月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2015年7月号〜12月号)。 |
2015年7月号
労資関係と産業像
戦争法案の成立を目的に、現在開かれている通常国会の会期が戦後最長の95日も延長されるという暴挙が行なわれました。今国会のもう一つの焦点が労働法制の改悪です。今村幸次郎・赤羽数幸・三浦宜子・生熊茂実の各氏による座談会「労働破壊の実態と労働法制改悪の対決点 国民生活の安定に不可欠な働くルール」はこの問題を多角的に取り上げていますが、その中で一点、言及したいと思います。
グローバリゼーション下、あくなき搾取強化を追求する財界とそれに呼応して「世界で一番企業が活躍しやすい国にする」という安倍政権によって、労働法制改悪は狙われています。したがって問題の本質の第一は労働者階級と資本家階級との階級闘争にあります。これを生産関係視点とするなら、もう一つ生産力視点として、安全性等を含めて国民生活を支える観点での労働規制が問題とされ、それを前提にして国民的産業が成立できるようにすることが課題としてあります。この点を押し出すことによって、労働条件の問題を当該労働者だけでなく、全国民的課題として提起することができます。座談会では、それについて運輸労働と医療労働を例に言及されています。
たとえばトラック産業は劣悪な賃金・労働条件により若者にとって魅力がないことから、運転手不足と高齢化が進んでいます。これは規制緩和による過当競争で荷主(大企業が多い)による買い叩きが横行する中で、中小トラック企業の経営悪化と労働条件悪化を招いているためです。こうして「国内物流の主役を担」(29ページ)う産業でありながら、交通事故など安全性に問題を抱えることになっています。荷主の責任を明確にするなどして、「トラック産業を人命・人権を最優先に」(42ページ)することが求められます。これは産業一般に通じる問題です。
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日本では何人もの命が失われないと規制がされないという事態が続いてきました。労働者の労働条件や安全を守らなければ、国民の命も守れません。それには事前に法律で規制しないと、事後の規制では事故は防げません。 同前
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建交労(全日本建設交通一般労働組合)は労働条件を改善することで若いトラック運転手を増やしたいと考え、「トラック経営者を含む、大きな共同をつくることに」力を入れ、「適正運賃の収受と人間らしい労働と生活ができる産業にしていくこと」(45ページ)を目指しています。医療でもたとえば患者に対する看護師の人員体制の改善や夜勤労働の規制など問題山積です。「それらは現場の労働者はもとより、国民の生活を支える、社会の一番大事な部分の基準であるわけです」(同前)。そのようなそれぞれの産業の国民経済的使命を現場労働者の過重な「使命感」に担わせているのが日本の現状ですが、ILOの指摘があるように「人員不足をオーバーワークで補う悪循環は断ち切らなければならない」(同前)のです。ここでは「労働運動の奮起」と「資本の側の社会的責任の自覚」ならびに「消費者・利用者の供給側労働への理解」が並んで進まなければなりません。この三者の中ではやはり労働運動が主軸となって啓発と闘争を進めることが重要です。労働は国民経済を支える主体であり、自らの改善が国民生活安定のカギを握っていることを自覚しているのだから、自らの利益と全体の利益との一致を誰に対しても説得力を持って訴える立場にあると言えます。労働条件の改善を軸にした国民生活の安定と国民経済の発展という構図を積極的に打ち出していくべきでしょう。
川村雅則氏の「札幌の公契約運動から なくそう官製ワーキングプア」も同様の視点から注目されます。自治体の財政難を背景に各種の事業・サービスの発注価格が引き下げられ、結果として受注者側の経営難や労働条件悪化により、工事やサービスの質の低下で住民にとってもマイナスになっています。そこで適正な賃金・労働条件などを含んだ公契約条例を制定する動きが各地で出ています。
まず条例制定を目指す共同や対話そのものが重要です。「労働条件の悪化による担い手不足などを業界存亡の危機ととらえ、改善を懸命に模索する」(63ページ)業界団体とのつながりを生むことができます。そして労働運動にとって「公契約条例制定が持つ意味」として「仕事を基準にした職種別賃金への接近や、地域の業界団体と労働組合による労働条件規制などが展望されることも、この運動の魅力で」す(同前)。
今、政治・経済をめぐる様々な課題で保守層を含む一点共闘が成立しています。新自由主義グローバリゼーションがグローバル資本の利益のために、国民経済・地域経済・諸個人の生活と労働を犠牲にする中で、それへの抵抗として、諸個人の生活と労働を守り発展させることを起点に地域経済・国民経済ひいては世界経済を変えていく動きが起こっているのがその基盤にあります。労働条件の改善が国民生活安定・国民経済発展の基礎になるという観点は一点共闘における共通の旗印となるのではないでしょうか。
日本酪農の生産力像
「牧歌的」という言葉が現代日本の酪農にはおよそ似つかわしくない現実があるようです。最近、バター不足が社会的問題になっていますが、そこには酪農家の離脱という厳しい現実があります。野呂光夫氏の「北海道の酪農家の離脱・減少 政府が誘導した生産量拡大の悪循環」によれば、生産資材の高止まり・生産費を割り込む生産者価格など、さらにはTPP交渉の行方も重なって酪農経営の将来不安は増すばかりで、酪農家の減少を食い止めることができません。
「長年の自民党農政が規模拡大と生産量を上げることに重点を置いてきたため」(126ページ)に放牧を行なっている酪農家はごく少数です。「輸入自由化によって、輸入トウモロコシなどの配合飼料を中心にした給餌方式に切り替えるため、施設や機械投資のための補助金をふんだんに出すことによって、規模拡大を誘導してきました」(同前)。そうして年中牛舎に入れられた高泌乳牛の多頭飼育は、乳牛の能力を限界まで引き出して効率的に見えますが、疾病も急増し寿命を縮め、資源としての乳牛が減少して初妊牛の価格が高騰しています。酪農経営の採算が厳しくなり、「乳量の生産拡大による悪循環」(127ページ)が生じています。
これに対して「注目を集めているのが家族経営主体の放牧酪農です」。
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釧路、根室地域で進められてきた「マイペース酪農」の実践と経験は、農地面積にそった適正規模の乳牛を飼育することから、持続可能な酪農スタイルとして広がりつつあります。しかも、海外の資材価格の動向に左右されず、乳牛の疾病も少なく、所得率も高いことが明らかになっています。 同前
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農業における生産力のあり方への反省が始まっているということでしょう。グローバリゼーションに対応しようとする大規模経営の生産力構造が自然にも人にも無理を強い、経営的にも厳しくなっている一方で、自然に寄りそい、家族経営の適正規模にあった生産力像が創造されつつあります。ただし「生乳生産は減少するものの配合飼料を大幅に削減し、粗飼料中心の経営に転換」するという「右肩下がりの経営再建」は「牛にも、労働にも無理がかからない」のですが「関係機関の理解」(同前)が得られにくいという問題があります。
ここで想起されるのが、大友詔雄氏の「バイオガスによる地域産業創出の新たな可能性 地域社会の健全な発展を目指して」(『経済』2014年11月号所収)です。金子勝氏が「六次産業化」+「エネルギー兼業農家」を提唱していました(「『地方創成』という名の『地方切り捨て』 地方に雇用を生み出す産業戦略を」、『世界』2014年10月号所収)が、大友氏はそれをいわば技術的・社会経済的に具体化していると言えます。
大友氏は糞尿処理のバイオガス化によるエネルギー利用で農家収入の劇的改善を図ろうとします。「農家がバイオガス施設を所有できれば、農家の収入増になる。その収入増の分だけ、飼養頭数を減らすことも出来る。飼養頭数を少なくできれば、地域の牧草で飼養することも可能になり、労働負担も減らすことができる。こうして持続的循環型農業の確立に貢献する」(95ページ)というわけです。
この「エネルギー兼業農家」を主軸に、エネルギーの生産と供給、設備の設置・保守・管理に地域の事業者の協力を組織していくならば、ひとつの地域経済循環を形成することが可能になります。この組織化を主導すべきなのが地方自治体です。地域経済振興といえば、大企業の呼び込みでグローバリゼーションに対応する、という発想を捨てて、内発的な地域産業創出をリードするところに自治体のこれからの使命があるというべきでしょう。
野呂氏はまず酪農家の危機を描き、次いで再生へ向けた酪農の生産力像の転換を先進事例に見出しています。そこに金子氏や大友氏によるエネルギーの地産地消と地域経済形成の視点を重ね合わせるのは意義があると思います。それは一見たいへんなようですが、政府・自治体の発想の転換による政治のイニシアティヴ発揮で可能であり、わが国の国民経済がグローバリゼーションの中に融解して、諸個人の生活と労働が破壊され尽くしてしまわないために是非とも必要なことです。
政治論戦と学問研究
鳥畑与一氏の著書『カジノ幻想 「日本経済が成長する」という嘘』に対する大門美紀史参院議員の書評はわずか2ページの中に幾重もの問題提起を含む興味深い論考です。
まずカジノをめぐる政治論戦の構えと発展とについて論じられます。問題の原点は刑法が賭博を禁じている理由であり、最高裁の判例(1950年11月22日)は倫理の他に経済にも触れて「国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあること」(138ページ)を指摘しています。
ところが安倍首相の成長戦略の一環としてカジノを国民経済の起爆剤にする、という正反対の立場からの議員立法が国会に提出されました。そこでカジノをめぐる論戦の対決構図は、推進派の「経済的メリット」VS反対派の「人間的・環境的デメリット」という形になりました。大門氏は各地のシンポジウムで推進派と議論するうちに、経済論でも正面から対決するしかないと思い、独自に論戦を展開してきましたが「もっと理論的、実証的なデータや論建ての必要性を感じていました」(139ページ)。
そこに鳥畑氏の研究が登場し、「まず理論的にカジノそのものが誰かの利益を奪うだけの『ゼロサム』ゲームかつ略奪行為であり、経済的効果などみじんもないことを指摘したうえで」、実証的にもシンガポールやアメリカの現地調査によってその「問題点と衰退のありさまを紹介、分析」しています。こうして「推進派のカジノ経済効果論は本書によって粉々に論破され」ました。それは国民経済的意味においても「刑法が賭博を禁止する意味を今日的に裏付けたといえます」(同前)。
結局、カジノについて「人間的・環境的デメリット」という倫理的問題があることはもちろんのこと、その代償として推進派が持ち出してきた「経済的メリット」も幻想に過ぎないことが明らかになりました。このように一つの問題について、倫理ないし正義論・道義論と経済論という両面から論じることは、たとえば原発問題など他にも見られることです。その際、社会進歩の立場からは、あくまで前者が主軸であるべきですが、実際に人々を動かす要因として後者も重要です。できれば両面あいまって正しさと優位性を主張できればベストであり、大門氏によれば、カジノ問題ではそれが達成されました。また経済論では理論と実証が車の両輪として不可分に働くことが理想であり、これも成就されました。
政治上、真面目に人々の幸せを追求しようとする立場から見るならば、カジノ問題というのは降ってわいた迷惑課題でしょう。ゼロをプラスにする努力ではなく、ゼロからマイナスに転落しないようにする努力が求められるという性格の問題です。そのように情勢から強いられた大門氏の苦闘と「誰にとっても未知の研究分野」(同前)に挑む鳥畑氏の気概とが交差したところに今回の成果があります。それは単にひとつの問題についてマイナスを防いだというだけでなく、「儲かれば何をやってもいいのか、これ以上の弱肉強食が許されるのか、現在の資本主義のあり方を問い直す」(同前)という普遍的意義をも持ったと言えます。
大門氏の書評は、政治論戦を進展させるという動的視点の中に学問研究の発展をクリアに位置づけています。自然科学・社会科学を問わずに、そうした政治とのコラボレーションが多くの分野で、両者の批判的自立性を確保した上で推進されることが、社会進歩にとってきわめて重要です。
歴史認識の課題
『前衛』7月号所収、小松公生氏の「戦後70年と安倍政権 空前の歴史的岐路を迎えた憲法の平和主義(上)」は「戦前の日本がけっしてある日突然に戦時になったのではなく、その背後に市井の人びとの普通の生活があったこと」(37ページ)をきちんと捉えるべきだと指摘しています。
小松氏は「毎日」のコラム(1月6日付)を参考にしながら、山田洋次監督の映画「小さいおうち」を題材に考察を進めます。
映画における現代の一場面……主人公のタキが1936年当時のにぎやかで楽しい都会生活を回想します。それに対して血縁の大学生健史(たけし)は、2.26事件の年にそんなに人々がうきうきしているわけがない、過去を美化してはいけない、と言います。「あのころは軍国主義の嵐が吹き荒れていた」と健史は信じていますが、タキは「吹いていないよ。いい天気だった。毎日楽しかった」と応じます……。
これを受けて論文は、1931年9月18日の満州事変から36年11月25日の日独防共協定締結に至るまで、第一次上海事変、満州国成立、小林多喜二虐殺、日本の国際連盟脱退、2.26事件などを並べた年表を掲載しています。それを見る限りは健史の理解が正しいようです。しかし人々の生活ぶりと時代の雰囲気はそうではなかった。
小松氏によれば、侵略戦争に反対して自覚的に闘う人々は、上記の事件に彩られた当時を弾圧と恐怖を伴う専制政治として捉えていたに違いありませんが、多くの人々にとってはそれらの出来事は身近な事件ではありませんでした。庶民の暮らしが隅々まで軍国主義に染められるのは日中全面戦争(1937年7月)以後のようです。
ところで「後世の人々」はこんな年表を作ることになるのでしょうか。
2012年12月 総選挙で自民党圧勝、第二次安倍政権成立
2013年12月 特定秘密保護法成立
2014年 7月 集団的自衛権行使容認の閣議決定
2014年12月 総選挙で自民党圧勝、第三次安倍政権成立
2015年 9月 戦争立法成立
2016年 ×月 第一次改憲(「国家緊急権」(注)創設などの「お試し改憲」)
201*年 ×月 9条改憲(本格改憲)
(注)「国家緊急権」創設が全く不要であることは、永井幸寿「『災害をダシにした改憲』は間違いである」(『世界』7月号所収)で明快に論証されています。
安倍政権が、原発再稼働、TPP推進、消費増税、社会保障切捨て、沖縄辺野古基地建設強行、等々の反民主主義の強権政治を「粛々と」進めたことを、「後世の人々」は知っているわけだから、彼らは今のことをさぞやひどい時代で不穏な空気がただよっていたかのように思うかもしれません。しかし2015年6月現在、安倍内閣の支持率は50%あり(「朝日」6月22日付発表の世論調査:5月13日郵送して6月15日までに返送された分による。ただし6月21・22日の電話による「朝日」世論調査では39%に急落:6月23日付発表。それでも圧倒的な悪政の割には高い支持率だ)、一定の危機感は徐々に広がりつつあるとはいえ、人々の日常生活はともかくも流れており、少なくとも上辺では「安定」しています。
このことは二つの教訓をもたらします。一つは分かり切ったことで、日常の平穏の底に流れる危険な動向を捉えた者が、普通の人々に情勢の本質を伝えていくことの大切さです。
安倍首相とその取り巻きたち(安倍一族)の「戦争にはならない。何も変わるわけではない。ただ平和のために抑止力を強化するだけだ。左翼やその他の連中が、戦争法案などという誤ったレッテル貼りをして、政府を批判することが平和への備えを妨害することになる…」等々の言説は、「いつもの変わらぬ生活を守りたい」というそれ自身当たり前で正当な日常意識に取り入っているだけに、それなりの説得力があります。
それに対して、政権が対米従属で戦争ができる国を目指しており、民主的諸権利を徐々に奪いつつあるという事実を具体的に示していくことが必要です。今は存在しているかけがえのない日常生活が破壊される可能性があることを訴えていくことが重要です。その際に戦前の「楽しい生活」があっという間に崩れていったことを指摘するのも論旨の補強になります。
もう一つの教訓は説明が面倒になりますが、私たちの歴史認識のあり方への反省です。やはり『前衛』7月号所収の佐藤広美氏の「育鵬社教科書が描く歴史像の矛盾」によれば、その教科書編集会議座長の伊藤隆東大名誉教授(近現代史の泰斗とされる)が育鵬社に関わったのは、東大受験生の答案の大半が過激な左翼のものとしか思えなかったからだ、というのです。実際の学生は左翼の考えを持っているわけではなく、高校教師の考えに忠実に答案を書いているだけで、その答案が左翼的だと意識されていないのが伊藤氏にとっては厄介だと感じられたのです(134ページ)。
伊藤氏は「善玉と悪玉の葛藤という、きわめて単純で、イデオロギー的な歴史観」(同前)として左翼を批判しています。これは実際の左翼的な歴史学研究者に当てはまるとは思えませんが、先の東大受験生や学生、あるいは「小さいおうち」の健史、また私たちには一定妥当するかもしれません。
「教科書と年表」(前出の小松論文、38ページ)による社会認識と「喜怒哀楽に彩られた日常生活に寄り添う」(同前)ような生活状況把握とが乖離し、後者を忘れて前者だけで社会や歴史を語ると実感が欠如して説得力が乏しくなるでしょう。このあたりを体制派や右翼勢力は衝いてくるように思います(たとえば「戦前は決して悪い時代ではなく、楽しい生活があった」という言説)。
社会認識・歴史認識においては、「現実から一定の距離を置いた俯瞰」と「現実への密着」との双方が必要です。前者が本質を捉えやすくし、後者が現象のありのままの把握と「地に足の着いた」問題意識の発生を促します。戦時に関して、民主勢力は戦争体験を発掘し(現象把握)、戦前から戦後への社会変革の法則的展開(本質認識)を捉えてきました。それに加えて、「小さいおうち」に見られるような(十五年戦争中ではあっても日米戦中とは区別される)戦前の社会と生活の現象を把握し、それと戦争との関係を解明して本質的歴史認識をさらに豊かにすることも必要かと思います。
そして何より重要なのは、今の時代の生活のあり方と社会意識とを、戦争立法策動に代表される安倍政権の暴走との関連において把握することです。一方で、先の「後世の人々の年表」のような俯瞰した視点による各事象の位置づけをしっかり確保しつつ(スウィージー『歴史としての現在』序文に倣って「現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めること」が必要です)、他方で、人々の日常生活・日常意識とそれに規定された社会意識に密着しそこから出発する深い社会認識を社会進歩の立場に生かしていく必要があります。
どのような困難な状況に置かれても、生活者はそれをはねのけて生きていこうとします。その活力は一方では、分断された諸個人がそれぞれに悪政への忍耐力を発揮し、無理して「楽しく暮らしている」という状態に向けて利用される可能性があります。それは他方では、諸個人が連帯してより良い社会のあり方を目指して変革に立ち上がる力に転化する可能性もあります。後者を現実化するために、「教科書と年表」による社会認識を発展させて、「喜怒哀楽に彩られた日常生活に寄り添う」(同前)ような生活状況把握に基礎づけられた境地にまで至る必要があります。私たちは生活と労働の機微を捉える感性を持ちつつ、社会変革の展望を語ることができなければなりません。
日本社会では一方に民主主義のそれなりの定着があります。しかし他方には新自由主義によって破壊された社会状況の中で分断的かつ反動的なアベノソーシャル(安倍的社会)が跋扈しています。そういう錯綜した今日の情勢を打開し、今を「戦前」にしないために、また変革の運動を大きくしていくためには、人々の「生活への愛」を反知性主義の反動勢力に渡すのではなく、進歩勢力が理性的に獲得することが必要です。歴史認識をめぐる争いはその一環です。
勝利見据えて国会会期95日延長を捉える
国会が戦後最大の95日も大幅に会期延長されました。これを聞いた瞬間、実は問答無用の戦争立法策動など、支配層の決意の固さに無力感に陥りました。しかし気を取り直すと、ピンチをチャンスにする可能性も見えてきます。
国会審議が思うに任せず、安倍内閣が追い詰められた結果だとはいえ、この延長で戦争法案可決の可能性が高まったことは事実でしょう。それは冷厳に認める必要があります。しかし圧倒的な世論をつくればなかなか採決はできない、という意見もあります。確かにそう言い続けることが政権への圧力になり、世論を盛り上げる助けにもなりますから、そう言い続けることには意味があります。しかし「安倍政権が世論を考慮する」ということそのものは幻想にすぎません。それは普通の常識を持った保守政権には適用できる命題であっても、安倍政権には適用できません。たとえ支持率ゼロになっても安倍首相は強行採決するでしょう。事実、国会答弁でも世論の支持がなくても時期が来たら「決める」と言い放っています。60年安保やPKOを例に出して、採決のとき国民の理解がなくても後から理解されたなどと言って合理化しています。両例とも悪政の極みなのですが…。
首相の親衛隊である自民党若手議員の「文化芸術懇話会」の6月25日の会合で、言論弾圧及び沖縄侮辱の発言が飛び交ったことが大問題になっていますが、自民党総裁たる首相は謝罪せずまともな処分もしません。実質的にあくまでかばっています。自分のホンネをあけすけに言ってくれたカワイイ連中をむげにはできない、という姿勢がありありと見てとれます。この一件によっても、首相とその取り巻き・安倍政権中枢(安倍一族)は想像を絶するほど愚劣で傲慢だということが改めて露呈しました。普通の保守をみる目で安倍一族を見てはいけない。国会論戦でどんなに追いつめられようとも、圧倒的な反対世論に包囲されようとも、一切関係なく強行採決をする腹は決まっていると見るべきでしょう。ならば戦争法案の可決は必然で、我々の敗北はもう決まっているのか…。そんなことはない、ピンチをチャンスにすることはできる、と考えます。
話はややそれますが、国会の憲法審査会がしばらく閉じられるようです。本来、憲法改悪策動の舞台であったものが逆に戦争立法阻止の舞台に「暗転」してしまったからでしょう。そこまで道理と世論のレベルでは私たちが追いこんでいるのです。支配層の悪の策動がその狙い通りにいくどころか、善の作用に逆転することもありうるわけです。
「政治改革」の美名で最悪の反民主主義の小選挙区制を導入した1994年の国会において、実際には政治改革法は不成立のはずでした。参議院で否決され、支配層の意を受けたマスコミが大騒ぎして、土井衆議院議長の斡旋による細川首相(非自民連立政権)と野党の河野自民党総裁との談合によっていっそう悪く修正し可決されました。前哨戦としては、疑獄が多発し政治不信が蔓延する下で、細川内閣の前の自民党・宮沢内閣のときから、この政治危機を逆手に取って、保守独裁体制を確立すべく、政治改革の名の下に小選挙区制導入が鳴り物入りで喧伝されました。したがって細川内閣のときの政治改革法案は成立確実とみられていたのですが、想定外に参議院で否決されるに至ったのです。最後にはインチキな逆転劇に終わったのですが、正論による闘いは最後まで予断を許さないところまで行ったのです。何につけても、国会内外の闘いを結集すれば、初めから敗北が決まっているということはありません。
今国会の戦争法案をめぐる論戦で政府答弁は内容的にはボロボロです。もはや強弁で形だけ取り繕っているばかりです。それでも安倍一族は多数議席さえあればどうにでもなる、理屈など何でもいい、とタカをくくっているのでしょう。もともと憲法を守る気などないし、「血の同盟」を実現する「気概」でやっているのだから、「イラク戦争のようなものには参加しない」という嘘くらい何でもないことです。
しかも上述のように安倍一族にはわずかな良識も期待できません。強行採決の決意は固い。しかしどんなに強大に見えるものにもアキレス腱はあります。安倍首相の権力の源泉は絶対多数を制した国会議席です。したがってこの議席を流動化させればその力は失せます。
与党議員は全員が安倍一族だというわけではありません。先の安倍親衛隊とは対照的に、首相とは多少距離を置く若手議員たちが勉強会を準備したら党の指示で中止させられました。彼らとかおそらく他にも多少の良識を持っている議員はいるでしょうし、それでなくてもどの議員も何より自身の議席確保が大事です。彼らの支持基盤である地方議会では反対や慎重審議の議決が相次いでいます。国会論戦での攻勢と世論の包囲をさらにヴァージョンアップしていけば、浮足立ってくる与党議員も出てくるでしょう。「安倍と心中するわけにはいかない」。
そうなれば政権が足元からゆすぶられ、採決を見送る可能性もあります。強行採決で否決されればもっと劇的ですが…。最良の場合は、自民党内クーデタによって安倍首相が引きずりおろされる可能性もあるでしょう。次の自民党総裁選挙をにらんで、どんな動きがあるか予断を許しません。まあしかし、取らぬ狸の皮算用は禁物です。すべての前提は圧倒的な反対世論の形成です。
長い長い国会会期は政権にとっては万全の備えですが、彼らにとって「吉」と出るとは限りません。場合によっては、安倍政権崩壊という「凶」を引かせるチャンスさえあると見ます。「後世の年表」の2015年9月には「戦争立法成立」の替わりに「長い会期が仇となり、与党議員の反乱で安倍内閣崩壊」と記入したいものです。もちろんそのためには反対世論の高揚や議員への働きかけなど、できることはすべてやらなければなりませんが。
最後に。若者たちの活躍が素晴らしい。6月27日、SEALDs(シールズ:自由と民主主義のための学生緊急行動)が渋谷ハチ公前で行なったアピール街宣から、3人の若者たちのスピーチが「しんぶん赤旗」6月28日付に載っています。勇気と知性にあふれ、社会進歩の大道に則った訴えです。若者たちは、野蛮な反知性主義が支配する安倍政権の策動を「私たちなら止められる」と立ち上がりました。彼らに後れを取らないようにともに新たな歴史をつくっていきたいと思います。
2015年6月29日
2015年8月号
経済政策を見る視点 階級的観点と価値論
金融政策が実体経済にいかなる影響を与えるかについては、一般的なものから具体的なものまで様々な考察がありえます。アベノミクスの異次元量的金融緩和を対象とするならば、まず新自由主義の本質を<実体経済の強搾取+金融の投機化>と規定し、強搾取による内需縮小を前提に異次元金融緩和がそうした実体経済にいかなる影響を与えるかを捉える必要があるでしょう。松本朗氏の「『異次元金融緩和』と円安・株高 アベノミクスは国内景気回復をもたらしたのか?」は、異次元金融緩和が実体経済にいかなる影響を及ぼしたかについて、国際関係を考慮しながら階級的・価値論的に解明しています。
松本氏はアメリカのラディカル派に依拠して、「金融政策は単に中央銀行の独立性の下で中立に行われるのではなく、その時々の階級的利害関係の結果である」(132ページ)と主張しています。そこでまず問題となるのは、異次元金融緩和下における円安による輸出大企業の好業績とそれと対照的な勤労者家計および中小企業経営の苦境との関係です。
従来の円安局面であれば、輸出数量が増えて国内生産が活発化し、産業連関を通して国民経済全体に好影響を与えてきました。ところが今回のアベノミクス下では、輸出数量は増えず、国民経済への好影響がなく、逆に円安による輸入物価上昇が消費生活と国内生産に打撃を与えています。しかしながら輸出企業にとっては円の手取り額は増えるので「名目的」収益増となります。論文はその仕組みを丁寧に解説していますが、ここまではよくある説明ではあります。松本氏はさらに輸出企業の利潤の源泉を問題にしています。
輸入物価の上昇を引き起こした円安は商品輸入のための外貨の高価格の裏返しであり、円安(外貨の騰貴)は、外貨を購入する経済主体の手放す円価の増大と、それとは逆の外貨を売る経済主体の手にする円の増大をもたらしています。したがって輸入物価の上昇は国内の外貨を売る経済主体の外国為替相場差益を実現する源泉だと言えます。海外での販売増加(輸出の増加)を伴わない円安による収益の増加は、輸入物価の上昇を通して、国内所得の再分配(輸入企業の剰余価値及び家計所得の輸出産業への移転)を起こしているのです。こうして為替相場変動の国民経済内での所得移転効果を見ることができます(135ページ)。
次に、円安にもかかわらず輸出数量はなぜ増加しなかったかが問題となります。その原因としては「輸出産業の生産拠点の海外移転によって国内産業の空洞化が進んだことが挙げられ」ます(136ページ)。その結果、「輸出数量が伸びず生産が拡大しないなかで、国内労働者の賃金圧迫によって国内購買力は縮小してい」ます(同前)。賃金の低迷による内需縮小は産業空洞化の原因でもありますから、ここに低賃金と産業空洞化の悪循環が形成されています。口先では賃上げを推奨しながらも、それに逆行する非正規労働の拡大や残業代ゼロ賃金の導入を「成長戦略」の主柱にするアベノミクスは経済政策の肝を外してグローバル資本に奉仕し、人々の生活と国民経済の破壊を激化させています。
こういう結果を招いたアベノミクスの「現実認識の間違いと経済理論の間違い」を指摘して、山家悠紀夫氏は「安倍政権と日銀が、日本経済の賃金低下による需要不足という現実の問題を見」ずに「日銀が物価上昇目標をかかげたら、みんなの考えが変わってくるはずだ」(「日本経済を長期停滞にみちびくアベノミクス」、『前衛』8月号所収、140ページ)としていることを批判しています。さらに山家氏は物価・金利・国債価格・株式価格などを検討して異次元金融緩和はやめるにやめられない、と予想しています(同前)。松本氏も「景気回復感なき国内経済に直面した日本銀行の出口無き『異次元の量的緩和政策』の継続と、そのさきにみえるインフレーションという結末」(前掲松本論文、136ページ)を危惧しています。
搾取強化や福祉切り捨てなどによる国民経済の低迷は、グローバル資本の行動様式と政府の経済政策(労働・社会保障政策を含む)の誤りによって実体経済にかかわって生じています。それを看過して(あるいは見て見ぬ振りをして)金融政策に問題ありとして導入されたのが異次元金融緩和であり、まさに診断も治療方針もそろって間違っているがために、「金融危機→実体経済危機」が危惧されるに至っています。根本的誤りの部分を是正して、実体経済の足腰を強めるべく内需循環型の地域経済・国民経済を形成することが、迂遠に見えても低迷から脱して危機を回避する道ではないでしょうか。
閑話休題。生産拠点の海外移転による産業空洞化によって、円安下でも輸出数量が低迷する事態になっていますが、その低迷の原因として、円安でもドル表示価格を下げないというグローバル資本の行動様式があります(松本論文の「ケース2」、134ページ)。それを下げない理由として吉田敬一氏は「グローバル循環戦略」を指摘しています(「日本型グローバル化と中小企業問題 亡国のグローバル循環から持続可能なローカル循環へ」、『経済』2014年12月号所収)。たとえば自動車産業の場合、「海外生産拠点の生産能力は、損益分岐点と生産効率を考慮して」(19ページ)一定ユニットが決められており、海外消費地で需要が超過した場合、「補完的供給拠点が日本である。すなわちグローバルな需給調整機能の拠点の役割を日本工場が果たして」おり、「同じ車種を世界中で生産・販売しているので、…中略…円安になっても日本からのドル建て輸出価格を引き下げられない」(同前)のです。したがって輸出量の増減は為替レートよりも、海外現地での需要状況に左右されます。
以上は、アベノミクスの円安効果によって、勤労人民や中小企業から輸出大企業へと国内の所得再分配が生じ、国民経済縮小をもたらすことを見ました。次いで量的金融緩和政策と円安が国内購買力の海外移転を促進することを見ます。
日銀からの緩和マネーは外国資本にとっては為替変動リスク・フリーの円資金(邦貨)です(141ページ)。すると以下のようなプロセスが進行します(142ページ)。
異次元の量的緩和政策→株高→外国系金融資本の日本株への投資とキャピタルゲインの実現→キャピタルゲインの本国への送金→円安促進要因
松本氏はこの意味を次のように解説します。
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日本銀行の異次元の金融緩和政策は国内銀行の貸し出し余力(クレディタビリティ)を増やし、それが貸出を増加させた。しかし、増加した資金(信用創造によって増えたマネー・サプライ)は、保険・証券会社などの金融資本の投機的行動を通して、彼らにキャピタルゲインを生んだ。このキャピタルゲインは、日本国内の剰余価値および家計の所得のうち蓄蔵貨幣として株式投資に回っていた部分が、株式市場を通じて金融資本側に移転した結果である。そしてその移転所得が為替市場を通してアメリカに送金された姿が、米国の対日所得収支の受取増加であったといえよう。つまり、日銀の異次元の金融緩和政策は株式と為替市場を通して国内の所得をアメリカへと移転させ、アメリカの景気回復を支えたと言えそうである。 142・143ページ
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以上から、アベノミクス下の異次元量的金融緩和政策は大きく二つのことをもたらします。一つは、円安によっても輸出数量が増加せず、輸出大企業の名目所得だけが増加し、それは家計や中小企業が円安による物価高に苦しむのと裏表であり、後者から前者へ所得移転したことを物語っています。つまりこの政策は「国内の格差構造を広げる基本的な原因の一つ」(143ページ)となっています。
もう一つは、アメリカなどの資本が日本の株式市場などでキャピタルゲインを獲得し本国へ送金することで、日本国内の新価値(V+M)がアメリカなどへ移転することです。この移転の過程が円からドルへの変換を促し、円安を促進し、上記の国内の格差拡大効果を増幅させます。
結局、アベノミクスの異次元量的金融緩和政策は、日本の働く人々が作り出した新価値(V+M)の一部を輸出大企業とアメリカに移転し、そのことによって国民経済的には貧困と格差を拡大し、不況圧力を高める方向に作用します。このように、中央銀行の金融政策について、そのタテマエの裏にある本質を捉えることが重要です。その課題について、松本論文は、グローバリゼーション下での金融政策という角度から、価値移転のあり方を通して国際的関連の中での階級的作用を把握していると思われます。
おじさん・おばさんたちは本気で勝つ気か?
戦争立法阻止闘争勝利のための断想メモ集
―悪法製造国会における議会制民主主義の動態分析考など
戦争立法阻止闘争が山場を迎え、あれこれと思い浮かぶことはありますが、全体としてまとまらないのでオムニバス風に並べてみました。
○戦争立法阻止闘争への取り組み姿勢
「幸か不幸か、アベのおかげで第二の青春」。集会・デモ・学習会・街宣等々……まったく学生時代以来の忙しさになっています。「シールズ」や「あすわか」などの活躍ぶりを見ると、若者たちが本当に勝つ気で取り組んでいるのが伝わってきます。
日本共産党の中央直属党組織の決起集会で山下芳生書記局長は「いま党勢拡大で新たな高揚をかちとることは、戦争法案を本気で止める≠ニたたかう国民、青年・学生の願いに応える道です。国民・若者の『本気』に、私たちも本気で応えたい。本気になれば知恵も生まれます」と訴えました(「しんぶん赤旗」7月15日付)。場の性格上、党勢拡大が中心になっていますが、戦争立法阻止闘争での若者たちの本気さに刺激されていることがよく分かります。中高年も本気になって知恵を出そう、と叫びたいところです。
私たちは何かにつけ「善戦健闘」が染みついていて、本気で勝つつもりにならないという悪習がないでしょうか。もちろん闘わずして負けるのは最悪で、今後に悪い影響を残しますので、「善戦健闘」に意味があることは確かです。一般論としては。しかし今回はそれで良しとするわけにはいきません。この問題の重大さはけた外れですから勝たなければいけません。政権・反動勢力は世論の逆風をついても政治生命をかけて襲いかかっています。正しいだけでは勝てません。ここで「立場の正しさに寄り掛かった生き方をしない」という姿勢が求められます。「正しさの自己満足による惰性と紋切り型」を排した運動の力点の探索と工夫が必要です。「上から言われたことをやる」というのではなく、一人ひとりが展望をもち、運動の主人公となって勝つための活動をつくっていくようでなければ負けます。
○潜在的敗北から潜在的勝利へ 「異常政権」への対し方
安倍首相とその取り巻き(安倍一族)に普通の保守政権を見る常識は通用しません。「いくらなんでも世論を完全に無視した採決はやらないだろう」と見ることはできません。彼らは一貫して強行採決の意思を表明しています。議席を握っている限り強行採決する決意は固いと見なければなりません。
安倍首相の力の源泉は与党の圧倒的多数議席です。反対勢力にとって、道理での圧倒と世論の獲得は勝利の必要条件ですが十分条件ではありません。現時点で必要条件の達成は大いに確信にすべきですが、それだけでは足りないという自覚を欠くならば負けます。勝利の展望は与党議席の切り崩しにしかありません。
反対勢力は「量的変化の質的変化への転化」を実現しなければなりません。国会論戦とデモ・集会等での世論の圧力など数撃つジャブが少しずつ効いてきてその蓄積がある限界を超えれば倒せるところまで来ます。問題はどこにその臨界点を見出すか、です。そこで
それなりに世論と道理に配慮するという最低限の良識さえない政権の存在を念頭にした
「潜在的勝利」概念を提起したいと思います。
一般的には「潜在的勝敗」概念がありえます。選挙によって国会議席は決まり、与党はたとえ悪法であっても法案を通せる状態にあります。このとき悪法阻止の人民の運動は「潜在的敗北」状態にあります。これが通常状態であり、「平時」と表現できます。もちろん人民はそれで諦めるわけではなく、様々な運動を繰り広げて闘い、ときには悪法の成立を阻止することができる場合もあります。しかし多くの場合は「潜在的敗北」状態が現実の敗北になって終わるだけです。想定内の面白くもない結末です。だから一般的に「潜在的勝敗」概念を提起してもあまり意味がありません。
しかし悪法の理不尽さが極まっており、反対世論が沸騰するような非通常状態、いわば「有事」には事情が異なります。この時、与党議席が流動化し、総理・総裁の議席把握が危機に陥る可能性があります。「有事」における「反対運動の高揚」と「政権の強行採決の決断」との対抗の帰趨は与党議席の流動化の度合いに依存します。採決不能とみられる状態まで追いこめば、人民の「潜在的勝利」であり、そこまで行っていなければいまだ「潜在的敗北」状態にあります。つまりある時点で採決を仮想し、状況に応じて可否を予想することで、その時点での運動の到達点を量ることができます。2015年7月末の時点では安倍首相の与党把握は健在ですから、私たちは依然として「潜在的敗北」状態にあることを直視し、世論の一層の獲得と議員工作を強め「潜在的勝利」状態への転化を図ることが必要です。
○勝利のイメージ 政権打倒
反対運動の「量的変化の質的変化への転化」を象徴するのは「国民的雰囲気」の様変わりです。これまで世論を無視した政策を粛々と断行しながらも、政権が高い支持率を誇ってきたのは、アベノミクスへの幻想と、マスコミが流す「なんだかんだ言っても首相はよくやっている」というイメージによるところが大きいと言えます。しかしさすがに戦争法案への反発は政権の失速を明白にしており、「アベ総スカン状態」「おバカなアベシンゾーにはもうウンザリ」を「国民的雰囲気」にするところまであと一歩に迫っています。私たちの運動とも相まって、さらに人心の政権離反を加速度的に進行させるならば、政権維持が困難になる状況もあり得ます。
安倍政権は8月には、戦争法案だけでなく、川内原発再稼働、翁長知事による沖縄辺野古基地埋め立て承認取り消し、戦後70年談話の発表、労働法制改悪、TPP推進等々の難題を抱え込みます。すでに戦争立法阻止闘争においても安倍内閣打倒の声が高まっており、9月の自民党総裁選挙をにらんで、与党内でもどのような動きが生じるか、予断を許しません。
戦争立法阻止闘争はそれだけでも数十年に一度の大闘争ですが、この難題山積の中で、戦後最悪の安倍政権における数々の悪政の集大成への反発を総括した闘争という性格さえ持つに至り、倒閣運動に発展しようとしています。これは選挙によらない非暴力直接行動による政権打倒運動だと言えます。ここには1989年の東欧諸国における社会主義政権崩壊のドミノ倒しを想起させる部分があります。両者には、国と時代を超えて、世論の沸騰と大衆的運動による社会進歩の実現、という最も重要な事項の他に、次のような共通点があります。
ドミノ倒しというのは、当時の東欧諸国の場合は各国の政権が連鎖的に崩壊したことを指しますが、今の安倍政権においても諸政策における矛盾の蓄積の連鎖的崩壊という意味では、その政権が崩壊したならばそれはドミノ倒しと言えます。
「選挙によらない」というのは選挙による変革が困難だという事情を表現しています。当時の東欧諸国は「マルクス・レーニン主義」政党の事実上の独裁体制であり、民主的議会選挙はありませんでした。選挙による政権交代はあり得なかったのです。それに対して日本はどうでしょうか。確かに今日の日本は国民主権と基本的人権の尊重に基づく議会制民主主義の体制となっていますが、実際には小選挙区制による事実上の保守独裁体制が確立して、民意に基づかない政策が粛々と断行されています。自民党は総選挙における比例代表選挙部分においては絶対得票率17%ばかりで、小選挙区制効果によって公明党と合わせて3分の2以上の絶対多数議席を確保しています。今日の日本では小選挙区制によって民主主義が形骸化しており、選挙による政権交代が著しく困難な事実上の独裁になっていると言わねばなりません。したがって、選挙によらない非暴力直接行動による政権打倒は今日の日本における人民の革命権の正当(正統)な実現形態だと言えます。
○安倍政権への見方
安倍政権では反知性主義が跋扈し、際立った右翼的性格もあることから、この政権の性格を何か逸脱した異常な特殊キャラとして捉える見方があると思います。確かに広範な保守層とも連携して政権打倒を目指す上では、その突出した異常性を強調することも必要です。しかし安倍政権がやっている集団的自衛権の行使容認・戦争立法の確立・様々な新自由主義的構造改革の断行は、明らかに米日支配層の悲願を受けてその利益を強力に実現するものであって、安倍晋三個人の趣味や怨念でやっているわけではありません。逆に言えば、安倍政権のような極めて異常な政権を番頭とせざるを得ないほどに、米日支配層の反動性と腐敗堕落が頂点に達しているということを銘記すべきでしょう。その支配の反人民的性格を安倍政権は象徴しているのです。その独裁的性格も本来の保守反動由来であることはもちろんのこと、その他に新自由主義的には、生産過程において資本が労働に対して持っている専制支配が政治にまで延長されたもの―搾取者の利害を政治支配で貫徹するための強権性―としても捉える必要があるように思います。
いくら攻撃され空洞化された部分があるとはいえ、依然として日本国憲法をいただく日本社会において、安倍政権の存在そのもののぎごちなさは際立っています。「マスコミを懲らしめろ」とか「法的安定性は関係ない」とかいう「安倍一族」の言動はいかにも政権のホンネを語っておりその性格へのぴったり感に満ちていますが、同時にそれらの日本社会での違和感も圧倒的多数の人々が共有するところでしょう。
自民党憲法草案といういわば一種の裏社会の法イデオロギーにどっぷりつかった人々が、日本国憲法に基づくはずの表社会の政権を担っているということから来る滑稽さ・とんでもない喜劇に私たちは日々、苦笑せざるを得なくなっています。ただし新自由主義的資本蓄積による格差と貧困の拡大下で、怒りと閉塞感をため込んだ人々の中には、それを滑稽とも思わず共感する向きもあるでしょう。この状況はもちろん取り返しのつかない悲劇に向って突進しているわけですが、それを笑い飛ばしてはねのけることができるかどうか、そこで私たちの民主主義が試されます。
○勝利のための実践的政治科学+民主主義の二重性
以下は、法学・政治学の知識が全然ないので放言のレベルに過ぎません。今回の戦争立法阻止闘争のようなものに参加すると、一般的に「もっと頑張れ」という以上の何か勝利の展望に通じる行動のあり方についての研究がないだろうか、と寡聞にして思うわけです。経済学に対して経営学があるように、政治理論に対して、「勝利のための実践的政治科学」のようなものがないだろうか、と。そこで前述のように稚拙ではあっても「潜在的勝利」概念を提起して、運動の情勢判断や実践的方針提起の基準にならないだろうか、と思ったりします。
戦争立法を始めとする安倍政権の暴走に対して反対の声が高まっていますが、その際に大ざっぱに言えば、政府・与党の「改革」の中身自体への反対と「改革」の進め方での民主主義ルールの破壊への反対という二側面があります。安倍政権下に限らず、闘争の内容については、<支配層の利益貫徹を目指す「改革」VSそれを阻止する人民の闘争>という対決構図になります。それに付随して、闘争のルールとしての民主主義形式の尊重も問題となります。戦争法案の場合、その「安全保障政策」としての中身のとんでもなさもさることながら、違憲性や法案を押し通すために民意を一切無視して強行採決するという民主主義ルールの破壊も大きな反感を招いています。
内容の反動性が形式の反動性を規定しているという関係です。人々の反感を呼ぶような法案は多くの場合、憲法にそぐわないものであり、そんなものを国会に通すためには、まともな議論をして支持を得ながらというわけにはいかないので、民主的ル−ルなど守っていられないという状態にたいていなります。
ここには民主主義を考える際に問題にすべき二重性とでもいうべきものがあります。仮に民主主義実質と民主主義形式とでも言いましょうか。もともとデモクラシーは人民の権力という意味です。これは民主主義実質を現わしており、その実現には必要なルールを充足した民主主義形式も不可欠です。
アナロジーとして、資本主義の二重性を採り上げると、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係があり、前者が形式であり、後者が実質ということになります。そしてこれは単なるアナロジーに留まらず、このような経済関係が民主主義政治のあり方に反映している、と考えられるのではないか、とも思います。
そこで当面する戦争立法反対闘争とは相対的に区別して考えるべき問題ですが、注意して見ておくべき事柄に触れます。「朝日」は戦争立法に反対し、当然のことながら先の衆院での強行採決にも断固反対しています。それはもちろん結構なのですが問題はなぜ強行採決に反対するか、その理由です。
星浩特別編集委員は、強行採決について「政権への批判が高まり、支持率は下がり続けるだろう。政権の体力が落ちていくのは避けられない」として以下論じます。
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深刻なのは経済政策への影響だ。TPP(環太平洋経済連携協定)の合意に向けて、族議員や業界団体との折衝が大詰めを迎える。合意後には国内対策も必要になる。勢いを失いつつある政権が乗り切れるだろうか。社会保障の改革も待ったなしだが、歳出カットへの抵抗をはねのけられるだろうか。政権発足時に掲げた大方針は「経済最優先」だったのに、高い支持率という「資産」は、経済再生ではなく、安保法案の処理につぎ込まれた。
「朝日」7月19日付
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こういう立場とも戦争立法阻止闘争では共闘すべきことが前提であることはあらかじめ言明しておきます。その上で批判します。
星氏は民主主義形式の破壊に反対する立場から強行採決に反対しています。ところが彼にとって民主主義形式が必要なのはTPPを推進し、社会保障を削減するためなのです。それは民主主義内実を破壊することです。つまり民主主義に関して、内実の破壊を形式的正当性下で推進し、民主主義の正統の中に位置づけられるようにするのが狙いです。ブルジョアマスコミの役割がここにあります。人民の同意を無視して突き進む安倍政権に反対しつつ、民主主義形式を回復しながら、イデオロギー支配によって、人民の「同意」に基づく「痛みの分かち合い」(実際の中身は人民犠牲による支配層の利益の確保)を実現しようというわけです。安倍政権とは違って、より「理性的」に、民主主義形式を充足した中で支配層の利益を貫徹する立場です。
民主主義形式の擁護は無条件に必要であり、その課題での共闘も同様です。ただしそこで民主主義内実がどう扱われようとしているかを注視すべきでしょう。その前提として民主主義の形式と内実とを分析的に見ることが必要です。民主主義の二重性が資本主義の二重性の反映であるならば、経済的土台における資本主義の搾取強化への不断の衝動が、政治的上部構造において民主主義内実の破壊につながる傾向があることを忘れてはなりません。
○世論の現状認識
安倍首相は、60年安保もPKOもそのとき世論は支持しなかったが、その後、支持されたのだから、今回も世論を無視してでも「正しい」法案を通すべきだ、と主張しています。私たちの立場からすれば、1960年の安保改定もPKOの創設も今回の戦争法案も同様に間違いですから、首相の言い分は到底受け入れられません。
しかし前二者については、確かに世論が当時の反対からその後の支持に変わったこと自体は事実です。そこで忘れてならないことは、安保にしてもPKOにしても激しい反対運動があり、その後の世論の監視があったからこそ害悪が抑えられ、結果としてその後の世論の容認傾向が広がったということです。ここには反対運動の中途半端さが反映しており、それはまた、特に安全保障問題での世論調査において、いつも既成事実を追認する傾向が強い、という世論の悪弊の一つの理由ともなっています。こうした事情は、安倍首相のような独善的な悪法合理化論が生じる理由を明らかにしています。世論を積極的方向に変えていく上で、平和とは何かについて本質的に訴えていくことの重要性を感じさせる問題です。
○「理解」とは何か
理解の本来の意味は、「その対象への価値判断を問わず、それを把握する」ことのはずです。ところが昨今、政府法案への「理解」が進む、などと使うときには、「その対象を肯定する」というニュアンスを含みます。しかしさすがに世論調査で戦争法案への反対が多数を占める状況を受けて、これは理解が進んだからこそ反対が多くなったのだ、と本来の意味で理解という言葉が使用されるようになってきました。
政府の言う「理解」では、対象は良いもの・肯定すべきものという前提があって、その(本来の意味での)理解が進むならば肯定に至るはずだ、という論理構造になっています。「丁寧な説明」もこの論理構造の中にあります。ていねいに説明さえすれば「理解」に至るというわけです。しかし実際には、無理無体・人民にとって不利益になることで、しかもそれが見えているから、そうなることをごまかすために言葉を費やすことを「丁寧な説明」と呼んでいます。そんな状況なので、「丁寧な説明」が実現したことは一度もなく、ただ時が来れば反対を押し切って「粛々と」実行するのがいつもの結末です。
○ 勝利をわれらに
“We shall overcome someday” と歌われますが、ここで“someday”は社会進歩の運動の普遍性に対応しています。長い目で見ればどの運動もいつかは実現すると言えます。しかし具体的にその時々の運動に応じて、ここは別の言葉に代えて歌うべきではなかろうかとも思います。この9月にはベストの結果として狙うのは安倍政権打倒ですが、最低でも戦争立法阻止を勝ち取ることが必要で、負けられません。戦後70年、一番「熱い」夏です。
“We shall overcome this summer”と歌いませんか。
2015年7月31日
2015年9月号
相対的剰余価値の把握
川上則道氏の「現代日本の搾取率について 統計分析と理論問題」で産業連関表の単純化モデルの表が掲載され、農業と工業の総労働時間が仮定され、この仮定と表から農業生産物と工業生産物の価値、農業労働者と工業労働者の労働力の価値が算出されます。各部門の総労働時間は新たに生産された価値(V+M)ですから、各部門の労働力の価値(V)が分かれば各部門の剰余価値率(M/V)が分かります。初めの仮定と表を基にまず連立方程式によって農業生産物と工業生産物の価値が算出されるのですが、最初に読んだときには、なぜわざわざ連立方式で両生産物の価値を出すのかが分かりませんでした。表にある数値は何らの単位もなく価値ではない、と気づいてようやく訳が分かりました。
農業生産物の価値は30.2億(人・時間)であり、工業生産物の価値は81.8億(人・時間)ですから、それぞれ表で前者が120、後者が320と表されていますから、表上の農業生産物の1単位は2517万(人・時間)となり、工業生産物の1単位は2556万(人・時間)となります。だいたい似た数値ですが、これはそのように設定されていたためでしょう。一般的には連立方程式によって得られる生産物価値から算定される産業連関表上の1単位が産業部門によって大きく変わることもあり得るのではないでしょうか。そもそもこのモデルの産業連関表上の数値はいったい何か、一種の価格なのでしょうが分かりにくいものです。
労働時間を尺度として剰余価値率を算定することは重要です。不換制によって価格が不安定で、生産性が上昇しているとき、相対的剰余価値がいかに生産されるかはこの方法によってよりよく確認されるでしょう。価格の動きを見ているだけではよく分かりません。論文では、たとえ労働者の購入する生活物資の量が増えても、それに含まれる労働量(価値)が減っているので剰余価値率が上昇すること、つまり相対的剰余価値が生産されることが説明されています(159ページ)。その際に重要なのは「この仕組みにおいて、労働生産性の上昇と労働者の生活水準上昇とを直接的に結びつける関係は存在しないという点」です(160ページ)。ここに「資本主義生産における生産と消費との矛盾」(同前)を生み出す要因があります。資本家とその代弁者は生産性上昇の福音を説きますが、労働者にとって生活向上は自動的に実現するわけではないので、階級闘争によって多くの分配を勝ち取る他ありません。
ギリシャ危機を捉える視点
2015年は9月を迎えようとしていますが、今だ熱い政治の夏の渦中にあります。戦争立法阻止闘争を中心に、安倍政権打倒の声が日本列島を覆っています。そうした情勢の中でも『経済』誌の読者としては、政治問題の土台にある経済を捉える努力を忘れないことが重要でしょう。その際に、直近の情勢理解に役立つ知識だけにとどめることなく、周辺の問題領域と歴史的経過とをも含めて学んでいくことが必要です。以下ではギリシャと沖縄を採り上げますが、前者では狭く同国の問題点を詮索すること以前に、ユーロとEU全体をそれも金融と財政に限ることなく、経済全体のあり方を含めて数十年のパースペクティヴで捉えることから始める必要があります。後者でも基地問題に直接かかわる政治と経済だけでなく、沖縄経済の抱える問題を米軍占領期から現在まで、再生産構造の把握を土台にして大きく見渡す中で、その展望を探っていく姿勢が求められます。
ギリシャ危機は極めて政治的に利用されています。「朝日」経済社説担当の原真人氏は、この問題を、放漫財政を求め許してきたギリシャ国民の自業自得として斬り捨て、ドイツとギリシャを例によってアリとキリギリスに喩え、さらに日本もキリギリスに堕ちたとして、借金財政を批判して福祉切り捨てなどを主張しています(「朝日」7月10日付)。私としては、いつもながらの支配層エリート主義の「使命感」(権力監視のジャーナリストとしての使命感は絶えて久しいが)に辟易するだけでなく、その徹底的な俗論ぶりに驚きあきれるとともに、この種の論説が世論をミスリードすることと闘う必要性を痛感します。
ギリシャ危機について上記の俗論は問題外ですが、よくあるのは通貨統合を実現しながらも政治同盟に至っていない点に問題の根源を求める立場でしょう。たとえばその中でも緊縮政策批判に立つユルゲン・ハーバーマスは「EUが、そして特にユーロ=グループが国民国家を超えた政治的共同体として構築されないかぎり、ぎくしゃくは解決不能」であるとして、「債権国の首脳は政治的次元で動く代わりに、経済的な債権者として動いてしまっている。平たく言えば借金取りをやっていて、ヨーロッパ市民を代表する政治家としては動いていない、という分析」をして、ドイツのメルケル首相を厳しく批判しています(「歯車の中の砂粒 ヨーロッパに関する決定をするのは、銀行ではなく市民のはずだ。」への訳者・三島憲一氏の解説、『世界』9月号所収、101ページ)。
こうした現状批判をさらに深めるには、欧州経済の問題点を数十年さかのぼって見ることで、経済統合の性格と到達点を見極め、対案を提起する必要があります。田中宏氏の「ユーロとEU経済はどこに向かうのか 三つの衝撃と『目標数値と制裁の同盟』」は、現在のEUの経済危機を2008年以降のユーロ危機よりもさかのぼって、過去40年来の長期経済停滞の中に位置づけています。この停滞は新自由主義政策への転換と軌を一にしており、一方で賃金比率の低下によって個人消費が縮小し、経済成長率が低下するとともに、他方で利潤比率の上昇がEU域内での投資の上昇ではなく域外への投資刺激となったことを指摘しています(105・106ページ)。日本との共通性を感じます。
結局EU統合の性格としては「トランスナショナルな欧州資本と欧州統合推進諸機関の連携により、新自由主義的なシナリオに基づく単一市場と単一通貨の導入が統合のメインストリームとな」ったことが指摘されます(101ページ)。田中氏は統合の到達点について詳細に論じていますが、論文の(注)から言葉を借りて私なりに乱暴に総括するなら「人間関係をバラバラにする商品化圧力+エリートのトップダウン統合管理」(116ページ)ということになりましょうか。それに対して「緊縮の終止、金融とマネーの制御、雇用の拡大と経済的格差と不平等の逆転、民主主義の拡大」(115ページ)などを内容とする「欧州進歩的経済学者ネットワーク」による社会民主主義的オルタナティヴが紹介されています。その上で欧州の多様性・異質性がその実現を困難にしていることを田中氏は指摘しつつ、「EU水準で社会的ヨーロッパに方向転換する上で必要な基礎」として、次のようにまとめています。「次善策で必要なことは、歴史的に確立した制度、各国民国家の内部に残っている民主主義を利用するしかなく、各国のなかで社会経済発展モデルの方向転換に関するアイデアと具体的改革プロジェクトを開始するしかない」(116ページ)。
もちろん問題は複雑で単純化は許されず、解決の方策が簡単に見つかるわけではないでしょう。ただ少なくとも「アリとキリギリス」的な俗論が上から説教され、流布される中で、問題の全体構造に目が向くように、歴史的視野を前提とした総合的な探求に基づく分かりやすい説明が必要とされることだけは言えるでしょう。
沖縄経済を総合的に見る
この8月、沖縄問題についての二つのドキュメント映画、ジャン・ユンカーマン監督の「沖縄 うりずんの雨」と三上智恵監督の「戦場ぬ止み」を見ました。両方ともその視野には沖縄戦から現在の基地反対闘争までを含み、戦争・軍事・政治とそれらの歴史を背景に今日の沖縄の人々の基地反対闘争を描いています。映画の前面に出てくるのはそういった激烈なものですが、その土台には日常不断に流れる静かな生活があります。特に「戦場ぬ止み」では基地容認派の人々も含めて生活の営みと意識を丁寧に追っています。そこには一方では政治的対立以前にある共通基盤としての経済の存在が示唆され、他方では米軍基地の存在に規定されて対立する経済のあり方も反映されているように思われます。
基地問題をしっかり捉えるためには、当然まず戦争・軍事・政治とそれらの歴史を捉えることが必要ですが、さらに経済的土台を冷静に把握することが、特に今後の展望を含めて考える上で極めて重要です。来間泰男氏の「沖縄―基地と経済、その歴史と現在」はその基礎的理解と確かな分析視点を提供しています。来間氏はかつて「人間のやさしさと経済力の強さの両立する社会が理想だと思うが、このような社会はどこにも実現していない」(「米軍基地と沖縄経済」、『経済』1996年1月号所収、116ページ)と述懐しています。これは一般論としては、資本主義と社会主義との対抗を含めて経済上の様々な相克を問題提起していますが、直接的には沖縄経済の生産力的低位を問題にしています。現状では「経済力の強さ」をある意味冷徹に追求せざるを得ないことを直視せよ、という苦言でしょう。今回の論文でも、人々が語る沖縄経済の夢について「実効性のない夢物語」「言いっぱなしの無責任発言」と断罪した上で「『飛躍を求めるな』ということである。足元を見て『身の丈の経済』を考えるなら、そこには多くの課題が浮かんでくるだろう。その課題にしっかり取り組むことが沖縄経済の、それに関わる人びとや組織、団体のすべきことなのである」(79ページ)という厳しいリアリズムの結論を出しています。おそらくこの厳しさは、冷たく突き放したり、上から見下したりするのではなく、地元の一員として地域経済の将来に向かって、地に足の着いた責任ある議論を提起しようとする姿勢なのだろうと推測します。
結論を先に紹介してしまいましたが、来間氏は戦前から今日までの沖縄経済の歴史を振り返り時代区分を与えそれぞれの再生産構造を基礎的に明らかにしています。そうした再生産構造の変遷がありながらもそこに通底する「生産力水準の低位性」(61ページ)を指摘することが上述の結論につながっています。その他にも軍用地料を分析して、関係自治体を含めた軍用地地主が基地の「受益者」であり、基地擁護の隠然たる勢力を構成していることを確言しています(72ページ)。今日では沖縄経済の基地依存の低下が強調され、基地の返還による跡地利用の経済効果が大きいことも主張されているのですが、来間氏はそこに「過大な宣伝」(78ページ)があることを指摘しています。先の基地擁護勢力への直視と併せて基地の返還がそれほど容易ではないことを感じさせます。
もっとも、基地返還による経済効果はおそらくプラスだろうが「たとえマイナスになっても基地は返還させねばならない、平和のため、人権擁護のため、人間の尊厳のために―これが私の年来の主張である」(77ページ)というのが来間氏の立場です。そこで米軍基地の返還跡地利用については、「個々の地主たちに分散されることなく、一体として利用できる可能性をもっているのであるから、積極的な土地利用につなげる期待が高まる」という「沖縄の抱える希望」(78ページ)が語られています。ただし従来の跡利用が大型ショッピングセンターを核にして進められてきましたが「それはもう飽和状態であろう。そこに現実性を伴った悩みがある」(同前)との指摘もすかさずされています。
その他に沖縄の「地の利」として、全国各地の産物の輸出拠点となる全日空の国際貨物ハブが「画期的な仕組み」(72ページ)と評価されています。鹿児島銀行がこれに目をつけ「沖縄の向こうには東南アジアがある」と進出しようとしているそうです(同前)。来年のサミットが伊勢志摩であると言って、商売上で大騒ぎしているのが何となく情けなく思えます。まあ確かに地域経済振興の一つのきっかけであるのは事実だからそれを揶揄するのはいかにもエラそうではありますが…。その点、沖縄はスケールが違って、東アジアのへその位置にあり、交易のハブになりうるのです。そこで想起するのは、そもそもアメリカ帝国主義のニューヨークに国連本部があるのはいかにもおかしいということです。これから世界の中心が欧米からアジアに移っていくということもあります(大西洋から太平洋へ)。ならば沖縄の米軍基地の跡地の一部に国連本部を移設するのが良いのではなかろうか。世界経済の中心になるであろう東アジアのへそにあり、歴史的にも戦争と平和を深く刻んできて住民の平和への願いがどこよりも旺盛な沖縄。その上、日本が日米軍事同盟を破棄して非同盟中立を選んだならば、世界平和の拠点としてこれ以上ふさわしい地はありません。各国首脳などには国連本部訪問の際に、沖縄の戦跡はもちろん、広島・長崎・福島を訪れることを義務付けるのです。
いかん。来間氏から(でなくても誰からでも)とんでもない「夢物語」と叱られる。本当は論文の経済的内容についてきちんと学ぶべきところですが、異常な政治の季節のただ中にあって冷静になれないから、と言い訳をしておきます。
閑話休題。米軍跡地利用については、亀山統一氏が「デタラメな都市計画」「地域の小売経営に打撃」「自然破壊」と批判しています(「軍隊・基地は自然破壊者」、39ページ)。これは本土でも共通することではありますが、沖縄の事情は特別です。「地域づくりや自然環境に敏感な市民や県内の専門家は、基地問題に対処するために、本来の地域の課題に携わる余力を奪われてきた。不当なアメとしての公共事業やリゾート開発などを通じて、沖縄の自然は本土資本に蚕食されてきた。その負の蓄積こそ、基地が作り出してきた、沖縄のソフト面での貧困である」(同前)のですから。
さらに亀山氏は「米国の世界戦略を支える沖縄基地は、貧困・資源・環境問題と直結している」(同前)として、沖縄の米軍基地を通じた私たちの世界に対する戦争や自然破壊などに対する加害責任も指摘しています。深く同意します。このように「基地の加害性・侵略性の認識」(歴史解説C「95年のたたかいから『オール沖縄へ』」、90ページ)を強調する亀山氏は「オール沖縄」の闘いが安保廃棄にまで進むことを「沖縄の次なる課題」(同前)としています。これにはもちろん全国の運動の前進が応えてゆかねばなりません。
米軍基地の対極に平和・経済・環境などの持続可能な社会を捉える亀山氏の根源的立場を現情勢との切り結びの中で示す言葉をここに引用します。
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中国・北朝鮮に対抗する「抑止力」論と離島僻地での財源論が基地肯定派の根拠であり、それは若者の心を一定捉えている。「軍隊は住民を守らない」ことを痛苦の犠牲で刻みつけた「沖縄の心」を受け継ぎ、持続可能な社会・経済を展望する運動が期待される。
歴史解説D「歴史教科書問題と『沖縄の心』」 91ページ
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米軍基地を通じた沖縄の世界への加害性を亀山氏は指摘しましたが、本土人の沖縄への加害性ももちろん忘れてはなりません。
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沖縄に来て「連帯」や「支持」を表明する人たちも多いが、自分たちが加害者であることを忘れてはいまいか。自らが不正義に加担していることの明確な認識なしには「連帯」や「和解」は築けない。私たちに求められているのは、自国の政府を動かして沖縄への不正義を正していくことだ。
乗松聡子「世界から沖縄へ 103人声明とその後」、45ページ
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乗松氏がこのように言うのは、2014年1月7日に「世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」(103人声明)を出したことによります。103人の大半は米国民であり、彼らは沖縄への加害責任を果たすべく自国を告発しています。そこから反省してみれば、自分は大半の米軍基地を沖縄へ押し付けている日本の有権者だということになるからです。
この103人声明を出すいきさつが重要です。仲井間前知事による辺野古の埋め立て計画承認(公約違反!)に衝撃を受けた乗松氏が、著名な平和運動家のジョセフ・ガーソン氏と「今何ができるのかを話し合った」(同前、44ページ)結果なのです。「署名運動は世に五万とあり、通常のやり方ではインパクトを生み出しにくい。少人数でも、有名人で影響力のある人を中心としたグループで声明を出してメディアの注意を引こうということになった」(同前)というのです。「日本メディアの反応は予想以上で」した(45ページ)。乗松氏がまず衝撃を受けそれをきちんと受け止め、さっそく行動に移し、それも凡百のものではなく知恵を尽くして非常に効果的な方策を敢行し得た点に感動します。そこに貫く本気さを何事においても見習いたいと感じ入りました。戦争立法をめぐるこの夏の熱い闘いの最中に知り得たさわやかな快挙でした。
読み方がたいへん浅くて、書くことにもまったく脈絡がなくなってしまい、申し訳なく思います。しかし特集「基地のない沖縄」は告発基調だけではなく、冷静な自己認識をも含めて、多様な観点が見られ非常に有益な企画でした。
戦争立法阻止闘争について
<運動の一参加者としての基本姿勢>
戦争立法阻止闘争に取り組む大前提は「善戦健闘」ではなく「勝つ」ことであり、その際の姿勢を支える私なりの基本的観点は、「現在を歴史として捉える」と「運動の主体となる」という二点です。
「現在を歴史として捉える」については、これまで何度も引用しているポール・スウィージーの『歴史としての現在』序文の言葉を掲げます。
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現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる。
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今回の闘争が60年安保にも匹敵するような歴史的意義を持つであろうことはたびたび語られています。後世まで平和と民主主義を守った日々として語り継がれるべく、多くの人々が現在を闘い、歴史をつくりだそうとしています。スウィージーの言う「課題」がもはや社会科学者だけのものではなく、運動に参加するすべての人々のものであることは明らかです。そしてまた「現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに」という現状把握がこの日々ほどに切実に響くことはかつてありませんでした。運動の高揚の中でこの名言はますます光度を増し、私たちの行く手を明るく照らし励ましています。
「運動の主体となる」の含意はこういうことです。これまで様々な要求実現と社会変革の運動にかかわってきましたが、多くの場合、私としては末端の運動参加者として提起された中でできることをやって結果を待つという姿勢でした。しかし今回は勝つためにどうするかについて主体的に考えて動くということを、運動の中心メンバーでなくても一人ひとりが真剣に実行している状況が広がっています。民主主義の深化です。こうしたことは運動のリアリズムを深めるうえでも意味があります。運動の行方を一部の幹部が握っている状況では、「変革の立場」と錯誤した「ハッタリや希望的観測」(両者は紙一重の違いかもしれないが)によって運動をカラ元気的に鼓舞するばかりで、紋切り型の運動で、勝利への効果的闘いがつくれず、結果として「善戦健闘」に終わるということが繰り返される可能性が大きかったのです。そうではなく、一人ひとりの本気さに基づく主体性と創意・工夫を結集することが重要です。そうすることで、リアリズムに基づく運動によって勝利獲得の可能性を大きくする道を切り開くことにつながるでしょう。
<切り開く情勢と安倍政権の対応>
戦争立法阻止闘争を中心として様々な闘争が高揚する中で、いくつかの成果が生まれてきています。たとえばTPP交渉では、日米両政府が目指していた8月中の大筋合意はならず交渉は難航しています。これは交渉参加各国での人民各層の反対闘争の影響で各国政府も安易な妥協ができなくなっているためです。世界情勢では、米国とキューバが国交を回復し、長年に渡る米帝国主義のキューバ封じ込め・革命政権転覆策動が頓挫したことを象徴しています。イランをめぐっては核開発に関する合意がなされ、世界と中東地域での平和に向かって若干前進し、併せて戦争法案で「問題となって」いたホルムズ海峡封鎖の空想性が明白になりました。南北朝鮮間の一触即発の危機も平和的交渉に方向転換しており、危機を煽って戦争立法を押し通すことの無謀さと世界情勢への逆行性がますます明確になりました。
沖縄の辺野古新基地反対闘争も山場を迎え、翁長知事による埋め立て許可取り消しがいよいよ実行に移されそうだ、という情勢を受けて、政府は9月9日まで基地建設策動を一時中止し、集中討議期間を設けるという妥協策に出てきました。もちろん政府は新基地建設を強行する姿勢を崩していませんが、今までにない譲歩ではあり、沖縄の基地反対闘争と日本全国での戦争立法阻止闘争とによる相乗作用が発揮された一つの成果であることは間違いありません。
そうした中でささやかな動きではありますが、個人的に確信となったのは名古屋市教育委員会での教科書採択の問題です。中学校の公民と歴史について育鵬社・自由社の教科書を不採択にできました。南京大虐殺を否定する河村市長が教科書採択をめぐっても反動的策動を強める中でそれを阻止したことは極めて重要です。教科書展示での市民意見が1664通と前回の5倍弱あり、侵略戦争を美化し戦争を肯定する教科書はふさわしくないとの声が86%を占めました。教育委員6人中2人が育鵬社に投票するという危ない状況だったわけですが、何とか阻止できたのは反対運動への取り組みを強化した成果でしょう(「日本共産党名古屋市議団くれまつ順子市政ニュース」8月9日付)。実は私も初めて鶴舞中央図書館の教科書展示会場へ意見を書きに行きました。残念ながら大阪などで策動を許し全国的には厳しい状況のようですが、引き続き気を緩めずに取り組んでいくしかありません。
こうした大から小まで様々な闘いで激動が続く中で、支持率を低下させた安倍政権は様々な妥協に出ています。先の沖縄辺野古基地問題の他にも、新国立競技場の建設では計画を白紙撤回し出直すことを表明しました。広島の平和祈念式典での発言で非核三原則を欠落させたことが非難を浴びると、長崎では入れました。戦後70年談話では、「侵略」「植民地支配」などのキーワードを何とか入れて美辞麗句で一見低姿勢を装いました。
こうした一連の妥協が運動の成果であることを確認しておくことは重要ですが、それ以上に、戦争立法シフトであることを認識することが必要でしょう。沖縄県との「1カ月休戦」は明らかに戦線を一時的に集中する必要から出ており、戦争法案を片づけたら沖縄県に向かって襲いかかることは必定でしょう。新国立競技場問題と非核三原則問題は当面譲ることも許容範囲であり、人気取りになるならやろうということです。さらに戦後70年談話については極めて狡猾な意図がはっきりしており、しかも残念ながらそれが功を奏して、ある程度、政権の支持低落に歯止めをかける役割を果たしていることを見る必要があります。「朝日」世論調査(8月22・23日実施、同紙8月25日付)では戦後70年談話を「評価する」は40%で「評価しない」の31%を上回っています(「その他・答えない」も29%と多いが)。その結果、内閣支持率は38%、不支持率は41%で、前回調査(7月18・19日)の支持37%、不支持46%と比べて幾分「持ち直して」おり、いっそうの政権の失墜を追求している側から見れば厳しい状況になっています。今や政権丸抱えの偏向ニュース報道を貫徹しているNHKが、他の問題でもそうなのですが、この安倍談話については、首相をニュース番組に登場させて例によって長々と言いたいことだけをしゃべらせる、というような、なりふり構わぬ世論操作を行なっていることが響いていると思われます。もっとも談話発表の記者会見でも、首相に向ってまともな質問をする記者は一人もおらず、そこにはマスコミ各社の社員はいてもジャーナリストは皆無だという体たらくなのですが…。
世論の懐柔を図る戦争立法シフトの中でもなかなか「見事」なのが戦後70年談話です。「侵略」その他のキーワードを曲がりなりにも談話の中に入れ込み、ただしそれをあくまで間接話法にとどめ自分の言葉としては語りませんでした。それによって、一方では国内外の「常識的世論」をなだめすかし、他方では、キーワードの使用はあくまでタテマエであってホンネは違う、というメッセージを自分の支持基盤である保守反動右翼層に届けました。
なかでも「戦後世代に謝罪を続けさせてはならない」という主張は、私たちからすれば見え透いた受け狙いですが、残念ながら功を奏しています(この主張に「共感する」63%、「共感しない」21%、8月22・23日実施「朝日」世論調査)。「戦後世代の戦争責任」については素人考えながら以下のように整理したらどうかと考えています。
まず本来の筋について。……戦後世代には15年戦争への責任はない。したがって謝罪し続ける必要はない。村山談話・河野談話によって公式には侵略や「慰安婦」問題への日本国家の責任は認められている。後はそれを教育によって正しく継承し、誤った考えが日本社会にはびこることがないようにすべきである……
しかしこの本来の筋はまったく実現していません。実際には、村山談話・河野談話は生まれたときから保守反動層の厳しい攻撃にさらされ続け、学校教育においても社会的にも正しい理解は妨げられてきました。その結果、日本の侵略戦争や植民地支配への責任、ならびに「慰安婦」問題を否定する発言は必ずしも世論の多数派ではありませんが、公然と声高に語られ市民権を得て一定の支持を集める、という異常事態になっています。
そうした中で政府要人や保守政治家の暴言は後を絶たず、そのことが「いつまでも謝り続けなければならない」状態をつくり出しています。それによって日本社会の中にイライラ感がつのり、中国や韓国など周辺諸国への反発を生み出しています。それはもちろん不当な「逆ギレ」なのですが、日本社会の閉塞感から生じる排外主義の風潮にフィットして増長しています。安倍70年談話の「子や孫やその先まで謝り続けることはない」という主張はその中での俗受けを狙い、内閣支持率の低下への歯止め策として効果を発揮しました。
このように侵略戦争・植民地支配・「慰安婦」問題への反省がない政権が存在し、社会的にもそうした誤った風潮がある程度存在するというのが残念ながら現在の日本の状況です。それを許している「戦後世代」はもはや15年戦争への責任がないと言うことができません。保守反動政権を打倒し歴史修正主義を社会的に無力化するという形で、戦争責任の問題に正しい決着をつけて初めて自からの無辜を言明できます。
まとめます。本来ならば戦後世代に15年戦争の責任があろうはずがありません。しかし日本社会と政府においていまだ戦争責任問題が解決されず、誤りを繰り返さないという保証がない状態が続く限り、同時代を生きてそれを許している戦後世代にも戦争責任が生じています。
問題はずれますが、戦後世代の戦争責任は別の意味では確かにあります。戦後日本は少なくともアメリカ帝国主義のベトナム侵略・イラク侵略に加担したことは事実であり、その政府と人民は戦争責任を免れません。戦後世代は15年戦争に対する上記のような今日の時代状況を介した「間接責任」と、戦後におけるベトナム・イラクなどへの米国を介した「間接責任」とをともにきちんと認識し、戦争立法の成立を通して侵略戦争への「直接責任」を将来に渡って負うことがないように闘うべきなのです。戦前・戦後の過去のそのように正確な認識が平和な未来を切り開きます。その基準は日本国憲法前文と第9条です。その重みを改めて再認識しましょう。
そのように考えると、その対極に安倍政権の姿勢が見えてきます。一方で右翼的状況をつくりだし、歴史修正主義をはびこらせて国家の戦争責任をあいまいにしながら、他方で卑俗な感情論に巧妙におもねって、子々孫々における戦争責任をなきものすることで、世上における戦争責任の意識を事実上清算し、戦争への道を掃き清めているのです。
閑話休題。安倍政権が一定の巻き返しを図る中で、8月30日の戦争立法阻止に向けた全国一斉行動が成功しました。この圧倒的な民意の前に、政権側に何の道理もないことはずっと以前より明白ですが、相変わらず政権中枢は「政府には国民の平和と安全を守る責任がある」とか「戦争法案などいう誹謗中傷に基づく誤ったレッテル張りが誤解を招いている」とかの相変わらずの破綻済みの言い訳を並べて強行採決を示唆しています。率直なところ残念ながら私たちは「まだ負けています」。廃案のためには与党内での反乱が必要です。さらに世論を圧倒的に高めて、与党議員への工作を強める必要があります。
今なお世論に一定の影響力を持っているのは中国脅威論です。政府は国会答弁など公式にはそれを否定せざるを得ないのですが、政府と与党は実際には陰に陽にそれをフル利用して世論を扇動し内閣支持率の下支えとしています。少なからぬ世論の誤解を解いて、安倍支持派にとどめを刺す必要があります。
戦争立法反対闘争は他の課題とも結んで安倍内閣打倒闘争に発展している点も重要です。戦後最悪の政権の悪政があらゆる分野での切実な要求を呼び覚まし、保守層をも含めた一点共闘が広範に起こっています。点は結び合って線へ面へと発展し倒閣運動に結集しています。一点共闘の原理は「最小限一致点による幅広合意主義」と言うべきでしょうが、情勢の進展は諸悪の根源が安倍政権の存在そのものにあることを誰の目にも明らかにしつつあり、一致点の拡大が見られます。もちろん一点共闘をそれ自身として尊重することは依然として必要ですが、戦争立法阻止闘争を見ると、それが生み出した勢いが倒閣に向かうという状況の中で、逆に倒閣運動の勢いによって自らの勢いを加速していくという好循環が生まれていることに着目すべきでしょう。この情勢下では、倒閣(最大目標)運動という勢いの中でのみ、戦争立法阻止(最低限目標)が達成しうるのです。
こんな雑文を書いている暇があったら一つでも効果的な運動をやれと怒られそうですから、この辺でやめます。
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◎以下は8月24日にホウネット(名古屋北法律事務所を支援する市民運動組織)の世話人などに送ったメールです。部外者には意味のないローカルかつドメスティックな内容も含みますが、ささやかな歴史の一齣として、それなりに臨場感を伝えるためにそのまま掲載します。
皆さん、連日の猛暑の中、お元気ですか。
先月から私は地元の人たちとフルーツパークで戦争法案反対の署名を取っています。だんだんと積極的に署名する人が増えてきています。以下、戦争立法阻止闘争について思いつくまま述べてみます。
歴史の流れは決して均一ではなく、ときにとてつもなく濃厚な一時期があります。それがまさに今です。数十年分に相当することを数カ月で片づけてしまおうというのがこの2015年の夏です。それは、コンクジュースを薄めて還元することなく、そのまま飲み下すような、甘さを通り越して辛くて苦いような、そんな日々です。それはまた、史上に特筆される日々であり、後にこう問われることは間違いありません。「あの時あなたは何をしていましたか」。
戦後最悪の安倍政権が仕掛ける数々の攻撃は、日本の平和と民主主義にとって最大のピンチであるとともに、最大のチャンスとなる可能性も秘めています。自民党総裁選挙は無投票ともうわさされ、安倍晋三の支配は盤石に見えます。しかし一見盤石の政権が民衆に見放されてあっけなく崩壊する事例は史上いくらでもあります。
たとえば1989年、東欧諸国の政権は独裁的権力を持っていましたが、ドミノ倒しのように連鎖的に崩壊していきました。「選挙によらない非暴力直接行動による政権打倒」という意味では、それは今の私たちの最大目標(安倍倒閣)とも共通します。
安倍政権の主要政策はほとんど世論の支持を失っています。それぞれの切実な要求に基づく様々な「一点共闘」は線となり面となって、安倍政権打倒へと結集しつつあります。
戦争法案を頂点とする戦後最悪の独裁的姿勢は、対極に最良の民主主義を生み出しつつあります。添付ファイルは「朝日」夕刊8月21日付の記事です。元予科練の老人が学生のデモに感激し、特攻で死んでいった先輩たちを思って「今のあなた方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ」と新聞に投書しました。それがまたシールズの学生たちを感動させ運動を限りなく励ましています。特攻の美化ではなく、歴史を正確に理解することが現在を変革する力となっています。2011年、3・11以降に出現した「デモのある民主主義社会」は今ここまで来ています。
「知の巨人」と呼ばれ、「9条の会」を立ち上げた故加藤周一氏は、学生と老人の同盟を提唱していました。先見の明です。この間まで、若者が見えないと私たちは嘆いていたのに。
とはいえリアルに直視すれば、戦争法案廃案という最小限目標に照らしても、私たちは「まだ負けています」。強行採決の危機と常に隣り合わせです。逆転するには世論をさらに沸騰させ、国会議員の姿勢を変えていかねばなりません。そのために具体的行動を!
☆☆ 先日お送りした「ホウネット臨時NEWS」の同封資料をご覧ください ☆☆
当面のデモと学習会の日程
○8月26日(水)18:30〜 若宮公園ミニスポーツ広場 集会・デモ
主催:安倍内閣の暴走を止めよう! 共同行動実行委員会
○8月30日(日)10:00〜 わかばの里4階ホール
戦後70年学習会「意外と知らない『日本の戦争』」
講師:久保田貢(愛知県立大学准教授)
主催:名古屋北法律事務所、ホウネット
○9月1日(火)18:00〜 大曽根駅
集団的自衛権行使容認反対宣伝行動
○9月5日(土)17:30〜 白川公園
集団的自衛権の行使のための違憲立法に反対する愛知大集会・デモ
主催:愛知県弁護士会
◎参議院安保法制特別委員会に所属する自民党・公明党議員のFAX番号と
抗議・要請文案が同封されていますので、
署名の上、ガンガン、ファックスしてください。
最後に蛇足ながら…
勝手にスローガン<1>
列島騒然→「造反有理」から「造反有利」へ
戦争法案反対世論をもっともっと盛り上げて、安倍与党議員にとって、
「造反有理(造反には道理がある)」からさらに
「造反有利(造反した方が議席確保に有利になる)」と感じるまで追いこもう。
勝手にスローガン<2>
“We shall overcome this summer ”
some day (いつか)ではなく、this summer (この夏)勝利しよう。
そして9月には
“We have overcome ”(我々は勝った)と歌おう。
後世、“We overcame in 2015 ”と言われるのを目指して。
2015年8月31日
2015年10月号
現実・言葉・文学・社会科学
高橋源一郎氏は今回の反「安保」運動について、過去2回との違いとして、徹底した非暴力性とともに「ことば」の重視を上げています(「朝日」9月24日付「論壇時評」)。ここでは、様々な属性を持った諸個人の集まりがそれぞれに法案反対の理由を語るような「『わたし』を主語とする、新しいことばを持った運動」としてシールズなどは捉えられています(高橋氏は『現代思想』10月臨時増刊からシールズ関西の大澤茉実氏の述懐を引用していますが、彼女のスピーチが「しんぶん赤旗」9月20日付に掲載されています。端的で確信に満ちた言葉が生きています)。
同様に、この闘争における若者たちの新鮮な言葉への受け止めとして次のようにも語られています。「そこで発せられていたのは、この国の、この時代に生きる『当事者』としての自分自身の言葉だ。…中略…とりわけ『当事者』としての主体性を持った言葉には魂があふれ出て、多くの人の心を揺さぶった。その言葉の思いを受け取った人々が、また自分の言葉で表現し行動を起こし始めた」(「しんぶん赤旗」9月23日付「朝の風」)。
現実や心を表現するのは言葉だけでなく様々な芸術表現やパフォーマンスなどもあります。デモはそうした表現の集成の場とも言えるでしょう。しかし物事の意味を最も直接的かつ詳細に構築的に表現するのは言葉です。長く社会変革の闘いに携わってきた中高年層の多くの人々にとって、自分たちの言葉の当事者性を改めて反省させられたのがこの夏の闘いの日々であったように思います。彼らに、というか私も含まれるので私たちにとって、現実の把握、人々からの学び、そしてそれらの表現を借り物でなく、実感を込めて遂行しうるかが問われました。
言葉と言えばまず文学。先の「私たち」とは違って、若いママであるらしい松本たき子氏(日本民主主義文学会会員)の随想「文学とママ友」にも、生きた言葉を紡ぎだす苦闘が語られています。彼女は民主団体の職員でもあり、家族や知人とはおおむね政治的意見が一致する環境にあり「政治論で白熱してしまうことも。だから、いざ小説を書いても、情景描写が弱く、説教のような作品だと批評されてばかり」(6ページ)だとか。
福祉労働者のママ友の言に、彼女は厳しい現実とともに権利意識の欠如も感じるのですが、「それでもあっけらかんと生きてくという生活者の言葉の力に圧倒され」て、権利を説く演説を飲み込んでしまいました。このエピソードは身につまされます。自分の「正しい言葉」が生活者の切実さと迫力に拮抗できる内実を伴っているのか、付け焼刃に過ぎないのではないか、という逡巡は私にいつも付きまとっていますから。松本氏はそれでも気を取り直してか、「当事者の顔と暮らしが見えると、その問題の意味が温度を持って感じられる。人の心を揺さぶるのは、こういう生活から生まれる実感だと、勉強になりました」とこの部分を結んでいます(7ページ。実はここで「温度」を始め「音頭」と誤変換したのですが、何だか明るく楽観的な「感じ方」でそれもありか、と思ってしまった)。こうした現場では言葉が当事者性を持ち、現実把握と理論の深化が相乗作用していけるでしょう。
言葉は本や読書とも当然深い関係があります。古本屋失格気味の私にはその点での見識が欠けていると痛感させられたのが以下の随筆です。「本を使った街興しをしようと、数人の仲間と話し合いを重ねている」という狩野俊(かりのすぐる 東京・高円寺 コクテイル書房店主)氏の言葉からは真剣にこの仕事と向き合う人の深い境地が感じられます。
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本は、窓なのだと思う。大きく、世界に広がっている窓。本は便利なもので、読書という一人の行為の中でたたずめば、本と自分の世界の中から出ることなく、一生を過ごす事もできる。それは本当に、本を読んだ、ということなのだろうか。私は読書の先にある、本を読んだ後に、どのように生きるのか、ということこそが大事だと思っている。泳ぎ方の本を読ませ、畳の上で手足の動かし方を教え、プールの中で泳法を会得させてこそ、自然の中で泳ぐ事ができるようになる、そんなイメージだ。
読書で言葉を内に入れたら、本の窓から世間に飛び出す。世間にもまれる、というのは、人とこすれ合うということだ。その時に用いられるのは言葉だろう。その過程で、内にある言葉は磨かれ、重みを増し、血や肉となっていき、深いところに沈んでいき、やがて言葉は光になる。
読書会や、作家のトークショーで本の世界に興味を持ってもらい、読むきっかけを作り、ワークショップなどで生きる訓練をする。その相互の往復の中で、人を育てていく。その結果、そんな人々が生活する、生きている街が興っていくのではないだろうか。それは熾火(おきび)のように、長くその地に熱を与えることだろう。
「古本屋の窓から 言葉を光に 本で街興し」(「しんぶん赤旗」9月21日付)
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狩野氏は「本を読んだ後に、どのように生きるのか、ということこそが大事だ」と提起した後に、…読書で内に入れた言葉を持って、世間に飛び出し、そこでもまれ、人とこすれ合うことで、その言葉は磨かれ…という件を通って、最後に、読書が人を育て、そうすることで街が興っていく、という大きな展望を語っています。そこには本に対する信頼と敬意があり、言葉と人の陶冶が語られています。こうして当事者性を持った言葉と人が形成され、地域を変革する力となっていきます。
以上のように、生活実感を伴う当事者性を持つ言葉が心を揺さぶる、ひいては社会を変革する、ということが強調されるのは、その対極に、疎外された「学問のあり方」や「社会変革の姿勢」が存在するからでしょう。あるいはそれらの周辺にある「生活実感から乖離した言葉」も問題とされます。そうしたものたちは社会科学を学び社会変革を目指す人々にとって注意すべき事柄となっています。
「人間の学としての性格を薄めてひたすら政策の学、管理の学としての性格を強め」た社会科学は「一個の人間が自分の眼で社会を科学的に認識してゆく上の有効な迂回手段になっていないどころか、自分の眼で対象を見るかわりに『社会科学というもの』でものを見ることを習慣づけ、結果として社会科学的認識の眼が育つのを阻止する役割をすら果たして」います(内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店、1981年、49ページ)。これは体制派の社会科学のみならず、科学的社会主義の立場においても起こりうることです。
実感と社会科学、言葉と社会科学、それぞれの関係については次のように言えます。「科学的研究方法による正確さが、文学的に確かな手ごたえを導きの糸にし、より的確な把握に向って動員されねばならぬ」(前掲書、183ページ)。「社会科学が日本語を手中に収めえないかぎり社会科学は成立してこないし、日本語が社会科学の言葉を含みえないかぎり、日本語は言葉として一人前にならない」(前掲書、35ページ)。そして目指すべきところとしては「社会科学でも思想としての浸透力、心のうち深く入ってそこから働きかける力を一般の人に対してももっていなければならない」(前掲書、33ページ)ということになります。
内田義彦は噛み砕いてわかりやすく語りかけていますが、それでもまだ難しいかもしれません。ならば少年向きの本でありながら日本の社会科学の古典ともいえる吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1982年、底本:新潮社、1937年)を丸山真男はどう読んだか、に目を向けましょう(岩波文庫版解説「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想―吉野さんの霊にささげる―」、もともと弔辞として書かれたものを文庫版解説とした)。主人公のコペル君が自分の頭で懸命に考えて「人間分子の関係、網目の法則」を発見し、おじさんに報告したところ、それは「生産関係」といわれているものだと教えられるところがあります。そこで丸山は「これはまさしく『資本論入門』ではないか」(岩波文庫版、312ページ)と感心します。
多くの資本論の入門書は「資本論からの演繹」であるのに対して、同書では逆に「ありふれた事物の観察とその経験から出発し、『ありふれた』ように見えることが、いかにありふれた見聞の次元に属さない、複雑な社会関係とその法則の具象化であるか、ということを」得心させています(313ページ)。それを受けて丸山は「私は、自分のこれまでの理解がいかに『書物的』であり、したがって、もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識にすぎなかったかを、いまさらのように思い知らされました」(同前)と述懐しています(この「解説」では「社会科学的な認識が、主体・客体関係の視座の転換と結びつけられている」/315ページ/、といった重要な問題にも言及されていますが、それは措きます)。
批判的な社会科学を学ぶ人も多くの場合、受験勉強の病弊を引き継いでおり、いったん真理を獲得したと思ったならば、あとはそれに沿って、書物の言葉を論理的に受け入れていけばいい、という姿勢になりがちです(典型的には「正解の暗記」)。そこではしばしば(言葉や論理の)生きた現実との実感的つながりや「わたし」の当事者性が欠落しかねません。戦争法をめぐる激闘のような「非常時」においては、自からの言葉が生きているか死んでいるかがいつも以上に問われます。それは社会科学をいかに身につけてきたかということの端的な現れなのです。
結局、内田義彦や丸山真男を引いてそのまま「正解」にしてしまったようで、それこそ疎外された社会科学のやり方ではないか、とも思えます。しかしとりあえず若者たちの言葉に刺激されて思い出したことを(まとまりなく散漫な形ではありますが)記して、反省と前進への手がかりとなればよいのですが…。
話題はややずれますが、中嶋信氏は社会科学の性格について次のように指摘しています。
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経済学をはじめ社会科学は、社会問題を解決するための格闘技のひとつと考えてよい。「この国のかたち」が劣化するのに伴って、随所で社会問題が深刻化しているいま、社会科学は事態を解明し、問題を解決するという本来の使命を強く意識するべきであろう。
来間泰男『沖縄の覚悟 基地・経済・独立=xへの書評 94ページ
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格闘技ですか。もっぱら研究者向けの学会誌ではなく、一般の読者(それも多くは社会変革を志向する読者)も対象とする『経済』誌上ならではの啖呵とも思えますが、大いに同意します。闘う姿勢ということでは、元さいたま市立岸町公民館館長の片野親義氏も実に厳しく言われます。
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公民館と職員をめぐる課題のほとんどは、時の政権の政策によってつくりだされる。だから社会教育機関としての公民館の発展を願う職員と研究者と住民は、常に政治を語ることができる存在でなければならない。いつも政治的な存在としてあり続けなければならないのである。本来、社会教育の分野では、政治的な議論を必要としない実践も研究も運動も存在しないからである。従って、まわりから政治的であるといわれることを恐れてはならないのである。
ところが、政治的といわれることを恐れ、身の安全を優先するあまり、自分の立つべき基軸を見失い、本質的議論を避け、表面的な問題だけをとらえて実践と研究と運動を行っている人が多いように思われる。実は、そうした人たちの言動が公民館をめぐる課題の解決を遅らせ、公民館の可能性を妨げる要因になっているのである。現在の課題を一刻も早く解決し、公民館の可能性を発展させる条件をつくるためには、職員も研究者も住民も、社会と政治と自己を語ることから逃げてはならないのである。
「公民館の役割と現代的課題 実践と研究と運動の基軸をどこに置くか」122ページ
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私は公民館の関係者ではないけれども、身がすくむような峻烈な批判です。そこで言われる「社会と政治と自己を語る」闘う社会科学、あるいは内田義彦の言う「思想としての浸透力、心のうち深く入ってそこから働きかける力を一般の人に対してももってい」るような社会科学は、素人としては大いに望むところですが、実際のところ研究者はどう考えているのでしょうか。
難しい専門分野を深く極めることは、そうした課題といつも直結するとは必ずしも言えないでしょう。安易に「役に立つ研究」だけを求めることは慎むべきでしょう。しかしたとえば狭い分野の抽象的な研究などでも、そこには単に知的興味だけでない現実的問題意識が働いているはずだと思います。敢えて言えば、社会科学上の知的興味は、例外なく何らかの社会問題とどこかでつながっているはずです。だから研究内容は難解であっても、研究者はそこにある問題意識を一般の人に語りかけることは可能でしょう。素人もまたそれを手がかりに社会科学研究に触れることができます。そこでは闘う社会科学は共通の基盤になります。もっとも、そうすると「人間の学としての性格を薄めてひたすら政策の学、管理の学としての性格を強めた社会科学」(内田義彦)にどう対するかが問題となりますが、批判的摂取の対象ということになるのでしょうか。
社会科学において素人と研究者との間に万里の長城があるわけではないので、現実に向き合う姿勢において違いはないと言えます。社会科学にかかわるどの人にとってもその人なりの水準ややり方において実践されるべきことはあるでしょう。そうしたことの一つとして、片野氏が教育学者・五十嵐顕の『国家と教育』(明治図書、1973年)から引用した次の言葉は参考になります。「ことばが、つねに現実と実践につきあわされて吟味されなければならない。したがって、われわれは、一方では現象をそれとして理解する多くの知識をもつように努力しなければならないし、本質をつかみだす分析と総合の方法を教育を学ぶにさいして身につけなければならない」(片野前掲論文、122ページ)。
地域変革の主体形成
片野氏の前掲論文によって初めて公民館とは何かを教えられました。それは何よりも社会教育機関であり、地域住民が民主主義を身につけ、地域自治の主体として自己形成する、そのような連帯の拠点として設置されているものです。現状はその理念とは乖離しており、というか政策的に乖離させられており、それどころかその存在そのものが消滅させられようとしています。だからこそ今その理念を知り、本来の姿を取り戻す活動が地域の再生にとって重要な情勢です。こんな大切なことを知らないままに過ごすところでした。
もっとも、公民館がめざましい役割を果たしている実例には、『経済』2014年11月号の岡庭一雄(長野県阿智村前村長)・岡田知弘(京都大学教授)両氏の対談「住民自治を生かした地域経済の発展」ですでに触れていました。それによれば、阿智村では、「住民一人ひとりが人生の質を高められる、持続可能な村づくり」(25ページ)という総合計画の基本理念を掲げ、「村づくり委員会」を組織し、村は公的資金を出すが、自由にやってもらうことによって、住民の主体性・自治意識を高めてきました。そうした中、地区自治会の地区計画は完全なボトムアップ方式で、レベルは高いものです。この住民の力の充実が、その知恵、地域づくりの主体的主張として開花し、内部経済を高めて外部経済をコントロールする力をつけるに至っています。
このように村に対してモノを言う住民ができた土台は、公民館での学習です。中央公民館で年一度、研究集会を、各地域の公民館でも同様の集会を開催しています。そういう長い歴史の成果が「村づくり委員会」となっています。
このような先進事例は、新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴとしての地域づくりとなっています。新自由主義グローバリゼーションが、諸個人の生活と労働の基盤であるべき地域経済と国民経済を破壊し、多国籍企業の利潤追求の場としてそれらを作りかえてしまっている今、それに対抗する内部循環的な地域経済の形成にとって、公民館などを拠点とする地域社会の人々の主体形成がきわめて重要になっています。これはオルタナティヴ提起の不可欠の論点であると言えます。
逆にだからこそ新自由主義国家は「権利としての社会教育が発展することに危惧を抱」き、「公的社会教育の拠点である公民館の発展を展望」(片野前掲論文、118ページ)するどころか破壊しています。その際に、片野氏によれば「公民館を本来の活動ができない状態にする最も有効な方策は、職員の体制を貧弱な状態に据え置くことで」す(120ページ)。裏を返せば「公民館問題の核心である職員問題を解決することなしに公民館の発展はありえない」(121ページ)のです。
1980年代以降、新自由主義が跋扈するようになってから、「小さな政府」スローガン(実際には政府全体が小さいのではなく、福祉が小さく、軍事力は大きい強権国家だが)の下、公務員削減・賃金抑制などが錦の御旗となり、労働運動も押さえ込まれて、増員や労働条件改善などはまるで「厚かましい要求」かのように思われています。そこであえて「職員問題の解決」を前面に押し出すのは勇気のいることであり、その根底には新自由主義の攻撃に対するオルタナティヴがしっかり座っているからそれが可能になるのだと思います。だからこそ「社会と政治と自己を語ることから逃げてはならない」(122ページ)と断言できるのでしょう。
「国は『コミュニティづくり』の名のもとで、国家に貢献できる地域の再編と住民意識の形成をはかろうとしている」(119ページ)という指摘は公民館・社会教育に限らず医療・福祉の領域にも当てはまります。新自由主義政策下で格差・貧困が拡大し地域の荒廃が進む中で、政権側の対応として、「包括ケアシステム」「地域医療連携推進法人制度」「社会福祉法人法改革」などが画策されています。これも国の「コミュニティづくり」の一環であり、憲法25条に反して、生存権・社会権の公的保障を蔑ろに、自助・共助の地域づくりに突き進んでいます。「住民意識」もその方向に向けられようとしています。
そこで参考になるのが「子どもの貧困」に関する政治・行政の方向と人々の意識についての次の指摘です。
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法律制定や大綱決定を見ると、子どもの貧困問題の解決に向けて動き始めているように見えるが、子どもの貧困に関する認識の深まりや問題解決への合意形成が成立する前に、それを先取りする形で政治や行政が先に進み、それらが前提とする貧困観に多くの人々が巻き込まれているのではないだろうか。
中嶋哲彦「子どもの貧困からの自己解放 自分自身の世界を知る権利を手がかりに」
(『世界』8月号所収) 244ページ
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問題が発生すると政治・行政はぐいぐい先行する形でそれなりの対応を図るのですが、そこには新自由主義イデオロギーがあり(「子どもの貧困問題」では貧困=自己責任論)、人々がそれに巻き込まれて、問題の根本的解決でなく、よくて弥縫策に終わり、悪ければ状況の劣化を進行させることになりかねません。さりとて格差・貧困は拡大し社会問題は深刻化しているので、地域の民主的組織・運動体として、それを放置するわけにはいきません。政府の対応策への向き合い方を考えながら、目前の実践を進めざるを得ません。休むことのできない日常の実践を重ねながらも、問題の根源を見つめ、人々が自己責任論や自助・共助論を克服して人権保障を実現する社会変革に向かう方向性を堅持することが必要です。
戦争法の廃止に向けて
戦争法が成立しました。しかし反対運動の高揚はとどまることなく、悪法の廃止と安倍内閣打倒を目指して闘いが継続されます。日本共産党の志位委員長は強行採決の当日・9月19日に間髪を入れず「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現を呼びかけました。この間の反対世論の盛り上がりと野党共闘の前進を踏まえ、最高のタイミングで状況に最適な提案となっています。
また「オール沖縄」の経験を「オール日本」に引き継ぐという意味で、運動の大義と共闘のあり方が大いに進化しています。この政府の性格とその樹立の意義が党綱領とこの間の運動の経験の双方を踏まえて打ち出されているのも重要です。責任ある変革の見地から実践と理論が統一されています。
戦争法廃止と安倍政権打倒を目指す多くの心ある人々から、この呼びかけは熱烈な支持を得ています。しかしマスコミはあいかわらずもっぱら選挙協力部分への注目に終始しているようで、「朝日」などは党勢拡大狙いの提案という視点から、政局報道の一部として取り扱っているようです。
もちろん一部には真面目な記事もあります。共産党の提案を扱ったものではありませんが、「安保法成立 民主主義の行方は」と題した長谷部恭男・杉田敦対談(「朝日」9月27日付)は痛快な政権批判と新たな対立軸提示という点で、共産党提案と響き合うものがあります。この対談で杉田氏は、戦争法の国会審議を通じて、「立憲/非立憲」というこれまで見えていなかった対立軸が図らずも見えてきた、と指摘しています。そこで共産党提案の立場を振り返ってみると次のようになります。……沖縄において辺野古新基地建設反対という一致点が他の重要な相違点を措いても大同団結に値する重要な課題であった、と同様に、戦争法廃止で立憲主義・民主主義を取り戻すことも、多くの基本政策の相違を措いても政府を樹立するに足る重大な戦略的課題だ……
杉田氏の対立軸提示を受けて、高橋純子記者はこうまとめています。……安倍政権に抗する側が「立憲」の立場から「小異を捨てて、対立軸を明確に示すことができるのか。そのことがいま、問われている」……。これは意識してか無意識にかは別としても共産党提案の精神と合致するものです。
著名な改憲派学者でありながら、戦争法反対闘争の強固な推進者である小林節氏もこの対立軸に注目しています。
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民主党の中にも、集団的自衛権行使を「正しい」と考えている人たちがいます。だけど、彼らもはっきり、「現行憲法はそれを許していない」と言っています。憲法破壊の戦争法を通した安倍首相の手法はダメだという一点では一致しています。
それでも、共産党と組むことに拒否感がある人はいます。「共産党とどうやって口をきいたらいいかわからない」というのです。だけど、私が「目の前の共産党が敵じゃないでしょ、安倍首相が敵でしょ」「共通の強大な敵を前に連携するしかないでしょ」というと、みんなハッと顔色が変わるんです。
「しんぶん赤旗」9月27日付(「日曜版」同日付にも掲載)
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現実には野党共闘はなかなか難しいでしょう。しかし確かにここには「理」があります。それに基づいて民主党を説得する小林教授には感謝。この「理」がやがて野党の「利」になり、庶民の「理」と「利」になっていくよう世論を盛り上げていくことが重要です。
戦争立法阻止闘争の評価
(1)敗北の直視
戦争立法阻止闘争の最中には、野党の立場から安倍政権にいかに対峙し、悪法をいかに阻止するか、ということに私の関心はありました。戦争法成立後もその延長線上(野党の立場)かと思っていたら、「戦争法廃止の国民連合政府」という大胆で画期的な共産党提案が出て、梯子を外された感じ(野党を脱して与党となれ)ですが、これは私の惰性的思考を反省すべき問題です。
とはいえ惰性的思考の中にも、多少は役に立つものがあるかもしれないので、後ろ向きの印象にもめげずに敢えて提出して見ようかと思います。
将来展望とのかかわりで政治闘争を見るとその結果に4類型があります。
「芽のある勝利」 「芽のある敗北」
「芽のない勝利」 「芽のない敗北」
(注)そのように分けるヒントを与えたのは以下の言葉です。
芽のある失敗と芽のない成功があることに注意すべきだ。
鎌田敏夫(脚本家)、「朝日」夕刊1995年4月28日付
戦争法の成立は安倍政権にとっては「芽のない勝利」であり、私たちにとっては「芽のある敗北」です。だから私たちは「芽のある」側面と「敗北」側面の両方から見る必要があります。「芽のある」側面では、何と言っても若者の立ち上がりなどに代表される「観客民主主義から自発的民主主義」への発展が重要です。集会・デモが当たり前で個人個人が抵抗なく参加できる社会になりました。「戦争法廃止の国民連合政府」提案はこの側面の集大成として情勢をリードして行くものです。しかし確かに「芽のある」側面こそが中心ですが、「敗北」側面も直視する必要があります。なぜ私たちは負けたのか、その教訓を引き出すことは今後に生きてくると思います。
(2)戦争立法シフト
戦争法案の国会への提出以来、今国会の最重要法案として戦争立法シフトが敷かれました。特に衆院での強行採決による内閣支持率低下後にそれは強化され巻き返しが図られました。そういう観点を中心に国会内外の情勢を振り返ってみます。
安倍政権の主要政策はおおむね世論の支持を失っています。そこをどうごまかすか。戦争立法実現のため人気取りも含めて、反人民的諸施策をあれこれと調整しました。まず支配層にとって最重要であるか、世論の反対が比較的弱いものについては悪政を貫徹しました。原発再稼働・労働法制改悪・農政改悪がこれに当たります。
TPPについてはマスコミを抱き込んでいることもあり反対世論はそれほど強くないのですが、アメリカを始め交渉参加各国で反対運動などがあり、「大枠合意」に至らず、政権にとっては困難にぶつかっている状況です。
辺野古新基地建設は「オール沖縄」の頑強な反対運動のみならず、本土世論も厳しくなってきているので政権にとっては「危ない案件」になっています。戦争法案突破との二正面作戦は不可能と見て、欺瞞的に一カ月だけ休戦し、戦争立法に力を注ぎました。
世論の非難が殺到した新国立競技場建設問題では、当初の硬い姿勢を崩して「白紙撤回」しました。露骨な戦争立法シフトの人気回復策以外の何物でもありません。
8月6日、広島の原爆式典でのあいさつで安倍首相は非核3原則を欠落させました。それを批判されると9日の長崎では手直しして入れ込みました。
8月14日の戦後70年談話において結論的には、狡猾な対応で危機を乗り切り、支持率急落を防ぎました。「侵略」などのキーワードを一般論として形だけは入れましたが、実質的には日本の戦争責任を否定しました。その他でも歴史認識では問題だらけですが、「子々孫々まで謝ることはさせない」という言明で人気取りに成功しました。「いつまで謝り続けなければならないのか」(それは日本の保守政治家たちの度重なる暴言が原因なのだが)という日本の世論のイライラ気分にうまく取り入ったのです。
もともと戦後70年談話は安倍政権にとってクリティカルポイントでした。首相本人は「侵略」などのキーワードを抜いたものを出したかったのですが、米国の圧力などで断念しました。ただしそうなると自身の支持基盤である右派勢力の離反を招くことになるというジレンマを抱えていました。そこでキーワードは形だけ入れ、内外の世論をなだめるとともに、あくまでそれは間接話法や一般論にとどめて、ホンネは違うというメッセージを右派勢力に送ることで離反を防ぎました。まったく慇懃無礼で欺瞞に満ちた談話(注)であり、まともな検討には堪え得ないのですが、政権にとっての政治的役割としては立派に果たし、難局を乗り切る一助となったことは否定できません。
(注)『世界』10月号で多くの論者が「安倍談話」を多角的に検証しています。特に主語を欠いたあいまいな文体の本質については、牧野雅子氏が「当事者の被害回復の目的で行われる、被害者に対する謝罪ではなく、第三者からの評価を期待した、謝罪というパフォーマンスだ」(「『性暴力加害者の語り』と安倍談話」、82ページ)と喝破しています。
70年談話にばかりスペースを取りすぎましたが、戦争立法シフト全体の懸命な努力もおそらくかなり功を奏したことによって、戦争法案のさんざんな評判と過半数の反対世論にもかかわらず、内閣支持率の低下をそこそこに押しとどめ、3割台を割りこむことはありませんでした。そのため8月30日の12万人による国会包囲と全国での数十万人規模のいっせい行動(それは日本人民と民主主義の偉大な成果であることは間違いないが)によっても、与党内で動揺が表面化することはありませんでした。9月に入ると安倍首相は自民党総裁選挙を無投票で乗り切り、与党把握を万全として戦争法案成立のめどをつけたと言えます。安倍政権にとっては、与党内の造反さえ抑え込めば、後は強行採決でけりをつけるだけのことだったからです。
(3)法案成立をめぐる諸条件
今回の戦争立法阻止闘争は法案成立の諸条件とは何かを考える一つの典型例を提供しています。一般的には法案そのものとそれをめぐる状況によって、成立条件と闘い方は違ってきます。さしあたって4つの要素が考えられます。
(イ)支配層にとっての重要性
(ロ)政権の強さと野蛮さ(良識の欠乏度合)
(ハ)世論の動向
(ニ)対抗運動の力量と戦術
今回の場合に当てはめれば、……(イ)最重要 (ロ)強力で最も野蛮 (ハ)反対世論は質・量とも高度であったがあと一歩足りなかった (ニ)質的に新たな局面を開いたが、戦術の科学性が必要…… となりましょうか。
米日支配層にとって、戦争立法は特別に重要であり、長年の宿願でした。決して安倍首相個人や安倍政権だけが取り組んだことではありません。しかし支配層にとっては、安倍晋三氏のような反知性主義の蛮勇に頼らなければ突破できなかったことは事実であり、これは今回のドタバタ喜劇(違憲のホンネと憲法を守る義務のタテマエとの矛盾から発する)とあいまって、対米従属と独占資本支配の反動性・腐朽性を浮き彫りにするものです。
一般論を言えば、支配層にとって法案の重要性がそこそこであり、政権に一定の良識があるなら、民意と道理に配慮して政権が譲歩することはありえます。しかし今回のように最重要法案であって、且つ政権に議会制民主主義に関する良識がないならば、議席獲得をめぐるむき出しの闘いに勝たなければなりません(与党議席を切り崩さなければなりません)。
そうなると道理を確立し民意を獲得することは勝利の必要条件ですが、十分条件ではなくなります。「正しいから勝てる」は誤りであり、正義の自己満足と希望的観測を排する冷徹な科学性が必要となります。この場合、野党は常に「潜在的敗北状態」にあり、闘争の帰趨は与党議席を切り崩して「潜在的勝利状態」を実現することに依存することになります。
(4)世論について
以上のように書くと、議席がすべてのように思われるかもしれませんが、世論の動向によっては議席そのものが流動化するということが肝なのです。残念ながら今回はそこまでいかなかったのですが、民意の離反によって強権的政権が崩壊することは世界史上いくつでもありました。その意味では世論こそが最重要であり、今回の闘争でも潜在的にはそれは大いに妥当します。政権打倒という顕在化までいかなかった、そこまでの世論の雪崩現象をつくれなかっただけのことです。なぜそこまでいかなかったのか、ということは大問題であり、それは選挙で勝って政権を取るつもりでも考えるべき課題です。
世論獲得の課題としては、戦争法の場合、民主主義と平和の両側面から考える必要があります。安倍政権のやりかたがあまりにむちゃくちゃだから、法の支配、立憲主義、議会制民主主義のあり方で反対運動の側は広範な支持を得ました。
しかし平和の側面においては、中国(北朝鮮)脅威論などの影響で今一つという印象でした。特に参議院に審議が移って以降は、政府・与党側はそれ一本槍で、世論上も一定の効果があって、戦争法案そのものへの反対が過半数でも「圧倒的な差」までにはならず、内閣支持率の下げ止まりにも貢献していたと思われます。
これについて先の長谷部恭男・杉田敦対談(「朝日」9月27日付)で、長谷部氏はこう言っています。
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安保法制の必要性を説く人たちは具体的な必要性を論証しようとしない。中国が怖い、北朝鮮も怖い、だから軍事的オプションを増やさなければならない、としか言えていない。これは安全保障論ではなく「安心保障論」。不安そのものをなくそうとしてもきりがありません。
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不安を煽ってナショナリズムに訴えるのはなかなか効果的です。これに対して確固とした平和の世論をつくり上げていくことが必要です。それだけでも長く論じなければならない課題ですが、ここでは最近の問題点について簡単に述べるだけにします。
安倍政権のような保守反動右翼の性格を持つ政権に対しては、保守良識派も結集すべく「最低限一致点による幅広合意主義」が有効かつ必要な方法ですが、それにつられて革新勢力の一部に保守ボケを生む傾向があります。安保・自衛隊支持者(それが圧倒的多数派だが)とも一致できる点での共闘は当然ですが、それと並行して安保破棄・自衛隊反対の世論形成も重要です。一人ひとり話し合っている中では、「軍事的抑止力による平和」という考え方の克服なしには、本当に安定した平和の世論は得られないと思います。ただし当面は、「東北アジア平和協力構想」(安保・自衛隊の現状でも可)のような「展望」を語ることで軍事同盟依存の発想からの転換への入り口とするようなことが現実的かもしれません。
内閣支持率の下げ止まりについては経済政策が影響しているでしょう。一向に好転しない生活状況で、アベノミクス幻想は崩れかかっていますが、対案が知られていないので眼前にあるものにすがる他ないという状況でしょうか。マスコミの経済報道が大企業第一主義におおわれている中ではそうならざるを得ません。
経済問題では「与党の強み」があります。世論調査ではいつも最大の関心事は景気対策とされ、選挙の投票基準もそれです。庶民にとって本当に問題にすべき経済問題は景気循環よりも経済構造です。格差と貧困の経済構造をそのままに時々の景気を改善するだけでは庶民は浮かばれません。アベノミクスの恩恵なるものは初めから大企業・大金持ちにしかありえないのです。「与党の力で景気対策を打ってやるぞ」という言葉にひっかけられている現状を変える訴えが必要です。
安倍政権の非立憲・非民主主義を支える社会状況や社会意識を私はアベノソーシャルと呼んでいますが、先の長谷部・杉田対談において杉田氏はこう言っています。
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中国が台頭する一方、日本は人口が減り、経済力も下がっている。そのことへの不安と焦りから、人々が非立憲的な方向に押し流されている面もあるのでは。安保法制への世論の反対は強いのに、内閣支持率の低下に必ずしもつながらない背景にも、こうした心理がありそうです。
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立憲/非立憲の対立軸を立てて、戦争法廃止・安倍政権打倒、と「一点突破全面展開」の勢いをつけるのもいいかもしれませんが、ここで杉田氏が指摘しているように、世論の獲得には様々なハードルがあることを知っておかないと転ぶ可能性が高くなります。
(5)議会制民主主義の問題 小選挙区制独裁
最後に、安倍政権が世論と道理をまったく無視して強行採決に臨んだ唯一の根拠としての与党の圧倒的多数議席とは何でしょうか。
先の総選挙の比例区で自民党の対有権者比得票率は17%に過ぎません。意外なことに比例得票数を見ても自民党のそれは共産党の3倍より少ない。両党の実力差は議席差(14倍弱)よりもはるかに小さいのであり、自民党の議席数の圧倒的優位性は、大量の死票を生み民意を反映しない小選挙区制によってもたらされた虚構の部分が大きいのです。
しかもこの選挙では安倍首相自身がアベノミクス解散と称して経済問題だけに争点を矮小化しました。したがっていかなる意味でも与党議席の多さは戦争法案を成立させる正当性の根拠とはなりません。これに限らずいつも選挙は限られた争点に基づいて争われるので、本来有権者は与党の政策すべてに白紙委任するわけではありません。
以上のような選挙制度と政策争点とにおける問題性を考慮するならば、政府・与党は重要政策について時々の世論に十分配慮すべきです。多数議席があれば何をやっても構わないというのは、民主主義でなく選挙による独裁に過ぎません。安倍政権の本質は小選挙区制独裁というべきでしょう。
それ故、主要政策において世論を無視した「安倍の暴走」が民主主義破壊であることは当然ですが、それは決して民主主義から生まれたものでもないことを銘記すべきです。集会・デモ等の頻出を受けてカウンターデモクラシーを喧伝し、議会制民主主義を補うものとか、あるいは別個の原理に基づくとかいうことがあります。確かに選挙と議会以外にも民主主義があることを強調するのは正しいのですが、そこでは選挙や議会そのものは正常な民主主義になっているという暗黙の前提があるのではないでしょうか。その上で「議会制民主主義の限界」なるものが云々されていませんか。
しかしそのような議論においては、日本の議会制民主主義そのものは選挙制度や選挙運動などをとってもきわめて非民主的で独裁に準ずる性格だということが忘れられ、結果として隠蔽されています。日本もデモのある正常な民主主義社会になろうとしています。ならば議会制民主主義そのものも同様に正常化することが大きな課題であることを、特にカウンターデモクラシーを喧伝する向きには言いたい。
戦争立法阻止闘争の最中において、私は「選挙によらない非暴力直接行動による政権打倒」を主張しました。残念ながらそれは実現しなかったけれども、与党議席を流動化させるほどに世論を高揚させられたならば、その可能性はありました(そこまでいかなかった問題点については先述しました)。その主張を打ち出した根拠として、カウンターデモクラシーの意義を上げるのは当然ですが、それだけでなく議会制民主主義一般の機能不全というより(そういう問題も検討すべきだが)、現在の日本における選挙制度・選挙運動規則の非民主的性格という明白な欠陥を上げることも忘れてはなりません。小選挙区制独裁という性格を持つ安倍政権などに対しては「選挙によらない非暴力直接行動による政権打倒」は民主主義の正統性の中にしっかり位置づけられる行為です。
もちろん非民主的選挙制度を所与の前提として選挙勝利を目指さざるを得ないのが現状であり、それを闘うのは当然ですが、本来は「議会制民主主義のあり方の正常化とカウンターデモクラシーによる補完」をも追求しなければならないことにも留意すべきでしょう。
断想メモ
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正しさへの嫌悪感を「シニシズム」と言います。正しさで闘った人がとことん敗北したのが70年代。40年経ってようやく、「デモができる社会」になった。シニシズムに代わる世代が現れているのだと思います。
上野千鶴子・北原みのり対談「変わる女性の性表現」(「朝日」9月25日付)
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最近拝読した上野千鶴子氏のこの言葉にはある感慨がこもっているように思いますが、かつて言われた下記の鋭い警句との関係はどう考えたらいいのだろうか。
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正論のつまらなさは、正論でなぜ人が動かないかを理解しない無知と傲慢さにある。
対抗文化や反体制運動の退潮は、正論にしがみついているうちに、正論が通らない世の中のしくみをつかむことを、すっかり怠ってきた怠慢にある。
上野千鶴子『女遊び』(学陽書房、1988年)より/鶴見俊輔『らんだむ・りいだあ』(潮出版社 1991年)から孫引き 251ページ
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この怠慢が是正されてシニシズムが克服されつつあるのだろうか。それとも怠慢は変わらないけれど、世間が代わったのだろうか。
2015年9月30日
2015年11月号
安倍政権:新自由主義と保守反動との野合
その性格をどう捉えるか
<1>資本主義・新自由主義・保守反動の一般的関係
新自由主義は社会の中にある共同体的諸関係を破壊して市場化します。したがって伝統的共同社会に依拠しようとする保守反動派は新自由主義を憎みます。そこで例えば保守反動派の中でも亀井静香氏のように新自由主義を批判し、市場化に抵抗する保守良識派(「改革」派を自称する新自由主義派からは「守旧」派と揶揄されているが)に接近する動きも一部にはあります。ところが石原慎太郎氏などのように保守反動派の多くは新自由主義に接近し、支配層の一角を占めようとします。新自由主義側も貧困・格差など自からの政策が必然的にもたらす諸矛盾を隠蔽するのに利用するため保守反動派を取り込みます。ここに本来相容れないもの同士の野合が成立します。安倍政権はその典型だと言えます。安倍首相自身の出自は保守反動派であり、取り巻き連中(以下「安倍一族」と称す)も同様ですが、米日支配層の期待に応えて、日本の対米従属的軍事大国化と新自由主義構造改革とを強力に推進しています。この野合政権の性格をもう少し詳しく捉えていきたいと思います。
安倍政権については、その反知性主義的性格とともに突出した時代錯誤的反民主主義性ばかりが注目されがちで、もっぱら保守反動政権として批判されることが多いようです。しかし米日支配層にしっかりと支持されていることからわかるように、新自由主義的性格のほうがむしろ中心であり、その専制的・独裁的性格も単に保守反動性だけでなく、新自由主義にも由来することを捉えることが必要だと思われます。
新自由主義グローバリゼーションは世界各地で生活習慣と伝統文化などを破壊し、格差と貧困を広げることで、それへの反動を呼び起こしています。もちろん日本を含めて各国各地域でそれぞれ独自の保守反動が興隆しているわけですが、それは世界共通の現象でもあり、イスラム原理主義はその代表例でしょう。グローバル資本への民主的規制・政治的民主主義の強化による人民の利益の実現といったオルタナティヴの展望を民衆が持てない時には反動が跋扈することになります。当然のことながらどこでもそれぞれ独自に保守反動は過去から連綿とありますが、現代においては新自由主義グローバリゼーションへの反動という共通性を持っています。そういう意味では、新自由主義と保守反動とは反目しながらもワンセットであり、場合によっては野合も起こる基盤がそこに既にあります(逆にグローバリゼーションへの反動に囚われている人々を、グローバル資本への民主的規制を中心とするオルタナティヴに向かわせる可能性もあるのですが…)。
新自由主義は市場原理主義として捉えられがちですが、それはある一面の現象的把握であり、本質的には純粋資本主義的な資本原理主義とでもいうべきでしょう。20世紀資本主義においては、むき出しの資本主義がもたらす弊害が体制そのものの危機に至るのを防ぐため、労働規制・福祉政策・所得再分配等々によって資本に規制が加えられ労働者階級への一定の譲歩が行なわれました。しかしソ連・東欧等の20世紀社会主義の停滞と崩壊があり、またグローバリゼーションが進行し資本の権力が圧倒的になるとともに、20世紀末からそうした譲歩は取り消され、人間社会の観点からする資本への規制が解消されてきました。グローバリゼーション下、(19世紀とは違って)世界的環境危機をもたらすほどに発展した生産力を伴って、むき出しの資本主義が復活したのです。そこでは資本の衝動として、労働力の価値以下の賃金が横行するなど労働者の生存権の否認が常態化しています(その点では19世紀同様だが…)。
資本主義の仕組みはそもそも原理的に競争と専制に基づいています。資本主義的生産は流通における自由競争市場(等価交換)と生産(企業内)における専制支配(搾取)との組み合わせからなります。それを基本としながらも、資本の巨大化・グローバル化によって競争と専制の関係は一定の変容を受けます。
市場は完全競争ではなく独占資本の支配力が高まってきます。一方で下請けへの支配が強まり、他方で大型合併などを通じた市場支配も強まります。もちろん寡占企業同士の激烈な競争などはあり、グローバル競争という広がりもあります。しかしそれはどんぐりの背比べ的な完全競争とは異質であり、強者による弱者支配を伴っています。巨大化した企業内では労働者間競争を組織することで、資本による専制支配の強化が図られます。
したがって<市場=競争><企業内=専制>という単純な図式は今日では成立しませんが、資本主義的生産が競争と専制に基づくことは変わりありません。このように、資本主義を「市場経済」に解消してもっぱら自由競争的経済像として捉える通念は誤りであり、専制を資本主義の不可欠の要素として捉えることが必要です。
「競争と専制」という資本主義の基本性格は教育にも貫徹されます。第一次・第二次安倍政権下で教育基本法の改悪(2006年)を始めとした教育の反動化が露骨に進められています。それはもっぱら「安倍一族」の保守反動の地金が現れたものとして理解されがちですが、むしろ労資関係・雇用政策などの改変を軸に新自由主義=資本原理主義の観点を中心に捉えることが必要です。佐貫浩氏は戦後70年の教育の展開史について、1990年代以降を戦後社会の根本的改変期とし、その改変の理念を新自由主義と規定しています(「戦後70年と日本の教育の行方 『戦後社会』の根本的改変と新自由主義教育改革」160ページ)。その観点からこの時期における教育の改変を競争と専制支配から説明しています。
まず教育問題以前に一般論として、新自由主義のもたらす矛盾への対処として、国内的にはイデオロギー政策があり、国際的には軍事政策があること、安倍政権がそれらを追求しており、イデオロギー的には保守反動が利用されていること、などについて佐貫氏は以下のように指摘しています。
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新自由主義権力の目的が、グローバル資本の利潤を増大させる社会システムを、人権や労働権の切り下げをいとうことなく構築することにあるならば、そこで生じた矛盾をナショナリズムをあおり、国民の価値観の統制によって押し隠し乗り切ることもまた、新自由主義政策の必然的な帰結となる。
加えて、グローバル資本の世界戦略のために、世界の資源を有利に調達する世界秩序を維持し、世界のならず者―格差・貧困が生み出す抵抗やテロリズム―に対処する軍事的プレゼンスを実現することもまた、新自由主義政権の不可避の課題となる。いま安倍政権はその課題へとまっしぐらに向かいつつある。 171ページ
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このように政治経済の中心に新自由主義が座っており、その矛盾の隠蔽と「解決」のために、保守反動イデオロギーと軍事政策が利用されているという認識を前提に、以下のように教育における競争と専制のシステムが解明されます。それは「学校教育の内容や達成を、政府や財界の要求に沿ったものへと組み替えていくための教育内容と教育課程に対する緻密かつ強権的な国家的管理のシステム」(164ページ)であり「資本と権力の利潤に沿って人格とその行動を管理する目標管理権力と呼ぶことができ」ます(165ページ)。その新自由主義的手練手管については以下のように説明されます。
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日本の場合、確かに権力による剥き出しの統制という側面が前面に出ているが、新自由主義の中心的方法は、社会の労働と生活の中に競争の場を広範に作り出し、人々の「生」を包囲して、自己責任の競争で生きる以外にすべがないと決意して行動する競争主体を生み出す統治技術にある。新自由主義は、資本の利潤獲得の論理で再構成された生活空間に個人を自ら積極的に参加させていく「主体化の権力」として機能している。教育の場でも、教育関係者を無限に競争的に生きさせる目標管理の仕組みが形成され、その競争が全体としては企業利潤に沿った国家的な教育目標を実現していく忠誠競争として展開する仕組みとなっているのである。
国民の教育権論は、教育の自由の世界が権力によって弾圧、抑圧されることに対して闘う理論として、多くの教育関係者が感動をもって受け止めてきた。しかし今、国家権力の支配は、教育に関わる人々の行動を評価し制裁と賞罰を与える目標管理権力として、日々の教育の営みの一つ一つの過程を監視し、方向付けるものとして機能している。それに抗う者の行為は、提起された目標を達成しようとして「自主的」な工夫をも発揮する人々のPDCA実現の共同的努力に敵対するものとして、周囲の人々の眼差しに内在化された監視によって、孤立化させられるという相互監視メカニズムが働いている。
165・166ページ
(注)PDCA plan-do-check-action
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保守反動的教育ではもっぱら国家の「権力による剥き出しの統制」が行なわれるのに対して「国民の教育権論」が闘ってきました。いわばマクロな対決です。それに対して新自由主義では「日々の教育の営みの一つ一つの過程を監視し、方向付ける」目標管理権力として「相互監視メカニズム」を働かせます。いわばミクロから張り巡らされた権力メカニズムといえます。しかもそれは、主体性・自主性・自発性という形をとって現象します。しかし真の人間的自由という次元から見つめるなら、それはあくまで(労働者の生存権に敵対的な)資本主義社会が強制する競争を所与とする教育の場に生じる虚偽イデオロギーだと言えます。主体性・自主性の擬制が「強制された自発性」に基づいて形成されているのです。このように目標管理権力による相互監視メカニズム内で働く「主体的・自主的」競争が国家権力の専制的教育(それは資本の専制支配が要請するものだが)を実現します。資本主義の基本原理としての「競争と専制」は新自由主義的教育においてもこのように貫徹しているといえます。
<2>「対米従属+戦後民主主義」下での新自由主義と保守反動
以上で、資本主義・新自由主義・保守反動の一般的関係を提示し、教育の分野を例にその関係の貫徹を見ました。以下では、戦後日本政治における対米従属という要素を導入し、それと対立的に共存してきた戦後民主主義の役割をも見ることで、安倍政権における新自由主義と保守反動との野合の根拠を探っていきます。主に渡辺治氏の「戦後安保体制の大転換と安倍政権の野望」に学びたいと思います。
戦争法の強行採決を始めとする安倍政権の強権的・独裁的手法は反知性主義的・右翼的姿勢とも相まって、もっぱらその保守反動的性格から来ているように受け取られがちです。しかし戦争法の成立は米日支配層の長年の宿願であり、安倍政権の特異性から説明されるべき問題ではありません。戦後民主主義の抵抗の中で、従来の自民党政権がなかなか成し得なかった課題を、支配層はこの野蛮な政権に託さざるを得なかった、というのが実情でしょう。
逆に安倍首相の側に回れば、「こんな火中の栗を拾うようなこと」(渡辺論文、20ページ)をする理由が問題となりますが、「それは安倍首相自身が日本を、戦前の日本とは違う形ではあるが、アジアのなかで中国やロシアに対峙できるような軍事大国にしたいという野望をもっているからです」(同前)。では「戦前の日本とは違う軍事大国」とは何か。
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安倍政権のめざす「大国」というものの性格が問題となるわけです。安倍自身の思想はきわめて復古的ですが、彼がめざす大国は、多国籍大企業の要請を受けたアメリカ依存の現代帝国主義で、戦前の大日本帝国とはまったく異なるものです。アメリカの世界市場秩序支配の下で、アメリカに従属・依存し積極的に協力することで、日本が大国として打って出ようという側面を持っていることを、見逃すことはできません。 21ページ
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渡辺氏はこれを「グローバル競争大国」あるいは「アメリカに従属する現代帝国主義の大国」(22ページ)と呼んでいます。古典的帝国主義時代(列強が自国の勢力圏を排他的に確保→植民地支配・帝国主義戦争)とは違って、現代では巨大独占資本が自由に搾取できる単一の自由な世界市場を必要とします。米国はその妨げになるソ連などの社会主義圏と闘い、英仏の古典的帝国主義維持の野望も砕いてきました。米国の戦争と世界への介入はそうした中で起こってきました。安倍首相の目指すのはそれに適合的な大国・日本なのです(22ページ)。
「グローバル競争大国」「軍事大国」実現には、戦後の諸制度をひっくり返す「三つの柱」が必要です(20ページ)。……(1)改憲により自衛隊の海外での自由な出動態勢をつくる (2)軍事大国化を支える強い経済を実現するため新自由主義改革を断行する (3)以上を実現するため国民意識を改変する……
三つの柱に対応した三つの推進勢力が相互対立を含みながら安倍政権を支えています(24ページ)。……(1)グローバル大国派1:外務・防衛官僚:米国の戦争への全面的加担により米国に容認支援された大国化を目指す (2)グローバル大国派2:財務省・経産省:新自由主義改革を担当する官僚機構 (3)日本会議など:国民意識の改変担当……
ここで(1)(2)は日米同盟下で過去の戦争の反省に立ってアジアへの進出を目指しますが、(3)は歴史の修正・改竄によって「日本の誇り」を回復し、アジアの大国を目指しています。両者の対立の様相とその意味を読み解いて、支配層のディレンマを摘出し、人民の闘争の展望を見出すところに渡辺論文の核心の一つがあるように思います。
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安倍がめざす対米従属下の「グローバル競争大国」をめざすには前者のイデオロギーの方が適合的にみえますが、安倍自身はそういう方向をとっていない。歴史の修正改竄路線に執着してきました。それはなぜなのかという疑問が生じます。実はこの問いに答えることで、安倍大国化の矛盾に迫ることができると私は考えています。
安倍自身が歴史修正主義の文化とサークルの出身者でありそれを母体に政治家になったと言うことも一つの理由であることはいうまでもありません。
しかし、一番大きな理由は、日本が軍事大国になるには戦後日本のとってきた非軍事の路線を否定しなければならないという日本独特の要因にあると思います。大国化を正当化するには、国民意識のなかにある「戦後」の日本を否定しなければならないということです。 25ページ
…中略…
たとえ「自由と民主主義」という口実であっても、日本は海外に自衛隊を派兵することはしないという原則を堅持してきた。ここがドイツと違うところなのです。だから、軍事大国化を推進するには、この自民党政権でも堅持されてきた「戦後」の国是を否定しなければならないのです。この日本独特の困難、戦後の平和主義を否定する武器として、かつての欧米列強の侵略と圧迫に対し国民が団結して立ち向かった日本近代に帰れ、というイデオロギーが持ち出されるのです。 26ページ
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依然として大きな力を持っている「戦後日本の国民意識や思想」(26ページ)を変え、
戦後の平和主義を否定する課題を担う勢力は歴史修正主義者・靖国派しかいません。「安倍政権が主流派も含めて、靖国派を切るわけにはいかない理由はそこにあるのです」(同前)。グローバル競争大国・軍事大国になるためには、保守反動・右翼勢力の力を借りて「戦後日本の国民意識や思想」を改変することが不可欠でありながら、その存在自身は内外の大きな反発を招かざるをえない、という支配層のディレンマがここにあり、それは同時に人民の運動の標的・安倍政権のアキレス腱ともなっているのです。
以上のように渡辺氏は「対米従属+戦後民主主義」下での新自由主義と保守反動の野合の根拠をそのディレンマとともに説明しています。そこには先述の「資本主義・新自由主義・保守反動の一般的関係」が貫いていると思います。まず安倍政権は、一般に思われているような保守反動中心政権なのではなく、グローバリゼーション下に米日支配層の期待に沿った新自由主義政権であり、それが保守反動を利用しているという性格をもっています。「安倍一族」の思い入れがどこにあるかは別に、客観的にはそう言えるでしょう。戦争法やTPP交渉に見られる対米従属性がその証拠です。したがって安倍政権の際立って強権的で独裁的な性格も保守反動的性格によって増幅されているとはいえ、資本原理主義たる新自由主義が元来もっている専制的性格がむき出しになったものと思われます。沖縄・辺野古に襲いかかる安倍政権の暴虐の根源にあるのは、底なしの対米従属です。それを容認する姿勢は、米国中心のグローバリゼーション下でしかるべき地位を得て利潤追求したいという資本の衝動から生じます。
このように問題の根源に資本の専制を見ることができますが、もちろん私たちが直面しているのは資本主義止揚の課題ではなく、民主主義や立憲主義の実現です。戦後民主主義とそれを支えてきた日本国憲法はむき出しの資本主義への規制根拠となります。だからこそ保守反動派は、格差・貧困など矛盾の隠蔽のみならず、戦後民主主義と憲法に対する攻撃の役割においても、日本のグローバル資本から重用されているわけです。彼らならびに彼らと一体化した安倍政権を撃破することは平和擁護と生活向上にとって決定的です。渡辺氏は60年安保闘争にも匹敵する戦争法反対闘争の意義と教訓を的確にまとめた後に以下のように結論づけています。
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戦争法案は、戦後70年の日本の針路を大転換するものですし、いま重大な岐路にあります。この闘いは、直接には安倍政権のねらう戦争する国づくりを許さないという「保守」的闘いですが、この闘いは、憲法の生きる日本をつくる闘いの第一歩となるものです。私たちはいま、戦争する国づくりを許さない闘いを通じて、戦後の安保体制を根本的に転換していくことが求められていると思います。日米安保条約のない日本をつくる第一歩、武力によらない平和を実現する日本をつくる第一歩を踏み出す。戦争法案反対を通じて、憲法を生かす新しい日本を実現していくことが大事ではないかと思います。 30ページ
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もともと「戦後日本の平和国家」は憲法と日米軍事同盟(対米従属体制)との対立的共存の産物です。一方でその光の側面(前者)について言えば、日本の軍事大国化をそれなりに抑制してきたものであり、今回の戦争立法阻止闘争の拠点ともなりました。上記の渡辺氏の展望の基盤を提供するものでもあります。今回の戦争法はその意味では国是の大転換です。他方、影の側面(後者)からすれば、それは米国の侵略戦争へ加担し続け、「平和国家」の偽善性を指摘されざるをえないものであり、その意味では戦争法は「対米従属体制の下での日米軍事同盟強化のいわば現代バージョン」(17ページ)に過ぎません。私たちは「戦後平和国家」の両面を直視し、光の側面の重要さに確信を持ちつつ、影の側面を払拭する努力を続けていくことが必要です。それを逆方向に純化しようというのが安倍政権です。そこに不可欠となる新自由主義と保守反動との野合を分析しつつ全面的に撃破していく道の入口に、「戦争法廃止」と「立憲主義の回復」が位置づけられるように思います。
国民連合政府の意図・実現条件・発展可能性
戦争法廃止と立憲主義回復が日本共産党の提唱した国民連合政府の目的です。これは現在を「非立憲の非常時」と見ることで、たとえ重要政策での違いを脇においても、その目的達成のためだけでも政権樹立の意義がある、という判断に基づいています。機敏で妥当な現状認識だと思います。
その実現のためにはまず野党の結集が求められますが、なかなか困難な課題です。民主党内などの消極論を退けるため、いっそうの世論の高揚をつくりだすことが必要です。それをクリアできれば、次に選挙にどう勝つかが問題です。安倍政権の支持率をいっそう低下させ、政権交代への期待を高めることが必要ですが、さてどうするか。
戦争立法阻止闘争に参加した人々の中では、共産党のような現状認識がかなり共有され、立憲主義の破壊への怒りがうずまき、その回復のシングルイシューで選挙をするという意見もあろうかと思います。「非立憲の非常時」を克服するのが緊急かつ重要な課題だ、という意味ではそれはまったく正当ですが、現実的に全有権者規模で考えたとき、うまくいくかは疑問です。闘争への参加者やシンパとそれ以外の人々との間の温度差を考慮する必要があります。あれだけの悪政をほしいままにしている安倍政権ですが、今なお4割程度の支持率を保っています。激情的反発は一部にとどまっているという事実を冷静にみるべきでしょう。戦争法廃止と立憲主義回復を中心的争点として維持しつつ、中国脅威論などの「安全保障環境の悪化」論とアベノミクス幻想の克服とが避けて通れません。
中国脅威論(などの「安全保障環境の悪化」論)は戦争法と直接関係しますが、独自に叩き潰しておく必要があります。中国脅威論は決して軍事だけではなく、政治・経済・文化等々あらゆる問題と関係しており、日本の国力低下と対照的に勃興する中国の国力への漠然とした不安につけ込んで(それと補完的な歪んだ優越感とともに)全面展開されています。マスコミ報道がそれを煽り、安倍外交も中国敵視を常に意識して行なっており、多くの人々に「あらゆる問題で邪悪な中国の進出を防ぐべき」という意識が刷り込まれています。
それは意図的な誤った攻撃ですが、現実に中国の内外政策の誤りも重大であり、悪意の宣伝に「根拠」らしいものを与えてしまっていることも直視すべきです。私たちはそうした誤りへは節度ある批判をしっかりしつつ、だからといって中国脅威論のような力の対処は正しくないことを強調する、という両面からのアプローチが欠かせません。領土問題など両国間の懸案についてはあくまで冷静な話し合いでの解決が不可欠であり、さらには両国友好の土台には人民同士の政治・経済・文化等々での交流があることへの認識を、中国脅威論を克服できるほどにもっと大きくしていくことが必要です。さらに欠かせないのは、日本側には歴史問題での誤りがあり、この点の反省が不可欠の前提だという認識です。
中国脅威論に限らず「安全保障環境の悪化」論については、世界情勢についての現状認識を深め、日米軍事同盟などの現状を前提にした当面の理性的対応や東北アジア平和協力構想のような直近で実現可能な展望を強調することがまず必要です。さらに根本的には軍事的抑止力論そのものの克服を目指し、日米軍事同盟の廃棄による日本国憲法の全面実現の道を倦まず弛まず訴え、真の平和へ世論を導くことがわすれられてはなりません。
経済問題では「朝日」10月の世論調査を分析した記事が興味深いものです(「朝日」10月31日付)。「朝日」世論調査では、内閣支持について「強い支持」(これからも支持し続ける)と「弱い支持」(これからも支持し続けるとは限らない)、逆方向に同様に「強い不支持」と「弱い不支持」を聞き分けています。10月の内閣支持率は41%まで回復しており、強い支持は17%で弱い支持は22%(強さについて「その他・答えない」が2%)となっています。9月は内閣支持率36%のうち、強い支持17%に対して、弱い支持が17%しかなかった(「その他・答えない」が2%)ので、結局、弱い支持が増えたのが内閣支持率回復の原因です。安倍政権の経済政策について、全体では「期待できる」34%に対して「期待できない」が47%で多いのですが、「弱い支持層」では55%対30%と逆転しています。結局、「経済優先」という政権戦略が功を奏して内閣支持率を押し上げたようです。
7月から10月の調査で、「強い支持」は17〜19%、「強い不支持」は25〜27%と安定しており、戦争法によって強い不支持層が増え、政権基盤が不安定になったのが伺えます。しかし経済政策によって弱い支持層を取り込んで、何とか持ちこたえており、少なくとも政権不信へ雪崩を打つような状況を回避しています。
以前から言っていますが、共産党などのアベノミクスへの対案は存在してもなかなか知られていない状況があり、目先の景気対策に世論が囚われて、経済構造の根本的問題点(格差と貧困の拡大構造など)に目が向かない状況も含めて変えていかないと選挙で勝つことは難しいでしょう。
政策も問題だが、野党がまとまれば変革の展望が出て、支持が高まるという見方もあります。もともと安倍政権が積極的に支持されているわけではなく、長年の閉塞感に乗じて様々な術策を弄して世論を欺いて政権が存続していると見れば、それにも一定の根拠があります。そこで「非立憲の非常時」に戦争法廃止=立憲主義回復の一点共闘政権を作ろうという提案にも根拠があります。それに対して早野透氏の次の問題提起を考慮すべきです。
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ただ政権をとるということは、これは大変なことです。安保法廃止、閣議決定撤回以外の課題を脇においたとしても、経済政策とか社会保障とかは、一刻の休みも許されない。予算編成をどうするのかという問題もあります。連合政府を入り口にして、全面的な政策合意で新政権をつくるということも、視野に入れなければならないのではないか。
「しんぶん赤旗」日曜版、10月25日付
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これに関連して、インターネット番組「デモクラTV」(10月24日放送)での小池晃氏の発言が参考になります。戦争法廃止は単に前に戻ること以上の意味があるという指摘です。
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小池氏は「単に戻るのでなく、(『国民連合政府』樹立という)市民の力で新しい政治を実現する経験をすれば、日本の政治はさらに前に進む。経済や労働法制などでもたたかいの展望は広がっていくと思います」と答えました。
「しんぶん赤旗」11月1日付
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さらには、暴虐な橋下維新政権に対して、すでに自民党から共産党までの野党共闘を果たして挑戦する大阪府市の経験も参考になります。「さよなら維新政治10.29府民大集合」で山下芳生共産党書記局長はこう述べています。
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共同を通じてさまざまな新しい出会いがあり、一緒に目指す方向が広がり、発展してきました。5月の住民投票で、反対する大阪市議会の自民、公明、民主、共産4会派が一緒につくった広報に、「りんくうゲートタワーとWTCは、バブル期の政策の失敗」「(『都』構想では)市民サービスが大きく低下」と書かれた。自民党市議選公約には「カジノより、まずは中小企業対策を」。「都」構想反対の一点での共同が、大阪をどうよくしていくかの共通認識にまで広がり発展した。
「しんぶん赤旗」10月31日付
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経済の見方には「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場→諸個人の生活と労働)と「下から視角」(諸個人の生活と労働→職場→地域経済→国民経済→世界経済)があります。前者は新自由主義、後者はオルタナティヴの立場です。以前に愛商連(民商の愛知県連)の太田義郎会長を先頭に自民党愛知県本部との話し合いに行ったことがあります。こちら側の諸要求などを聞いてから、自民党側から、民商と他のいろいろな商工団体とはどう違うのかという質問が出されました。太田会長は民商は全く自主的な組織である点などを上げた後で、政策的には9割がた同じだと答えました。これは私見によれば、地域経済の担い手として、業者の生業を成り立たせるという「下から視角」に立つならば、同じような要求と政策を持たざるをえない、ということを意味していると思います。そこに亀裂が入るのは、保守系では「上から視角」によるグローバル資本最優先の経済政策の観点が混じって混濁が生じるからでしょう。
大阪では純粋の「上から視角」に立つ橋下維新が跋扈する中で、対抗勢力は自ずと「下から視角」で一致していったのではないでしょうか。これは国民経済レベルでも実現しうるはずです。
もう一つ重要な論点について、山下氏はこう述べています(同前)。
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私たちと栗原さんや柳本さんの考えや政策はすべて同じではありません。知事、市長になられたら、賛成できることは全力で後押しし、意見の違いは議会で堂々と議論したい。議論できることが大事です(拍手)。意見の違う者を排除するのが橋下「維新」政治。民主主義の土台を破壊する独裁政治です(「そうだ」の声)。「維新」政治を終わらせ、立場や意見の違いがあっても議論を通じて進むべき方向を見いだすまっとうな政治をつくる選挙にしようではありませんか。(拍手)
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まとめると大阪での対決点は……(1)経済での「上から視角」VS「下から視角」、(2)政治での独裁VS民主主義……ということになりましょうか。これは橋下「政権」の性格が「新自由主義+独裁」であることの帰結です。確たる理由は示せませんが、橋下氏は安倍首相と同様な保守反動出自というわけではなさそうです。その独裁的性格は新自由主義が体現する資本の専制の延長線上に考えられるでしょう。そもそも新自由主義の最初の本格的「実験」は、アジェンデ政権をクーデターで倒してできたピノチェト軍事独裁政権にシカゴ・ボーイズ(ミルトン・フリードマンの弟子たち)が送り込まれて行なわれた、ということが想起されるべきでしょう。安倍政権にしろ橋下「政権」にしろ、並外れた暴虐政治に対抗する偉大な一点共闘はやがて政策的全面展開に至る可能性を持っています。
「下から視角」の出発点は諸個人です。日本国憲法でいえば、13条です。「上から視角」の出発点は世界経済ですが、それはグローバル資本の立場です。保守反動派は「国民経済」ではなく一応それに対応する政治である「国家権力」から出発します。国家権力の立場から諸個人を弾圧します。その際に、国家権力と国民経済との関係をどう捉えているかが問題となるでしょう。首尾一貫した保守反動派ならグローバル資本への国民経済の従属を拒否するでしょう。しかしそのあたりを曖昧にして新自由主義派が握る国家権力に取り入る者たちも多いのが現状でしょう。
憲法13条の個人の尊重と幸福追求権をどう捉えるかが問題です。戦争法反対闘争では自覚した諸個人が立ち上がったことが何よりも賞賛されました。それを新自由主義の方ではなく、社会的連帯の方に持って行くことが重要です。先の佐貫浩氏の論稿によれば、新自由主義教育では、国家権力のむき出しの統制ではなく、「目標管理権力」による「相互監視メカニズム」を介して結果的に「企業利潤に沿った国家的な教育目標を実現していく忠誠競争として展開する仕組み」を実現します(前掲佐貫論文、166ページ)。ここでは直接には国家権力の問題となっていますが、結局は個人から出発するように見せながら実はグローバル資本の立場を実現するように、いわば競争によって専制を実現する仕組みとなっています。グローバル競争の強制下、自己責任論に乗せられた諸個人による幸福追求か、それに対抗して社会的連帯(憲法25条が前提)の主体となった諸個人による幸福追求かが問われます。新自由主義へのオルタナティヴとしての「下から視角」は、憲法13条を真に生かし、戦争法反対闘争で注目された自覚した諸個人が発展する方向を示していると思います。
2015年11月2日
2015年12月号
日銀の物価上昇目標
戦争法の強行採決によって支持基盤が弱体化した安倍政権は、例によって「経済シフト」で人々の目をそらして支持回復を狙っています。とはいえアベノミクスも実際には破綻しているので、そこにふたをしつつ新奇さを見せるためアベノミクス「第二ステージ」を打ち出しました。そうした中で「安全保障関連法案に反対する学者の会」の発起人である教育学者の佐藤学氏はアベノミクスの解明の重要性を説き、「安倍政権によるクーデター推進の状況と日本経済がどう結びついているのか、どういう危険が現実に起こっているのかということも、もっと研究する必要がある」(「戦争法廃止にむけて 新しい民主主義の前進と社会変革 学者と学生の共闘と展望」、18ページ)と、経済学研究への期待を語っています。
12月号にはアベノミクス批判の2論文と、アベノミクスによってますます悪化した財政の根本問題を解明した特集「隠された財政危機 国債リスク」の4論文、ならびにTPPをめぐる対談が掲載されています。まずアベノミクス批判、垣内亮氏の「大企業の『史上最高益』の構造 国内経済とのギャップ」は「大企業の利益の源泉が、国内での営業活動ではなく、海外からの配当に依存する度合いが強まる中で、大企業の業績と国内経済とのギャップが拡大していった」(40ページ)ことを明らかにしています。また巨額の内部留保について、それが有効に活用されずに余剰資金化していることも解明しています。アベノミクスはこうした昨今の日本経済の宿痾を解決するどころか助長してきました。このようなことは周知ではありますが、垣内氏は法人企業統計などの政府統計だけでなく個別企業の有価証券報告書も集計・活用して、詳細かつ手堅く分析しています。それは企業経営の実態に即しており、その大企業批判の分析手法は、「企業破壊攻撃」といった非難を軽くクリアし、国民経済のあるべき姿とそこで果たすべき企業の社会的責任を提起する際の基本的資料を提供するものです。
「財政危機」の特集では、国債整理基金特別会計・借換国債・60年償還ルールなどの特異な公債制度の下で、世界的に見ても異常な日本の借金大国化が進んできたことが説明され、異次元金融緩和の「出口戦略」の困難性が指摘されています(岩波一寛「日本を借金大国にした公債制度の特異性」、代田純「ユーロ圏からみた日本国債の金利リスク」)。私としてはそこから日本の公債制度の特異性を新たに学べました。さらに「出口戦略」の危険性と特にその対策についてより一層の解明を期待したいのですが、以下では、村高芳樹氏が「異次元金融緩和の虚構と急増する国債」の冒頭(48ページ)で触れている「量的・質的金融緩和」の2%物価上昇目標という虚構について考えてみます。
そもそも特定の物価上昇目標を設定して、それを基軸に経済政策を組み立てるというのは無意味ではないでしょうか。確かに物価が不安定では国民経済の運営に支障が出るので、様々な経済政策が物価にどのような影響を与えるかを注視しながら不断に調整を加えることは必要です。つまり経済の動態と政策の結果としての物価変動が重視されるのは当然です。しかし「物価上昇目標まずありき」というのは転倒しています。物価水準とか物価変動とかが他の経済現象を規定する中心になっていると考え、その制御に政策の起点を置くべきだというのは錯覚です。その眼は、物価の水準や変動の量・方向のみを見て、そこに現われているはずの経済の質(変動の原因)を看過しています。日銀が2%物価上昇目標を達成できないことを批判する声がありますが、そもそもそれ以前に物価上昇目標なるものを経済政策の起点・中心とすること自身が問題視されるべきです。
俗に「良い物価上昇」と「悪い物価上昇」などと言うように、物価指数が同じでも中身の良し悪しがあり、特定の数字を「目標」にするのは無意味であり不適切です。そこでまず最近の物価動向の内容を見て、日銀の政策スタンスを確認し、それを経済状況の中に位置づけ、政府の経済政策の成否を判定しましょう。
10月30日、日銀が発表した「経済・物価情勢の展望(展望リポート)」では、消費者物価の上昇率の見通しを2015年度0.1%、16年度1.4%として、7月時点の0.7%、1.9%から下方修正しました。同日の日銀の金融政策決定会合では、2%物価上昇目標達成の時期の見通しを「16年度前半ごろ」から「16年度後半ごろ」に先送り(4月に続いて2度目の先送り)しました(「朝日」10月31日付)。それを受けて以下のように報道されています。
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物価が上がらないのは、ガソリン代などが原油安で下がっているためだ。その一方で円安の影響を受けた輸入物価の上昇で、日用品や食料品などは値上がりを続ける。9月の消費者物価の内訳でみると、テレビが前年より18.2%、チョコレートが17.8%、コーヒー豆が15.1%それぞれ上がるなど、身近な品で値上がりが目立った。
一般の消費者や中小企業からは不満が漏れる。賃金が上がらない中での生活必需品の値上がりは消費を抑え、かえって物価上昇を妨げるとの指摘もある。
それでも、日銀が掲げる「2%」は政府との共同声明で打ち出した数値で、自らは撤回できない。黒田総裁は記者会見で、2%物価目標を早期に実現すると約束することが「政策効果の起点でもある」と説明。物価が下がり続けると思う人々の心理が変わるよう、強い意志を示し続けることが政策の出発点であり、簡単には旗は降ろせないのだ。
黒田総裁はこう強調した。「2%の物価安定目標を達成することが、生活者も含めて経済全体がうまく回っていって、生活水準も向上していく面に最も適切なものと考える」
「朝日」10月31日付
(日銀の原田泰審議委員の記者会見より)
日銀が目標とする2%程度の物価上昇の達成時期が後ずれしていることに関しては「時期が遅れても必ず2%は達成できる」と強調しました。
会見に先立ち行われた地元経済界との懇談会で原田委員は「エネルギーと生鮮(食品)を除いた物価を見ると着実に上昇している」と指摘。「今年度末には消費者物価が2%に向けて上昇していることが確認できる」と語りました。
一方で、「物価を基調的に上昇させるメカニズムが危うくなれば、ちゅうちょなく追加の金融緩和を行うことが必要だ」とも言明。追加緩和の具体策については、会見で「あらゆる手段がある。制約はない」と述べました。
「しんぶん赤旗」11月12日付
黒田東彦日銀総裁は30日の記者会見で、原油価格の下落を原因に挙げましたが、物価だけでなく経済成長率の見通しも引き下げられています。実質国内総生産(GDP)は安倍政権下の10四半期のうち4期でマイナス。14年度はマイナス成長でした。大企業が過去最高の収益をあげる中で日本経済が落ち込んでいる異常事態こそ、日銀の物価見通しを狂わせている原因です。実質賃金の低下で国民の消費は伸びず、昨年4月の消費税増税で消費者の財布のひもは固くしまっています。
国民からすると、物価は上がっていないどころではありません。物価の中で最も上昇したのは食料品やサービス価格、電気・ガスを除く公共料金です。物価が全体として上がらなくても、生活関連では値上げが相次ぎ、生活を圧迫しています。
「しんぶん赤旗」10月31日付
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このように消費者物価指数は低迷しているけれども、生活者の実感としては身の回りの商品価格は上昇しており、結果として内需が縮小して日本経済が落ち込んでいるという状況です。それに対して黒田日銀総裁・原田審議委員とも、もはや追い詰められて「誤った信仰」にすがっている、といった状態で、強がりの上に無反省な政策の継続に固執し大変に危うく、見てはおれない感じです。「自民党の新しいスローガンは『経済で、結果を出す』です。しかし、看板政策の『デフレからの脱却』は行き詰まり、壁に突き当たっています。統計数値は、八方ふさがりの『結果』がすでにでていることを示しています」(「しんぶん赤旗」10月31日付)とか「日本経済の低迷が続いているのは、消費税増税と円安による物価高が家計を直撃しているため。安倍政権が進めてきた経済政策そのものが問題なのです」(同11月12日付)という評価が妥当でしょう。
いったいどこから間違っているのか、やや原理的に考えてみると以下のようになります。物価変動の主要な原因は(1)通貨価値、(2)生産性、(3)商品需給、という三つの要因の変動です。なお、そこでは一応対外経済関係は捨象されていますが、物価変動上では、たとえば円安は通貨価値の下落と同様な効果があり、輸入エネルギー価格の低下は生産性の上昇に準ずる効果があると見なせます。この二要因は対外経済関係であっても、今日では極めて重要ですので、物価変動の主要原因の中に含ませることが説明上必要でしょう。
一般的には、通貨価値が上昇すれば物価は下がり(デフレ)、それが下落すれば物価は上昇します(インフレ)。生産性が上昇すれば物価は下がり、それが下向すれば物価は上がります。商品需給が需要超過(供給不足)になれば物価は上がり、需要不足(供給過剰)になれば物価は下がります。このように物価は様々な原因で変動しますので、物価指数が同じであっても、その経済的意味は一様ではありえず、何が原因で変動したのかを捉える必要があります。物価下落が続いていたからとにかく物価を上げさえすればよいという議論は成り立ちません。
物価変動の評価基準は、労働者・働く人民の生活と営業の再生産に資するかどうかにあります。適切な賃金で生活が安定し、生産費を十分に賄える商品価格が実現して営業が成り立っていくかどうかが問題です。最近の物価指数の下落は「エネルギー関係の価格下落が物価全体を押し下げていますが、食品の値上がりが生活を圧迫しています」(「しんぶん赤旗」11月19日付)という状況で起こっています。日銀の立場では、これはとにかく物価指数が下落していること自体が問題だから物価を上げなければならない、となります。しかし生活者にとってはこれ以上の物価上昇は御免です。灯油やガソリンまで値上がりすれば生活への打撃は甚大です。エネルギー価格の安定の下で、行き過ぎた円安を是正したり、国内農家の供給力を強化(←生鮮野菜などの供給不安定に対して)して食品価格を下げ、賃金を引き上げることが必要です。賃上げで内需拡大すれば、採算割れに陥っているような中小企業や自営業者の商品価格も回復していけます。物価指数の変動だけを見るのでなく、物価変動の中身を見て対策を考えなければなりません。
もし通貨価値が安定し商品需給が均衡しているならば、そこでの緩やかな物価下落は生産性の上昇を反映した「良い物価下落」です。1990年代以降の日本経済における物価下落はそのようなものではなく、失業率の上昇や非正規労働の急速な増加などによる賃金下落(労働力の価値以下の賃金の増加)がもたらした内需の縮小によって、商品価値以下の価格が増加したことが主要原因です。日銀の一貫した異例の金融緩和政策による物価の名目的上昇圧力に対して、このような実体経済の縮小という実質的下落圧力が打ち勝って、この「悪い物価下落」は生じています(内生的貨幣供給の論理から言って、日銀によるじゃぶじゃぶの通貨垂れ流しも銀行から先に回らないから、とすべきかもしれないが…)。したがって、さらに「異次元の金融緩和」によって物価上昇を図るというのは、実質的変動による物価下落を看過して無理やり名目的変動によって物価上昇を招こう、という筋違いの政策です。それのみならず実体経済の病理を放置して金融の病理を増悪させるという二重の誤りに陥っています。変動要因を分別せずに、ひたすら物価指数の上昇を最優先にする、という政策の過ちがますます経済の泥沼化を招いているのです。
とはいえ、異次元の金融緩和に向けた「黒田・日銀の考え方」にもう少し付き合ってみましょう。日本経済の現状は上記のような不況であって、物価の低迷はその結果です。しかし日銀の立場からすると、たとえ輸入エネルギー価格の下落を主原因とする「良い物価下落」であったとしても、それを蹴散らしてでも(物価下落の原因が何であっても)「2%物価上昇」を実現しなければならない、という「確信」があるようです。上記「朝日」10月31日付記事の黒田総裁の言から想像すると以下のようになるでしょうか。
日銀の現状診断では、物価下落によって企業収益が悪化し、賃金が下がり、投資が抑制されることで、雇用と内需が縮小して売り上げが下がり、物価が下がるという悪循環に陥り、経済成長が低迷しています。
そこで起点の「物価下落」を「物価上昇」に置き換えれば万事うまくいくはずだ……物価上昇により企業収益が改善し、賃金が上がり、投資が活発になることで、雇用と内需が拡大し売り上げが上がり、物価が上がるという好循環が実現し、経済成長につながる……と。あるいはこの先、物価が上昇する見通しになれば、買い急ぎ傾向となり、消費も投資も拡大するはずだ……と。
だから物価下落の原因にかかわらず、「異次元金融緩和」による物価上昇の実現をきっかけに「デフレ」マインドを「インフレ」マインドに変えて、物価上昇を継続できれば、万事後はうまく回っていくはずだ……と。
しかし<低賃金・低所得→内需縮小>状況では、「好循環」の起点とされる<物価上昇→企業収益増>も<物価上昇→買い急ぎ>も実現しません。この状況下で、生活用品の価格が上昇するなら買い控えが生じ売上減少で企業収益は上がりませんし、たとえ物価上昇の見通しがついても、所得が減っている状況で消費者は買い急ごうとはしませんし、企業は内需低迷下で投資を急ごうともしません。つまり俗に「デフレ」と呼ばれる長期不況をもたらした内需不足の最大の原因である賃金低下=所得減を是正しない限り「好循環」は実現できない、ということです。やはり物価下落の原因を明らかにして対策を取らない限り事態の打開はできません。物価下落の原因はどうでも、とにかく物価を上げさえすれば良い、そして上げるためにはやみくもに金融緩和だ、というのは、(新自由主義構造改革がもたらした)長期不況という宿痾の病に対する「診断放棄」であり(その必然として)治療方針の錯誤でもあります。もっとも、「デフレ」(そもそもこの言葉が間違いで、物価下落を伴う不況というべきだが)の原因について、金融緩和が足りない、という「誤診」を行なって、「異次元の金融緩和」という貨幣数量説に基づく場違い手術を施す、というのもとんでもない勘違いの「確信」なのですが。
異次元金融緩和を「客観的」側面で支えるのは、中央銀行が銀行に通貨を供給すれば市中に回って好況になり物価が上昇する、という見通しでした。実際には日銀がマネタリーベース(MB)を増やしても日本経済のマネーストック(MS)はたいして増えていません。「13年4月から15年7月までの間、MBは175兆円増えたが、マネーストック(MS)はM3で同時期85兆円の増加と半分以下だ。MS/MB比率は13年8.32倍から15年7月3.95倍へ半分以下に下がっている」(梅原英治「『第2ステージ』へ進むアベノミクス 『骨太方針2015』の税財政論批判」、22ページ)というわけで、「MS/MB比率は安定しているから、日銀がMBを増やせばMSも同様に増える」という貨幣数量説に基づく外生的貨幣供給論は破綻しています。異次元金融緩和によって実体経済は回復していません。
また異次元金融緩和を「主観的」側面で支えるのは、「デフレ」マインドから「インフレ」マインドへ「人々の心理が変わるよう、強い意志を示し続ける」という日銀の目論見です。そうすれば物価が上昇してそれを起点に万事うまく回るというのです。しかしこれも上記のように破綻しており、誤った精神主義に過ぎません。
錯綜してきましたのでまとめます。一方で、異次元金融緩和を進める理由として、「デフレ」の原因が通貨不足であるという現状認識に基づいて、量的・質的金融緩和(QQE)が必要だというのなら、そうした外生的貨幣供給の経路は理論的にも実践的にも破綻している、と指摘できます。他方で、「デフレ」の原因がどうあれ、人々の心理に働きかけて物価上昇を実現し維持し続ければ経済の好循環が実現するという議論も前記のように破綻しています。問題は、日本経済における前世紀末からの物価の停滞ないし下落という現象をどう捉えるかです。まずデフレという誤った診断ないし呼称を止め、次いでその原因が通貨不足といった金融の問題ではなく、(新自由主義グローバリゼーションを背景とする構造改革が推進した)賃金下落を起点とする内需不振による慢性的不況によることをはっきりさせることが必要です。物価変動について単に量的に見るのではなく、質的に見る(原因を把握する)ことによって、一方で、異次元金融緩和のような政策の誤りを明らかにし、他方で、賃上げや労働規制緩和の中止などで人々の所得を上げ、社会保障の充実などで生活不安を解消していくことで(GDPの6割を占める)内需を拡大するという不況打開の道が見えてきます。
なおこれまで私は物価変動の意味についてたびたび言及してきましたが、ややまとまったものとしては「名目値と実質値」(「文化書房ホームページ」所収)があります。
金融化とピケティのr>g
鳥畑与一氏の「『経済の金融化』とは何か 日本における金融化の現状と特徴」は金融化の本質とその日本経済での位置づけについて実に簡潔に解明しています。その中で特に重要なのは次の2点だと思います。……(1)金融化が「実体経済の停滞」「金融危機の深刻化」と表裏一体・相乗的関係にあること、(2)それが基軸通貨ドルを擁する米国が他国を金融的に収奪することによって展開していること……。日本経済については、(2)に関連して、もともと政治的経済的に対米従属である上に、バブル崩壊後、日本の金融機関の出遅れで金融化は米国のようには進んでおらず、欧米金融機関・ファンド支配下での「金融化の政策的推進は、日本の家計金融資産などの金融資源の米欧金融資本による収奪と、欧米系株主の支配のもとでの日本の勤労者の収奪の強化を通じた貧困化をいっそう推進することになる」(118ページ)と警告しています。
ところでトマ・ピケティは古代から人類の歴史を通じての法則として、r>g(資本収益率>経済成長率)を提起しています。これは「論理的必然ではなく歴史的事実」(『21世紀の資本』、みすず書房、2014年、368ページ)とされます。膨大な統計資料を分析してこの法則を定立したのは重要ではあります。しかし近代経済学の立場から、いわば生産力主義であって生産関係視点はなく、生産様式の発展に関係なく定式化されているので、その応用には注意が必要です。たとえばこの定式に限らず、20世紀の両大戦期と戦後の一時期における格差構造の縮小と、それ以外の20世紀および19世紀と21世紀におけるその拡大とを対比して、前者の例外性をピケティは強調しているのですが、これでは20世紀の一時期以外の各時代の質的違いが軽視されてしまいます。
鳥畑氏はピケティのr>gについて、貨幣資本の蓄積(収益率)>現実資本の蓄積(収益率)と読み替えて、現代資本主義の金融化の問題として取り組んでいます。これはピケティが「人類史の法則」としたこととはずれており、そういう意味では間違いなのですが、そもそも経済法則について特定の生産様式ないし段階規定との関係を意識しながら解明すべきものだという意味では、金融化の問題に置き換えて取り組むのは現代的意味があると言えますし、その限りで理論的に成功しているように思います。
鳥畑氏は現実資本の収益率の停滞に対する貨幣資本の高収益の秘密をインカムゲインとキャピタルゲインの関係として捉えています。「一定のインカムゲイン(キャッシュフロー)を期待収益率で資本還元することで求められる擬制資本の価格(キャピタルゲイン)は、インカムゲインの数倍の大きさで増大するのであり、株価重視の経営は株主に株式配当を大きく上回る利益をもたらすのである」(123ページ)。しかしそのキャピタルゲインを資本市場でどう実現するのかが次に問題となります。これは「金融化による金融収益の源泉は何か」「マネーゲームによる巨額の金融収益に継続性はあるのか」(同前)という問題でもあり、それは以下のように「新たな投資資金の絶えざる流入」によって支えられます。さらにそれは一方で実体経済での収奪強化(それは実体経済の停滞をもたらす)、他方で中央銀行による量的金融緩和という流動性供給によって果たされます。
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結局、資本市場での擬制資本価格の上昇は、市場への流動性供給としての新たな投資資金の絶えざる流入によって支えられる。企業や家計、そして機関投資家等のファンドによる投資の増加が必要になるのであり、そして中央銀行による量的緩和政策という形での流動性供給が必要なのである。とりわけリーマン・ショック以降は、先進国中央銀行の大量の資金供給によって株価などの資産価格が維持され、キャピタルゲインの実現を支えている。
このような金融化における金融収益の維持は、一方で、株主重視の経営の名のもとでの人件費抑制や、長期的な設備投資の抑制による現実の価値の収奪を結果することになる。この価値収奪は、貧困・格差拡大による需要減少と投資減退等による生産性低下を通じた実体経済の停滞を生み出すことになっている。
他方、中央銀行による量的緩和政策による維持は、財政規律の弛緩とともに中央銀行のバランスシートの膨張や公的部門の債務増大による新たなリスクを生み出している。金融化は、貧困・格差の拡大によって持続的な成長をますます困難にさせながら、中央銀行に金融リスクを転嫁させながら暴走を続けていると言える。
日本の金融化の「歪み」は、国際収支にも現れている。昨年末の対外純資産は367兆円とこの10年間だけでも倍増し、対外証券投資の黒字10兆9702億円だけで貿易サービス収支の赤字10兆3637億円を上回るようになっている。その原動力は410兆円にまで膨張した対外証券投資である。それは一見して「金融立国」への前進であるかに見えるが、賃金等を犠牲にした大企業の内部留保が、生産的投資に向かうことなく証券投資に向かっていることの反映でもある。この実体経済の成長性を奪う金融化の是正が、いま日本に求められていると言える。 123・124ページ
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長い引用になってしまいましたが、ここには金融化の源泉の追求から始まって、実体経済・財政・国際経済関係などが関連付けられ、日本資本主義の総括的批判にまで届かんとする透徹した深い洞察があります。アベノミクスの異次元金融緩和の語られざる理由も暴露されていることとも合わせて、批判的科学的経済学の実効性がいかんなく発揮されています。
屋嘉宗彦氏の「ピケティとマルクス 貧富の格差拡大に対して」はピケティ批判の論文です。ピケティがなぜ評価されているのか、その功績とともに、マルクスへの不理解、理論的問題点などについて実に簡潔・的確にまとめられており、大いに参考になります。
屋嘉氏もまたピケティのr>g(資本収益率>経済成長率)についてかなり力を入れて解明しています。ところがそれは『資本論』第2部第3篇の再生産表式の解説にはなっていますが、ピケティ批判としては論理次元がずれています。先にピケティのr>g法則の「歴史段階無視」に触れましたが、本質抜きの現象性という側面もあります。もともとピケティの「資本」は雑多な「資産」であってマルクスの言う資本とは違います。屋嘉氏はピケティのr>gの解説として「r(資本収益率)の前提となる『資本』は、実物資本と金融資本の合計である」(129ページ)と指摘しています。もちろん『資本論』第2部第3篇の再生産表式は現実資本の運動・蓄積を扱ったものであり、金融資本などは捨象されています。
したがって「ピケティのばあい、説明抜きのあるいは没概念的なr>g法則を武器として資本と労働の格差拡大を説いているが、資本と労働の分配率格差の問題は、ピケティと同じ抽象レベルでは、むしろマルクスのほうが論理的に正確にこれを明らかにしている」(130ページ)というのは誤りです。『資本論』の抽象レベルはかなり高くて、ピケティのようなまったく雑多な資産現象そのもののレベルとは完全にずれています。ピケティのrを再生産表式の第1部門の成長率に、gを第2部門の成長率に読み替えて、ピケティのr>g法則を再生産表式の両部門の成長率の比較の問題に移し替える(132・133ページ)というのは無理があります。たとえばrには家賃収入なども関係してきますが、これは生産手段の生産(第1部門)とはあまりにも筋違いです。
ピケティ『21世紀の資本』の難点は、生産・分配・再分配の抽象度を分けずに、生産の問題、特に生産関係にまつわる問題を看過して、格差に関して結局現象的に見やすい再分配の問題だけに議論を集中した点にあります。件の法則もその仕儀の枠内なので、それに対して、産業資本の論理次元で社会的総資本の再生産を本質的に解明したマルクス・再生産表式の議論で説教してもむなしいだけです。むしろその無概念的現象性に着目するなら、実体経済と金融との関係の全体像が問題となる金融化におけるr>g問題として移し替えた方が現代的には意味があるように思えます。全人類史に等しく適用されるという歴史的無概念性に乗じて、ある具体的時代に適用してそこで豊富化できるなら良しとすべきでしょう。
11月22日、大いに注目されたダブル選挙で、大阪府知事・大阪市長とも橋下維新が圧勝しました。安倍政権による戦争法の強行成立後、対抗勢力による下からの民主主義が高まる中で、このダブル選挙の行方に関心が集まっていましたが、逆流の勝利で冷や水を浴びせられる格好になりました。安倍政権が進める上からの独裁政治に呼応して、橋下維新による下からの新自由主義ファシズムが確固たる勢いを示す中、民主勢力は世論獲得にどう臨むのかが深刻に問われています。
ダブル選挙の出口調査によると、維新の支持率は46%で住民投票時の26%を大きく上回り、都構想への賛成が60%、反対が38%であり、橋下市長に復帰してほしいが50%、ほしくないが29%となっています(「朝日」11月23日付)。都構想を否定した5月の住民投票から半年で雪崩を打った反動であり、戦慄すべき結果です。ここには「大阪」「橋下」の特殊性もあると思いますが、全国的に共通する新自由主義ファシズムの流れにつながる可能性も否定できません。全国どこでも「橋下的」なトリックスターが現れれば、今日の日本社会の閉塞状況を衝いて、潜在的な新自由主義ファシズムが一挙に顕在化することありうると思います。
従来からの靖国派=保守反動の排外的ナショナリズム・歴史修正主義の動きにおいても、「9条の会」に対抗する草の根運動体として昨年結成された「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が11月10日に大集会を開催するなど、たいへん活発化しています(「しんぶん赤旗」11月22日付)。この二つの流れが「下から」相携えて、安倍政権の上からの暴走を加速化し、ISなどのテロを奇貨とし、中国脅威論も大いに利用して、人々の中に暴力的ナショナリズムを煽り、一挙に平和と民主主義を破壊する方向に進むことに十分な警戒が必要です。以下では大阪ダブル選挙の状況に即した考察はとりあえず措いて、一般的問題としての新自由主義ファシズムについて考えてみます。
新自由主義ファシズムなどという言葉をここでいきなり使い始めてしまいました。すでに橋下維新の性格については『経済』11月号の感想の中で「新自由主義+独裁」と規定しました。それは「資本の専制」の延長線上にあり、「下からの」性格を含めて、より強調的に「新自由主義ファシズム」と呼ぶことも許されると今思い至ったのですが、もう少し規定する努力をしてみましょう。
新自由主義ファシズムは、生産過程に本来ある資本の専制が政治をも支配する中に生まれます。20世紀資本主義の一定の時期には世界大恐慌などに見られる体制的危機の回避のため、労働者階級への一定の譲歩として、労働規制など資本への民主的規制あるいは社会保障政策・再分配政策が行われました。しかし「現存する社会主義」の停滞と崩壊、グローバリゼーションの進展を受けて、1980年代あたりからグローバル資本の力が労働者階級を始めとする人民の力を圧倒するようになり、資本への規制は打破され、社会保障の削減も強行され、搾取強化と金融のカジノ化が進みました。これが新自由主義です。規制から解き放たれた資本は、もともと生産過程にあった専制支配を政治にも及ぼそうとします。近年、左翼でない向きからも資本主義と民主主義との矛盾が語られるようになった背景がこれでしょう。「資本の専制」による政治支配の極北が、チリのピノチェト軍事独裁政権で行なわれたシカゴ・ボーイズによる新自由主義の最初の実験です。そこまで極端でなくても、欧米民主主義国家も含めて、その後の新自由主義政権下では労働者・人民の民主的諸権利や社会保障が例外なく縮小されてきましたし、イラク戦争の米国に典型的なように不断に軍国主義への傾斜が見られます。
橋下市長は一方で市職員の思想調査を実施し、他方では、大阪市の生活保護の異常な抑制がルール違反であることを認めながら「憲法25条の改正も必要」と開き直り(「しんぶん赤旗」11月20日付)、自由権と社会権をともに蹂躙しています。また憲法13条を変えて個人の尊重をなくそうとする自民党憲法草案なども合わせて考えると、自民=橋下維新勢力における新自由主義の専制への傾斜、民主主義破壊が深いところで見てとれます。もちろん安倍政権の暴走も対米従属下における新自由主義の専制であり、それは資本の専制の忠実な反映であり、さらに年来の保守反動の野蛮性がそれを増幅しています。
なお生産過程における資本の専制から政治の専制へ、という論理はここではかなり雑駁で改善が課題です。その論理構築の前提となる「生産過程と交換過程」の関係についての精緻な考察が藤田勇氏の『法と経済の一般理論』(日本評論社、1974年)の187ページ辺りからあり、今後参考にして若干でも議論を前進させたいと思います。
以上は新自由主義ファシズムの本質規定の試みですが、発生過程としても以下のように規定できます。新自由主義は必然的に格差と貧困の拡大をもたらし、そこから社会的対立の激化と閉塞感の蔓延を招きます。そこで一方ではオルタナティヴを掲げる民主勢力に対して国家権力が政治的弾圧を強化し、他方、民主的打開の展望を持てない人々の中には、真の敵を見誤って公務員・生活保護・在日外国人などへのバッシングに走り、ネット右翼・ヘイトスピーチ・安倍人気・橋下人気などの反知性主義的うっぷん晴らしに陥って、平和と民主主義破壊に加担する向きが増加します。そこまでいかない中間的民衆の間でも、国家権力の強圧的姿勢に伴う社会的右傾化の中で、「空気を読む」ような「自粛」と「忖度」の風潮が蔓延していき、右傾化の悪循環に巻き込まれます。このように新自由主義の帰結が国家権力を反動化させ、ファシズムを生み出す民衆的土壌を形成するという意味でも新自由主義ファシズムという言葉を使用することができます。
今日の日本のイデオロギー状況でまず目立つのは「ナショナリズム自慰症候群」とでもいうべきものであり、次いでそれほど目立たないけれども深く浸透しているのが「自己責任論に基づくバッシングによる自縄自縛」状態でしょうか。前者は保守反動=靖国派など元々あったものを基礎としています。しかしそれにとどまらず、経済大国・中国に追い抜かれたことへの焦燥感、いわゆる「安全保障環境の悪化」への危機感など諸々の感情が、対米従属下での戦争法成立によって加速化する民主主義破壊と軍事的傾向の強化という現実の流れに呼応する形で肥大化しています。経済的・社会的停滞に陥った日本の中で、理性や知性を働かせて現実の矛盾を客観的に直視するのでなく、もともと身体的・精神的に身近な日本的なものに癒されることに逃避する、そこに安易に帰依するという感情的・主観的傾向が増大しています。
「日本は、日本人は凄い」という類のテレビ番組が異様に蔓延しているのも明らかに自信喪失の裏返しです。たとえばかつては日本の技術が素晴らしいのは当たり前であって、わざわざそれを誇って確認し合うなどというテレビ番組はそれほど多くはありませんでした。ところがカリフォルニアの地震で高速道路が倒壊したのを見て「日本ではありえない」などと言っていたのに、すぐに阪神淡路大震災で同じことが起こり、その後、建築偽装事件なども発覚するに至って私たちは、劣化した「日本の真実」に直面せざるを得なくなりました。だからこそ逆にそれらを打ち消すがごとくにことさらに「日本自慢」の自己陶酔に走っているように思えます。南京大虐殺や日本軍「慰安婦」もなかったことにしたい、というのも同様の心性でしょう。
その極北にあるのが保守・右派雑誌で、社会学者の大澤真幸氏はそれらが「日本人のメンタリティを客体化」している(「朝日」11月17日付)と指摘しています。ほとんどの日本人は日本の中国への侵略を知識としては知っているけれども「内心では信じたくない人もいる」現実について大澤氏は次のように言います。「『自分の知識と矛盾するから言い出せないけど、信じたいこと』を、誰かが言ってくれると気持ち良くなる。保守・右派論壇誌はそうした役割を担ってきた。だが、それに慣れると、『信じたいこと』がいつの間にか『知っていること』に優先しかねない」(同前)。またそれら雑誌の新聞広告は数百万単位の人の目に触れるので、新聞に載っていれば「ためらわずに使っていいことば」と思われてしまいます(同前)。反知性主義が増殖するメカニズムはこんなところにあるのでしょう。
「ナショナリズム自慰症候群」については以上のようなことが言えます。次に「自己責任論に基づくバッシングによる自縄自縛」状態について考えてみます。それは新自由主義ファシズムの重要な基盤であり、新自由主義によって格差と貧困が蔓延し人心がすさんだ荒野で増殖します。その典型が大阪であり、かの地の美質が裏腹の欠点に暗転しています。元大阪城天守閣館長の渡辺武氏はこう述べています(「しんぶん赤旗」10月27日付)。
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大阪人は、建前でなく本音で話します。気さくで、地位も家柄も関係なくだれとでも付き合える。江戸時代以来の庶民の伝統です。
しかし、本音の質の悪さを恥もせず押し出し、さっき言ったことを平気で覆し、それを恥ずかしいとも思わない人がいます。橋下大阪市長は、まさにそれです。
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「本音の質の悪さ」とはどんなときに現われるのか。白井聡京都精華大専任講師(政治学)はこう述べます(「しんぶん赤旗」11月11日付)。
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白井氏は、「橋下氏(大阪市長)の政治はある種のファシズム。ファシズムとは、人間だれしもがある程度持つ、悪い気持ちの部分に依拠する政治だ」と指摘。「橋下さんや安倍さん(首相)に代表されるような政治は、人々のすさんだ心に依拠し、むしろそれをたきつけて権力を維持するという政治手法を取っている」とのべ、ファシズム的な傾向を食い止めなければいけないと強調しました。
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これは「橋下=安倍」といったあまりに明白な政治悪がこれほどまでに支持される理由を現象的に見事に活写しています。ただし「悪い気持ちの部分」や「すさんだ心」を先天的に捉えると間違えます。それは新自由主義のもたらす格差・貧困・閉塞感の荒野に群生しているものでしょう。憲法13条は個人の尊重を説き、それは今日の私たちの運動の旗印にさえなっています。すべての出発点としてのその個人は天から降ってくるものではなく、時々の状況に制約され形成されつつ、時には自己変革を遂げようともします。人間を、人々を、そして個人を社会との関係の中で捉えることが必要です。
話はやや脱線しますが、11月27日に名古屋大学で「安保法制定後の課題を語る講演会」が開かれ、小沢隆一氏の「安保関連法の問題点と私たちの課題―アジアの平和をどう展開するか」と安藤隆穂氏の「安保法制と大学人―名古屋大学の経験から」という講演を聞きました。小沢氏の話はまさに情勢に即し聴衆に深い確信を与えるものでした。
安藤氏の話は表題とはだいぶずれており、フランスなどの社会思想史を振り返ることで、今日の私たちの闘いの意義やあり方を照射するものでした。それはフランス革命期など時代の課題と正面から向き合った人々の社会思想を今日の文脈に甦らせることで、思想史研究の力と意義を実感させるだけでなく、詩的感動を呼び起こしさえしました。
その中心的テーマは公共圏の形成でした。安藤氏はデモに行くのが楽しいと語り、一見、政治的成果の上がらない集会を繰り返しているようであっても、そこには公共圏が形成されている、と希望を見出していました。17世紀ヨーロッパで身分を無視して自由に議論し、公論を生み出すというのが公共圏の始まりであるとされ、その後の公共圏の歴史を、それを囲い込もうとする国家との関係、あるいは自由意思を誘導し公論をねつ造して君臨する独裁者との関係、等々が縦横に語られる中で、特に印象的だったのが「公共圏で他者に出会うことで個人になる」という言葉でした。あるいは今日の運動においては世界中の情報を得てその動きが意識されているのだから「運動の中で世界の中の普遍的個人でいられる」とも言われました。これぞまさに今日的意味で憲法13条にふさわしい「個人」であろうかと思います。これを白井氏が言うような「悪い気持ちの部分」や「すさんだ心」を持った、新自由主義下で疎外された「個人」と対比するならば、ファシズム的状況を乗り越える主体形成に深い示唆を与える講演であった、と私は感じています。
つい先ごろまで、「若者と政治」と言えば、ネット右翼とかヘイトスピーチとかネガティヴなものしか浮かばない状況でしたが、今ではシールズがまさに公共圏の形成にふさわしい瑞々しいことばを発して、政治にかかわることはカッコいい、というふうに「空気」を変えています。これは民主主義世論の健在を示し、まともな生活と労働を求める人民の要求と運動とともに、深いところで勝利への道を支えるものです。
閑話休題。先走ってファシズム打開の橋頭保になるようなものに言及してしまったのですが、「自己責任論に基づくバッシングによる自縄自縛」状態に話を戻し、克服すべき対象の正体の解明を試みようと思います。
バッシングは新自由主義的「個人」の醜悪な政治行動であり、その「悪い気持ちの部分」や「すさんだ心」の産物です。その前提には自己責任論があります。まず自己責任論の持つ普遍性と矛盾をともに捉えることが必要です。商品経済の普及による近代化の中で、人々は初めて経済的に自立し、独立・自由・平等な人間関係を結びます。そこに自己責任論が成立し、それは当たり前の意識として定着します。現代も商品経済社会である以上、そのことは継続します。しかし他方では資本主義経済は単なる商品経済ではなく、それを土台として資本=賃労働関係という搾取関係が成立しています。労働者は何とか生活していける水準の賃金を受け取るだけであり、病気や解雇などで失業すればたちまち路頭に迷うことになります。つまり資本主義経済が商品経済であるがゆえに自己責任論は普遍的イデオロギーとして成立しますが、それが同時に搾取経済であるがゆえに労働者が自己責任を果たすことは基本的に不可能なのです。こうして自己責任論は一方では広く受容され、他方では生活苦の根源ともなるのです。
格差・貧困・閉塞感の中で、多くの人々は「自分はこんなに苦労しているのに報われない、なのにアイツは…」という気分を抱いています。問題はこのアイツに何を思い浮かべるかです。遠い支配層の面々よりは、身近な隣の市役所勤めの人とか、生活保護受給者なんかが浮かんでくることが多いでしょう。
こうした公務員バッシングや生活保護バッシングなどは閉塞感の中でのガス抜きになります。「自分はきちんとやっているのだから不当な既得権益は叩く」。バッシングの快感は「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「正義感的爽快感」です。こうした他者へのバッシングは自分への自己責任追及にもなり、支配層の欲する「覚悟と努力」の受容へと導かれます。「自分が窮地に陥ってもオカミの助けは受けない」。ここに「自己責任論に基づくバッシングによる自縄自縛」状態が成立します。
生活保護の捕捉率が低いため、非保護受給者からは、生活保護が貧困層内でも一部の不当な受益と映ります。すると以下の図式が成立します。
低捕捉率→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚
→生活保護バッシング→<@保護基準切り下げ+A捕捉率低下>
<@+A>→財政負担軽減
A捕捉率低下→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚
→生活保護バッシング→<@+A>……以下繰返し
貧困化とバッシングも以下のような循環を形成します。
貧困化→閉塞感充満→各種バッシング→<福祉削減+財政負担軽減+支配権力強化>
→貧困化→…(以下繰返し)
このように自己責任論に支えられたバッシングは、分断支配のみならず「民意」自身による支配の自動安定装置となっています。この悪循環を断つには、自己責任論とバッシングの正体を明らかにして、人々がそれを克服することを助けなければなりません。
橋下氏はポピュリストとして批判されることが多いのですが、ここには錯綜した問題点があり、それを分析的に見る必要があります。最近、「朝日」がヨーロッパに広がるポピュリズムを特集しています。そこでは右も左も十把一絡げに扱われています。ポピュリズムという言葉は人民主義などと訳されて、肯定的意味で用いられる場合もありますが、少なくとも今日のマスコミなどでは、もっぱら「大衆迎合」「大衆扇動」という否定的意味で使用されます。「朝日」特集記事も様々な側面を報道しているとはいえ、結局のところそういう立場です。
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欧州などで台頭しているポピュリズムの最大の特徴は、「大衆」を善良な集団とし、腐敗した悪いエリートから受ける不利益に立ち向かう集団として強調する点だ。複数の集団による、互いに絡み合う利害の調整は「汚い」と排除する。
また、「大衆」を一枚岩ととらえるため、その中の少数派の意見は尊重されなくなる傾向が強い。 「朝日」11月10日付
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ギリシャのチプラス首相に対して、ジャンクロード・ユンケルEU欧州委員長が「シリザは政党ではなく社会運動に毛が生えたようなもの。チプラスと仲間は(政治の)プロとは言えない」と酷評した(「朝日」11月20日付)と、欧州委員長の言葉が肯定的に紹介されています。確かに政治が利害調整という側面を持ち、単純な理念だけで成立しないことは明らかですが、そういういわば一般論に先立って、政治の根本姿勢としてどの階級・階層のためにあるのかが大問題です。チプラスがEUの緊縮政策に反対して政権を奪取した後、結局EUと妥協したことをどう評価するかは(特に左翼勢力にとっては)重要な問題ですが、それ以前にEUの緊縮政策そのものに対する評価こそが問題です。「朝日」特集は明らかに民衆の苦難は軽視して、グローバル資本が支配するEUの政策を前提にして(それはあまりに自明のことだからわざわざ言及しない、あるいはそこに問題があると気づきさえしない、という姿勢だろう)、それを担うのがプロの政治家であるという立場から「ポピュリズム」のあれこれの言動を評論しています。右も左も区別しないでポピュリズムとするきわめて雑駁な扱いの底にあるのは支配層の立場からの民衆蔑視でしょう。
橋下氏の言動は一般にポピュリズムと見られており、確かに彼が自身のタレント人気を利用し、受け狙いの弁舌が巧みな点からすれば、それは妥当な見方です。しかし彼があえて人々に「覚悟と努力」を迫り、福祉切り捨てを進めていることからすれば、ポピュリズムから外れています。この二面性こそが重要です。新自由主義グローバリゼーションを受容した支配層の政策は「飴なしのムチ」となっており、これを人々に受容させることが彼らの課題であり、難題です。橋下氏はこの点で、支配層から期待されています。
ここでポピュリズム批判に二類型あることに注意すべきです。一つは、新自由主義的な経済整合性論・大所高所論の立場から、人々の経済要求自体を「ポピュリズム」と決めつけて排撃するものです。もう一つは、君が代強制・思想調査・公務員バッシング・生活保護バッシングなどの反人権・反民主主義的イデオロギーと施策が批判されずに受容されている意識状況に対する批判です。両者は逆方向ではあるけれども、人々の意識の現状に対する批判という意味ではポピュリズム批判として一括されます(「朝日」記事が右も左も十把一絡げなのはこれに対応します)。このポピュリズム批判の現象(ア)と分析(イ)を次のように図式化します。
(ア) ポピュリズム批判→人々の意識・ポピュリズム
(イ)
経済面 支配層からの経済「ポピュリズム」批判 → 人々の経済要求
政治面 人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム
(イ)の四つの要素を縦横に配置して組み合わせると、次の表のようにイデオロギー状況の四つの相が浮かび上がってきます。橋下氏の立場は支配層からの経済「ポピュリズム」批判と政治ポピュリズムとを結合しており(B+X)、支配層による新自由主義的独裁イデオロギーとなっています。それとは正反対に、人々の経済要求と政治ポピュリズム批判とを結合させる(A+Y)方向への意識変革が必要です。そのためには「上から目線」を克服して、人々の状況と意識動向に内在することが大切です。
政治 経 済 |
(X)政治ポピュリズム (反人権・反民主主義) |
(Y)人権派からの政治ポピュリズム批判 |
(A)人々の経済要求(場合によっては経済ポピュリズム) |
(A+X)人々の意識の現状 |
(A+Y)人々の意識の変革方向 |
(B)支配層からの経済「ポピュリズム」批判 |
(B+X)支配層による新自由主義的独裁 |
(B+Y)体制内リベラリズム |
新自由主義ファシズムの基盤にあるバッシングとポピュリズムとを見てきました。結局克服すべきは、格差・貧困・閉塞感をもたらす新自由主義であり、そこに真の敵が存在します。下から視角(諸個人の生活と労働→職場社会→地域経済→国民経済→世界経済)に立って経済を変革すること、特に国民経済次元では、<構造改革VS抵抗勢力>というマスコミが流布する偽の対立図式を破棄して、基本的対立図式<国際競争力至上主義 VS 内需循環型国民経済>を提起し、賃上げ・福祉充実などによる内需拡大、自然エネルギー開発などによる地域内循環経済の確立、といった展望を誰にもわかりやすく提示することが大切でしょう。もちろん政治次元・イデオロギー次元での重要な闘いがありますが、その根底には経済変革の展望の獲得が是非とも必要だと思います。なおバッシングとポピュリズムについては、拙文「ハシズム批判の基盤的論点」「ハシズムにおける経済・政治・教育」(文化書房ホームページ所収)を参照してください。
個人の尊厳と自由の実現をめぐって
いろいろな学習会に出ていると次のような場合がしばしばあります。……テーマに沿って議論していくと最後に、「それでも世論がそういう正しい方向になっていない。それは個人の自立が達成されていないからだ。個人の自覚が大切だ」といふうに終わる……。これは啓蒙主義的臭いがまず問題ですが、その他にも、個人の自立だけを言うと、もちろんそれ自身は正しいのですが、自己責任論・新自由主義に絡め取られる恐れがあります。憲法でいえば13条だけなら新自由主義的解釈も可能です。個人が弱肉強食の競争に飛び込んで行って幸福を追求する…というがごとくに。やはり25条とセットで個人の尊重も幸福追求権も理解する必要があります。
ネット番組「とことん共産党」(10月20日放送)での中野晃一・小池晃対談「戦争法廃止の政府をどうつくるか」を「しんぶん赤旗」10月27日付で読んでめちゃくちゃ面白かった。その中で運動の進め方のイメージや機微にかかわるところなども全部面白いのですが、中野氏が語る自由論が一番注目されます。
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国家権力がほとんど専制主義のような振る舞い方をする。その中で、グローバル企業の利益を最優先させ、生活を踏みにじっていくようなことに対して、野党の運動の方では、あくまでも個人の尊厳、個人の自由、個人の権利を守るために立憲主義も、あるわけですし、そのためにきちんと尊厳のある生活が送れるような経済の仕組みを前に持っていこうじゃないかというポジティブな言い方を出した方がいいと思うんですね。
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個人の尊厳を出発点に経済を考えるというのは、私の「下から視角」(諸個人の生活と労働→職場社会→地域経済→国民経済→世界経済)と共通します。近代経済学も家計と企業の市場でのアクションから出発しますから、一見「個人から」と見えますが、その自由の主体は実際には人間でなく資本に取って代わられており、現代資本主義の見方としては「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場社会→諸個人の生活と労働)になっています。
中野氏は「安保法制強行―いま自民党がたどりついた地点」(『前衛』11月号所収)において、かつて革新勢力が「自由の敵」「悪平等」と印象操作されてしまった(54ページ)ことを指摘しています。これは革新勢力の敗北に対する重要な視点です。それとともに、しかし今日では「保守政治が最大化しようとする自由は、大企業の自由であって、私たち国民の自由や人権に対しては、きわめて鈍感、むしろ抑圧的であることも明らかになっています」(55ページ)とも強調しています。新自由主義の「自由」、規制緩和で実現されるという「自由」はグローバル資本の自由であって、それが人間の自由や個人の自由と錯覚されているのが現実です。中野氏はこの論文の最後に、自由を含めた個人の尊厳を旗頭にすべきと主張されており、経済を踏まえた政治変革のスローガンとして共感します。今後の野党結集、「国民連合政府」の実現と発展にむけて最重要な視点ではないかと思います。
断想メモ
今宮謙二氏は不破哲三氏の『マルクス「資本論」 発掘・追跡・探究』への書評で、「本著の最大の課題は恐慌論である」としています。その上で一方において、本著の「革命論」の立場からの恐慌論の内容を、批判的でも称賛的でもなく客観的に紹介しています。他方、最後の部分で、わが国における『資本論』による恐慌分析の「膨大な研究蓄積」と経済理論としての「精緻化」とに言及しつつ、恐慌論研究者に対して、本著における恐慌論の問題提起への受けとめを問うています。
私は勉強不足で、恐慌論研究者が不破氏の見解をどのように評価しているかを知りません。不破氏の問題提起は大胆であり、従来の研究に対する重大な批判を含んでいます。しかし同時に私見(「不破哲三氏の恐慌論理解について」、文化書房ホームページ所収)では、それは小さくない誤りを含んでおり、反批判があってしかるべきと考えます。そのような私見とは立場が違うかもしれませんが、国際金融論の研究者で、恐慌論にも一定の見識を持っておられるであろう今宮氏が、恐慌論研究者へこのような課題を投げかけたことは重要だと思います。
2015年11月30日
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