月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2021年1月号〜6月号)

                                                                                                                                                                                   


2021年1月号

          現代資本主義の格差と「カネ余り」構造、その是正

 今、日本ではコロナ第3波が襲っている最中です。第12波が一定鎮静化した時点で、「検査・追跡・保護」による感染制圧という路線にはっきりと切り替えるべきだったのに、経済も大切だという名目の下、Go Toキャンペーンなるもので、旅行により人々を大規模に動かし、会食を奨励する逆行に踏み込み、第12波を上回るコロナ大感染となってしまいました。無為無策と逆噴射の菅政権は何度も感染の波が襲うままに任せる「方針」だと言わざるを得ません。

 このような政権の体たらくには二つの原因があるように思います。一つには、格差社会において、エッセンシャルワーカーを始めとする相対的に下層の人々に矛盾が集中し、巣ごもり需要を取り込んだ一部大企業を始めとする勝ち組などは、打撃が少ないか、むしろもうけを増やしており、格差がさらに拡大していることです。当然、政権中枢に属する政治家たちは上層の利益を代表する中高年の男たちであり、ジェンダーバイアスもあって、下層の苦しみを実感することはなく、一定の財政出動など、経済の落ち込みを救い出す政策を進めてはいても、決して実情にはあっておらず、さらには自分たちの振る舞いとしても、人々に多大なる自粛を求めながら、自からは自粛破りの会食にうつつを抜かすという状況です。とにかく人々の生活と労働の立場に寄り添って、コロナ禍を本当に克服しようという気持ち・気概が全く感じられません。もっともこの「寄り添う」という言葉自体、安倍政権のときから、「沖縄の人々の心に寄り添う」などというまったく何の心もこもっていない空語としてすっかり手垢がついてしまって、まともに使うのがはばかられる言葉に成り果てていますが…。

 もう一つの原因としては次のことが挙げられます。私なりに今日の経済状況を表現すれば、コロナ・パンデミック恐慌と言えますが、その悲惨さが上記のように格差社会において、もっぱら下層に押しつけられ、上層はもちろん、経済全体としても、実体経済の厳しい落ち込みにもかかわらず、喧騒を伴った危機感にまでは至っていないようだという状況です。大恐慌以来の悪化した経済指標が多いのに、リーマンショック時ほどの危機感が充満しているとは言えないように思えます。そこで支配層としては生ぬるい精神状況にあり、コロナ危機と本格的に対峙しようという構えになっていないのではないでしょうか。少なくとも日本では。2021年度政府予算案を見ても、マイナンバーカード普及を中心とするデジタル化促進策など、ポストコロナの惨事便乗型新自由主義構造改革や軍拡には熱心だけれども、肝心の当面するコロナ対策やそれと不可分な社会保障充実などはまったく軽視されています。

 そうなるのも、コロナ・パンデミック恐慌では、突然の需要の蒸発がグローバル資本主義を襲い、その実体経済を震撼させていますが、グローバル経済全体を連鎖的に瓦解させる金融恐慌を伴っていないことから来るのでしょう。一方では、グローバルサプライチェーンの寸断や所得と雇用の大幅な落ち込みなどの深刻な実体経済と人々の生活・労働の危機的状況があり、それを反映してか、立場の違いを超え、識者の間では資本主義の限界が様々に語られています。しかし他方では金融や業績好調なIT企業などを中心に、グローバル資本全体には資本主義の体制的危機という認識がないようにも見えます。そこで、この恐慌の実体経済と金融とにおける現状と今後の見通しが問題となります。

 今のところ金融恐慌が勃発していないとはいえ、企業と家計が多額の債務を抱えるマネー資本主義は、実体経済を襲うコロナ危機の下では潜在的な爆弾ともなっています。「マネー資本主義の総本山ともいえるアメリカでは、リーマンショック後、超低金利や緩和マネーの追い風もあって、家計や企業の債務が大きく増加し …中略… そこへコロナ危機が加わったために、通常の運転資金に加えて、元利支払いのための資金の確保に追われるようになり、これを放置すれば、デフォルト(債務不履行)の連鎖が生じかねない事態となった」(英吉利氏の「コロナ危機下の世界経済をどうみるか」47ページ)と評価されています。そこでFRBはリーマンショック以来となる事実上のゼロ金利を復活させ、米国債やFMBS(住宅ローン担保証券)の買い取り額を増やし、後にそれを無制限にし、さらには社債を買い取り、ジャンク債にまで手を伸ばしました。こうしてリーマンショック時を大きく上回る大量の資金を供給しました(48ページ)。

 このように民間企業に直接資金を供与するという、中央銀行としては極めて異例の措置をとったFRBは国内だけでなく「ドルを海外市場に無制限に供給する体制」(同前)をもとりました。そこでドルの最大の取り手は日銀でした。その理由は「リーマンショック後、とくに大手邦銀が、国内のマイナス金利もあって、主要国銀行の中で最大の対外投融資残高を占めるまでになり、その原資を市場からのドルの調達に依存したからで」す(同前)。中央銀行によるこうした金融恐慌の抑え込みの状況について、前掲の英(はなぶさ)論文は次のように見ています。

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 さしあたり、こうした政策が功を奏して、海外市場でのドル需要は、コロナ危機初期には強まったものの、その後はリーマンショック時のような激しいものとはならなかった。だが、今後どうなるかは不透明である。リーマンショック後に国際金融規制が強化されたことにより、国際的な銀行の財務体質は強化されたとはいうものの、コロナ危機がさらに長期化すると、不良債権などが増加して、実体経済の危機が金融システムの危機へと発展する可能性がないとはいいきれない。IMFも、202010月の報告書で、新型コロナの感染拡大によっては金融不安定化の懸念が高まっていると警告を発している。

      4849ページ

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 債務対策に追われているのは先進国だけでなく、「コロナ以前に新興国や途上国は、外貨建ての対外債務も大きく増加させてい」ました(49ページ)。新興国や途上国の場合、「突然の輸出の停滞や資本の流出で、外貨収入が減り、対外債務の元利払いや、満期を迎えた対外債務の借り換えができないとなれば、デフォルトに陥る危険があ」り、「新型コロナの感染症対策を進める上で、医療体制の不十分さや慢性的な財政赤字が桎梏となっている国も少なくない」(50ページ)という状況です。

 これに対して先述のようにFRBが海外へのドル供給を強化するほか、IMFも融資制度を拡充したり、返済猶予を認めたりしています。このように金融恐慌の防止に努めていますが、コロナ感染の収束がいつになるか、その各国や世界経済への影響がどうなるかが不透明な中で、実体経済の混迷が金融にどう連鎖するか予断を許さない状況が続きます。

 以上のような企業と家計の債務累積による潜在的な金融危機の深化と並んで、財政危機が急速に拡大し不気味な時限爆弾のようになっています。ところがここでも支配層の危機感が希薄だという問題があります。「IMFによれば、コロナショックに伴う歳出増と歳入減により、世界的に財政が逼迫して」おり、「新型コロナ対策のための財政支出は、世界全体で11.7兆ドル、世界GDP12%程度になると推定されてい」ます(小林尚朗氏の「経済指標から読み解くコロナショック グローバル資本主義の動態と課題5758ページ)。もちろんコロナ対策は必要不可欠であり、そのための財政支出については、さすがの財政緊縮派も容認しています。しかし財政赤字を野放図に続けて潜在的な財政危機を増大させるわけにはいかないので、(庶民増税・福祉切り捨てなどの緊縮財政ではなく)大資本・富裕層の余剰マネーに課税して正常化に向け第一歩を踏み出すべきです。ところが彼らの利益を代表する各国政府はなかなか動き出しません。その背景として「一方で、振興・途上国経済は債務危機を懸念されているわけであるが、対GDP比で2倍の債務を抱える先進諸国では低金利・低インフレの影響で債務累積に対する危機感が失われ始めている。このような状況をもたらしているのは、所得格差が生み出す『カネ余り』である」(58ページ)と指摘されています。庶民にとってどこの世界のことかと思える「カネ余り」は、即刻取り崩して社会的に有効活用してほしいのですが、それもまた自分たちのために必要だというのが今日の資本の論理であり、それに規定され、株主第一主義などの資本家的倫理規範があるというべきでしょう(資本主義的論理→倫理)。その事情は以下のごとく。

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 コロナショックは格差問題を浮き彫りにした一方で、「カネ余り」という現実も浮き彫りにした。「実体経済にとっては過剰資本であっても、金融市場にとっては必要資本となる」と指摘されるが、実体経済と結びつかない「カネ余り」が金融市場における資産効果を生み出して所得格差を拡大させている。政府は巨額の公的債務を抱えて財政拡張を行っているが、社会保障や福祉制度が充実に向かっているわけではなく、持てる者と持たざる者の格差は広がる一方である。政府の債務が大きいからといって、「大きな政府=福祉国家」というわけではない。              60ページ

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 マルクスの資本蓄積論が明らかにした「社会の一方における富の蓄積と他方における貧困の蓄積」という資本主義の一般法則は現代では、次のように「具体化」されると言えます。――実体経済の生産過程における強搾取を基盤とし、そこにおける生産と消費の矛盾から生じる過剰資本をも、金融市場という培養地で増殖させるという形で貨幣資本の蓄積を実現し、労働者の貧困の彼方にますます格差を拡大する。格差と「カネ余り」が今日の寄生的資本蓄積の法則である――。この寄生性は現代資本主義の最先端を占めるGAFAM(GAFA+マイクロソフト)にも貫徹しています。彼らは「高い市場シェアやブランド力を利用して価格支配力を強め、そのR&D(研究開発費)投資の増加額は現預金残高のそれを下回っていた」(英論文、4647ページ)というのです。

 アベノミクスでは、株価の維持・上昇のため、日銀と年金の巨額の公的資金が投入され、「カネ余り」を演出することで、現代の資本蓄積法則を(国家権力を動員した政策展開によって)さらに強化推進しています。こうした格差と「カネ余り」の構造は、労働者・人民の生活苦・労働苦と支配層の寄生的「繁栄」という対蹠的歪みをまずもたらしています。それのみならず、新自由主義の推進した金融化における金融不安定構造の中で、財政危機・金融危機の潜在的累積が不気味な影を落としています。マネー資本主義では何らかのきっかけで国債や通貨の暴落による経済破綻がありえます。先進国であれ新興国・途上国であれ、どこかの国民経済がそれにはまれば、グローバルに連鎖した金融恐慌が襲うことは十分に考えられます。

 そういう意味では、今日、コロナ禍の下で苦境に陥っている人々を救うことはそれ自身が直接的に必要不可欠な課題であることは当然ですが、それのみならず、大資本・富裕層への課税で「カネ余り」を吸収して格差是正することは、国民経済の健全性を回復して財政危機・金融危機を抑止する方向につながる、という点で喫緊の課題だと言えます。ところが日本の国家財政では、大資本・富裕層を優遇し庶民課税を強化してきました。逆進性の強い消費税が1989年の導入以来ずっと強化されてきました。

1989年度に国の一般会計における消費税収は3.3兆円で、一般会計税収54.9兆円の6%を占めるだけでした。しかし、2021年度政府予算案では、消費税収を20.3兆円と見積もり、一般会計税収の35.3%を占めています」(「しんぶん赤旗」1224日付)。「小さく生んで大きく育てる」と言われた消費税は35810%と、どんどん税率を上げてきました。がその割に「国の一般会計税収全体はそれほど増えていません。21年度予算案における一般会計税収見積もりは57.4兆円と、1989年度の1.05倍程度にすぎません。消費税増税が景気悪化を引き起こし、法人税収や所得税収を減らしたためです。また、消費税増税をあてにして、高額所得者や大企業への減税も行われてきました」(同前)。

全世界を見ても深刻な実態があります。公平な税制をめざす国際NGOタックス・ジャスティス・ネットワーク(TJN)など3団体がまとめた報告書IMFの研究者とによれば、<多国籍企業の法人税回避による直接的損失:現行の法人税率を前提にしてそれからの下方乖離>と<多国籍企業による国際的な租税回避によって引き起こされる法人税減税の国際競争による間接的損失:現行の法人税率そのものが競争で下げられた結果であることを考慮>ならびに<個人の脱税による損失>とを合計すると、「世界の税収損失は年1兆1620億ドル(約1208480億円)に達するのです」(「しんぶん赤旗」1126日付)。これに対して同記事は以下の対策を紹介しています。

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 (上記3団体の)報告書は、国際的な租税回避がもたらす不公平に対処するため、三つの緊急行動を呼びかけています。(1)新型コロナウイルス危機の下でも利益を増やしている多国籍企業への超過利得税の導入(2)所有が不透明な海外資産に対する懲罰税率と富裕税の導入(3)多国間で一貫した法人税の基準を設定するための国連租税条約の確立―です。

 国際公務労連のローザ・パバネリ書記長は国連租税条約の意義を強調します。

 「国際的な法人税基準の設定過程を国連に移管することによってのみ、国際税制の管理を透明で民主的なものにし、国際税制を真に公正かつ公平なものにし、開発途上国の課税権を尊重することができる」

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 こうした提起について、富裕層増税が経済に悪影響を与えるという意見がありますが、「英ロンドン大学の研究者らは16日、米国や日本などの過去50年間の経済データを分析した結果、富裕層減税は収入面の不平等を深刻化させ、経済全体への利点にはならないことが明らかになったとする報告書を発表しました。『富裕層への税率を低く保つ経済的根拠は弱い』と強調しています」(「しんぶん赤旗」1219日付)。同記事はさらにこう続けています。

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 報告書をまとめたデービッド・ホープ教授とジュリアン・リンバーグ教授は「80年代以降の富裕層減税は収入の不平等を広げ、あらゆる問題をもたらしたが、それを埋め合わせる利点はなにももたらさなかった」と指摘しました。

 リンバーグ氏は、新型コロナ危機後の財政再建を検討している各国政府には「歓迎すべきニュースだ」と強調。「富裕層増税の経済的影響について過度に心配しなくても良いからだ」と述べました。

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 大資本・富裕層への増税で、格差と貧困、金融不安定性を克服する財政再建策の正当性と現実性がこのように明らかにされていることは心強い限りです。

 

 

          学問と政治の関係

 「しんぶん赤旗」、『前衛』、『経済』などは科学的社会主義の立場から、ブルジョア・ジャーナリズムにはない社会認識を深めるのに役立ちます。最近の学術会議会員任命拒否問題についても、学問の自由と政治との関係を中心に、法的・政治的・歴史的に広く深い観点から徹底的に解明しています。

 ただしそのようなラディカルに民主的な視点に例外があります。不破哲三氏の恐慌論とそれを基にした新版『資本論』の編集コンセプトは間違っていると私は考えますし、同様の考えの研究者もいると聞きます。ところが上記の紙誌ではそうした批判は皆無であり、ひたすら推奨する議論だけが登場しています。

 1220日付の「しんぶん赤旗」には、萩原伸次郎氏による不破氏の『「資本論」完成の道程を探る』への書評があり、もちろんこれも不破説を支持する立場で書かれていますが、注目すべきはそれへの批判が存在することに言及している点です。おそらくこれら紙誌の読者にとっては、そんな批判があるという事実に初めて接することになったのではないでしょうか。これは極めて非学問的な情報統制が破綻する第一歩になり得ると考えます。

「しんぶん赤旗」には、新版『資本論』の分冊が刊行されるたびに、推奨を目的とした書評が載りますが、マルクスの経済学草稿の研究者は登場しません。これは、不破説とそれを基にした新版の編集コンセプトが大方の専門家から肯定的に評価されていない証左だと思います。

『資本論』は単に著名な著作だというにとどまらず、立場の如何を超えて人類の共有財産として特別な扱いを要する存在です。そうである以上、その翻訳についても私的解釈に偏るのでなく、アカデミズムの共通理解をできるだけ尊重することが必要でしょう。日本では戦前の高畠素之訳(19191925年)に始まり、その後、世界的に見ても水準の高い『資本論』研究を反映した良心的な個人訳が中心となって翻訳事業が展開されてきました。それらを引き継いで、30年以上前に当時の有力な経済学者などの集団的労作として新日本出版社の新書版『資本論』が刊行されました。したがって、マルクスの経済学草稿などに関する研究のその後の進展を反映する改訂版の作成には、しかるべき専門家の集団的検討が欠かせないはずでした。そこを外して、学界の広範な一致点になっているわけでもない不破氏の所説に基づいて新版を刊行し、上記の紙誌にはそれへの異論など存在しないかの如くにひたすらその宣伝に努める、という姿勢は『資本論』の人類史的位置に照らせば、学問上の公正さを欠くと言わねばならず、この国における『資本論』翻訳史上に重大な禍根を残しました。そうした事態は、普通の一研究者がつくり出し得るものではなく、不破氏という特別の政治的権威者の存在によるものです。ここには学問と政治の関係における克服すべき課題があることが明らかです。学問の自由で公正な発展はそれ自身の論理によるべきであり、外部からの政治的介入はそれを歪めます。

萩原氏は、不破説への批判として「学問の世界に異質なものが踏み込むようなことがあってはならないだろう」とする見解があることを紹介しています。それに対して「学問の世界では、異質なものが入り込んで、新たな次元に研究が発展するという事実を忘れてはなりません」と反論していますが、これは問題の核心をはぐらかすものです。そこでは「異質なものが研究を新たな次元に発展させる」という一般論ではなく、学問と政治の不正常な関係が問われている、と考えるのが相当でしょう。

 ここまで書いてから、たまたまネット上に、谷野勝明氏の「『恐慌の運動論の発見』と利潤率低下『矛盾の展開』論の『取り消し』はあったか」『関東学院大学経済経営研究所年報第42号』21-39, 2020-03、所収)を発見しました。しょせん素人の悲しさ、研究者の中に不破説の批判があるとは聞いていましたが、そういう論文を実際に見たことはありませんでした。『経済』誌の裏表紙に載った八朔社の広告の中に、谷野氏の『再生産・蓄積論草稿の研究』があり、その宣伝文句として「『資本論』研究の成果を発展させマルクス草稿を解明」とありますから、不破氏の「1865年のマルクスの理論的大転換」説を検討するにふさわしい研究者の論文に私は出合ったわけです。

ところでかつて『経済』201512月号において、国際金融論研究者の今宮謙二氏が不破氏の『マルクス「資本論」 発掘・追跡・探究』への書評で、「本著の最大の課題は恐慌論である」としてその内容を客観的に紹介していました。その上で、わが国における『資本論』による恐慌分析の「膨大な研究蓄積」と経済理論としての「精緻化」とに言及しつつ、恐慌論研究者に対して、本著における恐慌論の問題提起への受けとめを問うていました。そこから今宮氏自身の立場は分かりませんが、おそらく不破説への何らかの違和感があったからこそ専門家の意見を聞きたかったのではないでしょうか。

それを念頭に谷野論文を始めてざっと通読し、わが意を得たりです。谷野氏は不破説について、「このような見解は,これまでの『資本論』研究との繋がりを全く持っていない。それだけに,氏が理論活動の面でも多くの問題に取り組まれている点には深い敬意を表するが,『資本論』に関するあまりに大胆な見解には不安を感じざるをえない。その検討は研究者の責務だと考え,問題点を率直に指摘することとした」(22ページ)として、政治的リスクを超え、まさに研究者の矜持を持って見解を発表され、今宮氏の問いにも確かに答えています。

 論文では、(1)「流通過程の短縮」は第二部初稿以前に把握されている、(2)「経済循環のシミュレーション」と解された箇所は,恐慌への反転の契機が不明確で,回復局面も論じられていないので,「見事な成功」とは評価できない、(3)第三部の「利潤率の傾向的低下法則」論の現行版第15章部分が「取り消された」との説は、マルクスのエンゲルス宛18684 30日付書簡の誤解に基づいている、などのことが指摘されています(21ページの「趣旨」より)。最後に全体的結論として「氏が繰り返し主張する『恐慌の運動論の発見』によるマルクスの『恐慌観』の『激変』は,思い込みとしか言い様がないのである」(39ページ)と論断されています。こうして不破氏の主張する「1865年のマルクスの理論的大転換」が成立しないことが、理論的・文献考証的に指摘されています。

 谷野氏のこの論稿は、不破氏の論述より格段に精度が高く、おそらく実質的な反論は不可能でしょう。謬説に従って『資本論』の翻訳を改定したことの政治的・学問的責任が問われる事態だと言えます。

 

 

          学びと社会認識についての随想

 今にして思うのは、私の人生は仕事・生活・活動においておおむね失敗であり、勉強は好きでも「素人のど自慢で鐘二つ」程度のことです(そこまでも行ってないか)。還暦を過ぎた身で残された時間にどう好きなように勉強できるか、そこで多少は何かの成果を上げられるか、というのが今後の課題です。

世の人々はだいたい勉強が嫌いです。学校で強いられる勉強のせいで、本来人間が持っている知的探究心が阻害され摘み取られてしまうのでしょう。これも階級社会による人間疎外の一側面です。国連から指弾される、過度に競争的な日本の教育はその典型です(*注)。それで活動上も学習会を組織して成功させるのは難しくなっています。誠に残念なことですが、それだけになおさら、勉強とは学問とは何か、人間にとって人生にとってそれはどんな意義を持つのかを改めて問うことが必要となります。以下ではそんなことを含めて、あるいはそれ外にも、学ぶことと社会認識についてあれこれ徒然なるままに書いてみます。

落合恵子氏は、自分を私生児として女手一つで育てた母親に寄せる思いをこう書いています。「母は、机の上での学問を積んだわけではないのですが、人の痛みに対する想像力は豊かでした。苦労もしたけれど、その苦労で大事なものがすり減らなかった。自らが痛みを強く味わってきたからこそ他者への想像力と共感力を育んだのでしょう。そのことを、敬意をもって思い出します」(「しんぶん赤旗」日曜版1220日付)。

 苦労ですり減ったり歪んだりする人が多い中で、自からの痛みを「他者への想像力と共感力」への糧とすることができるのがどんなに素晴らしいことか。それは「机の上での学問」がなくても可能ですが、逆にすべての学問はそれを前提にすべきであり、そうして初めて真に人間とその社会にふさわしい学問になると言えます。これは学問が何のためにあるか、どういう立場で学問と現実に臨むのかを方向付ける根底にある人間的姿勢そのものです。

 解剖学者の郡司芽久氏も母を語っています。50過ぎに趣味でお香と出合い、それが高じて調香師となって懸命に研究する姿は「以前よりもはるかに輝き、人生を楽しんでいるように見えた」というのです。そこから学問についてこう続けます郡司芽久のキリン解体新書「お香を究める母の姿に」、「朝日」1111日付

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 研究を生業にしていると「ご両親も研究者なの?」とよく尋ねられる。我が家の場合、母は調香師で、父は普通の会社員だ。どちらも研究者ではないが、私は、学問の楽しさと素晴らしさを母から学んだように思う。母の姿は、誰かに強いられて知識を詰め込む“勉強”と、自らの喜びとして主体的に知識を得る“学問”の違いを教えてくれた。

 知識は生活を豊かにし、新たな気づきを生み、日常を輝かせてくれる。これまで見過ごしていたものにも目が止まるようになり、世界の解像度があがる。学問は、何げない日々を最大限楽しむことを可能にする最強のツールだと思う。

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 主体的に学ぶことの魅力が、生活や日常の中に置かれて、まさに輝くように語られています。それだけに正反対の「苦役としての勉強」を強いる今日の教育というものの罪深さがよりいっそう実感されます。私も含めてだれもがこんなふうに学問を発見し実感できたらどんなに素晴らしいか、社会進歩に資するかということを思います。

 以上は実にストレートな議論です。その上で、変化球にも挑戦して頭を柔らかくすることも必要でしょう。「朝日」1面に毎日連載の「折々のことば」哲学者の鷲田清一氏作家の高橋源一郎氏の言葉を紹介し解説しています(127日付)。

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 問題山積みの文章だけが、「危険! 近づくな!」と標識が出ているような文章だけが……わたしやあなたたちを変える力を持っている

 (高橋源一郎)

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 語彙(ごい)が豊富、論理が緻密(ちみつ)、魅力的な知識や逸話が満載なのが「いい文章」だとふつう思われているが、逆だと作家は言う。読み進めるうち不安になり、読んでいることを隠したくなる文章がいいのだと。これまで何の疑いも向けなかった自分の“初期設定”にいやでも向きあわされるからと。  『「読む」って、どんなこと?』から。

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 これ、頭を殴られるような感じでしょうか。確かに常識的な「いい文章」には心地よい安穏さみたいなものがあるのでしょう。――そこに陥穽がある。それはパワー不足で、要するに既成概念への破壊力がなく、それまでの自分を問い直すことにもならないだろう、と反省してみるべきか。――ときには敢えて破天荒な文章に取り組むことが大切であり、そこに何かを発見できるかもしれません。

 そんな高橋氏は子どものころより、学校が「何のために勉強するのか答えてくれない」という違和感を抱え続けつつ、14年間大学で教えて昨年定年退職し、その経験をもとに私塾作りを模索しています。新著『たのしい知識』(朝日新書)は、その「教科書」でもあるそうです。コンセプトとしては、社会へ自分へ「質問する力」が大切だというのです。そうした高橋氏の思いを紹介した「朝日」1118日付記事の中心点からはやや外れますが、その「教科書」に関連して、専門家と文学者との関係に触れた部分を以下に引用します。

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 専門家の知識を引き出すだけでなく、先行する文学者の想像力を道しるべに問題の本質に迫る方法も示す。考える過程で、作家や詩人の文章が参照される。

 日韓問題では、中島敦の作品を引いた。植民地となった朝鮮で宗主国のための巡査として働く主人公の葛藤を描く。「極限状態で書かれた文学は、植民地について考えるどんな論文よりも、遠くに行くことができる。その時代や、人々の心の奥ひだまで、言葉を届かせることができる」。逆に、誰も考えていないだろうというところに、すでに文学者が行っていることが多いという。

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 「専門家の知識と文学者の想像力」というここでのテーマ設定に触れて、かつて池澤夏樹氏が「朝日」夕刊で連載していた「文芸時評」の言葉たちを想起しました。

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文学は美的対象としてそれだけであるのではなく、哲学や社会科学と並び立って、国と地域と言語と時代を表現している。    1996924日付

 

文学は目の前の飢えた子供を救うことはできないが、十年後の飢えた子供を何人か減らすことはできる。原理的には文学は時代にコミットする力を持っている。

                    1997225日付

 

小説家はジャーナリストの後からやってくる。その到着には数年から数十年かかるのが常だ(歴史家や哲学者はもっと遅いかもしれない)。

大きな事変が起こって、たくさんの人が巻き込まれる。多数の死者が出て、社会の枠組みが根底から変わり、人々の心に深い傷が残る。報道はすぐに行われる。その日ぐらしのジャーナリストがかけつけて、その時点で事実と思われることを片端から言語や映像にしてゆく。そのしばらく後、小説家が登場する。事実の全容をつかみ、かかわった人々全員が被った害を計り、後世にとっての意味を探り、フィクションの形で記述する。それは互いに矛盾するさまざまな見方を包み込むべき弁証法的な仕事だから、小説という器が最もふさわしい。              1997625日付

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 池澤氏は<ジャーナリスト→小説家(文学)→専門家・研究者(哲学・社会科学)>というリレーの形で社会認識の時系列的全体像を提示しています。通常、社会認識は社会科学研究者の専門領域とされますが、池澤氏は小説家・文学者がそこに占める特別の位置をしっかり主張しているのです。「事実の全容」と「後世にとっての意味」を「フィクション形式」で「互いに矛盾するさまざまな見方を包み込むべき弁証法的な仕事」として形作って見せるのがその役割です。日韓問題で中島敦の作品を引いた高橋氏は、鮮烈な体験を捉え、さらにそこから先を行く想像力を働かせる文学者の中に、ことの本質に迫る力を見ています。それは池澤氏の時系列リレーの中に位置づけることができるとともに、それをも超えるものを示唆しているとも言えます。専門家の知識、何するものぞ、という文学者の矜持でしょうか。

 私としては、素人ながら社会科学を勉強する者として、池澤氏の言うところの文学者の捉えた「弁証法的な仕事」を踏まえつつ、それをフィクションではなく法則認識の形で果たすのが社会科学ではないか、と考えたいのです。現実を前に、社会認識においては社会科学も文学と同じスタートラインに立っています。両者の関係について、内田義彦氏は「人間の全体把握において、文学のみの養いうる想像力」(『作品としての社会科学』、岩波書店、1981年、150ページ)を指摘し、「科学的研究方法による正確さが、文学的に確かな手ごたえを導きの糸にし、より的確な把握に向って動員されねばならぬ」(同前、183ページ)と主張しています。感性と知性、「人間の全体把握」を経過した社会認識と変革的実践への道を見据えられるようにしたいものです。文学と社会科学の相互作用の意義は大きい。

以上、せっかく変化球が来たけれど、結局それは見逃してストレートしか打ち返せなかったという感じでしょうか。せめて空振り三振でないことを願います。

 ここまでの議論は、個別主体としての社会認識と言えますが(近代主義的?)、さらに共同作業としてのそれを考えてみることも必要でしょう。参考にするのは、写真家人生21年、「難を生きる人」の尊厳を撮りたいという渋谷敦志氏の言葉です(「しんぶん赤旗」1113日付、聞き手:豊田栄光記者)。

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 「昔、写真は自分が主体的に撮るものだと考えていました。自分の意思で、どの国の、どのような人を撮るのか選び、1枚の写真に“自分の思い”を具現化させようとしていました。今は撮る自分、撮られる被写体、それを見てくれる人、“三者の共同作業”という感覚です」

 写真家を志した19歳のとき、何を撮りたいのかと聞かれ、「困難な状況の中でも生きようとする人間の尊厳を撮りたい」と答えた渋谷さん。世界各地を旅する中で、自分の中にある偏見や無知、尊厳を踏みにじられた人たちがいる現状に対して何もできず、結果としてその不条理を許している自分の存在を思い知らされました。

 「いまも19歳のときと同じで『人間の尊厳を撮りたい』と考えています。当時、この言葉に血は通っていませんでした。いまは被写体となってくれた人たちによって、この言葉に命が吹き込まれました。写真は現地に行って撮った私、撮らせてくれた人、見てくれる人の三者がリアルにつながるものです。このつながりはコンピューターにはできません」

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 常々しょせん拙文はおおむね「思いつきとつじつま合わせ」に過ぎないのではないか、空語ではないか、という観念性コンプレックスに囚われている身としては、「人間の尊厳を撮りたい」という立派な思いを掲げていても、「この言葉に血は通っていませんでした」と若き日の自分を断ずる渋谷氏の言葉は重く響きます。それでもその言葉を掲げ続け、「三者の共同作業」を通して、そこに命を吹き込んだという確信は素晴らしいものです。

社会認識の場合は共同の実践活動を通して言葉に血を通わせることになります。その際に真剣に取り組むほど「自分の中にある偏見や無知、尊厳を踏みにじられた人たちがいる現状に対して何もできず、結果としてその不条理を許している自分の存在を思い知らされ」ます。そこまで突き詰めない範囲にとどまっていることが多いのが実態ではありましょうが…。覚悟を持った写真家である渋谷氏から問題点は突きつけられたけれど、そこを打開する方向にすっと進むまでいかないのが現状ではあります。何だか躊躇する自分がある。また写真家の「三者の共同作業」という主客含めた実践に対して、社会・政治的活動の場合はどう考えるかという問題もあります。

歯切れが悪くなったところで、テーマを転換して、社会認識において統計数値をどう読むか、そこでの立場の違いという問題に触れます。後藤道夫氏の「極貧がつくられる社会と雇用 『貧』から『困』へ(『世界』202012月号所収)によれば、離職期間1年未満で転職した労働者について、離職期間が1カ月未満の割合を見ると、2000年から2018年で急速にその割合を高めています。2018年では転職した男女の43%が離職後2週間以内に転職しています。後藤氏はこれをこう評価します。

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 前職が低所得で貯蓄もなく、離職により困窮している、あるいはすぐに困窮する見込みの失業者は、十分に転職先を選ぶ余裕がない。これは旧来から「労働力の窮迫販売」と言われてきた現象であり、蔓延すると、雇う側が強くなるため、労働条件を全体的に引き下げると言われている。            101ページ

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 ところが「『雇用の流動化』を促進すべく、労働移動の迅速化を推進してきた厚労省は、逆に『失業なき労働移動』の実現と高く評価するだろう」(101102ページ)と言うのです。後藤氏の叙述を先に読んでいるから、厚労省の見方は、「なんてひどい」とも思えますが、それがなければ、「失業なき労働移動」でけっこうだ、と思いかねません。確かに失業してもすぐに転職している、ということだけ統計数値で見れば、流動化の中でうまく雇用が確保できているかのように見えますが、ちょっと考えれば、そんなにすぐに適切な転職先が見つかるわけはなく、不本意な「労働力の窮迫販売」であることが分かります。ここには、社会問題の現場の内実=当事者の置かれた状況をしっかりつかんでいるか、それを見ずに表面的な数字だけで判断しているかという違いが現れています。厚労省などの支配層と批判者とでは、人間と社会を見る「立場」とそれに規定される「深さ」とが決定的に違うのです。社会認識が本質に迫っているか、現象だけにとどまっているかの違いとも言えます。内橋克人氏はかつてこう言われました(「朝日」夕刊1999年5月21日付)。

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この間の経済をめぐる言説はどうですか。マクロな経済数値をもてあそんで「人間」を見ず、時流に便乗し世の中を見下して。「市場が淘汰(とうた)する」なんて、どんな怖い言葉を口にしているかわかっているのか。切実な思いで生きてきた人々に 比べ、なんと軽薄な。

なりわい、営みとしての経済、それを侵すものに怒りを覚えます。

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 以上からはヒューマニズムは社会認識を歪めるのでなく深めるのだということが分かります。もちろんヒューマニズムが「希望的観測」に流されて、厳しい現実を捉え損なうことは大いにあります。しかしもっぱら「利潤追求を中心とする経済成長から見た国民経済やグローバル経済」に焦点を定める支配層の観点と比べれば、「人々の生活と労働」に焦点を置くヒューマニズムの観点は、人間とその社会に対する歴史的・構造的本質把握において原理的に優れていると言えます。メディアなどでは、イデオロギー的偏向といえば主にマルクス主義(本来は科学的社会主義と呼ぶべきだろう)による左翼的偏向を指しますが、それは支配層のイデオロギーに軸足を置いているからそう見えるだけです(その自覚がそもそもないが)。しかしイデオロギー的偏向は客観的にはどういう立場にもありうるわけで、それは統計数値の解釈に如実に表れるのですが、なかなか見抜くことは難しい。後藤氏はその典型例を鮮やかに指摘したと言えます。

日本共産党文教委員会責任者の藤森毅氏の論文はいつも熱い意志と柔らかな心性を感じさせ、いわゆる「新左翼」が揶揄する「党官僚」の無味乾燥で冷たく退屈な「作文」とは対極の位置にあります。もっとも、この揶揄自体が大方偏見に過ぎず、たとえば『前衛』の諸論文には、情理兼ね備えた力作が多くみられます。藤森氏の論稿はその中でも特に強く語りかけてきます。同氏の「少人数学級の根拠の在り処――財務省の『エビデンス論』を批判する(『前衛』20211月号所収)は少人数学級に抵抗する財務省の「エビデンス論」を鋭く斬っており、まさに本物のエリート官僚たちの冷酷な議論に熱い意気込みを持って、しかしあくまで冷静に対峙しています。

 ただしここでは、論文の目的である財務省の「エビデンス論」の批判そのものは措いて、その前提的考察としての科学的認識論とでもいうべきものについて触れます。「エビデンス政策」=「エビデンス(根拠)に基づく政策づくり」の意義と限度をどう捉えるかが課題ですが、それは一般論としての理論的抽象の意義と限度の考察に準じます。現実と理論とはどういう関係にあるのか。その問題意識が以下のように表明されます。

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 現実にどんな効果が生じているかは、客観的に存在している現実です。これに対して、エビデンスのセンサーは、その現実を何とか数値の形で映し出そうとする一つの抽象です。

 学問に携わるものは、灰色の理論≠ェ緑なす現実≠フ合理的な抽象となることを望みます。そして、その望み通りになるかどうかは、ひとえに灰色の理論≠フでき次第なのです。教育効果の計量化という理論枠組みは、まだまだこれからという段階ではないでしょうか。           92ページ

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 蛇足ながら、藤森氏の論稿が魅力的なのは、「緑なす現実」を何としても捉えようという意志が強く、行論上、その生き生きとした表象をいつも読者に届けることに成功しているためでしょう。教育問題上の具体例やそれにまつわる人々の思いや願いへの言及を適切に配置しているように思います。

閑話休題。上記は大枠としてある一般論ですが、私たちは階級社会に生きている以上、認識論としてはそのバイアスを捉えねばなりません。それは「計量経済学的な視点それ自体の制約」(88ページ)として論じられます。それは「人々の生活と権利にかかわる政策を抽象し、いくら投資して、いくらリターンがあるかという経済指標に還元し、よりリターンの多い方にシフトしようという投資の論理という側面をも」ちます(同前)。前述のようにここでは措きますが、これまさに財務官僚のイデオロギーそのものです。計量経済学そのものがブルジョア経済学の一分野として創始されたものです。もちろんマルクス経済学においても計量的経済認識は必要なので、その科学的活用は問題となっているのでしょうが、残念ながら不勉強でそれには不案内です。

 藤森氏は計量経済学的な視点=投資の論理に対して次のように階級的に批判しています。

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 しかし政策で大事なことは、すべての個人を、年齢・性別・経済的な地位その他にかかわりなく尊厳と基本的人権(とくに社会権)をもつ存在として捉えることです。そこには投資の論理で割り切ってはならないものがあります。政策は基本的人権の保障としてあるという見地が欠落すれば、「なぜ貧困対策の予算がこんなに少ないのか」「そもそもなぜ貧困が広がっているのか」という根本的な問い――資本主義の矛盾と改革についての問い――がでてきません。            8889ページ

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 ここには基本的人権論そのものの階級的発展が反映されています。近代の啓蒙思想に発し、ブルジョア革命によって実現したものを基本的人権の近代的段階とするならば、資本主義の矛盾に対する労働者階級の闘いを反映して社会権を勝ち取ってきたのがその現代的段階であるということができるでしょう。だからブルジョア経済学の批判において、現代の基本的人権論は有効だと言えます。

 以上のように「エビデンス政策」が陥りがちな階級的バイアスを原理的に考慮した上で再び、教育そのものの特殊性に基づく認識過程の困難性に迫ることが必要です。「エビデンス政策」はもともと医療に発した「ランダム化比較試験」を政策作りに広げたものです。ランダム化比較試験は「特定の介入以外の他の介入による影響をシャットダウンし、その特定の介入の影響を調べる方法」(87ページ)です。自然科学に基礎を置く医療の場合、それは比較的に容易ですが、社会科学の場合はなかなか困難です。政策の影響を数値化するモノサシを得ることが大変難しいのです。その数値化という抽象過程において、複雑な社会的現実の一部を切り取らねばなりませんが、的外れにならないように重要な部分を切り取れるかが問われます(8990ページ)。

 教育の場合はなおさらです。比較的計測しやすいといわれる学力でも、多様な教育実践の観点からすれば容易にできるもの・すべきものではありませんし(その具体例は90ページ)、「ましてや、教育の目的は子ども一人ひとりの『人格の完成』=子どもの人間的成長全体です」(同前)から安易な数値化はできません。

 以上のような教育における「エビデンス政策」の困難性を指摘した上で、藤森氏は国内外の研究成果を吟味した本田由紀氏の論稿に依拠して「少人数学級は、社会経済的な背景が不利な子どもの成績をあげることができる。また。教員と子ども同士の関係などに良好な影響がある」(92ページ)と結論づけています。

 その他に、「学校における子どもの成長は教員と子どもの人格的な接触を通じてはかられることを告げてい」る「教育の理論」(94ページ)から少人数学級の効果を推定したり、文科省の全国的統計で圧倒的多数の教員が少人数学級の効果を実感しているという結果も紹介しています(93ページ)。この調査結果はいわば現象から現象へという体のものであり、「エビデンス政策」のように一定の手続きを踏んで要因分析を試みるという「科学的」な体のものから見ると、(少人数学級の有効性の本質はどこにあるかが未解明であるという)ブラックボックスは残したままの開き直りのようでもありますが、とにかく実践的に有効な結論であることは確かです。これはプラグマティックなようですが、とりあえず事態の本質を探究する出発点として確認しておけばいいでしょう。それでも現状の「エビデンス政策」が科学的だとか、事態の本質を捉えているという勘違いよりはマシです。

 以上、哲学の認識論の知識があればきちんとした議論が展開できるのでしょうが、それがかなわない中で、ない頭をしぼって私なりに考えてみました。妄言多罪。

 

(*注)以下に、日本人の学問観についての過去の拙文を紹介します。今日の学術会議の問題について世論のベースを考えるうえで、これが参考になれば幸いです。

     (難しい用語よりも分かりやすい日常語を使った方が

翻訳としてかえって正確であるということを受けて…)

 実はこれ、哲学の翻訳に限らず、日本の学問全体に関係あることです。日本の庶民は学問に対して一見、裏腹な姿勢をとってきました。一方では、むやみやたらとありがたがる「わけわからずの教養主義」みたいなものが根強くあります。これは立身出世主義から受験戦争に至る「勉強の社会的強制」によって助長されてきました。他方では「学問なんか何の役にも立たん」という気分も色濃くあります。エリート官僚たちが演じる様々な失態は、それを証明するかのようです。

 この二つは打ち消しあうどころか、おそらく明治から現在まで両立し続けているのではないでしょうか。これらは対立するように見えて、実は学問のあり方に対する無理解(あるいは失望とか諦め)という点では共通しています。学問とは現実を把握する(真理を追求する)ことを通じて、人々の自由を拡大し、社会を発展させるものだ、とは考えられていません。それどころか、結局何の役にも立たないか、せいぜい<他人を押しのけて私的利益を得るために利用すべきもの>くらいに思われています。こうして学問は生きた現実から切り離されて、嫌われものとなりました。敬して遠ざけるか、あからさまに罵倒するかの違いはあっても。

 このような理解が生まれてくるのには、日本の近代的学問のあり方そのものにも原因があります。「学問輸入国で、学問がふつうの人間がふつうに考える延長線上に発展したのではなく、むしろ当初から学問信仰として民衆に対立し、民衆の生活実感を押しつぶす役割を果たして」きたためです(内田義彦『作品としての社会科学』一八三ページ)。翻訳の問題はその象徴的事例です。だからわかりやすい訳の登場は、日本の学問全体を人々に近づけ、その本来の姿を回復するきっかけとなるのではないでしょうか。

 学問が難しいのはある程度はやむをえないことです。高い山ほど登りがいがあるというものです。しかし難しさをありがたがったり、知識をひけらかすことは学問とは無縁でしょう。時代と社会、人々の生活のあり様、それらとの結びつきを忘れない学問ならば、逆に人々もそれに近づいてくるのではないでしょうか。バブル崩壊後、真摯さが見直されている時期でもありますから。

 (刑部泰伸「音楽、学問、時代の気分」、高橋輝次編『古本屋の来客簿』

/燃焼社、1997/所収222223ページ)

 

 

          大阪住民投票の画期的勝利

 先月も触れたのですが、維新の会の「大阪都構想」(大阪市廃止)の是非を問う住民投票が2020111日実施され、接戦の末、反対が多数となりました。当初の予想に反して画期的な逆転勝利です。森裕之氏の「『大阪都構想』の失敗と市民自治」(『世界』20211月号所収)は政策争点を細かく分析し、論戦状況の変遷をていねいに追った上で、次のように住民投票の教訓を見事にまとめています。

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「大阪都構想」の住民投票が呼び起こしたのは、大都市における市民主体の自治意識である。それは個人主義が強い市民が、都市共同体の一員であるという自治の精神を蘇らせたことに他ならない。このことは、新自由主義のイデオロギーが広がった現代において共同体自治を基盤とする社会を取り戻す可能性を示すものである。

 「大阪都構想」=大阪市廃止への反対は単なるノスタルジックな思いから発せられたものではない。反対派の市民たちが求めた大坂市存続は住民サービスを守ることと不可分のものであった。住民サービスを守るためには、それを自ら決定する権限と財源の確保がなければならない。この自治の根本的条件が多様な市民の中に広がることによって、「大阪都構想」は否決されることになったのである。      92ページ

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 さらに最後に「政治による分断統治から市民による共同体自治への飛躍こそが、この都市の未来を握っているといえる。そして、この大阪市が示している発展への道筋は、日本のみならず世界の都市に当てはまる教訓に他ならない」(同前)と実に意気高く締めくくっています。草の根からの民主主義で逆転勝利した高揚感が立ち上っているようです。

 そしてこの特別に意義ある闘いを反対派と市民はどのように貫徹したのかについて、先月は日本民主青年同盟大阪府委員長の酒巻眞世さんの次の言葉に感激しました。「誰のために宣伝するのかを考え、相手の思いに寄り添う。わからない人が『わからない』と聞ける宣伝の雰囲気をつくり、『教える』『わからせる』ではなく、『一緒に考え合う』対話が、青年や市民が自信をもって投票することを励まし、大阪市を残す結果に結びついたと確信しています」(「思いに寄り添い対話」、「しんぶん赤旗」20201112日付)。それに対して「奇跡的な逆転勝利に見えた大阪の闘いは、このように模範的な熟議の民主主義を創造する活動によって得られた当然の勝利だったのです。変調した世論に当面しても、人々への信頼と、ともに考える姿勢とを貫くことが大切なのでしょう」という感想を書きました。

 さらに柳利昭氏(日本共産党大阪府委員長)の「住民投票 大阪市民の力を発揮し、市解体を許さない歴史的な勝利」(『前衛』20211月号所収)を読むと、共産党大阪府委員会の科学的な情勢分析に基づく確固たる闘争姿勢が勝利の重要な一因であったことが分かります。維新という敵を正確につかんだうえで、市民意識に寄り添う活動を貫いています。柳氏は府委員会の組織活動の構えに言及してから以下のように続けます。

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この活動のなかで、数を力にした維新の攻勢とともに、その矛盾をリアルにみて挑むことを常に明確にしてきました。また、維新支持者の動向を分析して、「維新支持者のみる維新は大阪を変え成長させた『改革者』であり、我々からみる維新の姿とはまるで別物」であることをよくつかんで臨むこと、こうした市民の維新への「幻想」は引き続き大きいが、コロナ対策での「吉村人気」と「大阪市廃止の是非」のものさしは異なることなどを解明してきました。この点では、「明るい会」が実施した「一〇〇〇人ネット調査」も市民動向を分析する力になりました。

そして、市民の「幻想」を解くうえでは、正確な情報提供を行うとともに、前向きの政策で「もう一つの選択肢」を示すことが大事であることなどの議論を重ねて、「しんぶん赤旗」や「大阪民主新報」などに多くの論評記事をだしてきました。この市民への働きかけの姿勢は、住民投票本番のたたかいにも貫かれました。     6465ページ

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 変革者というものはしばしば希望的観測に陥ってしまって、現実のネガティヴさを見落とすことがあります。維新の主張の荒唐無稽さに接して見下していると、市民に維新への幻想が存在することをリアルに見られなくなります。そういう姿勢を克服して現実を直視したことが一つのヒットであり、その上で現実の不合理さに落胆するのでなく、維新への幻想と大阪市廃止への意識とは別問題であることを明らかにし、正確な情報提供とオルタナティヴの提示という、展望の持てる闘いの方針を確立しえたことが決定的であったように思います。

 ここで維新幻想に陥った市民をバカにするというような傲慢な考えではなく、具体的な現実に即して、今後ともいっしょに市政を考えていく主体としてリスペクトする立場を貫くことによって、大阪都構想反対派や共産党は民主政治のアクターとしてまっとうに成熟していく経験を積んだように思います。「市民との対話では、市民の気持ちに寄り添って、正確な情報を届けて一緒に考える努力が重要でした」(66ページ)という総括視点が打ち出されるに至るまでには、上記の酒巻眞世・民青同盟大阪府委員長の発言にみられるような対話の発展的経験がそこらじゅうにあったのでしょう。また、上記の森裕之氏の「政治による分断統治から市民による共同体自治への飛躍」といういささかオーバーに聞こえる教訓も、この市民対話の実績に照らせば、そこには内実を伴っているのだと感じられます。 
                                 2020年12月31日





2021年2月号

          人々の苦難を捉える社会科学

 

◎ 日本経済を見る諸立場 

 

 197080年代くらいに「日本経済上出来論」というのがありました。今日から見れば確かに当時の日本資本主義は先進諸国の中では「順調」だったのかもしれません。その代表的なイデオローグの一人であった、体制的なケインジアンの飯田経夫氏の経済原論の講義をきちんと聞いておけばよかった、と今にして思います。飯田氏は左翼への対抗心が強くて、それなりに現実主義の立場から「分かりやすい」議論を展開していたようです。70年代末の講義においては、日本の経済学界ではケインズ派が圧倒的で新古典派は冷飯組だ、というようなことを自慢げに語っていました。ところが晩年は、数理的な新古典派理論の論文が全盛になったのに嫌気がさしたのか、経済学なんかやらなければよかった、とぼやいていたようです。私なりに解釈すれば、ブルジョア教条主義としての新古典派理論に対して、ブルジョア現実主義の立場からの反発があったのではないかと思えます。おそらく左翼批判の現実主義の基軸はブレずに、それが同時に新自由主義の風潮への違和感となったのではないか…。「きちんと聞いておけばよかった」というのは、たとえば国民経済を全体的に見渡すバランスある目を養う参考になったかもしれない、ということです。「日本経済上出来論」が良かったとは思わないけれども、左右の現実批判者が見落としている部分を補う意味はあったかもしれません。

 しかし当時から、残念ながら私は読んでいませんが、たとえば江口英一氏などは執拗に日本の貧困を実証的に追求していました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか「1億総中流」などと言われ、「日本経済上出来論」が説得的であるかのように映り、「階級」とか「貧困」という言葉があたかも死語として扱われていた時代にあっても、地下水脈のように格差・貧困は研究され続けました。

やがて1990年代以降、バブル破裂を機に、日本資本主義は今に至る長期経済停滞時代に突入し、格差・貧困が顕在化する中でその研究は復権しました(山家悠紀夫氏によれば、バブル破裂よりも新自由主義構造改革こそが停滞の主犯ですが)。あたかも、バブル期に阿久悠が作詞し、河島英五が歌った「時代おくれ」という歌が売れないながらも消えずに残り、バブルがはじけるとともに売れたように…。時代錯誤のように見えたものこそホンモノであった。江口門下の研究者の方々なども活躍されているでしょうが、むしろマルクス経済学やアカデミズムの外から、反貧困運動の実践とともにその潮流は登場し、既存の流れに合流して大河となった、という印象を強く持ちます。特に湯浅誠氏が『世界』200612月号に論文を載せ、一躍論壇に登場したのが貧困研究の号砲が鳴ったと感じられました。その後の湯浅氏の実践には批判もあるようですが、当時の私の感慨を引用します(「『経済』20071月号の感想」、20061222日、から)。

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 アカデミズムの外にある、貧困と闘う現場から鋭い論稿が登場してきました。2006年において私としては寡聞にしてこれより優れたと思える論文は読んでいません。湯浅誠氏の「『生活困窮フリーター』たちの生活保護」(『世界』200612月号)、および同氏の「格差ではなく貧困の議論を」上下(『賃金と社会保障』No.1428-1429 200610月下旬号、11月上旬号)です。論壇においても一致して注目されているので私の評価も単なる独断ではなさそうです。貧困概念の拡張、それに対応した「貧困ビジネス」概念の提起、自己責任論の根本的批判など、青年層の貧困と対峙する現場の実践を踏まえて、社会科学全体への問題提起に満ちた論稿です。新自由主義との対決はまずは先端産業や多国籍企業といった社会のトップ領域で展開されているのですが、ビジネスチャンスという名の搾取領域は貧困層相手にも及んでいます。貧困ビジネスには、消費者金融、派遣・請負業、賃貸借外入居契約、保証人ビジネス、フリーター向け飯場、住所不定者向け無料定額宿泊所などがあります。グローバリズムは世界の人民にボトムへの競争を強要し、そうやって生み出された貧困層をめぐっても利潤追及の資本と自立支援のNPOとが対決しています。嗅覚鋭い資本から私たちは学んで克服することが求められています。

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 究極的には理論は現実に従属するので、格差・貧困の拡大が誰の目にも明らかな時代となって、少なくとも世論への影響においては、日本経済への楽観論より批判的論調が優勢となっています。そこであえて言うと、マルクス経済学などの現実批判者側でも高度経済成長期を美化する傾向があるのではないか、と気になります。確かに格差と貧困が露わな今日よりも当時はマシな時代だったかもしれません。しかし、国家独占資本主義の本質的現われとして、軍需インフレ蓄積がある、と習った身としては、米帝国主義を中心とする世界資本主義がベトナム戦争を始めとする諸矛盾の中で、ブレトンウッズ体制の崩壊に至り、今日の金融化=カジノ資本主義の扉を開いた、といった現実を忘れるわけにはいきません。

日本資本主義は米帝国主義への従属体制の下で、朝鮮戦争・ベトナム戦争とともに例外的な高度経済成長を成し遂げたという意味では、まさに軍需インフレ蓄積の申し子であったと言えます。当時の先進諸国がケインズ政策による福祉国家であり、日本はそれに加えて日本国憲法の下で平和的発展を遂げたというのは、きわめて一面的な認識であり、他面をも見る必要があります。今日の資本主義のあまりのひどさへの反動とはいえ、過去の美化では今日を正しく見ることはできません。

 体制批判側のそういうゆるみが気になりますが、もっと驚いたのが、何年か前に見たNHKニュースでの経済用語解説です。「ゴルディロックス経済」という見方があるというのです。それは今日の経済状況を「熱すぎず冷たすぎない適温のスープ」にたとえています。格差と貧困が拡大するこの経済を前に何とノーテンキかと思いました。そこで今改めてウィキペディアで調べてみると「ゴルディロックス相場(適温相場)」というのがあり、「景気が過熱も冷え込みもしない適度な状況にある相場のこと …中略… ゴルディロックス相場では、経済は緩やかに成長して長期金利は低位に安定し、金余りの期待から資金が安定資産からリスク資産へと流入し相場を押し上げる」とあります。

 何のことはない、まさに「金融化のあだ花」というべき現状認識であり、労働者・人民の生活はまるで見えていません。現実が無批判に逆立ちして見えています。高度経済成長期を美化するのもいけないですが、ましてや今日の格差・貧困経済をも徹底的に美化するのは問題外です。しかしそれが大真面目にNHKニュースで解説されていました。支配層も一方では資本主義の危機についての認識はあると思いますが、それでもなお他方ではこうした微温的状況把握にどっぷりつかって、その感覚(=錯覚)を大衆的に普及しようと努めているのです。

 それで、経済学というのはもちろんやたらと危機感を煽ればいいというものではありませんが、格差と貧困を拡大するのを本性とする資本主義経済において、それをどうリアルに捉えるかが最大の問題となります。経済学が本格的に成立するのは近代以降ですが、可能性としては、経世済民の学としての経済学は古代からあり得るでしょう。前近代においては搾取経済の下での民の暮らしをどう成り立たせて、見渡しうる範囲の経済社会全体の運営をどう図っていくかが課題となります(たとえば「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」という哲学に基づく統治)。近代資本主義では、搾取と資本蓄積運動に基づく格差と貧困の拡大の下で、労働者・人民の生活維持を前提に、地域経済から国民経済、そして世界経済をどう調整し変革していくかが本来の課題となります。支配層の立場であれば、諸矛盾の隠蔽と調整を生産力主義的「変革」の方向で実現し、労働者・人民の立場であれば、当面する苦難の軽減と、その先の生産関係そのものの変革をともなう生産力の解放を展望することになります。

 一般論として、階級社会においては支配階級のイデオロギーが支配的なそれとなります。さらに資本主義市場経済では物神性と領有法則の転回によって、「自然に」搾取が隠蔽され、労働者・人民の苦難は自己責任論によっておおわれます。社会現象は必ず諸個人のアクションの集積として現れる以上、社会問題を個人責任に帰することは容易です(「市場経済」を家計と企業の原子論的運動の集合の場として捉える新古典派の経済像はその典型)。その仮象を剥いで、それを社会の史的・構造的問題として捉えるのが社会科学の任務です。学問をする人の中の多数派はある程度の安定した生活基盤を有し、困窮した諸個人の立場を捉えにくいことが多く、その眼で社会全体を見るなら、人々の苦難を前提にして成立している現存秩序をそのまま守りながら諸矛盾を調整しようということになります。そこに成立するのが「現実主義」です。ところが現実主義的調整さえをも超えて、人々に諸矛盾を押し付け強行突破を繰り返すのが、ブルジョア教条主義としての新自由主義構造改革です。

 いずれにせよそれらへのオルタナティヴとして、労働者・人民のディーセントな生活と労働を成り立たせることを前提に、社会全体のあり方を変革的に構想することが必要です。その立場からは、たとえば <(1)統計数値の見方での対決点を明らかにする、(2)人々の苦難を顧みない新自由主義イデオロギーに基づく社会保障観と政策を批判する、(3)そうした見方から人々の状況をリアルに把握し、雇用・社会保障等々各分野の問題を解明することを通じて社会の全体像を浮かび上がらせる> といった課題があるように思います。

 

◎ 人々の苦難の可視化と変革的理論への組み込み 

 

1)統計数値の見方での対決点:苦難の可視化

 統計数値の見方については、一般論があるのかもしれませんが、知らないので例示に留めます。一つは先月書いたもので、後藤道夫氏の「極貧がつくられる社会と雇用 『貧』から『困』へ(『世界』202012月号所収)が指摘している、離職者がすぐに転職しているという問題です。離職期間1年未満で転職した労働者について、離職期間が1カ月未満の割合を見ると、2000年から2018年で急速にその割合を高めており、2018年では転職した男女の43%が離職後2週間以内に転職しているというのです。これをどう評価するか。厚労省など支配層の見方としては、「雇用の流動化」を進めた成果として、「失業なき労働移動」が実現したということになります。しかしそれは現実を把握できない表面的な見方であり、実際には困窮した失業者が転職先を選ぶ十分な余裕がないため、条件が悪い所でも急いで転職せざるを得ないということです。つまり「労働力の窮迫販売」です。

姉歯曉氏の「女性労働者が直面する課題は何か コロナ不況下のジェンダー問題では、女性の労働力率の推移を表すM字カーブ(出産年齢層で労働力率が落ち込む谷形)の見方を問題にしています。安倍政権はその谷の部分の解消をもって、「子育て世代の就業率の落ち込みがなくなった=女性活躍社会の象徴」として宣伝していました(35ページ)。しかしその原因は「その年齢層に無配偶者ならびに非正規雇用」(同前)が増加しているためです。低い労働条件で無理をしてでも働き続けなければならない現実があるということであり、「あたかも女性たちが結婚・出産を経てもキャリアを続行できる社会環境が整ったかのように見えてしまう」(同前)のは錯覚に過ぎません。これも「労働力の窮迫販売」の一種と言えましょう。

以上のように、経済統計を現象的に眺めると、「迅速な転職」であり、「出産年齢層の女性労働力率の向上」です。ともに雇用が改善したかのように見えます。確かに雇用量は増えているということになるでしょう。そこから「雇用の流動化=失業なき労働移動の実現」とか「M字カーブの解消による女性活躍社会の実現」という含意を政権・支配層は導きます。しかし現場からきちんと見るなら、生活の必要上からどうしても働き続けなければならないが故に、低い労働条件=質的に内容劣悪な雇用にしがみつかなければならないということに過ぎません。

ここには、統計数値を単に表面的に見るのか、人々が生活と労働で苦難に陥っている現実を踏まえて見るのか、という視点の違いがあります。経済学を応用数学として扱って現実をそこに当てはめて解釈するのか、あるいは経済学を人間と社会の現実から出発するものとして扱い、統計数値の意味をその文脈中で解釈するのか、という正反対の視点があるとも言えます。資本主義経済の現実を「ゴルディロックス経済」的感覚で見るなら、人々の苦難は初めから眼中にないのであり、それが目に入っても、新自由主義イデオロギーが徹底されるなら自己責任論で片づけられます。

 以下に日本社会における人々の苦難について二つばかり見ます。一つ目。先進国の子どもの幸福度をランキングしたユニセフ報告書「レポートカード16202093日発表)によれば、日本の「子どもの幸福度」の総合順位は20位でした(38カ国中)。この総合順位は、以下の3つの分野を総合した順位です。

〇精神的幸福度:37位(生活満足度が高い子どもの割合、自殺率)

〇身体的健康:1位(子どもの死亡率、過体重・肥満の子どもの割合)

〇スキル:27位(読解力・数学分野の学力、社会的スキル)

上記の順位は、それぞれの( )内の指標を用いて分析しています。日本の子どもは身体的健康が1位であるにもかかわらず、精神的幸福度はブービー賞の37位です。多くの国で、生活に満足していると答えた子どもは5人中4人以下であり、その割合が53%と最も低かったのがトルコで、続いて日本(62%)、英国(64%)でした。15歳から19歳の自殺率は12位で平均より高くなっています。スキルでは、読解力・数学分野の学力は5位ですが、社会的スキル(すぐ友だちができると答えた割合)は37位であり、両極端です。日本の子どもたちは、身体の健康には恵まれているけれども、すぐに友だちができず、生活満足感が低くなっています。おそらく国連から指摘されてきた「過度に競争的な教育」も原因となって、社会性が乏しく精神的幸福感が不足しているのでしょう。日本人は子どものときから生活上の精神的苦難を抱え、それが習い性になっていると言わねばなりません。この発達過程における精神形成の問題は日本社会のあり方をそれなりに規定するものかもしれません。

 二つ目。コロナ禍で自殺者が増えています。2020年総計で、20,919人です(男13,943人、女6,976人、警察庁「令和2年の月別の自殺者数について」12月末の速報値、2021118日集計)。2019年は20,381人(男13,900人、女6,481人)でしたので、女性の自殺者の急増が見て取れます。コロナによる死者が20201231日付厚労省ホームページで3,413人(2021131日付「朝日」では5,688人)ですから、昨年末時点では自殺者がコロナ死の6倍以上です(コロナ死が急速に追い上げているとはいえ)。この「自殺者数は海外からも注目を集めてい」ます(石倉康次氏の「自助・共助、デジタル化と特異な『社会保障観』」99ページ)。

 世界保健機関による2016年の人口10万人中の粗自殺率によれば(ウィキペディアより)、世界全体の平均10.6に対して、日本は18.5で、自殺大国であることが分かります。主な他国を見ると、以下のようです。

アメリカ15.3、中国9.7、 韓国26.9、ベトナム7.3、ロシア31.0、インド16.3

イギリス8.9、フランス17.7、ドイツ13.6、イタリア8.2、スペイン8.7

スウェーデン14.8、デンマーク12.8、フィンランド15.9、ノルウェー12.2

カナダ12.5、ブラジル6.5、オーストラリア13.2、ニュージーランド12.1 

 ロシア(体制移行後の混乱社会?)と韓国(超競争社会?)の突出した高さを除けば、欧米先進諸国のいずれよりも、また中国などアジア太平洋諸国よりも日本は高くなっています。自殺大国とよく言われる北欧諸国よりも高いです。かつては日本の自殺者・年間3万人だったのが、対策もあって2万人水準に下がってきたけれども、コロナ・ショックのようなことがあると、この社会の命の脆弱性(命を大切にしない社会)がまた浮き彫りになります。

 そこには日本社会の無理が現れています。何ごとも忍耐によってやり過ごし、その先に破綻が待っており、自殺や「カローシ」(日本初の世界語)に帰結します(苦難の量的増大から死へ=苦難の量から質への転化)。しかしあくまでそれらは社会の「少数派」であって、「多数派」は、破綻に至る途中の「忍耐によるやり過ごし」の渦中にあり、この社会で生きるとはそういうことだという諦念とともにあるのでしょう。それで生涯を終えるのが「普通」の日本人だと言えます。

 したがって日本社会を良くするには、「少数派」の経験を理解し、これを全社会の問題とするところに突破口があります。「少数派」は「多数派」と別のところにあるのではなく、あくまで後者の延長線上にあり、その抱える問題の極致なのだから、「何ごとも忍耐によってやり過ごす無理」そのものをなくすことを社会全体の共通理解にすべきです。

 日本社会もまたグローバル資本主義体制の一環として存在しています。資本主義社会で生きる上では、経済的土台にある搾取による苦難に規定されます。当然そこには労働者・人民の抵抗が生じるのですが、日本社会ではその抵抗が弱く、苦難への忍耐が空気となっています。その空気を読む人々によって形成されているのが日本社会です。それはかつて「資本の論理が過剰貫徹する社会」として特徴づけられました。だからそこでは、一方に多数派として、人々の苦難を前提として成立しているこの社会を与件とし保守する立場が成立し、他方に少数派として、人々の苦難をなくすために社会変革する立場が成立しています。「カローシ」・自殺を極北とする日本社会の不条理を少数派の問題として片づけるのでなく、「何ごとも忍耐によってやり過ごす無理」を強要されている多数派の人々の問題と共通する問題として捉えることが大切です。苦難があるのが当たり前ではなく、それをなくし、無理な忍耐がなくても生きていける社会を目指すのが当たり前であるという意識を広げることが必要です。そのためにはあちこちにある苦難を可視化し、統計を表面的に見る詐術を克服することが不可欠です。

 「苦難を忍耐によってやり過ごす無理」が当たり前の社会では、精神的幸福度の低い子どもが育ち、彼らがまたそうした社会を形成していく、という悪循環が成立します。「過度に競争的な教育」を始めとして、子どもたちにこの社会に生きる諦念を植え付ける教育を打破し、自己実現の可能な人間らしい生き方のできる社会へと変革する主体を育てる教育をつくりだしていくことも必要です。

 

2)人々の苦難を顧みない新自由主義の社会保障観と政策

前掲、石倉康次氏の「自助・共助、デジタル化と特異な『社会保障観』」は社会保障をめぐるイデオロギー闘争の論稿です。まず現状認識が次のように述べられます。「コロナ禍の下で、保育や介護をはじめとする社会福祉サービスは、医療とともに休止することのできない社会を支える基本的なインフラであり、その労働はエッセンシャルワークだとの認識を社会全体が共有することになった」(98ページ)。しかしそうした認識が成立する背景には、コロナ禍で社会保障基盤の脆弱性が露呈したことがあります。当然、この現状は「社会福祉の基本的な構造を侵食していた新自由主義の仕組みと直結しており、その見直しと再構築の必要性を提起したといえる」(同前)のですが、政府と財界の方針は正反対であり、「社会保障分野のデジタル化の推進、『自助・共助』の強調、『全世代型社会保障改革』の推進といった提起」(99ページ)となっており、まさに惨事便乗型新自由主義構造改革です。それを典型的に示すのが財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会(榊原定征会長)が202011月に発表した「令和3年度予算の編成等に関する建議」です(以下「建議」と略す、101ページ)。

 ところで余談ながら、榊原定征氏といえば経団連の前会長であり、その人が会長を務める審議会が財務大臣から諮問を受けるという構図を見ると、想起されるのが、現政府=菅内閣から攻撃されている日本学術会議です。菅首相は、学術会議の新会員105人の内6人の任命を拒否しました。しかしこの6人は学問上の業績はまったく申し分なく、拒否する理由は見当たりません。秘密保護法・安保法制(戦争法)・沖縄辺野古基地の問題などで政府の方針に反対したからだとしか思えませんが、さすがに政府は公式にはそれを否定しています。本当のことが言えないので、理由をあれこれひねり出してきますが、どんどん支離滅裂になっていきます。が、それはここでは措きます。

学術会議の役割として、政府から高度の独立性を保って、独自の「答申」「提言」などを行なうことが挙げられます。2020年だけ見ても、9月末までに83本の提言・報告を提出しています。たとえば「性的マイノリティの権利保障をめざして」「認知症に対する学術の役割」「大学入試における英語試験のあり方について」など国民生活に直接かかわる多様な提言をしています。ところが政府は2007年以降、学術会議に対して諮問していないので、それ以降「答申」はありません。政府は財界の代表や御用学者を集めて諮問機関を作り、都合のいい意見だけを聞いています。

その一つが財政制度等審議会です。昨年11月の「建議」の内容は後から見ますが、何のことはない、財界の要求に沿って、政府がやりたいことにお墨付きを与えるだけの審議会です。それと比べれば、自由な学問の専門性を活かして、私たちの生活に役立ち、政治を変えていく内容を含む提言をたくさん出している学術会議の存在がいかに大切かがよく分かります。今、政府・自民党は学術会議への不当な政治介入の問題にフタをして、学術会議の「改革」なるものを持ち出しています。盗人猛々しいとはこのことです。まず自分たちのやったことを反省し、任命を拒否した6人を任命し直すことがすべての前提です。

閑話休題。論文は「建議」における社会保障「改革」の内容を次のように紹介しています。1.後期高齢者医療費の自己負担増、2.デジタル化による管理強化、3.介護報酬改定と処遇改善の拒否、4.障害福祉サービス等報酬の改善はなく「放課後デイサービス」の見直し、5.児童福祉の保険化を示唆、6.雇用調整助成金特例の早期縮減廃止を提起。以上を総括して「倒れるべき企業は倒れ、労働者は失職しても、経済の活性化には必要なのだという、いのちある人をモノのように見てはばからない、究極の新自由主義的発想がそこには表れている。情報関連産業の市場開拓につながるデジタル化のために1兆円をかけても、前節で紹介した、自殺者増や、その背景にある職を失う生きた人間の命は顧慮されていない」(103ページ)と批判しています。

次に「建議」の政策提起の背景にある社会保障観の問題性が批判されます。その詳細は省きますが、社会保障について社会保険を基本とする誤り、公費負担増を抑えるあれこれの理屈について、それぞれ分析的に基本点をおさえて総合的に批判を展開しています。

たとえば、(1)「財政健全化」のため、国債依存による社会保障への公費負担をおさえなければならない、(2)少子高齢化で、「全世代型社会保障」政策では、社会保障給付増を賄えるだけの税や社会保険料収入の確保には限界がある、(3)社会保障支出のために「国民負担率」が上昇して大変だ、といった一連の脅しがあります(105107ページ)。それに対して、論文は財政への錯覚や用語のトリックを指摘し、財政や経済のあり方を是正して打開する方向を示しています。

 (1)に関連して、俗耳に入るように、国の財政赤字がよく家計の赤字にたとえられますが、「国は課税権を行使して財源を増やすことができ、家計の借金とは根本的に異なる」(106ページ)と喝破され、社会保障への公費負担を国債依存の問題にすり替えるトリックが暴かれます。「むしろ、社会保障費用といった国民生活に関わる基本的な政策費用は、税でまかなわれるのが当然である」(105ページ)という見地から、「国民生活」本位になるように国家の課税権や国債発行権を適切に組み合わせて行使すべきです。その可能性から目をそらすために、実感のある赤字家計の悲鳴にことよせて無力感を煽り、「財政健全化」のために消費税増税および社会保障切り下げを受容させようというトリックを許してはなりません。

 (3)の「国民負担率」の問題は「用語のトリック」と指摘されます。「それはあたかも、一般庶民の負担を増やすことのように受け取られかねない。実際には、税や社会保険料総額の対GDP(*注・刑部)を示す数値であり、そこには、社会保険料の事業主負担も富裕層の税負担も含むので」す(107ページ、*注:「費」ではなく「比」であろう)。国民負担率を上げること自体ではなく、誰が負担するかが問題なのです。

 やや脱線しますが、ここで想起すべきは、たとえば医療・社会保険における負担の老若の世代間、生活保護バッシングに見られる・貧困層内での生活保護受給者と非受給者、公務員バッシングに見られる公・民間、米国ならば人種間、等々の対立の扇動です。これは「分断」攻撃と言われます。それに対して「国民負担率」の問題は逆に大企業・富裕層と一般庶民とが一緒くたにされる「まぜこぜ」詐術とでもいうべきものでしょう。「分断」と「まぜこぜ」は逆のように見えて実は原理的には同じです。社会における支配層と被支配層との対立をここで仮に「1%対99%」と表現しましょう。「1%対99%」の間には客観的な分断線があります。ところが通常「分断」攻撃と言われるものは、その分断線ではなく、99%の内部に恣意的なスケープゴートを作ってニセの分断線を設定します。それは支配層の分断支配に資する攻撃です。「まぜこぜ」詐術の場合は、「1%対99%」の間にある客観的な分断線を見えなくして問題の原因を分からなくします。

客観的な分断線を見抜くのは階級的視点です。それがないところで、99%内部にある様々な階層的・生活文化的差異や副次的矛盾を拡大して決定的対立を導き、ニセの分断線に基づく「分断」攻撃の横行で支配層を利する結果となります。同様に階級的視点の欠如による「まぜこぜ」で、客観的分断線を見失い、支配層の責任追及ができずに「みんなで分かち合おう」というゴマカシによって煙に巻かれ、問題解決の方向が示せず、苦難から逃れられなくなります。

 2020年のアメリカ大統領選挙では、社会の分断が大問題となりました。「分断」に「結束」が対置されたのですが、そこには階級的視点がありません。トランプがふりまいたニセの分断を克服すること自身は大切です。しかし、客観的な分断線をあいまいにした「結束」では、結局、ニセの分断を生み出した根本原因である「格差・貧困にもとづく生活困難」を生み出す資本主義社会の構造は放置されたままでしょう。そこにあるのは、ニセの分断を克服する真の結束ではなく、真の分断をあいまいにする「まぜこぜ」詐術です。そうした「結束」は諸矛盾の解決に無力な偽善と見なされ、「分断」の克服に失敗するでしょう。

 閑話休題。国家財政を規定するのは国民経済のあり方であり、(2)の少子高齢化問題を含めて解決するために、「健全な経済循環」を形成するのを助ける以下のような経済政策を実現すべく、政治の転換が求められます。

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 社会保障を厚くすることで、将来不安から貯蓄に固執する庶民の警戒心を解き、国民の懐を暖めて消費需要を促し、消費関連産業の活性化と生産的投資を呼び起こすような、健全な経済循環こそ求められる。          106ページ

 

 しかし、根本的にもっと必要なのは、若者に結婚をためらわせるような雇用不安をなくすこと、ゼロ歳児からの子育てを支援し、住宅・教育費の不安を解消すること、8時間働けば普通に暮らせる賃金を得られるように労働条件を整える施策である。政財界が長期間にわたり、それを回避してきた帰結が、少子化・高齢化である。

                   106107ページ

 

つまり、庶民や中小零細企業に過重な消費税率を上げるのではなく、富裕層や企業の400兆円を超える内部留保に課税して、その何割かを回収する一方、最低賃金を引き上げたり、非正規労働者を正規化することで、雇用者の所得を向上させ、消費力を暖めるとともに、税や保険料収入の増大につなげる政策を実行することである。問題は、それを実行する政権を樹立しうるかどうかということに絞られる。         108ページ

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 社会保障への攻撃は新自由主義イデオロギーによります。その克服に必要なのは、コロナ禍の下で獲得されつつあるエッセンシャルワークや社会保障の大切さの経験的実感であり、それを政治的に結実しうる野党共闘の政権獲得共闘への深化だと言わねばなりません。

 

3)雇用・社会保障の視点からの日本社会の全体像

 2017年に、文化庁芸術祭賞のラジオ部門・ドキュメンタリーの部の大賞ならびに日本民間放送連盟賞・ラジオ教養番組の最優秀賞を受賞したのが、名古屋のCBCラジオ制作の「1/6の群像」です。これは名古屋市における困窮家庭の中学生への学習支援(無料塾)のある教室に取材した番組で、子どもの貧困について真摯に問いかけてくると評価されました。ただしそのタイトルは若干気になります。それは当時の相対的貧困率に基づいて「6人に1人の子が貧困状態という日本の闇」を表しているのですが、捉えようによっては、「6人に1人の子」の問題であって自分とは別と思う向きも出てくるかもしれません。

 福田泰雄氏の「新自由主義と日本の貧困大国化」は、貧困は決して一部の人々の問題ではなく、誰もが陥る可能性がある――日本はそうした貧困大国となったことを、新自由主義下で雇用と社会保障が破壊されてきた状況を踏まえて、分配の視点を中心に総括的に明らかにした論稿です。一論文にして日本の貧困が体系的・総合的に理解できる内容になっていると思います。

 雇用の非正規化とワーキングプアの増大を基軸に貧困化が進行する中で、社会保障の後退が追い打ちをかけ生活困難が増長していきます。その状況を、ひとり親家庭・高齢者・学生・現役労働者といった各階層ごと、またそのつながりにおいて論文は見渡しています。医療・年金では老若の世代間対立が煽られていますが、むしろ若年層での雇用の非正規化とワーキングプアの拡大が老後の貧困につながっているという意味では、貧困・生活困難の連鎖として認識することが必要です。そこにはマイナスの共通性による連帯が客観的にはあるはずであり、分断に乗せられている場合ではなく、困難の克服に向けた世代間連帯意識を醸成し共闘に向かうべきでしょう。たとえば両者の関係を中心に「今日、貧困は誰にとっても無関係ではない」(117ページ)ということが、以下のように説得的に指摘されています。

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 多くの国民が老後生活に不安を持つのは当然のことである。今日、年収200万円以下の就労者が1000万人を超え、年収300万円以下の就労者が過半数を超える。現役時代に年収200万円、300万円というワーキングプアを強いられれば、いくら倹約しても老後生活の準備はかなわない。一つに、ワーキングプアでは貯蓄をする余裕もなく、政府が減税で民間金融機関を利用した個人貯蓄を奨励しても、それは他人事でしかない。二つに、年金制度の改悪を別としても、わが国の年金制度は、支払い保険料に比例する要素が大きいため、現役時代の賃金が低ければ払い込み保険料もその分抑えられ、十分な年金は望めないからである。                116ページ

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 貧困の現状として、相対的貧困率ではなく、貧困の絶対的基準として生活保護費を採れば、2015年で貧困率は21.4%であり「政府公認の貧困基準以下で暮らす人々が5人に1人の割合で存在する。すでにわが国は貧困大国なのである」(111ページ)と前述されていますが、ここではさらに現役就労者の過半数が老後の貧困に陥る可能性が示唆されています。こうして日本では貧困が普遍化し、ますます貧困大国化が進行していきます。

 このように各階層の貧困が分析されたのちに、社会保障の各分野の後退が詳述され、それだけでなく、ヨーロッパなどと違って、教育と住宅が自己責任に放置されることで生活困難が重くなることが指摘されています。こうして論文の全体は「貧困大国化をもたらした責任は政策にあることを示し」(126ページ)、以下のように結論づけられます。

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人々の生活のための収入の減少、不安定化の最大の原因がワーキングプアの拡大にあり、このワーキングプアの拡大により現役世帯から、退職高齢世帯、母子世帯、学生、子どもに貧困化が広がっていくこと、そしてこのワーキングプアの拡大を合法化した労働規制の緩和という政策責任は重い。また、人々の家庭生活を支え、守るはずの社会保障政策、社会政策の後退、縮小が貧困大国化の第二の政策責任である。自己責任論は、政策責任の回避であり、国民の目をそらす巧妙な罠である。労働政策、および社会保障政策における貧困化政策からの反転なくして、貧困大国からの脱却は望めない。

   …中略…  労働規制の緩和、社会保障予算の削減は、経済界の戦略の結果であり、大手企業への所得集中を支えるための政策に他ならない。貧困大国化をもたらす政策が新自由主義政策である所以はここにある。それゆえ、貧困大国化からの脱却は、貧困化をもたらす新自由主義政策を否定し、一部大企業への所得集中という分配の歪みの是正に、正面から向き合うことが求められるのである。          126127ページ

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 「分配の歪み」はまず労資間における賃金と剰余価値の分配関係に現れ、ついで財政と社会保障における再分配関係に現れます。新自由主義政策の下では、大資本と富裕層に有利な分配・再分配へと歪められ、それが労働者・人民の生活と労働の困難をもたらしているが故に、その「分配の歪み」を是正するのが喫緊の課題です。その際に、人々の困難そのものを見えなくする、たとえば統計上の詐術(作成と分析・読解における)と困難の存在を認めてもその原因を自己責任に帰する議論を克服することが必要です。拙文は非力ながらもそれを目指しました。

 なおこれはいつも言っていることですが、分配関係の是正は喫緊の課題ですが、その先に新自由主義グローバリゼーションで疲弊した地域経済を立て直す産業政策を確立することで、国民経済全体を活性化させることが必要です。岡田知弘さんに聞く「コロナ災害がみせた日本の姿と課題」は、「グローバル化がもたらした感染症による大災害のリスクを回避するために、地元資源を生かした地域内経済循環を基本にした、互恵的で、持続的な地域社会に向けた取り組みがまず必要ではないかと思います」(27ページ)と主張しています。岡田氏は地域社会の衰退・崩壊の原因は、(11980年代後半から展開されてきた経済構造調整政策や構造改革政策、(2)自治体の縮小再編であるとしています(29ページ)。地域で人々が生きていくために必要な仕事・活動はコロナ禍において明らかになりました。それは「『エッセンシャルワーク』と言われる医療や介護だけではなく、農業や製造業、建設業、運輸業、そして教育や文化芸術等々多様な職種にわたります。それぞれが地域社会において社会的有用性をもって共存しているのです」(28ページ)。もともとあったそれらを新自由主義のグローバル化・経済効率一本槍の「中小企業淘汰論」「経済成長戦略」「選択と集中」政策によって破壊してきたところに問題があります。

 したがって、財政構造を大企業・富裕層優遇から、低所得層・中小企業支援に切り替えるとともに「自治体ごとに地域の個性に合わせた地域内経済循環を基本にした地域づくりを進めることこそ求められている方向だと言えます」(29ページ)。まさに分配の歪みを是正するとともに、産業政策による地域づくりを忘れず推進することが必要となるでしょう。

 

 

          社会進歩に逆行する負のナショナリズム

 

 「韓国のソウル中央地裁は8日、韓国人の「慰安婦」被害者12人が日本政府を相手に損害賠償を求めていた裁判で、原告側の訴えを全面的に認め、日本政府に1人当たり1億ウォン(約950万円)を賠償するよう命じる判決を言い渡しました」(「しんぶん赤旗」19日付)。日本政府は、国家は他国の裁判権に服さないとする「主権免除」を主張し、訴訟が却下されるべきだとの立場ですが、これに対し判決は、「被告(日本政府)の不法行為は、計画的、組織的、広範囲にわたる反人道的犯罪行為」であり、国際法規の上位にある奴隷貿易禁止など「強行(絶対)規範に違反したと判断する」として、主権免除は適用されないと述べました(同前)。

 日本政府は判決について、国際法違反だとか荒唐無稽だとかヒステリックに反応しています。大方のマスメディアも日韓関係を害する判決だという扱いに流れています。しかし問題の第一は国家関係ではなく、人権侵害の被害者をどう救済するかということにあります。1990年代以降、日本国内では、かつてのアジアへの侵略戦争や朝鮮半島での植民地支配に対する反省を忘れ、日本軍「慰安婦」や徴用工などの被害者を侮辱することで日本国家を免罪しようとする歴史修正主義が横行するようになりました。バブル破裂後の長期経済停滞で自信を喪失した日本人が不満のはけ口としてアジア蔑視を強めたことがおそらく関係あるでしょう。

 問題は「日本VS韓国」あるいは「日本人VS韓国人」ではなく、人権・民主主義を守り発展させる人々とそれを破壊する人々との対決です。それは国を問わずどこにでもあるし、国際的にもあります。様々な問題を何でも国家間の問題に解消して、歪んだナショナリズムを煽る風潮に対して、私たちは明確な判断基準を持っています。日本国憲法です。何か問題が起こったら、憲法に照らしてどうなのか、と聞いてみることです。「反日」などと人を非難する言葉の正体は何でしょうか。それはお上のやることにたてつくな、「空気」を読め、乱すな、と言っているだけのことで、愛国心でも何でもありません。私たちは、平和・人権・民主主義の憲法の原理に照らして、自分たちの社会や国を良くし、愛するに値するものに変えることを目指すべきです。そういう立場から見れば、今回の判決は「人権救済のためには主権免除を認めるべきでない」という国際法の流れに沿って社会進歩の道を歩むものであり、日本政府は被害者救済の観点で韓国側と話し合うべきです。

 傲慢なアジア蔑視に関連しては、外国人技能実習生の問題が思い出されます。実習生は恋愛も妊娠も禁止され、妊娠が分かった時点で中絶か帰国を迫られるという事例など、その多くの悲惨な実態が暴露されました。現代の日本でこんなひどいことがまかり通っていることが広く社会に衝撃を与えました。それはかつての性奴隷制や戦時徴用工の問題が反省されずに捨て置かれ、日本社会自身の中でも日本人・外国人を問わず様々な人権侵害が続いてきたことの一つの結果です。外国人技能実習制度の本質的姿勢は人間を単に労働力と見て、生活者と見ていないことです。だから人権侵害が起こるのですが、それは日本社会に広くある、教育や出産、子育てをコストとして見る発想と同じです。つまり外国人実習生への人権侵害は、人が生まれ育つことを大事にしないこの国と社会の姿勢が極端に現れたものであり、日本人の人権がすでに侵害され、パワハラ・セクハラ・マタハラなどが横行していることの延長線上にあるのです。それへの私たちの回答は、日本人・外国人を問わない普遍的人権の確立であるべきです。

 日本の歴史問題への反省を前提として、より一般的に言えば、国際的な友好関係は、隣人と仲良くし、お互いに人権を尊重する普通の人間関係の延長線上にあります。20年前の2001126日、東京のJR新大久保駅で韓国人留学生の李秀賢(イスヒョン)さん(当時26歳)が線路に落ちた日本人を助けようとして死亡しました。その後、今日までの日韓関係が悪化の一途をたどった中でも、両国の友好関係の一コマとしてときに思い起こされます。しかしイさんの日本語学校の先生であった田中展子さんは「国籍など考えず、ただ人の命のために行動した。一人でも多くの人に、彼の行動から何かを感じてもらえたらと思います」と語っています(「朝日」125日付夕刊)。

 そこで思い出されるのが、アフガニスタンで人道支援に取り組み、201912月に凶弾に倒れた医師、中村哲さんです。彼の偉大な足跡は日本人の誇りともいえるものですが、決しておごることなく「もし道に倒れている人がいたら手を差し伸べる。それは普通のことです」とだけ語っています(「朝日」126日付夕刊)。それさえなかなかできることではありませんが、そういう普通の考えの延長線上に、医師でありながら、いや医師として命と健康を守らんとしたからこそ、井戸を掘り、農業用水を引いてきれいな水と緑の大地をつくりだした偉大な業績があったのです。

 アメリカのファイザー社と協力して新型コロナのワクチンを生産したドイツのバイオンテック社を作って運営しているのは、医学を学んだトルコ系移民の夫婦です。ところが本人たちはトルコ系移民ということを特別に意識していないようです。バイオンテック社の社員は60カ国以上から来ているので移民はまったく普通のことなのです。ベルリン在住の芥川賞作家・多和田葉子さんはそれをこう評しています(「朝日」126日付)。

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 地方の小さな町にしっかり根をおろし、いろいろな国で育った人たちといっしょに仕事をし、最終的には地球全体の役に立つように活動する。もしかしたら、それはパンデミックが見せてくれた一つの未来のビジョンなのかもしれない。

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 「国VS国」の発想にとらわれ過ぎるのは、その対決が自分たちの利益に直結しているという錯覚があるからでしょう。しかし「国VS国」あるいは「国益VS国益」で対峙しているのは政府同士あるいは支配層同士であり、人民の利益はその対決点と必ずしも一致しているとは限りません。そこで真の対決点を見つけるには人権のあり方がどうなっているかを基準とすべきでしょう。その基準は普通の人間同士のつながりの延長線上にあるということを、李秀賢(イスヒョン)、中村哲、多和田葉子といった人たちが教えてくれるのです。

                                 2021年1月31日





2021年3月号

 

          ケアフル・ソーシャル・モデルへ

――ケアを含む社会像(社会規範)への転換

 

      (1)政治哲学が問題提起するケア論

 コロナ禍は社会的弱者に厳しく作用するので、多くの女性が犠牲になっています。特集「女性労働とジェンダー平等」は女性の生活と労働の現実的苦難から出発しながら、労働力の価値といった経済理論の基本原理まで下向し、ひるがえってグローバル資本の蓄積様式を分析する観点から、先の女性の苦難の原因を解明し、その打開方向を示しています。さらに特集との近接領域の「研究ノート」において家族論・史的唯物論の問題にも論及しています。まさに同テーマについて、他の紙誌やメディア、あるいは専門学術誌とも違う経済総合誌としてのアプローチが見られます。

 同テーマについて、最近ではケアを中心とした政治哲学的視点からのラディカルな議論が注目されています。その端的な表明として、次の二つの書評を挙げます。

ジョアン・C・トロント著、岡野八代訳著『ケアするのは誰か?――新しい民主主義のかたちへ(白澤社、2020年)に対する牟田和恵氏による書評「ケアする民主主義とは」(『世界』20212月号所収) → 以下では「牟田書評」

デボラ・ジニス『ジカ熱――ブラジル北東部の女性と医師の物語(水声社、2019年)、ジョアオ・ビール『ヴィータ 遺棄された者たちの生』(みすず書房、2019年)、エヴァ・フェダー・キティ『ケアの倫理からはじめる正義論 支え合う平等』(白澤社、2011年)に対する奥田若菜氏による書評「格差社会におけるケア労働のゆくえ」(『世界』20213月号所収) → 以下では「奥田書評」、キティ著作は『ケア』と略記

コロナ禍でケア労働とエッセンシャルワーカーの存在・重要性がクローズアップされ、それにふさわしくない不安定雇用や低賃金が問題にされています。しかしその問題に対する人々の関心はまちまちであり、政府・自治体が労働条件改善に取り組んでいるとは言えません。そうした状況を前に、「ケアやエッセンシャルワークをめぐる不条理がなぜ生まれ維持・放置されているのか、いかにそれを超えていけるのか」(「牟田書評」、257ページ)と問題提起されます。そしてその解決方向は極めてラディカルに考察されます。

「ケア実践に注目することは、権力を奪われた者たちがいかに、既存の権力を共有するかといった議論とは別様の、社会変革の道を示してくれる」のであり、「パイの分け前を少し増やそうなどといった発想とは対極にあ」ります(同前)。ここには分配論・部分的修正主義・参画論などではない根底的な社会変革論の立場が表明されています。そこから、既存の民主主義論への本質的疑義が以下のように提出されます。

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 「対等で自律的な市民が構成員であり互いに議論のためのルールを尊重しあって議論する」ことを前提とするこれまでの民主主義論では、「誰もが依存者でありケアを受け取る存在である」現実を反映することはできない。自律した成人とは実は、ケア活動を担わない者たち、つまりは「特権的な無責任者」の別名である。人間の本性を相互依存性にみる民主主義を立ち上げること、それに即して政治理論の転換をはかることの必要と必然をうったえる著者たちの議論は重い。   同前

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 自律した市民とは、ケア活動を担わない「特権的な無責任者」である、ということは、その自立性(したがって自律性も)そのものが仮象であることを意味しています。「誰もが依存者でありケアを受け取る存在である」現実を反映した、人間の本性を相互依存性にみる民主主義こそが真実である、という提起は、政治的民主主義論なのですが、まさに経済理論への問題提起だとも言えます(後論のための確認)。あるいは障害者論などで言われ、さらにそれを健常者も含めて一般化されるように、自立概念を新自由主義的「自助」ではなく、相互依存性を前提にして再構築する、という考え方を導入することが必要かもしれません。

 「奥田書評」は、ケア労働が無視されてきた原因として、市場価値や生産性の議論を挙げ、その上でケア労働や「家」を不可欠の要素とする社会像を提起しています(下線は刑部)。

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貧困層の女性はケアの責任者として、家族のケアや障碍を持った子どもの養育を社会から一任されるものの、ケア労働自体が軽視されているため、男性と対等の地位を得ていない。男性が市場価値のある者として優位に立ち、女性や家族のさまざまな意思決定を握っていることは珍しくない。

 『ケア』の著者たちは、まずは社会を、市場労働・生産労働者からなる社会として考えることを止めるよう提言している。政治哲学は …中略… ケアをする人やケアを必要とする人を除外して、モノを生産する人のみを市民として据えてきた。現代に至るまで政治哲学は、「市民」を生産にかかわる「自立した人間」として想定している。それは、自分がケアを必要とすることを忘れた人びとだ。その議論では、「家」という場自体が社会に含まれていない。ケアする者たちは、モノを作り出す生産活動には十分には従事できないし、そもそも「生産性」という言葉自体、家という領域には合わない。人は依存するものであることを前提とし、ケアする人を含めたうえで、よりよい社会のあり方を考えていかなければならない。                   251ページ  

 

 『ケア』の著者たちは、なぜ社会は依存という現実から目をそらし、ケア労働を担う人びととその役割を真剣に考えずにきたのか、と問う。ケア労働は、生産性の観点からは評価しづらいがゆえ、依存する者にケアを提供してきた人たちの存在は、無視され軽視され続けてきた。依存者の世話をする人びとの役割を真剣に考えること、ケア労働を社会を考える中心に据えることを、『ケア』は提唱する。     253ページ

 

社会からケア労働が排除されないためにはまず、ケア労働そのものを生産と同じように評価することが必要である。人はだれしも、ケア労働者に依存してきたし、これからも依存していく。ケア労働者が、生産労働に携わる者と同等のさまざまな配分を社会から受けることは可能だろうか。社会のこととしてケア労働を捉える視点を、『ケア』は提示している。              同前

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 二つの書評は政治哲学の観点から、ケア労働を含む社会像、およびそれに基づく民主主義観を提起しています。そこでは「市場経済における自立」を相対化する視点が中心に置かれている以上、それを絶対化し資本主義を没歴史的に擁護するブルジョア社会科学を超える批判的科学的経済学を基礎理論とせざるを得ません。またそのラディカルな社会変革としての政治的民主主義を実現可能とするには、社会主義的な経済変革を必要とします。そうでなければその民主主義は絵に描いた餅でしょう。

 

     2)経済理論とケア――労働力再生産論を基軸に

 そこで特集「女性労働とジェンダー平等」の出番となります。ケア労働を含む民主主義的社会像という政治哲学の提起は、経済理論に課題を突き付けます。「労働研究がこれまでモデルとしてきた『近代的』労働者の定義の不十分性」が次のように指摘されるのです。

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それは、「『二重の意味で自由』な『近代的』労働者とは、労働力再生産過程へのかかわりをみごとに欠落させたケア不在の労働者(ケアレス・マン)」である。さらに、「『近代的』労働者は、身分的・人格的な自由と生産手段からの自由のみならず、労働力再生産過程からの自由をも暗黙に含んでいた。この、いわば『三重の意味での自由』な労働者モデル」を乗り越えることを提起する。

 ここには、長時間労働・過労死防止の解決のカギがある。男女を問わず、「ケアレス・マン」でなければ「ビジネス・マン」(忙しく働くMAN〔男=人間〕)とは認めない社会制度と社会規範を根本的に改めることである。

 近年、働き方改革や「ワーク・ライフ・バランス」などが提唱されているが、これらの課題はジェンダー不平等の解決という視点からとらえることによって、初めて実現性が保障できる。

  福島利夫氏の「現代日本の女性労働とジェンダー不平等の構造」  61ページ

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 「ケアレス・マン」の反対は「ケアフル・マン」でしょう。「ケアレス・マン」の本来の意味は不注意な男であり、「ケアフル・マン」のそれは注意深い男ということですが、ここでは前者は「ケアしない男」で、後者は「ケアする男」という意味になります。ライフ(生命・生活・人生)にとってケアが不可欠ですから、それを欠く前者は人生そのものが(不注意で)浅く、後者は人生そのものが(注意)深いということになります。「ワーク・ライフ・バランス」が前者には不在であり、後者には存在します。ケアせず、生きることに浅く不注意な「ケアレス・マン」が支配する社会が生きづらいのは当然でしょう。

 その劇的事例として挙げられるのが、2020227日、当時の安倍首相が新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、全国の公立小中高校に32日から春休みまで一斉休校を要請したことです。それは育児をする親と子どもたちへの配慮に欠け、社会的混乱を巻き起こしました。専門家だけでなく、文科省の検討も経ず、コロナ対策としての実効性も怪しい一斉休校の「要請」(日本社会では事実上の命令となった)が首相によるトップダウンで決定されたのです。取り巻きの官邸官僚の入れ知恵によるものらしい(これも安倍政権得意の中身なしの「やってる感」演出の一例。ただしこれはまったくスベッた)ですが、首相を始めとしてみな「ケアレス・マン」に違いありません。ケアを知らず、せず、人生(生活)に対して注意深くない連中が日本中の生活者を困難に陥れたのです。彼らが口先だけで「ワーク・ライフ・バランス」を唱えながら、実際のところはあの手この手で長時間労働を画策している偽装を舞台に、善男善女の悲喜劇が演じられているのが日本社会です。労働時間を短縮して「ケアフル・マン」を増やすことが社会を変えます。男たち一人ひとりが「ケアレス・マン」から「ケアフル・マン」へ転換し、女たちとともに政治を握ることで社会変革が実現します。

 「ケアレス・マン」の自覚に基づいて、『資本論』の「二重の意味で自由な労働者」を「三重の意味で自由な労働者」に置き換えることで、眼前の労働時間闘争の意味がさらに大きくなり、資本主義経済とそこでの労働のあり方がいっそう明確になります。それのみならず、ケア労働を含む歴史貫通的な経済社会像を出発点にして、資本主義社会像を再構築することができます。

ここで<「ケアレス・マン」→「ケアフル・マン」>に倣って、「ケアを欠く(ように見える)社会」から「ケアを含む(ことが自覚された)社会」への転換を<「ケアレス・ソサエティ」→「ケアフル・ソサエティ」>と表現してはどうでしょうか。実際には「ケアを欠く社会」は存在しないのですが、ケアの価値が評価されず、したがってケアが社会的に存在しないかのように見える――社会がケアを自分の中に正しく位置づけていない――のを、あえて「ケアを欠く社会」と表現するのは特徴付けとして意味があると思います。その上で正確を期して「ケアを欠く(ように見える)社会」と書きます。市場経済では家内労働は価値を生まないので、ケアの価値は評価されず、「ケアを欠く社会」が出現します。

<「ケアレス・ソサエティ」→「ケアフル・ソサエティ」>を主導する考え方の転換は、ケアを欠く社会像(社会規範)からケアを含むそれへの転換であり、<「ケアレス・ソーシャル・モデル」→「ケアフル・ソーシャル・モデル」>と表現できます。ケアへの意識性の違いは人生と社会への注意深さの違いから生じます。この表現はそのことを示唆しています。ところで、「ケアを欠く社会」は先述のように実際にはあり得ませんが、「ケアを欠く社会像(社会規範)」はあります。不注意な社会認識はそれをもたらします。もっとも、その不注意性は単なる恣意や錯誤ではなく、これも先述のように市場経済が生じさせた仮象であり、客観的存在根拠を持ちます。

 経済学は近代資本主義経済の成立とともに形成されてきました。そこでまず問題となったのは市場経済の本質を解き明かすことでした。市場経済にとって(したがって資本主義経済にとっても)、公的領域は市場であり、企業内と家庭内は私的領域です。価値が問題になるのは社会的に公的領域である市場であり、企業内に生じる搾取と家庭内で実施されるケアはさしあたっては視野の外に置かれることになります。したがって、もっぱら市場メカニズムに焦点を当てるブルジョア経済学的視点では搾取とケアは視野から外れます。

 マルクスは資本主義の直接的生産過程に分け入って、搾取を解明しましたが、ケアをどれほど解明したかについては私は分かりません。それはともかく、昨今のケア労働論の高まりからすれば、市場偏重や生産過程偏重ではなく、生産・分配・交換・消費を含む経済の全体的把握が重要であり、その中でケアが正当に位置づけられねばなりません。

近代資本主義とともに生まれた経済学は何よりも資本主義経済そのものを研究対象としますが、それを通じて歴史貫通的な経済社会像をも形成してきました。当然ケアは歴史貫通的存在であり、前近代の共同体社会においてはむしろ存在感が大きかったかもしれません。しかし近代の市場経済化によってケアは社会のメインストリームから外れ、経済学の大勢もそれを捉え損なってきました。ところがケアも市場化されることで、経済学が注目するようになりました。その際に市場内外を問わずケアの困難性が顕在化し、市場外のケアも併せて捉えることが経済学の課題として突きつけられているのが昨今の状況でしょうか。

 生産・分配・交換・消費を含む経済の全体的把握を歴史貫通的側面から実施する、というような原理的考察はもちろん私にできるわけはないので、それが原初的な一つの課題としてある、ということだけをここでは指摘しておきます。ただその全体的・歴史貫通的視点は、資本主義経済を考察する際に市場外の消費過程の分析にも目を向けさせる、そういう問題意識を促す原動力となるという意味はあります。

 市場であれ共同体であれ、あるいは搾取経済であれ非搾取経済であれ、社会的分業を含む経済は生産・分配・交換・消費という全体的過程を経過します。市場の場合、交換は主に流通という独自の環を形成しますが、交換の一形態であることに違いはありません。この全過程の起動力となる環は労働力の再生産です。それは消費過程によって実現され、生産過程の主体を形成します。元来、ケアはその消費過程を担う不可分の要素です。

市場経済においては、ケアは元来もっぱら家庭内という私的領域における消費過程の行為として存在し、経済外的事象と見なされてきました。しかしケアの一定部分が社会化され、市場化もされるとともに経済内的事象という意義が大きくなってきました。経済学にとってケアが可視化されてきたということです。しかし可視化されようがされまいが、すでに前近代からケアが人間の経済活動の一部分であったことは確定的事実です。経済を市場内だけでなく市場外も含めて捉えるならばそれは自明であり、経済学そのもののあり方を市場内から市場外も含めて拡張することが必要なのです。本来それはマルクス経済学にとっては当然のことなのですが、ケアの捉え方などではそうはなっていなかったようです。

ケアを考慮していない経済理論が市場経済での個人の自立を想定する場合、その自立性そのものが仮象だと言わねばなりません。冒頭の政治哲学によるケアを含む社会像によれば、誰もが依存者でありケアを受け取る存在であるのだから、人間の本性はあくまで相互依存性に認められます。市場経済での自立というのは、「ケアレス・マン」の観点による錯覚に過ぎません。

ここでいったんケアの問題を措いて考えます。ケアに限らず社会的分業に基づく経済の実体は相互依存性にあり、それは共同体と変わらず、ただその実現形態が市場経済では違います。そこでは流通という綱渡りによって(商品の販売は命がけの飛躍)、生産に対しては事後的にのみ実現されます。共同体のように生産の時点で実現されるわけではありません。しかし共同体では個人の意思ではなく共同体によって実現されるのに対して、市場では個人の意思から発する創意と責任による生産が端緒となり、商品が売れることで事後的にその私的労働が社会的労働でもあることが実証され、それが繰り返される全体を通して社会的分業における相互依存性が実現されます。市場経済における個人の自立とはそういうことを言います。したがって自立とは絶対的なものではなく、社会的分業の中における相互依存性においてのみ許されるものです。それが、共同体との比較において、独立・自由・自立であると個人的には観念され、恐慌などにおける販売不振でその限界を感じることになります。

さらにそこに、個人の生存にとってケアが必要不可欠であり、他者(家族・公共機関・私企業等)に依存せざるを得ないことが加わるので、市場における個人の自立はますます相対化され、相互依存性の絶対性がより明確になります。そうした経済の論理を反映して、ケアに関わって「人間の本性を相互依存性にみる民主主義」という政治哲学の主張は説得力を増していきます。

 (※このあたりの原理的なことは本来ならば、しかるべき文献に当たって慎重に叙述すべきところですが、勉強しておらず、手元にもなさそうなので、適当に飛ばし書きしております。我ながら、「モノを知らない不用意さよ」ですが、不正確でもいいから何か書いておかねば話がつながらないのです。)

 中間項としての分配・交換(ないし流通)をとりあえず措けば、経済の二大領域として生産と消費があります。先述のように両者を結ぶのが労働力の再生産です。それについては、労働力の価値を明らかにして資本主義的搾取の秘密を暴露する過程において、マルクスが解明しています。だからまさに特殊資本主義的性格を帯びて解明されているのですが、その中身そのものは歴史貫通的意味をも持っています。

 労働力の再生産については、二つ意味があります。一つは、労働者自身が自分の労働力を再生産するということです。衣食住の消費生活をして生き続けることが労働力を再生産することになります。もう一つは、生殖によって子どもをつくり、育て、次代の労働者を再生産することで、労働者階級そのものを再生産することです。労働力の価値としての賃金はその両方を保障する水準が想定されています。したがって労働力の再生産といえば二つの意味を含むと言えます。そこで後者の意味が独自に展開されれば家族の理論となるはずですがそれが十分ではないという以下の指摘があります。

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家族の理論は、エンゲルスが、物質的生産の要因とともに人類の歴史を規定するもう一つの要因と指摘した人間自体の再生産にかかわる、きわめて重要な課題である。トッドの唯物史観への批判は、従来の唯物史観の理論体系のなかで、家族にかかわる領域が、必ずしも十分に展開されていないことも関係している。 

  友寄英隆氏の研究ノート「エマニュエル・トッド『家族システムの起源』を読む」

93ページ

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 その課題はとりあえず措いて、労働力再生産論の重要な意義として、生産と消費の全領域を視野に入れた経済社会理論の構築の重要な要素である、ということが挙げられます。伊藤セツ氏の「女性労働研究と女性解放論、ジェンダー平等」は「家政、家計、家庭管理は、マルクス経済学でいう労働力再生産の営みそのものを対象とするのです」(18ページ)と指摘して、こう続けます。

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世帯員の収入の組み合わせや、収支項目分類も、世帯員が何人で収入を確保し、衣食住にどう収入を配分して次代の労働力を再生産するか、また、消費支出と非消費支出、実支出・実支出以外の支出等の家計統計用語は、労働力再生産の具体的内容を示すものです。個人の賃金は、家計収入になり、個人の労働時間も、24時間の生活時間の家族員の組み合わせで、家族員の労働力再生産時間であるわけで、理論的にもマルクス経済学と関連するものです。 

…中略… 家政学のマーケットバスケット方式の標準生活費の考え方は、経済学の最低賃金算定の計算とよく似ていながら、生活手段の耐用年数とか、食材の栄養価を考慮した献立とか、家事労働の投入とか、家政学の自然科学的側面の研究に裏打ちされて説得力があり、きめ細かく、 …中略… そのきめ細かな研究は、賃金論で最低生活費算定に関心がある社会政策学者を驚愕させもしたものです。              19ページ

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 上記の後半部分は、労働力再生産論における家政学の貢献として、科学的厳密性・緻密性とそれに伴う説得力を指摘しています。理論的意義としては、前半部分がより重要です。家政学の見地からは、労働者1人が家計を支える――夫・父親が家族を養う――という家父長的モデルに抽象してしまうのではなく、実際の世帯員全員を視野に入れて、各人からの収入の合計とその配分、またそれぞれの24時間の生活時間を合わせて、労働時間と消費生活時間を分析します。ここで24時間の生活時間全体が労働時間と消費生活時間として把握されることが重要です。こうして、労働によって所得を得て、それによって消費生活を営み、労働力を再生産し、労働が可能になる、という生活循環が捉えられます。このような一人ひとりの生活循環が集まって社会全体の経済を形成しているので、これで生産(労働)(*注)と消費から成る経済全体を捉えられます。家庭内でのケアも含めた経済像の形成が可能となります。

前出の「奥田書評」は、「ケアをする人やケアを必要とする人を除外して、モノを生産する人のみを市民として据えてきた」従来の見方を検討の俎上にのせ、そうした「市民」は「自分がケアを必要とすることを忘れた人びと」であり、「その議論では、『家』という場自体が社会に含まれていない」と批判します。労働力再生産の理論はその批判をクリアし、ケアを含む消費生活過程や家庭を視野に入れた経済の全面的分析を可能にする基礎を据えます。それは資本主義的搾取の究明を目的とする理論ですが、歴史貫通的な経済分析にも適用され得るものです。

(*注)生産と労働の区別について。「生産は労働という主体的契機と生産手段という客体的契機とから成る。一方を欠いては生産は成り立たない。すなわち、労働は生産の一面であり、労働だけでは生産物をつくりだすことができない」(富沢賢治「生産の総体的把握」、服部文男編『講座 史的唯物論と現代 2理論構造と基本概念』/青木書店、1977年/所収、134ページ)。 → 生産と労働は区別しなければなりませんが、労働を欠いて生産はできないので、労働の解明は生産の解明の前提であり、それを通じて生産と消費という経済の全体像に接近できます。

 

     3)グローバル資本主義の蓄積様式とケア労働

 以上の汎用性の高い労働力再生産の理論を踏まえて、現代資本主義における女性の労働問題を考えましょう。蓑輪明子氏の「ジェンダー平等戦略を改めて考える 女性の労働問題と貧困を克服するためには現代日本における女性労働者の状況を詳しく分析しています。それによれば、女性労働者の非正規化が進行し、それに伴って正規・非正規を問わない低賃金・長時間労働の構造が定着しています。その原因として、女性が多い(公共)サービス労働の低賃金・長時間労働が挙げられ、そして同時に男性労働者の非正規化・低賃金化も進行しています。するとそこに「新自由主義時代の新しい家族主義」とでも称すべき「家族総出で就労し、生活を支える構造」が見出されます。その状況が以下のように解説され、コロナ禍でのさらなる苦境が描かれています(36ページ)。

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 要するに、右肩上がりの賃金を想定した子育てを見通せなくなった結果、家族の追加的就労による収入が家計において不可欠となって主軸化したのである。これは教育費負担の社会化の強い要求が台頭する背景ともなっている。こうした傾向は、日本型雇用の時代にも右肩上がりの賃金を想定できないシングルマザーや低所得男性世帯では存在していたが、こうした状況と要求が全社会的なものとなったことが現代の特徴である。コロナ禍は、追加的就労の場を奪うものであったから、非正規雇用による追加的就労を必要としていた人々に、とりわけ深刻な影響を与えたのである。

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 ここでは現代日本社会における「状況と要求」が問題とされています。ある状況に対してある要求が発せられ、そこには状況が要求を規定する構造があります。したがって逆にある要求から、それを出さざるを得ないある状況を推定することもできます。「教育費負担の社会化の強い要求」に対して、旧世代が「自分たちはもっと苦労した。今どきの若い者は甘えている」という類の認識を持つことは論外ですが、それに対する自己責任論批判だけでなく、さらに踏み込んで、今日の子育て世代の非正規化・低賃金化、それによる「新自由主義時代の新しい家族主義」の構造を読み取り、社会を批判する、もっと言えば、これから見る、グローバル資本主義の蓄積様式への批判まで進むことが必要です。

 「低賃金・長時間労働による女性労働力商品化、公共サービス経済化、家族総出の就労の背景にあるのは、資本の蓄積構造の変化で」す。それは「グローバル企業本位の資本蓄積構造」(36ページ)であり、そこでは労働規制緩和で低賃金・不安定雇用と長時間労働で労働者を酷使して利潤追求する労働力浪費型雇用が一般化しており(3637ページ)、「女性は二重の意味で資本に搾取・収奪されてい」ます(37ページ)。第一に、資本=賃労働下で資本に搾取され、第二に、社会サービスの抑制と同時に社会サービスの場の利潤追求化による、ケアをめぐる搾取・収奪です。ケアが家内労働であれば収奪であり(その意味は後述)、企業によって行なわれれば搾取となります。「女性への二重の意味での搾取・収奪」は、主にこのケアの形態変化をめぐって「新自由主義改革の初期の時代」と「現代」とに分けられます。

 新自由主義改革の初期の時代には、「資本は家事労働を収奪しつつ、労働者としても女性を搾取する構造」(同前)を取ります。それは次のようなものです。「本来、資本にとって労働力の再生産が不可欠なはずであるのに、資本制においてはそれに必要な社会的コスト負担を資本が回避するために、家庭内で女性に家事労働を強制してタダで行わせ、女性の家事労働を収奪すると同時に、家事労働を担いつつ賃金労働者として働く女性をより『劣った』労働者として差別しながら搾取する構造」(37ページ)です。

 現代的には次のように変化しています。「資本は女性労働者を差別しながら搾取すると同時に、労働力化により家庭で行うことがむずかしくなった家事や育児・介護を外部化し、公共的なサービスとして行われる場合にはコスト削減をしたり、場合によっては市場化、半市場化したりして、家庭内外で行われるケアに関わる諸活動を収奪・搾取するのである。公共サービス部門で働く女性労働者の長時間・低賃金労働も、家庭での無償のケアの押しつけも、こうした搾取・収奪の中で生じている」(同前)。

 ここでは、ケアが家内労働から公共サービスへ、さらには市場化へと変化する中でも、一貫して資本からの収奪と搾取の強化という視点で捉えられており、そうすることでグローバル資本主義の蓄積構造の中にケアを位置づけることができます。ケアを単なる私事とするのでなく、労働力再生産を担う以上は、社会的経済活動の一環として捉えることができ、そうであれば、今日的にはグローバル資本主義、その蓄積行動における搾取強化との関連を問うことが可能となります。

 論文は最後に、この構造を乗り越える構想を提起しています。「グローバル・新自由主義化以前の日本社会は、年功賃金・終身雇用・企業内福利の揃った日本型雇用による生活保障が標準と考えられてき」ました(38ページ)。しかし非正規化・低賃金化でそれは空洞化し、賃金だけで生活を賄えという形だけが残り、形骸化しています。それを踏まえた提案が次のように出されます。

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日本型雇用は一家の稼ぎ手とされた男性にのみ限って保障され、しかも大企業正規を中心に実現したために、そこから排除される女性や非大企業正規労働者の日本型雇用からの排除と生活困難を伴うものであった。また、生活資源のほとんどを年功賃金に依存し、生活費の欠如に対応する社会保障整備は不十分であったため、労働者の企業への従属と貧困の放置、こうした状態の競争主義的成長イデオロギーによる正当化が続いてきたのである。加えて社会サービスは、日本型雇用の下で形成される近代家族の妻が担うものとされ、未整備のままであった。現代では、日本型雇用が縮小・解体し、生活保障が全社会的に不可能になっているにも関わらず、必要な賃金規制・社会保障、社会サービス整備がニーズの高まりの割には整っておらず、生活困難が深刻化しているのである。

 こうした経緯を踏まえ、現代の生活困難を克服するために提案したいのが、【適正な賃金+社会保障】による所得保障、普遍的かつ無償の社会サービス保障による生活保障システムであり、適正な労働時間規制である。      3839ページ

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 当然のことながら、従前の日本型雇用に戻るのがいいという話ではなく、低賃金やジェンダー問題などを周縁化して矛盾を隠蔽してきた日本型雇用が新自由主義期に破綻したのだから、新自由主義とも併せて克服されねばならず、両者に対して、「適正な賃金+社会保障」という新たなオルタナティヴが提起されています。さらに具体的には次のようになります。

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例えば、最低賃金が時給1500円程度になり、いつでもどこでもその金額が保障されれば、単身で税・社会保障負担が可能となり、慎ましやかな生活を営むことが可能である。しかし、最低賃金1500円は、単身世帯の最低生活費を基準にした金額であり、失業・疾病による減収、子育てなどの養育費・教育費の発生といった特別需要に対処していくためにはそれだけでは足りない。そのために必要となってくるのが、社会保障による所得保障である。子どもの数に応じた子ども手当、住宅手当、教育、医療・福祉などの社会サービスの無償化及び失業・疾病時の所得保障などが不可欠である。     39ページ

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 まさに労働力の再生産を保障するためには、生活のあり方に対するこうしたきめ細かな配慮に基づいて「適正な賃金+社会保障」が実現されねばなりません。それは経済全体の健全な発展を保障するものであるとともに、「最低賃金+社会保障で生活できるのであれば、ライフスタイルの違いによる差別も、雇用形態による差別も緩和され、最低限、貧困が回避できる。これらはジェンダー平等に基づく社会関係をつくる基礎といえよう」(3940ページ)という主張にもあるように、諸個人それぞれの個性的な幸福追求をも保障する基礎を築くものだと言えます。

 論文の提起するこのオルタナティヴは、非正規労働者でも差別されずに安定的に生活できることを狙いの一つとしており、きわめてささやかな目標です。正規雇用が当たり前で、誰でも8時間働けば豊かな暮らしができる、という目標よりも初歩的です。ましてや社会主義の実現などという目標とは遠く離れています。しかしそれでさえ、十分に新自由主義化された日本社会の惨めな現実から見ると、実現がかなり難しく感じられるかもしれません。またこのささやかな提起を出すにあたっても、グローバル資本主義の蓄積様式に対する透徹した認識が前提となっており、生半可な現状認識による思いつき的な改良提言ではなく、資本への民主的規制と政府責任の明確化が踏まえられています。そういう意味では、派手な社会主義論が一部にもてはやされている中で(それが悪いというのではないが)、自公政権打倒による野党の連立政権樹立を是非とも現実的課題とすべきこの時期にマッチした、地に足の着いた現実的提起として迎えられるべきでしょう。政権交代すれば手に届きそうな目標だと評価できます。

 

<補説>ケアの市場化と消費社会化

 ケアが家内労働(市場外)から公共サービスへ、さらには市場化へと変化することを論文は追っています。資本主義的発展に伴う労働力化によって、家庭内でケアを担うことが困難になり、一方では公共サービスに、他方では市場に託されます。資本主義発展による市場化は家庭内と公共領域とに浸潤していきます。そこでケアは、労働力再生産に必要な存在であるという実態(実体)は変わらず、無償の家内(市場外)労働から公共サービスあるいは市場労働へと担い手が変わります。ここには経済における実体の普遍(不変)性と形態の変化があります。もっとも、変化すると言っても依然として家内労働としてのケアも大きく残っています。したがって、市場内外に存在するケア労働全体の底上げが課題となり、そこでは先述の「ケアフル・ソーシャル・モデル」という社会観が必要です。どのように実現されようともケア労働は尊重されねばなりません。

ケア労働は公共サービスとしてもおおむね低賃金であり、市場労働ではさらに低賃金化します。その低賃金性(制)は家内労働の無償性(制)を引きずった結果と言えます。市場内外に渡ってケア労働があるということがそこには影響しているでしょう。もちろん今日のケア労働者はその専門性に矜持を持ち、適切な賃金と労働条件を得る権利を主張しています。ケア労働では公共サービス分野が大きいということから、産業別・職種別最賃など政府・自治体がそれを適切に評価する政策を打ち出すことが、市場内外のケア労働全体の底上げにつながります。家内労働の無償性(制)がケア労働全体の重石になっている現実を逆転して、公共サービス分野での底上げによってケア労働全体を引き上げる戦略が必要でしょう。そうした機運を盛り上げるうえで、家内労働としてのケアをも含めて尊重する「ケアフル・ソーシャル・モデル」という社会観が必要です。

 労働力化の進展によって家内ケアが困難になり、ケアの市場化が進んだということは消費社会化につながっています。長時間労働は家庭での消費生活時間を奪い、生活の空洞化が進みました。24時間営業のコンビニは消費社会化の象徴であり、その利用者の行動様式、あるいは大げさに言えば生活哲学は「テマ・ヒマかけずにカネかける」ということになります。時間的余裕がないから何でも買って済ませます。高度経済成長期やバブル期など、所得上の余裕がそれなりにある場合はさほどに無理を感じずに人々は消費社会での生活をやり過ごしてきました。しかしバブル破裂ならびに規制緩和・構造改革という新自由主義政策によって低所得の一般化という激変が生じ、にもかかわらず長時間労働は変わらない中で、「テマ・ヒマかけずにカネかける」は「テマ・ヒマかけられないからカネかかる」という負担感に転化していきます。前者は余儀なくされた生活意識ではあっても、一定の選択意思とそれなりの金銭的余裕を残したものでしたが、後者では、時間的にも金銭的にも余裕がない下での抑圧感に満ちています。いわばこの転落した消費社会において、家内ケアも市場化されたケアも行き詰まり、公共サービスに一縷の望みを託すという状況になっているのではないでしょうか。これは人々の生活にとってピンチですが、ケア全体と公共サービスの復権に逆転していくチャンスとも言えます。

 

     4)社会変革の原動力としての被抑圧・被差別側の視点

 ジェンダー平等社会は女性解放の目標であり、またそれ以上に普遍的人権の実現する社会です。それはあたかも労働者階級の解放が、彼らが新たな支配階級になることではなく、階級そのものの廃絶を通して人類を解放する、自由と共同を実現することとパラレルです。そこには、抑圧され差別された者こそがその報復ではなく、抑圧と差別の根源をなくして、より普遍的な人間社会を実現できる主体となる、という共通の構造があります。今、コロナ禍に打ち勝って、元の生活に戻るのではなく、格差や貧困、対立や分断、憎悪を超えた「新しい世界」構想が求められており、それを人権・平和・平等をキーワードに、ジェンダーの視点から検討したのが、米田佐代子氏の「ジェンダー視点で問う人権・平和・平等 女性がつくる『新しい世紀』へであり、そこに以下のように二つの課題が提起されています。

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一つは少なくとも近代以後の歴史のなかで、差別され抑圧された女性たちが、どのように自己自身の解放とともにすべての人間が差別されず自由に生きられる社会をのぞみ、たたかってきたかを振り返る作業であり、もう一つは21世紀の今日、それがたんに法制上の「男女平等」にとどまらず「ジェンダー平等」と定義づけられているように、あらゆる性的指向をふくむすべての「人間」にとっての尊厳確立の問題であり、人種や民族、宗教、言語等の多様性を受け入れ、分断や対立を克服して戦争や暴力のない平和世界を生み出す作業であることの確認である。        74ページ

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 抑圧された者が普遍的解放者になるという意味で、労働者階級と女性の共通性を見ましたが、女性ならではあり方について、米田氏は平塚らいてうの研究を通して「母性」や「いのちを産む性」という観点から指摘しています。コロナ禍の下で、経済活動や偏見に関連して、利己主義に対置する利他主義が注目されています。らいてうにあっては、母性は「他者」としての子どもを受け入れることから生まれる「他愛」であり、それは「わが子」を超えて、他者を受け入れ愛し共存する世界構想につながっています(76ページ)。

 また、「母性」は次のように厳しくも捉えられています。性暴力や望まない妊娠、ジェノサイドの過程における大量のレイプでの出産と育児など、「生む」ことが絶望にしかつながらない現実の中で、「いのちを生む」ことは人間の尊厳を問う思想的営為を伴わざるを得ない、と(80ページ)。それは「生む」ことが希望につながる社会を求める原動力となるでしょう。

 これまで男性性のマッチョな世界では、人間性・他者への愛・生命の尊重などは女性性と見なされ、私的領域に閉じ込められ、公的領域では「戦争を起こすシステム」が支配してきました。それを逆転するのが「現代の女性たちの課題」です。「核抑止力論に代表される軍事力に基づく安全保障体制を批判し、非暴力と生命を守る『人間の安全保障』に転換させる『脱軍事化』の必要」は国際社会の「約束」になっていますが、まだその実現が残されているのです(81ページ)。

 拙文では、主に女性によって担われてきたケアについて述べてきました。米田氏は「ケアの倫理」について「他者への配慮や気遣いを通じて築かれる人間関係を民主主義の根幹に据えて『ケアに満ちた民主主義』の再生を問い、『戦争に抗する平和』の思想を生み出す思想である」(同前)と指摘しています。こうして「母性」や「女性性」が平和主義につながることが何重にも述べられています。

資本主義市場経済において、市場・流通過程が公的領域であり、生産過程と家庭(家計)は私的領域です。基軸は生産過程にあり、そこは資本による搾取と権力支配(資本=賃労働関係)の領域であり、それが流通過程と家庭を規定しています。単純化して言えば、私的資本が公的領域としての社会と私的生活(家庭)とを支配しています。こうして社会が権力支配と「戦争を起こすシステム」の下にあるとき、家庭という私的領域に由来する「母性」「女性性」「ケアの倫理」のカウンター性は重要です。「ケアフル・ソーシャル・モデル」を世論に押し上げていくことの意義は大きいと言えます。

 問題の根源を資本の支配に見るならば、資本主義の克服まで視野に入れざるを得ません。アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文氏は、シンジア・アルッザ/ティティ・バタチャーリャ/ナンシー・フレイザー著『99%のためのフェミニズム宣言』を読んで、こう紹介しています。「少数の特権的な女性が同じ階級の男性と同等な立場へと駆け上がることを目的としたリベラル・フェミニズムではなく、資本主義が要請する様々な分断や対立、搾取や困難に立ち向かう新しいフェミニズムについて宣言する本で」、「抗(あらが)うべき敵は資本主義だと本書は喝破する。文化、人種、民族、セクシュアリティー、ジェンダーによる分断を乗り越えるべく、それぞれの苦しみや経験を認識して連帯しよう、と」(「(後藤正文の朝からロック)苦しみを聞き、手をつなぐ」、「朝日」217日付)。訳者の惠愛由(めぐみあゆ)氏は、「『女性』という窓を覗(のぞ)き込むことは最初の一歩に過ぎず、もっと多くの属性について想像しなければならないのだ」と主張しています。

 そこで資本主義体制という大問題はとりあえず措いて、女性・ジェンダーにとどまらない様々な諸差別や分断の問題を考えます。東京五輪・森実行委員長の女性蔑視発言が大ひんしゅくを買って辞任に追い込まれたように、日頃からの女性の怒り、ジェンダー平等へのエネルギーは日本社会でもそれなりに大きくなってきました。その中で、ジェンダー不平等社会では、男も生きにくいということが理解され始めています。被抑圧者・被差別者の平等要求が当事者のみならず、人権尊重の普遍性を通じて、すべての人々の生きやすさにつながることが徐々に浸透してきています。

 これは是非とも、他のすべての問題、たとえば外国人差別や韓国バッシングなどに見られる歪んだナショナリズムの克服(対米従属意識とアジア蔑視)にも向かってほしいと思います。日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題などでの、歴史修正主義に浸かった日本政府の異常な開き直りと、それに追従する大方のマスコミの姿勢は、ナショナリズムを煽り、被害者の人権を傷つけています。それは人権よりも「国益」なるものを重視することを通じて、日本人の人権の侵害にもつながります。日本軍「慰安婦」問題での韓国の司法判断に対して、日本政府は「主権免除」を持ち出して、国際法違反とか荒唐無稽の判決だとか言っています。そうするとアジア太平洋戦争での日本の原爆や空襲被害についてアメリカの加害を日本の裁判所に訴えることができなくなります。ナショナリズムや「国益」なるものに囚われて、かけがえのない人権を失っているのです。そもそも「国益」は大方「国民益」ではなく、ときの政府を構成する支配層の利益に過ぎないことが多く、闇雲にしがみつくべきものではありません。

 外国人技能実習生の悲惨な実態は、日本社会における様々な人権侵害の延長線上にあり、彼らの人権を無視することは、日本人の不幸を放置することにつながります。日本人はどうしたら幸せになれるのか。それは外国人を差別したり、外国をバッシングしたりするのでなく、普遍的な人権の立場で連帯して平和を求めていく以外にありません。差別され抑圧される側に立ってともに闘うことで自分たちの人権も守ることができます。
                                2021年2月28日





2021年4月号

          福島原発事故からの真の復興を問う

 

 大特集「福島原発事故から10年 将来をひらく復興像は実に多面的に当該テーマを扱っています。多岐にわたる問題の中で、拙文では以下の2点を考えたいと思います。

1)「ふるさと喪失」とそこで浮き彫りになった「生活の意味」と「地域の価値」

2)司法と政治・社会、そこにおける「正義」の意味 

「大特集」から今野秀則・金井直子・鈴木浩・除本理史・吉田千亜オンライン座談会「福島の避難者は何を訴えてきたか」(以下、「オンライン座談会」)馬奈木厳太郎「二つの正義 『生業訴訟』は最高裁で頂上決戦≠ヨ(以下、「馬奈木論文」)、そして『前衛』4月号所収河合弘之・中島孝・中嶌哲演・中山裕二・馬奈木昭雄・森松明希子・馬奈木厳太郎(司会)座談会「原発事故一〇年 被害者救済と原発なくす広範な共同のたたかいを」(以下、「前衛座談会」)と同所収の馬奈木厳太郎〔座談会を終えて〕「被害救済・脱原発・脱公害へ広範な協働を」(以下、「馬奈木コメント」)を採り上げます。

 

     1)ふるさと喪失と生活の意味、地域の価値

 

「オンライン座談会」では、東京電力による最高裁への上告理由書に、「ふるさと」は法によって守られるべき権利ではない、と書いてあることが問題にされます。除本理史氏は次のように評します。「それを法廷の場で言うとしても、被害者や国民の前で言えるでしょうか。もし、そういう主張がまかり通ってしまえば、教訓なんてないことになってしまいます。こういう点も含めて、全国の人たちが福島原発事故の現状や長期的課題、各地の裁判などに、きちんと関心を持ち続けることが、まず大事なのだと思います」(30ページ)。

「上告理由書」を読んでないので、東電の主張の意図や根拠は分かりませんが、推測するとこんなことでしょうか。――建物や健康の被害など、客観的に損害補償額が計算できるものは法上の権利だけれども、「ふるさと」喪失などというあいまいなものはそうではない。そんなものまで認めていたら補償額が「法外に」増大してしまう。

「情に流されずに冷徹な論理を採る」というのは必要な場合もありますが、多くの場合それは「実情をよく見もせず押し流す冷酷さを正当な論理に偽装する」(あるいは「強者が弱者の権利を切り捨てる屁理屈を押し付ける」)ということを意味するのが実相でしょう。「ふるさと」は法によって守られるべき権利ではない、という主張について、除本氏は「それを法廷の場で言う」ことはぎりぎり認めうるとしても、「被害者や国民の前で言えるでしょうか」(=言えない)と断言しているように思います。そこで「全国の人たち」の関心を喚起することで、国と東電の責任逃れ、ならびに被害者に対する人権無視を監視して、二度と事故を起こさない教訓を保持することを提起しています。法廷を社会で包囲するということでしょう。

それにしても、裁判ではそうした冷酷さが一方の立場として屹立しており、あくまで(冷酷ではないとしても)冷静な論理をベースに展開する法廷では、論理とは何か、正義とは何かが問われ、せめぎ合い、後に見るようにまさに「二つの正義」がぶつかり合います。そこで情理兼ね備えた議論をどう進めるかが課題となります。

 「ふるさと喪失」は、原子力損害賠償紛争審査会の指針(東電福島第1原発事故の賠償基準)では賠償の対象外ですが、幸いにして「ふるさと喪失の慰謝料」が二つの高裁判決では認められています。指針こそが見直されねばなりません。316日の参院予算委員会の中央公聴会の公述人陳述において、除本氏は次のように主張しました(「しんぶん赤旗」317日付)。

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 福島の復興には、人々がそれぞれの地域で培ってきた「地域の価値」を再確認し、伝統、文化、環境・景観など住民の暮らしの豊かさを支える「地域の価値」を取り戻す方策が不可欠です。

 しかし、国の震災復興財政では、除染やインフラの復旧・整備に6割となる一方、生活生業(なりわい)再建は1割です。教育、医療、介護分野が遅れています。

 個々人の生活再建は原発事故の賠償に委ねられてきました。しかし、国の原子力損害賠償紛争審査会による指針の策定には、被害者の参加が保障されていません。賠償の内容や金額が一方的に提示され、被害者にとっては「加害者主導」の賠償です。

 …中略… 

 「ふるさと」とは、周囲の自然の恵みや商圏としての地域コミュニティーなど多様な要素が複合した生業が営まれていた場です。逸失利益や資産の賠償で償いきれるものではありません。「ふるさとの喪失」は集団訴訟の中心論点の一つであり、昨年の東京・仙台高裁の両判決は「ふるさと喪失の慰謝料」の賠償を命じました。

 集団訴訟は約30件に上り、原告数は1万2000人を超えました。多くの判決は、現在の賠償指針・基準で十分とせず、独自に判断して損害を認定しています。

 原賠審の指針は見直しが必要です。

 帰還困難者が困窮しているケースなど、被災者の実情を把握し、対応するきめ細かい支援策が必要です。

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 つまり、国の震災復興財政が除染やインフラに偏り、生活・生業再建が軽視される中で、個々人が生活再建の恃みとする賠償の基準となる「指針」も「加害者主導」で被害者にとってはまったく不十分です。集団訴訟では「ふるさと喪失の慰謝料」の賠償を求めることになり、昨年の東京・仙台高裁の両判決によって認められました。除本氏は「ふるさと」を「周囲の自然の恵みや商圏としての地域コミュニティーなど多様な要素が複合した生業が営まれていた場」と定義し、その喪失は「逸失利益や資産の賠償で償いきれるものではありません」と指摘しています。

 「オンライン座談会」では、被害者・原告や彼らに取材したジャーナリストなどが、「ふるさと」とその喪失の意味について、切実な思い・実情を語っています。復興といっても、道路や箱モノばかりができているけれども、暮しが復興していない、ということはいつも言い古されてきましたが、それをよく理解するキーワードの一つが「ふるさとの喪失」というわけです。「復興政策は箱モノ中心に進み、人的な面、ソフトの部分の政策的な手当てが非常に遅れていて、難しいところです。そこに資金をボーンとつけるだけですむ問題ではないことが、はっきりしてきたのではないでしょうか」(22ページ)というのは、「原発事故は回復不能、不可逆的な被害であり、地域社会をまるごと消滅させてしまうような事故で」あり(29ページ)、「地域の中で積み重ねてきた暮らしが奪われていく」(22ページ)事態だからです。そこに思いの及ばない上から目線では、「避難指示解除、即帰還」となってしまいますが、「帰る人が少ないのは、生活条件が整っていないから」であり、医療・福祉・購買施設が不備では「生活が成り立たないから帰れない」(23ページ)わけです。人々のつながりも大事です。被害者の実感から出発するならば、喪失したことで、改めて暮らしとか地域とは何かが再発見されたということです。

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 金井さんの楢葉町は帰還率が高いほうですが、住民には暮らしが戻っている実感がないというお話でした。やはり生活圏があり、営みの積み重ねや歴史があり、人々の相互のつながりがあって、平穏な日常生活が成り立っていたわけです。結局、住む場所だけ元に戻っても、例えば人々のつながりが戻らなければ、元の暮らしの回復は難しいということだと思います。今まで意識していなかったけれども、自分たちの暮らしを成り立たせている条件、地域の持つ重要性に気づかされたということです。     22ページ

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農業では、地域社会やコミュニティの共同作業が不可欠で、水路のメンテナンスもそうであり、地域の集まりとしてのお祭りも重要な意味を持っています。「ふるさとの喪失/剥奪」は地域社会の破壊による被害であり、国や東電が責任を持って賠償することが求められます(22ページ)。「ふるさと喪失の慰謝料」とはそういうものでしょう。

 

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     ☆補注 机上の空論の避難計画に対する審判

 「ふるさと喪失」の意味など念頭になく「避難指示解除、即帰還」という方針を出すことに見られるように、被害者の生活を見ない行政の姿勢では今後の原子力災害が思いやられます。そこからは「各地の原子力災害の避難計画は『机上の空論』で、人の命が考えられていません」(22ページ)という状況が見られます。「机上の空論の避難計画」は、国や電力会社が原発再稼働を急いで、「ふるさと」や「暮し」の価値を認めない論理から生じています。彼らの「正義」には「ふるさと」や「暮らし」がないことが明白です。

 ところが318日、水戸地裁は日本原子力発電東海第二原発の運転を差し止める判決を出しました。同判決は「基準地震動が過小に評価されている」などの原告の他の主張は認めませんでしたが、避難計画を実行し得る体制が整えられていると言うには程遠く、防災体制は極めて不十分で安全性に欠け、人格権侵害の具体的危険があると指摘しました。まさに避難計画が机上の空論であることを指弾したのです。河合弘之弁護団長は「『避難できない』という一点で勝利した素晴らしい歴史的判決」と評価しました。

「東海第二では、避難計画の策定を義務付けられている県と30キロ圏内の14自治体のうち、策定済みは比較的人口の少ない5自治体にとどまります。判決では、避難人口27万人余を抱える水戸市などで計画がない上、策定済みの5自治体の計画でも大規模地震時の住宅損壊や道路寸断が想定されておらず、複数の避難経路も設定されていないことなどを問題視しました」(「しんぶん赤旗」、321日付)。

また判決は、原発事故対策で「一つでも失敗すれば、事故が進展、拡大し、多数の周辺住民の生命、身体に重大かつ深刻な被害を与えることになりかねず、他の科学技術の利用に伴う事故とは質的にも異なる特性がある」と指摘しました(同前)。「何ごとにも失敗はある(だから原発も認めるべき)」という俗論を排して、原発事故の特別の危険性を認めその教訓を堅持したのです。

 以上のように判決は、原発をめぐる科学技術の性格の特殊性を考慮し、避難計画の策定状況と内容とについて具体的に検討することで、運転差し止めを言い渡したのです。これは本気で住民の生活と安全を考えるならば当然のことです。それに対して、原発再稼働を目指す勢力は目先の利益に目がくらんで、人々の生活と尊厳が眼中になく、空虚で無責任な一般論(「科学技術に失敗はつきもの」とか「避難計画はちゃんと作ることになっている」)を押し通し、「ぼうっと生きてんじゃねえよ」と叱られそうな状況です。そこに対照的に見られるのは、「ふるさと喪失」で失われた人間の暮らしへの想像力の有無であり、経済的利益に対して優先されるべき人格権の尊重の有無です。

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 「ふるさと喪失の慰謝料」が二つの高裁判決で認められ、それに即して「原子力損害賠償紛争審査会の指針」の見直しを提起しうる、という状況は一歩前進ですが、原発事故の風化が進む中で、世論に訴えかけ、社会通念を変え、正当な賠償額を実現していくことはなかなか難しい課題です。「オンライン座談会」でも、「避難者への周りの厳しい目、誤解・偏見・差別」があり、「賠償額が積み上がってくるのは前進ですが、それ自体が周囲の目を厳しくするといったことも起きがちで」あり、その克服には「多くの人に中身をていねいに伝えていく活動を継続して行うべきだろうと思っています」(27ページ)と語られています。福島県内外にいる避難者は周囲の地元住民から冷たい風あたりをまともに受ける場合があるでしょうが、避難者だけでなく被害者一般も多かれ少なかれ世間からの反応として似たような状況を抱えているでしょう。

 こうした「世間の厳しい目」があるのは、何よりもまず被害者の実情が知られていないことが土台にあり、その上に、経済停滞などのため、普通の人々の生活自身が厳しくなって、損害賠償を受ける人が不当に利益を得ているかのように思える「不公平感」が生じやすい、という事情があるためでしょう。したがって、原発災害への損害賠償が決して特権ではなく当たり前の補償なのだということへの理解を得る必要があります。そのためには、被害者の実情をよく知らせるだけでなく、賠償額の中身を支える「ふるさと喪失」の意味を世論において共有できるようにする必要があるでしょう。「ふるさと」つまり地域で生活を営む価値の再発見は被害者だけでなく、すべての人々にとっても大切なことです。さらにそうした地域の価値の土台にある、一人ひとりの生活の価値を見直すことが必要です。「オンライン座談会」での以下の提起には重いものがあります。

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私がつくづく考えさせられたのは、被災者の方たちの「生活の質」(クオリティ・オブ・ライフ=QOL)の問題です。生活の復興という時、それをどういう水準で実現していくのか。コミュニティ・地域社会の質、放射線汚染による地域環境の質を含めて、私は復興が実現すべきQOLの議論がとても大事だと考え、提起してきましたが、まだまだ周囲の受け止めが低調なのは残念に思っています。

 これだけの原発災害を受けた地域でのQOLを、住まいの状況や、医療福祉の面を含めてどういう水準で確保するか。そこを行政はもちろん、私たち自身も、きちんと時間をかけて考えないといけないと思っています。     30ページ

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 以上に続けて、復興すべき「生活の質」の水準をどう考えるか、という課題は被災地だけでなく日本国中の課題であるとして、福島原発の事故後すぐに脱原発を決めたドイツとの落差を嘆きつつ、日本における「市民社会における責任性の自覚(の欠如)」の問題として語られています。それは確かにそうです。テレビなどで紹介される分かりやすい現象としては、避難所で確保される生活水準を見ると、日本とヨーロッパとではずいぶん差があります。被災者にプライバシーはなく、毎日同じような冷たい食事で我慢というのが当たり前という劣等処遇が日本では普通ですが、ヨーロッパではそうではないようです。こんな状況に置かれた人々がいるにもかかわらず、日本では「脱原発の政治」が実現できないというのは日本人全体の問題として鋭く問われます。

しかし「生活の質」の水準をどうするかというのは、被災やそこからの復興に限らない問題です。何かにつけても、苦難を耐え忍び日々を何とかやり過ごす、という日本人と日本社会のあり方の見直しの問題でもあります。というのは、避難所での劣等処遇はたとえば生活保護利用者に対するそれを想起させますから。原発被災地からの問題提起を我がこととして受け止め、「生活の質」の水準の向上を織り込んで、一人ひとりの問題として考え、さらにそうした諸個人が交流し生活を営む場としての「地域の価値」を捉えていく――そういう順序で日本人一人ひとりが被災者と問題を共有していくとき、原発事故の損害賠償の問題は日本社会の質的向上――「生活の質」を中心に諸個人の尊厳が実現される社会への変革――に直結していくと言えます。「生活の質」の水準の捉え方は、原理的には賃金=「労働力の価値」を形成する必要生活手段の量をどう捉えるかという問題と関係しています。

以上では、賠償額という量に体現されるべき質的中身を問い、その不可欠の要素としての「地域の価値」(「ふるさと喪失」により明らかになったもの)を「国民的共感」に高めていくという課題の意義を考えつつ、次に賠償額という量自体をどう捉えるかという問題に移りました。おそらく法廷では、賠償の名目というか何らかの質的内容が決定されれば、賠償額は一定のフォーマットに従って算定されるのでしょう。しかしその辺のやり方は知らないので、ここでは賠償額算定に関わる経済理論的含意をいささか抽象的ではありますが、考えてみます。

 「地域の価値」に対する「国民的共感」とは、地域コミュニティを理解しうる国民的コミュニティの実現の問題と言えます。コミュニティといっても、資本主義経済においてはあくまで市場経済による結びつきが大勢である以上、擬制に過ぎませんが…。全般的市場経済の下では共同体が直接存在する領域は非常に小さいのですが、そこでも本源的共同性は存在します。つまり、市場によって社会的分業がつながる――市場経済が正常に作動する結果として、社会的共同性が実現するというのが、資本主義市場経済における市場と本源的共同性との関係です(本源的共同性があくまで市場活動の結果として事後的に実現される関係)。ただしその実現過程においては、資本=賃労働関係の下で、格差拡大と恐慌とを含むのが資本主義市場経済の本質的特徴なのですが、それは通常看過されます。

市場経済における市場性と共同性との関係をそのように捉えると、たとえば「ふるさと喪失の慰謝料」を算定する経済学的意味はどうなるのか。「ふるさと喪失」という質的なものを慰謝料という一定量で実現する、この質から量への還元は共同性を市場性へ還元することになります。貨幣価値は市場のものであり、本来、共同性はそれに還元されえないのですが、全般的市場経済の下では、貨幣価値として市場的に表現されざるをえません。そうでなければ、個々の家計・企業が他の経済主体と繋がって、地域経済や国民経済(ひいては世界経済)という社会的分業を形成できないからです。

「ふるさと喪失の慰謝料」とは「ふるさと喪失」で表出した「地域の価値」の算定の問題であり、それは質から量への変換、あるいは共同性の市場性への変換という難事を超えなければなりません。そこで想起されるのは、ジェンダー視点で提起されてきたケア労働の問題との類似性です。ケア労働が、家内の不払い労働から市場の支払い労働へ転換されたとき、従前からある市場労働よりも不当に低い評価しか得られていません。これは元が不払い労働であったことを引きずった結果です。同様にそれまで必要不可欠でありながら空気のように見えない存在であった「地域の価値」をどう評価するかという問題があります。それのみならず、原発立地という僻地が都市の電力供給地としてリスクを押し付けられ収奪されてきた地域的格差構造もそれに影響し、安く算定される要因となります(こうした分断・差別の立地構造について「国内植民地化された原発現地」と呼ばれる。「前衛座談会」、97ページ)。

 「ふるさと喪失の慰謝料」は国と東電から被害者への所得移転であり、その適正な実現には世論の理解による社会通念の形成が必要となります。それが司法判断の後押しになりますから。そこで「ふるさと喪失」で表出した「地域の価値」を算定する際に、世論の理解を調達する上での阻害要因として、以上をまとめると次のようになります。

1.市場経済次元の問題:地域の価値という共同性を市場性に変換する困難性。

2.資本蓄積のあり方・資本主義的搾取次元の問題:長期経済停滞と格差・貧困の拡大下での生活困難が一般化し、特定の人々への損害補償に対して不公平感を抱きやすいこと。

3.政策次元の問題:地域格差構造で原発立地への差別意識があること。

 こうした困難性を踏まえて、被害者の実情をしっかり伝え、「ふるさと喪失」の意味と「地域の価値」を人々がわがこととして考えられるようにしていくことが求められます。

以上、「ふるさと喪失」とその補償を経済の論理から私なりに考えてみました。そこでさらに言いたいのは、「命か経済か」という通俗的な問題設定は間違いであり、経済はどうあるべきかが問われているということです。命に対して経済が二の次でいいということではなく、経済は不可欠のものだからそのあり方が問題なのです。だから真の問題設定は、命が第一の経済か、命が二の次の経済か、ということです。それは換言すれば、人間が主人公の経済か、市場や資本が主人公の経済か、ということです。生産力発展によって、前近代的共同体は解体し、市場が経済を全面的に支配し、さらに資本が生産の主人公となりました。それは人間に豊かな生活の可能性をもたらしましたが、同時に格差・貧困・恐慌・経済停滞・環境問題などの人間疎外ももたらしました。その極北に原発事故による地域破壊・環境破壊があります。人間が主人公となる経済をどう作っていくかが問われています。「ふるさと喪失」の回復を訴える被害者の闘いはその最前線にあります。原発事故の損害賠償請求も間違いなく経済の問題であり、そこで求められているのは利潤第一主義の経済ではなく人間本位の経済なのです。

なお以下では、「経済よりも命」とか「経済的利益などよりも、人の命あるいは人格権が大事」などといった表現を座談会などから肯定的に引用します。そこで批判の対象となっている「経済」とは「人間が主人公でない経済」を指すのであり、経済一般ではないと解釈し、そのような表現自体を特に批判はしません。ただしせめて民主的諸運動などの中では、経済という言葉の名誉を回復し、正当な経済要求を臆することなく追求するようにしたいという気持ちはあります。今でもそうされていると思いますが、さらに進んで、正当な経済要求は未来の経済を切り開くものだという自覚につなげたいのです。

 

     2)裁判闘争と政治・社会 そこにおける「正義」

 

1)では主に「オンライン座談会」を見てきました。「前衛座談会」「馬奈木コメント」「馬奈木論文」もまたきわめて豊饒な内容で多岐にわたりますが、時間がないので裁判闘争の問題に絞って採り上げます。

 まず原発事故の責任追及・原状回復・損害補償を求める裁判のコンセプト・目標について、馬奈木厳太郎弁護士が、公害系裁判のコンセプトの継承という側面を含めて(「馬奈木コメント」、123ページ)、「生業訴訟」に即して総括的に明らかにしています(「馬奈木論文」、3233ページ)。その大志と大義ある三つの目標は以下の通りです。

 1.原状回復。賠償金よりも前にまずこれであり、それも単に事故以前に戻せではなく、事故原因そのものをなくすべく、「放射能もない、原発もない地域を創ろう」という広い意味で要求する。

2.被害の全体救済。原告は自分たちだけの救済を求めているのではない。「あらゆる被害者の被害を救済せよ」「被害者のいる限り救済せよ」と求め、判決を梃子に全体救済のための制度化を要求している。

3.脱原発。被害根絶を真摯に追求すれば脱原発に行き着かざるを得ない。

 また闘い方の注意点として、公害系裁判から原発損害賠償裁判へ引き継ぐ教訓を以下のように示しています(「馬奈木コメント」、123ページ)。

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審理のなかでも、技術論争や医学論争に過度に立ち入ることは、裁判所の了解可能な範疇を超えるおそれがあり、その場合には国や企業側の主張や既存の基準に与する傾向にあることから、厳に戒められ、責任論(過失論)の構成に創意工夫を凝らしつつ、責任論と表裏の問題としての被害論を前面に打ち出すスタイルが一般的であった。

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 それとは対照的に、原発差し止め系裁判では、「あまりに高度な技術的な論争をし過ぎたという反省」があり、やはり公害系裁判や損害賠償系裁判のように「科学論争の迷路に入ることなく、中学生、高校生にもわかる議論で、差し止め裁判を再構築しよう」(「前衛座談会」101ページ)としています。そして大飯原発差し止め訴訟では、2014年に福井地裁の画期的な「樋口判決」(樋口英明裁判長)が出されました。その意義・判断枠組みの重要性は以下のようにまとめられます(「前衛座談会」、9899ページ)。

1.人格権は経済活動の自由に対して優先される。

2.安全性の問題。科学技術上の専門的な議論を盾に原発の安全性を言うのを許さず、福島原発事故後は、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守る、というのが求められるべき安全性である。

3.国富論。原発の停止による化石燃料輸入増のために貿易赤字が出ても、それが国富の流出ではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが取り戻せなくなることが国富の喪失である。                

 このように、判決は科学論争の迷路に入ることなく、安全性の議論をクリアした上に、この国富論は当時、国民的感動を呼び起こしました。これは「経済より命」という論建てではなく、「人間的な経済のあり方とは何か」という論建てだと言えます。

 それでは敗訴も多い中で、どうしたらこのような勝利判決を得ることができるのか。「前衛座談会」では馬奈木昭雄弁護士が公害裁判と原発裁判との比較を通じて、河合弘之弁護士が裁判官の判断の機微に立ち入った推測を交えて論じています。

 馬奈木昭雄氏は、公害裁判においては、国と企業に責任があるというのが社会通念になっていたのに対して、原発裁判では、そういう社会通念に必ずしもなっていない、というふうに裁判所は見ている、というのです。「その判断が正しいかどうかということではなく、裁判所にそういうことを言わせている現状があることは、きちんと認識した方がいいのではないか。それを打ち破っていくのが、一番大切なたたかいになるような気がしています」(94ページ)。これはまさに変革の立場からのリアルな現状認識だと言えます。

さらに馬奈木氏によれば、四大公害裁判を始めとして、その後の公害反対闘争で経済的利益などよりも、人の命あるいは人格権が大事だということを共有できましたが、原発裁判では経済的利益を平然と言う判決まであり、「裁判所のなかは変わっていないという基本的認識をする必要があります」(103ページ)。大飯原発差し止め訴訟の福井地裁「樋口判決」は公害判決の流れではオーソドックスですが、原発判決としては「異端になるわけです。そのことに一番衝撃を受けました」(同前)とも述懐されます。

 河合氏は損害賠償請求では比較的勝てるのに、差し止めでは負け続けているとして、その原因を以下のように推測しています。

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裁判所は、過去に起きた損害の原因を追及し損害を賠償せよということについては訴訟も多く、慣れている。また、過去の間違いを追及したところで、時の権力からいわば白眼視されることはない。ところが、いま動いている、しかも国策で動いている原発を止めると、大変な社会的な圧力、もしくは裁判官に対する圧力がかかります。その違いが出ているのではないか。裁判官は、損害賠償請求だと、「どれどれ、よし。よく見てやろう」と思うが、差し止め訴訟だと、「おっかない。恐ろしい裁判にあたってしまった」と思って取り組んでいるのではないか。

 では、その障害を取り除くのは何か。やはり最後は世論だと思います。国民的世論が、反原発の雰囲気が圧倒的に強くなっていったら、「もう怖くない。安心して止めに入ろう。正義にもとづいて裁判しよう」となっていくのではないかと思っているのです。

        104ページ

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 こうも言っています。

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 私は日本の原発を止めるには裁判しかないと思ってやってきました。確かに裁判とはいわば強制権力ですから、勝てば物理的に止められるわけです。でも、差し止めの裁判の判決を書くには、裁判官がものすごい勇気が必要で、それこそ勇気があって聡明でという宝のような裁判官に当たらないと勝てない。それではダメで、世論なり社会の雰囲気で安心して、普通の平凡な裁判官でも差し止めができるようにしなければダメなのです。そのためにどうしたらいいかというと、僕は裁判だけやっていてもダメだなと思ったわけです。

     106ページ

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 そこで河合氏は、保守勢力の脱原発の人たちに近づいて一致できる人を全部糾合して連帯するため、電事連に対抗して、原発ゼロ自然エネルギー推進連盟(原自連)を作り、一生懸命に活動しています。「裁判をたたかえばたたかうほど、逆に国民運動、政治運動の重要さに思いが至っているというのが、私のいまの心境です」(106ページ)。

以前に河合氏の講演を聞いたことがあります。実に率直かつ熱心で大変面白い方でした。それで「前衛座談会」の言い回しもそのままに、ずいぶん長い引用になってしまいましたが、現実的に勝利したいという熱意が伝わってきます。馬奈木、河合両氏とも社会通念を変える闘いの重要性を提起し、それが公害裁判では成功してきましたが、原発裁判ではまだそこに至っていないことを課題としています。

 不必要な科学技術論争を避けるという点では、それをしなくても、原発事故から逃げられないというだけで勝てるのではないか、差し止め訴訟はその線で行こう、なのに裁判所からは問題にもされない、と両氏が議論し嘆いています(105106ページ)。ところが「補注」で前記したように、318日、避難計画の不備を理由に、水戸地裁は日本原子力発電東海第二原発の運転を差し止める判決を出しました。まさに河合氏が弁護団長として「『避難できない』という一点で勝利した素晴らしい歴史的判決」と評価しました。座談会の嘆きがいい意味で裏切られ、「無理が通れば道理が引っ込む」という安倍政権以来の政治の「常識」(役人の大勢はもちろん、多くの裁判官もそれを忖度してきた)がひっくり返って道理が通る判決が出たのです。一部の裁判官の背中を押すまでに社会通念がじわじわと変わってきたのでしょうか。

 「前衛座談会」では今後の方向性として、原発との闘いは「脱原発の闘い+損害回復・損害賠償請求の闘い」で行こう(102ページ)、したがって、差し止め系の弁護団と損害賠償系の弁護団との連携、あるいは原告団同士の連携(107ページ)が提起されています。その上で課題としてたとえば、汚染水の垂れ流しの差し止め訴訟が提起され(109ページ)、法廷外の闘いで総合的に大事な問題として、3年間棚ざらしにされている野党四党共同提案の原発ゼロ法案を制定することが挙げられます。その意義について、原発推進側が原子力基本法・規制法、電源三法、原発立地特措法などを盾にとって、原発再稼働・延命を企てているのに対抗しうる法律を作ることが指摘されています(112ページ)。また、福島のあらゆる被災者を包括的に救済していくために、原爆被爆者援護法に相当するような一つの法を制定することも提案されています(111122ページ)。司法と社会通念の変革という課題に加えて、立法での具体的変革の課題もこうして提起されています。

 変革の底流を形成する社会通念への働きかけについて、馬奈木昭雄氏は以下のように提起していますが、これは社会科学や経済学に投げかけられた課題だと言えます。

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私は、いわゆる原子力ムラと言われる利権構造がいかに反国民的なものであるということに徹底して切り込まなければいけないのではないかと思っています。その利権構造がどれくらい儲かっているのか、税金をどれだけ食い物にしているのかという実態を、われわれはよくわからないでいます。総力をあげてその利権構造を解明し、これが国の責任の一番の本質だと追及しなければなりません。この利権構造を改めない限り本当に原発をなくすことはできないという取り組みが必要なのではないか。それが世論に訴える一番大きな力になるのではないかという気がします。    116ページ

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 さらに、原発は爆発しなくても、文化・経済・民主主義を破壊するから、「存在していること自体が反国民的」であり、「国の政策でこういうものをのさばらしてはいけないというのが、最終的なたたかいの到達点ではないのか。それで原発ゼロが実現するのではないかと思っています」(同前)とラディカルに語られています。国の産業政策そのものが問題であり、裁判はそれを直接には問えないけれども、その被害の責任を問うことを通じて政策を変える力になるということも主張されています。

 この世論=社会通念の変革については、コロナ禍での体験を通じて、命・健康が大切にされない経済政策のあり方(それは「人の命より経済が優先される」という形で認識されている。「オンライン座談会」29ページ、「前衛座談会」117ページ)への疑問として、原発問題にも理解が進むことが期待されています。

 以上では、原発裁判にいかに勝つかという点で、法廷内ではたとえば科学技術論争に過度にこだわるのでなく、加害責任論を分かりやすく形成し提起するということ、法廷外の社会通念を変えることで、裁判官が原告勝訴の判決を書きやすくすることなどに言及しました。社会通念を変えるのは確かに非常に大切ですが、見逃してならないのは、法廷内にはそこに立ちはだかる「国家意思」があるということです。それを馬奈木厳太郎弁護士ははっきりと示しています。そこで最後に、主に「馬奈木論文」を基に、原発問題を主な例として、司法における正義とは何かについて考えてみます。

 原発事故の損害賠償をめぐっては、群馬訴訟の東京高裁判決(2021年)が原告敗訴、生業訴訟の仙台高裁判決(2020年)が原告勝訴、と対照的な結果となりました。論文は「この二つの高裁判決は、それぞれの拠って立つ正義をめぐる価値観の相違を可視化させたものと評」しています(31ページ)。論文名である「二つの正義」が存在するということです。

 論文は「事実認定のレベル」と「より根底的なレベルの問題として、確保されるべき認識・評価の相違」という二つの次元で両判決を比較しています。その詳細は省きますが、結論的には「東京高裁は、地域住民の生命・身体よりも経済活動の利益を優先させて構わないとのお墨付きを与えたようなものである」(37ページ)と厳しく批判しています。それだけでなく、この判決の性格について、「事実誤認や能力不足」によるものではなく「東京高裁の裁判体の自覚的な意思のもと」の「確信犯だと」認定し、そこには「国の法的責任を認めないという強い意志が」あり、「政府の意思と基本的な部分で合致するものであり、それ自体が一個の国家意思≠ニも評されるものでもある」とされます(39ページ)。そこにあるのは、「地域住民の生命・身体よりも経済活動の利益を優先させ」ることを国家意思=∴鼬ツの正義とする立場です。もちろん仙台高裁判決もまた「経済活動の利益よりも地域住民の生命・身体を優先させ」る対極的な一個の正義の立場です。そういう観点を確立させれば裁判の全体像が次のようにくっきり見えてきます。

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 そうだとすれば、これから最高裁を舞台として、正義をめぐるたたかいが繰り広げられることになる。そこでの正義とは、地域住民の生命や身体を第一義とするのかをめぐるものであり、それこそが究極的な焦点となる。これをどう考えるのかによって、被害のとらえかたや、確保されるべき安全性の水準や、原子力規制のありかた、司法判断のありかたなども変わってくる。まさに、頂上決戦≠ニ称するに値するたたかいである。

            39ページ

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 生活保護基準引き下げ違憲訴訟もまた全く同じ対決構図を描いています。昨年の名古屋地裁判決は自民党の政策に迎合した生活保護基準の切り下げを容認する、という最悪の内容でしたが(残念ながら329日の札幌地裁判決も原告敗訴)、今年の大阪地裁判決は、切り下げの根拠となった物価下落率に過誤があるとしました。原告が主張してきた、厚労省による「物価偽装」を認めたものです。判決は憲法違反までは認めませんでしたが、生活保護法違反を認定しました。まさに、生活保護利用者の生活を第一義とするのか、財界の利益を第一義とする国家財政の都合に合わせるのかが焦点でした。

 ここで一つ問題提起します。馬奈木氏の東京高裁判決に対する批判はなかなか峻烈です。にもかかわらず「正義と不義」ではなく、なぜ「二つの正義」なのか。氏の意図とは違うかもしれませんが、私は以下のように考えます。論文による両高裁判決の対決構図は素朴な階級国家論からすれば、当たり前の主張に過ぎないかもしれません。しかしあえて「正義と不義」ではなく「二つの正義」とするところにそれを超えるものがあるように思えます。「支配層の正義」の存在をそれとして認めることによって、支配層と被支配層との対決のあり方が民主主義的方法による「正義をめぐる民意の争奪戦」としてスリリングにリアルに見えてくるように思います。

支配層が経済的・政治的権力を駆使して被支配層に対して「不義」を押し付け、そうした権力を持たない被支配層が道義の力=「正義」で反撃する、というのが客観的構図かもしれません。しかし両者の関係は、多くの場合、余裕を持って強者が弱者をいじめている(私たちはそのように思いがちだが)ということではなく、支配層にすれば、どうにでもできるような選択肢ではなく、抜き差しならない選択肢であり、それに対して立場を超えた正義である、と信じていることでしょう。たとえば安倍晋三前首相がかつてアベノミクス等を「この道しかない」として提出したことに代表されるように、支配層の政策も「これしかない」政策として提出されています。そこにあるのは余裕ではなく、切実性・必然性をともなう切羽詰まった感覚ではないでしょうか。新自由主義的なグローバル競争下ではなおさらです。

 そこで想起されるのが、資本主義体制の法則の内的貫徹が個別諸資本にとっては外的強制法則として感じられる、逃れられないものとして感じられるということです。たとえば、過剰生産の累積に対して、恐慌という暴力的調整によって均衡を回復するのが、資本主義体制の内的法則であり、その恐慌は個別企業にとっては淘汰を強要する外的強制法則として現れます。それは資本主義一般の問題ですが、今日の日本資本主義の特殊性は原発を内的に組み込んでしまっている体制だということです。そこでは政府・電力会社・その他の関係企業・団体は抜き差しならない原発利益運命共同体としてあります。ひとたび原発を組み込んだこの体制が形成されれば、体制存続の内的法則を貫徹するため、どの構成員にとっても原発の存続は神聖不可侵な外的強制者として立ち現れます。

 ドイツが脱原発の日程を明らかにしているように、日本資本主義も原発を組み込んだ体制から脱する選択肢はあるはずですが、現行体制内で利益を得ている政府・企業にその気がない以上、原発の存在は個々の構成員にとって外的強制法則となります。その転換は、現行体制そのものの外からの強制しかありえません。

「しんぶん赤旗」330日付「主張」によれば、東京電力の柏崎刈羽原発で、他人のIDカードを使った中央制御室への不正入室や、侵入検知設備の長期故障など、原発の安全と核セキュリティーを損なう深刻な事件が相次いだので、原子力規制委員会は東電に、核燃料の移動禁止などの是正措置命令を出す方針であり、年内の再稼働のもくろみは挫折しました。東電は原発事故を起こしただけでなく、その後もデータ改竄や隠蔽を繰り返し、また今回の問題ということからすれば、もはや原発を運転する資格はないと考えるのがいくらなんでも普通でしょう。しかし「国家意思」は決してそうさせません。

共産党の武田良介議員は、318日の参院予算委員会で、安全性が繰り返し無視される背景に「柏崎刈羽原発の再稼働による収益がある」と述べ、東電の経営方針の「新々・総合特別事業計画」での「再稼働の実現」による「収益」増加の記述を指摘し、「株価の下落が続く中で再稼働への焦りがあったのではないか」とただしました(「しんぶん赤旗」319日付)。

 このように原発利益共同体にとっては再稼働への衝動は抜き差しならないものであり、原発を組み込んだ日本資本主義体制にとっては、国民経済の運営という「正義」は原発再稼働なしにはあり得ないわけです。そこから見れば、脱原発による安心・安全などというものはとんでもない非科学技術的で主観的なエゴ=「不義」に過ぎません。原発という憑き物を落としさえすれば別の道が見えてきますが、眼前の利益に囚われている主体は決してそうはなりません。

 「二つの正義」の基盤には、「二つの公共性」があると考えられます。公共性の対立概念として階級性がありますが、実際には純粋の公共性はなく、それは何らかの階級性を反映しており、様々な階級性を反映した様々な公共性があります。図式的に言えば、「正義」VS「不義」ではなく、「正義A」VS「正義B」であり、「公共性一般」VS「階級性一般」ではなく、「公共性A」VS「公共性B」であり、その土台には「階級性A」VS「階級性B」があります。

支配層の使命感は個人生活の豊かさ・幸福や余裕を第一にしていたら、国民経済の発展・社会の安定はないということです。それが「公共性A」であり「正義A」です。その土台には「資本の自由」を原理とする「階級性A」があります。対して被支配層の要求は、個人生活の豊かさ・幸福や余裕を第一として、国民経済の発展・社会の安定を実現することです。それが「公共性B」であり「正義B」です。その土台には「人民の自由」=「人間的労働への要求」を原理とする「階級性B」があります(拙文「『経済』202011月号感想」から「<4>公共性の考え方」参照)。

どちらの「正義」「公共性」がより普遍的・進歩的かを競い、人々に「社会一般の利益」として認められるかの対決がここにあります。そうやって形成される社会通念が裁判に影響を与えます。上記のようなまとめ方なら、被支配層の「正義」が勝るようですが、もちろん階級社会における支配的イデオロギーは支配層のそれであり、彼らは経済的・政治的権力を持って利益誘導もできますから、私たちは負けることが多いわけです。支配層も相当な覚悟を持って臨んでくることを思えば、こちらが正義であちらが不義だと先天的に決めてかかっていてはダメです。「立場の正しさに寄り掛かった生き方はしたくない」(稲沢潤子・民主主義文学会元会長)と構え直し、「右だろうと左だろうとわが人生に悔いはない」(なかにし礼作詞「わが人生に悔いなし」より)と言える努力が求められます。 

 「国家意思」を乗り越え、「二つの正義」対決を制する一つの重要なものは社会通念の争奪戦です。その一つの成功例として、同性婚訴訟の札幌地裁判決(317日)を挙げることができます。判決は同性婚を認めないのは法の下の平等を定めた憲法14条に違反すると認定しました。幸福追求権の13条や婚姻の成立要件を定めた24条への違反は認めませんでしたが、重要な前進です。

 この前進の背景に、自治体が同性カップルの関係を公的に認証する「パートナーシップ制度」が全国各地に広がっていることがあります。鈴木賢・明治大学法学部教授は「パートナーシップ制度は、同性カップルの存在を可視化させ、社会通念の変更をもたらして」おり、「自治体の制度が広がれば広がるほど、国の制度がないことの不当性が明らかになります」と述べています(「しんぶん赤旗」317日付、札幌地裁判決前のインタビュー)。自治体パートナーシップ制度の影響についてはこう語っています。

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 いま、家族というのは、異性のカップルでなければならないという社会規範が変わり始めています。これを変えてきたのが、自治体のパートナーシップ制度です。法律に先駆けて、まずは社会の実態のレベル、これを社会通念といいますが、これを先に変えていく。そのメルクマール(指標)が、自治体のパートナーシップ制度の広がりだと考えています。いま全国各地でたたかっている裁判でも、説得力があります。

 いまは、パートナーシップ制度の広がりにみられる社会規範の変化と法的保護との間にギャップがあります。それをどう埋めていくのかが問われています。

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 社会通念の変化を裁判に結びつける努力として「私たちは、裁判の中で、『同性カップルを異性カップルと同様に扱う社会通念はない』とは言わせないという思いで、自治体のパートナーシップ制度の拡大に一生懸命取り組んでいます」とも鈴木氏は語っています。こうして、制度と社会通念が相乗的に好循環で変化していくことを意識的に狙った運動の役割が大切になっています。

 

 

                                                  

労働像の現在と未来

 

 人間が外的自然と自己(human nature 人間的自然=本質)を変革し、社会を形成するものとしての労働(本源的労働)は資本主義的生産関係の下では、疎外され搾取の対象とされます。したがって資本主義的労働は労働の本源的形態と疎外形態の二重性において現れます。

猿田正機氏の「トヨタシステムと『労災・過労死・自死』――40年のトヨタ調査・研究を振り返って――」上下(本誌202134月号所収)は本来しっかり読みたいのですが、その余裕がないのでさっと触れるにとどめます。とにかくそこに記されている、トヨタにおける労災・過労死・自死、そしてそれを生み出す労働実態のひどさは唖然とするほかなく、現代資本主義における搾取の極北がそこにあります。それを実現する上で「人づくり」が重要であり、「小中高校生活を通じて、個性・人間性や自主性を軽視され続け、自己を確立することを許されなかった若者」(上、119ページ)をつくり出す「管理教育」の存在がその土台にあります。その上に「結実」する「人づくり」を担う「トヨタ人事方式の諸原則」には「常軌を逸した長時間労働の常態化」と「人事部によるマインドコントロール」があり、トヨタはまさに「宗教的共同体」と言えます(上、123ページ)。

トヨタ生産方式は自動車産業のグローバル・スタンダードとなっていますが(製造業一般にも大きな影響力を持っているだろう)、「トヨタシステム」はそれのみならず、トヨタの人事・労務管理、労使関係をも含む概念として提起されており(上、117ページ)、これが驚くべき強搾取をもたらす全体構造を形成していると言えるでしょう。

「トヨタシステム」の恐るべき実態はリーディング産業において強搾取をもたらすものを明らかにしています。それに対して、日本IBMの「ジョブ型」雇用は「業務内容で雇用契約を結び、評価によって賃金が決まる仕組みで」あり、降格・賃下げをやりやすくしています。具体的には以下のようです(「しんぶん赤旗」34日付)。

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 昨年末には、「仕事がなくなった」「あなたの働きぶりに問題がある」などと、1000人規模の退職強要が行われました。 …中略… 

 日本IBMは「リストラの毒味役」を名乗り、ロックアウト解雇や退職面談、「追い出し部屋」などリストラ手法を先取りしてきました。賃金減額もそのひとつ。低評価を付け「業務改善」と称してパワハラを繰り返し、賃下げを強行します。

 55歳の男性は、配属先で事業再編が起こると「仕事がなくなった」と退職を迫られました。「退職強要を断ったら低評価を受け、降格・賃下げされた」と言います。プロジェクトマネージャーの男性(63)も「問題多発のプロジェクトを押し付けられ、責任を取らされて賃下げにあった」と語ります。

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 「リストラの毒味役」などという日本IBMの開き直りが意味するものは何か。生産力的に言えば、本来、未来につながる先端技術産業において、資本主義的生産関係がいかに反動的役割を果たしているかが歴然としているというべきではないでしょうか。

 以上が資本主義的搾取下の労働の現在だとすれば、未来における本源的労働の実現はどういうものでしょうか。「『N高政治部』 志位委員長の特別講義(8)」(「しんぶん赤旗」228日付)で生徒からの質問に志位氏はこう答えています。

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 生徒 共産主義にもしなったとして、人間というのは差があって、怠けてしまう人と、しっかり頑張る人がいると思うのです。その時に怠けてしまう人が、働かずに何かを得てしまったり、怠けた人と頑張った人と差が出てしまったりというのは、社会の発展を止めてしまうのではないかと思うのですが、その点についてはどう思いますか。

 志位 社会主義・共産主義の社会になったとしても、自分自身と、その家族、社会全体の生活を維持し、再生産するための労働が必要となることに変わりはありません。ただし、そうした労働の性格は大きく変わるだろうという展望を、マルクスはのべています。

 資本主義のもとでは、少なくない場合、労働自体が苦痛で、多くの人々が苦しみながら働いているけれども、社会主義・共産主義では、搾取がなくなり、労働者が、自発的に協力して働くようになるもとで、労働自体が喜びにみちた、楽しいものに変わる。マルクスはそのことを、「自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合的労働」と言っています。

 つまり、社会が発展するとともに、労働に対する人間の見方、考え方が大きく変わるだろう。あまり「怠ける」というようなことを心配する必要がなくなるのではないでしょうか。

 さらに、さきほどお話ししたように、労働時間そのものが短縮されるもとで、誰もが自由な時間を手にすることになります。そうした自由な時間ができたら、その時間を遊んで暮らそうという人もいるでしょうし、それもいいんです。自由な時間ですから、何に使ったって自由です。ただやはり、そういう自由な時間ができたら、多くの人たちは、自分の能力を自由に全面的に伸ばすことに使うのではないでしょうか。

 さきほど、マルクス・エンゲルスの「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件になる結合社会」という言葉を紹介しましたが、一人ひとりがその能力を自由に全面的に発展させることは、社会全体をうんと豊かにして、社会全体の力を大きく増すことになります。そして、そのことは、一人ひとりの自由な発展の条件をますます豊かにする。こういう好循環が生まれてくることを、私たちは展望しています。こうしたなかで、人間の考え方、人間の価値観も大きく変わってくるのではないでしょうか。

 人類の歴史を考えてみても、原始共同体の時代があった、奴隷制の時代があった、封建制の時代があった、そしていまは資本主義の時代です。それぞれの時代ごとに、人間の価値観も大きく変わってきているでしょう。奴隷制や封建制の時代には、人間の「自由」や「平等」はおよそ問題になりませんでした。しかし、今日の時代では、それが世界の大きな流れになってきているではないですか。

 人類が、いまの資本主義社会の「利潤第一主義」の仕組み、搾取の仕組みを乗り越えて、新しい社会に進んだら、新しい社会にふさわしい新しい価値観、新しい考え方、新しい生き方を人間はもつことになる。私はそう考えています。

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 あまりに立派な模範解答なので、ついつい長々とそのまま引用してしまいました。要は「社会が発展するとともに、人間の考え方、価値観も大きく変わる」ということで、資本主義的な社会像・労働像・人間像に囚われてはいけないということです。ただし実際問題としては、上に言われていることがどれだけ実現するか、ということが今はっきりとわかるわけではない、とも付け加えたいと思います。しかし資本主義下の人間像が永遠ではない、という気づきがどれだけ人々の発想を自由にし、社会変革への希望をもたらすか、その意義は極めて大きいと思います。シニシズムが跋扈する昨今、特にそう思います。

 ところでN高の生徒はさらに質問を突き付けています。――「『N高政治部』 志位委員長の特別講義(9)」(「しんぶん赤旗」31日付)

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 生徒 今日の講演、すごく勉強になりました。さきほどから志位さんが言っている個性を重要視するとか多様性を重視する社会というのを探してみましたが、たとえば今、ユーチューバーなどは、個性が認められて職業としてお金を稼いでいると思います。そうしたものは全部アメリカ発で、アメリカが生み出した価値観だと思いますが、そう考えるとアメリカっていうのは何か共産主義化しているということになるのでしょうか。

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 これへの回答はありません。この生徒、何だか突拍子もない発想のようですが、面白い質問ではないでしょうか。もちろんアメリカが共産主義化しているということは断固としてありませんが…。ユーチューバーは雇用労働者ではなく、独立自営業者なので、資本主義国民経済の中でも、生産手段を所有し自己労働を実現しているという限りで、彼の労働は疎外された労働ではなく、本源的労働として実現されているということは言えます。ただし実際問題として、自営業者一般は資本主義経済においてきわめて不安定な地位にあり、決して自由な生き方という内実を持っているとは言えないという留保を忘れてはなりませんが。

 この生徒の発想にもう少し付き合ってみると、「個性が認められて職業としてお金を稼いでいる」ということと「アメリカが生み出した価値観」とを結び付けるのは、ユーチューバーのような自営業者でなくても、たとえばアメリカのIT産業など世界最先端の科学技術を担う雇用労働者の場合も当てはまるでしょう。彼の企業における労働実態がどうであれ、それが労働過程と価値増殖過程との統一である限り、本源的労働と疎外された労働との二重の規定を受けることは確かです。そこにおける、特に本源的労働の側面におけるアメリカ的要素がどういうものなのか、個性とか創造性とかを伸ばすものなのか、という点に注目することには意味があるでしょう。そこが搾取の現場であり、過酷な実態があるだろうことは考慮しつつ、労働である限りそこに未来につながる要素を見ることは大切であろうと思います。

トヨタや日本IBMなど、現代の日本資本主義の強搾取の現場の話から未来労働の話まで飛んでしまいました(現代アメリカの労働への評価を交えましたが)。その間をつなぐエピソードを紹介します。左翼政党「マス・パイス」の提案により、スペイン政府が今秋、週4日労働制の実証実験をするというのです(「しんぶん赤旗」318日付)。

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 マス・パイスのエクトル・テヘロ氏は「肝心なことは本当の意味での労働時間短縮であり、給与削減や雇用の喪失ではない」と指摘します。

 テヘロ氏によると、スペイン政府は5000万ユーロ(約65億円)の資金を投じて実証実験を実施する予定。約200社の合計30006000人の労働者が実験に参加する見通しです。

 政府は、企業が週4日、32時間労働制に移行するのに必要な費用のうち、1年目100%、2年目50%、3年目33%を負担します。

 スペインでは既に、南部アンダルシア州のソフトウェア・デルソル社が週4日労働制を導入しています。テヘロ氏は「欠勤が減り、労働生産性は上がり、労働者はより幸せになった」と分析しています。

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 同記事によれば、フィンランドやドイツでも同様の提案が検討されているそうです。この話題は紹介だけに留めます。

 

 

          「自立」と「社会保障」 

 

 安發明子さん(通訳、パリ在住)によれば、フランスでは「不妊治療、妊娠検査、出産費用は無料。3カ月からの保育は収入の1割、3歳からは無料の義務教育、大学・大学院も年間授業料は3万円です。奨学金は返済の必要はなく、専門学校や習い事、生涯学習も無料のものがいくつもあります」(「フランスの親であることの支援」、「しんぶん赤旗」35日付)。 

 そしてフランスでの「子のための親のケア」が徹底しているのには驚くばかりです(同前、312日付)。以下を読んでください。

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 フランスでの妊娠から子育ては常に専門職に囲まれて、助けてもらいながら過ごしていると感じています。

 私たちが移民夫婦で家族も近くにいないことから、産科のソーシャルワーカーに妊娠中からの家事支援の派遣を提案されたり、本人さえ心配していなかったことについて情報提供を受けたりしました。

 産後は処方箋に指示が出され、一日おきに助産師が来て一緒に赤ちゃんの世話をしました。

 赤ちゃんの体重が一定に達してからは保健所のようなところに毎週通うよう言われ、気になることはインターネット検索ではなく私たちのことをよく知っている専門職に聞く習慣がつきました。

 何度も助けてもらうたびに自分が親として初心者であると思い知らされました。専門職というものへの信頼は、助けてもらった経験があるからこそ築かれると思います。

 フランスでは、子どもの福祉を守るため専門職が時間軸においても空間軸においても、何重にも配置されています。産科、助産師の家庭訪問、保健所、3カ月半からの保育園にも3歳からの学校にも児童福祉の専門家がいます。親しくなった心理士さんなどはたびたび電話をくれて、自分では悩みがないと思っていても次々と子どもの気になった反応や夫婦関係についてなど話してしまい、とても支えられていると感じています。

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 専門職の力を十全に発揮させ、まさに社会が本気で子育てしているという感じです。何も知らずに不安の中で一人で頑張る、というのでなく、社会的資源をしっかり提供され、活用することで、安心して子育てができる――「相互依存性」の中で、これが本物の「自立」ではないでしょうか。個々の親子にとっても、社会全体にとってもウイン・ウインに違いありません。社会保障の中での「自立」の実例です。フランスが出生率を改善したというのも大いに納得できます。

 論より証拠。自己責任論に基づく激烈な競争が社会発展の原動力だという新自由主義では、一部の勝ち組を除いて多くの人々が困難を抱え社会が荒廃します。社会保障の充実こそが連帯的社会を形成し、その中で諸個人は健全に発達できるのです。

 対して、日本の政策的現実。新自由主義による「公的サービスの市場化」政策で、生活保護のケースワーク業務の外部委託が進められています。「就労支援」などの名のもと、パソナ(竹中平蔵会長)などの民間派遣事業者が地方自治体と委託契約を結んだケースワーク業務のなかで次のような問題が起こっています。

 ある政令指定都市で、生活保護の受給者が、支援によって就職し、保護廃止となった場合、1人当たり6万円が委託料に加算される特約条項が盛り込まれています。成果に応じて事業者への報酬が追加される仕組みが、生活保護受給者への管理強化、意に反する強引な就職支援につながる危険性を強めています。

 国民の基本的権利であり、国が責任をもち地方自治体と力をあわせて運営すべき生活保護制度が、民間事業者によって実質的に切り崩される事態はただちに改めるべきです。正規職員を中心としたケースワーカーなどの職員増を図るべきです(「しんぶん赤旗」314日付、「地方財政計画などに対する伊藤岳議員の質問」)。

 フランスでの公的な親支援と日本での生活保護の市場化による切り崩し。ここに、社会保障の理念と新自由主義の自己責任論との対照が鮮やかに見られます。フランスでは一人で我慢するのでなく助けてもらって自立が当たり前。そこには人権の尊重があり、豊かな人間観や子ども観が育まれます。新自由主義・自己責任論はそうした人間の豊かな発達の可能性を奪い、それが資本主義による搾取の一環となります。上記の猿田論文にあるように、日本の「管理教育」は「小中高校生活を通じて、個性・人間性や自主性を軽視され続け、自己を確立することを許されなかった若者」をつくり出します。まさにこれが新自由主義の餌食であり、資本主義の強搾取の材料にさせられます。

 独特の教育と社会構造の中で形成されてきた、苦難を忍耐で日々やり過ごす日本人の性格は、人権を切り刻み、それによって搾取領域を増大し、搾取率を高めます。人権・個人の尊重は元来、封建制を打倒し人間の自由を実現する近代ブルジョア革命によって実現されました。それで生まれた近代資本主義は資本が主人公で人間を搾取する経済制度です。それ故、現代資本主義社会では、人間の自由を実現するために、人権・個人の尊重は搾取に対抗するものという意義を持ちます。人権・個人の尊重の度合いと搾取率とは逆相関の関係にあります。


                                2021年3月31日





2021年5月号

          米中対決を規定する土台

 

1)「日米同盟」と米中対立の政治

 

 菅義偉首相とバイデン米大統領による初の日米首脳会談が416日午後(日本時間17日未明)、ホワイトハウスで開かれました。政権とメディアは、バイデン氏が始めて会談する外国首脳が菅首相だ、ということで大はしゃぎです。しかし要するに国際情勢の中で米中対決を最重要課題とするバイデン政権が、日本の利用を死活的に求めている、というに過ぎないのであり、「目上の方に何か特別に目をかけてもらってうれしい」がごとき卑屈な姿勢は本当に情けない限りです。

 日米首脳会談と言いながら、主要テーマは米中対立であり、バイデン大統領の本当の相手は菅首相ではなく、陰にいる習近平国家主席かのようでした。最も注目されたのが、共同声明で「台湾海峡の平和と安定の重要性」を明記したことです。「台湾」明記は、日中国交正常化以前の1969年の佐藤栄作首相とニクソン大統領の共同声明以来52年ぶりです。これはバイデン政権がこの会談で求めていた最大の成果であり、日本は米国と同じ立場で米中対立に臨む姿勢を明らかにしました。内政干渉として、中国の厳しい反発は必至です。

戦争法が施行された2016年以降においては、台湾有事を「重要影響事態」として自衛隊が米軍の後方支援活動に進み、さらには「存立危機事態」として認定し、集団的自衛権を行使して戦争に参加する危険性があります。さすがに「朝日」社説418日付も「日本が果たすべき役割は、米中双方に自制を求め、武力紛争を回避するための外交努力にほかならない」と釘を刺しています。

しかし単に米中対立の間をとるという姿勢でいいでしょうか。「武力紛争を回避するための外交努力」の理念は何でしょうか。そもそも今日の日米関係のあり方について「良好」というような認識(「朝日」初め、日本のメディアではそういう「空気」が大勢)で日本の平和と民主主義を守れるでしょうか。同社説は「既存の秩序に挑む中国の行動を抑えつつ、対話を通じて健全な共存をめざす。地球規模の課題に対しては、中国も巻き込みながら解決を主導する。国際社会の『公共財』としての日米同盟の真価はそこにあると、両首脳は深く思いを致してほしい」と主張しています。まあこれが「世間の常識」的な見方でしょうが、日米軍事同盟絶対視の限界を表しています。同社説は「沖縄の民意を無視した辺野古移設」(移設という表現が問題だ)には反対していますが、菅首相が日米同盟とインド太平洋地域の安全保障を一層強めるためとして、日本が「自らの防衛力を強化する」と約束したことに触れていません。人々の生活を犠牲にして進む、対米従属化での日本の軍拡への批判がないということです。

根本的には、「既存の秩序に挑む中国の行動を抑え」るものとして日米軍事同盟を持ち出していることがそもそも間違っています。中国の覇権主義的行動に対しては「国際法に違反する主張と行動を具体的に指摘し、国際法の順守を冷静に求めていくこと」(志位和夫共産党委員長の417日の談話、「しんぶん赤旗」418日付)が大切です。同談話は、中国の覇権主義的行動への対応を、「日米同盟の強化」の文脈に位置づけることを誤りとし、「国際法にもとづく冷静な批判を欠いたまま、軍事的対応の強化をはかることは、軍事対軍事の危険な悪循環をもたらすだけである」と厳しく指摘しています。結局、日米軍事同盟絶対視は中国の覇権主義を口実として、米帝国主義や日本の軍拡を推進する論理になっています。中国が挑んでいる「既存の秩序」そのものにも問題があるのです。

 バイデン氏は米中対立を民主主義国家VS専制主義国家のイデオロギー対立として描き出し、メディアもこれに無批判に追随しています。しかし米国が善で中国が悪であるという単純な問題ではありません。中国の覇権主義に対する上記の「日米同盟」の誤った対応の根源について、志位氏は以下のように的確に指摘しています(「中国問題 国際法に基づく冷静な批判こそ重要 『文芸春秋』志位氏インタビューに反響」、「しんぶん赤旗」417日付)。

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 また志位氏は、米国政府も中国の覇権主義的行動や人権問題に対し、国際法に基づく批判ができないでいると強調。海警法に関して米政府高官が「領土海洋紛争をエスカレートさせる」などと批判はするものの、国際法違反と断じることは避けていること、米国自身が国連海洋法条約に署名していないことを指摘。「だいたいアメリカは世界最大の覇権主義国であり、中国を覇権主義と批判すると自分にはね返ってくることになる。だから本質的批判ができない」と喝破しました。

 人権問題でも、米国務省が発表している各国の人権問題に関する報告書は、最新版で中国の人権問題について145ページもさいているが国際法との関係を論じた部分は存在しないと指摘。「米国の外交政策目的に適合する場合にしか国連の人権システムに従わないことが米国政府の立場だが、これでは中国の人権問題への本質的批判はできない」と断じています。

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 メディアの「現実主義」はこうした理念問題を看過しています。だいたい、辺野古新基地建設問題だけでなく、在日米軍の治外法権的な行動と日本政府の追従の実態を見れば、「日米同盟」なるものの本質は分かります。日本と日本人自身がどれだけ被害にあっていることか。米帝国主義の姿が露わです。ところが平和は軍事的抑止力によって保たれる、という信仰に取りつかれていると、どのような犠牲を払っても軍事同盟を維持することが優先されます(抑止力論の捉え方については拙文「平和について考えてみる」参照)。日本国憲法前文と9条の精神に基づく平和構築ではなく、「日米同盟」の軍事的抑止力による「平和」という立場では、中国覇権主義に対して、国際法に基づく外交努力や国際世論による包囲よりも、軍事同盟の強化と軍拡で対抗するという悪循環に陥ります。

 バイデン政権が米中対立を民主主義国家VS専制主義国家として捉えていること自体は、単純な善悪対決にしない限りは当たっている部分があります。ところでこれに関連して、日米首脳会談後の共同声明が香港や新疆ウイグル自治区の人権状況に「深刻な懸念」を示したことについて、中国外務省の汪文斌副報道局長は、「人権問題では日米こそ負い目がある」と反論し、日本の過去の侵略戦争や米国の21世紀以降の戦争を挙げつつ、「日米がすべきことは、自らの侵略の歴史と他国への人権侵害を反省して是正することであり、人権の看板を掲げて中国内政に干渉することではない」と断じました(「朝日」420日付)。確かに日米の侵略の歴史と他国への人権侵害に関してはこの批判は当たっていますが、だからといって、中国自身の人権問題と民主主義の欠如した専制政治がそれと相殺されるわけではありません。残念ながら人権・民主主義の普遍的基準に照らして、米国がより民主主義的で中国がより専制主義的であることは明らかです。中国が国際法・人権・民主主義を軽視していることは、日米などの様々な誤りとはかかわりなく断罪されるべきです。それは、日本軍「慰安婦」問題において、たとえ他国に類似の問題があったとしても(実際には日本の悪質さは他の比ではないようだが)、それ自身において断罪されるべきだということと同じです。

 しかしもっと一般的に深く捉えるべきことがあります。民主主義国家VS専制主義国家といっても、ともに階級支配国家です。民主主義国家の理想は階級のない状態であり、可能性としてそれはあり得ますが、今のところしっかりと実現してはいません。民主主義には内実と形式があり、ともに重要です。民主主義の内実というのは、人民による支配、人民の権力(国民主権)の実質化ということであり、それはどこにも実現していません。ロシア革命・中国革命など社会主義革命はそれを目指しましたが、結果的には正反対の専制支配に帰結しました。民主主義の形式はたとえば普通選挙制度とか言論・表現の自由など、普遍的で平等・公正な制度が整っている状態を指し、今日では先進資本主義諸国ではおおむね実現しています。

 先進資本主義諸国では、民主主義形式の下で、グローバル資本の階級支配が実現しています。労働者階級など人民の多くは資本主義を支持し、保守政党ないしは資本主義体制内の社会民主主義政党に投票しています。もちろんその政府はグローバル資本本位の政策を実行しているので、労働者・人民の生活と労働は困難を抱えますが、イデオロギー支配と利益誘導などの部分的措置で、反体制的な左翼政党への支持は抑えこまれています。

 民主主義国家VS専制主義国家という対抗図式は、ともに民主主義の内実の希薄な(あるいは欠如した)階級支配政治の枠内で、民主主義形式がどこまで実現しているか、という次元で争われているものです。それ自身は重要な問題であり、決して軽視できませんが、民主主義の問題はその先にもまだあるということが通常は理解されていません。

ところが、問題はその先どころか、おおむね民主主義形式が実現した先進資本主義諸国において、民主主義の内実の実現を阻害している階級支配がしばしば民主主義形式そのものをも破壊することです。その典型が、沖縄の辺野古新基地建設問題です。沖縄県民はこれまで何度、各種選挙や住民投票によって新基地建設ノーの意思を表明してきたことか。それらはことごとく対米従属の日本政府によって無視されてきました。当地から「日米が共通の価値観とする『民主主義』を沖縄にも適用してもらいたい」という皮肉な声(表現としては皮肉だが、その内実は悲痛な声というべきか)が上がってくるのは当然です。それは今回の日米首脳会談と共同声明に対する根源的批判であり、米中対立についての民主主義国家VS専制主義国家という図式の欺瞞性への告発です。

 

2)米中対立の経済

 

 この民主主義国家VS専制主義国家という図式の欺瞞性に連なるのが、日米首脳会談におけるバイデン氏の「先端技術は専制国家ではなく、民主国家による規範によって管理されなければならない」という主張です。米国がファーウェイを排除するのは「ファーウェイが通信網にいわゆるバックドアを仕込んで情報を盗み出し、中国政府に提供するのではないかという疑い」(佐藤拓也氏の「5Gをめぐる米中技術覇権競争 交錯する資本と国家の論理123ページ)からです。しかしなぜそう疑うかというと、「アメリカ自身がこれまで情報通信ネットワーク上の情報を傍受してきた以上、相手国も当然それを行ってくるだろうという懸念」があり、「こうしたアメリカだからこそ、情報通信基盤を中国に握られることの国防上のリスクを、他の誰よりもよく理解してい」るからです(126ページ)。民主主義国家VS専制主義国家という対立図式は、民主主義形式をめぐる対決を表現しているという限りは意味がありますが、それを超えていかにも善良な米国が邪悪な中国と対決しているという印象を持ったら誤りです。何のことはない、情報管理について権力悪同士の対決が実態なのです。

 ここにきてようやく米中対立の真相(深層)に到達しました。やはり経済次元の考察が必要です。政治・軍事・外交における対決を規定するのは経済であり、それを見る際に、国家対国家の次元だけでなく、資本や人民との関係を重層的に捉えることが不可欠です。米国のファーウェイ排除に象徴される米中対決は、今後の世界における経済的・政治的覇権をめぐる死活的闘争なのです。「新冷戦」とまで呼ばれる対立の激化を究極において規定しているのは、民主主義をめぐる理念対決ではなく、技術・経済をめぐる覇権競争だと言わねばなりません。

 第5世代移動通信システム(5G)の重要性は、まず「軍事上・国防上の重要なインフラになること」(前掲佐藤論文、126ページ)にあります。また「5G通信基盤は次世代のさまざまな技術の基盤になり、特にAI(人工知能)との親和性が高いこと」も挙げられます(同前)。「情報通信システムの世代移行では、先発国が標準を形成し、後発国はそれに従わなければならないの」で、「中国が先発者となり世界の標準を形成することは、アメリカとしては絶対に阻止する必要がある」(127ページ)わけです。

そこで、各国を巻き込んで米国のファーウェイ排除の「包囲網は成功しつつあるように見える。しかし、事態はそう簡単ではない。この政策自体が、アメリカにとっても大きな矛盾を抱えたものだからである」(123ページ)と佐藤論文は指摘しています。根本的問題として、「米中技術『覇権』競争といっても、アメリカに5G技術での『覇権』など存在せず、その見通しもないこと」(128ページ)が挙げられます。「だからこそ、ファーウェイを、国家権力を用いてでも排除しようとするの」ですが、それは「技術的・経済的な長期戦略を欠如させたまま、事実上、政治的に対応しているだけ、ということで」す(同前)。

 したがって、米中対立にかぶせた「民主主義国家VS専制主義国家」という米国流の善悪対決図式は、実は技術覇権競争で後れを取った米国が、正攻法ではなく政治的にねじ伏せようという狙いを隠蔽し美化した論点ずらしであり、それは悪い意味できわめてイデオロギッシュなのです。もちろんその図式の政治次元の問題自体は確かに存在するのですが、対決の真の動因はそこにはない、ということが以上からわかります。

 技術的後れを政治的排除で巻き返そうとすれば、無理が来ます。自国企業に5G技術を託すのでなく、手っ取り早く、ファーウェイに対抗している北欧のエリクソン、ノキアに対して、シスコなどアメリカ資本による出資を促すのですが、他部門で優位なシスコは「敢えて低利益率のRAN製造にまで投資しない」として消極的です。それは「要するに、政府の論理よりも資本の論理が先立つという、民間企業として当然の態度である」(129ページ)と評価されます。

 米国はファーウェイの他に、中国の半導体製造のSMICも制裁対象に加えました。すると、両者を直接・間接の顧客とする米国企業が中国市場を失う可能性が出てきます。米半導体工業会は輸出禁止強化措置に反対しており、クアルコムなど個別企業もファーウェイとの取引を一部維持しています。つまり、「実際、アメリカ政府がいくら中国への制裁を強化しようとも、個別企業レベルでは販路拡大と利益追求を優先せざるをえない」(137ページ)わけです。

 さらには、「直接的・間接的な市場の縮小よりも深刻なのは、中国への輸出禁止が、中長期的にはアメリカの5Gや半導体での競争力を一層低下させかねないという矛盾」(同前)があるということを論文は指摘しています。「5G技術の標準化につながる特許はファーウェイが多く持っている」ので「ファーウェイと協議しなければ、そもそも国際的な標準化自体が不可能」であり、「20206月に、アメリカ政府が、5G技術の国際的な標準化に資するという限定付きながら、ファーウェイとの取引をアメリカ企業に許可せざるをえ」ませんでした(同前)。こうして、「米中の国家間の覇権争いも、実際には巨大独占資本間の競争と協調のなかで行われており、これがまた国家の政策との間で利害の対立と一致を生み出す」(141ページ)ことになります。米中技術覇権競争は単純に国家間の対立としてだけ見ることはできません。

 米国の弱点は、5G技術でファーウェイに後れを取っていることだけでなく、製造工程を軽視して他国企業に委託し、それを担う企業がないということにもあります。半導体製造では世界の1強企業、台湾のTSMCに依存しています。米国はTSMCのファーウェイとの取引を制裁で裂きましたが、ファーウェイは製造工程を中国企業SMICに移し、現在は「数世代遅れ」と言われるSMICの能力を向上させようとしています。自国に生産基盤のない米国はこれを脅威と見ています。対中制裁がかえって中国の自立化を促進してしまうという懸念が生じています(139140ページ)。

 米国の製造工程軽視の弱点からは「現代の経済では、情報を握ることが何よりも重要だと言われるが、そこでは物質的生産の重要性がますます増大している」(140ページ)ということが言えます。5G技術をめぐっても、基地局や端末のための半導体の獲得が決定的です。5G端末向け半導体設計で世界最先端のクアルコムやファーウェイの子会社の半導体設計のハイシリコンは、高品質の製造過程ではTSMCのようなファウンドリー(受託生産会社)に依存しており、「さらにそのファウンドリーに対して生産手段を納入するASMLなどの半導体製造装置メーカーの位置づけも、ますます重要になっている。こうして、情報をめぐる覇権競争は、研究開発の成果を含む物質的生産基盤をめぐる覇権競争として展開されることにな」ります(140141ページ)。

 グローバル資本の行動様式として、必ずしも本国政府と利害が一致するわけではないことは前述しました。それに加えて、グローバル資本は巨大独占資本として、独占利潤の確保という現状維持が大切なので、新興企業に比べて新技術開発に消極的になります。たとえば、ファーウェイはOpen RANには後ろ向きであり(132ページ)、クアルコムは5G端末向けの半導体設計では世界最先端であり、その独占的立場を利用した特許ビジネスが最大の特徴です(135136ページ)。つまり、巨大グローバル資本は国家的枠組みを超えた最先端の生産力発展の象徴のようですが、停滞と隣り合わせだとも言えます。

 巨大グローバル資本同士の競争と協調、それと国家の政策との兼ね合いが世界経済、国民経済を規定し、それが地域経済や中小企業などからなる職場に大きな影響を与え、そこで諸個人の生活と労働には大枠がはめられます。自己責任に基づいて独立した自由な生き方・働き方と見えるものの実像は、グローバル資本を頂点とする「上から視角」に規定されているのです。新自由主義・自己責任論は、自由な諸個人のアクション(ブラウン運動)の集合として経済社会を捉える原子論的社会観に立っており、それは新古典派理論の経済モデルの反映ですが、実際には諸個人の行動は社会的に深く規定されており、その自由は錯覚に過ぎず、転倒した社会観と言わねばなりません。

そういう諸個人の位置の象徴として、情報がどう扱われているかを次に見ます。IT化の中で、中国の監視社会化はよく知られていますが、米国についても、アメリカ国家安全保障局 (NSA) および中央情報局 (CIA) の元局員であったエドワード・スノーデン氏によって、それまで陰謀論やフィクションで語られてきたNSAによる国際的監視網(PRISM)の実在が告発されました。全世界的にも、ターゲティング広告などに見られるように個人情報がデジタル企業に握られています。現在、日本の国会で審議されているデジタル化法案にはEUなどに見られるような個人情報保護規定がないことが大問題になっています。佐藤論文は以下のように主張します。

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 ここから浮かび上がるのは、中国であれアメリカであれ、共通するのは、国家と資本が情報を収集し人々を監視することの問題性である。つまり、米中技術覇権競争とは、結局は、どこの国と資本が情報を通じて人々を支配するのかの争いであって、真の対立は、国家・資本と人民の間の階級対立である。したがって問題解決の方向性は、中国とアメリカのどちらに付くかということでもなければ、中国企業とアメリカ企業の協調を願うことでもない。アメリカであれ中国であれ、国家と独占資本による情報の支配を許さないという人々の連帯が、問題解決への糸口である。           142ページ

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 これは直接的には情報監視についての指摘ですが、経済と政治における、国家・(独占)資本・人民の関係一般にも当てはまります。グローバル資本が国家を通じて、人々を支配する「上から視角」の世界を逆転して、人々の生活と労働を守り発展させるために職場・地域経済・国民経済・世界経済を変革していく「下から視角」に移行することが求められます。それは現状から言えば途方もないことですが、少なくとも様々な問題を捉える観点を踏み外さないための軸として堅持すべき立場です。

始めに返れば、日米首脳会談に限らず、バイデン政権は米中対立を最重要課題として常に世界に提起し、しかもそれを「民主主義国家VS専制主義国家」というイデオロギー対立図式として描き出しています。中国の人権・民主主義軽視、覇権主義的行動などを見て、その図式の部分的真理にだけ囚われると、グローバル資本と国家権力(そこには利害の一致も不一致もあるが)による人民支配という全体構造が看過されます。それは政治次元では見づらくても、経済次元では見やすくなります。上記の対立図式に連なる「先端技術は専制国家ではなく、民主国家による規範によって管理されなければならない」というバイデン氏の主張の欺瞞性はすでに指摘しました。民主国家もまた階級国家であり、人民に国家機密情報を隠し、逆に個人情報を把握して政治支配とグローバル企業による営利的利用とに道を開きます。経済から政治に至るまで民主的規制をどう効かせるか、そこに問題の本質があります。

政治・軍事・外交の次元に返れば、「民主主義国家VS専制主義国家」というイデオロギー対立図式を「日米軍事同盟による中国への対抗」図式にうっかりすり替えられないようにすべきです。日本は中国の人権・民主主義軽視と覇権主義に対しても、在日米軍の我が物顔支配や世界における米国の帝国主義的所業に対しても、日本国憲法の人権と平和の精神で対峙すべきです。

 未だガラケー使用のアナログ人間としては、佐藤論文の理解は相当困難でしたが、繰り返し読んで、独占資本の停滞性とか、情報化の下での物質的生産の重要性の増大、といった経済理論上のキー概念を頼りに興味深く読むことができました。

 なお、この拙文のテーマ外になりますが、バイデン政権の国内政策としては、トリクルダウン理論を否定して、富裕層・大企業への増税を打ち出すなど、格差是正に取り組んでいる点は、人民の声を反映したものだと評価できます。

 

 

 ☆補遺☆ 米中対立の一視点:民主政治は専制政治に負けるか 

 米中対立に関連した一つの考察を紹介します。成田悠輔氏(半熟仮想株式会社代表・イエール大学助教授、専門はデータと数学を用いた政策やビジネスのデザイン)は、コロナ禍対策における米国の失敗と中国の成功は、両国に限らず、民主主義の失敗と専制政治の成功という世界的現象であって、データ分析によればこの相関関係は因果関係でもあると判明した、と主張しています。「人の日常的な認知能力を超えた速度と規模で問題が爆発し」、「超人的な速さと大きさで障害物が現れる世界では、凡人の日常的感覚(=世論)に押し流される民主主義はズッコケる」というわけです。そういう民主主義の失敗に関連して、ジャン=クロード・ユンケル元EU委員長の「何をすべきか政治家はわかってるんだ。すべきことをしたら再選できないこともね」という発言が引用されています(にじいろの議「コロナ失策からの発見 崩れる民主主義の常識」、「朝日」夕、414日 付)。

 要するに、そういう状況下では民主主義は衆愚政治になって失敗するというのです。そこから「民主主義を諦めるのか? 人の脳内を改造するのか? 技術環境の規模と速度にストッパーをかけるのか? 政治の土台をどう作り直せばいいのか、私たちは文字通り命がけの選択を迫られている」と提起されています。

 きわめて分かりやすい簡潔な問題提起ですが、直感的には間違っているように思います。中身は分かりませんが、技術的なデータ分析で単純な結論を導き出しており、社会科学の視点があるようにも思えません。たとえば、元EU委員長の言葉は、グローバル資本の立場で緊縮政策を正当化する発想から出ているだろうから、そういうのを無批判に引用するということは、グローバル資本主義の現体制擁護のフレームワークで考えているのだと思います。あるいは、人間の「脳力」の問題なのだろうか。体制的フレームワーク内でしか考えられない発想の問題ではないか。等々…。変革主体形成の問題を含めて、社会変革の可能性を踏まえた社会科学的視点が必要です。

 とはいえ、そんな言い方では、成田氏の議論の内容にきちんと踏み込んでいるとは言えないので、この簡潔な問題提起をきっかけにさらに考えていくことが必要でしょう。民主主義が衆愚政治化して転落するという問題は、「人民の支配」という民主主義の内実の実現という次元においても考慮すべき課題であるだけに重要です。固定的な人間観ではなく、変革主体形成はそれをどうクリアできるのかという視点を踏まえて考えるべきでしょう。

 

 

          国家と人間

 

 バイデン政権による米中対立の喧伝に見られるように、とかく政治(家)は本来複雑な諸問題を国家対国家の問題に単純化して受け狙いする傾向があるので、逆にそこから当該問題を国家・資本・人民などの関係に分析し直していく必要があります。しかし近代以降、国民国家が形成された中では、ナショナリズムというイデオロギーがあたかも自然な感情として定着しており、社会科学的真理はその意識的克服の上で追求されねばなりません。

メディアのノーベル賞報道では、「日本人が日本人が」ということばかり大騒ぎになります。しかし自然科学系の賞であれば、人間の自然認識の深まりという普遍的内容が第一に問題とされるべきであり、どこの国の人間の業績かということは二の次であるはずです。このように何でも不当に国を中心に捉えるという誤った常識が支配的であり、それは人々の社会認識にも悪影響を与え、社会科学も歪めていると言えます(*注)。国策としての社会科学であればまったくそうであり、自由な批判的社会科学でも、国と現体制とを重ね合わせて理解してしまう傾向から逃れる意識的努力が必要と思われます。その対極にあるのが、ネトウヨなどによる「自虐史観」批判であり、とにかく何でも自国は良くて他国は悪く、自国についての反省などはもってのほかということになります。これは時の支配者による悪政の擁護と自分たち被支配者の不幸に帰結します。自国であろうと他国であろうと、そこにいる人々が政治や社会などのあり方によってどうなっているのか、を公正に分析的に見る普遍的な姿勢が必要です。自国とその体制を併せて支持することを「愛国心」と思って称揚し、とにかくお上に盾突く者をバッシングするなどというのは、少なくとも以前は異常なことだったのですが、今は若者を中心に普通の心性になっているという恐ろしい時代です。格差と貧困による閉塞的状況下では、こういう反知性主義が不満のはけ口として快感なのでしょうか。

 国家と人間との関係については、まず「自国と他国」、「理解と批判」という視角、次いで国家と市場との関係という視角、が問題とされるでしょう。さらに「国家からの自由」と「国家への自由(国家に責任を果たさせる自由)」という問題、つまり自由権と社会権という問題などもあります。

 「朝日」名古屋版の423日付コラム、劉永昇・風媒社編集長の「本の虫・周作人のまなざし」は大変に興味深いものです。   

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 …前略…

 帰国後、魯迅とともに新文化運動の中心的担い手となる一方で、周作人は古典日本文学の翻訳に取り組んだ。『古事記』『枕草子』から狂言、川柳まで幅広く紹介し、“最良の日本理解者”と呼ばれたことは、東京を「第二の故郷」とした周作人にとっても本意であったに違いない。

 しかし、同時に周作人は日本への痛烈な批判者でもあった。「『日支共存共栄』を叫びたてているが、実際は侵略の代名詞であって、豚が食われて他人の体内に存することを、共存共栄という」(木山英雄訳『日本文化を語る』筑摩書房)と糾弾する周作人は、日本の芸術・文化と政治・軍事を区別し、批判すべきを冷静に批判する態度を貫いた。国交回復以来最悪の状態にある現在の日中関係を考えるうえで、この周作人の姿勢は重要な鍵となるのではないか。

 戦後、周作人は対日協力者=「漢奸(かんかん)」として逮捕・投獄される。保釈後も彼は日本文化の研究を続け、文化大革命の嵐のなか82歳の生涯を閉じた。いまだ本国での周作人の評価は低いままだが、群を抜く読書家である彼にとってはどうでも良いことかもしれない。読書とは、あらゆる国家に所属しない自由な精神の活動領域なのだから。 

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 これを読むと、周作人は、国家と人間との関係について、人間を中心にした普遍的視点を持っていたが故に、日本の芸術・文化と政治・軍事を区別して、最良の日本理解者にして痛烈な批判者でもあった、と思われます。そのように他国を見られる姿勢は、自国での低評価にも動ぜずに自分を貫くことを可能にしたのでしょう。劉氏が推測する、そこでの心境=「読書とは、あらゆる国家に属しない自由な精神の活動領域なのだから」とは何と痛快な精神のあり方であることか。国家からの自由とは、人類が歴史的に獲得してきた、政治的に確立された権利であり制度なのですが、それを個人の中に確固として据えられるかどうかが、一人ひとりに生き方として問われます。自国も他国も普遍的基準で分析的に肯定的理解も批判もできることが個人の精神的独立の基盤であり、「国家からの自由」の主体にふさわしいあり方です。

 グローバリゼーション下では、国家の役割の後退が言われてきました。国境を超えた経済活動の増大がその一番主な原因です。それは権力が地理的領域を超えるか超えないか、という角度から問題にされています。しかし、リーマンショックやコロナ危機への経済的対処での「国家の復権」はそういう角度よりも、危機に際して、無政府生産としての市場経済の無力さが露呈し、対照的に国家の経済政策による緊急的対処以外に方法がない、という点に問題の本質を求めるべきでしょう。資本主義市場経済の危機です。国家と国家との関係ではなく、国家と資本主義市場経済との関係が問題です。コロナ禍においては、公衆衛生的危機と経済的危機とが併存しており、そこで、医療・社会保障を削減し、格差・貧困を拡大してきた新自由主義の原罪が告発される事態となっています。それはまさに危機に対して無力な資本主義市場経済に代わって国家が責任を果たすという事態です。人権の次元で言えば、生存権を始めとする社会権を守るということであり、「国家からの自由」とは異次元の「国家への自由」(国家に責任を果たさせる自由)の実現です。こういう状況は、資本主義市場経済とブルジョア国家から成る資本主義体制下での支配層と被支配層との対決のダイナミズムの表出です。翻って、社会主義とは生産の無政府性と搾取とを廃絶し、人類がこのような危機に直面することなく発展する体制を意味します。それは今のところ見果てぬ夢に過ぎませんが、危機の本質をそらしてアレコレの筋を語ったりとか、あげくスケープゴートを仕立て上げ、バッシングを煽って政府・国家の責任を回避するなど、騙されないための思考の基準としては役立ちます。

(*注)もちろん自然科学的発見が技術的に応用され人々の生活に影響する場合、それが経済的利益をもたらすことはあり得、その際には発見者の国には利益が行き渡りやすくなるだろうから、どこの国の人であるかは社会的に重要な問題とはなります。しかしノーベル賞受賞の際の大騒ぎはそのような事情とは関係なく、研究内容はそっちのけでとにかく日本人であること自体が大切だということだけであり、反知性主義的なナショナリズム扇動の一環と言わねばなりません。

 

 

          断想メモ

 

 マルクスの経済学草稿や『資本論』形成史の研究者から、新版『資本論』のコンセプトである、不破哲三氏の「1865年、マルクスの理論的大転換」説への支持を寡聞にして聞きません。ところが一部のマルクス経済学研究者が不破説を無批判に前提して議論しており残念です。萩原伸次郎氏の「激動する現代世界と『資本論』 新自由主義に対峙する「ルールある経済社会」を求めてもそのような論稿の一つです。まことに奇妙に思うのは、萩原論文は不破説への批判として、谷野勝明氏の「『恐慌の運動論の発見』と利潤率低下『矛盾の展開』論の『取り消し』はあったか」(関東学院大学『経済経営研究年報』第42集、20203月、所収)があることを紹介だけしていることです。不破説を根本的に批判したこの論文を読んでなお、それへの反論もせずに、漫然と不破説に従って議論が展開できるということはおよそ理解できません。他に谷野氏には「『資本論』体系形成の段階区分について――「恐慌の運動論の発見」による「大転換」説批判――(関東学院大学経済経営学会研究論集『経済系』第280集、20208月、所収)もあります。私は昨年末にネット上に前者を発見し、今年3月に後者を入手して読みました。当たり前のことですが、両者はいい加減な漫罵の類ではなく、極めて真面目な学術論文です。私は寡聞にしてそれへの反批判の論文を知りません。おそらく不破説の立場からの反論はできないのでしょう。

これはごく少数の専門家だけに関係した小さな問題ではありません。人類の共有財産の一つとも言うべき『資本論』の翻訳方針に関係した問題です。1年以上も前に徹底的に批判された説が、それを無視して何もなかったかの如くに世に流通し続けています。さらにそういう事情を知っているのか知らないのか、それに追随する文章を依然として多くの人々が送りだしているのはいかがなものか。最低限でも、谷野論文のような本格的な批判の存在を広く知らせるべきではないのか。研究者・編集者・出版者の学問的良心が問われていると思います。

 本誌5月号の巻頭言「扉」「マルクスの経済学体系と『資本論』」と題されています。そこでは、『経済学批判』(1859年刊)と『資本論』との連続面が指摘されています。主に「土地所有」を題材に、『資本論』においてもなお、経済学批判プランは変更されながらも、その考え方は生き残っていることが示唆されています。不破説追随とは違った論稿が巻頭言にあることにいささかの希望を感じます。

                                2021年4月30日





2021年6月号

          コロナ禍をめぐる鮮烈な対決

 

1)新自由主義の公共性破壊と転換像の提起

 

特集「コロナ感染とたたかう ケアに手厚い社会をはコロナ禍での医療・福祉の現場の苦闘を通して、改めて各仕事・事業の本質・使命に立ち返り、制度とその実態を見渡し、それに対する政治の責任、政治変革の必要性を明らかにしています。横山壽一氏の「コロナ1年、保健・医療政策の課題と転換」は巻頭論文にふさわしく、保健・医療政策の総合的解明となっています。その全体に言及する余裕はないので、以下では若干の論点だけに触れます。

論文は、欧米に比べれば感染者数が少ないにもかかわらず日本が医療崩壊に至っている背景に「日本の医療政策がもたらした、いびつで脆弱な医療提供体制と公衆衛生体制がある」と断じ、「その構造と政策を改めて問い直し課題を考え」ています(14ページ)。何ごとも市場競争・効率第一主義の新自由主義政策を、本来適用してはいけない保健・医療に適用し、そこに学問軽視が重なることで、コロナ禍への対応失敗の舞台が出来上がっていたと言えます。

その象徴が国立感染症研究所の機能縮小です。2010年から19年にかけて、定員が328人から307人へ減らされ、予算に至っては61.7億円から19.7億円へ実に1/3に削られています。「鳥インフル、はしかの大流行があった13年に田村智子参議院議員(日本共産党)が質問し人員増を求めたが、国はこれを無視して強行してきた。/このように、感染症対策の強化が求められる中で、逆に人員を削減し機能を弱体化させてきた。そのことが現在の保健所のひっ迫、検査体制の遅れをもたらしていることは明らかである」(18ページ)と糾弾されています。

 新自由主義政策によって、保健・医療体制がこのように弱体化しているところをコロナ禍が襲ったので、対処方法にも始めから限界がありました。厚労省クラスター対策班の東北大学の押谷仁教授は「検査体制や感染症の受け入れ態勢が整っていない日本では大規模な検査は行えず、クラスターを追跡して潰していく方法をとるしかなかった」として、「感染症体制の大幅な縮小・弱体化が、感染症防止の基本である大規模検査を困難にしたことを明らかにし」ました。こうして「保健所のひっ迫で頼みのクラスターの追跡もいよいよ困難になり市中感染の拡大に手が付けられない事態に陥り、医療崩壊に拍車をかける事態になっている」のです(21ページ)。

 新自由主義政策による保健・医療体制の弱体化という医療崩壊の前提を看過すると、たとえば「病床確保が進まないのは民間の医療機関の消極的な姿勢が原因だ」(20ページ)という民間病院バッシングが起こります。そもそも「備え」や「ゆとり」はムダで不効率とし、極限まで稼働が追求されてきたことが、感染拡大への対応を困難にしたのです。感染者の受け入れが少ないという表面的事実だけにとらわれた民間病院バッシングは批判の矛先を間違えて根本原因を隠蔽するものです(2223ページ)。それを一般化した教訓として次のように言えるでしょう。――コロナ禍での医療崩壊に限らず、現実の様々な社会的諸困難について、手身近な「原因」を見つけてスケープゴートに仕立て上げることは、新自由主義政策による社会基盤の破壊という根本原因を看過させるものである。新自由主義からの盗人猛々しいバッシングを許すな。

 論文は、そうした新自由主義政策の中で医療崩壊をもたらした要因と政策転換の喫緊の課題とを列挙しています。その中で、通常はあまり見られない深い論点として、健康観と医療の社会的位置づけへの言及が重要だと思います。

 「1994年の保健所法改正、地域保健法制定の下で保健所再編がすすめられ」、「1996年には公衆衛生審議会具申で『生活習慣病』概念が導入され、『健康の自己責任』が一段と強化され」、その後の「一連の政策によって、健康の自己責任による予防重視、健康関連サービス事業の育成がすすめられてきた。保健所の再編・縮小は、これらと表裏一体の関係にある」(17ページ)と指摘されています。

 論文はまず新自由主義的医療政策が医療崩壊をもたらした要因を五つ挙げており、その最後に「公衆衛生を軽視し、健康の自己責任を強調し、健康・疾病の社会的性格を軽視してきたこと」(22ページ)という、上記に対応する指摘があります。それに対して、医療政策の抜本的見直しと転換の課題として五つ挙げられ、その二つ目に「人権としての公衆衛生と保健・医療の一体化を図ること」が挙げられています。それは「健康の社会的責任と予防から治療までの包括的医療を実現すること」であり、具体的には「保健所の増設と機能の充実、保健師の増員を行い、自己責任と市場の活用による健康政策から、学習を基礎にした健康なまちづくりによる健康づくりへ転換を図る必要がある」(23ページ)と指摘されます。これはたとえば「地域包括ケア」をめぐる厚労省の上からの政策と、医療生協などの下からの地域的実践という同床異夢的なせめぎあいにおける理念的区別にかかわるものでしょう。

さらに政策転換の五つ目の課題としては、「医療の社会的位置づけの根本的転換が必要である」(23ページ)とされます。それは「医療を個別的利益のための手段(提供者・利用者も)から社会的共同利益の保障基盤へと転換させる必要がある。これは『コモン』とよばれるが、こうした医療の位置づけが不可欠である」(2324ページ)ということです。そこでは、公立公的あるいは民間の医療機関のそれぞれの公共的役割を明確化し、その活動の保証と規制を行政が適切に行い、地域医療としての包括的体制を確立していく、――「医師・医療従事者・住民・行政による『コモン』としての医療の構築が求められる」(24ページ)と結論づけられています。

 以上のように、コロナ禍において、新自由主義政策の失敗を確認し、医療・社会保障を再構築することが広い一致点になりつつあります。それは単に税制と社会保障の改革による所得再分配の強化など、財政のあり方の変革だけにとどまるのではなく、健康観の転換を始めとして医療の社会的位置づけなどの社会観そのものの変革を伴うものだと言えるでしょう。

 「新自由主義政策の失敗」と「社会的公共性の再構築の必要性」という対比は他分野にも共通します。世界の農業でそれを解明したのが、巻末論文である福田泰雄氏の「アグリビジネスと食料主権」です。国連は2017年に「家族農業の10年」、18年に「小農の権利」という二つの重要な決議を採択します。そこにおいて、現行フードシステムが環境的にも社会的にも持続性を持たず、フードセキュリティを否定している、と国連は認識し、家族農業を主軸とする新たなフードシステムへの移行が必要であるとして、家族農業支援プログラムを提示します(128ページ)。しかし福田氏は「国連の二つの決議は、現行フードシステムがもたらした弊害を指摘するものの、現行システムがなぜそうした弊害をもたらすのか、そのメカニズムについては触れない」(129ページ)と批判します。その上で、(1)現行フードシステムとはアグリビジネス主導のフードシステムであり、(2)その下では農業者・住民・国の食料主権は否定され、(3)現行フードシステムは伝統的農業を否定し、効率一辺倒の工業型農業を推進するが、それは持続性を持たず、(4)食の安全性を脅かすことを明らかにしています(同前)。その詳しい解明の後に、むすびとして「アグリビジネスによる市場集中、市場支配を排除し、アグリビジネスによる新自由主義ルール(規制緩和、民営化、貿易自由化、種子の私的財産化)を廃止する必要がある。このアグリビジネス管理型フードシステムをスクラップにすることなくして、新たなフードシステムへの転換は実現しない」(146ページ)と結論づけています。横山論文の問題提起を引き継げば、農業のコモン化、あるいは家族農業を再び主役に据えたコモン性の復活とでも言いましょうか。

 しかしそれは単なる復古ではなく、アグリビジネス支配への批判を経過することで、家族農業の本質が新発見され、その意義が再構築された、ということができるのではないでしょうか。家族農業は、伝統的手法を引き継いで、自然に順応する形で続けられてきており、その科学的意味が従来から意識されてきたわけではないでしょう。ところがアグリビジネスによる資本主義的に工業化された農業の弊害が明らかになるのとの対比で、自然に順応した家族農業の良さが科学的に明らかにされてきたのではないでしょうか。単に家族農業は良いものだから伸ばしていく必要があると言うだけなら、非現実的で無力な言説に過ぎません。アグリビジネスが支配している問題点をえぐり出し排除することを指摘することで、家族農業が伸びていく道を示すことができます。もちろん現行の支配秩序は強固であり、理論的方向性を示すだけで展望が開けるとまでは言えません。課題は政治のステージに移行したということです。

医療・社会保障においては新自由主義の弊害が顕著であり、そこからの転換の必要性が痛感されてきましたが、オルタナティヴの理念がいまいち不鮮明でした。横山論文はその点を補いました。世界農業においては、新たな農業像の主役としての家族農業が提起されたのに対して、そもそも現行システムの問題点の根本原因が不鮮明でした。福田論文はアグリビジネスの支配がそれであり、その解体が必要だということを解明しました。巻頭・巻末の両論文において、新自由主義の弊害の明確化とその転換像=オルタナティヴの提起、つまり正確な現状認識と変革的展望の確立という今日の社会科学の課題がこのように両様に果たされているのを見ることができます。

 

2)コロナ患者の受難と医療現場の苦闘

 

ここでまた医療に立ち返ります。山岡淳一郎氏の「コロナ戦記第9回 死の淵からの生還」(『世界』6月号所収)は、ノンフィクション作家の筆力で、大阪府の61歳男性のコロナ患者が九死に一生を得た体験を生き生きと描き切っています。この人は発症からすぐ市立病院に入院し標準的治療を受け、退院基準を満たして帰宅しましたが、サイトカインストーム(自己免疫機能の暴走)を発症し再入院。すぐ気管挿管後、救急救命センターへ転院しエクモ装着で一命を取り留め、市立病院に戻って廃用症候群(病気や負傷で長期間、安静状態が続いたことによる身体機能の大幅な低下や、精神状態の悪化)のリハビリに懸命に取り組んで4か月以上もの闘病を経てようやく帰宅できました。一人の命を救うのに、医師・看護師・臨床工学技士・理学療法士・作業療法士・言語聴覚士など多くの医療職種の人々が実に献身的に働き患者の回復を喜びあいます。感染を防ぐために彼らが厳しく私生活を自制しているさまにも接し、患者は「あの使命感はすごい。ほんとうにありがたい」と感謝し、「市立病院は市民の宝ですよ。そこが民営化の対象にされて職員は冷や飯を食わされています。どう考えてもおかしい」と憤慨します(47ページ)。筆者はこう解説します。

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 その医療スタッフたちは、コロナの流行前から「大阪維新の会」主導の府政に煮え湯を飲まされてきた。維新府政は公立病院の赤字と給与の高さを問題視し、府市の病院統合を進め、病床を大幅に削減した。第三次救急を預かる医療機関への補助金を次々とカットする。公衆衛生の要である保健所も縮小した。その流れは住民投票で維新の悲願「大阪都構想」が否決された後も変わっていない。大阪の医療崩壊の原因はここにある。  同前

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感染状況などに関する様々な数値や制度とその運用実態などは客観的に事態をつかむのにぜひ必要なものです。しかしそれだけでなく、さらにこのように感性を刺激する具体的なドキュメントに接することができれば、現実に対する情理兼ね備えた把握に達することができます。保健・医療政策についてその基礎的全容を主に客観的に描き出し剔抉している横山論文にも、現状への怒りと変革のヒューマニズムが込められていることは看取できますが、山岡氏のドキュメントにより、さらに患者の苦難と医療現場の生々しい奮闘ぶりに接することで、統計数値からある程度客観的に描き出される全体状況をよりイメージ豊かに胸に刻むことができます。

 

3)保健所――コモンとしての保健・医療の要

 

以下ではまた特集「コロナ感染とたたかう ケアに手厚い社会をに戻ります。コロナ禍の下で、上記の「大阪維新の会」の暴政と最前線で闘っている現場を描いたのが、小松康則氏(大阪府関係職員労働組合執行委員長)「大阪の保健師・職員を増やして! 『仕方ない』を乗り越え、実態、生の声を発信です。わずか5ページのレポートながら、巷間言われる保健所の大変さをその使命とともに具体的に知ることができ必読です。まずそもそも保健所とは何か、その仕事内容、社会的意義などをていねいに説明し、それを踏まえて、コロナ禍下での保健所業務について、重大な責務と凄まじい実態を活写しています。

 現代社会において多様で複雑に変化している健康問題を解決するために、当事者である個人や家族を支援すると同時に、地域社会全体に働きかけて支援するのが保健所の仕事です。そこには公衆衛生(地域保健)の専門家である保健師の他に、医師を始めとする多くの専門職種が配置されています(34ページ)。その社会的意義について長い引用になりますが是非とも以下に紹介したいと思います。

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 保健所の仕事は、人々が抱える健康問題の背景にある社会の問題を察知し、原因を探索して根本的な解決を図っていく、いわば「社会を看護する仕事」です。病院が「迎え入れる医療」であるとすれば、保健所は「向かっていく医療」であるといえます。地域で生活する乳幼児から高齢者、健康な人から病気や障がいを抱える人など、あらゆる人々と地域全体の健康のため、対象や地域に応じた方法で展開されます。具体的には、対象となる個人や家族への家庭訪問や健康相談、集団への健診・検診や健康教育、地域の組織の育成等が挙げられますが、これらの活動は保健師自身が地域に出向き、地域に根ざして展開される活動です。保健師はそのような活動を通して豊かなソーシャルキャピタル(住民や組織どうしがつながり、地域に根ざした信頼やネット―ワークなどの社会関係)の醸成を図ることにも役割を担っています。          35ページ

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 横山論文は「医療の社会的位置づけの根本的転換」を唱え、それは「医療を個別的利益のための手段(提供者・利用者も)から社会的共同利益の保障基盤へと転換させる」ことであり(2324ページ)、新自由主義的医療観からコモンとしての医療観への転換と換言することもできます。そうすると、小松論文の描いている保健所像はすでにコモンとしての保健・医療の要に位置するものであると言えます。逆に言えば保健所の本質がそうであるからこそ、新自由主義政策の下では大幅な削減を余儀なくされたのでしょう。であるならば、それまで世論的に無関心に放置されてきた保健所がコロナ禍の下で脚光を浴びている状況は、それを基軸として、保健・医療の社会的位置づけの根本的転換を図るきっかけとすることが可能だと言えます。

 小松論文によれば、コロナ禍での保健所の仕事の終了が深夜1時で、帰宅したら2時という状況が連日連夜続きました。その業務内容として、@電話相談対応・受診調整、A検体搬送、B入院・宿泊療養・自宅療養の調整、C患者搬送、D積極的疫学調査、を始めとして15業務にも上ります。これに対して、吉村知事の「維新」大阪府政は「保健所に対する意見聴取は一切なく、保健所現場が必要としないシステム等を次々と投入し、一層混乱を招き業務はさらに厖大化していきました」(35ページ)。

このひどい逆境には前史があります。もともと国政全体での新自由主義路線の下で、公務員バッシングの風潮がありましたが、2008年に橋下大阪府知事が誕生してからは一層激しくなり、公務員・労働組合と住民との分断が進められました。公務員労働者は声をあげられないような状況に追い込まれていたのです。しかしコロナ禍下での深刻な労働実態に際して、労働組合が立ち上がり、「保健師、保健所職員増やして」キャンペーンを20209月からスタートさせ、多くの署名を集め、メディアでも注目され、現場職員を大いに励ましました。論文は「世論が動く、力関係が変わる瞬間を感じたような気もしています」と評し以下のように続けています(38ページ)。

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 これまで「公務員だから仕方がない」というあきらめが、「公務員だからこそ声をあげる」大切さの実感へと変わっています。それは、現場の第一線で住民のくらしに寄り添っているからこそできることではないかと思います。この「声」こそがトップダウンや時の権力者に対抗できる大きな原動力になると感じています。

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 この背景としては、コロナ禍での現場のひっ迫が、公務員労働者たちに、バッシングと「維新」政治への恐怖を乗り越えて声をあげさせた、ということがあるでしょう。それだけでなく、住民に寄り添う現場公務員の矜持、とりわけコモンとしての保健・医療の担い手としての自覚がより高まってきたということもあるでしょう。

 

4)コロナ禍対策における政治の本気度の対照性

 

 大阪はコロナ感染の死亡者数が東京を上回り、ワクチン接種率は全国最低水準、業者への協力金支給も非常に遅れています(「しんぶん赤旗」530日付「潮流」)。教育分野でのコロナ対応では、大阪市立小中学校の学習を「自宅オンラインが基本」と決めた判断について「学校現場は混乱を極めた」として、市立小学校の現職校長が実名で市長を批判しています(「朝日」デジタル、520日付)。大阪の「維新」府市政は、新自由主義政策によって公共性を破壊し、それによって増長されたコロナ禍に対しては、「やってる感」演出の場当たり的施策に終始してまったく破綻しています。無責任の極みと言えましょう。ファシスト的新自由主義者集団「維新」の野蛮な行政支配を打ち破らねばなりません。

 国政も「維新」に負けずひどいものです。「政府高官」たちの心中を推察し、その現実的意味を明らかにして的確なのが神里達博氏のコラムです。――(月刊安心新聞plus)国産ワクチンない日本 「国家」を合理的に使い倒せ、「朝日」423日付

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おそらく最大の問題は、責任ある立場の人たちが、この危機をできるだけ「自然現象」として処理したいと考えていることではないか。つまり「仕方が無かった」と言いたいのだ。だが、冒頭で触れた通り、今回の第4波は予想し得たものだ。また、十分な国力があり、諸外国と比べても感染者数が顕著に多いわけでもないのに、発生から1年以上が経った今、医療崩壊が起こるというのは、国の総合的なマネジメントに問題があるとしか言いようがない。

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 笑ってる場合ではないし、絶望する必要もありません。自民党政府や「維新」の無策・無責任はもちろん日本政治の宿命ではなく、まじめに先進的にやっているところもあります。中村重美氏(世田谷自治体問題研究所事務局長)「世田谷区のPCR・社会的検査での区政の動向 新型コロナ感染から命とくらしを守るのは自治体の最優先課題を読めば、無策・無責任の政府と本気の自治体との対照的姿が鮮明になります。積極的なPCR・社会的検査によってクラスターの防止を図る「世田谷モデル」を見ると、新自由主義政策によって、保健所を統廃合し、医療機関・病床・医療スタッフを削減した結果としての体制的弱体化によって検査に消極的になった政府との対比において、政治姿勢の違いの重要性が痛感されます。現状を生み出したそうした根源的姿勢の問題だけでなく、ひどい現実を前にして、「仕方が無かった」で済ませるのか、その打開に向け本気で取り組むのか、という真摯さの水準が違うとも言えます。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は日本では2020116日に確認されました(杉山正隆氏の「新型コロナウイルス ワクチン接種でみえる日本の課題 リスクも正しく理解し、ウイルスを乗り越える57ページ)。世田谷区は早くも127日に対策本部を立ち上げ、全庁で対応する体制を図ってきました(中村論文、28ページ)。この一点でも本気度が伝わります。国はコロナ以前の20199月に全国440の公立・公的病院の統廃合を打ち出しましたが現在も撤回されず、消費税を財源に推進しようとしています。東京都もまた都立病院・公社病院を採算優先の地方独立行政法人に一括移行させる方針を20331日(!)に決定しました。このように根本姿勢においてコロナ禍対策に逆行する国と都とは対照的に世田谷区は以下の方針を貫いています(同前)。

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世田谷区では、PCR検査の調整などの対応に追われる中、検査の拡充、庁内体制の整備、区民のくらしや事業の支援などの構築を図りながら、国・厚労省に対して検査の抜本的拡充や財政保障を繰り返し求めてきた。仮に国の動きが遅々としていようとも、財源捻出を含め、区独自に対応を図ろうと打ち出されたのがいわゆる「世田谷モデル」といえる。

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 コロナ禍による経済的打撃で、区の財源不足は確実ですが、それでも区民の生活を第一に、事務事業等の区行政の見直しで乗り切るという方針も出しています(同前)。感染防止のため区独自の検査拡充の対応を進めながら、国・都にも対応を求める中で、国・都を動かしつつあります(3132ページ)。住民本位の自治体の方針と施策が、国政を含めて政治変革を進めていく姿がここにあります。

 

5)ケア・エッセンシャルワークの本質・現状・展望

 

林泰則氏(全日本民主医療機関連合会事務局次長)「介護―コロナで浮き彫りになった現実と課題はケアとエッセンシャルワークの重要性とそれに反する介護従事者への社会的冷遇という、問題の本質をまず指摘しています。その上で、コロナ禍の下での介護事業所・従事者の困難を描き出し、介護保険の問題点を剔抉し、「生産性の向上」と「介護の科学化」という間違った「介護現場の革新」を批判し、「まっとうな社会保険」への転換を打ち出しています。

澤村直氏(全国福祉保育労働組合書記長)「社会福祉事業 福祉・保育の現状と労働条件の改善も、コロナ禍によって浮き彫りになった、エッセンシャルワーカーとしての「福祉労働者の重要で公共的な役割と労働環境との大きなギャップ」(50ページ)を描いています。まず彼らには、「その人の生活丸ごとを抱えた支援をおこなうケアワーカーとしての役割」と「課題を社会的に解決していくソーシャルワーカーとしての役割」とが求められます(51ページ)。そこには経験と研修に裏付けられた知識や技術を生かす専門性が必要であり、それを維持し向上させるのにふさわしい賃金と労働条件が確保されねばなりません。それは国の義務と言えます。ところが現実の労働条件はもともと劣悪で慢性的な人手不足であり、コロナ禍による悪化で顕在化しました。国の「改善策」は格差と分断を持ち込む賃金加算・事業所加算とか、人員体制や資格基準の緩和など、労働者の処遇改善と人々の福祉要求に逆行する内容となっています(5455ページ)。今こそ福祉労働の公共的性格と人々の福祉要求の実現のため、「福祉労働者の社会的地位の向上を国民的課題として論議し、国に社会福祉政策の転換を迫るべきで」す(56ページ)。

小松論文が保健所の役割と保健師の労働の本質的解明から始まったのと同じく、林論文と澤村論文も、それぞれ介護と福祉の役割・社会的意義、その担い手としての労働者の公共的性格から説き起こしています。コロナ禍の下での困難性がまず注目される中でも、それぞれの仕事・労働の本質的意義から出発し、エッセンシャルワークの困難性と社会的意義を気高く叙述していることは極めて重要です。時間が足りなくて、両論文に簡単に触れただけなのは残念でした。

 

 

          学術破壊の風景

 

山本健慈さんに聞く「日本の学術と大学教育に希望ある未来を」によれば、高等教育行政について、文科省は当事者性を失う状況になっています。内閣府に設置される「重要政策に関する会議」の一つである総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の支配のもとに国立大学の政策が集約される体制が完成しつつあるというのです(79ページ)。このCSTIの唯一の常勤議員であり、関連諸会議の座長も務めるのが上山隆大氏です。日本学術会議の会員任命拒否にあった加藤陽子氏がこの上山氏を批判している、と山本氏が紹介しています。日本近代史の研究者らしく加藤氏は、上山氏の思考様式をたどってみた結論として、現状について、政治の側が科学の側に原理的対決を迫る事態だとして、その先に戦艦大和の愚策と「悲劇」が繰り返されることを危惧しています(81ページ)。山本氏は「軍事研究費も大学を支える外部資金のひとつだと認識している上山氏が、菅政権のCSTIの常勤議員として、日本学術会議問題や文部科学行政に絶大な影響力を発揮していることは、十分認識しておいていいと思います」(82ページ)と警告しています。

 この指摘が念頭にあったので、「学術会議のあり方、議論開始」という記事「朝日」夕刊521日付に目がとまりました。「政府の総合科学技術・イノベーション会議の有識者議員懇談会は20日、日本学術会議のあり方を議論する初会合(座長=上山隆大・元政策研究大学院大副学長)を開いた。今後、学術会議の設置形態や会員の選考方法などについて月1回ほどの頻度で議論する」というのです。この日は、学術会議の梶田隆章会長が、4月に「現在の形態がふさわしい」とまとめた報告書について説明したのに対して、他から厳しい批判が出ました。「一方、菅義偉首相が会員候補6人を任命しなかった問題について、上山氏は『任命問題は議論の対象としない』とした」ともあります。何だかとてもひどい、危惧される状況です。

 524日には高橋洋一内閣官房参与が辞職しました。ツイッターで新型コロナウイルスの感染拡大の現状を「さざ波」、緊急事態宣言を「屁みたいなもの」と表現して批判を浴びた末のことです。この高橋氏のような不見識極まりない人物や、上山氏のように軍事研究費を大学に推奨する人物などをブレーンに据え、逆に、加藤陽子氏始め、業績に申し分なく見識ある研究者6人の学術会議会員への任命を拒否したのが安倍=菅政権です。安倍=菅政権が無為・無策・逆行によってコロナ禍の拡大と医療崩壊をもたらしたのは、この反知性主義的かつ独裁的な体質の当然の帰結であろうと思われます。国立感染症研究所の機能縮小のような年来の新自由主義政策に加え、コロナ禍対策においても、専門家の意見より、政権と癒着した企業の利益や五輪を優先するかに見える施策にそれは現われています。

 

 

          日本の社会進歩を阻害するもの

 

 総務省「家計調査」によると、2020年の2人以上の勤労者世帯における家計の実収入は、比較可能な2000年以来、最高額で609535円になりました(「しんぶん赤旗」520日付「目でみる経済 配偶者の収入 急増するが」)。これはずいぶん多いと思いました。もっとも、ボーナスも含めた年間の世帯収入を12で割ったものだし、昨年は110万円の特別定額給付金もあったので、そんなものかとも思いました。ネットで「家計調査」を見ると、前年比で名目・実質とも4.0%増で、可処分所得についても4.6%増とあります。

 記事はそういう短期視点ではなく、2000年との比較を中心に書かれています。日本資本主義の長期停滞下で家計はどうなっているのかを見ていると言えましょう。そこでは、世帯主収入の減少と配偶者収入の急増、社会保険料の大幅増が特徴的です。労働規制緩和による雇用の不安定化と労働運動の弱体化による賃金下落、福祉切り捨て政策の一環としての社会保険料負担増、つまり政府の悪政と資本主義的搾取強化で苦境に立つ勤労者世帯が配偶者収入の増加によってやっと息をつないでいる、という構図が見えます。

 これは一面では、近年のジェンダー問題の顕在化の一因でしょう。女性へのしわ寄せに対して黙ってはいられない(「わきまえない女」)という声が噴出してくるわけです。しかし他面では、悪政と搾取強化に対して、個人・家族の自助努力でなんとか耐えて日々をやり過ごしている姿を現してもいます。政治変革という展望が持てないからそうなっているとも言えるし、人々のそういう習性が強固にある社会だからこそ、政治変革が初めから視野に入らず、遠ざけられているとも言えます。

 もともと、国や自治体あるいは会社など諸々の組織に問題を求めず、自分が我慢するという心性が強いのが日本社会の特徴です。そこに「独立・自由・平等」の市民社会が輸入されると、個人の尊重が軽視されたままに、個人責任だけを負わされる独自の強固な自己責任論が成立するように思います。前近代と近代の悪しき結合です(*注)。そうではなく、個人の尊重を前提に、社会的責任を導入する、つまり人権原理の近代性と現代性との良い結合が求められ、これは日本国憲法の立場なのですが、日本社会の現実はなかなかそうなっていません。

 もう一つ、アメリカへの従属は当たり前で、沖縄を始め在日米軍の傍若無人の所業――超低空飛行、墜落・落下事故、性暴力等々――に対しても政府は言いなりで大衆的抗議が高まるわけでもないという問題。他方では中国や韓国などアジア諸国への蔑視を底流とするバッシングでうっぷんを晴らす傾向も顕著です。卑屈な対米従属と傲慢なアジア蔑視との共存する歪んだナショナリズムもこの国の空気としてあります。

 独自の強固な自己責任論と歪んだナショナリズムは、人々の自己意識と対外意識として、政権にとっては内外両側面から、悪政を看過し免罪してもらえるありがたいイデオロギーです。安倍=菅政権が戦後最悪にもかかわらず最長であるというパラドクスの原因の一つがここにあるように思います。

 もちろん悪政看過イデオロギーは無人の野を快走できるばかりではありません。まず日本国憲法という天敵があります。それは個人の尊重を始めとする基本的人権と平和・独立を高らかにうたっています。先述のように、確かに日本社会の現実はそれとは乖離しています。しかし憲法への敬意はある程度定着してもいます。それ故、日本社会の現状と人々の意識との先を行くこの憲法は「現実に合わせて変えよ」という後ろ向きの改憲攻撃によく耐えて今日まで持ちこたえ、逆にそれを活用し実現することで現実を変革する基準として屹立しています。

 実は憲法が先にあるわけではなくて、人々の生活と労働がまずあり、不断に来るそれへの攻撃を防ぎ、逆によりよく実現するという願いと活動があります。その闘いの武器として憲法があります。最近のその顕著な例として入管法改悪阻止の闘いが挙げられます。

 「天声人語」522日付は今日の入管行政を戦前の特高警察との連続性において批判しています。「日本の中に人権の空白地帯があり、放置されてきた」と。その象徴として、スリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんの死に言及されています。まさに殺されたに等しいような非人道的取扱いの犠牲者です。その衝撃が日本社会を揺るがし菅政権を動かして、入管法の改悪案は廃案となりました。外国人、アジア人の問題でありながら、世論に衝撃を与え、政府も無視できなくなるほどだったことが重要です。人権の普遍性が歪んだナショナリズムに打ち勝ったのです。もちろんウィシュマさんの問題自身は何も解決していないし、人権無視の入管行政もそのままです。しかし初めてそこに焦点が当たった意義は大きいと思います。

 「せやろがいおじさん」こと榎森耕助さんはこう語っています(「しんぶん赤旗」日曜版523日付)。

 「実際に当事者の方の話を聞くと、人権や尊厳を頭だけでなく体でも理解できる気がします」

 「人権は理屈じゃない。人が理不尽に虐げられていたら、それだけであかん。空気がない場所があったらやばいように、人権がない場所があったら『そんな所で生きられへんやろ』てならなあかん、と思います。自分が当事者だったらと想像することも大事ですが、自分が当事者ではなくても声を上げられるかどうか。そういう点で、人権をさらに抑圧する入管法『改正』案は、日本人の人権意識が問われると思います」

 今回、当事者性を超えて日本人はこの試験に合格しました。ここには、自己責任論を導き出す個別分断性を克服する方向性も見えてきます。その意味では、入管法の問題は、自己責任論と歪んだナショナリズムとの交点に位置するともいえ、今回の勝利は菅政権への打撃にとどまらず、日本における社会進歩という深みで意義が大きいと思います。コロナ禍という前代未聞の特殊情勢の中で、生活と労働、そして政治を見る人々の目がどうなっていくか、どう働きかけたらいいのか、大問題ですが、そこに一つの明るい光が見出されたように思います。

(*注)個々人の抱える問題の多くは、実は社会問題であるのですが、「独立・自由・平等」の市場経済を基礎とし、原理的に搾取が見えない資本主義社会(領有法則の転回)においては、あくまで諸個人の問題として現象します。これが近代の問題です。そこに、個人の尊重の未確立・集団への埋没・組織優先といった前近代の問題が重なると、社会問題が個人責任に解消され、しかも組織・集団の都合で個人がつぶされるのが当たり前という最悪の強力な自己責任論が成立します。

 

 

          断想メモ

 

 たまたまコロナ禍の時期と重なるのですが、この1年余り、仕事と活動を縮小し自由時間を拡大して、好きなように勉強したいと思ってきました。還暦も過ぎているのだから許されてもいいだろう、と。もっとも、今日ではそんなこと許されないのが多数派でしょうが…。

 しかし勉強はなかなかはかどりません。若いころの勉強不足で基本的知識が少なく、物事の理解力が足りないし、もともと複雑な思考が苦手な上に、記憶力が圧倒的に落ちています。多少なりともそれを補うものとして、活動上で学習会のレポーターを務めると、レジュメ作りで対象論文などへの理解が深まることはよく経験します。この感想文を書くときなどの個人的勉強でも対象論文をレジュメにまとめることができればいいのですが、時間が足りないので、ほとんどそこまではやってられません。

情勢への興味だけは旺盛なので、かつてなく新聞は読んでいます。アナログ人間なので、SNSはやってないし、ネットもあまり見ません。結局以前より時間の余裕ができた分は新聞読みに費やされ、外出しない日でも午前中はつぶれるという始末です。雑誌や書籍はなかなか読めません。現実感覚を大切に思いながらも、目前の情勢だけにとらわれ過ぎないで、経済理論などへの取り組みを忘れないようにしたい、というところだろうか…。

                                2021年5月31日



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