斎藤幸平『人新世の「資本論」』の「第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」についてのレジュメです |
ホウネット・未来研究会第21回 2021年8月24日
テキスト:斎藤幸平『人新世の「資本論」』 (集英社新書、2020)
報告者:刑部泰伸 斜体:刑部コメント、他の引用
第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
▼欠乏を生んでいるのは資本主義
典型例:土地 投機による価格高騰 → 居住の貧困
VS コミュニズムの豊潤さ
投資目的の土地売買禁止 土地価格低下、使用価値は変化せずに使用可能
*基準の視点:人々にとっての欠乏と潤沢さ
▼「本源的蓄積」が人工的希少性を増大させる
「囲い込み」:共同管理された土地などからの農民の強制的締め出し
「本源的蓄積」論の従来の理解:資本主義成立の血塗られた前史
資本主義批判としての理解:
資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程
▼コモンズの解体が資本主義を離陸させた
前資本主義社会の共同体 共有地の管理
→ 市場化、共同体解体後も残る共有地:「コモンズ」
「囲い込み」:その徹底的解体、排他的私的所有への転換
→ 人々は生活手段を失い都市へ 賃労働者へ 全面的市場化、資本主義の離陸
▼水力という<コモン>から独占的な化石資本へ
河川というコモンズ:潤沢で持続可能、水や魚の提供、無償のエネルギー源
「無償で潤沢な水力」から「有償で希少な石炭」への移行はなぜ起こったか
輸送可能で排他的独占が可能なエネルギー源を化石資本として採用
希少なエネルギー源を都市で独占し、生産を組織化し、資本は労働者に対して優位に
→ このような希少性にこだわった説明はどうなのか? (*注)
第7章 305ページでは化石燃料の「エネルギー収支比の高さ」を指摘
▼コモンズは潤沢であった
土地や水といったコモンは一定の社会的規則の下で誰でも無償で必要に応じて利用できた
共有財産であるからこそ適度な手入れ、利潤追求目的ではないので自然と共存
VS 私的所有制 コモンズを解体し希少性を人工的に生み出した
所有者の好き勝手 残りの人々の生活の質の低下 自然と人間の関係性の破壊
▼私財が公富を減らしていく
「ローダデールのパラドクス」 アダム・スミス国富論の批判
潤沢さが減り希少性が増える:「公富」の減少によって「私財」が増大していく
「私富」の増大は貨幣で測れる「国富」を増やすが、
真の意味での国民にとっての富である「公富」=コモンズの減少をもたらす
▼「価値」と「使用価値」の対立
資本主義以前の社会では、「使用価値」の生産とそれによる欲求の充足は
経済活動の目的そのものだが、資本主義社会では「価値」実現の手段に貶められる
cf 商品生産一般と資本主義:目的の違いによる「価値と使用価値の対立」の現われ方
自営業者の価値追求(生業維持):e.g. 職人仕事への矜持と「売れる商品」
VS 資本主義企業の剰余価値追求(価値増殖): e.g. 軍需産業の超過利潤
▼「コモンズの悲劇」でなく「商品の悲劇」
「コモンズの悲劇」:無料だったらみんなが無駄遣いしてしまう
「商品の悲劇」:水に価格を付ければ、「資本」として取扱い、
投資の対象として価値増殖する思考に横滑りする
▼新自由主義だけの問題ではない
ハーヴェイ批判:「略奪による蓄積」は新自由主義だけではない
「本源的蓄積」の神髄は、コモンズの解体による人工的希少性の創造
資本:希少性による利潤拡大 VS 99%の私たち:欠乏の永続化
▼希少性と惨事便乗型資本主義
コモンズとは、万人にとっての「使用価値」
共同体が独占的所有を禁止し、協同的な富として管理
商品化されず、人々にとって無償で潤沢
私的所有化:希少性の増大が、商品としての「価値」を増やす (→ 間違い)
▼現代の労働者は奴隷と同じ
コモンズを失い商品世界に投げ込まれた人は「貨幣の希少性」に直面する
「絶対的希少性」が貧困の原因である ( → なぜ貨幣は「希少」なのか)
▼負債という権力
無限に欲望をかきたてる資本主義の消費過程で、労働者は借金を負い、
資本主義に従属する → 返済のための長時間労働、生活を犠牲に
→ 過剰生産、環境破壊、生活は商品依存に
⇒ 経済成長による生活満足度の低下
▼ブランド化と広告が生む相対的希少性
無限の消費に駆り立てるブランド化:希少性を人工的に生み出す手法
消費主義社会:「満たされない」という希少性の感覚が資本主義の原動力
マーケティング、パッケージングの費用は大きいが「使用価値」は変わらない
cf 資本主義下での自由時間創出の可能性とその抹殺:マルクス『経済学批判要綱』より
「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである」(『資本論草稿集A』、494ページ)
*資本主義的生産力発展と使用価値の増大、消費社会の問題、未来社会の自由時間については、拙文「生産力発展と労働価値論」(抄)参照
▼<コモン>を取り戻すのがコミュニズム
コミュニズムは「否定の否定」
初めの否定:資本によるコモンズの解体
次の否定:コモンズの再建、ラディカルな潤沢さの回復、
→ 生産手段の自律的・水平的共同管理 例:電力をコモンに <市民>営化
▼<コモン>の「<市民>営化」
太陽光や風力はラディカルに潤沢 → 希少性を作り出せず、資本になじまず普及しない
だから<市民>営化 エネルギーの地産地消
収益は地域コミュニティの活性化に 住民はコモンへ関心寄せる 持続可能な経済へ
▼ワ−カーズ・コープ――生産手段を<コモン>に
労働者たち自身による社会的所有
労働者が共同出資し、生産手段を共同所有・共同管理 労働の自治・自立に向けた一歩
マルクスは協同組合を高く評価し、可能な<Rミュニズムと呼んだ
▼ワ−カーズ・コープによる経済の民主化
「衰退する福祉国家」と「資本に包摂された労働組合」に対するオルタナティヴ
富の再分配にとどまらず、生産関係そのものの変革を目指す
競争の抑制、開発・教育・配置換えの意思決定を自分たちで
事業継続の利益確保はめざすが、短期的利潤最大化や投機活動はしない
→ 経済民主化の試み
自分らしく働く、地域の長期的繁栄の投資計画、社会連帯経済の促進
ワーカーズ・コープも資本主義市場競争に晒されるが、社会全体を変える一つの基盤
▼GDPとは異なる「ラディカルな潤沢さ」
<コモン>を通じて、市場と国家に依存せず社会的生産活動の水平的共同管理を広げる
→ 貨幣によって利用機会が制限されていた希少な財やサービスを潤沢なものに転化
消費主義・物質主義と決別したラディカルな潤沢さ
→ 商品化の領域が減る → GDP減少=脱成長
*労働時間短縮、自由時間拡大 生活の安定 消費主義でない豊かな人生 環境も救う
▼脱成長コミュニズムが作る豊潤な経済
脱成長は貧相な生活の忍耐ではない
それを強いるのは人工的希少性に依拠した資本主義の緊縮システム
私たちは十分に生産してないから貧しいのではなく、
資本主義が希少性を本質とするから貧しい
→脱成長コミュニズムの「反緊縮」はコモンの復権によるラディカルな潤沢さの再建
▼良い自由と悪い自由
「ラディカルな潤沢さ」は自由概念の再定義を求める
マルクスの「必然の国」(生存に必要な生産・消費活動)と
「自由の国」(人間らしい活動としての芸術・文化・スポーツ等々)
「自由の国」は消費主義ではない 物質的欲求から自由な集団的で文化的な活動領域
*無限の成長・長時間労働・際限ない消費ではなく、
生産は少なくても公正で幸福で持続可能な社会に向けての自己抑制を自発的に
▼自然科学が教えてくれないこと
どのような世界に住みたいかは自然科学の問題ではない
自然的限界の設定は経済的・社会的・倫理的な決断を伴う政治的過程の産物
▼未来のための自己抑制
気候変動のような不可逆性を避けるため、余計な介入をしないという自己抑制が必要
VS 資本の専制下では規制なき消費に人々を駆り立てる:資本蓄積・経済成長の条件
→ 無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出す
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(*注)ネット上の書評から
この章で展開されている水やエネルギーに関する筆者の主張はエネルギー科学・水文学といった分野が専門外なのでしょうがないのかもしれないが、理解のレベルが低すぎる。人類は水力を捨ててもいないし、人類史上で土地や水が安定的に「潤沢」であったことなどない。今、著者の目に土地や水が潤沢に見えるとするなら、それは言うまでもなく化石燃料のおかげとしか言い様がないのだが。産業革命時の化石燃料が広がった理由は資本の囲い込みや希少性云々の話ではなく、1単位の石炭投入で蒸気機関を使ってそれ以上の石炭が採掘できるという、それまでのエネルギー利用に関する制約を突破するまさに革命的な強みがあったからである。筆者の理屈でいえば、別に木材・木炭でも独占できるし持ち運びも出来るのだが、木炭では投入した以上のエネルギーを得ることはできないし、化石燃料とはエネルギー密度が圧倒的に違う。マルムの議論もそうした化石燃料のエネルギーの特性を前提にして資本主義社会発展への影響を論じているだが、エネルギーやら物質を扱う自然科学に関する理解が浅いがために引用の仕方が自らの主張を補強するための恣意的なものになってしまっている。「マルクスの遺言」を引き継ぐというのであれば晩年まで化学・農学・生物学・物理学などの当時の最新の成果を出来うる限り自らの思想に取り込もうとしていたマルクスに敬意を払って、この著者も他の学問領域への理解を深める必要があると思うのだが。
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☆問題提起
「希少性の論理」一本やりの展開は一面的で、そこには用語のあいまいさもある
希少性で何でも説明できるように見えるが、それによって個々の論理が不鮮明になり、
大ざっぱに統一されて分かった気になり、資本主義の本質を見逃している
◎ブルジョア理論における経済学の定義の定番:希少性概念が中心
「経済学は人間行動を研究する学問である。その際、人間行動を、諸目的と代替的用途をもつ希少な諸手段のあいだの関係として捉える」(ライオネル・ロビンズ)
→ 一見、どこにでも適用できる抽象的な経済学の定義のようだが、事実上、商品生産における独立した競争的な人間行動を想定している。斎藤が指摘するように、希少性のないものもある。そこでコモンを共同利用する共同体のあり方とそこでの行動様式は眼中にない定義になっている。資本主義的生産関係(搾取関係)もない。
→ どのような対象にも適応されえる経済学一般の定義のように見えて、
実は資本主義経済を市場経済に一面化した経済学の定義
cf エンゲルスの定義(『反デューリング論』)
「経済学は、最も広い意味では、人間社会における物質的な生活資料の生産と交換とを支配する諸法則についての科学である。経済学は、本質上一つの歴史的科学である。それは、歴史的な素材、すなわち、たえず変化してゆく素材を取り扱う」
ロビンズの経済学の定義自身とは違って著者は「資本主義+希少性」を批判するのだが、
希少性の論理次元にこだわるあまりに、
資本主義的搾取への批判が欠落する(先の定義の呪縛下にある)
希少性を中心として「資本主義VSコミュニズム」を
「市場VS共同体」次元の問題だけに解消し、「搾取VS非搾取」次元が欠落する
◎「欠乏」「希少性」「潤沢さ」の多義性・あいまいさ
希少性の論理で言っていることは結局、
生産手段の私的排他的所有から社会的共同所有への転換という主張
それを「欠乏」「希少性」「潤沢さ」という言葉で潤色することで論理が不鮮明に
希少性がなければ価格はつかないが、希少性があるからと言って価格がつくわけではない
e.g. 封建的共同体の自給自足経済で、農民がわらじをつくる
それは希少だが価格はつかない
希少性は価格形成の必要条件だが十分条件ではない
商品生産体制(社会的分業と生産手段の私的所有)によって始めて価格が付く
希少性を基軸にした「欠乏VS潤沢さ」論理が狙う著者のイメージ戦略
「資本主義は豊かで、社会主義は貧しい」という確立した一般的イメージの逆転
誰にとっての豊かさか?
→ 希少性を人工的につくり出す資本主義下で人々は貧しく、
コミュニズム下において人々は潤沢である
このイメージ転換は世論対策上、意味がある しかし用語は不鮮明
希少性の論理において コモンズとそれ以外の生産物との区別は?
生産手段と消費手段の区別は?
太陽光・風力は生産手段としても消費手段としても確かに素材的に潤沢だが、
土地はそうではない そこで言うコミュニズム下での潤沢さとは、
社会的所有による共同管理、一定の規範の下で誰にでも開かれ使用が自由であるという状態を指す この潤沢さとは比喩的表現に過ぎない それを素材的潤沢さと錯覚させている
同様に通常の使用価値はどれもが素材的に潤沢であるわけではない
労働者の消費手段について言えば、
資本主義下での希少性なるものは強搾取による低賃金が原因
コミュニズム下でのその潤沢さなるものは搾取から解放された状態を指す
問題の核心は使用価値の希少性ではなく搾取の有無
著者のいう「希少性」の意味するのは、私的排他的所有による有償性
同「潤沢さ」の意味するのは、
社会的所有、民主的共同管理、構成員にとっての自由な使用権に基づく無償性
ここでのキーは、「希少性VS潤沢さ」ではなく生産手段の所有形態、社会化の推進
資本主義下で消費主義的に歪められた「欠乏と潤沢さ」の本当の意味を考えることは大切
しかし希少性を基軸に、それを無理に拡張することで経済理論が不鮮明になっている
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※ <参考資料> 以下は刑部泰伸「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』第86号、2006年5月、所収)から第5節の抜粋
《要旨》
異時点間の価値の比較について、「生産性上昇に応じて労働の価値形成力も上昇する」とする見解と、「あくまで同一労働量は同一価値量を作り出す」とする見解がある。本稿では、使用価値と費用価値との逆方向への運動と、生産力発展による両者の統一、という杉原四郎の歴史貫通的視点を参考に、価値・使用価値の二重分析の観点から後者の見解の正当性を主張する。前者の見解は生産性上昇による価値・使用価値の平行的増大という立場になり、物量分析への一元化の中で、生産物価値の減少の意義が見失われ、労働時間短縮=自由時間増大という人類史の課題とそこにおける資本主義段階の位置付けが不明確となる。
☆目次
1.国民所得・経済成長と価値をめぐる討論の経過
2.刑部による問題提起の理論的内容
3.川上則道氏の批判の理論的意味
4.和田豊氏(『価値の理論』)による総括的批判
5.価値論(価値・使用価値の二重分析)の意義
経済本質論(杉原四郎著『経済原論1-「経済学批判」序説』)、未来社会論の観点から
6.まとめ
<補論> インフレ率(インフレ指数)という用語について
…中略…
5.価値論(価値・使用価値の二重分析)の意義
経済本質論(杉原四郎著『経済原論1-「経済学批判」序説』)、未来社会論の観点から
ジョーン・ロビンソンは次のように労働価値論を根本的に批判している。
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生産力や、国民所得の成長というのは、財の産出量の流れと理解されている。そこで注目しなければならないものは、まさに、一人一時間当りの物質的産出量の変化である。ところが、価値表示においては、一時間は、あくまでも一時間である。一定の労働時間は、年々、同じ価値しか生産しない。しかし問題はそこにあるのではない。われわれの知りたいのは、一定の労働時間がどれだけの物質を生産しているかということである。
『経済学の考え方』71ページ
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こういう批判にあわてて、生産性の上昇による使用価値量の増大を価値量の増大として表現したいのは、経済分析での有効性を確保するためであろう。しかし前述のように労働価値論的意味づけを明らかにして、政府統計の実質国民所得などを実物的指標として分析すればよいのであって、価値論を変更する必要はない。一物一価原理を時系列に適用して、使用価値量の増大を価値量の増大とするのは、価値量を物量に解消する擬似価値論である。それではせっかくの価値・使用価値の二重分析という労働価値論の特性を放棄して物量分析に一元化し見失うものが出てくる。以下ではそのことについて経済本質論という歴史貫通的観点から述べてみたい。
杉原四郎氏は資本主義把握に先だって、歴史貫通的な経済本質論を解明する。そこでは富は使用価値と費用価値という二重性格を持つが、それは労働の二重性格(具体的有用的労働と抽象的人間的労働)に由来する。人間は生活に必要な経済財を調達するために、有限でかつ色々に使用可能な時間とエネルギーの一定部分を労働として支出せねばならない。つまり労働は人間が生きていくために支払わなくてはならない本質的な費用であるので、抽象的人間的労働が作り出す価値をあえて費用価値と呼ぶ。富を消費する人間としては、使用価値のできるだけの質的量的な向上がのぞまれ、富を生産する人間としては、費用価値のできるだけの量的節約がのぞまれ、両方を解決するために生産力の発展を軸とする富の拡大再生産が求められるのである。
人間生活にとって最も本質的な資源として時間があり、労働時間がその時間の基底的部分を構成し、生活時間から労働時間をさしひいた残りの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能になるので、労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえない。そしてこの認識に基づくことで、労働生産力の発展が人間の歴史を貫く基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望も開ける。生産力の発展と合理的な時間配分とは、労働時間の節約のための二つの本質的な解決策である。
以上の杉原氏の主張では、使用価値と費用価値とについて、前者の増大と後者の減少という逆の動きが期待され、それを同時に実現するのが労働生産力の発展であることが指摘されている。生産性の上昇によって生産物一単位あたりの費用価値は減少し、消費される使用価値量の増大を上回って生産性が上昇するなら、労働時間が節約され自由時間を増やす可能性が生まれる(これは逆に、ムダな使用価値量の追求によって生産性上昇の効果が労働時間短縮につながらない可能性をも示唆している)。ここでは当然大前提として、一定時間の労働投下はあくまで一定の費用価値であって生産性のいかんにかかわらず費用価値は変化しないことが重要である。また費用価値としての労働時間は、生活時間から自由時間を奪う時間であるので、その物理的時間の長さが問題であって、その時間内での生産性は問題とはならないのである。
使用価値の増大と費用価値の減少、そのための生産力の発展と合理的な労働時間配分という人類史の基本方向は、資本主義経済ではどのように貫かれるのであろうか。大まかにいえば市場メカニズムと恐慌=産業循環によるが、その際、問題なのは資本の運動の推進動機は価値増殖だということである。これは人類史の法則に逆行する。しかし価値増殖の方法として特別剰余価値の取得をめぐる競争が展開されて生産性が上昇し、結果的に商品価値の減少が実現される。そしてまた減少した価値を新たな出発点として価値増殖に邁進する、というのが、下りのエスカレーターを登るような矛盾に満ちた資本の運動原理である。生産性上昇下で投下労働総量が一定ならば、同一労働量は同一価値量を作り出すという原則からは、総使用価値量は増大しても総価値量は不変である。ところがその際に生産性上昇とともに労働の価値形成力が増大するとみなせば、総使用価値量だけでなく、総価値量も増大することになる。生産力発展の下での使用価値量と価値量との平行的増大というこの見方(価値論の物量分析への一面化)からは、生産力発展が価値増殖に直結することになる。これは一方では上記の資本の矛盾に満ちた運動を捉えられない表面的な見方であるし、他方では資本の運動をも貫く人類史の法則を看過することになるのである。逆に同一労働量は同一価値量を作り出すという原則の見地から、費用価値の減少という人類史の課題を資本主義分析の中にも折り込むことから生まれる批判意識こそが重要なのである。
資本主義が人類史の一時代として存在理由の弁明を許されるのは、この時間論の観点からは、そのたぐい稀な生産力発展によって自由時間の飛躍的増大の可能性を作り出すという点にある。しかし「資本の傾向はつねに、一方では自由に処分できる時間を創造することであり、他方ではそれを剰余労働に転化することである」(『経済学批判要綱』)ので、資本の本性からは労働時間は短縮されず、潜在的自由時間は搾取の対象に転化してしまうのである。資本は常に剰余価値の担い手たる使用価値を追い求め、それを人々の生活に押し付ける。人々は自分の自由時間に自分で工夫し自身の生活を組み立てるのではなく、資本の提供する商品に生活を埋もれさせるという消費社会のスタイルに漬かってしまう(手間ひまかけずに金かける)。そういう「豊かな消費生活」を支えるために生産者としては過剰労働が強制される。グローバリゼーションの中で24時間眠らない都市があたかも当り前で、それをしなければ大競争から脱落するという強迫観念が存在する。しかし病院とか警察などが24時間可動体制をとるのは必要なことだが、工場や商店が24時間開いているのは、人間生活の必要からでなく、資本の価値増殖の必要に過ぎないのである。資本が人々の自由時間を盗んで労働時間に転化して価値増殖を強行しているのに対して、実は費用価値の縮小=自由時間の拡大こそが人類史的法則であり、そのためには生産力の向上だけでなく、やみくもな使用価値の増大を控えることも必要なのである。今日のグローバリゼーション・「構造改革」とは、資本の価値増殖に合わせた形での生産力拡大、労働時間増大=自由時間の縮小=生活の希薄化(全生活時間の資本への従属)のいっそうの追求であり、そこでの新商品の開発とは価値増殖の担い手としての使用価値の発見であり、そうである以上は物量の追求は人々の生活時間の剥奪に他ならない。それに対して人間的生活時間の充実=自由時間の拡大=労働時間短縮を目的とした生産力のあり方と使用価値のコントロールの立場で対抗することが必要である。24時間社会を許さないグローバルな闘いが求められる。それは資本の価値増殖活動に一定の規制を加えて生産力増大の成果を人間生活に還元させることである。
…中略…
参考文献
(1)川上則道『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』、新日本出版社、2004年
(2)山田喜志夫「『経済成長』について」、『経済理論学会年報第8集』所収、青木書店、1971年
(3)和田豊『価値の理論』、桜井書店、2003年
(4)ジョーン・ロビンソン、宮崎義一訳『経済学の考え方』、岩波書店、1966年
(5)杉原四郎『経済原論1「経済学批判」序説』(マルクス経済学全書1)、同文舘、1973年
(6)置塩信雄『マルクス経済学 価値と価格の理論』、筑摩書房、1977年
(7)原薫『現代の通貨』、法政大学出版局、1990年
(8)松本朗「超金融緩和政策と『デフレ』とが共存する条件」、『武蔵大学論集第五十巻第三号』所収、2003年
(9)刑部泰伸「ゼロ成長の国民所得論」、1999年、「文化書房ホームページ」http://www2.odn.ne.jp/~bunka 内の「店主の雑文」所収
(10)同「物価下落をどう見るか」、2003年、同前所収
(11)同「月刊『経済』の感想、2003年7月号」、2003年、同前所収
(12)同「不況対策に賃下げ?!」、2002年、同前所収