月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2018年7月号〜12月号)

                                                                                                                                                                                   


2018年7月号

          「基地のない沖縄経済」を捉える

特集「基地のない沖縄経済へ」には、前泊博盛氏の「沖縄はいま――経済、基地、『沖縄関係予算』」、友知政樹氏の「沖縄における基地関連『経済効果』の検証 全基地撤去及び全補助金撤廃後の琉球(沖縄)経済に関する一考察」、来間泰男氏の「沖縄の軍用地料をどう見るかの三論文が掲載されています。そこには当然、沖縄経済の悩ましい現実が反映されており、それを変革すべき理想と現実との相克があります。それらを前にして、「基地のない沖縄経済」の実現では一致しつつも、現実の捉え方や展望においてはそれぞれ独自の見解が表明されているように思われます。

沖縄経済の問題はもちろん特殊な要素が大きいのですが、日本資本主義あるいは先進資本主義に共通の問題も抱えています。それについては後述するとして、以下ではもう一つ、いささか問題の中心から外れるかもしれませんが、理想主義と現実主義との関係について触れます。沖縄経済の現状分析と政策的展望そのものではなく、それらの捉え方の次元の議論になってしまって恐縮ですが、それもまた多少の意味はあるのではないか、と思っています。

来間氏は「人間のやさしさと経済力の強さの両立する社会が理想だと思うが、このような社会はどこにも実現していない」(「米軍基地と沖縄経済」、『経済』19961月号所収116ページ)と述べています。これは直接的には沖縄経済に関連した叙述ですが、私にとってこの言葉は普遍的意義を持って繰り返し反芻されてきました。それは「両立する社会」を始めから諦めよ、ということではなく、それを理想として掲げつつも、困難な課題として現実を直視せよ、という意味として受け止めています。

今回の論文でも、このリアリズムは踏襲されています。基地撤去を目指す陣営ののどに刺さった骨である軍用地料の問題をあえて取り上げ、それが経済的範疇としての地代を逸脱した恣意的なものであり、不当に政治的に(過大に)決められていることに警鐘を鳴らしています。それを受け取る地主が基地容認派として無視しえない存在感を持っていることも指摘しています。こうしたことは基地反対派にとってはできれば見たくない現実ですが、反対運動を進めるうえでは直視すべきだということでしょう。

 これに対して、友知論文は、たとえば、沖縄島北部や離島の基地が返還されても経済活動による直接経済効果はない、という厳しい条件をあえて想定しても、基地撤去後の沖縄経済は存続可能である、と結論づけています。というか、そもそも全基地撤去だけでなく、日本政府から沖縄への全補助金撤廃という前提そのものがきわめて厳しいものです。それはすなわち(明言はされていないし、そういう意図はないかもしれないが)沖縄が独立しても経済的に自立可能だ、ということを詳細に論証することに結果的にはなっています。それはまた、(本土で誤解されているように)沖縄は基地に依存しているのではなく、逆に基地は沖縄経済の阻害要因であることを論証しています。米軍のみならず自衛隊をも含めた全基地撤去という遠大な目標(*注1の(経済的側面における)実現可能性を示すために、説得力を増すべく、厳しい条件を設定して試算を提示することは、変革への並々ならぬ決意をうかがわせます。それを支える平恒次氏の指摘が紹介されています。「行動には気魄が必要である。勇ましくなければならないのである。与件の重圧化で受動的に保身を計る類の適応よりも、積極的に与件に働きかけ、望むらくは与件を変革し、進んで与件を創造する気概が沖縄経済の長期的繁栄には必要であろう」(91ページ)。

 特集の初めに置かれた前泊論文は、沖縄の政治と経済を全体的に論じています。そこでは、一見好調な沖縄経済が深刻な貧困と過大な非正規雇用などの問題を抱えていること、日本政府によるアメとムチの沖縄予算や基地依存を強めさせようという政策、沖縄県内における国の公共事業発注において軍需が民需を上回っていることなどが指摘されています。ここから現状における沖縄県の苦難と頑張り、政府の卑劣さが浮かび上がります。その上で、もはや「基地依存経済」という実態ではないことと、米軍基地返還後の跡地利用のこれまでの実績から、将来のさらなる基地返還による経済発展効果が強調されています。

 それらに対して、来間氏は、基地返還によって「力強い経済活動が展開するという見通しは立たない」(103ページ)という渋い見方を披瀝しています。この論文は、沖縄経済全体を論じたり、基地返還後の展望をテーマとするものではないので、そうした主張の根拠は明示されていませんが、「沖縄だけでなく、日本だけでなく、世界中の先進国が直面している、どうしようもない閉塞感のなかでは、経済の展望を開けということに大きな無理がある」(同前)としています。その上で、本来、農漁業や製造業の発展が経済発展の王道ではありますが、沖縄では観光関連産業がリードする以外なく、その流れの中で、農漁業や製造業の立て直しと発展に少しでも力を尽くすべきだ、という地味な見通しを述べています。これは前泊氏や友知氏とは、特に後者とはずいぶん調子が違います。そこには現状分析や政策把握または将来展望についての具体的考察の違いの他に、問題接近の姿勢としての現実主義と理想主義、あるいは卑近な言い方としては悲観論と楽観論があるように思います(注2

 基地返還後の見通しにおいて、友知氏と来間氏とに違いがありますが、経済の如何にかかわらず基地を撤去させるべきだという点では一致しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

たとえ経済効果がゼロでも、あるいは、たとえ経済効果がマイナスとなっても、沖縄から全ての軍事基地は撤去されるべきであると筆者は考える。沖縄が強制的に歩まされてきた歴史を考えるかぎり、基地はいらないと声を大にして言いたい。本質的には基地問題は経済問題ではなく、人権そして命の問題である。

友知論文、88ページ

 なお、多くの沖縄県民がアメリカ軍基地の撤去を求めているのであるが、そのことを経済の問題とかかわらせてはならないと、私は主張している。基地は平和の問題であり、人権の問題なのである。経済にはマイナスとはなっても、基地はなくすべきものである。また、基地がなくなると経済がプラスに展開する、とはなかなかいえない。 …中略… それでも、基地は「絶対悪」であり返還させるべきである、というのが私の主張である。

来間論文、103ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 本来、こんなことは当り前なのですが、それが新奇に聞こえるとするならば、問題が経済がらみに歪められ、人々がそのことにすっかり慣らされてきた結果です。「経済がらみに歪められ」とはいっても、新自由主義者が好むように「市場に任せて自由にする」(その結果、経済的「自然」が成立する)というような話ではまったくありません。地代範疇を逸脱し政治的に操作される軍用地料に見られるように、政治によって歪められた経済が基地問題に重大な影響力を持つという構造です。だから経済問題のように見えて実は政治問題だということです。これは原発問題とも共通する構図でしょう。

経済は社会の土台なので、社会を考察するにはまず経済から始めるべきですが、軍事によって歪められた経済を与件として考察することは問題把握を根本から誤らせます。「積極的に与件に働きかけ、望むらくは与件を変革し、進んで与件を創造する気概」は政治的行動に求められる要件ですが、実はそれ以前に、客観的に問題を捉える分析方法の姿勢としても必要なのだと言えます。歪められた社会を復元し正常化するような実践上の創造力は理論上の想像力を求めます。あるいは、現状への埋没を許さない理論的想像力が実践的創造力をリードすると言い換えることもできます。このような局面において、客観性は現状追随性にではなく想像性に属すると言えます。そもそも異常な基地負担を課せられた沖縄において、経済の如何にかかわらず軍事基地撤去という政治的意思抜きに意味のある経済分析はあり得ないというべきではないでしょうか。

 

(*注1現状では自衛隊はもちろんのこと、米軍基地撤去さえ「遠大な目標」に思えてしまいますが、1996年に大田県政が策定した「基地返還アクションプログラム」によれば、21世紀に向けた沖縄のグランドデザインである「国際都市形成構想」の完成目標年次である2015年を目途にすべての米軍基地が3段階で撤去される計画でした(友知論文、78ページ)。その計画は当時の報道で知っていたはずですが、すっかり忘れてすでに2015年を過ぎてしまいました。今日、漠然と単なる理想と思っていることも、実際の政治において現実的課題として提起されていたことを改めて思い知らされました。たとえかなわなかったとしてもこうした「政治主導」は重要です(この言葉は悪しき新自由主義政治改革の専売特許のようになっていますが、真の変革でこそ本来の姿は生きてくる)。毎日、新聞でいろいろなことを知り確認してはいますが、断片的でなかなかまとまった理解に結びつかないことが多くあります。こうした論文によって改めて振り返ることが重要です。

 

(*注2理想を掲げ、それを実現するための社会認識はどうあるべきか。参考までに、最近知った福岡伸一氏と中島岳志氏の言葉を紹介します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 この世界の成り立ちの問い方として、why(なぜ)疑問と、how(いかにして)疑問がある。 …中略…

 why疑問文は大きい問いであり、深い問いでもある。なぜ私たちは存在するのか、なぜ地球はこんなに豊かな生命の星になったのか。なぜ家族を作るのか、科学や芸術を含む人間の表現活動は、究極的にはwhy疑問に対する答えを求める営みだ。しかしここに落とし穴がある。大きな問いに答えようとすれば、答えは必然的に大きな言葉になってしまう。大きな言葉には解像度がない。たとえば「世界はサムシング・グレイト(偉大なる何者か)が作った」のように。それは結局、何も説明しないことに限りなく近い。

 だから表現者あるいは科学者がまず自戒せねばならぬことは、why疑問に安易に答える誘惑に対して禁欲すること。そして解像度の高い言葉で(あるいは表現で)丹念に小さなhow疑問を解く行為に徹すること。なぜなら、いちいちのhowに答えないことには、決してwhyに到達することはできないからである。  …後略…

(福岡伸一の動的平衡)問い続けたい「いかにして」(「朝日」67日付

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 友知論文は、全基地撤去・全補助金撤廃で沖縄経済はどうなるか、という大きな問いを投げかけ、慎重な設定を施して詳細な試算を実施することによって解決しようとしました。これは福岡氏の言葉に従えば、「why疑問に安易に答える誘惑に対して禁欲し」「そして解像度の高い言葉で(あるいは表現で)丹念に小さなhow疑問を解く行為に徹すること」を通して「whyに到達すること」を目指したと言えましょう。ただし来間氏のような見解が出ているということは、その推計方法に対しては検討の余地があるということです。それにしても今後の議論を進めるための一つの推計結果を提出したことは極めて有意義であることは間違いありません。その他の問題として、「全補助金撤廃に伴う資金調達の可能性」とか「全基地撤去による沖縄の防衛問題」に対して、それぞれ端的に答え、あるいは一蹴している(88ページ)のは欣快であり、「与件の変革」に挑む姿勢の賜物のようです。

 中島岳志氏はカントに依拠して理念の複眼的理解を提起しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

カントは「統制的理念」と「構成的理念」の区別を重視した。前者は実現不可能な高次の理念で、現状に対する批判の源泉として機能する。後者は実現性を前提とした理念で、政党のマニフェストなどはこれにあたる。

人は時に両者の区分を見失う。統制的理念の実現を目指し、現実の急進的な変革を実行する。究極の理想社会を具体化しようとして、暴力に訴える。しかし、人間が不完全である以上、統制的理念は実現されない。

だからといって統制的理念に意味がないのではない。私たちは、統制的理念を掲げることによって、はじめて構成的理念を紡ぐことができる。到達し得ない究極の理念を持つことによって、そこに一歩でも近づこうとする漸進性を獲得することができる。

重要なのは統制的理念と構成的理念の位相の違いを認識することである。

『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』筑摩書房、2018259ページ)

以上は、<「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻167号)」201861日付 4.私の好きな名言・警句の紹介(その162)−最近知った名言・警句>からの孫引。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここでいう統制的理念と構成的理念の関係は絶対的真理と相対的真理の関係に似ています。現実的には絶対的真理に到達してしまうことはできないのですが、その認識可能性を否定しないことによって、相対的真理の積み重ねの先に絶対的真理へ限りなく接近することができます。

悪しき現実主義が跋扈する昨今、米軍基地撤去とか全基地撤去あるいは日米安保条約廃棄というのは「統制的理念」に棚上げされています。しかしそれらを掲げることで目前の基地問題に力強く対処できるし、基地撤去に向けた政策的検討に資するような現状認識を深めることもできます。経済の如何にかかわらず基地撤去を求める、という太い方針もまたこの理念の掲揚から導かれます。それらは現実には一つひとつの漸進的努力という性格を与えられて日常的に生きてきます。そうした世界中の漸進的努力の背景があり、その上に適切なリーダーシップがあって、昨年なら国連における核兵器禁止条約の採択、今年なら南北朝鮮対話から米朝対話へという北朝鮮情勢をめぐる劇的展開が出現しました。これらは統制的理念が構成的理念へと転化(=現実化・具体化)する可能性を示しているのではないでしょうか。いずれにせよ、ニヒリズムやシニシズムによる冷笑を超えて統制的理念を高く掲げ続けることが必要であり、そこに現実変革によってそれらを克服する道があります。

中島氏が統制的理念と構成的理念の区別を紹介したことはきわめて重要ですが、さらに言えば両者は区別されるだけでなく、相互転換もありうるという理解も必要ではないか、と思います。中島氏の場合、「漸進性」が理念の中心に位置しており、それは十分に尊重されるべき立場だと言えますが、物事の進行は漸進性を超えた劇的状況を呈する場合があり、それは必ずしも「悪しき急進性」ばかりではないことにも注意すべきでしょう。

 

 以下では、沖縄経済からの問題提起を受けて、世界と日本の経済のあり方について考えます。沖縄経済が基地撤去によっても必ずしも順調に発展しうるとは言えない、という根拠として、来間氏は沖縄独自の問題ではなく、日本ないし先進国一般の閉塞状況を挙げています。これが第一点。もう一つ、来間氏は具体的展望として、観光関連産業の発展による沖縄経済のリードという見通しを語っており、前泊氏も論文の冒頭で沖縄への入域観光客数の激増を指摘しています。実は沖縄に限らず日本全体でも外国からの観光客は激増しています。それは確かに喜ばしいことではあろうけれども、単純に喜んでばかりいてもいいのか、そこには日本資本主義の本質的問題が隠されているのではないか。これが第二点です。

 

 

発達した資本主義経済の閉塞状況

本田浩邦氏長期停滞下の資本主義経済 『賃金主導モデル』が閉塞を打開するは、欧米の諸研究を踏まえて、先進資本主義諸国経済の停滞について、生産過程から消費の問題や企業行動、さらには金融・財政など経済政策まできわめて総合的に論じた上で、賃金主導モデルという長期停滞へのオルタナティヴを提起しています。そのような広範な内容の中で私が時間的・能力的に取り上げうるのは一つか二つのことに過ぎません。

まずこの論稿の理論的傾向を学説史的に位置づけることが必要だろうと思います。1980年代をプレ期間として、新自由主義グローバリゼーションが全開となった冷戦終結後90年代以降は、グローバル資本の大競争(による急速な発展)が経済理論上も不動の前提になった感があり、196070年代あたりに一世を風靡した独占的長期停滞論は一掃されたように思われました。ところが近年アメリカでは、小売業や新興ハイテク企業だけでなく、製造業も含めて、産業の集中化が高度に進んでいます。そこで、独占(寡占)資本の行動様式が、供給サイドで投資抑制を、賃金抑制によって需要サイドで消費需要の低迷などを引き起こし(なお、投資抑制は、消費需要と並ぶ投資需要を減少させる)、さらに寡占企業など強者を助け庶民など弱者に厳しい二重化した経済政策の誤りによって、内需主導の成長構造が破壊されたことなどが長期停滞の原因だと指摘しうる状況になっています。こうして、往年のシュタインドルの議論を継承したエクハルト・ハインの近年の長期停滞論が説得力を持って復活してきているようです(133ページ〜)。

ところで、政策的オルタナティヴを提起するとなれば、「現代資本主義の長期停滞」というテーマに対してきわめて具体的次元での検討が不可欠となります。本田論文の基調はそこにありますが、原理的次元での考察も含み、それがオルタナティヴのベースにもなっています。私としてはそこに注目します。ハインの長期停滞論の紹介に先立って、停滞の最も原理的な説明を生産力次元にまで下向して、直接的生産過程における問題とそれと不可分の流通過程での実現問題を論じたのが以下の箇所です。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 潜在成長率の低下は供給サイドの付加価値でみた収穫逓減によるものである。しかしそれは、私なりに説明すれば、技術進歩によって物理的な供給力の水準が高まった結果として起こっている現象である(物理的な収穫逓増)。このことが産業の習熟や海外の代替的供給源の出現(グローバルな競争激化)とあいまって、付加価値でみた場合の経済成長率を抑制しているのである。つまり経済が慢性的に過剰な供給能力を抱えつつ、競争が激化した結果、価格と収益が抑えられ、供給サイドに停滞傾向が現れているのである(本田2016)。

 物理的単位で見た生産性の改善が全要素生産性の上昇に結びつくかどうかはその他の条件、とくに需要サイドの条件に依存する。

           131ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここで(本田2016)とあるのは、本田浩邦氏の『アメリカの資本蓄積と社会保障』(日本評論社)を指します。この本田氏による説明をさらに私なりに言うと次のようになります。引用箇所は二つの段落から成り、第一段落の前半部分にある、「供給サイドにおける付加価値でみた収穫逓減と物理的な収穫逓増」とは、生産過程における生産性上昇による生産物の個別価値の低下と使用価値量の増大を現わしています。その後半部分では流通過程における競争激化による価値実現の困難性に言及して「供給サイドの停滞傾向」の原因としています。さらに第二段落で生産過程と流通過程を総括しています。つまり(生産過程における)「物理的単位で見た生産性」の改善と(流通過程における実現を前提とする)「全要素生産性」の上昇との関係を提起し、後者に帰結するためには「需要サイドの条件」が規定的だとしています。これは「消費需要の戦略的な役割」(132ページ)の主張に結びつきます。

 以上は、生産過程における生産性上昇がもたらす商品の価値と使用価値との対照的運動に発し、流通過程における大量の使用価値の価値実現の困難に問題のキーを求めるものだから、まさに「生産と消費の矛盾」を論じていると換言することができます。ただし引用箇所では、流通過程の困難の主な原因としてグローバル競争の激化を挙げているので、その点では原理的な「生産と消費の矛盾」とは異なる点があると言えます。しかしながら論文全体の中では賃金の抑制と所得分配の不平等に十分触れていますので、生産過程における搾取強化がもたらすものとしての「生産と消費の矛盾」の観点は看取することができます。

 ところで資本主義経済の停滞を考えるとき、『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」がよく問題とされます。それは一面的に停滞を論じたわけではなく、その困難を克服すべく資本の運動が活発化することを併せて論じていることにも注目すべきですが、とにかくその最終の第15章では「生産と消費の矛盾」を登場させ資本主義的生産様式そのものの歴史的規定性(限界)を論じています(なおこのような現行『資本論』の論述が誤りであり、マルクスはその「理論的発展」によって第1415章を廃棄するつもりであった、という不破哲三氏の主張に対しては、拙文で詳しく批判しています。…「『経済』201710月号の感想」)。

 『資本論』では、<資本の有機的構成の上昇→利潤率の低下→利潤量増大を目指す生産拡大→労働者階級の狭隘な消費限界との矛盾>といった展開になっています。ここでは利潤率の低下は、実現問題を導入する以前に生産過程を原因としてすでに生じています。この傾向的低下法則そのものの成否については論争があるところですが、現実経済の分析ではそうした理論次元にこだわることなく、実現問題を導入して論じても差し障りはないと言えましょう。本田氏は、需要構造を反映して生産段階で抑制が生じることを重視しており、確かにそれは現状分析上、重要な視点でしょう。したがって上記の本田論文からの引用部分に見られるように、近代経済学での論争の文脈に対応した叙述はもちろん有用です。あえてそれをマルクス経済学の用語に即して説明し直したのは、資本主義の長期停滞というテーマについて、私なりに受け止め考えやすくしたいと考えたからです。

 本田論文の最後では「賃金主導モデルによる経済停滞の打破」がオルタナティヴとして掲げられ、その根拠として、「経済格差が成長を抑制することを示した実証研究が多く現れている」(138ページ)こと、つまり逆に言えば「大半の先進国において所得分配の改善だけでこのような(成長率の上積みという…刑部)大きな経済効果が得られること」(140ページ)が挙げられています。そうした認識を持って、改めて現代資本主義の長期停滞とそこでの経済政策の留意点が以下のように総括されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 長期停滞の歴史が示すように、社会的反発なしに経済停滞は克服し得ない。今日のように消費需要の側から総需要が抑え込まれる事態が長期にわたって続いた場合、経済全体の技術革新、生産性上昇は成長率の引き上げに結びつかず、むしろ過剰生産能力を蓄積させ不況とバブルの継起的発生の土壌を広げるであろう。    141ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ---- 

 これは長期停滞をめぐる諸論争を様々に見渡す中で、それらが何を反映し何を見落とし、どこに本質の洞察があり、逆に謬論への経路があるのかを丁寧に探り、その上で経済政策のあり方として何をやってはならず何をすべきかの基準を示す結論であろうと思います。「世界一、企業が活躍しやすい国」を目指すがごとき、新自由主義的生産力主義の誤りは明白です。そうした切り分けを可能とするのは、やはり生産過程とそこでの搾取のあり方そのものへの着目から出発することではなかろうかと思います。

 

 

      日本資本主義の根本問題

 前述のように、沖縄に限らず日本では近年外国人旅行客が急増しています。それが内需の不振を補い、もはや日本経済の救世主のような状況です。ここに注目したのが小熊英二氏です。

 201718年は、モリカケに始まる安倍政権の大騒動、北朝鮮と米国との一触即発の危機から一転、米朝対話へ、など内外情勢は疾風怒濤に展開しています。その中で、20185月、月一回の論壇時評であえてそれらを選ばずに別に、日本経済と社会にとって長期的本質問題を見事に剔抉した小熊英二はやっぱり「頭がいい」と実にベタな感想を持ってしまいました(「論壇時評・観光客と留学生 『安くておいしい国』の限界」、「朝日」531日付)。外国人観光客が急に増えた、などというのは下世話な話題だという感じが一般的だと思いますが、そこには日本資本主義の本質的問題が隠されているのです。

 外国人観光客が急増した理由は、日本が「安くておいしい国」になったからだと小熊氏は指摘します。1990年代の日本は観光客にとって物価の高い国でしたが、今ではそうなったのです。「安くておいしい国」、結構じゃないか、と言う声があるかもしれません。しかしそれは「日本の1人当たりGDPが、95年の世界3位から17年の25位まで落ちたことと関連している。『安くておいしい店』は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう」。ここに問題の本質があります。もう一つ、留学生の急増も関係しています。留学生と言いながら実際には低賃金労働者として働き、労災隠しなどの人権侵害が横行しています。これらから下した小熊氏の以下の論断に私は全く同意します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 いま政府は、産業界の要請に応じ、実習生の滞在期間を延長したうえ、留学生の就労時間延長も検討している。その一方、政府が促進してきた「高度人材」の誘致は停滞したままだ。アジアの経済成長に伴い、実習生の募集は年々厳しくなっている。外国人で低賃金部門の人手不足を補う政策は、人権軽視であるだけでなく、早晩限界がくるだろう。

 外国人のあり方は、日本社会の鏡である。外国人観光客が喜ぶ「安くておいしい日本」は、労働者には過酷な国だ。そしてその最底辺は、外国人によって支えられているのである。

 私は、もう「安くておいしい日本」はやめるべきだと思う。客数ばかり増やすより、良いサービスには適正価格をつけた方が、観光業はもっと成長できる。牛丼も千円で売り、最低賃金は時給1500円以上にするべきだ。「そんな高い賃金を払ったら日本の農業や物流や介護がつぶれる」というなら、国民合意で税金から価格補助するか、消費者にそれなりの対価を払ってもらうべきだ。そうしないと、低賃金の長時間労働で「安くて良質な」サービスを提供させるブラック企業の問題も、外国人の人権侵害も解決しない。デフレからの脱却もできないし、出生率も上がらないだろう。

 日本の人々は、良いサービスを安く提供する労働に耐えながら、そのストレスを、安くて良いサービスを消費することで晴らしてきた。そんな生き方は、もう世界から取り残されている。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 一人当たりGDPはいわゆる労働生産性の近似値です。これが落ちていることが非難されますが、それは日本の資本家階級による労働者階級へのイデオロギー攻撃です。労働生産性とは本来は直接的生産過程における物的労働生産性なのですが、通常は付加価値生産性によって比較されます。付加価値生産性の場合は、流通過程における価値実現が前提となります。ここで比較的豊かな生活を維持している欧州と日本との差が出ます。

欧州のような自立(律)的な地域経済が形成する内需循環型市場においては、グローバル競争にさらされる以前に投下労働が価値実現することができます。自立(律)的な地域経済を持たずに初めからグローバル競争に吹きさらされる日本では投下労働のダンピングが起こりやすくなります。つまり国民経済全体が内需循環型の地域経済から形成されれば、投下労働が価値実現されやすく、外需依存型であれば価値実現が難しく投下労働との乖離が生じます。

 外需依存で国際競争力至上主義の日本(日本の輸出依存度は高くないが、頂点にあるグローバル資本が下請け構造などを通じて国民経済全体へ大きな影響力を持っている)の「労働生産性」が低いというのは、とんでもない逆説に見えますが、それは字面にとらわれているためです。比較されているのは「労働生産性」とはいっても実は付加価値生産性だということに注意すべきです。輸出大企業が労働者と下請企業を搾取・収奪して低価値の製品を大量に生産する(=物的労働生産性が上がり競争力が強化される)ことが主柱になった国民経済では、生活が縮小し国内での付加価値(価値生産物、VM)が伸びずに、投下労働の結晶の多くの部分が安く海外に流出することになります。強い国際競争力は、高い生産性のもたらす商品の低価値に大きく依存しており、したがって付加価値生産性が低いこととは両立しうるといえます。

国際競争力至上主義で人件費を初めとしたコスト削減が最優先され、したがって内需不足となり、ますます外需に頼って「競争力」「競争力」の連呼…この「悪魔のサイクル」から日本資本主義は抜け出せません。「デフレスパイラル」に陥っているのは日本だけだ、などと言われます。物価が下がる中で企業収益を維持するために賃金を下げ、需要不足でさらに物価が下がり…。しかしこうなっているのは、通貨の問題ではなく実体経済が疲弊し縮小しているのだから「デフレスパイラル」という用語は間違いです。むしろ日本資本主義の国民経済が陥った現状は「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと私は思います。

 「安くておいしい日本」のからくりを私は以上のように考えています(詳しくは、まとまりが不十分だけれども、拙文「日本の労働生産性の見方に関するメモ集参照)。グローバル資本の「上から視角」によって、諸個人の生活と労働が犠牲にされる経済のあり方ではなく、諸個人の生活と労働による「下から視角」に合わせて、グローバル資本が民主的に規制される経済のあり方への変革が必要です。日本国憲法13条の個人の尊重と幸福追求権は対国家のみならず対グローバル資本にも当てはまります。

 

 

          5歳女児の虐待死が問いかけるもの

 32日、船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5歳)が死亡し、虐待していた両親が逮捕されました(保護責任者遺棄致死の疑い)。結愛ちゃんがノートに残した言葉が衝撃的で世間ではがぜん哀れを誘いました(「朝日」67日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおします

 これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか あそぶってあほみたいなことやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ---- 

 ここでは、向上心と忍耐力という、本来人間にとって美質と言うべきものが、彼女を滅ぼす原因となっています。親がそれを利用したのです。大方の人はこれを読んで彼女に対して、「あなたは全然悪くない、許してもらう必要はない。悪いのは親だ。本当によく頑張った。もっと遊んでいいんだよ」とでも言うことでしょう。その上で、「この親、人間じゃねえ。たたっ斬ってやる」と言うような単細胞を別とすれば、なぜこんな親が出てきてしまうのか、その社会的原因について考えてみよう、とでも思うことでしょう。それはともかく、虐待された彼女の立場を、彼女自身は客観的に見通すことができないのですが、外の大人からは簡単に見える、という、まあ当たり前のことですが、ぜひそれを押さえてください。

 ところで彼女の言葉は、この国の苦難を日々生きている、向上心と忍耐力にあふれた善人たちが発しているものに重なるのではないだろうか。……社会保障に頼って生活し、GDPの2倍以上もの借金を作ってしまい許してください。豊かな暮らしや楽な仕事に自由な時間を求めるなんて、あほみたいなことはもう絶対やらないからね。絶対約束します……

 それは誇張した言い方かもしれませんが、多かれ少なかれそういう感情は蔓延しており、そこに付け込むバッシングが横行しています。もっとも、バッシングの主体自身も「不幸比べ」にはまっていて、そこから少しでも外れる人々を許せなくてバッシングに走っているのだから同じく被害者であり、高みの見物を決め込んで嗤っている連中がまったく見えていないのです。

結愛ちゃんと同じく、自分の状況が見えていない善人たちには、「あなたは全然悪くない、許してもらう必要はない。悪いのは政府や財界・大企業だ。本当によく頑張った。もっと自分の幸せを求めていいんだよ」と声をかけねばなりません。それに説得力を持たせるためには、安倍政権を始めとする支配層の統治に対する政治的オルタナティヴを提起することと、できればさらに、身近な問題で要求実現のためいっしょに闘いささやかな変革の実体験をともに積むことが必要でしょう。

ところで政治の問題を考えるための比喩の材料としてだけ、この重大な事件を取り上げることは、軽率どころか冒涜のそしりを受けるかもしれませんので一言。この事件そのものからの教訓は、ニュースで見る異常な事件を自分とは無関係なものとして考えてはならない、とうことです。今年、「万引き家族」でカンヌ映画祭のパルムドールを受賞した是枝裕和監督は「犯罪者と自分は全然違うという感覚が広がっている現代社会は、とても危険だと思います」とし、新幹線の殺傷事件に触れつつ、「セキュリティーチェックを強化せよという話というよりも、人々を極限まで追い込まないためのセーフティーネットを充実させることでしか、こうした犯罪は軽減出来ません」とも述べています(「朝日」625日付)。

 同映画にちなんで、「私たちと彼らの線引き」への批判をより詳細に語っているのが角田光代氏(直木賞作家)です(「朝日」68日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 この家族が、言葉に拠らず共有している暗号を、当然ながら家族以外の他者は理解できない。理解できないものを、世のなかの人はいちばんこわがる。理解するために、彼らを犯罪者というカテゴリーに押しこめる。理解を超えたおそろしい事件が起きたとき、「心の闇」というような名付けを、すぐに見繕うように。そうして名付け、カテゴライズすることによって、世のなかの人々は安心するのだし、自分とは関係のないことだと信じられる。もちろん私もそうした世のなかの一員である。幼児を虐待する親は極悪人だと思っているし、万引き常習犯は病んでいるのだろうと思っている。彼らが自分と――いや、自分が彼らと同じ人間だと思うことはこわい。だから線引きをせずにはいられない。

 実際に起きた事件の見出しを見たときと、この映画の印象が対極くらいに異なるのは、だからだ、とようやく気づく。この映画は、そんな線引きをさせないからだ。私たちの生きているのと同じ世界に彼らがいる――彼らが生きているその同じ世界に私たちがいる、と思わせるからだ。そのとき、見出しや記事にあふれている言葉が、他人ごとではなく私の現実に生々しくなだれこんでくる。

 よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズするということは、ときに、ものごとを一面化させる。その一面の裏に、側面に、奥に何があるのか、考えることを放棄させる。善だけでできている善人はおらず、悪だけを抱えた悪人もいないということを、忘れさせる。善い人が起こした「理解できない」事件があれば、私たちは「ほら、悪いやつだった」と糾弾できる。なんにも考えず、ただ、ただしい側にいるという錯覚に陶酔することができる。そんな、シンプルで清潔な社会への強烈な違和感がこの映画から立ち上ってくる。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 文学や芸術は悪人を主人公にも成立し得ます。まさにそこに人間と社会に対する深い理解に達する鍵があります。

ついでに言うと、多和田葉子氏(芥川賞作家)の人間理解の深さにも感じ入りました(「朝日」617日付)。ベルリンで、ドイツ人がいなくなった地域にある小学校で、トルコ系とアラブ系の子どもたちに朗読をして質問を受けた様子が興味深く描かれています。表面的には子どもたちの態度は悪いし、質問はちゃらんぽらんだし、ということであきれるような感じでさえあるのですが、多和田氏は、移民の現代っ子が東洋人に出会ったときの反応として、それを懐深く理解しようとします。その上でこの世界での学びの難しさと、一方での子どもたちの柔軟な理解の可能性への期待と、他方で、国粋主義や外国人排斥思想やイスラム原理主義など分かりやすいシナリオに騙されてしまう危険性への警戒を語っています。こうした文学者の姿勢は、社会科学を学ぶ際にも導きの糸となります。
                                 2018年6月30日




2018年8月号

          米中貿易戦争とグローバル資本主義

 トランプ大統領のアメリカ第一主義政策の発動で、米中貿易戦争を始め、世界中を巻き込んで貿易摩擦が起こっています。本誌特集「中国経済と『一帯一路』構想」では、米中貿易戦争を主要なテーマとする論文はありませんが、夏目啓二氏の「インフラ整備と越境EC(電子商取引) 一帯一路の光と影が米中EC企業の覇権争いを扱い、特集外の所康弘氏の「NAFTA見直しにゆれるアメリカとメキシコ グローバリゼーション下の諸相はトランプの保護主義と言われているものの本質に迫っています。セクハラ・性暴力が女性問題ではなく男性問題であり、社会構造の問題であるように、またベトナム戦争が決してベトナム問題ではなく、アメリカ問題であったと同様に、トランプ発の一連の貿易摩擦・経済戦争も本質的にはアメリカ問題であり、またアメリカなどを本国とするグローバル資本の問題であり、グローバル資本主義体制の構造的問題です。そのことが、NAFTAのこれまでの経験を通じて浮かび上がってきます。

 しかしもちろんメディアに流布されている支配的言説においては、事態はもっぱら<保護主義VS自由貿易>として描かれ、歪んだイデオロギーとしての前者が、公正な原則としての後者によって克服される、という「正義のストーリー」の立場から語られます。それ自身がきわめてイデオロギッシュなのですが、そのことがまったく自覚されていないのが、この言説が支配層のブルジョア・イデオロギーたる所以です。

 世上、金科玉条のごとくに扱われている自由貿易なるものが果たして公正なシステムなのか、ということがまず問題です。宮ア礼二氏の「トランプ大統領の通商政策をどうみるか」(『経済』7月号所収)によれば、アメリカが世界一の生産力と競争力を持っていたときには、製造業中心のGATTが結ばれ、やがて日本と西独に追い越されると、アメリカは金融などサービスセクターの競争力重視に方針転換し、サービス貿易の一般協定・知的財産権保護・多国籍企業による直接投資円滑化、といった内容を加えたWTOを発足させました。つまり「戦後のアメリカは自国が優位にたてるルールをつくり、そのもとで他国に追いつかれると新しいルールをつくる、これを繰り返してきました。つまり、ルールメイキングが覇権を維持していく大きな政治的力でした」(23ページ)。

米中貿易戦争について「第二次大戦前の保護主義政策の応酬を思い起こさせるような事態だ。世界は過去に逆戻りするのか」という問題意識で、3人の経済学者にインタビューした記事が「朝日」711日付にあります。語るのは、保護主義派の柴山桂太氏(京都大学准教授)と自由貿易派の伊藤元重氏(学習院大学教授)、田所昌幸氏(慶応大学教授)です。

伊藤氏は1930年代の保護主義の動きが戦争につながったと指摘し、今回アメリカが輸入を制限すれば、企業や消費者が困ることになるだろうと予想します。その上で「歴史を振り返れば、自由貿易から背を向けた国で経済がうまくいったところは一つもない。 …中略… 保護主義的政策は結局はうまくいかず、揺り戻しが来る。だから、米中貿易戦争がエスカレートしても、自由貿易体制が終わることはありえません。ただ、世界の新たな経済秩序づくりの契機になる可能性はある」という自由貿易至上主義の楽観的な見通しを立てています。

 田所氏は「米国は第2次世界大戦後、諸国が同じルールに従う多国間主義に基づいて、開放的な国際経済のしくみをつくろうとしてきました。関税貿易一般協定(GATT)や国際通貨基金(IMF)などの国際機関を創設して、加盟国は形式的には平等に取り扱われる、いわば立憲主義的な国際経済制度です」として、それに反する「トランプ流の交渉スタイル」を厳しく批判しています。そこで「瀬戸際作戦を続けている間に、当事者の意図を超えた事態に発展すること …中略… 例えば金融市場が敏感に反応して、株安や金融不安などが起こるといったリスク」を危惧しつつも、「米国の憲法体制」が健在で、「米国の制度」の「復元力」が強いことに期待し、「自由主義的な国際経済秩序」の堅持を願っています。日本については、TPP11をまとめたことを「日本外交の誇るべき成果」としています。

 両者の議論は、いわゆる自由貿易体制による経済的繁栄を確信するのみならず、そこに平和の基礎を見、政治的には国内と国際の立憲主義さえをも読み込んでいます。それは政治・経済上にわたる自由貿易信仰イデオロギーの表明ということができます。そこでは当然のことながら、アメリカ主導の国際経済秩序が形式的平等(公正さ)のベールの下に同国の覇権主義を忍ばせていること(上述の宮ア氏の指摘参照)がまったく看過されており、日本がそれにつき従うことが当然視されています。

 これに対して、柴山氏は「グローバル化による不利益を意識する層は増え続けている」とか「現在のグローバル経済の最大の問題は所得分配にあります」と正当に指摘し、「トランプ大統領は、米国の労働者が抱く不満をうまく利用して政権を握りました。保護主義への移行は民主主義の要求だとも言えるわけです。歴史的に見ても、自由貿易と民主主義の相性は必ずしもよくありません」と保護主義を擁護しています。そこで擁護されているのは「市場の変動から国民生活を防衛する、広い意味での保護主義」です。それは「産業の空洞化や雇用の劣化に悩む先進国」に生じており、一時的な現象ではなく、「主権国家が本来のあり方に戻る大きな流れの一部として理解すべき」だとしています。伊藤・田所両氏とは逆に、自由貿易を経済と政治の両面から根底的に批判しているのが重要です。その上で「今後の主戦場は通貨になるでしょう」と指摘しており、最近のトランプ大統領の発言をすでに言い当てています。

 伊藤氏は著名な理論家であり、政府の経済政策の中枢をも担っています。田所氏もこの記事を見ると、現状分析に長けた研究者だと思われます。しかしその両者より、皮肉なことに「経済思想」を専門とする柴山氏の方が現状認識についてリアルに見えます。この記事では柴山氏が始めに配置され、現体制批判的な問題提起をし、それに対して伊藤・田所両氏の議論を対置することで、自由貿易支持の立場から反批判するような構成になっており、そこにいかにも「朝日」らしい立場が反映されています。しかし伊藤氏の議論はいかにも粗雑であり、田所氏は政治にもわたって良識的な議論を展開しているかのように見えながら、従来からの自由貿易体制美化を政治にまで及ぼす結果になっています。日本の世論では、トランプ大統領の政治的暴虐ぶりに広範な批判があることに乗じて、そうした良識的世論に訴えれば、トランプの敵である自由貿易に支持を集めることができるだろう、という調子なのです。しかし柴山氏や宮ア氏の議論に照らせば、現状のグローバル経済への無批判ぶりが際立ちます。

 メディアが無批判に前提とする自由貿易は、グローバル資本がつくるアメリカ中心の新自由主義的帝国主義秩序の一部です。トランプ大統領はその全体を否定しているわけではなく、自由貿易の結果としての自国の貿易赤字を理由に他国を攻撃しているにすぎません。従来からの自由貿易秩序を護持すべきとする論者は、たとえば1930年代の保護主義が戦争に行き着いたことなどを例に、自由貿易を平和の秩序だと言うのですが、たとえばイラク戦争をどう説明するのか。それは、中国やロシアはもちろんのこと、「同盟国」たるフランスやドイツの反対をも押し切って、国際法を無視したむき出しの侵略戦争でした。まさにグローバル資本がつくるアメリカ中心の新自由主義的帝国主義秩序に多少なりとも逆らうものは許さない、ということで敢行されたのです。自由貿易を表の顔とする新自由主義的帝国主義秩序は経済格差をつくり出すだけでなく、政治に目を向ければ、平和をも脅かしているのです。

 長くはないインタビュー記事という限界があるとはいえ、三氏の議論に「多国籍企業」という言葉が登場しないことに注意すべきでしょう。柴山氏はグローバル化を批判し、人々の生活を脅かす自由貿易に対して、それを擁護する主権国家の本来の役割を強調しています。それ自身は正当な議論ですが、<グローバル市場 VS 主権国家>という市場平面での対立(各国における<市場VS政府>の世界市場版)に視野が限定され、市場に屹立するグローバル資本が世界の経済と政治を支配しているという立体的構造を描けていないように見えます。主権国家の復位のためにはグローバル資本への民主的規制が必要であり、それは主権国家間ならびに市民社会(国際的なNGOなど)のグローバルな連帯で実施されねばなりません。

 「しんぶん赤旗」における金子豊弘記者の連載「米国第一主義・加熱する貿易摩擦」(710日〜14日付)は米中貿易戦争の本質に迫っています。記事は、対中交渉に現在当たっているナバロ大統領補佐官(通商製造業政策担当)らが大統領選挙当時の2016年に書いた文書を念頭に、以下のように指摘しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 米国の多国籍企業による生産の海外移転によって製造業は疲弊し、失業や雇用不安、賃金低下を招きました。一方、米国の多国籍企業は、中国を製品組立工場として活用。製造委託などの手法を使い、中国の安い労働力をテコに低価格の製品を米国に輸入しました。米国の貿易赤字が拡大した大きな原因はここにあります。

 中国商務省の高峰報道官が5日の記者会見で明らかにしたところによると、米国の対中追加関税の対象となる品目340億ドルのうち、6割にあたる200億ドル超が、米国など外資系企業が中国で生産したものでした。

 米国の巨額の対中貿易赤字の裏には、米系多国籍企業の利益拡大と、その一方での、労働者の貧困化があったのです。

 ところが「ナバロ文書」は自国の産業基盤と労働者を無視した多国籍企業の利潤追求に原因を求めるのではなく、中国政府の政策に貿易赤字拡大の原因を押し付けたのです。

             712日付

 

 生産拠点を自社の都合に合わせて移転することができるのが多国籍企業の特徴です。多国籍企業によるグローバル・サプライチェーン(地球規模の供給網)は、自社内の生産工程を分離あるいは独立させ、低賃金国で労働集約的な生産を行い、低価格品を提供させるというものです。多国籍企業の本社の国では労働者の低賃金化や失業率の上昇をもたらします。その結果、本国の産業力は弱体化を余儀なくされます。

 一方、進出国では過酷な労働が強いられることになります。多国籍企業は、進出先の国々に対し、最も安い労働力を提供するよう「底辺への競争」を強います。

 賃金だけではありません。多国籍企業の利潤極大化戦略は、各国に税財政を含めた経済制度の競争を強いつつ、地球規模の調達・生産・流通・販売の各段階で追求されています。

 ところが、米中貿易摩擦問題で焦点が当てられているのは貿易赤字だけです。多国籍企業が地球規模に構築した現代の搾取の構造が覆い隠されています。

              714日付

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 アメリカの貿易赤字の原因をすり替えて強行された「高関税措置は、多国籍企業によって構築された世界的な供給網に打撃を与え」(710日付)、消費者にも甚大な被害を与え、企業と労働者からの反発は必至です。そうした批判の高まりと、問題の本質を隠した排外主義的扇動の影響下にある人々とのつばぜり合いで、来る中間選挙の結果がどう動くかが当面のカギです。とはいえ、トランプ流の異常な保護主義を前に、<保護主義VS自由貿易>という争点で選挙戦が闘われるなら、どちらに転んでも人々にとって良い方向に行くわけではありません。高関税措置による貿易戦争がよくないことは当然ですが、従来からの自由貿易が、トランプ大統領の登場を促すほどの社会的矛盾をもたらしたことを思えば、トランプが敗北してもそれは問題先送りに過ぎません。変革の方向として「求められるのは、多国籍企業の利潤最大化戦略に基づいた搾取構造を転換し、各国国民の暮らし、経済主権を互いに尊重したルールです」(714日付)。ここに問題の本質があります。

 ところで同記事は「トランプ政権が対中強硬策を進める理由に、先端技術分野での急速な中国の追い上げが、世界経済における米国の優位性を脅かしている、という危機感があります。背景には、米国の先端技術の優位性の揺らぎがあります」(713日付)と指摘しています。これに関連して、前記の夏目論文が触れています。

 私見によれば、中国はグローバリゼーションの勝組であり、そういう意味ではアメリカとともに今日のグローバル資本主義の大枠を維持することに共通の利益を見出し、テロリスト・ならず者国家・その他様々なグローバリゼーションへの反抗者を抑えることに協力しています。ただし資源・エネルギー獲得のためなどに独自の勢力圏を確保することにも注力し、たとえば南シナ海での覇権主義的振る舞いなどが目立ちます。この点ではアジアでの経済・政治・軍事における支配力を維持したいアメリカと利害が衝突します。つまり中国はグローバル資本主義維持という点では新自由主義的帝国主義に親和的でありながら、独自の覇権主義的思惑から、それに一定の距離を置いています。だから中国はアジアやアフリカでの覇権主義的振る舞いが問題でありながら、同時に、たとえばイラク戦争反対に見られるように、アメリカ帝国主義への一定の抑止力として、国際関係上の法的・民主的原則を行使する面もあると思われます。

 夏目論文は中国の一帯一路構想が、一方で欧州を始めとする先進諸国との国際経済関係を、他方で沿線の発展途上国とのそれを持つことを指摘しています。前者はアメリカへの対抗の側面があり、「米主導の国際秩序を転換する狙いもあるといわれ」ています(53ページ)。後者においてはたとえば、「インフラ建設という実利を提供する見返りに、外交や安全保障で東南アジアの国々が中国の主張に異を唱えがたくなることを狙ってい」ます(同前)。覇権主義の発露です。論文は中国経済をテーマにしているので両面を見ているのですが、米中貿易戦争を見る視点からすると、前者の方が注目されます。

 「インターネットを使って海外の商品を直接購入する越境EC(電子商取引)」(57ページ)が中国で急拡大し、EC市場において、米中のプラットフォーム企業(「インターネット上でほかの企業に事業基盤を提供するディジタル企業」、アメリカのグーグル・アマゾン・フェイスブック・アップルなど、中国のアリババ集団・テンセント・バイドゥ・ファーウエイなど。59ページ)がグローバルな寡占企業間競争を展開するに至っています。「クラウド技術、ビッグデータ、AI、IoTなどのICT技術は、その技術を使うEC企業の売上高規模が大きいほどその技術開発が有利にな」り(60ページ)、その「開発レベルを左右するのが、消費者情報をはじめデータ蓄積の質と量で」す(61ページ)。14億の人口を擁する中国企業は政府との協力関係もあり、アメリカ企業との競争を有利に進めつつあります。ここにきて、アメリカ政府は「安全保障上の観点」を理由として、中国EC企業によるアメリカ企業の買収を阻止するに至っています(6263ページ)。夏目氏は、米中プラットフォーム企業の激しい競争の問題点として、「ともに個人データ保護の観点から十分な保護措置をとっていない、という批判を国際社会から受けている」(63ページ)と指摘しています。つまり第二次大戦後、自国に都合の良いルールメイキングで覇権を維持してきたアメリカ(宮ア氏)が、中国企業の猛追による「先端技術の優位性の揺らぎ」(「しんぶん赤旗」、713日付)を受けて、「個人データ保護」という企業の社会的責任を顧みず、保護主義的に対処しようとしている様子がうかがえます。中国側にしても、グローバル資本が主導してきたアメリカ中心の新自由主義的帝国主義秩序そのものを変革するというより、その大枠の中で、独自の覇権主義を維持しながら、米中対決の寡占企業間競争を勝ち抜こうとしているように見えます。

 以上のように、トランプ政権の保護主義はグローバル資本の支配体制そのものに手を付けるわけではないので、一見、労働者の要求を取り上げているようでありながら、貿易赤字も雇用も解決することはできず、いたずらに混乱を引き起こすだけでしょう。中国も大枠としては新自由主義グローバリゼーションの体制内勢力であるという限りでは、いわゆる米中対決によっても、世界中の人々の生活と労働の利益に資する結果を期待することは難しいでしょう。

 問題の本質たる、アメリカを中心とするグローバル資本の世界支配の構造に、NAFTA(北米自由貿易協定、カナダ・アメリカ・メキシコの3か国加盟)の検討を通して接近したのが、冒頭に紹介した所康弘氏の論文です。それによれば1994年に発効した「NAFTAはアメリカ通商戦略の先駆的事例」(90ページ)であり、TPPなど、アメリカはその後の貿易交渉でNAFTAを参照してきました。NAFTAについて論文が最も注目しているのは、外国投資の分野です。それは「より積極的な意味で外国投資の保護と自由を確立し、多国籍企業の事業空間を劇的に拡大するための『新たな』法的枠組みであ」り、「投資受入れ国にとっては外国投資に対するあらゆる国家規制が制限され、ゆえに産業政策などに代表される国の政策選択権限は大きく低減」することになります(91ページ)。

 以上のように劇的に拡大される外国投資の自由化は、1980年代前後からの新しい国際分業を主導する多国籍企業にとって必要不可欠なものです。その分業下では「先進国から資本財や中間財を途上国へ輸出し、途上国でそれを組立・加工し、最終財を先進国へ再輸出する貿易形態が出現し」、「資本集約的工程を先進国が担い、労働集約的工程を途上国が担」います(同前)。この多国籍企業の行動様式にこそ、アメリカの貿易赤字と雇用流出の秘密があります。それについては先述の「しんぶん赤旗」連載に指摘されていますが、その記事では搾取強化のあり方など、生産関係視点を強調して言及しているのに対して、所論文では、新たな国際分業のあり方など生産力視点に重点があると言えましょう。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 とりわけ90年代後半以降の製造分野では部品を組みたてるモジュール生産が進展し、川上から川下に至るグローバル・バリュー・チェーン(GVC)を構築するために、在外子会社・関連会社ならびに地場諸企業などとの一連のネットワークを形成・管理・統括することが、多国籍製造業企業にとって重要になってきた。

 アメリカ諸企業はGVC内で最も高い付加価値分野である企画・設計、研究開発、システム開発、マーケティング・広告活動などに注力し、それらの特許化・知的財産化を推進している。そして生産機能はコストダウンのため低賃金労働力の保有国へ移転するアウト・ソーシング戦略を採っている。この多国籍企業による海外生産戦略によって、国際調達や製品輸入が増え、その結果、アメリカの財貿易赤字が恒常化してきた。   

同前         下線は刑部

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように、新しい国際分業におけるGVCの中で、アメリカ多国籍企業が高付加価値分野のいいとこ取りをするのに対して、途上国は低付加価値に甘んじることになります。「例えばメキシコから対米自動車輸出が拡大しても、それらの生産物にはメキシコ産の生産要素だけではなく、アメリカ産や日本産の生産要素も中間投入を通じて大量に使用されている」(9697ページ)ことからも分かるように「ある国のある産業が拡大しても、その産業が獲得できる付加価値が同時並行的に拡大するわけではない」のです(96ページ)。したがって「一般的に低付加価値工程を担うことになる途上国の製造業輸出の付加価値比率は、GVCが発展するほど低下する傾向にあ」ります(97ページ)。ちなみに「総輸出額」に占める「国内付加価値の総輸出額」の割合(2011年)を見ると、メキシコ:68.3%、日本:85.3%、中国:67.9%、ドイツ:74.4% です(96ページ)。同じ割合について、1995年から2005年への変化を見ると、メキシコ:73.5%→69.7%、中国:88.1%→67.4% です(同前)。つまり中国をも含めて、輸出を起動力として華々しく発展してきた新興国の付加価値比率は先進国よりも低く、また時系列的にも低くなっています。輸出による国内生産・雇用押し上げ効果が低くなっているということです。

アメリカは多国籍企業の行動を原因とした新興国の輸出攻勢を受けて貿易赤字に陥っているのですが、なおグローバル覇権を維持しています。その経済的土台の一つとして、こうした付加価値の世界的分配構造を挙げることができます。もっとも、第二次大戦後を見ても、初めの一時期を除いてアメリカはずっと貿易・国際収支赤字国であり、基軸通貨特権やアメリカ中心の世界的な資金還流システムの形成などにより、破綻を免れてきました。その大前提は世界一の経済大国であり、軍事大国であって、そこから来る政治力があり、さらに言えば、世界にとって、“too  big  to  fail” な存在として他国に協力を強要できる、ということです。しかしそれだけでなく、今日のグローバル資本主義下では、上記のように新しい国際分業における付加価値収奪の構造を構築することで、より強い覇権基盤を付け加えていると言えます。 ……なお、アメリカ企業による付加価値収奪と経済覇権の問題は拙文全体からはやや外れる内容ですが、グローバル資本主義における「新しい国際分業」に関連する問題として言及しました……

 多国籍企業の海外生産と逆輸入による貿易赤字は、同時に雇用の流出を意味するし、国内産業や地域に悪影響を与えます。アメリカでは「自動車産業など製造業を中心とした多国籍企業は、NAFTAの恩恵を享受してきた。工場や生産工程の対メキシコ進出・移転を一層進め、低賃金労働力を活用することで製造コスト削減を実現させたからである。その反面、国内工場は閉鎖に追い込まれるなど雇用に影響が出たし、また安価な最終財が大量に流入することで打撃を受ける産業や地域も出現した」(98ページ)。こうしていわゆるラストベルトでは、NAFTAやメキシコ人労働者への攻撃が人気を博し、トランプ大統領が誕生することになりました。

 NAFTAは農業にも大きな影響を与えました。NAFTAで、メキシコは食料輸出入の赤字が膨らんできました。「メキシコの基礎穀物部門ならびに多くの零細農たちは、政府補助金の支援を受けたアメリカの巨大アグリビジネスのコングロマリットとの国際競争に太刀打ちでき」ず(99ページ)、「零細農家では大量の離農者が発生し」、「農村の貧困者は対米移民となることを余儀なくされ」ました(100ページ)。国境に壁を築くなどというトランプ「移民政策」の迷妄は理性的・道義的・政治的に批判されるのは当然ですが、このように移民発生の根源を経済問題として明らかにすることが、感情的偏見を断つためにも重要であり、ここにもグローバル資本主義の矛盾を銘記することが必要です。

 論文のまとめにもあるように、NAFTAにおいては、アメリカが恩恵を、メキシコが被害を受けたという国民国家的に単純な構図ではなく、国境横断的な「超国家的資本家階級(TCC:transnational capitalist class)」(101ページ)が利益を得る一方で、メリットやデメリットは「各産業や各地域、そして諸階級ごとに複雑かつ多様に現れてい」ます(102ページ)。したがって被害に応じた様々な言説や「政策」を掲げたポピュリストの策動の余地が出てきます。

 「ナショナルに基礎を置く国民国家の政治システムとグローバル・エコノミーに基礎を置くTCCとの間の、深い矛盾と混迷の表出」(同前)というのが結語ですが、その意味を考えてみたいと思います。「国民国家の政治システム」は比較的見やすいのに対して、(TCCが基礎を置く)「グローバル・エコノミー」は非常に見にくい存在です。両者を重要な構成要素とする現代資本主義社会は後者を土台とし起動力とし、前者はそれに規定されています。新自由主義の政府はその構造に忠実な政権であり、グローバル・エコノミーの邪魔になる福祉国家的要素を排除し、規制緩和など、グローバル資本がますます自由に活動できる事業環境の形成に努めます。そうした政策は当然のことながら人々の生活と労働を脅かします。ここでまさにグローバル資本への民主的規制が必要となり、そのために「国民国家の政治システム」を活用すべきですが、そうした本質的関係は人々にとって自明ではありません。

それよりも、自分の雇用や労働条件の見えやすい脅威となっている移民労働者を追い返したり、貿易赤字に表現される地域産業の不振を打開するために保護貿易をやったり、というように「国民国家の政治システム」を動かすことのほうが手っ取り早く思えます。ここに「国民国家の政治システム」の可視性と「グローバル・エコノミー」の不可視性との(本質的関係から評価した)ミスマッチな結合(=ポピュリストの策動の場)が生じます。問題は、何とか「グローバル・エコノミー」を可視化して、「国民国家の政治システム」をグローバル資本への民主的規制に向かわせることが大切なのだ、という本質を分かりやすくすることです。

 トランプ現象を象徴するのは、アメリカの貿易赤字を他国の不公正な貿易政策のせいにする声高な言説です。ここに「国民国家の政治システム」の可視性と「グローバル・エコノミー」の不可視性との焦点があります。

他国の不公正な貿易政策を正せば、アメリカの貿易赤字は解決する――。これは問題の歪められた単純化であり、「グローバル・エコノミー」の不可視性に起因する間違った原因認識によって、「国民国家の政治システム」の可視性を乱用して間違った「分かりやすい」解決政策を提示しているのです。

原理的には、今日の貿易不均衡は、主にはグローバル資本の資本蓄積行動の結果が世界市場という市場平面に現れたものです。この市場平面上で資本主義企業が交流します。資本主義企業の代表がグローバル資本ですから、直接的生産過程を始めとするグローバル資本の行動様式を把握することが重要です。たとえば、直接的生産過程はもともとは市場外にあり、公的社会の立ち入らない私的空間なのですが(「憲法は工場の前で立ち止まる」…社会権をそなえた憲法がそうであってはならないが、実態としてはそうなっている)、多国籍企業にあっては企業内国際分業・企業内貿易が成立しています。これが今日の貿易不均衡の重要な要素になっています。このように世界市場の平面的把握ではなく、グローバル資本の行動を含めた立体的把握が不可欠です。

所論文が超国家的資本家階級(TCC)の存在に触れたように、本来、主要な対立軸は<グローバル資本 VS 国民経済=人民の利益>にあるでしょう。しかし後者が必ずしもイコールとは限らないどころか、新自由主義の政府は国民経済を人民の利益から切り離してグローバリゼーションに従属させようとしています。国民経済を統括する国家=政府の姿勢が問われます。

 貿易不均衡のような分かりやすい矛盾は市場平面上に現れます。しかしそれを生み出す内奥は生産過程にあります。トランプの声高な貿易不均衡攻撃は、その原因であるグローバル資本主義の立体構造を見ずに、市場平面に生じた結果だけを見て発せられています。トランプは立体構造をそのままに平面上の結果だけを直そうとしているので無理があります。経済理論もまた同じ誤りを犯さないことが必要です。

 

 

          アベ・パラドクスのシニシズム段階

 政治的暴虐の限りをつくしながら、(従来の常識なら内閣総辞職ものの事態を何回も起こしながら)安倍政権が倒れないという状況に、世論の一部にははち切れんばかりに焦燥感が充満し、いくばくかの喧騒を伴う「ごまめの歯ぎしり」が聞こえてきますが、多数派世論は無関心ではないだろうけれども、およそ喧騒には縁遠く、日常生活に埋没して凪いでいる感じです。戦後憲法体制下初のこの異常事態をどう捉えるかが大問題です。

 まず「安倍一強」なるものの客観的理解に資する論稿として、佐々木憲昭氏の「財界支配の研究 『安倍一強』政治の歴史的な背景と矛盾」(上)が挙げられます。小選挙区制による虚構の多数効果、自民党内での総裁への権限集中、政策決定における首相権限の強化、首相官邸による官僚人事権の掌握など、安倍暴走を支える客観的条件が今日的に簡潔にまとめられています。それとともに、戦後間もなくから現在までの行政改革の歩みが俯瞰して見られるのが重要で、その中に中曽根内閣の土光臨調、橋本「行革」などが位置づけられています。そこに小選挙区制を導入した1994年の「政治改革」を重ね合わせることで、事実上の「財界独裁」とでもいうべきものを実現する政治機構が一定の完成形態を整えたことが理解されます。「安倍一強」による暴走、それによる今日の政治的惨状を捉えるうえでしっかり押さえておくべき事柄でしょう。なお「朝日」727日付では、政府の機関である内閣情報調査室(内調、日本版CIAとも呼ばれる)が自民党や政治家安倍個人の「私的機関」化している模様が伝えられています。たとえば自民党総裁選に備えて、石場茂氏の発言を収集して安倍氏に報告する、というようなことです。モリカケ問題を知っている今では誰も驚かないでしょうが、首相権限強化の制度化という、支配層にとっての「公的動向」が、国政の「私物化」へ容易に転化することが見て取れます。

以下では主に事態の主観的側面についてあれこれ述べるので、(あらぬ方向に飛んでいかないように)その前段に考察の重石として佐々木論文を若干紹介しました。

 主要政策への支持がないのに、内閣支持率が高いことをアベ・パラドクスとして問題にしてきたのですが、それがここに及んでは、首相個人の国政私物化にともなう数々の政権スキャンダル、ウソつきの横行という異常事態になってもなお支持率が底堅い、という状況までヴァージョンアップしてしまいました。ウソつきを糾弾し社会変革を訴えることがまるで大人げないことであるかのような諦めの雰囲気…。アベ・パラドクスのシニシズム段階への「進化」です。真面目にものを考えるのが空しくなるのですが、そうとばかりも言ってられません。

 安倍政権が倒れないのは、首相が辞めると言わないからであり、辞めると言わないのは、自民党内に辞めさせる動きがないからであり、辞めさせる動きがないのは、今なお内閣支持率が底堅いからです。「安倍では選挙が闘えない」という状況になってないのです。そのココロは…「支持率3割もあればいい」。

小選挙区制によって民意が議席に反映されないことを「民意を歪める」と言いますが、ある回のそういう議席獲得状況を所与のものとして、次回は少数政党への投票を諦めるということが広がります。この繰り返しで、有権者自身の本意よりも大政党に合わせて政治を考えるという習慣が定着することになり、これは文字通りの意味で「民意を歪める」ことになります。そのように歪められた民意も参加して、とにかく世論が政権を決するという意味では、このひどい状況もまた(相当に劣化したとはいえ)民主主義の過程であるとは言えます。

結局、野党共闘による展望の提示を含めて、どう世論を変えるかが問題ですが、その前に今の世論はどうなっているのかを捉えることが必要です。

「朝日」社説729日付は「わたしたちの現在地 深まる危機に目を凝らす」と見出しを立て、国会の状況を的確にまとめ、人々の意識動向にも目をやって、この政治状況を(民主主義の)「危機」として正確に捉えていると思います。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 うその答弁に文書の改ざん、言いのがれ、開き直り――。民主主義をなり立たせる最低限のルールも倫理もない、異常な国会が幕を閉じて1週間になる。

 豪雨被害、そして酷暑に人々の関心は移り、不都合なもろもろを、このままなかったことにしてしまおうという為政者の思惑が、少しずつ、しかし着実に世の中を覆っていく。

 私たちの日本社会はいま、危うく、きわどい地点にさしかかっているのではないか。

   …中略… 

 黒を白と言いくるめる。国会を愚弄(ぐろう)し、反対意見にまじめに向きあわない。権利や自由を縛る法律を力ずくで制定し、憲法を軽んじる。そんなことを続けても内閣支持率は底堅い。

 不満はあるが、経済はそこそこうまく回っているようだし、何よりとって代わる適任者が思い浮かばない。モリカケ問題が日々の生活に直接悪い影響を及ぼしているわけでもない。そんなところが理由だろうか。

 だが民主主義は、適正な手続きと真摯(しんし)な議論の交換があってはじめて成立する。その土台がいま、むしばまれつつある。

 危機の兆候を見逃したり、大したことにはなるまいと思ったりしているうちに、抜き差しならぬ事態に立ち至る。歴史が警告するところだ。

 そうさせないために何をすればいいか。政治への関心を失わず、様々なルートや機会を通じて、社会とかかわり続ける。あきらめずに行動し、多様な価値観が並び立つ世界を維持する。それらを積み重ねることが、くらしを守る盾になるだろう。

 なんだか息苦しい。そう感じたときには、もう空気が切れかかっているかもしれないのだ。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 問題の一つはウソがまかり通っていることですが、それについて哲学者の國分功一郎氏は次のように言っています(「朝日」711日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 公文書の改ざんは未曽有の疑獄事件と関わっている。ウソにウソを重ねた関係者たちの矛盾点は既に暴かれている。会見して事情を説明すべき人物は国民の前に現れない。政権はただほとぼりが冷めるのを待つばかりだ。

 ところが、この事態を前にしても世論が怒りに震えることはない。どんなにありそうもないウソでも受け入れ、それがデタラメだと分かってもけろりとしている。アレントはそのような態度を指して、軽信とシニシズムの同居と呼んだ。

   …中略… 

 現政権はこれまで、どんな批判に対しても知らんぷりをすることでやり過ごしてきた。歴代の政権であれば「さすがにそれはマズい」と考えるようなことも平気で実現している。その最大の例は2014年の閣議決定による憲法解釈の変更だ。

 政権の知らんぷりが通用するのは、私たちが「これだけは譲れない」という何らかの価値を信じることができずにいるからだろう。政権はそのことを見抜いているから、このような事態に陥っても少しも焦っていないのである。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 アレントとは哲学者のハンナ・アレンであり、今日の政治状況においてよく参考にされています。ウソつき政権とシニシズムに陥った世論との共犯が今日の事態を招いたというのでしょうか。確かに状況の説明としては大変にフィットするところがあるのですが、傍観者の発言になっています。

 ドイツ現代史を研究する藤原辰史氏は「ウソつき政治家の蔓延がはらむ真の危険性は、国民が『どうせウソだ』とあきらめて、政治への関心を失うことです」(「しんぶん赤旗」724日付)として、ナチスと安倍政権の批判封じ・立憲主義破壊・排外主義などでの類似を指摘し、現状の危険性に警鐘を鳴らしています。

「冷笑主義 社会覆う? モリカケ疑惑 白ける有権者」という記事(「朝日」723日付)では、首相や官僚の答弁に合わせて公文書が改ざんされたことを念頭に、やはりアレントを引いて「伝統的なうそは、まず正しい現実があることを前提としてそれを隠すことを言う。一方、現代のうそは、『何が現実なのか』という基準自体を破壊する。 …中略… うそに合わせて現実が破壊されることが横行すると、政治の土台が覆され、市民はシニシズム(冷笑主義)に陥っていく」と指摘されています。

 同記事によれば「野党ぎらい」という問題もあります。様々なレベルの社会において、同調圧力が高まる中で「流れに対して立ち止まったり、抵抗したりすることを否定し、自分が『野党』的な存在にならないように慎重に振舞う。議会だけではなく、世代を問わず、今こうした風潮の広がりを感じる」というのです。

 社会が根腐れしています。しかしそれは人々の退廃を原因とするものではありません。「無理が通れば道理が引っ込む」を文字通りに実践している安倍政権のせいです。確かにその培養土となっているような社会状況も一部にはあります。しかしどうあれ、社会のトップには独自の責任があります。それを果たさず、人々に「悪が強く、正しい者は空しい」と思わせているようでは、まともな人間とまともな社会ができるわけがありません。問題はカジノ推進だけでなく、政権の姿勢全体が退廃の極みだということです。

 それに対してまともな社会を目指して、人々の生活と労働に根ざした闘いをどう作れるかがカギです。誰もが参加できる政治行動の工夫が大切であり、何よりも普通で、平常心と笑顔がふさわしいのですが、内に秘めた心意気としては、やはり中島みゆきの「ファイト!」を思い出して、シニシズムをKOしたい。

 

勝つか負けるかそれはわからない

それでもとにかく闘いの出場通知を抱きしめて

あいつは海になりました

 

ファイト!闘う君の唄を

闘わない奴等が笑うだろう

ファイト!冷たい水の中を

ふるえながらのぼってゆけ

 

 社会意識から政治次元に話を戻すと、志位和夫氏の演説が、安倍政権の手法とそれへの反撃を簡潔にまとめて参考になります(「しんぶん赤旗」719日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 「なぜ安倍政権はあんなひどいことを繰り返しても倒れないのか」と問いかけた志位氏は、安倍政権がこの5年半で権力を維持してきた方法について、(1)次々に目先を変え国民に自分たちの悪事を忘れさせる(2)「数の力」で強権を振るい国民に諦めさせる(3)国民の中にさまざまな分断と対立を持ち込む―ことを指摘。「だからこの政権を倒す方法は、『悪事を忘れずに選挙で審判をくだす』『諦めないでたたかいを持続させる』『立場の違いを超えて連帯する』こと」だと熱く訴えました。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 「忘れず、諦めず、連帯する」は沖縄の人々が先駆的に切り拓いて今もなお苦闘し続けている姿勢です。多くの優れた社会派ドキュメント番組を制作してきた毎日放送の斉加尚代ディレクターは「沖縄さまよう木霊」を撮って、こう述べています(「しんぶん赤旗」716日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 沖縄の方々を取材して思うのは、言葉は力を持たない人々の持つ唯一の抵抗の手段だということです。いま沖縄にかけられている攻撃は、言葉を奪おうとする、「黙れ」というものです。権力に近い人たちからもなされていて、沖縄以外の私たちへも向かってきます。

  …中略…  伝わる言葉で投げかければ、視聴者は応えてくれると信頼しています。

 その一方、事実に基づかず感情だけで物事を決める傾向も進んでいます。その先にあるのは言葉を失った世界ではないのか。もっと伝わる言葉は何か。いつも考えています。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 言葉を失った者は暴力に訴えて反社会的になります。逆に言葉が人々の心をとらえれば社会的な力になります。安倍政権を打倒する市民と野党共闘の「伝わる言葉」が是非とも必要です。
                                 2018年7月31日






2018年9月号

          シェア・エコノミーと未来社会論

 

1)シェア・エコノミーの二つの流れ

 特集「『シェア・エコノミー』とは何かの冒頭には、過重労働問題の第一人者で先ごろ亡くなった森岡孝二氏の「シェア経済は『未来の働き方』かが置かれています。シェア・エコノミーという言葉には戸惑いがついて回るように思うのですが、それは要するに、いいものか悪いものかよく分からない、というところから来ます。森岡論文の指摘でその理由が分かります。「その意味内容は提唱者によって異なり」、「大きく分けると、環境破壊と過剰消費に批判的な非営利的な流れと、市場経済と経済成長に迎合的な営利的な流れがあります」(21ページ)ということで、正体が分かりにくくなっていたのです。最近その成功が喧伝されるとともに、問題点も指摘されているエアビーアンドビーとかウーバーなどはもちろん後者に属するので、シェア・エコノミーという言葉のうさんくささはここからきていたのか、と思い当りました。これに対して森岡氏は、前者の代表として、ジュリエット・ショアの『プレニテュード――新しい<豊かさ>の経済学』を紹介しています。そこでは「シェア経済は単なるビジョンではなく、実生活で着実に広がっている歴史的トレンドとして、したがってまた驚くほど多様な実践例の裏付けをともなった、開放型の情報技術(ソフトウェア)に支えられた新しい生産と消費のあり方、暮らし方・働き方として示されています」(22ページ)。だから「非営利的流れ」のシェア・エコノミーについては、ショアの著作を参考にすれば具体的な議論になるのでしょうが、読んでいないので叶いません。そこで抽象的な議論になってしまいますが、以下では、最近一部で喧伝されている未来社会論をもう少し理論化する方向を考える、という中で、シェア・エコノミーにも触れるという程度の扱いで進めます。

 もっとも、本特集は、主に「営利的流れ」のシェア・エコノミーの現実的展開に即して、特に雇用・働き方を中心にして喫緊の課題に挑戦している、ということからすれば、以下の行論はそこからも外れることになります。ただしその前に、シェア・エコノミーに関連して、何か新しい良いものであるかのように政策的に宣伝されている「雇用によらない働き方」について原理的に考えてみたいと思います。

 

2)「雇用によらない働き方」をめぐって

 高田好章氏の「『雇用によらない働き方』推進の狙いと拡大の実態によれば、厚労省の報告書は「雇用によらない働き方」を「時間や空間にしばられない自由な働き方」(31ページ)と美化していますが、実態は「ひとりブラック企業」(36ページ)です。個人請負・フリーランスには労働法が適用されず、解雇規制・労働時間規制・失業保険・労災保険がなく、年金・健保も不利になります。自己責任・無権利状態そのものです(同前)。裁量労働制や高度プロフェッショナル制度が「時間にしばられない働き方」とすれば、それをもっと進めた個人請負・フリーランスの「雇用によらない働き方」は働かせ方の規制緩和の一環であり、労働者の権利喪失の流れに位置づけられます。「これは働き方の『進化』というより、IoTAIなどを契機とする情報化の進展の下で、雇用とも自営ともつかないその日暮らしの労働者への『退化』である」(32ページ)ということです。森岡氏も「個人請負については、究極の非正規雇用として」(26ページ)、雇用外ではなく、劣化した雇用として扱っています。

 したがって「雇用によらない働き方」についても労働者性を認めるべきです。その法的原則と実情について、弁護士の川上資人氏は次のように指摘しています(『ギグ・エコノミー』がはらむ労働・雇用の法的問題50ページ)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 確かに、法的には、労働法上の「労働者」か否かの判断について、雇用関係の有無は問題ではない。労働者性は、あくまで指揮命令関係、使用従属性が認められるかという規範的評価によって判断される。

 しかし、労働者性を否定された雇用関係にない労働者がそのような規範的評価によって労働者性を認められるためには、裁判所に出訴し、使用従属性を基礎づける評価根拠事実を立証しなければならない。それには、費用も時間も労力もかかる。そして、勝訴の保証もない。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 よって、簡単に言えば泣き寝入りということで、たとえばウーバー配達員のように、「労働法上の『労働者』としての保護を一切受けられず」(同前)に働かされています。「雇用によらない働き方」にかかわる法的原理と(法的視角から評価した)現実はそういうものですが、これを経済理論ではどのように捉えるかが次の問題です。近代プロレタリアートが「二重の意味で自由な労働者階級」であることは以下のように捉えられます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 マルクスによれば、交換関係と階級関係とが資本主義においてはじめて内面的にむすびつくにいたったのは、資本主義社会では労働力が商品化して、生産手段の独占的所有者たる産業資本家と労働力の所有者たる賃労働者との間の階級関係が、労働力という商品の売買という交換関係を通じてなりたつという事情のためである。賃労働者は、従来の社会での被支配階級たる奴隷や農奴とちがって、居住移転や職業選択の自由をもち、自主的に一定の雇用契約を誰とでもむすびうるという点では、資本家に対して平等の地位にあるが、同時に労働者は生産手段から完全にきりはなされているために、自己のもつ唯一の商品たる労働力を誰かに売りつづけることなしには生きてゆけないという意味において、見えない鎖で資本一般に――特定の資本家にではない――つながれているという意味では、従来の被支配階級と同様の不自由かつ不平等な地位にとどまっている。

 杉原四郎『経済原論1 「経済学批判」序説』(マルクス経済学全書1、同文舘、1973年)
    34ページ  

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 したがって「雇用によらない働き方」においては、たとえ人格的に自由・平等であっても、生産手段「から自由」な状態である労働者は、確かに特定の資本家に雇用されていないかもしれないけれども、資本一般に見えない鎖でつながれているのです。ここで言う「雇用によらない」は虚像であり、最低限に劣化した雇用に他ならないのです。

 しかしこれはあくまで今喧伝されている「雇用によらない働き方」がそうであるということであり、「雇用によらない働き方」一般はまた別の意味をも持つと言えます。本特集で扱っているような喫緊の課題に比べると、間抜けた考察に思えるかもしれませんが、それは本来は第一に、未来社会の働き方を意味すると言うべきでしょう。社会主義・共産主義社会では賃労働は止揚されます。今のところそれを実現した社会はないのですが、理念的には生産手段の社会的所有によって直接的生産者が生産の決定権を握ることで剰余労働の搾取が廃止されます。そうして自由な人間的生活の基礎が築かれます。これが本当の意味での「雇用によらない働き方」です。厚労省はじめ今日の支配層が言うところの「時間や空間にしばられない自由な働き方」というのは、いかにも現象的には「雇用によらない働き方」に見えるのですが、本質的にはあるいは実際には資本の鎖につながれ、生存権さえ棄損された「働かせ方」の別名に過ぎず、生活と発達を保障した本来の自由な労働とはまったく違います。

ところで、「雇用によらない働き方」という言葉を支配層が喧伝するのは、「雇用」という言葉に含まれる「指揮命令に服した従属的な不自由な働き方」という内容をとらえて(それ自身は正当な把握である)、そうでない「自由な働き方」があるとアピールするためでしょう。ただしその実態は「ひとりブラック企業」であり、結局そこにあるのは希望をちらつかせて絶望に突き落とす詐欺的術策です。「雇用」ではないと見せかけて、実際のところ最低の「雇用」に誘導しています。だから本特集の諸論稿が主張するように、そのようなゴマカシを見抜いて、雇用から逃れるのでなく、雇用のディーセント化をこそ要求すべきだ、というのはまったくもっともです。

しかし詐欺的とはいえ「雇用によらない働き方」という言葉に魅力があるということ自体には、考えてみるべき問題があります。そこには自由への希求があり、自分自身の人生の主人公となるような働き方を選びたいという要求があります。それは人間としては当たり前の思いであり、またそれは同時に、主観的にはともかくも客観的には、資本主義下での搾取と疎外された労働とを超えたいという願いでもある、として捉えられます。

私たちが今すべきことは、脱雇用のスローガンの詐術を暴くだけでなく、本当の脱雇用の未来社会があり得、今、雇用のディーセント化を求める一つひとつの闘いはその未来社会につながっている、ということを知らせることではないでしょうか。劣化した雇用をなくすことを求め、少しでも人間らしい雇用を実現していく闘いが、一方で客観的にはより良い制度につながり、他方で変革主体形成を促すことで、資本主義下の雇用を止揚する未来社会実現につながっていくのですから。

 社会主義・共産主義社会の理念上の話とは別に、現実に存在する「雇用によらない働き方」としては、自営業者の労働が挙げられます。もっとも、これも現実には、プロレタリア以下的生活を維持するのが精いっぱいの零細経営が多かったり、下請けなどで生産の決定権を半ば失っている状況があったりしますが、とにかく生産手段の所有を通じて、独立した「雇用によらない働き方」を行なっています。労働者が劣悪な雇用を改善して、そのディーセント化を求めるように、自営業者もまた共同の努力や国・自治体の施策の改善、市場や下請け関係などにおける大企業の横暴の規制等々を通じて、経営の発展と自立性の確保を追求していくことが重要です。図式的になりますが、両階級のそれぞれの努力が長い目で見れば未来社会につながり、資本主義的雇用の止揚を具体化していくことができます。

 

3)未来社会における自由時間の拡大

 今日、一方には派遣労働・非正規雇用などがあり、他方には過労死に至るような過酷労働があります。いずれにせよ低賃金や劣悪な労働条件など、人間的とは言い難い労働が蔓延しているだけに、人間的な労働が確立し、自由時間が拡大する(と言われている)未来社会の魅力が一部の人々の間では高まっています。とりわけ上記のような矛盾が集中する若い労働者にとっては切実な問題として関心をよぶ可能性があります。

 私たちはその未来社会を社会主義・共産主義社会(以下では単に「共産主義社会」)と捉えていますが、そこで自由時間が拡大する条件について考えてみる必要があります。もちろん未来社会について具体的な青写真を描くことはできませんが、自由時間が拡大する可能性があることを、共産主義社会の基本構造から、資本主義社会との対比において、概念的に明らかにすることなしには、それは単なる情緒的願望に留まってしまいます(それも大切ではあるが)。

 経済社会は生産力と生産関係の両面から見る必要があります。自由時間の拡大について考えると、まず生産力発展によってその可能性が開かれますが、それが実現するためには適切な生産関係が必要です。日本資本主義が一方で顕著な生産力発展を実現しながら、他方で過労死に至るような長時間労働を蔓延させている、ということからもそれは明らかです。異常な「働かせ方」に現れた生産関係に問題があるのです。

まず生産力発展について最近ではAI(人工知能)が騒がれています。ただその話題に入る前に「生産性」をめぐる議論を見てみます。「朝日」814日付の「『生産性がない』 利益偏重?本当の意味は」という記事では、生産性について「要はコストを減らせということか」という声があり、効率重視や利益偏重の意味で捉えられている、という誤解が指摘されています。これに対して、生産性の定義は一人当たりGDPであり、GDP(国内で生まれる付加価値の総額)には企業の利益だけでなく賃金や税金も含まれる、と正されています(この定義は近似的なものではありますが)。記事の趣旨としては、企業は利益だけ増やすのでなく、賃金を増やして付加価値を増やし「デフレ」に陥らないようにする、つまり「公正な分配があってこその生産性」という観点が大切ということであり、現状分析・政策論としてはまっとうです。ただしここでいう生産性とは付加価値生産性であり、「労働時間当りに生産される使用価値量(生産物量)」という本来の意味とは違います。利益偏重の誤った「生産性」概念は論外としても、付加価値生産性そのものには、たとえばこの記事の議論のように意義はあるのですが、労働時間について、それも(価値あるいは剰余価値を生産目的としない)未来社会まで見通して議論する場合には、本来の生産性の定義に基づくほかありません。

以上の生産性の諸定義についてまとめると以下のようになります。

1. 利潤/労働時間 → 誤った定義 ただし資本家意識においては意味あり。

2. 付加価値/労働時間 → 付加価値生産性:物的生産性は捉えられないが、

異なる使用価値間に適用可能なので、産業別とか国民経済次元で使える。

一人当たりGDPはこの近似値。

  3. 使用価値量/労働時間 → 物的労働生産性を捉える本来の定義。

異なる使用価値間に適用不可なので、産業別とか国民経済次元で使えない。

各使用価値の生産性の変化を指数化して加重平均すれば、

生産性の変化の(国民経済次元などの)集計的表現は可能。

 次に生産力発展と社会変革の話に進みます。特にAIとの関連から。「しんぶん赤旗」423日付と「朝日」814日付マクロ経済学者の井上智洋氏が登場して、汎用型AIが2030年ごろには開発され、45年から遅くとも60年ごろには普及して大半の人の仕事がなくなる、と予想しています。そこではロボットを所有する資本家と1割くらいのスーパー労働者だけが十分な所得を得る状態になり(「朝日」)、「少ない仕事を多くの労働者が奪い合う悲惨な社会が到来する恐れもあります」(「赤旗」)。そこでベーシックインカム(BI)が必要になるというのです。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 AIが高度に発達した未来社会で、BIが導入されれば、労働時間は劇的に短縮でき、平均的な労働時間がほぼゼロになることもありえます。そうすれば余暇時間が増え、人生を楽しむために使えるでしょう。

 このような社会では、賃金の額で測られる人間の有用性はさほど問題でなくなります。AIの未来社会は「大量失業時代」ではなく「賃金労働からの解放」ととらえることもできます。

 AIの発達は真に価値あるものを明確にします。働く能力の有無ではなく、人間の存在それ自体が価値あるものです。自分が社会に必要とされているかどうかで悩むのは、資本主義がもたらした価値転倒の産物です。AIとBIがもたらす革命によって、そのような悩みは消え去ることでしょう。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 以上のように、井上氏は「赤旗」紙上では日本共産党の未来社会論にエールを送るようなことを述べています。ただし、実際、AIでこんなに簡単に仕事がなくなるのか、あるいはBI導入で社会の仕組みをこんなに根本的に変えてしまえるのか、どうやって導入するのか……等々疑問は尽きないようです(それらについては井上氏の著作を読めばいいのかもしれないが)。しかし図式的に言えば、AIが生産力を急速に高め、BIが生産関係を根本的に変革する(というか、直接的にはBIは分配関係の変革なのだがその際に生産関係がどうなるのかは一つの問題)ということで、未来社会を考える大枠は踏まえているとは言えます。これはある意味かなり具体的な問題提起ですが、その成否は簡単には言えないので、とりあえず措き、改めてマルクスの未来社会論に立ち戻って考えてみます。

 まず有名な『資本論』第3部第48章の労働時間論を見ると、生産力発展が自由時間拡大の可能性を作り出し、生産関係の変革によってそれが現実化することが述べられています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

…略… 一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性に依存する。したがって、社会の現実的富と、社会の再生産過程の恒常的な拡大の可能性とは、剰余労働の長さに依存するのではなく、剰余労働の生産性、および剰余労働が行なわれる生産諸条件の多産性の大小に依存する。自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会的形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって――盲目的な支配力としてのそれによって――支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が――といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが――始まる。労働日の短縮が根本条件である。

   『資本論』、第3部第48章より、新日本新書版第13分冊14341435ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように、前提となる生産力発展は資本主義で準備され、共産主義への生産関係の変革が行なわれることで、労働時間が短縮され自由時間が拡大し、真の自由の王国が花開き、それ自身の基盤の上に更なる発展が見通されます。ただしその際にも必然性の王国は社会の基盤として存在し、それを基礎としてのみ自由の王国は発展しうるのです。本誌特集の「シェア・エコノミー」は主にこの生産関係変革に関連しうるものであり、シェア・エコノミーの中の「環境破壊と過剰消費に批判的な非営利的な流れ」が現代的な変革のあり方に示唆を与えるかもしれません。

 ここでマルクスは、自由時間の拡大において、諸欲求の拡大と生産力の拡大との対抗的関係を指摘しています。人々の発達によって諸欲求が拡大すれば、必然性の王国が拡大します(=労働時間が伸びる)。それに対して生産力が拡大すれば労働時間が短縮され、自由の王国に近づきます(=自由時間が伸びる)。生産力が拡大しても、諸欲求の拡大に基づく使用価値量の拡大が優勢であれば労働時間が伸びてしまいます。したがって自由の王国の実現にとって、過剰消費による使用価値量の闇雲な拡大をどうなくしていくかが現代的には課題となります。しかし「資本の傾向はつねに、一方では自由に処分できる時間を創造することであり、他方ではそれを剰余労働に転化することである」(『経済学批判要綱』)とあるように、資本主義では、自由時間の創造はあくまで潜在的可能性にとどまり、現実的にはそれは常に剰余労働に転化されてしまいます。剰余労働で生産された商品を売り込むため、資本によって過剰消費が演出・創造されます。それらを防ぐため生産関係変革の必要性があります。

ところで過剰消費という概念は一つの問題提起になっています。それは過少消費と共存しており、そこには二重の意味があります。一つには、格差と貧困の拡大が進行する中で、一部のブルジョア階級などの富裕層と労働者階級の下層などとの間に対照的な過剰消費と過少消費とがあるということです。それは見やすい現象です。二つ目には、それだけでなく、労働者階級を始めとする人民自身の中にも階層間格差ではなく、各人・各世帯そのものにおいて一方に消費社会化による過剰消費があり、他方に食費や文化的費用など生活上必要な消費が低所得により縮小していく傾向があります。たとえばコンビニに代表される24時間社会は、生活の質の貧困化の中で過剰消費と過剰労働が見事に相互前提的に共存している姿です(24時間消費と24時間労働)。それはまさに人類の前史の最終段階たる資本主義社会の病弊の爛熟ぶりを象徴し、生産力拡大による自由時間拡大の可能性を押しつぶして剰余労働に転化してしまう悲劇そのものです。剰余価値追求を廃棄し、資本ではなく人間の生活と労働が主人公となり、自由時間の拡大が実現する人類の本史に進むべき必然性がそこに示されています。

ところでいささか次元の違う話ですが、究極の過剰消費は軍需であり、まさにそれは演出・創造され、それによって、人類が平和産業の生産力拡大によって創出したはずの自由時間が奪われ、それが剰余労働に転化されて武器が生産されます。最近話題のイージス・アショアに至っては、その(北朝鮮脅威を前提とした)軍需そのものの虚構性が明らかになりました。そこでは自由時間喪失=剰余労働転化という(人類の)前史的性格が突出しています。こういうバカバカしいことをやっているのがまさに前史たる所以なのですが、そこまで明白でなくとも、自由時間の実現を阻む資本主義的生産関係そのものの前史性について、日々の過重労働から実感していくことが大切です。

 閑話休題。共産主義社会を規定した有名な文章として、『資本論』第1部第1章「商品」第4節「商品の物神的性格とその秘密」に「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」とあります。上記第3部における、結合された生産者が自然との物質代謝を共同管理する、という社会像に当たります。第1章第4節の物神性論は資本=賃労働関係が登場する以前に商品を分析する論理次元で書かれており、そこではもともと資本主義的階級関係は捨象されています。上記はその論理次元での共産主義社会の規定です。

商品=貨幣関係はいわば社会的規模のヨコの広がりにおける生産関係であり、資本主義経済の基盤を形成します。それに対して資本=賃労働関係はその基盤上に展開する諸企業内にあるいわばタテの生産関係であり、資本主義段階では搾取関係として存在します。この資本主義におけるタテの生産関係=搾取関係を捨象した論理次元、ヨコの生産関係の論理次元で、それと対照するために、歴史段階を異にする共産主義社会におけるヨコの生産関係としての共同体的生産関係を描き出したのが、第1部第1章第4節の物神性論の共産主義社会像ということになります。

 これに対して、マルクス、エンゲルス『共産党宣言』の「二 プロレタリアと共産主義者」の最後の文で、共産主義社会は「階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる」という形で登場します。つまり「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」という有名な共産主義社会像は、タテの生産関係の論理次元で、階級関係=搾取関係と対照的な非搾取の共同的社会像として提起されています。階級対立と弱肉強食の競争があれば、「私の自由はあなたの不自由」となりますから、それはなくさなければなりません。労働時間論との関係でいえば、搾取階級が自由時間を独占して、被搾取階級が長時間労働を押し付けられるという状態への批判となります。生産力発展の成果を万人が平等に享受できる生産関係ということです。

 このように経済分析の論理次元に着目すると、共産主義社会像は、結合された自由な人々の連合体が理性的に全社会を管理していく、というヨコの生産関係においてよく示されており、それを実現するために、タテの生産関係として搾取・階級をなくすことが必要となります。社会変革の順序として、まず資本主義的搾取をなくし、つぎに市場経済を共同体的関係に変えていくという形になります。それは現代ではなかなか見通せない道筋ではありますが、そうした理想的社会像が今日の社会状態に対する批判の源泉として生きてきます。もちろんそうした理想が空想であってはいけませんが、資本主義社会の分析的批判にたって労働者・人民の生活と労働を活かす方向での展望は決して無根拠ではありえません。べったりとした現状追随主義が支配的な中で、新自由主義的構造改革が貫徹しています。この強力な攻撃に対して、眼前の社会の漸進的改良のためにも根源的オルタナティヴの堅持は重要です。

 以上は経済理論体系の重層性の観点からの考察(理論的抽象度の違いを意識した考察)ですが、その中にすでに資本主義だけでなく、前近代から未来社会までの「広義の経済学」に属する議論も含まれていました。そもそも経済学は近代資本主義社会の成立によって本格的に成立した学問であり、その対象は資本主義経済です。ただしその成果としての経済分析の方法を基にして、資本主義以外の前近代から未来社会にまで至る様々な経済社会を考察することができます。『資本論』の分析対象はもちろん資本主義経済ですが、その特徴を明らかにするためなどで、他の時代の経済への言及もあり、その一つとして未来社会も取り上げられています。未来社会論の場合は、単に資本主義経済の特徴を明らかにする比較対象という意味だけではなく、変革の展望を指し示すという意味が当然あると思われます。

そこで上記引用にあるように、『資本論』全3部の最終篇においてマルクスは労働時間・自由時間論を押し出した未来社会論を提起しました。それは資本主義分析の総括としてその方法の適用であり、同時に目指すべき社会の原則的姿の提示でした。そうした未来展望の問題はここでは措きます。未来社会像をも提起しうるような経済理論の方法として、この引用部分にもあるように、歴史貫通的視点での原則提示を基準にして、様々な時代の特徴を浮き彫りにする手法が取られています。『資本論』第3部第48章からの上記引用と同様な内容ながら、歴史貫通的視点がより顕著な以下の叙述を見てください。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である。しかし、自由な時間、自由に利用できる時間は、富そのものである――一部は生産物の享受のための、一部は自由な活動のための。そして、この自由な活動は、労働とはちがって、実現されなければならない外的な目的の強制によって規定されてはいないのである。この目的の実現が自然必然性であろうと、社会的義務であろうと。

 自明のことであるが、労働時間そのものは、それが正常な限度に制限されることによって、さらにそれがもはや他人のためのものではなく自分自身のためのものとなり、同時に雇い主対雇い人などの社会的な諸対立が廃止されることによって、現実に社会的な労働として、最後に自由に利用できる時間の基礎として、まったく別な、より自由な性格をもつようになる。そして、同時に自由な時間をもつ人でもある人の労働時間は、労働者の労働時間よりはるかにより高度な質をもつにちがいないのである。

  マルクス『剰余価値学説史』、国民文庫第8分冊、43ページ、Werke,26.3  S.253

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここでは、商品経済の分析から出てくる価値論の基礎に歴史貫通的視点を見ることができる、ということが「たとえ交換価値が廃棄されても」という指摘から看取されます。杉原四郎氏はそうした歴史貫通的視点を「経済本質論」と呼び、マルクスの経済観の基礎として最重視します。そこで、『資本論』冒頭の有名な「資本主義的生産様式が支配的におこなわれる社会の富は、一つの『巨大な商品集合』として現われ」るという叙述についてこう述べています。「社会現象を分析する場合、歴史的変化の根底によこたわる不変の実体(富)と、歴史のそれぞれの段階に応じて変化しつつ現象するその形態(商品)とを明確に区別し、その上で後者を前者との関連において追求してゆく、という方法的特徴をあらわしている」(『経済原論1 「経済学批判」序説』、マルクス経済学全書1、同文舘、1973年、85ページ)。あるいは「経済の歴史的社会的な形態の特性をあきらかにするには、その根底にある実体的なものにまで分析をふかめる必要があり、それとの関連で形態をつかんではじめて、その特性を解明しうる」(同前、8586ページ)。

 実を言えばこの方法に基づいて、杉原氏は労働時間と自由時間を軸にしたマルクスの未来社会論について詳しく分析しており、それを紹介してさらに考察を深めたかったのですが、時間がないので止めておきます。なおそれについては若干ではありますが、拙文「生産力発展と労働価値論」(『政経研究』第86号、20065月、政治経済研究所、7375ページ)で要約的に紹介し、今回と同様の議論を展開しています。勉強不足で、このテーマについてのおそらく多くあるであろう研究については知りませんが、少なくともこの杉原氏の労作を抜きにマルクスの未来社会論を語ることはあり得ない、ということだけは申し添えておきます。

 

 

          安倍政権の異常性・特異性と正統性

 憲法を無視して突っ走る安倍政権の暴走が歴代のどんな政権よりもひどいことは批判する人々の多くが思っており、怒りのマグマはたまるばかりです(しかしそれが必ずしも世間一般に広まっているわけではなく、諦めとシニシズムが世を覆っているのが問題だが)。政策上の暴走だけでなく、国政私物化にまで進み、それを糊塗するために公文書を隠蔽するのみならず、改ざんするまでにいたる、という異常性はもはや表現の域を超えているというほかありません。辺野古新基地建設にもっとも象徴的に現れていますが、この異常性は「無理が通れば道理が引っ込む」状態の通常化とでも言うべきものです。安倍政権の魂は「不条理」です。

 国会では野党がどんなに理を尽くして追及しても政府がまともに答えることはないので、国権の最高機関で審議はまったく空洞化しています。当然その全責任は政府・与党にあります。まともな審議内容がなく、ただ時間がきたら採決するだけです。政府が法案を提出した瞬間にはや結果は見えています。もちろん例外はあって、たとえば「働き方改革」法案では、データ捏造問題によって、裁量労働制の拡大という重大部分が削除されました。とはいえ、戦争法を始めとしてほとんどがあまりにひどい原案通りに成立しています。どんなに大臣たちが国会答弁で立ち往生し、法案のひどい内容が明らかになっても最後は強行採決で「一件落着」。選挙で議席が決まったらもはや国会での審議は無用だ、という状態が安倍政権では当たり前のことになりました。これを称して「選挙独裁」と言います。選挙で勝ったら何をやってもいい。少数意見の尊重とか熟議とかそんな偽善的なものはどうでもいい。まさにそう言わんばかりの安倍政権は(もちろんホンネではそう思っているだろうが)とりあえず「選挙独裁」政権だと言えます。

しかし実はもっとひどいのではないか。沖縄の辺野古新基地建設問題を見ましょう。沖縄県民や名護市民は繰り返し選挙と住民投票で辺野古新基地ノーという民意を表明していますが、安倍政権はそれをまったく無視しています。つまり安倍政権は「選挙独裁」ではなく、単なる「独裁」なのです。都合の悪い選挙結果は無視するのですから。選挙で拒否された政策もあくまでゴリ押しして、人々が諦めるのを待つ。そうなると「選挙独裁」というのは安倍政権を美化する言葉になってしまいます。したがって安倍政権の本質は「選挙独裁」ではなく「独裁」である、それが言い過ぎなら少なくとも「独裁志向」であると捉えるのが正確です。

安倍政権というのは新自由主義と保守反動の野合の性格を持っており、両者とも労働者・人民に対する抑圧を本質としていますから、そういう政治を独裁的に進めるのが安倍政権の本旨であり使命なのです。だから選挙は体のいい道具に過ぎません。内容はともかくどうでも勝てばよく(企業による期日前投票動員で圧倒した名護市長選での政策抜きの管理選挙を見よ)、場合によっては負けてもやりすごす方策を探す。それくらいのことは辺野古での暴力の延長線上にあり得ると警戒すべきです。韓国の朴政権が「ろうそく革命」で追い詰められたとき、軍の情報部隊、機務司令部が権限を越えて戒厳令の発布を検討していた疑惑が発覚しています。他山の石とすべきです。

それはともかく、歴代保守政権と比べてもこの顕著な異常性。保守良識派が離反しているように、そこには従来の政権と比べて深い断絶があるように見えます。しかしそれは一面であり、他面では、経団連を始めとして支配層は安倍政権を護持しており、そこには政権の正統性における連続性が確保されていることも明らかです。

 この矛盾を考えるときに参考になるのが、戦争法の評価です。戦争法に反対した政治潮流の中には、安保・自衛隊容認の「リベラル」派もあります。彼らによれば、集団的自衛権や戦争法は従来の日米安保体制からの転換・逸脱と捉えられます。だから反対だ、と。それに対して安保廃棄派は、戦争法は自衛隊の海外での武力行使に道を開くという意味では転換だが、それは同時に日米安保体制の本質の徹底である、という二面性を指摘します(渡辺治・福祉国家構想研究会編『日米安保と戦争法に代わる選択肢 憲法を実現する平和の構想、大月書店、2016年、312ページ)。ここでの「リベラル」派の主張は、安倍政権に対する保守良識派の姿勢と同様であり、それによって安保廃棄派と共闘が可能になることが重要なのですが、内容的には一面的です。やはり戦争法は日米安保体制の本質が顕現し徹底されたものだ、という他面をも見る必要があります。戦争法の本質と同じく、安倍政権は従来の保守政権からの大きな転換という側面を持ちつつも、支配層の狙いに忠実にそれをより徹底するという連続面があることを複眼的に見る必要があります。以下では、この連続面について二点考えてみたいと思います。第一点は、安倍政権に通じる異常性が、従来の保守政権にも既に存在していたことの指摘です。さらに第二点として、それにしても安倍政権の異常な強権性はどこから来るのかについて支配の連続性・正統性の観点から見ます。

 第一点について。日本の歴代政権の異常さは、対米従属と独占資本奉仕という二点に集約できますが、ここではまず対米従属問題の中でも日米地位協定について述べます。特に沖縄では米軍機の事故や米兵による犯罪が多発し、地位協定の改定がいつも問題となるのですが、日米両政府は一顧だにしません。せいぜい話を聴いたようなふりをするまで。個々の事故や事件を具体的に知っていけば、誰もが怒りに打ち震えるようなものばかりなのですが、一過性のニュース報道に触れて終わりというのが支配的状況でしょう(というか、それさえないかもしれないが)。もっと知って知らせる努力が大切であり、基礎的知識の習得も重要です。

明田川融氏の講演記録「日米地位協定の歴史と現在」(『前衛』9月号所収)は問題の全体像に迫るものですが、以下では「全土基地方式」についてだけ触れます。全土基地方式は他国に類例がありません。他国では提供する地域が明記されています。

対日講和交渉に当たったダレス米国務長官顧問や当時彼と会談したロムロ・フィリピン外務大臣でさえも、全土基地方式を日本政府が認めるかについて懸念を持ったり、あるいはそれを許可するような政府は非難の的になるだろう、などと語っています(明田川論文、56ページ)。それについて明田川氏は「私たちはあまりにも日米安保条約や日米地位協定に慣れてしまい、疑問に思わなくなってしまっているだけに、こういう、他では認めていない全土基地方式が、主権を棄損するものであるということを交渉当事者自身さえ思っていたという事実は大事なことだと思います」(同前)と書いており、今日の日本人自身がこのような異常さを当たり前として受容している現状に警告を発しています。また全土基地方式とはいっても、本土ではあくまで「可能性として」あるのに対して、沖縄では「実態として」全島基地化されているという差別構造を忘れてはなりません(同、57ページ)。

こうした事態そのものの異常さと、それに気づかないという認識の異常さとについて、前泊博盛氏は、以下のように日米関係を見渡して端的にまとめています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 安保条約と一体をなす日米地位協定によって、米兵らの日本への出入りは出入国管理をされることもなく、自由な出入りを許され、税金は減免され、光熱水料金の過半を日本が負担し、犯罪を起こしても起訴されるまで身柄を引き渡されることもなく、犯罪被害者への補償金を値切っても差額分を日本政府が日本国民の税金で補てんしてくれる。

 首都圏のど真ん中に他国軍隊の巨大な基地が提供され、首都圏の空域すら米軍統治下に置かれ続けても、国民の誰もが疑問を抱くことなく、当然の権利だと認めてくれる。国内法の適用免除される駐留米兵の数すら把握できず、領空内にもかかわらず米軍機の自由な飛行を保障し、住宅地上空での低空飛行訓練すら看過される。

 領土内で米軍機が事故を起こしても、捜査権も及ばず、米軍に捜査申し入れを無視されても抗議すらできず、事故原因は不明のまま飛行訓練を再開されても追認するしかない。

 そんな「対等な日米関係」を、この国の為政者らはいつまで続けるつもりなのであろうか。それでも、この国は、「主権国家だ」と胸を張って言うのであろうか。

 沖縄はこの国の「民主主義のカナリア」である。戦後七〇年余にわたり、米軍基地の過重な負担を強いられながらも、この国の中で、この国のルールに従い、救済を求め、基地負担軽減を求めてきた。沖縄が声をあげなくなった時、あげられなくなった時、この国の民主主義も終わりを告げることになる。

  「沖縄が問う民主主義」(『世界』9月号所収) 120ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 で、ここで言いたいのは、こうした対米従属の異常さは安倍政権に始まったことではなく、戦後日本に一貫したことであり、歴代政権はその意味ではすでに相当異常だ、ということです。その最前線に沖縄があり続けている、ということです。沖縄で顕在化し十分に意識されていた異常さは、本土では潜在化し不十分にしか意識されてきませんでした。今、辺野古新基地建設などをめぐって、政権の沖縄への暴力的支配がますますひどくなる一方で、オスプレイの訓練が本土でも縦横に行なわれるようになり、「問題は沖縄だけではないという意識」(明日田川論文、55ページ)がようやく出てきているようです。いわば本土の沖縄化の進行の中で、安倍政権の異常さが決して突然変異ではなく、従前からの一貫した異常さの政治全域への拡大として捉えるべきではないか、という見方ができるように思います。

 第二点について。安倍政権がこれまでにない異常な強権性を発揮しながらも、歴代政権と同様に正統性を維持しているのは、正統性の軸そのものが強権化・保守反動右傾化してしまったことに求められると思います。グローバリゼーション下、経団連を始めとする支配層の変質が重大問題です。佐々木憲昭氏の「財界支配の研究 『安倍一強』政治の歴史的な背景と矛盾」(下)によれば、日本企業が多国籍企業化するとともに国内産業の「空洞化」が進み、世界のグローバル化の最先端である米国企業が米国政府とともに強要する様々な制度の改変を日本が受け入れることによって、米国への「属国化」も進みました。これらは以下のように人民へのしわ寄せとなってきました。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

財界が国政にもとめたのは、労働の規制緩和、中小企業と農業の切り捨て等であった。その結果、地域経済の破壊をもたらし、貧困と格差を広げたのである。労働者、中小企業、農業などを保護してきた諸制度、教育や社会保障など国民の暮らしを支えてきた土台を、「岩盤規制」「既得権益」打破と称して掘り崩す政策がすすめられた。そのため、保守層を含む広範な国民のあいだで批判と抵抗が広がった。     111ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このような不満を押さえ込むために、小選挙区制を導入して国会に民意が届かないようにし、「橋本行革」で国家機構を集権化し、第二次以降の安倍政権では秘密保護法、戦争法、共謀罪などが強行されました。イデオロギー支配も強められました。「新自由主義は、自己責任論を説きながら『公的保障への依存体質をたたき直す』という強権性をもっている。それを国家主義、『滅私奉公』の思想と一体化させながら推進してい」ます(同前)。このような強権化は「国内において、独占資本が支配力を弱体化させ、これまでの手法では対応できなくなったことを反映してい」ます(121ページ)。

 安倍政権のおかれたこのような状況と課題に鑑み、その主要政策が不人気なのは当然です。それでも政権を維持していくためには、イデオロギー支配がきわめて重要であり、次々に目先を変える様々なスローガンを駆使したゴマカシ、ナショナリズム、同調圧力、野党嫌い、バッシング、分断支配、諦め・シニシズムの涵養など、あらゆるものが動員され、しかもそれがネット社会におけるアトム化に乗じて巧みに仕掛けられています。安倍政権は人民の不利益になる政策を断行せざるを得ません。だから客観的に見れば、人気取りにはまったく根本的に不利な条件を背負っているのですが、それを克服するという課題に粛々と取り組んでいます。それはなかなか「天才的な弥縫策」ということができます。

戦前・戦中日本の暗黒支配は結局内部崩壊することはなかったし、今日の北朝鮮の「金王朝」支配も同様です。それを嗤うことができないのが、今の「安倍日本」だということです。しかし客観的には、追い詰められた支配層の理不尽な支配をストレートに反映する安倍政権に未来があろうはずがありません。曲がりなりにも戦後民主主義を維持してきた日本社会で、1945年の敗戦による与えられた民主化とは違った下からの変革を実現して、先の民主化にも劣らぬ劇的な民主化・社会進歩を実現しなければなりません。そこでは現代社会の変化に対応した知恵が求められます。
                                 2018年8月31日





2018年10月号

          自立・人権・階級社会

 安倍政権の暴走は政治・経済・社会などの全般にわたっており、社会保障の切り捨てはその中心部分に位置します。それは生活保護バッシングなどのイデオロギー攻撃を先兵として人々に大きな悪影響を与えています。したがって政権の政策や制度(改悪)に対する具体的批判だけでなく、「自立」「人権」といった基本的考え方を正して普及することが必要であり、その際に表面的な民主主義論にとどまらず、資本主義を階級社会として捉えることが不可欠です。その点で特集「国民のための社会政策論」の中で、井口克郎氏の「医療・介護保障の抑制・後退政策と対抗軸 日本における『健康権』の普及と確立をが注目され、他に『前衛』10月号所収2論文、稲葉剛さん(つくろい東京ファンド代表理事)に聞く「広がる高齢者の生活困窮と『住まいの貧困』」と、笹沼弘志さん(静岡大学教授)に聞く「憲法を武器に『貧困』に立ち向かう」が重要な問題提起を行なっています。

 まず井口氏は次のように階級論の重要性を指摘しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 現代資本主義における医療・介護政策の形成過程を考察すれば、さしあたり生産手段の所有関係に基づく階級、すなわち資本(グローバル大企業等の企業群)および資本家階級(株主、経営者層)と、労働者階級(正規雇用、非正規雇用等の賃労働者層に加え、非稼働もしくは稼働困難状態にある高齢者、主婦・主夫、障がいのある人や病人等も含む)間の利害の対立構造を見出すことができる。

 今日の現実における社会保障制度の水準は、階級間の利害、要求がせめぎ合う狭間に形成されている。どちらの政治的力量が強いかによってその水準や性格は大きく変わりうるものであり、医療・福祉に関する制度や政策をこのような階級的対立や政治抜きに論じることはできない。         2829ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 なお(注)が付されて、自営業者層等の中間階級は労働者階級に類する層として把握されています。以上を押さえた上で、まず安倍政権の目指す社会保障費抑制を至上命令とする「地域包括ケアシステム」「自助・互助・共助、自立イデオロギー」が批判され、次いで労働者階級等が目指すべき社会保障像にまつわる「自立」や「人権」が提示されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 そもそも高齢期の介護保障は、医療とは若干異なり、必ずしも治癒を目的とするものではない。心身の衰えが進む大きな流れの中でも、介護サービスを提供し続け、その人の独立した自分らしい生活、社会参加、自己決定等を保障することが目的である。社会保障に頼らない「自立」ではなく、その人の独立、自律を実現するために、充分なサービスを保障するというのが人権としての介護保障である。   32ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これは直接的には介護について書かれていますが、社会保障における「自立」「人権」を論じたものとも言えます。通常、自立とは社会保障に頼らないことだと思われていますが、そうではなく、社会保障に支えられてその人らしく自立していくことが必要であり、そういう援助の役割を果たすのが人権としての社会保障だということです。この点については後で稲葉・笹沼両論文に関連して詳しく触れます。

 安倍首相の数ある有名なスローガンの一つに「介護離職ゼロ」があります。さすがに社会的矛盾を的確に掬い取ってアピールしているのですが、そもそもその矛盾を引き起こした原因・責任への認識がなく、対策もデタラメなのでさらに矛盾は加重していきます。一方で新自由主義的生産力主義を発揮して経済成長を追求しつつ、他方で介護問題の安上がりの「解決」を追求しているので、狭間の働く人々は厳しい状況に追いやられることが次のように指摘されます。――安倍政権は「介護離職ゼロ」「仕事と介護の両立」というスローガンで「これまでの介護保険制度・報酬改定の中でいっそう要介護者のサービス需給制限を強めるなど、働く人々や家族、ボランティア等に介護の役割を要求している。この内実は、市民に経済成長のための就業者の役割と、社会保障費抑制のための在宅介護者の役割の双方を求める過酷なものである」(32ページ)。

 「軽度」者には低報酬のサービスで間に合わせようという誠に安易な発想で、「要支援12」の人を対象に「介護予防・日常生活支援総合事業」が2015年以降始められましたが、利用が伸び悩み、事業者の新規参入も進まない状況です。「経済原則に合わない報酬の低さや、『元気な高齢者』の担い手としての参入が期待通りに進まなかった」ためです(33ページ)。こういう現状を招いた原因と政策的責任について次のように指弾されています(同前)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 この間、新自由主義「構造改革」によって政策的につくり出された「格差社会」(貧困・不平等)の中で、高齢世代・現役世代の市民は共に生活の余裕なく疲弊しており、「自助」「互助」による家族介護やボランティアを求めることに限界があることは早い段階から危惧されてきたが、それが裏付けられた形である。      

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 先に、経済成長と介護の双方の役割を求められる人々の過酷さに触れましたが、ここでも、新自由主義政策による格差・貧困あるいは生活の余裕がない状況の中で、さらに政府から家族介護やボランティアを期待される人々の疲弊ぶりが指摘されています。これはリアリズムであり、(経済成長と安上がり介護の同時追求という)資本の利潤追求が至上命題であるために人間の状況が見えなくなる、という新自由主義政策の空想性が浮き彫りにされています。それを私はブルジョア教条主義の破綻と呼びます。

ただしこの人々の疲弊は、社会変革の側からも大変な問題であることは従来から言われてきました。自分の日々をやり過ごすのに精いっぱいで、社会について、ましてやその変革について考える余裕もなくなる、というわけです。その問題は重大ですがここでは措きます。ここでは、そうした疲弊は、例えば介護の危機的状況に見られるように、体制側による社会統合に支障をもたらし、変革する側が世論を変える攻めどころとし得る、ということをとりあえず確認するだけにとどめておきます。このように、階級闘争のどちらの側から見てもピンチとチャンスは表裏一体です。ただし客観的には大義と多数派は労働者階級の方にあるはずですが…。

 井口氏は「国による社会保障費抑制=国策遂行の手法」について触れており、戦後最悪の安倍政権がこれほどまで長く続いている原因の一端を明かしています。その中から二つ紹介します(3435ページ)。一つは、階級内分断策です。そもそも支配層は圧倒的に少数派だから、多数派たる被支配層の分断を図り、団結させないことが階級支配の継続には必要です。そのために、雇用差別(正規と非正規)や競争(成果主義等)による孤立化と分断による労組弱体化、若年層と高齢者層の分断(高齢者の要求を「シルバー民主主義」と揶揄して若年層に敵視させる)、働く人々と非稼働者(病人・障害者・失業者)との分断などが使われます。生活保護バッシングなど各種バッシングは(ヘイトスピーチも含めて)分断の固定化さらには狂暴化を担う先兵です。

 もう一つは、耳触りの良いキャッチフレーズによる懐柔と扇動です。先の「介護離職ゼロ」とか「働き方改革」など、確かに矛盾が集中しているところをクローズアップして「解決してやる」かのように喧伝します。しかし実際のところ、介護は縮小させるし、働き方としては高プロ制度のように残業代ゼロの「定額働かせ放題」を強化するなど、改悪のオンパレードです。このように労働者・市民に不利益をもたらす政策を「あたかも全体の福祉が向上するかのような宣伝」で騙します。そのためさらに、「自立」「自助」「互助」「地域包括ケアシステム」といった社会保障費抑制政策の遂行におけるイデオロギー的キャッチフレーズを流布します。それだけ聞くと何となく望ましいもののように思われ、それを批判すると心無い人間として扱われかねません。しかし「これらのフレーズは、社会保障分野では国家にとってはその責任を縮小し、経済界にとっては税や社会保険料負担を抑制し、その傍ら生活問題を市民・労働者個人や家族、その近隣に自己責任化していく格好の道具となる」(35ページ)というのがその正体です。

 こうした支配の狡知と対決し克服するのに、井口氏はいわばからめ手の手法を提案しています。社会保障制度の水準は確かに国内の階級的力関係による部分が大きいのですが、グローバリゼーション下では国際的要因も重要であり、国際条約の動きを見定めて活用する必要があります。そこで井口氏が着目しているのが、日本ではなじみが薄い「健康権」を確立し普及することです。確かに健康権は日本国憲法25条にありますが、特別注目されることはありません。しかしそれは国際的には、「国際人権規約第1規約第12条」等に規定されている「現代において重要な基本的人権の一つ」(36ページ)で、WHOがその実現に向け精力的に取り組んでいます。その第12条の具体化として「一般的意見第14」があります。それによれば、健康権は一つには、個人の健康に対する自由を重視しており、そこには健康の自己決定権が含まれます。もう一つとして、社会保障サービス等の受給の権利が重視され、健康保障へのアクセスの機会が無差別平等に保障されるべきだとされます。つまり健康権は「自由権的側面と、社会権的側面からなる包括的権利」です(37ページ)。

 さらに「一般的意見第14」によれば、健康権の目標は「到達可能な最高水準の身体および精神の健康」の実現であり、そのため広範な条件の考慮を求め、労働・住居・教育等の環境やあり方についても国家や行政の対応を要求しています(同前)。そこで国家に対しては義務や禁止事項を指定しています。たとえば、健康権に対して取られる後退的措置の禁止(一般的意見第1432項)や健康権が無差別に行使されることの保障、特に医療・保健サービスへのアクセスの平等(同第1819項)です。この間、日本政府のやってきたことと言えば、財政抑制・介護サービス受給の制限・自己負担増などであり、明確にこれらに違反しています。日本政府は「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(国際人権規約第1規約)を1979年に批准しています。にもかかわらず行政がそれを踏みにじっているのみならず、司法においても裁判規範性が与えられていないことに対して、国連の経済的・社会的及び文化的権利委員会から懸念を寄せられています。この状況は、憲法982項「国際法・条約の遵守」に反します(39ページ)。 

井口氏は次のように結論づけます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 国連が日本の人権状況について大きな懸念を示しているように、先進国日本における人権状況の悪化は世界に与える影響も大きい。逆に、労働者・市民が健康権を掲げ、社会制度を変革していくことは世界の市民の人権向上にも貢献し多くの支持を得ることができる。

 21世紀の社会政策・社会保障としての医療・介護は、決して地域だけで「包括」され、地域や個人の自己責任に委ねられてはならない。健康権等の人権概念、財源(国―地方間、資本―人間間、人間間の所得再分配)などが地域を超えて交流する中で、人々の発達や自己決定、自分らしい生活の保障が目指されなければならない。   40ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これはおおむね首肯できますが、まずは国内の階級闘争の展望が宿題として残っていると言えます。また確かに地域だけで「包括」されるべきではないのですが、たとえば医療生協のような自主的団体が地域の特性に根ざした運動を下から展開すること――そうした独自性・自発性の重視――と併せて、健康権等の人権概念、財源が地域を超えて交流していくことが大切でしょう。

稲葉剛氏は2007年からの反貧困運動の展開を振り返り、子どもの貧困対策については一定の前進があるものの、他では停滞している状況の問題点を考察し、政策・制度の裏にある「自立」概念などを検討しています(「広がる高齢者の生活困窮と『住まいの貧困』」、『前衛』10月号所収)。2012年の総選挙で当時野党の自民党が雪辱を果たし第二次安倍政権が発足しました。翌13年には子どもの貧困対策法が成立する一方で、生活保護基準切り下げが強行され、生活困窮者自立支援法が成立しています(生活困窮者自立支援法については全国の生活困窮者支援団体の間で議論がありました)。総じて、反貧困運動は貧困問題の可視化には成功したけれども、現在の状況としては、子どもの貧困のみに焦点が当たっているとして、そこに見る問題点をこう指摘しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 貧困対策自体、行政の対策も、民間の活動も、対症療法的になってきているのではないか。そもそも、なぜ貧困が広がっているかという構造的な問題に踏み込むことなく、子ども食堂や子ども学習支援という現場の対症療法――もちろんそれは現場的には必要なことではあるのですが――にとどまってしまっているのではないかという懸念を私はもっています。        5354ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

自己責任論や生活保護バッシングが横行する中で、自己責任論の壁からの迂回戦略としてまず子どもの貧困対策に焦点を当て、政治的立場を超えた社会的コンセンサスを得ました。しかし、それを大人の貧困に達しさせない政治の動きが厳しく、労働市場・最賃・非正規などの問題への回路が経たれてしまっている状況です。

そうした中で、生活困窮者自立支援法と制度については、「生活保護になることを予防する」観点が強く、将来への投資という点ばかりで、人権としての貧困対策・生存権保障の面が後退しているのではないか、という危惧を稲葉氏は強く持っています。本来なら自立支援の理念としては、――1.日常生活の自立支援 2.社会生活自立支援 3.就労自立支援――の三つがあるのですが、実際の政府の政策動向は「就労自立」「経済的自立」ばかりで「人権保障なき『自立』支援」になってしまっています。そうした中で、運動団体とNPOがこの制度により、行政から業務委託を受けて制度に組み込まれることで、政府の動向に対する批判的観点が薄れている、という懸念も表明されています(63ページ)。

住まいの貧困については、「年越し派遣村」の際に注目された「仕事を失うと住まいも失う」という状況は日本の特殊性であることがヨーロッパとの対比で示されます。ヨーロッパでは最低限、ホームレスにならない住宅政策があり、住宅のセーフティネットとして、低家賃の公営住宅、社会住宅(行政が金を出して民間がつくる住宅)、家賃補助制度などがあります。すでに1961年に、使用者の労働者への住宅供給は好ましくなく、政府が低廉な住宅を整備すべき、というILO勧告が出されています。日本政府がそれに従わなかった結果、今日の惨状があります。

 これに対して稲葉氏は「住まいは人権である」という考え方の下に、住まいを失った人にまずは住宅を提供するという「ハウジングファースト」の取り組みを進めてきました。まずは安定した住まいを確保して、その上で様々なサポートをする、というやり方です(6364ページ)。ところが、まずは仕事だ、という考え方が貧困問題に取り組む人の間にも見られますが、それは稲葉氏の考え方からすれば「人権保障なき『自立』支援」であり、そこには「人権としての貧困対策・生存権保障」という観点が欠落しています。そうした就労支援第一の考え方の問題点については次の笹沼論文がさらに考察しています。

笹沼弘志さんに聞く「憲法を武器に『貧困』に立ち向かう」(『前衛』10月号所収)では、2008年、リーマンショック後の「反貧困」ブームにもかかわらず、生活保護バッシングによる強力な反動があり、貧困問題は深刻化しているにもかかわらず対策は行き詰まっている、とされます。そこには、「同情に値する・値しない」という線引きで切り捨てる仕組みがあります。それは朝日訴訟の際の国側・高裁判決の論理…「国民感情から許されない」「保護基準以下でも保護受けずに頑張っている人の勤労意欲を阻害する」…が今だ跋扈しており、「反貧困」ブームもこの「国民感情」を突破できなかったというのです(6668ページ)。 → <補注>

先述のように、「子どもの貧困」だけに焦点が当たっている状況を稲葉氏が問題としていました。笹沼氏もそれを取り上げて、先の「国民感情」が支配する中で、「同情されやすいところから突破しようという考え方が強かったのではないか」(68ページ)と推測しています。論文によれば、それでは二重の問題があります。一つには「親も含めた貧困家庭全体の問題を見えにくく」(69ページ)し、二つ目には「子どもは、その家庭が貧困であるか裕福であるかに関係なく、つねに何らかの援助を必要としてい」(同前)るので選別することは問題です。総じて、同情心を基準とした選別は貧困を見えにくくし貧困対策を困難にする、と主張しています。

 両氏が主張するように、子どもの貧困ばかりに焦点が当てられる状況は確かに問題ですが、そこには、子どもの貧困は親とは関係なく社会的に助けなければならない、子どもの貧困ならびに教育は社会の責任である、という正当な観点もあることに留意する必要があるでしょう。少なくとも、教育の受益者負担論に対する批判につながる点は評価できます。世論調査では、経済的理由による教育格差を是認する傾向が今なおかなり強いことを考えると注目すべきでしょう。

 「国民感情」による選別と深く関係しているのが、自立自助すなわち「勤労の倫理」であり、これは生産・労働中心主義で、社会に貢献しない人を選別・排除していくものです(70ページ)。これが貧困問題に取り組む人々の間での対立を招いていることを笹沼氏は重視しています。一方に、「仕事が先だ」「保護を受けるのは客体で労働者=主体」という考え方があり、これは「個人の尊重」にマッチするように見えますが、「勤労の倫理主義」「自己決定=自己責任」に傾き、支配層の福祉政策――「措置から契約へ」、「自立した個人の自由な選択」――に流れてしまう、と批判されます。他方、「まずは生活保護で」「住まいを確保して安定した仕事を探す」という考え方があります。これは先の稲葉氏のハウジングファーストに通じる主張であり、笹沼氏は支持しています。前者では、「一人ひとりの自己決定によって生きていく条件づくりよりも、就労自立の方に傾いて、そこにはまらない人を選別していく方向に、結果的になってしまっていないかと危惧される」(71ページ)からです。

 以上の検討に続いて、笹沼氏は人権規定をユニークに読み解き、新鮮な「日本国憲法の真骨頂」を提示しています。特に両性の平等を規定した24条について、「封建的な家制度を否定して個人を解放したもの」という従来の解釈にとどまらず、それは現実の経済や権力関係の中での自由と平等を規定したものであるとして、25条と不可分に関係づけて捉えられます。それについて、24条は「嫌なことは嫌だという自由」を保障している、ということが次のように巧みに説明されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 つまり自分で自分の生活を支える条件をもたない人にこそ、その条件を確保するのが、憲法の真骨頂ということです。例えば、経済的に自立できないから夫に依存せざるを得ない女性が、夫から暴力を受けても夫に対して嫌だと言えずに我慢する状況をなくすということです。しかし、「嫌だ」と言って飛び出せば、住むところも食べるものもない。結局、暴力か死か、どちらかしかない。それは日雇い労働者など最底辺で酷使されてきた労働者のおかれていた状況と同じです。「あなた働けるでしょ」ということで、生活保護も受けられない八方ふさがりの状況では、嫌なことは嫌だと言えない。

 そこで二五条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるわけです。あなたには「健康で文化的な最低限度の生活」を送るための条件を国に対して請求する権利があります、だから夫の暴力が嫌ならば逃げて生活条件を請求してくださいというのが二五条の意味です。           74ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」を実現するためには、自立する条件を奪われている女性にこそ自由を保障すべきだということになり、そこには自由を平等に保障するために必要なものとして25条以下の社会権があります。

つまりすべての人に自由な幸福追求を保障すること、とりわけ援助を必要とする人に保障するのが日本国憲法の体系です。したがってその人権保障の全体あるいは統治機構も含めた憲法の全体がセーフティネットであり、それは生活保護だけではない、ということになります。

この議論をさらに延長し徹底するものとして、笹沼氏はユニークな「臨床憲法学」を提唱しています。上記のような憲法の目的を達成するためには判例を研究するだけでなく、裁判に持ち込めない人々、声さえ上げられない人々の声を聴きに行くことが必要です。臨床憲法学が注目するのは権力関係であり、それもいつも言われる「国家対個人」にとどまらず、労働における階級関係なども含みます。

たとえばヘイトスピーチの問題で、権力関係を見ないと、単に「国家対個人」の関係で国家が表現の自由を規制するのがいいか悪いか、という議論になってしまいます。しかし権力関係を考慮すれば、「多数者に支持されている政府を批判する言論と、政府を支える多数者の側が少数者を痛めつけるヘイトスピーチが並列に議論できるはずがないのです」(77ページ)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 権力関係をきちんと把握している人であれば、そういう議論はできないはずなのに、今、人権についての議論は個人主義的な見方に立脚したものになってしまっている。しかし、権力論をしっかりおさえているのが日本国憲法です。それがはっきり出ているのが二四条です。

 リベラル憲法学者が、二四条を読み解けないのは、この権力論の欠如に理由があるのではないか。封建的な家制度を否定して個人を解放したものが十三条であり二十四条だという解釈だから、個人がおかれている権力関係、個人が解放された自由で平等な社会に成立する男性支配や企業のなかでの権力関係を日本国憲法は前提にしているのに、そこがわからない。               77ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 私見により、この議論を経済理論で読むとすれば、ここには商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との重層性が表れています。権力論・権力関係というとき、資本主義社会においてその中心は資本=賃労働関係であり、政治権力の源泉もそこにあります。商品=貨幣関係が形成する「個人が解放された自由で平等な社会」の土台の上にその権力関係は頑として存在します。個人主義・リベラリズムではそれが読めませんが、日本国憲法はそういう権力関係を前提している――笹沼氏の主張はそのように読めると思います。

 また笹沼氏は近代から現代における「公共性の構造転換」を問題にし、そこで精神的・物質的に自立的な基盤を持っていた個人・市民が圧倒的少数派になってしまったことに鑑み、「だから民主主義の担い手として自律的市民自身をつくりださなければならないのが、民主制が拡大した現代国家の宿命となる。その宿命をよく自覚しているのが、日本国憲法であるわけです」(同前)として、民主主義の基盤を形成する社会権の意義を強調しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

社会権というのは、市民社会、民主主義にとって必要とされる自律的個人の基盤となるような、一定の物的な基盤が欠如している状況に対し、民主制国家自体がそれを別な形で代替し自律性の基盤を確保する条件をつくり出すことに意義がある。それはいわゆる「福祉国家」ということもできます。それを保守的な国家が社会に介入することといっしょくたにしてしまうのは、そう思わせざるを得ないような保守派の動きがあったにしても、まちがいです。            78ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このような福祉国家への無理解の下で、「自由を基底とした福祉国家論、権力とたたかうための自由を基底とした社会権論というものをつくり出せなかった」(同前)という反省とともに、返す刀で、歪んだ「自立」論への宣戦布告がなされます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

いま憲法学者の世界では、社会権を研究している人でも「自立」を主張する人が多数派です。生存権も勤労の義務によって制約されるという考え方をむしろとっています。社会権を個人の自立によって基礎づけることで権利性を高めたいからです。権利性というのは拠出金を支払う責任によって担保されるという社会保険の理屈を公的扶助の世界にまでもちこんで、憲法二五条も自立した個人の責任や貢献によって基礎づけられるのだと言う。私にいわせればまったく転倒した議論です。本来、個人の自立を支えるために二五条があるのに、転倒してしまっている。          同前

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

論文の最後に、「同情に値する・しない」の選別・排除規範を突き崩すために「セーフティネットは、貧困な人のためだけのものではなく、 …中略… すべての人の自由な幸福追求を平等に保障するための制度だという点を前面に押し出す」(79ページ)べきだとしています。これは平等主義の徹底であり、後述の<補注>で紹介した普遍主義的社会保障に当たります。

以上の笹沼氏の主張を振り返ってみます。笹沼氏は理論的に徹底していて、きわめて論争的に、普通は左派と目されている論者も含めて根底的に批判しています。それは「同情に値する・しない」という国民感情論による選別・切り捨てへの批判に始まって、「憲法の真骨頂」として「自分で自分の生活を支える条件をもたない人にこそ、その条件を確保する」ものだと指摘し、「勤労自立」派を斬っています。この憲法観は、社会権を土台として初めて自由権も実現できる、と社会権の主導による両者の統一を主張しているように見えます。たとえば「国家による保護を使う権利を保障してこそ、他人に依存せず自立して、自由に自分の幸福を想い描いて、つまり自律的に生きていけるのです」(78ページ)とありますから(ただしそれを担える国家は、新自由主義の国家でないことはもちろん、脱資本主義に近い性格の国家であろう)。それは、近代の自由権に現代の社会権を接ぎ木したような通常の憲法観とは異なっています。

 また学問の世界で個人主義的リベラリズムが席巻することで、階級性や権力関係の観点を欠いた議論が横行していることも批判しています。それに対して「個人がおかれている権力関係、個人が解放された自由で平等な社会に成立する男性支配や企業のなかでの権力関係を日本国憲法は前提にしている」とまで、憲法の先進性を高く評価しています。たとえば24条の両性の平等はそこまで見通したものだ(単に封建的家制度に反対するだけでなく)というのです。ここで想起すべきは、野党共闘で個人の尊厳が強調されていること自体は正しいのですが、その中身が問われている、ということでしょう。自己責任論的な「自立」論になっていないかが反省されます。しばしば社会権も含めた形で個人の尊厳が言われているようですから良かろうとは思いますが。

 客観的に言って、笹沼氏の議論が日本国憲法を正確に捉えたものかどうかは分かりません。しかし少なくとも憲法を社会運動に積極的に活用する方向に読みこんだものだとは言え、そこには画期的意義があるように思えます。私は法学の素人だから、その議論の学問的位置づけは分かりませんが、社会運動に携わる者としては是非とも勉強すべき重要論文だと思います。

 もっとも、リベラルよりむしろブルジョア社会科学本流からすれば、権利重視の「自立」論は現実無視の空論として問題外と扱われるかもしれません。――権利を無条件に与えておいて働くのか、経済が成り立つのか――。突き詰めれば、資本主義の疎外された労働のインセンティヴは、「物質的刺激によるアメ」と「失業と貧困の恐怖のムチ」なのだから、働かなくても自立できる権利があるなら、誰も働かなくなります。この論理に究極的に対抗するには、疎外された労働ではなく、本源的労働(本来の労働)としての自己実現・喜びとしての自由な労働を対置することになります。

 もちろんそれは資本主義下で実現しているものではないのだから、空想ではあります。しかし労働をめぐる階級闘争の歴史は、8時間労働制の実現を始め、「疎外された労働」を人間的な「本源的労働」に少しでも近づけていく過程です。資本主義下のアメとムチによる疎外された労働から「未来社会」での自由な労働への移行は、将来になってから突然に現れるのではなく、現在の闘いが準備します。それは、いかに疎外された労働といえどもその根底には本源的労働が含まれている、ということから来ます。ディーセントな労働を求める闘いの一つひとつがブルジョア社会科学への反論となっていくでしょう。

 

<補注>

笹沼論文の文脈から外れてしまうので、補注として書きます。そうした選別の「国民感情」はもちろん間違っているとしても、それを叱るだけでは事態は改善されません。間違いがどうして生じるのかを理解することが現状打開への第一歩です。同情したり、しなかったり選別する(同情しないときはバッシングすることもある)側の言い分―事情と論理―を探るのです。

ネットワーク社会論を研究している木村忠正氏は、ネット空間で「生活保護」や「LGBT」「沖縄」「障害者」など、社会的弱者や少数派へ向けられる批判やいらだちについて次のように見ています(「朝日」919日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 ネット世論は保守的傾向が強いとされますが、「嫌韓・嫌中」を、憎悪に近い過激な言説で繰り返し投稿する人は投稿者の1%もいません。むしろ、ネット世論に通底する主旋律は、弱者や少数派が立場の弱さを盾に取って権利を主張し、利益を得ていると考える層が形作っています。いわゆる「弱者利権」へのいらだちや違和感です。

 私はこれを「非マイノリティポリティクス」という概念で捉えています。マジョリティーだがマジョリティーとして満たされていないと感じている人々が、彼らなりの「正義」や「公正さ」を求める現象です。彼らは仕事や家庭、生活で困難を抱えていても、女性や障害者のように自らを「弱者」と表明できず、そこに違和感を感じています。

 一般的に、リベラル的な公正さは平等や人権に象徴され、社会的弱者や少数派への優遇策や配慮につながります。しかし「非マイノリティ」が考える公正さは「数に応じた比例配分」や「因果応報論」「伝統・秩序の尊重」と結びつきます。LGBTへの配慮に疑問を呈した杉田水脈議員のような主張は、心情的に浸透しやすいのです。

 彼らの投稿を読むと、極端な感覚をもつ人々ではないことがわかります。しかし「女性専用列車は男性差別だ」と主張するとき、痴漢犯罪に苦しんできた女性へ想像力が向かうことはありません。

 社会が積み重ねてきた少数派への配慮の記憶を失うと、秩序や権威への服従が進み、「目には目を」といった地が現れてきます。こうした流れを止めるためにも、ネット世論を特別視するのではなく、理解を深めながら、公論の場を形成する言葉が必要とされていると思います。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----

 多くの人々が生活・労働で困難を抱えていても自らを「弱者」と表現できず、逆に他人の「弱者利権」なるものを勝手に感じて、お門違いな攻撃に走っています。自らを弱者と認め、弱者の権利主張を当然のものと理解し、さらにそう感じて、一緒になって社会に向かって要求していくことが必要です(分断から連帯へ)。一人で苦しみに耐えることが当然だと思い、そんな耐える自分に「正義」と「誇り」を感じ、耐えていないように見える他人を憎み蔑み、そうやって自己責任論にはまって、社会責任の免罪につながっています。それを衝いたのが藤川里恵さんの血を吐くような伝説のスピーチです(エキタス+今野晴貴・雨宮処凛『エキタス 生活苦しいヤツ声あげろ』、かもがわ出版、2017年、2829ページ)。 

    ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ---- 

 ねえ、何で選択肢に社会保障制度や労働組合がないんですか? 誰も何にも教えてくれないくせに、知りもしないくせに、お前より大変な人はいる、自分も苦労をしたけど何とかなった、社会のせいするな、そんなことばっかりして趣味ないの、もっと人生経験積んだら価値観変わるよ……そんなこと言われたって、お腹いっぱいになんかならねえんだよ!

 あとどれくらいかわいそうなら、あとどんな経験すれば満足なんだよ。具体的な、使える制度を、方法を教えてくれよ! 頼り方を教えてくれよ!

 私よりかわいそうな人がいたら何なんですか? 昔に比べればマシですか? それであなたは幸せになれるんですか? あなたの大切な誰かは、何かは救えるんですか? 不幸比べも我慢大会も、もういいかげん終わりにしませんか? もう十分だろ、おかしいことはおかしいって言っていいだろう? おにぎりが食べたいって言って餓死する人のいる社会が、過労死するまで働くか、自殺するしかない社会が、仕方ないわけないだろう! 人が死んで電車が止まって、舌打ちするだけのくせに、仕方ないなんて、簡単に言わないでよ!

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ---- 

 誰もが苦しい状況の中で「不幸比べ・我慢大会」になってしまっています。その解決は普遍主義的な社会保障にある、と財政社会学者は主張します(高端正幸「『分断社会』を超え、『分かち合い』の社会保障へ」、『経済』6月号所収3334ページ)。

  ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ---- 

 現状ではもはや、一部の明らかな貧困状態にある人だけでなく、一見普通の、一般の暮らしも十分、苦しいのです。そうした多くの人たちが、自分たちも苦しいのに、自分たちが払った税金によって、一部の人だけが助けられるのか、と思ってしまう。ネットにあふれているバッシングの言葉の背景には、そういう思いがあります。しかし、そこで考えなければならないのは、ではなぜ自分はこんなに苦しいのか、ということです。生活を自分の力だけで成り立たせるのが当たり前だ、という社会的圧力に、多くの人たちが押しつぶされそうになっているからです。

 ですから、生活のための基礎的なニーズを一部の人に限定しないで保障する目的は、貧困を防止するためではありません。同じように生活が苦しい人たち――数多くのワーキング・プアと、困窮して生活保護を受けている人たちが、分断され、叩き合う状態を避け、お互いの連帯の可能性をつくっていくための戦略でもあります。誰もが等しく社会によって支えられているという意識をつくっていかないかぎり、苦しい者がより苦しい者を叩き、共倒れしていく状況が深まるばかりになってしまいます。 

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように、問題解決の一つのカギが普遍主義的な社会保障の実現にあります。その財源論が問題となりますが、それを考える際に「不幸比べ・我慢大会・バッシング」の原因を別の角度から見ることが役立ちます。それらは、「椅子取りゲーム」をさせられている人々が、「競争」の名の下に、お互いの中で必死に傷つけあっている姿です。自己責任論の地獄です。それは、あらかじめ椅子を取り上げてゲームを強いている者たちの存在と責任に気づかないところに生じます。

そこを突破する社会観として資本主義の本質論があります。正規・非正規を問わず、労働者が苦しいのは資本の搾取強化によります。生活保護利用者など弱者が苦しいのは、社会保障の削減によりますが、それはグローバル資本に奉仕している政府の政策です。

市場での競争だけに目を奪われていると被支配層の中での足の引っ張り合いになります。自由・平等な市場において、独立した経済主体(資本主義企業も労働者も含む)が競争する中で成立する格差と貧困は、各自が能力と努力を傾けた結果なのだから、受容すべきだという自己責任論にはまります。ここでは各資本主義経営の中での搾取関係の視点が欠落し、前記のような労働者や弱者の苦難の根源が隠蔽されます。

 全日本民医連の旧綱領(1961年)には「国と資本家の全額負担による総合的な社会保障制度の確立」という要求項目がありました。おそらくその要求の根拠は、労働者の生み出した剰余価値(と賃金の一部)によって成立している国と資本家に、社会保障制度を確立する責任がある、ということでしょう。もちろん現実的には様々な詳細について具体的検討が必要ですが、普遍主義的社会保障制度の財源論の基本的視点はここに求められるべきでしょう。

 

いつものことですが、拙文は半ば読書ノートのようなもので引用が多くて、自らの論旨がだいぶ不鮮明となっておりますが、ご海容の上、諸論者の主張を味読してみてください。
                                 2018年9月30日





2018年11月号

          軍拡と経済破壊をもたらす軍産複合体

 

1)安倍軍拡とトランプ軍事政策の動向

 安倍政権を「戦争する国づくり」に邁進させているものは何か。まず考えやすいのは、保守反動復古主義による戦前回帰の願望と衝動であり、軍事大国化の追求です。しかしもちろん今日の日本は対米従属下にあり、支配層は新自由主義グローバリゼーションを不動の原理としていますから、軍事大国化と言っても戦前と同じではありえません。新自由主義のもたらす社会的矛盾を糊塗し、支配層にとって邪魔である戦後民主主義=憲法体制を打破するうえで、保守反動・ナショナリズムが不可欠だとはいえ、あくまで対米従属という大枠は厳守した上での軍事大国化です。確かに国内の軍需資本が軍拡衝動の基になっているのは当然です(とはいえ『世界』11月号所収の望月衣塑子「武器輸出――もうやめたほうがいいのでは?によれば、国内軍需産業は官邸の思惑ほどにはうまくいっていない)。しかしあくまで日米安保体制が優先され、「戦争する国づくり」と言っても「アメリカの下で」という修飾語が付き、その方針にしたがって特定秘密保護法・戦争法・共謀罪法などが強権的に整備されてきた経緯からすれば、むしろ米国の軍事政策とそれを規定する軍産複合体のあり方を解明するほうが重要です。故に、安倍軍拡を経済的土台から捉えるという課題は、米国の軍産複合体の分析から始めなければなりません。

 まず直近のニュースを見ましょう。1020日、トランプ米大統領は冷戦時代に米国と旧ソ連が核軍縮を念頭に結んだ中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄する方針を表明しました。さらに昨年から見れば、米国が北朝鮮と一触即発の瀬戸際状況に至り、今年になってそれが下火になると、代わりにイラン危機が煽られています。また今年2月の「核戦略見直し(NPR)」では、従来のイスラム過激派などとの反テロ戦争から一転して、ロシアと中国を脅威の最上位に置くに至りました。このようなトランプ政権の一連の軍事政策の動向の底に軍産複合体の影響(というよりも支配というべきか)を見ることができます。

 

     2)米国軍産複合体の再編強化から新冷戦へ

山脇友宏氏の「トランプ政権と軍産複合体」上下(上は10月号、下は11月号に所収)は、トランプ政権の軍事政策を、それを規定する経済的土台から分析しています。軍需企業名や武器名が頻出するこの論稿は、軍事の素人にとっては何度読んでもそれらが錯綜して経済的内容が頭に入らない難物です。しかしテーマの重大性からして、何とか読み解いて、政治に対する経済の規定性とそこにおける経済の論理を捉えてみたいところです。拙文では、上記のトランプ政権の軍事政策がどのように軍産複合体に規定されているかをまず見て、結論として軍産複合体の経済的性格を現代資本主義の構造の中に位置づけるという形で、その論稿に学びたいと思います。

1989年から91年にかけて、東欧とソ連の社会主義体制が崩壊することで冷戦が終結し、米国では軍事費を削って社会インフラ再建投資にあてるとする「平和の配当」論が一時は優勢になりました。これに対して軍産複合体は理論的に反撃しました。冷戦後に「米国が新たに支配領域に組み込んだ広域の資源地帯(西・北アフリカ、中東、中央アジア、南西アジア)は、イスラム過激派が活動する「不安定の弧」を形成しており、国際石油資本をはじめ多国籍企業とウォール街にとっては、この地域に『アメリカの秩序』を確立することが最大の国家利益である」(上、123ページ)というのが彼らの状況認識です。ここではいくつかある「ならず者国家」が旧ソ連に代わる仮想敵国であり、米国は2か所以上で同時に闘える軍事能力を保持する必要がある、というのです(下、117ページ)。この「新戦略」の下でハイテク兵器に象徴される湾岸戦争(1991年)が戦われ、2001年の9.11テロ以降のアフガン・イラク戦争を通して、冷戦後落ち込んでいた軍事費が復活し「安定的膨張段階に達し、軍産複合体にとって安定市場が確立し」ました(上、123ページ)。

 軍産複合体の今日の隆盛はむしろ冷戦後の軍事費縮小期に用意されました。1993年、クリントン政権のペリー国防長官は、主要軍事企業の最高経営者たちを招集して、劇的な産業集約化の構想を表明しました(いわゆる「最後の晩餐」)。以後、M&A、業界統合化が急激に進んでいくのですが、山脇氏が強調しているのは、それが国防総省のイニシアで敢行されたわけではないことです。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 その過程の開始時期は国防総省の縮小再編に向けた産業政策に主導されたものであるが、実態は、巨大宇宙トラスト企業とニューヨークの巨大機関投資家の戦略のままに再編統合化が進められたといえよう。5大軍需トラストを主軸に約50社の軍産複合体企業群が構築された。

 97年にコーエン国防長官によってなされた「国防計画見直し」(Report of Quadrennial Defense Review)が、最終となって、軍事システム高度化計画は一応の決着をみて現在にいたっている。98年には、軍事産業界の第一段階でのM&A再編統合化も終了と同時に、国防予算も下げ止まり、「21世紀」型戦争に備えて、新たな軍拡期が準備され始めた。

         下、119ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このような軍産複合体の再編強化により、「米軍事戦略は、米国総資本の国家安全保障の確立のためとはいいながら、軍産複合体企業の利益増進を優先することにな」り、「ニューヨークの巨大投資銀行や金融・アセット・マネジメント・ファンドを巨大株主とする金融資本を形成するに至った軍産複合体の要求は、米国の国防安全保障政策にも強力な発言力を持つ」(上、123ページ)ことになります。

これを抽象化して一般的に言えば、「経済」が「政治(軍事を含む)」を支配するということです。何だ、わざわざつまらんことを大仰に言うな、と叱られそうです。しかし軍事においては政治のイニシアティヴがとても大きく見え、たとえば「大統領の軍拡」はその下に敢行されるようですが、実際には「経済」に規定されていることを改めて確認すべきです。上記の冷戦後の状況は、米国の支配層内で起こったこと一般ですが、「異端児」のトランプも例外ではないことを後で見ます。

ところで、「政治」のイニシアティヴが特別に重要なのは、支配層と軍産複合体が要求する「経済」に逆らって軍縮を断行する場合でしょう。その際にはそのような「経済」に打ち勝つような型の「政治」力が必要であるのみならず、その「政治」に照応するオルタナティヴとしての「経済」のあり方を提示することも求められます。  

 山脇氏によれば、トランプは「軍産複合体に取り囲まれ、その指導を受けて登場してき」ました(上、119120ページ)。大統領選挙では、かつて政権の要職を歴任したジェームズ・ウールジー氏が安全保障政策のシナリオを書き与え、当選後は、「世界規模の軍事再編を総監してきたジェームズ・マティス海兵隊大将が国防長官として政策のすべてを束ねてい」ます(上、120ページ)。マティスの背後には軍産複合体があるということです。

もちろんトランプ大統領の場合は、従来とは違って支配層の意向に初めからすんなりと従ったわけではありません。「トランプ軍拡は、最初は北朝鮮リスクに対応するなかで、冷戦期の大型戦略兵器の増産とその次世代型兵器の開発・生産・輸出に中心を置き、米国が十数年来、幾分たりとも手と足をとられているアフガン、イラク、シリアからは手を引こうとしてき」ました(上、123ページ)。しかし「米国エスタブリッシュメント=総資本の立場(21世紀型の戦略)に立つ」(上、124ページ)マティス国防長官らの圧力に押されてアフガン増派に踏み切るなど、「広域資源地帯での戦争維持を決断せざるを得なかった」(同前)のです。ただし「同時に、トランプ軍事戦略は、軍産複合体の経営拡大・収益安定に向け『新冷戦』による大型戦略兵器の市場拡大へと進み続け」ました(同前)。

 ここで、冷戦期と21世紀との戦略の違いがもたらす軍事企業への影響を見る必要があります。冷戦期の大型戦略兵器は多大な利益を保証するのに対して、「不安定の弧」地域における「ローテク戦争」はそれを必要としないため利益率の低い不採算ビジネスとなります。つまり「米国エスタブリッシュメント=総資本の立場(21世紀型の戦略)」では世界戦略の中でこの地域での資源確保が至上命令ですが、軍産複合体の立場からすれば、冷戦の継続こそが死活的利益です。

 このような支配層内でのいくらかの矛盾を救ったのが北朝鮮危機です。「北朝鮮危機を契機として、ポスト冷戦期に細々と生きるか、縮小ないし廃棄され始めた大型戦略兵器、核兵器の復活と新規拡大開発が始まってい」ます(上、125ページ)。続いて、北朝鮮危機の収束に代わってイラン危機が今また演出されています。冷戦後の最も成功した核拡散防止の国際協定と言われる「イラン核合意」(2015年成立)から、トランプ政権が欧州の反対を押し切って一方的に離脱した結果、「イランと中国・ロシアを敵方にまわし、その脅威に対応する『新冷戦』が準備されてい」ます(下、126ページ)。こうして軍産複合体の利益は確保されようとしています。

 しかし新冷戦は旧冷戦時代と同様の対立があるわけではありません。グローバリゼーション下で経済的相互依存関係が深まっています。また、米国にとって一方では、「不安定の弧」地域への中ロのインフラ・資源開発などの浸透を警戒し防止することは必要ですが、他方では、イスラム原理主義のテロや国家破産状況への対処ではある種の協力が必要となります。広大な資源地域を米国だけで安定させることはできないからです(同前)。そういう中では「米国軍産複合体にとっては(ロシア軍産複合体にとっても同じだが)、軍事超大国間の軍拡競争が展開されて、相手よりも優位が保てる『国家独占兵器市場』が形成されれば充分である」(同前)ということになります。その状況に対応し、反テロ戦争から一転して、ロシアと中国を脅威の最上位に押し上げた「核戦略見直し」(NPR20182月)は次のような性格を持ちます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 中国とロシアを「戦略的競争者」と見立てた「核戦略見直し」(NPR)は、旧冷戦のような仮想敵としての備えとしての装備ではないが、生産過剰をかかえる軍産複合体に十分な市場を提供すべく、新たな高度破壊型の戦略・戦術核兵器の開発製造をめざしている。

    下、129ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 山脇論文の発表後になりますが、トランプ大統領は1020日、冷戦時代に米国と旧ソ連が核軍縮を念頭に結んだ中距離核戦力(INF)全廃条約(1987年調印・発効)を破棄する方針を表明しました。今回のNRPは新冷戦を告げるものですが、軍産複合体の利益から言えば、その延長線上にこの条約破棄の方針は当然のごとく出されるものでしょう。

 こうして眺めて来ると、トランプ政権の一見奇矯な動向を規定する経済のあり方が浮かび上がります。昨年の北朝鮮危機から、今年のその収束に代わってイラン危機が煽られ、「核戦略見直し(NPR)」で、従来のイスラム過激派などとの反テロ戦争第一から一転して、ロシアと中国を脅威の最上位に置く方針変更が行なわれ、さらにその延長線上に中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄する方針が表明される、という一連の事態の基底に軍産複合体の利益が存在していることが分かります。

 なお、先に冷戦後の軍産複合体の再編過程について述べましたが、忘れてならないのが、その過程でのシリコンバレーとの戦略的な結合です。「21世紀戦争」では、ICTAIの役割が大きくなっています。ここでも米国と中国・ロシアとの対抗は鋭さを増しています。「アップルとグーグルの時価総額合計で、米国軍事企業全体の時価総額を上回ることを考慮すると、シリコンバレー企業群が、米軍事産業に取り込まれることは重大な意味を持ち、米国経済の軍事化を飛躍的に進めることになる」(上、130ページ)という指摘は深刻に受け止めるべきでしょう。

 

     3)軍産複合体再編強化と新冷戦の経済的意義

 論文では、軍産複合体の再編強化過程とその経済政策的意味が以下のように総括されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

冷戦後の軍需調達縮小期から開発された軍事企業と国防総省による合併統合化戦略が「平和の配当」に従って、軍事経済から民生経済への資源の移転という軍民転換の本来あるべき政策とは逆に軍事経済の温存・強化・統合化によって、5大メーカーを中心とした世界最大の軍事企業グループが構築された。さらに今、21世紀のトランプ軍拡(ミリタリー・ケインジアン・ポリシー)の下で大手10社のグループに拡大され、米海軍関連企業はじめシリコンバレー大手企業、ITベンチャー企業も参入ないし引き込まれようとしている。

90年代からの軍事産業の再編が、従来からの軍事依存型経済構造、それに依拠した軍事スペンディングの経済政策――軍産複合体と軍事ケインズ主義――は、その軍事産業集中統合化の動きのなかで、株主と巨大金融投資機関(投資ファンド、年金ファンド)によって、国家の軍事政策も思いのままに進められるようになってきた。

 …中略… 上位10社の金融総資産額で米国のGDPを上回る巨大金融機関が、軍産複合体企業とその企業統合を背後から支え、その金融権力の政治的発言力は、軍事政策を左右できる。投資家が経営を判断する際の基準は、その企業の成長と全体的な業績であって、特定の国の政府の「国家利益」では必ずしもないのである。

軍事支出を需要創出策、所得政策として活用するという側面は光景に退き、「需要サイド」に代わって「供給サイドの効率化・強化」のために軍事予算が活用される。軍事産業が「国家軍需市場」の支配をめざして進み、国家の軍事市場行動を管理し、国民の間の社会通念を形成するに至るのである。    下、131ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここでは「政治・国家・軍事」に対する「経済」の支配が語られ、しかもそれが「国家利益」とは必ずしも一致しないことが指摘されています。軍産複合体の要がグローバル資本であることから、そういう経済支配となります。

また供給サイドのための軍事予算活用というのは、新自由主義の一派のサプライサイド・エコノミクスという言葉を想起させます。軍事ケインズ主義と言えば需要サイドと思われるのですが、ここではむしろそれが供給サイドとしての軍事資本を助けることを本旨とする(つまり国民経済の観点から需要サイドを増強するというよりも、特定の個別諸資本の援助を主要な対象とする)と見る方が現実にフィットしているわけです。軍産複合体の下でケインズ主義と新自由主義が表裏一体となり、後者の主導でよりグローバル資本奉仕的で反人民的な経済政策が貫徹されているというべきでしょう。そうした本質が看過され、軍需での雇用拡大にすがるような状況が長らく固定されれば、「国家の軍事市場行動」に期待するような「国民の間の社会通念を形成するに至る」というイデオロギー支配に結実し、あの無法なイラク侵略戦争を「国民的に」支持したような軍国主義が再現する基盤となります。

 トランプは米国グローバル資本の対外展開=国内産業空洞化による雇用流出を批判することで人気を博し、大統領に上り詰めましたが、実際にやったことは一部の企業を恫喝するだけで、経済上のオルタナティヴを提起することはできませんでした。それは富豪資本家としては当り前のことです。そこで問題の根本には手を触れず、「『国内雇用の増加』をスローガンに掲げて」、「ミリタリー・ケインジアンの手法を用いた軍事スペンディング増大による軍事関連産業の活況」(上、123ページ)を追求してきました。それが幾ばくかの雇用増につながるなら、労働者からの支持を得て、グローバル資本主義体制への本質的批判から目をそらせ、あわせて経済軍事化と実際の軍事行動に対する支持を獲得することができます。そうすると、軍産複合体にとってのトランプ政権の意義は次のようになるでしょう――雇用減少への激越だが表面的な批判と弥縫策の提示で、労働者の批判がグローバル資本主義に及ぶのを防ぎ、軍事を煽ることで、軍産複合体による政治とイデオロギーへの支配を強化する――。

 国防総省の音頭取りで始まった軍産複合体の再編統合化ですが、すでに見たように、政府主導ではなく軍需トラストと巨大銀行・機関投資家にイニシアティヴを握られました。1990年代のクリントン政権下では、反トラスト当局は航空宇宙・軍需の合併規制を大幅に緩和しました。そして「2001年から始まった第二次M&Aは、軍需企業――金融資本のイニシアで遂行され、国防総省の介入余地はなかった」(下、122ページ)という状況であり、結果として「巨大機関投資ファンドによる大手軍需企業の株式所有率は、他分野の米国ビッグビジネス(多国籍企業)よりはるかに高くな」りました(下、123ページ)。こうして軍産複合体の再編強化はその「政治」「軍事」への支配を強めるのみならず、マネー資本主義の強化に帰結しています。その国民経済への影響が問題となります。そこに資本主義の再生産過程にとってどういう意味が生じるのでしょうか。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 投資家たちの関心はあくまで株価と株価収益率である。産業企業の成長性、経済性に対するものではない。軍需・兵器生産は、国家経済の基礎にはならず、財政、産業、技術開発の観点から見れば、他の産業や国家財政への依存性・寄生性の高い産業である。軍事メカニズムの武器・サービス発注は、政策、財政、国家収入、国際情勢によって制約される。これらの武器プロジェクトは冷戦後も研究開発が続けられた、冷戦型戦略兵器が中心を占めており、兵器メーカー各社は、ペンタゴンが正式採用するか否かも未定のまま「R&Dギャンブル」として、研究開発が続けられてきた。軍産複合体は正式採用に向けてロビー活動を行ってきた。        上、122ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 上記のように、もともと軍需・兵器生産は「国家経済の基礎にはならず」、「他の産業や国家財政への依存性・寄生性の高い産業」です。その上さらに軍産複合体を形成する巨大銀行・機関投資家などは株主資本主義的行動によってそれを増長します。軍産複合体は国民経済の内実ある発展よりも、金融的利益を求めて寄生性・腐朽性を強め、そのロビー活動で経済の軍事化をさらに推し進めることになります。そこには当然、無理無体が生じます。北朝鮮危機が収束しようとしている今でも、トランプ大統領が安倍首相にイージスアショア2基(諸費用含めて6000億円になるという!)を押し売りするのも、こうした軍産複合体の行動の一環でしょう。

ところで上記引用に「投資家たちの関心はあくまで株価と株価収益率である。産業企業の成長性、経済性に対するものではない」とあります。これは、先に引用した「投資家が経営を判断する際の基準は、その企業の成長と全体的な業績であって、特定の国の政府の『国家利益』では必ずしもないのである」(下、131ページ)という記述と矛盾するように見えます。しかしこれは理論次元の違いによる比較対象の差異から生じる「見かけ上の矛盾」であって、整合的にまとめられます。後者はグローバル資本の個別的利益が特定国政府の「国家利益」と必ずしも一致しない、という問題を述べています。それに対して前者は実体経済の成長と金融的利益とが必ずしも一致しないことを述べています。両次元を併せれば、経済の健全なあり方とは――実体経済が充実することがまず大切であり、金融はそれを補助する役割を果たし、そうした中で、個別企業の成長は国民経済における社会的役割を果たすことを通じて実現されるべきであり、海外展開はあくまでその延長線上に位置づけられる――ということになります。新自由主義グローバリゼーションにおいてはそうでなく、実体経済に対して金融的利益が優先され、個別企業は国民経済より海外展開を優先する、となっています。平和産業でもこれは問題ですが、軍需産業では問題はさらに深刻になります。

 

     4)トランプ軍拡と日本経済の針路

 以上のようにトランプ政権と軍産複合体の関係を見たところで、トランプ大統領がINF全廃条約の破棄を表明したことを再び考えましょう。「朝日」社説(1023日付)は「核軍縮の破棄 歴史に逆行する愚行」として以下のように糾弾しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 …前略… 

 トランプ氏は、ロシアの側に非があると主張している。オバマ前政権の時から、ロシアは条約違反の巡航ミサイルを開発・配備していたという指摘だ。

 ロシアの兵器開発に問題があるなら、条約を盾に圧力をかけて変更を迫るのが筋だ。貴重な取り決めの性急な破棄は、ロシアのさらなる開発と配備を許す逆効果をもたらすだろう。

 INF条約は、旧ソ連の中距離ミサイルが届く西欧の安全を念頭に作られた。特定の射程を持つ地上発射型だけを対象とするのは、今の時代としては内容の狭さが目立つのも事実だ。

 トランプ氏は、中国の急速な核強化にも言及した。今では、インド、パキスタンなども核保有し、国際条約に縛られていない核開発が進んでいる。

 しかし、その問題をただす道は、対抗的な核軍拡ではない。たとえ不十分ではあっても核開発にブレーキをかけてきた既存の枠組みや条約を土台に、核兵器の役割と数量を減らす規制を拡張していくことが重要だ。

 07年にシュルツ、キッシンジャー両元米国務長官らが提唱した通り、核の力で安全を守るという抑止論は脱却するときだ。偶発的な衝突や判断ミス、核の流出のおそれ、経済的負担などを考えれば、核に依存する世界は危うい。

 米国の取るべき道は、ロシアとともに、中国なども巻き込んだ実効性のある核軍縮の枠組みづくりや信頼の醸成である。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これは確かに良識的な主張であり、「対抗的な核軍拡」や「抑止論」を排して、「実効性のある核軍縮の枠組みづくり」などに取り組むのは当然です。政治・外交問題としてはこのような捉え方がおおむね妥当でしょう。しかしトランプによる条約破棄は単に政治的な間違いというだけではなく、経済的利害から出ていることを見る必要があります。そこには軍産複合体から来る軍拡衝動、強烈なインセンティヴがあります。この状況を阻止するためには、まずは強力な政治が必要です。と言って、米国に対抗する軍事国家が必要だと言っているのではもちろんありません。核軍拡を防ぐためには、昨年国連で採択された核兵器禁止条約を高く掲げ、核軍縮への世界の声を高めて、核に固執する政権に圧力をかけ孤立させ、政権を変える(ダメなら代える)ほかありません。そのように世論を高めるためには、軍拡によらない平和な経済建設の道、新自由主義へのオルタナティヴを提起することも重要でしょう。北朝鮮危機を収束に向かわせつつあるのも、韓国を中心とする世界の世論の力であり、その中で、「核開発による戦争瀬戸際政策」という狂気から「経済発展の追求」という正気への切り替えが図られたことを想起すべきでしょう。

 強烈な経済的インセンティヴから来る軍拡を止めるには対抗する強力な政治・世論が必要――そういう文脈からすると、3000万署名を始めとする、安倍改憲・軍拡への反対運動は極めて重要です。ところで、英吉利氏の「『マネー資本主義』と日本」は、戦後日本経済について、対外関係を中心に簡潔に振り返り、近年、マネー資本主義の性格が強まったことを強調しています。英氏は「海外投資や企業の内部留保が優先され、人件費が抑制されるという構図が続くかぎり、日本経済の内発的発展は望むべくもない。これは日本資本主義の寄生的性格、あるいはマネー資本主義の限界を如実に示す事態だといってもよい」(94ページ)と喝破しています。マネー資本主義の限界は下から人民的に克服されるべきですが、軍事化の方向に持っていく力も働いています。トランプ政権のように、軍需スペンディングあるいは供給サイド強化がマネー資本主義下で敢行されるなら、日本資本主義の腐敗は救いようのないところまで進行するでしょう。「グローバル化する軍産複合体に操られる政権は、国民生活を破局に導くことにな」ります(山脇論文、下、133ページ)。こうした日本資本主義の現段階を考えると、安倍改憲・軍拡への反対運動は政治的のみならず経済の針路から言っても重要な意義を持っていると言えます。

 日本資本主義の軍事化の現局面については、冒頭に紹介した望月衣塑子氏のレポートが興味深い内容となっています(「武器輸出――もうやめたほうがいいのでは?、『世界』11月号所収)。それによれば、2014年の武器輸出解禁以降も必ずしも安倍政権の思惑通りには進んでいないことを望月氏は実感しています。たとえば世界最大の武器見本市とされるパリの「ユーロサトリ」に係わるある総合代理店の社長は「実戦経験のない日本の大型の武器が海外市場で売れる可能性は低い」(98ページ)と言います。また現場の企業や労働者への取材からも、「武器輸出につき進めない理由」として「そろばん勘定」の他に「技術流出の懸念、武器を売ることで降りかかるリスク、そして武器を売ることへの心理的な抵抗」(99ページ)があると思われるようです。ここには武器輸出に限らず武器生産そのものへの抵抗が含まれていると言えるでしょう。さらに、「欧米系の大手軍事企業幹部」の言葉からは、日本の官民において軍事化の気運がまだ弱いことがうかがえます。……「官邸やNSCは、成長戦略として武器輸出に舵を切りたいとの思いは強いのだろうが、装備庁や防衛企業は、全くそんなマインドにはなっていない。最大手の三菱重工でさえ軍需での利益は変わらず一割ほど。いま三菱重工が武器輸出に成功しても、その相手が中国の敵対国だったら、途端に中国で民間製品での輸入規制をかけられるかもしれない。武器輸出を進めても、民需で被害を受けることへのリスクの方が会社としては大きい」(106ページ)……。そもそもこれまで見てきたように、「成長戦略としての武器輸出」という安倍政権の政策そのものが大間違いなのですが、幸いにしてさしもの「安倍一強」もすべての企業を思い通りに動かすことはできないようです。この現状に即した望月氏の結論は以下のように理念的に正しく現実的でもあります。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 戦後七三年。憲法九条が根付かせてきた不戦と平和を願う日本人の思いは、一政権による政策で簡単に変えることはできまい。防衛企業の内部においても、武器輸出に対するアレルギーがあることを取材の中で感じる。

 武器輸出が進めば、世界のどこかで日本製の武器が使われ、多くの罪なき市民の命が奪われることにつながるのは明らかだ。その責任や批判を引き受けたいという人はいないのだ。

 日本の戦後の防衛産業は、アメリカや一部の欧州の国々のそれとは、歴史的にたどってきた道がまったく異なる。日本が、いまさら「不得意分野」で勝負したところで利益や成長を見込むのは難しい。

 日本の防衛産業がグローバル化の波から逃れることは難しく、国内防衛企業の再編合併はいやおうなく進むだろう。だがそれでも、安倍政権が目指すような武器の開発と輸出で利益を追求する欧米型の軍産複合体国家ではなく、これまで積み上げてきた民需を中心とした経済のありようを模索していくべきだろう。      107ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 米国などの軍産複合体から見れば、これは日本の「後進性」であり、「遅れた経済」が「遅れた政治」を規定する状況だと言えます。しかし社会進歩の側から見れば、戦後日本の平和主義のおかげでそれなりに経済の最低限の健全性が保たれていると言えます。山脇論文では、米国の軍産複合体の歩みを反面教師として見ることができました。決して経済の軍事化とマネー資本主義の不健全性をつなげてはいけません。

ベトナム戦争やイラク戦争のような米国の侵略への加担を見るだけでも、「戦後日本の平和主義」というのは、実は世間で言われているほど手放しに称えることはできません。とはいえ、自衛隊が存在していても、戦闘で「殺し殺される」ことを許さず、軍事を忌避する社会文化を保ってきたことなどを考えれば、たとえ戦後最悪の安倍政権が壊憲と軍拡を進める中でも、幸いにして今なら日本はまだ間に合います。その意味で、市民と野党の共闘で安倍政権を打倒することは政治的にも経済的にも重大な歴史的意義を持ちます。
                                 2018年10月31日




2018年12月号

          AIと社会発展

 特集「AIと人間社会」では、AI(人工知能)による希望と不安が様々に描かれています。前進的受け止めとしてはたとえば以下のようなものがあります。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 産業革命のとき、ものすごく社会が変わりましたが、ああいう状況が訪れようとしていると思います。現在のような貨幣を必要としない、労働という概念そのものが変わる社会、「誰でも必要なときに必要なものが手に入る社会」が実現するかもしれません。すでにネット空間では無料サービスが当たり前になっています。今後は住居、移動、食糧などに無料サービスが広がっていくでしょう。

  矢野智明さんに聞く「AIとロボット開発 研究はどこまで 到達と展望30ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ネット上の無料サービスは消費者に利益をもたらす一方で、所得を失うサービス提供者を出現させているので、それが他にも広がることは可能なのか、それを可能とする未来社会はどういう仕組みなのかが問題となります。しかしとにかくも現状ではネット上の無料サービスは当たり前に存在しているのだから、そこを出発点にして考えるほかないとは言えますが。

 新たな雇用の可能性と格差拡大の心配といった光と影の両面への言及もあります。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

ちょっと前には想像もしなかった職種が今後爆発的に生まれるはずです。AIによって、人間の仕事が、創造性の発揮や、人間同士のやりとりが重要なタスクにシフトしていくでしょう。AIに対しても、それを使いこなすという能力や、AIやロボットのメンテナンスという新しい仕事も発生するでしょう。現時点での常識にとらわれない多様な雇用が生まれるであろうことも、もっと言うべきだと思います。

反面、たとえば高価になるであろう自動運転車などを自家用にできる層はごく一部かもしれません。そういう先端技術による格差はいっそうひどくなることも予想されます。富の再分配やベーシックインカムといった議論も始まっておりますが、社会的、制度的な対応が必要になります。

  栗原聡さんに聞く「人工知能と人間の共生に求められるもの」17ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 栗原氏は「雇用」を前提にして、仕事の内容や格差の問題とその対策について述べているので、資本主義社会における議論です。矢野氏は「貨幣を必要としない、労働という概念そのものが変わる社会」という言い方ですから、資本主義を超えた未来社会の話のように見えます。ただし矢野氏の言はおおむね技術にかかわる内容であり、社会科学的な分析ではないので生産関係についてどう考えているのかはよくわかりません。

 両者は議論する歴史的射程を異にしているように見えながらも、ともに今日におけるAIの現実的展開をにらみながらの将来予想です。それに対して理念的見地から不破哲三氏が共産主義者としての原則論をずばり述べています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 人工知能が生産過程に取り入れられて、人間の労働力がより少なくてすむようになるということは、これまでよりもより少ない負担で同じ量の生産ができるということであり、人間社会がその活動力を他の部面により多くまわすことができる、ということですから、その手段が人工知能であろうと、他の発明であろうと、人間社会全体からいえば、歓迎すべきことのはずです。それが、雇用問題を引き起こすというやっかいな問題に見えるのは、この体制が、労働からできるだけ多くの剰余価値を引き出すことを最大の任務とする資本主義体制だからであり、資本主義の歴史的限界をあからさまにしめすことにほかなりません。

 未来社会では、労働力の負担を軽くする人工知能の活用は、社会にとって悩みの種になるどころか、労働時間の短縮をさらに進行させ、自由な時間を拡大するものとして、社会のあらゆる方面から大歓迎される快事となるでしょう。

  連載「『資本論』のなかの未来社会論」2回(『前衛』11月号所収)158ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 資本主義がいつまでも続くというのが今日の常識であり、それが無意識のうちにも所与とされているのですが、その前提を外してみると上記の未来社会像が見えてきます。経済社会とはいかなる形・どのような歴史的段階であっても、人々の社会的労働で成り立っているのだから、その負担を軽くするような科学技術的発展は本来歓迎されるはずです。そうならないのは資本主義的生産関係においては、資本の自己増殖が目的とされ、人間は、したがって人々の労働はその手段に過ぎない、という転倒が制度として固定されているためです。AIは、雇用制度(=資本・賃労働という搾取関係)の危機という形で、資本主義のそのような歴史的限界を劇的に露呈させ、資本主義的生産関係を社会主義的生産関係へと止揚する(人類の本史たる共産主義社会を実現する)必然性を意識させるのです。つまり不破氏の結論としての未来社会像は、共産主義・史的唯物論・労働価値論から必然的に導き出されます。そこで言われているのは、生産力の資本主義的発展の根底にある歴史貫通的要素を、人間が主人公となった社会の立場によって解放する――資本主義における転倒(資本が人間を支配)を再転倒して足で立たせる――のが共産主義であるということでしょう。

とはいっても、その未来への道筋を見通すのはなかなか難しいのですが、その前に、人間が生み出しながら人間を支配する疎外体である資本主義社会が、AIの登場によってその矛盾を限界まで露呈する模様を見る必要があります。それを理論的に考察したのが野口義直氏の「AIと資本主義の未来」です。それに対して、資本主義の今日的現実に即してAIによる労働過程の変化を詳しく捉えようとしたのが友寄英隆氏の「AIの進化と労働過程の研究 コンピュータリゼーションのもとでの労働の変化をどうみるのか」(上)です。友寄氏の労作は来月号の(下)で完結し、おそらくそこで労働過程の変化の詳細な分析だけでなく、その社会的意義についても展開されるであろうから、それに期待するとして、ここでは措き、以下では野口氏の論稿について見ます。

野口氏は従来の機械制大工業の発展と異なるAIの画期的意義を捉え、併せてそれが賃労働の成立基盤を危うくすることを解明しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 AIとロボットは、人間の労働力を全面的に(肉体的能力だけでなく精神的能力も)代替することを目指しているという点で、これまでの機械とは異質である。そして、資本は、機械と人間を、生産手段と労働力を、不変資本と可変資本を、価値に対象化された死んだ労働と価値を生み出す生きている労働とを競争させ、限界までコストダウンを追求し、利潤を極大化しようとする存在である。またそのことを個別資本間の相互競争によって強制されている。AIとロボットは、社会の隅々まで人間の労働を機械によって代替しようとする技術的可能性を資本に与えている。資本主義社会では人口の大部分が賃労働で生きていかざるをえない。AIとロボットの普及によって雇用は確保できるのか、そもそも賃労働は成立するのか。資本主義社会の持続可能性についての根本的な疑問を人々に抱かせることになる。                36ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この叙述の中からまず資本主義一般に共通することを見ます。生産過程における機械と人間の対立は、イギリス19世紀=産業革命期のラッダイト運動の昔からあることです。両者はしばしば本来的対立関係にあるかのように思われていますが、その本質は、上記のように資本が利潤追求のために両者を競争させる、という点に求められます。人間が機械を使うという本源的関係が、資本主義的生産過程では人間が主人公から転落し、資本が主人公として両者を使うという形に疎外されているのです。生産過程における「機械と人間」という眼前の事実=現象を本質的に分析すると、それは歴史貫通的な労働過程の次元では「生産手段と労働力」として、資本主義的生産の価値増殖過程の次元では「不変資本と可変資本」として捉えられます。「機械と人間の対立」という見方は、後者の次元つまり資本主義的生産過程という、人類史的スケールで見ればある特定の時期における対立に過ぎないものを、歴史貫通的な素材的関係から生じるかのように見て宿命的なものとして錯誤しているのです。これは物神性による錯覚です。さらに資本主義社会では、機械と人間の競争の結果、機械によって代替されてしまった人間=労働者(それは人口の大部分である)が雇用から排除されることで生きていけなくなります。

 資本主義一般の事情としてはそういうことです。それに対して、従来の資本主義は「新たな生活様式と需要を生み出すような使用価値と産業も生み出し、新たに雇用を創出して失業の問題を解決」し「空前の物質的豊かさと雇用(賃労働)を創り出してき」ました(同前)。このような形で資本主義的矛盾を回避することの問題点については後述しますが、ここでは、AIが主導する今後の資本主義の特殊性を見ます。

上記のように、AIは精神的能力をも含めて全面的に人間の労働力を代替する点が従来の資本主義下の技術とは違います。したがって「工場内部、製造業内部にとどまらない機械による人間労働の置き換えが進行し」「流通や金融等の第三次産業の仕事をAIが代替していく」(35ページ)ことになります。すると「現在、AIやロボットが人間から雇用を奪いつつあるのは、これまで雇用を吸収してきた第三次産業である」から「これは、先進資本主義国にとって深刻な事態である」(同前)と言えます。こうしてAIは「雇用は確保できるのか、そもそも賃労働は成立するのか」といった「資本主義社会の持続可能性についての根本的な疑問」を提起するところまで資本主義の矛盾を激化させます。

そもそも第一次産業・第二次産業から第三次産業へ雇用がシフトする「サービス経済化」が進むということは、物質的には人々の生活がそれなりの水準に達して、農林水産業や製造業の拡大が緩やかになり、生活の多様化の中で対人サービスなどがより拡大していることを反映しています(もちろんそれは生産力視点から言えることであって、生産関係視点では、資本主義社会においては格差と貧困が進行しており、多くの人々にとって、生活の豊かさはいまだ実現されずに可能性にとどまっていることが重大問題ではありますが)。このことは、資本主義のみならず歴史貫通的意味でも経済の成熟化が進行しているということであり、従来のように新たな使用価値と産業を、したがって(資本主義経済下では)雇用を生み出し続けることが難しくなっていきます。AIはそれを加速し、賃労働=資本主義経済の持続可能性に本格的に疑問を投げかけます。

 賃労働の危機は、資本主義経済における生産手段の私的所有から生じます。資本主義経済では生産手段を資本が所有し、労働者が所有しないため、生産の成果は実際に働く人々には十分に届かないし、解雇されれば路頭に迷います。これが労働者諸個人にとって死活的問題なのは当然ですが、それのみならず資本主義経済そのものの停滞に帰結することを野口氏は指摘します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

資本主義という特殊な生産関係が社会の生産力発展の制限、桎梏となるというマルクスの命題がよみがえる。人口の大多数が生産手段を所有せず、労働力を販売して生活の糧を得る賃労働者である限り、生産力発展は失業者を増大させ賃金を低下させて消費を減らす。人類の大部分は消費能力を失い、技術革新のもたらす巨大な生産力を十分に享受できない。生産力の面から見れば、人間は労働から解放される条件はあるのに、AIとロボットによって駆逐されつつある残された賃金労働に人々が殺到するという悲劇が続く。このことは資本にとっても自己矛盾である。AIとロボットがもたらす失業者の増大と賃金低下は消費を制限し、資本主義経済を停滞させる。これらの否定的傾向は、AIとロボットの登場をまたずとも、すでに起きていることである。AIや汎用ロボットは、資本主義の矛盾を徹底的に激化させるだろう。          3637ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 資本主義的生産関係では、生産力発展に伴う「生産と消費の矛盾」の発現がつきものですが、上記のようにAI導入による生産力発展はそれを徹底的に激化させるのです。これまで以上に本格的に資本主義の止揚が課題となります。またITが雇用を奪うのであれば、様々に雇用を創出してきた従来の資本主義の手法は通用しなくなります。その状況で資本主義が続けば失業で生活できなくなる労働者にとっては地獄が出現することになり、そういう意味でも資本主義的生産関係の止揚が課題として登ってきます。

 当面の分かりやすい解決策として提出されているのがベーシックインカムです。野口氏はこれを、消費拡大の方策、つまり消費制限という資本主義の矛盾への対策として紹介しています(37ページ)が、労働者個人にとっては生存権の保障という意味を持ちます。もちろんここには財源問題があり、資本主義的生産関係下では、階級闘争によって労働が資本から再分配を勝ち取る必要があります(同前)。再分配というのは、政治力を背景にした経済政策の問題となりますが、そうではなく安定的な経済制度とするには資本主義的生産関係を止揚しなければなりません。つまり「AIとロボットがもたらす高度な生産力を社会の全員が享受し、苦役としての労働から人間を解放し、労働時間を短縮して余暇や自由時間を拡大するには、生産手段と生産物を社会の共有財産、社会的共通資本として、資本主義という経済関係を転換することが条件とな」ります(同前)。

 AIが主導する高度な生産力を土台に、生産手段を社会的所有とした共同社会の経済像はどういうものでしょうか。商品=貨幣関係がなくなることは、少なくとも近未来にはないでしょう。人々は失業や過少労働で生活できなくなるのではなく、短時間労働で十分な消費財を分配されます。それはつまり、生産力発展によって消費財の価値が大いに下がり、少ない貨幣所得(資本主義時代と同じく「賃金」と呼ばれるだろうが)で購入して生活することができるということでしょう。生産は協同組合とか自主管理企業などで労働者によって決定され、実施されます。生産の目的は剰余価値追求(搾取)ではなく、人々の使用価値の充足であり、市場の動向を見て調節されます。分配の基準としての「賃金」も同様です。生産手段生産部門では消費財生産部門からの要請に応える形で生産されます。前者が優先的に発展して後者を含めた再生産構造が規定される、というような逆立ちは是正されます。生活優先です。軍需生産はもちろん廃止されます。平和で民主的な生活がすべての基礎であり、普遍的人権が保障されます。

 稚拙な空想のようなものはこの辺でやめておきます。ところで生産と分配の基準になる生産物(商品)の価値がどう決まるのかも問題です。「マルクスのクーゲルマンへの手紙(1868711日付)」によれば、「いろいろな欲望量に対応する諸生産物の量が社会的総労働のいろいろな量的に規定された量を必要とするということ」が歴史貫通的に指摘され、「生産物の交換価値」とは市場経済において「一定の割合での労働の分割が実現される形態」だとされます。ここでは、投下労働量によって価値が決まることが、歴史貫通的背景を指摘しつつ、市場経済での現象形態として説明されています。

 ところが185758年時点の資本論草稿としての『経済学批判要綱』では、高度な科学技術の適用による巨大な生産力発展を念頭に、「直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の〔尺度〕であることを、やめるし、またやめざるをえない」(『マルクス資本論草稿集』A、大月書店、490ページ)とも述べています。もしそうであれば、AIなどの適用による高度な生産力発展による投下労働の劇的な減少は、生産物価値の低下ではなくなります。何か別の指標を付して諸使用価値はそれぞれの用途に応じて分配されることになるのでしょうか。それにしても、クーゲルマンへの手紙での指摘そのものは、たとえ科学技術の高度な発展と適用を受けても依然として当てはまるようにも思えます。『資本論』第3部第48章にあるように、未来社会における労働時間と自由時間との新たな展開にあっても、その時代をも含めて「すべての社会的形態において」「必然性の王国」は頑として存在するのですから。

 またしても抽象的な議論に終始し、しかも迷宮にはまり込んでしまいましたのでこの辺で終了します。現実的展開に腰を据えることは他日を期したいと思いますが、ここでほんの若干のとっかかりとして世界に君臨するIT企業であるアマゾンをめぐる問題を瞥見します。

 野口氏によれば「アマゾンもAIやロボットを活用することに熱心であり、AI(スマートスピーカーやタブレット)による消費者への商品提案、ロボットによる倉庫や物流の省人化を進めてい」ます(34ページ)。ここからはいかにも未来志向のIT企業らしい印象が残りますが、実はアマゾンの足下で行なわれていることは、製造業も驚くような実に古典的・典型的な強搾取です。アマゾンの脱法的な税逃れとか、市場支配力にものを言わせた同業者つぶしなどはよく知られていますが、倉庫の現場の過酷労働もひどいものです。AIやロボットは出てきません。

 「しんぶん赤旗」の連載「資本主義の病巣 君臨するアマゾン」729日〜818日)によれば、小田原物流センターでは請負業者が雇う非正規労働者か派遣労働者が商品配送の実務を担っています。そこは1年通し「夏夏夏春」と言われる猛暑の中、体を壊す人や急死する人が続出しています。昼休みは1時間から45分に、中休みは30分から15分に短縮されています。食堂まで10分かかるのでエレベーターにも食堂にもトイレにも行列ができ、移動と食事だけで昼休みは終わり、体を休める暇がありません。広い倉庫を120キロメートル以上は歩く感覚で、60キログラムを超す重い荷物もあります。ここは「アウシュビッツ」とも「地獄」とも言われています。時給は最低賃金に張り付き、経験を経ても上がりません。この連載では、その他にもあらゆる点で悪辣なグローバル資本・アマゾンの実態を告発しています。

 資本主義的雇用の問題をにらみながらとはいえ、AIによる労働からの解放という文脈の中で、最先端のIT企業を扱えば、その社会的役割は別としても、少なくとも現場労働に関してはいかにも軽快なイメージを抱きがちです。しかしアマゾンの場合、実に過酷で悲惨な現場労働の実態の今が浮かび上がります。このように少なくとも現状では、イメージと現実に壮大なギャップがあり、それが将来どうなっていくにしろ、この現実から出発する他ありません。資本主義経済を考えるとき、どんなに最先端の事象を追うにしても、搾取の現場を見据えることを忘れてはならない、という自戒の念を持ちました。

 

<補遺>雇用創出による資本主義延命の歴史的意味

 前出のように、従来の資本主義は「新たな生活様式と需要を生み出すような使用価値と産業も生み出し、新たに雇用を創出して失業の問題を解決」し「空前の物質的豊かさと雇用(賃労働)を創り出してき」ました(野口論文、36ページ)。それはただひたすらいいことだったと評価すべきでしょうか。ここで別の見方を提出してみます。生産力発展が労働時間を短縮し自由な生活時間を生み出す、という未来社会論の観点(歴史貫通的視点でもある)からすれば、資本主義がこのような雇用創出によって矛盾を回避し生き延びてきたことは、本来あるべき「労働時間短縮と自由時間拡大」の機会を奪ってきたと評価できます。資本主義下では、生産力発展によって生み出された潜在的な自由時間は、剰余価値追求のための労働時間に転化されました。人類史が進むべき、余裕ある生活を楽しむ中で、多くの人々が多彩な能力を発揮して創造的な社会をつくっていく可能性が資本主義によって閉ざされました。資本によって人間が馬車馬のごとく働かされ続けることが当然で、その中にこそ諸個人の個性と創造性が発揮される、という錯覚が社会を覆ってきました。

これはスポーツにおける間違った精神主義による悪循環に似ています。非科学的で過酷なトレーニングを耐え抜いた者だけが、「結果」を出し、指導者に成り上がって、後輩たちに同様のトレーニングを強い、それに対する生き残りだけがまたスポーツ界に君臨する、という悪循環です。この過程に無批判的な者から見れば、こういうやり方こそが限られた有望な選手を見出す効率的な手法だということになります。しかしこれでは間違ったトレーニングによって、潜在的に有望な選手が次々と脱落していきます。豊饒な土壌にわざわざ毒をまいて、それでも生き残った作物だけを収穫しているようなものです。そういう生き残りの優秀さというのは歪んでいるのではないか。

しかしさすがにスポーツにおいては、間違った精神主義は徐々に克服されつつあるようです。おそらくそれはその害悪が認識されてきたことと科学的なスポーツ観が浸透してきたことによるのでしょう。たとえばつい先日、1120日にユニセフと日本ユニセフ協会『子どもの権利とスポーツの原則』を発表しました。これは、世界各地で暴力的な指導や子どもの心身の発達に配慮しない過度なトレーニングなど、スポーツが子どもに負の影響を与えるような問題が生じていることに鑑み、「子どもの権利条約」に基づいて、スポーツが真に子どもの健全な成長を支え子どもの権利促進に寄与する社会となるよう、スポーツ団体、指導者、企業、学校、家庭を含め、スポーツに関わるすべての関係者のための行動指針を示しています。このように人間の豊かな可能性を広く捉え、暴力的・一面的な指導を克服していくことが一人ひとりの発達を保障し、結果として社会発展にとっても重要でしょう。

こうしたスポーツをめぐる事情は資本主義の止揚という課題にも参考となるように思います。ソ連・東欧などの20世紀社会主義体制の崩壊を受けて資本主義美化論が常識となりました。社会変革を目指す人々の中でも資本主義の生命力を無批判に前提する傾向がないでしょうか。確かに古い理論では資本主義をリアルに見る目が足りずに安易に革命を語っていたところがあるでしょう。しかしその反動で資本主義美化に同調する結果となっていないかが問題です。

確かに資本主義が新たな使用価値と産業とそれに伴う雇用を生み出して未曾有の繁栄を実現してきたのは事実です。しかしそれは潜在的自由時間を奪って、強いられた長い労働時間の中ばかりに個性と創造性を発揮するという視野狭窄に帰結しています。過酷な環境の中で生き残った経営者だけが「経済界」に君臨し、人間らしい人々が脱落していったのではないか。人類は自由時間の拡大とともに、本来もっと余裕を持っておおらかに発展する可能性を持っていたのではないか。資本主義的効率の基準から外れる様々な個性を活かす道があったのではないか。どのような人をも等しく尊重する社会をつくることができたのではないか。精神主義のスポーツが誤って暴力的に狭く選手を選抜したように、資本主義は潜在的可能性を持った多くの人々を切り捨ててきたのではないか。

そう考えると、憲法の言う平等とか個人の尊厳というのは、もともとはブルジョア革命やそれを準備した啓蒙思想にその起源をもつでしょうが、むしろ資本主義を射抜いて未来社会にその射程が延びていると言えます。格差と貧困の拡大によって、資本主義の害悪が認識されつつある中で、未来社会論は別の道の光によってこれまでの資本主義の歩みを反省する基準を与えるという意味を持っています。それは歴史貫通的視点を併せ持つことで、資本主義の転倒性を明らかにし、人間の足で立った経済社会のあり方への想像力を喚起しています。

 新しい使用価値・産業そして雇用の創出という資本主義の道、「潜在的自由時間」を「剰余価値を生む労働時間」に転化するという道の一つの象徴として、「消費社会」を挙げることができます。この社会の住人は、長時間過酷労働を担う労働者です。彼は労働者としては、「神様」である顧客に過剰サービスを提供します。時には悪質クレーマーをも相手にしなければなりません。逆に消費者の立場になれば過剰サービスを要求するのですが、それは必ずしも悪意から来るのではなく、長時間労働で余裕がなく、何事も自分でやるのでなく、顧客となって、業者にやってもらえることは全部やってもらいたいからです。「テマヒマかけずに金かける」というのがここでの行動様式であり、ゆとりのない受動的生活化ならびに生活の希薄化が進行しています。このように労働者としても生活者・消費者としても劣悪な状況が相互規定的に悪循環するのが消費社会であり、その回転軸としてあるのが自由時間を切縮めた長時間労働です。たとえばコンビニの24時間営業では、過剰労働と過剰消費が表裏一体となり、併せて過剰なエネルギー消費もあり、それは人間と社会・自然の浪費構造の象徴となっています。「雇用創出による資本主義の成功」はそのように批判されるべきではないでしょうか。

 

 

          徴用工問題の本質

 1030日、韓国大法院(最高裁)は、日本がアジア・太平洋地域を侵略した太平洋戦争中に、「徴用工として日本で強制的に働かされた」として、韓国人4人が新日鉄住金に損害賠償を求めた裁判で、賠償を命じる判決を言い渡しました(「しんぶん赤旗」112日付)。本判決に対して安倍首相は、元徴用工の個人賠償請求権は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決している」とした上で、本判決は「国際法に照らしてあり得ない判断」であり、「毅然として対応していく」と述べています。日本のほとんどのメディアはこれに無批判に追随し、判決とそれを尊重するとした韓国政府とを非難し、日韓対立を煽っています。1111日付の朝刊に載った『週刊ポスト』の広告には以下のような見出しが躍っています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 これは「ヘイト」ではなく「正論」である。

 幼稚な韓国とどう付き合えと言うのか?

 怒る、裏切る、増長する、居直る、約束を守らない

 「文在寅が辞めるまで解決は無理。対症療法しかない」(佐藤優)

 …後略… 

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 相変わらずウンザリする低俗な内容満載の中でも、とりわけこの大特集記事は世界に日本人の恥をさらすヘイト企画以外のナニモノでもありません。安倍政権のホンネはこんなものであり、新聞・テレビはそろいもそろってもう少し「上品」に合唱しています。主要メディアのこの状況に対して「『国益』がからむと、日本のジャーナリズムがいかにもろく、弱いかを端的に示す現象」、「唯々諾々と政府の言い分を伝えるメディアの劣化の具合は深刻だ」という声がかろうじてネット上にあります(「憲法メディアフォーラム・ホームページ」119日付)。もっとも、見てはいないけれども、ネット上ではネトウヨがヘイトで大騒ぎなのでしょうが…。主要メディアを中心に韓国バッシングによる国民的ヘイトが煽られ、安倍政権の悪政から目をそらす格好の材料となっています。

 問題の本質は、日本共産党や「元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明」(115日発表)の言うように、人権問題です。国家対立ではありません。日韓請求権協定によっても、個人の請求権は消滅せず、というのが日韓双方の政府・最高裁のこれまでの一致点です。国家間の請求権と個人の請求権とをごちゃごちゃにせず、その他に立場の違いがあっても最低限この一致点から出発して「被害者の名誉と尊厳を回復するための具体的措置を日韓両国で話し合って見いだしていくという態度が大事ではないでしょうか」(「しんぶん赤旗」112日付)という共産党・志位委員長の見解がきわめて理性的かつ現実的です。

 ところがこの大切な一致点に目を閉ざし、逆に「個人賠償請求権は解決済み」と嘘を強弁し、韓国バッシングに走る安倍政権とメディアの対応は異常であり、被害者諸個人の人権救済問題を国家対立にすり替えるものです。それでは、せっかく一致点に基づく解決の方向があるのに、新たに違いをつくり上げてそれをぶち壊してしまいます。この状況下、名古屋・三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会共同代表の高橋信氏は「原告らの被害の深刻さを受け止め、個人の請求権は誰にも奪うことのできないという近代法理にのっとった判決を心から歓迎します。これに対し、加害の事実を一顧だにしない日本政府の受け止めと、大方のマスメディアの論調に強く抗議したい」と述べています(「しんぶん赤旗」114日付)。

 日本のジャーナリズムが弱い「国益」とは何でしょうか。徴用工問題に見る限り、それは侵略戦争や植民地支配に無反省な国家の沽券を守るということであり、少なくとも「国民益」ではありません。かつて日本帝国主義国家は戦争遂行のために朝鮮人を強制動員し酷使し暴行も加えました。この恥ずべき行為を認めることは日本国家の不名誉に当たり、諸外国から軽蔑されることで「国益」を損なうということでしょう。だからまともにはそれを認めない。それはまさに被害者たる元徴用工の人権回復の道を閉ざすことだから、その国家の沽券は彼らの人権を蹂躙し続けることで保たれることになります。日本政府は今後「元徴用工」を「朝鮮半島出身労働者」と呼ぶことにしています。まるで強制動員がなかったかのような歴史の改ざんです。日本軍「慰安婦」を「売春婦」と呼んで問題をなきものにしようとした右翼勢力と同様の姿勢です。だから、日本国民の人権にも敵対的である可能性が高いと言えます。事実、この間、安倍政権のやってきたことと言えば、立憲主義破壊の下で日本の民主主義と人権を破壊する策動であり続けました。人権問題を国家対立にすり替えるような政府は、他国への非難でナショナリズムを煽ると同時に、自国民の人権を蹂躙します。そういう内外政策は戦争への道です。だから他国攻撃で国家対立が煽られているときにこそ、国境を超える人権の普遍性に着目して誰が犠牲にされているのかを見出し、自分も犠牲にされるのではないかという想像力を働かせることが必要です。

 国家の沽券を最優先し、「徴用工」や「慰安婦」の人権回復に努力しない政府は戦前・戦中への無反省を今日にも引きずっています。入管法改定に見られる外国人労働者の人権侵害への加担、元財務事務次官のセクハラ問題に象徴されるセクハラ放置社会日本の姿は、「徴用工」「慰安婦」への人権侵害の延長線上にあると言えるでしょう。古臭い国家の沽券などにこだわるのでなく、恥ずべき過去を直視し、率直に認め、反省し償うことこそ、真の意味で国際社会での日本国家への今後の信頼を回復する道です。まあそのような姿勢は、現政権とは対極的な政府――自国民の人権を尊重するまともな政府でなければできないことではありますが…。

 拙文では、今日における徴用工問題の政治的意味について主に書いており、法的内容についてはごく簡単なことだけにとどめています。それについては一部メディアでの専門家の発言などを参考にしたいと思います。さらに、今日の政治的意味に直結するものとしては、歴史認識の問題があります。日本近現代史研究者の山田朗氏は、二つの問題を指摘しています(「しんぶん赤旗」1129日付)。一つは日本の植民地支配に関する記憶の継承が戦争のそれに比べて非常に希薄だということです。それで、戦時中の強制連行・強制労働の実態が人々にまったく伝えられていません。もう一つは、明治以降、「脱亜入欧」の国家戦略が国民意識を形成し、「アジア諸国を対等・平等のものと考えず、近隣諸国を自分より下に見る目というのは、知らず知らずのうちに現代においてもすりこまれているように感じ」られる、という重大問題です。この指摘は日ごろの私の思いを的確に表してくれたものとして強く共感できます。こういう状況はメディアも規定しており、山田氏の以下の情勢認識は現代日本への警告としてしっかり受け止める必要があります。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

今回、マスコミの反応などを見ても、日本政府と軌を一にして、最初から「韓国はけしからん」という論調です。歴史の事実を直視しない問題と同時に、近隣アジアの人たちを下に見る目線・価値観が非常に影響していると思います。こういう問題では、マスコミは固まってしまう。もし、戦争になったら、いっせいに政府の応援団になりかねない素地が見えて、不安ですね。 

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ---- 

以上のように、韓国バッシングの排外主義が流通している日本の社会意識状況を見ると、考えるべき課題が浮かんできます。これまで安倍政権の高支持率と世論の右傾化について、その客観的条件として格差・貧困の増大や小選挙区制とかメディア状況などいろいろなものが指摘されてきました。それも大切なのですが、むしろそういう状況下で人々が飛びつく先としてのナショナリズムについて勉強してみる必要があるのではないか、とこの頃は思っています。ナショナリズムは「自分の生まれ育った土地、所属する民族や国家への本能的ともいえる自然な執着に根ざしたもの」であるだけに「最も原始的」かつ「最も強力なイデオロギーです」(梅田正己『日本ナショナリズムの歴史 1 「神国思想」の展開と明治維新、高文研、2017年、1ページ)。人々を動かすこの主観的条件を捉えることが重要です。

 

    <お知らせ>

 安倍政治と世論の動向によっては、危険な状況を招きかねない問題として、きちんと勉強しておくべきだということで、名古屋北法律事務所の友の会「暮らしと法律を結ぶホウネット」が徴用工問題の学習会を企画しました。

 

 日時:20181212日(水)1830分より 

 場所:ワイワイルーム(北医療生協本部) 

     名古屋市北区上飯田北町1-20-2 すまいるハートビル2階  

      ・市バス「上飯田バスターミナル」下車3分

      ・地下鉄「上飯田」下車、2番出口3分

 講師:長谷川一裕弁護士(三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟原告弁護団)

 

 

          ボタンを下から掛けてみよう

ある日のこと、とある喫茶店のママが老婦人の顧客にアドヴァイスしていた。老人はおぼつかない手でボタンを掛けようとしている。そこで、「ボタンは下から掛けると掛け違いがないよ」と。あっ、これは政治・経済にも当てはまる箴言ではないか…。構造的にも、歴史的にも。

 構造的、というのはたとえば経済のトリクルダウン理論の誤り。大資本がもうければ、やがては庶民にもおこぼれが滴り落ちてくる、と。利益は上から下へ浸透する、と。嘘八百だった。もうける者はもっともうけて、貧乏人はもっと貧しくなった。格差は開くばかり。やはり庶民の懐を直接温める経済政策が必要なんだ。ボトムアップでこそ経済全体は活性化する。「下から」が正しい。

 歴史的、というのはたとえば戦後のサンフランシスコ単独講和と日米安保条約の締結。そして自衛隊という戦力の創出へ。日本人の多数派は、戦後の出発点で憲法にそむいて軍事同盟と戦力に頼る「軍事力による平和」という考えに染まってしまって、「軍事力によらない平和」の道を捨ててしまったために、以後、戦後史では、ベトナムやイラクなどへのアメリカの侵略に加担し、沖縄など米軍基地周辺では理不尽な被害が絶えない状況を許してしまった(もちろん憲法が変わらずあり、それに基づく少なからぬ人々の運動が対抗してきたから、事態はある程度の線に留まってきた。だからといって「戦後の平和国家日本」などと言う言葉を無条件にノーテンキに使うことは決してできない)。これも上(米日支配層)の誤りが下(世界と日本の人々)を害するということであり、初めの誤りが後の行方を悪く規定してしまうということだ。つまり、「上から下へ」「初めから後へ」悪の玉突き。ならば、下から、後から直すほかない。

何につけても初めのボタンを掛け違えたのを直すのは大変だ。間違えた上のほうは自覚がないから直さない。下から直すときには特別の困難がある。

最下段のずれたボタンを直すとすぐ上のボタンを掛けるところがなくなり、その余ったボタンの辺りの服がダブつく。そもそもその本当の原因は最上段のボタン(初めのボタン)の掛け違いなのだが、最下段のボタンを直したことが原因のように見える。

そうすると直すのを止めろという圧力がかかる(上のものが圧力をかける)。しかしそれに抗して逆に上の方へと一つひとつ順番に掛け直していくことで、最後には最上段の掛け違いを直して根本的解決に至る。負けず諦めずに取り組めばそれができる。初めから最上段のボタンを直せばすぐ済むのだが、そうならないから余計な苦労をしなければならない。

いったい何が言いたいんだ、となるだろうが、具体的には、沖縄の米軍基地問題を思い浮かべている。最初のそして最上段のかけ違いは日米軍事同盟の存在。それにしたがって下へ順々にボタンをかけていく(日米軍事同盟に沿った政策展開)うちはちゃんとはまっていくから初めの間違いに気づかない。それだけが整合的だ、と思いこむ。これが「本土」の大方の意識。最下段の沖縄ではボタンが外れてしまうから、間違いが分かる。そこでは多くの人々が「初め」が、「上」が間違っていたと分かる。しかし下から直そうとすると、「政策の整合性」を信じきっている頭には破壊行為だと映る。

問題の根本的解決は原点に気づくこと。気づかないのなら下から直すことで波風をあえて立て、中ほどにいる人々に原点を見ることを促すほかない。「本土」の(思想的・政策的に)端くれにいる私たちから見れば、辺野古の海と陸で闘っている人々はそういうことをしてくださっているのではないかと思える。
                                 2018年10月31日


                 月刊『経済』の感想・目次に戻る

MENUに戻る