り、未来社会の建設に参加していくことができるという未来社会像」に立って「全ての子どもが持つ知的力、社会への貢献、誇りある社会参加への信頼と期待を子どもや若者に向ける」(197ページ)ような学力観です。それは、<格差と貧困・投機にまみれた新自由主義グローバリゼーションの経済像>へのオルタナティヴとしての<持続可能な内需循環型地域経済を基礎とする国民経済像と世界経済像>から生まれる学力観です。それは具体的にはたとえば「第一次産業や、ますます拡大する福祉労働やケアサービス、環境保持のための労働、地域循環型経済、伝統的地場産業の維持、不可欠な工場現場労働、地域生活を維持していくための各種の公務労働をどう持続可能な社会の創造に向けて豊かにつくり出していくか、その担い手に求められる専門性や地域理解、人間理解をどう高めるのか、そういう連帯感、協同社会を担える共感力や表現力、道徳性をいかに育てるかという課題意識」(同前)を前提としています。
繰り返しになりますが、橋下「改革」は人々が現実に巻き込まれている競争から生まれる意識に直接的に依拠しているので強い共感を獲得しており、それを根本的に克服するには、あるべき社会像を対置して、橋下氏の社会像のみすぼらしさをはっきりとあぶり出さねばなりません。その際、あるべき社会像は、上記の持続可能な内需循環型経済像を基礎に日本国憲法の自由・民主主義・基本的人権を全面的に押し出していくことになります。格差と貧困を解決できない、というかそれを前提とした橋下社会像を徹底的に叩くべきです。それとともに、憲法を土台とする民主的法秩序を「タブー打破」の姿勢も勇ましく廃棄しようとしている挑戦者を、いわば大人の立場から退けねばなりません。
タブー打破といえば、いかにも弱者の立場から強大な悪を倒すがごとく見えますが、ハシズムにおいて打倒すべきタブーは民主主義・基本的人権という「既得権益」です。そのように倒錯した社会像に人気が出るのは、私たちの社会において民主主義や基本的人権がタテマエに過ぎず偽善と思われている側面があるからでしょう。日ごろからの要求運動などによってそれらを実質化していくことが社会変革の堅実な道です。それとともに橋下氏が次々に繰り出すポピュラーな俗論をていねいに論駁し、情理を尽くして人々に納得してもらえるようにすることが必要です。
「偽善を指摘する」という行為は、とても物事の本質を衝いているようで、粋でカッコよく、高尚なことのように見えることがあります。しかし多くの場合それは錯覚です。たいていそれは偽善に代わる真の善を提起できません。結局そうすると、現実の悪をただ追認するのみならず、それを偽善よりまだマシなものとして美化・粉飾するだけです。その行為はだいたいにおいて自己満足的かつ保守的なのです。日本にはびこる反共・反人権週刊誌的シニシズムはハシズムの温床です。たとえ橋下氏と一部週刊誌が醜い争いを展開しても同じ穴の狢の争いに過ぎません。
どうも大雑把な話に流れてしまいました。橋下教育「改革」については中嶋哲彦氏の「収奪と排除の教育改革 大阪府における私立高校無償化の本質」(『世界』5月号)などが具体的に批判しています。中嶋氏は、「生徒をたくさん集めた高校を勝者と見なす」というばかばかしく単純なルールを紹介して、新自由主義改革の空虚さを本質的に指摘しています。これを引用して今回のハシズムの検討を終わります。
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新自由主義改革は、社会制度それぞれに固有な原理やそれらに内在する複雑な事情に精通していない政治家や一部の官僚が、現場で働く人々を単純かつ単一の論理で一元的に制御するシステムを構築しようとする試みを内包している。専門家やその意見を退ける一方、「数値」(数値目標、数値による評価)が重用されるのはこのためであろう。もちろん、その過程で尊重すべき原理や配慮すべき事情とともに、最も大切にされるべき価値=人間が脱落してしまう。 96ページ
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(5)追伸
迂遠なことばかり長々と書き連ねて、今月はもう終わりにしようと思ったのです。ところが4月24日付「しんぶん赤旗」に橋下「改革」批判の特集が載って、想定内とはいえ、悪政・圧制・失政および暴言のオンパレードで(この4年間をまとめると本当にすごい。橋下センセ、さすが)、開いた口がふさがらず、もう少し書きます。これだけの内容なら、とっくの昔に失脚していてもよさそうだけれども、おそらく相変わらず人気はあるのでしょう。今は原発再稼動反対の代表者面してテレビに出ているし…。そこで人気の原因の一つ、俗論について若干考えてみます。
4月12日付「朝日」の「声」蘭に一般の投書に混じって、作家の赤川次郎氏が橋下批判を展開していました。府知事時代に文楽を始めて見て、こんなもの二度と見ないと言い放ち、落語は補助金なしでやっている、とも言って文楽の補助金を削減した件です。大阪が世界に誇る文化を理解できずに、自分の価値観を押し付ける橋下氏の姿勢を赤川氏は厳しく批判していました。もちろん私は拍手喝采ですが、ひょっとすると多くの人々は橋下側かもしれない、とも思いました。文楽は優れた伝統文化なので補助金を出す、というのは「本当はムダ遣いと思うけど、反対できないタテマエだからしょうがないか」と思っていた人がけっこういるかもしれません。するとそういう人たちは「タブー破り」の橋下氏の「わかりやすい」施策に「やっぱり自分の実感の方が正しかったんだ」と喜んでいるかもしれません。特にワーキングプアの若者などは。首長がこんな姿勢を押し通せば、当該自治体はたちまち文化不毛の地と化しますが、それをストップするのは、選挙を別とすれば、住民自身の文化力でしょうか。ここでも要求運動を活発にするしかありませんが…。
「赤旗」の特集にも「決定できる民主主義」という橋下氏のスローガンが載せられていました。もちろんこれは実際には彼にとって独裁政治の婉曲な表現に過ぎませんが、保守政党やマスコミなどが便乗しています。確かに決定できない状態は民主主義といえども異常です。政治の停滞は閉塞感を強めます。しかし何でも決定できればいいわけではありません。今、政府や国会が「決定できない」原因を考えてみることが必要です。何を決定したいのでしょうか。消費税増税、TPP参加、原発再稼動…。要するに人民の利益を害し、民意に反する決定です。さすがにそれを簡単には決定できないでいる。だからこそ支配体制に奉仕するマスコミは声高に「決定できる民主主義」を主張しています。「選挙が恐くてどうする。それで良識ある政治家か」というわけです。支配層にとっては橋下人気に便乗して借用したいスローガンなのでしょう。
とはいえ、橋下氏は原発再稼動反対を唱えています。どれほど本気なのかはわかりませんが…。これでまた人気をつなぎ、賞味期限を延長しそうです(その悪政が人々の生活を侵食する速さとの微妙な兼ね合いがありますが)。支配層とすれば橋下氏は「取り扱い注意」ですが、今は利用しがいがあり、何より世論がまともな社会進歩の方向に向かわないように、ニセの争点を提供し続けてくれる得がたい人材でしょう。
ハシズムをテーマにした新聞の切り抜きがたまってきたので、その内に読み直して(これまでのような迂遠な内容ばかりではなく)具体的な問題も考えてみたいと思います。
ポピュリズムについて (2012年5月29日)
<1>ポピュリズムという言葉の問題性
ここで取り上げるのは、政治学の用語としてのポピュリズムではなく、昨今マスコミなどで使用されるポピュリズムです。したがって確たる定義があるわけではなく内容もまちまちです。様々な用法には共通する点がある一方で大きな違いもあります。それらがみなポピュリズムと言い表されることであいまいになることもあります。私の恣意的な見方かもしれませんが、その意味や用法について一定の分析を加えることで、議論の混乱を防ぎ、特にハシズム批判の前進を図りたいと思います。
今日ではポピュリズムはおおむね否定的な意味で使用されます。それで批判されるべき対象の性質がどのようなものであるかもさることながら、批判する側のポピュリズム像を通して逆に批判者のイデオロギーも浮き彫りにされます。
まずポピュリズムという語を発した瞬間に「上から目線」は免れません。「無知で情動的で目先の事柄にとらわれ操作されやすい」といった大衆像を前提に、それに媚び人気を取ろうとして無責任な政策を掲げるポピュリストの言動を批判する、という文脈でポピュリズムは語られます。この「上から目線」への反発からポピュリズム批判への反批判、つまりポピュリズム擁護論も登場します。それは、批判者が人々の生活と心情を理解しようとせず、したがって民主主義から外れていることを衝きます。またそれは、人々がポピュリストに期待する変革願望を支持するとともに、人々の政治水準を容認し、そのように「上から目線」を克服した姿勢が真に民主的であると主張します。
<2>ポピュリズム批判の二類型
ポピュリズムに対する批判と擁護のこのような概観はさらに分析する必要があります。私見ではポピュリズム批判には二類型あります。一つは経済論であり、いわば右からのポピュリズム批判(体制派的批判)です。それは新自由主義グローバリゼーションを前提とする「経済整合性論」の立場から、「混乱を招く無責任な経済政策」を批判します。たとえば消費税増税批判への反批判がその代表です。「どうしても必要な消費税増税を回避する、人気取りの屁理屈を使命感を持って論破する」というたぐいで、マスコミを支配しています。またそこでは、最近のフランスやギリシャの選挙について、緊縮政策の必要性を理解しない人々が、無責任なポピュリズムの左派を勝利させた、という論調が中心です。こうした経済ポピュリズム批判には多国籍企業・銀行や投機資本への批判が欠落しており、それらの野放しは前提にして、「グローバリゼーション下では政策の幅が狭いのだから、汝らにアメなどやれぬ」というご託宣を垂れます。人々が耐え忍ぶのはやむを得ない、それを理解しないのが悪い、我慢しないと破滅だぞ、という牢固たる現体制擁護とそれによる脅迫とが何の疑問もなく語られています。この立場は、「経済秩序維持への責任感」は強く持っていても、人々の生活への想像力を欠いており、それを破壊することには無感覚です。というよりも経済の破滅を防ぐ「苦い良薬」を処方することで無知・無力な人々を守ってやっている、と認識しているのでしょう。しかし逆立ちしていないまっとうな頭で考えれば、生活を犠牲にして初めて成立する経済秩序を墨守する必要があるのか、という疑問が生まれます。生活破壊は決して宿命ではなく、それをもたらす政治経済を変えることを発想の起点にしなければなりません。
体制派からの経済論としてのポピュリズム批判に関連して、利益誘導型政治批判があります。これはもっともな側面がありますが、その主な眼目は新自由主義構造改革の立場から、守旧派のみならず福祉国家をも叩くことであり、無駄な公共事業等を批判するだけでなく、社会保障についても「バラマキ」呼ばわりします。こういう議論に部分的な正当性はありますが、その本質は、人々の生活に対する無感覚を基礎とする新自由主義体制擁護論であり、その立場からの経済整合性や合理性の追求に過ぎません。
ポピュリズム批判の第二類型は政治論であり、左からのポピュリズム批判(人権派的批判)です。これはたとえば橋下徹氏の「君が代」強制や労組・公務員バッシングあるいは思想調査などへの批判です。そこには、思想信条の自由や労働基本権などを公然と侵しているのに、橋下氏が依然として高い人気を維持しているということ、つまり多くの人々が人権や民主主義を軽視している現実に対する強い危機感が見られます。これはもちろん正当な観点ですが、そのような現実を招いた原因を考え、「上から目線」を克服することが課題となります。
<3>批判対象としての人々の意識
二つのポピュリズム批判は上記のように実際には批判対象が違うのですが、それでも大衆の意識たとえば意見・感情・要求などに対する批判という点では共通します。この意識は生活実感から来るものであり、ポピュリズム批判がそれを否定することには当然強い反発があります。ここをまず理解することが大切でしょう。その上で上記のポピュリズム批判の二類型を念頭に、生活実感から来る人々の意識を政治・経済との関係から見ることが必要です。
(1)人々の経済要求
経済面から見れば、今日の資本主義において労働者は搾取され、自営業者や中小企業家の多くは営業の困難に見舞われています。さらに増税・福祉削減なども加わって、襲いくる生活苦を前に様々な経済要求が噴出します。それは意識するしないにかかわらず、憲法13条の幸福追求権や25条の生存権に基づく要求であり、無理な要求でも単なる理想論でもありません。少なくとも高度に発達した資本主義経済においては階級闘争と適切な経済政策によって実現可能です。たとえば消費税増税反対という、今もっとも切実な課題に対しては、世論の支持があり、日本共産党は現実的で抜本的な政策提言を発表しています。つまり人々の生活実感から発する経済要求の多くはその切実さからも、法的根拠からも、実現可能性の点でも、何らポピュリズムとして非難されるような無責任なものではありません。
(2)人々の政治意識
これに対して政治面からは深刻な問題が浮かび上がってきます。「君が代」強制、思想調査、公務員・労組バッシングなど、一連の反人権・反民主主義的施策、あるいは大阪府・市における住民向け施策への予算大幅カットにもかかわらず、依然として橋下氏への支持が高く、週刊誌等が「橋下総理実現か」などと騒ぎ立てている状況があります。ここには明らかに日本政治における民主主義の未成熟と人権への無理解が露呈しています。私たちはハシズムを外在的なものとしてではなく、普通の人々が作っている社会の病理が生み出したものとして捉える必要があります。
もちろんハシズムは二大政党政治の危機に際して支配体制の維持を図るという役割を客観的には果たしています。対岸のいわゆる1%の側の事情を見るとそういうことですが、ひるがえって私たち99%の側を見ても、それを歓迎する社会的状況があることを直視せざるを得ません。橋下氏の施策がまだよく知られていないという要素もありますが、それだけではありません。たとえば、政府に批判的なビラをまくと「有罪」になるという政治状況が(司法も含めて)存在しても大問題とならない、という驚くべき反民主主義的な世論状況がもともとあります。すでに人権や民主主義が空洞化し「タテマエ」に過ぎなくなっている状況がかなり浸透しているということです(もちろんそれは一面であって、人権や民主主義が定着している部面もあることは反撃の拠点としても重要であり看過してはなりませんが)。
そうした中で橋下氏などが教員・公務員・労働組合などを「既得権にしがみつく恵まれた層」として人権破壊の攻撃を加えることが、ワーキングプア層を初め広範な人々から歓迎されています。本来、人権や民主主義が実質化しているならば、すべての人々がその恩恵を受けるはずですが、現実はそうなっておらず、かえって空洞化したそれらは「偽善」として捉えられます。学校の社会科で習ったことは現実の厳しい競争社会では無力であり、そんな偽善よりも橋下氏の言う競争に負けない努力のほうが本物だ、といった感覚があるのではないでしょうか。
競争社会でのストレスや貧困は経済的のみならず精神的余裕をも奪い、じっくりと政治を考えることを難しくしています。そうした中で瞬発力が物を言うテレビとネットにおいて、橋下氏のような人が感覚的な俗論で大いに人気を博し、その公務員バッシングなどで溜飲を下げる人々が増えています。橋下府政のリストラで失業した非正規労働者が、もっぱら正規労働者との差別に怒りを向け、逆に橋下氏には期待する、というインタビューを読んだことがあります。確かに身近な差別はよく実感できますが、政治の大きな誤りはかえって見えにくいということでしょう。そのように思う人の短慮を指摘するだけでなく、身近な社会で人権と民主主義が空洞化していることを問題にしなければなりません。実際、橋下氏は競争を大いに推奨し格差を是認し非正規労働を拡大する政策を掲げているのだから、失業者・ワーキングプアなど貧困層は怒らなければならないのですが、そうなってはいません。とにかく何か困った世の中をひっくり返してくれるヒーローに期待するということになっています。深い閉塞感の中で、無理が通れば道理が引っ込む。派手な邪道が、真理を求める正道を見えなくさせています。
こうして反人権・反民主主義ポピュリズムが成立します。日本社会には観客民主主義・おまかせ民主主義がもともとあり、それは独裁容認の温床となりえます。その上に、司法をも含めた大きな政治部面でも身近な生活次元でも、人権と民主主義の空洞化がじわりじわりと進み、さらに貧困化と情報化があいまって、反人権・反民主主義ポピュリズムを促進しているので、独裁政治への拒否感が薄らぐ可能性が高くなります。
「現代は情報化の時代であると言われる。情報化の時代は短絡の時代である。だが、短絡は科学の敵であり、ファシズムの友である」(高島善哉『時代に挑む社会科学』/岩波書店、1986年/まえがき)。情報化そのものは社会進歩の結果でも原因でもありうるのですが、利潤追求第一主義のもとでは効率至上の拙速が支配的であり、その中ではそれは人々を短絡させファシズムへ向かう要因となりえます。ツイッターを駆使し70万人以上のフォロワーを抱える橋下氏の出現を高島氏は予言していたかのようです。まさに私たちの眼前には「理性、判断力はゆっくり歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」(ルソー)という状況があります。閉塞した時代においてゆっくり歩くことがいかに大切か。人権・民主主義の空洞化がじわりと進行するのを背景に、急速な貧困化も進み、厳しい生活実態に対して打開へのあせりが充満しています。ここで、強力なリーダーによる「がらがらポン」という無内容な期待に対抗するためには、地道な要求運動を具体的に進め、そうしたじっくりした内容ある政治体験を広げていくことが必要であり、それが遅く見えてももっとも確実な方法です。そのような中で人権・民主主義の意義は浸透していくのであり、「憲法を生活に生かす」という古いスローガンの驚くべき新鮮さを今また実感させられます。ハシズムや今後も繰り返し出現するであろうその亜流を草の根から絶やしていく取り組みが必要です。
<4>考察のまとめ
ポピュリズム批判は、人々の意識とそれへの批判という関係の中に生じる現象ですので、それを図式化してみます。
◎A図
ポピュリズム批判→人々の意識・ポピュリズム
ポピュリズム批判の二類型という観点から、この現象を分析すると次のような構図になります。
◎B図
体制からの経済ポピュリズム批判 → 人々の経済要求
人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム
これを客観的な階級対立にあわせて、人々(左)VS体制(右)の本質的対立図式に組み替えるとこうなります。
◎C図
人々の経済要求 ← 体制からの経済ポピュリズム批判
人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム
ポピュリズムとポピュリズム批判という対立図式で普通考えられているのは漠然とした現象としてのA図です。これを分析するとB図になります。B図は次のように解釈すべきだと思います。……第一に、批判する側は明確に違う二者であり、第二に、批判される側は実際には渾然一体となった人々の意識なのだが、それは二つに分けることが可能である。…… C図はさらに本質的関係を示しており、「人々の経済要求」と「人権派からの政治ポピュリズム批判」との同盟、逆に「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との同盟の可能性を示唆しています。つまり客観的階級対立が、意識・政策・運動を規定するということです。
支配層の利益からすれば「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との同盟は必然と思われます。しかしもちろんそう簡単ではありません。前者は支配層の主流派であり、「(ブルジョア)民主主義」の正統をもって自認しているでしょう。対して後者は、客観的には支配層の利益を代表しているとはいえ、主流派への挑戦者的姿勢を「売り」にし、「独裁」の本音も隠さない跳ね上がりものの傍流です。両者の体質の違いは相当なものですが、後者を代表する橋下氏の人気に押されて、このところ主流派の方から擦り寄っているような状況です。その上、もともと主流派の二大政党の行き詰まりは深刻で人々の支持を失っており、支配層の利益を反映する政策の実現には、実際のところ「独裁」が必要となっています。そこでそのマイルドな表現としての「決定できる民主主義」(橋下氏)に主流派も便乗しています。マスコミもそれを大いに推奨しています。ちなみにマスコミの常套句として、首相を初めとする政治家に向かって「もっとリーダーシップを発揮せよ」とか「もっとていねいに説明せよ」という言葉が目立ちます。リーダーシップとか説明とかはそれ自身はよい意味の言葉です。しかしマスコミがそれを持ち出す文脈に注意が必要です。政府の政策は民意に反するがゆえに人気がありません。さすがにその実行は躊躇せざるをえません。そのとき首相らに対して政策の強行を叱咤激励する言葉が、リーダーシップと説明責任なのです。このようにして本来決定してはならない政策を決定強行するのが「決定できる民主主義」です。悪い政策に必要なのは、リーダーシップでも説明責任でも決定でもなく、撤回なのですが、それを見えないようにするのがこれらの美辞麗句です。「決定できる民主主義」は、窮地に陥った支配層主流派に対して橋下氏が贈った魔法の言葉として重宝されています。このようにして「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との危険な同盟が今進行しつつあります。
これに対して、「人々の経済要求」と「人権派からの政治ポピュリズム批判」との同盟を進める必要があります。ここで大切なのは、あくまで人々の生活実感から出発し、その体験とそれを踏まえた変革的政策とを理性的にゆっくりと統一することです。
体制派からの経済ポピュリズム批判は、生活と労働から発する意識・要求への批判と抑圧であり、人々の存在のあり方そのものへの批判と抑圧です。これに対して、人権派からの政治ポピュリズム(反人権・反民主主義ポピュリズム)批判は人々の歪められた意識への批判であって、その存在そのものへの批判ではなく、ましてや抑圧ではありません。なぜなら政治ポピュリズムは、差別と分裂の支配政策によって、生活と労働から発する意識・要求を部分的にねじまげて作り上げられた実感だからです。つまり体制批判派こそが、本当に人々の存在と意識の立場に立てるのです。まず人々の経済要求の正当性を高らかに掲げ、その実現の政策を提起することで、経済ポピュリズム批判を克服します。同時に要求運動の展開と様々な部面でのイデオロギー闘争を通じて、人権と民主主義の空洞化を克服しその実質化を図ることで政治ポピュリズムを克服します。こうして「人々の経済要求」と「人権派からの政治ポピュリズム批判」との同盟を進めることができます。マスコミ主導のものではなく、要求運動を中心とした下からの熟議の民主主義が本当に実現するならば、「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との同盟を打ち破ることは可能です。人々の存在と意識から離反しそれを抑圧するこの同盟に未来はありません。
以上、ポピュリズム批判とそれへの反発という対立、啓蒙家と大衆との対立という漠然とした偽りの図式を克服し、人々の存在と意識にしっかりと立脚した政策提起と学習・運動の展開によって社会変革を進めるという捉え方を提起しました。人々のポピュリズムへの無内容な期待を冷笑するのでなく、人々の実感に寄り添って、その期待を実質化できる道をともに考え実行していくことが求められます。
ポピュリズム批判との関係でハシズムを考えると、その反人権・反民主主義ポピュリズムを巧みに構成する「俗論ポピュリズム」とも言うべき様々な言説を人々の意識との関係を含めて分析し徹底的に批判することが必要だと思われます。
以上、どうしてもいかめしい調子になってしまいますが、経済と政治を統一する脱力系の話題を添えて終わります。「朝日」5月22日付に、田村秀(しげる)新潟大学教授の語る「リーダーよりB級グルメ」という記事があります。地域の歴史や文化・産業を映す「B級グルメ」の発掘は「お金もさほどかからずにほどほどの経済効果につながり、地域のシンボルにもな」ります。「トップダウンで制度を変えるよりも、地元の住民が楽しみながら取り組む方が長続き」します。「ヒーロー待望論よりも、自分たちのできるところから一歩を踏み出すことが地域の再生につながる」という田村氏の話は実に説得力があります。「地域をダメにする人はないものねだりをする人。地域を良くする人はそこにあるものを見つけられる人」という言葉を聞いたことがあります。ヒーローにおまかせではなく、自分たちで地域を再発見して新たに作り上げていくことはまさに民主主義の実習になります。橋下氏はグローバル競争の観点から地域を見下ろして、リニア新幹線でも作れば世界的な都市間競争に勝てる、といった発想ですから、地域をダメにする典型的政治家です。人々を「人材」としか見ない「上から目線」ではなく、人々の主体的取り組みを引き出す工夫こそが、地域経済と民主主義を内発的に発展させる道です。B級グルメ以外にも地域の宝はきっとあるでしょう。人権や民主主義を勉強することはとても大切です。しかしそれだけでなく、ポピュリズム批判につきものの「啓蒙臭」を脱したやり方で、楽しく着実に政治ポピュリズムを克服していく民主的実践に注目し創造していくことも重要です。
<番外・追伸>専門家と素人
我ながら権威主義があり専門家信仰もあります。ところが今、政治・経済どころかもっと難しい自然科学・技術の領域である原発問題で専門家への不信が噴出するのみならず、素人が政策判断に参加すべき事態となりました。それはまさに民主主義が試練に立つとともに、ヴァージョンアップするチャンスともなっており、ポピュリズム批判を再考する格好の題材でもあります。ここで私の固い頭を啓蒙してくれる論稿に出会えました。東大名誉教授・工学博士(金属材料学)井野博満氏の「市民の常識と原発再稼動 安全は誰が判断するものなのか」(『世界』6月号所収)です。
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原発の安全神話は崩壊したとよく言われる。現象的にはたしかにそうだが、技術は価値中立的なものだという考え(=神話)を捨て去らない限り、安全神話は必ず復活してくるだろう。技術は専門家に任せておけば大丈夫だという考えを捨てねばならないと思う。専門家に任すのでなく、市民が自分で判断し、結論を下すというようにしなければならない。
162ページ
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まことにラディカルに民主的な結論です。確かにそれがあるべき姿だが大丈夫か、という疑念に井野氏は明快に答えています。まず技術は客観的・中立的なものではないと断言し、わかりやすく説明しています。技術はものごとのすべてがわかっていなくても、作るか否か、どう作るのかの判断を迫られる実践概念であり、不確実な要素をどう見るかというグレーゾーンの問題に直面します。その判断に際して「その技術を担う人や集団の価値観や立場性が反映されざるをえない」(161ページ)のです。「工学というのは物づくりの学問だから、その価値観になじんだ専門家は物を作ることを重視」します。ましてや企業のエンジニアであれば「よほどの勇気がなければ作らないという選択はでき」ません(同前)。したがって「物を作る立場の技術者・工学研究者と、それを受け入れて利益あるいは損害を受ける立場の市民・地域住民とはその立場が異なる。そのことが技術の見方に反映せざるを得ない。それゆえに、市民と専門家が一つのテーブルで議論することが重要なのだ」(165ページ)ということになります。多様な専門家の異なる意見を聞いていれば、市民は議論の本質をおよそ理解できる、と井野氏は判断しています(162ページ)。
ここでは熟議への参加が前提になっています。おまかせ民主主義・観客民主主義から熟議の参加型民主主義に転換することで、一方では、ポピュリズムと批判されるような短慮による判断を、他方では、ポピュリズム批判が陥りがちな権威主義・専門家信仰を克服することが可能になります。しかし参加と熟議を妨げる要因がこの社会にはたくさんあります。貧困化・多忙化の上に、知的なものを避ける風潮もあります。それは強制と序列主義の教育の「成果」であり、知的文化の多くが権威主義をまとっていることへの反発です。人間が本来持っている「知への愛」を自然に育てることで「知への嫌悪」を克服することが大切です。また人類の生み出してきた膨大な知が私たちをいろいろな意味で豊かにし、社会をよくすることに役立つ、という実感を広げることも大切です。それらは子どもたちに対する教師の仕事であるだけではなく、大人たちが学びあっていく課題でもあります。生活と労働が厳しさを増していく中でも、というかそれだからこそ、様々な要求運動や何かの話し合いの機会を通じて、参加と熟議につながる知的交流が重要になっていきます。
『経済』4月号の感想の最後に、チェーホフの手紙を引いて、謙虚と卑屈はどう違うのかについて考え、「それは、自分自身を冷静に正しく把握し評価できているか、それを前提にして人に適切に対しておれるかどうか、だろう」と書きました。間違いではないだろうけれども、いかめしい慎重さがどちらかというと後ろ向きのイメージにつながりかねません。もっと率直な積極性に解放していけないものか。
俳人・櫂未知子(かいみちこ)氏の「俳句のすすめ」(「しんぶん赤旗」4月10日付)が傑作です。句会で季語を読み間違えて爆笑された体験がまず紹介されます。季語を覚えるのに、たとえば国文学を研究しているとかいうプライドは邪魔になるだけ。「季語は学歴も偏差値も関係なく、ただひたすら俳句に慣れることで身に付くものだった。のんきそうなおじさんおばさんたちが、基本的な季語を使いこなしていることを知って受けた衝撃は、今でも薄れない」。気取り・逡巡・躊躇は不要でとにかく進むこと。「あなたが俳句で失敗しても誰も困らない。まずは、無駄なプライドを捨てて恥をかくことから、俳句は始まるのじゃないかしら」。
櫂氏の描くこの率直な世界は、楽しく自主的で積極的で権威主義もなく、実にすっきりしたさわやかさに満ちています。きっと卑屈や傲慢はなく、いやあるかもしれないけれども謙虚な自信になっていくのじゃないかな。これが熟議と参加の民主主義のイメージであればよいなと思います。民主主義を楽しくヴァージョンアップしたいものです。
支配層とポピュリズム (2012年6月26日)
ヘーゲルいわく「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」。『フォイエルバッハ論』でエンゲルスはこの言葉の革命的弁証法としての意義を力説しています。ならば橋下徹氏への支持が非常に高いという現実はきわめて不合理に見えるけれども、それはいかに合理的に理解できるでしょうか。それが分かれば、この現実の克服のヒントになるでしょうから、多くの人々が様々なことを語っています。
そうした努力の中でもかなり強い現象説明力を持つのが、想田和弘氏の「言葉が『支配』するもの 橋下支持の『謎』を追う」(『世界』7月号所収)です。想田氏はツイッター上で橋下支持者や批判者たちと盛んに意見交換するうちに、「多くの橋下支持者は、橋下氏が使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用するということ」(131ページ)に気づきました。それは次のことを意味します。
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思考は、言葉です。思考の支配は、言葉を支配することによって成し遂げられます。橋下氏の言葉を進んで使う人々は、橋下氏の言葉によって思考を支配されているといえるのではないでしょうか。そして、思考を支配されているがゆえに、行動も支配されているのではないでしょうか。 132ページ
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それではなぜ橋下氏の言葉はそのような支配力を持つのか。彼は「人々の感情のありかを察知し、言葉で探り当てることに長けているので」、その言葉は「人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなもので」、「(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じ」させるものとなっています(135ページ)。彼は「民主主義は感情統治」と言います。(136ページ)。想田氏はその趣旨を「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」(同前)と解説しています。こうして「謎」が解き明かされます。
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橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。
そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコロ変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとっては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的に矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。 136ページ
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橋下氏はマスコミを巧みに利用してこの感情統治を実現しています。彼が毎日のように挑発的なネタを提供するので、マスコミはただそれを追いかけ彼のコメントを主体にしたニュースを流し続け、公共の電波が知らず知らずのうちに「橋下徹ショー」になってしまっています(138ページ)。
感情統治された橋下支持者には批判者の言葉はまったくのれんに腕押しです。ただしこれには批判する側にも問題があると想田氏は指摘します。たとえば「思想良心の自由を守れ」よりも「公務員は上司の命令に従え」というフレーズに心を動かす人々が多いということは、「民主主義的諸価値」が「ある意味形骸化してしまった」(139ページ)結果でありこれを立て直す必要があります。
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そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業になるでしょう。 139ページ
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想田氏はとりあえず言葉の問題として提起しているけれども、まさに草の根民主主義を作り上げていく運動の課題でもあることは間違いありません。「言葉の支配」「感情統治」を打ち破るには、様々な要求運動などを通じて、形骸化した民主主義を実質化し、直接運動に参加していない人々にも、何らかの方法でその経験をさらに押し広げていくことが必要でしょう。そうすることで生活の現実に根ざした民主主義的実感が、トリッキーなハシズム的実感に取って代わり、「言葉の支配」「感情統治」を克服することにつながります。
想田氏の語り口はきわめて説得力があります。ただしその指摘は、コアな橋下支持者に対してはまさにぴたりと当てはまるでしょうが、その周辺の広範な支持層を見れば、支持の度合いに応じて当てはまり具合にも濃淡が出るはずです。ここにはマスコミの問題があります。マスコミは思想調査のような度外れた行為さえ事実上不問に付しています。また思想調査実施の一つの口実として、労組の「ぐるみ選挙」にかかわる内部告発がありましたが、これが捏造だったことが判明しても、橋下氏は開き直っています。かつて野党時代の民主党議員が国会で質問した際に、証拠に用いたメールがガセネタをつかまされたものであることが判明しました。このとき前原党首が辞任し、当該議員が後に自殺しました。それくらい重い事態に対して橋下氏も維新の会も当該議員も何ら責任を取らず、マスコミも追求しません。不真面目・無責任・厚顔無恥が橋下氏の処世術なのかもしれませんが、まともな社会で本来それは通用しません。しかし社会がまともでなくなって、「無理が通れば道理が引っ込む」状態です。一事が万事で、橋下氏のめちゃくちゃぶりはまともに知らされ問題にされることがないので、「感情統治」の度合いの低い支持層もなかなか崩れないのでしょう。
このマスコミの体たらくにはいろいろ原因があるでしょうが、一つにはおそらく支配層の意向が反映していると考えられます。新自由主義的資本蓄積下では、富の蓄積と貧困の蓄積が拡大し、人々の生活と労働条件は下降しつづけます。支配層は「飴と鞭」の政策ではなく、「飴なしの鞭」を追求しています。賃金と所得を下げ、その上に増税と福祉切り捨てを強行しています。そういう政策を選択しているというよりは、新自由主義グローバリゼーションによる国際競争下ではそうせざるを得ないということです。「経済のグローバル化による制約」で「各国政府には市場に反発されない選択肢しかない」ので「国民に痛みを強いる政策を『決める』」ことになります。「グローバル時代の民意と市場のこんな相克に、だれもまだ解決策を見いだせていない」(大野博人論説主幹「朝日」6月17日付)。もちろん「多国籍企業が支配するグローバル市場」至上主義の「朝日」が「解決策」を見いだす気がないだけの話で、日本と世界の人民の立場からはオルタナティヴが探究され具体的な提言や実践もありますが、支配層がそれを採用することはありえません。したがって支配層の課題は「飴なしの鞭」「欲しがりません、勝つまでは」を人々に受容させることです。それには、一見支配層への挑戦に見えるような姿勢で閉塞感をガス抜きし、分断と俗論で「飴なしの鞭」の「必然性」を納得させるような人気者を必要としています。橋下氏はまさに支配層のトリックスターなのです。Tricksterは神話や民話での道化・いたずら者を意味しますが、ここではあえてトリック=策略・ごまかしというニュアンスもこめたいと思います。橋下氏のスローガン「決定できる民主主義」「決められる政治」が悪政推進に利用されており、マスコミ上に見ない日はありません。たとえば若宮啓文「朝日」主筆は、消費税増税のため民主・自民両党首の談合による「決められる政治」を勧め、その促進材料として橋下・維新の会の国政進出がもたらす脅威を利用しています(「朝日」6月10日付)。ちなみにこの「朝日」主筆の論説はどこをとっても簡単に反論できるような代物で、その不見識ぶりはもはや痛々しい感じさえします。支配層の道具と化したマスコミの病状は回復不能なのでしょうか。こころあるジャーナリストに一抹の希望を託したいところですが…。
ここで以上をまとめると、ハシズム興隆のミクロ的主観的要因として橋下流の巧みな「言葉の支配」「感情統治」をあげることができ、そのマクロ的客観的要因として支配層の課題とそれに奉仕するマスコミの存在をあげることができるでしょう。
ハシズムを支配層の課題との関連において捉えることは、ポピュリズムについて考える過程でその必要性が強く感じられました。橋下氏をポピュリスト扱いすることに何か違和感があったのがその端緒です。どうしてかと考えると、本来のポピュリストは人々に無責任に飴を与える公約をするものだけれども、橋下氏はまったく逆で人々に「覚悟と努力」を迫っているからです。これは痛みに耐えることを訴えた小泉純一郎元首相と同じです。従来の「甘い飴」配り人気取りポピュリズム・ポピュリストと違って、両者は「苦い薬」を飲ませても人気のある新ポピュリズムを演じる新ポピュリストとでも名付けることができます。これはまさに新自由主義的資本蓄積の矛盾を打開する課題…人々に「飴なしの鞭」を受容させること…を担う「理論」・パフォーマンスであり、人材であるわけです。だから新ポピュリズムについて考えるには、その手法をあれこれ論じる前に、支配層の課題との関係を明確に位置付けることによってその本質をつかむことが不可欠なのです。
次いで新ポピュリズムの手法を考えることになります。それは支配層の課題と人々の気分との交点をどう捉えるかです。支配層と人々との利害は客観的には対立するので、支配層の課題と人々の気分とは相容れず反発しかありえないはずですが、主観的要素をはめ込めば融和する可能性があります。支配層の課題に沿う形で、人々の気分を歪めて再編成するのです。人々の間に対立を煽り、分断とバッシングによるうっぷん晴らしを誘うという周知の手法は、こうした支配層の課題に適合するという点に最大の意義があります。
新自由主義的資本蓄積がもたらした格差と貧困の閉塞感の中で、多くの人々は「自分はこんなに苦労しているのに報われない、なのにアイツは…」という気分を抱いています。問題はこのアイツというxに何を代入するかです。1%の支配層を入れないように(99%の内部で)身近な公務員等を入れるよう仕向けるトリックが熱望されるのです。閉塞感をもたらしている支配構造の本質を隠し、99%内部での相互対立の方に目を向ける手法としてのバッシングがそれです。一方では公務員バッシングのように「身分保障」され相対的に恵まれていると見なされている階層を攻撃し、他方では生活保護バッシングに代表される弱者バッシングで「ばらまきの受益者」階層を攻撃します。これは上方に対するねたみと下方に対する歪んだ優越感との双方を刺激するものであり、「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「既得権益」攻撃として、うっぷん晴らしのみならず「正義感的爽快感」を人々の中の多数派階層に与えることができます。新ポピュリストの人気の源泉を手法上からはこのように見ることができます。
なお公務員バッシングだけでなく弱者バッシングにも注目することが必要です。若者や経済的弱者に橋下支持が多いとは必ずしも言えず、むしろ安定的な社会層に支持が多いという有権者意識調査があります(松谷満「誰が橋下を支持しているのか」『世界』7月号所収。ただし有効回収数は772で、サンプル数は少ない)。弱者の不満が橋下氏を押し上げているというよりも、ミドルクラスの<公務員不信・リーダーシップ待望・競争主義・成長志向>の方が重要ではないか、と松谷氏は考えます。あるいはこの調査からは、有権者の多数がナショナリズム(愛国心教育支持等)や新自由主義(格差や競争に肯定的な傾向等)を支持しており、それは橋下氏の主張と一致しているから、橋下人気が高いのは当たり前だ、ということが結論されます。これは上記の私の主張<「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「既得権益」攻撃が多数派階層から支持される>と適合的です。もっとも、生活保護者などを別として、多くの「弱者」が自己をバッシングの対象だとはまだ意識していないでしょうから、かつて橋下府知事の政策で解雇された府の元非正規職員が橋下氏を支持するような現象は多く見られることと思いますが…。
こうして人民の中に分断を持ち込み、連帯を忘れさせることは、支配の本質に批判が及ぶ危険性をなくすことで、支配層に多大の利益を与えますが、バッシングのご利益はそれだけではありません。支配の邪魔になるものを排除し、人々が自分で自分の首を絞める「自動支配機構」としてのイデオロギー装置を強化することにつながります。それは一方では首長・行政の権力を拡大し、他方では福祉を削減し財政負担を軽減することで支配の自動安定装置として機能します。橋下氏の公務員バッシングでは、首長の方だけ向いて、住民の奉仕者ではなく住民に命令する公務員像が追求されています(「思想信条の自由」より「上司の命令に従え」)。公務員本来の立場から自由・自主的に住民本位に思考するのでは首長の独裁の妨げになるからです。また公務員給与の減額は民間給与の減額に連動していくでしょう。そこから来る内需の不振は自営業者などを直撃します。人々が公務員バッシングに加担すればするほど自らの所得を掘り崩すことになります。生活保護バッシングにより保護基準を下げれば、就学援助や最低賃金などに連動し、貧困がさらに蔓延します。こうして人々の生活悪化を伴い閉塞感を充満させながら、政府・自治体の財政が「改善」され、権力強化される政策が、他ならぬ「民意」によって実現するのです。
生活保護バッシングでは、これから保護をますます受けにくくさせ、捕捉率を下げることが人民の分断を強化します。すでに2007年のデータでも捕捉率はわずか15%です(「しんぶん赤旗」6月22日付)。保護世帯の周りに、保護を受けていない貧困世帯が圧倒的に多くあれば、生活保護はまるで不当な受益であるかのような感覚が生まれ、バッシングの対象となります。イギリスでは4世帯に1世帯、人口の19%が公的扶助を受け、捕捉率は87%にのぼります。フランスでは世帯の13.8%、人口の9.8%、捕捉率は9割です。日本では今年3月に受給者が210万人を超え「過去最多」と騒がれましたが、人口の1.65%です。唐鎌直義氏によれば「イギリスでは公的扶助が国民のものになっている。多くの人が、なくては困ると思っているので、日本のようなバッシングはありえません」。イギリスでは日本とは逆に保護の適用漏れが問題にされ、政府は捕捉率をほぼ毎年、公表しています。「数字を引き上げることで行政の仕事ぶりをアピールしている。政府が国民からチェックされているんです」(唐鎌氏)(以上、同前記事)。
つまりイギリスではバッシングがなく、逆に国民が政府を反貧困の観点でチェックして捕捉率の向上(=貧困防止)を実現しているの対して、日本ではバッシングを軸として支配層にとっての「貧困福祉の好循環」が実現しています。
低捕捉率→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚
→生活保護バッシング→<@保護基準切り下げ+A捕捉率低下>
<@+A>→財政負担軽減
A捕捉率低下→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚
→生活保護バッシング→<@+A>……以下繰返し
しかもここにさらに、福祉事務所や(医療保護にかかわる)医療機関などに対する首長など(保守反動政治家)の監視権限の強化が加わり、人民にとっての経済的政治的悪循環が完成します。橋下氏の政策に典型的なように「財政負担軽減」分はグローバル資本向けの産業基盤整備に回されるのだから、実際には「財界負担軽減」と言うべきところです。もちろんこの「負担軽減」は、福祉削減などによる人民の負担増・貧困化と表裏一体です。
「貧困化・閉塞感充満・福祉削減・財界負担軽減・権力強化」は悪い政治経済のワンセットであり、本来このままでは人民の利益と真っ向から対立しますが、これを支配層にとっての好循環として「民意」によって回す基軸がバッシングです。
貧困化→閉塞感充満→各種バッシング→<福祉削減+財界負担軽減+支配権力強化>
→貧困化→…(以下繰返し)
前述のように、各種バッシングは閉塞感へのガス抜きであるのみならず、支配層の政治支配力強化と経済負担軽減とを実現する「支配の自動安定装置」です。逆にいえばバッシングの正体さえ明らかにすれば、悪魔のサイクル(=支配層にとっての好循環・自動安定装置)の全体像が誰の目にもはっきりします。そうして民意をバッシングから切り離せば悪魔のサイクルは破綻します。各種バッシングは自己責任論的公正・公平感による「既得権益攻撃」ですから、憲法25条「生存権」や13条「幸福追求権」などの観点から自己責任論を批判することが悪魔のサイクル離脱の中心になります。
この憲法論を補強するものとして、経済の理論と政策があげられます。経済理論としては次のように考えられます。商品経済論から自己責任論発生の根拠と普遍性を導出し、剰余価値論・資本蓄積論(貧困化論)により、自己責任維持の不可能性を論定することで、資本主義経済における自己責任論の強固さと矛盾を捉え、自己責任論という「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含」(『資本論』第2版へのあと書き)ませることができます。経済政策としては、自己責任論を土台とする新自由主義グローバリゼーションの政策体系へのオルタナティヴを提出することが必要です。たとえば喫緊の課題としては、消費税増税への批判的対案として税制・社会保障制度・国民経済のあり方の変革を具体的に提起していくことです。
このような総合的な批判・提案によって、自己責任論に基づくバッシング的社会像(新自由主義構造改革的社会像)を克服していくことが可能となります。この克服過程の中心を担うのは様々な要求実現運動による民主主義的経験の実質化だと思いますが、マスコミ・ネット等を通じてのイデオロギー闘争にも独自の意義があります。バッシング的社会像は生活と思想が合い携えて進む一つのあり方であり、それなりに深い実感に支えられています。したがって、それ以上に生活と思想がともに前進し、経験と実感に支えられることで、形骸化を克服し実質化された民主的連帯的社会像を創造(想像)していくことが求められます。
社会科学の課題 ハシズム批判とも関連して
(2012年7月30日)
文中出所無記載の論文は、『経済』2012年8月号所収
高田太久吉氏の「欧州統合と多国籍企業のグローバル化戦略 金融財政危機から政治危機へ」は「金融・財政危機の根源にある問題は、単に市場統合が政治統合を置き去りにして進められてきたという統合の手法に関わる問題ではない。真の問題は、欧州統合を推進する政治プロセス自体が、グローバル化のもとでEUレベルでの競争政策を求める欧州多国籍企業の要求によって次第に支配されるようになったことである」として、「市場統合と政治統合を二元的に見て、それらの在り得べき調和を想定する形式的な議論」(90ページ)を批判しています。一般論としても、階級的な見方などを含めて問題の実質的な捉え方として心すべき指摘ではないかと思います。
小沢隆一氏の「国と地方の民主主義の危機と対抗軸」はハシズム等に見られる民主主義の危機に関連して、国政と地方政治を主に制度的に検討しており、大いに参考になります。ただし「決められない政治」「国政の閉塞」の原因を制度的に様々に指摘しているけれども、「民意と真逆の政策を実行しようとしているが故に世論の反発にあってなかなか決定しにくい」ということを中心にして展開されていないことが残念です。人々に「飴なしの鞭」を振るわざるを得ない新自由主義的資本蓄積の根本矛盾が政治的には「決められない政治」「国政の閉塞」として表現されている、と私は考えているからです。
城塚健之氏の「橋下・維新の会の特徴と民主主義 大阪市における職員・労働組合攻撃を考える」はまさに闘いの最前線における迫真の論稿です。教えられることは多いのですが、最後の論点としてあげられた「橋下支持者とどう向き合うか」については若干の疑問があります。確かに橋下支持を批判して「橋下の手法が民主主義を滅ぼしかねないものであることを有権者に自覚させる取り組みが必要で」(60ページ)すが、上から目線ではそれは成功しません。人々がどのような状況に置かれ、どのような実感をもっているかを捉えずに、民主主義を教え込もうとしてもうまくいかないでしょう。残念ながら人々の状況や実感についてのデータを持っているわけではないので、ここでは橋下氏らの攻撃の性格とそれが人々に与える影響を考え、そこから私たちから人々に響く言葉をどう届けるかを考えてみたいと思います。
支配層の根本矛盾が、人々に「飴なしの鞭」を振るわざるを得ないことであるなら、彼らの課題は、人々に「飴なしの鞭」を受容させることです。サディストとなった支配層がマゾヒストとなるべき被支配人民層を必要としているのです。人々に向かって「覚悟と努力」を説き、国政に対しては「決定できる政治」を要求する橋下氏は、この課題に答えて、矛盾を強行突破しうる人材として期待されています。橋下氏はこれまでの言動で、一見支配層への挑戦者に見えるような姿勢で人気を博し閉塞感をガス抜きし、分断と俗論で「飴なしの鞭」の「必然性」を人々に納得させようとしてきました。さしずめ橋下氏はサド資本主義における支配層の使命を担うトリックスターとでも言えましょうか。
もちろん人々の客観的利害に反する以上、支配層の課題の実現は困難です。そこでこの課題に沿う形で、人々の気分を歪めて再編成します。人々の間に対立を煽り、分断とバッシングによるうっぷん晴らしを誘うという周知の手法は、こうした支配層の課題に適合するという点に最大の意義があります。このうっぷん晴らしは、単に閉塞感が世間的に非常に強いから広く受容されているだけではありません。たとえば「安定した公務員」とか「生活保護受給者」などの「既得権益」への攻撃には、「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「正義感的爽快感」が伴ってもいるからでしょう。ならば他者へのバッシングは自分への自己責任追求になり、支配層の要求する「覚悟と努力」の受容となります。公務員でも生活保護受給者でもない人々は多数派であり、その中の多くは自己責任論を論理的・倫理的に内面化させています。したがって自己責任論を克服することが、バッシングと分断攻撃をなくす要となります。その他に、この「自己責任論・バッシング」系列が「支配の受容」へのからめ手の手法とすれば、正攻法としては「大所高所論・経済整合性論」があります。この克服にはやはり正攻法での政策論議となります。
「飴なしの鞭」を人々に受容させることを新自由主義的統合と言うならば、それは自己責任論と大所高所論による意思統一・組織化であり、それは同時に、相互無理解と自己犠牲的忍耐の組織化(分断と貧困の固定化)となります。対抗する民主的統合は、労働・生活の尊厳と共同性による意思統一・組織化であり、それは同時に相互理解と諸個人の発達との組織化(連帯・団結・豊かさの追求)です。
自己責任論については唐鎌直義氏が以下のように指摘しています。
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自助なんてできるのは一握りの資産家だけです。労働者は、2000万円貯金があったとしても、失業や病気で働けなくなったら4人家族で何年持つか。自助なんてできるはずがありません。だから、歴史的にたたかいとってきたのが、国の責任による社会保障制度です。社会保障制度は、労働者がつくり出した富を取り戻すための仕組みです。「自己責任」論というのは、社会保障を後退させて、自分たちの負担を軽くしようとする資本家のイデオロギーです。 「しんぶん赤旗」6月26日付
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自殺というきわめて個人的な問題が実は社会構造的問題でもあり、行政による系統的な対策が必要であり有効でもあることを清水康之氏が明らかにしています(「誰も置き去りにしない社会へ 自殺対策大綱・改定への緊急提言」、『世界』8月号所収)。これは自己責任論に対する社会科学の姿勢が広く深く問われていることを示しています。
教育学者の中嶋哲彦氏は、「生徒をたくさん集めた高校を勝者と見なす」というばかばかしく単純なルールを紹介して、新自由主義改革の空虚さを本質的に指摘しています。
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新自由主義改革は、社会制度それぞれに固有な原理やそれらに内在する複雑な事情に精通していない政治家や一部の官僚が、現場で働く人々を単純かつ単一の論理で一元的に制御するシステムを構築しようとする試みを内包している。専門家やその意見を退ける一方、「数値」(数値目標、数値による評価)が重用されるのはこのためであろう。もちろん、その過程で尊重すべき原理や配慮すべき事情とともに、最も大切にされるべき価値=人間が脱落してしまう。
「収奪と排除の教育改革 大阪府における私立高校無償化の本質」(『世界』5月号)
96ページ
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要するに新自由主義は現実を無視した理論であり、私はブルジョア教条主義と呼んでいます。その意味では城塚健之氏の先の論文が橋下氏を毛沢東やポルポトにたとえている(55ページ)のもうなずけます。単に恐怖政治という側面だけでなく、その単純な理論を教条的に実行すれば社会を破壊する結果になる、という意味でも共通します。したがって新自由主義の批判は現場を見ることから始めるのが有力です。たとえば稲葉剛氏の「生活保護バッシングは何を見失っているか」(『世界』8月号所収)と同氏「貧困支援の現場から生活保護を考える」(『前衛』8月号所収)は貧困の実相から出発して、生活保護バッシングの不当性などを説得的に明らかにしています。他に特に注目したいのは、JAL不当解雇撤回裁判原告団客乗原告団の内田妙子・斉藤良子・山田純江の三氏による客室乗務員座談会「いっしょに働き、『安全なフライト』のJALに ―仕事への誇り、解雇の不当さを知らせて」(『前衛』8月号所収)です。この座談会からは感動的な闘いを具体的に知ることができ、多くのことを学べるのですが、ここではいくつかに絞って紹介します。三氏は仕事の難しさ、経験の大切さ、そして誇りを語り、それに対して賃金や労働条件がいかに見合わないものとなっているかを具体的に明らかにしています。さらには会社から組合差別を伴う厳しい攻撃が加えられ、地裁では一方的に会社側に立った不当判決が下されるという逆境にめげず、支援を訴えて各地を回っています。そうした中で「いや、あなたたちは違う世界の人たちだと思っていた」「なんだあ、同じじゃないか」(206ページ)と理解が広がっています。公務員バッシングが労働者・人民の中にいわば「相互無理解の組織化」を実行して分断支配を強化しているのに対して、日航労働者の不当解雇撤回闘争は「相互理解の組織化」により、労働の社会的共同性への理解に基づく連帯を生み出しています。またこの一つの具体的闘争が「解雇自由の社会に道を開くこと」(207ページ)を阻止する普遍的目的を持ち、その意味で労働者の連帯した闘争となっていることも重要です。
以上のように現場に具体的に内在することが新自由主義改革の空虚さと分断性を克服し、社会の普遍的共同性を回復していく一歩となります。
「飴なしの鞭」という支配層の都合を人民に受容させる論理は、社会的には経済整合性論(大所高所論)であり、個人的には自己責任論です。経済整合性論に対しては、それが支配体制の不変を前提にした弁護論であり、大資本の既得権益保護論であることを明らかにしつつ、批判的対案を具体的に提出することで克服すべきです。これは最近では日本共産党の経済提言に結実しています。経済整合性論を克服することによって、私たちは「ごく普通の国民の労働・生活がどうなっているのかを明らかにすることが経済学の最終課題である」(塚本隆敏著『中国の労働問題』への井手啓二氏の書評、104ページ)と断言できます。個人の幸福追求が目的であり、経済はその手段であることが経済学の前提でなければなりません。
自己責任論の克服は諸個人の内面に切り込む切実さをもって多くの人々を変革していく課題であり、普遍的な論理を構築することを前提に、具体的状況に応じて人々の感情に届く的確さと平易さが必要となります。
憲法論としては、13条(個人の尊重、幸福追求権・公共の福祉)と25条(生存権)が中心的に検討されるべきでしょう。13条は解釈しだいでは自己責任論そのものになってしまい、おそらくブルジョア革命期に登場した文脈においては、そのとおりだったと思われます。しかし25条と並存する今日では正反対に捉えるべきでしょう。強い人・弱い人・その他さまざまな個性を持った人々がそれぞれに自分らしく生きられる権利とされるべきでしょう。今日、個人の尊重や幸福追求を阻害するものとして大資本の横暴が重要な原因である以上、それを「公共の福祉」の観点から規制することが妥当であり、それを13条の立場と考えることができます。25条については、それを軽視・形骸化し、はては否定する策動を許さずに実質化していくことが必要です。
自己責任論の克服には経済理論の役割が非常に重要です。以前にも書きましたが、商品経済論から自己責任論発生の必然性を、剰余価値論(搾取論)・資本蓄積論から自己責任を果たすことの不可能性を論定することができます。つまり自己責任論の普遍性・現実性と矛盾とを両面的に捉えることで、それを理解したうえで批判することができます。上記の唐鎌直義氏の議論は搾取論の観点からわかりやすく批判したものです。自己責任論に対しては憲法25条を対置して批判することが多いのですが、以上のように経済理論と憲法論の検討を踏まえてより説得力を持って多様に展開すべきでしょう。自己責任論が「バッシング=分断」ならびに「支配政策の受容」の要にある以上、大衆的にそれを克服することは喫緊の課題です。
人民の分断と連帯については、その最深の根拠は商品経済にあるでしょう。商品経済は生産手段の私有と社会的分業からなり、そこでは私的労働と社会的労働との一致はあらかじめ保証されていません。商品生産者はそれぞれ独立しており、自己の判断で経済活動を行ない、その結果に責任を負います。市場で商品が売れれば、彼の私的労働は社会的労働として認められたわけですが、売れなければ認められなかったことになります。商品経済社会に生きる人々はまずは分断されており、商品交換(市場)を通じた後に、社会的共同性を確認することになるのです。商品経済を土台とする資本主義経済の支配層は、この分断を固定化し、社会的共同性を見えなくし、支配の変革を目指す人々は初めから社会的共同性を意識化します。商品経済社会においてはあたかも市場(流通過程)が主人公であるように見えますが、市場は「生産手段の私有と社会的分業」という社会的な生産のあり方の反映に過ぎません。本質的には市場は表層であり、深部の力は生産過程にあります。経済学はまず生産の社会的共同性という歴史貫通的な本源的性質を前面に出し、その上で商品経済や資本主義経済の特殊性を明らかにすべきです。ブルジョア・マスコミは市場至上主義と資本利潤不可侵という疎外された立場で経済を論じており、私たちは社会的共同性の見地から現代資本主義を規制し変革する人間的な経済の可能性を追求しています。「人民の分断と連帯」は商品経済の本質から出発して、資本主義社会においては階級闘争の三形態(経済・政治・イデオロギー)を貫いて意識化・先鋭化されます。特に新自由主義的資本蓄積の矛盾による「飴なしの鞭」=サディズム資本主義は人民の分断を必要不可欠としており、ハシズムはそこに咲いた徒花です。こうしてみると日航労働者が解雇撤回闘争で広範な労働者との連帯を生み出していることの意義はたいへん大きいのです。
『世界』とかましてや『前衛』などに篭城していてもハシズムには勝てません。そこで武器弾薬をよく吟味して、最低最悪の『週刊新潮』的荒野に打って出る必要があります(橋下氏と『新潮』『文春』はケンカしているけれども近親憎悪の内ゲバに過ぎない)。ハシズムの言葉が一般世間を席巻しているのですから。と言ってももちろん週刊誌に記事を載せるということではなくて、反共・反人権・反民主主義の「わかりやすい」俗論に対抗しうる言葉を提供して新たな人民的常識を作り出さねばならないということです。残念ながら私にその言葉たちの名案があるわけではありません(いつも生硬な用語を裸で並べているような状態ですから当然ですが)。実はそれは当面する課題であるとともに、近代日本の社会科学にとっての課題であり続けているものです。社会科学は輸入学問として人々の生活実感とは反してきました。学校での社会科教育も暗記科目扱いで、子どもたち(したがって長じた大人)の血肉とはなっていません。各種選挙の投票率が低いのはある意味社会科教育の敗北を表現しています。人類がどれくらい苦難の後に普通選挙権を獲得したのかを理解させていない社会科教育とはいったい何でしょうか。「社会科学が日本語を手中に収めないかぎり社会科学は成立してこないし、日本語が社会科学の言葉を含みえないかぎり、日本語は言葉として一人前にならない」(内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店、1981年、35ページ)。そして「社会科学でも思想としての滲透力、心のうち深く入ってそこから働きかける力を一般の人に対してももっていなければならない」(同前、33ページ)。今私たちは、粗雑で危険な言葉がなぜ人々に入っていっているのかを懸命に考え、社会科学の言葉が自然な日本語として溶け込むことを意識的な課題とすべきです。それは生活と労働の現場に草の根民主主義を育てていく課題と一体のものであり、そこから地に足の着いた言葉が生み出されてきます。ハシズムやその亜流を根絶する土台がここにあります。
ハシズムへの対処の話から始まったのに、どうも経済の一般的な話題に偏り、急を要する人権や民主主義への言及が少なくなってしまいました。「人々に響く言葉をどう届けるか」と問題提起しながら、問題提起の再確認に終わり、解決策には近づけませんでした。今のところこんな到達点ですが、さらに具体的に考え続けることで前進したいものです。
高橋秀直著『「資本論」研究 労働価値論・貧困の蓄積論・経済学批判』に対する頭川博氏の書評(102-103ページ)を興味深く読みました。肝心の著書は読んでいないので、以下では高橋説を紹介しつつ展開される頭川氏の議論について述べます。貧困とは「その社会的な性格からして、生産力が可能にする物質的条件と労働者が享受する生活状態とのあいだの乖離を意味する」。そして「搾取こそ、豊富に生産される物質的富の享受から労働者を遠ざける元凶をなす」。こうして貧困概念を確定した上で貧困と貧困の蓄積とを峻別し「資本蓄積が貧困の蓄積をもたらすとすれば、貧困は剰余価値生産によって形成されることになる。つまり、貧困とその蓄積との区別は、剰余価値論で貧困の概念が規定され、それを論理的前提に、蓄積論で貧困の蓄積がとかれるという研究の順序をしめす」とされます。また「生産力の発展によって商品価値が低廉化するため、実質賃金はあがり、貧困の蓄積と労働者の生活改善とは両立する」と指摘されます。以上の議論は支持します。ただし「必要労働・剰余労働」概念を歴史貫通的だとする考え方を頭川氏が批判しているのはどうでしょうか。私は経済学は歴史貫通的なものと特殊歴史的なものとをともに明示する体系をもつことが有効だと考えています。「必要労働・剰余労働」概念は歴史貫通的に理解すべきであり、上記の貧困概念とも整合的に捉えられるのではないでしょうか。
以上は理論的にしっかり考えたわけでもなく立場を表明しただけのことですが、以下の議論は重要です。貧困とその蓄積の概念は上記の通りですが、今日の日本資本主義の現実を見れば、名目賃金の急激な下落で実質賃金さえも下落し労働者の生活は悪化しています。絶対的貧困化が進んでいるのです。労働力の価値以下の賃金が一般化している現実をどう捉えるかが、価値論と剰余価値論(搾取論)の新たな課題としてあります。新自由主義的資本蓄積はこの低賃金の故に内需不振を必然とし、商品実現の危機による利潤の減少をさらなる搾取強化で乗り切ろうとする悪循環に陥っています。これが「飴なしの鞭」「欲しがりません、勝つまでは」的な経済政策(それは前触れとしての「決定できる民主主義」から政治反動・独裁につながる)の根拠となっています。つまり新自由主義的資本蓄積の土台は、生存権を侵害する「労働力の価値以下の賃金」です。当然ながら労働力の再生産は支障をきたし、少子化と年間三万人自殺が現出しています。価値論と剰余価値論の新たな課題と言ったけれども、おそらく従前の理論のままで考えて、もはや日本資本主義は持続不可能となったと宣言することで十分なのかな、とさえ思います。
しかし主流派経済学はこの異常な低賃金を前提にして理論と政策を組み立てています。彼らの現実主義とか経済整合性とかは「無理が通れば道理が引っ込む」の「理論」化なのです。およそ人々が生活できないことの異常さを経済の根本問題として見られない理論に経済学を名乗る資格はないでしょう。高橋氏と頭川氏は、絶対的貧困化と区別して貧困概念を正しく確立したと思いますが、そうした冷静な目で見れば現状の異常さはさらに際立つはずです。「正常な搾取」を超過し、価値法則と剰余価値法則を侵害して暴走する資本主義をどう規定するのか。こういう問題は存在しないでしょうか。