月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2017年1月号〜6月号)

                                                                                                                                                                                   


2017年1月号

          米国大統領選挙の本質

 高田太久吉氏の「アメリカ社会に何が起きているのか 2016年大統領選挙を通して見る政治変革の可能性」は、副題にあるように、トランプの勝利・クリントンの敗北・サンダースの健闘を通して政治変革の可能性を探るものです。それは「ポピュリズムの勝利を嘆く」というマスコミなどの主流的見解とは一線を画するのみならず、トランプ勝利の必然性を訳知り顔に後付けするだけで、変革の可能性に言及しえない見解ともまったく違います。高田氏は予備選と本選を概観することで、まず民主・共和両党における支持者の党指導部への反乱を指摘し、次いで両党を離れた無党派層が最大勢力まで増大し、本選の帰趨を左右する状況に至ったことを指摘しています。つまり大統領選の基本構図は有権者と政治との「断絶」にあったのです。「それは、政治資金の見返りに企業・富裕層に政治を売り渡している二大政党と、長引く不況のもとで、自らの境遇を改善する展望を持てず、政治に見捨てられていると感じている多数派有権者との間の深い断絶であり、前者に対する後者の失望と怒りで」す(95ページ)。

 もちろん高田氏は「有権者が下した判断が果たして賢明であったか否かは、トランプ候補のこれまでの行動や言説に照らして、疑問としなければならない」(96ページ)としているのですが、上記の見解に従って、クリントン候補にはもっと明確に峻烈な批判が下されます。

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 あれこれの政策ではなく、米国政治の根本的な転換が最大の争点になった今回の大統領選挙では、民主党本流を自負し、有権者に深い失望を残して任期を終えるオバマ政権の「正統な」後継者として出馬したクリントン候補は、言ってみれば、すでに終わった場面の演技者が次の場面に間違って登場したようなもので、はじめから場違いな候補者だったのである。                    96ページ

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 民主党の予備選時に、本選でトランプに勝てるのはクリントンではなくサンダースだという世論調査結果が出たことがあります。まさか米国で自称「民主的社会主義者」がそこまで強いとはにわかには信じられず、本選に出るべきなのはクリントンが順当だろうと私は思っていたのですが、今となっては不明を恥じるばかりです。「あれこれの政策ではなく、米国政治の根本的な転換が最大の争点になった」という大統領選挙の基本性格を見損なっていたのです。新自由主義グローバリゼーション下、格差と貧困が極端に進行し、富裕層への富の集中とその政治支配が異常に強化される中で、米国でも資本主義批判が高まり、対蹠的に青年層を中心に社会主義への拒否感が急速に減少しているというのです(98100ページ)。

 社会主義とはいっても、サンダースのそれは「欧州型福祉国家」(101ページ)であるので「真の改革を妨げる障害」(同前)だという見方もあります。しかし高田氏は、サンダースは不平等と金権支配を改革する先進的な解決方途を提示し、深刻な政治不信を自らへの支持に変えることで、大統領選挙の常識を覆した、として高く評価しています(同前)。またサンダースは民主党の政策に自己の主張を反映させ、第三党の設立ではなく民主党を変えることで米国の政治変革の展望を開いたし、彼の善戦は金権選挙が支配の万能の梃子ではないことを示しました(102ページ)。

 以上のような高田氏の見解は、今回の大統領選挙の本質を「ポピュリズムVS反ポピュリズムの闘いでの前者の勝利」と見るようなミスリードを許さず、「あれこれの政策ではなく、米国政治の根本的な転換が最大の争点になった」という基本性格を捉え、そこに「政治変革の可能性」を看取した点において卓見であると思います。

 

          ポピュリズムVSポピュリズム批判

 とはいえ、ポピュリズムの扱いそのものは重要であり、軽視できません。問題はそれを体制護持的に捉えるのか、政治変革の可能性において捉えるのか、にあります。体制護持的ポピュリズム批判(体制護持的に、ポピュリズムを批判すること。「体制護持的なポピュリズム」を批判すること、ではない。どちらの意味もありえるが、ここでは前者の意味で使う)がマスコミなどの主流であるときに、そうではない捉え方があることを示す必要があります。

 橋下徹氏はポピュリストとして著名であり、「既得権益」層・知的エリート層への強力な攻撃で勇名をはせています。米国大統領選挙については「負けたのは、知識層だ」としてインタビューに答えています(「朝日」グローブ188号 124日付)。

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 有権者が政治家のきれいごとにおかしいと思い始めてきたんですよ。口ばかりで本気で課題解決をしない政治に。米国で言えばワシントン、英国で言えばウェストミンスターの中だけで通用するプロトコル(儀礼)できれいごとを言っても、それは明日のメシを満足に食べられる連中だから。ポピュリズムという言葉で自分たちと異なる価値観の政治を批判するのは間違っています。それは自分の考え以外は間違いだと言っているだけ。民主政治の本質は大衆迎合です。重要なのは、社会の課題を解決する力。エリート・専制政治の方が大衆迎合よりもよほど危険なことは歴史が証明しています。今回の選挙の敗北者は、メディアを含めた知識層ですよ。

 …中略…

 明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして、お互いに立派だ、かっこいい、頭がいいということを見せ合っているのが、過度にポリティカル・コレクトネスを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治エスタブリッシュメントの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題が分かるはずがない。政治なんて、もっとドロドロしたものなんです。僕はポピュリズムというものは課題解決のための手段だと思っています。メディアの仕事は、下品な発言の言葉尻を批判することではなくて、政治家のメッセージの核を見つけて分析し、有権者にしっかりと情報提供することですよ。

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 確かに支配層の政治家はきれいごとばかりを言って、課題が分かっていない、という批判は当たっています。そこで「政治家・メディア・知識人の政治エスタブリッシュメント」を非難して溜飲を下げるというのは「大衆」の気分に沿う発言だと言えるでしょう。

ところで課題とは何でしょうか。新自由主義下における格差と貧困の拡大を解決することが最大の課題でしょう。これに対して「課題が分かっている」らしい安倍政権は「働き方改革」「労働時間短縮」「同一労働同一賃金」「女性の輝く社会」などともっともらしい政策スローガンを並べて、実際にはそれに逆行する非正規労働の拡大の強行、労働基準法改悪の方針などを打ち出しています。まさに詐欺的な「政治の技術」です(アベが技術と言ったら詐術と思え)。労働問題に限らず、安倍政権の主要政策に同調して居丈高に野党を攻撃しているのが、橋下氏が実質的な領袖として君臨する維新の会です。

 「上品な」世襲政治家が中心の安倍自民党などではできない重要な役割を橋下氏は担っているのです。下世話な言葉で大衆に近づいて、「みなさんの困難の根源はあなたの気持ちを理解できない上品で知的な政治家・メディア・知識人の存在そのものにあるのです」と声高に言えば、新自由主義グローバリゼーションに乗る支配層を免罪できます。

 大衆と知識層とには確かに違いがあるし、対立する場合もあるでしょう。しかしそれは社会の主要な対立軸ではありません。大衆にも知識層にもそれぞれ左右の様々な立場があります。その左右の立場こそが問題です。日本でいえば、米帝国主義とそれに従属する独占資本によって構成される支配層とそれ以外の労働者階級を中心とする人民との間に基本的対立軸があります。それを隠して、大衆と知識層との間に対立を煽れば問題の本質が看過されます。橋下氏の場合はそれどころか大衆に支配層の思想を吹き込むという役割を果たしています。支配の直接的な代理人としての安倍自民党の他に、そのファンクラブを組織して敵対者を蹴散らしてくれる橋下氏のようなトリックスターがいることは、支配層にとってなんとありがたいことでしょうか。トランプの勝利を「負けたのは、知識層だ」と端的に打ち出せるこの才能こそ支配層の至宝であり、彼はまさに体制護持的なポピュリストです。維新の会が安倍政権の「補完勢力」だというのは、単に一応野党でありながら政策的に与党に同調している、ということだけではなく、このような独自の役割あってこそなのです。

 政治エスタブリッシュメントとしての政治家・メディア・知識人もまたポピュリズムの本質について、「大衆VS知識層」という線で捉えるという点では、橋下氏と同じです。橋下氏が大衆の立場、政治エスタブリッシュメントが知識層の立場に立つことから正反対のように見えます。しかし社会の基本的対立軸を見失っている(あるいは隠している)こと、そして何より支配層の立場にあることが共通です。主要メディアの主張は体制護持的な立場からのポピュリズム批判であるのに対して、橋下氏は「体制護持的なポピュリズム」の扇動者なのです。

 ポピュリズムについて考える場合、たとえば経済問題において「消費税増税反対」というのはポピュリズムか、あるいはそれをポピュリズムだと批判するのはどういう立場なのか、という問題があります。ここでは議論を省きますが、消費税増税反対は人民にとってはまったく正当な要求であり、この要求を批判するのは支配層の立場から行なわれています。ポピュリズムを、大衆に迎合することで結果的に大衆に不利益をもたらすものとするなら、消費税増税反対はポピュリズムの主張ではありません。しかしとにかく大衆に迎合するように見えることから、あえてそれをポピュリズムと呼ぶなら、そのような呼び方に同調しない意味でカッコ付きで「ポピュリズム」と表記することにします。本当はポピュリズムではないけれどもそのように見える、ということです。経済問題に関する事柄なので経済「ポピュリズム」と表現します。もっとも、「大衆迎合」と(正当に)「大衆の要求を実現すること」との区別が難しい場合はあります。しかし消費税増税反対については後者であることははっきりしており、これを大衆迎合と呼ぶのは人々の生活そのものを尊重しない立場であり、その根源は人間ならぬ資本の立場です。

 それに対して、性差別・人種差別の類は明確に反人権・反民主主義の政治ポピュリズムです。カギカッコはつけません。これへの批判は正当であり喫緊の課題です。政治ポピュリズムを見ると、それは大衆迎合という言葉が意味するような大衆に合わせるがごとき受動的姿勢ではなく、大衆の遅れた潜在意識の部分を刺激して顕在化させるようなきわめて能動的姿勢を取ります。人類が長年にわたって、民主主義社会を形成するのに必要な人権意識を育んできたのに対して、そこに必要なある一定の自己抑制に伴う窮屈さを厭うホンネを引き出して、タテマエへの反乱の爽快さを刺激し、それを発現した大衆に合わせる、というのがポピュリストと大衆との関係構造と思われます。ポピュリストは素のままの大衆に迎合するのではなく、自分が迎合したいような大衆を作り出す挑発を巧みにしたうえで、その大衆に迎合するのです。ホンネ引き出しの客観的条件はたとえば社会閉塞状況であり、主体的条件はたとえば人権教育の不足にあるでしょう。

 だから大衆というのは一方では社会進歩の流れの中にあって偉大な力を発揮しますが、他方では一定の悪い客観的・主体的条件の下では反動的役割を果たします。ポピュリズムを考える際には後者の方ばかりが目立ってしまいますが、前者の側面も忘れてはいけません。

 社会変革と人々の要求実現という文脈を合わせて考える中で、ポピュリズムとそれへの批判というものを、以上のように<経済「ポピュリズム」とそれへの批判>、<政治ポピュリズムとそれへの批判>に分ける必要性を感じました。そこで図式化して次のような一つの表をつくりました(ポピュリズムの分析については拙文「ハシズムにおける経済・政治・教育」参照)。

 

     ポピュリズム認識のための試論的表1

                           政治

経済
 

X政治ポピュリズム

(反人権・反民主主義)
 Y人権派からの政治ポピュリズム批判
A人々の経済要求(場合によっては経済ポピュリズム)   A+X人々の意識の現状  A+Y人々の意識の変革方向
 B支配層からの経済「ポピュリズム」批判  B+X支配層による新自由主義的独裁  B+Y体制内リベラリズム


 タテ方向には、「人々の経済要求」と「それへの支配層からの批判」を上下に重ねました。ヨコ方向には「政治ポピュリズム」と「それへの人権派からの批判」を左右に並べました。経済と政治のタテ・ヨコ両方向の交点に4つの立場が描けます。

 

1)人々は正当な経済要求を持ちつつ、政治ポピュリズムに流されやすい状況にありますA+X

2)私たちは経済要求実現に努めながら政治ポピュリズムを克服するような働きかけが必要ですA+Y

3)橋下徹氏の言動(ハシズム)に典型的に現れているように、反人権・反民主主義のバッシングで人気を博し、それをテコに人々の経済要求は「甘え」として切り捨てる(多くの人々がそれで「納得」する)ことで支配層の期待に応える立場がありますB+X。これは新自由主義的独裁といえます。ハシズムは新自由主義ファシズムと規定することができます(これについては拙文「大阪での新自由主義ファシズムの勝利」参照、「『経済』201512月号の感想」所収)。

4)たとえば消費税増税の必要性を説教しながら(経済「ポピュリズム」批判)、反人権反民主主義のポピュリズムに反対する立場もあります。このような「良識的」姿勢は体制内リベラル派ということができますB+Y

 

 トランプの勝利など最近の政治ポピュリズムの隆盛ぶりを見ると、「既成政治」への憤懣が頂点に達していることが分かります。そこでは体制内リベラリズムB+Yの危険な役割が浮かび上がってきます。消費税増税のような「痛み」を伴う施策が必要だという「良識」は、そういう政策が現実に人々の生活を破壊し経済の停滞を招く中では、人々の怒りの炎の対象となります。同時に唱えられる・人権や民主主義の立場からのポピュリズム批判も火に油を注ぐ結果となり、政治ポピュリズムはますます燃え上がるでしょう。明日のメシの心配がない知識層のPC(ポリティカル・コレクトネス、政治的正しさ)によるきれいごとは偽善だ、という上記の橋下劇場に絶好の舞台を提供することになります。新自由主義グローバリゼーション下におけるグローバル資本の行動とそれに追随する各国政府の経済政策という問題の根源が隠され、「大衆VS知識層」という誤った対立軸に誘導されるのです。高田太久吉氏の先の論稿から考えれば、日本の体制内リベラリストはクリントンの敗北を深刻に受け止める必要があります。政治ポピュリズム批判は経済の真の転換とセットでなければなりません。

 米国大統領選挙を上の表にあえて当てはめてみると、トランプに投票した人々はA+Xに近く、経済の根本的変革を望みながらも、政治的ポピュリズムに囚われるかその問題を軽視していたのでしょう。クリントンの政策はB+Yに近く、政治的ポピュリズムの危機に強く反対しつつも、経済の根本的変革を打ち出さなかったと言えましょう。トランプ政権の実現によってどうなるでしょうか。あれほど批判していたウォール街の代表を経済閣僚に迎えるのですから、支持者の期待した経済の根本的変革が達成されるとは到底言えず、政治的ポピュリズムに依存した支持構造を維持するだろうことも考え合わせれば、最悪のB+Xに落ち着く公算が大でしょう。トランプに期待した人々の経済の変革要求と、クリントンに期待した人々の政治的民主主義を擁護する姿勢との結合A+Yに米国の未来を託することが今回の大統領選挙に見る希望の萌芽と言えます。

 今日のポピュリズムは、新自由主義グローバリゼーション下における格差と貧困の蔓延による社会的閉塞状況を経済的土台として発生し、その真の原因が隠蔽される下で、ポピュリストの扇動によって人権と民主主義がスケープゴートとされ、それらを否定する政治ポピュリズムとして展開します。それを克服するには、新自由主義的経済政策の転換と人権・民主主義の真の定着を同時に追求する必要があります。その意味では、草の根からの要求実現運動がきわめて重要です。その運動は経済政策の転換をはっきりと意識し、粘り強い運動で身近な要求から一歩一歩実現していく民主的政治プロセスの経験を重ねていくことで、無思慮と短絡を深いところから克服していけます。人権と民主主義に基づいて、生活と労働を改善していける道筋が見通せるなら、人々が政治ポピュリズムに囚われることはなくなります。

 以上はポピュリズム認識への第一次接近と言えます。そこで図式的発想ですが、<経済「ポピュリズム」と政治ポピュリズム>があるなら、<経済ポピュリズムと政治「ポピュリズム」>もあるだろうと思い、第二次接近の表をつくってみました。

 たとえば消費税増税反対はポピュリズムではないのですが、そのように見える(というか、見えさせられている)という意味でそれを経済「ポピュリズム」と表現しました。それに対して本当の経済ポピュリズムも存在します。たとえば先述の安倍政権のように、実際にはグローバル資本優先で人民犠牲の経済政策を推進しているにもかかわらず、スローガンとしては生活と労働重視の政策を打ち出しているかのように見せる厚かましい詐術です。このスローガンは連日メディアに流されますから、中身が正反対でも言葉面で雰囲気だけは醸し出すことができるのです。仮にメディア上の記事や放送の内容としては、幾分かでも政策の正体が分かるようなものになっていたとしても、そこまで詳しく捉える人は少ないから、見出しとつかみさえ都合よいように飾れば政権の思うつぼなのです。またトランプの「政策」のように、労働者の不満を煽りそれに寄り添うように見せながら、実のところ、大企業減税や金融規制緩和のような新自由主義政策を貫徹する詐術もあります。

 このような経済政策上の詐術は質的に言って明確な経済ポピュリズムですが、微妙なものもあります。経済は質、つまり根本的な政策姿勢の問題だけでなく、量的な問題もあります。たとえば憲法25条の生存権の実現を掲げて社会保障の充実を図るのは正当な要求であり、それを重視するのは経済政策の質として正当ですが、現在何を優先しどこまで実現するのかという量的問題があります。そこで経済政策のバランスを崩すような過剰な要求実現を約束すれば経済ポピュリズムという非難を受けることになります。この点で経済におけるポピュリズムと「ポピュリズム」との区別には難しい問題もあります。しかし両者が存在することは意識しておく必要があります。

 先に反人権・反民主主義攻撃を政治ポピュリズムと規定しました。そこで政治「ポピュリズム」というものもあるのではないかと考えてみました。メディアなどでポピュリズムと非難されながら実はそうでないものです。そこで思い浮かんだのが、国会等議会が民意を反映しないことに抗議する集会・デモのような直接行動です。これに対して代議制民主主義・間接民主主義を破壊するポピュリズムであるという主張が一部に存在します。しかし日本(だけに限らないが)の民主主義の形式化・空洞化は深刻であり、それへの抗議は民主主義を破壊するどころか、それを実質化する必要不可欠な行動です。日本の議会制民主主義はまず小選挙区制などの非民主的な選挙制度によってあらかじめ民意を排除する制度となっています。それによって得られた虚構の多数派が議会を支配して内閣を構成しています。そのことへ多少なりとも配慮があるなら、政策決定と議会での審議とに際しては世論に十分に耳を傾けるべきです。ところが多数議席さえあれば、どんなに批判が多かろうと何をやってもいいというのが、安倍政権の姿勢であり、あえて独裁を正当化する橋下徹氏の主張です。両者の仲の良さは特筆に値し、日本の民主主義政治の深刻な危機を招いています。ごく一般論としても、間接民主主義・代議制民主主義は直接民主主義・民衆の直接行動によって補完される必要があるのですが、今日的状況ではそれをいくら強調しても足りません。民衆の政治的直接行動をポピュリズムと批判するのは誤りであるけれども、そのような外観を呈することから、それを政治「ポピュリズム」と表現します。

 というふうに、経済とは違って政治とポピュリズムの関係についてはクリアに割り切れると思ったのですが、やはり微妙な問題はありました。直接民主主義の代表的な形態である「国民投票」をどう考えるかです。これこそまさに一歩間違えば民主主義の自殺行為につながります。ヒトラーがこれを多用していました。近年ではたとえば名古屋市の河村市長が住民投票で議会を解散させました。支配層の直接的代表者でもはぐれもののポピュリストでもこれで独裁制に道を開く可能性があります。「国民投票」は究極のポピュリズムとなりうるのです。

 石田勇治氏はヒトラーについて「投票テーマは政府が決めていた。いわば『上からの』国民投票です。国民が賛成するであろうテーマを選び、十分な情報を与えず投票させた。狙いは、国民に支持された指導者だという印象を内外に広めること。国民投票が独裁の正当化に使われたのです」(「朝日」1010日付)と指摘しています。さらに石田氏はドイツからの教訓として4つのポイントを挙げています(同前)。

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 (1)有権者の求める「下からの国民投票」か、行政主導の「上からの国民投票」か(2)投票前に徹底した情報開示が行われるか(3)有権者に十分な検討時間と自由な発言空間が与えられるか(4)民意を反映する投票方式になっているか。

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 橋場弦氏によれば、古代アテネの直接民主制では「アテネ市民は日常的に密な政治参加をすることで、政治に熟達してい」たのに対して「現代は間接的な代表民主制が前提で、実質的な政治参加の機会が何年かに一度の投票しかない。市民の政治関与が薄い」という問題点があります。橋場氏は古代ギリシャから学んで「学習機会を増やすこと」を勧め、日本の現状に即して「政治に参加する機会を、日常生活の中に埋め込むことです。学校のPTAや生徒会、マンションの自治会……。身体性を伴った政治参加の場が『民主政の学校』になるはずです」(同前)と指摘します。

 以上を敷衍すれば、間接民主主義・代議制民主主義を補完すべき直接民主主義・民衆の直接行動は諸刃の剣であって、取り扱いを誤れば最悪の場合、独裁に道を開きますが、逆に慎重さの埋め込まれた制度化と日常的政治参加による学習機会の増加とを実現すれば民主主義の実質化・豊富化に資することになります。

 ここまで考えて、人々の直接行動など直接民主主義をポピュリズムと呼ぶのに対して、そうではないのであえてカッコ付きで政治「ポピュリズム」と表現します。ただしそれが本物のポピュリズムに転化する可能性はあると留保しつつ。こうして第一次接近での<経済「ポピュリズム」と政治ポピュリズム>に新たに<経済ポピュリズムと政治「ポピュリズム」>を加えて第二次接近の表を提出します。

 

     ポピュリズム認識のための試論的表2

             政治
 経済
 X)政治「ポピュリズム」(民主主義の深化) X*)政治ポピュリズム(反人権・反民主主義)  Y)政治「ポピュリズム」批判(民主主義の深化の拒否)   Y*)政治ポピュリズム批判(反人権・反民主主義の批判)
A)経済「ポピュリズム」(人々の経済要求)   A+X)人々の意識の変革方向2  A+X*)人々の意識の現状  A+Y  A+Y*)人々の意識の変革方向1
 A*)経済ポピュリズム  A*+X)トランプ的状況の一面  A*+X*)安倍・トランプ的状況の真相  A*+Y)安倍的状況の一面  A*+Y*
 B)経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)  B+X)体制内リベラル2  B+X*)支配層による新自由主義的独裁(ハシズム等)  B+Y)体制内リベラル3  B+Y*)体制内リベラル1
 B*)経済ポピュリズム批判  B*+X)人々の意識の変革方向4  B*+X*  B*+Y  B*+Y*)人々の意識の変革方向3


 先の表1では、タテ・ヨコそれぞれ2項目なので、交差させれば2×24つの場に区分されるのに対して、表2では4×416の場に区分されます。表14つの場はそれぞれ一定の立場ないし傾向を表現しているのに対して、表216の場では、一つの立場ないし傾向がいくつかの場によって角度を変えて表現されたり、一つの立場ないし傾向の中のいくらかの差異がいくつかの場に分けて表現されたりします。新たな基本的項目としての政治「ポピュリズム」については、間接民主主義を直接民主主義で補完して民主主義の内容的充実を図るという意味で、民主主義の深化という補助表現を採用しました。したがって政治「ポピュリズム」批判は民主主義の深化の拒否ということになります。

 表2をマトリクス(行列)として見れば、人々の要求実現・社会変革の視点からの評価として、A)(B*)行および(X)(Y*)列は正、(A*)(B)行および(X*)(Y)列は負となります。――なお16場のおのおのは(行+列)の記号で表現され、その内容を言葉で説明してありますが、あまり意味のないと思われる場については記号のみ表記してあります。――したがって全16場の四隅に(正+正)が、中央の4場に(負+負)が並びます。

 (正+正)の4場は社会進歩の立場から「人々の意識の変革方向」という一つのものをそれぞれの角度から表しています。中でも(A+Y*)すなわち経済「ポピュリズム」(人々の経済要求)と政治ポピュリズム批判(反人権・反民主主義の批判)とを合わせた「人々の意識の変革方向1」が基本性格を表しています。その他(A+X)(B*+Y*)(B*+X)すなわち「人々の意識の変革方向2」「同3」「同4」を合わせて見れば、政治「ポピュリズム」(民主主義の深化)と経済ポピュリズム批判をも含めて表現しています。

 A*)行にはアベノミクスやトランプなどの経済ポピュリズムの諸相が並んでいます。核心は(A*+X*)すなわち経済ポピュリズムと政治ポピュリズム(反人権・反民主主義)との合作であり、日米両政権の最悪ぶりを表しています。その左隣の(A*+X)はトランプが体制批判の直接民主主義的要素を振りかざして登場してきたことを勘案して「トランプ的状況の一面」としましたが、もちろん本当の意味で民主主義の深化になっているわけではありません。(A*+Y)は、民主主義の深化を一切拒否して多数議席があれば何でもできるという安倍政権の性格を示しています。

 安倍・トランプの核心を示すA*+X*)のすぐ下の(B+X*)は経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)と政治ポピュリズム(反人権・反民主主義)との結合であり、いわば新自由主義的独裁と言え、ハシズムがその典型です。しかし安倍・トランプの本質もこれであり、その表面を経済ポピュリズムで粉飾しているにすぎません。このハシズムに代表される(B+X*)を含む(B)行は、経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)であり、体制派の核心を表しています。

政治ポピュリズムと結合した(B+X*)はこの行ならびに全体でも最悪の場ですが、その他はそれぞれに「良識面(づら)」をして並んでいるものの、必ずしも社会変革にとって良好とは言い難い場です。それらは一括して体制内リベラルと呼び、その諸側面ないしは差異ある立場を3つに表しています。(B+Y*)の「体制内リベラル1」は経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)と政治ポピュリズム批判(反人権・反民主主義の批判)とを結合しており、その生真面目さにもかかわらず、今日的状況下では危険な役割に陥りやすいことは、1におけるB+Yで説明したとおりです。

 B+X)「体制内リベラル2」は経済「ポピュリズム」批判と政治「ポピュリズム」(民主主義の深化)とを合わせており、「体制内リベラル1」の別側面ないしはニュアンスの違う傾向を表しています。(B+Y)「体制内リベラル3」は民主主義の深化に反対する点でより体制派色の強い傾向であり、「同1」「同2」より保守的で、ポピュリストをより挑発するという意味では危険性が高いと言えます。

 以上、こまごまと<ポピュリズムVSポピュリズム批判>の諸相を見てきました。何だかオタクじみてきたので、改めてこういう議論の意義を述べます。世上では、ポピュリズムとその批判が極めて大ざっぱに行なわれており、ポピュリズムの進撃が一方では無思慮で短絡的な拍手を持って、他方では上から目線の嘆きを持って迎えられています。しかし肝心なのは、ポピュリズムと一括して言われているものの内容を様々に分析的に捉え、人々の要求実現と社会変革という視点からそれらを組み立て直してみることです。今回の米国大統領選挙の表面的なバカバカしさや危険性の底にも、前掲・高田太久吉論文は政治変革の可能性を看取したのですが、その観点はポピュリズム評価にも生かすことができるのです。

 以上の議論はわずかな思いつきからの暴走的展開の様相を呈しており、足下を見るとポピュリズムの発生や展開構造についての検討がもっと必要でしょう。新自由主義グローバリゼーションが人々の生活と労働を破壊し、格差と貧困、社会的閉塞感や混乱の中で世論の反乱がおこっているという点ではおおかた異論がないところでしょう。拙文では、そうした経済的土台において、人々の正当な要求と共にポピュリズムも発生し、政治的・イデオロギー的に展開していくと見てきました。しかしそうした世論の変化が主にどの階層を中心に生じているのか、あるいはそうした変化は経済状況の直接的反映なのか、それ以外の社会的・文化的・イデオロギー的要素がむしろ中心的役割を果たしているのか、ということも問題です。

 新自由主義の被害がまず集中するのは、低所得層ですが、トランプ・橋下といったポピュリストの支持者はむしろ下層よりも中層や上層に多いという見方があります(たとえば小熊英二「朝日」論壇時評、1124日付と1222日付、渡部恒雄「朝日」耕論、1117日付)。これについて井手英策氏は「中の下層」が問題だとしています(「あすを探る 財政・経済」「中の下の反乱、食い止めよ」、「朝日」1222日付)。

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 格差の拡大、所得減に苦しみながらも、自分は「下流ではない、中流だ」と信じる意識。そしてこの「中の下層」がいま、低所得層への反発を鋭く強めながら、内外で政治のキャスティングボートを握りつつある。

 …中略…

 日本では、非正規雇用の割合が4割を超え、平均所得以下の人たちが6割を占める。格差是正を訴えるリベラルの戦略は一見正しく映る。だが、多くの低所得層が「自分は下流ではない」と認識していたらどうか。生活不安に怯(おび)えているのに政治的に取り残された中の下層は、格差是正の訴えを聞けば聞くほど、低所得層への反発を強めるのではないか。

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 これは分断とバッシングの原因をそれなりに捉えています。小熊英二氏も同様の認識を示しつつ、そうした経済的社会的構造変化がもたらすイデオロギーや人権意識にこそポピュリズムの問題があると見ています(「朝日」1222日付)。

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 先月も言及したが、大阪市長だった橋下徹の支持者は、むしろ管理職や正社員が多い。低所得の非正規労働者に橋下支持が多いというのは俗説にすぎない。

 米大統領選でも、トランプ票は中以上の所得層に多い。つまり低所得層(米国ならマイノリティー、西欧なら移民、日本なら「非正規」が多い部分)は右派ポピュリズムの攻撃対象であって、支持者は少ない。支持者は、低所得層の増大に危機感を抱く中間層に多いのだ。

 では、何が中間層を右派ポピュリズムに走らせるのか。それは、旧来の生活様式を維持できなくなる恐怖である。それが「昔ながらの自国のアイデンティティー」を防衛する志向をもたらすのだ。

 …中略…

 日本でも社会の変化とともに、右派的な傾向が生まれている。だが日本では、移民や中絶の問題は大きくない。その代わりに、歴史認識や夫婦別姓の問題が、「古き良き生活」と結びついた国家アイデンティティーの象徴となっている。

 …中略…

統計上は「中の上」の収入でも、「昭和の生活」を維持するのは苦しいのだ。

 …中略…

今の日本は「昭和の社会構造」を維持するために疲れ切っているのだ。

 …中略…

 過去への愛着は理解できる。だが人権侵害が指摘される制度を使ってまで「日本の風景」を維持するべきだろうか。同じく、人間を破壊する長時間労働で「昭和の社会」を維持するべきだろうか。それは他者と自分自身の人権を侵害し、差別と憎悪の連鎖を招きかねない。

 右派ポピュリズムの支持者は誰か。それは古い様式に固執し、その維持のためには人権など二の次と考える人である。他者と自分の人権を尊重し、変化を受け入れること。それによってこそ、健全な社会と健全な経済が創られるはずだ。

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 吉田徹氏も「反グローバリズムは必ずしも、経済や雇用環境だけを基準とするものではない」として、イギリスのEU離脱の国民投票において「残留派と離脱派を分け隔てたのは『社会的リベラリズム』に対する態度であ」り、米大統領選挙でクリントン支持とトランプ支持を「隔て分けるのは社会的グローバリズム・文化的リベラリズムを支持するか否かにある」と指摘しています(「『グローバリズムの敗者』はなぜ生まれ続けるのか」、『世界』1月号所収63ページ)。吉田氏は戦後世界の資本主義の展開を跡付けつつ「現下にみられるのは資本主義と民主主義の相克において、資本主義の論理が生活世界を侵食し尽くしている光景だ」(62ページ)という妥当な認識を示しています。そしてその矛盾の一つの焦点として「没落しつつある中間層」を取り出して、「中間層によって民主主義が支えられてきたのであれば、中間層の没落はそのままデモクラシーの後退を意味するだろう。…中略…『没落する中間層』に代わることのできる『新しい中間層』の台頭、そのために必要な戦後の社会契約の更新が待たれている」と結論づけています。残念ながら竜頭蛇尾な印象を免れません。「リベラルな文化に反感を持つ権威主義的価値観を持つ高齢者層と、経済的保護を求める労働者層という、異質ではあるが『グローバリズムの敗者』という点で共通する階層間連合が完成しつつある。その背景には、支持基盤と階層間連合の組み替えをした保革既成政党の変容があった」(65ページ)という指摘も認識のあり方が分断的であり、新自由主義グローバリゼーションへの民主的規制を含む経済改革によって包括的に解決しようという方向を予め退ける姿勢に見えます。

 以上の諸論者は、新自由主義グローバリゼーション下の社会構造の変動とそこでの中間層の問題などに対するそれぞれの鋭い認識を示しながらも、解決策としては必ずしも十分な説得力を持つようには見えません。社会構造と生活基盤の危機的変動をそれなりに捉えながらも、焦点を文化・イデオロギー・人権意識に持ってくることで経済そのもの変革が後景に退くように思えます。リベラル派の認識としては、グローバリズムへの反乱が反人権・反民主主義の声を含むことで、そこに意識が集中してしまっているのでしょうか。その中に人民の正当な要求が含まれており、経済の変革でそれを解決するという基本的方向をもっと前面に提起する必要があります。中間層も低所得層も含む問題解決を追求しなければなりません。

 ということで、秀逸な諸論稿の検討を通じても、単純粗雑で頑迷かもしれない拙文の趣旨を基本的には維持しようと考えています。

 ところでやはりリベラル派の経済学者である伊東光晴氏の「問題は英国ではなくEUだ 大衆は政治に変化を求めている」(『世界』1月号所収)を読むと、拙表で「体制内リベラル派」とした傾向には当てはまらないことがよく分かります。伊東氏はクリントンの大統領選挙での「変革拒否」(132ページ)を批判し、英国労働者をしかりつけるようなことはせず、EU離脱を非難する経済学者の論稿(日本のメディアでは支配的見解)を冷静に批判しています。もちろん私にこの問題についての定見はないので、何がいいか悪いかを言える立場ではありませんが…。伊東氏のこの論稿では、経済理論への幅広い理解と各国制度の基本的知識、現状分析のつかみどころ、等々、教えられるところが多くあります。たとえば移民問題を通して各国の福祉制度の違いが鮮やかに説明されているし、西ドイツの戦後の「新自由主義」(今日の新自由主義とは違うだろう)「社会的市場経済」といった基本的理論・概念も簡潔に説明されています。ポピュリズムの検討で読んだ論文ですが、理論・歴史・制度知識・現状分析などが一体となった理解が経済学には不可欠だということを改めて感じさせるもので、明快さの中に碩学の存在感が感じられました。

 

          安倍内閣の高支持率

 安倍内閣への高支持率が続いています。圧倒的に世論上の反対が多かったカジノ法案の強行採決を受けても大して下がりません。戦争法の強行以来、この戦後最悪の内閣に対する憎悪は燃え上がり、参院選などで野党共闘が実現するに至りました。しかしこの盛り上がりも客観的に見ればあくまで内輪の話であり、世論全体は安倍政権の存在を空気のように受容しているのが大勢です。アベ・スタンダードが日本の空気になっています。もちろん積極的に支持されているわけではありません。極めて消極的であってもなんとなく支持されています。アベノミクスへの幻想はもうほとんどありません。主要な政策も多くは支持されていません。政府・与党はまったく弛緩しており、失言と汚職の類は絶えることなく次々に出てきます。この状態での高支持率はアベ・パラドクスという他ない謎の矛盾です。社会全体が右傾化してアベ・ソーシャルとでもいう状態なのでしょうか。それは分からないけれども、とにかくそれらの結果として、日本の空気はアベ・スタンダードなのです。……よくもないけど首相は安倍晋三、選挙と政治は自民党。なんだかなあ。だけどそんなもんだ。……私の子ども時代は首相と言えばずっと佐藤栄作と覚えておけばよかったのですが、その後、首相はよく変わるものだと思い直したものです。ところが今の子どもたちも首相は安倍晋三と覚えておけばいい、という状態かもしれないと思うと空恐ろしくなります。

 確かに結果オーライでしょう。安倍政権打倒ができればいいのです。だから野党共闘です。過去の選挙実績からすれば、有望でしょう。しかし世論的盛り上がりはまだありません。これで本当に勝てるのでしょうか。何より不思議なのは、政権打倒を目指す側が、アベ・パラドクスやアベ・スタンダードの現状を直視して、その原因を解明しようという問題意識を持っているのかどうかが不明なことです。勝つためには野党間の政策調整や選挙態勢の確立などをしっかり行なって有権者へのアピールで優位に立つことが不可欠です。ところが世論そのものをつかんでいないようなこの状態でそれが十分に達成できるでしょうか。

 私は相当以前より安倍内閣の高支持率を問題にしてきましたが解明はできていませんし、寡聞にしてそのまとまった回答はどこにもないように思えます。これは相当に深く広い問題だから簡単には解けません。全面的に取り組む必要があります。それをパスしても勝てる場合もあるかもしれません。しかし今後、政治変革を目指す勢力が安定的にその道を進めるためには、アベ・パラドクスを経済・政治・社会といった各次元でそして総合的に解明すべきです。これは安倍政権に限った問題ではなく、日本社会のあり方についての従来の枠組みを超えた理解によって、それがどうなってしまっているのかを捉える必要があると思います。社会変革を目指すすべての人々に、アベ・パラドクス、アベ・ソーシャル、アベ・スタンダードという三語をあえて挑発的に提示したい。

 時間と能力があれば、アベ・パラドクスの解明に全面的とまでは言わないけれども、せめて体系的に取り組みたいところですがもちろん不可能なので、気付いたことを一・二点ばかり述べます。安倍内閣の高支持率について、周りの活動家の反応として「この世論調査の支持率は本当か」というのがよくあります。不審に思う気持ちは分かるし、世論調査は全面的に信頼できないこともあるでしょうが、これだけ長期にどの調査でも似たような結果になっているのですから素直に認めるべきでしょう。見たいことしか見ようとしない、見たくないことはないことにする、という姿勢を改めて、現実を直視することが絶対必要です。

 現実はどうなっているのか。「朝日」世論調査部長の前田直人氏もアベ・パラドクスについてあれこれ考えていますが、それよりもまず支持率そのものがどうなっているかを教えてもらいましょう。121718日の調査では50%で、揺るがない、まさに「コンクリート支持率」だというのです。今だけでなく長期的比較ではどうでしょうか(「内閣支持率 高止まりの怪」、「朝日」1225日付)。

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 2012年に政権を奪還してから、今月26日に丸4年となる第2次安倍内閣発足以降の平均支持率は47%。小泉内閣の49%とほぼ並び、第1次安倍内閣の38%を大きく上回る。下野した麻生内閣の26%、野田内閣の27%とは、もちろん比べものにならない。

 さらに、政権発足から丸4年時点の支持率を調べると、歴代最高は小泉内閣と中曽根内閣(面接調査)の42%。第2次安倍内閣を起点とすれば今月、丸4年の歴代最高をマークしたことになる。

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 この頑強な「コンクリート支持率」の状況を見据える必要があります。「しんぶん赤旗」1215日付の「国民は必ず見抜く 不幸を当然視の政治」という見出しの記事では、カジノ法を始めとする安倍政権の暴走を糾弾し、それらに対して世論調査で反対が多く、「暴走政治に対抗する国民的共同が広がっています」とそれ自身たいへんもっともなことを書き連ねています。ところがその結論として「国民は安倍政権の本質を急速に見抜きつつあります。国会での多数を国民の多数と錯覚した政府・与党のおごりが国民の厳しい審判を受けることになるのは避けられません」とあるのはどうでしょうか。論理としては前とつながっています。しかし現実を映しているでしょうか。現実には、政策を支持されない政権が高い支持率を維持している、という不条理がまかり通っているのです。そのひっかかりを何とかしようとする問題意識の感じられない紋切り型の記事では困るのです。

安倍政権に限らず悪政に際しては「国民は必ず見抜く」というフレーズがずっと飽きるほど使われてきましたが、それが実現することは少なく、決定的には実現していないことは、ずっと自民党政権(ないし保守政権)が続いていることから証明済みです。もちろん「国民は必ず見抜く」という信念が間違っているとは思いません。それは究極的には正しいし「国民」に対する信頼を失ってはなりません。しかしそれは簡単には実現しないのであり、それを阻む多くの事象があり、そのことを解明する必要がある、という覚悟を抜きに安易にその言葉を連発することはもうやめたらどうでしょうか。「国民は必ず見抜く」というフレーズは本来、変革の立場を表しているのでしょう。しかしそれは現実を直視した上でやるべきことをやるのが前提のはずです。現実の直視がないところではそれは単なる「希望的観測」に止まります。

「しんぶん赤旗」の「放送 この一年」「政権の執ような戦略 放送の自由守る決意」という見出しの記事は、カジノ法強行後も内閣支持率が大きく下がることはない、という事実に着目し、その原因として「メディアへの圧力と巧妙な戦略があります」と指摘しています(1221日付)。たとえば、領土問題で進展がなく明らかに失敗であった日ロ首脳会談をめぐって、安倍首相がNHKと民放各局に生出演でアピールして共同経済活動について熱弁をふるい、あたかも成果があったかのような歓迎ムードを演出したことを批判しています。もちろんアベ・パラドクスの原因はメディアだけではありませんが、それが重要な要素であることは確かです。ささやかな解明ではあるけれども、きちんとした問題意識を持つことが現実打開の一歩であることをこの記事からは教えられます。

 思いつき的ですがアベ・パラドクスの原因の一つとして、やはり日本社会の劣化があるでしょう。それは雇用の劣化を主な原因とする貧困化と閉塞感の充満です。非正規雇用が一般化し、雇用状況と労働条件の悪化が常態化し、それで我慢するのが普通になってしまって、そのもとでの失業率の低下でも歓迎されます。与党による「景気対策」が渇望されるのです。低失業率の下での貧困率の上昇が生じています。社会においてまともな雇用が当たり前ということが忘れられている劣化した状況では、ワラにもすがる思いで、とにかく貧困を少しでもやわらげるように見える景気対策を打てる与党に頼ろうという思いが優先されます。現状には不満で、政府の政策に賛成できないけど、頼るのは与党だ、という矛盾した状況でしょうか。劣化した社会が所与の前提になっていると、そう思ってしまいます。劣化した社会は変えられるのだということ、それを野党の共通政策として提起しなければなりません。ディーセント・ワークを当たり前とする方策をどのように具体的に分かりやすく実現可能なように提示できるかが重要な課題だと思います。

 

          オバマ・広島/安倍・真珠湾/共犯の構造

 安倍首相が真珠湾を訪問しました。これでオバマ大統領の広島訪問と併せて結果的に相互訪問が実現しました。しかしそこで両者がもっとも語ったのは日米同盟の重要性であり、本来なすべき相互の謝罪はありませんでした。これは相殺すべき性質のものではありません。ともに謝罪することなく「寛容に許し合って」日米軍事同盟の礼賛に努めたというのが一連の事態の本質です。これは共犯のための寛容の悪用です。過去の別々の悪事の忘却と戦後・現在から未来にもわたる同盟の悪事の正当化に向って、戦争にまつわる感情の動員――憎悪から和解へ――を図ったのが日米支配層の狡知だというべきでしょう。「未来志向」というのは彼らにあっては過去への無反省のことであり、実際には未来を塞ぐ道を意味します。

 そこで犠牲にされたのは、核兵器廃絶の課題であり、正当化されたのは核抑止力論であり、ベトナム・イラクなどへの米帝国主義の侵略と沖縄などの犠牲、そしてそれへの日本の加担です。安倍首相を始めとする日本の支配層にある歴史修正主義を巧みに保全し、オバマもまた例外ではなかった米帝国主義の覇権主義的行為の続行が確認されたのが、日米同盟の礼賛の意味です。スピーチの中に、人々のかけがえない営為と思いをちりばめて美辞麗句を連ねた両者の姿勢にこれ以上ない偽善を感じざるを得ません。人々の生きていく営みは社会進歩の土台であり、歴史の逆流である軍事同盟の美化に利用されることは決して許されません。

 

          断想メモ

 1220日、辺野古新基地をめぐって国が沖縄県を訴えた裁判で最高裁において県側の敗訴が確定しました。これを受けて埋め立て工事は再開されていますが、翁長知事は新基地を断固として作らせない姿勢を堅持しています。

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 ただ、翁長氏は知事権限をもとに移設阻止を図る姿勢を崩していない。菅氏は会見で、「我が国は法治国家だ」と繰り返して翁長氏を牽制(けんせい)。官邸幹部も「いい加減にしてくれ、と言いたい」といら立ちを示す。政府内では、翁長氏がさらに抵抗を続けた場合、工事の遅れに対する県への損害賠償請求案も浮上している。

                    「朝日」1221日付

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 「いい加減にしてくれ、と言いたい」のは沖縄県民だろう。さらにはスラップ訴訟をやるんですか。現代の悪代官たちの卑劣なこと限りなし。

 確かに「我が国は法治国家だ」。しかし辺野古や高江での機動隊などの違法な乱暴狼藉はこの際論外としても、この法治国家は民主主義の形骸化したもとにあるのも確かです。この裁判での高裁・最高裁の判決を見れば、三権分立なるものが幻想であり、司法の独立がないことは明らかです。どのような制度形式があろうとも、それを運用する者が国家権力に魂を売っているようでは内容がありません。

 形式民主主義と実質民主主義があります。法廷は形式の整ったところでしょう。しかし辺野古の裁判ってなぜやっているんでしょう。選挙で示された民意に従って政府が基地建設を断念していれば元々なかったことです。ここには実質民主主義はありません。実質民主主義0%の国が実質民主主義100%の沖縄県を訴えたのがこの裁判です。

実質がどうあろうと公平に扱うのが形式民主主義です。もちろん形式の整備は民主主義の必要条件ですから形式民主主義をおろそかにしてはいけません。しかしそこでは場合によっては実質民主主義0%もあり得ることを銘記すべきです。だからこの裁判を見るとき、そういう政治実質を抜きにすることはあり得ません。この場合、少なくともメディアの報道が形式的に「公平」であることがどういうことか考えるべきでしょう。それは民主主義の実質を殺すことに加担しているということです。

 いまどきレーニンの国家論などを持ち出すと嗤われるのが落ちです。もちろん国家論の発展に注意することは必要でしょう。しかし人民支配の強力機構であることが国家の本質の少なくとも一面であることは変わらないでしょう。沖縄は、辺野古や高江はそうした国家の本質を教えてくれます。「沖縄差別」は確かにあるにしても、国家の無法な暴力支配は沖縄だけにあるわけではありません。「沖縄差別」にとらわれ過ぎて、本土でも政治の動向次第で国家権力がその本質をむき出しにすることがあり得ることを忘れてはいけません。 
                                 2016年12月31日




2017年2月号

          中国経済の本質をどう見るか

 他の核兵器保有国といっしょに核兵器廃絶に敵対したり、東シナ海・南シナ海における覇権主義的行動をエスカレートさせるなど、近年の中国はおよそ社会主義という表看板にはふさわしからぬ状況を呈しています。日本共産党第27回党大会決議は「中国にあらわれた新しい大国主義・覇権主義が今後も続き、拡大するなら、『社会主義の道から決定的に踏み外す危険』が現実のものになりかねないことを率直に警告しなくてはならない」と言明しています。断定を避けた慎重な表現ながらも、社会主義の道からの転落の危険性をかなり強く危惧しています。そうした誤った政治行動の土台に経済の歪みがあるのではないか、という問題意識は当然生じると思います。もちろん単純に政治と経済を直結させることは誤りですが、少なくとも両者の関係を問うことは必要です。

 平井潤一氏の「中国の貧困解消計画 貧困一掃の目標達成へ、新たな局面」、大場陽次氏の「世界を揺るがす中国鉄鋼業の供給過剰」、山脇友宏氏の「多国籍企業とタックスヘイブン パナマ文書の衝撃」(下)3論文によって、社会問題・実体経済・金融のそれぞれのごく一部ずつを切り取る形ではありますが、中国経済を多角的に瞥見することができます。

 平井氏によれば、1980年代に「貧困との闘い」を宣言してから、貧困人口を7億人以上削減するなど中国政府は大きな成果を上げてきました。しかし農村の貧困はまだ深刻な状況であり、貧困一掃の国家的計画が最終難関に指しかかったところで、幹部の無責任や汚職事件が大きな問題となっています。こうした否定面が公表され責任追及が行なわれることは逆に政府の不退転の決意を示すものでしょう(89ページ)。人民の生活安定による支持こそが共産党一党支配体制の継続の成否を握る、という権力的思惑がその背景にあると考えられますが、ともかくも「社会主義をめざす国」としての実質がそこには残されているということは言えます。

 大場氏は、鉄鋼業を始めとしその他にも白物家電・自動車・造船・衣服・お土産用雑貨・100円均一商品などで中国が他を圧する膨大な生産量となった理由を次のように説明しています。

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 一つには、「社会主義市場経済」という中国独自の政治体制下での中央マクロコントロール(許認可制度)の効果があげられる。一方では、地方閥政治の名残ともいうべき権力の分散構造も見逃せない。同時に何事にも熱狂しやすい国民性、他者の迷惑や環境破壊を顧みない利益至上主義が経済社会に蔓延していることも指摘せざるをえない。

    96ページ

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 さらに1950年代後半の大躍進政策を回顧すれば、鉄鋼生産量を数年で3倍・4倍にするという過大な目標を設定し、それに対する地方から中央への誇大な「成果報告」などの弊害を含みながら、農業を犠牲にし、食料不足から膨大な餓死者を出しました。こうした戦後中国史上、最悪の結末をもたらしたことについて「ここに、中国の特徴的体質が表れている」(97ページ)とされます。しかし上記の引用の指摘は今日のいろいろな現象を列記したものであり、それに対して大躍進政策の問題点は当時の毛沢東の主観主義的誤りに起因するものであるので、そこには確かに中央と地方とのちぐはぐな関係という共通点は見られるものの、両者に通底する本質が剔抉されているわけではありません。ケ小平の「改革開放」をはさんで、それ以前の「ソ連型・アウタルキー型の中央集権的な計画経済体制」とそれ以後の「外資導入・グローバリゼーション対応型の(自称)社会主義市場経済」との断絶面と連続面とを総合的に見る視点が必要でしょう。それがないと、鉄鋼業を始めとする今日の中国製造業の爆発的発展の意味を確かに捉えることが難しくなります。それは社会主義市場経済の下で実現したものですが、それが抱える問題点は以前からある中国経済(あるいは政治を含めた社会のあり方)の体質による部分が大きいのか、すぐれて今日的問題なのかという論点が浮かんできます。そこには、中国経済における社会主義的性格(それがあるとするならば)とはいかなるもので、革命後、内外の激動の中でどう変化しどういう役割を果たしてきたのか、という問題があります。

 それはともかく、中国鉄鋼業の過剰生産が世界的問題とされ、自ら議長国として「G20サミット宣言」(20169月)で問題対応策をまとめながら、中国政府がそれを無責任に放棄するような姿勢を取っていることを、大場氏は厳しく批判しています。大場氏は当面する対策としての「中国鉄鋼業の第二次再編成(過剰設備の整理淘汰)」の可能性に言及しつつ、「南シナ海問題や一路一帯(新シルクロード)政策など中国の覇権主義的姿勢と同根で批判される鉄鋼業経済政策の抜本的見直しが行われるかどうか、世界が注視している」(98ページ)と結んでいます。ここには「軍事・外交という政治上の覇権主義」と「鉄鋼業の過剰生産対策という国際的な経済政策上の無責任」とが並べられています。つまり政治次元と経済次元とにおける国際関係上の中国の問題点が指摘されています。拙文冒頭では、「社会主義の道からの転落」の危険性における経済と政治との関係という問題意識を提起しました。政治の誤りの土台には歪んだ経済があるのではないか、ということです。ここでの大場氏の指摘はそういう問題意識ではなく、国際関係上において中国の政治と経済との誤りが並行して現れている、ということでしょうが、ともかくも政治の誤りと経済の誤りとが関連して取り上げられている点に注目します。

 論点は外れますが、ここでは鉄鋼業の世界的な過剰生産が絶対的な過剰生産として捉えられていると思います。しかしそれを相対的過剰生産として捉える可能性はないか、という問題があります。発達した資本主義諸国では鉄鋼需要の大きな伸びは期待できませんが、発展途上諸国では鉄鋼需要が増加する大きな余地があります。まだその段階にまで達していない諸国が多いのでしょうが、今後の発展を考えれば鉄鋼の需要は大いに伸びていくでしょう。現状において国際的な生産調整が必要だとしても、将来的には生産能力の解放が必要となります。目先の利潤獲得を目的とする資本主義の視野では絶対的過剰生産に見えるものも、実は相対的過剰生産であり、現局面における中国鉄鋼業の過剰生産はまさに資本の論理による駆け込み的過大生産の結果だというべきではないでしょうか。もっとも、大場論文によれば、2016年のG20サミット宣言では、鉄鋼の過剰生産能力に関する「グローバル・フォーラム(GF)」が設置されることが決められ、OECDの鉄鋼委員会の下で、@能力推移に関するモニタリングA調整ガイドラインB長期需給見通しC構造調整への技術支援の策定――などが検討される(97ページ)ということです。本来ならばそうした場で、資本の論理を超えた生産の見通し――世界の人々の生活を豊かにし産業基盤を整備するようなもの――を確立し、堅実な生産拡大を実現していくことが必要です。グローバリゼーションはこれまでのように新自由主義的に推進されれば人類に災厄をもたらすので、グローバル資本に対する民主的規制を必携のものとしています。中国鉄鋼業の過剰生産問題はそうした課題を浮き彫りにしていると言えます。

過剰生産について再説すると以下のようになります。生産力が非常に発達したグローバリゼーション段階においては全世界的な生産過剰が問題となりますが、それを絶対的過剰生産と即断せず、相対的過剰生産として見てみることが必要です。相対的過剰生産について、生産と消費の矛盾のような生産関係視点から構造的に問題とするもののほかに、発展段階の国際的多様性という生産力視点から時系列的に捉えることも必要でしょう。いずれにせよ構造的・時系列的に過剰生産を調整するのを世界人民の立場からグローバル資本への民主的規制として実現していくことが課題となります。

 新自由主義は実体経済における搾取強化と経済の金融化・カジノ化という両面を本質として持ちます。このうち後者の方が現代資本主義の寄生性・腐朽性を直接的に表現しています。前掲の山脇論文は、金ドル交換停止以後の現代資本主義の歴史的性格を特徴づけ、その寄生性・腐朽性の内容に迫っています。

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 国際協調と資本移動の管理を主柱とするブレトンウッズ体制は70年代に崩壊しており、新自由主義的グローバリゼーションの新たなイデオロギーの下で、規制緩和と金融グローバル化のプロセスを進めていった。 …中略… ウォール街とザ・シティ・オブ・ロンドンの古い同盟関係は、復活・拡大強化された。多国籍企業と巨大銀行のグローバリゼーションの成熟期の到来であり、オフショア・タックスヘイブンのグローバルネットワークの上に築かれた楼閣である。法人の権力と金融の権力をあわせもつと同時に、説明責任を負わない(自社の活動に関する透明性と納税の義務を負わない)新しい特権支配層の創出につながる。タックスヘイブンやオフショアの秘密の無秩序かつ多層なメカニズムやシステムを解体・改造することは容易ではない。      100ページ

 

 鉄壁の守りを固めた米欧多国籍企業だが、米国企業や銀行のオフショア活動の実態が、本格的にリークされれば、米国内の格差に起因する「富める最上位1%」に対する国民的な根強い反感の火に油を注ぐことになる。さらに現在のウォール街のメガバンクが指導する巨大M&Aの目的は事業メリットやシナジー効果よりも、節税効果を最優先させるという米国資本主義体質の老化、退化現象が、米国エスタブリッシュメントの間に懸念を深めている。とりわけ、米国企業の資本蓄積過程の金融化の典型であり、経済の金融化の広がりは、米国の生産性劣化の主要因とされている。   101ページ

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 このように山脇氏は金融化によって形成された新しい特権的支配層の強固さをまず指摘しつつ、その限界についても強調しています。拙文で問題にしたいのは、その特権的支配層に中国が入っていることです。貧困対策でのこれまでの中国の成果については、経済成長の果実を適切に役立てたという意味において、社会主義的性格に属するものと言えましょう。その経済成長は中国が新自由主義グローバリゼーションの中での勝ち組として享受してきたのであり、それは何より「世界の工場」としての成功によるものでしょう。そこには低賃金労働を武器としたという問題はあるとはいえ、ともかくも実体経済の成長によって豊かさをもたらしたという意味では積極性を持っています。しかし今日の中国経済はそれに止まらず「金融化によって形成された新しい特権的支配層」の一員となって現代資本主義の最先端の矛盾を担っています。

 「改革開放」以降、中国は積極的な外資導入によって経済成長を実現してきました。その際に外資を呼び込むために税制の優遇を行ないました。ところがそれを利用するために、欧米の銀行家・会計士・投資家たちの指南によって中国企業がタックスヘイブンに進出しました。「パナマ文書は、中国(香港、台湾)企業のオフショア進出が抜きんでて多い事実を明らかにし」ました(104ページ)。以下のような状況です。

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中国企業によるバージン、ケイマンなどの守秘法域への投資は、国有企業が多いと言われる。国有企業が海外企業としてこの地域で登記し、「ケイマン企業」「バミューダ企業」として、中国国内に投資し、中国では「外資系企業」として優遇策を受けて、経営コストの「削減」を合法的に行う。これが、大手国有企業のケイマンへの直接投資が多い要因となっていると考えられる。その投資額は、中国の対内直接投資額の2030%に達すると見られる。外国籍を得た中国系企業の本国・中国への投資は、ラウンド・トリッピング(Round Tripping)と呼ばれている。           106ページ

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 ラウンド・トリッピングは中国と世界の経済に次のような深刻な問題をもたらします。

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中国企業は、タックスヘイブンでつくられた会社によって「外資」となって、そこで得た資金を中国へ投資する。工場ばかりでなく不動産やインフラ建設、そして株式に投資する。その規模は巨大であり、値下がりすると見れば直ちに引き揚げる。中国の不動産や株式の相場が短期間で急騰しバブル現象をもたらし、たちまちにしてその崩壊をもたらす。ニューヨーク、ロンドン金融市場からも、オフショア・タックスヘイブン経由の資本が持ち込まれ、環境を無視した膨大な過剰生産設備が建設され、放置される。過剰生産が叫ばれても、持ち込まれるマネー圧力の下で新規設備が建設される。世界の株式市場の不安要因をもたらし、景気の不安定性を引き起こしている。      105ページ

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 先に大場論文で中国鉄鋼業などの過剰生産の原因がいくつか挙げられていましたが、その他に山脇氏のこの指摘がかなり重要であると思われます。先述のように「経済の金融化の広がりは、米国の生産性劣化の主要因とされている」のと比べれば、中国のラウンド・トリッピングはまだ実体経済の拡大に貢献してはいます。しかし金融が実体経済を助けるというよりも、実体経済が金融に振り回されている状態であり、その上、マネーゲーム・バブル現象を生じさせ、新自由主義グローバリゼーションの弊害が如実に表れています。

 さらには「巨大な中国経済のグローバル発展の過程でのオフショア・タックスヘイブンの守秘法域は拡大の一途であ」り「ニューヨーク・ロンドンの国際金融センターの地下茎を通ずる米中、英中の金融結合の構築――新たな大国間関係の追求」(107ページ)が目指されています。パナマ文書に中国最高指導部の多くの親族が登場するように、もはや中国の支配層は、金融化した新自由主義グローバリゼーションを推進する米英支配層と共通の利害関係を結んでいると言わざるを得ません。もちろん政治や経済のその他の様々な要素を考慮する必要はあるでしょうが、このような根本的問題において中国経済は「社会主義への道」からの逸脱の危険性を抱えているということを深刻に受け止める必要があります。

 そうした中国経済・支配層の問題点が直接に政治外交上の覇権主義に結びついているとは言えないかもしれませんが、統治姿勢に負の影響を与えることは確実です。グローバル資本と超富裕層の行動様式が税収の空洞化によって福祉切り捨て・大衆課税等の緊縮政策の強化をもたらしています。各国はその下で政治と経済をめぐる覇権争いを展開しています。このように人民不在の新自由主義グローバリゼーションを前提にする限り、人民の生活と労働の改善を第一に掲げる社会主義の理念と隔絶することは当然であり、そのような「国家的利害」のための覇権主義的行動が生じる可能性があります。中国では、そうした統治姿勢の大枠の中で、人民の反発によって専制政治が崩壊するのを避けるための配慮は行なわれていますが、それが社会主義の理念に本当に立ち返る方向になっているようには見えません。中国の政治に覇権主義が生じている今、経済的土台の変質を検討することが必要です。

 あれこれの論点に立ち寄る散漫な記述になってしまいました。結局一番問題だと思ったのは、山脇論文に教えられたことで、新自由主義グローバリゼーションにおける金融化されたグローバル資本と同様の立場に、中国経済と支配層が組み込まれているという状況です。単にグローバリゼーションでの「世界の工場」や「巨大市場」として成功したというにとどまらず、金融的術策の世界でも主体的に行動していることは重大問題です。世界ではグローバリゼーションの被害者が声を上げ始めています。社会主義勢力は彼らとともに行動し、彼らが右派ポピュリズムに絡み取られないように、明確なオルタナティヴを指し示して前進しなければなりません。今のままでは、中国経済の上層、政治的実権を握る支配層はそこに敵対者として現れるかもしれません。社会進歩を進める側に立つのか否か。人類史の視点という意味から言っても、中国経済の本質を捉えることは重要課題なのです。

 

          日本政治の対立軸

           そこでの資本主義・新自由主義・ポピュリズム

 「朝日」の多くの論説などを読んでいると、ポピュリズムに反対して人権・民主主義を守る主張が展開されています。もちろんそれは結構なのですが、その前提は「社会保障と税の一体改革」であり、消費税率の切り上げを認めることです。その心は……格差と貧困が拡大し社会的閉塞感が蔓延しているという眼前の状況を根本的に変えることは無理なので、「痛み」に耐え負担増を受容する以外にない。民主的秩序を維持した漸進的改革しかない。政治は感情でなく理性によらなければならない。状況が一挙に好転するがごとき幻想を持たせるポピュリストの言説にだまされてはならない。左右のポピュリズムはともに同様な敵である。……

 小泉改革に代表される自民党政権の新自由主義路線に有権者が反発し、「生活が第一」のスローガンを支持して、2009年に誕生させたのが民主党政権でした。しかしそれは結局「社会保障と税の一体改革」=消費増税路線を採用し、沖縄の米軍基地問題などでの迷走もあって、深い幻滅の中で政権崩壊に至りました。消極的ではあっても自民党への反射的支持という形で、有権者のトラウマは今もなお続き、政治反動の温床となっています。民主党政権に発した「社会保障と税の一体改革」は後継の民進党はもちろん、事実上、自公政権にも引き継がれており、支配層の共通政策と言えます。ここには共産党を除く与野党の一致があります。当然、マスコミにとってもそれは共通の理解であり、それに反するものは左右を問わず無責任な幻想を振りまくポピュリストであり、社会の混乱を防ぐために批判しなければなりません。「読売」のような安倍政権べったりの反動メディアだけでなく、「朝日」のようなもう少し気の利いたメディアや「良心的」知識人の多くもその点では同様です。体制内リベラルの限界がここにあります。

 日々の生活に追われる人々は体制内リベラルの辛気臭い説教など聞きたくないのです。人権や民主主義を尊重するなどというタテマエより、手っ取り早く敵を見つけて攻撃する右派ポピュリストの啖呵の方が気持ちいいのです。このようにして、人々の生活感覚に寄り添わない体制内リベラルはポピュリズムの温床を提供しています。もちろん彼らはそのことを知っているので、人々を理解しようとか、言葉に注意しようとか言いますが、たとえば消費税を上げるという政策を奉じている限りアウトです。庶民増税を排し、新自由主義グローバリゼーションの支配層に打撃を与える政策を持つ、つまり現状を根本的に変える方針を持ってそれを誰にもわかりやすく説明しない限り、右派ポピュリストを克服することはできません。

 保守VS革新の政治的対決点の基本はそのようなものです。これは長年続いた「共産党を除く」体制であり、今も潜在的基調としては変わりません。しかし少なくとも表向きその体制は打破されました。それは一つには共産党が選挙勝利を重ねたためですが、もう一つは安倍政権という極めて異常な政権が誕生したためです。通常の保守ではなく、反動右翼の性格を持ち、憲法を無視して議会制民主主義を破壊し、強権的に新自由主義と対米従属戦争国家路線を貫徹してきました。これは米日支配層と部分的に矛盾するところがありながらも、全体としては、従来の保守政権が為し得なかった「改革」を断行したとして支配層から評価されています。

しかし保守層の中からも、このように異常な政権から立憲主義と「平和国家」を守るべきだという良心の声が上がるようになりました。たとえ安保政策や経済政策の基本が違っていても、立憲主義回復・戦争法廃止の一点で共産党とも協力すべきだという姿勢です。通常なら基本政策の隔たりが大きければ、政権構想はもちろんのこと、選挙協力も無理です。しかし今は通常ではなく異常事態なのです。安倍政権は平和と民主主義を徹底的に破壊してしまうので、他のことは措いてもこれを打倒するのが最優先課題です。大きなマイナスをせめてゼロまで戻そうという状況です。ゼロというのは通常の保守政権のレベルということですが、それでもマイナスからゼロへという移動はプラス方向への移動だという点に意義があります。そのまま勢いをつければプラスにも行けます。もちろん安倍政権とは違って、だまし討ちではなく、共闘の経験に基づいた合意の上での移動の可能性を言っているのです。

立憲主義回復・戦争法廃止の一点共闘がもともとの安倍政権打倒運動の性格ですが、それだけでは選挙に勝てないことが明確になってきました。経済・社会保障・原発等々での一致点の拡大で「大義の旗」を分かりやすく打ち立てることが選挙勝利のカギです。その点で市民運動が持ち込んだ「個人の尊厳」に基づく政策という観点が重要です。これは自由権・社会権の様々な領域に適用可能であり、一致点の拡大に資するものです。日本共産党第27回大会には党史上初めて3野党1会派の代表があいさつするという画期的出来事がありました。今、野党各党は共通政策の作成に臨んでいます。もちろん様々な妨害もありますが、それを打ち破ってここで分かりやすい「大義の旗」を打ち立てることができるかどうかが今後の成否を握ります。

 情勢について分かりきったようなことを述べてきましたが、あえて独自に言えば、これは例外的状況であり、革新勢力はこれを活かせるかが問われます。安倍政権の登場は未曾有のピンチであるとともにチャンスでもあります。これほど暴走的な右翼反動政権は前代未聞であり日本政治の最大の危機ですが、それだけに反発も非常に大きく、良心的な保守層も共通の危機感をもって、基本政策の違う共産党とも共闘しうる、となったのはまさに例外的チャンスです。保守と革新という政策の本来の対立軸の基本を超え、立憲VS非立憲という新たな対立軸が出てきたというのは、元来あり得なかった非立憲という立場が登場してきたからです。しかも非立憲の安倍政権与党(自公)が圧倒的議席を占めるという異常事態を支えるのは小選挙区制です。安倍政権という非立憲の独裁権力と小選挙区制という民意圧殺の選挙制度、この二つの反民主主義機構の下で、まともな民主主義を最低限にでも復活させるには立憲野党の共闘しかない、というのが現状であり極めて例外的状況なのです。その底には従来からの保革対立が依然として伏在しているのですが、今現在の対立軸の最前線は立憲VS非立憲にあります。この状況が解消すれば保革対立が再浮上することはあり得ます。

安倍政権との闘いの結果としては3つの可能性があります。……(1)安倍政権ないし亜流政権が続きファッショ化が進む、(2)安倍政権が打倒され、通常の保守政権(自民党・民進党など)に戻る、(3)安倍政権が打倒され、保守と革新の連立政権が生まれる……このうち、(2)の場合、立憲主義回復・戦争法廃止の課題が果たされる可能性は大きくはなく、安倍政権ほどのファッショ性はない、という程度にとどまるかもしれません。(3)の場合には当面、経済政策・社会保障政策の変更による生活課題への取り組みが進む可能性があります。政権安定にはそれが不可欠であり、一点共闘から政策の一致点の拡大と前進的方向への進化(深化)が追求されねばなりません。たとえば消費税をめぐる見解の相違は厳しい問題ですが、世論との対話の中で増税阻止の一致点を形成することが重要です。この問題での安倍政権の対応はきわめて欺瞞的でありながらも、二度にもわたる増税延期を決断して選挙勝利を導いていることは教訓的です。

 ここでまた初めのポピュリズムと体制内リベラルの問題に戻ります。人権・民主主義の擁護という点では、リスペクトを持って体制内リベラルと共闘しなければなりません。しかし先に説明したように、それがポピュリズムの温床となることは理解し、対話を通して新自由主義的現状の根本的変革への共通理解を深める努力は必要です。

新自由主義は歯止めを失った資本の専制であり、生存の自由を始めとする個人の尊厳を破壊し、格差と貧困を増大させ、社会的閉塞感を蔓延させます。そうした社会的病理の原因としての新自由主義が認識されていないところでは、人権や民主主義が八つ当たりされ、ポピュリズムが生まれ、極北にはテロが生じます。したがって結果としてのポピュリズムやテロへの批判が、原因である新自由主義への批判を伴っていなければ偽善に終わります。

最近興味深いのは、資本主義を擁護する人々の間でも「資本主義と民主主義の相克」が言われ、民主主義が資本主義をコントロールできないという嘆きが聞かれることです。これを科学的社会主義の立場からどう捉えるべきでしょうか。

人権・民主主義は、前近代の共同体が解体して市場経済によって個人が独立し、法的・政治的に自由・平等が実現する中で確立してきました。人権・民主主義は市場経済を経済的土台としています。しかしそれはその土台に止まらぬ普遍的意義を持って未来にわたって人類が努力して保持し続けるべきものです。

資本主義経済は、市場経済という土台の上に資本=賃労働関係という搾取関係が展開しています。前近代の搾取関係は誰の目にも明白ですが、近代資本主義の搾取関係は市場経済というベールに覆われて隠れています。近代人は資本家も労働者も独立した自由平等な人格として相対しているように見えます。しかしそれは流通過程(市場)での等価交換において成立しているだけで、生産過程では資本の専制支配の下で搾取が成立しています(もっとも、資本主義が成立した以上、市場は単純商品市場ではなく、労働力市場や金融市場など資本主義的搾取を前提とした流通の場となるし、生産物も商品資本として流通します)。したがって「資本主義と民主主義の相克」というのは何も新自由主義的状況にだけあるのではなく、資本主義経済が原理的に抱えているものです。新自由主義は歯止めを失った資本の専制であるので、資本の原理が裸のまま現れているのです。

生産過程での資本の専制による搾取こそが資本主義社会の根本原理であり、この社会における様々な支配・従属関係の根はここにあります。資本の専制支配は規制が加えられない限り、労働者の生存の自由を奪います。規制は労働者・人民の闘いによって勝ち取るものですが、その法的・政治的根拠となるのは人権・民主主義です。近代化の過程の市場経済が生んだ人権・民主主義が資本主義的搾取を規制します。資本主義経済である限り両者の拮抗が常に存在します。人類史的展望においては、資本主義的搾取制度やその実現の場としての市場を止揚する必要性があります。しかし当面する資本主義の枠内での改革では、人々が「資本主義と民主主義の相克」と感じる現象において、人権・民主主義によって資本主義的搾取を規制するという本質を追求することになります。

新自由主義グローバリゼーション段階においては両者の相克が、資本主義的搾取優位の下で展開され、生活と労働を守れない人権・民主主義に対するニヒリズムが生じます。ここにポピュリズムの付け込む土壌が形成されます。人権・民主主義は自生的な社会形成の原理として機能してきて、それを支配体制も所与の秩序として利用してきました。ところが新自由主義下の搾取強化の中でそれが毀損され、既成の秩序が崩壊し始めたのが、一方では体制の危機として、他方では人民の生活・労働の危機として現れています。支配層の一部にはこれをファッショ的に乗り切ろうとする動きがあり、体制内リベラルのように人権・民主主義を弥縫的に維持することで体制的秩序を継続しようとする傾向もあります。ポピュリズムは前者に加担する、ないしは前者から利用される立場にあると言えましょう。<安倍+橋下>はこの流れとして理解できます。

先述した日本政治における例外的状況はこの流れが作り出したものだと言えます。したがって安倍政権打倒の野党共闘の意義はこの流れの阻止です。これは当面する危機対処としての待ったなしの課題です。その先に新自由主義グローバリゼーションを克服するという根本的課題があります。ポピュリズムの克服はそのサブテーマです。その段階では、たとえば消費税増税の問題などで体制内リベラルの人々と議論をしていくことになります。

 

          野党共闘の状況の直視

 中北浩爾氏は野党共闘の状況を厳しく見つめています(「野党共闘、問われる本気度」、「朝日」126日付)。中北氏の立場は「共産党が過度に反米的で反大企業的な綱領の改訂を含む大胆な路線転換に踏み切らない限り、民進党との政権合意は不可能だ」という体のモノだから、まったくの体制派で政治変革へは無理解だと言ってもいいです。また野党共闘に期待すると言ってもその意味は「この問題が重要なのは、1994年の政治改革が衆議院の小選挙区制の導入を通じて目指した『政権交代ある民主主義』が、日本で定着するか否かに関わるからである」ということだから、これもひどい的外れです。小選挙区制こそ民主主義の敵ではなかろうか。そのようなピンボケした保守的立場からの観察ではあるものの、現状の分析としては聞くべきところがあり、野党共闘をただ呪文のように唱えている向きには頂門の一針と言えるでしょう。

 中北氏は「仮に野党共闘ができたとしても大きな限界があ」り「自民・公明と民進・共産の間には、著しい非対称性が存在している」と指摘しています。非対称性の一つは、協力関係の深さの違いであり、もう一つは固定票の大きさの違いです。後者については以下のとおりです。

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 自民党は下野した09年の総選挙の比例代表でも、1881万票を獲得している。それに対して民進党の前身の民主党は、政権を失った12年の総選挙の比例代表で、963万票にとどまった。投票率の違いなども影響しているが、2倍近い票差が存在する。

 こうした地力の差は、地方議会の構成に端的に表れている。例えば都道府県議会で、自民党は50%前後の議席率を安定的に確保しているが、民主党・民進党は15%程度に過ぎない。個人後援会を通じて地域の人的ネットワークを組織化し、数多くの友好団体を擁する自民党の支持基盤は、依然として分厚い。

 集票力の違いは、公明・共産両党の間にも存在する。最近の国政選挙をみると、公明党が比例代表で共産党のおよそ1・5倍の票を獲得している。また、公明党の方が得票数の変動幅が小さく、票の固さでも優位に立つ。

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 こうした与野党の実力差を冷静に見つめる必要があります。もちろんこれを固定的に見る必要はありません。新潟県知事選で民進党抜きでも野党共闘が勝ったのは、何よりも原発再稼働反対という「大義の旗」の確かさによって、無党派層さらには保守層・自民党支持層にまで浸透できたからです。野党共闘は現状で実力的にかなり劣勢であるという現実を直視し、それをカバーする政策アピール力と本気の共闘を確立することがきわめて重要なのです。

 

          断想メモ

 格差と貧困の現実を前にしても、それを覆い隠さんと安倍首相のアベノミクス自慢はとどまるところを知りません。統計の恣意的利用の一端を見ましょう。

 2009年より2014年の相対的貧困率が減って、アベノミクスが効果を発揮したかのようなことを安倍氏は言っているのですが、「しんぶん赤旗」12931日付が本質的批判をしています。可処分所得下位10%の金額が09年では134.7万円から14年では132.3万円に下がりました。貧困線は同時期に135.2万円から131.7万円に下がっています。その結果、可処分所得下位10%の金額を見ると、高い方の09年が貧困層に入っているのに、低い方の14年は貧困層から抜けています。それで14年の方が相対的貧困率が下がっているのです。

中間層が貧困化すると、可処分所得の中央値が下がり、それに連動して中央値の半額である貧困線も下がるために、従来貧困層であった所得額がそこからはずれてしまい、結果として、相対的貧困率が下がるのです。それが下がっているからといって必ずしも貧困化が緩和されたとは言えないのです。

一般論を言えば、統計には絶対値と比率値があり、それぞれに有用です。比率値を基に現実経済を考える際、場合によっては、比率を導く分母と分子がそれぞれどうなっているかに注意する必要があります。
                                 2017年1月31日




2017年3月号

          平和・幸福追求と人権・憲法

堀尾輝久氏は「日本国憲法は、憲法の理念を世界に広げるということを国民の使命だとしているわけですから、それこそが本来の『積極的平和主義』の立場です」として、安倍首相のように平和のためには戦争の準備をする≠フを「積極的平和主義」と称するゴマカシを批判しています(「いま憲法について考える」67ページ)。これについてかつて拙文では以下のように書いていました(『経済』20161月号の感想、20151231)。

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「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という日本国憲法前文の一節ほど保守反動勢力から嘲笑される言葉はないのですが、節穴の目には見えないものがそこにはあります。確かに「平和を愛する諸国民の公正と信義」に反する「現実」はいくらでもあります(本来「諸国民」は平和を愛するが、「国家」がそうとは限らず、後者が前者を戦争に扇動することはよくある)。だがそのような「現実」に留まるのを潔しとせず、覇権主義に対して覇権主義で応じるのではなく、理想の実現のために国際関係の普遍的原則に沿って粘り強く話し合い外交努力し、新たな世界の現実を作り出す、それがあの一節の精神であり、真の積極的平和主義に連なる指針であり、長い目で見た現実主義でもあろうと思います。軍事的に「勇ましい」言動は「現実」に即しているように見えながら、何の展望もなく破壊の道でしかない最悪の非現実主義でしょう。

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上記引用の一節の後で憲法前文は、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」ことを指摘し、全世界の人々が平和的生存権を有することを確認しています。さらには「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とし、そうした普遍的な政治道徳の法則に従うことは「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」と宣言しています。ここには自国の主権維持と他国との対等関係、そこから必然的に生じる国際社会の中での平和努力といったものの間に何の矛盾もありません。憲法に対する「一国平和主義」という揶揄がまったく根拠のない言いがかりであることは明らかです。ひとたび憲法の観点を喪失するとどうなるか。対米従属の日米軍事同盟を絶対化し、そこからの「国際貢献」しか思い浮かばない立場から見える「世界」の中に、真の積極的平和主義に立つ対等平等の国際主義の姿がまったくないのは当然です。対米従属下に仮想敵国を持って軍事同盟を結んでいるという姿勢のままでは、すべての国と対等平等の親善外交を展開し、様々な見解や利害の違いなどによる紛争は話し合いによって解決する、という平和な関係を築くことを第一とすることは思いもよりません。それが空想的理想主義にしか見えないのは、前提が間違っているからです。その姿勢においては、自国のみならず軍事大国の武力の「抑止力」に頼った「平和」だけが唯一の現実的基盤なのですが、それは真の平和ではありません。

 堀尾氏は、戦争状態こそ「生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆された状態」であり、戦争ができる状態を準備するために安倍政権が強行した戦争法は、まさに国家が個人の幸福追求権を奪うものだ、と指摘しています。

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「国民の生命、自由及び幸福追求の権利の侵害の危険」を国家が判断し、その判断を「国家の存立危機」として権力的に国民に押し付けることは、実は、個人の幸福追求の権利、言論・思想の自由を奪い、学問と教育の自由を侵すことになります。さらに子ども達の未来を創り出す権利(未来世代の権利)を奪うことになっていきます。幸福追求の権利は個人の尊重と不可分な人格権であり、国家が関与すべきではないというのが憲法13条の法理です。「国家の存立危機」を安保法の根拠とすることがすでに憲法違反です。

       69ページ

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 ここでは憲法13条が国家との緊張関係に立つ自由権として問題にされ、その立場から憲法13条への国家の関与を否定し、その論理の適用として戦争法が憲法違反と主張されています。確かに戦争こそ幸福追求の権利を侵害する最大のものであり、国家が発動するものでもあるので、ここで自由権の論理を提出するのは理解できます。

ただし憲法13条をもっぱら自由権としてのみ扱うことは適切ではないと考えます。個人の尊重や幸福追求権は近代社会の成立とともに自由権として確立してきました。しかしその近代社会が資本主義社会でもあり、搾取の自由の下で貧困を発生させるという状況に対応して、生存権を中心とする社会権が発生しました。現代では個人の尊重や幸福追求権は社会権を抜きには考えられません。日本国憲法でいえば、13条は25条とセットにして人格権として捉えられます。両者を切り離せば、13条を新自由主義的・自己責任論的に解釈することも可能です。しかしそれは人権概念の近代から現代への発展を無視するものであり、現代においては資本への民主的規制なしには(したがって新自由主義と自己責任論の排除なしには)人権の総体的実現はできません。こうして、個人の尊重や幸福追求権は一方では国家からの自由を前提しますが、他方では国家の義務に基づく関与を必要ともすると考えられます(さらに言えば、資本主義は搾取の自由を含むので、そこでは自由権と社会権とが調和的に全面的に実現することはできずに矛盾を抱えます。この矛盾は資本主義から社会主義への社会進歩の原動力となります。なぜならこの矛盾の止揚は資本主義的搾取の克服によらなければならないからです。……そのような原理論を言うことは当面の実現性が乏しく、したがって虚しい議論だという向きがあるかもしれません。しかし眼前の現実資本主義に埋没しないでその本質を捉えるためにはそうした視点が必要です)。

したがって戦争法の違憲性は以下のように考えらえます。もちろん9条違反であることの指摘に始まり、戦争法における13条の幸福追求権の悪用を批判し、むしろ戦争準備こそが13条への最大の侵害になるときり返します。13条の扱いとしては、国家の関与全般を否定したものではなく、個人の幸福追求の権利への国家の圧迫や干渉を排しつつ、その経済的社会的関与の必要性を合わせて主張していくことが必要です。

 

          生活を変える闘いと政策を

 新自由主義グローバリゼーションが国民国家の民主主義=国民主権を圧殺する動き(資本主義と民主主義の矛盾)を、都留民子氏は批判しています。その見地から、ギリシャの左派政権が進める構造改革・緊縮財政政策を民意への裏切りとして糾弾し、「イギリスのEU離脱(Brexit)は、国家主権・国民主権を守り、自国の社会制度の防衛という意味において、快挙である」(「現在のフランスと人民戦線の経験 グローバル経済と二つの道」103ページ)と評価しています。フランス社会党のオランド政権については社会新自由主義政府とこき下ろし、「もはや左派とは到底みなせない政策」(104ページ)の数々を批判しています。

 フランスは構造改革・労働法改悪・緊縮財政政策に留まらず、シリアを空爆し、その効果を持ってサウジアラビアを始め周辺国に戦闘機を売りさばくなど、確かに許し難い体たらくになっており、糾弾に値します。ただしイギリスのEU離脱については諸説あります。たとえばドイツの論壇ではそれをめぐってEUへの評価の違いによる論争があります(『世界』20169月号所収の諸論稿で論争紹介、シュトレークへのインタビューは「朝日」20161122日付、ハーバーマスの見解についての三島憲一氏の解説は『世界』20173月号所収)。ヴォルフガング・シュトレークは新自由主義グローバリゼーションが今日の経済危機をもたらしたことを分析してEUを批判し、国民国家への復帰の構想を提案しています。それに対して、ユルゲン・ハーバーマスはその分析にはおおむね同意しながらも、その構想についてはノスタルジーと切って捨て、EUの政治統合の強化による規制強化という方向を打ち出しています。このように、新自由主義グローバリゼーション下における資本主義と民主主義との矛盾をどう克服するかについて、社会民主主義者(あるいは左派全体)の間で意見が分かれています。都留氏の見解はシュトレークに近いように思われますが、それでグローバリゼーションに対抗できるのかという批判は残ります。

 都留氏は「グローバル経済のなかでの政策選択肢は、労働時間など労働規制の緩和・緊縮財政政策だけではない。もう一つの選択肢、すなわち国家が自国民を保護するという国民主権・民主主義国としての積極的財政政策である」(104ページ)として、リーマンショック後のアイスランドの政策対応を例に挙げています。そのような政策がグローバリゼーション下で一般的に成立し得るのか、というのがおそらく批判派の論点であろうと思います。私はもちろんとてもそれには答え得ませんが、少なくとも次のことは言えます。諸国人民がそのような政策要求を持って立ち上がることなしには、「新自由主義グローバリゼーションによる人民の生存権と民主主義とに対する破壊活動があたかも自然現象のように貫徹すること」に反撃できません。グローバル資本への規制をどう実現するかは大問題ですが、それ以前に、諦めずに人民の諸要求を掲げてその実現を追求する運動をつくっていくことが必要です。

幸か不幸か日本の場合、欧州と違って、移民問題が大きいわけではないし、東北アジア(あるいは東北+東南の東アジア全体)でEUのような政治・経済統合が具体的な問題となっているわけではありません。これは課題が未だ低段階に留まっているということですが、さしあたっては日本自身の国民経済と国家主権・民主主義を新自由主義グローバリゼーションとの対抗関係の中でどう展開していくかが問題です。そこでは新自由主義と保守反動右翼との野合の性格を持った安倍政権が少なくとも表面的には強大で、対米従属下で政治反動を伴いながらグローバル資本の支配を貫徹して人民の生活と労働を圧迫しています。当然それへの反発も大きくなっており、政権の主要な諸政策は支持されていません。しかし政権そのものへの信認は消極的な形ではあるけれども、依然として世論の多数を制しており、倒閣の意思はいまだ少数派にとどまっています。その打開には、政党・政治次元での野党共闘の深化は言うまでもありませんが、そうした「上からの道」だけでなく、「下からの道」としての生活と労働に根ざした要求運動の活性化により、世論を変えていくことが必要です。潜在的要求の発掘・運動化・組織化・実現に挑戦することです。不満と閉塞感が蔓延しながらも、諦めと忍耐の下でくすぶっている民意を揺り動かしていくことです。民意を右派ポピュリストに奪われる前に私たちがそうしなければなりません。

 そこで参考にすべきものが、都留氏が紹介している80年前のフランス人民戦線政府の経験です。「下からの道」が政府を握ることによって、「上からの道」をも駆使して人々の生活を変え政治を変えていきました。短命でわずか「1000日の政府といわれる」(111ページ)のですが、労働時間規制やバカンスなどを通して戦後から今日にまでわたって深い影響を与えました。中でも驚嘆するは、新設の余暇・スポーツ担当庁の長(閣外大臣)となった「自由時間の職人」(107ページ)レオ・ラグランジュの思想と実績です。彼は1936610日のラジオ放送で次のように就任の決意を表明しました。

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余暇のなかにこそ、労働者・農民そして失業者が生きる喜びや、自らの尊厳の意味を発見することを希望している。…40時間労働制と、社会の組織化は、余暇政策に帰結するのは必然である。…労働者を厳しい労働から解放し、労働の報酬としての余暇を組織化することである。…若い大臣(である自分)は、非常な熱意をもって…任務を果たしていく。物質的要求を満足させるだけでなく、幸せの意味を再発見させたい。   107ページ

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 労働者にとっては何より賃上げや労働条件改善などの経済的要求が第一でしょうが、それだけでなく、余暇による生活の充実などを通じた「幸せの意味の再発見」が必要だというのでしょう。ラグランジュはスポーツ・バカンス旅行・文化活動などをブルジョアの占有から解放し、労働者が享受できるよう多くの細かな政策を実施し「大多数のフランス人の生活を変えることに貢献」(107ページ)しました(詳細は108111ページ)。それは一方では余暇の産業化(市場化)に抗し、他方では余暇の国家管理化(全体主義化)を許さない余暇の民主化であり、余暇での活動は労働者の自主・自治そして集団的利益を育む「人民教育」の一環とされました(110ページ)。この変革方針は、新自由主義と保守反動右翼との野合政権が支配する今日の日本にも通じるものがあります。当時におけるその偉大な意義と、今日の特に日本に対する重要な教訓について都留氏は以下のように結論づけています。

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人民戦線時代は、労働者たちは政治・労働・社会生活のアクターとなっていった。人民戦線政府は、労働者たちに職場での自由、そして労働から解放された自由の意義を発見させていった。「メトロ(地下鉄=通勤)・ブロ(仕事)・ドド(睡眠)」と揶揄されていた労働者たちの生活に、肉体と精神の再生を可能にする手段を与えて「大きな希望」をもたらしたのである。余暇政策が、大恐慌後の経済的・社会的・政治的な危機のなかで着手されたことに驚きを隠せないが、いや、そうした危機のなかにおいてこそ、国家・政府がなすべき役割を示してくれている。

…中略…

現在の新自由主義グローバリゼーション、そして戦争政策が勤労者にもたらすものは、労働にすべてが絡み取られて疲弊・貧困化する人生、そして生命の危機である。それと対抗するためには労働者や国民の側からの国家政策プログラムの作成と、その国民への提示が必要であり、それはフランス・EU諸国にとどまらず、むしろ、労働に生きがいを見出させてきた日本においてこそ急務な課題である。      111ページ

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 何のために社会を変え政治を変えるのか。もちろんあまりにひどい暴走を続ける安倍政権を打倒することなしには生活も民主主義も守れない異常事態になっている、というのが直接の最大の理由です。しかしただ追い詰められた状況からの反撃というだけでは、多くの人々の諦め萎えた気持ちを立て直すことはできません。悪政に対抗するスタンスとして「労働にすべてが絡み取られて疲弊・貧困化する人生、そして生命の危機」という現状を超える積極的イメージを持つことが不可欠です。ファシズムと戦争の時代に明るい余暇政策を打ち出した先例に倣って、新自由主義グローバリゼーションの時代にもそれを超える生活が輝く政策を掲げることが必要です。

 余談ながら、切羽詰まった気持ちで活動していると、余暇なるものを顧みることがなくなり、精神が貧困化し、活動そのものもうまくいかないものです。「しんぶん赤旗」2013828日付によれば、名古屋市北区の「くらし支える相談センター」の松岡洋文所長は絵画サークルや平和美術展、合唱団など文化活動にも熱心です。松岡氏は「壁にぶつかったときに必要なのは想像力。いろんな分野に手を広げることで心に『ひだ』ができ、展望が見えてきます」と述べています。「先人たちが築いた運動の知恵と力を結集すれば、かなりのことが解決できるはず」というその謙虚で前向きな姿勢もそうした余裕から出てくるものでしょうか。

 

          安倍政権暴走下の惨状の克服のために

 マッチポンプというのは支配政策の常套手段と言えますが、安倍政権はその利用において突出しています。それは、前例を超える悪政ばかりを連発することで、それが「普通」「日常」「当たり前」になり、人々はそこに逼塞(ひっそく)して、そこに少しでもましなことがあったり、実際にそれがなくてもそれらしい甘言が用意されるだけでもすがりつきたくなります。「1億総活躍社会」「女性が輝く社会」「働き方改革」「同一労働同一賃金」等々、確かに問題になっている事柄に焦点を当ててそれらしいスローガンを並べていますが、実際のところ実効性がないか逆に現状を改悪するものばかりです。そこで批判派はひたすら反対を繰り返すことになり、ただでさえ疲れている人々の目はうんざりしたものになります。そこで、反対論ばかりでなく積極的な社会像を打ち出していくべきだ、という声がよく聞かれるようになりました。20161022日の全国革新懇シンポジウムでの中野晃一氏と石川康宏氏の発言を紹介します(全国革新懇「市民と野党の共闘の発展をめざす懇談会 記録集」より)。

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 どうしてもわれわれはいろいろと反対をしている。それは反対しなきゃいけないことがいっぱいあるから。次から次へと、うんざりするぐらいとんでもないことがやってきますから、気が付くと反対を次から次へやっているわけですね。残念なことに、向こうが攻めに出ていて、こっちは何でも反対している人間だと。

 政治の関心を持っていない人からすると、安倍さんが何かやろうとしていると。彼はずいぶん頑張ってるみたいだけれども、いつも機嫌悪く反対している連中がいるんだと思われたら損じゃないですか。逆にこっちが未来をつくろうとしているんだと、その邪魔をしているのは、あのとんでもない復古的な連中なんだということを、逆にこっちから仕掛けていく必要があると思うんです。        中野氏   13ページ

 

 それから、未来を切り開くポジティブな構え、ポジティブな訴えが大切なんだということも大事な点だと思いました。敷布団世代には、今ある政治にはこういう問題があるというネガティブなところから話を展開する習性がありますが、そうではなく、私たちが本来目指したい社会はこういうものじゃないでしょうか、もう少しこうあったらすごしやすいですよねというポジティブな提起を先に打ち出して、そこから考えるといまの政治にはこういう課題があるんじゃないでしょうか、さて、皆さん一緒に乗り越えていきましょうよ、というふうに、そういう論の立て方に努力することもひとつの方法なのかと思いました。

     石川氏   39ページ

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 ここまで紹介したのに竜頭蛇尾になって恐縮ですが、安倍政権のマッチポンプの一例を挙げます。新自由主義政策下、格差と貧困の蔓延で内需不足となり庶民にとっては一向に景気回復せず、アベノミクスの破綻は明瞭です。ところが安倍首相はそれを認めたくないものだから、有効求人倍率が上昇しているのをアベノミクスの成功例としていつも示しています。

 厚生労働省「一般職業紹介状況」によれば、非正規雇用の多い産業で求人が増加しており、同時に求人数が増加している産業は低賃金が蔓延しています。つまり有効求人倍率の上昇といっても、決して経済の好循環が生まれているわけではなく、「その内実は、低賃金、非正規雇用の産業で求人が増えた結果です。雇用の劣化を示しています」(「しんぶん赤旗」223日付)。要するに労働条件の悪い産業が求人に苦労している、というだけのことで、労働者にとって雇用環境が改善されたわけではありません。にもかかわらず、雇用の劣化を所与の条件と考えてしまえば、求人があるだけでもまだまし、となりかねません。これが安倍悪政下の意識状況であり、社会意識そのものの劣化とでも言えましょう。

 この意識を変えるには、雇用の劣化という前提そのものを批判し変える運動をつくる必要があります。212日、エキタス東海の最賃講座とトークイベントに参加しました。以前なら考えられなかった「最賃1500円」を運動のスローガンとして定着させることに成功したこの運動に接して、政権打倒の運動にも新たな可能性を感じました。長くなりますが、企画の主催者宛に送った拙文(213日付)を多少直して引用します。

 

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 昨日の「エキタス東海・最賃講座」の大成功、おめでとうございます。参加費2000円で、朝9時半から夕方6時近くまで、などという企画は、そもそも運動に遠慮があったらやるはずがありません。大胆に敢行して見事に当てましたね。感心しました。

 二つの講座はしっかり勉強になりましたし、トークにも大いに刺激されました。エキタスの運動と最賃1500円のスローガンがなぜ今注目されるようになったのか、正直よく分かっていなかったのですが、後藤道夫さんの講義で1500円の根拠がしっかり説明され、原田仁希さんの話でエキタスの運動の趣旨とその成功のわけが理解できました。

 エキタスは3.11以降の運動のコンセプトと形態の正統な後継者であり、若者を中心とした潜在的な経済要求を探り当て、見事に掘り起こして成功したという点で画期的です。3.11から戦争法反対闘争などに至る情勢の推移を捉えながら、反原発などの市民運動に学び、首都圏青年ユニオンなどの労働運動の経験を踏まえて、きわめて意識的・戦略的に運動を展開できたのだろうと思います。労働運動や政治革新の運動がなかなか成功できない中で、心ある人々に確信を与える重要な成果です。

 政治革新はもちろん、要求を大きくまとめ組織化することさえ難しいという状況が長らく続いてきました。その一つの要因として、日本人が悪政に忍耐強く、困難な中でも日々をやり過ごす術を身につけており、あえて批判の声を上げる労やリスクを取ろうとしない、という傾向を指摘できます。この壁を突破するためには、少なくとも相当に切実な要求を的確にすくい上げることが必要です。エキタスはそれができることを示してくれました。

 誰もが感じたり気づいていたりしながら、それを明確に表現できていないものを集団的無意識と言います。最賃1500円というのはそういう集団的無意識を探り当てて、スローガン化したものでしょう。「保育園落ちた日本死ね」もそういう感じがします。もちろん集団的無意識とは単なる主観ではなく、客観的根拠があって存在し(だから集団的)、後は潜在化したそれが顕在化されるのを待っているのです。これだけ不満と閉塞感に満ちた世の中ですから、いくらでも探り当てられるようにも思います。

 エキタスの若者たちの勇気には大いに敬意を表します。特に藤川里恵さんの動画には驚きました。血を吐くようなスピーチはまさに聞く者の魂を揺さぶり、これぞ今の時代に突き刺さる言葉だと衝撃を受けました。生々しい自己表出とともにある「いろんな人がいていい」「不幸比べ、ガマン大会を終わりにしよう」という言葉は問題の核心をつくものであり、エキタスがバッシング・分断支配を打破し、憲法13条を始めとする人権の闘いの正統な継承者であることを示していました。

 昨日の「朝日」の投書欄に、10代から40代の主にネットを情報源としている人々にとって、ネット右翼の言説こそが「通説」になりつつある、という実感が語られていました。誹謗中傷デマが歪んだ情念と共に押し寄せる時代にあって、理性的認識でありながらも、人々の意志に届く情念を含んだ言葉が求められていると感じます。

 やはり同日付「朝日」の「折々のことば」で、鷲田清一氏は次の言葉を紹介し、解説しています。

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 情念の衝動に対立したり阻止したりできるのは、ただ反対の衝動だけである。

 (デイヴィッド・ヒューム)

     ◇

 政治上の対立はよく理知と感情のそれとして語られる。が、理知は感情に優越するものではないと英国の哲学者は言う。理知は、人の判断は導けても意志そのものを動かすことはできない。意志を動かすのは情念であり、例えば嫌悪や憤りといった激しい情念を憐憫(れんびん)や慈しみという穏やかな情念が凌(しの)ぐとき、それが「精神の強さ」なのだと。「人間本性論」(石川徹ほか訳)から。

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 歪んだ情念に何を対置するかは難しいところですが、「理知は感情に優越するものではなく、意志を動かすのは情念である」ということは銘記すべきでしょう。理知は感情にうまく包まれて始めて広く影響力を持ちえるのでしょう。

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 先に都留論文で紹介したフランス人民戦線政府の余暇政策の先進性と比べれば、最賃1500円とか、非正規労働の正規化は実にささやかな要求です。しかし閉塞状況の中で多くの人々が忍耐を持って逼塞(ひっそく)している状況にアリの一穴を開ける意義は大いにあります。私の所属するホウネット(名古屋北法律事務所の友の会組織)は、学習支援や子ども食堂の活動で「子どもの貧困」へ取り組み、憲法運動でも単に改悪反対ではなく、憲法の実現という視点を打ち出し、「子どもの貧困」対策もその一環として位置づけています。この日本社会で若者たちが切り開いてきたエキタスの運動の到達点に学ぶとともに、都留論文に教えられたフランス人民戦線政府の施策の理念と経験から、社会を生活の深みから変えていくビジョンと長射程の影響力にも学ぶことが大切です。今の生活の惨状に埋没せず、あるべきだし可能でもある生活のあり方をみんなで語っていく姿勢が必要です。そこに人間の発達を保障する社会のイメージが描け、そうして、石川康宏氏の言うように「未来を切り開くポジティブな構え、ポジティブな訴え」から出発して「そこから考えるといまの政治にはこういう課題がある」と考えることができます。

 

トランプ劇場とアベ・パラドクス

 安倍政権の主要政策が支持を失いながら、内閣支持率は高いままだ、という矛盾した状況をアベ・パラドクスと名付けて、その解明のためにあれこれアプローチしてきました。寡聞にしてアベ・パラドクスの総合的解明(ましてや全面的解明)に接したことはないので、微力であっても自分で挑むしかないのです。世上では、一つ二つの原因を指摘して解明したことにしているのが大半ですが、もっと多面的に考える必要性があるはずです。その問題意識は堅持しつつも、さしあたってここではそのまったく部分的アプローチに過ぎないものに取り組みます。

 トランプ大統領が実現して以来、日本のメディアにも彼が登場しない日はないという状況です。トランプ劇場の主役は悪役トランプであり、たとえば特定の外国人の入国制限などの政策が連日批判されています。それ自身は当然であり、人種・宗教などへの差別が批判され、事実に基づかない無責任な発言の数々も批判されて当然です。総じて人権や民主主義に敵対するトランプの姿勢がメディア上では排斥される状況ではあります。しかし日本のメディアでは正当な批判とともに、支配体制維持のための国民的洗脳が展開されていることに注意すべきです。その点で「朝日」も「読売」もNHKその他も差はありません。

 トランプのTPP離脱の政策に対して保護貿易主義批判が当然のごとくに流布しています。TPP問題の本質は保護貿易か自由貿易かということではなく、グローバル資本の利益か国民経済の擁護かという対立軸です。メディアは悪役トランプを非難するのに乗じて、TPPを擁護するのが良識だとして、保護貿易批判の名を借りて、グローバル資本の利益を擁護しているのです。そのような「国民的常識」を作り出していることを看過してはいけません。

 在日米軍費用を日本が全額負担しなければ米軍を引き上げると言明していた点でも、メディアにとってトランプは悪役であり、日本のこれまでの負担がいかに大きいかなどを言いつのっていました。要するに米国に見捨てられる不安を煽って、負担増もやむなしなどをにおわせつつ日米軍事同盟堅持の主張を展開していたのです。

 つまりメディアは、悪役トランプ批判としての人権・民主主義擁護の影で、新自由主義グローバリゼーション・対米従属・軍事大国化を推進する世論を煽り、それを「国民的常識」として、安倍政権支持の基盤形成に貢献していたのです。

 トランプ劇場第一幕はそれでも一応、人権・民主主義擁護の点で見るべき部分はまだありました。ところが安倍訪米を報じた第二幕ではメディアのノーテンキな醜悪さは頂点に達します。これだけ問題の多いトランプに対してまったく無批判に一緒にゴルフに興じた安倍首相に対して「安全保障は百点満点」等々、礼賛に終始しました。「普天間基地については辺野古移設が唯一の解決策」の明記などを含む「日米同盟の強化」をまったく無批判に報道したのです。まさに「NHKを筆頭に、この国のメディアは『日米安保原理主義』に陥っている」(『放送レポート』編集長の岩崎貞明氏、「しんぶん赤旗」223日付)のです。その効果はてきめんであり、日米会談直後のNHK世論調査で、内閣支持率が3ポイント上がって58%になりました(同前)。

 こうして日本メディアにおけるトランプ劇場の結果はこうなります。共同通信社の世論調査21213日実施)によれば、日米首脳会談を「よかった」としたのが70.2%、「よくなかった」が19.5%。一方、入国制限の大統領令については「理解できない」が75.5%、「理解できる」は16.9%です。ひどい矛盾です。とんでもない大統領令を発したトランプとの無批判な対米従属会談が良かったことになってしまうのです(「武田砂鉄のいかがなものか!?」、「しんぶん赤旗」220日付)。メディアの偽善民主主義は「日米安保原理主義」を万全に守る世論誘導に効果抜群だと言えます。

 問題の深刻さは、安倍政権に対する権力監視機能をこのように放棄したメディアの姿勢に批判的世論が形成されていないところにあります。オール沖縄が政権に頑強に抵抗してもそれにふさわしい本土の世論形成がない原因がここにあります。

アベ・パラドクスの原因として、経済政策への幻想がよく挙げられますが、世論上、日米安保原理主義が支配している状況では外交・安全保障問題も重要です。「朝日」21819日実施の世論調査によれば、安倍内閣を支持するのは52%、支持しないのは25%です。支持者に支持する理由を聞くとこうなります(数字は%。該当する回答者の中での比率。小数点以下は四捨五入。〈 〉内の数字は全体に対する比率)。

経済政策27〈14〉

 社会保障12〈6〉

 外交31〈16〉

 安全保障15〈8〉

 原発・エネルギー2〈1〉

 憲法4〈2〉

ちなみに同調査で共謀罪法案への賛成が44%で、反対が25%です。日米安保原理主義の支配下では内外どの問題でも「安心ファシズム」が成立しそうな勢いです。中国・北朝鮮の脅威が煽られる中で、改めて憲法にある「武力によらない平和」の見地の重要さが分かります。拙文の始めに堀尾輝久氏の論稿を検討した際に憲法の積極的平和主義などを活かす方向性を述べました。経済でも平和でも人権・民主主義でも、オルタナティヴを提起することで、惨めな現状に規定された先入見を覆し、本来の未来があることを指し示すことがアベ・パラドクスを克服する道の一つであろうと思います。これではアベ・パラドクスの全容にはとても迫れませんが、社会運動の実践と社会認識の努力の中からアプローチを続けます。
                                 2017年2月28日





2017年4月号

          長時間労働への切り込み

社会科学一般にも言えることでしょうが、特に労働問題では何よりも現実の提起する具体的事例としての諸現象を集め検討し、最後にはそれらを解決する具体的な政策と運動を創出することが目的となります。具体から入って具体に出るわけですが、その間に抽象的理論を介在させることで本質を捉え、政策と運動をより的確なものにすることが必要です。労働問題では、多くの場合、その切実さから性急に結論が求められ、そうした中間項が軽視されがちになるのではないかと懸念します。今、過労死に典型的に見られるような生活破壊の長時間労働が政治上の焦点とされ、戦後最悪の安倍政権さえもが取り組みのポーズを示すようになっています。当然、労働時間の法的規制が最大の問題です。労働基準法の改正によって直接、長時間労働を禁止することが問題解決の切り札であることは確かです。まさに「具体から入って具体に出る」道です。しかし問題の全体像をそれだけに解消するわけにはいきません。職場の実態に内在しそこを捉える理論を持つ、という中間項が必要です。

渡部あさみ氏は「長時間労働問題は、労働時間という結果のみに着目していては、解決することはない」(「長時間労働と人事労務管理」60ページ)と指摘し、「死に至るまでの長時間労働がなぜ発生するのか、長時間労働が発生する現場の人事労務管理に焦点を当て、考察」しています(52ページ)。その上で「問題改善のためには、労働組合が人事労務管理の諸施策にまで踏み込んで、長時間労働を是正していかなければならない。 …中略… 職場の実態把握をした上で、何が必要なのか、労働側が積極的に要求していかねばならない」(60ページ)と提起しています。

渡部氏は今日の長時間労働の背景に、グローバリゼーション・市場原理主義の浸透(それは労働の自己責任化を蔓延させる)を指摘した上で、「こうした動きに応える人事労務管理こそが、労働者たちを死に追いやっている」(54ページ)と主張しています。市場の要請に応える柔軟な人事労務管理がそれであり、その中身を理解するために以下の算定式が提出されます(同前)。

    長時間労働を生み出す人事労務管理を表す算定式    

労働時間(↑)
  =
業務量(↑)/{人数(↓)×スキルレベル(↓)×労働強度(↑)}

        ……A式(渡部論文に式を表す記号はなく、刑部が便宜的に使用する)

 A式の右辺の分母に人数がありますから、左辺の労働時間は一人あたりの労働時間を表し、右辺の業務量は、職場・経営・企業など何らかの1単位における業務の集計量を表していることに留意する必要があります。

 またA式を見てちょっとおかしいと思うところがあります。労働強度が上がれば労働時間を少なくする方に作用するので、労働強度は右辺の分母にあります。したがって労働強度(↑)は労働時間(↓)となり、その意味では労働強度(↑)は「長時間労働を生み出す人事労務管理を表す算定式」にはそぐわなくなります。しかしもちろん現実には労働強度(↑)であって、かつ労働時間(↑)であるので、この式は現実をありのままに表しています。それを念頭に置いて渡部氏の説明を聞きましょう。「働く者の負担を増大させ、長時間労働を深刻化させ」(同前)る人事労務管理のフレクシブル化をA式に沿って分析すると以下のようになります。

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人数については、非正規化が進み、正規雇用労働者の人数・比率ともに減少している。スキルレベルについては、能力開発の自己責任化が進み、労働者個々人の職務遂行能力の低下が懸念される。労働強度については、成果主義化を通じた労働強化が進み、残業を厭わず働くことが強いられている。労働時間については、労働の規制緩和の下で、労働時間管理の自己責任化が進んでいる。こうした人事労務管理によって、より少ない正規ホワイトカラー労働者が、できるだけ多くの業務量を、そしてより長い時間働くような仕組み作りが行われている。労働者は多すぎる業務量を前に、長時間労働をせざるを得ないという、苦しみのただ中で働いているのである。      5455ページ

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 上記に問題とした労働強度については、「成果主義化を通じた労働強化が進み、残業を厭わず働くことが強いられている」と言及されています。これは結局、労働強化=労働強度(↑)は、業務量(↑)を伴っているので労働時間(↑)に帰結する、と解することができます。同時に人数(↓)かつスキルレベル(↓)なので、たとえ労働強度(↑)であっても、労働時間(↑)に帰結する、と言えます。なお引用文中にあるように、A式は主にホワイトカラー労働者における「業務量」と「労働時間」を念頭に置いているだろうことに留意したいと思います。

 経営側はあくまで生産性向上が目的であり、労働時間管理はそのための手段にすぎないことを渡部氏は強調しています。それは一貫しているものの、1990年代以前とそれ以降とでは違いがあります。前者の「労働時間管理の合理化は、工場労働者を対象とした労働時間の効率的・『合理的』使用の工夫であり、労働強化が主流で」、「内容的には限られた(法定)労働時間内の労働投入の最大化で」す(56ページ)。後者における「ホワイトカラー労働者を対象とした人事労務管理のフレキシブル化は、その管理を強化することではなく、管理を自己責任化させることに大きな特徴を持」ち、「労働時間の実態を見えにくくし、長時間労働問題を自己責任化させていることに、1990年代以降の長時間労働と人事労務管理の関係性の特徴が浮かんで」きます(同前)。であるならば、経営側の目的である生産性向上を明示するように、A式を以下のように変形してみました。

    生産性向上を生み出す人事労務管理を表す算定式

スキルレベル(↓)×労働強度(↑)
          =
業務量(↑)/{労働時間(↑)×人数(↓)}
          =労働生産性(↑)

                                ……B式

労働生産性を上げるためには、労働時間(総量)の増大を業務量(総量)の増大が上回ることが必要です。スキルレベル(↓)という前提でそれを達成するためには、労働強度(↑)が相当大きくなる必要があります。これは1990年代以降のホワイトカラー労働者にはそのままあてはまります。ただし工場労働の場合に生産性を考えるには、業務量というよりは生産量になります。その際に、労働手段の改善などを含む技術発展を考慮すれば労働時間当たりの生産量は増大し、労働強化だけに頼る必要はなくなります。またかつてはスキルレベルの向上は自己責任化されるのではなく、経営側の責任で常に努力されていたのでスキルレベル(↑)となります。

 ホワイトカラー労働の場合には、工場労働のような技術発展による生産性の向上は期待しにくいことから、労働強化がきわめて重要なのです。しかしそれだけでなく、1990年代以降は長時間労働の自己責任化が生産性向上に大きく貢献していると考えられます。

労働生産性(↑)=業務量(↑)/{労働時間(↑)×人数(↓)}  という関係を見ると、業務量の大幅な増大に対して、労働時間(総量)<=(一人当たり)労働時間×人数>の増大を極力押さえることができるならば、生産性向上を達成できます。そこで何が行なわれたか。まずリストラにより人数が削減されました。一人当たり労働時間に関しては、明白な違法行為としてはサービス残業です。本質的にはそれと変わらない合法あるいは脱法・非合法行為として、名ばかり管理職・固定残業制あるいは裁量労働制とか「高度プロフェッショナル制度」=残業代ゼロ法案などがあります。労働時間管理の自己責任化(→長時間労働の自己責任化)の狙いは要するにそこにあるのではないでしょうか。業務量の大幅増にもかかわらず、それに見合って増えたはずの労働時間の一部をなかったことにすれば、経営側にとっては労働生産性が向上したとみなされます。実体としては向上していないにもかかわらず。この欺瞞のしわ寄せが労働者の生命と健康の危機となって現れます。労働者が経営側の立場に立って「強制された自発性」を発揮するインセンティヴとして、人事労務管理の自己責任化は導入されたのでしょうが、実際の労働時間の一部をなかったことにして(不払い労働にして)「労働生産性の向上」を図ることに重要な「意義」があるのではないでしょうか。

 渡部氏は長時間労働問題が解決されていない原因の一つが「労働側の取り組みが、労働時間管理に関わる人事労働管理にまで、十分に踏み込まれていなかったことにあると考え」ています(59ページ)。A式に従って考えれば、労働側においては、労働時間と人数については適正化の方針が示されているものの、スキルレベル、労働強度、業務量(労働導入量)に関する方針は示されていません。そこで渡部氏はA式の各項目の増減を逆転させた下記の式を提起して、労働時間短縮のためのチェック箇所を明らかにしています(60ページ)。

    労働時間短縮へ向けた人事労務管理 

労働時間(↓)
  =
業務量()/{人数(↑)×スキルレベル(↑)×労働強度(}

                                ……C式

 A式の検討に倣うと、ここでも右辺分母の労働強度(↓)は労働時間(↑)に作用しますが、それを上回る<業務量(↓)、人数(↑)、スキルレベル(↑)>の作用によって労働時間(↓)を実現しようというのでしょう。

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 業務量については、無駄な業務を洗い出し、業務の削減に取り組む必要がある。人数(ママ)いては、増員を図ることである。近年、雇用の非正規化が進んでいるが、長時間労働を発生させないためには、非正規ではなく、正規雇用労働者の数を増やすことが必要である。スキルレベル(ママ)いては、職場に必要なスキルは、自己責任ではなく、職務遂行上必要なスキルは職場で学びながら身に付ける必要がある。労働強度については、労働強化がされることがないよう監視しなくてはならない。労働時間に関しては、労働時間管理の適正化が必要である。労働時間管理の自己責任化は、長時間労働を招く危険性がある。

      60ページ

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 最後に渡部氏は、これらの点検項目を社会的ルールとして確立することを緊急課題とし、労働組合の適切な関与の重要性を力説し、労働時間短縮の実現を展望しています。

 次いでここでもC式を以下のように労働生産性を表す式に変形してみました。これによって、労働時間短縮下における労働生産性の動向を表現できます。

    労働時間短縮へ向けた人事労務管理と労働生産性

スキルレベル(↑)×労働強度(↓)
                =
業務量()/{労働時間()×人数(↑)}                =労働生産性(↑or↓)

                                ……D式

経営側は生産性の向上を目的としていますが、労働側にとって、それは生活と労働の改善の手段であって目的ではありません。目的ではないからむやみにそれを追求することはありませんが、できればそれなりに実現したいところです。

 左辺を見ると、労働強度低減の効果を上回るスキルレベルの上昇を実現すれば労働生産性は上がります。右辺を見ると、業務量の削減と人数の増大との効果を上回って労働時間を短縮できれば労働生産性が上がります。もちろん、不払い労働時間の延長による見かけ上の労働時間短縮ではなく、本当の短縮でなければなりません。そもそも業務量(総量)の削減をしながら労働生産性を上げるのは難しいです。労働時間(総量)の短縮が必要となりますから、人数を増やすのならばますます(一人当たり)労働時間の短縮が求められます。先のB式は労働者を不幸にする生産性向上の仕組みを現わしており、このD式は労働者の幸福を前提とした生産性との向き合い方を現わしています。それは業務量削減という枠組み内では、労働時間を短縮することが生産性向上に資することを示しています。生産性は「業務量/労働時間」であるので、生産性向上は一般的には「刹ニ務量>劍J働時間」によってもたらされます。典型例としては、業務量を増やすか労働時間を減らすかによって実現されます。経営側は前者を労働側は後者を選びます。これは生産性向上の目的として、剰余価値追求か自由時間増大かという対立を反映しています。

 最近、業務量削減が大問題となったのがヤマト運輸の労使交渉です。ヤマト運輸ではサービス残業が横行し摘発されるに至りました。サービス残業は問題外とはいえ、そこには過剰サービスと人手不足のしわ寄せが労働者にきたという側面があり、業界や消費社会のあり方が問われています。ヤマト運輸は、未払い残業代の大規模支給を始めとして運賃や労働条件を見直すと決めています。「朝日」34日付は以下のように伝えています。

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ヤマト首脳は「不必要なサービスを減らしていかないと、日本のサービス業は壊れる。その価値観を消費者に共有して頂くためにも現場の正常化が必要」と話す。

 今春闘では、労働組合が荷物の取扱量の抑制を初めて要求。関係者によると、すでに労使で複数回の会合を開き、具体策を協議している。運賃を上げたり、再配達や夜間の時間指定配達など手厚いサービスの一部を見直したりすることで、荷物の急増を抑える方向で検討が進んでいるという。利用者は、これまで通りの便利なサービスを享受できなくなる可能性がある。

 労組は、終業から始業までの間に一定の休息時間を保障する「勤務間インターバル規制」も初めて要求。10時間の休息を保障するよう求めており、経営陣も前向きに検討している。       

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このように、近年の我が国には珍しく、大企業の労働組合がまともな機能を果たして「働き方」に踏み込んで成果を上げています。「無駄な業務を洗い出し、業務の削減に取り組む必要がある」という渡部氏の先の提言にかなう内容となっています。

 渡部氏は長時間労働の規制について、「長時間労働を生み出す人事労務管理を表す算定式」を分析用具として示しながら、従来の労働運動が十分に取り組んでこられなかった現場の人事労務管理に焦点を当てました。労働時間と人数だけではなく、スキルレベル、労働強度、業務量にも労働運動の課題があることを明らかにしました。この課題提示を受けて、より具体的に職場からの取り組みを強めていく上で、考え方として参考になると思い出したのが、二十数年前に読んだ熊沢誠氏の『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫、1993年)です。あくまで私の理解したかぎりの言葉で断片的になりますが、当時のメモを基に紹介してみます。簡単に言えば、賃上げ闘争では「労働者」だけれども、普段の職場では「従業員」であるようなあり方を変えないと、労働時間と人数だけでなく、スキルレベル・労働強度・業務量といった人事労務管理に規制を加えることは不可能です。職場の変革を支える考え方を熊沢氏の旧著は以下のように提示しています。

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 労働問題を考える際に、political(政治的)、civil(市民的)、industrial(産業内的)という次元の相違を踏まえることが必要です。政治的、市民的レベルの自由・平等は産業内レベルの自由・平等を自動的に保障するものではなく、後者の獲得のためには職業や仕事そのものに関する独自の思想と闘いが不可欠です。職場の問題は産業内行動のみが労働者らしい決着をつけられます。現場を離れた人々による「国民の常識」に基づく決着では、生産性向上だけを重視して、労働者がそこで仕事を続けていくのに必要な「なにか」を顧みないからです。

 日本の労働組合運動は、労働そのもの・仲間関係・職場集団のあり方に関する独自の論理を持っていないために、資本に敗北しています。労働者間の能力主義的競争を規制する思想・行動が職場社会にないため、労働強化とか不利な雇用形態をもちこまれても、仲間とともに反撃できないのです。

 「国民の常識」は個人主義に基づく自由競争の志向です。それに対して組織労働者の規範は、仲間同士の能力主義的競争の制限であり、働き方に関する集団的な自治です。熊沢氏はあえて両者の違いを対比し、労働者が「国民の常識」に絡め取られてしまうのではなくそこから離れて独自性を保持し、逆に「国民」に対して組織労働者の生き方の魅力をアピールするという方向を打ち出し、≪分立→よびかけ→イニシアティヴ≫と定式化しています。

 組織労働者の規範は職場に労働社会として打ち立てられます。労働社会とは、そこに生活の具体的な必要と可能性を共有する仲間を見いだし、その仲間相互の間で働きぶり、稼ぎぶり、雇用機会をめぐる助け合いと競争制限の暗黙の契約(黙契)を培うことのできる単位です。労働組合の組織とは労働社会の制度化であり、その機能とは労働社会の黙契の意識化にほかなりません。

 職場での仕事のあり方において、労働者は資本の論理に絡め取られない見地を確立することが必要です。たとえば能率については次のようなことが言えます。能率を高めることは労働者にとっても喜びです。しかし職場で長く生き続けようとする労働者にとっては、能率の犠牲にできない価値があります。仕事のしやすさ、牧歌性、方法やペースの自己決定性、共同作業的な性格等です。

 労働者にとっては、働き続けることが重要です。労働密度、緊張の高まりに対しては、「この仕事を末永く続けていけるか」という観点から点検する必要があります。職場で<守るべきもの>がはっきりしていないと、企業の言いなりに労働のあり方を調整することになります。

 渡部論文では人事労務管理のフレクシブル化が長時間労働の原因でした。熊沢氏は「柔構造」について次のように述べています。柔構造とは労働内容(なにをするか)と人員配置(誰がするか)がきわめて弾力的(フレクシブル)である状況です。それは従業員にある種の能力を発揮する余地を残しています。しかし同時に、従業員は自動的に自分の仕事の範囲を広げ、ノルマを高めスピードを早める衝動に駆られます。

 労働者は性差別、思想差別とは闘いましたが、労働の質量と人員配置の「柔構造」が労働者間競争によって処理される状況そのものは容認しました。――競争の機会が平等で、査定が虚心であればよい――と。そうして能力と努力による成功、不成功に応じて昇進、昇給の違いが出てくるのは「自然」だという思いが労働者に浸透しました。

「柔構造」を能力主義的競争でこなす労働者の生きざまと、組合機能によるそのことの容認は、労働の階層構造を強化します。「柔構造」であっても労働者集団に労働に係わる決定権はなく(ベルトコンベアの速度を規制するとか…)、労働者個人間の競争の結果、決まっていきます。これは労働強化と労働者の分化をもたらします。

その中で下層労働者における苦しみのやりすごしかた。――競争において遅れをとったのだから…という彼らの自覚は、下位職務における仕事のありかたをかえようとするたたかいの遂行をためらわせます。彼らは「仕事はともかくとしての保障」をうけて黙りこむこととなります――。

不成功者の発生を防ぐ試みとして次の方法があります。職場の労働組合が、いくつかの仕事のノルマを圧倒的多数の仲間が無理なくこなせる程度に標準化させる。それらへの配置をローテーションで平等化させる。

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 熊沢氏の旧著は非正規労働が今日ほど広がる以前に書かれており、正規の組織労働者が主な対象となっています。渡部論文も労働組合の任務を中心に書かれています。そういう意味では、未組織の非正規労働者が増大してきた今日の状況にはそぐわない部分があります。ただし彼らを組織化することは依然として課題であるし、労働者階級の本来のあり方を示すのは組織労働者であるので、熊沢氏と渡部氏の議論は少なくともあるべき方向性を探るものとして意義があります。もちろん未組織労働者・非正規労働者の状況を捉えアプローチの方策を見いだすことは重要な課題として残されていますが。

 熊沢氏が強調する能力主義的競争の制限は直接的には労働者間競争の制限ですが、それは資本間競争の制限を伴わなければ実現できません。新自由主義グローバリゼーション下での「底辺への競争」で企業と政府はソーシャルダンピングを遂行し、賃金・労働条件や社会保障の切り下げスパイラルに陥っています。それは一方であり、他方ではグローバル資本が富を蓄積しています。こうした格差と貧困の構図はあまりにも明白であり、世界中の人々の憤激を呼び起こしていますが、その起点はあくなき搾取強化をめぐる資本間競争であり、それに勝つために各企業内で組織される労働者間競争です。格差と貧困という結果は見やすいけれども、生産過程における搾取強化という原因は十分に意識されていません(格差と貧困は金融化によっても累乗化されるのですが、それはここでは措きます)。そこに規制をかけるのが熊沢氏の言う「組織労働者の規範」です。

 組織労働者の規範は一見すると反生産力主義的であり、「社会全体の利益」に反するように見えます。なぜ生産現場で頑張らないのだ、それでは経済発展を阻害するだろう、というわけです。しかし熊沢氏が指摘するように、柔軟な働かせ方は労働者の能力を発揮させ伸ばしますが、同時に自ら労働強化を招きます。その泥沼にはまってやみくもに頑張れば、生活を守って人間らしく長く働き続けることができなくなります。

先述したように、生産性向上の目的として、剰余価値追求か自由時間増大かという対立があります。歴史貫通的に見れば、生産性向上による剰余労働時間の増大をさらなる生産拡大に使うのか、自由時間の増大に使うのか、あるいは両者の組み合わせ比率をどう調整するかという選択が問題となります。資本主義段階では無限の剰余価値追求のため、おおかた生産拡大に向けられ、人類の本史たる共産主義段階では主に自由時間の増大に充てられます。資本主義における労資の階級闘争では、生産方針を支配している資本家階級が生産の発展を担っているように見え、剰余価値追求のための「生産のための生産」「蓄積のための蓄積」がその正常な形態だと見られています。そこからはずれる者は淘汰される、と。それ故、資本とその番頭である政府の政策に反対する者は経済発展に反対するかのように見られます。しかしそこではさまざまな努力による能力の発揮・仕事の拡張・能率の向上などなど、人間が本来持っている美質が資本の運動に絡めとられ極端化されることで人間に襲いかかるという疎外が生じています。そこに過労死にまでいたる長時間労働などの労働強化の究極の原因があります。資本主義経済はあくまで人類史の一段階に存在するものであり、自由時間の拡大という歴史貫通的発展の見地から、その意義と限度を見極め、今日の資本の暴走(=新自由主義)に歯止めをかけることが必要です。人間の発達と能力の発揮というものを資本主義経済の枠からしか見られない常識を克服しなければなりません。

 以上、議論が抽象論に還元されてしまったようで、遺憾とするところですが、今この時も人々を苦しめ続けている長時間労働の具体的現実に目を向けることを忘れないようにしたいと思います。私の所属するホウネット(名古屋北法律事務所の友の会)は、527日(土)に総会を開催し、川人博弁護士に電通過労自殺事件や「働き方改革」についての記念講演をお願いしています。

蛇足ながら、最後に一言。渡部論文では、「企業の経営戦略の根幹にグローバル競争が据えられ、そこでの競争力強化が至上命令となり、市場の要請に応えるための『働かせ方』が労働者を直撃することになった」(54ページ)として、市場原理主義に応える人事労務管理に長時間労働の重要な原因を見ています。現象としてはその通りで、通常そのように表現されます。しかし市場が主体で市場原理主義が企業経営を支配している、という見方には転倒している部分があることに注意すべきでしょう。

もちろん今日の市場は資本主義が本格的に確立する以前の単純商品市場ではなく、労働市場や金融市場などを含み、生産物も単なる商品ではなく商品資本として流通しています。そうした資本主義的搾取を前提とした市場があり、それが個別企業を外から様々に強制しています。

 しかし発生的にも本質的関係としても、市場が主体なのではなく、生産過程における搾取が主体です。搾取する生産過程を擁する個別資本間の競争が市場を形成しています。市場の要請なるものは、個別資本にとっては外的強制ですが、資本主義経済全体としては内的法則です。すべての源泉は個別資本の生産過程での搾取にあります。「組織労働者の規範」がそこに規制を加え、そうした下からの動きに合わせて、法的・政治的な上からの規制を働かせることで、労働者を犠牲にした資本間競争のあり方に歯止めをかけることができます。そうして市場原理主義の暴走をストップさせます。こうした運動において市場原理主義批判のイデオロギーは重要ですが、それはあくまで生産過程における強搾取への批判と併せることが必要です。

 例によって散漫で冗長な文となってしまいました。妄言多罪。

 

 

社会科学の力と任務

 最近触れた論稿・記事の中で、社会認識を深める社会科学の力とその任務に関係するものについて若干述べます。

 個々人が抱える諸問題は通常あくまで個人的問題として意識されるので、うっかりしていると理論的にもそのように扱われがちになります。それを社会問題として捉えるのが社会科学の最重要課題と言ってもいいと思います。その際多くの場合、先入見を取り払うこと、何に囚われているかを見極めることがカギになります。たとえばジェンダー・バイアスの克服によって見えてくることが多々あります。

飯島裕子氏の「シングル女性の貧困、生きづらさ、働きづらさを追って」(『前衛』3月号所収)は普通にどこにでもいる人たちに貧困が広がっていることを説得的に明らかにしています。ジェンダー・バイアスに囚われているために見逃していたことを何気なくすっと指摘しているのです。たとえば「子どものころから勉強を頑張ってきて、社会的に重要な専門職につきながら、一人暮らしもできない金額で働かざるを得ない――そんな女性たちに出会ってきました。そうした状況が当たり前になっていて問題にもならないのです。女性は貧困が当たり前ということがそもそもあったということに気づかされたのです」(223ページ)と指摘されます。ところが一部には「女性の自立」というキャッチコピーにふさわしく成功している女性もいるので、多数派であるそうでない女性は自己責任論にさいなまれることになります。

 男性の生きづらさを問題にする男性学もあります。「学校でも職場でも家庭でも、進学や働き方や子育てでも、私たちの生きづらさは戦後日本の社会と家族に埋め込まれたジェンダー規範と不可分の問題」であり、「『男らしさ』の競争から降りることを男たち・男子たちに許さないのは、私たちの社会の方なので」す。そういう状況下で「ひそかに苦悩する男たちの危機に語りかけ、その理解を社会的な共感にまで広げる可能性をもつように感じられる」のが男性学だと評されています(池谷壽夫・市川季生・加野泉編『男性問題から見る現代日本社会』/はるか書房/への豊泉周治氏による書評、『経済』4月号所収100101ページ)。

 男の生きづらさとジェンダー・バイアスについて具体的に新聞記事から拾ってみます。

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 父の行動で、どうしても許せないことがありました。父が食事中、箸で湯飲みを指して、母にお茶を入れるように促すんです。横柄な態度に腹が立って、「ママは召使じゃない」と反発していました。すると父は「だれのおかげで食べていけると思ってるんだ!」。そう言われるのが一番嫌でした。

 4年前に夫が突然会社を辞めて、専業主夫に。息子2人を連れて、私が生まれたオーストラリアに一家で移住しました。自分が大黒柱として身を削って仕事をするようになって、初めてわかったんです。父もしんどかったんだなって。娘2人を私立に入れて大学まで行かせ、家のローンを抱えて、毎日満員電車に揺られて。思春期の頃、朝、洗面所で身支度する父は、すごく怖い顔をしていました。父にとって会社に行くことは戦いだったんだ、と気づきました。

 片働きになって痛感したのは、女性は仕事を辞めても責められないけど、多くの男性は「死ぬまで働け」というプレッシャーを背負い続けているんだ、ということ。男性だってもっと色々な生き方があっていいはずなのに、「しんどい」なんて言おうものなら負け犬扱いされる。その上、家で「粗大ゴミ」とか言われたら、心が折れるよな、と。男女差別が日本でなかなか解消しないのは、男性自身が自由な生き方ができなかったことの怨嗟(えんさ)が一因ではないか、と感じています。

(おやじのせなか)小島慶子さん 仕事熱心、家族のため戦った

                          「朝日」33日付 

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 ジェンダー視点を経済と人権のあり方や社会変革に生かした次の発言は秀逸です。

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 メンバーにも、すりこまれた意識はあったと思います。私はデモの進行を考える立場でしたが、違憲性など理論的な指摘をする場には男性を、日常生活や感情を語ってもらう場には女性を選びがちでした。「社会に共感してもらい、運動を広めたい」という思いから、なかば無意識のうちに、そして、どこかで戦略的に、期待される役割を演じるようになっていました。

…中略…

 子どものころ、母が父に意見を言うと、父が「誰が食わせてやっていると思っているんだ」と返したのを覚えています。専業主婦だった母は黙ってしまいました。

 そんな母の姿に、私は「稼いでいないと、男性の劣位に立たされる。将来は家庭に入らず、働き続けるんだ!」と思いましたが、よく考えれば自分の意見を言うのに、お金を稼いでいるかは関係ない。さまざまな事情で外で働いていない人を下に見ていただけです。

 ジェンダーを考えることは、女性だけのためではない。女性という視点を介して社会を見ることで、自分の中の思い込みに気付くことが、ひとりひとりが大切にされる社会へのスタートなのではないでしょうか。

SEALDsで活動、津田塾大3年・溝井萌子さん(21)

(フォーラム)「Dear Girls」って? 「朝日」36日付

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 社会進歩の運動もまた既成観念に囚われざるを得ないことを批判的に指摘しつつ、囚われない見方が良い社会を築くカギであることを見抜いています。

 詳しくは書きませんが、災害を通して、自然と社会の関係を考察し、その上で自然科学と社会科学との共同について深く真摯に話し合っているのが、津久井進氏と保立道久氏の対談「巨大災害の時代に問う 災害法、予知と歴史」(『経済』4月号所収)です。弁護士と歴史学者の対談なので、法学・法律の独自の役割や歴史学と地震学との関係などが明らかにされていますが、そこに留まらず、自然と社会、自然科学と社会科学との関係、文理融合の追求などスケールの大きい問題提起に満ちています。「地震などの自然現象は災害の誘因にすぎず、むしろ、災害の本来の原因は、我々の自然の利用の仕方にあり、これは社会現象であるという考え方」の上で「地震学・噴火学などのみでなく、工学や人文科学・社会科学をふくむ学際的な学問分野として、災害科学をつくり出さなければいけないという点」(109ページ)が強調されています。

 この対談は二人の文系知識人によるものだから、自然よりも社会の側面を中心に災害を捉えるのは当然かもしれません。そこで思い出すのが、阪神大震災後1年の時点での石橋克彦氏の次の言葉です。阪神大震災後も巨大地震によるより大きな災害が起こることを警告しつつ、「都市という器の在り方を不問に付して中身だけを技術的にいじる震災後の多くの防災都市論議が、いかにも空疎に響く」と喝破して、以下の卓見を述べています。

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 地震に強い都市づくりとは、結局、都会と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会をつくることに帰着する。それは、自然の摂理に調和した国土づくりということであり、災害に強いばかりではない。地球の環境と自然、自然の一部としての人間の身体と精神を守ることによって、より高度な文明の実現につながる。

                「朝日」夕刊 1996118日付

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 自然科学者として地震を研究してきた石橋氏のこの時点での肩書は建設省建設研究所室長です。建物の耐震性の話などに終始してもおかしくないのですが、むしろ社会科学あるいは人文智に基づく提言となっています。翌97年には「原発震災」に警鐘を鳴らしている(不幸にして予言は的中)のも、自然科学だけではない幅広い見識に基づくものでしょう。

 以上みてきたように、社会科学の任務は本来大きいのですが、それは見えにくいのです。諸個人が抱える様々な悩みや苦しみの多くの部分は社会的問題なのに、単に個人的問題として捨て置かれています。自然科学や技術の対象とだけ見られている問題のなかにも社会科学の観点が不可欠のものがあるでしょう。社会科学に関心を持つ人々はその潜在力を引き出すように、あらゆる事象に目を向けてみることが大切です。

 

 

          断想メモ

「志のある三流は四流だからね」。

終了したドラマ「カルテット」(TBS系、坂元裕二脚本)に出てくるセリフです(第5回、214日放送分)。胸に刺さりました。
                                 2017年3月31日




2017年5月号

          資本主義社会における変革主体形成

 今日、新自由主義政策の展開の中で、格差と貧困が広がり、それへの反発だけでなく、目前の諸問題への対処をめぐる運動が起こっています。たとえば私がかかわっているものでは、子どもの貧困対策として、子ども食堂や学習支援があります。そうした諸運動はまさに余儀なくされたものであり、そのあり方をめぐって、支配層の政策の補完に陥ってしまう危険性があったり、あるいはそれを政治変革にどう結び付けていけばいいか、ということが問われたりします。もちろんそれらは直接的には、状況や政策に応じて具体的に考え実践していく他ありませんが、大きく根本問題から捉えれば、労働者階級の歴史的使命に立ち戻って考える必要があります。それに関連して、石川康宏氏が注目している労働者階級の発達という問題を見てみましょう(「資本主義の誕生、発展、死滅と労働者階級」)。ごく簡単に言えば、改良・革命・新社会運営という三つの力が「資本主義の胎内で育まれていくということの分析」(42ページ)が必要となります。資本主義下での変革主体形成について、このように3点に分析的に捉えていくことは重要な視点と思われます。石川氏は以下のように説明しています。

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 マルクスは、労働者階級が、資本主義の枠内で資本主義を改良し、資本主義を超える未来社会への転換を求め、また新しい社会を自らの手で運営していくのに必要な能力を発達させていくとしていました。その上で、この三者の関係を見ると、資本主義の改良を積み重ねる中で資本主義の歴史的限界に対する理解が次第に深まり、また改良をつうじて、部分的にではあれ自らを雇用する資本を制御する経験を重ねることで、資本に「結合された労働者」から自覚的に「結合する労働者」への転換が進められることになるかと思います。資本主義の改良を進める力の成長が根底の原動力になるということです。そこでは、資本主義社会の運動法則に対する理解の広まりと深まり、したがって学びを進める運動も、その過程を促進する重要な役割を果たします。         45ページ

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 子どもの貧困対策の諸活動が注目される中、自治体の中には、小中学校の給食費無料化を実現したり、さらには修学旅行費など含めて文字通りに義務教育無償化に踏み込む例も出ており、憲法理念の実現という形で資本主義の改良の成果が生まれつつあります。それとともにこうした諸活動とそれによる要求実現は、民主主義の学校として機能し、地域に草の根民主主義をはりめぐらすことになります。閉塞感が蔓延する中、根本問題から目をそらすように、弱者が弱者を叩くバッシングによる「爽快感」を操る右派ポピュリストが観客民主主義において喝采を浴びています。それを克服するものとして、建設的な要求実現の経験を実感できる草の根民主主義が最大の力です。そこには、人々が社会運営の主体となる未来社会の萌芽があります。さらにできれば「資本主義社会の運動法則に対する理解の広まりと深まり、したがって学びを進める運動」へと高めていくことも重要です。こうして、新自由主義政策のもたらす結果の後始末として支配体制に組み込まれてしまうような運動ではなく、改良・革命・新社会運営という三つの力を育んでいく運動をつくっていく方向性を深いところで自覚していくことが大切でしょう。労働者階級の発達、変革主体形成というのは主に資本主義的生産過程の分析から出てくる視点だと思います。しかし改良・革命・新社会運営という三つの力の形成という意味では、市民運動なども含めて様々な要求実現運動にも広げて捉えることも可能ではないかと思います。

 もっとも、マルクスは当時発展しつつあった大工業における生産過程を分析して、労働者階級の発達・変革主体形成を見いだしたのですが、今日ではICT化の進展によって、工場内分業でも社会的分業でも孤立傾向が強まっています。これが労働者間の分断を促し、あたかも新古典派的状況が企業内にも市場にも現出し、政策的にもイデオロギー的にも新自由主義が跋扈する客観的基盤となっているように思われます。これをどう捉え打開していくかが重大問題であり、『資本論』を今日に活かすとはどういうことかという点で挑戦的な課題です。

 なお石川論文は、重田澄男氏の緻密な研究を紹介して、マルクスが資本主義という言葉を使っていないことを指摘しています。マルクスは主に「資本家的生産様式」と表現し、「資本主義」(Kapitalismus)という用語は使用していません(34ページ)。俗にマルクスが資本主義という言葉を使い始めたかのように言う向きがありますが、厳密には不正確です。確かに実質的に資本主義の概念を確立し、それによってその後の「資本主義」用語使用の道を切り開いたのはマルクスですが、そのことと資本主義という言葉そのものの使用とは区別されるべきでしょう。

 

 

天動説と地動説

 齊藤彰一氏の「『資本論』第1巻を読む 第6篇 労賃」ではまず、賃金とは労働力の価値または価格であり、労働の価格ではないことが力説され、次いで賃金が労働の価格であるように見える理由が様々にていねいに解説されています。齊藤氏はこの二つの見方を天動説と地動説にたとえています。

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天動説が正しいと思うのは、それが目に見えるように明らかだからです。しかし、地動説が正しいということは、天文学の発達、科学の発達をまたなければなりません。同じように、労働が売買されるのではなく労働力が売買されるという事実が明らかになるには、人々がただしい経済学を学ぶことが必要です。古典派経済学の段階ではそれが不可能だったのです。                111ページ

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 いや、昔話ではありません。今日では確かに本当は「不可能」ではありませんが、新古典派理論に基づく新自由主義がイデオロギー的覇権を握っている状況で、正確な認識が大勢としては実質的に「不可能」になっています。資本主義的市場経済の持つ物神性や領有法則の転回によって、客観的にも正確な認識は困難になっています。それは賃金に限らず社会科学的認識全体に及びます。ブルジョア社会科学という天動説が、史的唯物論とマルクス経済学に基づく社会科学という地動説を圧倒している状況です。放っておけば天動説の方が目に見えるように明らかなのですから、特別に努力して地動説を目に見えるように明らかにしなければなりません。

 夜明けは、地平線から日が昇ってくるように見えます。実際には、地球が自転してある場所が太陽の方に向くからそこではそのように見えるのですが…。その状況は地球儀を眺めるようにすればはっきりと見えます。科学的経済学は万人にそういう状況を提供することを目指すべきです。諸個人の実感を超えて社会全体を俯瞰する視点を確立し、なおかつ前者を後者から説明することによって、仮象の奥にある本質を剔抉しつつ、本質が仮象を生み出すメカニズムを暴き出すことが求められます。

 資本主義市場経済に生きる諸個人の実感からは、原子論的社会認識や市場観的社会把握が生じます。確かに諸個人のアクションによって社会全体がつくられていることは事実です。しかしそのアクションはまったく自由なのではなくすでに社会的に規定されており、さらに諸個人にとって所与の社会状況は歴史的に規定されています。したがって特に階級的規定性は重要です。それを無視して、全く無規定な諸個人の自由な行動が白紙から社会をつくるかのような錯覚に基づく経済観や社会観は克服されねばなりません(このことは法や政治についても当てはまるでしょう。それは、社会契約とか個人の尊厳とから出発する概念をよりどう正確に強化していくか、という問題を提起しています)。

 生産と流通の関係の把握も重要です。資本主義市場経済では流通過程が社会的諸関連の総和を形成するので、それが経済を主導するように見えますが、経済発展の深部の諸力は生産過程における諸労働の社会的関係です。たとえば商品が交換価値を持つことについて、それが個々の商品の生来の属性であるかのような誤解を持たせないような分かりやすい説明をもっと工夫する必要はないでしょうか。不破哲三氏は、『経済学批判』で初めて指摘された「人間労働の二重性」について、『資本論』ではいっそう深められていることを指摘しています(「『資本論』全三部を歴史的に読む」第1)。

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ここではさらにすすんで、そこに表現されているのが、人間社会がその存続のために必要とする社会的分業の独特の形態であるということまで、問題が掘り下げられています。このことは、マルクスが、商品という存在を、個々の商品としてではなく、いつも社会全体の規模で研究し、しかも、商品が活躍する社会を、人間社会の歴史のなかの一段階としてとらえていることを、しめすものです。       187ページ

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 マルクスが商品や社会をそのように捉えていたのは間違いありませんが、『資本論』や今日の多くの教科書がそういう認識を前面に押し出すように書かれているかは疑問です。あたかも個々の商品の生来の属性が展開するかのような誤解を与えかねない叙述もあるように思えます。

 経済の人類史的見方においては、私的労働と社会的労働との関連がまずは大切ではないかと思います。商品が価格を持って交換されるということを近代人はまるで自然現象のように捉えていますが、これは物神性にとらわれたブルジョア思想です(労働者も例外ではありません)。生産手段の私有と社会的分業という社会的再生産のあり方によって私的労働と社会的労働とが分裂しているために、生産物は市場で交換されざるをえず、「商品」となります。交換されて初めて、商品を作った私的労働は社会的労働でもあったことが確認されます。商品のもつ交換可能性という性質は自然属性ではなく、社会的再生産のあり方を映す影としての社会的属性です。

 マルクスは研究の仕方と叙述の仕方とを区別し、研究を首尾よく仕上げて後、「現実の運動をそれにふさわしく叙述すること」に成功した場合、「素材の生命が観念的に反映されれば、まるである先験的な″\成とかかわりあっているかのように、思われるかもしれない」(『資本論』新日本新書版第1分冊27ページ)と述べています。『資本論』の著者は、自分の研究成果がその叙述の特性の故に観念的に誤解される可能性を自覚していたのです。それを継承する現代の科学的経済学が、天動説を克服して地動説となるためには、夜明けの仕組みを地球儀で見せるように、誰にでも誤解の余地なく分かるような叙述を必要としています。というように、いまだ漠然とした問題提起しかできませんが、マルクス経済学の全体系にわたってそのような志向による教科書がつくられる必要があると思います。

 

 

          理論の抽象性と体系

 大西広氏の「私が『新古典派』である理由」は、マルクス経済学と反主流派近代経済学とはどこが違うかについて語りながら、経済理論の根本性格・方法について論及しています。その問題意識に共感します。たとえば宇沢弘文氏や内橋克人氏などはすぐれた現実直視の観点から新古典派を批判しており、それは尊重されるべきだと思います。しかし同時に、理論の抽象性そのものを批判の対象とすることには疑問を持ってきました。理論は必ず抽象性を持ち、抽象的であればこそ普遍性と汎用性を獲得します。そしてその抽象度は様々であり、そこで何が捨象されているかを自覚することで、その理論の現実との距離を正しく測ることができます。そうすれば理論は現実に対する本質的認識を深めます。たとえば塩川伸明氏は次のように指摘しています(『現存した社会主義 リヴァイアサンの素顔』、勁草書房、1999年、251ページ)。

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 理論的な整理を図る場合には、ある程度の単純化は不可避である。その都度、どのレヴェルでの抽象化が適当かを考え、そこにおいて捨象されている要因は何かを自覚しつつ、適度な抽象化に立った図式化を試みるしかない。「何が捨象されているか」の自覚を欠いた図式は現実離れした空論と化しやすいが、それを自覚した図式化は更なる具体化のために開かれている。        

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 脱線しますが、この塩川氏の著作は、かつて存在したソ連・東欧の社会主義について、軽々な断定を避けつつ多面的に様々な方向性を持って考察し、できるだけ客観的に捉えようとして慎重な叙述を尽くしている点で共感できます。ただしそれだけに理想やビジョンを提起するようなことは意識的に控えられており、社会主義のロマン的捉え方は退けられています。かといってそれが全面的に否定されるわけではなく、「脱イデオロギー」が声高に言われるのでなく(「脱イデオロギー」自体がまったくイデオロギッシュな主張であることをもちろん著者は先刻ご存じだろうが)、少なくとも主観的なもののもたらす客観的効果には留意されています。そうした調子で、比較的平易な言葉で、しかし単純化することなく複雑なものの全容をできるだけ描こうとしています。すると、ああでもない、こうでもない、と書いてあるような印象を受けるわけですが、冷静な分析像は残ります。その立ち位置との関連もあるでしょうが、資本主義に対する批判的見方も控えられているように見受けられます。たとえば「市場経済(=資本主義経済)」(83ページ)という表現があり、意外にブルジョア社会科学に近く、資本主義を搾取制度として捉えることを否定しているのではないか、と思えます。おそらく著者はかつての政治的に過激な立場から離れて冷静な研究者となり、社会科学上、様々な立場・手法を用いて現象の客観的把握に努めるのに専念しているかに見えます。これは私の政治的憶測から来る印象かもしれませんが。

 閑話休題。塩川氏が理論的抽象の意義を的確に指摘しているのと同様に、大西氏も、理論的抽象化の意義を認め、抽象性をもって新古典派を批判することは不当だと指摘しています。その点は共感できます。しかし問題はその抽象化の性格であり、何を捨象(あるいは否定)したかを見る必要があります。

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 確かに現実の資本主義社会は新古典派が想定する「純粋資本主義」ではなく、外部性や情報の不完全性、さらには人間行動の非合理性など多くの「不純要因」が存在する。そして、それをもってポスト・ケインズ派などの反主流派経済学は新古典派を批判し、それをもって資本主義を批判する。が、マルクス経済学はそうした「現実の不純性」をもって資本主義を批判する必要はない。というよりむしろ、それらの不純性によってではなく、純粋な等価交換経済でもなお成立する搾取をもって資本主義を批判する。より強く言うと、資本主義批判はそうした不純性によってなされてはならず、純粋な資本主義を想定した新古典派の枠組みによってこそなされなければならないのである。

   大西前掲論文 52ページ

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 大西氏の正当な力説からは次のことが分かります。――マルクス経済学は「純粋資本主義」の想定下で搾取を論定するのであり、資本主義批判は本質的にはそこにこそ成立し、そこからはずれた不純性による批判は本筋ではない――。それでは新古典派の「純粋資本主義」とは何でしょうか。残念ながら不勉強な私はそれを知りませんが、少なくともそれが搾取を否定(捨象ではない)していることは確かです。搾取を核心とする資本主義像とそれを否定する資本主義像とが同じ「純粋資本主義」を共有することはあり得ません。資本主義的搾取を否定するところに、資本主義=市場経済という通念が成立します(むしろ現実の認識順序としては、その通念が世を覆っているからこそ搾取は否定されるのだが、理論の組み立て方としては逆の順序になる。マルクス主義への対抗イデオロギーとしての搾取否定がまずある)。現実の資本主義経済は、個別資本での生産過程における搾取を核心として、それらをつなぐ資本主義的市場によって成り立っています。そこには労働力市場や資本市場など明らかに資本主義的搾取を前提とする市場があり、また生産物市場でも大方は単純商品ではなく、商品資本が流通しています。このような生産と流通からなる資本主義経済に対する見方から搾取概念を抜いてしまえば、それを単純商品生産表象で把握することになるでしょう。原理的に恐慌を追放した資本主義像がそこに成立します。一方で、単純商品生産表象で資本主義経済を捉えることは抽象度の誤った深堀であり、他方で、経済一般(経済における歴史貫通的要素)を単純商品生産表象で捉えることは抽象度の誤った浅堀となります。近代経済学においては何でも市場経済であり、その非歴史性が顕著ですが、それは単なる歴史認識の問題ではなく、経済理論上の抽象力が見当外れだから、ということもあるのではないでしょうか。

マルクス経済学において、論理次元による搾取の捨象はあり得ます。しかしブルジョア社会科学において、そもそも搾取は否定されています。その結果、商品=貨幣関係は前者においては資本主義の抽象度の高い経済像として取り扱われ、より具体的次元における搾取論の展開が予定されます。後者においては資本主義経済も経済一般も本質的には商品=貨幣関係の論理次元で認識され、そうした単層の理論的把握を前提に、いっそうの展開として、外部性や情報の不完全性、さらには人間行動の非合理性など多くの「不純要因」が扱われることになるのではないでしょうか。様々な現象を分析要因として追加し、現実の経済に迫るように見えても、少なくとも商品=貨幣関係と資本=賃労働関係という重層的理論構造を持たなくては、資本主義経済の本質認識は欠如していると見るべきでしょう。

 余計なことまで書きましたが、とにかくマルクス経済学と新古典派が「純粋資本主義」を共有することはあり得ないのに、大西氏が「新古典派」を自称するのはマルクス経済学に対する無用の挑発に思えます。それとも「新古典派」に肩入れする何らかの事情があるのでしょうか。

 搾取の捉え方に関連して、前近代の搾取社会ではそれが目に見えるのに、近代資本主義社会ではなぜ隠されてしまうのか、という問題を不破哲三氏が提起しています(「『資本論』全三部を歴史的に読む」第1)。それに対して第1部第1篇第1章第4節の物神性論を参考にして不破氏は次のように回答しています。

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 商品経済の社会では、人間と人間の関係が、社会の表面ではすべて、物(商品)と物(商品)との関係として現れます。だから、人間による人間の搾取という社会の根本問題も、労働力の売買、いいかえれば労働力商品≠ニ賃金≠ニの交換、つまり、物と物との関係として現れます。社会の根本問題が、物と物との関係に隠れてしまうのです。

           188ページ

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 この説明は問題理解のための一つの基礎を与えていますが、十分な回答にはなっていません。そもそも第1篇「商品と貨幣」では搾取はまだ主題になりません。第2篇「貨幣の資本への転化」以降に搾取の仕組みが解明された後で、第7篇「資本の蓄積過程」第22章第1節「拡大された規模での資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転換」において本格的な解決が与えられます。自己労働に基づく所有権同士の等価交換が商品流通の法則であり、そこに搾取はありません。資本家と労働者との交換過程では、それが侵されることなく搾取が成立します。

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 資本家と労働者のあいだの交換過程は、流通過程に属する外観にすぎないものとなり、内容そのものとは無縁な、内容を神秘化するにすぎない単なる形式になる。労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしに取得し、すでに対象化された他人の労働の一部分を、より大きな分量の生きた他人の労働と絶えず繰り返し取り替えるということである。所有権は、最初には、自分の労働にもとづくものとして現れた。 …中略… 所有はいまや、資本家の側では他人の不払い労働またはその生産物を取得する権利として現われ、労働者の側では自分自身の生産物を取得することの不可能性として現われる。所有と労働との分離は、外見上は両者の同一性から生じた一法則の必然的帰結となる。        『資本論』新日本新書版第4分冊 10001001ページ

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 事態の本質はそのようなものであり、「商品生産および商品流通にもとづく取得の法則または私的所有の法則は、明らかに、それ独自の内的で不可避的な弁証法によって、その直接の対立物に転換する」(1000ページ)のですが、(自己労働に基づく)商品生産の所有法則がそのまま通用する以上、搾取は見えません。

 以上のように、資本主義経済における搾取の不可視化という問題は、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係の双方ならびに両者の関係を捉えることで初めて解明されます。商品の物神性の解明だけでは不十分です。このように解明すべき問題に適合するように、理論の抽象度を設定することが必要です。

 以上、理論的抽象の観点から、搾取概念をめぐる諸問題について書きました。そこでは商品=貨幣関係と資本=賃労働関係という重層的理論構造の認識が必要とされました。一般的に言えば、経済理論は様々な抽象度を持っているので、最も抽象的なものからより具体的なものへとそれらを重層的に重ねることで経済学の体系ができます。その重要な例が『資本論』であり、「経済学批判プラン」です。ここでプラン問題に立ち入るわけにはいかないので、論争の評価は措くとして、私見としては、資本一般説に立って、『資本論』は基本的には「プラン」を継承している、と捉えていることを表明します。

 『資本論』などの詳細な理論体系の中から、搾取を論定するフレームワークとして上記のように等価交換などを取り出すことができますが、「恐慌」あるいはもう少し広く「資本主義経済の基本構造と循環との関係」を捉えるためには、「資本一般」次元と「競争=産業循環」次元との区別と連関という見方が有効であるように思います。これは高須賀義博氏の説によっています。それを踏まえると、レーニンの「ふたたび実現理論の問題によせて」(副島種典訳『いわゆる市場問題について』国民文庫、所収)に示唆的な部分があります。大西氏は搾取論定の舞台装置として「純粋な等価交換経済」などを含む「純粋資本主義」を想定し、その上で、現実の資本主義は様々に不純な要素を含むことを断っています。抽象度の高い理想的設定で原理を確定し、それを前提に次の段階として不純な要素を入れて具体的状況に接近していく、という方法として一般化するなら、再生産論(実現理論)・恐慌についてのレーニンの以下の論述もそれに当てはまります。

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マルクスが発見した資本主義のその他の(実現理論以外の…刑部)すべての諸法則も、まさに同様に資本主義の理想図を描いているだけであって、けっしてその実際を描いているのではない… (中略)…― マルクスは書いた。「われわれはただ資本主義的生産様式の内的組織を、いわばその理想的平均において示しさえすればいいのである」… (中略)

実現の理論は生産の均衡的配分を想定している。これは資本主義の理想図であって、けっしてその実際ではない。

マルクスの理論の科学的価値は、それが社会的総資本の再生産と流通の過程を解明したことにある。さらに、マルクスの理論は、生産の巨大な増大がそれに照応する人民の消費の増大をともなわないという、資本主義に固有の矛盾がどのように現実化するか、ということを示した。… (中略)… この理論からは、社会的総資本の再生産と流通が理想的に円滑に均衡状態を保っている場合でさえ、生産の増大と消費の限られた限界とのあいだの矛盾は避けられない、という結論が出てくる。実際にはまたそれに加えて、実現の過程は理想的に円滑な均衡状態を保って進行するのではなく、もろもろの「困難」、「動揺」、「恐慌」、その他のなかでのみ進行するのである。

         レーニン前掲書、100101ページ

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これに対する私の解釈では以下二つのことが読み取れます。 ――(1)二段階的論理展開。「実際にはまたそれに加えて」という言葉をはさんで、まず「均衡の前提」のもとで再生産過程が考察され(「資本一般」の方法の提示)、次いでその前提がはずされて、現実の過程が説かれています(「競争=産業循環」に相当)。(2)資本主義的再生産は均衡が保たれているときでも「生産と消費の矛盾」からのがれられないので「均衡の前提」のもとでも「生産と消費の矛盾」が解明されねばなりません。――まとめると、「恐慌」あるいは「資本主義経済の基本構造と循環との関係」といったテーマを扱うには「資本一般」と「競争=産業循環」という二重の体系が有効であり、「資本一般」は均衡を前提するけれども無矛盾なシステムではなく、そこにおいてこそ資本の本質=矛盾が解明されねばなりません。

二重の体系においては、以下の三つの論理がよりいっそう解明される必要があります。第一は、「資本一般」論における内的構造と本質的矛盾の論理、発展法則の論理、及び資本主義的生産様式の生成・発展・消滅の論理です。第二は、「競争・産業循環」諭におけ

る産業循環過程の現実的動態運動の論理、つまり資本蓄積の現実の運動が生み出す循環

的変動の論理です。第三は、「資本一般」から「競争=産業循環」への、また逆の移行の論理です。三つの論理を貫くのは資本の本質=矛盾です。商品生産に立脚する剰余価値生産(資本の本質)が不可避的に「生産の無政府性」と「生産と消費の矛盾」とを生み出し、それらがいっそう具体的に展開していく様が、三つの論理を通じて明らかにされるでしょう。

 ここで「資本一般」と「競争=産業循環」との区別を強調した高須賀義博氏の議論を改めて紹介し、それと拙論との違いにも触れます。

 高須賀氏は、資本一般論としての『資本論』の世界と、競争論以降の論理次元に属する産業循環論の世界との関係を「実体と形態、本質と現象の関係にある」と捉えます。その方法の意義・内容は以下のように明らかにされます。

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 『資本論』の世界は産業循環の結果達成される資本主義の長期的構造であり、このもとで剰余価値の生産ならびに分配を明らかにしなければ資本主義の三大階級の経済的基礎は概念的に解明されないというのがマルクスの考え方であった。そしてこのために不可欠の理論的カテゴリーがマルクスの価値概念にほかならない。『資本論』の世界を産業循環論の世界と混同ないし同一視すれば、それは必ず価値概念を歪めるのである。

 他方産業循環は、『資本論』の世界、すなわち、「理想的平均における資本主義の内的構造」を自動的に生みだす平均化機構であって、これを解明する基本的カテゴリーは、市場価格(価格、賃金、利子率、為替相場等)である。これらの市場価格カテゴリーに誘導された無政府生産のシステムである資本主義の現実的蓄積が自己矛盾を含むがゆえに恐慌を勃発せしめ、自律的に反転することによって、『資本論』の世界が創出される。

      『マルクス経済学研究』(新評論、1979年) 247ページ

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 さらに宇野派の大内秀明氏に対する批判によって資本一般説の意義はいっそう明確になります。

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 方法論的に問題なのは、大内氏の立場では『資本論』の世界がまさに「永遠にくりかえされる如く」発現する産業循環の世界とまったく同じものになってしまい、「理想的平均における資本主義的生産様式の内的構造」論が原理的に消失してしまう点である。それは、産業循環を貫いて価値法則が貫徹する結果成立する資本主義の長期的構造にほかならず、それゆえにこの構造を概念的に叙述するためには価値・価格一致の想定が必要であり、換言すれば、理想的平均的資本主義は価値・価格一致を想定して描かれる資本主義像でもあったのであるが、それを否定して、循環運動をくりかえす円環的運動体の描写こそが経済学原理論の対象であるとすれば、そこから帰結されることは、価値概念の空洞化であり、本質論を欠く現象論である。      同前 245-246ページ

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 このように高須賀氏は、恐慌を含む産業循環の動態を解明すれば「資本一般」概念は不要だ、とする考えを根底的に批判しています。「理想的平均における資本主義の内的構造」あるいは「産業循環を貫いて価値法則が貫徹する結果成立する資本主義の長期的構造」としての「資本一般」概念こそが資本主義の本質を明らかにするのです。

 ただし高須賀氏は「資本一般」=『資本論』には恐慌論は本来は含まれないとまで極論し、通説的恐慌論を否定して、たとえば富塚良三氏の恐慌論では「資本一般」に循環的構造論が「密輸入」される(宇野派では堂々と導入されるが)ことで、資本主義の内的構造論があいまいにされた、と批判します(243ページ)。どうも高須賀氏の「資本一般」=理想的平均的資本主義はあたかも無矛盾なシステムのように捉えられてしまっているようです。資本一般と産業循環とが本質と現象の関係とされていますが、後者の運動によって前者が生み出されるという関係ばかりが強調され、前者の矛盾が後者の運動を生み出すという関係が見落とされて、ここでの資本一般はひたすら受動的で生気がなくなっています。本質は現象を規定し、現象は本質を執行するのであり、両面から見なければなりません。「価値概念の空洞化」や「本質論を欠く現象論」を防ぐ意味で資本一般論は大いに存在意義があるのですが、それを保証するのは「価値・価格一致の想定」です。この前提の下で資本一般論が資本蓄積の諸矛盾を含めることは何ら問題ありません。したがって「資本一般」=『資本論』に恐慌論が含まれることは問題ないどころか、資本の本質究明にとっては不可欠の内容であろうと思います。

 以上、今回、理論の抽象度と論理次元にこだわっていろいろ書きました。他のことはあまり知らないのでそうなったのですが、経済理論の本質や方法はもっと多面的に論じられるべきことは言うまでもありません。今後、経済理論の諸問題に関する論文も適度に掲載してご教示ください。

 

 

          ごまめの歯ぎしり でも正義は勝つ

以下は敬称略。

最近、中学生時代に聞いたバッドフィンガーの「嵐の恋」(原題:No Matter What)が頭の中に浮かぶので、何故かと思っていた。朝ドラ「ひよっこ」の主題歌(桑田佳祐が歌う「若い広場」人を食ったというか、何とも言い難いタイトルで、曲も企画ものとでもいう感じだが、まあよくできている)の一部に似たメロディがあるせいだと気付いた。

YouTubeで「嵐の恋」を視聴すると、懐かしさに感極まった同世代(アラカン:around KANREKI)のコメントが満載で、その中に当時のDJの名前なんかがあったりする。そこにはなかったけれど、昨年末に亡くなった東芝EMIの石坂敬一ディレクターの名前が私には浮かんできた。彼はラジオの洋楽番組によく登場し、当時は、レコード会社の社員というより音楽評論家のようなイメージで捉えていた。ネットを見ていると、佐藤剛という筆者の「偉大なるミュージックマン、石坂敬一さんを悼む 〜忌野清志郎と対峙した『COVERS』をめぐって」というコラム(https://entertainmentstation.jp/62665)に当たった。以下は主にそこに書かれていた話をネタ元にしている。

ウィキペディアなんかで今回初めて知ったのだけれど、石坂敬一は石坂泰三の親戚筋に当たる。東芝社長で経団連会長であった石坂泰三である。そうすると彼は音楽評論家というよりはやはりビジネスマンだったのだろうか。しかしコラムは「偉大なるミュージックマン」と称えている。

石坂がビジネスマンとミュージックマンとのはざまで引き裂かれ、忌野清志郎と対峙することになったのが、RCサクセションのアルバム『カバーズ』の発売をめぐる事件だ。アルバムは反戦や反原発のメッセージを含み、198886日に発売する予定であった。しかし原発を推進する親会社の東芝からクレームが付いた。石坂は東芝EMIから発売できない事情を清志郎に説明した。清志郎がそんなもの納得するわけがない。灰皿を投げつけたという。

石坂にしてみれば、ビジネスマンとしては「カバーズ」を出すわけにはいかないが、「出す」という清志郎も正しいと言わざるを得ない。結局「上記の作品は素晴らしすぎて発売出来ません」という意味不明の新聞広告を出した。コラムは「石坂の意地と抵抗の証だったのかもしれない。…中略…おそらくは葛藤や無念を自分の中に押さえ込んで、ただ結果だけを世間に公にしたのではないか」と推測している。

ビジネスマンとしてただ保身を図るだけなら、時がたつのをじっと待つところだが、石坂はすぐに他のレコード会社からの発売を画策した。初めは東芝の手が回って、いったん合意したところが潰されたりしながらも、最後には電機メーカーとは無縁だったキティ・レコードとの間で、815日の終戦記念日に発売する合意が出来た。ここに至るには多くの人が関わっている。「にわかには信じられないことだが、紛うことなき事実である。/これはこの問題に関わっていた人たちの一人一人が、いかに迅速に判断しながら、自分の責任で仕事をしていたのかを、如実に物語っていると思う」とコラムは称えている。

以下は私の思い。「カバーズ」の発売を実現した人たちはおそらく、声高に自己主張し、正義を語るようなことが許されないビジネスマンたちだろう。しかし秘かな志と誇りを持ち、妨害をかいくぐって、今どきの風潮である「忖度」や「自粛」に陥ることなく発売にこぎつけた。そこにはミュージックマンへの尊敬とビジネスマンとしての矜持がある。それだけでなく、彼らを突き動かしていたのは社会的正義の実現ではないか。温度差はそれぞれにあるかもしれないけれど、一番底に共通の基盤としてその存在を指摘したい。

1988年、しなやかにしたたかに闘った彼らを尻目に、その後も、東芝を含む原発利益共同体は何の反省もなく、2011311日を迎えた。そして原発事業の大失敗によって2017年の今、東芝は株式上場廃止の危機にある。強大な経済力と権力をもってしても不正義はいつか必ず滅びるのだ。

戦後最悪の安倍政権の暴走、そして「にもかかわらず」高止まりしている内閣支持率。それを背景に何があっても開き直り、暴走のやりたい放題。この悪循環にごまめの歯ぎしりの毎日だ。しかし東芝の専制支配と没落の物語が教えること。「いつか正義は勝つ」、「勝つまであきらめない」。そのために強大な敵に対しても、忖度と自己規制に陥ることなく、じっくりと判断しそれぞれの責任で仕事をこなすことが大切だろう。
                                 2017年4月30日





2017年6月号


          安倍政権打倒へ平和の視点を

 53日、安倍首相は憲法擁護義務と三権分立とをともに踏みにじる形で、しかも2020年という期限付きで改憲を提起しました。内容としては、維新の会が主張する教育無償化などを抱き合わせて、公明党流の93項加憲方式で自衛隊を明記する、というものです。自民党の改憲草案の内容では国民投票で勝てないと見て、現行国会勢力の2/3確保を前提に、より「現実的」な線を出してきた模様です。これに対して、渡辺治氏の談話「安倍『改憲』の歴史的位置と展望」4月に収録・加筆されたものですが、今日の事態を基本的に正確に捉えていると思います。

憲法の先進的内容とそれに基づく運動の力が今日まで改憲を阻止してきたこと、それに対して、戦争法制定を始めとする解釈改憲の限界を超えるために、明文改憲を目指して9条改憲を本命として安倍政権が取り組もうとしていること、それは教育無償化などのアメと抱き合わせであること、しかし「現実」路線は右翼勢力との矛盾をはらむこと、市民と野党の共同の前進が安倍改憲を阻む力をつけてきていること、などが解明されています。憲法施行70年を歴史的に総括しながら今後の展望を見出していく、まさに運動の中から生み出されてきた理論であると言えます。特に渡辺氏が今日渦中で奮闘している市民と野党の共同の画期的意義が歴史的理論的に浮かび上がってくることが重要です。

 運動を進めるうえで大切なのは、安倍改憲の本質と手法を見抜くことです。その点で渡辺氏がいわゆるお試し改憲論=「通りやすい改憲を優先して、九条改憲は後回しにするのでは、という見方」(15ページ)を批判して、そんな余裕はなく、安倍改憲は9条改憲を本命にして切り込んでくる、という見通しは今回の安倍首相の「指示」(立法府の長を自認する安倍首相は自民党どころか三権に向かって改憲を指示したつもりではなかろうか)によって的中しました。ただし予想以上に「現実」路線であり、93項加憲を打ち出しました。これについて渡辺氏は「しんぶん赤旗」日曜版526日付で、それが単に自衛隊を合憲化するための改正ではないとして以下のように解説しています。

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 まず憲法に自衛隊保持を書くことで、9条が持つ意味は百八十度変わってしまいます。

 海外で武力行使をせず国民に支持される自衛隊は、それが憲法9条の禁止している「戦力」にあたるのでは、という緊張の下で形成されてきたのです。ところが、自衛隊保持が明記されることで自衛隊はその緊張から解き放たれ、事実上の軍隊として羽ばたくことになります。事実上の軍法、軍法会議も3項を根拠につくられる。

 それだけではありません。すでに、安倍政権が強行した戦争法により、2項の戦力不保持に伴う自衛隊の活動の制約には大穴が空いています。そこに自衛隊が合憲化されることで、2項の破壊・空洞化、戦争する国への歩みが加速化します。

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 また同記事で渡辺氏は、2020年施行という日程については、東京五輪と天皇の退位・代替わりに便乗し、メディアを動員しての大騒動によって、憲法を変えて新しい日本を、という「国民的気運」を盛り上げる意図があることを指摘しています。そのような安倍改憲は、一方では首相の「焦り」と「いらだち」を、他方では「不退転」の決意を示しています。しかし民進党などを含めて、憲法に対する様々な見解がある中でも、安倍改憲には反対という一致点はあり、警戒感は高まっています。ここに改憲阻止の重要な展望があります。

 そうすると安倍政権への支持状況が問題となります。安倍暴走は反知性主義に基づき、道理を蹴散らしながら、2/3超の議席と高い内閣支持率に支えられています。何をやっても支持率は下がらない、ということで増長しています。支持率の高止まりについて、「朝日」529日付は、若者と労働者での支持の広がりが見られると指摘しています。その原因について次のように考察しています。

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 埼玉大社会調査研究センター長の松本正生教授(政治意識論)は「先が見えない不安のなかで、今の状況がこのまま続いてほしいという現状肯定感がある」と指摘する。失業率が下がるなど、今の生活の安定が支持につながりやすい。

 若い世代や労働者層は、09年の民主党への政権交代を支えた。だが、政権運営は混乱し期待通りの政策は実現しなかった。その反動が第2次安倍内閣の誕生につながり、第1次と第2次の支持基盤を変えた。

 「もともと及第点が低いので、安倍さんは思いのほかよくやっているように見える。だから支持率は下がらないのだろう」。松本教授はそう分析する。

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 たとえば雇用の内容が劣悪でもそれが当たり前になると、失業率の低下が政権支持に結びつきます。またこの記事では、政権交代の受け皿が見あたらないことが消去法的支持につながっていることと、全体の5割を占める無党派層の中では支持率が2割強しかないことも指摘されています。ですからたとえば、若者が労働者の権利を自覚できるようにし、より良い生活の展望を指し示す政策を提示して政権の受け皿を明らかにできるなら、事態は雪崩を打って変わるかもしれません。

政権の暴走は選挙で止めるのが正攻法ですが、民主主義は選挙だけではありません。内閣支持率を大きく下げることができるならば、安倍1強を揺るがし与党議席を流動化させることも可能となり、暴走は減速します。ともかく選挙時であろうと選間期(選挙と選挙との間の時期)であろうと政権への支持率は重大問題です。これまでもずっと私は、主要政策には支持がないのに内閣支持率が高いという、アベ・パラドクスの解明が必要だと言ってきました。たとえば新自由主義グローバリゼーション下における労働内容や雇用の変容、メディアの変質などによって社会状況の悪化や世論の右傾化などが起こっているのではないか、といった次元から分析していくことが必要であり、それとの対応の中で政治状況を考察していく、といったことが考えられます。そうした包括的な解明は寡聞にして知りません。しかしアベ・パラドクスを意識することは多くの議論においてみられるようになり、前掲の渡辺論文では、安倍政治へのオルタナティヴが人々に届いていないことが問題とされ、その内容として一つには生活・経済が、もう一つとして平和の課題が取り上げられています。

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 国民の多くは必ずしも安倍政権の軍事政策や大国化を支持していません。にもかかわらず中国の大国主義、北朝鮮の軍事的挑発を目にすると、安倍政権の推進する日米同盟以外にはないのでは、という不安と懸念が強く、これが安倍政権に対する「仕方のない支持」を生んでいるように思われるからです。日米同盟と軍事的対決の方向に代わる選択肢の出番です。                 23ページ

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 一部の経済指標の改善があるとはいえ、格差と貧困の拡大は深刻な問題として一向に解決される状況ではなく、アベノミクスへの幻想は薄れています。それでも一方では生活状況の悪化への慣れがあり、他方ではとはいえ「与党の景気対策」への期待はまだあろうかと思います。だから経済政策の問題は重要ではあります。が、むしろ今それより問題なのは中国・北朝鮮脅威論の中での「こわもて政権」支持の気分ではないでしょうか。梶原渉氏の「核兵器禁止へふみだした国連会議 世界が失望した日本政府の不参加表明」も以下のように指摘しています。

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 「ヒバクシャ国際署名」の推進に見られる共同の力を、長年にわたる「核の傘」依存からの転換につなげるには、安倍政権に代わる政治勢力が、核兵器禁止を外交・安保政策の中心にすえる必要がある。北朝鮮をめぐる緊張が高まった41516日にフジニュースネットワークが行った世論調査では、憲法改正賛成が52.9%となった(そのうち9条改正に賛成が56.3%)。マスメディアや政府による北朝鮮の脅威の喧伝もあろうが、核兵器禁止と憲法9条にもとづく非核平和外交が現実的な選択肢として示されていないことの反映でもあろうといえる。この選択肢でこそ朝鮮半島の核問題を解決できることを、社会の共通認識にしなければならない。戦争法廃止と安倍政権による改憲阻止を実現するため、これを目的にできた野党と市民の共闘には、外交・安保分野における共同も深化することが、今後求められるだろう。             42ページ

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 そこでアベ・パラドクスに関する重大問題としての平和のオルタナティヴについて、まず核兵器禁止条約、次いで北朝鮮危機を考えたいと思います。世論への影響で直接問題なのは北朝鮮危機ですが、そのベースに横たわっているのは平和への考え方であり、それを照射するのが核兵器禁止条約の問題なのです。

 核兵器禁止条約が早ければ年内にも実現します。七夕にプレゼントされるかもしれません。これは反核平和運動にとって画期的ですが、川田忠明氏の「核兵器禁止条約の国連会議――『核兵器のない世界』への歴史的一歩」(『前衛』6月号所収)によれば、それだけでなく、ヴェストファーレン条約(1648年)以来の大国中心の国際法を脱する「新しい時代」をつくる意義を持っています。この条約をめぐっては、第一に、大国である核保有国抜きで、「人類の運命にかかわる新たな法がつくられようとしてい」ます(14ページ)。第二次大戦後、100を超える国々が次々に独立し植民地体制が崩壊した構造変化が大きな力を発揮したのです。第二に、軍事力や経済力による支配から、人道と理念による共生に道を開くという意味でも、国際政治の根本的転換点になるでしょう。核兵器禁止条約を実現しようとしているのは、核兵器非保有国と世界の市民社会の共同であり、その道理ある「微力者の連帯」が国際世論の多数派となり、核兵器保有国・依存国の「強権力の同盟」を追い詰めています。まさに「軍縮にも民主主義が訪れている」(18ページ)のです。

国際政治では、大国による力の「現実」と小国などが掲げる理念の「理想」とのせめぎ合いが続いています。その典型が核兵器禁止をめぐる、<核兵器保有国 VS 非保有国・市民社会>の対決図式でしょう。問題の重要さからして、ここで後者が勝利することは国際政治における<現実VS理想>の対抗関係における画期的変化を意味すると言えます。

 この国際動向は日本政治にも教訓を与えます。政府が被爆国本来の立場で国連会議に参加すべきことは当然ですが、さらなる使命が日本にはあります。これまで自民党を始め保守政権は、パワーポリティクスを現実主義として信仰し、ひたすら日米軍事同盟の強化に努めてきました。それを止め、憲法9条を堅持し、憲法前文の精神を実現する、真の積極的平和主義によって、東北アジアと世界に平和を構築する主体となるべきです。

 憲法前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という件(くだり)ほど、改憲派から嘲笑される箇所はありません。確かに現実はそれほど甘くない。しかしそんなことは分かっているでしょう。ならば日本が先頭に立って、信頼しうるような世界をつくり出す、という決意をここでは示した、と考えるべきでしょう。「平和を愛する」のは「諸国家」ではなく「諸国民」であることにも留意すべきです。「信頼しうる世界」を形成する主体は究極的には国ではなく人間である、ということです。

 事実、前文は続く箇所でその道を指し示しています。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。人間社会から戦争の原因を取り除こうというのです。これが本当の積極的平和主義です。

 今、北朝鮮危機が煽られ、軍事的抑止力の神話が流布されています。しかしたとえば、日本海沿岸に原発を並べた日本はいかなる意味でもどのようなやり方でも戦争は絶対できません。どちらの側からも一発も打たせてはならないのです。抑止力を振りかざした軍事的威嚇はどのような間違いをもたらすか分かりません。憲法の平和主義に基づく対話の政策だけが本当の現実主義であることは明らかです。

 保守反動の代表的イデオローグである佐伯啓思氏は北朝鮮危機を受けてさっそく憲法前文と9条を排撃し、改憲と軍事的対応を煽っています(「異論のススメ・憲法9条の矛盾 平和守るため戦わねば」、「朝日」55日付)。これに対して内田雅敏氏は「日中間で戦争が終結していない」という佐伯氏の事実誤認を正し、憲法前文の精神を掲げて「国が、メディアが、反日、反中、反韓をあおらなければ、民衆同士は仲良くできる。外国人観光客の多さを見ればよい」と、「不戦の覚悟」を対置しています(「私の視点 『異論のススメ』に異論 民衆は戦争を望まない」、「朝日」520日付)。

 佐伯氏は「朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきた」あるいは「北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も戦闘状態にはいる」のだから、「もはや『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』いるわけにはいかなくなった」つまり「9条平和主義にもさしたる根拠がなくなる」状態だというのです。俗耳に入る議論で要警戒ですが、その無責任なナイーヴさを笑い飛ばせばいいのです。緊張状態になったらすぐに「有事」で「戦闘状態」ですか?安倍政権のように、軍事産業に支持され、対米従属下で大国化を図り、まともな外交努力を払わない者を許容・免罪・同調しているからそういうお気楽なことが言えるのです。初めからそういう枠組みでしかモノが考えられないのです。戦争は絶対しないという前提でどのような政策努力をするか、という姿勢を放棄するのは無責任です。

こういう議論には共通のナイーヴさがあります。日本という善良な国の周囲に、中国・北朝鮮・ロシアなどの邪悪な国があり、正義の味方アメリカに助けてもらおう、というものです。もちろんそれらの国には多くの問題があります。最近ミサイル実験を繰り返す北朝鮮について言えば、独裁国で数々の無法行為に無反省で国際社会におけるまともな一員とはとても言えない状況であり、日本にとって軍事的脅威であることは確かです。しかしアメリカも無法な侵略を繰り返しており、それだけを見れば、他国を侵略していない北朝鮮よりもひどい国であることは明らかです。北朝鮮が邪悪でアメリカが正義だという通念はまったく偏向しています。

そして日本はどうなのか。戦後日本は日米軍事同盟の下、過去の侵略戦争をきちんと反省せず、ベトナムやイラクへの米帝国主義の侵略に加担し、最近の軍拡と戦争法の制定=日米軍事同盟の強化がどれだけ周辺国に脅威を与えているか。周辺国と軍拡の悪循環に陥っている責任の一端は日本にもあります。少しでも事態を客観的に捉える視点があるならそんなことはすぐわかりますが、独りよがりの素朴な感情(「善良な日本と邪悪な周辺国」という無意識のうちに受け入れている前提)だけに囚われているとまったく分かりません。まさにそれだからこそ俗耳によく入ることになるのですが…。そこで一歩立ち止まれるのが憲法の視点です。戦後保守政権は憲法を敵視して、日米軍事同盟に基づく政策を実施してきました。しかし憲法そのものは変えられることなく、政府に敵視ないし無視されながらも多くの人民の支持を得て、軍事同盟の暴走を抑制する最大の力となってきたのです。戦後日本が憲法の道を本当に歩んで来たらどうなっていたかという想像力を働かせることが、現実の歩みへの批判基準となり、今日のオルタナティヴの源泉となります。

素朴なジコチューの眼鏡をはずせば、自国が攻めていくことの危険性が分かります。秀逸な新聞投書がありました。「憲法改正を主張する人たちは、他国が攻めてくることを心配し、自衛隊が必要だ、といいます。しかし、自国が攻めていくことをなぜ心配しないのでしょう」(「朝日」517日付「声」、寺田誠知氏)という問いに続いて、そうなれば自衛隊が殺し殺されるだけでなく、自国がテロの標的とされ治安維持のため不自由となり、言論の自由も制限され、軍事費負担が増える、と指摘されます。自衛隊はそんなことはしない、という意見(これも素朴な感情として空気のようにある)に対しては、戦争法の制定により、地球の裏側までも米軍とともに行けるようになったことが指摘されます。結論。「自国が攻めてゆくことに反対する人間を国は守ってくれません。だからこそ、憲法は国を縛って、戦争ができないようにしたのだ、と私は思います」。憲法の叡智はそこまで深い。確かに憲法制定当時の狙いとして、軍国主義日本の再来を防ぐという意味があったのですが、それが不戦と非武装にまで徹底されたとき、世界の被害を防ぐのみならず、日本人民の平和と自由を守る境地にまで達したのだと思います。日米軍事同盟の眼鏡を通してしか現実を見られない時々の政府が取り返しのつかない愚行を犯すのを防ぐ意味で、立憲主義の普遍性は限りなく重い。

 初めに戻ると、核兵器禁止条約の実現に向かっている今日の過程の意義として、ヴェストファーレン条約1648年)以来の大国中心の国際政治を脱して新しい時代を切り開くものである、ということを川田忠明氏が指摘していました。そこには、軍事力や経済力による支配から、人道と理念による共生に道を開くという意味も含まれるでしょう。もちろんそのような志向は今始まったのではなく、すでに国連の性格に現れており、核兵器禁止条約の実現はそれをさらに画期的に前進させるという意義を持ちます。小沢隆一氏は「第二次世界大戦の惨禍をふまえて国連憲章を基軸にして築かれた戦後の国際秩序は、法と(国内外の)世論の力によって国際社会の平和を実現していくこと(法と世論による平和の実現)に何よりも高次の価値を置いているのであって、軍事力の行使による平和の実現は、あくまでも例外的で副次的な手段の位置に置かれている」(「岐路に立つ戦後世界と日本国憲法の平和主義」2829ページ)として、日本国憲法の前文と9条をそうした国際秩序の中で誕生したと位置づけています。国連憲章・日本国憲法・核兵器禁止条約という「法と世論による平和の実現」の流れを前提に小沢氏は北朝鮮危機を読み解きます。

 ナイーヴなジコチューを外して客観的に見れば北朝鮮問題の本質は見えてきます。現在トランプ政権の脅迫に対して北朝鮮はミサイル実験を繰り返しています。「こうした経緯から見えてくることは、北朝鮮の核開発やミサイル実験が報じられるたびに、『北朝鮮脅威』論が広がるという日本の巷間の状況とは裏腹に、アメリカによる武力攻撃こそが北朝鮮にとって極めて深刻な脅威であって、核やミサイル開発の誇示も、それを回避して『体制存続』を図るための(挑発的で危険とはいえ)手段・方策だということで」す(31ページ)。したがって在日米軍基地こそが北朝鮮にとって脅威なのだから、それは日本に対する外部からの攻撃への抑止力であるどころか、日本に対する攻撃を誘発する原因であることになります(同前)。

要するにアメリカの脅威から体制を守るために北朝鮮は核兵器とミサイル開発を急いでいます。それは以下のような帰結を生みます。

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 北朝鮮に対しては、核兵器による威嚇の力、すなわち核抑止力が実際に強く効いているがゆえに、かえって北朝鮮に核開発を促しているという「ジレンマ」が生じているのである。

 ここに、いわゆる「核抑止力」論の破滅的な問題性が確認できる。それは、いかにも防衛的な響きを持つ核兵器の「抑止力」という名の下で、実質的には核兵器による「威嚇」(核兵器の使用による「国家体制の変更」)を意味するこの理論は、それが現実に効果をもつがゆえに、この威嚇に対して脅威を感じる国は、対抗手段として核保有の誘惑から逃れられないという帰結を生む。このように、「核抑止力」論ないし核による威嚇は、それが「現実」(リアリティ)性を持つがゆえに、その意図を裏切る帰結を生んでしまうという「非現実」性を、すなわち言葉の真の意味の「ジレンマ」(それゆえの理論としての破滅性)を必然的に抱え込んでいるのである。        3233ページ

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 したがって「北朝鮮に核兵器の開発を断念させる決め手となるのは、同国を『核攻撃の脅威』から解放することで」す(33ページ)。小沢氏は、アメリカが核兵器のあらゆる運搬手段を保有している以上、朝鮮半島の非核化では済まず、「全般的な核兵器の縮小から廃絶までを見通すことなしには解決不可能な問題なのである」(33ページ)と主張しています。上記のような危険な核抑止力論を脱して、核兵器禁止条約の実現に進むことが「『法と世論の力による平和の実現』を探求してきた国連システムの本領の発揮」(同前)だというのです。そのように根本的な解決に向かうのは現状ではかなり難しいでしょうが、方向性としては正しいものです。トランプ政権の登場で、北朝鮮危機の先鋭化は実に危ういところに来ています。しかし世論に的確に訴えることができるならば、かえって問題の根源を明らかにでき、先鋭化した問題の当面の鎮静化への努力にも結び付けることができるかもしれません。それにはとにかく日本では、政府とメディアのヒステリックな扇動に対して冷静さを要求しつつ、ナイーヴなジコチュー視点を転換することによって問題の本質に迫れるようにすることが必要です。核兵器禁止条約を目指す運動とともに。そして喧伝される北朝鮮脅威論を克服することが安倍暴走政治を止めるための重要な一歩となります。

 

 

          「二重の意味で自由な労働者」における政治と経済

 周知のように、資本主義経済では、労働力の商品化という関係が成立しなければなりません。そのためには「二重の意味で」自由な労働者が必要です。第1に人格的に自由であり、第2に生産手段と生活資料から自由(それらを持っていない)であるような労働者です。したがって彼らは自己の労働力を(第1に)売ることができるし、(第2に)売らざるを得ないのです。このマルクスの指摘について不破哲三氏は以下のように解説しています(「『資本論』全三部を歴史的に読む」第2)。

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 これは、たいへん大事な指摘です。それは一方では、資本主義社会で、労働者と資本家が平等の権利をもつ市民として国政に参加する民主主義の政治体制を可能にすると同時に、他方では、経済的な貧困と格差の拡大を生み広げる基盤となるもので、その実態は、『資本論』全巻を通じて追求されることになります。         125ページ

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 この部分、「第二篇 貨幣の資本への転化」は商品=貨幣関係から資本=賃労働関係への移行を扱っており、「二重の意味で自由な労働者」はまさにその両関係を反映して登場します。第一の人格的自由は商品=貨幣関係から生じます。商品=貨幣関係を経済的土台として、独立・自由・平等な人間関係が成立し、これが近代民主主義政治の基礎となります。第二の生産手段・生活資料からの自由(それらの欠如)は資本=賃労働関係から生じます。資本=賃労働関係は搾取関係であり格差・貧困の拡大の絶対的基盤です。商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開する資本主義経済の基本構造はこのように二重に読み解くことができ、それは資本主義社会における政治と経済の矛盾、あるいはブルジョア民主主義における形式と内容の矛盾を説明するものです。そのことが、資本主義経済の成立を告げる労働力の商品化=二重の意味で自由な労働者の形成において看取される(歴史的かつ理論的に)、ということを不破氏の説明は教えてくれます。

 あいまいな記憶ですが、確か以前に不破氏は中国共産党の地方幹部と会った際の次のようなエピソードを披露していました。――企業内で活動する日本共産党員が党員であることを隠している場合が多い、ということを彼に言ったら、日本は民主主義社会ではないのか、と驚いていた――

それに対する私の感想は「社会主義をめざす国」のこの共産党幹部は資本主義というもの(あるいは発達した資本主義社会の実態)を分かっていない、ということです。おそらくこの幹部は中国が民主的でないという自覚はあるのでしょう。その反動としてブルジョア民主主義を美化し実態を知らないのではないか。確かに発達した資本主義社会に民主主義の実質はありますが、それは様々に制限されざるを得ないものです。社会一般ではたとえば一応選挙は自由に行なわれたり、思想・表現の自由はありますが、資本主義企業内は資本の専制の領域であり労働者の自由は制限されます。憲法は工場の門前で立ち止まるのです。

安倍政権の暴走による民主主義破壊も二重の性格を持っているように思います。安倍政権は新自由主義と保守反動との野合政権という性格を持っています。政権どころか安倍首相を始め、個々の政治家そのものが野合的矛盾の塊みたいなものでしょう。教育勅語の復活などというのは明らかに保守反動の仕業であり、商品=貨幣関係を土台とする近代民主主義そのものの否定であることは明らかです。しかし共謀罪などに示される人権と民主主義の抑圧は必ずしもそれだけとは限らないように思います。グローバル資本主義への反抗に対して、あらゆる法的・政治的・経済的手段をもってしても抑圧しようというのが資本の衝動です。それは憲法を工場内で停止するにとどまらず社会全体でも無効にしたいということであり、資本の専制領域の拡大という意味を持ちます。したがって安倍政権打倒の闘いは一面ではブルジョア民主主義の擁護であるとともに、他面では資本の横暴への規制という性格を持ちます。それを担う一大勢力は労働者階級であり、そこに属する一人ひとりの「二重の意味で自由な労働者」としての生活と労働に深く根差した闘いが求められます。

 

 

          アメリカ経済を見る視点

 本田浩邦氏の『アメリカの資本蓄積と社会保障』に対する佐藤千登勢氏の書評によれば、本書は戦後アメリカ経済の成功と1970年代以降の悪化を分析しています。本書は「それまで機能していた生産性を賃金に変換するメカニズムが、1970年代以降、うまく働かなくなった」(118ページ)点に悪化の原因を求め、そうなった理由を考察しています。それは利潤の大半が不動産や金融資産の保有に回され、設備投資の比重が低下したことと賃金が引き下げられたことです。その解決策として本書は「所得の再分配の方法を変えることに活路を見い出してい」ます(119ページ)。ベーシックインカムが提唱され、その権利としての重要性が主張され、「その財源としては、トマ・ピケティが主張しているような、所得と資産に対する累進課税の強化、資本に対するグローバルな課税が考えられてい」ます(同前)。

 評者は「論旨は明快であり、著者の主張は的を射ている。アメリカ経済論の新しい地平を拓く良書」(同前)と絶賛しており、紹介された内容を見る限り賛同できるものです。ただ重要な点が気になります。ピケティ『21世紀の資本』を読んだときも思ったのですが、確かに所得再分配政策は重要ですが、その前に生産・雇用のあり方を問うことが必要ではないでしょうか。トランプ大統領を生み出したのは、グローバル資本の行動による米国産業の空洞化とそれに伴う雇用の喪失・劣化です。もちろんトランプにその解決はできません。

 「利用可能な生産的資源を用いて、人々の基本的な生活のニーズを満たすためには、雇用と生活保障を切り離さなければならない」とか「完全雇用を前提としている現在の社会保障制度は、今日のように雇用の劣化が進んでいる社会では機能しなくなっている」(同前)という捉え方は現状認識としては妥当であり、その当面する打開策としての所得再分配も妥当ですが、中長期的には雇用を取り戻すような生産のあり方を追求する必要があります。新自由主義グローバリゼーションに対峙し、内需循環型の地域経済・国民経済をどう作っていくかが課題であろうと思います。

 書評だけ見てあれこれ言うのはいかがなものかと思っていたら、『世界』6月号本田浩邦氏の「武器輸出の経済的リスク」が載っており、日本企業が武器輸出に取り組むことがいかに危険か、説得力を持って展開されていました。またアメリカの軍需企業がパテント保護に頼り生産性を低下させていることやそれを制度的に補完する機構としてTPPや二国間FTAがあることも指摘されており、まさに現代グローバル資本主義の寄生性と腐朽性に迫る内容でした。武器輸出に絡む抑止力論の虚妄を衝いていることも重要です。ヨーロッパにおいて戦争を抑止しているのは軍事バランスなどではなく「悲惨な惨禍をもたらした戦争の経験」(103ページ)だというのです。それは東アジアにおいても(ヨーロッパよりは弱いかもしれないが)働いており、武器輸出やその条件整備の秘密保護法制などはかえって緊張関係を高めるものとして批判しています。

 脱線ついでに言及すると、同じく『世界』6月号スティーブ・フェター「核先制不使用という選択」は核抑止力論に立った考察ですが、核兵器と通常兵器のあり方をあれこれと検討した結論として核先制不使用を提唱している点で興味深い論考です。これはかつてオバマ大統領が核先制不使用を検討したが、同盟国とくに日本の反対で断念したことを念頭に書かれています。平和をめぐっていろいろな立場がありますが、その考察過程はそれぞれに参考になります。安倍政権のように軍事大国化に目がくらんで思考停止でリアルに物が見られないのが困ります。

 

 

          ベネズエラの現状をどう見るか

 ベネズエラで1999年にチャベス政権が発足して以来、中南米では左派政権が続々と誕生し、新自由主義に反対する社会進歩の大きな流れをつくってきました。しかしここ数年はブラジルやアルゼンチンという大国で右派の政権奪回が続き反動の様相を呈しています。そうした中で左派政権の元祖ベネズエラのマドゥロ政権の危機が伝えられています。今年、「しんぶん赤旗」は系統的にベネズエラの状況を報じており、現政権による経済失政と民主主義抑圧の実態をかなり厳しく批判的に扱っています。59日には日本共産党の緒方副委員長が「都内のベネズエラ大使館を訪ね、セイコウ・イシカワ駐日大使を通じて同国政府と与党・統一社会主義党に、政治、経済、社会的危機が深まっている同国の現状に対する懸念を伝え、事態の平和的・民主的解決をはかるように日本共産党としての申し入れを行いました」(「しんぶん赤旗」510日付)。

 「20161031日記」ではありますが、新藤道弘氏はマドゥロ政権擁護の立場から以下のように事態の本質を捉えています(「ベネズエラの現状、熾烈な左右の激突」、『経済科学通信』2017.3  No.142 所収)。

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 対決の中身を良く見ると、表面的な政治上の対決は上辺のもので、対決の本質は、広範な国民の利益のために反新自由主義政策を維持するのか、それとも多国籍企業、寡頭制の一部富裕資本主義勢力のために新自由主義政策を復活させるか、また、ベネズエラに新自由主義を押し付けてくる米国政府・金融資本に抗して国民主権を守るのか、あるいは米国政府・金融資本と連携して国民主権を放棄し新自由主義を復活させるかにあることが分かります。それゆえかってない熾烈な戦い、階級闘争となっているのです。

      8ページ

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 新藤氏は米国などの介入や政府反対派の卑劣な策動なども怒りを込めて書いており、おそらく事態の本質はこの通りだと思います。ただし「しんぶん赤旗」報道などを見る限り、政府側の誤りも相当なものであり、事態の行く末には悲観的にならざるを得ません。労働者を中心とする階級的基盤を持ち、新自由主義政策に反対する社会進歩の道を進む政権が、的確な経済運営を実現して民生を安定させ、民主主義制度を形式的にも尊重し、その内実をさらに深めていくことが、新自由主義グローバリゼーション下でそれと対峙していかに可能となるか、という深刻な問いへの回答を世界は手探りしているのです。

 

 

          財務省の貿易統計操作

 「しんぶん赤旗」が財務省の貿易統計操作を追及しています(591218日付)。共産党の斉藤和子衆院議員が農林水産委員会で、国内で製造されていない人工甘味料・スクラロースの輸入量(20トン)と国内流通量(180トン)とが大きく違っている原因を正しました。財務政務官は業者に悪影響を与える場合は統計に含めないこともあると答えました。いわば政府公認の密輸を認めた格好です。砂糖はTPP交渉でも重要品目であり、農水相はスクラロースの輸入量を砂糖換算しても砂糖消費量の1%に満たないので影響ないと答弁していましたが、実際には5.6%になり、他の人工甘味料を加えれば砂糖消費量の1割を超えるとの見方もあります。統計の恣意的操作によって貿易政策が歪められています。さらには貿易統計の秘匿処理は武器・廃棄物にも及んでおり、安全保障や健康・環境への深刻な影響も懸念されます。

 経済統計を歪めることは政策形成に悪影響を与えます。それは今回のように企業秘密に配慮して行われる他に、政府・与党が世論操作のために都合のいい数字を作り出すことはないでしょうか。おそらく斉藤議員(とスタッフ)は日本農業を守るために統計を調べる中で、スクラロースの輸入量と国内流通量との食い違いに気づき、統計操作を突き止めるに至ったのでしょう。大資本を含む権力は多くの不正に満ちているに違いありませんが、それは必ずどこかにほころびを見せているはずです。それを見出すのは、人々の利益を守る情熱に裏付けられた学びと努力でしょう。

 

 

          ある子ども食堂へのメッセージ

 510日、名古屋市北区の北医療生協ワイワイルームで「わいわい子ども食堂」が実施されました。主催者は北医療生協・名北福祉会(保育園・障害者施設等を運営)・ホウネット(名古屋北法律事務所の友の会)の三団体です。20158月の試行を経て同年11月より毎月1回定期開催されています(夏休み・クリスマスの臨時開催もあり)。174月より子どもは無料化し参加者が増えています。今回は子ども47人の他、サポーター(調理・見守り・事務等)・見学・取材等を含めて112人の参加で大賑わいでした。

 前回より名古屋青果卸売市場の青年部の方から大量の野菜を頂いています。野菜嫌いの子にも食べてもらおうと極めて上質なものを持ってきてくださいました。大量の卵を寄付してくださる会社もあります。お寺おやつクラブのお坊さんからはお菓子を頂きました。私は後片付けと反省会に参加しました。北法律事務所の事務員さんが子ども食堂の受付・事務を担当し、ホウネットの世話人メーリングリストに翌日報告をくれます。以下は私の返信です。

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 いつも迅速なご報告ありがとうございます。子ども食堂への支援の広がりと中身の充実がともによく分かります。

 私は後片付けのお手伝い程度のことで、恐縮ではありますが、反省会にも参加していろいろなお話が聞けることがいいと思います。食材のおいしさとそれを活かす臨機応変の調理のおかげで、驚きと満足の笑顔が広がる様が生き生きと語られました。さらには回を重ねる中で、子どもたちが野菜を残さず食べるようになり、残飯が減ってきたという指摘が印象的でした。

 だからわいわい子ども食堂は、貧困対策であり居場所づくりであるだけでなく、食育の一端も担っていると言えます。それをまとめて表現すると、資本主義的市場経済の中でおざなりにされている生活そのものを取り戻す実践です。多くの人々の心が寄せられ、それに応えて大勢で長い時間をかけて一生懸命に作られます。「テマヒマかけずにカネかける」という消費社会が見失ったものをみんなで回復しているのです。

 戦後最悪の政治が続く中で、生活も仕事も大変になり、多くの社会運動も困難を抱えています。その中で子ども食堂がこれだけ支持され広がっていることは特筆すべきことです。すべての人にこの温かい活気ある現場を体験してほしいと願っています。

                                 2017年5月30日

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