月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2017年7月号~12月号)。 |
2017年7月号
批判的社会認識へ
新聞などに登場する政治学者の議論では、政治は様々な利害調整の複雑な過程であり、妥協であるので単純な白黒がつくものではない、という見解がよく目につきます。これは一方では、複雑な現実の中に「単純な偽の争点とそれに伴う表面的な悪玉」をしつらえる扇情的なポピュリズムに対する批判になっていますが、他方では政治を階級闘争の視点から見ることを否定する議論にもなっています。政治が利害調整と妥協の複雑な過程であることは一般論としてはその通りであり、歴史貫通的に妥当しますが、それはかなり抽象的な次元で言えることであって、私たちが直面する政治的課題はもっと具体的な次元で、階級支配社会のもたらす様々な弊害として現れてきます。それを批判し克服する過程を抜きにいきなり一般論だけを主張して「理性的」な調整を説くのは、結局支配層の現体制秩序の弁護論になります。利害調整や妥協はどのような政治体制においても必要になります。だからこそ、どのような政治体制においてそれをするのかということを先に問う必要があるのです。その問いを発しないのは、暗黙裡に現体制を前提にしているからです。それは支配層の立場であり、その立場からイデオロギー闘争という階級闘争をしていることになります。
経済においても理性的に見える言説が同様な弊に陥っていないかに注意する必要があります。経済の場合には、さらに生産力視点と生産関係視点とを重ね合わせてみる必要があります。俗論は前者だけで形成され後者がないので、現体制擁護=支配層の立場になります。逆に体制批判の立場ではしばしば後者だけに傾いて前者が軽視されることで、社会発展のダイナミズムを看過することがあります。
支配層の立場から被支配層の苦しみを所与のものとして前提し、あるいはその原因を被支配層の自己責任に帰し、最良の場合でも、せいぜいそうした社会的矛盾を経済成長によって買い取るのが生産力主義です。逆に被支配層の立場からその苦しみの原因を生産関係に見出し告発する場合に、その解決策を探るのに、生産力発展のあり方を直視し熟考することが不可欠になります。社会と生活の変化とそれに応じた変革主体形成のあり方を考慮することが必要です。それらが欠如すると生産関係主義になり、最悪の場合、反生産力主義的保守反動に陥ります。図式的な言い方になりますが、生産力主義と生産関係主義との両面批判を意識しながら、生産力視点と生産関係視点とを重ね合わせることが必要です。
EU経済統合を問う
「自由化・グローバル化時代の負の遺産」としての「所得格差・移民大量流入・ポピュリズム(大衆扇動主義)」について、その土台から客観的かつ冷静に捉えることは当然経済学の任務であり、そうした矛盾の世界的焦点であるEUを対象に分析したのが、田中素香氏の「EU経済と統合の現在をどうみるか」です(15ページ)。論文は第二次世界大戦後以来の欧州経済の歩みを振り返り、21世紀におけるEU経済統合の困難について、特にポスト・リーマン危機期の構造的格差問題を様々な角度から分析しつつ、その原因を探り、解決策を提示しています。
EUの中東欧への拡大が、西欧での脱工業化・金融化・サービス化の下で進みました。製造業の衰退は労働条件悪化を伴います。それにより実体経済上は、西欧グローバル資本が中東欧の低賃金地域へ進出し、逆に彼の地の低賃金労働者が西欧に移民として押し寄せました。いずれにせよ西欧グローバル資本は低賃金労働を利用して搾取強化の果実を得ることができました。金融面では「ユーロ危機の犯人は西欧大銀行で」(16ページ)あり、南欧諸国の危機に責任があります。このように、格差と貧困の拡大・東欧と西欧の格差・ドイツと南欧の格差・移民問題などが、今日のポピュリズム跋扈に象徴される社会的混乱の原因であることを、田中論文は明らかにしています。さらに言えば、そこからはドイツの独り勝ちに代表される西欧グローバル資本の行動が問題の根源にあることもうかがえます。ならば現状の困難への対応としては、新自由主義グローバリゼーションへの規制が中心に据えられるべきだと考えられます。
しかし論文の基調はそのような階級的視点ではなく、一般的制度論とでもいうべき「現実主義的」政策論となっています。EU経済の抱える構造的な格差問題への対処は経済統合の再構築の強化・加速化に求められます。「先行統合によって財政同盟を組織し、失業・格差問題に集合的に対応する態勢を早く整えるべきであろう」(25ページ)として、経済統合の意義が次のように力説されます。
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経済の改善を背景にEU統合が進み、人権・民主主義・域内自由移動などその基本的価値を守っていくことは、ポピュリズム政治により民主主義が動揺し、地政学的脅威も増しているポスト・リーマン危機期の世界経済においてますます重要な意義をもつ。
多数国で両替なしに使用できるユーロの便利さはユーロ圏諸国の市民の高い支持を得ているし、産業界にとって21世紀の世界市場競争に不可欠の通貨になっている。ユーロ離脱を主張していたルペンも決選投票直前にそれをひるがえした。だが、ユーロ制度が政治に揺さぶられる現状況は、通貨統合を半完成に放置している政治家の怠慢への警告とみることもできる。 25ページ
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ここからは、確かにEU統合が単に美しい理念であるに留まらず、人々の生活と産業の必要性に根ざした構想でもあることが分かります。しかし様々な構造的格差を生み出しているグローバル資本の行動とそれが支配するEUのあり方を変えることなしには、優れた制度的枠組みもEUの困難に対する原因療法とはならず対症療法に留まるように思われます。たとえばギリシャの左派政権が緊縮政策に反乱を起こしたとき、EUとIMFが潰してしまいました。このときの「ユーロ圏の連帯性の欠如、ドイツの非情」(16ページ)の実体は本質的には欧州人民の民主的意思ではなく、グローバル資本の意思だというべきでしょう。
また、引用冒頭の「経済の改善」とは「17年から経済成長率は高まっており、状況は改善に向かう可能性がある」(24ページ)という指摘を受けて言われています。もちろん経済成長は必要ですが、もっぱらそれに期待するなら、格差と貧困を生み出す経済のあり方を覆い隠すことになるでしょう。それは生産力主義的偏向です。まず問われるべきは、人々の生活と労働の改善を基礎にしているものかどうか、という経済成長のあり方です。
論文では、労資協調のドイツが労働分配率を引き下げており、これに対して階級闘争型のフランス・イタリアは労働分配率をドイツほどには下げておらず、社会保障を高水準に維持している、と指摘しています。そして競争力においてドイツが仏伊を圧倒しており、ユーロの為替相場はドイツにとってユーロ安であるとも指摘しています。そうした中で、成長率・失業率・国民の政府に対する満足度などで、国別の格差が大きいこともEUの対処すべき問題となっています(25ページ)。
ここで想起されるのが、沖縄経済研究者の来間泰男氏の言葉です。「人間のやさしさと経済力の強さの両立する社会が理想だと思うが、このような社会はどこにも実現していない」(「米軍基地と沖縄経済」、『経済』1996年1月号所収、116ページ)。これは直接的には、沖縄人の優しさやおおらかさがその裏面ではのんびりしたルーズさにつながることを念頭に言われているのですが、一般論としては、資本主義と社会主義との対抗を含めて経済上の様々な相克を問題提起しています。今日では、新自由主義グローバリゼーション下で「経済力の強さ」を第一に追求した結果、EUに限らず世界の人々に苦難をもたらしているのですから、「人間のやさしさ」の観点から資本の暴走に歯止めをかけることが必要です。少なくともドイツ型を前提にEU経済統合を進めるわけにはいきません。
もちろん田中論文もそのようなことを言ってはおらず、ドイツと南欧の格差の間にあって、経済的に中間的位置づけを与えられるフランスに仲介の役割が期待されています。これはどうなのでしょうか。一見すると理解できる見解ですが、実際にはマクロン新大統領は労働規制緩和などの新自由主義的政策を掲げており、いかにも体制側的調整に終わってしまいそうです。片岡大右氏は、ミッテラン以来の社会党の変節・新自由主義化がオランド政権で徹底し、そうした社会党政治の本質を純粋に継承するのがマクロン氏であると指摘しており、社会状況と政策の変遷を踏まえたその分析はきわめて説得力があります(「予告された幻滅の記録 オランド政権の歴史的位置とマクロン政権の行方」、『世界』7月号所収)。そうすると「人権・民主主義・域内自由移動などその基本的価値を守っていく」ということが偽善的タテマエで、グローバル資本の利潤追求の隠れ蓑になってしまいます。
そういったEU支配層を打破する動きが少しずつ出てき始めています。田中論文では英国のEU離脱問題についても丁寧に扱っており、その原因として、脱工業化・金融化の中でのEU統合・移民流入にともなって、世代・地域・階級で分断され貧困化も進む模様が分析されています。離脱派は、そこに生じる諸矛盾と不安を巧みにEU統合のせいにして、離脱で生活がよくなると売り込むことに成功しました(21ページ)。EU離脱交渉と、メイ首相が断行した総選挙について、総選挙圧勝で安定した政府が現実主義的離脱方針に向かうためのものとして論文は評価しています。論文執筆時点では、世論調査で保守党が労働党を大きくリードしていたので、そういう評価が順当だったのでしょう。しかし実際の選挙では保守党は後退して過半数を割り、北アイルランドの政党との連立でかろうじて政権を維持する状況です。
労働党は予想に反して前進しました。「15年の総選挙以降労働党は分裂状態に陥り、解党の危機に直面している」(22ページ)と評された労働党が、若者を中心に教育政策などが支持され猛追したのです(ブレイディみかこ・欧州季評 政治に目覚めた庶民たち 「人への投資」が心摑んだ 「朝日」6月22日付)。党員大衆に支持されて党首選を勝ち抜いた左派のコービン氏は、右寄りの議員が多い中で党内基盤が憂慮されていたのですが、総選挙ではその左派的政策が有権者、特に若者に支持されました。
ブレイディみかこ氏のこのコラムに対しては、単に1945年総選挙における労働党の勝利の教訓に戻っただけで、今日的な生産のあり方の変化を考えずに古い再分配政策を主張しているだけだ、という批判が予想されます。問題は、生産のあり方の変化を生産力主義的に捉えるのか、生産関係視点を含めて捉えるのかにあります。どのような新しい装いを取ろうとも、「底辺への競争」を所与の前提にするような議論はやめねばなりません。その上で、再分配政策だけに留まらず、新自由主義グローバリゼーションを超える、内需循環型の地域経済・国民経済の新たなあり方を提示していく課題があります。人々の生活と労働の改善を推進力とするボトムアップ型の経済をつくり上げることが、EU経済統合だけでなく、あらゆる経済の原則として確立される必要があります。あまりにも一般論でありますが…。
国際間の経済格差の原因
ギリシャにチプラス左翼政権を誕生させることになった財政危機と(EUとIMFに押し付けられた)緊縮政策をめぐっては、ドイツとギリシャをアリとキリギリスに例える議論がかまびすしくなりました。そこにはEUにおける南北問題ともいえるものがあります。それはイギリス・フランス等北西欧と南欧=ラテン西欧(ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガル)との格差をどう捉えるかという問題になります。これは今日の世界経済における国際的格差の一部であり、その全体像を捉えようとしたのが、笛木昭氏の「何が世界各国・地域間の巨大格差をもたらしたか 市民革命と独立自営農確立の必要な通過点と今日的課題」です。それは、働き者かどうかという俗論や人種・民族・宗教の違い、あるいは地理的条件などによる生産力の格差といった議論ではなく、「市民(民主主義)革命と独立自営の自作農制確立の有無や強弱」(83ページ)に主な原因を求めるものです。いわば生産関係視点を強調する点が特徴です。
私は経済史の知識がないので、今日の国際間の格差については、漠然と近代化の過程が分岐点になっていると思ってきました。封建制ないし前近代社会から近代資本制社会への移行のあり方が、英仏のように下から自発的なものか、独露日のように外圧をにらみつつ上からのものか、さもなくば帝国主義的侵略によって植民地・従属国化されてしまったかによって、今日の政治経済の性格が大きく規定されていると捉えてきたのです。笛木論文は民主主義革命と独立自営農の形成というより限定された指標を導入することで、大胆に世界各地域の歴史と現状認識を割り切っています。その指標にかなうのは、「北西欧・北米・オージー(豪州・ニュージーランド)」とまとめられ、後はその他大勢となります。その他大勢は「ラテン西欧・ラテンアメリカ(中南米)」、「アジア(日本以外)・中東・アフリカ」、「東欧旧社会主義国」、「日本」に分けられます。EU分析との関係でいえば、この見方では、通常まず西欧としてまとめられる地域が北西欧とラテン西欧という形に区別されるので、EUにおける南北問題を捉える視点を提供しています。従来型でこれに近いのは、アングロサクソン対ラテンという民族的見方ですが、笛木論文の指標による「北西欧・北米・オージー(豪州・ニュージーランド)」対「ラテン西欧・ラテンアメリカ(中南米)」という整理はより経済学的だと言えます。
ただしEUの中心は圧倒的にドイツですので、この指標は微妙にずれています。西欧の近代化の過程では、早くから中央集権化を進めて、下からの資本主義化を成し遂げた英仏と、中央集権化が遅れ、上からの資本主義化で追い上げた独(伊)との対比が決定的です。ドイツがラテン西欧でないのは明白ですが、だからといって民主主義革命と独立自営農の形成という笛木論文の北西欧の指標にも当てはまりません。歴史的指標には当てはまらないけれども今日の経済的位置として、ドイツが北西欧であることははっきりしています。このずれをどう考えるかは一つの問題です。
資本主義以降の経済発展・歴史発展については、各国・地域の発展を孤立的に捉えるだけでなく、世界システムとして、あるいは諸国間の相互影響の総体として捉えることも必要となるでしょう。たとえばマルクス「経済学批判序言」の史的唯物論の公式を機械的に当てはめて、東欧社会主義国について「市民社会・資本主義の歴史的役割を発揮し得ないまま早産的に歴史の発展段階を取り違えた」(86ページ)という評価は正しいとは思えません。第一次世界大戦という帝国主義戦争がロシア革命を生み出したことは、世界史として資本主義から社会主義への移行の段階に入ったことを表わしています。ソ連・東欧の社会主義政権がその誤りによって崩壊してもそれは変わりません。今日の世界の資本主義が人々にもたらしている多くの災厄は、それがすでに潜在的に旧体制であることを示しており、どのように困難が多くても今日が世界史的に移行期であると考えられます。
民主主義革命と独立自営農の形成を成し遂げた北西欧を社会発展の基準とする視点を、今日の先進資本主義国と発展途上国との関係に機械的に当てはめると、後者は前者を模範とすべし、という観点になりがちですが、それはいかがなものかという気もします。各国内の民主主義と国際関係の民主主義とは必ずしもパラレルであるとは言えません。むしろ逆転していることが多い。発展途上国は先進資本主義国を模範としつつも、反面教師ともすることで新しい民主主義を発展させる可能性も秘めています。核兵器禁止条約をめぐる国際情勢はその一つであるように思えます。それがもたらす平和の思想は各国内(特に先進資本主義国)での軍事優先の思想に反省を迫る可能性もあります。本来なら先進的憲法を持つ日本がその先頭に立つ必要があるのですが…。
グローバル資本の支配に迫る
経済を考える出発点は、あくまで諸個人の生活と労働の視点です。しかしそれを貫徹するためには世界経済を捉えなければなりません。生産力の今日的発展と世界展開を捉えることを抜きにして個人の尊厳は守れません。現代資本主義の最大の問題は格差と貧困の拡大です。その対策として所得の再分配がまず目に付きます。それは財政に関わり、その世界的大問題はグローバル資本の税逃れです。それによって社会保障財源が不足し、大衆課税が強行され、格差と貧困はますます拡大します。
「しんぶん赤旗」の杉本恒如記者の連載「グローバル経済の迷宮・アップルの舞台裏」(2月15日~3月1日付)はアップルの税逃れの仕組みを詳細に明らかにしています。それはもう驚くばかりに徹底的で狡猾極まりないものです。そして世界各国の徴税の仕組みはグローバル資本の税逃れにまったく追いついていません。現状はグローバル資本の仕掛ける「底辺への競争」に各国が躍らされているので、対策は「競争から協調へ」です。「各国の協調で競争に歯止めをかければ、多国籍企業に課税する国家主権が回復します。各国の協調ですべての海外子会社の利益や納税額を公開させれば、多国籍企業の税逃れはあらわになります」(3月1日付)。課税の考え方としてはユニタリー・タックス(合算課税)が推奨されます。「子会社が独立しているという架空の前提を取り除き、多国籍企業グループを単一の企業として取り扱う方式です。グループ全体の所得を合算し、売り上げや資産や雇用者数など一定の基準に応じて各国に配分するのです」(2月24日付)。
所得再分配は資本主義の矛盾に対する当面の対策ですが、生産と雇用のあり方にもメスを入れる必要があります。この連載の終わりの方では、アップルが低賃金活用と雇用責任逃れに生産を外部委託し、世界的に下請け企業を競わせていることが報じられます。税逃れだけでなく、生産と雇用でも「底辺への競争」を組織しているのです。「格差と貧困」というと各個人の競争を思い浮かべる向きもあるでしょうが、そんなものは表面的で見えやすい現象であり、本質は世界的な搾取システムなのです。「労働者同士、下請け同士、国家同士を国際的に競わせ、漁夫の利を得るのが富裕層です。賃金や税金の企業負担を軽くすれば株主配当が増えるからです」(2月28日付)。国際協力団体オックスファムの報告書「99%のための経済」によれば、賃金などのコストの極小化に特に成功しているのがアップルです。「アイフォーンの価格(10年)のうち、賃金コストが占めるのはわずか5.3%だという米国研究者の推計があるのです。価格を構成する最大の部分はアップル自身の利益であり、58.5%に達するといいます。賃金の10倍以上です」(同前)。
杉本記者の引き続く連載「グローバル経済の迷宮・海外工場の事件簿」(6月13日~24日付)では、生産・雇用の問題により踏み込んでいます。たとえばユニクロが生産委託した中国の工場では、最低賃金かつ過労死ライン並みの長時間労働で、夏の気温は38度に達し、大量に綿ぼこりが舞う最悪の労働環境でした(6月14日付)。
グローバル資本は現地生産・現地販売を原則としません。低賃金の「最適地」を拠点にして他国に輸出します(6月20日付)。ユニクロのような衣料品産業だけでなく、電機産業でも自社工場を放棄して外部委託が進んでいます。
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問題は、外部委託によって多国籍企業が強大な権力を握ることです。力の源泉は、委託する工場や国を自由に選べる点にあります。
「買い手(多国籍企業)は世界のあちこちにある下請け工場のコストと能力を比較し、発注先の工場と国を変更する」
自社の工場でないから、コストが比較的高いとみれば簡単に切り捨てられるのです。
6月21日付
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以前は所有が支配力の源泉でしたが、今は契約で支配するというのです。大量の商品を買い取る契約を結ぶことで、海外の製造業者を自社に依存させるということです(6月20日付)。こうして低賃金・低コストを求めて委託契約を自由に結んだり破棄したりします。労働災害があっても、生産を委託しているグローバル資本は雇用責任を免れます。ここには現代資本主義の寄生性と腐朽性の深化を見ることができます。
しかしグローバル資本の横暴はグローバルな反撃によって包囲されつつあります。ユニクロの委託工場の労働実態を暴いたのは、香港のNGOの学生による潜入調査でした。ユニクロを傘下に持つファーストリテイリングは海外工場の名称や所在地をひた隠しにしていましたが、国際人権NGOが(有名衣料ブランド72社についての)報告書を発表するに及んで国際的評価の失墜を恐れてそれを公開しました(6月13日付)。
国連人権理事会は11年に「ビジネスと人権に関する指導原則」を採択しました。しかしこれには法的拘束力がありませんので、国連はそれがある多国籍企業規制の条約づくりに着手しています。ILOも16年の総会で多国籍企業の下での労働条件を正面から議題に乗せました。ILOに多国籍企業規制の基準づくりを求めている最大の勢力は欧米の労働組合ですが、発展途上国の政府はそれに反対しません。多国籍企業のふるまいを良く思っていないのです(6月24日付)。
以上はまだ生産方法の内部にまで立ち入って、現代資本主義の生産力構造を把握するものではありませんが、グローバル資本が世界経済を支配する仕組みの一端に触れるものです。格差と貧困など、私たちが日々直面する資本主義経済の矛盾に際して、まず当面する対策としての所得再分配の問題、それに直結する税収の問題から入って、グローバル資本の生産・雇用への支配方式にまでメスを入れることは最重要課題です。新自由主義のイデオロギーと政策が支配する現代資本主義に対して、事実上の現状追認ではなく、かといってロマン主義的逃避でもなく、その生産力と生産関係の全容に迫って変革の展望を探ることをずっと追求していかねばなりません。
2017年6月30日
2017年8月号
アベノミクスの全般的破綻と「もり・かけ問題」
「もり・かけ問題」がさく裂し、東京都議選での自民党惨敗もあり、さしもの安倍内閣の高支持率も急落してきました。私は以前から、政策への支持がないのに内閣支持率が高い状態をアベ・パラドクスとして問題にしてきました。この事態は、そういう矛盾を解消するものではありますが、アベ・パラドクスが解明されたわけではありません。したがって、安倍暴走を支えたものを総合的に分析する必要性は依然としてあります。それは一つには、支持率回復の可能性(さすがにそれは少ないだろうが)とか安倍亜流政権の登場に備えるという意味があります。二つ目には、日本社会を根底から変えるためにはどこを直せばいいか、という問題設定を立ててそれに答える意味があります。安倍暴走は、安倍晋三個人に由来するだけでなく、むしろそれを許す日本社会の歪みによって可能となったのだから、そこを根本的に考える必要があります。
アベ・パラドクス解明の一つの分野として、日本経済の状況とそこでの経済政策のあり方の検討は不可欠です。もはやアベノミクス幻想はおおかた消えていますが、今なお安倍首相が有効求人倍率の上昇などを誇っていることに象徴される一定の「成功」の意味を解明することは必要でしょう。小西一雄氏の「アベノミクス4年の虚と実 実感なき景気拡大と『異次元』の負の遺産」の主要テーマは異次元金融緩和政策の危険性ですが、実体経済の問題を含む「アベノミクスの全般的破綻」(62ページ)についても簡潔にまとめられています。
首相は「景気拡張期間の長さ」や「有効求人倍率の高さ」を「成果」(62ページ)としています。前者については「好況の実感なき、だらだらとした景気拡張」(63ページ)というのが万人(少なくとも庶民)の共通した実感でしょう。今回の「好景気」は、高度成長期やバブル期と違って売上高は長期停滞基調で設備投資も低水準で推移しています。その内実を見ると、個人消費が低迷し、設備投資の中身も能力増強投資ではなく省力化投資であり、輸出は数量が伸びずに円安効果による増収にとどまっています(64ページ)。こうした経済全体の停滞基調の中でも搾取強化によって大企業は空前の利潤を獲得し、金融資産を蓄積しています。これはグローバル資本の立場からは「好景気」を謳歌していることになりますが、国民経済的には明らかに停滞の悪循環に陥っています。
安倍政権期、実質賃金が下がり、労働分配率も「歴史的な低水準」になっています(65ページ)。本来ならば、逆説的ですが、賃金が下がるときに普通、労働分配率は上がります。なぜなら賃金(V)が低下するときには、付加価値(価値生産物、V+M)はそれ以上の割合で縮小しているので、労働分配率<V/(V+M)>は上がるからです。それは不況期であり、好況期には、賃金が上がる以上に付加価値が増大するので、賃金は上昇し労働分配率は下降します。このように賃金と労働分配率の動きは逆相関になるのが通常の姿です。その前提として次のことがあります。景気動向に対してM(剰余価値、利潤)は大きく反応するのに対して、V(可変資本、賃金)は相対的に小さく反応するので、賃金(V)よりも付加価値(V+M)の方が大きく反応します。企業経営において、教科書的には人件費が固定費として捉えられていることはそれを現わしています。業績が悪化したからといって、むやみやたらと人件費をカットするわけにはいかないはずだったのです。ところが非正規化などを通じて、人件費をあたかも流動費のように扱い、しかも上げる方は少なく下げる方はどんどん行なうという非対称的な経営がまかり通っています。賃金の下方硬直性を打破すると称して、上方硬直性を押し付けています。
そうした企業行動の下で、「好景気」を誇る安倍政権期には、付加価値(その合計は国民所得≒GDP)が停滞基調でありながら、非正規化などを通じて賃金をもっと抑制してきたので、賃金も労働分配率もともに下がっていると考えられます。付加価値が変わらない停滞経済下で搾取強化によって賃金が下落し労働分配率も下向するモデルは以下のように示せます。前期(不等号の左辺)から今期(同右辺)への搾取強化分をαとすると、次のようになります。
V/(V+M) > (V-α)/{(V-α)+(M+α)} = (V-α)/(V+M)
資本主義経済のインセンティヴであり、国民経済の起動力でもあるはず(今はそうなっていないのだが)の利潤の状況によって景気は判断されます。しかしおおかた一貫して賃金が下がり個人消費も縮小するのが基調である今日の日本経済は、利潤を生産拡大ではなく、搾取強化によって確保するという悪循環に陥っています。したがって景気が力強さを欠き、労働者・人民にとって、「好景気」がまったく実感されないのは当然です。
閑話休題。安倍首相が最も自慢する有効求人倍率の上昇について、小西論文では、アベノミクスの成果ではなく「人口減少社会の到来と雇用格差の拡大」(65ページ)の結果として説明しています。そもそも有効求人倍率が高いのが単純にいいことだとばかりは言えない現実があるのです。統計数値には絶対値と比率があります。比率についてはそれを算出する前提にある分母と分子の状況をそれぞれに見ないと、経済的意味がはっきりしないことがあります。普通、有効求人倍率が高いのは、経済が好調で求人数が多くなっているからだ、と思われます。だからいいことだ、と。しかし今日の状況では、一方では人口減少と雇用格差(劣悪な雇用)が原因で求職者が減っていることが重要な要因となっています。他方、求人の増加についても、劣悪な労働条件で「離職率の高い産業では繰り返し求人を続けている」(66ページ)結果です。そうした産業では「非正規雇用が多い上、低賃金のため労働力の移動が激しく、慢性的な労働力不足に陥っています。このことが有効求人倍率を引き上げています。雇用情勢が良くなっているわけではありません」(「しんぶん赤旗」7月8日付)。また人口減少の経済統計上の意味について、友寄英隆氏は次のように述べています(同7月25日付)。
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人口減少の時代には、経済統計の意味も、かつての人口過剰の時代とは、正反対の経済状態を表すことがあるのです。たとえば、「有効求人倍率」は、ハローワークに申し込まれている求職者数(分母)にたいする求人数(分子)の割合を示す指標です。しかし、今日のように労働力人口が減少している時代には、かつてのように「有効求人倍率」の上昇が好景気の状態を示す指標としての意味は薄れてきています。分子の求人者数にたいして、分母の求職者数が減っているために、有効求人倍率が大きくなっているからです。
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「この間有効求人倍率が上昇を続け、完全失業率が低下をつづけているにもかかわらず、実質賃金が下がり、労働分配率も低下してきた」(小西論文、65ページ)というパラドクスは、人口減少の下でも、雇用と労働条件の悪化を打破できずに国民経済の悪循環に陥っている状況がもたらしています。一見、労働力市場で労働側有利であるかのような状況でも、労働運動が弱体で、資本が経済停滞を振りかざして搾取強化を貫徹する中では、賃金と労働分配率の同時下落を示す上記モデルの枠内に収まってしまうのです。
アベノミクスの破綻は他にも見られます。「しんぶん赤旗」7月27日付は以下のように報じています(「アベノミクス4年半決算 自慢の『果実』しぼみ家計消費は連続減」)。2016年度の税収は当初予算を下回り、15年度よりも減りました。法人税・所得税・消費税とも減収です。経済停滞と法人減税により、これまで「アベノミクスの果実」として誇ってきた税収も減ったのです。にもかかわらず日経平均株価が2万円前後を維持しているのは、公的年金積立金や日銀による株の買い入れなどの「株価つり上げ」政策によります。それで富裕層の富は急増しました。17年3月期決算の上場企業で1億円以上の報酬を得た役員は457人、報酬額の合計は937億円で、いずれも過去最高を更新しました。それに対して普通の人々は実質賃金が下がり、所得が低迷し、消費支出は減少しており、格差と貧困が拡大しています。
安倍政権の始めにはアベノミクス幻想がありました。しかし庶民にその「恩恵」が回ってくることはなく、幻滅に変わりつつあります。しかし政権は「3本の矢」から「新3本の矢」へ、あるいは「1億総活躍社会」とか「働き方改革」等々、切れ目なく美辞麗句のスローガンを並べ、連日メディアに大量に流すことで、いかにも政府が人々の生活と労働の改善のため懸案に取り組んでいるかのような「印象操作」を施して、反人民的な政策の本質を覆い隠しています。また、経済状況が厳しくなればなったで、「これまでの政策は良くなかったにしても、今は政府・与党の景気対策に期待するしかない。野党は批判ばかりで実際の力にはならない」として、現政権にすがる人々も多くなります。そこで、アベノミクスは大企業本位で、そもそも人々の利益に反する本質を持ち、首相を先頭に一部の経済統計値を持ち出して「成果」を喧伝しているけれども、実績を見れば以上のようにまったく破綻していることを分かりやすく説明することが必要です。つまり「政策が不人気にもかかわらず、内閣支持率が高い(高かった)」というアベ・パラドクスは、経済政策においては、スローガンの連打による目くらましと与党のアドヴァンテージによるところがあるのだから、アベノミクスの本質と実態の暴露、さらにはオルタナティヴの提起により、生活と労働の改善の展望を指し示すことがパラドクス解体のささやかな一歩となります。
その際に、「もり・かけ問題」にも見られる政治の私物化が安倍政権の本質であり、経済政策にもそれが貫徹していることを絡めることが有効でしょう。岡田知弘氏の「『もり・かけ問題』から見えてきたもの」はきわめて簡潔に問題の本質を剔抉しています。加計学園問題においては、嘘と隠蔽で逃げ切りを図った政権に対して、前川喜平前文部科学省事務次官の告発が事態を一変させました。首相の意向(とそれへの忖度)によって行政が歪められたことが白日の下にさらされたのです。それを軸に問題を見ると、論文の結論は腹に落ちます。
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「もり・かけ問題」は、いったい国や地方自治体は、誰のためにあるのか、また公務員は誰のために働いているのかといった根本問題を人々に問いかけた。そして、少数の利害関係者の私益ではなく、主権者である国民、住民の公益を第一にした国、地方自治体こそ求められていることをわかりやすく示したといえよう。
16ページ
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ただし論文を読んだ人には「わかりやすく示」されていますが、連日メディアが伝える多くの錯綜した情報にさらされている人々にとっては、事態は雑然として焦点を結びにくいのではないでしょうか。
問題の実体として最も重要なのは「安倍政権下において日本経団連をはじめとする財界と政界、幹部官僚の癒着、抱合体制が強固に構築されていること」(14ページ)です。そのもとで「政治主導」の美名で「官邸を取り巻く一部の政治家と官僚による行政の私物化」(13ページ)が進みました。それを支えるのが、「第二次安倍政権発足後の2014年に設置された内閣人事局制度」であり、それによって「安倍政権は各省庁の審議官級以上の約600人の幹部人事を一元的に管理」(同前)しています。その帰結として「官邸の恣意的な人的支配は、国家公務員の士気を低下させ、離職を促し、公益性を損なう事態にまで立ち至っている」(同前)のです。実際、森友学園事件の国会審議では、財務省の佐川宣寿理財局長がかたくなに嘘と隠蔽の答弁に終始して安倍政権擁護に挺身しました。その結果、国税庁長官に出世する、というような人事を見せられて、どれだけの公務員がなおまじめに働く気になるだろうか。
「加計学園問題で一躍注目されるようになった国家戦略特区も、これまで述べてきた政官財抱合体制のなかで生み出された制度である」(15ページ)ことも問題の肝です。メディアは今だに新自由主義イデオロギーの色眼鏡からしか事態を見られないので、国家戦略特区そのものは(少なくともその理念においては)「規制緩和」「構造改革」という「正義」だという感覚で報じています。しかし実際には、新自由主義的な御用学者、経営者、元官僚らが主導するこの制度下で、たとえばローソン、オリックス等「利害関係者からなる意思決定の仕組み」によって「特定の企業や病院、学園の『成長』のためにドリルで『穴』をあけたものとなってい」ます(16ページ)。それが行政の歪みを生み出す土壌になっているのです。
従来の構造改革特区が地方自治体からの提案によるボトムアップ型だったのに対して、国家戦略特区は政府主導のトップダウン型であり、その中心にいるのは竹中平蔵氏など総理・官邸のお友達民間人です。郭洋春(カク・ヤンチュン)立教大学教授は完膚なきまでにこの制度を批判しています(「しんぶん赤旗」7月30日付)。
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例えば、国家戦略特区で規制緩和された家事支援外国人受入事業の事業者には竹中氏のパナソが認定されています。これは利益相反にあたるのではないでしょうか。
ワーキンググループの民間人たちも自分たちで規制緩和を提案して自分たちで審査しています。しかも、新自由主義者ばかりですから自分たちの思いつきやビジネスに関わる提案もほとんど認められています。国民から選挙で選ばれたわけでもないわずか9人の民間人が社会的な規制の存廃に大きな影響を与えているのです。しかも、彼らは自分たちの決定によって起きた問題に責任を負う必要もないのです。
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新自由主義のお題目は、国家介入を排して小さな政府をつくることですが、この新自由主義者たちは国家戦略特区に寄生して自分たちの利潤を拡大しているのであり、新自由主義イデオロギーの欺瞞性の面目躍如というところでしょうか。したがってその「規制緩和」によって生み出されるのは「自由な市場」ではなく、一部大資本による利潤の草刈り場となるでしょう。新自由主義は現象的には市場原理主義だけれども、本質は資本原理主義だという私見はこのようなことを指します。
同記事で郭氏は、政府の中間評価によっても、国家戦略特区がほとんど経済効果を上げていないことを指摘しています。さらに外資導入という狙いについては実績ゼロであり、そもそも先進国で特区による外資導入という政策そのものが間違いである、とも主張しています。外資導入を無理に実現しようとすれば、労働法制などでとんでもない規制緩和が必要となるからです。最後に、安倍首相の得意げな看板文句に対して痛快な批判が下されます。
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安倍首相の言う「岩盤規制」とは何か。政府の新自由主義路線の中でも、医療・農業・教育・雇用などの分野で緩和されずにきた規制です。なぜ残ってきたのか。それらの分野が国民の生活や生命そのものに直接かかわる領域だからです。首相はそれを守ろうとしている国民を悪い集団と描くために、まさに「印象操作」として「岩盤規制」という言葉を使っている。しかし、そこを放棄したら政府なんていらないじゃないですか。命にかかわる本当に大事な分野こそ政府と自治体が守らなければいけない最後のとりでだと私は考えます。
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先述のように、厳しい経済情勢を背景に、経済政策におけるアベ・パラドクスは「今までの政策はあまりよくないかもしれないけれど、やっぱり今後とも頼るのは政府・与党。それが手っ取り早い」というような気分の上に成立しているように思います。そこで「もり・かけ問題」のような行政私物化の根本を突き詰めて、安倍政権の醜悪な実態をとことん明らかにすることを突破口に、アベノミクスの反人民的本質を全面的に分かりやすく提示することがこの先も重要になってくるでしょう。政治情勢がどのように展開しても、新自由主義と「政官財抱合体制」との対決は政治変革の課題としてあり続けるからです。
再び小西論文に戻ります。アベノミクスの全般的破綻の解明では、さらに異次元金融緩和政策の危険性が警告され、楽観論が厳しく批判されます。たとえば、政府負債が巨額でも政府保有資産を差し引けば大したことはない、という議論に対しては、「資金繰りの話と貸借対照表の資産・負債のバランスの問題とは、性格の異なる問題なのである」(67ページ)とされます。資産を売却して資金繰りに充てるのは難しいのです。たとえば政府資産である外貨準備の中心をなす「米国債を売却すれば米国債価格は暴落して国際金融不安を惹起し、日本の保有資産自体の毀損を招くことにな」ります(同前)。
そして現在進行している問題は、野放図な財政支出による悪性インフレというよりも、「日銀が債務超過の状態に陥り、日銀信用が失墜するという可能性」(68ページ)です。マイナス金利などを含む異次元の金融緩和はいずれ「正常化」しなければなりませんが、その「出口戦略」の目途が立たない現在の状況で「日銀の収益性の悪化は、すでに現実になってい」ます(70ページ)。将来、日銀が債務超過に陥った場合、「機動的な金融政策を行うことができるのか」あるいは「国債を買い支えることができるのか」(71・72ページ)が問題になるというのです。したがって異次元の金融緩和をできるだけ早く終わらせ「正常化」に向かわねばなりませんが、それは「日本経済と国民生活に」「大きな痛みを伴うことは覚悟せざるをえない」(74ページ)と結論づけられているのが非常に気になります。
様々な学習会などでいつも国家財政が問題となり、社会保障の財源が確保できるのか、ということにまず関心が集まりますが、日本の財政・金融はそもそも持続可能なのか、という疑問も聞かれるようになりました。そこでたとえば、この論文で紹介されている河村小百合氏の『中央銀行は持ちこたえられるか――忍び寄る『経済敗戦』の足音』(集英社新書、2016年11月)などを読んで、日銀信用の失墜の問題を詳しく勉強する必要がありそうです。ただしこの本は消費税の増税など体制的な立場のようですから、そうした問題についてはまた考えなければならないでしょう。他にも、梅原英治氏が書評で代田純氏の『日本国債の膨張と崩壊 日本の財政金融政策』(文眞堂、2017年2月)を採り上げています。これは日本型財政金融政策の基本から国債市場崩壊の可能性まで論じているということなので、必読のように思われます。ただし、勉強すべきことは増えていくばかりで、「志ある三流(=四流)」の能力の限界を超えていることに茫然となります。
ところで、財政・金融の問題に関連して、日本経済の持続性に対する無責任な楽観論への警鐘という意味では、「朝日」編集委員の原真人氏の「東京・銀座の路線価、最高額を更新 『官製バブル』危機の予兆」(7月10日付)も参考になります。筆者は典型的な支配層エリートの使命感による「上から視角」の論説にいつも終始しており、この記事もその基調を踏襲していますが、今回は傾聴に値します。今日の不動産バブルは「一見好調に見えても強い実需は伴わず、内実はもろい」と指摘して次のように結論しています。
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バブルは渦中にいるときは心地よく、それと気づきにくい。だがいったん崩壊すれば、多くの国民生活にまで深刻な影響が及ぶ危険な毒をふくんでいる。
資産バブルをあおって景気を底上げしようという安倍政権と日銀の政策は、そういう危ういギャンブルだ。少なくとも大本である異次元緩和を一刻も早く手じまいする必要がある。
…中略…
官製バブルをふくらませる流れが逆回転を始めたとき、かつての悪夢は再びやってくる。
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問題はそういう責任を誰に取らせるかであり、人々の生活犠牲を当然視しないことが肝要です。
反動的「改革」とネオリベラル社会化
憲法運動に取り組んでいると、平和・自由権・社会権などの分野で多くの課題があります。あれもこれもやらなければ、と大変な状況ですが、実は諸課題は「国の形」を反動的に変える闘いから派生している、と統一的に捉えることができます。その象徴が、今なお改憲運動の先頭に立つ中曽根康弘元首相です。中曽根政権が強行した国鉄の分割民営化は何より国労つぶしであり、総評・社会党をつぶして改憲へという大戦略を描いていました。「朝日」6月23日付の「国鉄改革とは何だったのか」のリードには「国鉄改革は反対する労働者を容赦なく切り捨てる激痛を伴った。強権的な手法は、いまの政治につながり、その痛みは社会に広まっていないか」とあります。そのような民主主義や労働権の破壊、そして9条を核心とする改憲へ、という狙いを追えば、「国鉄改革」なるものが憲法の平和・自由権・社会権の全面的破壊への里程標であったことが分かります。
同記事で元国労闘争団全国連絡会議議長の神宮義秋氏が以下のように語っています。
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――国鉄改革から30年、非正規労働者が増え、ブラック企業の社会問題化、格差社会の出現など、社会全体が大きく変化しました。
「もはや、『国労みたいに』と口に出すまでもなく『クビになったらどうする!』というのが現実で、労働者が権利や安全の確保を言い出しづらい。労組に入るメリットを感じられないという人も多く、組合の組織率も低下が著しい状況が続いています」
「ただ、労働者が団結して経営側と交渉していかなければ、ますます労働環境は悪化します。政府や経営側は自分たちの意に沿う形で憲法も労働組合も変えていこうという腹づもりで国労をつぶし、ここまできたと思います。闘争を続けた私たちから見ると、国の形を変える総仕上げの段階に入ったように感じます。やりたい放題を許さないためにも、労働組合の意義もそうですが、政府と国民との関係を多くの人にいま一度考え直してもらいたいですね」
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確かに支配層が何十年もの先を見通して極めて意識的に上からの反動的「改革」を行なってきたのですが、その結果として、下からの意識「改革」とでも言うべき状況、つまり権利意識の低下や自粛・忖度が空気になっている状況が蔓延しています。同記事のリードに国鉄分割民営化について「ストがなくなったと好意的に受け止められる」などという文言があります。新聞記者がそんな認識なのか、と思いますが、今日の社会意識としてはそれが普通ではあります。上からの「改革」で、非正規労働・ブラック企業・格差拡大など社会の劣化が進みましたが、それに応じて下からの社会意識の劣化も進んだということです。それは単に強権的「改革」によってだけもたらされたのではなく、今日の資本主義がネオリベラル社会とでもいうべきものを生み出していることからも説明されねばなりません。平山洋介氏は、ピエール・ダルドーとクリスチャン・ラヴァルの見解を次のように紹介しています。――新自由主義のイデオロギーは、対抗勢力との対決の段階を終え、社会のすみずみにすでに浸透・定着し、「ネオリベラル社会」を生み出しており、そこでは、「競争と企業家精神」を社会原理とし、経済・政策の市場化と金融化を進めることが「自然化」
資本主義社会を表面的に市場の次元で見るならば、諸個人の原子論的競争社会ですが、その本質は資本主義的搾取を核心とする階級対立の社会です。ばらばらにされた諸個人は前者の眼しか持たず、階級的に組織されることで後者の視点を持つことができます。労働運動の後退は新自由主義イデオロギーを「自然化」します。「ストがなくなったと好意的に受け止められ」ている日本社会はもちろんそうした「自然化」が高度に進んでいます。それは非正規労働・ブラック企業・格差拡大などを抱える劣化した社会であり、当然人間的反発が起こっていますが、まだ「自然」に打ち勝つほどではありません。新自由主義政策を強権的に進める安倍政権の重要な基盤がここにあります。それを土台から掘り崩す連帯を草の根からどう組織していくかが問われます。
北朝鮮問題
アベノミクス幻想が消えつつある中で、安倍政権への支持の中心を担うのは、中国脅威論や北朝鮮危機が喧伝される下でのコワモテ政権への「期待」でしょうか。特に北朝鮮が最近、頻繁にミサイル実験などを繰り返していることが反射的に安倍政権支持につながる部分があるようです。6月号の感想の「安倍政権打倒へ平和の視点を」で紹介したように、渡辺治氏によれば、世論は安倍政権の軍事政策を必ずしも支持していないけれども、中国や北朝鮮の脅威を考えると、政府の推進する日米同盟強化のほかないか、という「仕方のない支持」になっています。北朝鮮への見方については、そこでは小沢隆一氏の論文などを参考に多少書きました。
その後、浅井基文氏の「安倍政権と『北朝鮮脅威論』」(「全国商工新聞」6月19日付)、河野洋平氏の「東アジアの危機をどう克服するか」(『世界』7月号所収)、和田春樹氏の「北朝鮮危機と平和国家日本の平和外交」(同前)などを読みました。いずれも安倍政権の軍事圧力一本槍の政策を批判し、外交的解決を推奨しています。日本の世論は自己中心的で(それはどの国も似たようなものだろうが)、タカ派的対応を支持しがちですが、北朝鮮の立場と状況をそれなりに理解することを通じて、事態の客観的把握に努めるなら平和外交による解決への支持が増えるでしょう。
今や政権の危機を迎えている安倍首相は、北朝鮮のミサイル実験などに対する日本国民の反発に、支持回復の望みを託しているのではないでしょうか。日本の戦後の歩みを踏まえて、平和をどのように形成していくかというオルタナティヴを世論に提起していくことが、そのような政治状況の中で極めて重要です。それのみならず、改憲問題を含めて中長期的にも重視していくべき課題です。そこで以下のように学習会を企画しました。できれば毎月開催して年内にテキストを読み終えたいと思っています。
◎平和構想学習会(仮称)第1回
日時 2017年8月5日(土) 14時から17時(予定)
会場 くらし支える相談センター(第5水光ビル7階:名古屋北法律事務所入居ビル)
名古屋市北区平安2-1-10 地下鉄平安通駅 4・5番出口すぐ
テキスト 渡辺治他編『日米安保と戦争法に代わる選択肢 憲法を実現する平和の構想』(大月書店、2016年)
第1回では以下を読みます。
序章「安倍政権による戦争法強行と対抗構想」(渡辺治)
第1章「安保体制と改憲をめぐる攻防の歴史――戦争法に至る道」(和田進)
世論と社会変革
安倍政権の支持率が急落し、かねてより痛快な政権批判で知られる高橋純子「朝日」政治部次長の連載コラム「政治断簡」は、「『こんな人たち』に丁寧始めました」という見出しで皮肉全開、絶好調(7月31日付)。政局の潮目が変わったことを実感させます。
そんな状況で今だアベ・パラドクスなるものにこだわる私見に対しては、後ろ向きあるいはバカかという批判があり得るでしょう。そこで「しんぶん赤旗」のコラム「朝の風」7月31日付「『安倍一強』の考察」を参照しましょうか。中北浩爾『自民党―「一強」の実像』(中公新書、本年4月刊)や牧原出『「安倍一強」の謎』(朝日新書、昨年5月刊)といった著名な政治学者の著作が(政権支持率の急落より前に刊行されたとはいえ)、安倍政権や自民党の優位が簡単には覆らない、と説いている点を次のように批判しています。
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このように「一強」と思われていた安倍政権だが、今、国民の世論が追い詰めつつある。こうした本は、政権側の情報を分析しているが、国民の中にある現状打開のエネルギーに目が届いていない。正に、「解釈」ではなく「変える」ことが、今、求められている。
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変革の立場に立ったまことに歯切れ良い卓見です。しかし同時に思うことは、消極的支持とはいえ、戦後最悪の政権をこんなに長く支持してきたのも世論です。それも、政策そのものには賛成しないのに政権は支持してきたのです。その矛盾を経済・政治・社会・イデオロギーの重層性において総合的に分析し、そこに見られるであろう歪みを剔抉することは、社会を深いところから変革していく上で避けられない課題だと思っています。世論への眼前のアピールが重要なのは言うまでもありません。同時に、風に揺るがぬ変革の世論をどう形成していくのか、そこに問題意識を沈めることも必要です。
2017年7月31日
2017年9月号
人々の苦難に迫る社会科学的分析
安倍首相が有効求人倍率の上昇を自慢していることに対して、先月、小西一雄氏の論文や友寄英隆氏などの「しんぶん赤旗」記事を基にして、それが何らアベノミクスの成功を意味するものではないことを主張しました。今回は労働経済の専門家である伍賀一道氏の「『人手不足』下の雇用と働き方の貧困 『不本意型就労』に注目して」によるより根本的な批判を紹介したいと思います。
伍賀氏はまず、有効求人倍率の上昇がもっぱら非正規雇用の求人増によるため、パートなどの賃金上昇に対して、正社員賃金が低迷していることを指摘しています(27ページ)。次いで産業別に分析しています。グローバル資本の行動様式により、製造業では空洞化と無人化・省力化が進み、「日本の産業・就業構造」は「労働集約的な消費サービスや流通部門に偏重し」ており、「いまの『人手不足』は産業全体にわたる全般的労働力不足ではなく、消費関連サービスや小売業、介護サービスなどに集中してい」ます(同前)。消費関連サービスや流通部門では低賃金と厳しい労働条件のため離職率が高く、企業は「早期の離職をみこしてハローワークに求人を出し続けるため、有効求人倍率は高止まり状態が続いてい」ます(同前)。その典型が物流分野で配送システムの行き詰まりにまで至った労働力不足です。これはサービス競争の激化が現場労働者に過重負担を強いた結果です。「利便性の追求は、それを担う労働者への過度の負担増を伴うことへの認識が、経営者にも、それを利用する消費者にも欠けていた」(28ページ)のであり、宅配便業界では取扱量の縮小やサービス内容の見直しが行なわれ、外食産業では24時間営業の一部縮小が行われるなどの影響が出ています。それでも全体的には賃金・労働条件の目に見える改善には至っておらず、「人手不足」解消にはほど遠いのではないでしょうか。
こうして消費関連サービスや流通部門では、非正規比率が高く、過剰サービス競争が激しいため、「ワーキングプア(非正規雇用)と過労死予備軍(正規雇用)の併存する雇用構造」が定着し、「これに高齢社会が求める介護サービス職や、東京オリンピック・震災復興など公共工事関連の建設職の需要増が加わることで、今日の『人手不足』が出現したので」す(同前)。
さらに伍賀氏は「人口減少は人手不足の原因となりうるが、現在のところ労働力人口はむしろ増加していることに注目し」ています(同前)。その上で労働力の各年齢層を分析して「若年人口減のなかでの学生アルバイトおよび高齢非正規雇用の増加とその実態に着目し」、「不本意型就業」という特徴を浮かび上がらせています(同前)。生活における労働の意義は年齢層によって異なってくるし、さらに性別や各人の生活状況などを重ね合わせて見るならば、現代日本資本主義における労働のあり方と意義を人々の意識状況との関係で分析することができます。このように、喧伝される人口減少を安易に現状の「人手不足」に直結させずに、労働力人口構造と生活状況の視点から吟味することは、社会科学的分析方法として重要な姿勢だと思います。
伍賀氏は「労働力調査」(総務省統計局)を基に、正規・非正規を問わず、「人手不足」下で(それにもかかわらず)「不本意型就業」が広がっていることをまず見ます。その上で、特に高校生・大学生ならびに高齢者の労働力人口増を指摘し、彼らの生活実態と就労状況を様々に検討し、その背景にある貧困・高学費・低年金などを指摘しながら、学ぶ権利と休息する権利を剥奪された若者と高齢者がともに「不本意型就業」下であえいでいることを告発しています。こうして現代日本社会の困難性を象徴する両者の状況を鮮やかに剔抉し、さらにそれを全体状況の中に位置づけることで労働にまつわる課題が次のように総括的に提起されます。
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これまで述べてきたように、学ぶ権利または休息する権利の侵害を伴いながら、若者や高齢者が「人手不足」の穴埋めに活用されている。このなかには「非正規大国」の「犠牲者」とも言える人々も含まれるが、こうした人々をも、「ワーキングプアと過労死予備軍の併存」という「非正規大国」型の雇用構造の補強に用いている。これはまた「人手不足」下の賃金水準低迷の要因ともなっている。電通過労自殺事件(2015年)が象徴するように、現役世代の過酷労働もなお改善されていない。いま求められる働き方改革とは、このような雇用と働き方の貧困からの脱却をめざすものでなければならない。
特に労働時間の上限規制とともに、最低賃金の抜本的引き上げ(ただちに1000円、早期に1500円)は何より急がなければならない課題である。 34ページ
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低賃金と劣化し続ける労働条件を生み出す以上のような「全体構造」(=「ワーキングプアと過労死予備軍の併存」という「非正規大国」型の雇用構造)を打ち破るためには、それを見抜いて、表面的な各階層の利害の違いに紛れることなく、労働者・人民が階級的に連帯することが不可欠です。そこで、最賃要求は「若者から高齢者にまで共通する要求であり、世代間の分断を克服しうる運動の課題でもある」(35ページ)という結論が運動のとっかかりを提示しています。その観点からすれば、若者たちがエキタスを立ち上げ、最賃1500円の要求を社会的に注目させていることはきわめて重要です。事態の深刻さは、我慢強い日本人でさえもそこまで追いこんでいるということでしょう。
初めの問題提起に戻れば、有効求人倍率が上昇し、「人手不足」(伍賀氏は必ずカギカッコを付けているが…)が激化しているにもかかわらず、現実的には賃金が低迷し、雇用・労働条件が悪化している、というパラドクスに対して以上のような解明を得ました。その含意と留意点として、「資本主義経済における生産過程と流通過程」の捉え方、及び「統計の見方」が大切ではないかと思います。
「有効求人倍率の上昇」「人手不足」からイメージされるような雇用や労働条件の改善が生じていない、という「期待外れ」感が大方の認識の出発点にあるでしょう。これは、
労働力の需給がひっ迫すれば、労働者にとって有利になるはずだ、という期待が前提になっています。ところが上記のような「全体構造」の中ではなかなかそうはならないのです。「非正規大国」型の雇用構造は決して市場の中で自然にできたのではなく、労働規制緩和を錦の御旗に、新自由主義の国家が政策的に主導して形成しました。労働力市場で需給がひっ迫しても資本にとって不利になりにくい構造が意図的に作られたのです。
資本主義経済では、資本にとって流通過程(市場)は公共の領域ですが、生産過程(搾取の現場)は私的領域です(憲法は工場の門前で立ちすくむ)。この個別資本の本来の姿は労働者の生存権の原理的否認を含むので、社会の存続のためには、資本の外部から労働に対する社会的規制が不可欠となりました。労働法などによって、資本の私的領域への公共的監視のメスが入ったのです。ところが新自由主義国家はそれに逆行する労働規制緩和を強行することで、資本の私的領域=専制支配の聖域を復活強化しました。それのみならず公共性の強い福祉や教育などの分野でも、前者では民営化を進め、後者では行政の支配を強めています。それは一見すると反対方向の動きですが、私的領域に留まっているべき資本の専制原理を公共領域に押し広げたという意味では共通の現象です。教育の国家主義的統制の強化は単なる保守反動ではなく、国際競争での勝利を目指すグローバル資本の人材育成や新自由主義改革に伴う社会不安の糊塗という目的に沿うものであり、資本の専制原理が教育政策を乗っ取った結果だというべきでしょう。
資本主義的市場では資本間競争が繰り広げられ、生産過程は市場の変化に応じることが至上命令となります。そこから類推すれば、労働力市場で労働者に有利な状況になれば、生産過程における労働条件も連動して改善される、と思われます。しかしこれは流通主義ないし市場主義的偏向です。商品やサービスを市場に適合させることと企業内での労働力支配とは関連はあっても別次元の問題と考えねばなりません。宅配便業界で起こったことを想起すれば、顧客への過剰なまでのサービス提供という市場適応努力は同時に労働者への過度の負担増を強制しました。さすがにそれによる「人手不足」は労働組合を動かし、経営者による業務見直しを促して、若干の労働条件改善をもたらしました。しかし依然として流通部門や消費関連サービス業全体では、「人手不足」「有効求人倍率高止まり」と低賃金・劣悪な労働条件が共存しています。その全体構造は上記のとおりです。
主流派経済学が市場主義的偏向を持ち、それが世間でも通念となっているところで、有効求人倍率の上昇を持ち出して鬼の首でも取ったようにアベノミクスによる経済の好循環を喧伝することが可能になっているのです。もちろんそれは人々の生活・労働実感とは乖離しており違和感が世を覆っています。「それでも統計を見るとなあ」という疑問に対しては、資本主義経済の仕組みは市場主義では解明されず、生産過程には独自の論理があり、そこでの労働者の闘いと国家の政策の変革が必要であることをまず強調すべきでしょう。
統計の見方も問題となります。先月書いたように、有効求人倍率のような比率値では分母と分子をそれぞれ見る必要がある場合があります。労働条件が劣悪であるがために、離職者が多く、それを前提に常に求人を多くしなければならない、という状況では、求人数(分子)が多く、求職者数(分母)が少なくなるので、その商である有効求人倍率は大きくなります。好景気で求人数が多くなって有効求人倍率が大きくなるのとはまったく経済的内容が違うのですが、統計数値としては同様になってしまいます。この場合、経済状況・労働実態がいいか悪いかという「実感」の方が、統計数値よりも経済分析上の意味があります。
一般的に言えば、実感と統計数値とに矛盾があるとき、実感が錯覚に過ぎないこともあるのですが、統計数値の浅い読み方が現実の矛盾を覆い隠してしまうこともあります。後者の場合、実感を大切にしてそれを起点に統計数値の読み方を深めることが必要です。その際、実地調査などで現場に内在したり、状況に対する想像力を働かせるなどが有効でしょう。そうすることで実感は経済分析を深めるテコとなり、その実感を呼び起こした困難の原因を突き止めて、現実を変革するきっかけとなります。
伍賀論文のキーワード「不本意型就業」は「労働力調査」の考察から発想されているようです。2013年1月から同調査では、非正規労働者に対して、現職についている理由を質問しています(30ページ)。以下の七つの選択肢から一つを回答する形式です(36ページ、番号は刑部)。
(1)自分の都合のよい時間に働きたいから
(2)家計の補助・学費等を得たいから
(3)家事・育児・介護等と両立しやすいから
(4)通勤時間が短いから
(5)専門的な技能等をいかせるから
(6)正規の職員・従業員の仕事がないから
(7)その他
複数回答だと結果処理がしにくいのかもしれませんが、回答が一つに限られることで現実の深刻さが薄められることが考えられます。たとえば低年金の高齢者は(2)を選ぶでしょうが、あわせて(6)を選んでもおかしくはありません。伍賀氏は(6)の回答者を「狭義の半失業」としており、それは2013年から16年にかけては減少しています。しかしそれは労働市場の改善だと即断はできない、としています。その根拠として、先の高齢者の例や、(3)と回答したシングルマザーも実態としては(6)でありうるのであり、余暇活用型のパートと同列に考えることはできない、という例を挙げています(30ページ)。さらには、この統計の範囲外である正規労働者にしても、過酷労働のため転職したいと思っている人がおり、それも不本意型就業状態にあるとしています(31ページ)。このように、統計数値の変化を表面的に眺めるのでなく、生活・労働実態を考え合わせてみると「狭義の半失業や完全失業者の減少だけで、いまの雇用状況の良し悪しを判断することはできないだろう」(同前)ということになります。
実感を錯覚に過ぎないと扱った例としては、「格差拡大というのは実際にはない」とか「消費税は逆進的ではない」ということを経済学者が「証明」したことがありました。新古典派理論は、資本主義経済を原理的に過剰生産が存在しない市場経済として描く予定調和の議論です。正確なところは分かりませんが、政策次元において、人々の諸困難をないものと言いくるめたり、それを自己責任に帰したりするのは理論の根本的な弁護論的性格から生じるのではないかと思います。個々の例で丹念に統計を批判的に分析し、諸困難の実態と原因を解明し解決策につなげることが必要なのですが、それだけでなくもっと一般的に理論の弁護論的性格を分かりやすく解明することも重要だと思います。
なお蛇足ながら、経済が長期に低迷する中で「名目値の方が実感に合う」という声がよく聞かれることから、物価下落状況下では実質値よりも名目値の方が経済の実体を反映する、という議論を展開したのが拙文「名目値と実質値」(2010年、文化書房ホームページ内「店主の雑文」より)です。
内需循環型経済の構築
新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴとして、労働や財政・金融などでグローバル資本への民主的規制を強化するとともに、世界的に食料主権を確保し、内需循環型の地域経済・国民経済を再建することが課題となります。その中身として、一方には、大企業が中心的に担っている最先端の生産力をどう制御し活用するかという課題があり、他方には、地域経済・国民経済に中小企業・中小業者の活躍の場を再生しまた新たに切り拓いていく課題があります。そのような問題意識から見ると、主に後者の課題について、地域金融機関ならびに中小企業・中小業者そして労働組合の役割を縦横に論じたと思われるのが、齊藤正・桜田氾対談「地銀大再編と地域金融を考える」(以下「対談」)と佐々木保幸・栗須格・三國英實・梶哲宏誌上シンポジウム「流通・サービス産業と中小企業・業者の役割 適正な経済の循環をもとめる政策と労働組合」(以下「シンポ」)です。
格差・貧困が増大し、生活と労働が困難を極め、地域経済が疲弊して、日本社会全体に閉塞感がただよっています。その厳しさ故に目を背けたり考えるのを止めたりしがちな状況ではありますが、逆にだからこそ現実の困難を直視し、そこに課題を見出し、それを日本と世界の経済のあり方に位置づけながら展望の糸を紡いでいくことが大切になっています。たとえば「ブラック労働の典型である流通・サービス産業の労働条件を変えていくことなしには、労働者の社会的地位の向上はできないという点で、運動と政策検討にねばり強く取り組んできました」(「シンポ」、72ページ)という構えが求められます。
「対談」と「シンポ」では、困難の集中している課題として地域経済、流通・サービス産業とそこでの労働などを採り上げています。まず困難の原因を明らかにすることが必要であり、大企業による圧迫・経済政策のあり方・行政の姿勢などが問題となります。「大企業による中小企業に対する不公平な取引の押しつけが、中小企業を疲弊させている大元にあ」る(「シンポ」、73ページ)という認識がそれに当たりますが、なかなかそのような理解は進んでいません。たとえば、大企業との取引条件を改善して、最低賃金を引き上げ中小企業が労基法どおりの労働条件を保障しうるように、全労連が省庁と交渉しても次のような反応が返ってきます。
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しかし、実際の要請、交渉で出るのが、大企業の論理に立って、低賃金は中小企業の生産性の問題であり、企業努力で改善されるべきだという「支払能力論」です。これが政府、行政の中にも蔓延しています。
取引の不公平を通じて、中小企業が大変な目にあっているという実態が明確であって、それで経営者も泣く泣く、労働者に低条件を強いている状況が大きな問題です。たとえば製造業では、ベトナム製よりも原価を安くあげるところまで自働化の技術開発をして、かろうじて最低賃金を守っているという現実があります。
「シンポ」、75ページ
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「取引の不公平を通じて、中小企業が大変な目にあっているという実態」として、たとえば市場では「大企業支配の広がりにともない、『川上』(メーカー)から『川下』(小売り販売)まで各段階での買いたたきと、『川下』で不当廉売が行われています。すでに流通市場から小零細企業を排除するところまで事態が悪化しているのです」(「シンポ」、73ページ)と指摘されています。「そこに90年代後半以降のデフレ経済の下、国民の所得が減り、生活が厳しくなるにともない、安く買える方がよいという意識がつくられていきます。結局、所得減と低価格の悪循環、負の連鎖に陥ったと思います」(「シンポ」、76ページ)。その例として、「都内で数店舗を持つ、労働者200人、比較的高級な料理店のケース」が紹介されています(「シンポ」、73ページ)。経営は赤字で、最賃すれすれの賃金になっています。「その経営のネックは、安売り、競合店が多く、中間所得層が都心でも減少してきて、単価を上げられないという話です。加えて、都心部開発の建設・投資ラッシュによって、地価・賃借料の高騰が圧迫要因だと言います」(同前)。
本来、独占禁止行政では、公正取引の確保のために、高価格維持カルテルの規制だけでなく、不当廉売も規制すべきですが、「消費者利益を損なう」という世論操作下でそれが怠られて「所得減と低価格の悪循環」を助長しています(「シンポ」、76ページ)。ここに、大企業による市場支配とともに経済政策と行政姿勢が中小企業・中小業者の経営困難の原因として現われています。
地域金融の観点からも、中小企業・中小業者の経営困難の原因でも結果でもある地域経済の疲弊をもたらしたものとして、(1)中小企業基本法の改悪(1999年)、(2)金融検査マニュアル行政、(3)政策金融改革と信用補完制度の改悪が挙げられ(「対談」、46・47ページ)、「地銀の再編を加速化させている地域経済の疲弊は、政策的結果によるところが大きいのであって、決して自然的現象ではない」(「対談」、47・48ページ)と指摘されます。
さすがに政府も事態の深刻さに「対策」に乗り出しますが、その基本には、地域の疲弊は不可避と見て、地方中核都市に資源を集中させるとする「増田レポート」に代表される「撤退論」が据えられています(「対談」、48ページ)。これでは多くの人々の生活と労働の改善にはつながらず、地域経済振興も一部にとどまり、「地方創生」のスローガンはいったい誰のためか、ということになります。地域金融のあり方を見ても、民営化後の郵貯・簡保が縮小と外資参入を許したように、「農協改革に名を借りた信用事業分離論」(「対談」、52ページ)によって、農協貯金の取り込みと共済潰しが狙われています。こういう状況で、地銀や協同組織金融機関(信金・信組・農協・漁協・労金)の資金が当該地域で活かされないで都市へ流出すれば、「地域再生をいっそう困難にしてしまう」(「対談」、49ページ)ことになります。
以上のような大企業の市場支配と経済政策によって、中小企業・中小業者が圧迫され、労働者は賃金が抑制され労働条件が厳しくされ、地域経済が衰退しています。その典型が「ウォルマート化」と呼ばれる状況です。ウォルマート社は労組を認めず低コスト経営による低価格戦略に徹して巨大な売り上げを築き上げましたが、「低価格戦略を支えるための低賃金や低納入価格の強要は、納入業者や進出地域で他の小売業者に影響を及ぼしています。そのことで地域全体の低所得化、不安定就労化が進み、地域社会の歪みを生じさせているのです」(「シンポ」、85ページ)。つまり社会全体の沈滞状況が大企業による市場支配「独り勝ち」によってもたらされ、その大元には厳しい搾取強化があるのです。さらに言えば、生産のあり方が流通を規定し、そうした経済構造が歪んだ社会のあり方を形成しているのです。ウォルマートはその大成功の故、礼賛されてもいますが、社会的観点からは経済停滞の根源になっています。成功する大資本の視点でバラ色に見える物語が実は社会全体のブラック化を主導している――それを暴露することは科学的経済学の任務だと言えます。
「ウォルマート化」が異常であることを理解するには、以上のように資本主義経済のあり方の基本から批判的に捉えていくと良いのですが、もう一つ、資本主義の枠内であってもそれなりにまともな経済社会のあり方を提示し、そうした肯定的経済像に照らして現状の歪みを把握するというオルタナティヴ・アプローチもあります。
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取引の適正化の要求は、その経営体の維持、労働者の賃金や生産者の自家労賃を含めて、保障しうる価格を求めるということです。要するに、生産・流通・消費のサイクルを通して、適正に富が配分されること、再生産が円滑に進むことを打ち出したものです。
それによって、大企業だけが栄える経済ではなく、労働者も、中小零細企業も、農業、水産業の経営も成り立つし、地域経済がまわっていくあり方をつくっていこうではないかと。そのために、商業・サービスの取引関係の是正が避けて通れないということです。
「シンポ」、76・77ページ
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つまり取引関係の是正(収奪関係をなくすこと)で適正価格を保障することにより、労働者の生活と経営体の営業の再生産可能性を全社会的に確立することがまず必要です。そうすることで内需循環型の経済を形成していけます。
適正取引の確立については、たとえば卸売市場の存在意義が指摘されています。巨大流通グループなどのバイイング・パワーが生産者と相対取引で低価格の仕入れを実現し、それが「消費者利益」とみなされます。しかし築地市場の移転問題で「仲卸業者の目利き」が注目される中で、価格だけでない消費者利益に光が当てられ、それを保障するうえで中小業者なども含む卸売市場の重要性が明らかにされています。
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築地市場は水産物では世界一を誇る水産物の建値市場です。そこでの仲卸業者は豊富な経験をもつ、物品の「目利き」役として、食品の鮮度、安全管理や産地の偽装発見などでも重要な役割を果たしている。都内外の多くのスーパー、鮮魚・青果など小売店、寿司・料理店など多数の買出人が、築地市場に結集しています。
…中略…
大きくは、卸売市場というのは、全国各地の農・水産生産物の適正な価格保障をして、再生産を支える上で重要な制度です。
「シンポ」、81ページ
水産物でも、青果物でもそうですが、新鮮で質が良いものは、きちんと価格評価するし、それよりランクが下がっても、それなりの価格で流通に乗せることができます。生産者も安心して出荷できるのが、卸売の役割です。高級魚のマグロだけでなく、庶民の安い魚も店頭に並びます。
「シンポ」、78ページ
生鮮食料品での集荷と販売の両面で、個人経営や中小企業を支えているのが、卸売市場であり、それを保障しているのは、卸売市場法の「差別的取扱の禁止」という、重要な経済民主主義的な規定によるところが大きいと言えます。卸売業者が、相手の規模の大小で、差別的に扱うことは禁止されています。これを次の法改定で、取り払うことになれば、卸売市場制度は一気に生命力を失うことになってしまいます。
「シンポ」、72ページ
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以上のように、取引関係の是正による円滑な再生産の保障は、生産・流通における多様な中小企業・中小業者の存在を実現し、そのことによって食の安心・安全や多様な選択肢などを含む「消費者利益」の増進に資することになります。これは後の行論での生活のあり方論に関連した問題です。
内需循環型の地域経済をつくるためには「地域で集めた資金は地域に還元する」(「対談」、51ページ)地域金融を進める必要があります。かつての郵政民営化や今日の農協攻撃に見られるイデオロギー攻撃は、「民間活力」や企業的手法で経済を活性化する(「岩盤規制に穴をあける」)という表向きのスローガンの裏に、その目的の一つとして、地域の資金をグローバル資本が吸い上げるということを隠し持っています。それを暴露して対峙するとともに、地銀や協同組織金融機関の集めた資金を地域経済に活用する方策を具体化することが求められます。その際、地域金融機関のコンサルタント機能強化が必要ですが自前では人材的制約があります。その対処も含めて、自治体を中心とした地域の総合力を結集することが次のように力説されています。
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中小企業の存立条件の確保と「地域インフラ」を再生する課題は、金融機関の個別的努力のみに委ねることは困難であり、自治体の地域・中小企業振興策を中核に据え、自治体、金融機関、中小企業者、地域住民、自治体労働者、さらには大学など、地域経済の利害関係者間で協働する仕組み(プラットフォーム)をつくり、地域総合力を発揮することが重要です。その意味で、今次の「地域版総合戦略」策定を通じて多くの自治体と地域金融機関との間で結ばれた「包括的連携協定」に、中小企業振興条例の理念が具体的に盛り込まれ、今後着実に成果を収めることを期待しています。 「対談」、52ページ
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内需循環型経済の確立には、「ウォルマート化」・「低所得と低価格の悪循環」を克服するために生活の質を見直すことが必要です。「安いほどいいとなれば、必ず、品質は落ちます」(「シンポ」、77ページ)という指摘とともに次のことが言われます。
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「消費者利益」の中身が、非常に矮小化されているのが問題です。そこでは〝安く〟、しかも短期間でのことしか考えていない。しかし、消費者利益は、短期的な価格面だけではなく、中・長期的な価格の変動や、価格以外の商品の安全性なども確保されるべきです。また、買いたい商品を多様な選択肢から選んで帰ることも、重要な観点です。
同前
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伍賀論文にある「利便性の追求は、それを担う労働者への過度の負担増を伴うことへの認識が、経営者にも、それを利用する消費者にも欠けていた」(28ページ)という指摘は、宅配便について、「早く」「いつでも」そして「不在の場合には再配達も」という消費者の過度な要求と、それに応えるために労働者に無理を強いる経営者の姿勢を問題にしています。これらを考えると、消費社会における生活の希薄化という病弊が貧困化と重なって、
低価格と過度なサービスとへの要求を生み出し、そうした需要に低賃金・長時間過重労働による供給で対応する――するとそれを担う労働者は消費者としては低価格と過度サービスの要求者となる――という悪循環にはまります。消費社会とは、時間がなくて「テマヒマかけずにカネかける」社会であり、できるだけ家事などを省いてサービスを購入して済ませることから、生活内容が希薄化するとともに過度なサービス要求が生じます。ところが貧困化の進行でカネがかけられなくなると、「過度サービス+低価格」が切実な要求となります。消費者としてはそういう姿勢となり、生産者はそれに合わせるため、労働者に低賃金・長時間過重労働を強います。「ウォルマート化」の社会的背景はそういうところでしょう。
そのような生活を反省して、商品の価格だけでなく品質・安全性なども考慮して多様な選択肢から選ぶことを可能にし、テマヒマかけて自分らしく過ごす時間を確保するためには、ある程度の賃金と労働時間短縮とによる余裕ある生活が実現されねばなりません。ここに「適正所得・適正価格」の好循環が成立し、賃上げ・時短という労働者の要求と経営改善という中小企業・中小業者の要求とが合致します。そこではスケールメリット=低価格化による淘汰という単純な生産力主義の見方を克服して、生活の質の向上にとってどういう生産と流通のあり方が適切かという問題意識が不可欠となります。
新自由主義グローバリゼーション下では、「低所得・低価格」という「ウォルマート化」が自然必然として貫徹するように見えますが、それはまさにグローバル資本が主人公となった低次元社会です。人間の闘いは、自らを主人公とする「適正所得・適正価格」の「ディーセント化」された高次元社会を求めざるを得ず、それが社会発展の法則の自然必然であるに違いありません。
なお以上では当然、当面する資本主義の枠内での変革を前提にしていますが、資本主義批判と資本への規制という観点は欠かせません。格差・貧困の拡大や労働条件の悪化といった社会問題の根源が資本主義経済の本性から生じていることが明らかですから。しかし諸般の事情で資本主義経済そのものの克服ができない状況において、民主的政権下において資本主義国民経済のマネジメントをどうするかは重大課題であり、それは、人々の生活と労働を守り発展させるために資本主義市場経済をどう活用していくか、という問題だとも言えます。
拙文ではたとえば「資本の専制」という言葉が頻出し、人間でなく資本が主人公であるが故に資本主義を批判するという観点が貫徹されています。その一方で資本の一定の進歩的性格をどう評価するかが問題となります。
資本主義市場経済では、最大限利潤の獲得をめぐって弱肉強食の資本間競争が展開されます。一方でその過程において商品の使用価値は質的に向上し、価値(価格)は低下します。これは消費者利益の内容における重要な部分であり(その他の内容もあることは前述しましたが、それは重要さにおいては意識されにくい)、理論的には商品論次元で確認できます。他方で資本間競争の目的・動機は利潤率・量の増大であり、その最大の手段は剰余価値率・量の増大つまり搾取強化です。これは理論的には資本論(剰余価値論・資本蓄積論・再生産論・利潤論等)次元で確認できます。
資本主義市場経済が、使用価値の向上と価格の低下という消費者利益を強力に実現するのは、資本間競争の激烈さによります。その中で私たちの周囲にある商品の利便性が向上し新商品が登場し、生活を豊かにしてきたことは否定しようがありません。そして生産者でない消費者は存在するけれども、逆は存在しない、つまり生きている以上は例外なく消費者であるので、日々この消費者利益の実感は人々を深く捕えます。そこに自由市場=完全競争崇拝のブルジョア思想が支配的イデオロギーとして君臨する土台があります。
それに対して消費過程の問題としては、前述のように消費者利益の内容を幅広く捉えたり、現代生活のあり方への反省(消費社会批判)という観点から批判することが可能です。生産過程の問題としては、消費者利益の実現が搾取強化と表裏一体である点で批判すべきです。経済を事実上、商品論次元でしか見られないと、そこに思いが及びません。資本主義的生産過程とは搾取の生産関係であり、それに深く規定されて資本主義市場経済という表層がある、という認識が重要です。消費者利益はもっぱら使用価値の向上と価値(価格)の低下として捉えられがちですが、それを実現する資本間競争は搾取強化をも含むことが知られねばなりません。商品論と資本論との総合認識が必要です。
したがって資本主義の枠内での変革においては、資本=賃労働関係への必要な民主的規制をきかせて強搾取を抑えた上で、大資本と中小資本・業者との公正な取引関係を保った自由な市場を実現することを目指すべきでしょう。それが新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴの本質であり、その具体化について、上記の「対談」と「シンポ」の内容が参考になると考えています。
2017年8月31日
2017年10月号
(1)第3部第3篇理解への不破哲三氏の問題提起
不破哲三氏の「『資本論』全三部を歴史的に読む(第6回)」は、『資本論』第3部第3篇の中の第13章「この法則そのもの」は輝かしい章だが、第14章「反対に作用する諸要因」と第15章「この法則の内的諸矛盾の展開」は不要であり、マルクスもそう扱っている、と主張しています(131ページ)。その根拠について不破氏は以下のように説明します。
――マルクスが1865年前半執筆の第2部第1草稿で恐慌の運動論を発見したことで、マルクスの経済学全体にかかわる大変革が起こされた(123ページ)。第3部第1~3篇は1864年後半、第4~7編は1865年後半の執筆なので、「大変革」より前に書かれた第1~3篇の内容は要注意だ。ただし第1・2篇は充実した力作で問題ない。問題は第3篇であり、第13章は必要だが、第14・15章は不要だ。それは1868年4月30日のエンゲルス宛の手紙においてマルクスが示唆している。この手紙でマルクスは、第1・2篇について詳しく説明しているが、第3篇については第13章の部分だけを要約し、他2章にはまったく触れていない。「このことは、第三篇について、マルクス自身がその内容を大きく変えるつもりでいたことを示すものです」(124ページ)。――
しかしこの手紙は『資本論』の内容を全面的に説明することを目的にしていません。「君が利潤率の展開方法を知っておくということは、好都合だ。だから、君のためにごく一般的な形で道筋を述べておこう」(136ページ、『資本論書簡』2、国民文庫、1971)という限定された主題を扱っています。「利潤率の展開方法を知」るという課題に照らせば、第1・2篇には、利潤・利潤率・平均利潤率・生産価格といった基本的な概念が登場するのだから丁寧に説明するのは当然です。第3篇第13章は利潤率の傾向的低下の法則そのものを扱っていますからこれも必要でしょう。第14章は法則そのものの補足であり、第15章は「利潤率の展開」そのものよりも、利潤率の視角からする資本主義の本質論なので、限られた主題を述べるために出された手紙において、両章の説明が省かれる可能性はあります。だから少なくともこの手紙に第14・15章の説明がないからといって、それが『資本論』の中でもはや不要になった、とマルクスが考えるに至った、という証拠にはなりません。
したがって不破氏の第14・15章不要論(以降、単に「不要論」と略記)をマルクスも共有していたかどうかは不明です。マルクスが第14・15章を不要と考えていたという不破氏の推論を文献的に考察することは私には無理ですので、『資本論』を読むことで、以下では「不要論」そのものの成否について考えてみます。
『資本論』第3部第3篇は第13・14・15の三つの章で形成されています。これはエンゲルスの編集による章立てです。エンゲルスによる第2部と第3部の編集については、近年の研究によって多くの問題点が指摘されており、不破氏もいろいろと問題にしていますが、この章立てそのものについては不問としていますので、現行『資本論』を読むことで「不要論」を検討したいと思います。
(2)第13章「この法則そのもの」から理解されるもの
第3篇は利潤率の低下を主題にしているので、主に資本主義の限界や停滞性を論じていると思われがちですが、改めて読んでみると資本主義による生産力発展についても強調されていることが分かります。利潤率の低下をもたらすのは資本主義下での生産力発展であり、それは同時に利潤量の増加をもたらすことをマルクスは力説しています。それを第13章から引用します。なお第13章の最後の部分(新日本新書版第9分冊では386~395ページ)は、マルクスの草稿では、現行『資本論』の第15章に当たる部分からエンゲルスが編集して加えているので、それより前から引用します。
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資本主義的生産様式の進展につれて、労働の社会的生産力の同じ発展が、一方では利潤率の累進的下落の傾向となって現われ、他方では取得される剰余価値または利潤の絶対的総量の恒常的な増大となって現われるのであり、その結果、全体として見れば、可変資本および利潤の相対的減少には両者の絶対的増加が照応する。この二面的な作用はすでに示したように、利潤率の累進的な下落よりも急速な、総資本の累進的な増大となってのみ現われうる。絶対的に増大した可変資本を、より高度な構成のもとで、すなわち不変資本のより強度な相対的増加のもとで使用するためには、総資本は、そのより高度な構成に比例して増大するだけでは十分ではなく、それよりもっと急速に増大しなければならない。その結果、資本主義的生産様式が発展すればするほど、同じ労働力を就業させるためには、まして増大する労働力を就業させるためにはなおさら、いっそう大きな資本分量が必要になってくる。したがって、労働の生産力の増大は、資本主義的基盤の上では、必然的に、永続的な外観的過剰労働者人口を生み出す。
『資本論』新日本新書版第9分冊、381ページ
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これは第13章が、不変資本と可変資本との区別に基づいて利潤率低下の原因を解明した後で、それが資本主義経済の運動にもたらすものをまとめています。その前には「労働の搾取度が変わらない場合には、またそれが高くなる場合にさえも、剰余価値率は、恒常的に低下する一般的利潤率で表現される」(364ページ)と指摘して、剰余価値率と利潤率との関係に触れています。剰余価値率は生産力発展によって上昇するだけでなく、労資の階級闘争によっても左右されます。そういう剰余価値率が利潤率の動向に影響を与えます。上記381ページからの引用に、資本蓄積の進行に伴う相対的過剰人口の増大に言及されている点も考え合わせると、「一般的利潤率の累進的な低下の傾向は、労働の社会的生産力の累進的発展を表わす、資本主義的生産様式に特有な表現にほかならない」(同前)という指摘が重要です。生産力発展は利潤率の傾向的な低下をもたらしますが、それは同時に資本による利潤量の増加の追求をもたらします。こうした利潤率の低下と利潤量の増加のはざまで、剰余価値率の上昇をめぐる闘争が展開され、資本蓄積に伴って相対的過剰人口が増加します。したがって「利潤率の傾向的低下の法則」は労働者階級のあり方にとっても重大な意義を持っています。一方では、労資の生産関係が剰余価値率を通して利潤率の動向に影響に与えるという原因において、他方では、資本蓄積の進展によって相対的過剰人口が増大するという結果において。
つまり第13章「この法則そのもの」は生産力発展を基軸にしつつ、生産関係からの、またそれへの影響を含むものとして展開されています。「この法則」は生産力だけでなく、生産関係にも関係するのであり、単に生産力発展が利潤率の低下をもたらすだけだ、という法則理解は、原因と結果を中身抜きに捉えた一面的な把握です。それは第15章を俟たずに以上のようにすでに第13章からも理解されます。
(3)第14章「反対に作用する諸原因」の位置
上記のように第13章においてすでに剰余価値率と利潤率との関係に触れられています。生産力発展は前者の上昇と後者の低下を同時にもたらすので、両者の動向は「利潤率の傾向的低下の法則」にとっては相反する影響をもたらします。それをどう考えるかが法則のあり方として問題となります。したがって第13章「この法則そのもの」は第14章「反対に作用する諸原因」を補足として伴わざるを得ません。第14章では、「剰余価値率の上昇」以外にも「不変資本の諸要素の低廉化」など利潤率を上昇させる諸要因が検討されます。両章が相まって「利潤率の傾向的低下の法則」の全体が解明されます。したがって第14章は第15章の準備のために必要になった章だという不破氏の理解(131ページ)は誤りです。第13章と第14章とが一対となって法則を解明し、それを受けて第15章が展開されます。第13章が完結して、第14章と第15章が一対で(不破氏にとっては)不要の展開をしているわけではありません。
ところで、その原因をめぐってアダム・スミス以来の全経済学を悩ましていた「利潤率の傾向的低下の法則」の秘密を解明したのが第13章であり、そこでは法則そのものはすでに経験的事実として前提されています。しかしそこで解明された論理から予想されるほどには現実の低下が大きくない、というこれも経験的事実を説明するものとして第14章「反対に作用する諸原因」が補足されています。このように両章を合わせて現実の利潤率低下のあり方を説明するという論建てになっています。おそらくマルクスにとっては、あくまで利潤率のマイルドな低下傾向が経験的事実として前提されており、利潤率低下を促進する本質を太く解明しつつ、ややそれに抵抗する諸原因を指摘することで十分だと考えていたのではないか、と私は推測します。ところがその後の経済理論の研究では、利潤率低下をめぐって相反する諸要因を総合的に考えて、はたしてこの法則そのものが成立するのか、という論争が闘われてきました。それに立ち入ることは私の能力をはるかに超えますが、いずれにせよマルクスにとってもその後の研究者にとっても、第13章が法則そのものの本質を解明し、第14章がそれだけでは残された課題を補足的に説明するということで両章がワンセットであることは確かです。
(4)第15章「この法則の内的諸矛盾の展開」をどう見るか
現行『資本論』第2部・第3部はマルクスにとってはあくまで草稿であり、そこには当然完成度のばらつきがあります。第15章はおそらく完成度が低く、論理がまだ未整理であるように思われます。おそらくそういうことも背景にあって、不破氏は独自の考え方に基づいてそれを根本的に批判して結論的には削除すべきだ、とされます。その判断は妥当か否か。いったいそれはどう読まれどう処遇されるべきかについて、私なりに探ってみたいと思います。
第15章を読んでいると錯綜した印象を受け、その目的が今一つ分かりにくいように思われます。かつてならば、それは読む者の頭が悪いせいであり、「理解」できるまでしっかり読むべきだ、という権威主義的かつ精神主義的態度が優勢でした。しかし今日では、分かりにくいところがあれば、「まだ草稿だからまとまっていない」とか「エンゲルスの編集に問題がある」等々として、自分のせいではなくテクストそのもののせいにする態度も「あり」とされているように思います。そういう姿勢は、一方では自由で率直な理解や新たな発想を促すという長所を伴いますが、他方ではテクストへの内在を弱めて、自分の思いつきへの過信をもたらし、誤った思い込みによる読み方を誘発する危険性を伴っています。両面に配慮しながら、できるだけ正確に読みつつ、自分なりの率直な感想も大切にするということが必要かと思います。
不破氏は第15章の課題を以下のように設定します。
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マルクスが第一五章で自らに課した課題は、第一三章で証明した利潤率の傾向的低下が資本主義的生産様式の必然的没落に導くことの証明でした。そのカギは、それが恐慌の必然性の根拠となることの立証にありました。 132ページ
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それに次いで不破氏は第15章の初めの方から部分的に「立証すべき命題」を引用しています。第15章の課題設定に関する上記の不破氏の主張がマルクスのものでもあることの証拠としての引用です。そこで長くなりますが、マルクスの叙述全体から来る印象を味わう意味で、省略しないで新日本新書版第9分冊から当該箇所を全部引用します。
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他方、総資本の価値増殖率すなわち利潤率が資本主義的生産様式の刺激である(資本の価値増殖が資本主義的生産の唯一の目的であるように)限り、利潤率の下落は、新たな自立的諸資本の形成を緩慢にし、こうして資本主義的生産過程の発展をおびやかすものとして現われる。それは、過剰生産、投機、恐慌、過剰人口と並存する過剰資本を促進する。したがって、リカードウと同様に資本主義的生産様式を絶対的な生産様式と考える経済学者たちも、ここでは、この生産様式が自分自身にたいして制限をつくり出すことを感じ、それゆえ、この制限を生産のせいにはしないで自然のせいにする(地代論において)。しかし、利潤率の下落にたいする彼らの恐怖のなかで重要なのは、資本主義的生産様式は、生産諸力の発展について、富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだす、という気持ちである。そして、この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明する。それは、資本主義的生産様式が富の生産にとって絶対的な生産様式ではなくて、むしろ一定の段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明する。 412ページ
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ここでのマルクスの叙述の趣旨は次のようでしょう。――資本主義において利潤率が生産の刺激である限り、その低下は資本主義的生産様式の制限となる。やがてそれは富の生産の桎梏となる。したがって、資本主義生産様式は富の絶対的な生産様式ではなくて、歴史的な一時的な性格を持っている。――つまり資本主義的生産における利潤率の特別な意義を明らかにし、それによって資本主義的生産様式の(絶対的ではない)歴史的性格を確定することがここでのマルクスの主張の眼目だといえます。おそらく第15章の課題はそこにあると考えられます。恐慌についても、利潤率の働きとの関係で登場しているのであって、革命的危機をもたらすものとしてことさらに言及されているわけではありません。少なくともこの叙述から、<利潤率の傾向的低下が恐慌の必然性の根拠となって、資本主義的生産様式の必然的没落に導くことを証明しようとする当時のマルクスの意図>を感じ取ることにはかなり無理があるように思います。マルクスはここでそのように性急な主張をするというよりも、利潤論の次元における資本主義的生産の本質論(それは必然的に恐慌論を含む)と資本主義的生産様式の歴史的性格を様々な角度から論じたのが第15章ではないでしょうか。そこから来る錯綜した未完成な印象は、性急な意図を証明しようとして挫折した結果(不破氏はそう言われますが)からではなく、論理がまだ未整理であることから来るのではないでしょうか。
不破氏によれば、マルクスは1865年前半の第2部第1草稿の執筆過程で「流通過程の短縮」論に気づきこれが恐慌の運動論の発見となり、それがマルクスの経済学の大変革だけでなく、恐慌革命論の克服にも結びつき、経済理論と革命運動論との統一的変革が実現しました。こういう大きな図式が前提となると、1864年後半執筆の第3部第1~3篇は未だ誤った恐慌革命論に囚われている段階なので、経済学上も<利潤率の傾向的低下→恐慌→革命>という誤った図式による理論展開になるであろう、という予断が生じ、第15章に上記のような(当時のマルクスにおける)課題を強引に読み込むということになります。そもそも「流通過程の短縮」の発見だけを持って突然に恐慌論の変革が起こるのか、ということも疑問ですが、恐慌革命論の克服も同時に一挙に実現するということも簡単には信じがたいものがあります。それは経済理論だけではなく、政治的経験なども通じて徐々に起こるのが普通ではないでしょうか。
1865年前半の「大変革」以前にも革命論の変化は少しずつ進行していたのではないか、と思われるのが第15章の叙述にあります。1825年を第一回として始まる周期的全般的過剰生産恐慌は、一面ではその時点における資本主義的再生産の崩壊であり社会的危機をもたらし労働者階級の覚醒を促します。そこだけを捉えれば恐慌革命論が成立します。しかし他面では恐慌はそれまでの資本主義経済の諸矛盾の蓄積を一気に掃出し均衡を回復し、それ以後の産業循環の出発点となる過程でもあります。恐慌革命論はそれを見逃しています。第15章第2節「生産の拡張と価値増殖との衝突」には「抗争し合う作用諸因子の衝突は、周期的に恐慌にはけ口を求める。恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決でしかなく、撹乱された均衡を瞬間的に回復する暴力的爆発でしかない」(425ページ)とあります。さらに同章第3節「人口過剰のもとでの資本過剰」では、「どのようにしてこの衝突がふたたび調整され、資本主義的生産の『健全な』運動に照応する諸関係が回復されるであろうか?」と問い、「どのような事情があるにせよ、均衡は、大なり小なりの規模での資本の遊休によって、さらにときには破滅によって、回復されるであろう」(432ページ)などという答えがあります。この節では、恐慌において資本間に生じる、損失を押し付け合う厳しい競争が活写され、証券価値の破壊に始まり、再生産過程の撹乱と停滞、信用制度の崩壊など恐慌過程の進行が叙述された後に、その結果としての労賃の低下や不変資本の諸要素の価値減少などが利潤率増大をもたらし、新たな産業循環が始まるとして、停滞から拡大への、恐慌からの回復過程が書かれています(429~435ページ)。
つまり不破氏の言うマルクスの経済学の「大変革」より前の第15章において、恐慌を産業循環の中に位置づける論旨(不破氏の「恐慌の運動論」)が見られます。これは恐慌革命論を経済理論において克服する方向への歩みの一歩と言えるでしょう。「流通過程の短縮論」の発見が恐慌=産業循環論の形成にとって重要なのは確かでしょうが、恐慌革命論の克服はその他の要素も勘案してもっと幅広く見ていく必要があります。そうすれば、時期を極めて限定した「大変革」を想定する、ということは見直されるべきだと考えられます。
第15章においては、「利潤率の傾向的低下の法則」と恐慌における「一般的利潤率のひどい突然の下落」(429ページ)との区別と連関が十分には明らかでないようであり、それが第15章や第3篇全体の課題を分かりにくくしています。そこで一方に両者の「直結説」が、他方に不破氏のような「断絶説」が生まれます。私としては「次元相違説」に立って両者の区別と連関を明らかにして恐慌論に活かしていくことが必要だと考えています(拙文「『経済』2011年7月号の感想」参照)。
不破氏は第15章の削除を要求していますが、その中にも「価値ある遺産」があることは認め、「恐慌の根拠」についての二つの有名な文章(「搾取の条件とその実現の条件は同じではない」と「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」)をそこから引用しています(不破論文の133・134ページ)。恐慌との関連で資本主義的生産様式の歴史的性格を明らかにすることを第15章の課題として捉える私見では、それは『資本論』体系における第3部第3篇第15章の成果としてその位置において認められます。不破氏の場合、第15章は削除するのだから、それらの名文もただ削除されるのか、あるいは別の個所で活かされるのか、いずれにせよ少なくともそのままでは済みません。マルクスが恐慌革命論の立場から、利潤率の傾向的低下法則を恐慌の必然性の根拠とする、という誤った目標に挑んで失敗した中での良い副産物――というのが二つの文章に対する不破氏の取り扱いになるでしょう。不破氏は『資本論』第2部の終わりにおいて恐慌論が総括されると考えているので、第3部でのその(少なくとも本格的な)展開はありえないことになります。
そこで第3部第3篇第15章を恐慌論の展開の一段階として認める根拠を考えてみます。第15章における利潤率概念の重要性をどう捉えるか。以下の叙述を参考とします。
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利潤率の下落につれて、労働の生産的使用のために個々の資本家の手中に必要とされる資本の最小限――労働の搾取一般のためにも、また、使用労働時間が諸商品の生産に必要な労働時間であるためにも、すなわち、使用労働時間が諸商品の生産に社会的に必要な労働時間の平均を超えないためにも、必要とされる資本の最小限――は増大する。それと同時に集積も増大する。なぜなら、一定の限界を超えれば、利潤率の低い大資本のほうが利潤率の高い小資本よりも急速に蓄積するからである。この増大する蓄積は、一定の高さに達すれば、これはまたこれで利潤率の新たな下落をもたらす。これによって、大量の分散した小諸資本は冒険の道に追い込まれる――投機、信用思惑、株式思惑、恐慌。いわゆる資本の過多は、つねに本質的に、利潤率の下落が利潤総量によって埋め合わされない資本――そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである――の過多に、または、独力で独自の行動をする能力のないこれらの資本を信用の形態で大事業部門の指導者たちに用立てる過多に、関連している。 427ページ
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より簡潔に「蓄積に結びついた利潤率の下落は、必然的に競争戦を引き起こす。利潤総量の増加による利潤率下落の埋め合わせは、社会の総資本について、またすでにでき上がり整備されている大資本家たちについて言えるだけである。自立して機能する新しい追加資本は、このような補償条件を欠いており、これからそれをたたかい取らなければならない」(437ページ)とも書かれています。第13章から言われてきた利潤率の低下と利潤量の増大という二重の歩みがここでも一貫して取り上げられています。不破氏の解釈では、この部分は、利潤率の低下を恐慌の必然性に結びつけるという課題を果たすために、無理に小資本の行動を持ち出してきたことで説得力に欠き、その論証に失敗している例だ、ということになります。しかしもともとそのような課題はないと発想を変えれば、ここでは、利潤率の低下を利潤量の増大で補うという行動ができる大資本とそれができない小資本との対比が書かれており、利潤率をインセンティヴとする資本主義的生産様式が「新たに形成される資本の若枝」を摘んで停滞する可能性があることを指摘している、と考えることができます。
さらに第15章では、労働生産性の向上に対する資本主義的制限を、生産一般あるいは単純商品生産と比較しています。まず「商品にはいり込む総労働分量のこの減少は、どのような社会的諸条件のもとで生産が行なわれるかにかかわりなく、労働の生産力の増加の本質的な標識であるように見える。生産者たちが自分たちの生産をまえもって作成した計画に従って規制する社会では、それどころか単純な商品生産のもとにおいてさえも、労働の生産性はやはり、無条件的にこの度量基準によってはかられるであろう。しかし、資本主義的生産のもとではどうであろうか?」(445ページ)と問うています。それに対して「資本にとっては、労働の生産力の増加の法則は無条件には妥当しない。資本にとってこの生産力が増加されるのは、一般に生きた労働においてではなく、生きた労働の支払部分において節約されるものが、過去の労働において追加されるものよりも大きいという場合だけであ」る(446ページ)、と答えています。ここは特に利潤概念を使っているわけではありませんが、生産力向上に対する資本主義的生産様式の制限性を説き、その(絶対的ではなく)歴史的な性格を明らかにする第15章の課題を貫いています。さらにその先では「新しい生産方法がたとえどんなに生産的であろうと、またどんなに剰余価値を高めようと、それが利潤率を下落させるやいなや、この方法を自発的に使用する資本家はいない」(450ページ)と指摘されます。論理次元が『資本論』第1・2部の価値=剰余価値から第3部の生産価格=平均利潤と上向する中で、資本の行動における利潤率の意義が強調されています。
つまり第3部第1・2編での、利潤・利潤率・平均利潤率・生産価格といった基本的な概念の確定を受けて、第3篇では利潤概念の論理次元で資本主義的生産様式の歴史的性格と恐慌の根拠の具体化を図っていると考えられます。したがって先述の二つの有名な文章(「搾取の条件とその実現の条件は同じではない」と「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」)はそのまま第15章に置かれるのが適当であると思われます。さらには、「恐慌の根拠」を超えるいわゆる「恐慌の運動論」は恐慌=産業循環論として、市場価格範疇が全面的に展開する「競争論」の次元で本格的に検討されるべきものと考えます。もっとも、不破氏によればマルクスは「資本一般」概念を克服したとされるので、「資本一般」と「競争」という二元的論理構成――恐慌論でいえば、「資本一般」論で恐慌の可能性と根拠を、「競争」論で恐慌の運動論=産業循環論を研究する、という構成――は否定されると思います。とりあえずここではその問題は措きます。
再び不破氏の第14・15章不要論に立ち返ります。不破氏は経済学の「大変革」より前のマルクスは第15章について「利潤率の傾向的低下が恐慌の根拠となり、資本主義的生産様式の必然的没落に導くことを立証する」という間違った課題を設定していた、と考えています。先述のように私見では、もともとそのような課題設定はなく、不破氏のそのような見方は誤った先入観に基づいており、そのために第15章について無用の違和感を抱いて、見当違いな批判をすることになったと考えます。しかし仮に私のそのような見方の方が間違っており、不破氏の方が正しかったとしても、依然として「不要論」は成立しないと思います。なぜならマルクスが「間違った課題設定」をしていたとしても、その苦闘の成果である現行第15章そのものは、整序するならば資本主義的生産様式の本質論としても恐慌論としてもその基礎として活かすことができるからです。
『資本論』第2・3部のエンゲルスの編集が問題とされ、多くの批判があるようです。たとえば不破氏は、第3部の表題について、マルクスの原題「総過程の諸姿容」をエンゲルスが「資本主義的生産の総過程」に変えてしまったのは間違いだとしています(120・122ページ)。これは私も常々そう思っていたので共感しました。しかし第3部第3篇の第14・15章を削除すべきという主張には以上の理由からとうてい賛成できません。不破氏はマルクスの経済学草稿をおそらく原文も含めて読んで研究されています。それに対して、新日本新書版の『資本論』を読んだ限りでいろいろと疑問を呈するのははなはだ失礼とは思いますが、それだけでも多少は言えることがあると思い、素人なりの率直な意見を書きました。妄言多罪。
朝ドラ「ひよっこ」メモ
○最高傑作ドラマのメッセージ
NHK連続テレビ小説をたくさん見たわけではないが、私が見たうちでは2017年4月から9月まで放送された「ひよっこ」は朝ドラの最高傑作だと思う(以下敬称略)。戦争の記憶がまだ残る高度成長期の茨城と東京を舞台に、集団就職の名もない農家出身の労働者をヒロインとしたこのドラマは、たとえば「一人一人の登場人物が、それぞれに輝いていく筋立てが見事」(放送作家・石井彰、「しんぶん赤旗」7月31日付)とか「名作と言える一本となった」、「憲法と歩むヒロイン」(碓井広義上智大学教授、同9月4日付)と称えられる。そういう中でも私としては次のコラムに最大の共感を捧げたい。
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(TVがぶり寄り)「ひよっこ」にハマる
「おとうさん、『ひよっこ』面白いですよね。おとうさんは毎日見ていますか?」と主人公・谷田部みね子(有村架純)のナレーションを真似(まね)てみる、朝ドラにハマる私です。
みね子の独白ナレーションは「北の国から」の純や蛍のそれにも通じる、人には告げないけど大切な心の声。増田明美による物語進行の語りも楽しいが、みね子の声は、このドラマが人の気持ちを大切にし、丁寧に描いていることの象徴だと思う。「みんな、それぞれに色んな気持ちを持って生きてんだなと思いました」と19日放送の回でみね子が独白したように「ひよっこ」は、色んな気持ちをすくい上げてくれる。
例えば、みね子たちが働いた工場が閉鎖される日、同僚の豊子(藤野涼子)が「やだ!」と言って工場の鍵をかけて籠城する。そこで、主任の松下(奥田洋平)は機材搬出の人たちを止め、豊子が現実を受け入れるまで待ってあげる。働く人の気持ちが大切にされる素晴らしいエピソードで、朝から大泣きした。
最近のNHK朝ドラは何かになりたいと夢に向かう姿を描くことが多かった。でも、みね子は日々を働き、人と出会い、戦争の傷痕や様々な事情に感じて考え生きていく。それがどんなに意味のある、素晴らしい人生か! 忘れられないドラマになりそうだ。(ライター・和田靜香) 「朝日」6月24日付
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岡田惠和の脚本はきわめて饒舌であり、心の中にあることや普通なら行間に任せることもあえて台詞やナレーションに書き込み、おせっかいに説明する。「みなまで言うな」というヤジが飛んできそうだがあえて気にするふうもなさそうだ。そうまでして「人の気持ちを大切にし、丁寧に描いている」。我々の現実生活では飲み込んでしまう言葉がとても多いのだけれども、そこにあるだろう潜在的会話を顕在化している。それはともに率直に語り合えることの大切さをメッセージしている。岡田脚本は日常生活とそこでの会話に対する鋭い洞察の上に成立している。
みね子と同じアパートに住む、謎めいた美人の早苗は、普段から歯に衣着せぬ物言いで人に接する怖い女だ。ある日みんなで集まって話しているとき、互いに気を使って避けている話題について、彼女は「あることをみんなが気にしていても触れないようにしている」雰囲気が嫌だと言って、あえて話題にする。早苗の強烈なキャラクターは、率直なコミュニケーションを求める姿勢だったのだ、とこのとき思った。ドラマの進行につれて、会話劇での彼女は、錯綜しがちな話題の核心を取り出しまとめる役割を果たすようになる。
○個人の尊厳
「ひよっこ」には悪い人が一人も出てこない。話を転がすための単なる手段となる人も一人もいない。一人ひとりがそれぞれの人生の経験を背負い、それぞれの道を切り開いていく主体として描かれている。先に「一人一人の登場人物が、それぞれに輝いていく筋立てが見事」(石井彰)とか「憲法と歩むヒロイン」(碓井広義)という言葉を引いたように、ドラマは個人の尊重と幸福追求権を規定した憲法13条を体現している。
その点で最も鮮やかなのがみね子の母・美代子の闘いだろう。夫の実が音信不通になり、美代子は東京へ探しに行く。出稼ぎ労働者の「蒸発」はいくらでもあり、警察には軽くあしらわれるばかり。美代子は抗議する。――いばらきです。いばらぎではありません。出稼ぎ労働者を一人探してくれと言っているのではありません。ちゃんと名前があります。谷田部実です。茨城県奥茨城村で生まれ育った谷田部実です。――
諸個人は法的には平等でも、経済力を始めとして様々な格差の中に生きている。社会の現状では弱い立場の個人はそのハンデを乗り越えるため闘わざるを得ない。個人の尊厳をかけて、「田舎者」である美代子は渾身の力を込めて、「都会の権力」の冷たさに抗っているのだ。
失踪していた実が見つかったときにも、美代子は果敢に闘う。頭を打って記憶喪失になった実は「雨男さん」(雨の日に出会ったから)と呼ばれて大女優の川本世津子と秘かに暮らしていた。夫を取り戻すべく、美代子はみね子とともに世津子の自宅に向かう。世津子はもはや観念していて丁寧な物腰で美代子に接し実を返そうとする。美代子はそれでも怒りが収まらない。なぜ負傷した実を見つけたときにすぐに身許を確かめて返そうとしなかったか、おそらくいるであろう家族がどんな思いをしているか分からなかったのかと詰問する。大女優と百姓女である。美代子はコンプレックスを抱かざるを得ない。しかしどんなに差があろうとも、彼女は幸福を追求する必死の闘いを貫徹する。
個人の尊厳の点では、岡田惠和は現代の若者にメッセージを送ってもいる。父が行方不明になり、みね子は家計を助けるため東京への就職を決意する。しかしもう就活時期は終わり、まともな就職先が残っているとも思えない。みね子は高校の担任の田神先生に「何でもいいから、どんな仕事でもするから」と頼み込む。先生は怒る。――何でもいいから、なんて言うな。自分の大事な生徒にいいかげんな就職先を世話するわけにはいかない、と――。自分を大切にしろ、自尊心を持て、という自己肯定感を促すメッセージ。ドラマはそれをむしろ今の若者たちに向かって発している。
奇跡的に欠員ができて無事に就職先は決まる。いてもたってもいられなくなって、その晩のうちに先生はみね子の家に自転車で駆け込んで知らせる。電話の無い不便さを補って余りある熱い情熱に、日本社会の青春時代を感じさせる。
○地方と東京
ドラマのテーマの一つは「地方と東京」。地方人のコンプレックスと東京人の上から目線を捉えつつも、両方を温かく包み込む。みね子は、東京は怖いところだと想像する。おじの宗男は東京に行ったことがないけど、こう諭す。「人が暮らしてるところはいいところだ」。
実は出稼ぎ先の東京で洋食屋「すずふり亭」に立ち寄る。主人の鈴子に対して、実は五輪スタジアムなどをつくったことを遠慮がちに話す。地方出身者が東京の街をつくっていることを念頭に、鈴子は「誇ってもらっていいんですよ」と励ます。そして「東京を嫌いにならないでくださいね」とつけ加える。彼女は東京を愛し、地方の人々の心も知っているのだ。
地方と東京には格差があり、人々の意識も違う。しかし人間としては平等であり理解し合えるということが根底にはある。高度経済成長を支えた名もない人々と彼らが織りなす日本社会、地方と東京の光と影がさりげない会話の中に描かれている。
○職場を描く
赤坂の洋食屋「すずふり亭」のシェフ・牧野省吾の話が泣かせる(6月16日放送)。
みね子は「すずふり亭」のホールの仕事に取り組み、慣れない中でも皿を割っていないことだけは秘かに自負していた。ところが省吾から料理を早く持っていくようせかされたときに、初めて割ってしまいすっかり落ち込む。それを見た省吾は自分の言葉を怖がってみね子が落ち込んでいると勘違いして、それを謝って店づくりへの思いを語ろうとする。みね子が落ち込んだ本当の原因はすぐわかったので話を止めようとするが、鈴子(省吾の母)に促されて、収めかけた言葉を継いでいく。
省吾の父は全然怒らない人だった。自分もそういう店にしたいと思っている。省吾はかつて大きなレストランで修業していた。そこは調理場とホールが離れており、調理場の様子は客には見えないし聞こえない。調理場では上下関係に基づき、ひどい言葉や暴力が蔓延していた。ホールの人に対してもすごかった。こんな雰囲気でつくった料理なんかうまいものか、と思っていた。
軍隊時代には物事がうまくできなくていつも殴られているやつを見るのがつらかった。かばえば俺が殴られる。一番悲しかったのは、殴られていたやつが下の者を殴るようになったことだ。嫌なものを見た、見たくないと思った。でも人間はやられっぱなしじゃ生きていられない。無理もないところがある。戦争が終わって、もうそういうのを見なくていい。それがうれしかった。気づかないうちにみね子を怖がらせていたらいやだな。
みね子は、「そんなことを考えさせてしまってすみません」と謝る。
ホールスタッフの高子は調理場から早く持っていくように言われることには腹を立てている。冷めないうちに持って行けと言うのはもっともなことだが、こちらにもやることはたくさんあるのですぐにできない場合もある。そういうときはほんの少し復讐する、という。調理場に向かって「○○まだですかあ」といかにも待ち遠しそうな表情をつくって言う。「あ、その顔あるある」とにくたらしそうに、調理人の元治は同様の表情で対抗する。二人の応酬が続く。鈴子は「いいねいいねこういうの」と率直に話し合える職場を喜ぶ。
みね子のナレーション。「私は恵まれています。素敵な職場です。ありがたいです。お父さん働いていますか。そこには笑顔がありますか」。
この職場シーンでは、まず省吾が語る軍隊とレストランの体験について考えたい。そこでは弱いものがより弱いものを叩く連鎖の悪循環が描かれている。それは人間の醜さだが、それを直視しその原因を考え、それを許さない社会のあり方を考えなければならない。できない者がいじめられる光景は、その中にいると、できない者に原因があるように見える。しかし本質的にはそのような場の社会的あり方に根本原因がある。
省吾の視点は現場に埋没していない。埋没していれば不条理に不感症で当たり前となる。その批判的視点を支えるのは根本的には人間的センスであり、補うのは憲法・人権・民主主義を体得することであろう。
○労働観と資本主義観
みね子のナレーションにあるように、「すずふり亭」は理想の職場として描かれている。みね子がその前に働いていた向島電機でも仲間とともに楽しく働いている。「ひよっこ」には疎外された労働の現場は出てこない。それはあくまで本源的労働を描いている。鈴子や省吾が従業員とともにつくり上げた「すずふり亭」の職場シーンは、疎外されない労働のあり方、それを保障する社会のあり方を考えさせるエピソードとなっている。
『資本論』は資本主義的労働を「労働過程と価値増殖過程」という二面性において捉える。資本主義的労働は価値増殖過程であることによって、労働者に対する資本の搾取を成立させ、それは必然的に疎外された労働となるが、その基礎には、どのような特定の社会的形態にもかかわりない本源的な労働過程がある。「ひよっこ」に疎外された労働が登場しないのは、ある意味一面的であり現実美化であるかもしれないが、そこには現実批判の基準がある、と考えればよいだろう。軍隊やレストラン職場での経験に対する省吾の批判的視点を先に紹介した。どこでも現実に対するそのようなまっとうな人間的センス・人権感覚とそれに基づく社会観が必要だが、その不可欠の要素として、価値増殖過程としての資本主義的労働を批判する基準としての本源的労働過程の視点が忘れられてはならないと思う。
貧しい農家出身のみね子は貧乏を正面から捉えそれを憎んでいるが、負けないように明るくふるまっている。父親がいなくなって集団就職で東京にやってきて家に仕送りをしていることも自分の生き方として納得し充実した生活を送っている。だから可哀想などと思われたくない、と初めての恋人である学生の島谷に語っている。それは彼を感動させる。島谷は佐賀県出身で社長の息子だ。父親の会社が経営不振に陥り、その打開のために政略結婚の話が持ち上がる。彼はみね子のために親と縁を切ってでもその話を断ろうとする。みね子はその気持ちは嬉しいけれども、島谷の話を聞いて結局別れを告げる。
島谷は「お金がなくても自分らしく生きればいい」と紋切り型の台詞を言う。それに対してみね子は「島谷さんはまだ子どもなんですね」とたしなめ、貧乏はどんなに惨めなことかを切々と訴える。――貧乏にいいことはない。それでも明るくしているのは、そうしないと生きられないから。貧乏がいいと思っている人はいない。そして「親不幸な人は嫌いです」と――。
浮ついたドラマではなくて、生活と労働を見据えていることを印象付けるシーンだ。しかし貧乏を描いても資本主義批判があるわけではない。みね子は真面目に働けば報われると信じている。おそらく資本主義への批判意識はないだろう。それは生活が向上していく高度経済成長時代の一般的な意識だろう(もっとも、当時は社会主義の権威が高く、今と比べれば資本主義批判は強かっただろう。現代日本で資本主義批判の意識が非常に低いことは特別に問題にすべき課題ではある)。向島電機が不況で工場を閉め、みね子たちが解雇される場面は、資本主義社会の現実を反映しているが、労働内容や労働条件が批判的に描かれているわけではない。当時の集団就職の実態については「しんぶん赤旗」日曜版の7月16日付に体験談と研究者の解説があり、地方と東京圏との格差や沖縄差別などが指摘されている。
ドラマは貧困を捉えているけれども、その社会的原因として資本主義批判を展開するわけではない。しかし労働過程について述べたのと同じように、人間・労働・社会の本源的あり方を描くことで、現実批判の基準を与えているとは言える。私は労働価値論の視点とはそういうものだと思っている。
ドラマでは向島電機でのトランジスタラジオ組み立て作業が描かれる。みね子の暮らす「乙女寮」での同僚との交流は物語上とても大切なテーマだ。冒頭に引用した和田靜香のコラムに登場する工場閉鎖時における「豊子の反乱」では、主任・松下の労働者らしい思いやりが感動を呼んだが、それだけでなく、工場に籠城した豊子の演説が素晴らしい。
豊子は心ならずも中卒で地方から東京へ働きに出てきた。勉強はできるのになぜ自分が、という思いがある。故郷では「自分はまわりとは違う」と思い、不本意で孤高な日々を送る。東京に来てもそれは続く。同僚の時子からそれを見透かされ、ここで生まれ変わるように諭され、豊子は心を開いていく。ここまではドラマを見ていた人は知っていることで、工場閉鎖のときに豊子がそれをしゃべったわけではない。その日、豊子は「やだ!」と言って工場の鍵をかけて籠城する。そして自分が工場での労働と仲間との交流の中でかけがえない居場所を見つけ、自己変革したことを語る(確かそのようなことを語ったように思うが、私の記憶はいささかあいまいではある)。その大切な工場がなくなるのは耐えられないのだ。一人の少女が労働者としての自立と自己実現を語ったのだ(と思う)。ドラマは労働者一人ひとりの階級的自立と連帯を描くところまで迫っていたようだ。
みね子と島谷の住むアパートの大屋である立花富はもとは芸者で多くの男女の行く末を見てきた。島谷がみね子との結婚を考えていることを聞いたとき、身分差のあるむずかしさを指摘する。島谷が「今どき身分はない」というのに対して、富は「身分は百年たってもなくならない」と反論する。ずいぶん無粋ではあるけど、これを経済学と史的唯物論の観点からどう考えるか。
端的に言えば、法的平等が実現し、前近代の身分はなくなっても、近代以降も経済格差はある。近代資本主義社会は、商品経済が支配的になって、人格的独立と自由・平等を実現し前近代社会の身分を廃止する。しかし奴隷制・封建制のような前近代の共同体社会も近代の資本主義市場経済も搾取経済という点では同じである。ただし前者では搾取は明白であるのに対して、市場のベールに覆われた後者では搾取が見えない。搾取は見えないけれど、経済格差は見える。したがって、「今どき身分はない」というのは間違いないが、「身分は百年たってもなくならない」というのも必ずしも間違いとは言えない。「身分」という不正確な表現ではあるが、あからさまな経済格差の底に、隠された搾取の存在を何となく感じ取っていることを、それは表わしているのだから。
しかし商品経済における人格的独立と自由・平等はその発生に伴う歴史的制約を超えて普遍的意義を持つ。それは搾取を伴うから欺瞞ではあるけれども、搾取階級が搾取を隠さざるを得ない点に被搾取階級の闘いの橋頭保を見つけることができる。被搾取階級は搾取のない人格的独立と自由・平等を求めて闘うことができる。その闘いを法解釈という次元で敢行する視点に関して、長谷川正安氏は「ブルジョア法の形式的・外見的超階級性を手がかりにして、労働者的価値体系にたつ解釈者が、資本家的価値体系の所産である実定法を解釈することの可能性」を指摘し、そこから「労働者階級の価値体系にもとづき、ブルジョア法の超階級性を利用した法の解釈こそ、真の多数者の法解釈として真理性をもちうる」と主張している(『憲法解釈の研究』、勁草書房、1974年、20ページ)。法解釈のみならず、立法をめぐる政治闘争の本質もまさにここにあると言えよう。
資本主義経済を商品=貨幣関係の次元で見たときと資本=賃労働関係の次元で見たときとの矛盾は先の「身分」論争にもあるように、資本主義社会に生きる諸個人の日常意識に現れる。そこに搾取階級の欺瞞と被搾取階級の闘争の可能性との両者を見ることが必要だろう。
何だかまた暴走してしまった。安倍を笑えない。あいまいな記憶をもとにまとまりもなくあれこれ書いてしまったのだが、とにかく朝ドラ「ひよっこ」は傑作であり、感動しながらいろいろなことを考えさせてくれる、というのが結論。
2017年9月30日
2017年11月号
新自由主義の反動性
中西新太郎氏の「新自由主義国家の強権性と社会統合 安倍政権のヤヌスの貌」はイデオロギー論であり、小栗崇資氏の「日本経済における内部留保の構造 過剰な蓄積とその活用」は会計学的研究であるという意味では、それぞれずいぶん分野の異なる労作です。しかし資本主義的蓄積の停滞期における搾取強化による打開、という新自由主義の本質に迫るという意味では共通のテーマに挑んでいると言えます。
20世紀の資本主義はその生産力発展を通して、社会の全成員の安定した生活を保障できる段階を迎え、いわば成熟社会を実現する可能性を手に入れました(あくまで可能性に留まるが)。21世紀はその可能性を引き継いだはずですが、現実には格差と貧困が拡大しています。そこでは所得再分配によって貧困を克服した平等な社会を実現し、その上で生産拡大のスピードを落として、生活の質的深化を目指すべきですが、資本主義にそれはできません。生活のための生産ではなく、資本間競争の自己目的的追求の下で、生産のための生産、蓄積のための蓄積が行なわれているからです。資本が主人公の社会を止揚して、人間が主人公の社会へと人類史は進む段階に達しているはずなのに、目先の効率性が優先され、その次元での競争が繰り広げられています。遺憾ながらこうしていわば旧体制としての資本主義が生き残っており、その存在形態が新自由主義なので、そこにあらゆる非人間的不合理が詰まっています。新自由主義下では、生産過程における搾取強化と金融化が進行し、資本主義の寄生性と腐朽性が最高度に拡大していきます。そうした中、日本資本主義において、一方でその土台ではたとえば21世紀に入ってから内部留保の異様な蓄積が見られ(小栗論文)、経済発展の桎梏となっています。他方、上部構造では、新自由主義は自らがもたらす社会的諸矛盾を解決できないため、復古主義イデオロギーを社会統合に動員することになります(中西論文)。しかし安倍政権に見られる強権性は必ずしも復古主義だけから来るものではなく、新自由主義自体からも生じます。それ自身が強権性を持ち、さらに復古主義のような幻想的イデオロギーを補完物として備えるということで、新自由主義イデオロギーそのものがきわめて反民主主義的で反動的な性格を持っているということができます。
内部留保の過剰蓄積と新自由主義政策
大企業が内部留保をため込んでおり、そのために労働者の作り出した価値が社会的に循環せず経済停滞の原因になっている。したがって賃上げや下請け単価の適正化などによって内部留保をはき出すことで内需循環的な国民経済を取り戻すことが日本経済の最重要課題である――そういったことをずいぶん前から日本共産党は主張してきており、長らく無視されてきましたが、ようやく最近になって保守勢力からも注目されるようになっています。それは経済停滞が長期化し、鳴り物入りのアベノミクスも破綻する一方で、内部留保の蓄積が目に余るようになり、もはやそれを含む大企業批判をタブー視することができなくなってきた結果です。そういう情勢下で内部留保の問題を紋切り型で繰り返すだけではなく、近年における内部留保激増の要因を捉え、それを通して日本資本主義の変容を明らかにし、内部留保の活用の道を探ることがきわめて重要です。小栗崇資氏の「日本経済における内部留保の構造 過剰な蓄積とその活用」はその課題に迫っています。
小栗氏は、21世紀になって内部留保が急増したことを指摘し、それについて1971年から2015年までを15年ごと3期に区分して比較することで、鮮やかな結論を導き出しています。以下では、1971~85年度を第1期、1986~2000年度を第2期、2001~15年度を第3期とします。第1期は「国際通貨危機とオイルショックの影響下で高度成長から低成長への移行を経て、再び景気回復過程に入る段階であり、バブル突入直前の段階」(63・64ページ)、第2期は「バブル経済の隆盛とその崩壊後の不況の段階」(64ページ)、第3期は「21世紀に入ってから今日に至る段階」です(同前)。内部留保は3期を通して絶対量だけでなく、総資産に対する割合においても増加していますが、増え方に違いがあります。資本金10億円以上の大企業で総資産に占める公表内部留保(利益剰余金)の割合の変化を見ると、次のようになります(63ページ)。
第1期 8.9%→11.4%(2.5ポイントの増加)
第2期 12.0%→14.7%(2.7ポイントの増加)
第3期 14.3%→22.8%(8.5ポイントの増加)
ここですぐに目につくのは、第1・2期に対する第3期における内部留保割合の急速な増大です。それを考える前に、第2期の中の興味深い事実を採り上げます。第2期の初めのバブル期(1986~90年度)にはこの割合にあまり変化はなく、後の不況期(1991~2000年度)に12.3%から14.7%に増えています。したがって、バブル期には利益分配が盛んに行なわれ、逆に不況期には経済リスク増大への対応の中で、資金を企業内に溜め込もうとする防衛意識が強まった、と小栗氏は推測しています(64ページ)。すると第3期が、第1・2期と比べて内部留保の割合を急増させているのもその延長線上に捉えることができるかもしれません。
第1期には売上高が相当に伸びる(3.4倍)中で利益も増大して内部留保が形成されました。第2期では、売上高の伸びは第1期に比べれば減速しました(1.5倍)が利益は確保して内部留保の増加が生じました。しかし第3期は様相が異なります。売上高は1.1倍にしかならないのに、利益が増大し、その多くが内部留保に回り(64ページ)、上記のように内部留保の割合が8.5ポイントも増えています。おそらく不況で企業防衛意識が強まったとはいえ、内部留保を増やそうという動機はそれで分かりますが、それを可能にした条件は何か、が問題となります。小栗氏は「なぜ21世紀に入ってから巨額な内部留保の形成に至ったのであろうか」と問い、「それは1990年代からの新自由主義的な政策の結果であると考えられる。第一は、従来の日本的な雇用制度を解体して、正規雇用を減らす一方、非正規雇用を拡大することにより、労働者の人件費を抑制するという政策であり、第二は、消費税の増税と抱き合わせる形で、法人税の減税を進めるという政策である」と答えています(64・65ページ)。
次いで小栗氏はこの2要因がいかに利益を増加させ内部留保の積み上げに貢献したかを詳細に検討しています。その結果、2001年から15年までの15年間で、非正規化による人件費削減によって67.1兆円、法人減税によって30.0兆円、合計97.1兆円が膨大な内部留保増加の主要な要因となった、と指摘しています(67ページ)。
さらに内部留保の使途を見ると、この第3期の異常さはいっそう鮮やかに際立ちます。第1・2期は売上高の増加によって内部留保を形成し設備投資にかなり回しています。それに対して、第3期では、売上高は伸びず、人件費削減と法人減税によって内部留保を形成し、その使途を見ても、設備投資はむしろ減少し、金融投資・自社株購入・子会社投資に回っています。子会社投資といっても決して生産的性格ではなく、本社の事業充実ではなく「子会社を増やして企業グループを拡大する傾向」とか「近年では海外における子会社設立やM&Aによる子会社買収が激増しており、日本経済の空洞化をもたらす原因となってい」ます(68ページ)。結局、「莫大な内部留保は生産的な使われ方ではなく、株主資本主義あるいは金融資本主義を助長するような使われ方がなされているといわねばな」りません(同前)。
69ページの図2「増加した内部留保の要因と使途」はこの論文の白眉です。それは第1・2・3期それぞれの内部留保の構造を簡潔にまとめて図示し、それによって以上述べてきたことを一覧に示すことで、第1・2期との対比で第3期の「要因と使途」の異常さを鮮やかに暴露し、21世紀の日本資本主義が特別に寄生性と腐朽性を強めていることを明らかにしています。その背景にあるのは新自由主義の政策であり、国家権力とイデオロギー支配を通じて労働者の抵抗をくじき財政を大資本に奉仕させています。
以上だけでもなかなか衝撃的な解明ですが、小栗氏はさらに追い打ちをかけます。「しかし、人件費削減と法人税減税の要素がなければ内部留保が生まれなかったわけではない。二つの要素がなくても21世紀以降の企業経営の中で多額の内部留保の形成はありえた。実は内部留保になりえたであろう利益部分がほとんど配当に回ったと考えられる」(70ページ)と指摘しています。そして第3期の配当がもし第2期と同程度の増加であった場合と比較すると現実には67.2兆円の超過になっている、と推計して、次のように喝破します(同前)。
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21世紀以降、株主資本主義への急速な変容の中で、大企業においては、株主の配当のみ増大しているのである。利益を株主の配当に回してしまう一方、それに代わる新たな利益を人件費削減と法人税減税によって生み出してきたといえる。まさに労働者への犠牲や国民の負担によって巨額の内部留保を形成してきたのが、21世紀以降の内部留保の構造であるといわねばならない。
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21世紀の日本資本主義における内部留保の過剰蓄積を分析することで、その蓄積を可能にした新自由主義政策の反人民的性格がこのように明らかになりました。内部留保の過剰蓄積が日本経済の発展を阻んでいることを考え合わせると、新自由主義の反動的性格を指摘することもできるでしょう。
次に問題となるのは内部留保の活用です。小栗氏は内部留保の8割近くが活用可能な換金性資産から成っており、それは国家予算を超える137.9兆円にもなることを明らかにしています(71ページ)。したがって、社会の声により政府と企業の姿勢を変え、賃上げや下請け条件の改善あるいは大企業優遇税制を転換させることが必要であり、さらには内部留保への課税も無理ではない、と主張されます。こうして、新自由主義による極度に反人民的な資本主義を少しでもましなものに転換していく可能性が十分にあります。新自由主義構造改革による規制緩和=資本の自由の解放があたかも社会進歩であるかのように喧伝されていますが、株主資本主義と新自由主義政策に対抗する民主的規制にこそ経済発展の展望があります。
新自由主義と復古主義イデオロギー
私は以前より自民党の路線について、「新自由主義を中心としつつ、ケインズ右派、真正保守主義をも利用して階級支配を維持しようとしている」と捉えてきました(拙文「今日の政治経済イデオロギー」、2000年{←「店主の雑文」←「文化書房ホームページ」})。この三つの潮流のうち、ケインズ右派の路線はかつて高度経済成長を牽引し、土建国家と限定的な「福祉国家」とをつくり上げてきましたが、未だ隠然とした力を持っているとはいえ、グローバル資本の台頭による新自由主義構造改革路線の覇権確立の下でイデオロギー的影響力は凋落しています。「真正保守主義」という表現は、たとえば亀井静香氏のように新自由主義構造改革を毛嫌いする右翼的政治家、あるいは西部邁氏や佐伯啓思氏といった左翼崩れの保守イデオローグなど、保守反動派の中で新自由主義に対抗する傾向を強調するものです。その含意は、本来的には新自由主義と保守反動とは両立しえない、ということですが、自民党は新自由主義を基軸としつつもあえて保守反動をも利用し、旧主流派のケインズ右派も取り込んで支配を維持してきました。小泉政権においては新自由主義路線の中心性がはっきりしていましたが、安倍晋三という極めて右翼的性格が強い首相を戴く政権では、自民党のこの総合的というか野合的性格はどうなっているのかが問題となります。今号の特集「安倍『新自由主義』と復古・国家主義」はそうした問題意識に応えるものでしょう。
中西新太郎氏の「新自由主義国家の強権性と社会統合 安倍政権のヤヌスの貌」は冒頭で、安倍政権は確かに復古主義政権であるけれども、その政策的検討から、新自由主義政権というもう一つの貌を持つことを断言しています。中西氏は「現実の社会的・政治的力学の下で行動する政権を、新自由主義、復古主義等々の理念にもとづく首尾一貫した政権として原理主義的にとらえるのはリアルではないだろう」(15ページ)という一般論的注意を促しつつ、たとえば社会民主主義政権や右派政権が新自由主義的政策を採用することが現実にあることをにらみながら、「新自由主義グローバリゼーションの巨大な圧力がそれぞれの政権に迫って新自由主義的政策を取らせ、政権党の理念・イデオロギーを揺るがしている」という「歴史的現実」(同前)を指摘しています。この新自由主義グローバリゼーションによる規定性こそが、今日の現実を見て、その中での政権の政策とイデオロギーを判断する場合の肝です。それは政権の性格を見る際によくあてはまります。政権とは多くの場合、支配層(今日ではグローバル資本が主流)の意向に沿って権力を執行して行政を担うのだから、そういう意味で「責任ある」政権は、元来のイデオロギー的性格がどのようであれ、新自由主義グローバリゼーションの規定性に強く縛られるからです。しかしそれは政権以外にも政党・政治家の性格を見る際にも一定妥当するでしょう。
安倍首相自身は保守反動の復古・国家主義的性格を色濃く持った政治家ですが、日米グローバル資本に依拠して政権を維持するためには新自由主義的政策を中心に据えざるを得ないでしょう。そしてときに歴史修正主義などの問題でそういう後ろ盾との軋轢を抱えつつも「むしろ、右派政権であるがゆえに新自由主義的統治にとって有用な政治的役割を果たしているとの判断が成り立つ」(同前)のです。
田園風景などに代表される日本の自然と伝統文化は何も保守反動派だけに占有させるべきものではありませんが、とにかく安倍氏ら保守反動派の心性に深く根付いているはずではあります。そういったものを新自由主義は破壊していくのだから、亀井静香氏らのように新自由主義を憎むのが本来の保守反動派の姿です。しかしグローバル資本が中心となった支配層の意を受けて政権を担う以上、それは封印してむしろ保守反動の強権的性格で新自由主義政策を強引に推し進めているのが安倍政権であり、戦争法の制定など従来の保守政権がなしえなかったことを強行して米日支配層から高い評価を得ています。また新自由主義の政策からは、格差・貧困に代表される社会的諸矛盾が必然的に生じるのですが、それを糊塗するのに復古・国家主義が重要な役割を果たすという意味でも、支配層にとって新自由主義と保守反動との野合は重要です。
この野合を推進する新自由主義の性格を見ることも必要です。「小さな政府」論など、国家介入を否定した市場競争の推進というのが新自由主義のイメージとしてあります。しかし「新自由主義的統治が強力な国家統制を志向せず実践しないという通念は新自由主義的統治の現実に反する。市場競争を社会生活の全領域に押し広げようとする新自由主義理念の実現は、その障害となる社会構造や意識、抵抗運動などを解体・排除しなければならず、実際、国家権力を用いた強権的な解体・排除がすすめられてきた」(16ページ)と中西氏は指摘しています。私はもともと新自由主義の本質を実体経済における搾取強化と金融におけるカジノ化と捉えてきたので、市場原理主義はその現象形態としては重要でも、むしろ本質的には資本原理主義と捉えるべきと考えます。たとえば公共領域への市場の拡大は新自由主義の重要な政策ですが、同時に生産過程における搾取強化として現われる資本の専制支配を福祉や教育など公共領域や政治にも拡張するのが新自由主義政策の本質であると思います。安倍政権の異常な民主主義破壊は保守反動の地金だけでなく、資本の専制支配としての新自由主義の性格からも出ていると捉えるべきでしょう。
そのようにして強権的に進められる新自由主義構造改革は社会的諸矛盾をもたらしますが、自己責任原則に立つ新自由主義はその社会的解決の方策を持ちません。かといって「体制思想としての新自由主義が社会からの『敗者(弱者・無能力者)』の排除を公然と唱えることは難しい」(18ページ)わけです。こうして「自ら生み出した統合の危機を克服する自前の統合イデオロギーを持たないことは、新自由主義的統治の脆弱さを生んでいる」(19ページ)ため、復古主義イデオロギーが動員されることになります。しかしその内実が空虚であることや、それが民主主義社会の中で「ポピュラーな同意を得るという制約」(21ページ)下にあり、それが困難であることが指摘されているのは反撃の拠点として重要な認識です。ところがそれにもかかわらず、長い保守支配の下で、権力への依存を組織するパターナルな統治(権威主義的統治)に身を寄せる心性(23ページ)が形成され、そうした土壌の上に、それに甘んじない人々への排除が「反日」というレッテル貼りとして横行しているのが今日の危険な状況です。…等々、復古主義イデオロギーの存立根拠とそれへの対抗の基盤をめぐる考察が中西論文の最も重要な部分であり、もっと熟読玩味すべきところですが、時間不足でこの程度で措きます。
ところで論文では戸坂潤の『日本イデオロギー論』が参照されており、改めてこの古典を読み直すことが現代のイデオロギー状況でも大切なのだろう、と感じられます。おそらく中西氏は戸坂を参考にしつつ今日の復古主義イデオロギーの階級的基盤を次のように規定しています。
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戦前における日本主義イデオロギーの幻想性が帝国主義的海外進出を背景としていた点に比し、現在のそれは、失われつつある日本経済の優越と果実にしがみつき、たとえ権力的にでも既得権を確保したい層の期待とあがきを背景とする幻想性だろう。したがって、新自由主義構造改革・グローバリゼーションで経済的、社会的寄る辺を失った貧困層をこの右派イデオロギーの中心的支持層とみなすのは適切でない。 25ページ
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たとえ今日の幻想的な復古主義イデオロギーが被支配層のそれなりの部分をつかんでいるとしても、その階層に支持の中心があり、そのことが問題の本質だ、というのは間違いで、あくまで支配層の退行性から発する点に問題の本質がある、とここでは捉えられているようです。これまで見てきたように、今日では復古主義が独自に存在しているのでなく、支配層にとって新自由主義を補完するイデオロギーとして存在意義を持っており、搾取強化と支配秩序の維持に貢献しています。そういう意味で支配における実用性の観点から支配層のイデオロギーだと言えるのですが、その幻想性について現代日本資本主義の斜陽性に根拠を求めるのは興味深い論点です。戦前の日本主義イデオロギーと同様に、今日の復古主義イデオロギーも単なる支配の道具ではなく、支配層自身の信条(心情)であり、すがる対象であるならば、それを補完物としている新自由主義を奉じる現代日本資本主義は反動的性格が顕著であることになります。
バブル崩壊後の20年以上もの間に、日本資本主義の停滞の中で構造改革が進み、新自由主義のイデオロギー的覇権は強化され、社会的矛盾の激化とともに復古・国家主義が興隆しています。一方、岩波文庫版『日本イデオロギー論』の古在由重の解説(1977年)によれば、戸坂潤の本領は1932年10月に唯物論研究会をつくってから発揮されたのですが、1938年2月に解散させられ、同年11月には戸坂や周辺の者たちが逮捕されて活動が終わっています。弾圧と対峙した果敢な闘いの中で、わずか6年間余りで機関誌『唯物論研究』発行などの偉大な学問的業績が残されたことは驚くべき壮挙です。今日は「失われた時代」と言われる厳しい状況ではありますが、あの時代を思えば、民主主義がまだ生きている社会にあって、様々な政治闘争・社会運動と結んで、イデオロギー闘争を敢行する中で、社会進歩と学問的発展を実現することが求められています。そこに研究者だけでなく、一般の人々が参加することが必要であるし、運動の中から出てくる条件があると思います。
蛇足かもしれませんが、今日のイデオロギー状況の中で、支配層とリベラルの関係も一つの問題です。2017年10月の総選挙は、安倍・小池・前原という3人の保守政治家のそれぞれの大博打によって進行し、自公政権与党が事前の予想に反して3分の2以上の議席を確保し、改憲勢力は8割に及ぶというゆゆしき結果になりました。大博打によって野党共闘がいったん破壊されたことがこの結果を招いたのですが、市民と野党の共闘は、市民の期待を担った共産党の自己犠牲的献身と立憲民主党の結成によって新たな形で再生し、今後の巻き返しへの拠点を築きました。極めて厳しい状況ではあるけれども、安倍改憲への闘いがすでに始まっているというべきでしょう。
そうしたド派手な政治展開の中でもはや忘れられたエピソードになっているでしょうが、財政社会学者の井手英策氏が前原氏のブレーンとして民進党を応援していました。前原=井手タッグは消費税増税などによって社会保障を充実させるという政策で選挙を闘おうとしたのです。ところがそれを安倍首相がパクって解散総選挙の口実に利用したのです。井手氏の主観的善意は理解するとしても、この政治状況の中でその主張・政策は客観的にはいかなる意義を持ったかが問題となります。
安倍・前原両氏はいずれも新自由主義派で保守タカ派です。新自由主義は、格差・貧困の拡大などそれ自身がもたらす諸矛盾を解決できないので、上記のように復古・国家主義イデオロギーを動員して大衆統合に利用しています。それだけでなくいわゆるリベラルの政策も利用して、社会保障充実などアメによって新自由主義の矛盾を糊塗しながら、あくまで軍事大国化を伴う新自由主義路線を貫徹しようとしたのが井手理論の政治的利用の意味でしょう。原理主義的な新自由主義者ならば社会保障の拡大は言いませんが、現実政治に責任を持たんとする安倍・前原両氏は新自由主義を貫徹するという大枠を守るためには一定の妥協はするでしょう。その際に消費増税というのは、支配層の立場から社会保障の拡大を受容するための最重要な前提条件です(実際には一部の目玉だけで社会保障充実のふりをして、削りやすいところは削ってうまく帳尻を合わせてしまうだろうが)。こうして利用されるところに、人々の生活より体制維持に責任を持つ体制内リベラルの限界があらわであり、そういう姿勢が低所得層などの反発を招き、右派ポピュリズムの跋扈する土壌を生む原因となります。リベラルな「良識派」の人権・民主主義とかの辛気臭い説教(たとえその内容自身が正当であったとしても)より、右派ポピュリストの痛快なバッシングの方が人々の感情を動員できるのです。
井手氏の岩波ジュニア新書『財政から読みとく日本社会 君たちの未来のために』(2017年)を読むと、著者が新自由主義(という言葉は確か登場しなかったと思うが。何らかの教育的配慮か?)のもたらす分断社会に心を痛め、健全な連帯社会を熱望していることが伝わってきます。ただしおそらく基本的観点は、搾取を否定するブルジョア社会科学の立場であり、階級的観点を欠いた社会一般の視点で現実を捉えています。これに対して新自由主義などのブルジョア教条主義はあくまで現実の悲惨さを認めず、自己責任論で「解決」して競争崇拝を貫きます。「現実が悪いのは改革がまだ足りないからだ」。井手氏などはいわばブルジョア現実主義であり、現実の悲惨さへの配慮があり、修正策に取り組むことになります。
新自由主義のもたらす悲惨さを現実的にはブルジョア教条主義(新自由主義イデオロギーの階級的本質)で突破できないところに、支配層の危機感があります。彼らは改革派を自認し、ブルジョア現実主義を守旧派と揶揄してきたのですが、それをあえて動員せざるを得ないのです。しかしどちらも原因を分かっていないから解決には至りません。究極的には、あらゆる社会問題の根源である、搾取システムとしての資本主義を止揚する必要があるのですが、とりあえずその前段の課題としてあるのは、新自由主義グローバリゼーションの暴走に歯止めをかける、つまりグローバル資本への民主的規制を実現していくことです。日本の財政の問題では歳入・歳出双方の根本的見直しであり、その際に消費税の根本的問題点をしっかり把握し、「財源が足りないから消費増税もあり」というのが「良識」であるかのような観点は厳に慎むべきです。
ただし現状では、戦後最悪の安倍政権が存続し、改憲勢力に乗っ取られた国会において安倍改憲を阻止することが至上命令である政治情勢において、体制内リベラルその他の勢力との最大限の幅広い統一戦線をつくる必要があります。たとえ重要な問題で意見の不一致があっても改憲反対の一点共闘が最優先されねばなりません。
2017.10.22総選挙をめぐって
○解散権?
「もりかけロンダリング」解散とでもいうのか、これほどまでに首相個人の露骨な私利私欲によって衆議院を解散したことはかつてなかったでしょう。これからもないことを願うのみ。さすがに悪評ぷんぷんで、解散権の濫用が大問題となり、どうやって規制するかに議論が沸騰しています。私はそもそも7条解散なるものは違憲だと思っています。解散ができるのは内閣不信任案の可決に対する対抗手段だけであるべきです(憲法69条)。それだけでは重要な問題について民意を問うことができないというなら、与野党が話し合って形式的に内閣不信任案を可決させればいいでしょう。これは1948年に吉田内閣が実施しています。首相や内閣の一方的都合だけで解散ができるというのでは行政府の優位が過ぎ、三権分立の趣旨に反します。7条解散違憲論は憲法学会では少数意見らしいのですが、前鳥取県知事の片山善博氏が以前から一貫して主張しており、非常に説得力があると思います。
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衆議院の解散については、憲法六九条の規定によって、衆議院で内閣不信任決議が可決された場合、あるいは内閣信認決議が否決された場合に、それに対する内閣の対抗手段として衆議院を解散することが認められている。したがって、憲法六九条の規定によって解散が実質的に決まった場合にはじめて、憲法七条の国事行為としての解散が行われると解釈するのが極めて常識的なのだが、現実にはそうなっていない。
どういうわけか、こと衆議院の解散に関しては、憲法六九条の事実がなくても七条の国事行為だけで解散できるとする解釈が許されている。憲法七条にこんな非常識な解釈の余地があるなら、憲法改正や法律の公布についても、七条のみを根拠に憲法改正や法律の制定改廃が可能だなどとする珍説が登場する余地もあるのではないか。
片山善博の「日本を診る」連載96 臨時国会冒頭解散と「高度な政治性」への疑問
(『世界』11月号所収) 35・36ページ
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あまりにひどい今回の解散に際して、解散権の制限について、イギリスの例とか国際的動向とかあるいは様々な政治的道義などを考慮して、果ては立憲民主党の枝野氏のように改憲まで持ち出して議論されていますが、そんなことをしなくても片山氏のように、憲法をきちんと解釈するだけですっきりと解決するように私は思います。そもそも7条解散、つまり天皇の国事行為で解散ができるなどというのは、象徴天皇制の趣旨にも反するのではないだろうか。そこでは国事行為はまったく形式的なものであって、それを隠れ蓑に実質的に極めて重要な政治行為が行われるということはあってはなりません。
○排除発言の意義
一時は小池劇場全開で、安倍政権も終わりかと言われていたのですが、意外にもすぐに失速して希望の党は過半数どころか50議席にとどまり、55議席の立憲民主党に野党第一党の座を明け渡しました。失速の原因とされているのが、希望の党に大挙して群がってきた民進党議員に対して、小池代表が踏み絵を踏ませて、政策の違うものは排除すると宣言したことです。確かにあれは驕り高ぶりが明白で、小池氏が野心をむき出しに権力闘争に臨んでいる姿が多くの人々を引かせるのに十分だったとは言えます。政治家としての正体が見えてしまったのです。
しかし「排除の論理が悪い」などという批評は一般論としては通用しそうに思えますが、少なくともこの場合は間違っています。踏み絵の図柄は「戦争法と改憲」という極めて重要な内容であり、選挙の争点として核心を衝くものでした。これへの賛否で選挙を共に闘えるかどうかを判断するのはまったく正当です。これによって希望の党の政策が旗幟鮮明になりました。小池氏は「もりかけ」で失速する安倍自民党とは違う、というイメージ戦略を取っていたのですが、そういう主観的操作とは別に、客観的には政策が第二自民党であることが明白になりました。
その下で希望の党が失速し、自民党との政策的違いの鮮明な立憲民主党が躍進したことが重要なのです。ただしそれでも過半数ははるか遠いとはいえ、50議席も取ったというのは幻想がその程度は残っていたということです。そういう状況で「排除の論理批判」というのは、希望の党と立憲民主党との政策的違いをあいまいにして統合的に扱い、自民党との保守二大政党制を志向するものであり、戦争法の強行などに象徴される安倍暴走政治を打倒するという根本的問題を忘却させる役割を果たしているのです。
ただし改憲派8割という国会議席を前にして、希望の党などの個々の議員を切り崩していくことは必要であり、戦争法や改憲などについての政策をはっきりさせることは堅持しつつも、総選挙時の誤りをタテにして頭から排除してしまうことは避けねばなりません。
この間の小池氏の動向を中心に政局を見るとこうなります。戦争法反対闘争が非常に高揚し、安倍暴走政治への批判が高まりつつあるも、なお内閣支持率が回復し高止まりしているという微妙な状況の下、民進党内の保守派は野党共闘路線の枠内に息をひそめていました。ホンネとしては反共保守路線に行きたいながらも、党を右に割って出ても、そのような第二自民党路線に展望を見出せなかったのだと思います。ところが民進党の低迷を尻目に、小池百合子氏が都知事選と都議選に圧勝するのを見て、第二自民党路線でも、「もりかけ」で失速しつつある安倍自民党とイメージ的区別を図りさえすれば活路を見いだせる、よって晴れて野党共闘を破壊できる、と決断したのでしょう。
こういう状況下では小池氏の成功が野党共闘を破壊するのは必然です。まず細野氏が党を飛び出して小池氏の下に走り、ついには前原氏が党をまるごと小池氏に売り払うという暴挙に出ました。しかしこの間の市民と野党との共闘は世論に一定のアピールをしており、その実績に支えられて、枝野氏らが立憲民主党を立ち上げることが可能になりました。破壊された野党共闘は新たに再生しました。もしそれまでの共闘の実績がなければ、民進党はまるごと希望の党に移り、第二自民党路線に突入していたことでしょう。このように「安倍暴走政治 VS 市民と立憲野党の共闘」という太い対立軸こそが今日の政治を深いところで動かしているのです。
この対立軸の下で、共産党の自己犠牲的奮闘と立憲民主党の躍進に焦点を当てるのは正当ですが、それだけでは自己満足に過ぎません。共産党の後退をどう捉え打開していくかが重要ですが、ここでは措きます。世論の全体状況をどう捉えるかが最大の問題です。それについては小熊英二氏の分析が参考になります(「朝日」10月26日付)。小熊氏は「日本人は右が3割、左が2割、中道5割」という安倍首相周辺のリアルな認識(したがって中道の右半分を確保しさえすれば安倍は勝てるので、それ向けの政策をアピールする)に基づいて、過去の選挙結果などを分析し、「自公に勝ちたいなら、リベラル層の支持を維持しつつ無党派票を積み増す」(という、2009年総選挙で民主党が勝ったパターン)しかない、と結論づけています。左の2割に無党派(選挙では棄権が多い)の2割を掘り起こせば、右の3割に勝てるというわけです。市民と野党の共闘の努力の焦点の一つがここにあることは確かでしょう。
2017年10月31日
2017年12月号
労働生産性をどう捉えるか
藤田宏氏の「『労働生産性向上』論の欺瞞と『働き方改革』の危険」は安倍政権の「働き方改革」の危険な本質を暴いています。「働き方改革」は今日の日本経済の困難性の焦点を「労働生産性」の低さに求め、その打開のために「働き方」を「改革」すると称しています。そうすれば企業収益が改善して賃金も上がると主張していますが(トリクルダウン論)、これは日本資本主義が抱える問題点を個々の労働者の「働き方」に責任転嫁することで、資本の利潤追求のために搾取強化を図る狙いを隠す議論であり、日本の労働者階級に対する悪質なイデオロギー攻撃です。藤田論文は丹念に論を尽くしてそれへの説得力ある反撃を展開しています。
論文ではまず労働生産性(付加価値労働生産性)を次のように定義して、議論の前提を明らかにしています。
1.就業時間当たり労働生産性= 付加価値(GDP)÷労働投入量(就業者数×労働時間)
2.就業者一人当たり労働生産性= 付加価値(GDP)÷就業者数
そうすると労働生産性の向上には、分母(「就業者数×労働時間」あるいは「就業者数」)を少なく、また分子の付加価値(GDP)を多くするのが有効です。
そこで、従業員一人あたりで1997年と2016年を比較すると、労働生産性は9.6%伸びていますが、営業純益が2.4倍にもなっているのに対して、賃金は4.5%下がっています。したがって労働生産性向上によるトリクルダウン論(生産性向上→企業収益拡大→賃金上昇)は間違いだということが分かります(40・41ページ)。
これで労働生産性をあげることで万事うまくいかせよう、という議論自体の誤りが明白になったのですが、労働生産性の向上そのものは大切な課題ではあるので引き続いて考察します。搾取強化を隠れた狙いにして労働生産性向上を自己目的化して押し出すのは誤りだけれども、生活向上の手段としてそれを追求することには意味があるので、そうした観点を念頭に置いて検討します。
設備投資によって資本装備率を高めることが労働生産性向上のカギですが、近年の資本装備率は減少・低迷状況にあります。その理由は「大企業の金融収益依存経営への傾斜ぶり」が著しく、「本業を重視して、労働生産性を向上させるために資本装備率を高めようとする意志も意欲もない」(42ページ)からです。
にもかかわらず、時間当たり労働生産性は向上しています。なぜそれが可能になったかと言えば、労働生産性算出式の分母である労働投入量(就業者数×労働時間)が減少しているからです。つまり資本は、短時間労働の非正規労働者を大量に活用しつつ超過密労働を押し付けることによって、労働生産性を向上させてきたのです(42・43ページ)。
ただし労働生産性が向上してきたと言っても、国際比較では日本のそれは歴史的に低い状態が続いています。1970年から2015年まで国際順位を見ても、ずっと16位から22位の間に位置しています。高い技術力と勤勉な国民性を誇る日本の労働生産性がこの程度というのはきわめて意外で逆説的であり、支配層が勤労人民を攻撃する根拠とされていますから、その理由を考えてみる必要があります。
論文によれば、日本では「本来の価値以下の低価格で輸出競争力を強化し、〝集中豪雨的輸出〟を可能にしてきた」(44ページ)ことがその原因です。労働生産性算出式の分子の付加価値は価格で計算するしかないので、低価格は低付加価値となり、労働生産性も低くなります。日本の労働生産性はアメリカの6割水準とされますが、米国人の教授によっても、働き方にそれほど差は見られないから、日米での企業の価格戦略の違いが影響しているのではないか、と指摘されています。日本企業は「デフレ」に対応して業務を効率化し、利益を削って低価格で競争力強化を図ってきたのに対して、アメリカ企業は生産性向上を付加価値向上に結び付けてきた違いがあるというのです(同前)。
また論文は、低賃金・長時間労働が生産性の低さの要因だと指摘しています。一方で、長時間労働は労働生産性算出式の分母の労働投入量を増大させ、他方、低賃金は個人消費を減少させて、同式の分子の付加価値(GDP)を抑えることで、労働生産性を低下させます(44・45ページ)。
日本のサービス産業の労働生産性が低いことも問題とされます。これについては、国によってサービスの品質が異なり、国際比較は簡単ではありません。日米で両国での滞在経験のある両国人へのサービス比較アンケートでは、両国人とも日本のサービスが上回ると認識している、という結果になっています。サービス産業の労働生産性は、日本が米国の半分程度と言われますが、アンケート結果からは、日本ではサービスの品質に見合った価格の実現が課題だと言えます(45ページ)。またサービス産業は個人消費に直結しているだけに、不況による価格引き下げ競争にさらされやすい体質です。そこで賃上げによる個人消費需要の活発化が価格の維持につながり、ひいては付加価値の確保による労働生産性向上に大いに資することになります(46ページ)。
中小企業の労働生産性の低さも問題とされますが、そこでは大企業による中小企業からの価値収奪が重要な論点としてあります。大企業が関連・下請け企業の付加価値の一部を吸い上げるため、中小企業の労働生産性が低下しており、ここを改善することが必要です(同前)。
まとめると次のようになります。
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以上みてきたように、労働生産性を向上させるためには、労働者の働き方を「改革」する以前に、資本装備率の向上、品質に見合った適切な価格の設定などの企業戦略、低賃金・長時間過密労働・非正規雇用を強いる財界の雇用破壊戦略など企業経営の在り方が、問われなければならない。そして、賃金の大幅引き上げと内需拡大によるデフレ不況の打開、日本経済の再生などの課題を解決することが必要であり、労働生産性向上によって実現されるものではない。 47ページ
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日本の労働生産性が低い、という問題の本質は以上のように解明されるのですが、安倍政権・財界・支配層は逆に「労働生産性が低いのは労働者の働き方に問題があるかのように描き出すことによって、国民経済レベルでの労働生産性向上の課題を企業レベルでの労働生産性の課題にすり替えようとしてい」ます(同前)。つまり労働生産性は企業レベルで上げれば国民経済レベルでも上がるという論理であり、これは現象的には諸個人の実感に入り込みやすいと言えます。資本主義経済を単なる市場経済として捉える、つまり搾取を捨象した単純商品生産表象において捉えるのが、ブルジョア社会での支配的イデオロギーですから、原子論的経済(社会)観に基づいて、諸個人のアクションによって、すなわち諸個人間の競争によって経済全体が形成されるという見方が「世間」を覆っています。それはまた向上心を持った諸個人の反省に訴えるところがあり、「自己責任」において「働き方」を「改革」しようという「意欲」を刺激します。実際には諸個人のアクションは階級関係や資本主義経済の仕組みに規定されるという関係があるのですが、個人の身辺的見方を超えたそのような観点を獲得するためには、体系的学習が必要です。すぐにそこまでできないとすれば、たとえばここで問題となっている労働生産性の本質について、逆立ちした見方との対比をはっきりさせることで、一つひとつの問題を通して資本主義経済の本質の理解に接近することができます。
閑話休題。安倍「働き方改革」では、生産性向上の基盤整備として、「高度プロフェッショナル制度」と「企画業務型裁量労働制の対象拡大」が打ち出されています。それは「創造性の高い仕事で自律的に働く個人が、意欲と能力を最大限に発揮し、自己実現をすることを支援する法制が必要である」(48ページ)という口実に基礎づけられています。まさに逆立ちしたブルジョア・イデオロギーの世界では個人の「実感」に基づいてそれを信仰することが推奨されますが、さすがに厳しい現実に放り込まれている多くの労働者にとってはよそよそしいものと受け止められる可能性が大きいと言えるでしょう(商品経済の物神崇拝がもたらすブルジョア・イデオロギーによる個人的実感と搾取の現実から生じる階級的実感との衝突)。これらの制度による「労働生産性の向上」の実態は、「労働者がどんなに働いても統計上の労働時間としてカウントされない」(同前)ので、労働生産性算出式の分母の労働投入量を少なくできることによってそれが達成されるというものです。それをあたかも労働者が「創造性の高い仕事で自律的に働」いて「意欲と能力を最大限に発揮し、自己実現をすること」を通じて達成するかのように描いているのです。
安倍「働き方改革」では、「無限定正社員」「限定正社員(その中身はいろいろに区分される)」「非正規雇用労働者(様々な雇用形態あり)」という「多様な就業形態」による「労働生産性向上」が目指されます。それらは相互転換できますが、労働者の希望によるものではなく企業の一方的評価によって処遇が左右されます。
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「多様な就業形態」は、労働者の身分を細分化することによって、企業は、生産性向上に協力する「思想」を労働者に植え付け、労働者を思い通りに支配し、企業の一方的な評価で、低賃金の労働者を大量につくり出すことを可能にする仕組みといえる。
50ページ
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ここで企業の評価の基準になるのが「仕事・役割・貢献度に応じた賃金制度」であり、労働者は企業が期待する「成果」をあげるまで長時間労働し、「能力」が低いという評価を避けるため、残業代を請求しない、という状況に追い込まれます。そういうサービス残業は、労働生産性の分母である労働投入量からは除外され、分子の付加価値は増えるという二重の効果を持つことで労働生産性を向上させるための〝最良の手段〟となります。こうして「多様な就業形態」の普及と「労働生産性向上」のための「仕事・役割・貢献度に応じた賃金制度」は長時間・過密労働を推進する労働者間競争のインセンティヴとして機能します(同前)。以下が結論です。
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つまるところ、「労働生産性向上」を実現するということは、労働者に生産性向上に協力しなければならないという「思想」を労働者に刷り込むことによって、長時間過密労働を強要し、労働者の暮らしと健康を破壊し、その〝対価〟として企業は大儲けするということである。「生産性向上」がもたらすものは、労働者の賃金と雇用を破壊するだけでなく、個人消費を冷え込ませることによって、日本経済の持続的発展を困難に陥れるものである。安倍「働き方改革」を阻止することは喫緊の課題になっている。 50ページ
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以上、いささか過剰にイデオロギッシュに色付けしながらも、基本的に藤田論文に沿って、安倍「働き方改革」を批判的に見てきました。その中で日本の労働生産性が低いのをどう見るかが大きな問題でした。私はこれまでも思い付き的にその点に触れてきました(「『経済』の感想」のうち2007年7月号・09年10月号・10年2月号・4月号・14年10月号・11月号・16年2月号。まとめて「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」として「文化書房ホームページ」所収)。以下ではそこでの観点から、若干の論点に言及します。
まず価値論の観点から労働生産性の定義をどうするか、が問題です。藤田論文では、以下のように定義されています。
就業時間当たり労働生産性= 付加価値(GDP)÷労働投入量(就業者数×労働時間)
就業者一人当たり労働生産性= 付加価値(GDP)÷就業者数
そこでも、これは付加価値労働生産性であると断っています。本来の労働生産性は単位時間当りに生産される使用価値量です。ただし異なる使用価値を量的に合計することはできないので、通常、国民経済次元で労働生産性と言えば付加価値労働生産性を指すことになります。以下では、物的労働生産性は単に労働生産性と表記し、付加価値労働生産性はカッコを付けて「労働生産性」と表記します。あえて紛らわしい表記にするのは、多くの場合両者が混同され、「労働生産性」について述べながら、労働生産性を思い浮かべているという弊害があり、両者の区別に対して意識的であることを喚起するためです。
理論的に使用価値と価値との区別が問題となるのは、論文の41・42ページに出てくる資本装備率です。労働価値論の立場からは、資本装備率を高めれば単位時間当たりの産出量が増えるので労働生産性は上昇しますが、投下労働量が増えなければ、付加価値(V+M、価値生産物)も増えず、したがって「労働生産性」は上昇しない「はず」です。ただし「労働生産性」の定義式の分子は、付加価値=GDPとなっています。実はGDPは国民所得(V+M、価値生産物の国民経済的総計)と厳密には一致しませんが、これはまあ付加価値の近似値として扱われているのでしょう。
このGDP(≒付加価値)が使用価値量か価値量かが問題となります。付加価値なんだから、ちょっと見ると価値量であるに決まっていますが、実質GDPを算出する過程を考慮すると、単純にそうとはいえず、むしろ使用価値量的性格が濃厚であることが分かります。GDPの名目値を実質値に換算するには、名目値を物価指数で「デフレート」します。ここで実は物価指数による「デフレ―ト」は同じ使用価値は同じ価値を持つという前提で行なわれるので、生産性向上による価値低下は無視されます。
過去に1労働時間かかって生産された使用価値Aが100円で売られ、現在では30分で生産され150円で売られているとすると、これを反映する物価指数は1.5です(政府統計では100掛けるので150と表現する)。ここでAの価値は過去には1労働時間であり、現在は0.5労働時間です。もし通貨の価値が同じならば、価格は50円になります。物価指数による「デフレート」では現在の名目値150円を1.5で割って実質値を100円としますが、現在の価値を正確に表す価格は50円です。現在、減価した通貨は、100を150として表現しているのではなく、50を150と表現しているのです。したがって通貨の減価は、100÷150=2/3 ではなく、50÷150=1/3 にもなっているのです。ここでは価値を算出するためには1.5(2/3の逆数)でなく3(1/3の逆数)で割らねばなりません。1.5で割った実質値は、3で割った価値よりも高くなります。つまり名目GDPを物価指数で「デフレート」した実質GDPは価値量を正確には表現せず、生産性の上昇分をかさ上げして表現しています。生産性が上昇して実際には生産物の価値が減少しているところを、減価していないとみなして表現しているのです。したがって実質GDPの変化をたどると、そこでは価値量の変化ではなくむしろ使用価値量の変化が表示されます。かといって異なった使用価値量を集計することは不可能なので、その点では価値概念の助けが要ります。実質GDPは価値そのものではないけれども使用価値でもない、生産性の上昇分をかさ上げした「偏倚した価値」とでもいうべき両義的概念です。これについて以下のように言うことができます。下記では実質GDPに代わってより正確な実質国民所得と表現しています。
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実質国民所得のこの両義性は以下のように解釈できる。……まず価値概念によって諸使用価値を一つの集計量(国民所得価値)にする。次いでこの国民的諸使用価値の総品目セットをあたかも一つの使用価値に擬制する。この一つの使用価値とみなされた国民総生産物量(中間生産物は除く)が生産性の上昇と総労働時間(価値量自体)の増加に応じて増大する。……実質国民所得はこのように迂回した形で国民所得と経済成長を(価値的にではなく)物量的に表現するものである。
拙稿「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』第86号/2006年5月/所収、71ページ)
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長々と横道にそれましたが、資本装備率と「労働生産性」の問題に帰ります。設備投資によって資本装備率を高めると「労働生産性」が上がる、という(「生産関数」理論に基づく)命題を労働価値論の立場からどう捉えるべきでしょうか。国民経済的な「労働生産性」は「付加価値(GDP)÷労働投入量」と定義されました。以上の検討から、分子のGDPは純粋に価値量を表すのではなく、むしろ使用価値量的性格が強いことが分かりました。したがって上記の命題は価値論的にも一定の正当性がある、と言えます。
「大山鳴動、鼠一匹も出ず」の結論となりましたが、ブルジョア経済学の「生産関数」理論をそのまま認めるわけにはいかないので、考えた意義は多少はあったと言えましょう。どのようなものであれ、理論や政策においてそれなりに活用されているものについて、その理論的「現実妥当性」がどのように現出するか、を我々の立場から理論的に明らかにすることは、理論体系の対決を踏まえた現実分析力を深める上で必要であろうと思います。
もう一つ考えたい課題はもっと実質的に意味のある問題です。日本の「労働生産性」が低い原因として、製品価格が低く、それによって付加価値が低くなって「労働生産性」が低下してきた、という問題です。ここでも使用価値と価値との区別、したがって労働生産性と「労働生産性」との区別が重要です、さらにそれを押さえた上で、国民経済のあり方、生活と生産のあり方まで考えてみたいと思います。
もっとも、先の「生産関数」理論の検討では、労働生産性と「労働生産性」との区別よりもむしろ両者の近似性の方が目立ちました。ただしそれは量的側面においてであり、質的側面でははっきりとした違いがあります。単位時間当たりの使用価値の生産量である労働生産性は、価値の生産に関わる概念であるのに対して、単位時間当たりの付加価値量である「労働生産性」は価値の実現を前提にした概念であり、認識時点が直接的生産過程と流通過程とに分かれます。
技術立国を誇り、世界に冠たる「カローシ」大国たるほど強烈に働く労働者に満ちた日本が「労働生産性」の国際比較でいつも低位にある、という逆説を解く最大のカギは低価格路線にあります。使用価値視点の労働生産性の国際比較は難しいけれども、おそらく多くの人々の「高生産力の日本」という実感はこの視点から生じるものでしょう。しかし価値視点の「労働生産性」の低位は統計的に明確です。日本の支配層はこの低位を口実に労働者階級に対するイデオロギー攻撃を仕掛けています。ここでまず区別すべきは、労働生産性は直接的生産過程に属する問題だけれども、「労働生産性」では流通過程で実現した付加価値としてのGDPが問題となるという点です。藤田論文が指摘している、適切な価格設定が行われていない、不当に低価格である、というのは直接的生産過程の問題ではなく流通過程での価値実現の問題です。生産を担う労働者への攻撃はまったく筋違いです。つまり「国民経済レベルでの労働生産性向上の課題を企業レベルでの労働生産性の課題にすり替えようとしている」(藤田論文、47ページ)というのは、まず第一には流通過程の問題を生産過程の問題にすり替えようとしている、ということであり、私の用語で言い換えれば、――国民経済レベルでの「労働生産性」向上の課題を企業レベルでの労働生産性の課題にすり替えようとしている――ということになります。
そして価値実現の問題、流通過程の問題はまさに国民経済レベルでの「労働生産性」の問題であり、端的に言えばグローバル競争への奇形的適応によって内需を縮小した日本資本主義の問題なのです。それはヨーロッパとの比較でよく分かります。日本は国民経済における輸出の割合が必ずしも大きいわけではありませんが、一部の先端輸出産業が広範な産業連関を通して国民経済全体を規定しています。その競争力を支えるのはコストダウンによる低価格(低付加価値)でしょう。輸出大企業や多国籍企業自身が単位商品の低価格を実現量で取り戻して(それは低価格のもたらす競争力による世界市場支配で可能となる)、付加価値量を確保しても、この低価格を支える国内産業は(狭い国内市場にぶつかって)そうはいかず、日本全体の「労働生産性」は低くなるということではないでしょうか。かくして「競争力が強いのに労働生産性が低い」という逆説が出現しますが、それを正確に言えば、――労働生産性が高く低価格商品を大量に作れるが故に競争力が強くなり、同時に低付加価値の故に「労働生産性」が低くなる――ということです。
昨今は低価格化が常態となっていますが、ユニクロの1000円を切ったジーンズと250円弁当とは区別すべきだ、と井内直樹氏は言います。前者は「企業が低価格化戦略を採用し、中国での低賃金を大いに活用したということ」であり、後者は「この戦略に翻弄され、闇雲に追随した企業が『低価格』に向けて消耗戦を繰り返しているのです」(「井内直樹の腕まくり指南」第106回、「愛知商工新聞」2010年1月4日付所収)。一応前者は曲がりなりにも価値通りの価格だけれども、後者は価値を下回る価格で再生産が困難となります。日本資本主義が落ち込んでいる「コスト競争の悪魔のサイクル」はこの両者によって形成されているのであり、この中で一部の前者は拡大できるけれども、消耗戦に落ち込んだ多数の後者は没落していきます。こうして国民経済全体としては低付加価値にあえぎ、低「労働生産性」に帰結することになります。膨大な投下労働の一部は価値実現されずに「サービス残業」状態となります。これはいわばグローバル市場に向けた国民経済全体のダンピングであり、一種の飢餓輸出体制であり、「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと思います。
内需主導型経済像をイメージ豊かに提出しているのが吉田敬一氏の論文「内需型産業をどう展望するか」(『経済』2009年10月号所収)です。吉田氏によれば産業構造は大きく二つのタイプに区分されます。衣食住関連業種あるいは環境・福祉産業などのように地域特性に強く規定される文化型産業と自動車・家電に代表される文明型産業です。どちらのタイプの産業においても、競争力の源泉を対極的方向に求める企業経営の二類型があります。一つは本質的機能追及型・ホンモノ志向型経営であり、もう一つは価格破壊志向型経営です。そのように産業と企業経営を見分ける力を持って、生活と生産の豊かな相互関係を築けるかどうか、次のように課題設定されます。
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衣食住に関わる財・サービスは命と健康、暮らしの在り方および人間の生き方に関わり、それを規定するものである。また、それゆえに文化の香りと雰囲気を醸し出す要因ともなり、個性的で豊かな社会の経済的基盤を形成する。文明に先進・後進はあるが、文化に優劣はない。高度な経済力を持っていても文化トレンドを発信できない国は、コスト競争の悪魔のサイクルに絡みとられ、持続可能な豊かな社会は実現できない。 61ページ
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そうした文化トレンドを発信できるヨーロッパの市場イメージは以下のように描かれます。
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こうした本質的機能追及型の産業・企業は、個性的で創造力・想像力のある人材と技能・熟練および地域固有の資源を大切にする。また地域密着型経営スタイルを基本としているので、多様なタイプ・条件・能力の人間が定住できる雇用と所得を地域に提供することができる。その結果、地場産業・農林漁業・商店街を大切にするドイツやイタリアの都市を見ればわかるように、安定した個性的なコミュニティが形成されやすい。また、オリジナリティを持った柔軟な企業間ネットワークが形成されるので、地域内での仕事や原材料のやり取りが活発化し、地域内での経済循環と再投資力あるいは「地産・地商・地消」型の経済基盤が強化され、地域経済の自立性・自律性が向上する。 59-60ページ
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このように自立(律)的な地域経済が形成する内需循環型市場においては、グローバル競争にさらされる以前に投下労働が価値実現することができます。自立(律)的な地域経済を持たずに初めからグローバル競争に吹きさらされる日本では投下労働のダンピングが起こりやすくなります。つまり国民経済が内需循環型であれば、投下労働が価値実現されやすく、外需依存型であれば価値実現が難しく投下労働との乖離が生じるのではないでしょうか。
固有の国民文化と地域文化を保存しうる生活基盤は内需循環型の地域経済・国民経済に求められます。伝統が尊重されその上に新たなものが重なっていくあり方です。日本では対米従属下で資本の論理が過剰貫徹し、伝統文化や生活様式の破壊の上に新たなものが作られてきました。そこからの脱出は、農林水産業を復興しそれと連携した商工業を発展させて地域経済を充実させることで、その総体としての国民経済が豊かな可能性を発揮していくという方向に向かうべきではないでしょうか。その一つの具体化として、自然エネルギーの地産地消を軸にした内需循環型の地域おこしが各地で始まっています。
最近の安倍「働き方改革」による労働者攻撃は、以前より続いてきた「日本の労働生産性が低いのは、ダラダラ長く働く労働者のせいであり、それが日本経済を停滞させてきた」という宣伝の延長線上にあります。したがって当面する攻撃に際して、「高度プロフェッショナル制度」や「企画業務型裁量労働制の対象拡大」などの眼前の敵に直接反撃するのは当然のことながら、グローバル競争や国民経済のあり方も視野に入れた経済変革の展望の創出もまた重要だと思われます。労働生産性と「労働生産性」の発展を図りながら。
雑感集
私の書くものはどうしても理屈先行で観念的になりがちだとは思っています。所詮は素人だから仕方ないと開き直ってもいますが、優れた研究者の姿勢に接することは刺激になります。最近、大著を出された坂本雅子氏は「著者インタビュー『空洞化と属国化 日本経済のグローバル化の顚末』の刊行によせて」の中で研究の進展を振り返っています。坂本氏は、大多数の研究者が生産の海外移転を肯定的に捉えている中で、実はそれが深刻な「空洞化」を引き起こすことを解明し、また安倍政権の成長戦略を精査することによって、それが米国の対日要求に発する「属国化」政策に他ならないことを発見します。そうした成果を生んだ研究姿勢について次のように語っています。
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私は研究を始めるとき、テーマに関する研究書や論争は山ほど読みますが、最初にテーゼ(命題)を設定するのではなく、資料や事実にまず当たりつくすことを何よりも優先して研究してきました。 …中略… 膨大な資料を読み込むうちに、通説にはない真実のかけらに突きあたる。そのカチンとあたったかけらだけでなく、それにかかわる全てを掘り下げていくと、これこそが時代の核心だという巨大な岩盤にガーンとつきあたる。そんなふうにして研究を続けてきました。 85ページ
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現代の経済だけでなく、政治・社会の大方の問題を考える際にも、グローバリゼーションを捉えることは最重要な課題です。私はこれまでグローバリゼーションとは(良し悪しは別に)ひたすら推進されていくものだと思い、あらゆる議論の出発点としてきましたが、21世紀以降は必ずしもそうではないようです。ここでも思い込みを排して現実を直視することが重要です。資料や事実に当たりつくすようなことはとてもできませんので、一つひとつの論文に教えらえるほかありません。最近のグローバリゼーションの後退的新局面について、様々な経済指標やグローバル資本の経営戦略を引いて教えてくれるのが、山脇友宏氏の「トランプ政権と多国籍企業 『内向き資本主義』と新型グローバル統合体」(上)です。
それによれば、トランプ大統領は米国支配層から「リスキーだが活用可能と受けとられ」(101ページ)ており、その極端な保護主義によるグローバリゼーション攻撃も単なるポピュリズムとばかり評価すべきではなく、20世紀末に一方的に展開したグローバリゼーションが21世紀に入って一定の後退と再編の局面にあることをそれなりに反映している、と見る必要がありそうです。「いまやグローバル企業体制を有することの優位性は少なくなり、16年までの5年間で先進国上位700社の利益は25%以上も低下し、国内事業分野の製造業は2%以上上昇している」として、英『エコノミスト』誌は「グローバル企業は後退姿勢に転じた」と論断しています(106ページ)。またIBM・GM・GE・AT&T等々といった従来型の巨大グローバル企業は新興のIT企業ビッグ5(グーグル、アップル、アマゾン、マイクロソフト、フェイスブック)の挑戦と闘うべく経営戦略の模索に入っています。
21世紀型寡占体としてのビッグ5も安閑としてはおれず、ライバルの台頭や従来型巨大企業の反撃を恐れ、「リスクを見込みつつ、ひたすら現金を積み上げている」(115ページ)状況です。規模と意義は違うかもしれないけれども、日本の巨大企業も同様の行動様式です。
「朝日」11月12日付は「企業が抱える現金と預金が、2016年度末に211兆円と過去最高にふくれあがっている。アベノミクス前(11年度末)と比べ3割(48兆円)増えた。人件費はほぼ横ばいで、企業の空前の利益が働き手に回らない構図が鮮明となった」と報じています。
同記事によれば、前期には空前の2.2兆円の営業黒字をたたき出していたトヨタ自動車が、2008年のリーマンショックで営業赤字に陥る見通しとなり、渡辺捷昭社長(当時)
の脳裏には、「倒産」の二文字がよぎりました。米国などで自動車ローンを手がける金融子会社は10兆円超の借金をしていました。トヨタ本体も約4兆円あった自由に使える資金がみるみるうちに枯渇し、貸し出す余力はありません。金融子会社首脳は銀行トップにかたっぱしから電話をかけ、数千億円を確保し、さらに、政府の外貨準備に目をつけ、財務省幹部に融資を頼み込みましたが、財務省幹部はなかなか首を縦に振ってくれません。「民業圧迫」の批判を受け、国際協力銀行は先進国向け融資が原則できない決まりだったからです。しかし子会社首脳は食い下がって、とうとう財務省は規則を改正、トヨタは年明けに先陣を切って2千億円を借り、危機を乗り切りました。この経験からトヨタは拡大路線を否定し「世界市場が回復し、過去最高益を稼げるようになっても、新工場建設などには慎重なままだ。その結果、自由に使える資金は9兆円を超えた」ということです。
トヨタでさえこの状態ですから、90年代の金融危機とリーマンショックが経営者の心理を冷やし、その後はひたすら非正規雇用を拡大し、お金の溜め込みに走ることとなりました。資本主義はリスクを拡大しながらもダイナミックな発展を続けるというのが売りなのですが、IT企業ビッグ5やトヨタも、そして多くのグローバル資本が、読めないリスクから身を守るために資金の有効活用ができない状態に陥り、経済の停滞を招いています。新自由主義グローバリゼーションは深刻な局面を迎え、資本主義は反動的性格を露呈しているというべきでしょう。
資本主義を捉えるためには、一方で上からそうした最先端の生産力のあり方を把握することがまず必要ですが、他方で下から人々の生活や農林水産業、地域経済に目を向けることが不可避です。下からの視点で大切なのは、再分配の問題だけにとどまらず(それが格差と貧困を解決するための喫緊の課題ではあるけれども)、生活と地域に密着した新たな生産のあり方を追求することです。新たな価値を生み出し実現するところまで踏み込まなければ経済の抜本的な変革を実現して、政治革新の土台を据えることはできません。そういう意味では、中藤康俊氏の『過疎地域再生の戦略 地方創生から地方再生へ』に対する根岸裕孝氏による書評が興味深いものとなっています。日本各地での地域経済再生の実践現場を踏まえながら「生活者である住民を尊重した政策のあり方を追求し」、「地理学の本質である人間と土地の関係性と土地の持つ意義や土地区分、空間の編成といった視点で地域問題を捉え、地域政策を提起する政策科学」を形成し、「都市と農村が交流し、循環型で持続可能な自立した『地域づくり』を目指して東京一極集中型の国土構造を転換」(97ページ)することは日本資本主義の転換にとって根本的な課題です。先に吉田敬一氏の産業類型論・地域経済論を紹介し、グローバル競争に対して相対的に自立した内需循環型の地域経済をつくることによって、投下労働が確実に価値実現するような国民経済の体質を創出していくことが必要です。読んだわけではないけれども、そういう意味ではおそらく中藤氏の著作は、地方都市や過疎地域の再生に限らず、国民経済の変革を考える際にも示唆するところがあるように思われます。
2017年11月30日
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