これは『あいち県民教育研究所年報第21号』(2013年6月発行)に掲載されたものです |
ハシズムにおける経済・政治・教育
刑部泰伸(文化書房店主)
「現代における人間形成」部会では、これまで学習会、フリートーキング、調査・研究活動を行なってきました。学習会は読書会形式でしたが、現在は次のようにしています。参加者の希望に基づいて、テーマや項目を予め設定し、報告者がレジュメや資料などを使って問題提起し、それをもとに参加者が発言する機会を重視する学習会です。2012年7月21日、9月29日、10月27日の三回に「ハシズム(橋下版ファシズム)における経済・政治・教育」というテーマで報告しました。以下の論稿はそれに加筆・補正したものです。
[初めに]
橋下徹氏の言動や施策を具体的に追うのではなく、まずその考え方の基本を今日の経済と政治の流れの中に位置づけます(ここでは橋下氏の言動・施策・考え方を全体としてハシズムと呼びます)。合わせて人々の置かれた現状と意識とをそこに重ねてみることで、「現代における人間形成」という大きなテーマの一端に触れられると考えます。
なおこの学習会後の2012年12月に行われた総選挙において、橋下氏の率いる日本維新の会は石原慎太郎氏の太陽の党を吸収合併し選挙戦でマスコミ等の注目を浴び、自民・民主に次ぐ54議席を獲得しました。その後の安倍内閣・自民党人気の下で、維新の会はかつてのような勢いはなくなっていますが、自民党型政治の補完勢力として、人々の政治動向やイデオロギーへの影響力は依然として強いといえます。特に教育への政治支配路線では安倍・自民と橋下=石原・維新の会は共通しており、ハシズムとそれを支える意識状況の検討はますます重要になっています。
1.経済について
(1)経済像の対立軸
橋下氏は極端な新自由主義構造改革の立場から国際競争を煽り、それを政策形成上の至上命題としています。長期不況の中で閉塞感にあえぐ人々に対して、努力して競争力を強化しないとアジア諸国などに負けて日本人の生活はますますひどくなる、と悲壮な覚悟を迫ります。それは警世の正論のように聞こえます。橋下氏の議論はすべてこの調子で、いかにも俗耳に入りやすい片言隻句の形で、日本経済低迷の真の原因から目をそむけ、人々の危機感と善意を大企業本位の経済政策に流し込む重大な役割を果たしています。
日本経済の危機を救うために国際競争力を高めることが第一であり、それを妨げる規制や不効率な仕組みを撤廃するか否か(構造改革VS抵抗勢力)に、基本的対立点がある、というのがマスコミを通じて流布されている図式です。これに乗っているからこそ橋下氏の俗論は受容されます。実際には日本経済における基本的対立図式は、<国際競争力至上主義 VS 内需循環型国民経済>です。大企業の国際競争力強化のために、雇用の流動化・企業減税・庶民増税・福祉切り捨て等々の政策を集中したことによって、内需不振から長期不況の泥沼にはまっているのが最大の問題です。こうした政策と強搾取によって大企業内に滞留した膨大な内部留保をいかに国民経済に還流していくかが経済再生のカギです。このような経済像における対立図式の転換が、ハシズム克服の土台となります。
(2)自己責任論の捉え方
競争至上主義を支えるのは極端な自己責任論です。それを克服するには、まずその普遍性と矛盾を捉えることが必要です。商品経済の普及による近代化の中で、人々は初めて経済的に自立し、独立・自由・平等な人間関係を結びます。そこに自己責任論が成立し、それは当たり前の意識として定着します。現代も商品経済社会である以上、そのことは継続します。しかし他方では資本主義経済は単なる商品経済ではなく、それを土台として資本=賃労働関係という搾取関係が成立しています。労働者は何とか生活していける水準の賃金を受け取るだけであり、病気や解雇などで失業すればたちまち路頭に迷うことになります。つまり資本主義経済が商品経済であるがゆえに自己責任論は普遍的イデオロギーとして成立しますが、それが同時に搾取経済であるがゆえに労働者が自己責任を果たすことは基本的に不可能なのです。こうして自己責任論は一方では広く受容され、他方では生活苦の根源ともなるのです。現代資本主義経済においては自営業者もまた市場において大資本の圧迫下にあり、自己責任をはたすことは困難となっています。さらに今日では、保育・介護等、個人生活の社会化が進み、公共的領域が拡大しています。このような自己責任論の限界を突破するものとして社会保障制度があります。だから社会保障分野においては自己責任論の受容と克服とをめぐる厳しいイデオロギー対立があるのです。憲法25条の生存権はこのような自己責任論を克服することで確立し、13条の幸福追求権も生存権の承認の上に成立します。
2.政治について
(1)民主主義観
ハシズムは「選挙絶対主義」「白紙委任論」であり、「おまかせ民主主義」の土壌に咲いたあだ花です。選挙は確かに民主主義の頂点に立つ最重要な制度ですが、民主主義の全体像を見れば、地域の自治会やPTAへの参加、職場での労働組合活動、諸要求実現を目指した署名やデモ・集会など、実に様々な活動が浮かび上がってきます。それらを無視して選挙結果ですべてを決めようというのは民主主義の矮小化であり、独裁への道です。
ハシズムの発した「決定できる民主主義」とか「決められる政治」という呪文は政府・主要政党・マスコミをたちまち席巻し、人々の閉塞感と政治不信にも便乗し、支配層のスローガンとして定着しました。そこでは、消費税増税・原発再稼働・オスプレイ配備といった民意に反する政策が次々に「決定」され、橋下氏が野田首相を最大限に賛美するに至りました。支配層の先兵としてのハシズムの役割が鮮やかに示されたのです。
(2)保守イデオロギー
保守政党・政治家のイデオロギーはおおざっぱに言って下記の三つに分けられます。もちろんそこには様々な過渡性や流動性があり固定的に見ることはできませんが、この基準は個々の政党・政治家の言動とその変化を解釈し現状を分析するのに役立ちます。
★ブルジョア教条主義:新自由主義(今日の主流派)
★ブルジョア現実主義:ケインズ右派など(高度成長期の主流派)
★真正保守主義、反動派(いわゆる靖国派)
ここで新自由主義と反動派は本来「水と油」であり、矛盾を持ちつつも、その多くの部分が野合し、いわば新主流派ブロックを形成しています。ハシズムの本質は新自由主義です。たとえば「君が代」強制のような保守反動派的傾向も、天皇崇拝・愛国心から発するというよりも、行政上の橋下専制支配の貫徹が中心だと言えます。そもそも資本主義と民主主義との関係を考えてみると、<資本主義経済=自由な市場+資本の労働者への専制支配>であり、自由な市場の側面が政治的民主主義に反映されるのに対して、資本の労働者への専制支配の側面は政治的専制への不断の傾斜に反映されます。ハシズムは、むき出しの資本主義としての新自由主義がこの後者の側面を政治に過激に延長したケースと考えられます。さらには、新自由主義のもたらす悲惨な経済的現実を糊塗するものとして愛国心・排外主義などが利用され、ここに新主流派ブロックが形成されます。いずれにせよ保守諸政党の離合集散は、支配体制の枠内で三つのイデオロギー潮流の葛藤を通して行なわれていると見ることができます。
(3)人々の意識とポピュリズム批判
ハシズムをポピュリズムと見るのが一般的であり、確かに橋下氏が自身のタレント人気を利用し、受け狙いの弁舌が巧みな点からすれば、それは妥当な見方です。しかし彼はあえて人々に「覚悟と努力」を迫り、福祉切り捨てを進めており、「維新八策」でも「りんごは与えられない」と宣言していることからすれば、ポピュリズムから外れています。この二面性こそが重要です。新自由主義グローバリゼーションを受容した支配層の政策は「飴なしのムチ」となっており、これを人々に受容させることが彼らの課題であり、難題です。ハシズムのいわば反ポピュリズム的ポピュリズムによって、それを突破することが、支配層から期待されています。
ここでポピュリズム批判に二類型あることに注意すべきです。一つは、消費税増税批判などに対する体制側からの反批判です。新自由主義的な経済整合性論・大所高所論の立場から、人々の経済要求自体を「ポピュリズム」と決めつけて排撃するものです(正当な要求実現はポピュリズムではないので、鈎カッコをつけます。ただし要求自体は正当でも裏づけのない政策に対しては鈎カッコをはずします)。もう一つは、君が代強制・思想調査・公務員バッシング・生活保護バッシングなどの反人権・反民主主義的イデオロギーと施策が批判されずに受容されている意識状況に対する批判です。両者は逆方向ではあるけれども、人々の意識の現状に対する批判という意味ではポピュリズム批判として一括されます。このポピュリズム批判の現象(ア)と分析(イ)を次のように図式化します。
(ア) ポピュリズム批判→人々の意識・ポピュリズム
(イ)
経済面 支配層からの経済「ポピュリズム」批判 → 人々の経済要求
政治面 人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム
(イ)の四つの要素を縦横に配置して組み合わせると、次の表のようにイデオロギー状況の四つの相が浮かび上がってきます。ハシズムは支配層からの経済「ポピュリズム」批判と政治ポピュリズムとを結合しており(B+X)、支配層による新自由主義的独裁イデオロギーとなっています。それとは正反対に、人々の経済要求と政治ポピュリズム批判とを結合させる(A+Y)方向への意識変革が必要です。そのためには「上から目線」を克服して、人々の状況と意識動向に内在することが大切です。同じフィールドで人々の意識の争奪戦を展開して、ハシズムや支配層のイデオロギーを克服せねばなりません。上からの「ポピュリズム批判」でハシズムを批判した気になっているのは誤りです。
政治 経 済 |
(X)政治ポピュリズム (反人権・反民主主義) |
(Y)人権派からの政治ポピュリズム批判 |
(A)人々の経済要求(場合によっては経済ポピュリズム) |
(A+X)人々の意識の現状 |
(A+Y)人々の意識の変革方向 |
(B)支配層からの経済「ポピュリズム」批判 |
(B+X)支配層による新自由主義的独裁 |
(B+Y)体制内リベラリズム |
(4)分断支配の構造 バッシング・自己責任論の役割
新自由主義政策がもたらした格差と貧困の閉塞感の中で、多くの人々は「自分はこんなに苦労しているのに報われない、なのにアイツは…」という気分を抱いています。問題はこのアイツというxに何を代入するかです。支配層の面々よりは、隣の市役所勤めの人とか、生活保護受給者なんかが浮かんでくることが多いでしょう。遠くよりも近くのほうが見えやすいですから。
こうした公務員バッシングや生活保護バッシングなどは閉塞感の中でのガス抜きになります。「自分はきちんとやっているのだから不当な既得権益は叩く」。バッシングの快感は「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「正義感的爽快感」です。こうした他者へのバッシングは自分への自己責任追及にもなり、支配層の欲する「覚悟と努力」の受容へと導かれます。これは日本人が悪政にも忍耐強いことの原因の一つとなります。
生活保護の捕捉率が低いため、非保護受給者からは、生活保護が貧困層内でも一部の不当な受益と映ります。すると以下の図式が成立します。
低捕捉率→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚
→生活保護バッシング→<@保護基準切り下げ+A捕捉率低下>
<@+A>→財政負担軽減
A捕捉率低下→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚
→生活保護バッシング→<@+A>……以下繰返し
貧困化とバッシングも以下のような循環を形成します。
貧困化→閉塞感充満→各種バッシング→<福祉削減+財政負担軽減+支配権力強化>
→貧困化→…(以下繰返し)
このように自己責任論に支えられたバッシングは、分断支配のみならず「民意」自身による支配の自動安定装置となっています。この悪循環を断つには、自己責任論とバッシングを克服しなければなりません。そして日本経済の真の対立軸を認識し、諸要求実現の運動を展開して、おまかせ民主主義を脱して草の根民主主義を創造していくことが求められます。これが支配層の狙いとその先兵となっているハシズムをくじくことになります。
3.教育と人間観について
ハシズム批判においては、個々の問題の基礎にある経済像の対決がおさえられねばなりませんが、それに照応する人間観・教育観の対決も重要です。ハシズムの競争と強制の教育がもっぱら人間と子どもをグローバル資本主義の人材として捉えるのに対して、発達主体として捉えることを対置しなければなりません。
したがって直接ハシズム批判ではないけれども上記のような意味で参考になる、佐貫浩氏の「今日における教師の専門性のあり方を考える」(2012年『前衛』5月号所収)の内容にそって以下のように報告しました。
格差・貧困化の進行と過度に競争主義的な環境は、子育て・教育の困難を増します。その上、条件整備を怠り、もっぱら教師への競争的管理を強化した教育政策の失敗の下で、教師の自由が抑圧され、専門性が剥奪され、子どもと取り組むことが非常に困難になっています。
学校から職業参加への橋渡しは、高度成長期の教育競争社会ではそれなりに機能しましたが、今日では、学校の競争過程は雇用の正規・非正規の選別システムの役割を果たすに至りました。もはや正規雇用という生存権保障は、自分の学力の自己責任でつかむものとされ、個人の競争的サバイバルにとらわれた学校や親の下で、子どもの絶望、教師の無念が大量生産されています。
文科省等から「知識基盤社会」という考え方に立って、「グローバル戦略に立って世界を制覇する企業戦略の側から求められる労働の質と性格」が規定する学力の質が提起されています。それを基準に子どもの学力を序列化する場合、以下のような問題点が指摘されます。
1. 普通の大量労働に対する積極的な位置付けや関心を欠いた人材規定
2. 知的上層階層の労働者に焦点化した人材規定
これを正規労働基準としてそれ「以下」の差別を正当化する
3. 地域循環型社会、連帯型・協同型社会を担える共感力や表現力・道徳性を
いかに育てるかという課題意識を欠く
これに対するオルタナティヴとして、<知的競争で他者を打ち負かさなくても、普通の能力で、人間的な労働生活を送り、未来社会の建設に参加していくことができるという未来社会像>にふさわしい学力を構築していくことが必要です。
競争で勝てない「学力」を理由に、生存権を保障できない非人間的条件の労働を割り当てる現代日本の人権剥奪こそが、最大の社会的不正義なのであり、それをそのままにして、若者の生存権保障を、「学力」の「自己責任」にゆだねてはなりません。
そこで学校と教師の責務としては、以下のようなより質の高い学力形成が目指されます。
1. 自己の能力への信頼感の形成と自分の能力を使いこなす方法の獲得
2. 知識・科学・技術の獲得
3. 協同と政治的参加への力の獲得
こうした中で教師には、子どもの声を聞き取り、人間本来の生きる力・学ぶ力を引き出すような「希望を拓く」専門性、あるいは「国民の教育の自由」を立ち上げる専門性が求められます。さらには教師の労働者性と専門性の現代的統一が追求されます。そこで佐貫氏は「公務労働としての教師の労働の質と量の水準が、住民の生存権保障の水準を規定するといって過言ではない。しかしそのためには、この公務労働、公務労働者の価値、それが抱える困難や課題を、親や地域住民に開き、その公務労働が住民の生存権保障にとっていかなる意味をもつものであるかの絶えざる理解と合意を形成し続けていかなければならない。 …中略… 真の連帯こそが事態を切り開く力となるだろう」(同論文、204ページ)と結んでいます。これは教師のみならずすべての人々に向けられた呼びかけと言えましょう。
本報告については以下参照。
文化書房HP 「ハシズム批判の基盤的論点」
[最後に]
学習会の討論では以下の意見が出ました。
○憲法13条(個人の尊重、幸福追求権)について、新自由主義・自己責任論に利用される、という意見があるが、各個人が自分らしく生きる権利として理解し、活用すべきだ。
○支配層の欲する「覚悟と努力」の受容という論点についていえば、アニメなどが子どもたちに与える影響をどう考えるかが問題となる。
○日本経済の立て直しとして、内需循環型経済というが、その具体像が十分に見えてこないので、もっと深く考えたい。
○支配層やハシズムの想定するグローバル経済の「人材」としての人間・子どもと、「主体」としての人間・子どもとの対立は、「育成」と「発達」という言葉に表れている。
○*下層地域の中学校で学力よりまずルール・道徳などが身につくように「育てる」こと
が課題となっている。学級崩壊が当たり前。授業中に歩き回る。教師が3人いないと授業ができないクラスがある。「僕も分かった」というレベルまで下りていく必要がある。
*「規範意識」という言葉が振り回されているが、強制よりまず意欲を持たせることが必要だ。
*いっせい授業は世界では例外的。学びあいの授業が日本でも始まっている。
*学校は子どもの集団があることが家庭とは違う。ここに着目して実践すべきだ。
これらをうまくまとめられず、また記録不備で他の多くの議論を紹介できないことをお詫びしつつ、今後さらに様々な意見に学び、「現代の人間形成」を深めていきたいと思います。
(おさかべやすのぶ)