月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2012年1月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2012年1月号

         年金の物価スライド制について

 野田政権は年金受給額の大幅引き下げを画策しています。これに対してたとえば「しんぶん赤旗」12月4日付は、政策的観点から説得力ある反論を効果的に展開しています。私としては、それに加えて問題をしぼって、「物価スライドによる年金引き下げ」そのものが理論と政策の総合的観点からして不適切であることを論じます。この主題に関しては、労多くして効少ない議論ではありますが、現状分析の理論的基礎としては広い意義があるのではないかと考えています。

政府は「物価が下がっているのだから年金も下げる」という一見もっともらしいことを言います。このもっともらしさをもたらすのは物価変動に対する誤った見方だと思います。そこには高度成長期のインフレと今日の物価下落とを、単なる物価のプラスとマイナスという対称性において捉える錯覚があるのではないでしょうか。確かに結果としてみれば、両者は通貨の購買力の減少と増大という「対照」的な動きを示していますが、原因を分析すると、「プラス・マイナス以外は同じ」という「対称」性はそこにはありません。「対称性の破れ」がある、というよりそもそも初めから対称性はありません。インフレ期には年金を上げたのだから、物価が下がっている今は年金を下げるべきだ、という議論の根底には「対称性錯覚」があるといえます。この「対称性錯覚」の原因の一つが、今日の物価下落をデフレと表現する誤りにあります。インフレとデフレには対称性がありますが、今日の物価下落はデフレではないのです(1)年金の物価スライド制の本来の意味は、通貨価値の増減に応じて年金額を調整するということでしょうが、消費者物価指数はその指標としては原理的に厳密に言えば不適当なのです(2)。物価変動の要因を考えることで(1)と(2)の意味は明らかになり、結論を先回りして言えば、インフレ期に年金を上げることは妥当だが、今日、年金を下げることは適切でないと主張できます。物価スライド制は形式的に運用するのでなく、その真意に照らして運用するべきです。

物価変動の主な要因は(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給の変動です。

1)通貨価値が上昇すれば物価は下がり(デフレ)、下落すれば物価は上がります(インフレ)。不換制下では恐慌を防止するため通貨増発が通常であり(恐慌をインフレで買い取る)、通貨価値が上昇することは普通ありません。松方デフレやドッジラインのように、高度なインフレを収束するための強行策ではデフレが実現しますが、バブル崩壊後の今日の長期不況下では恒常的な金融緩和政策が実施されているので通貨価値が上昇することはありません。したがってそれが物価下落の原因ではありません(今はデフレではない)。高度成長期には成長マネーの散布で通貨価値がだいぶ下落したと考えられますが、今日も緩やかに下落していると見るべきではないでしょうか。それは確言できませんが、いずれにせよ通貨価値については両者で逆方向の動きがあるとは言えません。ただし高度成長期にはインフレが高進し(通貨価値が大きく下がり)、今日では安定的である(少なくとも通貨価値は大きく下がってはいない)という量的差は重要です。

 (2)生産性が上昇すれば物価は下がり、下降すれば物価は上がります。資本主義下では通常生産性は上がり、下がるのは例外的状況なので、これも高度成長期と今日とで量的な差があるとはいえ、逆方向への動きはありません。

 (3)商品に対する需給動向では、需要超過になれば物価が上がり、需要不足(マイナスの需要超過、供給超過)になれば物価は下がります。需給動向は主に景気変動に左右され循環的に動きますが、中長期的に見れば、高度成長期には今日より需要超過が有力であり、今日では需要不足が恒常的です。ここでは両者で逆方向の動きが見られます。

 以上から、おそらく高度成長期の物価上昇は、(2)生産性の急速な上昇によって緩和されつつも、(1)通貨価値の下落を基調として、(3)ときに商品への需要超過をともないつつ実現したと言えましょう。インフレ的成長下での物価上昇です。これに対して今日の物価下落は、(1)ずぶずぶの金融緩和政策によって緩和されつつも、(3)商品需要の深刻な不足によって促進され、(2)生産性の相対的に緩慢な上昇によって助長されることで実現していると言えます。

残念ながら統計的検証はできておりませんが、高度成長期の物価上昇はインフレが主因であり、今日の物価下落は需要不足が主因であると考えられます。

 ここで物価指数の性格を考えます。物価指数は統計値の時系列的比較を可能にするものです。名目値を物価指数で割って実質値を出し、通貨価値の変動をならすものだ、とそれは通常思われています。しかし実際にはその割り算では(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給の変動がすべて捨象されます。たとえば基準年に商品Xの価格が1000円ならば、他の年にどのような価格になろうとも実質値は1000円である、とみなすのが物価指数の考え方です(この場合、名目値がどうあれ、物価指数で割れば実質値が1000円になるように指数は計算されている)。だから実質値は実物基準であり、実物量の増減は反映するけれども、通貨価値や生産性や商品需給がどのように変わろうとも反映しません。通貨価値だけを不変とみなすわけではないのです。逆にいえば、そのような実質値を算出するための除数としての物価指数は、通貨価値・生産性・商品需給の諸変動をすべて反映しています。だからこそ名目値をそれで割ることでそうした諸変動をすべて捨象できます。注意すべきは、物価指数は諸変動の総和を反映するだけなので各変動の構成比は分からないということです。この構成比を判断することが大切であり、通俗的には物価指数は通貨価値の変動だけを反映すると思われていることが問題なのです。

 高度成長期には物価上昇の主因がインフレなので、物価指数は主にインフレによって上昇しています。これに合わせて年金を増額するのは通貨価値の下落に対する正当な補償措置となります。しかし今日の物価下落の主因は商品に対する需要不足なので、物価指数は主に需要不足に対応して下落しています。だからこれに合わせて年金を減額するのは「通貨価値の上昇に対する正当な対抗措置」とは言えず、需要不足への追認となります。ここで物価スライドを発動して年金を減額すべきではありません。

 こういう議論に対して「原因はどうあれ、物価下落は結果としては通貨の購買力の増大になるから、年金の減額は正当である」という反論もありえます。しかしこれは上記のように「需要不足への追認」を容認することになります。今日の需要不足は調整されざる不均衡として、日本経済の失われた二十年を規定しています。このような不均衡の持続を牽引しているのは、賃金の持続的下落です。名目賃金が物価下落を超えて下がることで実質賃金さえも下がっています。生活水準の低下傾向が定着しています。「物価下落による通貨の購買力の増大に応じて、賃金や所得が下がってそれなりに安定している」という状態ではありません。俗に言う「デフレ・スパイラル」の悪循環に陥っています。グローバリゼーションによる「底辺への競争」、株主資本主義による短期的利潤追求を目指した搾取強化などによって、この需要不足は止むことなく推進され、国民経済への縮小圧力が持続しています。このとき「物価スライドによる年金額削減」がどのような政策的帰結をもたらすかは明白です。

価値と価格の乖離の観点にも触れます。商品や労働力の価値は、それぞれの再生産を保障する水準を表現しています。国民経済の再生産はこれを土台としています。もちろん商品価格や賃金という市場価格次元では短期的変動による価値からの乖離が常態ですが、本来長期平均では価値の水準が保持されているはずです。ところが需要不足による物価の持続的下落では、価値からの価格の持続的下方乖離が生じ、国民経済の再生産が困難になっています。

ここで物価指数をどう読むかが問われます。1を切った物価指数で名目値を除して、大きくなった実質値に幻惑される前に、小さくなった物価指数に、構造的な需要不足という日本経済の病理を見るべきでしょう。今日、実質値より名目値の方が実感を反映するというのは、決して恣意的な感想ではなく、「専門家」による誤用を超えた人々の直観があるというべきでしょう。

参照:拙文「名目値と実質値」(文化書房ホームページ「店主の雑文」より)

 

          「欲しがりません、勝つまでは」

 年金支給額の削減は福祉削減の一環であり、賃金切り下げという資本の強搾取とリンクしています。それらはまた大資本・富裕層優遇税制などと一体(「社会保障と税の一体改革」!)となり、日本資本主義の蓄積様式(経済成長のあり方など)を規定しています。圧倒的多数の人民からすれば、これは生活と労働を切り縮められ、対極的に一部の支配層だけが「自己実現」可能な体制に見えます(「99%対1%」の世界)。それのみならず、人民が虐げられた結果として内需が不足し、物価下落をともないつつ、国民経済の再生産の縮小が進行し(いわゆる「デフレ・スパイラル」)、資本にとってもはなはだ不首尾であるはずなのに、この蓄積様式を改めるどころか、いっそう脅迫的に追求しています。

 国際競争力がすべてであり、それに劣後すれば日本経済は終わりであり、人民の生活も成り立たない。それがいやなら、大資本を優遇して国際競争力を向上させるために、賃下げ・福祉削減・消費税増税・法人税率引き下げ等々の諸政策を強力に推進しなければならない。これを「不公正だ」「階級的だ」などとののしるのは大局を見ない小児的観点に過ぎない。大所高所に立って苦難に耐えよ。それだけではない。自らの生活と労働のいたらない点をよく反省して一億総カイゼンに努めるべきである。福祉バラマキなどのポピュリズムは断固として退け、国民に覚悟を迫り覚醒させるのが真の指導者の役割である。

 支配層の本音を言えばそんなところだろうか。マスコミ論調のオブラート(民主的タテマエ)を剥げば、こうした「真摯な使命感」がかぐわしくも漂ってきます。これは要するに現代の「欲しがりません、勝つまでは」でしょう。天皇崇拝と聖戦イデオロギーによる日本軍国主義のスローガンが、競争力崇拝というブルジョア・イデオロギーの支配する日本資本主義に事実上、よみがえっているのです(何よりも無限の生産力発展=富の増大=欲望の解放を歴史的使命とする資本主義にとって、これほど似つかわしくない前近代的スローガンはないと思いますが、それほど行き詰まっているのでしょう。競争力強化と欲望の解放とが両立しない)。戦争はいつか(負けて)終わり、このスローガンもばかばかしいイデオロギーとともにゴミ箱に捨てられました。それは今日では軽侮の念をもって省みられるのが通常です。

しかし国際競争はいつ終わるとも知れません。「自由市場」や「競争力」への物神崇拝は支配的です。国際競争に勝った・負けたといっている限りは、人間存在は資本に負けているのです。剰余価値追求による競争が結果として、人間により良い使用価値をもたらす限りでは、その競争には進歩的意義がありますが(ブルジョア・イデオロギーはこの局面だけを一面的に反映している)、それが自己目的化され人々の生活と労働がそれに捧げられる段階では、破壊的意義しかありません。「国際競争力」への物神崇拝を持ち出せば、資本のワガママガすべて通る、という状況を克服できるような世界経済を形成することが必要です。資本が人間を支配するのでなく、逆に人間が資本を支配できるように、現代世界の人間社会が資本を適切に規制できるところから取り組み始めなければなりません。国際競争をギロチンにかける必要はないけれども、王様から平民に引きずり下ろすのです。えらそうに「欲しがりません、勝つまでは」と説教しようとしたら、「王様は裸だ」と言ってやるのです。金融取引税への国際的取り組みなどにそうした動きの萌芽が見られます。

 いきなり世界的大風呂敷を広げても単なる寓話で終わってしまいそうなので、日本の現実に立ち戻ってみます。小西一雄・河音琢郎・藤田実各氏の座談会「危機の構図と米・欧・日のゆくえ」は世界経済を見据えながら、日本経済の抱える深刻な矛盾とその打開の方向性を、誤った議論と対比しながら打ち出しています。

 新自由主義の政策理念では、グローバリゼーション下で資本や労働を流動化し、資本への規制を取り払い、競争力のある部門だけを残すことになります。そうして「資本の生産性の向上を進めたのですが、実体経済面の総体においては、資本蓄積を進めることで消費需要は縮小します。つまり、新自由主義的資本蓄積様式は、総需要の低下を法則的に組み込んだ資本蓄積様式といえます」(20ページ)。これは新自由主義一般に言えることですが、日本資本主義においては、「小泉改革」などで強力にそれが追求され、かつ労働組合が弱く賃金の減少が続き、消費需要が極めて低調であることで、イギリスの『エコノミスト』誌(2011年5月21日号)から以下のように的確に指摘されるような状態があります。

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 もっぱら貿易によって成長し、国内で十分な需要を生み出せず、民間のバランスシートの上に眠る多額の余剰資金の生産的な使い道を見つけられずにいた。   座談会 32ページ

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 この解決には、所得再分配政策の強化とともに、人々の生活重視で小経営が活力を持った内需循環型の地域経済を立ち上げて、日本の国民経済のあり方を変えていくことが必要です。

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 国民生活を維持していくためにも、一定の産業が必要でしょう。その場合、国際競争力だけではなく、競争力が相対的に弱い比較劣位産業も生き延びていくことを考えなければ、格差はますます拡大していきます。農林水産業も含め、経営を維持できる産業構造が必要です。                         36ページ

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 にもかかわらず、相変わらず支配的論調によれば、日本資本主義の停滞の原因は、農業などの「労働生産性の低い部門が残っている」(33ページ)ことに求められます。こういう認識である限り、上記の『エコノミスト』に指摘された惨状から抜けられないでしょう。というか、国民経済的視角の欠如した、競争力・利潤追求至上主義の個別資本の観点からは決して「惨状」とは捉えられないのかもしれません。あるいはグローバル資本にとってはそんなものはどうでも良いと思っているのかもしれません。しかしグローバル資本にとっても本国の国家権力の援助は彼らの世界展開にとって必要でしょう。またもっと先まで見通すなら、この「惨状」を世界展開することは矛盾の先送りと拡大になるのですが、どうなのでしょう。ま、先のことは「わが亡き後に洪水は来たれ」か。

 ギリシャ危機などを代表とするEUの財政・金融危機に世界が揺れ、世界中どこも無関係を決め込むことはできません。そこで危機の打開策について一連の緊縮政策=「欲しがりません、勝つまでは」路線が当然視される状況があります。これに対して危機の根源を見据え、抜本的なオルタナティヴを提起する必要があります。

 この点で、田中靖宏氏の「アルゼンチン大統領選挙 クリスティナ氏の再選と危機打開策への示唆」はまさに示唆的です。アルゼンチンは徹底的な新自由主義政策の破綻で、1999年からマイナス成長に陥り、大規模な資本流出が起きて2001年末、政府はデフォルト(債務不履行)宣言に追い込まれました。2002年は経済成長率マイナス11%、失業率は22%、国民の57%が貧困ライン以下になりました(13ページ)。2003年に発足したネストル・キルチネル政権は新自由主義政策と決別し、対外債務を解決し、貧困層の生活下支え政策の実施で高い経済成長(2003年、9%成長)を実現して、経済を立て直しました。政権を引き継いだクリスティナ・フェルナンデス・キルチネル大統領も人民の生活を優先する政策で力強い経済成長を実現しました(両政権の8年間で平均7%成長)。こうして「国民の実質的な生活改善が政治の安定を支えている」(13ページ)という本来の民主政治のあり方の中でクリスティナ大統領は圧勝して再選されました。人民の利益に反する新自由主義政策をあたかも必要不可欠なもの(あるいは少なくともそうせざるを得ないもの)と喧伝し思い込ませて、ようやく政権を維持している(日本を典型とする)資本主義諸国の多くとは真逆の政治が実現されています。

 しかしこうした「国民生活優先」政策に反発する大土地所有者や都市富裕層が扇動する反政権側の実力行使を受けて、一時政権支持率の低下という危機を迎えます。しかし「政権は、こうした圧力に屈することなく、国民の購買力を増やし消費を拡大する政策をと」りました(12ページ)。こうしたぶれない姿勢で支持率は回復し再選に至ったわけです。しかもキルチネル夫妻による政権期には、経済危機に対抗して「自主的な相互扶助組織」や「新しい協同組合形式の経営」が生まれるなど、失業者や貧困層を中心とする新しい人民運動が発展したことが重要です(13ページ)。上からの改革だけでなく、下からの変革もあいまって、政治的にも経済的にも新自由主義を克服する成果が社会的に定着していくということでしょう。こうしてアルゼンチンの経験は、欧州経済危機の克服のみならず、日本や世界の変革にとっても重要な示唆を与えるものだと言えます。

 今宮謙二氏の「欧米の債務・金融危機と超円高の実態」も危機対策としての「欲しがりません、勝つまでは」路線を根底的に批判しています。各国の対応が人民に犠牲を強いて「最終的には金融機関の救済にすぎない」(46ページ)ものであるのに対して抗議行動が続いていることに今宮氏は理解を示しています。

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 世界の大きな流れは民主主義を進める方向にあり、世界的危機も基本的にそれぞれの国の国民生活の向上が実現されて克服できるであろう。それは同時に投機資本主義とのきびしい対決も意味する。そして投機と結びついた基軸通貨ドルのあり方も根本的に転換させねばならない。日本が現在のドル体制を守り続けようとすれば、世界の流れから大きく取り残されるであろう。                    46ページ

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 資本の過剰蓄積が実体経済の停滞として現れ、過剰貨幣資本が投機資本主義を呼び起こしたことが、今日の経済危機の根底にあります。そこを改めず、つまり「総需要の低下を法則的に組み込んだ」「新自由主義的資本蓄積様式」をそのままに、人民の犠牲で財政・金融危機を本当に克服することはできません。たとえば当面財政赤字を減らすことができたとしても、実体経済の停滞が解決されなければ、金融化・投機化・財政危機の根は絶てません。迂遠に見えようとも「まっとうな経済」のあり方を追求するほかありません。

 他に、今宮氏の論稿では今日の超円高の深層をきわめて本質的に指摘している点が目を引きます。上記の資本主義の危機の中で基軸通貨ドルの衰退も進行していますが、それが今だ「基軸通貨の役割を果たし続けている」「理由は、投機資本主義の展開があったから」(44ページ)です。国際的過剰資金の流れが集中するアメリカ系大銀行のグローバルな金融支配力の強化を通じて、基軸通貨ドルの支配力が上がり、投機資本主義が興隆しました。しかし新興諸国の発展、度重なるグローバル資本主義の危機、アメリカ経済そのものの相対的弱体化などで基軸通貨ドル体制は動揺しています。それに従属しかつ支えているのが日本円です。

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ドルは衰退しながらも、当分の間基軸通貨の役割を果たすが、この衰退をできる限り阻止しようとしているのが日本の立場である。それが超円高の基本的原因である。

                             45ページ

超円高は、アメリカに従属し、基軸通貨ドルをあくまでも維持する条件をもっている日本円に対し一時的に投機資本が購入しているだけだが、世界的危機・基軸通貨ドルの衰退化の進むなかで、基本的に当分円高傾向が続くと思われる。   46ページ

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 つまり超円高から脱出するためにも、今宮氏が結論的に述べた先の引用のように、国民経済も世界経済も民主化していく進歩的流れに入るべく、日本経済は対米従属と財界奉仕の二つの異常を払拭しなければなりません。なお今宮氏の「転換期の基軸通貨ドル ドル危機の歴史的展開と世界経済危機」(『前衛』1月号所収)は今日の経済危機を見据えながら、基軸通貨ドルについてより理論的かつ詳細に展開しており必読です。

 (付記)原発事故後、経済成長や欲望に満ちた生活姿勢に対する反省が語られています。そこからすると、アルゼンチンの経済成長を支持したり、「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを批判して「欲望の解放」を肯定した拙文の先の内容は逆行するように見えるかもしれません。確かに脱原発はだいたい新自由主義批判(ないしは資本主義そのものへの反省)と軌を一にしており、そこでは経済成長主義や企業による欲望創出にコントロールされた生活姿勢が批判されています。しかし実際に新自由主義政策がもたらしたものは、その意図とは逆に経済成長の抑制であり、耐乏生活です。それはまともな生活と労働を破壊するところまで進み、国民経済の再生産と人間生活そのものの存続を困難に陥れています。だから適切な性格と程度の経済成長やまともな生活を支える欲望の解放を擁護するという観点から新自由主義の帰結を批判することは重要です。それを欠くと「一億総懺悔」的に責任の所在を不問にした「反省」と「実践」に終わる危険性があります。新自由主義政策は意図と帰結が逆説的になっており、やや意味がずれるけれども「過ぎたるは及ばざるが如し」となっているのです(過ぎたことを追求した結果、及ばざる事態を招いた。意図も結果もディーセントでない)。その過激に歪んだ意図を批判するとともに深刻な帰結に対する批判をも合わせて行なう必要があります。意図への批判が帰結の容認になってはいけません。

 

         断想メモ

 林博史氏の「いま戦争責任を問いかける意味 侵略戦争の歴史と戦後基地の成り立ちをふりかえる」(『前衛』1月号所収)は、目の覚めるような論稿です。過去の戦争責任にきちんと向き合うことが現在と未来を正しく作り上げていく上で不可欠だということ、換言すれば、現在の様々な不都合の多くが戦争責任をあいまいにしてきたことから生じていることを説得力をもって述べています。

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 私も古本屋の端くれとして、ほとんど読まないまでも、多くの本を目にします。すると自分の無知や浅学非才が実感され、当然のことながら、こうして雑文を公表することは低水準の内容をさらすことになり、まことにもって恥ずかしく思われます。事実の把握が弱いこと、単純な理屈の延長で考えが徹底しないこと…等々、欠点を上げればきりがない。それでも書くことで自分なりに多少なりとも前進することはあります。確たる理論的成果など期待すべくもありませんが、問題提起という点だけでも世の役に立てるならば幸いです。 
                                 2011年12月27日



2012年2月号

         「デフレ」について

 友寄英隆氏の「リストラ・デフレと円高・空洞化の悪循環 どう抜け出すか」は、リストラ・デフレと円高・空洞化の「二重の悪循環」という見方を提起することで、日本経済の深刻な矛盾を分析しています。二重の悪循環の一つは、国際競争力至上主義による価格競争力強化を背景とする「リストラ・『合理化』・低賃金と円高の悪循環」です。もう一つは、「デフレによるインフレ率低下(「相対的購買力平価上昇」)と円高の悪循環」です。低賃金・雇用不安による内需不振から物価上昇率が低下することで、国際比較上、通貨価値としての円が高くなるというものです。これは実体経済と通貨・金融との両面から日本経済の陥った悪循環を捉えており説得力があります。またこの両面の絡み合いも正しく指摘されています。それは、インフレ・ターゲット論のように通貨・金融面に一面化した捉え方を批判する中で鮮明にされています。

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 「二重の悪循環」の起点となり、悪循環を主導しているものは、実体経済における大企業の「リストラ・低賃金」路線の推進であり、そこにこそ悪循環の究極の原因がある。「相対的購買力平価」の上昇という貨幣価値の変動は、あくまでも実体経済の反映にすぎず、インフレ目標という貨幣的政策を強行すれば、「デフレも円高も止められる」などというわけではない。             42-43ページ

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 実体経済の問題を貨幣的政策に解消する議論の底には、市場価格の上下変動を見るだけで、価値との関係を見ない現象論があると思います。市場価格変動の中心にあるはずの価値は(量的にいえば)再生産を保障する水準を示すものです。つまり労働力の再生産・経営の持続性さらには地域経済や国民経済の再生産を円滑に進めるためには、様々な市場価格が一方的に価値から乖離するように変動することは避けねばなりません。特に今日の不況では、長らく労働力の価値以下に低迷した賃金を正常化することをテコに克服すべきであり、「デフレの克服」と称して金融政策で一般的な物価上昇を追求することは誤りです。

 そうした批判のためにはまず現状の物価下落を「デフレ」と呼ぶ誤りをきっぱりやめるべきです。物価変動の要因は様々なのに、物価下落をデフレと規定し呼べば単なる貨幣的現象と考える偏向に陥りがちになります。この誤りは、インフレと好況期の物価上昇とを区別できない誤りの延長線上にあり、その克服にはインフレーション論の確認から始める必要があります。

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 好況による物価上昇とインフレーションとは、両者ともに需給関係を介して生ずる市場価格の上昇である点では同一であり、現象的には同一である。しかし、前者は価格の価値からの乖離の運動であり、価格の価値を上回る運動であり、したがって一時的であってやがて反転運動が生ずる。後者は価格の価値への一致の運動であり、したがって固定的なのである。

  山田喜志夫『現代インフレーション論』(大月書店、1977年) 183ページ

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 インフレでは不換通貨が減価するので、商品の市場価格が不変ならばその価値は下がってしまいます。そこで通貨の減価に由来する商品の減価分を取り戻すため市場価格が上昇するのがインフレ的物価上昇であり、したがってそれは価格の価値への一致の運動なのです(もちろんそれは実際の過程としては、需給関係を介した運動の結果としてこの「一致」が実現するということだが)。

 ここで、「物価上昇」を分析した上記引用文を「物価下落」へと対称的に読み替えてみます。

 その前にデフレーションの定義に触れます。『大月経済学辞典』(1979年)高田太久吉氏の記述によれば「通貨量の収縮をともなう金融・財政の引締めによってひき起こされる不況状態」とあります(678ページ)。具体例としては「松方デフレ」と「ドッジ-ライン」が上げられています。だからもちろんデフレは実際には純粋に貨幣的現象というわけではなく、金融・財政政策の所産としての不況状態をさすのですが、大切なのは、今日一般に思われているような「物価の継続的下落」という平板な現象的用語では本来はなく、「通貨量の収縮」という本質規定を含んでいるということです。通俗的な「デフレ」用語においては、物価現象を実体経済と貨幣・金融との統一として捉えるのか否かがあいまいなままに、もっぱらそれを貨幣・金融の側面に偏向して捉える傾向を内包しつつ、物価下落をデフレと同一視しています。それでこの「デフレ」用語は実体経済の問題も貨幣・金融の問題に解消してしまう危険性を持ちます。以下では通俗的用法と対比させる意味で、「通貨量の収縮」という核心的規定を含めながら、貨幣的現象としての側面からデフレーション(デフレ)という言葉を使います。すると上記引用文は次のように裏返ります。

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 不況による物価下落とデフレーションとは、両者ともに需給関係を介して生ずる市場価格の下落である点では同一であり、現象的には同一である。しかし、前者は価格の価値からの乖離の運動であり、価格の価値を下回る運動であり、したがって一時的であってやがて反転運動が生ずる。後者は価格の価値への一致の運動であり、したがって固定的なのである。

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 デフレの場合、通貨量の収縮による通貨の増価によって商品価格がさがります。つまり価格が下落しなければ商品価値があがってしまうので、価格が下がることで価値が一定に保たれるのです。したがってここでの物価下落は不可逆的となります(いうまでもなくここでも実際の過程としては、需給関係を介した運動の結果としてこの「価格の価値への一致」が実現する)。

通常の循環的不況の場合には、<不況による需要不足→商品価格下落→やがて好況による需要回復→商品価格上昇→やがて不況…>となります。商品価格は価値の上下を循環的に変動します。ここでの物価下落は可逆的です。

 ところが今日の物価下落は、通貨量の収縮によらないけれども不可逆的に継続しています。そこで第三の類型として「構造改革リストラ的慢性不況」の場合を考えます。

<賃下げ→需要不足→商品価格下落→賃下げ→…>

まさに悪魔の循環で物価が不可逆的に下落します。景気循環はありますが、好況の果実は資本にのみ吸収されるので、労働者の立場からは万年不況であり、悪循環は止まりません。あたかもデフレのように見える物価下落の不可逆性の根拠は需要不足(過剰生産)の恒常化です。ここでのカギは賃金が労働力の価値以下に下がることです。それが恒常化し、下がった賃金に合わせて労働力の価値そのものが下がるというスパイラル・ダウンが起こっていると考えられます。労働力の価値は、生存最低限水準の基礎上に社会的文化的要因からの費用が加えられるのが本来の姿ですが、ここが弾力的部分として削られ続けており、さらには生存最低限水準にも手をつけられかねない状況があります(失業やワーキング・プアの圧力)。賃金の下落による内需不振をテコに商品価格が下落し、つまり物価が低迷し、中小企業や自営業者はその直撃を受けます。単に諸々の市場価格が下がっているということではなく、それらが価値以下に下落し労働力も多くの経営も再生産が困難になる、という形で日本資本主義は国民経済そのものの再生産を危機に陥れているのです。

この物価下落を伴う不況が金融・財政の引締め政策の下ではなく、したがってデフレではなく、真逆の・異常とさえいえる金融緩和政策の下で生じていることにも注意せねばなりません(放漫財政も続けられてきたが壁にぶつかった→ソブリン・リスクの可能性。しかしその対策は、資本へのバラマキと人民への緊縮)。これについて示唆的なのは、山田喜志夫氏の前掲書で「中央銀行の不換通貨増発による恐慌緩和のための救済融資のメカニズムについて」(12ページ)述べられた部分です。そこでは「恐慌による実質的物価下落とインフレーションによる名目的物価上昇が相殺し合って」おり、「商品価値の破壊に対する貨幣の減価をもって相殺し、価格の急激な低落を回避した」(13ページ)とされます。

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 商品価値の破壊の程度―したがって過剰生産の程度―と、これを相殺する貨幣価値の低下度―したがって通貨の増発度―との両要因の複合のいかんによって、商品の価格はあるいは上昇し、あるいは横ばい、あるいは低落する。ただし、低落する場合でも、貨幣価値不変の場合に比して軽微であることはいうまでもない。かくて、貨幣恐慌による商品価格の暴落が阻止されるが、と同時に必然的に価格標準が事実上切り下げられインフレーションが生ずる。インフレーション(貨幣減価)によって恐慌が緩和され恐慌の激烈な形態がいわば流産させられたのである。この場合、現象としての商品価格が横ばいだとしても、貨幣減価が生じている限りインフレーションが生じているといわねばならない。

       13-14ページ

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 これにならって、今日の物価の「軽微な低落」は、商品価値の破壊と貨幣価値の低下という(物価の下落と上昇という反対方向に作用する)「両要因の複合」の結果とは考えられないでしょうか。

もちろん今日インフレ(通貨減価)が起こっていると断定することはできません。不換通貨は流通から退出できないので、それが過剰に発行されれば減価するというのが、インフレ発生の仕組ですが、現代資本主義経済では、実体経済の流通部面から投機目的などで金融市場に退出できるのでインフレにはならない、と考えることも可能だからです。また物価下落ないし安定をもってインフレの発現を否定し、その理由をいろいろと考えることは他にも可能でしょうが、少なくともじゃぶじゃぶの通貨供給や財政赤字の累積がインフレの潜在的危険性をもたらしていることは否定できません。今日の物価動向を「商品価値の破壊と貨幣価値の低下という両要因の複合の結果」と見る、というのは実証を欠いており確かに私の思いつきの域を出ませんが、経済の現状を現代資本主義の矛盾の焦点において捉えてみる、という意義があるのではないでしょうか。不換制は「恐慌をインフレで買い取る」制度であり、それは資本主義の新自由主義的段階においても不変であり、通貨の減価が経済の基調をなす、という見方に留意する必要があります。この不換制の規定性を土台に、物価動向を「商品価値の破壊と貨幣価値の低下という両要因の複合の結果」と見る立場から、1970年代のスタグフレーションの発生から、80年代以降における新自由主義によるその「克服」、そして今日の長期停滞までを、実体経済と通貨・金融との双方における矛盾の展開、ならびに両者の交錯として見直してみてはどうかと思います。

それに対して、現状を「継続的な物価下落」という意味での「デフレ」と捉えるのは矛盾隠蔽的な意義をもちます。先にデフレ論を批判したのは、実体経済と金融との混同やすり替えを戒めるという意味合いでしたが、ここでは別様に重要な問題点を指摘します。もし今日の物価動向が「商品価値の破壊と貨幣価値の低下という両要因の複合の結果」を反映したものであるならば、表面的に物価指数を追い、それを上下させる政策だけを追求するのは誤りです。昨今で最もノーテンキな議論は「良いデフレ」論です。確かに通貨価値が安定し需給ギャップもない状態を前提すれば、緩やかな物価下落というのは生産性が上昇してゆく健全な経済状態を反映していることになります(生産性上昇による物価下落では価値と価格が一致しており、価格の価値以下への乖離による再生産の困難をきたさないからです)。しかしその前提は成り立っていないのです。そんなにノーテンキでなくても、物価指数の表面をなぞるだけなら不十分です。現実の物価指数が「実質的物価下落とインフレーションによる名目的物価上昇が相殺し合っ」た結果だとするならば、そのマイルドさは、両極に向かう本質的深刻さ(恐慌=産業循環とインフレ=通貨減価)をブレンドし相殺して隠蔽していることになります。だから物価指数を現象的に追うだけでなく、物価変動の各要因を分析して見ることが必要です。現状を「継続的な物価下落」という意味での「デフレ」と捉えることは、物価下落の表面的なマイルドさにとらわれて、そうした本質分析の障害となります。

 ところで友寄氏の論文と松本朗氏の「歴史的円高の構造的要因を探る」では円高の一つの要因として相対的購買力平価の上昇が上げられています。これは一見すると通貨「円」が増価しているようですが、あくまでドルとの関係の中で生じている上昇で、国内経済の問題とは区別すべきでしょう。また通貨価値と通貨の購買力も区別すべきものです(貨幣数量説の問題がある)。もちろん筆者らはこれらについては先刻承知の上で近似的接近手段として購買力平価を現状分析に利用していると思います。

 ここで脱線しますが、友寄氏と松本氏とでは円高への評価が違います。円高の危険性そのものは立場を超えて喧伝されており、友寄氏はそれを前提に、論文の結論として、政府に対して毅然とした円高対策を要求しています。これに対して松本氏は、購買力平価を基準とするなら今日の為替相場は世間で言われるほど異常な円高水準ではない、とされます。そして「輸出大企業が潤沢に積み上げた海外金融資産から獲得した所得(所得収支)を、その内部留保とともに国内に還元させること、そして、本当の意味で円高のメリットを国民経済に還元させ、国民一人一人に実感させることが現在求められている政策といえるのである」と主張されます(111ページ)。産業空洞化対策などに円高是正を言うことも、円高メリットの還元も当面の施策としては理解できるところです。中長期的には内需循環型の国民経済を確立して外需への依存を減らすことが重要でしょう。もちろんそこでも適切な国際競争力を維持しつつ国際収支のバランスを保つことは不可欠です。現状では国際競争力至上主義で内需軽視の傾向が強いだけに、そうした健全な国民経済への転換は(仮に政治の民主的変革があったとしても)なかなか難しいでしょう。それはともかく、今気になることは、貿易収支の動向は震災等々もあって不安定で確定しがたい中で(2011年の貿易収支は31年ぶりに赤字になった)、所得収支が増大することで経常収支の黒字を維持する、という傾向が強くなっていることです。海外金融投資の原資は日本人民からの搾取ですが、その投資で獲得した所得は諸外国人民が生み出した剰余価値の一部を搾取したものです。所得収支への依存が増えるということは日本資本主義の帝国主義的寄生性が強まるということでしょう。それを防ぐ意味でも内需重視への民主的転換は必要だと思われます。

 以上、根拠の弱い強引な議論になってしまっています。しかしこれも、私たちの生活と労働の困難の根源にある資本主義経済の本質的諸問題を諸現象の奥に探りたい、さらにそれを妨げる表面的な見方を克服したいという願いの発露です。拙文が人々の批判に値する水準であれば幸いですが…。

 

         「合成の誤謬」を双方から見る

財界の傲岸不遜ぶりは目を覆うばかりです。日本経団連の春闘方針では賃上げを「論外」と拒否し、労組に対しては「企業の危機的な経営環境に対する認識が甘い」と切り捨て、巨額の内部留保については一切触れない、という姿勢です。「財界は、企業さえ生き残れば労働者や国民の生活も日本の経済も、どうなってもいいのか。財界には日本経済の立て直しに不可欠な、国内需要を拡大する立場も自覚もありません」という「しんぶん赤旗」(1月24日付)の抗議はまったくもっともです。

しかし小栗崇資氏の「大企業の収益動向と新たな戦略」久山昇氏の「震災・円高と自動車産業 振興国市場拡大で加速する多国籍生産体制」を読むと財界の危機感も理解できます。東日本大震災やタイの洪水あるいは円高などの深刻な影響はいうまでもなく、日本のリーディング産業である自動車と電機も国際競争力の面で脅威にさらされています。その中から、大資本・財界のわがまま勝手な主張と行動が出てきます。久山論文の最後は苦渋に満ちています。

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 産業と経済のグローバル化はますます急速に展開するが、それを国民経済の発展に結びつける仕組みはますます希薄になりつつある。海外に流出する人材と技術を国内に引きとどめ、次世代の人材育成を含む地域産業の再構築と豊かな社会を目指す、新しい取り組みが求められている。それを支える新しい社会のヴィジョンに関する研究が、ぜひとも必要だといわなければならない。          131ページ

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 人々を不幸にし、国民経済を破壊するリストラ主導の国際競争力向上策ではない経営戦略が必要です。小栗氏は「多国籍化は必至としても、ものづくりの技術や産業基盤を維持しつつ、欧米のように先端的な技術開発や基本ソフト開発を進めることができれば、海外展開の中で国内に再投資をして中核的な経営基盤を作ることが可能である」(38ページ)としています。他にもたとえば安井孝之氏の「波聞風問」(「朝日」1月29日付)によれば、富士通ITプロダクツでは、多品種少量生産で生産量の変動が大きく、生産ラインを柔軟に変える必要があり、作業員の多能工化が不可欠であり、長く勤めて習熟度を高めてくれる国内工場がふさわしい、としています。親会社の富士通も「高品質の製品をつくるには開発と製造とのすり合わせが必要。開発部門に近い国内生産が競争力を生む」と指摘しています。このように国内生産の優位性はまだ残っており、「製品分野や消費者への訴求点を見直して競争力を高める方策」があり、「日本企業の経営判断に多様性が生まれれば、空洞化の歯止めにもな」ります。

このような例は多くあると思いますが、個別資本とその集合体である財界を支配する資本の論理では、そういったことは主流とはならず、手っ取り早いリストラや外需依存が大勢をなしています。そこでは「政府の政策」が決定的に重要です。

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 多国籍化がそのまま空洞化につながらないようにするには、大企業にその社会的責任を迫り、国内での新たな開発や投資を義務づけるような規制や、政府による新産業育成も含めた積極的な投資の誘導策が必要となっている。      38ページ

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 個別資本の企業努力が全体としては逆に国民経済を害する、ということは「合成の誤謬」ということができます。それを個別資本の側と国民経済の側の双方から具体的に見ていくことが必要です。私たちはたとえば内需循環型の国民経済への転換を掲げていますが、その具体化には個別資本の行動様式を具体的に捉える必要があります。この転換にとって小経営の役割が大きいことは当然ですが、大企業がどのような役割を果たすために具体的にどのように行動様式を変えていけるのかも国民経済の設計にとって重大なのはいうまでもありません。先述の経団連の春闘方針のようなものは打倒の対象であることは当然ですが、そこに満ちた彼らの危機感をある意味「理解」することで、規制や誘導策など、私たちの変革方針を具体化することも必要でしょう。

 

         ハシズムと民主主義

北野和希氏の「橋下維新、躍進の理由」(『世界』2月号)は、要するに『世界』の読者を叱り付けた論稿でしょう。橋下徹大阪市長の圧勝を快く思わず「有権者を、政治家を見抜く能力に欠け、甘言やばらまき政策によって投票行動を決める人々と考えるような、有権者を小ばかにし、自らは『有能者』として『上から目線』で見ているよう」(217ページ)な「民主的」「市民的」な人々は「選挙を媒介として成立する民主主義を否定していることに気付いていない」(同前)と批判しています。さらには「橋下氏の躍進は、有権者の投票による選挙結果なのである。橋下氏の政治観を見ようともせず、表層的な言動や政治行動から批判しているだけでは、橋下氏の真の狙いも有権者がなぜ橋下氏を支持するのかも、理解できないだろう」(同前)と手厳しく指摘し、橋下氏の政治観や狙いならびに有権者が彼を支持する理由を分析しています。ただし橋下氏の政策そのものの当否についてはほとんど語られていないので、もっぱら主に選挙をめぐる民主主義観について橋下氏を擁護し、「民主的」「市民的」な人々を批判する内容となっています。『世界』の論稿としては意外性があり、興味深い論点を提供しています。

北野氏は橋下氏の政治観を「選挙絶対主義」と実に的確に指摘しています。「有権者の投票による選挙こそが、全ての始まりであり、終わりなのであ」り(211ページ)、「有権者を自らの生死を決める有能な裁判官であり、極めて優れた感覚を有した市民と位置付けている」(同前)と。この政治観の首尾一貫性と(大衆蔑視でない)民主的性格を北野氏は高く評価しています。橋下氏はメディアを巧みに利用するだけではなく、メディアを注視することで、有権者が求めるものをつかみ、自分の感覚の「正しさ」を試している、とも指摘しています。従来の政治家・政党の「有権者の意識と外れた主張や理解をえようとしない姿勢」(217ページ)とは違って、このように優れた市民感覚を橋下氏はもっている、というわけです。確かにここには、左右を問わず、普通の人々の生活感覚と遊離しがちな政治姿勢への批判として傾聴すべき点があります。しかし「選挙絶対主義」とか橋下氏の有権者観は正しいものなのだろうか。

民主主義において、その制度上、選挙が頂上にあることはいうまでもありません。橋下氏の圧勝を快く思わない「民主的」「市民的」な人々も、選挙結果に不満は持っても、それを尊重すべきことは当然と考えているはずです。しかし頂上にある選挙は広い裾野に支えられて初めて生きてきます。町内会やPTAのような地道な地域活動、署名やデモ、メディアへの投書、インターネットを通じた発言等々、多彩な政治参加が日常不断にあって、それらのある時点での総括として選挙は位置付けられます。選挙は巨大な民主主義の山の一部であって、たとえ頂上であってもそこですべてを見渡せるわけではないのだから、選挙結果への白紙委任を意味する「選挙絶対主義」は正しくありません。選挙後もその結果を尊重し前提しつつも、様々な民主的政治活動が続けられ、それが行政に影響を与えることは当然です。その他に人権とか教育などその原理的性格からいって、そもそも時々の選挙結果からは相対的に独立した問題もあります。教育委員会の自立性などが選挙結果如何で左右されるようなことがあってはなりません。

残念ながら日本社会ではまだ政治活動は奇異なこと、自分はかかわりたくないことという感覚が根強くあります。たとえば街頭署名などもフツーの光景として受け入れられているようには思われません。ビラ配布が弾圧されても世論の怒りが沸騰するなどということは決してありません。こうした中で事実上、選挙だけが民主主義の政治イベントとして捉えられる傾向があります。選挙開票結果のテレビ(ネット)観戦を中心とする観客民主主義、おまかせ民主主義が定着しており、それは安易な「強力な指導者待望論」に流れ込みやすく、この政治風土に咲いた徒花が「選挙絶対主義」ではないでしょうか。橋下氏が選挙に賭けて、敗れれば潔く引き下がる覚悟だということから、その政治観の民主主義的一貫性を示すものとして「選挙絶対主義」を北野氏は称えていますが、そもそもそれは民主主義の矮小化の枠内での潔癖感や高揚感に過ぎません。東日本大震災・福島第一原発事故後には、既成の政治勢力ではない若者らが主体となって、ネットなどを通じた新たな集会・デモが開催されるなど、矮小化された民主主義を打ち破るかもしれない動きが端緒的ながら見られます。それと対比するならば、「選挙絶対主義」の時代錯誤性が浮き彫りになります。

橋下氏の有権者観ははたして民主的でしょうか。ここでは北野氏が政策評価を措いていることが問題です。橋下氏の政策は、新自由主義構造改革の「選択と集中」によって大都市の繁栄を導くことが第一であり、それがあたかも時代の閉塞感を打ち破るかのように捉えられていますが、人々の生活や労働への配慮(それこそが今日の政治の中心課題だが)は後景に退いています。「小泉改革」同様の破綻済みの路線に過ぎません。教員基本条例案や職員基本条例案に見られるファッショ的姿勢はそれだけで民主的政治家としては失格です。橋下氏の政策が普通の人々の利益に反することは明白であり、それがまだ知られていないうちに、選挙で勝って自らの政策を強行しようというのでしょう。そのために有権者の意識に寄り添っているわけで、閉塞感への反発のような漠然とした次元では共感を得られても、具体的な政策次元では、たとえば町内会・商店街などから離反が見られます。これについて山口二郎氏は述べています。

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 私は大阪W選挙に三回応援に入りましたが、図書館や障害者支援、子育てサークル等の地域活動をしている人たちの間では橋下さんを支持するという人は全くいないという話を聞いて、非常に腑に落ちました。先ほどのトクヴィルの議論にあるように、直接顔をあわせながら議論をする小さな空間が基礎単位になっていくので、ローカルポピュリズムに対する防壁とは、そうした地域での活動なのだと思います。

 片山善博、山口二郎、柿崎明二座談会「なぜ政治が機能しないのか」

(『世界』2月号所収) 181ページ

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橋下氏と有権者とのつながりは今時のマスコミを介した情緒的なものに過ぎず、それが既成の政治家と比べて一見密接なようであっても、決して民主政治を前進させるような性格を持っていません。橋下氏のこれまでの言動から判断すれば、弁護士であるにもかかわらず、人権や民主主義に対する基本的な見識にも欠け、過剰な自己責任論に固執しています。端的にいえば俗物です。現状ではこのような人物は一定の人々の強い共感を得られます。そうした水準で橋下氏と多くの有権者はつながっています。だから観客民主主義やおまかせ民主主義を克服して、本当の草の根民主主義・参加型民主主義をつくっていく課題があるときに、そこから目をそらせ、民主主義を低い水準に押し留める役割を橋下氏は果たしているのです。北野氏の称える「橋下時代の民主主義」の本質はそういうものだと私は考えます。似非「草の根民主主義」としてはアメリカのティーパーティー(茶会)運動が想起されます。今日ではそれに対抗する「99%の人々」の運動が起こってきました。前者は支配層に奉仕する運動であり、後者は支配体制の本質を理解し対抗する人民の運動です。残念ながら日本はまだ「茶会」次元の運動がこれから全盛を迎えようとしており、「99%の人々」の運動次元はわずかしか見えていません。

以上のような見方は、北野氏からすれば「上から目線」の傲慢な議論と見えるでしょう。しかし北野氏の議論は、人々の意識に寄り添って民主的なようでありながら、民主主義の水準の現状に無批判であり、結果としてそこに忍び寄るファシズムに無警戒となっています。民主主義のあり方と政策の検討とはセットで行われねばなりません。橋下氏の政策(それは極めて危険なものだが)の検討をとりあえず措いて、その民主主義観の庶民性や形式的徹底性だけを称えるのは誤りです。確かに革新勢力などが、人々の意識を捉えあぐねている現状があり、それを情理兼ね備えて獲得することが重要な課題となっています。そこに進む上で北野氏の問題提起を生かして「橋下時代の民主主義」に内在する努力は必要でしょう。選挙によって決定するというのは民主主義の最重要な形式であり、不満があってもそれが最大限尊重されるのは当然ですが、形式は民主主義の必要条件であっても十分条件ではありません。民主主義が必要で十分なものに前進するためには、人民自身が実質的に社会を支配するという内容へのヴァージョンアップが求められます。

日本国憲法は、自覚的な主権者としての国民を想定しています。その一つの前提として、自らの利益と社会全体のあり方を判断できる有権者の存在があります。現状では小泉フィーバーや橋下ブームのように自分で自分の首を締める投票行動が多く見られます。橋下人気はもちろん彼の特異なキャラクターによる部分が大きいのですが、彼がいなくても他の誰かが多少違ったやり方で同様の役割を果たすだろうと思います。二大政党が行き詰まっているときに、ある爽快感をもって人々の目を支配の本質からそらして、支配層の危機を救い、現体制を大枠では維持する、という役割です。人々の利益に反する支配体制なのに、それをあえて支持する投票行動をとらせるように組織する人物がそこに必要とされます。そのトリックスターを生み出す状況について、内橋克人氏の言葉が示唆的です。内橋氏は「国民皆年金など基礎的な社会保障からさえも排除された人たちが多数派となる『貧困マジョリティ』」の形成を問題にし、彼らの特徴について以下のように述べます。

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 「米国はじめ国内外の最強の秩序形成者に抵抗する力もなく、生活に追われて政治的な難題に真正面から対峙するゆとりもない。同時に、精神のバランスを維持するために『うっぷん晴らし政治』を渇望する。政治の混乱を面白がり、自虐的に極めて反射的に、表面的に評価して、選挙権を行使する。大阪市の橋本徹市長の『ハシズム現象』も貧困マジョリティの心情的瞬発力に支えられている面が大きい。『地方公務員は特別待遇を受けている』とバッシングし、閉塞状況下の欲求不満に応えていくやり方だ」

    「朝日」1月8日付

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 貧困化による閉塞感が有権者の政治判断力を歪めているのです。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』には、ルンペン・プロレタリアートの危険性が指摘されていました。「ところどころでプロレタリア革命によって運動になげこまれるが、彼らの生活状態全体から見れば、むしろよろこんで反動的陰謀に買収されやすい連中である」(国民文庫『共産党宣言 共産主義の原理』41ページ)。もちろん内橋氏の「貧困マジョリティ」を当時のルンペン・プロレタリアートと同一視するものではありません。ただ貧困や生活状態の不安定が反動勢力に利用されやすいということは共通しています。今日でも、ヨーロッパと比べれば日本では社会保障体制が弱いため、貧困と生活不安が蔓延しています。このことが「将来の安定よりも、とりあえず今日のわずかな収入を優先せざるを得ない」状況を生み出し、腰の落ち着いた求職活動を阻み、非正規雇用増加の一要因となっていることが、反貧困運動の中で指摘されています。それと同時に、この余裕のなさはじっくりとものを考える時間を奪い、判断材料を買うこともできず、結果として多くの人々がしっかりした政治判断をしにくくなっていると思われます。雇用の正常化、ならびに社会保障削減への反撃は、健全な民主主義社会を維持するためにも不可欠の課題なのです。

 マスコミの問題も重要です。商業マスコミの大勢とNHKが、世論の反対を無視して、野田政権の「社会保障と税の一体改革」を強力に推進している状況は深刻です。ジャーナリズムの役割を投げ捨てて、有権者をミスリードする偏向報道の大政翼賛化が固着しています。というよりも、支配層の一員としてのエリート主義的使命感による確信に満ちた報道姿勢だというべきでしょう。…「大企業の国際競争力を維持することが日本の生き残る道であり、そのためにすべての国力を動員する政治を確固として推進しなければならない。自分の生活状況からそれに反対するような遅れた国民意識を啓蒙しなければ日本の危機は救えない」…察するにそんなところか。経済のあり方について言いたいこと・考えたいことはいくらでもあるけれどもここでは措きます。

 今月のNHKの「世論調査」は調査の名を借りた世論誘導に他なりません。消費税率引き上げには反対が多いのですが、そこで重ねて「その前提として選挙の議員定数の削減をやった後ならどうか」と聞いて、「賛成が多い」という結果を無理やり作り出しています。本来、議員定数と消費税率とは関係ない問題なのに全く恣意的な質問項目です。議員定数を削減してから消費税を引き上げるというのは支配層の描く勝手なシナリオであり、公共放送たるNHKがその姿勢を重ねるべきものではありません。消費税率の引き上げだけでなく、どさくさにまぎれて選挙制度も改悪して民意を国会に反映させなくしよう、という策動を世論調査という名の世論誘導で行うのは糾弾されるべきです。それに議員定数の削減を消費税率引き上げの前提とする、というこの無理な組み合わせは、内橋氏のいう「うっぷん晴らし政治」の心情におもねるものであり、その意味でも民主主義の破壊行為です。

 有権者の前には、自らの利益ならびにあるべき社会のあり方を自由・自主的かつ公正に判断することを歪めるような要因が、このように幾重にも張り巡らされています。しかしいやしくも社会変革を目指すのならば、そのような状況を把握した上で、それを改善する闘いを進めつつ、日常的な民主的活動の積み重ねの先に、その総括としての選挙決戦での勝利を目指さねばなりません。結果として、もし負けならば負けなのであり、そこで内実のない形式民主主義を罵倒しても見苦しいだけです。形式民主主義そのものは尊重されねばなりません。選挙戦に入れば、所与の条件の下で有権者の意識を獲得することに全力を尽くす以外にありません。来る総選挙では、橋下氏を初めとするいわば日本版「茶会」勢力がおそらく猛威を振るうでしょう。民主勢力は彼らを蔑視したり軽視したりするのでなく、彼らに劣らぬ備えと覚悟が必要ですが、現状では圧倒的に遅れをとっています。

繰り返せば、ハシズムの政治基盤は観客民主主義・おまかせ民主主義といった長年の政治状況であり、経済基盤は新自由主義構造改革が生み出した貧困化と格差構造でしょう。このように強固な政治経済基盤の上に咲き誇った徒花を摘み取る力を今のところ私たちは持っていません。もちろん根本的な解決は、対米従属と大企業本位という二つの異常を克服する政治改革以外にありません。日本の進路におけるこの隠された本流を一人でも多くの人々に見えるようにするにはどうしたらよいか、正直言って私には見当がつかないけれども、とにかく今が大事です。

 

         正月随想  (敬称略)

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記憶とは不思議なものだ。歳を取るにしたがい、先ほどの出来事、昨日の出来事が次々と頭から消えて行く。なのに思いがけないひと時に、過ぎた日の断面が突然、蘇る。

そんなことは誰にでもあろう。ある出来事を経験した時、それが数十年後に別の叙情詩となって戻って来るとは、人々は日々の行いの中で予想出来ないからだ。

人が行動を起こす時、「これがやがては記憶へと変わるのだろう」とは思わない。記憶とは感受性の裏側にあるのであろうか。

   ドナルド・キーン「叙情詩となって蘇る」 「朝日」2012.1.1

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 欲しいのは「記憶とは感受性の裏側にある」という最後の一文だけですが、その説明として前から引用しました。若い頃は思いもよらない老人の感慨を、五十も過ぎると分かるようになります。感受性とともにある記憶のいとおしさか…。

 歳をとると日本への思いも深くなります。

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 長年、そう、もう七十年にもわたって日本文学と文化を研究してきて、私がいまだに感じるのは、この日本人の「日本的なもの」に対する自信のなさです。違うのです。「日本的」だからいいのです。

    ドナルド・キーン 新潮社の広告(「朝日」2012.1.1)より

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 キーンはこの広告で、「日本的な勁(つよ)さ」について述べながら「勁健(けいけん)なるみなさん」と、私の知らない単語で日本人に呼びかけています。

 アメリカ人で日本文学の碩学であるキーンの日本への深い愛に触れながらも、下記を読むと、この若い中国人の日本人観はもっと的確かもしれないと思いました。

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 今の日本人についての印象としては、もし正しくなかったら勘弁してほしいのですが、日本人の心の中には三つの段階があるように私には見えます。普段付き合うときはみんなすごく優しいし、礼儀正しい。仕事も真面目で規則も守ります。すごく教育が高いと感じます。しかし、一段階その心の奥に入ると、日本人は心の中に何とも言えない誇りを持っています。そしてさらに深く入ると、孤独や失望があるように感じられます。

   陸川「この映画の終着点は日本だ 映画『南京!南京!』をめぐって」(『世界』2012年1月号所収、217ページ)

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 陸川(Lu Chuan)は1970年、中国江蘇省生まれの映画監督です。彼は日本人の優しさ・真面目さの指摘から始めていますが、この部分は、キーンが言う日本人の「自信のなさ」の分析にもなっていると思えます。「自信のなさ」と見えるものの奥に踏み込んで、「何とも言えない誇り」を探り当て、さらに深くに「孤独や失望」を看取するこの洞察力。これにより、表層にあるものは、深層の矛盾した構造を反映しているのだと認識できます。

 ところで映画『南京!南京!』は、日本兵を単なる鬼としてではなく、その内面をも描いたことで、2009年に封切られた中国では厳しい議論を巻き起こしました。公開当初は批判が大きかったのですが、今日では冷静に評価され、世界中で公開されています。日本では今だ商業上映ができません。他にも南京大虐殺を描いた映画は日本で商業上映できていません。ここには日本の本当に残念な現実があります。問題は「日本対中国」でも「日本人対中国人」でもなく、侵略戦争の真実を見つめるかどうかです(もちろんそれは日本の責任を認めるということだが)。おそらく陸川監督はそのような公正な作品を作ったのでしょう。「愛すべき日本人」はなぜ普遍的な真実を直視する民主主義社会をつくれないのか。

 民主党への政権交代で数少ない実績として、高校授業料無償化があります。ところが朝鮮学校がそこから除外され問題になっていました。不覚にも私はそれを意識続けることを怠り、漠然と、いくら何でももう無償化されているだろうというぐらいに思っていました。1月25日付の「しんぶん赤旗」で、2年も経っているのにいまだに無償化から除外されていることを知りました。詩人・河津聖恵はこう書いています。

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保守政治家たちは依然として、自分たちの利害と保身のために無償化除外を続けており、そのことで傷ついている子どもたちの心を知ろうともしない。政府には高校無償化の理念を守り通そうとする気概は見えない。

当初は朝鮮学校の無償化を決めていた文科省も、政治の介入を毅然とはねつけられないままだ。さらに理不尽なことには、震災後、地方議会で補助金の支給停止が次々決議されている。この国の保守政治家たちの非人間性はとどまるところを知らない。ただ恥ずかしく、情けない。

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 こんなことを許している日本人として本当に恥ずかしい。世界に顔向けができない。

 そんな日本で教育はどうなっているのか。

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人間ひとりひとりが持っている知識の量など、しょせん知れている。それを自己の利益のために使うのか、人と繋がることでより大きな知識へと高めてゆくのかは、結局、その人がどのような教育を受けてきたのかにかかっているのかもしれない。

世界最高レベルの経済学者がモーゲージ債というトリックを思いつき、リーマンショックを引き起こし、いまなお世界経済を混乱に陥れている。日本でも、倫理観の欠落した科学者たちが、福島第一原子力発電所の事故に大きな責任があることが明らかになりつつある。

瀬川正仁「教育のチカラ 第9回 なぜ学校に通うのですか?・下」(『世界』2012年1月号所収、235ページ)

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 ではどのような教育がいいのか。NPO法人「珊瑚舎スコーレ」が運営する沖縄県唯一の夜間中学の星野人史校長はこう語ります。

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 「『学び』というのは、究極的には『愛』なんです。『愛』をわかりやすくいえば、異質な他者をいかに理解し、距離を縮めようとする努力なんです」

   …中略…

 「教科というのはただの場所、フィールドです。教師の仕事はそのフィールドで生徒たちが何に興味を持つかみきわめ、その興味に寄り添うことなんです。ところが学校の教員は、生徒を強引にどこかに連れてゆこうとします。たとえば、数学の因数分解を例にとれば、多くの教員は因数分解の解き方を闇雲に教え込もうとします。だから生徒は、こんなこと学んで何になるのか、と反発します。当然です。因数分解が将来、役立つ人間なんてほんの一握りです。重要なのは、因数分解を理解する過程で、その生徒が何を学べるかなんです。教師がそのことに気づけば、日本の教育はもっと良くなるはずです」

  同前 232ページ

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 再び「朝日」に戻って、話題も「教育」から「経済」へ。

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 東日本大震災では、人々の価値観が崩れた、というよりも、気づいていないけど実は持っていた価値観の再発見になると思います。資本主義や市場経済などは、本来の価値観の上に構築されたもの。人類はそんなのがない時も生きてきたわけで。頭で考えるよりも生きていかなきゃいけない。経済なのか命が大事なのか、という二分法ではなくて、価値観は誰もが持っているものなんです。

    平田満「作品・役 愛して表現」 「朝日」2012.1.1

 (注)つかこうへいの「才能とは、愛だ」あるいは「才能とは、いかに愛せるかだ」という言葉を紹介し、「作品や登場人物を愛していない人の芝居なんて見たくないし、見ても感動しない。でも、愛情を持つということがいかに難しいことか」と語った後で。

 上述の「学び」における「愛」が想起される。

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 俳優・平田満は大方の経済学者よりも経済の本質を捉えています。この凝縮された言葉は唯物論的であり、歴史的であり、人民的であるといえます。いかなる人間社会も、人々が働き、その成果を分配・消費して再生産されています。そうした内容の実現の仕方は様々であり、市場経済や資本主義はそれら形式の中の一つです。人々は否応もなく生きていかねばならない中で、その内容と形式に応じた価値観を形成します。ある経済のアイデンティティは形式に現れるので、通常人々は形式に強く影響された価値観に支配されます。今日では市場経済・資本主義の価値観です。それが壊れたり、疑われたりするとき、内容に応じた価値観が現れます。否応もなく生きていく経済的土台、その内容に応じた価値観が想起されるのです。「経済か命か」は本来なら適切に統一されています。しかし通常は「経済」という名で市場経済・資本主義が命を支配しています。大震災の衝撃で「経済と命」を支える「気づいていないけど実は持っていた価値観の再発見」が起こったのです。

 しかし逆に、非常時のショックを利用して、市場経済・資本主義の価値観を全面展開しようという新自由主義の政策が政府・財界により狙われています。「TPP」「原発」「経済特区」「消費税」などをめぐって厳しい価値観の対決が続きます。
                                 2012年1月31日



2012年3月号

欧州債務危機の教訓

 日本の2011年のGDPは、前年比実質0.9%減、名目2.8%減で、2年ぶりにマイナス成長となりました(内閣府2月13日発表速報値より)。東日本大震災、タイ洪水、円高などが特に響きましたが、欧州債務危機などによる世界経済の変調も影響しています。欧州債務危機については、そのような日本経済への直接的な影響だけでなく、今後の経済政策をめぐるイデオロギー的影響も重大です。特にギリシャのソブリン危機を引き合いに、財政危機を煽って消費税増税宣伝と公務員バッシングに拍車をかける議論が横行しています。これを正しく克服することが大切です。

 ドイツとギリシャを「アリとキリギリス」にたとえ、勤勉なドイツ人と対照的な「公務員が多くて怠け者のギリシャ人」が危機の原因であるかのように言われています。日本では、政府財務残高のGDP比がギリシャ以上に高いことをとらえて、財政再建(それ自身は必要だが)のため消費税増税が不可欠だ(すり替えと短絡)と喧伝し、「福祉切り捨て・賃金削減はがまんし、競争に勝つためもっと効率よくしっかり働け」という雰囲気が醸成されています。こうした表面的見方を批判して本質を探るのが社会科学の任務です(この見方を「理論化」して現象論を完成させ、本質を隠蔽するのが俗流社会科学の任務です)。

 「しんぶん赤旗」2月10・11日付けの「欧州債務危機の背景」上下によれば、ユーロ圏内の構造的な南北不均衡が危機の背景にあります。単一通貨ユーロの導入によって域内の為替変動がなくなったことで、ドイツの経常収支黒字は一方的に拡大し、南欧諸国等は一貫して赤字続きです。また為替変動リスクがなくなったことは赤字国への資本流入を促進し内需を拡大し経済成長に貢献しました。しかしリーマン・ショック後、外国からの資金は一気に引き揚げられました。「ギリシャなどの債務危機の主な原因が先進国からの急激な資金流入と急激な資金引き揚げにあることは明らかです。ギリシャの財政危機の原因を『放漫財政』だけに帰することはできません」(同記事)。

 二宮厚美氏の「崩壊期に突入した民主党政権 『失われた10年』の新自由主義的決算」は、ギリシャ危機の本質を「新自由主義的蓄積の帰結としてのソブリン危機」(63ページ)と喝破しています。「新自由主義的蓄積の最大の特徴は、貧困・格差社会化を推し進めながら、資本蓄積が進むという点にあ」り「一方での内需不振、他方での過剰資金の集積という対照的な状態」(64ページ)を生み出します。この内需不振の支配層的「打開」策に諸種あり、まず日本のように打つ手なしだと「デフレ不況」(同前)となり、ドイツ・フランスなどは外需依存・投資主導型成長、アメリカは債務依存型消費拡大となります(同前)。現在ソブリン危機に襲われているPIIGS(ポルトガル・イタリア・アイルランド・ギリシャ・スペイン)も債務依存型消費が進行してきました。しかし内需不足を私的な政務依存型消費では補えず「公共部門の需要で補わざるをえなかった」(65ページ)ため、公的債務が増えました。「その原因・背景となったのが、他ならぬグローバル化のなかの新自由主義の横行だったので」す(同前)。二宮氏は以上の「新自由主義的蓄積」批判を前提に、ユーロ圏内での不均等発展や単一通貨ユーロの問題点(通貨・為替主権の喪失=重要な国家主権の制限)を考察しつつ、危機に陥った諸国が本来とるべきであった政策として「福祉国家型の垂直的所得再分配の選択」(66ページ)を提示しています。「公共部門の力を拡充して内需の維持・活性化をはからざるをえない国・地域では」「新自由主義的蓄積にはつきものの過剰資金を公共部門に吸い上げて、これを内需にまわす道」(65ページ)が選択されるべきだというのです。したがってギリシャなどでの緊縮政策は解決策にはならないことが強調され、日本での消費税増税も同様であるとされます。

 二宮氏の論稿が日本の政治経済を主題にしつつ、ヨーロッパにも触れたのに対して、高田太久吉氏の「欧州経済統合の矛盾と金融・財政危機」(『前衛』3月号所収)はユーロ圏そのものを主題としています。高田氏はまず危機の全体像を的確に見渡しています。

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 現下の危機の複雑な様相を理解するためには、欧州連合(EU)自体の歴史と機構の特殊性、市場統合と共通通貨ユーロ導入が増幅させた域内経済の構造的不均衡、米国サブプライム問題を契機とする金融危機がユーロ圏金融市場に及ぼした影響、EU統合をめぐる二つのイデオロギー(社会的市場経済 対 新自由主義)の相克、さらには世界的な貨幣資本の過剰蓄積のもとで猛威をふるう国際的投機資本の動向など、多くの要因を念頭に置く必要がある。               181-182ページ

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 論文はこれを前提に、危機の本質を解明し、独・仏・IMFなどを中心に進められている危機対応策を批判し、あるべき方向性を提示しつつ、この危機があらわにした現代資本主義の本質と現象形態(資本の過剰蓄積による経済の金融化と労働者の貧困化)を抉り出しています。

 今回の事態は端的に言えば「構造的な域内不均衡と国際金融危機が複合的に作用して発生した金融・財政危機」(190ページ)なのだから、ユーロ圏内の構造的不均衡と「実物投資に比べて金融投資を重視する」「金融主導型の蓄積様式」(199ページ)を是正することが根本的解決となります。しかし現状ではドイツなど域内中軸国や国際的金融資本が、域内周縁国に対して一方的な赤字国責任論による緊縮政策を強要しています。これは「一層の大量失業と更なる財政悪化を招くことが避けられ」ず「危機の原因である域内不均衡を一層増幅させ、EU統合の理念と衝突し、結果的にEU統合自体の危機につながる自滅的な政策といわなければな」りません(198ページ)。

もともとは、市場統合が進展しユーロが導入される中で、域内の経済力格差により、ドイツなどの経常収支黒字が拡大し、これを資本取引によって経常収支赤字の周縁国に還流し経済成長を促すという「好循環」が、不均衡拡大を尻目に成立していました。しかし米国発の金融危機による世界経済の収縮と国際金融市場の資金の逆流により、周縁国では、経常収支がさらに悪化し、長期金利の高騰・資金の引き上げに見舞われました。これを赤字国の緊縮政策で乗り切ることは不可能であり、「好循環」の利益を得ていた黒字国が中心となって、当面は「ユーロボンドの発行によって周縁国に対する金融市場の取り付けをとりあえず遮断し、危機の一層の拡大を食い止める」「対症療法」(199ページ)が必要となります。高田氏はまたここで、今回の危機は中国やIMFに助けを求めるのでなく、EU自身によって解決可能であり、中軸国が赤字国責任論から脱して、(ユーロボンド発行などを)政治的に決断することにかかっていることを強調しています。

さらに対症療法を超えた根本的対策としては、「資本の過剰蓄積」「資本と労働の矛盾の激化」(199ページ)を直視し、域内不均衡を克服する方向に進まなければなりません。先に二宮氏は周縁国の政策として、新自由主義的蓄積を排する垂直的所得再分配の政策を提起していましたが、高田氏は中軸国に対して同様の方向でのリーダーシップを求めています。

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 ドイツを始めとする中軸国が、域内不均衡の長期的な改善を達成するためには、野蛮で見通しのない赤字国責任論ではなく、自ら域内不均衡を改善するためのマクロ経済政策、とりわけ、自国労働者の生活水準の向上と国内消費の増大を可能にする賃金の持続的引き上げと労働条件の改善、失業者を減らすための新しい雇用分野の開拓、新自由主義の影響で引き下げられてきた社会保障水準の再引き上げ、環境政策や社会インフラ向上のための公共投資、さらには平和維持と国際貢献等のためのプログラムの充実など、要するに、経常収支黒字削減と国民福祉向上のための新しい経済政策にむけて進路を切り換えることが必要である。               201ページ

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 ここまでで、欧州債務危機の真の原因とそれへのあるべき政策的対応について明らかになったと思います。ギリシャ危機などを利用して日本で進められているイデオロギー攻撃(消費税増税論や公務員バッシング)に対しては、以上のような欧州の実態とともに、現代資本主義の矛盾(ないしは新自由主義的蓄積の帰結)という根本的な観点から攻勢的に反撃していくべきでしょう。

 なお日本の金融・財政危機については、金子貞吉氏の誌上教室「貨幣の発展と資本主義経済 第4回 国債の証券化と危機」が参考になります。日本独自の国債消化の具体的な仕組みを説明しつつ、国債の累増と大量流通によって、財政問題だけでなく金融問題ともなっている現状なども指摘して危機の進行に警鐘を鳴らしています。福祉切捨てと庶民増税に反発するあまりに、日本の財政問題を軽視する向きもあるだけに、立場ははっきりさせつつも慎重な両面的考察が必要となります。

 ところで高田論文は「資本の過剰蓄積」を本質的概念として、欧州債務危機の諸現象を整序しましたが、他方、そこから一般論として現代資本主義における恐慌論にも言及しています。戦後高度成長期の資本の過剰蓄積が1970年代のスタグフレーションとして頓挫した後、「金融と財務を中心とする資本主義の蓄積様式」が「資本の過剰蓄積の解決ではなく、その深刻化と形態変化」をもたらしました(200ページ)。資本の過剰蓄積は実体経済の慢性的停滞をもたらし、経済の金融化と労働者の貧困化が高進しました。従来型の実体経済の過剰生産恐慌に替わって、バブルの形成と崩壊、それに付随する通貨・金融・財政危機が恐慌の主要な現象形態となりました。(こういう雑駁な紹介の仕方ではまずいのですが)情勢の進展において焦点となる経済現象を解明するにも、常にこうした本質論をおさえておくことが重要です。欧州債務危機を見て、アリとキリギリスの話を思い出して、緊縮政策が当然だと考えるのは(身近な生活体験を何にでも当てはめ過ぎる、という態度のほかに)、中軸国と周縁国という、つまり「国VS国」という見えやすい対立図式にとらわれるためでしょう。ここに資本主義経済にとって最も本質的な「資本VS労働」という観点を欠かさず、また現代的要件として「実体経済VS金融」という観点を重ね合わせることで、現象に対する批判的分析に至ることができます。

危機に陥った諸国の人々がいっそうの困難に突き落とされるのを当然だ、と考えるようなことはたいていやめたほうがいい。なぜなら本来今日の資本主義下の生産力発展は人々の安定した生活を保障できる水準にあるはずであり、そうなっていないのは資本主義的生産関係に原因のある場合が多いだろうからです。日本経済の諸困難もそうではないだろうか。

 

         幸福追求権はどうなる?

 わが国では、労働者の賃金と自営業者の所得は下がり続け、社会保障も切り下げられ、はては消費税率アップなど庶民増税が狙われています。これらに耐えて大企業を支えることが正しいのであり(ということは必ずしもいつも言われるわけではないけれども、暗黙の前提であり、証明不要の公理かのように扱われている)、さもなくば国際競争の中で日本経済は立ち行かなくなり、財政が破綻し、金融危機が襲い、人々の生活も苦しくなるばかりだ、という脅迫を、政府・財界・マスコミは恒常的に行なっています。すでに多くの人々は生活が十分苦しく、深い閉塞感の淵に沈んでいます。そこに対するこのような追い討ちによって、危険な「希望」にすがる流れも太くなっています。

 この流れについては後述するとして、先の「大所高所」に立った脅迫的説教は、実質的に諸個人の幸福追求を否定しています。戦時に日本軍国主義が強要した「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンを思い出させます。それは1945年の敗戦で終わったのですが、今では国際競争を念頭に「欲しがりません、勝つまでは」です。だから資本主義を克服するまでは、あるいはそうまで言わずとも、少なくとも新自由主義グローバリゼーションの終焉までは、それは延々と続くスローガンとなります。

 私たちは資本主義を貧困化と重ねますが、少なくとも体制側からは、人々を豊かにするというのが資本主義の「売り」だったはずです。しかし昨今ではひたすら貧しくした上に増税でむしり取ろうとしています。現代の資本主義においては、資本の過剰蓄積が実体経済の停滞と搾取強化・金融化に帰結し、その反動的性格をあらわにしているのです。

資本主義の黎明期においてアダム・スミスは「神の見えざる手」と言いました。それは、一人ひとりの利己心に基づく行動が市場の中で自由に追求されれば、結果として経済全体を発展させる、という巧妙な仕組みが(見えなくても)存在するという主張でしょう。個人と社会との予定調和の思想といえます。しかしスミスの死後、周期的全般的過剰生産恐慌が資本主義経済を襲い、それは今日にいたるも克服されず、彼の思想は破れました。その原因については、個人と社会との関係を、資本主義的市場経済(生産の無政府性を基礎にした搾取制度)の中で考えることで理解されるでしょうが、ここでは措きます。

スミスの言葉は現在ではもっぱら市場万能論として理解されています。しかしそうではなく、個々人が自由に幸福を追求することが国家によって抑圧されることなく、社会全体の発展につながる、という希望として捉え直してみてはどうでしょうか。今、大資本の利益のために人々の生活を犠牲にする(消費税増税に代表されるような)政策が国家の手によって強行されようとしています。だからこそスミスの元々の発想は、今日的には(そのように諸個人を抑圧する)悪政を糾弾する意味だと思えるのです。

スミスが闘ったのが重商主義国家ならば、私たちが闘っているのは新自由主義国家です。新自由主義者が闘っているのは福祉国家でしょうか。通俗的には、スミスの思想と新自由主義とを一括して、「大きな国家」を批判する「小さな国家」の観点と考えられています。しかし人間の自由・幸福追求権のために、その邪魔者となっている国家と闘っているという意味で、スミスと私たちを一括する方が正確でしょう。新自由主義者は人間の自由・幸福追求権に敵対して、資本の自由のために闘っています。彼らは確かに福祉国家に対しては「小さな国家」を実現していますが、資本の自由のためには「強大な国家」を構築して、諸個人を圧迫しています。その強権振りは、人民の生存権を切り捨てるということだけでなく、ビラ配布を弾圧するような市民的政治的自由の抑圧にも発揮されています。つまり大資本のために国家の経済力の選択と集中を徹底するだけでなく、当然出てくる批判者たちを弾圧する国家権力としても新自由主義国家は強大です。「小さな国家」という言葉は新自由主義国家の一面を表していますが、他面でその強大さを看過しないように注意することが大切です。ここでは、新自由主義の自由とは人間・諸個人の自由ではなく資本の自由だという点がカギです。「人間の自由」が「市場の自由」へ、さらには「資本の自由」へと疎外され人間を支配しています。しかしこの本質的関係は見えず、新自由主義構造改革が人間の自由を拡大しているかのように現象しています(実際には個々の経済事象について、新自由主義構造改革をめぐって、自由と抑圧とが錯綜していることはありますが、全体としていえば労働規制緩和に代表されるように、それが人間の自由を抑圧していることは明白だろう)。

日本国憲法第13条の幸福追求権が十全に発揮される中で第25条の生存権も保障されるように経済政策を運営するのが本来の政府の役割でしょう。そのためには消費税の増税を止め、累進課税を中心とする税制へと変革する必要があります。その他にも、個人の幸福追求と社会全体の発展との調和を目指すならば、それを実現する手段は、現代においては大資本への民主的規制です。かつて軍国主義の野蛮なスローガンであり、いまやグローバル競争の事実上のスローガンになっているともいえる「欲しがりません、勝つまでは」がそこに入る余地はありません。

資本主義市場経済が「諸個人の幸福追求と社会全体の発展との調和」を実現する障害となるなら、それを徹底的に変革することが必要であり、その究極の社会像こそ、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」(マルクス、エンゲルス『共産党宣言 共産主義の原理』国民文庫、56ページ)としての共産主義です。マルクスは、スミスの確信を批判的に継承したといえましょう。それは未完の構想であり、これから人類史の検証を受けることが必要です。しかしここではとりあえず、以上のように「諸個人の幸福追求と社会全体の発展との調和」の実現という社会進歩の本流の中に、スミス・マルクス・日本国憲法・今日の民主的諸運動を位置付けたいと思います。

以上のように、社会進歩の思想と運動の重要な中身として「個人の幸福追求と社会全体の発展との調和を信じ、それを出発点に、それを可能にする社会のあり方を問う」という姿勢をあげてみました。すると反動思想と運動の中身として、支配層の「大所高所」の見地から、個人の内発的な欲望を抑え、個人に無理強いをするという姿勢をあげることができます。「欲しがりません、勝つまでは」は欲望の直接的弾圧であり、競争と強制で人を動かすやり方は、外部からの欲望コントロールです(それはしばしば「強制された自発性」という形をとる)。こうした姿勢はたとえば橋下大阪市長の政策運営を想起させるものであり、新自由主義の反動化形態として、ひょっとすると普遍的意味を持つかもしれません。

ところでそうすると、個人と社会の予定調和を示すスミスの「神の見えざる手」を価格メカニズムの観点から理論的に精密に立証しようとした新古典派理論は、社会進歩の思想の流れに入るのでしょうか。先述のようにスミスの調和観は資本主義市場経済においては破綻しました。搾取・貧困化・恐慌を無視ないし否定するところに新古典派のエレガントな理論体系は成立しています。無残な現実を変革することでしか、個人と社会の調和は実現できないのに、新古典派は現実を調和しているものと解釈します。この解釈から外れた現実について、政府とか労働組合とかの市場外の人為的力が悪いとします。

 新古典派理論を基礎とするのが新自由主義であり、20世紀後期から今世紀初めにかけて、その理論的覇権が確立し、それに基づいてグローバルに経済政策が実施されてきました。その結果が資本の過剰蓄積であり、それが実体経済の慢性的停滞をもたらし、経済の金融化と労働者の貧困化が高進しています。停滞の中での国際競争で「欲しがりません、勝つまでは」状態に陥っているのです。スミスの進歩的な調和観から出発しながら、新古典派は資本主義市場経済の現実を無視してその本質を看過しました。その結果、それ自身の理論的展開と現実適用は個人を押しつぶす反動的帰結を迎えたといえます。橋下徹氏の信じがたい奇矯な反動的言動も、もしかするとこうした新自由主義の反動化という「一般的コース」があるならば、その典型例かもしれません。

 個人と社会の「不調和」の分かりやすい例として「合成の誤謬」があげられます。昨今では個別企業の経営努力(実際のところその多くはリストラという名の首切り「努力」だが)が国民経済全体では不況圧力になる、という矛盾を主に指します。これはマルクスのいう「生産と消費の矛盾」です。資本家は自分の労働者の賃金は低くしたいけれども、よその労働者の賃金は高くなって、自分の商品をたくさん買って欲しい、という矛盾した希望を持ちます。資本主義国民経済全体で見れば、「生産のための生産、蓄積のための蓄積」によって、一方では生産量がますます増大し、他方では賃金抑制によって消費需要が低迷して両者が不均衡となります。これが資本の過剰蓄積となり、かつてのように激烈な恐慌によって過剰資本を廃棄して縮小均衡を達成するか、今日のようにそれを避けて実体経済の慢性的停滞の中で、搾取強化(=貧困化)、および金融化に進むか、ということになります。どちらも不都合ですが、ここから次のことが分かります。資本主義経済において、個人と社会の調和を阻害する重要な要因として生産と消費の矛盾をあげることができ、今日それを緩和するのは資本への民主的規制であり、さらに解決を図るには社会主義的変革が必要となります。あくまでそのような自然な解決を阻止しようとするところに、現代資本主義としての新自由主義の反動化があり、過酷な社会の中で諸個人の不幸が推進されているのです。それは「各人の自由な不幸が万人の自由な不幸の条件となるような一つの競争社会」とでもいうべきものです。人間の自由が資本の自由に転変しているところでは、各人と万人にとっては「自由な不幸」が生じます(たとえば労働の規制緩和で、労働者にとっての「自由な働き方」が喧伝されましたが、実際のところ実現したのは資本の側にとっての「自由な働かせ方」でした)。そこで「自由からの逃走」(ファシズム)ではなく「自由な協同社会」を見据える方向にどう向かうのかが私たちに問われます。

 

         「橋下劇場」を許すな

 幸福の追求にとって、未来社会の展望は重要ですが、とりあえずは当面する問題をどう解決するかが問われます。野田内閣が提起し、財界・マスコミなどが強力に推進している「社会保障と税の一体改革」を阻止すること、とりわけ消費税増税を許さない闘いをどう展開していくかが問題です。そこでは人々の間に広くある「増税は困るが財源はあるのか」という疑問に答えることが運動のポイントになっています。2月7日、日本共産党が「消費税大増税ストップ! 社会保障充実、財政危機打開の提言」を発表したことはまさに時宜にかなっています。

 これは第一に、社会保障と財政の問題解決を、日本経済全体の民主的改革とあわせて提起したこと、第二に、社会保障の再生・充実と財政危機の打開を同時に進めていく上で、二段階に整理していることが特徴的であり、非常に総合的かつ現実的な内容になっています。

 それを前提にしつつ、今後説明を補っていくべきと思われる点を二つばかり指摘します。一つは、大企業・大資産家の課税逃れをどう抑えるか、という問題です。もう一つは、経済改革の見通しにおける試算での経済指標の適切さです。たとえば消費者物価上昇率が平均1.2%程度、名目成長率が平均2.4%程度というのは、現状からすれば非現実的に映ります。もちろん経済改革を実施した上での予想ということですが、より説得力をもたせる説明が必要でしょう。

 時宜にかなった提起というのは、「政府案の提出ならびに人々の関心のあり方との兼ね合い」ということだけでなく、橋下徹氏の「維新の会」などの策動との関係でも言えます。先述の「危険な『希望』にすがる流れ」の問題です。民主・自民の二大政党政治が行き詰まっているときに、その間隙を縫って橋下氏らが絶大な人気を得ています。ただしその人気の中身を見ると、政策的内容がなく、漠然とした期待のバブルに過ぎません。ここで来るべき総選挙の最大の争点である消費税増税に焦点を当てて、人々の生活に密着し地に足のついた政策論争へと、政治闘争の舞台を設定しなおすことが喫緊の課題となっています。民主主義擁護と政治変革のためには、すでにマスコミがしつらえている「橋下劇場」を終演させることに全力を尽くすべきです。それには「思想調査」問題などでの圧倒的攻勢とともに、ニセの政治闘争(既成勢力VS橋下ら)からまともな政策論争へ舞台設定をシフトすることが最重要です。

「朝日」2月12日付けのインタビュー「覚悟を求める政治 橋下徹・大阪市長に聞く」が反響を呼んでいるようです。ここでまず気になるのが「政治家の賞味期限」と言っていることです。この不真面目さ。まともな政治家ならば理想を目指して地道に長く続けようとします。賞味期限を問題とするのは、人々をいつまで騙し続けられるか、この人気は遅かれ早かれ胡散霧消する、という自覚があるからでしょう。確かに彼は人々がいやがることを提起しています。「既得権益の打破」という一見よさそうな言葉の中身の多くは、支配層への打撃よりも福祉などの切捨てです。その意味ではポピュリストではありません。しかし閉塞状況の中で「あいつなら何かやってくれる」という幻想に乗っています。そうした文脈の中では、人々を叱りつけたとしても、逆に「耳に痛くても言うべきことを直言する正論の人」であるかのように受け取られます。しかし生活者からはそんな上滑りな説教はやがて見放されるでしょう。だからこそ彼は賞味期限が切れる前に道州制などの実現へ道をつけたいという使命感に熱気を込めており、そこに人を惹きつける迫力が生じています。二大政党政治が行き詰まっているとき、橋下氏の使命感と人気を利用することに、支配層は一つの活路を見いだそうとしていますが、「橋下劇場」のリスク管理は彼らにとっても定かだとは思えません。

「朝日」インタビューで橋下氏は要するに「国際競争に勝てるようにもっと努力せよ。さもなくば日本は没落して生活水準も下がる」と人々に向かって説教しています。彼の経済の見方は生産力主義的で、生産関係を見ません。発展途上国と比べて日本の生活がよいということを言い、国内で貧困と格差が広がっていることを無視します。わが国における現状の獲得物をこれまでの人々の努力の成果と見るのならば、同時にそこにある貧困について資本の搾取・収奪の結果だという認識もあるべきです。彼からすればそこは自己責任なのでしょう。しかしたとえば正規雇用が原則の社会ならば、多くの労働者はまともな生活が営めるのに、様々な不安定雇用が常態化した今日の日本では、多大な労働支出が正当に報われていません。ここで問題なのは個人の努力の有無ではなく、社会システムのあり方です。大資本への民主的規制が働いている社会ならば貧困はずっと少なくなります。

つまり人々の生活水準を規定するものが何かを考えるのに、財界と同様にもっぱら国際競争だけに目を向けることが誤りなのです。日本経済の最大の問題点は、そこではなく大資本が強搾取で蓄えた巨大な内部留保が国民経済の中に還流しないことです。ここには観点の対決があります。対立図式は<国際競争力VS内需循環型国民経済>あるいは<個別企業の利潤増強VS内部留保を活用した国民経済の循環の再生>となります。「合成の誤謬」あるいは「生産と消費の矛盾」を克服するために、賃金の引き上げを起点とする経済改革によって内需循環型国民経済をつくることが必要です。そのときに、競争力強化のため努力せよというのは、相変わらず搾取強化路線を推進し、格差と貧困を拡大し、循環不全の国民経済の困難をますます大きくするものです。経済を見るときに、階級的問題を見ずに、人間的努力の一般論に解消していることことが間違いなのです。ここからは<努力する者VSしない者>あるいは<既得権益に安住する者VS新たな努力で挑戦する者>という対立図式が生じ、公務員バッシングなどへと向かいます。支配層の常套手段である分断支配に手を貸す結果となります。

ここで米国に目を転じてみます。草の根保守主義・ティーパーティー(茶会)の運動は、極端な小さな政府の主張から社会保障を敵視しているように、あからさまに人民内部の矛盾を誇張し拡大しています。彼らはその理念だけでなく、分断支配への協力という点でも支配体制に奉仕しているのです。次いで始まったウォール街占拠に始まる99%の人々の運動では、彼らが支配の構造を理解し敵と見方を正確に見通して、人民内部の分裂を克服し分断支配を断ち切ろうとしていることが最重要です。ここから日本の世論状況を評価するなら、橋下劇場などに見られるように、いまだ「茶会」段階が拡大し続けています。政治的対決点を正確に提起して分断支配を打破する「99%の運動」段階の日本版を創造していくことが必要です。

再び橋下氏の努力論について。そもそも努力とは人間一般について言いうるものですが、彼が力説しているのは資本主義的努力です。もちろん彼もその議論を受け止める人々も、それを努力一般だと思っています。しかし彼が言うところの努力はもっぱら競争の上に乗った努力です。「努力」に象徴されるものには、向上心、精進、自己実現、発達、進歩、前進などがあり、それは歴史貫通的な人間の良きもの・美質を表現しています。対して「競争」は資本主義市場経済を象徴しています。誰でも怠惰はよくない、努力すべきだと思っていますが、なかなか難しいとも感じています。そこに橋下氏が努力を強調すると、多くの人々は自己反省しつつ努力しようとなるかもしれませんが、それは際限ない競争の悪循環の扉を開ける資本主義的努力(搾取強化)への道なのです。

職人気質というのは使用価値そのものへの執着であり、職人はあたかも使用価値を目的とする生産者であるかのように思われます。しかし現代においては彼は商品経済の中に生きているのであり、生産の目的は価値です。市場で彼の生産物の価値を実現して、生活に必要な消費手段と次期の生産手段とを買う必要があります。彼はしばしば「売れるもの」を作るために、自分で納得できるよいものを作ろうという気持ちと葛藤しつつ、何らかの妥協を迫られることがあります。ここにあるのは商品経済における使用価値の実現と価値の実現とのある種の矛盾です。世に職人気質が賞賛されるのは、このような矛盾の中でもなお使用価値への執着を持ちつづける生産者への共感があるということです。それは努力というものの本源的形態への支持、憧れであり、それが商品経済の中で損なわれることを惜しむ気持ちです。

商品経済はさらに資本主義経済に転変し、生産の目的は価値から剰余価値になります。使用価値の追求が価値の追求へ転変したの続いて、価値量の無限の追求へとさらに「進化」します。使用価値への執着はさらに軽視ないしは変質し、軍需生産や公害製品など負の使用価値さえ大量に登場し、使用価値と価値との矛盾は頂点に達します。あるいは剰余価値追求は労働現場においてカローシさえ生み出します。

生産一般から商品経済へ、さらに資本主義経済へ、この二段階の転換によって人間の努力(に象徴される美質)が資本に従属し変質します。上の例はそうした疎外形態がはっきりと分かるようになったものです。しかしそのような究極的形態は別として、資本主義社会の中で努力しささやかな成果を得るという日常的経験の積み重ねにおいては、資本の運動が人間の美質を実現する良きものに見えてきたり、人間の美質が資本の運動を通じてこそ実現されるように見えてきます。ここに橋下氏の「努力」言説が人々の心にフィットする根拠があります。事実、人々の無数の努力が私たちの経済社会を形成しているのであり、資本主義経済の土台となっています。しかしその努力のあり方において、ディーセントワークの追求など、人々が主人公になった社会に近づけていくのか、それとも橋下流にもっぱら競争と結びつけて資本主義的疎外形態の方向に純化していくのか、厳しい対決があるのです。

橋下氏は逆境から努力して今日の成功を勝ち得たという経歴を持っています。だから彼は、競争社会を所与のものとしてそこで努力して勝ち上がることが正しいという教訓を得たのではないでしょうか。私たちの発想は逆です。その努力は資本主義的に疎外されたものであり、その前提である競争社会を人間的な社会に変える必要があり、そのための努力こそが求められています。ここで非科学的な精神主義のスポーツ指導者の再生産が思い出されます。不当なしごきに心身にダメージを負って脱落していく選手が多い中で、「幸い」にもそれに耐えて生き残った選手がいると、彼が指導者となって同じ誤りを繰り返すことになります。自分の「成功」を客観視できず、間違った状況の改善を怠って、自分に合わせて他人に無理強いする。これではスポーツはよくなりません。しかし実際には、非科学的な精神主義のスポーツ指導者は少なくなっているでしょう。それは科学的に状況を改善する指導者が登場しているからでしょう。政治もそうならねばいけません。

 マスコミ全体も同様でしょうが、このインタビューを載せた「朝日」の体たらくときたら…。橋下市長が常軌を逸した「思想調査」に及んでも、何らまともに批判せず、相変わらず「橋下劇場」の片棒をかつぎ続けています。2月19日付では星浩氏が、「永田町」と比べて橋下氏の「覚悟」と「決断」を礼賛し、消費税増税などを煽っています。なるほど、支配層の政策断行にとって「橋下劇場」はたいへん有用なわけだ。マスコミは権力の監視者ではなくその僕となり果てています。だから民主主義の危機にも鈍感なのでしょう。

以上、橋下批判としては無用の議論が多すぎ非効率だったかもしれません。しかし誰であろうとも、それぞれのやり方で橋下氏のあの本気・熱気には取り組むべきだと思います。その際に現存するものとしての「橋本徹現象」を合理的に理解することが前提となります。湯浅誠氏の「社会運動の立ち位置 議会制民主主義の危機において」(『世界』3月号)は社会運動家として建設的な変革のあり方・考え方を考察した秀逸な論稿です。そこでは政治の仕組みと世論状況とが冷静に分析され、橋下徹現象の理解もその一環として位置付けられた上で、社会運動のアプローチが考察されています。さらに精読し熟慮したいと思います。

 

         循環型地域経済像を求めて

日本経済における新自由主義との対決の軸は、大資本の国際競争力強化を重視するのか、地域内循環経済の強化を重視するのか、にあります。ただその一般的提起にとどまらず、循環型地域経済・国民経済の具体的あり方を提起することが重要な課題です。井内尚樹氏の「自然エネルギーと循環型地域経済」は、ドイツと日本の実践に学ぶとともに理論化に努めています。

大企業ではなく農家と地元中小企業が協力したドイツ・フライアムト村の自然エネルギー開発を例にして、生産力について大規模生産の優越に疑問をはさんで、小規模・分散型生産の効率性について問題提起がされています。

東日本大震災の仮設住宅建設で有名になった岩手県「住田町では川上の森林組合から、製材工場、集成材工場、プレカット工場、工務店まで、すべて町内循環システムとして動い」(116ページ)ています。そのため町の支出したお金は町外に出ません。ここから「循環型地域経済、『地産・地消型』産業の構築には、川上と川下が地域循環システムとして機能することが大切である」(116-117ページ)とされます。またこのシステムには間伐材を利用した木質チップ製造が含まれており、「自然エネルギー生産の振興には、循環型地域経済の構築を同時に進める必要がある」(117ページ)とも言われます。その他に、いち早いがれき処理の宮古市や、避難所として温かい食事が供給できる自校方式の学校給食体制などの教訓として、コストダウン・効率化重視の大規模化ではなく、「地産・地消型」産業構築の重要性が指摘されています。

こうした自然エネルギーを軸にした小規模分散型・地産地消型による循環型地域経済は一次産業を起点に展開され、日本の産業構造全体としても農林水産業と自然エネルギーとで10%を占めるような方向を井内氏は構想しています。ここでは「自然の恵み」が重視されており、循環型地域経済からなる国民経済は、単に新自由主義のオルタナティヴとしての経済的整合性という意味の他に、環境を重視した人間性の回復というディーセントな経済像という意義をももっていると言えます。いずれにせよ日本における異常な経済停滞の継続・二大政党政治の行き詰まりは、世界的な現代資本主義の過剰蓄積、新自由主義の不朽性の深化の一環であり、新鮮で具体的なオルタナティヴとしての地域経済・国民経済・世界経済像が求められています。井内論文はそうした試論の一つとして重要です。

自然エネルギーに関連しては、中瀬哲史氏が「発送電分離を中心とする電力自由化論が展開されている」が「欧米の先行例をみたところ、安定的な供給にとって効果があるとは思えない」(「日本の電力体制と電力改革の課題」108ページ)としています。『世界』3月号には伊東光晴氏の「経済学から見た自然エネルギー 飯田哲也氏に応えて」が掲載されており、発送電分離を批判しています。残念ながらこの問題について私の見識では判断できませんが、伊東氏と飯田氏との論争が建設的に行なわれ、脱原発の路線がより明確になることを期待しています。

 

         人間観の尊厳

臨床教育学者・田中孝彦氏の「子どもとともに、地域と学校の『復興』を考える―教師たちの震災体験を聴いて」(『前衛』3月号)は感動的な論稿です。被災した子どもたちの作文などを通して、彼らを単に「ケアの対象として見るだけでなく」「主体として理解することが重要だ」(52ページ)と田中氏は提起しています。そこには「生き残ることができた自分の生命の重みをしみじみと感じた子どもたち、人々の生命を大切にする地域や学校のあり方に思いをはせた子どもたち、この厳しい体験を生かして生き方を考えた子どもたち」(57ページ)がいたのです。こうした思いの中からたとえば「恐怖と不安に脅えながらも、なお自分が周囲の人たちとともに生きていくために、何を大切にしていけばよいのかという問いを抱き、それを考えようと」(52ページ)しています。だから教師の課題は実に水準の高いものになります。

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これからの「復興」の中で教師に問われてくるのは、教育の原点に立ち戻って、一人ひとりの教師が一人ひとりの子どもたちについての理解を深め、その子どもたちが求めている学習の質を考え、それを創り出す一歩を踏み出すということではないだろうか。

                    53ページ

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 福島県から他県に避難したある高校生は、県内に住み続ける人との間に生じた溝に深く傷つきながらも、考え学び、それを表現しなければならないと思っています。ここには「生命の危険から避難することと、人間関係やコミュニティを維持し創造することとを、どうしたら結びつけられるのかという、重い問題」(60ページ)に直面しながらも「痛々しさを感じさせるほど、深く、鋭く、原発問題を考えている」(同前)姿があります。人間の内面の深さを決して粗略に扱ってはならないのです。浅薄な人間観と社会観で破壊的言辞を振り回すことがいかに恥ずかしいことか。たとえ自分流の「覚悟」があると自負していても。

先述のように、新自由主義や橋下劇場との対決点は経済像の次元(大資本の国際競争力が第一か、地域内循環経済が第一か)にありますが、人間観の次元にもあります。分かりやすい例は橋下氏の政策を支えているだろうと思われる人間観です。それはおそらく競争ないしは強制で動かす対象としての人間観です。それに対して、最も受動的な存在と考えられる被災した子どもたちにおいても確かな主体性が育っているのです。一人ひとりの主体性を尊重し、分断に抗して連帯を求める人間観によって新自由主義を克服することも重要な課題です。
                                 2012年2月28日




2012年4月号

                 経済政策のあり方                         

 垣内亮氏の「消費税大増税ストップ! 社会保障充実、財政危機打開を  日本共産党の提言について」は、2月7日に発表された日本共産党の提言を解説しています。私が注目したのは政策というものの位置付けあるいは性格です。人民の利益を実現でき、現実的で整合性のある政策を詳細に仕上げる、ということは前提ですが、それがいかに多くの人々の意識をつかむか、ということも重要です。端的に言って、正しければいいというものではなく、人々の心情・思いから出発しそれに的確に答えることができなければなりません。政策が正しければ選挙に勝てるというものではなく、組織的力量やときどきの選挙戦術なども問題となります。ただ政策そのものについて見ても、少しでも多くの人々の意識をつかめるように工夫することが大切です。きっとそれは小手先の問題ではなく、いかに人々の生活・労働とそこでの意識に内在し、社会を奥深いところから変革するか、という姿勢の問題ではないか、と(いささか大仰な物言いではありますが)思います。

 たとえばまず「提言」では、政府の消費税大増税計画の三つの大問題(1.ムダづかいの温存、2.社会保障切捨てと一体、3.経済を失速させること)を指摘していますが、その狙いを垣内氏は次のように説明しています。

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 この三つの問題点は、消費税増税に反対する人だけでなく、「消費税増税はやむを得ない」と思っている人も含めて、問題だと感じる内容です。消費税大増税を許さないために、政府の大増税計画のひどさ、無謀さを、こうした角度から明らかにしていくことは重要です。

      95ページ

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 また財源についても、社会保障を再生する第一段階から、拡充する第二段階に進んだ際には、あえて「国民全体で、その力に応じて」という言葉で広く負担を求めているのが今回の提言の重要な新しい中身です。これは「社会保障は大事だから、微力だけど自分たちも負担しないといけない」という善意の気持ち(97ページ)に応えたものです。政府がこの善意につけこんで消費税増税を画策するのに対して、応能負担の所得税を中心にした対案を提起したことは重要です。つまり議論のすれ違いで「いつもの独自の立場だ」と思われるのでなく、「人々の善意」という共通の土俵にあえて上がって真正面から勝負するのは、とても分かりやすい姿勢だといえます。

 政策の内容の詳細に立ち入ると、従来の政策からの変更もあります。医療費の窓口負担や介護の利用料、あるいは法人税率などで、要求実現のペースがスローダウンします(97ページ)。これらは政策を二段階に提起したことと関係しており、一方ではやりくりの難しさを感じさせますが、他方では現実性・整合性が柔軟に確保しうると評価できます。

 そうした個々の政策的調整の問題の他に、消費税に関する原則的見地がはっきりと打ち出されていることも重要です。党の政策としては将来の消費税廃止の方針は不変であり、「提言」でそれに触れていないのは、今回の政府の策動に対して「増税反対」の一致点で多くの人々と手をつなぐためだ、という説明は説得力があります。

 3月12日に開かれた「提言」各界懇談会での志位和夫委員長の報告では、「提言」の基本的考え方がいっそうクリアにされています(「しんぶん赤旗」3月16日付)。その中でも特に注目されるのは、「提言」の全体が、民主的な国際経済秩序をつくるという視野に立ったものとなっている、という言明です。法人税率・為替投機課税・ディーセントワーク・中小企業と大企業の公正取引・食料主権といった重要な問題群が国際的視野で取り上げられていることを紹介しつつ、志位氏は以下のように言われます。

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 いま、世界に求められているのは、一握りの多国籍企業の無責任で身勝手な活動を規制し、また一部の大国の経済的覇権主義をおさえ、すべての国の経済主権の尊重および各国国民の生活向上をめざす民主的な国際経済秩序を確立することだと考えます。そして、世界では現にさまざまな形でそういう方向への前向きな動きが起こっています。

 「提言」は、そうした世界の前向きの流れも視野に入れ、そこに合流していくことを展望して作成したものだということも、紹介させていただきたいと思います。

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 経済政策には国際的整合性が求められます。ところが従来それはもっぱら「一握りの多国籍企業の無責任で身勝手な活動」や「一部の大国の経済的覇権主義」を前提にして考えられてきました。新自由主義的グローバリゼーションによって人民が犠牲にされる政策が当たり前とされてきたのです。日本はその典型です。しかし「すべての国の経済主権の尊重および各国国民の生活向上をめざす民主的な国際経済秩序」というもう一つのグローバリゼーションが起こりつつあります。経済大国日本がそういう方向性を掲げるならば世界経済へのインパクトは大きいでしょう。私たちの多くの切実な要求運動と政治変革の運動が日本と世界を変える役割を担っているということを志位報告は教えてくれます。すべてを犠牲にして国際競争に勝ち抜くことが日本人の生きる道だ、と声高に言われますが、その志の低さがここに一目瞭然となります。

 

         保守イデオロギーの暴走 

 「朝日」3月3日付夕刊によると、大阪府立和泉高校(中原徹校長)の卒業式では、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加えて、実際に歌ったかどうかを口の動きで管理職がチェックして府教委に報告していました。中原校長は「他校の校長は『斉唱』まで確認していないと思います」「ちなみに3人とも組合員」と報告しています。橋本徹大阪市長は「これが服務規律を徹底するマネジメント」「ここまで徹底していかなければなりません」と賛辞を送っています。

 「ここまでやるか」か、「ああ、やっぱり」か。権力者の意向を忖度して十二分に期待に応えるお山の大将と、それにご満悦の権力者。諸個人の良心と尊厳を踏みにじって恥じない卑劣な共演。この校長は生徒にいったい何を教えるのか。監視・密告と阿諛・追従(あゆ・ついしょう)に満ちた社会を子どもたちに贈ろうというのだろうか。

こういう最低の教育者に媚びられて喜ぶ最低の政治家。彼は選挙に勝った、つまり民意を代表しているのだから何をやってもいい、と思っています。そもそも「選挙による白紙委任」は民主主義にそぐわない考え方ですが、政治家がそれを改めない場合、彼の独善と過信による暴走を止める切り札は世論を変えることです。

いかにもありがちな端役が登場して、いよいよ橋下劇場は「日本一の勘違い男による馬鹿殿行状記」の様相を呈してきました。橋下劇場を、志村賢にも負けない爆笑喜劇に終わらせるのか、「昭和維新」のような悲劇へと導くのか、決するのは人々の動向です。ジャーナリズムの使命を放棄したマスコミ状況下では、もどかしくとも、ていねいな話し合いによって空気を変えていくことが必要です。

 ここで思い出されるのは、2005年の9.11総選挙です。郵政民営化法案が参議院で否決されたのを受けて小泉首相が衆議院を解散し総選挙で大勝しました(小選挙区制マジックがあったとはいえ)。今日ではまるで小泉勝利が容易だったかのように受け止められていますが、それは結果論であって、実際には解散・総選挙は自民党分裂の危険性をも冒した大博打であり、それを断行した小泉氏の権力闘争のセンスは抜群であったと言わねばなりません。当時、郵政民営化を中心とする小泉構造改革に対する論戦では、反対派がだいぶ追い込んでいるかのように感じていましたが、それはそういう立場で闘っている者の「実感」であって、普通の人々は小泉劇場の熱気に支配されていました。社会変革を志向し、実践する者は自らの経験による狭い実感から、しばしばそうした錯覚に陥る可能性があることに注意する必要があります。その後、構造改革による格差と貧困化の進行が政治批判を招き、2009年総選挙での政権交代に至りました。もはや構造改革が錦の御旗のように振られることはなくなりました。しかし資本主義経済そのものは新自由主義構造改革のイデオロギーと政策を絶えず再生産するものです。小泉人気の根強さはそれを示しており、橋下人気につながっています。

 橋下氏は思想調査という・想像を絶する暴挙にまで至りました。無批判という自殺行為的状況に陥っているマスコミを尻目に、反撃の運動は広がっています。しかし広範な人々の中の空気を奪還できたは分かりません。と言うか、おそらくまだまだとてもとても、という状況でしょう。橋下劇場のあまりのばかばかしさと自らの理論的確信から、危険な状況を軽視する、ということは許されません。具体的な反撃の運動と結んで、地道な対話の積み重ねによって「量から質への転化」を実現し、世論上の「空気」を逆転することが必要です。残念ながら今のところそんなことしか言えませんが…。

 当面する反撃にはあまり役立たないでしょうが、以下では橋下氏など保守政治家のイデオロギーの位置付けについて若干考えてみます。これからも有象無象のプレイヤーたちが登場してくるに違いないので、その捉え方の準備が必要だからです。2000年の拙文「今日の政治経済イデオロギー」では自分なりにイデオロギーの鳥瞰図を描いてみました。その「要約」から引用します。

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イデオロギーの鳥瞰図

  グローバル化、対米従属の国独資、政官財癒着などへの対応によって分類した五潮流

  (1)ブルジョア教条主義:新自由主義など

  (2)ブルジョア現実主義:ケインズ右派など

  (3)真正保守主義、反動派

  (4)市民主義:ケインズ左派など

  (5)科学的社会主義

 

ブルジョア教条主義の成立(根拠)と帰結

       …中略…

  ブルジョア教条主義の推進するグローバル化・規制緩和の帰結は、生活・労働の破壊と

  経済のカジノ化である。

 

イデオロギー諸潮流と今日の政党状況

  自民党:新自由主義を中心としつつ、ケインズ右派、真正保守主義をも利用して階級支

          配を維持しようとしている。

  民主党:新自由主義的経済政策を基本としつつ、市民主義的政治手法を取り入れている

          が、これは危険なミスマッチである。

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 今これを見ると「鳥瞰図」の(4)に市民主義と並んで社会民主主義を入れるべきだった、と思います。またその後の展開として、新自由主義構造改革による格差拡大・貧困化への批判から民主党内に福祉国家的(社民的)傾向が強まり「国民生活第一」を掲げて政権交代を果たしたことが重要な変化です。もちろんその後再び、新自由主義が完全に中心となり、自民党以上に自民党的な野田政権が成立しました。

 上記の保守三潮流は対米従属の国家独占資本主義の枠内という共通性を持ちつつも、それぞれ独自のイデオロギー的基礎を持っています。しかし現実政治の次元では、各政党あるいは各政治家がそれらを複合的に抱えている場合が多くなっています。後述するようにそれには根拠があります。

 高度成長時代の主流派であったブルジョア現実主義は今日では傍流であり、「構造改革」全盛時には「守旧派・抵抗勢力」と揶揄され凋落していますが、保守層などの既得権益を守るためしばしば新自由主義政策を批判することで存在感を持っています。それが一定の保守良識派的様相を呈する場合もあり、革新派と連携する可能性もありますが、支配層の中での影響力は限定的でしょう。

 ブルジョア教条主義としての新自由主義と真正保守主義・反動派(保守反動派)とは本来ならば水と油の関係です。保守反動派は国家と共同体的社会関係を基礎にした伝統的権威主義による安定した社会を望みます。対して新自由主義は、(強い国家だが)小さな政府を掲げ、共同体的関係を破壊する市場の拡大を推進し、社会の安定を犠牲にしても国際競争力強化を重視します。

弱者救済を保守反動派は擁護し、新自由主義は排斥します。だから場合によっては、新自由主義に反対して保守反動派と革新派が一点共闘を組むこともありえます。亀井静香氏が推進した金融円滑化法を民商が支持するというようなことです。しかし現状の大勢としては、今日の主流派である新自由主義派が保守反動派を利用して支配体制を維持しようとしています。新主流派ブロックとでも言いましょうか。

新自由主義構造改革は必然的に格差と貧困を増大させ、社会を不安定化し解決策を持ちません。ビラまき「有罪」などに見られるように、治安体制の強化と反対派への政治弾圧は新自由主義国家の強権性を現していますが、それを補強するものとして保守反動派のイデオロギーが求められています。新自由主義政策の下で分断され疎外された人々が、家族・世間・国家などへ「共同体」として帰属する意識を持つことで、資本主義経済の矛盾から目をそらすことが期待されます。もちろんその共同体意識は、下からの変革的志向を持つ自立的な連帯感としてのそれではなく、天皇制イデオロギーなどの伝統的保守的権威主義としてのそれです。天皇崇拝のような意識は時代とともに低下しているとはいえ、今日では「日の丸」「君が代」はむしろ通常化し、それを拒否するのは特殊な少数派という雰囲気があります。また中国・韓国・北朝鮮などへの嫌悪感を煽る風潮もあふれています。だから一路反動化というような単純な話ではないのですが、「普通の人々」が格差・貧困・分断・疎外に際して、その原因としての新自由主義政策(本質的には資本主義そのものなのだが)に目を向けるより、公務員バッシングやアジア蔑視の排外的国家主義などに乗りがちになり、反動イデオロギーに対して抵抗感が薄れる傾向になることは否定できません。公務員バッシングは既得権益バッシングの中心にあります。既得権益というとすべて悪であるかのように言われています。しかし確かにたとえば「原子力村」の既得権益は悪ですが、既得権益ということで社会保障そのものがバラマキ批判にさらされています。さらには人類が血と汗と涙をもって獲得してきた既得権益が基本的人権です。教員への「君が代」強制は、公務員と基本的人権双方への既得権益バッシングなのです。ここには新自由主義=既得権益バッシングが保守反動と結びつく一例が示されています。

もちろん保守反動派の中には、その本来の性格からして新自由主義を強く拒否する流れもありますが、逆に支配層の主流としての新自由主義派はプラグマティックに保守反動派を利用しようとしているように思われます。たとえば橋本徹氏の「君が代」強制にしても、保守反動のロマン主義的情熱からというよりも、公務員の服務規律の遵守に力点があります。首長(→教育委員会)→校長→教員という上意下達の専制システムの構築こそが重要なのです。その一方で競争(他県と・学校間・教員間など)を重視していることを考え合わせると、ここには「個別企業の中における資本の専制支配(労働者間競争の組織化を含む)」と「市場での自由な競争」とから成る資本主義経済の仕組みとの一定の類似性が指摘できます。つまり「君が代」強制というブルジョア民主主義以前の前近代的現象の底には現代の資本主義システムが貫かれているように思えるのです。そしてまたこのシステムの貫徹において、保守反動イデオロギー(あるいはそこまで積極的に言わずとも、「君が代」強制に疑問をもたないような受動的保守主義による大勢順応的姿勢)が有効に活用されているという関係にも注意すべきでしょう。思想調査という反動的暴挙もその前近代的な野蛮な性格だけでなく、資本の専制支配の反映という性格からもとらえることが必要です。生成期の資本主義はブルジョア民主主義をまとって歴史を切り開いてきましたが、現代の新自由主義段階の資本主義は(場合によっては)ブルジョア民主主義を押しつぶす性格を持ちうることに注意すべきです。前者では資本主義における「市場の自由」という側面が反映されているのに対して、後者では「市場の自由」が喧伝されながらも実のところ「資本の専制支配」の側面が強く反映されているということです。しかもそれが個別資本の中だけでなく政治領域にまで拡張されるとあからさまな政治反動となります。橋下劇場を見ていると、ウェットな保守反動のロマン主義というよりも、ドライな資本の専制支配という性格が強いように、また後者が前者を利用しているように思われます。

本来的には新自由主義派と保守反動派との新主流派ブロックは野合に他なりません。そこでは後者が望むような安定的な社会関係が実現するわけではなく、新自由主義構造改革の矛盾の隠蔽に後者のイデオロギーが利用されるだけです。この野合を生み出すのは、新自由主義的資本蓄積様式の行き詰まりでしょう。経済成長の鈍化に際して、もっぱら搾取強化で利潤を増大させようとする結果、労働者の購買力を減少させ、消費不況を招き、売上不振の中でも搾取強化で利潤を確保するという悪循環に陥っています。こうして資本の現実的蓄積が停滞すると過剰貨幣資本が投機に回されます。新自由主義的資本蓄積とは、アンティ・ディーセントな搾取とカジノ化をその二大特質とする寄生的・腐朽的な現代資本主義の資本蓄積様式だといえます。そこでは富の蓄積と貧困の蓄積の二極化が激化し、人々に対しては搾取強化(首切り・賃下げ・労働強化など)・福祉切り捨て・増税などが強制され、まるで軍国主義時代の「欲しがりません、勝つまでは」状況さながらとなります。新自由主義は人々に何の希望も与えられず、「耐える覚悟と努力」を説教したり、保守反動のロマン主義に逃げたりすることになります。

 小泉純一郎氏は「痛みに耐えよ」と言いました。ただし「その先によい生活が待っている」という幻想を抱かせました。もちろんそれは無残に破れ、格差と貧困に社会は荒廃し、「国民生活第一」の民主党へ政権交代しました。しかし民主党政権も構造改革に回帰し、人々に痛みを押し付けています。つまり日本資本主義体制の支配層の到達点としては、いまや資本主義の「売り」であった「人々の生活の豊かさの実現」を放棄するという地点にあるということです。この荒廃を前にして、支配層の一部から、開き直って、人々に耐える覚悟と努力を説教し、はては公然とブルジョア民主主義を破壊する者が現れました。これはまだ支配層の統一的な到達点ではないと思いますが、その人気の如何によってはどうなるか分かりません。

 支配層とその中の跳ね上がり者とは強大ですが、上記のように両者とも人々の生活の希望は語れず、さらに後者は自由と民主主義に公然と敵対しています。いずれにせよ客観的にはとてもまともな生活者に支持される内実を持たない連中です。これは今日の日本資本主義(および世界資本主義)の到達点に規定された現状なのです。だからハシズムに対抗するには、その個々の現れに機敏に反撃していくことがまず必要ですが、根本的には政治経済の大きな流れを語ることが大切です。対米従属と財界・大企業奉仕の「二つの異常」の見地をしっかりと踏まえつつ、「社会保障と税の一体改革」という名の一体改悪への対案である日本共産党の「提言」に基づいて、日本経済の変革と社会保障の充実・財政危機の打開について正面から語っていくことが重要だと思われます。

 

         言葉のきれいさの陥穽

 いつも駄文を書く中で、その至らなさの原因は勉強不足と考えの中途半端さなどにあると思いますが、それでもそれを公表するのは、議論の何かの足しになるかもしれないというわずかな期待によるものです。ただし仮にもっと拙文の水準が上がったとしてもなお、何らかの考えを文章化すること自身の持つ難しさがあります。現実の困難さを的確に捉え切れずにきれいにまとめてしまいがちになる、という問題です。そこに安住しないで考えを突き詰めていくことを多少なりとも意識するために、長いですが以下の対談を引用します(『世界』4月号所収の内澤洵子、角田光代対談「『肉を食う』こと 残虐さを背中合わせの豊かさ」から、219ページ)。

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 内澤 …中略… 

 自分の作ったものをおいしいと言ってもらえる喜びという農業の原点は体験させてもらえたと思いますね。そもそも農業、第一次産業は矛盾をいっぱい抱えた産業ですよね。人間存在そのものが結局ほかの生命体を何とかしないと生命を継続出来ないということになっているわけだから。

 しかし、そこで「命をいただく、ありがとう」が先走ることには非常に抵抗があるんです。そういう言葉の氾濫にものすごい違和感を覚えるし、なるべく使いたくないのだけれど、でもそこにしか帰結できないという矛盾と葛藤がある。

 角田 間違いではないけれど、それでまとめることがいやですね。その言葉のきれいさで、折り合いのつかなさから取り敢えず目を背けることができる。

 内澤 そうなんです。免罪符のように、それさえ言えばいいかのようにずれていってしまう。生きるということ自体の矛盾というか、ものを食べるということが抱える矛盾とせつなさ、残虐さと豊かさが全く背中合わせであるところから目を背けることになるんじゃないか。もちろんそれをずっと思い続けるのはつらい部分もありますよね。でも「感謝します」と手を合わせた瞬間に、つらいことだけ見ないようになりはしないのかと、どうしても納得できない。「命をいただきます」「ああいい話だね」というのと、血のにおいもしない、パックされたきれいなお肉しか見ないこととはつながっている気がする。

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         チェーホフの手紙 謙虚と卑屈

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  自分のつまらなさを認識するのは、神様の前や、知恵の前、美の前、自然の前であって、人間の前ではあるまい。人間の前では、自分の価値を認識しなければならない。君はペテン師じゃなくて、正直な人間なのだろう?だったら、自分のなかの正直者を 尊敬し給え。《謙虚である》ことと、《自分のつまらなさを認識する》こととを混同してはいけない。

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 これは1879年、19歳のアントン・チェーホフが弟ミハイールにあてた手紙です。チェーホフが16歳のとき、父親は破産しモスクワへ夜逃げしました。自身は、故郷である南ロシアの港町タガンロークに一人留まって、学費や生活費を稼ぐだけでなく、モスクワの家族にも仕送りをしなければなりませんでした。過酷な現実の試練にも打ちひしがれることがなかった若者は人間性の尊厳に対する自覚をこのように見事に表明しています(筑摩書房版『世界文学大系46 チェーホフ』/1958年/の木村彰一氏の解説より)。

 弟ミハイールは何か失敗でもして落ち込んでいたのだろうか。チェーホフは、謙虚と卑屈とは違う、自信を持って人に対せ、と励ましています。世の中全体が自信喪失で、一部の者がそこにつけこんで声高に暴走しつつある今、「99%の人々」に贈りたい言葉です。

ところで謙虚と卑屈とは似て非なるものですが、自信と傲慢もまた似て非なるものです。人は自信があって謙虚であることが望ましく、傲慢であったり、卑屈であったりするのは避けたいものです。それでは謙虚と卑屈、自信と傲慢、それぞれを分けるものは何でしょうか。それは、自分自身を冷静に正しく把握し評価できているか、それを前提にして人に適切に対しておれるかどうか、だろうと思います。より構えを大きくして、この問題を真理と組織に適用した言葉を以下に紹介します。

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謙虚とかごう慢とかいわれる倫理的態度にしても、人にたいする態度であるよりも、まず第一に、真理にたいする態度の問題であり、そうしてはじめて、人にたいする態度ともなりうるのである。謙虚と卑屈、自信とごう慢をわかつ基準は、そこにしかない。民主的諸運動において、個人崇拝や派閥的観点が有害なのは、人にたいする顧慮を第一において総括の科学性をつらぬく努力がくもらされるからである。反対に、もっぱら総括の科学性が追求されてのみ、真理のまえの平等の基準がうちたてられ、組織の団結もつよめられる。

      島田豊「若い日の自己形成と総括の意義」 234ページ

    赤羽功、有田芳生、浦上立志編『激動に生きる ―変革期の探究―』

1976年、立命評論社発行)所収

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 「謙虚とかごう慢とかいわれる倫理的態度」は、人間関係にかかわって個人的性格から発する問題として、私たちは日常不断に感じています。しかしその根は「真理にたいする態度の問題」にあると島田氏は指摘しています。「真理のまえの平等」という透明な基準があってこそ、組織のメンバーは傲慢や卑屈に陥ることなく、自由闊達に団結することができます。何でも「人間関係」の一言で済ませずに、直面する問題を客観的に捉える努力が必要でしょう。

 『激動に生きる』は学生サークルが編集・発行しており、島田氏の論稿も一般の学生を対象に書かれています。36年前のわずか12ページの「覚え書」(227ページ)ではありますが、弁証法的唯物論によって理論(方針)・実践・組織を考察し示唆するところ大です。今日ではむしろ民主的諸運動に参加する人々、特に幹部活動家にとって必読ではないか、と思います。 
                                 2012年3月26日




2012年5月号

         『資本論』形成史研究における問題点

 山口富男氏は不破哲三氏の近著を評して以下のように結論付けています。 

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 マルクスの『資本論』形成史のダイナミックな展開過程と理論的飛躍の峰、第一部完成稿の画期的内容の解明は、『資本論』を深くつかみ直すための、新しい認識点をもたらしました。その内容は、現代の資本主義論、未来社会論の展開にも、大きな力となるものです。さらに、経済学説と革命論の歴史的展開の密接な関連の解明は、マルクスの経済学と革命論研究に、「新たな視野」を開くものです。

 「経済学の変革とマルクスの理論的飛躍 不破哲三『「資本論」はどのようにして形成されたか』を読む」 94ページ

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 世の資本主義批判の経済学研究がしばしば病的・閉塞的な一面性に陥りがちになる傾向があるのに対して、不破氏の研究は全面的・発展的であり、独特の明朗な健全性を感じさせる点に大きな魅力があります。今回の『資本論』形成史研究に関する山口氏の上記の指摘もそのような側面を捉えており、多くの人々が不破氏の新たな労作に挑戦する助けとなるでしょう。

 ただしこの労作が広く読まれるべきであるということは、読者が自分の頭でそれぞれに『資本論』なりマルクス経済学なりを考えることとは矛盾しません。すでに私は『経済』2011年7月号と10月号とへの感想において不破氏の研究の一部に対するいくつかの異論を提起しました。ここではその中から一点だけ再説します。

 不破氏は『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」から恐慌論を取り除くべきだということを主張し、マルクス自身もそのように考えていた証拠として、1868年4月30日にマルクスがエンゲルスにあてた手紙を挙げています。しかしそこでのマルクスは「利潤率の展開方法」あるいは「いろいろな形態および互いに分離した諸構成部分への剰余価値の転化」という限定された主題について述べており、第3部の構想という総体的な内容は展開していません。したがってその中の第3部第3篇についての説明において恐慌論に言及されていないからといって、第3篇にもともとあった恐慌論をなくすようにマルクスが方針転換した、という証拠にはなりません。

 さらにいえば、この手紙における第3部第4篇の商人資本についての説明でも当然のことながら恐慌論への言及はありません。しかし不破氏はそのことには触れず、恐慌の発現過程において商人資本が果たす役割をマルクスが具体的に研究していることを別の箇所で明らかにしています(山口論文、87ページ)。同じ手紙の第3篇の説明に恐慌論がないことをことさらに強調して、第3篇から恐慌論を削除すべきだと不破氏は主張しているのだから、第4篇の説明でも同様にないことに触れて、第4篇からも恐慌論を削除するように主張しなければ首尾一貫しません。ここには、もともとマルクスが恐慌論について述べるはずもない手紙を取り上げて、そこに恐慌論がないからといって、第3篇から恐慌論を追放しようとした矛盾が鮮やかに現れています。

 これは資料解釈における小さくない誤りであり、現行『資本論』第3部第3篇の内容に根本的な疑問を差し挟むという、不破氏の大胆な問題提起そのものの妥当性を揺るがしかねないものです。もっとも、その問題提起には、マルクスの真意に対する解釈の問題と、不破氏の「恐慌論」観の問題が絡み合っているので、ここではマルクス解釈に絞ります。

私は国民文庫『資本論書簡2』136〜143ページを読んでこの誤りに気付き驚きました。私も含めて多くの読者は「草稿」「手紙」などの資料類に触れる意志や能力を残念ながら持ち合わせていません(今回はたまたま触れることができましたが)。資料利用については掲載論文を信用して読むしかないという状況でしょう。しかし優れた研究者といえども誤りはありうる、という当たり前のことを確認しただけでも今回は良しとしなければならないのでしょうか。ここには、学会誌とか学術専門誌とは違って、一般の読者をも対象とする『経済』における一つの編集上の課題があるように思えます。

 ところで今号の山口論文だけでなく、「しんぶん赤旗」『前衛』にも不破氏の近著の書評や紹介がいくつか載ってきました。書評の標準的なスタイルとしては、全体的には好意的な内容であっても、部分的には批判し注文したりするのがむしろ通例です。しかし不破氏の今回の労作に対してはそれがありません。新鮮で大胆な問題提起を含む著作に対してはそれにふさわしい反応があってしかるべきではないでしょうか。誤りを指摘したり異論を提起することを抜きに理論の発展はありません。無視あるいは崇拝という両極を排し、学術論文として正当に取り扱うということが、誰の著作であれ、労作(の名にふさわしいものであるならば)を真に尊重する姿勢であると思います。現状では、日本共産党において、不破氏を継承する優れた社会科学研究家たちが現れるのだろうかと心配になります。先日の消費税増税阻止等の「提言」に見られるように、個々の分野の理論・政策においては新鮮で堅実な展開がありますが、さらにはそれらを統括する科学的社会主義の理念的前進を図り、イデオロギー的にも人々、とりわけ若い人々を魅了できることを目指すことが必要です。今それは追求されていると思いますが、今後いっそうそのような任を担える後継者たちが育っていくような自由闊達な民主的気風が確立されねばなりません。

 

 

         ハシズム克服への基盤的論点

 

1)民主的法秩序の破壊

 民主主義の危機としてのハシズム現象を支える政治状況はどのようなものでしょうか。

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 いまの日本では、いくら間違っていると言っても、「間違っていてもいいじゃないか。あんなやつらの権利は踏みつぶしてしまえ」という声が通ってしまう政治の現実があります。…中略…日本の場合は、(憲法に…注・刑部)書かれている水準は高いかもしれないが、権利の行使を主張する声が小さい、ないしは、その権利を叩き潰すことが改革だという指導者や民衆がふえていることに、注意が必要です。

 小堀眞裕「国会の機能不全を深刻化させる比例定数削減の愚 民主主義の『閉塞』打破に何が必要か」(『前衛』5月号所収)82ページ

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 これは実に分かりやすく現状の政治危険の性格を言い当てています。たとえば「憲法を破る」と公然と言い放つ(憲法遵守の義務を負う特別公務員であるはずの)都知事が選挙で選ばれてその地位に居座っているというやり切れない現実とはこういうものなのです。それを次にもう少し分析的に見ていきます。

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 言うまでもないことだが、ここに民主主義は、多数決原理や適正手続といったものだけでなく、基本的人権・自由権・平等権や法治主義を含むものである。しかるに、この基本的前提とされるべきものを踏みにじるような強権的な政治・行政手法や反動的な改革・施策が一部の自治体において公然と進められ、マスコミ等も含めて社会的に容認ないし黙認され、さらには、適正な法秩序を構築し護持していくべき司法においても容認される傾向が目立っている。

 藤田英典「政治は教育現場に何をもたらしたか <未完のプロジェクト>としての教育の意義を」(『世界』5月号所収)80ページ

 

 言うまでもなく法律や条例の制定は立法府(議会)の権限に属するが、法秩序は当該社会の構成員(議員及び行政府職員を含む)と司法(裁判所)が憲法およびその他の諸法令の理念・原則や諸規定を尊重し遵守していくかどうかにかかっている。その社会的・司法的な構築のプロセスが、近年、上記のような問題領域を中心に司法でも一部の立法府や行政府でも揺らぎ、憲法の基本的な理念・原則や規定を疎かにし歪めていく傾向が目立つようになっている。教育基本法に<心のありよう>を律するような規定五項目を盛り込んだ同法改正や大阪における上記諸条例の制定は立法府におけるその典型例であり、他方、一連の君が代関連訴訟における原告敗訴の判決は司法における典型例である。しかも、そうした傾向が立法府や行政府において目立つようになっている現在、最高法規(憲法九八条)である憲法の理念・原則と規定を護持する権限と責務を持つ司法府が、その権限と責務を適正に果たさないとしたら、この国とその法秩序に未来はないと言っても過言ではなかろう。憲法に立脚するのでなく、立法権・行政権が定め実施している法令や慣行(ポピュリズム)に流されるようでは、司法の権限と責任は地に墜ち、法秩序は混迷し、正義と良識が立ち行かなくなるであろう。そうならないためにも司法には、その権限と責任を自覚し、予断やポピュリスティックな民意なるものに左右されることなく、適正かつ十全な審理を行い、正義に適う良識的でまっとうな判決・判示を行っていくことを期待したい。

   同前 87ページ

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 確かに近年、民主的法秩序の崩壊は立法・行政・司法の全域に渡って進行してきました。ハシズムはその特異性が目立つけれども、以上のように見てくると、実は<支配層全般の傾向と一定の「民意」との合作で、民主的な法秩序がずっとなし崩しにされてきた>ことの延長線上にある「正統な」現象であるとさえ言えそうです。しかしこの藤田氏の批判は上から目線による歯噛みでもあります。法秩序の破壊者に堕した立法・行政・司法が自然に立ち直っていくことは望めないので、人々の中からいかに現状を克服していくか、人々がどうやって憲法的理念を獲得していくか、という問題設定に移行することが必要でしょう。

 

2)選挙制度改革運動からの教訓

ハシズム阻止の闘いは守りの闘いではなく、民主主義を創っていく攻めの闘いにしなければなりません。「人々の無知や勘違いを嘆きながら、悲愴な覚悟でマイナスをゼロまで押し戻す」のではなく、「ひどい政治の中でいよいよ切実な要求実現の闘いを推し進めるためにも民主主義制度を前進させる必要を自覚していくプラスの過程」を形成していく必要があります。こんなひどい政治状況の中でそんなことができるのか。前記の小堀論文と、小沢隆一・西川香子・平井正・穀田恵二各氏による座談会「民意を反映する選挙制度の実現を―選挙制度をめぐる動向と国民の運動」(『前衛』5月号所収)が大いに参考になります。

人々の生活と労働を系統的に破壊していく政治が続く原因としては、小堀氏や藤田氏が指摘し、かつての小泉フィーバーや今の橋下ブームに見られるような、民意そのものの勘違いがあるのですが、たとえそれが正されたとしても民意の反映しない選挙制度の問題もあります。「小選挙区制による政治は、実際には、多数が代表されるわけではなく、相対的最大少数派による少数決にすぎない」(小堀論文、75ページ)のですから、本当のところ、民意の次元において敵は議席数ほど強大ではありません。しかも小堀氏のイギリス政治研究によれば、目的意識の不明確な多数派よりも、それが明確で持続的な少数派のほうが実際に世の中を動かしてきました(84ページ)。今日の日本において、まだまだ小さいながらもそうした萌芽を感じさせるのが選挙制度改革の運動です。身近な経済要求ではなく、民主主義制度そのものを問題にし、運動化するのは非常に難しいと思われるのですが、それに反して、今のところ衆議院比例定数削減を阻止する成果をあげている運動からは多くのことを学ぶことができます。

ちょっと考えると、二大政党にとって有利な比例定数削減は、彼らがその気になればすぐにでも実現しそうです。しかし実際のところ、国会での「衆議院選挙制度に関する各党協議会」では、小選挙区制に問題があり、民意をより反映する選挙制度へ改正すべきだ、ということが、民主党を除いて、共通認識になっています(『前衛』5月号上記座談会、53ページ)。小選挙区制下で小泉チルドレンとか小沢ガールズといったバブル議員が大挙して誕生し、自民党議員からさえ「政治の劣化」(同56ページ)という言葉が出てくる状況になっています。小沢隆一氏は「小選挙区制が、民意をうけとめ、民意を政治につなげていくうえで、問題の多い選挙制度だということが実感をもって各党のなかで語られるようになった」(同前)と評価しています。本当だろうか、と思うのですが、たとえば自民党の加藤紘一氏も「有権者にとっては、候補者に意見の対立がなくなり選択肢が狭まるうえ、獲得票数の議員配分に納得感がないなど、弊害ばかりが目立っている」(同65ページ)と具体的に述べているのだから、それなりにきちんと考えられた上での実感となっているのでしょう。

私たちからすれば、本質的には、もともと人々の利益に反ししたがって民意に逆行する政策を大枠として掲げている保守政党の議員が民意を尊重するというのは矛盾に見えます。しかしもちろん彼らも選挙で選ばれ民主的な議会のルールにのっとって活動する(実際にはしばしばそれを破るとはいえ)わけですから、その意味では民意を気にするのは当然です。バックにある選挙区に思いをはせれば、消費税増税に簡単に賛成するわけにはいかない。さりとて政策理念としては反対する立場にない彼らの迷走は、しばしば「政局」に重要な影響を与えます。私たちは「政策抜きの政局」を厳しく批判しますが、こうして見るとあながちそこには積極的意味がないわけでもなさそうです。こういうときには(いつもは政局報道にしか能のない)マスコミが右側から「政局批判」を展開し「正しい政策」に基づく決断を保守系議員たちに求めます。「社会保障と税制の一体改革」(=社会保障削減と消費税増税)が議論される今国会でも、スリリングな展開が予想されますが、私たちが馬鹿にしがちな「政局」を究極的に左右するのは民意であることを再確認して、世論の獲得に力を入れることが重要です。

とはいえ、これまでの大勢としては、保守政党の新自由主義政策がかなりの程度貫徹し、構造改革による人々の生活と労働の蹂躙が続き、民意が無視され、閉塞感が充満するという惨状に帰結しました。これこそが「政治の劣化」の本質です。そうした中でも突出した徒花的現象としてバブル議員らによる「政治家の劣化」があるのではないでしょうか。人々が主人公という民主主義の内容が破壊されつづけてきただけでなく、公正な選挙制度という民主主義の形式も小選挙区制によって破壊されました。というか、後者によって前者に拍車がかけられてきました。「政治の劣化」とは本来この両者から来ていますが、民主政治の内容を問わない次元においては、その形式の誤りは、「政治家の劣化」などを通して、保守政治家においても一定の良識があれば実感されるということでしょう。民主政治の内容を決定すべく、民意獲得を目指した政策対決が公平に実行されるためには、公正な形式民主主義、なかでも民意を正しく反映する選挙制度が必要条件となります。その一点で広範な政治家の合意が形成されることは(「政治の劣化」の本質に対する見方は分かれても)たいへんに意義深いと言えます。

 以上のような国会議員次元での良い変化は歓迎すべきですが、私たちにとって本質的には人々の中での変化がいっそう重要です。座談会のハイライトもそこにあります。「議員は自分たちにとって役に立たないから定数を削減した方がいい」というポピュリズムが席捲する中で、比例定数削減攻撃を許さない運動をどう作ってきたのでしょうか。

まず指摘されるのが、守りから攻めへの方針転換です。単に「比例定数削減反対」を強調するだけでなく、運動の重点を「小選挙区制を廃止して、民意を正しく反映する選挙制度に変える」方向に転換したことが重要でした。これで問題の全体像と本質がはっきりしました。次いで「憲法の原則、議会制民主主義のあり方から、はたすべき議員の立場、国会の役割」などについて「運動の側からも接近」(「座談会」58ページ)したことが、比例定数削減(=小選挙区制の比率を高めること)の意味を切実に明らかにしました。

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 まず国民の要求、労働組合や民主団体の構成員の要求が国会に届いているかどうかを考えることから議論をすすめるという工夫をしました。そこでは今の国会は、私たちの要求を受けとめていないということが明らかになり、その原因が小選挙区制にあることも明らかにされました。そして、さらに比例定数を削減し、その小選挙区制の比率を高めれば、いっそう国民の声がとどかなくなるという議論の筋道を提起したのです。

           同 57-58ページ

 消費税増税反対を掲げてたたかっている運動では、アメリカ独立戦争のスローガンになった「代表なくして課税なし」というストレートでかつ根源的な問いかけに迫っています。それぞれの団体や構成員のところで、経済要求や制度要求とは異なる次元の課題である民主主義の問題が、自分たち自身の問題として議論がされはじめたということです。そういう意味ではこの一年半で運動が新しい段階に来ている、最初のむずかしさを乗り越えてきたということが言えるのだと確信をもっています。

           同 58-59ページ

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 運動主体の取り組みはこのように前進したということですが、それでは一般の人々の反応はどうでしょうか。ここで重要なのが運動にとっての客観情勢の変化です。当初は、議員定数削減支持のポピュリズムが支配的な中で署名が広がりませんでした。しかし2009年の民主党への政権交代に対する期待感が、2010年末あたりから同政権の裏切りに対する激しい怒りに変わったところで、「こういう政権党が生き残るためにおこなうのが比例定数削減なんだということが伝わ」(59ページ)り、宣伝の雰囲気が変わり署名も伸びました。「選挙制度の問題を入り口にもしながら、苦しくて生きていけないこの社会を何とかしてほしいという声が宣伝に集まってきている」(60ページ)ような状況にまでなっているというのです。こうして以下のような運動の総合的な好循環が現れています。

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 守りから攻めへと運動が世論をおしあげ、それが国会の動きにつながる、世論が選挙制度の抜本的改革を要求する、こういうなかで運動のスローガンも発展し、取り組みも広がる、それがまた国会の動きに跳ね返る。こうして当初あった運動の難しさも乗り越えていったのではないでしょうか。    同 60-61ページ

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 以上のように、この座談会は運動の前進と理論の深化との相互関係を豊かに語ったもので、非常に重要です。しかしあえて醒めた言い方をすれば、それは先進部分の実感としては確かなものでありながらも、十分に人民的広がりを持ったものだとまではいえないでしょう。選挙制度抜本改革の世論が増えてきたことは画期的ですが、議員定数削減ポピュリズムを克服するまでには至っていないと思います。この運動の貴重な教訓をさらに理論化し、様々な諸運動へと意識的に広げ実践していくことが求められます。

 さらに座談会から浮かび上がってくる民主主義の本来のあり方を、小泉・橋下ポピュリズムと対比させることで、それを克服していく方向性を考えてみたいと思います。日本では「ヨーロッパとの比較で見ると新自由主義がかなり強烈に一人ひとりをつかまえ」ており、「一人ひとりが孤立化させられて」(70ページ)自己責任論が強固に存在しています。そうすると「国民一人ひとりが自分の身近な人たちと一緒に、いろいろな意見交換をするなかで考えを持ち、声を集め、それでもって政治的な意思をつくりあげていく」(71ページ)あるいは「議会を中心に、いろいろな民意を寄せ合って、議論してすすめる政治の大切さをしっかりと感じて」(67ページ)いくといったことができにくくなります。その上さらに貧困の中での忙しさもあって、じっくり考え話し合うという民主主義の重要な過程をショートカットするところに、興味本位で選挙に投票し、後はトップに任せるという、劇場型政治・観客民主主義・お任せ民主主義が成立します。新自由主義・孤立化・自己責任論が、福祉削減・労働規制緩和などといった政策内容だけでなく、民主主義破壊をも規定しているのです。これを克服する最も確実な方法は、座談会でも示されたように、諸要求の実現運動において、選挙制度を含む民主主義的な政治過程全体の重要さを実感し独自に追求していくことです。さらに言えば、必ずしも諸運動にかかわっていない人々も多いわけですから、新自由主義・自己責任論といったものを克服するイデオロギー闘争をあらゆる場面で展開していくことが必要です。ただ今日のマスコミ状況では、全国的レベルでそうした場を確保することは困難であり、インターネットの活用など工夫が求められます。

 

3)自己責任論の検討

 ハシズムは極端な自己責任論から成ります。高木隆造氏(宮古市・63歳・教員)は「自己責任」という標語がバブル崩壊後に出てきたときの感触から語り始めます(「読者談話室」18-19ページ、『世界』5月号所収)。

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 僕は、「自己責任」とは、困っても誰も助けない、生活基盤を奪われても当然とする意識や規範と感じ取った。危ない時代がやってくるのではという不安が訪れた。「自己責任」の上にその責任を明らかにする評価やルールが生まれてきたら「連帯」なぞ軽く吹っ飛ぶのではないかという不安でもある。 

  …中略…

 橋下氏の打ち出す教育改革はこうした時代の流れに乗ったものであり、この四〇年間の流れの集約点でもある。人々の連帯を崩して分断し、それぞれを競わせ、敗者を打ち捨てる。この「格差社会」の論理の申し子として橋下氏の改革も繰り広げられていると認識することが肝要である。がんばれない人々を蹴落とす「がんばろう日本・東北」ではない、「助けあおう人々」、「格差をやめよう、選別をやめよう、人々」である。        

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  実に的確な分析です。ただし自己責任論が広く受容されるのは原理的な根拠があり、「それへの意識的な批判」や「格差と貧困に対する是正の施策」が定着していない日本社会でそれが跋扈するのはむしろ当然ではないかと私は思います。いささか荒っぽい図式となりますが、経済学的に原理的に考えてみます。

 前近代的な共同体社会を徐々に解体して、商品経済社会が生まれてきたとき、人々は独立・自由・平等を獲得することで自己責任を担う基盤を確立し、自己責任において生きていかなければならなくなりました。今日もまた商品経済社会である以上、人々は日々自己責任において生きており、自己責任論を自然なイデオロギーとして受容しています。

しかし商品経済社会の全面的確立は資本主義経済社会の成立でもあります。資本主義経済の本質は資本=賃労働関係という搾取関係です。労働者は剰余労働を搾取され、必要労働としての賃金は日々何とか生きていけるだけの水準でしかありません。病気・事故・失業等々、様々な自然的社会的要因で苦境に陥ったとき、自己責任を担えるものではありません。

つまり商品経済は日々人々に自己責任論を受容させるのですが、資本主義的搾取関係は実質的にその実行を不可能にしており、ここに資本主義経済(商品経済を土台とした資本=賃労働関係の搾取経済)の一つの矛盾があります。それを緩和するために現代資本主義においては社会保障制度があります。だからこそ社会保障分野では自己責任論をめぐる攻防が激しく展開されます。こうした資本主義経済の現実の矛盾は、階級闘争とその妥協による一時的な「解決」をいつも繰り返しており、その際のイデオロギー闘争の重要なテーマが自己責任論となっています。

自己責任論には強固な基盤があるのでその克服は難しいのです。しかし抽象的理論においては、資本主義経済の土台は商品経済の全面化となっていますが、実際の経済においては公共的領域などに非商品経済は広範に存在しています。また今回の大震災に際していわれた「絆」とは非商品経済的行動様式を象徴する言葉です。資本主義的商品経済といえども歴史貫通的な経済の共同性を免れるものではない以上、商品経済的にうまくいかない部分(近代経済学的には「市場の失敗」と呼ばれる)は、政府・自治体なり「市民社会的公共性」なりの非市場的な直接的共同性で補っていく必要があります。現代資本主義は「小さな政府」論からの攻撃にさらされているとはいえ、たとえば保育のように個人生活そのものが社会化され公的に担われる部分が拡大してきた等々、福祉国家的要素が大きくなっており、そうした非商品経済的領域を起点に自己責任論を点検していくことができます。

自己責任論についての原理的関係は以上のように考えますが、もちろん今日の問題を考えるには様々な要因を追加しなければなりません。しかし橋下氏は、新自由主義グローバリゼーション下の格差・貧困社会を所与のものとして議論を展開しており、その前提そのものの誤りを衝いていかなければ、勝負になりません。間違った土俵設定に乗らないためには原理的考察から出発することが必要です。

なお自己責任論が特に喧伝され始めたのは、私の記憶では、2004年にイラクにおいて、高遠菜穂子・郡山総一郎・今井紀明の三氏が現地武装勢力によって誘拐され解放されるという事件があったときでした。このように自己責任論は基本的には経済用語ですが初めは政治用語として利用されました。危ないところへのこのこ出かけていったやつが悪いというのです。しかしそもそも現地の日本人にとって危ない状況を作ったのは日本政府でした。2003年のアメリカのイラク侵略を支持し、翌年陸上自衛隊をイラクに派遣しました。従来、中東の紛争にかかわったことがないため、この地域では比較的良好だった対日感情を一挙に害したのです。高遠さんは何年にもわたって現地で人道活動を続け必要とされてきたのに、後から起こったアメリカの侵略戦争と自衛隊の派遣によってとんでもない被害を受けたのです。悪いのは日本政府であり、それを隠すために高遠さんらに「自己責任」を押し付け、世論もまんまとそれに乗せられ、自己責任論バッシングの嵐となりました。このときほど日本人として恥ずかしいことはありませんでした。

拘束されていたとき、高遠さんはインドで学んだ非暴力主義を武装勢力に向かって、しばしば激しい口調で説いたそうです。すると相手は反発するどころか、もっと知りたいと近寄ってきたというのです。現地での人道活動の実績もあり、彼女らは理解されてやがて解放されました。まさに自分自身で身を守って「自己責任」を果たしたのです。それだけに本来話し合って理解できる人間同士を引き裂いた侵略戦争の実行者・加担者の責任は限りなく重い。

この経過からもわかるように、たとえ自己責任論に経済原理上の根拠があるとしても、それは政治的・恣意的に利用されてきました。ハシズムの構成要素としての自己責任論に負けてまた恥ずかしい思いをするのはごめんです。

 

4)教育「改革」と経済像・民主主義像

閑話休題。橋下氏の教育「改革」は新自由主義グローバリゼーションに従属しているのだから、それを批判するのに憲法の幸福追求権や生存権を提出する場合も、その土台としてのオルタナティヴな経済像をあわせることが必要です。経済要求から発する競争と強制の教育像に対して、単に経済からの教育の分離を主張するのは、誤った機械的反発の潔癖主義です。経済というのは何も競争と利潤追求一本槍ではなく、人間尊重の経済もありえます。そうした土台にふさわしい・競争と強制ではない教育のあり方を提起するのが、橋下教育「改革」への根本的な批判となるでしょう。

橋下教育「改革」への言及はないけれども、実質的には、その貧困な人間観・社会観・教育観へのオルタナティヴを提起しているのが、佐貫浩氏の「今日における教師の専門性のあり方を考える」(『前衛』5月号所収)です。

「学校も多くの親もが、個人の競争的サバイバルにとらわれて、子どもたちに学力競争に勝てというメッセージを送り続ける」(196ページ)という現状こそが橋下氏の思考回路と方針にぴたりと一致しています。しかし今日の労働状況は生存権を保障しない非正規労働が増大しており、学力競争はその中で「若者を正規雇用と非正規雇用へ配分する冷酷なセレクションの役割を果たしてい」ます(195ページ)。こんなひどいイス取りゲームを強要して、「生存権保障も、未来への希望も、自分の学力の『自己責任』でつかむもの、そこでの絶望もまた『自己責任』というメッセージ」を送ることが「いかに子どもたちを生きにくくしているか」(196ページ)に気づかねばなりません。佐貫氏の以下の怒りには深く共感します。

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競争で勝てない「学力」を理由に、生存権を保障できない非人間的条件の労働を割り当てる現代日本の人権剥奪こそが、最大の社会的不正義なのである。   198ページ

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新自由主義グローバリゼーションの生み出す現状を所与のものとする限り、橋下メッセージの強い呪縛にとらわれます。その前提を疑う社会観を押し出すことが重要なのです。先に自己責任論の一般論として、資本主義的搾取下では、自己責任の実現が不可能だと指摘しました。佐貫論文では、現代日本資本主義における新自由主義的労働政策による過酷な現状によって、自己責任の実現はさらにいっそう不可能であるとされます。このように見ると、自己責任論批判が原理から出発して具体化されていると言えます。

佐貫氏は学力におけるオルタナティヴを提起しています。「知識基盤社会」という考え方に立つ学力観が流布されていますが、これは「グローバル戦略に立って世界を制覇する企業戦略の側から求められる労働の質と性格」(196ページ)に規定されたものです。それは社会を支えるのに不可欠な普通の大量の労働に対する積極的な位置付けや関心を欠いています。そしてグローバル資本の世界戦略に資する労働力だけが「正規労働」基準とされ、この基準「以下」は非正規労働力とされる差別が正当化されます。しかし今求められるのは「知的競争で他者を打ち負かさなくても、普通の能力でもって、人間的な労働生活を送り、未来社会の建設に参加していくことができるという未来社会像」に立って「全ての子どもが持つ知的力、社会への貢献、誇りある社会参加への信頼と期待を子どもや若者に向ける」(197ページ)ような学力観です。それは、<格差と貧困・投機にまみれた新自由主義グローバリゼーションの経済像>へのオルタナティヴとしての<持続可能な内需循環型地域経済を基礎とする国民経済像と世界経済像>から生まれる学力観です。それは具体的にはたとえば「第一次産業や、ますます拡大する福祉労働やケアサービス、環境保持のための労働、地域循環型経済、伝統的地場産業の維持、不可欠な工場現場労働、地域生活を維持していくための各種の公務労働をどう持続可能な社会の創造に向けて豊かにつくり出していくか、その担い手に求められる専門性や地域理解、人間理解をどう高めるのか、そういう連帯感、協同社会を担える共感力や表現力、道徳性をいかに育てるかという課題意識」(同前)を前提としています。

繰り返しになりますが、橋下「改革」は人々が現実に巻き込まれている競争から生まれる意識に直接的に依拠しているので強い共感を獲得しており、それを根本的に克服するには、あるべき社会像を対置して、橋下氏の社会像のみすぼらしさをはっきりとあぶり出さねばなりません。その際、あるべき社会像は、上記の持続可能な内需循環型経済像を基礎に日本国憲法の自由・民主主義・基本的人権を全面的に押し出していくことになります。格差と貧困を解決できない、というかそれを前提とした橋下社会像を徹底的に叩くべきです。それとともに、憲法を土台とする民主的法秩序を「タブー打破」の姿勢も勇ましく廃棄しようとしている挑戦者を、いわば大人の立場から退けねばなりません。

タブー打破といえば、いかにも弱者の立場から強大な悪を倒すがごとく見えますが、ハシズムにおいて打倒すべきタブーは民主主義・基本的人権という「既得権益」です。そのように倒錯した社会像に人気が出るのは、私たちの社会において民主主義や基本的人権がタテマエに過ぎず偽善と思われている側面があるからでしょう。日ごろからの要求運動などによってそれらを実質化していくことが社会変革の堅実な道です。それとともに橋下氏が次々に繰り出すポピュラーな俗論をていねいに論駁し、情理を尽くして人々に納得してもらえるようにすることが必要です。

「偽善を指摘する」という行為は、とても物事の本質を衝いているようで、粋でカッコよく、高尚なことのように見えることがあります。しかし多くの場合それは錯覚です。たいていそれは偽善に代わる真の善を提起できません。結局そうすると、現実の悪をただ追認するのみならず、それを偽善よりまだマシなものとして美化・粉飾するだけです。その行為はだいたいにおいて自己満足的かつ保守的なのです。日本にはびこる反共・反人権週刊誌的シニシズムはハシズムの温床です。たとえ橋下氏と一部週刊誌が醜い争いを展開しても同じ穴の狢の争いに過ぎません。

どうも大雑把な話に流れてしまいました。橋下教育「改革」については中嶋哲彦氏の「収奪と排除の教育改革 大阪府における私立高校無償化の本質」(『世界』5月号)などが具体的に批判しています。中嶋氏は、「生徒をたくさん集めた高校を勝者と見なす」というばかばかしく単純なルールを紹介して、新自由主義改革の空虚さを本質的に指摘しています。これを引用して今回のハシズムの検討を終わります。

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新自由主義改革は、社会制度それぞれに固有な原理やそれらに内在する複雑な事情に精通していない政治家や一部の官僚が、現場で働く人々を単純かつ単一の論理で一元的に制御するシステムを構築しようとする試みを内包している。専門家やその意見を退ける一方、「数値」(数値目標、数値による評価)が重用されるのはこのためであろう。もちろん、その過程で尊重すべき原理や配慮すべき事情とともに、最も大切にされるべき価値=人間が脱落してしまう。     96ページ

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5)追伸

 迂遠なことばかり長々と書き連ねて、今月はもう終わりにしようと思ったのです。ところが4月24日付「しんぶん赤旗」に橋下「改革」批判の特集が載って、想定内とはいえ、悪政・圧制・失政および暴言のオンパレードで(この4年間をまとめると本当にすごい。橋下センセ、さすが)、開いた口がふさがらず、もう少し書きます。これだけの内容なら、とっくの昔に失脚していてもよさそうだけれども、おそらく相変わらず人気はあるのでしょう。今は原発再稼動反対の代表者面してテレビに出ているし…。そこで人気の原因の一つ、俗論について若干考えてみます。

 4月12日付「朝日」の「声」蘭に一般の投書に混じって、作家の赤川次郎氏が橋下批判を展開していました。府知事時代に文楽を始めて見て、こんなもの二度と見ないと言い放ち、落語は補助金なしでやっている、とも言って文楽の補助金を削減した件です。大阪が世界に誇る文化を理解できずに、自分の価値観を押し付ける橋下氏の姿勢を赤川氏は厳しく批判していました。もちろん私は拍手喝采ですが、ひょっとすると多くの人々は橋下側かもしれない、とも思いました。文楽は優れた伝統文化なので補助金を出す、というのは「本当はムダ遣いと思うけど、反対できないタテマエだからしょうがないか」と思っていた人がけっこういるかもしれません。するとそういう人たちは「タブー破り」の橋下氏の「わかりやすい」施策に「やっぱり自分の実感の方が正しかったんだ」と喜んでいるかもしれません。特にワーキングプアの若者などは。首長がこんな姿勢を押し通せば、当該自治体はたちまち文化不毛の地と化しますが、それをストップするのは、選挙を別とすれば、住民自身の文化力でしょうか。ここでも要求運動を活発にするしかありませんが…。

 「赤旗」の特集にも「決定できる民主主義」という橋下氏のスローガンが載せられていました。もちろんこれは実際には彼にとって独裁政治の婉曲な表現に過ぎませんが、保守政党やマスコミなどが便乗しています。確かに決定できない状態は民主主義といえども異常です。政治の停滞は閉塞感を強めます。しかし何でも決定できればいいわけではありません。今、政府や国会が「決定できない」原因を考えてみることが必要です。何を決定したいのでしょうか。消費税増税、TPP参加、原発再稼動…。要するに人民の利益を害し、民意に反する決定です。さすがにそれを簡単には決定できないでいる。だからこそ支配体制に奉仕するマスコミは声高に「決定できる民主主義」を主張しています。「選挙が恐くてどうする。それで良識ある政治家か」というわけです。支配層にとっては橋下人気に便乗して借用したいスローガンなのでしょう。

とはいえ、橋下氏は原発再稼動反対を唱えています。どれほど本気なのかはわかりませんが…。これでまた人気をつなぎ、賞味期限を延長しそうです(その悪政が人々の生活を侵食する速さとの微妙な兼ね合いがありますが)。支配層とすれば橋下氏は「取り扱い注意」ですが、今は利用しがいがあり、何より世論がまともな社会進歩の方向に向かわないように、ニセの争点を提供し続けてくれる得がたい人材でしょう。

 ハシズムをテーマにした新聞の切り抜きがたまってきたので、その内に読み直して(これまでのような迂遠な内容ばかりではなく)具体的な問題も考えてみたいと思います。

 

 

 

         情勢の捉え方

 日本共産党文教委員会責任者の藤森毅氏の文章からはいつも熱いものが柔らかく伝わってきます。困難が大きくなかなか社会進歩の方向へ向かわない中、どのように構え、情勢を捉えるのか、大切な部分を引用します。

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私は「困難に流されるのでなく、困難の源にまっすぐ顔をむけて流れをさかのぼろう」とよく言います。流される人生は、人間としてもっているはずの主体性が失われた状態です。しんどくても、困難の源をみつけだして塞いでいく、そんな意思をもってこそ、人として大事なものを失わずにすむ、そう思うからです。

「教職員党支部『交流講座』の具体化のために」(『前衛』5月号所収) 184ページ

 

一見すれば、反動化が日々進行しているのが時代の流れのようです。しかし、それは物事の一面です。もう一つの面、その反動支配と国民との間の矛盾の形成という面があります。その面が大切です。それを欠けば、情勢論は観念性をつよめ、悲観的なものになりかねません。このことは、階級社会になっていらい、人間の社会は大づかみに言って階級間の矛盾と闘争によって前に進んできたという、科学的社会主義の世界観にかかわる基本的な問題だと私は思っています。

教育をめぐる情勢論でも、ともすれば支配層による新自由主義的教育改革のプロセスや論理の精緻な分析におわりがちです。しかし大事なことは、その先に、その「教育改革」がどんな矛盾を生み出すのかにあります。それを欠いてしまうと、精緻な分析は「相手は強い」「世の中は変わらない」という固定的な分析になりかねません。

    同前 185-186ページ

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 浅学非才ゆえ、「精緻な分析」などできないけれども、観念的で悲観的にはなります。階級間の矛盾を軸に情勢の動きを大きくつかんでいくことで、小ざかしさによる後ろ向きの自己満足(表層の悲壮感とは逆に見えるけれども、深層にはそれがあるのではないか)を克服することが大切なように思います。
                                 2012年4月26日




2012年6月号

         多国籍企業へのアプローチ

 経済は生産力と生産関係の両面から捉える必要があります。一方で、最先端の生産力を捉えて初めてマルクス経済学は現代の経済学でありえ、そうでなければ後ろ向きに現状を非難する経済学的ロマン主義になってしまいます。他方では、生産力だけでなく生産関係をもきちんと捉えることがマルクス経済学の当たり前の特徴であり、ブルジョア俗流経済学に対する優位性でもあります。そういう意味で総特集「日本の多国籍企業」に注目しました。

 吉田敬一氏によれば、JIT(ジャスト・イン・タイム)は「必要な時に、必要な部品を、必要な場所に、必要な数だけ供給するという徹底したムダ排除・無在庫指向のアウト・ソーシング・システムであ」り、「80年代に日本の工業製品が世界市場を席巻した低価格・高品質の重要な源泉」でした(「ジャスト・イン・タイムは今」、60ページ)。それは1970年代のトヨタのかんばん方式に始まって、いまや製造業のグローバル・スタンダードとなっており、吉田氏によれば流通・サービス業にも適用され、派遣労働による人間かんばんシステムが形成され、インフラ整備・街づくり・自治体運営にまで拡充されています(61ページ)。こうしてJITは、今日の日本資本主義経済・社会を支える生産力を構成する重要な要素となっています。しかし生産関係を見るならば、それは中小企業や労働者の特別の犠牲によって成り立っています。昨年の大震災では、部品メーカーの被災や物流システムの寸断などで、無在庫指向のJITは大混乱を来たし、逆に適正在庫が前提の地域密着型中小企業や商店街が地域経済を支えました。「資本の論理からするとゆとりを持った企業経営は否定されるが、ゆとりがないと異常事態に対応でき」ません(61ページ)。吉田氏は「あらゆる事態にタイムリーに適応できる能力(ジャスト・イン・ケース=JIC)が求められる」(同前)と提起しています。

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 個別資本の利益拡大戦略であるJITがライフライン・生活基盤関連業種、自治体運営や街づくりにまで拡大されると、異常事態への地域社会の適応能力が欠落する危うさを東日本大震災・原発事故が暴露した。3・11の悲劇は効率性・経済性一辺倒のJIT信仰から脱却し、持続可能な生きがいのある経済社会づくりのための新たな観点としてJIC的発想への転換の必要性を教訓として与えた。

 JICの物質的基盤は、地域資源を活かした循環型で持続可能な地域づくりという方向であり、その政策的立脚点は、2010年6月に閣議決定されたが絵に描いた餅に終わっている中小企業憲章の精神である。    同前

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 これは利潤追求第一主義を批判する小経営の視点であり、生活や地域から出発する発想として現実経済を下から上へ見る姿勢につながります。それを次のように図式化します。

<生活と労働→地域経済→国民経済→世界経済>  …A系

 これに対して独占資本・多国籍企業の視点で上から下に見ればこうなります。

<世界経済→国民経済→地域経済→生活と労働>  …B系

A系は、生活の必要性に応える使用価値の再生産体系が出発点となり世界経済まで構成されることを示しています。それはまた歴史貫通的な経済のあり方が資本主義経済にもその内実として貫かれていることを現しています。しかしそのような本質的関係は資本主義経済においては潜在的にしかありえず、顕在化した資本主義経済の形態はむしろ逆の規定関係からなるB系です。それは価値・剰余価値追求を動因とする資本主義的市場経済を直截的に表現しており、人間が作り出した経済が逆に人間を支配するという疎外関係の表現ともなっています。国際競争力至上主義の財界が人々の生活と労働を犠牲にする我がまま放題の政策を政府に実行させているのがこの疎外関係の集大成です。

B系の出発点である世界経済はグローバル市場を舞台とするグローバル資本主義です。疎外システムとしてのB系が存続しうるのは、A系が要請する再生産関係を最低限でも維持しうる範囲内です(いわゆる持続可能な経済社会という基準)。しかし世界恐慌・労働・貧困・カジノ化・環境といった深刻な諸問題をめぐって両システムは厳しい矛盾をきたしており、B系の止揚が課題となります。それはB系によって踏みつけられ歪められた土台としてのA系が解放されることを意味し、その際には、A系の終点にある世界経済はオルタナティヴなグローバル経済となります。B系の視点から暴力的な新自由主義構造改革が強行されてきました。私たちはオルタナティヴとして「持続可能な生きがいのある経済社会づくり」や「地域資源を活かした循環型で持続可能な地域づくり」などのA系の視点に基づく変革を具体的な政策と実践によって実現していくことが必要です。

A系・B系それぞれの含む規定関係(矢印の方向)は実際には双方向的であり、図式上では主要な方向を選んで示してあります(そうしなければAとBを分けられない)。したがってA系の出発点としての「生活と労働」は決して孤立した封鎖体系下のそれを表象するものではなく、世界経済の影響を受けていると想定されます。小栗崇資氏は『共産党宣言』から「国産品でみたされていた昔ながらの欲望にかわって、はるか遠い国々や風土の産物によらなければみたされない新しい欲望が現れてくる。昔の地方的、また国民的な自給自足や閉鎖性にかわって、諸国民相互の全面的な交易、その全面的な依存関係が現れてくる」と引用し、「マルクスのいう全面的な依存関係の形成は、今日では多国籍企業を媒介にして実現されている」と指摘しています(小栗崇資・古賀義弘・友寄英隆・丸山恵也座談会「現代の多国籍企業 その特徴と民主的規制の課題」29ページ)。そうしてみるとA系の視点は単に小経営のものだけではなく、万国の労働者のものでもなければならないと言えます。すでに人々の欲望そのものがグローバル化され全面的依存関係が形成されており、それを踏まえて、内需循環型国民経済の再構築などA系を実現しなければなりません。昔のドメスティックな関係に戻るのではなく、多国籍企業本位に形成された全面的依存関係を人間本位に構築し直す課題があるのです。それはB系の出発点としての世界経済(グローバル資本主義=市場)をA系の終点としての世界経済(オルタナティヴなグローバル経済)に作り変えていくことです。すでに世界社会フォーラムのような下からの運動のみならず、国連総会へのスティグリッツ報告、EUでの金融取引税導入の動きなど上からの問題提起と政策実践も現れています。それらが、人々の身近な地域経済への地道な取り組みとあわせて進むことで、B系的関係性を民主的に規制し、A系的関係性を発展させて、生活から世界経済まで着実に変えていくことが展望されます。

 抽象論が先行してしまいました。変革の基準としてA系的視点を堅持しつつ、B系的現実の中に生産力と生産関係の具体的なあり方を探ることが重要です。総特集「日本の多国籍企業」においてそれを総合的・多角的に捉えることが可能ですが、日本電機産業の危機という一つの難しいテーマを選んでそれを中心に見ていきます。

日本の財界が「消費税を上げて法人税を下げろ」に代表される我がまま放題の諸要求をごり押しし続ける背景には厳しい危機感があると思われます。我がまま放題の要求は今に始まったことではなかろう、という感想もありましょうが、人々の生活がこれほどまでに苦しいときにもあえて、いっさい飴を与えることもなく鞭を振るうだけという所業に及ぶ異常さは尋常ではありません。国際競争における敗退・脱落の危機感があるのではないでしょうか。日本を代表する電機産業の多国籍企業の多くが赤字に陥っていることがそれを象徴しています。もちろんだからといってただちに日本産業全体が苦境にあるというわけではありませんが、これまでのリーディング産業が厳しい状況にあることが貿易赤字と重なり深刻さを増しています。

日本の財界・大資本は対内的には、労働者階級に対する圧倒的優位を基礎に強蓄積を進め、その経済力によって国家・政治・社会を強力に支配してきました。それを背景として、1950年代後半から70年代初めには驚異的な高度経済成長を達成し、その終焉後も80年代にはジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われ、対外的にも高い国際競争力を誇りました。対内的支配体制が対外的成功を支えていましたが、ここに来て対外的成功に陰りが見え始め、反射的に対内的支配体制の締め付けをいっそう強化しようとしています。国民経済の危機を真に打開する道は日本共産党の「提言」に示されており、誤った対内的支配体制(それが一方に「大企業の膨大な内部留保などの富の蓄積」と他方に「賃金や所得の減少などの貧困の蓄積」という根本矛盾を現出し内需不足による長期停滞を招いた)を改めることこそが必要です。しかしもとより個別資本の利益至上主義の財界・大資本にその観点はなく、逆に様々な「改革」と称して労働者・中小企業などへのいっそうのしわ寄せで乗り切ろうとしています。それは日本に限ったことではなく、多国籍企業は国民経済の利益に反するのみならず、世界経済危機を尻目に自己の利益だけを追求しています。

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 米国発の金融危機とEU発の信用不安のなかで、世界資本主義経済は有効な対策もとれないまま矛盾を深刻化させている。こうした状況に対して、多国籍企業は可能な限り自らのリスクを排し、世界の事業活動を再編しながら、増収を目指している。

   丸山恵也「世界経済危機と多国籍企業」 10ページ

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 そうして世界の多国籍企業は世界経済や政府の危機の中でも「新たな構造的な変化を遂げ」「経営業績の急回復を実現させ」ました(夏目啓二「変貌する21世紀の多国籍企業」、177ページ)。しかしながらそのような多国籍企業の利潤追求は厳しい国際競争を通して行われるのであり、当然敗者も出ます。日本の電機産業を代表するソニー・パナソニック・シャープなどの2012年3月期決算は歴史的な赤字となっています。さらにエルピーダメモリの破綻は「企業間協力と産官協力が支えた日本的な開発システムが、存続を否定されている」事態の象徴となっています(大西勝明「電機 国際化と危機ですすむリストラ」、63ページ)。大西氏によれば、「DRAMのみでなく、主要電子機器に関する日系企業の国際的なシェアは、著しく低下しており、事態は深刻である」。「国際競争が激化しており、欧米と新興国企業により鋏状状態に押し込められつつある」(同前)。こうした苦境の原因は多岐にわたりますが、以下では「鋏状状態」について見ます。

 パソコン(PC)生産が様変わりしています。生産技術の「デジタル化によって多くの機能が1枚の半導体チップや液晶パネルの基幹部品に集約し、それをつなぎ合わせれば似たような商品が比較的たやすく作ることができるようにな」(前掲座談会、38ページ)り、インテルやアップルなどアメリカ多国籍企業は組み立てを人件費コストの安いアジアに外部委託しています。開発から最終商品までの「垂直統合型自前主義」の日本型事業モデルはコスト競争に対応できなくなっています。

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 PC産業はグローバルな企業間の分業体制の中で、短期間に量産体制を確立した。ここでは最も重要な基幹部品である演算機能MPUをインテルが所有し、ウィンドウズOSをマイクロソフトが所有し、技術優位性を確保することにより両者は、最も高い付加価値を手に入れる。それに対して、主として組み立てなど労働集約的分野を生産委託した台湾、中国の企業は、得られる付加価値も低いものになる。このようなPC生産を巡る企業の関係は、技術優位性を有する多国籍企業による国際的企業間分業システムの新しい展開といえよう。             丸山恵也前掲論文 13ページ

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 このような国際的企業分業システムの中で、アメリカ企業は技術優位性を支配し、アジア企業は低コストの生産委託を押え、どちらからもはじかれた日本企業は「鋏状状態に押し込められつつある」わけです。資本所有によらずとも技術独占によってアメリカ企業は新興国企業を実質的に支配する体制を構築しました。「コア部分のソフトを握ることで生産全体を支配し、独占的な利潤をあげることができるわけです」(前掲座談会、36ページ)。当然のことながらこれは過酷な搾取体制となります。中国のフォックスコン社へのアップルの生産委託の状況は以下のようです。

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 米国内で小売定価500ドルのiPadの費用構成は、米・日・独・韓などで生産される部品が総計で約125ドル、それ以外の材料費等が48ドル、フォックスコン社での組立費用が6.5ドルでiPadの生産に直接かかる費用は合計で179ドルとなる。定価の500ドルから179ドルを引いた321ドルのうち、アップル社の研究開発、デザイン、流通販売などにかかる経費を除いたものが、同社の利益となる。

 iPad一台あたり6.5ドルという低い請負価格は、劣悪な労働環境・条件を不可避なものとし、頻発する労働災害や自殺といった不幸な事態をひき起こしてきた。

 …中略…

 IT産業の先頭を走るアップル社もまた、劣悪な労働条件の上に巨万の利益をあげていることが次第に明らかにされてきた。

  大塚秀之「アップル社の利潤の源泉」 107ページ

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 確かに日本企業は負けているけれども、勝ってるほうは真っ黒なわけです。国際的な資本間競争のあり方が厳しく問われます。

 苦境にある日本の電機メーカーは事業の選択と集中を進め、厳しいリストラを実施し、韓国企業に対抗する国際連携を図っています(前掲大西論文)。大西氏はこうした方向に批判的であり、創造的な研究開発や国際的な経済環境の新構築が必要だとしています。

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 今、提示しなければならないのは、安易な人員削減やリストラクチャリングによる一時的な業績の回復ではなく、長期的な蓄積体制の再構築である。新分野を重視というが、結局、国際動向追随型の研究開発活動に終始しており、競争優位や世界標準の確立に弱く、未来指向的な創造性の発揮には直結していない。従業員を尊重し、従業員の創造性を環境に配慮した事業展開を支えるイノベーションへと開花していくことが重要である。 

                   70-71ページ

 中国での生産が問題視されており、日本の企業も21世紀におけるアジアでの企業のあり方をともに模索し、新しい環境の創造に主体的に関与しつつ自らを変革していくという姿勢を問われている。存在が根本的に問われているのに、21世紀の国際的な経済環境の構築は未確定で、国際的動向への安易な追従、従属的姿勢が踏襲されている。21世紀の国際的な経済環境の新構築と適切な競争ルールの確立、安定した交易関係の構築が課題となる。 

                    71ページ

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 まことに格調高い正論ですが、目先の利潤追求に汲々としている経営者には届かないかもしれません。国内でのリストラを許さない闘い、環境重視の世論、アジア諸国等を含めた世界中でディーセントワークを確立する闘いなどで多国籍企業への民主的規制の包囲網を築かねばなりません。そういう道の中で日本企業の技術力が正しく発揮されるのであり、アメリカ発の強搾取グローバルスタンダードへの追従は不幸を拡大する道です。そういう意味では電機メーカーで繰り広げられているリストラ反対の闘いは企業を立ち直らせる闘いだと言えます。大義はある。しかし正道に転換する時間はあるのか、という難しさも感じますが…。

 大西氏は電機企業の立て直しを論じていますが、丸山恵也氏の前掲論文はやや醒めた見方をしています。自動車・電機の海外移転の状況などから「長期的に見ても、これらの産業が日本の輸出推進力となるのは困難であろう」(16ページ)と指摘しています。これは「輸出立国」や「投資立国」に「内需立国」を対置する文脈で述べられており、それもまた正論かと思いますが、厳しい国際競争を背景に国民経済においてどのような再生産構造を構築していくかは難しい問題です。危機に立つ電機産業の位置付けは特に難問であり、それを誤れば多くの人々の生活と労働を損ないます。成功的再起と淘汰(あるいは全面的空洞化)という両極をにらみつつ、どのようなケースにも政策的対応を可能にすることが必要です。

 ところで丸山氏は、日本が「内需立国」に転換するため、消費税のいわゆる「輸出戻し税」(事実上の輸出補助金になっている)は改めるべきだとしています(16ページ)。「しんぶん赤旗」5月5日付はこれについて次のような内容を主張しています。<問題は一部の輸出大企業が仕入に際して中小企業や下請けに事実上消費税を払っていないのに還付を受けていることであり、そのような不公正取引を正して消費税分をきちんと払わせることが必要である。「輸出戻し税」の消費税還付制度そのものは根拠があるので廃止すべきではない。この問題の根本的解決は消費税の廃止である>。消費税制度を前提にした制度論としてはこの通りですが、実は消費税制度そのものに様々な矛盾があることを見る必要があります。たとえば輸出戻し税と比較すると、医療機関などの消費税非課税制度の差別性は明瞭です。医療機関は患者から消費税を取ることができないので、経費にかかった消費税は自己負担しています。また売上1000万円以下の事業者は非課税業者で納税の義務はなく、売上5000万円以下の業者は簡易課税制度を選択できます。これらは消費税の普遍性を損なっており、損税や益税が発生します。したがって消費税推進勢力からは、非課税品目・非課税業者・簡易課税制度などを廃止して理念・制度の一貫した改革が必要だという主張が出てきます。しかし非課税品目・非課税業者・簡易課税制度などは消費税創設に際して、消費者(税負担者)・事業者(納税者)の抵抗を和らげるために妥協的に導入されたものであり、その結果として消費税は理念的・制度的に矛盾を抱えることになったのです。それは階級闘争の一定の均衡点を表現しています。理論的にすっきりさせるには、消費税を廃止するか、逆にその制度を純化して完成させるかしかありません。消費税の廃止を目指す私たちは、制度そのものの「理論的すっきり感」を過度に重視することなく、いかに人々にとって現実的に有利になるかを最重視して、矛盾に満ちた現実の階級闘争に臨むことが必要です。そう考えれば「輸出戻し税」の存廃について理論的「正解」はなく、当面の闘いではその実質的な害悪を広く知らせていくことで、増税反対の世論をさらに喚起し、それと同時に大企業の不公正取引に対する圧力にしていくことが大切だと思います。それを廃止する力関係がない時点でその存廃自体を厳密に議論することは重要ではありません。

 閑話休題。以上、内容豊富な総特集「日本の多国籍企業」に部分的にさえ迫れたとは言えません。しかし志や課題だけは大きく持っていきたいと思います。弁証法的発想からすれば、疎外された生産力は、それを止揚し新たな生産関係を実現する主体を生み出すはずです。全面的依存関係を創出した多国籍企業はたとえばPC生産に見られるような強搾取体制を構築しています。それが新興国の労働者階級との矛盾を惹起したり、あるいはもう少しましな搾取体制の企業を競争でつぶす(という脅威を与える)ことで新たな技術開発の可能性を摘むという不都合を生み出しています。そうした強搾取体制の矛盾(それは当該企業のみならず世界資本主義をおおっている)を止揚するものは何でいつどこからどのように現れるのか(すでに現れているのか)。消費税増税策動もその矛盾の一端なのだから、自分も反対運動をしつつ、それを見つめ考えていきたい。さらには大量生産・大量消費・大量廃棄を克服する人間的な生産力のあり方についても。

 

 

         ポピュリズムについて

 

1>ポピュリズムという言葉の問題性

 ここで取り上げるのは、政治学の用語としてのポピュリズムではなく、昨今マスコミなどで使用されるポピュリズムです。したがって確たる定義があるわけではなく内容もまちまちです。様々な用法には共通する点がある一方で大きな違いもあります。それらがみなポピュリズムと言い表されることであいまいになることもあります。私の恣意的な見方かもしれませんが、その意味や用法について一定の分析を加えることで、議論の混乱を防ぎ、特にハシズム批判の前進を図りたいと思います。

 今日ではポピュリズムはおおむね否定的な意味で使用されます。それで批判されるべき対象の性質がどのようなものであるかもさることながら、批判する側のポピュリズム像を通して逆に批判者のイデオロギーも浮き彫りにされます。

 まずポピュリズムという語を発した瞬間に「上から目線」は免れません。「無知で情動的で目先の事柄にとらわれ操作されやすい」といった大衆像を前提に、それに媚び人気を取ろうとして無責任な政策を掲げるポピュリストの言動を批判する、という文脈でポピュリズムは語られます。この「上から目線」への反発からポピュリズム批判への反批判、つまりポピュリズム擁護論も登場します。それは、批判者が人々の生活と心情を理解しようとせず、したがって民主主義から外れていることを衝きます。またそれは、人々がポピュリストに期待する変革願望を支持するとともに、人々の政治水準を容認し、そのように「上から目線」を克服した姿勢が真に民主的であると主張します。

 

2>ポピュリズム批判の二類型

 ポピュリズムに対する批判と擁護のこのような概観はさらに分析する必要があります。私見ではポピュリズム批判には二類型あります。一つは経済論であり、いわば右からのポピュリズム批判(体制派的批判)です。それは新自由主義グローバリゼーションを前提とする「経済整合性論」の立場から、「混乱を招く無責任な経済政策」を批判します。たとえば消費税増税批判への反批判がその代表です。「どうしても必要な消費税増税を回避する、人気取りの屁理屈を使命感を持って論破する」というたぐいで、マスコミを支配しています。またそこでは、最近のフランスやギリシャの選挙について、緊縮政策の必要性を理解しない人々が、無責任なポピュリズムの左派を勝利させた、という論調が中心です。こうした経済ポピュリズム批判には多国籍企業・銀行や投機資本への批判が欠落しており、それらの野放しは前提にして、「グローバリゼーション下では政策の幅が狭いのだから、汝らにアメなどやれぬ」というご託宣を垂れます。人々が耐え忍ぶのはやむを得ない、それを理解しないのが悪い、我慢しないと破滅だぞ、という牢固たる現体制擁護とそれによる脅迫とが何の疑問もなく語られています。この立場は、「経済秩序維持への責任感」は強く持っていても、人々の生活への想像力を欠いており、それを破壊することには無感覚です。というよりも経済の破滅を防ぐ「苦い良薬」を処方することで無知・無力な人々を守ってやっている、と認識しているのでしょう。しかし逆立ちしていないまっとうな頭で考えれば、生活を犠牲にして初めて成立する経済秩序を墨守する必要があるのか、という疑問が生まれます。生活破壊は決して宿命ではなく、それをもたらす政治経済を変えることを発想の起点にしなければなりません。

 体制派からの経済論としてのポピュリズム批判に関連して、利益誘導型政治批判があります。これはもっともな側面がありますが、その主な眼目は新自由主義構造改革の立場から、守旧派のみならず福祉国家をも叩くことであり、無駄な公共事業等を批判するだけでなく、社会保障についても「バラマキ」呼ばわりします。こういう議論に部分的な正当性はありますが、その本質は、人々の生活に対する無感覚を基礎とする新自由主義体制擁護論であり、その立場からの経済整合性や合理性の追求に過ぎません。

ポピュリズム批判の第二類型は政治論であり、左からのポピュリズム批判(人権派的批判)です。これはたとえば橋下徹氏の「君が代」強制や労組・公務員バッシングあるいは思想調査などへの批判です。そこには、思想信条の自由や労働基本権などを公然と侵しているのに、橋下氏が依然として高い人気を維持しているということ、つまり多くの人々が人権や民主主義を軽視している現実に対する強い危機感が見られます。これはもちろん正当な観点ですが、そのような現実を招いた原因を考え、「上から目線」を克服することが課題となります。

 

3>批判対象としての人々の意識

二つのポピュリズム批判は上記のように実際には批判対象が違うのですが、それでも大衆の意識たとえば意見・感情・要求などに対する批判という点では共通します。この意識は生活実感から来るものであり、ポピュリズム批判がそれを否定することには当然強い反発があります。ここをまず理解することが大切でしょう。その上で上記のポピュリズム批判の二類型を念頭に、生活実感から来る人々の意識を政治・経済との関係から見ることが必要です。

 1)人々の経済要求

 経済面から見れば、今日の資本主義において労働者は搾取され、自営業者や中小企業家の多くは営業の困難に見舞われています。さらに増税・福祉削減なども加わって、襲いくる生活苦を前に様々な経済要求が噴出します。それは意識するしないにかかわらず、憲法13条の幸福追求権や25条の生存権に基づく要求であり、無理な要求でも単なる理想論でもありません。少なくとも高度に発達した資本主義経済においては階級闘争と適切な経済政策によって実現可能です。たとえば消費税増税反対という、今もっとも切実な課題に対しては、世論の支持があり、日本共産党は現実的で抜本的な政策提言を発表しています。つまり人々の生活実感から発する経済要求の多くはその切実さからも、法的根拠からも、実現可能性の点でも、何らポピュリズムとして非難されるような無責任なものではありません。

  2)人々の政治意識

 これに対して政治面からは深刻な問題が浮かび上がってきます。「君が代」強制、思想調査、公務員・労組バッシングなど、一連の反人権・反民主主義的施策、あるいは大阪府・市における住民向け施策への予算大幅カットにもかかわらず、依然として橋下氏への支持が高く、週刊誌等が「橋下総理実現か」などと騒ぎ立てている状況があります。ここには明らかに日本政治における民主主義の未成熟と人権への無理解が露呈しています。私たちはハシズムを外在的なものとしてではなく、普通の人々が作っている社会の病理が生み出したものとして捉える必要があります。

もちろんハシズムは二大政党政治の危機に際して支配体制の維持を図るという役割を客観的には果たしています。対岸のいわゆる1%の側の事情を見るとそういうことですが、ひるがえって私たち99%の側を見ても、それを歓迎する社会的状況があることを直視せざるを得ません。橋下氏の施策がまだよく知られていないという要素もありますが、それだけではありません。たとえば、政府に批判的なビラをまくと「有罪」になるという政治状況が(司法も含めて)存在しても大問題とならない、という驚くべき反民主主義的な世論状況がもともとあります。すでに人権や民主主義が空洞化し「タテマエ」に過ぎなくなっている状況がかなり浸透しているということです(もちろんそれは一面であって、人権や民主主義が定着している部面もあることは反撃の拠点としても重要であり看過してはなりませんが)。

そうした中で橋下氏などが教員・公務員・労働組合などを「既得権にしがみつく恵まれた層」として人権破壊の攻撃を加えることが、ワーキングプア層を初め広範な人々から歓迎されています。本来、人権や民主主義が実質化しているならば、すべての人々がその恩恵を受けるはずですが、現実はそうなっておらず、かえって空洞化したそれらは「偽善」として捉えられます。学校の社会科で習ったことは現実の厳しい競争社会では無力であり、そんな偽善よりも橋下氏の言う競争に負けない努力のほうが本物だ、といった感覚があるのではないでしょうか。

競争社会でのストレスや貧困は経済的のみならず精神的余裕をも奪い、じっくりと政治を考えることを難しくしています。そうした中で瞬発力が物を言うテレビとネットにおいて、橋下氏のような人が感覚的な俗論で大いに人気を博し、その公務員バッシングなどで溜飲を下げる人々が増えています。橋下府政のリストラで失業した非正規労働者が、もっぱら正規労働者との差別に怒りを向け、逆に橋下氏には期待する、というインタビューを読んだことがあります。確かに身近な差別はよく実感できますが、政治の大きな誤りはかえって見えにくいということでしょう。そのように思う人の短慮を指摘するだけでなく、身近な社会で人権と民主主義が空洞化していることを問題にしなければなりません。実際、橋下氏は競争を大いに推奨し格差を是認し非正規労働を拡大する政策を掲げているのだから、失業者・ワーキングプアなど貧困層は怒らなければならないのですが、そうなってはいません。とにかく何か困った世の中をひっくり返してくれるヒーローに期待するということになっています。深い閉塞感の中で、無理が通れば道理が引っ込む。派手な邪道が、真理を求める正道を見えなくさせています。

 こうして反人権・反民主主義ポピュリズムが成立します。日本社会には観客民主主義・おまかせ民主主義がもともとあり、それは独裁容認の温床となりえます。その上に、司法をも含めた大きな政治部面でも身近な生活次元でも、人権と民主主義の空洞化がじわりじわりと進み、さらに貧困化と情報化があいまって、反人権・反民主主義ポピュリズムを促進しているので、独裁政治への拒否感が薄らぐ可能性が高くなります。

 「現代は情報化の時代であると言われる。情報化の時代は短絡の時代である。だが、短絡は科学の敵であり、ファシズムの友である」(高島善哉『時代に挑む社会科学』/岩波書店、1986年/まえがき)。情報化そのものは社会進歩の結果でも原因でもありうるのですが、利潤追求第一主義のもとでは効率至上の拙速が支配的であり、その中ではそれは人々を短絡させファシズムへ向かう要因となりえます。ツイッターを駆使し70万人以上のフォロワーを抱える橋下氏の出現を高島氏は予言していたかのようです。まさに私たちの眼前には「理性、判断力はゆっくり歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」(ルソー)という状況があります。閉塞した時代においてゆっくり歩くことがいかに大切か。人権・民主主義の空洞化がじわりと進行するのを背景に、急速な貧困化も進み、厳しい生活実態に対して打開へのあせりが充満しています。ここで、強力なリーダーによる「がらがらポン」という無内容な期待に対抗するためには、地道な要求運動を具体的に進め、そうしたじっくりした内容ある政治体験を広げていくことが必要であり、それが遅く見えてももっとも確実な方法です。そのような中で人権・民主主義の意義は浸透していくのであり、「憲法を生活に生かす」という古いスローガンの驚くべき新鮮さを今また実感させられます。ハシズムや今後も繰り返し出現するであろうその亜流を草の根から絶やしていく取り組みが必要です。

 

4>考察のまとめ

 ポピュリズム批判は、人々の意識とそれへの批判という関係の中に生じる現象ですので、それを図式化してみます。

◎A図

ポピュリズム批判→人々の意識・ポピュリズム

 

 ポピュリズム批判の二類型という観点から、この現象を分析すると次のような構図になります。

◎B図

体制からの経済ポピュリズム批判 → 人々の経済要求

人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム 

 

 これを客観的な階級対立にあわせて、人々(左)VS体制(右)の本質的対立図式に組み替えるとこうなります。

◎C図

人々の経済要求 ← 体制からの経済ポピュリズム批判

人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム

 

 ポピュリズムとポピュリズム批判という対立図式で普通考えられているのは漠然とした現象としてのA図です。これを分析するとB図になります。B図は次のように解釈すべきだと思います。……第一に、批判する側は明確に違う二者であり、第二に、批判される側は実際には渾然一体となった人々の意識なのだが、それは二つに分けることが可能である。…… C図はさらに本質的関係を示しており、「人々の経済要求」と「人権派からの政治ポピュリズム批判」との同盟、逆に「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との同盟の可能性を示唆しています。つまり客観的階級対立が、意識・政策・運動を規定するということです。

 支配層の利益からすれば「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との同盟は必然と思われます。しかしもちろんそう簡単ではありません。前者は支配層の主流派であり、「(ブルジョア)民主主義」の正統をもって自認しているでしょう。対して後者は、客観的には支配層の利益を代表しているとはいえ、主流派への挑戦者的姿勢を「売り」にし、「独裁」の本音も隠さない跳ね上がりものの傍流です。両者の体質の違いは相当なものですが、後者を代表する橋下氏の人気に押されて、このところ主流派の方から擦り寄っているような状況です。その上、もともと主流派の二大政党の行き詰まりは深刻で人々の支持を失っており、支配層の利益を反映する政策の実現には、実際のところ「独裁」が必要となっています。そこでそのマイルドな表現としての「決定できる民主主義」(橋下氏)に主流派も便乗しています。マスコミもそれを大いに推奨しています。ちなみにマスコミの常套句として、首相を初めとする政治家に向かって「もっとリーダーシップを発揮せよ」とか「もっとていねいに説明せよ」という言葉が目立ちます。リーダーシップとか説明とかはそれ自身はよい意味の言葉です。しかしマスコミがそれを持ち出す文脈に注意が必要です。政府の政策は民意に反するがゆえに人気がありません。さすがにその実行は躊躇せざるをえません。そのとき首相らに対して政策の強行を叱咤激励する言葉が、リーダーシップと説明責任なのです。このようにして本来決定してはならない政策を決定強行するのが「決定できる民主主義」です。悪い政策に必要なのは、リーダーシップでも説明責任でも決定でもなく、撤回なのですが、それを見えないようにするのがこれらの美辞麗句です。「決定できる民主主義」は、窮地に陥った支配層主流派に対して橋下氏が贈った魔法の言葉として重宝されています。このようにして「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との危険な同盟が今進行しつつあります。

 これに対して、「人々の経済要求」と「人権派からの政治ポピュリズム批判」との同盟を進める必要があります。ここで大切なのは、あくまで人々の生活実感から出発し、その体験とそれを踏まえた変革的政策とを理性的にゆっくりと統一することです。

体制派からの経済ポピュリズム批判は、生活と労働から発する意識・要求への批判と抑圧であり、人々の存在のあり方そのものへの批判と抑圧です。これに対して、人権派からの政治ポピュリズム(反人権・反民主主義ポピュリズム)批判は人々の歪められた意識への批判であって、その存在そのものへの批判ではなく、ましてや抑圧ではありません。なぜなら政治ポピュリズムは、差別と分裂の支配政策によって、生活と労働から発する意識・要求を部分的にねじまげて作り上げられた実感だからです。つまり体制批判派こそが、本当に人々の存在と意識の立場に立てるのです。まず人々の経済要求の正当性を高らかに掲げ、その実現の政策を提起することで、経済ポピュリズム批判を克服します。同時に要求運動の展開と様々な部面でのイデオロギー闘争を通じて、人権と民主主義の空洞化を克服しその実質化を図ることで政治ポピュリズムを克服します。こうして「人々の経済要求」と「人権派からの政治ポピュリズム批判」との同盟を進めることができます。マスコミ主導のものではなく、要求運動を中心とした下からの熟議の民主主義が本当に実現するならば、「体制からの経済ポピュリズム批判」と「反人権・反民主主義ポピュリズム」との同盟を打ち破ることは可能です。人々の存在と意識から離反しそれを抑圧するこの同盟に未来はありません。

以上、ポピュリズム批判とそれへの反発という対立、啓蒙家と大衆との対立という漠然とした偽りの図式を克服し、人々の存在と意識にしっかりと立脚した政策提起と学習・運動の展開によって社会変革を進めるという捉え方を提起しました。人々のポピュリズムへの無内容な期待を冷笑するのでなく、人々の実感に寄り添って、その期待を実質化できる道をともに考え実行していくことが求められます。

ポピュリズム批判との関係でハシズムを考えると、その反人権・反民主主義ポピュリズムを巧みに構成する「俗論ポピュリズム」とも言うべき様々な言説を人々の意識との関係を含めて分析し徹底的に批判することが必要だと思われます。

以上、どうしてもいかめしい調子になってしまいますが、経済と政治を統一する脱力系の話題を添えて終わります。「朝日」5月22日付に、田村秀(しげる)新潟大学教授の語る「リーダーよりB級グルメ」という記事があります。地域の歴史や文化・産業を映す「B級グルメ」の発掘は「お金もさほどかからずにほどほどの経済効果につながり、地域のシンボルにもな」ります。「トップダウンで制度を変えるよりも、地元の住民が楽しみながら取り組む方が長続き」します。「ヒーロー待望論よりも、自分たちのできるところから一歩を踏み出すことが地域の再生につながる」という田村氏の話は実に説得力があります。「地域をダメにする人はないものねだりをする人。地域を良くする人はそこにあるものを見つけられる人」という言葉を聞いたことがあります。ヒーローにおまかせではなく、自分たちで地域を再発見して新たに作り上げていくことはまさに民主主義の実習になります。橋下氏はグローバル競争の観点から地域を見下ろして、リニア新幹線でも作れば世界的な都市間競争に勝てる、といった発想ですから、地域をダメにする典型的政治家です。人々を「人材」としか見ない「上から目線」ではなく、人々の主体的取り組みを引き出す工夫こそが、地域経済と民主主義を内発的に発展させる道です。B級グルメ以外にも地域の宝はきっとあるでしょう。人権や民主主義を勉強することはとても大切です。しかしそれだけでなく、ポピュリズム批判につきものの「啓蒙臭」を脱したやり方で、楽しく着実に政治ポピュリズムを克服していく民主的実践に注目し創造していくことも重要です。

 

<番外・追伸>専門家と素人

 我ながら権威主義があり専門家信仰もあります。ところが今、政治・経済どころかもっと難しい自然科学・技術の領域である原発問題で専門家への不信が噴出するのみならず、素人が政策判断に参加すべき事態となりました。それはまさに民主主義が試練に立つとともに、ヴァージョンアップするチャンスともなっており、ポピュリズム批判を再考する格好の題材でもあります。ここで私の固い頭を啓蒙してくれる論稿に出会えました。東大名誉教授・工学博士(金属材料学)井野博満氏の「市民の常識と原発再稼動 安全は誰が判断するものなのか」(『世界』6月号所収)です。

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 原発の安全神話は崩壊したとよく言われる。現象的にはたしかにそうだが、技術は価値中立的なものだという考え(=神話)を捨て去らない限り、安全神話は必ず復活してくるだろう。技術は専門家に任せておけば大丈夫だという考えを捨てねばならないと思う。専門家に任すのでなく、市民が自分で判断し、結論を下すというようにしなければならない。

      162ページ

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 まことにラディカルに民主的な結論です。確かにそれがあるべき姿だが大丈夫か、という疑念に井野氏は明快に答えています。まず技術は客観的・中立的なものではないと断言し、わかりやすく説明しています。技術はものごとのすべてがわかっていなくても、作るか否か、どう作るのかの判断を迫られる実践概念であり、不確実な要素をどう見るかというグレーゾーンの問題に直面します。その判断に際して「その技術を担う人や集団の価値観や立場性が反映されざるをえない」(161ページ)のです。「工学というのは物づくりの学問だから、その価値観になじんだ専門家は物を作ることを重視」します。ましてや企業のエンジニアであれば「よほどの勇気がなければ作らないという選択はでき」ません(同前)。したがって「物を作る立場の技術者・工学研究者と、それを受け入れて利益あるいは損害を受ける立場の市民・地域住民とはその立場が異なる。そのことが技術の見方に反映せざるを得ない。それゆえに、市民と専門家が一つのテーブルで議論することが重要なのだ」(165ページ)ということになります。多様な専門家の異なる意見を聞いていれば、市民は議論の本質をおよそ理解できる、と井野氏は判断しています(162ページ)。

 ここでは熟議への参加が前提になっています。おまかせ民主主義・観客民主主義から熟議の参加型民主主義に転換することで、一方では、ポピュリズムと批判されるような短慮による判断を、他方では、ポピュリズム批判が陥りがちな権威主義・専門家信仰を克服することが可能になります。しかし参加と熟議を妨げる要因がこの社会にはたくさんあります。貧困化・多忙化の上に、知的なものを避ける風潮もあります。それは強制と序列主義の教育の「成果」であり、知的文化の多くが権威主義をまとっていることへの反発です。人間が本来持っている「知への愛」を自然に育てることで「知への嫌悪」を克服することが大切です。また人類の生み出してきた膨大な知が私たちをいろいろな意味で豊かにし、社会をよくすることに役立つ、という実感を広げることも大切です。それらは子どもたちに対する教師の仕事であるだけではなく、大人たちが学びあっていく課題でもあります。生活と労働が厳しさを増していく中でも、というかそれだからこそ、様々な要求運動や何かの話し合いの機会を通じて、参加と熟議につながる知的交流が重要になっていきます。

 『経済』4月号の感想の最後に、チェーホフの手紙を引いて、謙虚と卑屈はどう違うのかについて考え、「それは、自分自身を冷静に正しく把握し評価できているか、それを前提にして人に適切に対しておれるかどうか、だろう」と書きました。間違いではないだろうけれども、いかめしい慎重さがどちらかというと後ろ向きのイメージにつながりかねません。もっと率直な積極性に解放していけないものか。

 俳人・櫂未知子(かいみちこ)氏の「俳句のすすめ」(「しんぶん赤旗」4月10日付)が傑作です。句会で季語を読み間違えて爆笑された体験がまず紹介されます。季語を覚えるのに、たとえば国文学を研究しているとかいうプライドは邪魔になるだけ。「季語は学歴も偏差値も関係なく、ただひたすら俳句に慣れることで身に付くものだった。のんきそうなおじさんおばさんたちが、基本的な季語を使いこなしていることを知って受けた衝撃は、今でも薄れない」。気取り・逡巡・躊躇は不要でとにかく進むこと。「あなたが俳句で失敗しても誰も困らない。まずは、無駄なプライドを捨てて恥をかくことから、俳句は始まるのじゃないかしら」。

櫂氏の描くこの率直な世界は、楽しく自主的で積極的で権威主義もなく、実にすっきりしたさわやかさに満ちています。きっと卑屈や傲慢はなく、いやあるかもしれないけれども謙虚な自信になっていくのじゃないかな。これが熟議と参加の民主主義のイメージであればよいなと思います。民主主義を楽しくヴァージョンアップしたいものです。
                                 2012年5月29日

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