月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2020年7月号〜12月号)

                                                                                                                                                                                   


2020年7月号

          グローバル・サプライチェーンと労働者階級の闘い

 長田華子氏の「日本経済を読み解くキーワードFグローバル・サプライチェーン」は、よく目にし、何となく使ってしまうこの言葉を、簡潔に定義し、その含意・背景・特徴を2ページで的確に説明しています。その定義は「グローバリゼーションの進展に伴い、実施主体である多国籍企業が企業戦略にもとづき、一連の工程を多国間にまたがって最適な場所に配置し、実行すること」(98ページ)です。それは新国際分業の出現によって成立します。「新国際分業体制の下では、従来先進工業国に集中していた工業製品の生産が途上諸国に移転、再配置されることにより、途上諸国で世界市場向け工業製品を生産することが可能にな」りました(同前)。

 その上で新国際分業の三つの成立条件が示されます。それは、「@世界的規模での潜在的労働力の貯水池が形成されたこと、A技術と労働組織の改編により、一連の生産工程を非熟練労働者でも担えるような単位工程に分割可能になったこと、B運輸・通信・データ処理の技術により地理的距離に影響されずに工業生産の立地を配置し、経営可能になったこと」です(同前)。

 さらにサプライチェーンの類型と特徴が示されます。立地場所(国内/国外)と統治形態(自社内製/外注)に基づいて、<(1)海外内製=外国直接投資、(2)海外外注、(3)国内外注、(4)国内内製>4つに分類されます(99ページ)。グローバル・サプライチェーンは(1)と(2)であり、(1)は多国籍企業による直接投資で、(2)は国境をまたいだ外注の形態です。(1)には生産者牽引型(資本・技術集約的な)産業、(2)には購買者牽引型(労働集約的な消費財)産業の多くが該当します。

 長田氏は特に労働集約的な購買者牽引型産業に注意を促しています。そこでは「業務発注側と受注側には資本提携関係はなく、受注側は常に発注側の『移り気』な契約に左右される。途上諸国の生産網は何層もの下請け構造を形成し、中小零細工場、家内工場、そして家内労働者(多くが女性)と続く。先進国の販売業者や小売業者は消費者の選好に合わせて商品を企画し、途上諸国の生産地に発注するが、その納品価格や納期のしわ寄せは、下請け構造の下層になるほど強まる。購買者牽引型の最も究極な商品形態の一つがファストファッションである」(同前)ということになります。

 すると「海外外注」の購買者牽引型産業の消費財生産においては特に、先進国の消費者と途上国の労働者との利益が非常に鋭く対立し、前者が後者を搾取しているかのようにさえ見えますが、やはり真の対立点はグローバルな資本と労働者・人民との間にあるというべきでしょう。新国際分業の成立により、途上国の低賃金労働の活用が拡大するのを起点として以下のような循環が形成されます。

 途上国の低賃金労働の活用→先進国の産業空洞化、労働者の低賃金化

→途上国の低価格商品への需要増→途上国の低賃金労働のいっそうの拡大→ ……

 この循環において、先進国の消費者(その多くは労働者)が選好を充たし、安価な消費財を得られるにしても、労働者としては失業と不安定雇用の恐怖におびえながら、低賃金に縛りつけられます。結局全体としては、「労働力の価値の低下」ないしは「労働力の価値以下への賃金の低下」による剰余価値の増大に帰結し、これはグローバル資本にとっては好循環であり、労働者・人民にとっては悪循環です。一般論としては、労働力の価値が下がっても、実質賃金(購入できる消費財の使用価値量で測った賃金)が下がらない、したがって労働者の生活水準が下がらないことはあり得ます。しかし新自由主義グローバリゼーション下で先進国労働者に実際に起こっているのは、消費財の価値の低下に応じた「労働力の価値の低下」だけでなく、失業・不安定雇用の増加や労働運動の力量の低下による「労働力の価値以下への賃金の低下」であり、生活水準は下がり、悪循環に組み込まれています。上記の新国際分業の三つの成立条件が示していることは、途上国の低賃金労働をグローバル資本が自由に利用できること、つまり搾取基盤の拡張による資本蓄積の増進(経済成長)でしょう。グローバル・サプライチェーンにおいて、グローバル資本にとっての生産の「最適配置」は、剰余価値の際限ない強搾取を目的とする以上、世界人民にとっての労働の「最悪配置」となります。そこから脱出するには、グローバル資本への民主的規制を利かせて、途上国の労働条件を改善し、先進国の産業空洞化と労働条件悪化を防ぐ必要があります。

グローバル・サプライチェーンの形成そのものは歴史貫通的意味で必然ですが、それが新自由主義的実現形態をとること自体は、将来にわたる唯一の道ではありません。オルタナティヴはあり得、またそれへの進化こそが必然です。グローバル資本の支配下でグローバル・サプライチェーンの形成が始まった以上、それがまず新自由主義的形態をとることは必然です。その下では、途上国の劣悪な労働条件の活用が先導して、先進資本主義国の産業空洞化と雇用劣化、格差・貧困の拡大、福祉国家の破壊が生じます。それへの労働者・人民の反撃は、反グローバリズム(反生産力主義)によるグローバル・サプライチェーンへの敵対(トランプは米労働者階級に向けてそう扇動して大統領の座を得た)ではなく、グローバル資本への規制によるグローバル・サプライチェーンの民主的刷新(生産関係への人民的介入)とでもいうべきものでしょう。ただし資本主義の原理の貫徹が今日の姿を招いたことを思えば、それが容易ではなく、根本的解決は社会主義的変革によることは明らかでしょう。

そうすると「グローバル・サプライチェーンに携わるすべての労働者の人権を保障することは、持続可能なグローバル・サプライチェーンの構築において不可欠であり、そのためには政府や企業そして消費者をはじめとするあらゆる当事者の責任ある行動がカギを握る」(同前)という長田氏の結論は微温的な印象を受けます。消費者にも責任があり、たとえばそれを負う運動としてフェアトレードがすぐ思い浮かびます。それ自身はもちろん有意義ですが、政府や企業と並列された「責任ある行動」と位置付けられるとミスリーディングではないかという気がします。問題の根本は、グローバル資本とその利益を代表している各国政府にあり、「政府や企業」の行動をどう変えるかがまず問われねばなりません。

もっとも、「グローバル資本への民主的規制」とか「根本的には社会主義的変革」とか言うだけでは空虚なスローガンなので、まずは具体的に現状をどう変えるのかを追求する必要があります。上記の「労働者の人権を保障する」「持続可能なグローバル・サプライチェーンの構築」という表現が意味するのは、おそらく現状の新自由主義的形態におけるそれは労働者の人権を侵害し持続不可能だ、という問題意識であり、それに代わる形態を求めるということでしょう。そうした探求の一つとして「国際労働基準を労働組合活動、運動に生かす」ことを打ち出しているのが、電機・情報ユニオン委員長の米田徳治氏の「電機情報産業での大リストラ攻撃と人権・尊厳を守る闘い 大企業職場における労働組合活動の前進と職場の自由と民主主義の確立めざしてです。

 論文は、各職場における闘争の迫真の状況を描きながら、「電機・情報ユニオンは、電機大企業が行っているリストラ策の攻撃の特徴は人権侵害そのものであるだけに、国際的な成果である国際労働基準の順守を求めて活動と運動を強めていくことにしている」(115ページ)と方針を打ち出しています。そして国際的に承認された原則として、「国連グローバル・コンパクト10原則」、「社会的責任国際規格ISO26000」、「国連・ビジネスと人権に関する指導原則」を紹介しています。「国連・ビジネスと人権に関する指導原則」は国家の義務・企業の責任・実効的な救済手段の容易化について「国家は国際人権体制のまさに中核にあるが故に、国家には保護するという義務がある。人権に関して社会がビジネスに対して持つ基礎的な期待の故に、企業には尊重するという責任がある。そして細心の注意を払ってもすべての侵害を防止することは出来ないが故に、救済への途が開かれている」と説明しています(117ページ)。経団連も人権尊重を強調していますが、実際の個々の企業に人権侵害の事実を突き付けても、開き直っているのが実態であり、「企業の身勝手なリストラ策に対抗し、国際労働基準に沿った労働基準を求める活動は決定的で」す(同前)。

 最近たまたま知人から、三菱電機を批判した電機・情報ユニオンのビラを入手しました。それによれば、2009年の派遣切りに対する、あるシングルマザーの三菱電機への訴えはその後、最高裁で棄却されましたが、三菱電機の偽装請負と派遣法違反、労働契約にない仕事をさせていたこと、契約にない有機溶剤を使用した作業をさせていたことなどが明らかになりました。この成果を足場に、女性は裁判終結後も謝罪を求めていますが、三菱電機は団体交渉を拒否し、要請に対しても敷地外に立たせたままの不誠実な対応をしています。電機大企業も認めているはずの国際労働基準や経団連も掲げるCSR(企業の社会的責任)に照らしてあり得ないこの状況に対して、電機・情報ユニオンは粘り強く闘いを続けています。

このビラには三菱株主総会での質問(予定)が列挙されており、その項目は次の通りです。――「相次ぐ自殺など労働問題」、「新型コロナ禍での対策」、「女性が活躍できる企業に」、「倫理・遵法の取組」、「武器輸出に関して」、「パートタイム・有期雇用労働法の改正・施行について」、「無期転換ルールについて」、「2009年派遣切り問題について」――以上、実際には時間的制約でわずかな項目しか質問できないと思われますが、まさに企業活動の総合的点検となっており、資本への民主的規制の具体化としての株主総会の活用例と言えます(*注)

 論文ではルネサス・NEC・東芝・日立などのあまりにひどいリストラ攻撃の実態が告発されており、CSRの遵守というのがタテマエに過ぎず、「電機情報産業をはじめ日本の大企業職場にとって労働組合活動と運動が極端な形で資本・企業の側に押さえ込まれている」(119ページ)状況が分かります。その厳しさの中でも原則的・階級的労働組合が一条の光となっていることも描かれています。それだけに、確立された国際労働基準とILOの存在は大きく、その大義を背景とし、職場労働者の要求に基づいて、適正な労働基準と人権を実現させる労働組合運動の強化が求められ、上記の三菱電機での闘いもその創造的一貫として捉えられます。

 一方で、国際労働基準と人権の観点が、日本の厳しい労資関係の中で闘いへの確信を強化するものとすれば、他方で、運動の展望を開くものとして、労働運動の立場からの産業政策があります。論文は、「人々が幸福に暮らせる豊かな社会づくりに貢献する産業政策」として、「産業本来の役割を実現する方法を追求することを労働者の視点からつく」った電機産業政策を以下のように紹介しています(119ページ)。

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 @雇用と地域経済を守り、人々に社会参加の機会と生活を支える手段を確保する。

A人と技術を大切にして、多様な個人がやりがいを持って能力を発揮できる労働環境を構築する。

B平和産業に注力し、原発ゼロを推進して、私たちの仕事を通じて、平和で豊かな環境をつくる。

C国際労働基準を遵守して、グローバルなルールに則り、人権と産業の発展を両立する。

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 これは労働者と社会の観点からの産業政策として核心をおさえており、今後、労働組合運動として前面に掲げていけるものだと思います。ただしその他に、日本の電機情報産業の抱える問題を直視する必要もあります。それがかつては世界に向かって日本の圧倒的なリーディング産業であったものが今日では凋落しているという現実です。各企業で吹き荒れる異常なリストラ攻撃は、資本の側からすれば、それへの必然的対処法と捉えられているでしょう。ここには、産業凋落に「対処する」資本側のリストラ策と対決して、オルタナティヴ――国際労働基準・人権と産業の発展の両立――を提起するという、労働運動にとってははなはだ難しい課題があると言えます。

 論文は、第一節において、経営指標から電機情報産業の現状を分析しており、その最後の部分で電機情報産業の国際競争力を見ています。海外との輸出競争力を表す貿易特化指数が、他の製造業の自動車・鉄鋼・一般機械も低下していますが、電機情報産業ははるかに顕著に下落しています(図4105ページ)。何とも気がかりな現状分析の結論です。国際競争力の低下をどう捉えるか。それに囚われない何か別コースがあるのかもしれませんがよくわからないので、以下では常識的に由々しき問題、克服すべき対象として捉えます。

 電機情報産業の現状を厳しく分析し峻烈に批判しているのが、坂本雅子氏の「空洞化・属国化の克服と新たな資本主義の模索を」<上>です。坂本氏によれば日本経済衰退の最大要因は産業空洞化であり、GDP衰退の真因は製造業の衰退です。製造業の中でも、「特に電気機械(電子機器を含む)の減少が顕著であ」り「91年の21兆円から14年には12兆円になってしまった」のです(125ページ)。197080年代には技術力で世界をリードした日本の電機情報産業は今日では「自社の海外工場に生産を移転しただけでなく、次第にあらゆる電子工業製品で委託生産に走った」(127ページ)という状況です。委託生産とは自社ブランド名だけつけて生産を外国企業に丸投げするやり方です。また国内工場をリストラされた技術者がアジア企業に移って「委託生産進行の中で日本企業は技術・生産とも衰退し」ました(同前)。世界における日本品のシェアが、2010年から17年までに委託生産を含めても電子工業全体で25%から14%に激減し、「日本の電子工業は全崩壊過程に入った」(同前)と評価されています。対照的に中国・台湾などのアジア企業が急成長し、半導体・パソコン・有機ELパネルなどで日本企業は消滅過程に入っています(128ページ)。そこで原発輸出を成長戦略の目玉とし、それがあだとなって東芝が一時経営危機に陥ったことは周知のとおりです。坂本氏の総括は以下のように厳しい。

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 日本の電機企業は、目先の利益を求めて技術流出と一体になった生産の海外移転や委託生産に走り続け、先行投資を怠り、技術的にも衰弱し、果ては国家の金と後ろ盾をあてにした商売に走り、あげく崩壊過程をたどろうとしている。それはものづくりを捨てた企業と国の行く末を暗示するかのようである。     129ページ

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 電機情報産業の復活のためにはこの逆に、海外移転や委託生産を抑え、技術(者)を大切に、先行投資し、ものづくりの本道に戻るということでしょうか。ものづくり復活の展望を考えるには、藤田実氏などが今日の先端的生産技術のあり方について分析しているので、そうした論稿も参考にすべきかと思います。

ここで米田論文の電機情報産業の現状分析に戻ると(100105ページ)、1998年度から2018年度の20年間で、企業数・従業員数・売上高は顕著に減少しています。ところが営業利益は、ITバブルとその破裂、リーマンショックを経て浮沈を繰り返しつつも、2.39倍になっています。以下、資本金10億円以上の企業で見ると、内部留保は1.34倍、設備投資は13.4%減り、人件費は23.0%減っており、一人当たり売上高は1.22倍で、一人当たり営業利益は何と3.5倍であり、一人当たり内部留保は2235万円から4405万円へ、1.97倍になっています。「資本金10億円以上の企業であるが、毎月賃金を3万円程度引き上げても十分補うことができる財源を留保している」(104ページ)という状況です。

 全体的には要するに、企業数・従業員数・売上高・設備投資の減少に見るように、電機情報産業そのものが縮小再生産過程に入っており、その中で人件費削減などリストラ策によって、営業利益と内部留保を相当に確保しています。産業全体の社会的役割と未来を犠牲にして当面の利潤を追求している姿がくっきりと浮かび上がります。そうすると、坂本氏はもっぱら産業としての生産と技術の衰退を見ているのでひたすら厳しい評価しかないのですが、米田氏の経営分析では、労働者を犠牲にしたリストラの「成果」として、企業の体力があることは明らかです。嘆くべき姿であっても、それがとにかく現状なのでそこを起点とするほかありません。リストラ策に依存して産業の未来を描けない資本に対して、労働者の立場から上記の電機情報産業政策を高く掲げ、最先端技術の活用のあり方を含めて、企業の体力が健全なものづくりの復活に資するよう、まともな経営方針に転換させることが求められます。その中で、国際労働基準と人権の尊重に向け、グローバル競争をどう規制していくか、すべてのステークホルダーに問われていますが、とりわけ労働運動がその起点としての役割を果たすべきでしょう。適当に言葉が上滑りしている感じではありますが、そのようにまとめたいと思います。

 

(*注)626日開かれた三菱電機の株主総会について、翌日付の「朝日」が以下のように報道しています。

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 社員の労働問題や自殺が相次ぐ三菱電機。26日に東京都内で開かれた総会への来場自粛を呼びかけていたが、ある女性株主は名古屋から会場を訪れた。

 1月に再発防止策を発表し、杉山武史社長ら関係者が報酬の一部の自主返納を決めたが、説明不足だと感じていた。総会では労務問題への声が相次ぎ、女性も質問。「株主の疑問を直接聞いてもらえるのは年に1回の株主総会だけ。満足いく回答ではなく、コロナも怖いが、顔を見て意見が言えたので会場に来た意味はあった」と話した。

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 この株主が知り合いなので、様子をメールで尋ねました。彼女が労務管理を厳しく問いただしたところ、他にも2人の株主が後押しをする意見を述べるなど、「発言した6人中4人が、三菱の企業体質を問う内容でした。経営陣にはそれなりのインパクトがあったと思います」と返信がありました。

 また同日、電機・情報ユニオンと全労連・全国一般労働組合名古屋北部青年ユニオンなどは、2009年の三菱電機名古屋製作所の「派遣切り」について、偽装請負と期間越えの違法などを認めた確定判決に基づき愛知労働局を指導し早期に争議を解決するよう厚労省に要請しました(「しんぶん赤旗」627日付)。同記事によれば、電機・情報ユニオンの米田徳治委員長は「リーマン・ショックの派遣切りでどう対応したのか明らかにしなければ、今回のコロナ危機での大量解雇にも歯止めがかけられない」と指摘し、情報公開と速やかな是正指導を求めました。

 この交渉についても参加者にメールして聞きました。参加者は、「厚労省(本省および愛知労働局)の問題点をきちんと指摘して、改善を求め、本省に『判断をしているのは愛知労働局なので、要請の内容は伝える』と言わせたという」意味では「それなりに形になっていた」として、要請行動の意義を評価されていました。

 このようにコロナ禍の下での困難な状況においても、株主総会と省庁交渉を連続して実施すること、またそれをメディアによって世論に訴えることも資本への民主的規制の重要な一環だと言えます。

 

 

          子どもと教育を捉える

名古屋北法律事務所の友の会「暮らしと法律を結ぶホウネット」(以下、ホウネット)では、小中学生の学習支援や子ども食堂などに取り組んでいます。それらは反貧困の社会運動や地域を変える活動の一環です。そこでは、困難を抱える子どもたちを具体的に支援するとともに、地域の子どもたちの状況を広く深く捉える視点が求められます。

 学習支援は、困窮者自立支援法に基づく国の事業で、中学生を対象に名古屋市が実施主体となり、諸団体が受託して各地で行なわれています。北区での受託組織の一つが北医療生協であり「寺子屋学習塾」と称して3会場で実施しており、ホウネットはサポーターを派遣しています。参加するのは生活保護家庭とひとり親家庭の生徒であり、行政を通じて募集されます。寺子屋学習塾の卒業生の高校生も「居場所」として参加できます。この生徒たちはまさに支援を必要とし希望している子たちだという意味でははっきりしています。その他に、小学生からの支援が重要だということで、これは行政ルートとは別に、自前のつながりを通じて困難な家庭の子どもたちを集めて支援を独自に実施しています。このように学習支援においては、明確に貧困家庭や困難を抱えた子どもたちが対象となっています。ただし必要のある子どもたちがすべて応募しているのか、という問題はあります。

 それに対して子ども食堂はそれぞれ違いがありますが、広く地域一般に開かれ、貧困対策を前面に掲げてはいないケースが多いと思われます。ホウネットの参加している「わいわい子ども食堂」は、北医療生協と名北福祉会(保育所・障碍者施設などを運営)を含む三者の共同で運営され、大人も含めて地域の子どもたち・住民が幅広く参加しています。するとその活動で、本当に困難な子たちに届いているのか、という問いが必ず生じます。わいわい子ども食堂では、貧困・格差を問わず、子どもたちや地域住民の居場所であること自体が重要であると考え、初めから選別するわけにはいかないので広く参加を呼び掛けています。その中に困難な子どもや家庭を見出して支援につなげており、学習支援との連携もあります。子ども食堂に来られない子たちに目を向けようともしています。

そこでまた別の問いが生じます。こうした活動は本来行政がなすべきことを肩代わりしており、政治の貧困の埋め合わせに利用されているだけではないか…。確かに格差と貧困拡大の政治的責任者である安倍首相が、無責任に子ども食堂にエールのメッセージを送るのを見ると、そう言いたくなるのも分かります。その取り組み自体は当該地域全体から見ればほんの数例であり、行政の肩代わりになるわけではないし、ましてや政治をぐっと動かすようなものではありませんが、小さくとも地域に確実な変化を生む、たいへんに貴重な実践であり、行政に要求を突き付ける場合に実績を持って具体的に訴えられる根拠を提供しています。目の前の困っている人たちを放ってはおけない、という真実の気持ちから発するささやかな実践はもちろん無駄ではないだけではなく、政治を変えることを意識し続けるならば、小さな社会変革の堅い一粒の実績となります。その一粒種をまく人々が全国津々浦々に現れるならば、社会は深いところから大きく変わっていくでしょう。

私は学習支援や子ども食堂の活動の中心にいるわけではないので、以上の状況や課題の把握は極めて大ざっぱなものに過ぎず、的外れもあるかもしれません。それはあらかじめ断っておきます。その上で、始めにも書いたように、地域の子どもたちの状況を広く深く捉える視点を獲得することが大切だ、ということは確認できます。

 まず、子どもたちや親たちの困難のあり方やその原因を理解することが必要です。経済問題だけでなく、たとえば発達障害などがあり、国連からも批判される「競争の教育」など新自由主義的な教育政策に由来する問題もあります。1/6ないし1/7とも言われる相対的貧困家庭の子どもたちには矛盾が特に集中していますが、それだけでなくすべての子どもたちが問題に直面しています。主に反貧困の観点に発する、地に足のついた地域での実践を尊重し、そこから学ぶとともに、すべての子どもたちを視野に入れて、学校や教育のあり方についての考え方を獲得していくことが必要です。困難に直面する子どもたちを前に、「何かの力になりたい」という自然な感情に発する地域での共同の実践においても、新自由主義イデオロギー、グローバル競争に奉仕する支配的教育観、社会保障の切り捨てによる「自立・自助」の地域観への意識的な批判が必要となります。そこで、実践活動を進める上で、子どもたちのあり方やそれをめぐる社会状況・教育について、いっそう理解を深めるのに資する著書や論文として最近目にしたものを、以下に紹介します。

 このほど、あいち県民教育研究所(あいち民研)のヒアリング調査の報告書子ども・若者・おとなの語りから見えてくる現代の子育て・教育―子どもの願い・おとなの悩みに寄り添って―』が、ほっとブックス新栄から発行されました。その<出版あんない>には「困難を抱えながらも、優しさの中にしたたかさを秘め、この愛知で生きている34名の物語です。そこからは、学校のあり方、子育てのあり方、行政の役割などさまざまなことがみえてきます」とあります。まさに地域での活動を支える格好の報告書です。

 ヒアリングの対象は多彩で、保育士、小中高の教員、学童指導員、不登校経験の高校生・大学生、幼児の母、発達障害児の父母、発達障害を疑っている成人、被虐待体験者、無料塾のスタッフ、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー(SSW)の34人です。その一つひとつがかけがえない内容であり、聴き手の編集委員が「自分の人生について深く考えさせられてきました」と述懐するように、いわば魂の相互交流が成立しています。

ヒアリングは調査研究方法としては「ナラティヴ・アプローチ」と性格づけられます。それは「当事者の語る言葉と物語に着目して、その世界における出来事をとおして、語り手も聴き手も、その物語に伴う呪縛や支配と従属の関係から少しでも脱することを目的としている」(176ページ)ということです。本書のヒアリング調査における語り手と聴き手に生じた変化は、まさにナラティヴ・アプローチの目的達成を告げるものです。多くの語りの中からここでは、総括的に子どもの見方・接し方について、スクールソーシャルワーカー(SSW)の方の話を引用しておきます。

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 私たちは子どもの「最善の利益」のために活動していく。子どもは与えられた環境の中でけなげに生きている。どんなに悪態をつく子であっても、その子の生きていく姿に感動する。大人は子どもの気持ちを聴いていない。何が起きたのかを聴くが、その子がどんな気持ちだったのかを聴いていない。子どもに対してその行動から「わがままだ」と言うが、子どもの気持ちは「不安」である。それを取り除かなければ進めないのである。

 子どもたちにとって、安心して話せる人、安心できる場所、安全な場所が必要であると強く思う。       173ページ           

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 本書の「まとめ」において、折出健二・愛教大名誉教授は、「わが子」と「家族」にとらわれる養育の個別化・自己責任論を批判して、「すべての子どもの幸せと健全な人間的発達のために国と社会が必要な公的援助を行うこと」を「きわめて妥当な社会的仕組み」(186ページ)と強調しています。そこからは自立観の見直しが要請されます。自立とは他人に頼らないことではなくて、「他者に依存しつつ、他者の支えを受けて、自分の力で自分を変え成長させていくこと」(187ページ)です。地域での支援の活動はそこに寄り添うことでしょう。

 本書に見られる子どもや大人の困難は様々ですが、それらを共通に規定するものがこの国の教育の歪みであり、格差・貧困の拡大する社会です。それをもたらす新自由主義の政策とイデオロギー支配が、「競争の教育」や自己責任論を「主体的」に受容する人々を作り出しています。それに対置して、個人の尊厳と社会的共同とを結ぶものとしての社会変革視点に立つ民主主義のあり方を、教育の角度から深く解明した最近の論稿として、たとえば佐貫浩氏「今こそ、民主主義を生み出す学校と教育を――危機に対処することのできる教育とは何かを考える――(『前衛』6月号所収)があります。同論文は緩みない稠密な叙述の中に、支配層の戦略とそれに対置すべき民主主義的戦略が鮮やかに描かれています。そこから少しでも学んでいきたいと思います。

コロナ危機において「生きるために何が必要か」が鋭く問われ、それにふさわしい新しい社会のあり方が求められています。コロナ禍において、人と人との関係が分断され、強力な権力的統制が行なわれ、人権・自由・民主主義が危機に陥る危険性があります。危機への日々の対応や政策的選択がそのまま新社会の鋳型に引き継がれるかもしれません。いわば「惨事便乗型資本主義」路線において、経産省が中心になって安倍政権が推進するSociety5.0に対応し、文科省が追随する形で、AIによる「個別最適化された学び」(EdTec教育)から教育の民営化、公教育のスリム化が狙われています(9697ページ)。

 それに対決するのは、命を守るための新しい共同としての社会のあり方です。コロナ禍の下で生存権・医療ケアを確保するため、財政を国民的にコントロールすることが必要です。それに向けてこの危機を国家・自治体・民主主義諸制度の転換点にしていけるかが問われます。そこでは「危機に立ち向かう教育」が求められます。それは従来の秩序の回復ではなく、危機の根源の克服に向けて人間の認識や価値判断を吟味・変革・創造し、新しい共同を拓くものです(9798ページ)。

 ところが、そうした教育の民主主義が実現していない現状があり、その原因として三点が挙げられます(98ページ)。(1)何を学び、どんな学力を獲得するかの決定権限を権力と市場が占有し、民衆の側から教育の目的と価値を探究する仕組みが緻密に奪い取られている。(2)学校・親・教師が、資本と権力の戦略と目標を自らの目標へと受容し、その実現を担うメカニズムに組み込まれて、教育の機能を、現代の変革と子どもの主体形成に向けて展開することが断念されている。(3)学ぶ知識や文化、学び方の中に、批判的社会把握と主体的思考様式が脱落している。

重要なのは次のことです。――21世紀に入ってからは、そうした現状は、政府による政治的抑圧で作られるのではなく、教育に関わる一人ひとりに支配秩序を「主体的」に受容させる方法によっており、それは人格そのものに強い支配と管理が及ぶ仕組みとなっている。――そこでは、グローバル競争に勝てるように国家が学力観を規定して、公教育を組織化し、教育基本法の改悪(2006年)をテコに、教育の内容的価値の統制・改変のための行政的仕組みが以下のように緻密に埋め込まれています(99101ページ)。

@学習指導要領の10年ごとの改定:文科省が教育の目標や価値内容を恣意的に改変

A全国学力テスト:2007年開始、学力競争の全国的組織化

B教師管理の方法:人事考課制度、学力テストへの取り組みを給料格差に反映

C自治体の「教育振興基本計画」:首長と教育行政側から学校目標提起

D職員会議の伝達機関化:学校の自治、教師と学校の教育課程編成権を奪う

E教育実践の全過程へのPDCAシステム導入

 グローバル競争を勝ち抜く学力形成を目指して、外から課題を与え、「主体的思考」の能力を養成するという教育では、実際には子どもたちは自由と主体性を奪われてしまいます。それに対して佐貫氏は子どもたちに心寄せ、告発的に叙述しています。

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 では、子どもたちは、自分にとって切実なことを考えていないのだろうか。そんなことはない。いろいろなことに関心をもつのが子どもの本質だ。いや、死に至るほどの悩み――自死に至る可能性をもつような悩み――をもつ子どもたちも多くいる。いくら悩んでも、おかしいと思ってもどうしようもないと考えることを断念した子どもたちも多くいる。さらに多くの子どもがその同調的な関係性に囚われて、自由に考えることを断念した不自由な、表現の自由を奪われた状態におかれている。

 しかし競争の教育の中で、それらの関心事は学習と無関係な余計な事柄として無視され、学習空間から排除される。そして現実の課題から隔離された空間の中で、与えられた課題に主体的に取り組む難行苦行を求められ、心ここにあらずの状態のまま学ばされているのである。                   105ページ

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 以上のような現状に対して、教育目標と価値決定の民主主義とは何かということを対置する必要があります。それは「生活しているすべての人々が、社会の現実や歴史の現実、生活のなかで捉え、認識し、格闘している課題や価値が、教育という場において取り上げられ、教育の本質に即した形式の下で、教育内容や教育目的へと摂取され、子どもたちの学びと議論の中心的なテーマになるということ」です(101ページ)。

 このような民主主義教育観からすれば、事柄の本質は、民主主義の仕組みが教育の制度と仕事から奪われていることだけではなく、学校の形成力(教育力)として、したがって子どもの中に民主主義という価値が立ち上がらなくなっている、という問題として捉えねばなりません。変革的な主体性の形成における民主主義を、学校に取り戻す可能性を考える必要があるのです(108ページ)。

 そこで学校が民主主義(共同的に物事に対処していく方法)のシステムになる三つの条件が提示されます(同前)。

1)子どもたち一人ひとりの表現を引き出し、その表現をこそ、人間の尊厳を基盤とした主体性の土台として、学校の生活と学習の土台に据えること、

2)そこで課題になる諸問題、現実社会の矛盾、それに対処し克服する生き方を自由に議論することを、学校での「考えること」の基盤に組み込むこと、

3)各自の表現、考え、思考を交わらせ、その議論の中で、民主主義の回路において知を働かせる学びや議論の経験を、徹底して積み上げること。

以上の三点を通して、学校の学びの中から民主主義を生み出し、子どもたちが民主主義の力を実感していくことができます。そうすることで単なる多数決主義としての貧困な民主主義観を乗り越えられます。一人ひとりの判断や選択は間違いうるが、その個人にとっての意味や価値を担っており、それを認め合い交流することで新しい共同を発見し、単なる少数の拒否としての決定でなく、より普遍的・人間的な判断が多数化しうる可能性(新しい多数派形成の希望)の基盤となる――それが本来の民主主義です(108109ページ)。

 本論文では、教育基本法など法的・政治的・制度的問題、教育行政の問題などよりも、どちらかと言えば、学校における民主主義、子どもたちと現場の民主主義教育の問題に焦点が当てられています。そうすることで、新自由主義のイデオロギーや自己責任論の内面化が子ども・大人・学校を捉え、競争の教育への適応が図られ、社会的共同が排斥される現状に対決する、社会変革的な民主主義観が積極的に提示されています。それは個人の尊厳と社会的共同とを結ぶものとしての深い民主主義観だと言えます。

 教育の現場から発するこうした民主主義論の深さは、現実政治を考える糧を提供しているようにも思います。議会制民主主義の下で、安倍政権がいつまでも存続し、トランプや橋下徹のような右派ポピュリストが支持を得る中で、民主主義と人権・自由とは両立しない、という議論があります。しかしそれは本来の民主主義が壊されているためではないか、民主主義とは何であって、それを取り戻すにはどうしたらいいか。佐貫氏は鋭く指摘します。

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 ポピュリズムの出現の中で、民主主義(デモクラシー)と自由(リベラル)の乖離が議論されるという状況もある。そしてその下で、民主主義が同調的多数者による支配、あるいはその同調を巧妙に組織する権力者の独善的支配を生み出し、個の尊厳や自由が抑圧される危険性が指摘されてもいる。しかしそれは、今指摘してきたような、一人ひとりの個の次元において民主主義が奪われ、機能できなくさせられている事態から生まれるのではないか。民主主義は、本来の性格からするならば、個々人が、自らの感情や固有の判断をこそ共同的検討の場に、共同の新しい質を作るために提出し、新たな合意を作り直すという変革的能動性を発揮するためにこそ、機能すべきものである。安易な、あるいは自分を脅迫する同調を拒否しつつ、真に自由のための共同を作る主体的な思考、判断の方法と力――民主主義の力量――の形成をこそ、学校の学習と生活の目的としなければならない。

            109ページ       下線は刑部

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通俗的な「民主主義と自由・人権との矛盾論」の誤りは、多数決主義のような皮相な民主主義観にあり、教室での民主主義の陶冶の視点から、個人の尊厳と社会的共同とを結ぶ変革的な民主主義観を大人たちが学んでいくことが求められていると言えましょう。

以上、ほとんど論文の(それも一部の)紹介に終始し、自分としての考察はないという体たらくではありますが、それだけでも重要だと思っています。論文の全体像についてはレジュメを作ったので参照していただけると幸いです。
                                 2020年6月29日




2020年8月号

          アメリカ資本主義の本質とトランプ政権の性格

 平野健氏の「アメリカ経済の産業循環とグローバル蓄積体制」は循環と構造の両視点、ならびに実体経済と金融経済の関係の視点から、金融恐慌(200809年)後10年間のアメリカ経済を分析しています。その基本にあるのは、オフショアリング(海外生産・下請け)の進展によるグローバルな資本蓄積体制の構造についての以下の認識です。

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 …前略… 実体経済における貧困化と長期停滞化の傾向と金融経済におけるバブルによる景気浮揚とその崩壊という二つの分裂した傾向が重層的な形で併存するようになる。そして、この二つの層にはそれぞれ財と資本の国際取引という背景があった。実体経済では製造業をはじめとする多国籍企業のグローバルな生産と下請けのネットワークがアメリカとヨーロッパ、東アジアとの間で成立していた。また金融経済では安全資産とリスク資産の両方での資本取引がアメリカと東アジア、ヨーロッパとの間で行われていた。

     23ページ      下線は刑部

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 上記引用の下線部は、発達した資本主義諸国に共通した特徴ですが、アメリカはグローバル資本主義の中心でその形成を担い、典型となっているのだろうと思います。まず循環視点から見ると、20096月から202月時点で景気拡大は史上最高記録の128か月になりましたが、成長率そのものは極めて低調です。その成長要因については「2013年を境に個人消費と設備投資がともに成長を支えた時期からもっぱら個人消費が成長を支える時期へと切り替わっている」(25ページ)とされます。個人消費の増加と言っても、雇用の改善によるものではなく、「バブルの資産効果によるものであ」り、「株価で見る限り、現在、記録的なバブルが起きていると言え」ます(26ページ)。そうすると結局、停滞した実体経済ではなく、バブル化した金融経済が景気変動を主導することになり、以下のように近年のそのあり方がまとめられます。

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 こうして、2008年金融恐慌とその後の規制強化によってもバブル経済からの脱却はできていないことがわかる。むしろ恐慌によってあれこれの投資対象、投資主体が没落しても、過剰な貨幣資本がある限り、入れ代わり立ち代わりあらゆる可能性を探ってバブルは再燃してくる、という様相を呈している。          27ページ

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 生産資本が過剰になれば、貨幣資本も過剰となり、古典的資本主義であれば経済全体が恐慌か不況に陥りますが、金融化の進んだ現代資本主義では、過剰貨幣資本の独自の運動領域があり、価値増殖が可能だということでしょうか。そこでのバブルの発生と破裂が景気変動の中心になってしまう。――ここでは、金融化によって転倒した現代資本主義のあり方が産業循環に反映されているわけですが、金融経済に対する実体経済の、キャピタルゲインに対するインカムゲインの規定性はどうなっているのか、などという分析課題というか疑問が浮かんできます。

 それは措きます。以上の循環視点に対して、構造視点として、財と資本の国際取引を見ると、米中関係がその中心的問題となります。製造業の対外投資と貿易の構造を分析すると、「アメリカ製造企業のオフショアリングの展開は、アメリカ国内産業を衰退させつつ、同時に中国産業のアップグレードをもたらした」(29ページ)ということになります。資本の国際取引では、1990年代末から2008年の金融恐慌までは、一方で東アジア諸国が輸出で稼いだ黒字で米国債を購入してアメリカの金融収入に貢献し、他方でヨーロッパ・カナダ・オーストラリア・南米諸国などがアメリカ金融市場で投機目的のポートフォリオ投資に資金投入していました(30ページ)。中国は、2004年から07年に海外全体が財務省証券を手放し始めたときに、逆に投資を増やして買い支えていましたが、2010年以降はそうした逆の動きをしなくなりました(31ページ)。「こうして2010年代、EUが対米長期投資を復活させ」たのに対して「中国は財務省証券の買い支えという役割を放棄」しています(同前)。

 以上を受けて、論文の総括をまるまる引用します。

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 2010年代の以上のような経済構造はトランプ政権の特異な性格を考える上でも参考になる。まず実体経済では、製造業の雇用削減を震源地にした労働条件と労働分配率の悪化が進行している。その上層でGAFAが牽引する株式バブルが発生し、その資産効果によって景気拡大が続いてきたが、このバブルの景気浮揚効果をもってしても経済成長は史上最低であり、それは実体経済の停滞問題がいかに深刻になっているかを示している。製造業労働者の貧困は彼らの怒りと政治的影響力を高め、いまやアメリカの通商政策を揺さぶる程に成長している。彼らのトランプ政権への支持は、本来は「多国籍企業の貿易と投資の自由」への反対であり、グローバル蓄積体制にとっての脅威である。

 また財・資本の国際取引構造にも構造変化があった。すなわち中国が、GVCの低付加価値な下請け受け入れと財務省証券投資(ドル支持)という、これまで求められてきた役割から徐々に脱却し始めていることである。その基盤は中国製造業の技術力アップにあるが、それはいまやGAFAへの対抗をも視野に入れるところまで来ている。GAFAはアメリカ経済にとって製造業の経営効率化、新産業・新サービス創出の軸であると同時に、金融業にとっても株式バブルを牽引する「投機のネタ」でもある。この分野での先進性を脅かされることは現代アメリカの蓄積体制の中枢を脅かされることである。

            3132ページ

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 続けてトランプ政権の性格について、「自由貿易協定それ自体を否定しておらず、その内容をよりアメリカ有利になるように改定(契約更改)しているにすぎない。すなわち現政権は、グローバル蓄積体制の解体ではなく再構築を目指していると言えるだろう」(32ページ)と指摘し、にもかかわらず労働者の味方であるようにふるまえる、嘘つきトランプの人格の政治的意義を説いています。

 コロナ禍への対処に限らず、世界を振り回すトランプの愚挙を前に、その政権の性格を正確に捉えることは喫緊の課題であり、それは主に政治的上部構造ならびにイデオロギーの解明に属すると言えます。しかしより深く捉えるためには、史的唯物論とマルクス経済学の方法を用いて、生産力と生産関係、循環と構造、実体経済と金融経済といった視点を活かすことが必要です。上記のように、問題の最底部には、先端生産力分野における、中国のアメリカへのキャッチアップがあると言うべきでしょう。

 スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』のように、新しいものが古いものを克服していくという単純な話であれば、生産力的に中国社会主義がアメリカ資本主義を凌駕し、社会進歩の道を邁進するということになります。しかし今日の中国は社会主義性そのものが疑われる状況であり、その経済的土台の性格規定の問題を措くとしても、内政上の人権問題や対外的な覇権主義で世界中から非難されています。その点では、これまで帝国主義的に世界を支配していたアメリカがあたかも正義であるかのように見えるほどです。だから今の世界情勢でせいぜい言えるのは、生産力発展を背景にして、アメリカ帝国主義の世界支配に中国覇権主義が挑戦している、という程度のことでしかありません。五十歩百歩、目くそ鼻くその世界と言いましょうか…。ロシア覇権主義を加えた三つの巨悪に対して、核兵器廃絶・気候変動問題の解決・人権と民主主義の拡大・貧困と格差の克服などの課題で、世界人民の様々な進歩勢力が対峙している状況、と付け加えておきましょうか。

 アメリカにおける中国批判は、トランプに限らず、民主党リベラル派・左派も含めて挙国一致です。人権・民主主義や覇権主義の問題での批判であればそれは正当です。しかし果たして、アメリカの推進するグローバル資本主義体制や帝国主義的振る舞いに対する自己批判まで踏み込んだ議会内勢力があるでしょうか。それができなければ、中国批判はアメリカの国内矛盾や帝国主義を隠蔽するための排外主義に過ぎません。コロナパンデミック恐慌下、現在の勢いではトランプの再選はならず、「あの4年間は冗談だった」で済まされそうではあります。しかし民主党バイデン政権になろうとも、両国の生産力対決を底に持つ米中対立の問題で、グローバル資本主義への民主的規制で貧困・格差を是正する方向(内需拡大で実体経済を改善し金融経済を健全化し、グローバル資本の覇権争いに各国民経済が巻き込まれるのではなく世界的に共存共栄できる道)に舵を切るのではなく、アメリカのグローバル覇権の維持を第一とする立場のままであれば、アメリカと世界の人民にとって益はありません。

 トランプの差別主義や反知性主義を嗤い叩くことは簡単ですが、彼が支持されてきた現実を理解することがもっと重要です。その点で、格差・貧困の拡大の現実や人種・地域の違いなどに対する社会学的考察など、トランプ現象を生んだ政治意識を捉える様々な分析はあるでしょう。しかし、上記の引用が示すように、製造業労働者の貧困による怒りが、(右派で金持ち・大企業優遇のトランプ支持へと捻じ曲げられているとはいえ、平野氏が指摘するように)本来は「多国籍企業の貿易と投資の自由」への反対であり、グローバル蓄積体制にとっての脅威である(32ページ)、という点が最も大切です。

 トランプが自動車メーカーなどの生産の国外移転を厳しく批判し、実際に阻止したことを坂本雅子氏は支持しています(「空洞化・属国化の克服と新たな資本主義の模索を」(下)139ページ)。これは「良識的(あるいはリベラル)な」体制派ジャーナリズムなどではありえない主張でしょう。右だろうと左だろうと、国民経済と人々の生活を守るために企業のグローバル展開をとどめるなど、企業活動を国家が規制するのは正しい、という立場がそこにあると思います。「トランプは対外投資が国内経済にもたらす負の側面を、どの候補よりも国民に訴えて当選したのだ」と指摘し、それだけでなく、それ以前にオバマ大統領も産業空洞化を問題視して「製造業の米国内への回帰、国内製造業重視、輸出増を一体として掲げた」(141ページ)ことをも指摘することで、トランプの政策が決して奇矯なものではないことを坂本氏は主張しています。問題は彼の階級的性格から来る、富裕層・大企業優遇策にあります。ならば、労働者の貧困・格差への怒り、生活安定への要求を捉えるためにはどうすればいいか。

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 重要なことは、サンダースらの福祉充実や差別・格差解消策とトランプの企業への規制策は対立させるべきものではないということである。現代経済の矛盾を激化させてきた根本原因、すなわち低賃金国への生産の移転で母国民を失業に追いやり、格差を拡大してきた企業行動を規制することと、格差や差別の解消、福祉国家の機能回復の主張は、一体でなされねば解決不可能な時代になっている。      143ページ

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 坂本氏はアベノミクスのインフレターゲット政策やアメリカ民主党左派が依拠するMMTを批判しています。それは直接的には、財政・金融政策としての危険性を問題にしていると思います。しかしそれだけでなく、アメリカや日本など発達した資本主義諸国経済の抱える共通の問題点として、平野氏が指摘する「実体経済における貧困化と長期停滞化の傾向と金融経済におけるバブルによる景気浮揚とその崩壊という二つの分裂した傾向が重層的な形で併存する」(23ページ)状態を看過ないし温存した上での弥縫策に過ぎないという点が重大だと思います。これは、実体経済の不健全さを基礎にして金融経済の不健全さが不可分に乗っている状態であり、何よりも実体経済の変革がなければ何も解決しません。

現実的には、停滞した実体経済を前に、当面のカンフル剤として財政・金融政策を用いることはあり得るでしょうが、それを勘違いして、野放図な財政支出や異次元の量的質的金融緩和という異常な政策を景気浮揚の原則的政策にすることは、不健全な実体経済に合わせて、財政と金融を不健全化することです。やるべきは、第一に賃上げや社会保障充実を中心として人々の所得を増やす施策であり、第二に産業空洞化を抑えてグローバリゼーションから相対的に自立した内需循環型の地域経済の形成であり、第三に先端技術産業を育成すべく、教育・研究を充実させるなどの国家的施策などではないでしょうか。それらの後押しとして、所得再分配型の大きな政府の実現、地域経済の中核である中小企業や街づくりを担う生業への資金提供ができる地域金融機関の育成など、財政・金融政策の正道を進むべきでしょう。そうして、底堅い内需に支えられた実体経済と、それに奉仕することを主任務とし、間違ってもバブルを煽ったりそれに依拠したりしない金融経済という、志向の合致した重層性を実現すべきでしょう。

蛇足ながら一言添えると、坂本氏は日本経済をデフレではないと言明しており、不況をデフレと言い換えて、異常な金融緩和政策を正当化するアベノミクスやリフレ派を批判しています。ところで、大部分のマルクス経済学研究者が、今日の日本経済をデフレと呼ぶ理論的誤りに陥っています。もちろん彼らの多くが政策的にリフレ派に同調しているわけではないけれども、理論として、用語法として混濁しています。坂本氏の確固たる姿勢は注目に値します。

 

(付記)

貧困と格差拡大をベースにし、さらに金融化によって転倒した現代資本主義のあり方が産業循環に反映されていることを平野氏は指摘しています。それに対して、金融経済に対する実体経済の規定性はどうなっているのか、という問題を私は提起しました。すでにその論文の結論部分で「バブルの景気浮揚効果をもってしても経済成長は史上最低であり、それは実体経済の停滞問題がいかに深刻になっているかを示している」(31ページ)という一定の回答が与えられていました。

 さらにこの問題について、中央銀行の役割に焦点を当てて、いっそう解明したのが、鳥畑与一氏「しんぶん赤旗」7293031日付の論稿です。鳥畑氏によれば、問題の最奥にあるのは、貧富の格差による需要の喪失であり、それによる過剰生産恐慌を覆い隠すために、財政赤字による需要喚起策や消費者信用による人々の債務漬けが行なわれ、それらを支えるのが中央銀行による信用膨張です。リーマンショックでは「この危機を世界的な財政出動と大規模な量的金融緩和で乗り切りました」が「富の集中と偏在を生み出す経済構造を放置したもとでは、財政政策や量的金融緩和策は、いわば穴が開いたバケツに際限なく水を注ぎこむようなものです。いたずらに中央銀行信用と公的債務が膨張するだけでした」(29日付)。

 コロナ危機での突然の需要喪失とそれによる所得喪失、人々の生活危機に対しては、財政出動が行なわれています。その不十分さが問題となっていますが、その他に大企業・富裕層のために資本市場を支える中央銀行の役割を見落とすわけにはいきません。これだけの恐慌が生じても、株式市場などは一時急落しても落ち着きを取り戻しています。そこには中央銀行の役割の変質があります。

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 中央銀行の役割は今、伝統的な「最後の貸し手」から「最後のマーケット・メーカー」または「最後のディーラー」に変貌した(国際決済銀行年次経済報告書2019)といわれます。 …中略… 

 短期金融市場の金利操作を中心とした伝統的金融政策は、あらゆる金融資産買い取りを中心とした非伝統的金融政策に移行し、それが新しい常態(ニューノーマル)とされています。あらゆる債務(公的債務+民間債務)の膨張を支えつつ、かつその価格維持(資本市場の安定)が中央銀行の政策目標とされることで、マネーの膨張と投機による大企業・金融機関と富裕層の利益追求が支えられ、それが貧富の格差を一層拡大するメカニズムとして機能しているのです。     30日付

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 しかしこのような支配層の戦略は資本主義の矛盾を激化させるものです。

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 ところがいま、この資本蓄積メカニズムが大きな限界に直面しています。株主重視の経営による貧困と格差の拡大が資本主義社会の持続可能性を掘り崩しつつあり、米国財界のビジネスラウンドテーブルがその見直しを宣言するに至っています。この限界は、貧困化する99%の購買力衰退(需要喪失)による資本側の投資機会の減少(=資本過剰)という形で顕在化しており、量的金融緩和と財政赤字の巨大化にもかかわらず実体経済停滞の長期化として表れています。低金利による景気刺激効果が失われているのは、格差拡大の現実を反映しています。     30日付

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 金融的利益の追求による実体経済の停滞が「資本主義社会の持続可能性を掘り崩しつつあ」るわけで、金融化で転倒した資本主義もまた本来の経済のあり方から抜け出すことはできないということです。「この『不平等による危機』の構造を是正する政策、 …中略… 能力に応じた税負担の徹底による富の再分配と新自由主義政策との決別が求められているのです」(31日付)という結論だけ見れば当たり前のことのようですが、金融化と中央銀行の役割の変質を見た上で言われていることに意味があります。

 なお、鳥畑氏はリフレ理論やMMTを批判しており、そこには「不平等による危機」を打開しない理論の限界があるというべきでしょう。

 

 

          マルクス恐慌論と新版『資本論』の問題点

 

1)まえおき

 

 5月号と6月号の感想で、はなはだ不十分ながらコロナパンデミック恐慌について取り上げました。それが現在の最重要課題であることは明らかなので、7月号の感想でもまた続けるべきかとは思いましたが、むしろ思い切って新版『資本論』のキーコンセプトである不破哲三氏の所説を取り上げるつもりでした。ところが主に知人たちが関わっている労働組合や子どもの貧困・教育の問題などについて一定の動きがあったので、急遽そちらに関係した論文を取り上げました。その後、知人との間で若干の諍いが生じたりして、こちらの性格的弱点もあって、心中に棘が刺さった状態で、自からの活動を見直さざるを得ないところに追い込まれています。本質的に活動家とも言えないような者が漫然と関わってきたことの矛盾が露呈した状態です。

そういう活動上の行き詰まりはとりあえず措いて、学びの方では、これもずっと棘が刺さっているので、一度見送ったテーマにここで取り組みたいと思います。新版『資本論』の問題というのは、コロナ禍の最中に悠長な議論だと思われる可能性もありますが、長期的に見れば、きわめて重大です。

 世間の人々から見たらどうでもいい、自分の活動上の思いなどに触れたのは、不破哲三氏の「エンゲルス書簡から 『資本論』続巻の編集過程を探索する」(一)(二)(三)(『前衛』2020234月号所収以下では「続巻の編集過程」(一)(二)(三)と略記を読み直したからです。エンゲルスはマルクス死後、降りかかってくる活動上の重責を担いながら、何よりも『資本論』第2部と第3部の編集に死力を注ぎ、文字通り命の尽きる前年(1894年)に完成させました。芥子粒のような活動と学びしかやっていない自分自身をそれに重ねるなどとんでもないことですが、活動や健康問題を抱えて、日々のわずらわしい思いの中で学問研究に関わっている有り様に共感したのです。

マルクス死後のエンゲルスと周辺の人々の関わりについては、他の著書からになりますが、残された手紙の整理をめぐって「マルクス夫妻の往復書簡のなかには、エンゲルスをあとで傷つけることになったかもしれない箇所がいくつか含まれていた」(佐藤金三郎『マルクス遺稿物語』、岩波新書、1989年、34ページ)とか、マルクスの遺稿整理について次女ラウラ(ローラ)と末娘エリナとが仲たがいしていた(同前、3642ページ)、あるいはルイーゼ・カウツキーをめぐる人々の愛憎劇(同前、119ページ〜)等々、というような数々のエピソードに触れるにつけ、我々と変わらぬ人間臭い生活感の中から『資本論』を始めとする偉大な学問的業績が生まれたことに親しみを感じます。

閑話休題。不破氏は上記の「続巻の編集過程」連載全3回に続いて間髪を置かず、マルクスの経済学研究過程における「一八六五年の恐慌の運動論の発見(『資本論』第二部第一章稿)」の「内容およびその意義について」補足するものとして、「マルクス研究 恐慌論展開の歴史を追って」(上)(下)(『前衛』202056月号所収以下では「恐慌論展開」(上)(下)と略記の連載を終えました。すでに私は2011年の不破氏の『経済』連載「『資本論』はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどるへの感想を始めとして、マルクスが1865年に理論的大転換を果たしたという見解を中心とした不破氏の所説について、『経済』編集部あてに何度も批判を送ってきました。それらはそのまま集めて「不破哲三氏の恐慌論理解について」以下、「不破恐慌論」と略記と題してネット上に公開しています。今回の連載についてもその批判は依然として妥当すると思いますが、若干の論点についてさらに考えてみます。

当初この批判的検討は単に不破説を一般的に対象としていましたが、2019年以降は、それが新版『資本論』のキーコンセプトとなり、『資本論』が特異に改訳されるに及んで、その問題点の指摘という重大な意味を持つに至りました。特に第2部第3篇の終わりの部分で、恐慌論が全面的に展開される、とか、第3部第3篇の第1415章を削除すべきだとマルクスが考えていた、という極めて独特な不破説の内容が改訳『資本論』に採用されるというのは、『資本論』翻訳史上に、またしたがって日本のマルクス経済学史上に重大な問題点を残す事態であり、厳しく検討されねばなりません。

 

2)『資本論』第3部第3篇のテーマ

 

 不破氏は、1865年前半に執筆されたと推定される「資本一般」の篇の第2部第1草稿(普通これは『資本論』第2部第1草稿と言われるが、不破氏はいわゆるプラン問題とのかかわりで、正確な表現を採用している)において、マルクスが「流通過程の短縮」を発見し、それによって恐慌の運動論を発見したとして、その意義を以下のように指摘しています。

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 この運動論の発見とともに、マルクスは、利潤率の低下の法則に恐慌の根拠を求めるこれまでの立場やそれと結びついた「恐慌=革命」説に終止符を打ち、資本主義的生産様式の「必然的没落」についての新しい理論的見地に足を踏み出すことになったのでした。そして、この発見はまた、「資本一般」という枠組みを捨て、『資本論』そのものの構成を根本的に転換する転機となりました。      「恐慌論展開」(下) 142ページ

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 気宇壮大な論定ですが、少なくともこれは不破氏の推定であり、マルクス自身がそう語っているわけではありません。ここでせいぜい言えるのは、そのような解釈も可能であるという程度までです。それが正しいのかどうか、現行『資本論』の内容に即して検討したのが拙文「不破恐慌論」の中の5>「『経済』201710月号の感想」から(2017930日)「『資本論』第3部第3篇『利潤率の傾向的低下の法則』の捉え方」です。現行『資本論』第3部第3篇は「1865年の理論的大転換」以前に書かれているので、不破氏によれば「マルクスは、利潤率の低下の法則に恐慌の根拠を求めるこれまでの立場やそれと結びついた『恐慌=革命』説」を採っていたことになります。しかし拙文では、現行『資本論』は実際にはそうなっていないことを、第3部第3篇の全体、第131415章を検討して明らかにしました。そこで推測されることは、1865年以前の段階で、すでに恐慌論はなだらかに変わっていったのだろうということです。たとえば第14章に「この法則は傾向として作用するだけであり、その作用は、一定の事情のもとでのみ、また長期間の経過中にのみ、はっきり現われてくる」(新日本新書版第9分冊、408ページ)という言明があります。そこから言えるのは、利潤率の傾向的低下法則が恐慌の原因であるのではなく、逆に恐慌を含む産業循環過程を通して長期的に件の法則が貫徹される、ということです。

 今回の新たな連載で、不破氏は第3部第3篇と恐慌との関係についてどう主張しているでしょうか。不破氏は特に第15章のテーマ設定に関して、当該部分から長く引用し、自説を対置しています。かなり長くなりますがそれを全部引用します。

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 利潤率の低下という現象そのものは、現実の経済過程で実証され、その仕組みも明らかになっている問題ですから、この現象を説明する前半部分には、なんの問題もありません。

 問題は、エンゲルスが「この法則の内的諸矛盾の展開」という表題をつけた最後の部分(第一五章)にありました。

 マルクスは、この章の最初の部分で、利潤率の低下と加速的蓄積が、生産力の発展過程の「異なる表現」にすぎないことを指摘した後、この章で研究すべき主題を、次のように描き出しています。

 「他方、総資本の価値増殖率すなわち利潤率が資本主義的生産様式の刺激である(資本の価値増殖が資本主義的生産の唯一の目的であるように)限り、利潤率の下落は、新たな自立的諸資本の形成を緩慢にし、こうして資本主義的生産過程の発展をおびやかすものとして現われる。それは、過剰生産、投機、恐慌、過剰人口と並存する過剰資本を促進する。したがって、リカードウと同様に資本主義的生産様式を絶対的な生産様式と考える経済学者たちも、ここでは、この生産様式が自分自身にたいして制限をつくり出すことを感じ、それゆえ、この制限を生産のせいにはしないで自然のせいにする(地代論において)。しかし、利潤率の下落にたいする彼らの恐怖のなかで重要なのは、資本主義的生産様式は、生産諸力の発展について、富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだす、という気持ちである。そして、この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明する。それは、資本主義的生産様式が富の生産にとって絶対的な生産様式ではなくて、むしろ一定の段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明する」(新書版H四一二ページ)。

 マルクスはここで、「利潤率の低下」が「過剰生産、投機、恐慌、過剰人口と並存する過剰資本を促進する」と明言しています。つまり、利潤率の低下が過剰生産や恐慌の原因となるとし、その関係を究明することを、この章の課題として提起したのです。

 こういう予告的な問題提起をしたものの、この章では、問題提起にふさわしい解答をあたえることは、ついにできませんでした。

 この研究のなかで、マルクスは、資本主義的生産様式に内在する諸矛盾やこの生産様式の克服の展望について多くの貴重な指摘をおこないました。しかし、恐慌問題そのものについては、いくつかのごく部分的な言明を残しただけで、ことの本質にせまる解明には成功しなかったのです。

 そして、一八六四年後半の『資本論』第三部第三篇でのこの探究は、利潤率の低下の法則に恐慌の根拠を求めるという方向での、マルクスの最後の努力となりました。

 考えてみると、恐慌は資本主義経済を襲う周期的現象です。これに対して、利潤率の低下というのは、その過程に波の上下はあるとしても、高い水準からより低い水準に向かう方向性をもった現象です。こういう一方向に向かう運動の中に、恐慌のような周期的運動の根拠を求めるというのは、そもそもの発想自体に無理があった、と言わなければならないでしょう。               「恐慌論展開」(上) 187188ページ

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 上記に見る、第15章でのマルクスのテーマ設定を一言で言えば、利潤範疇の戦略的意義です。それは一方では資本主義的生産発展にとってインセンティヴであり、それ故他方では資本主義体制そのものの歴史的限界を画する、という両面の意義を持ちます。利潤がインセンティヴであるのは「総資本」だけでなく個別資本にも当てはまります。個別資本の利潤目当ての短期的行動の総体が、結局は資本主義的生産様式の歴史的限界を画することになりますが、いわばその中間の総資本に、利潤率の傾向的低下の法則という長期的法則が成立します。だからここで言う利潤率の低下とは、法則上の傾向的低下だけでなく、個別資本の競争過程における低下や恐慌時の急激な低下をも含み、その全体の結果として、利潤追求体制としての資本主義の歴史的限界にまで説き及ぶと考えられます。したがって、不破氏が「利潤率の低下が過剰生産や恐慌の原因となるとし、その関係を究明することを、この章の課題として提起したのです」としていても、その「利潤率の低下」は必ずしも「利潤率の傾向的低下の法則」を意味するとは限りません。

 先述の第14章での言明にあるように、マルクスが利潤率の傾向的低下の法則を長期的法則と捉えていたならば、それを恐慌の原因とし、その証明に注力することはありません。第15章では、利潤範疇が資本主義的生産の発展の原動力であり、制限でもあり、最終的には歴史的限界を画するものでもあることが証明されています。

 すでに第13章においても、生産力発展の結果としての利潤率低下に対して、利潤量の増大で補おうとする資本の行動が活写されています。つまり利潤率の傾向的低下法則とは、単に生産力発展がもたらす資本の有機的構成の高度化によって利潤率が低下するという一般的結果だけを指すのではなく、そこに至る過程における、利潤追求による資本間競争の様相も含まれており、相対的剰余価値を創造する諸方法の使用による急速に人為的な総体的過剰人口の創出にまで言及されています(新書版第9分冊、374ページ)。不破氏は、利潤率の低下現象は生産関係に関わる現象ではないとか、労働の社会的生産力の数学的表現に過ぎないなどと言っていますが(『「資本論」はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどる新日本出版社、2012年、120121ページ)、それは利潤率の傾向的低下法則を中身抜きの結果だけで捉えていることになります。そもそも利潤率は剰余価値率と不可分の関係にあり、剰余価値率は生産力だけでなく生産関係からも大いに影響されるのだから、件の法則が生産関係に関わらないなどと言うことはあり得ません。

 第15章においては、第1314章で展開された法則の全体を見据えて、「この法則の内的諸矛盾の展開」を論じているわけで、利潤範疇を軸に個別資本の行動原理から資本主義体制の歴史的限界までをカバーしており、恐慌に触れるのも当然です。恐慌を含む産業循環過程を経過しながら利潤率の傾向的低下法則は貫徹されるわけですから。しかしその際に、件の法則が恐慌の原因になるという論じ方はしておらず、それはそう論じるのに失敗したからではなく、少なくともこの「資本一般」第3部第3篇草稿の執筆時点(1864年前半=「続巻の編集過程」()212ページによる)では、最初からその意図はなかったからです。第3篇を素直に読めばそのように理解する他ありません。実際に書いてもない課題を設定して、それがないのはその論証に失敗したからだ、というのはまったく不自然です。

それではなぜ不破氏は『資本論』第3部第3篇に対して、そのように不自然な課題設定を押し付けるのでしょうか。それは第一に、利潤率の傾向的低下法則に対して、生産関係も恐慌も登場せず、生産力だけに関係するという、中身抜きの外面的理解をしているために、生産関係や恐慌を含む正当な理解に対して、件の法則を恐慌の原因論にしている、恐慌=革命論に立っている、と曲解するからです。第二に、そこに1865年大転換説が加わって、1864年の草稿ではまだ恐慌=革命論に立っているはずだから、無理にでもそれがあると読み込まなければならない、と思いこむことになるからです。つまり、利潤率の傾向的低下法則は生産力だけに関係するという説と1865年大転換説を外してしまえば(前者は明らかな誤りであり、後者は根拠が明らかでない仮説)、第3部第3篇から第1415章を削除する必要はなく、これまで通り素直に読んでそこから多くのことを学ぶことができます。

 ところで不破氏は先の引用の中で「利潤率の低下という …中略… こういう一方向に向かう運動の中に、恐慌のような周期的運動の根拠を求めるというのは、そもそもの発想自体に無理があった」と指摘しており、そうするとマルクスはまるでバカげたことを追求していたことになります。先述のように、私見では第15章は利潤範疇の戦略的意義を強調しており、利潤がインセンティヴとなって生産力を発展させることと、同時にまた逆に生産の制限にもなることが統一的に押し出されていることが重要です。ただしそこで問題となる利潤率の低下について、長期的法則としての傾向的低下と恐慌における急速な低下とが十分に分けられていないように思えます。利潤の意義の統一性に力点があって、そのさまざまな現われ方には力点がないという感じです。

 恐慌における利潤率の急速な低下現象と利潤率の傾向的低下法則に見られる長期の低下現象、この両者の区別と連関を明らかにすれば、利潤率の傾向的低下を恐慌の原因とする誤りは避けられますし、両者はまったく関係ないとして、利潤範疇の統一的意義を看過する誤りも避けられます。これは分析視点としては、競争過程とその結果の統一であり、そこには短期的視点と長期的視点とが並存しています。それらを立体的に組み立てる方法は「資本一般」と「競争」という理論的重層性によります。それについては拙文「不破恐慌論」の中の2>「『経済』20117月号の感想」から(2011628日)「恐慌論をめぐって」の「利潤率の傾向的低下の法則と恐慌論」で触れました。

 以上のように、『資本論』第3部第3篇の内容を検討すると、1865年にマルクスの理論的大転換があって、1864年に書かれた第3篇の中で第1415章は克服された見地なので削除されるべきだ、という不破氏の説が成り立たないことは明らかです。次にその説の文献的証拠として不破氏が掲げる、1868430日付のマルクスのエンゲルスあて手紙を見てみましょう。不破氏は「続巻の編集過程」(二)の225226ページと「恐慌論展開」(下)の151152ページでそれを取り上げています。後者を引用します。

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 ここには、注意して読み取るべきもう一つの点があります。それは、マルクスが、第三篇については、最初の章の「この法則そのもの」の説明だけにとどめて、次の二つの章(「反対に作用する諸要因」と「この法則の内的諸矛盾」)については一言も語らなかったことです。これは、利潤率の低下法則を、恐慌や資本主義的生産の没落の必然性と結びつけようとした第三篇の草稿執筆の時期の見解を、マルクスがすでに卒業し乗り越えてしまったことの、マルクス自身による端的な表明でした。

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 しかしこの手紙は第3部の内容を全面的に説明したものではありません。マルクスは「君が利潤率の展開方法を知っておくということは、好都合だ。だから、君のためにごく一般的な形で道筋を述べておこう」(国民文庫『資本論書簡2136ページ)として、第2部と第1部に簡単に触れた後に「次に第三部では、われわれは、そのいろいろな形態および互いに分離した諸構成部分への剰余価値の転化に移る」(同前、137ページ)として第3部の各篇について説明しています。この主題から見て、第3篇の説明でも恐慌論に言及しないのは当然です。だから、あくまで限定された主題を扱ったこの手紙で「次の二つの章」については一言も語らなかったからと言って、第1415章を『資本論』から削除すべき理由にはなりません。したがってこの手紙は、1865年大転換説と第1415章削除説の根拠にはなりません。このことはすでに何度も私は書いてきました。このように何ら証明力のない手紙を証拠物件として提出せざるを得ないところに、これらの説の無根拠ぶりがさらに浮き彫りになっています。手紙を誤読された上、第1415章を削除せよ、とあり得ない要求を突き付けられ、さぞやマルクスとエンゲルスは心外だろうと想像します。

 

3)『資本論』第2部第3篇で恐慌論は全般的に展開されるか

 

 不破氏は第2部第3篇で恐慌論がその運動論を含めて全般的に展開されると主張しています。まずその文献的根拠を検討しましょう。不破氏は第2部第2篇の第13章「可変資本の回転」に書き込まれた有名な覚え書き、いわゆる注32を引用した後で、次のように主張しています。

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 ここでマルクスは、剰余価値の生産を規定的目的とする資本主義社会において、「過剰生産」、すなわち恐慌がおこる根拠を、剰余価値の生産と実現との矛盾という、きわめて簡潔な言葉で説明していますが、この矛盾がなぜ周期的な恐慌を生み出すのか、という運動論の問題にまでは論を進めていません。それらの解明は、すべて「次の篇」、すなわち「第三篇 社会的総資本の再生産と流通」で問題になる、というのが、マルクスの考えでした。

 ここで、第二部第三篇を、恐慌論の全般的な展開の舞台とするという構想がはじめて確定したものとして明らかにされたわけですが、第二草稿の執筆は、第三篇まで進まないうちに中断しました。           「恐慌論展開」(下) 153ページ

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 注32では、「剰余価値の生産と実現との矛盾」つまり生産と消費の矛盾が次の篇(第3篇)で始めて問題になる、と言っていて、それ以上のことは言っていません。恐慌の周期性には言及していません。だからその解明が第3篇で問題になる、というのはあくまで不破氏の考えであって、「マルクスの考えでした」というのは、根拠のない断定に過ぎません。したがって注32によって、「第二部第三篇を、恐慌論の全般的な展開の舞台とするという構想がはじめて確定したものとして明らかにされた」などというのは誤りです。

 次に経済理論の体系性の観点から、第2部第3篇と恐慌論の関係を検証しましょう。不破氏は、「資本一般」第2部第1草稿において「流通過程の短縮」が発見されたことを持って、恐慌の運動論の解明として高く評価しています。しかし「流通過程の短縮」の発見が「恐慌の運動論」形成の決定打と言えるようなものなのか、また通常使われる産業循環論という言葉に替えてあえて「恐慌の運動論」という独自の言葉を、不破氏はなぜ使っているのか、という疑問が浮かぶのですが、それはここでは措きます。

その第1草稿では「流通過程の短縮」とそれによる「架空需要」を軸として、「恐慌にいたる資本の循環過程のシミュレーション的な叙述」(「恐慌論展開」()140ページ)が活写されています。ところが同様の叙述が第3部第4篇の商業資本論と第5草稿から取った第2部第1篇の第2章「生産資本の循環」にもあります(「続巻の編集過程」(1)148149ページ、「恐慌論展開」()154156ページ)。商業資本論は「流通過程の短縮」についてはむしろ本場であり、不破氏の考えに従えば、こちらこそ「運動論」の本格的展開の場と考えるのが普通に思えますが、不破氏はあえて第2部第3篇を本格的展開の場としています。第2部第1篇第2章での叙述はその場で論ずべきというよりは、後の展開のためのメモとでも言うべきものです。

 つまり「シミュレーション的な叙述」はあちこちにメモ的に散在していますが、定着すべき場は決まっていません。考えられるのは、マルクスはまだ「運動論」を十分に練れているとは思えずにどの場所でどう展開するかについては未定だったということです。経済現象を解明するのに、まず対象の生き生きした表象を思い浮かべることが必要です。それを基に理論的抽象を働かせて、より抽象的なものからより現実に近い具体的なものへと順に理論を組み立てていくことになります。「シミュレーション的な叙述」はとりあえず恐慌=産業循環の表象をキープするものであり、理論的解明の準備作業に位置づけられるのではないでしょうか。

 不破氏の言う「恐慌の運動論」、あるいは(もっと一般的かつ包括的用語としての)産業循環論を展開するには、少なくとも資本の運動の基準となる利潤論や利子論が解明されていなければなりません。それは第3部の課題です。たとえば先述のように、第3部第3篇では、利潤範疇の戦略的意義をキーにして、利潤率の傾向的低下法則をめぐる資本蓄積運動を分析しながら、その中で個別資本の行動基準から資本主義的生産様式の歴史的限界まで解明しています。それに対して、第1部と第2部では利潤という現象形態ではなく、本質形態としての剰余価値によって分析が展開されます。それでなければ搾取の本質が解明されないからです。しかし資本の現実の運動に接近するには、剰余価値ではなく、資本の行動の基準となる利潤の解明が前提になります。少なくともそれを経過しなければ、資本主義的搾取の本質的解明の段階から、より現象的な産業循環のメカニズムの解明の段階へと上向することはできません。

 したがって、経済理論の体系性の観点から言っても、第2部第3篇で「恐慌の運動論」なるものを含む恐慌論の全面的展開が可能になるということはあり得ません。注32の指示によれば、第2部第3篇における「社会的総資本の再生産と流通」論において「生産と消費の矛盾」が展開されます。それは従来の恐慌論において、第1部の貨幣論における「恐慌の可能性」が第1部の剰余価値論・資本蓄積論における「恐慌の根拠」に基礎づけられて、第2部第3篇において「発展した可能性」となる、とされています。あえてそれ以上のことを第2部第3篇に押しつける必要はないと私も考えます。従来の恐慌論においては、それでは「恐慌の必然性」はどこで論定するのかが問題となりますが、それはここでは措きます。この「恐慌の必然性」論は不破氏の「恐慌の運動論」に近いものがありますが、後者はむしろシミュレーション的表象を前面に掲げて産業循環論的な展開を含んでいて、問題意識的にはややずれがあります。

産業循環のメカニズムは、資本の過剰蓄積衝動を推進基軸として、需給不均衡下での市場価格カテゴリー(価格、賃金、利子率、為替相場等)の日常的変動を「競争」論次元で解明することがまず基本となります。先述のように、不破氏の指摘によれば、産業循環のシミュレーション的叙述が、『資本論』(あるいは「資本一般」)草稿の第23部の各所に配置されています。それを素材として、上のような理論的解明を通して恐慌の周期性に迫ることができます。したがってそれは、需給均衡=価値・価格一致を前提して、資本主義の長期平均的状態を本質的に分析し、剰余価値生産をあばき出す『資本論』=「資本一般」の体系から上向した、より現実の現象に近い次元での理論展開となります。それを競争=産業循環論次元とするならば、より抽象的な「資本一般」次元での恐慌の本質的解明(可能性・根拠・必然性)と合わせて恐慌=産業循環論の重層的体系が形成されます。恐慌論は『資本論』の特定の箇所で総括されるのではなく、「商品」から「世界市場と恐慌」という経済学批判体系の最初から最後までに相当する形で全体的・重層的に展開されるべきものです。

 

4)プラン問題と「資本一般」

 

 第2部第3篇で恐慌論が総括されるという説を批判するためには、第3部で始めて利潤論が展開されるということを指摘するだけで事足りるのですが、(3)の最後では「資本一般」の意義と経済学批判プランにまで言及しました。(2)において、利潤率の傾向的低下法則と恐慌における急速な利潤率低下との関係を考える際にも、「資本一般」と「競争」との重層的理論体系の意義を提起しました。恐慌論の個々の論点を扱うにも、その全体的な展開方法を明らかにした方が良いと考えたためです。

 で、これは当然のことながら、(2)の始めで紹介した不破氏の見解――マルクスは1865年の理論的大展開によって、「資本一般」という枠組みを捨て、『資本論』そのものの構成を根本的に転換した――と衝突します。確かに「資本一般」は『資本論』には登場しないので、それは破棄されたという考え方は有力です(プラン変更説)。しかし「資本一般」は言葉としては登場しなくても、考え方としては『資本論』に継承されているという見解(プラン不変説・資本一般説)もまた有力です。上記のように、私は恐慌論の重要な論点を考える際に資本一般という枠組みは必要だと考えるので、資本一般説を採用しています。もちろん日本のマルクス経済学界では、プラン問題は膨大な研究蓄積があり、不勉強な私はその論争の全体像を把握して一定の見識を示すことができるわけではありません。ここではただ、「資本一般」は『資本論』に登場しない以上、破棄されたに違いない、という単純な見方(不破氏がそうだとまで断定するつもりはないが)に対置して、違う見方もある、ということを一般の方々(そんな人がこんな拙文なんか読まないだろうけれども)に知ってもらう程度の意味で、たまたま手元にある佐藤金三郎氏の所説を紹介します。

 佐藤氏はプラン不変説と変更説とをアウフヘーベンする意気込みで、1954年に「「経済学批判」体系と『資本論』」という記念碑的論文を発表します。これは『経済学批判要綱』(「185758年の経済学批判草稿」)に本格的に取り組んだ、日本で最初の論文です。それは不変説の久留間鮫造氏と変更説の宇野弘蔵氏の双方からほめられ、「両極分解」説と呼ばれるようになりました。私としては、内容的拡張を伴いながらも「資本一般」の方法が『資本論』にも貫かれている、というこの名論文の趣旨が重要だと考えています。当時を振り返って佐藤氏はこう述べています。

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 それで結局、「両極分解」説といわれるような結論になったというわけです。すなわち、現在の『資本論』というのは、当初のプランの「資本一般」を母胎としており、それのいわば完成された形態だということ、私は、それをたしか『資本論』は「範疇的な意味」での「資本一般」だというような言いかたをしていたと思います。それと同時に、「資本一般」だといっても、『要綱』執筆当時にマルクスが考えていた「資本一般」と、現在の『資本論』とを比べてみると、『資本論』の場合には、それの含んでいる考察範囲が非常に拡大されたものになっているということ、すなわち、当初の「資本一般」の範囲には予定されていなかった諸問題、たとえば、競争や、信用や、土地所有や、賃労働などの諸テーマについても、それらの基本的な規定にかんするかぎりでは、すでに『資本論』のなかに含まれているということ、しかし他方では、それらのテーマについての特殊研究や細目研究は、依然として『資本論』の考察範囲外に留保されたままになっているということ、そういう結論になったわけなのです。つまり、競争や信用など、最初のプランの「資本一般」の範囲をこえる諸問題は、『資本論』のなかに編入された基本的規定と、依然として『資本論』の範囲外に留保されたままになっている特殊研究とに、いわば「両極分解」をとげるにいたったのだというわけです。

 『資本論』研究序説、岩波書店、1992年  第W部 『資本論』成立史をめぐる諸問題

 第3章 「資本一般」の行方     339340ページ

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 さらに、「資本一般」が拡張される中でも「価値どおりの販売」という点で一貫していることを佐藤氏は力説します。

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 …前略… 私もまた、高須賀さんと同様に、商品の「価値どおりの販売」という仮定を重視するとともに、この仮定が『要綱』以来、一八六一―六三年草稿をへて『資本論』にいたるまで一貫して保持されているという事実に注目していたのです。この一貫して保持されている、その意味で不変であるという点を重視して、私は、『資本論』は「範疇的な意味」での「資本一般」だ、と言ったつもりなんです。多分、高須賀さんのいわゆる「方法的《資本一般》の立場」と同じ意味になるんだろうと思います。

 この問題は『要綱』から『資本論』にいたるまでのあいだに、当初の「資本一般」の考察範囲がつぎつぎに拡大されていったプロセスをみていくうえで重要な意味をもっていると私は考えています。結局は、価値法則との関係の問題なのです。つまり、さきほどの剰余価値論の成立の問題でもそうなんですが、マルクスにとってそれまで未解決だった問題が価値法則を前提として、その基礎のうえで理論的に展開することが可能になったかどうかがポイントだと思うのです。生産価格論の場合についていえば、『要綱』の執筆当時には、まだ労働時間による価値規定と生産価格の規定とが理論的に相互に媒介されていなかった。その理論的媒介が、ご存じのように、一八六二年にはリカードウ理論との再度の対決の過程をつうじてできあがった。そこで、この一般的利潤率の形成と生産価格の問題が「資本一般」の考察範囲のなかに取り入れられてきたというわけです。同じことは、地代論にせよ、労賃論にせよ、『資本論』のなかにつぎつぎに編入されてきた諸問題についても当てはまると思うのです。それが一番ポイントなんです。    同前、340341ページ

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 このように佐藤氏は、経済学批判プランの6分冊の体系が『資本論』体系に移行していくなかで、地代論や労賃論を吸収して「資本一般」が考察範囲を拡大しつつも、「価値どおりの販売」の仮定の点で一貫しており、価値法則を貫徹させるという重要な意義を持っていることを指摘しています。佐藤氏が「高須賀さん」と呼んでいる高須賀義弘氏は、資本一般論としての『資本論』の世界と、競争論以降の論理次元に属する産業循環論の世界との関係を「実体と形態、本質と現象の関係にある」と捉え、その方法の意義・内容を以下のように明らかにしています。

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 『資本論』の世界は産業循環の結果達成される資本主義の長期的構造であり、このもとで剰余価値の生産ならびに分配を明らかにしなければ資本主義の三大階級の経済的基礎は概念的に解明されないというのがマルクスの考え方であった。そしてこのために不可欠の理論的カテゴリーがマルクスの価値概念にほかならない。『資本論』の世界を産業循環論の世界と混同ないし同一視すれば、それは必ず価値概念を歪めるのである。

 他方産業循環は、『資本論』の世界、すなわち、「理想的平均における資本主義の内的構造」を自動的に生みだす平均化機構であって、これを解明する基本的カテゴリーは、市場価格(価格、賃金、利子率、為替相場等)である。これらの市場価格カテゴリーに誘導された無政府生産のシステムである資本主義の現実的蓄積が自己矛盾を含むがゆえに恐慌を勃発せしめ、自律的に反転することによって、『資本論』の世界が創出される。

      『マルクス経済学研究』(新評論、1979年) 247ページ

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 高須賀氏はさらに、宇野派の大内秀明氏の議論への批判を通じて自説の性格をいっそう明らかにしています。

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 方法論的に問題なのは、大内氏の立場では『資本論』の世界がまさに「永遠にくりかえされる如く」発現する産業循環の世界とまったく同じものになってしまい、「理想的平均における資本主義的生産様式の内的構造」論が原理的に消失してしまう点である。それは、産業循環を貫いて価値法則が貫徹する結果成立する資本主義の長期的構造にほかならず、それゆえにこの構造を概念的に叙述するためには価値・価格一致の想定が必要であり、換言すれば、理想的平均的資本主義は価値・価格一致を想定して描かれる資本主義像でもあったのであるが、それを否定して、循環運動をくりかえす円環的運動体の描写こそが経済学原理論の対象であるとすれば、そこから帰結されることは、価値概念の空洞化であり、本質論を欠く現象論である。      同前 245-246ページ

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 不破氏の「1865年大転換」説に従えば、このような「資本一般」と固有の「競争」との重層的把握は大転換以降、破棄されることになりますが、1865年後半に書かれた第3部第7篇(「続巻の編集過程」()212ページ)にはなお以下のような方法的限定が明記されています。

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 生産諸関係の物件化の叙述、および生産当事者たちにたいする生産諸関係の自立化の叙述では、われわれは、それらの連関が、世界市場、その商況、市場価格の運動、信用の期間、商工業の循環、繁栄と恐慌との交替によって、生産当事者たちにとっては、圧倒的な、不可抗的に彼らを支配する自然法則として現われ、彼らにたいして盲目的な必然性として作用するその仕方・様式には立ち入らない。なぜなら、競争の現実の運動はわれわれのプランの範囲外にあるのであり、われわれはただ、資本主義的生産様式の内部組織のみを、いわばその理念的平均において、叙述すべきだからである。

 『資本論』第3部第7篇「諸収入とその源泉」第48章「三位一体的定式」   

新日本新書版 第13分冊 1454ページ 

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 ここには、資本主義的生産様式の内部組織を理念的平均において叙述する「資本一般」(*注)論と、そのプランの範囲外にある「競争の現実の運動」論という重層的構成が見られます。マルクスがあちこちに書き残した「シミュレーション的叙述」を恐慌=産業循環の表象の保持とし、そこに理論的分析を加えることで、資本主義的生産様式の本質論とその動態の現象論とをともに解明することが必要です。その際に、高須賀氏の提唱する「資本一般論」と「競争論以降」との重層的方法が有効ではないかと私は考えます。

 

(*注)1863年を最後に「資本一般」と言う言葉が使われなくなったことを重視する佐藤金三郎氏は、「資本の一般的分析」と言った方がいいとして、『要綱』の「資本一般」と『資本論』の「資本の一般的分析」とは同じではないとしています。しかし「現在の『資本論』が『要綱』の「資本一般」を母胎にして、いわばそれの充実、完成された形態として存在しているというのは当然のこと」と主張しています(佐藤、前掲書、346ページ)。

 

 

          断想メモ

 津田大介氏は、コロナ禍で不安が差別を生み、日本では「自粛警察」現象さえ出てきたことについて同調圧力と生き残り圧力の両面から論じています(「朝日」論壇時評730日付)。一方で、日本では「世間」の同調圧力による「前近代的なムラ社会が残っており、同質性の強さと相互監視がコロナによって肥大化した」と見ており、他方では「新自由主義的な市場社会に固有の生き残り圧力の存在を指摘」しています。前者はよく見られますが、後者の指摘がより重要であり、伊藤昌亮氏の議論を以下のように紹介しています。

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伊藤は日本社会が1990年代後半以降、新自由主義的価値観に基づく行政、経済制度、司法制度の改革を進めた結果、リスク、自己責任、ガバナンス、コンプライアンスといった新しい語彙(ごい)が広がったことに注目。当初は企業や法曹のあり方を規定するものだったそれらの語彙が、やがて我々一人ひとりの振る舞いを規定し、新自由主義的な思考を内面化させたと分析する。コロナというリスクは基本的に自己責任で乗り越えられるべきだ。要請に従わず、コンプライアンスに違反している人間に対しては、それを告発し、厳罰を加えることによってガバナンスを維持しなければならない――。

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 津田氏は、このように「同調圧力と生き残り圧力という二つの圧力が固着した日本社会で、コロナがもたらす差別の問題に抗(あらが)うにはどうすればいいのだろうか」と問題提起し、「我々は差別と直面すると道徳や倫理の問題として解決しようとする。だが、それらは社会と深く固着しており、一朝一夕に解決することは不可能だ」としています。そしてクラウドファンディングなどの例を紹介して、「テクノロジーを駆使する、お金の流れを変える――差別との闘い方は一つではなく、決して希望を捨ててはいけない」と結んでいます。手法の問題はもちろんあるのでしょうが、「社会と深く固着し」た差別と闘うにはその社会そのものをどう変えるかを草の根から考え実践していくことが大切でしょう。残念ながら私に名案はないのですが…。
                                 2020年7月31日




2020年9月号

          「一人も置き去りにしない社会」をめぐって

 

◎公衆衛生の思想と日本の現実

 唐鎌直義氏の「コロナ対策にみる公衆衛生の現状と弱者切り捨て社会」は怒りと挑発に満ちた論稿です。その結語は、「一人も置き去りにしない社会」をこの日本につくろう(89ページ)というものです。これはスローガンとしてよく言われるわけですが、どれほどの覚悟が伴われているかははなはだ怪しい場合が多い。今、コロナ禍の下でそれを言いうるには、弱者切り捨てが常識である日本社会のあり方とそれに毒された自己のイデオロギーを直視することが前提になります。唐鎌氏は労働者派遣法の制定(1985年)以来、格差と貧困を招く不安定雇用の拡大に一貫して反対し、各種の弁護論を唱えた研究者の責任を告発しています。

 上記の結語の立場からすれば、功利主義(最大多数者にとっての最大幸福の追求)は批判されるべきであり、それ以下の日本政府の酷薄さはさらなる批判対象となります。感染症予防対策としての公衆衛生法(1875年)と、労働能力を有する貧困者は救済しない原則を掲げた改正救貧法(1834年)を作ったチャドウィックについて論文はこう指摘し、功利主義を強く批判しています。

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 同一人物が片や貧困者救済の厳格化を主導し、片や公衆衛生の創設に尽力したということは矛盾しているように見える。しかし、チャドウィックはどちらの場合も、ベンサムの「最大多数者の最大幸福」という理念を忠実に実行しただけであった。貧困者は社会の少数者なのでその利益を尊重しなくても良いが(多数者の負担が軽減されるから)、伝染病の場合は社会の多数者の利益が損なわれるので、その利益を優先しなければならないということである。こういう考え方を功利主義という。      90ページ

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 これに基づいて公衆衛生の本質が次のように説明され、次いでその公衆衛生の水準にさえ到達していない日本の現実が批判されます。

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 以上のように、公衆衛生は「社会防衛」を本質とするものである。少数者である感染者を病院に隔離して、多数者である非感染者の社会・経済活動の継続を保障することを任務としている。守られるべき対象は多数者の生産活動の方であり、そのための必要条件として感染者を隔離するという方法が採用されたのである。      81ページ

 

 今回、わが国では、緊急事態宣言を出して感染していない人の社会活動を自粛させるという、公衆衛生の基本的あり方とはかなり異なる方法が採用された。なぜそうせざるを得なかったのか。その理由としては、検査体制の不備が原因で隔離すべき全ての感染者を特定できないということと、感染症専門の病床数が当初から極端に不足していたために隔離そのものに限界があるという、日本の公衆衛生上の致命的問題が存在していたことが挙げられる。                 82ページ

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 論文は功利主義を批判しているのだから、多数者の利益擁護である「社会防衛」としての公衆衛生そのものに批判的だと思われますが、ここでは批判の矛先は、そうした公衆衛生の水準にさえ達しない日本のコロナ対策の無策と酷薄さに向けられています。「検査体制の不備が原因で隔離すべき全ての感染者を特定できないということと、感染症専門の病床数が当初から極端に不足していたために隔離そのものに限界がある」という状況では、「緊急事態宣言=外出自粛」つまり経済活動の大幅な制限しかカードがないというのです。

その際に大企業は巨額の内部留保があるので耐えられるが、大企業でも派遣労働者、また中小零細企業経営とその労働者の雇用には甚大な影響が及ぶけれども、そういう犠牲はやむをえない、というのがいわば日本資本主義の精神であろう、というのが筆者の見立てのようです。さらに日本人の多くがそれに毒されていることが痛烈に批判されます。

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 この点に関して多くの人は、未知の感染症が広がることは、自然災害と同じで不可抗力の事態であるから、そうした経済的弱者の問題発生は致し方ないと考えるかも知れない。困っている人にその時だけワンポイントで救済の手を指し伸べればいいという考え方もあるかも知れない。しかし、そうした受け止め方は、自分たちがいきているこの日本社会を普段からかなり肯定的に評価していることの証左である。    86ページ

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 そして「今回の自粛要請には低所得不安定層の切り捨て(棄民)が含まれていた」(同前)とも言われます。この論理そのものは正当だと思います。社会観・社会批判はそこまで徹底されねばなりません。ただし長年の新自由主義政策の下で弱体化した医療・ケア・社会保障体制の現実を前提にすれば、コロナ禍を迎えた時点でどんなに良心的な政権があったとしても、自粛要請と経済活動の制限以外の選択肢があるとは言えないように思います。もちろん「補償なき自粛」は批判されねばなりませんが。とはいえ、日本の現実のみにとらわれると不当に選択肢を狭めることになります。東アジアでの一定の成功例として、台湾・韓国・ベトナムなどに学ぶ点があるでしょうし、一時は感染爆発と医療崩壊に襲われたニューヨークが徹底した検査体制で事態を克服した経験も参考になるでしょう。

 功利主義の「社会防衛」にも達しない日本政府の対応が以上のように批判されますが、コロナ禍に際して「社会防衛」を超える考え方と施策があるのかについては、論文に示されているようには見えません。そうすると「社会防衛」の水準で対策を工夫せざるを得ないならば、この施策によって隔離された少数者の人権をどう考えるのか、というのが一つの問題点であり、また問題を前進的に考える起点になるとも思われます。

 その原則は「根底に人権保障があり、それを制約する場合は、守られるべき基準があるという」ことです(大本圭野・井上英夫両氏の対談「『人間の安全保障』と居住福祉 コロナ・パンデミック時代への社会構想24ページ)。熊本地裁のハンセン病違憲国家賠償判決(2001年)は、隔離・収容ですべての人権が奪われたことを、「人生被害」として断罪し、国家賠償を認めています。やむを得ず隔離して人権を制限する場合の基準を判決は次のように示しています(同前、23ページ)。

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 第一に、制約は、最小限でなければならず、第二に、真に危険な、極めて限られた特殊な疾病にのみ許され、第三に、他に採るべき手段がない場合です。先のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」内感染の場合や、外国からの入国者に2週間の隔離期間を設けること、外出、営業の自粛等に考慮されなければなりません。そして、第四に、隔離・収容に科学的、医学的根拠があることです。

   …中略…

 当然、権利の制限にともなう補償は、国がきちんとしなければならないのです。

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 今日の目で見れば、ハンセン病の場合、隔離そのものが不当であったので、人権との関係では、隔離の範囲をいかに狭めるかが問題の中心となり、今後も同様事例はありうるわけです。ただ今回のコロナ禍では、やむを得ず隔離せねばならない場合に、隔離された人の人権をどう守るかがより大きい問題だと言えます。そこで政治による経済的補償義務がまず出てきますが、その他に「自粛警察」、バッシング、不利な取り扱いなどの社会的問題が生じ、そこで人権保障のために「守られるべき基準」をどこに置くか、その世論的合意に向けた人権啓発が問題になります。それは今でもメディアで部分的には行なわれていますが、人権教育そのものが手薄い日本の現状ではなかなか厳しいものがあり、差別された人々の中から「コロナより人間が怖い」と言う声が聞かれます。問題の所在はそのくらいまで考えられますが、解決までいかず、「社会防衛」を超える発想までには至りません。

 唐鎌論文のラディカルな批判点はコロナ禍対策だけでなく、元来からあってそこに露呈された弱者切り捨て社会と、事実上それを支えた「第三の道」的なリベラルな議論、その論者たちにも向けられています。眼前の事態の複雑さへの「巧みな対応」の追求におぼれて、根源にある資本主義社会そのものへの批判視点を忘れるとき、コロナ・パンデミック恐慌のような大洪水の前では、弥縫策の無力さは蹴散らされ、格差と貧困下での被害の増強が誰の目にも明らかになります。

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 もともと資本主義のレジームは単純な経済原理で成り立っており、それほど多様性に富んだものではない。多様に見えるのは国ごとに固有の文化が介在しているからである。ジェンダー・バイアスの問題も、持続可能性を追求する環境保護の提起も、貧困の多様性の指摘も、それぞれ現象としての重要性は理解できるが、資本主義の運動原理という観点からもう一度捉え直してみることが決定的に重要ではないか。働き方の多様性を前提として経済的弱者に「自立支援」「就労支援」「アクティベーション」への参加を要求し、低賃金・不安的雇用の拡大を推進してきた知識人・研究者の責任は大きい。それを当然のように見なして、事態の進行を放置してきた大企業労働者の責任も大きい。    87ページ

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ちなみに「誰ひとり取り残さない」という副題を付けた対談において、ナオミ・クラインが上記に響き合う発言をしています。

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 私たちはリベラル思想に裏切られたと正直に認める必要があります。特化したNGOの構造があって、移民問題はここ、環境問題はここ、人種差別はここ、フェミニズムはここと、危機が小分けされてきた。そんなやり方は役に立たず、これらの危機が相互作用する今、成り立ちようがないのです。コロナウイルス以前からあった危機は、ウイルス蔓延の中まったく耐え難いものになっています。いわゆる進歩派リベラルは、地球や人(しばしば両方)を採取/搾取する暴力的な論理の影響を最も直接受ける運動とともに立つのではなく、中傷し批判してきた。       

ナオミ・クライン、アルンダティ・ロイ対談「違う世界に通じる入口へ 誰ひとり取り残さない(『世界』9月号所収)  31ページ

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 「一人も置き去りにしない社会」はおそらく資本主義の枠内では無理だろうけれども、それを掲げ続けることで、眼前の諸問題も解決に向け一歩でも前進する可能性が高まる、と言うべきでしょう。その際に肝に銘じるのは、「もともと資本主義のレジームは単純な経済原理で成り立っており、それほど多様性に富んだものではない」ということです。資本主義体制そのものの打倒だけでなく、部分的改良としての資本への民主的規制においても生きる命題です。様々な社会問題・人権問題なども資本主義の体制問題の一部であることから、戦線をそろえていくことが重要であり、事実、諸運動も連帯の志向を持っているようです。

 

◎人権保障をめぐるせめぎ合い

 前掲の「大本・井上対談」も「一人の命も社会が救う、見殺しにはしないという視点」(26ページ)を打ち出しており、人権保障という観点からそれにアプローチしています。その際に、問題となるのが、唐鎌氏の指摘する「日本社会を普段からかなり肯定的に評価している」(86ページ)意識であり、それとつながって「人権保障の視点が弱すぎるという問題があります。大変だ∞可哀そう∞でも仕方ない≠ナ終わっている。そこから、国、自治体の無責任体制も生まれます」(「対談」、20ページ)という結果になります。

コロナ禍のような緊急事態では、国・自治体・社会の諸問題が貧困・格差の拡大する構造とともに顕在化します。そこで国・自治体・社会のあり方が問われ、日本社会の今後を考えざるを得なくなります。また改めて緊急事態への平時からの準備の大切さが実感されます。それがものの道理、前進的な道と言うべきですが、その障害となるのが、現状肯定的な社会観と人権保障の視点の弱さです。そういう中では自己責任論が跋扈し、政治の責任が隠蔽され、人々は政治責任にそもそも思い及ばないか、思ってもどうせダメだと諦め、でも仕方ない≠ナ終わってしまいます。

 そこで、人権とは何かが問題となりますが、法学を勉強したことがないのでよくは分かりません。実利を始め、現実に密着した経済からの発想で言うと、ユークリッド幾何学の「公理」みたいな抽象的なものだと困るな、と。万人が認めるけど、あまりに基本的でそれ以上、証明のしようがない原理だ、アプリオリにあるんだ、ということになると、分かったような分からないような気持になります。たまに(というか、けっこう多く)認めないヤツ(人権意識の低い諸個人から国家権力・グローバル資本まで)が現れて人権侵害が横行しているのが現状です。しかし人権の一般原理は『経済』の守備範囲ではないだろう(手を伸ばしてみる価値はあると思いますが)から、コロナ禍における「弱者切り捨て社会」に対抗する原理としての人権、というあたりで具体的に考えてみる――人権を支える実体とともに考えてみる、というのが、原理を知らない者にとって当面する適当な姿勢かと思います。それを「大本・井上対談」を材料に考えてみます。

 「対談」では、緊急事態における人権保障では平時からの備えが前提になるということが指摘されたうえで、「『平常時の備え』と言う時に、今の日本には危機管理の思想がないのです。国の防衛面での安全保障はありますが、平時の国民の生活への危機管理が必要です。/その点では、国連の『人間の安全保障』が大事だと思います」(2021ページ)と主張されます。「人間の安全保障」や「生活の危機管理」の具体例として、食料自給率を始めとして多くが挙げられています。なお、対米従属下で自衛隊を海外に活用する、という現政権の方針は、「防衛面での(真の)安全保障」には全然なっていないと思いますが、「安全保障」とか「危機管理」という言葉をもっぱら体制的タカ派用語にさせてしまっている現状から、その意味を人権・平和を基礎に転換して、私たちの言葉として獲得し直さなければなりません。その転換の軸として憲法前文があります。

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 その人間の安全保障とは、日本国憲法前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」すなわち平和的生存権をはじめとする人権保障に他なりませんね。「恐怖」とは戦争やテロであり、「欠乏」とは飢餓や貧困です。東日本大震災では、「人間の復興」が掲げられていますが、そのためには地域社会の復興、しっかりした農林水産業の復興をやることですね。        21ページ

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 こうしてみると改めて憲法前文の豊饒さが感じられます。平和的生存権には社会権としての生存権が不可分にくっついており、それを保障するものとしての健全な経済活動が前提として想定されているわけです。

 ちなみに憲法252項に「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあります。以前より、社会保障と公衆衛生が同格に並列されていることに何となく違和感があったのですが、今日のコロナ禍の下における社会状況には全くしっくりきます。なんと先見的かと思いますが、憲法制定当時は結核などの感染症が重大問題だったでしょうから、当然の文言なのかもしれません。その後、感染症は克服したという思い上がりで、条文への「違和感」が生じたのもつかの間、グローバリゼーションの乱開発に対する自然の警告として感染症が復活し、不幸にもかの文言がヴィヴィッドに蘇ってしまったと言えるでしょう。いずれにせよ、日本国憲法恐るべし。

 閑話休題。コロナ禍のような緊急事態に際して、平時からの備えが大事であり、そこには危機管理の思想が必要であり、それは防衛問題ではなく、「人間の安全保障」の観点に基づくものだ、という文脈でした。そして「人間の安全保障」とは人権保障に他ならないとされますが、すると人権とは何かというところに戻ってきます。大本氏は、人権という言葉が人々には難しいので、人間に対するやさしさ・ヒューマニズムの問題ではないか、として「一人の命も社会が救う、見殺しにはしないという視点が必要」(26ページ)だと問題提起しています。

 それに対して井上氏は、人権という言葉に対して各種のマイナスイメージが刷り込まれてきたことを指摘し、それは人間の尊厳の保障である、とします。尊厳の中身として、すべての人の価値的平等、一人ひとりのかけがえのなさ、自己決定の保障を挙げています。さらに具体的イメージをこう語ります。

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 基本的人権は、難しいことではないと思います。私には、車いすで生活している友人がいますが、人権とは「生きる権利の保障」だと教えてくれました。朝起きて、用を足して、食事して、通学、通勤、買い物など社会活動へ参加して、夜は布団で寝る。そうした普通の、当たり前の生活を保障する。障害があっても、病気でも認知症でも、一人一人の人が普通の、当たり前の自己決定にもとづく生活を送るのに必要な人、もの、金(家、車いす、看護者、介護者等々)を、国がきちんと保障することです。「保障」という言葉は、支援や援助・公助ではなく、国民の権利であり、保障するのが国の義務であり責任であるということを意味しているのです。       26ページ

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 こうした当たり前の生活の保障についての国民の権利と国の義務については、「世間」に定着した意識にはなっていないように思われます。そこには一方に前近代的な権利意識があり、他方に新自由主義的自己責任論があり、両者の「共同の成果」が現れています。さらにそれは行政の牢固とした旧態依然のあり方に「結実」しています。緊急事態宣言下、東京都がネットカフェに休業要請を行なったことで、数千人規模の人たちが一斉に路頭に迷うという「ホームレス・クライシス」が発生し、民間の生活困窮者支援団体が懸命の支援活動に取り組んでいるとき、厚労省・東京都・各区・各市は住居確保や生活保護利用などについて広報を怠り、たらい回しや「水際作戦」などで、困窮者をさらに困難に陥れたのでした。その生々しい実態を稲葉剛氏が告発しています(「ホームレス・クライシスに立ち向かう」、『世界』9月号所収)。人権を武器に立ち上がった支援団体に対して、人権無視で応じる行政の実態がそこにあります。人の苦難に心を寄せるのでなく、行政の都合に終始する姿が見えます。それでも運動の力でじりじりと困窮者の要求を実現していったのですが…。

 反貧困ネットワーク事務局長の瀬戸大作氏はこう嘆いています(「死にたくないのに、死んでしまう コロナ禍のSOSの現場から、同前所収、56ページ)。

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 これだけ問題が見えていて、なぜ民間がこんなにボロボロになりながら支援をしなければいけないのでしょうか。国や自治体は自分たちで公的支援をせず、民間の善意である「子ども食堂」をあてにしたり、フードバンクの食料を渡して「これで二週間食いつなげ」と平気で言ったりします。アパート探しも責任をもってやらずに、私たちに丸投げです。しかし民間の支援団体は行政の下請ではありません。

  …中略… 

「所持金が一〇円しかない。死にたくないけど死んでしまう」とSOSが来れば、われわれは倒れそうなその人に会いに行きます。しかし生存権を保障するのは本来、国や政府の仕事ではないでしょうか。     

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しかしそうした中でも地道な人権意識の定着は見られます。たとえば827日付「朝日」の「声」欄における41歳アルバイト女性の意見です。特異な才能を開花させた発達障害者に対して「障害は個性だ」と語る医師や教育者がいるが、その底に「社会的に有益な者こそ価値がある」という前提を感じて、反対だというのです。「障害は当事者にとってはやはり苦しいものなのだ」と、自らの発達障害者としての体験を語ったのち、「生きづらかったが、40代になってようやく人との接し方も身につき、伴侶も得て自分の着地点を見つけた。自己実現はできていないけれど、自分はこれでいい。/才能がなくても、働いていなくても、障害者の生存がそのまま認められる社会であってほしい」と結んでいます。これは障害者に限らず普通の人々にも当てはまることではないでしょうか。さらに言えば、資本主義社会は利潤追求に役だつ人材だけを選び出し、それ以外の多くの人々を疎外しています。未来社会はそうした人々が自己実現できる社会であるはずです。ところで、私は人材と言う言葉が嫌いです。それは人を手段とし目的とはしていません。

「対談」においても、「変化」が指摘されています。厚労省の担当者から「水際作戦などはなくさないとなりません」という言葉をはじめて聞いたとか、安倍首相が「文化的な生活をおくる権利があるので、ためらわずに(生活保護を)申請してほしい」(615日)と国会答弁している、あるいは若い層を含めて、コロナ禍を生きていくために、生活保護を受けてよいと思うように意識が変わってきている、といったことです(25ページ)。

 

◎人権を保障する経済のあり方

 上記の個人と国家との間での権利・義務の関係はぜひとも確認しておくべきものです。ただしそれを実現するには、国家財政のあり方だけでなく、社会・経済のあり方を根本的に変えていく必要があり、発想の転換が求められます。従来からの発想では、財政が大変だ、企業が大変だ、グローバル競争を勝ち抜くために、個人は生活と労働の苦しさに耐えよ、ということです。一部のグローバル人材を育てる一方で、その他おおぜいは従順で忍耐強い人間性が求められます。「一人も置き去りにしない社会」はすべての人の発達保障を実現する教育の上に作りうるのですが、現実には弱肉強食の競争を教育にも持ち込み、教室では「置き去り」が当たり前になっています。

そういう自己責任論的な今日の労働・社会のあり方においては、親の介護のため退職が当たり前であり、雇用と所得を失った人は結局、自分の老後を生活保護などに頼ることになります。「すると、介護にかかる公的費用の分を、家族介護で安上がりにしても、結局、将来の高齢者介護に回すだけの話です。むしろ、現在、介護離職を避ければ税金も社会保険料も納めて、財政的にも貢献できるはずなのです。それが最も合理的方法です」(「対談」、29ページ)。

 その「合理的方法」を採らず、「置き去り」や「介護離職」が標準の「世間の常識」が支配的な社会をコロナ・パンデミック恐慌が襲いました。各種の一時的給付金はとりあえず必要なものですが、それでは困窮する人々を先々まで救うことができません。「対談」では居住の問題を焦点としてこう言われます。

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 また、一時的な家賃補助給付では、打ち切られた途端、ホームレスに陥る。住宅支援だけでは解決できないのです。居住の問題は、労働とセットで保障しなければ解決には限界があります。雇用、労働の場をどのようにつくるかは、様々な人権保障にとっても、社会にとっても一番望ましいことです。どうやってその雇用をつくれるか、住居の問題とセットで考える必要があります。             24ページ

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 ここでは権利の土台としての労働保障が指摘されています。「対談」ではさらに、生活し続けるためには、地域での教育・福祉・医療の保障が不可欠であるとされます。それらを含む包括的な観点として、「住み続ける権利」が「平和的生存権を基底とし、生命権、生存権、労働権、教育権保障などを立体的に含み、加えて人権保障の実践をも含むものとして提唱」(31ページ)されています。

 新自由主義の下では、人を大事にしない搾取強化・賃金低迷によって、経済停滞が常態化する悪循環が定着しています。それに対抗して、「住み続ける権利」の土台として、人間を大切にすることによって好循環を実現する経済のあり方を創出すべきです。それが財政を基軸に次のように論じられます。

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 大本 学校教育も同じで、平時でも日本は1クラスの生徒数が多すぎます。人間に対して大事にしていく思想がなくて、すぐ経済、財政が大変だという話になるのはなぜでしょう。

 国の財政のプライオリティ(優先度)の問題はあるでしょうが、どこに使うべきかの思想が欠けていて、人の問題が最優先に来ないのです。逆に人を大事にせず、人にお金を回さなければ財政の効果は上がりません。人を育てることで経済も豊かになるのです。今のやり方ではジリ貧です。

 井上 人権保障というのは、人が一番大事だということです。大本さんの言葉では、人にやさしい財政。そこにお金が回っていけば、経済も財政も好循環になっていく。今はコロナ感染対策の上でも、少人数学級のチャンスです。      33ページ

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 人を大事にする意味についてはこう語られます。

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人間開発の目標は、それぞれの潜在的能力、可能性を伸ばしていく、それが人間に対する使命であり、社会を作っていく力になるというのです。日本の現状を振り返ると、一人一人が、自分の潜在的能力、可能性を最大限発揮できているか、何のために、人権保障をしていくべきなのか、その根本の目標を考えるべきだと思います。  同前

 

もし根底から労働の改革をするのであれば、人間の尊厳と自己決定、人間は価値において平等であるということを根本にすえて、雇用も賃金も保障していく。何のために働いているのか、働くことが自己目的化されたやり方を転換していくことが必要です。 同前

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 社会発展を実現する人間の力はどのように引き出されるのでしょうか。資本主義では、格差をインセンティヴとして競争に駆り立てることで、先端部分において目覚ましい成果を実現してきました。これは人間を追い詰めてギリギリと力をしぼりださせるというかなり無理筋の発展方式です。しかもその陰に多くの敗者を生み出します。それに対して、万人の可能性を引き出す教育と生活保障によって自発的に伸び伸びと力を発揮する発展方式を実現させることが求められます。そんな甘いことを言っていては競争に負けるというのが資本主義の発想ですが、そういう非人間的競争は社会的に規制するしかありません。「働くことが自己目的化されたやり方」というのは、搾取下での疎外された労働の一面を語っており、「何のために働いているのか」を問うことができて初めて、人間が主体となった労働と言えます。資本主義下でそれは自動的に実現できない以上、世論の同意を強めて社会的に規制するしかありません。

おそらく近代的な人権概念は、商品経済の発展を土台として、人格的独立・自由・平等のイデオロギーが普及したことによって確立したものでしょう。しかし公共領域への商品経済の浸透ないし支配、そして商品経済の上に展開する資本主義的搾取の存在という二面から人権の実体は不断に空洞化にさらされます。商品経済の発展は前近代的共同体から人間を解放するとともに、新たに市場へ従属させ、さらに資本主義経済では資本が主体・目的であり、人間は客体・手段である以上、個人の尊厳を主軸に成立する人権体系との矛盾は避けられないからです。人権について、学校の社会科で習うタテマエと「実社会」のホンネとの乖離がそこに出現します。

 しかしそうした矛盾から、20世紀において社会権が生まれました。これまでの人権体系を批判的に継承し発展させるのは、社会主義的変革ですが、それ以前の段階でも、人間が主体となった諸運動を通じて、資本主義市場経済に必要な規制をかけ、人権の空洞化に歯止めをかけ発展させていくことは可能です。コロナ禍の下での闘いに見られるように、生活と労働を守るやむにやまれぬ行動が戦線を切り拓いていきます。資本が主体で、人間が客体である、という資本主義の根本矛盾に人権侵害の根源があることを見つめながら、社会主義的変革を遠望しつつ、人間が主体となった諸運動によって資本を規制し、政府を動かし、人権を紙の上だけでなく現実社会に実現していく闘いが求められます。

 

 

          金融化の下での実体経済停滞と搾取強化

 日本経済の停滞が言われて久しく、1990年あたりのバブル崩壊を起点として今日まで30年ばかり続いている、という見方が一般的なように思われます。たとえば山家悠紀夫氏は「敗戦の一九四五年から九〇年(前後)までは、日本経済の回復・上昇の時代であった、そして九〇年以降現在までは、日本経済の転落・衰退の時代へと変わった、と見ることができる」とか「九〇年以降の日本経済は、総じて見れば凋落傾向にある、落ち目である、と見ざるをえない」(『日本経済30年史 バブルからアベノミクスまで、岩波新書、2019年、「はじめに」より)と述べています。1958年生まれの私は、十代のころより体制批判的認識を持っていましたが、高度経済成長期に育ったことが身に染みついていると見えて、日本経済が世界的にも例外的な低成長に陥ったという現実に長らく感覚的になじめないできたという実感があります。

 山家氏によれば、バブルは構築物ではなく泡に過ぎないのだから、それは崩壊するのではなく破裂するものだということなので、以降はバブル崩壊ではなくバブル破裂と表現します。バブル破裂後の30年の間には、戦後最長の「いざなみ景気」(20022月〜082月、73か月)なるものもありますが、庶民の実感としては、万年不況です。しかし山家氏は30年を一色に見るのではなく、1997年を画期とします。たとえば給与所得はいまだにこの年の水準を回復していません。この年に橋本龍太郎内閣の「六大改革」が始まり、以後、小泉改革など一連の「構造改革」が日本経済を転落・衰退させた、と山家氏は主張するので、1997年を重視するのです。

 そうした経済政策次元を重視する時期区分に対して、大企業の資本蓄積様式の変化という次元から、2004年を画期とするのが、藤田宏氏の「大企業の金融重視経営への転換とアベノミクス」です。それによれば、2004年度に初めて大企業(資本金10億円以上)の金融収益(=営業外収益―営業外費用)がプラスになりました(133ページ)。以後、それが加速度的に増加し、「大企業は、営業利益の増加に匹敵する金融収益を手にするようになった。大企業がそれまでの本業で儲ける経営から、本業以外の財務・金融活動で生まれる金融収益重視の経営に本格的にシフトするようになった」(134ページ)というわけです。

製造業・大企業の金融収益を見ると、2000年度と01年度にプラスになっており、02年度にマイナス転落して後、03年度以降はプラスが続いています(表1134ページ)。そこで気になったのが、バブル期はどうだったかということです。法人企業統計によれば、1987年度から90年度までの4年度間、プラスになっています。89年度の0.2兆円が最高ですからわずかなものではありますが…。バブル破裂後、91年度から99年度までマイナス転落し、2004年度以降、1兆円以上の金融収益が定着し、基本的に増勢で、18年度には7.0兆円も稼ぎだしています。そこからは、産業の屋台骨とも言える製造業において、すでにバブル期に金融重視経営への萌芽があったと言えるのではないでしょうか。バブル期とは、実体経済の困難を回避して金融収益に頼るという、現代のグローバル資本主義の本性が顕在化し始めた時期だと言えましょう。バブル破裂でその路線がいったん挫折しても、国家介入によって立て直しました。そして特筆すべきは、04年あたりに「金融重視経営への転換」が明確になって以降は、100年に一度の経済危機と言われたリーマン・ショックの影響を受けた0809年度においても、「いざなみ景気」終盤の07年度の2.2兆円を超える2.9兆円(08年度)、2.4兆円(09年度)の金融収益をたたき出していることです。リーマン・ショックは未曾有の金融危機であったわけですが、日本経済はむしろ実体経済への打撃が大きくて、製造業・大企業の営業利益を見ると、07年度の15.2兆円に対して、08年度3.5兆円、09年度3.4兆円に落ち込んでいます。070809年度の金融収益率(金融収益÷経常利益)は12.5%、44.6%、41.1%と推移しており、日本の製造業・大企業は世界的な金融危機の最中に、本業の落ち込みを金融収益で補ったことになり、まさに「金融重視経営への転換」を強固に確立したとも言えましょう。ちなみに営業利益、07年度の15.2兆円に対して18年度は12.4兆円でしかありません。全産業ではさすがに18年度が上回っているようなので、製造業の空洞化を反映しているというべきかもしれません。ところが金融収益では、07年度2.2兆円に対して、18年度7.0兆円であり、したがって経常利益は07年度17.3兆円に対して、18年度19.4兆円と上回っています。金融収益率は07年度12.5%に対して36.1%であり、リーマン・ショック時ほどではありませんが、この高い金融収益率が製造業を支えているということになります。「製造業・大企業は、本業のモノづくりによって得る営業利益は横ばいなのにもかかわらず、金融収益への依存を高めることによって、経常利益を伸ばしている。金融収益重視経営にシフトしているのである」(134ページ)という評価は、リーマン・ショックという「試練」にも耐えて「確立」したと言えましょう。

 金融収益重視経営以後は内部留保の積み増しが加速され、それが設備投資ではなく投資有価証券に使われています(136137ページ)。それで高利益を上げるのですが、そのためにまた内部留保を積み上げ、さらにそのために人件費を切り詰めるという、労働者から見たら悪循環、企業経営から見たら好循環を実現しています。そこにはそもそも価値を生まない金融という活動の罠があります。「大企業は、金融市場に莫大な投機資金を投入して、マネーゲームによる高利益を確保しようとして」おり、「金融の自由化、証券化が進む中で、金融収益をあげる多様な金融商品が開発されてい」ますが「これらの金融商品は、新たな価値を生み出すものではなく、」「新たな追加資金が金融市場に投入されない限り、金融投資・マネーゲームで高利益を確保することができない」のです(137ページ)。したがって「金融収益重視の経営においては、投資資金を金融市場に投入しつづけることが至上命題となり、投資資金を確保するための労働者への犠牲転嫁、搾取強化の攻撃はかつてない激しいものとなる」(140ページ)わけです。

今日の急速に膨張する金融市場の中心はかつての預金・貸出市場ではなく、証券の組成・募集・売買を中心とする証券(架空資本)市場であり、したがって金融市場の膨張は架空資本の種類・市場価格・取引高の急速な増大として現れます。これはいわば外部から資金を投入しなければつぶれてしまうネズミ講のようなものです。そうすると、資本間競争を闘う個別資本の主観的意図はともかく、少なくとも客観的には、金融収益重視経営時代の総資本の意志として、投資資本を確保するため設備投資と賃金との抑制に励むことになります。こうして金融収益重視経営を軸として、実体経済の停滞と搾取強化、金融化のいっそうの推進が一体となって進行します。

それを応援するのがアベノミクスです。まず搾取強化の手法として、「働かせ方」改革・非正規化・フリーランス拡大が推進され、次に株価連動内閣と揶揄されるのも何のその、日銀や年金資金を使って株を買い支え、高株価を維持しています(143146ページ)。 

ここで山家氏の1997年を画期とする説と藤田氏の2004年重視説との関係を考えてみます。1995年に日経連が発表した「新時代の『日本的経営』」が号砲となって、90年代後半から2000年代初めにかけて労働規制緩和が強行され(1999年:派遣労働が原則自由化、2003年:製造業にも解禁、パートや契約社員などの有期雇用の拡大)、「正社員が当たり前」の時代が過去のものとなり、不安定雇用が一般化し、搾取強化の環境が整備されました。いまだに賃金が1997年水準を回復できていないことはその象徴です。それを基盤として、新自由主義グローバリゼーションに対応した構造改革路線が鳴り物入りで扇動され、強行されました。それは製造業の空洞化を招き、賃金と社会保障を抑制するので、有効需要不足による経済停滞を常態とさせました。そのような実体経済における資本過剰に対して、過剰貨幣資本の運動領域として金融市場が拡大されてきました。以上の地ならしを受け、搾取強化・経済停滞・金融化の進行への対応として、2004年以降、金融収益重視経営が確立しました。1995年の財界の「労働改革」の意志表明に始まり、97年に本格化する構造改革政治から7年後に、その生み出す状況に適合的であり、経済的土台の底部からそれを推進する経営路線が確立したということです。新自由主義改革は上から政治的に始まり、それに従って経済的下方では、個別資本の経営ポリシー・行動指針を変容させるに至り、それは搾取強化を伴いました。こうしてトリクルダウンの構造が一掃されたと言えます。

私は新自由主義を、実体経済の生産過程における搾取強化、ならびに金融化の促進という二面で捉えてきました。藤田論文はそこに「大企業の金融収益重視経営への転換」という結節点を見出すことで、両面が統一される仕組みを解明しています。それは金融化の下での実体経済停滞と搾取強化について、資本主義経済における企業経営という深部から、資本蓄積様式の変容として描き出すことに成功していると思います。

 

 

          断想メモ

 828日、安倍首相が持病の再発を理由に辞意を表明しました。私は悔しくて悔しくて悔しくてたまりません。本来、野党共闘が総選挙で勝利して、政権を奪取することで安倍政権を打倒するべきでした。ところが結局それはかなわず、戦後最悪の首相を逃がしてしまいました。誰が後任の自民党首相になるにせよ、安倍亜流政権を許さず、戦争法ならびに新自由主義と決別した立憲主義の政治を実現すべく努力する他ありません。
                                 2020年8月30日






2020年10月号

          コロナ・パンデミックと資本主義

 

1)新自由主義の破綻と経済再建の方向

  横山壽一・寺西俊一・米田貢・友寄英隆online座談会「コロナ・パンデミックと資本主義」は実に包括的な議論が展開されており、とても全体を見渡すことは出来ないので、以下では若干の論点だけ言及します。

 コロナ禍によって、非正規労働者を始めとして、社会的弱者が窮乏するだけでなく、生命・健康の危機に直面しています。医療の状況も深刻です。安倍首相(当時)は感染拡大第一波の状況に対して「日本モデル」の成功と評価しましたが、実際には現場で事実上医療崩壊しており、資材も専門家も不足し、感染防止対策が不十分で院内感染を引き起こし、診療体制の縮小を余儀なくされました。PCR検査が極めて限られた状況下でさえ、危機に陥ったのです(76ページ。感染対策での保健所の活動は称賛に値するが、PCR検査がまともに行なわれていれば、保健所は破綻していた、と指摘されている。80ページ)。

 一例として、東京の永寿総合病院が3月下旬に集団感染を起こした状況に触れます(山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第1回 永寿ケース」、『世界』10月号所収)。院内感染が発覚した当時の看護師の手記が次のように苦闘を伝えています。

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 「感染の拡大が判明した当初は、患者さんが次々と発熱するだけでなく、日に日にスタッフにも発熱者が増え、PCR検査の結果が病院に届く二〇時頃から、患者さんのベッド移動やスタッフの勤務調整に追われていました。

 なかなか正体がつかめない未知のウイルスへの恐怖に、泣きながら防護服を着るスタッフもいました。防護服の背中に名前を書いてあげながら、仲間を戦地に送りだしているような気持ちになりました。

 家族がいる私も、自分に何かあったときにどうするかを家族に伝えました。

 幼い子供を、遠くから眺めるだけで抱きしめることができなかったスタッフ、食事を作るために一旦帰宅しても、できるだけ接触しないようにしてホテルに寝泊まりするひとり親のスタッフもいました。家族に反対されて退職を希望するスタッフも出てきましたので、様々な事情を抱えながら、永寿が好きで働き続けてくれるこの人たちを何とかして守らなければ、今の業務を続けていくことはできないと強く感じました」 4748ページ

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 血液内科は永寿総合病院の花形の診療科です。そこでは白血病や悪性リンパ腫に対して意図的に免疫機能を落とす治療が行なわれ、無菌室が設けられ、感染症には細心の注意が払われていました。しかしそこをも感染は襲いました。「血液内科の陽性患者四三人中、二三人が絶命する。死亡率五三%。医師や看護師は無力感にとらわれた」(49ページ)。連携する慶応病院にも感染は飛び火しました。院内感染は都内で同時多発的に燃え広がり、416日時点では「救命救急センター」26か所中10か所以上で診療制限がかかる状況になり、医療崩壊が目前に迫りました(同前)。

 山岡氏は院内感染の原因について、物理的理由よりもむしろそれを生む人間の判断に問題の本質を見ています。たとえば現場の看護師の気づきが医師に伝わり、素早く対策に生かされるかという問題です。「病院の文化、体質が問われているんです。平時から言いたいことが言えて、病棟の風通しがよければ動きが早い。でも、上位下達で医師の言うままにやっているところでは難しい」(東京都看護協会の山元恵子会長の「一般論」。50ページ)。これは医療機関のみならず様々な社会集団にとって重要な指摘だと思います。ただし山岡氏はそういう社会的問題の大切さに留意しつつも、政治の問題にこそ正当に焦点を当てています。

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 では、永寿の院内感染が残した最大の教訓は何か。それは、PCR検査の迅速かつ広範な実施だ。気づくのが遅れたとはいえ、感染がわかって即座にすべての患者、職員の検査をし、陽性者の隔離が進んでいれば、流行曲線の山はもっと低く、なだらかになっていたと考えられる。     50ページ

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 永寿よりも前に院内感染を起こした和歌山県の有田済生会病院に対して、仁坂吉伸知事は800件以上の検査を実施し、収束に導いています。それに対して「かたや保守的な小池知事は、永寿の感染爆発を目の当たりにしても一切動かなかった。その姿勢は、いまも変わっていない」(51ページ)と厳しく指弾されています。

 PCR検査については、「第2波、大幅不足とは言えぬ」という評価もありますが、これはあい変らず偽陽性などの問題にこだわる特殊日本的な考え方を基にしています(「朝日」927日付。検査抑制論への反論としてはいずれも「しんぶん赤旗」で、徳田安春氏:725日付、渋谷健司氏:88日付、中粗寅一記者:89日付、宮地勇人氏:820日付、谷口清州氏:826日付、等々)。現実には、たとえば保健所の実情は以下のようです(「朝日」928日付「声」欄=読者投稿)。開業医が、抗体検査陽性の患者に対するPCR検査を依頼したところ、「保健所の対応に驚きました。味覚障害のみ、かつ感染から10日経っているのでPCR検査をしても陰性のはず、従って検査しないとのこと。帰宅させてよいと、特に注意もありませんでした。感染10日で全て治癒すれば医者はいらないと思います」という具合です。これに対して、「今回の症例も公衆衛生上は大問題です。これに保健所が背を向けているようでは、日本が安全な国であると自慢することはできません」と批判するのはまったくもっともです。要するに政治がリーダーシップを発揮して、大量のPCR検査を実施して感染を抑え込むという姿勢になっていないことが問題です。コロナ感染にこれからも山と谷があるのは当たり前だ、という前提では日本社会はまったく疲弊してしまいます。感染の抑え込みを見据えた取り組みが必要です。その点で日本は東アジアの中で遅れています。

 PCR検査が進まない原因として、「現在の感染症病床・入院体制、検査体制の下では、大規模に検査を行って感染者を受け入れる余力は全くな」い(「座談会」に戻って、78ページ)ことが挙げられます。そういう状況を作ったのは長年の新自由主義政策による社会保障の切り捨てです。その中でも医療提供体制の見直しの手口が「座談会」で告発されています。「2014年から始まる、都道府県単位で病床を管理し削減していく地域医療構想の策定」では「効率的な医療供給体制の構築の名のもとに、医療需要を狭い範囲に限定して、それに合わせて削減する方式」が採られました(76ページ)。具体的には「経済的事情で受診できない人、医師や看護師の不足で未使用になっている病床など、本当は必要だが潜在化している需要は一切無視してきました。こうして病床の削減は極限まで進められ、実態とかけ離れた、そして何よりも余力を全く持たない医療体制へと転換していったのです」(7677ページ)。

 こういうインチキを見破ることが重要です。効率至上主義者は科学的装いを持って、「非効率」を排除しようと、何より数字を客観的エビデンスとして提出します。その際、すでにある統計数値は最重要です。しかしそこに上記のような陥穽があります。医療供給体制構築の基となる医療需要の想定において、実際の受診数や病床稼働率をそのまま使ってはいけません。そこには「本当は必要だが潜在化している需要」が反映していません。統計数値を扱うにも、現状に埋没するのでなく、変革の観点からの政策的想像力が必要です。もちろん客観的数値は尊重されねばなりません。しかしその数値がいかにして形成され、現実をいかように反映しているのか、現状の変革のためには、それに何を補って見なければならないか、そこまで捉える必要があります。針小棒大な言い方かもしれませんが、ブルジョア社会科学との闘争の一つの焦点がそこにあるように思います。それを踏まえた上で、新自由主義的「効率性」への徹底的批判と、社会的再生産における医療の位置づけが以下のように総括されています。

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 これまで、地震や災害のたびに、非常時の対応は日常的にどのような体制をとっているかが問われるとして、余力のある体制、備えのある体制の必要性が指摘されてきました。しかし、政府はそれとはまったく逆の政策を進め、徹底して余力や備えをそぎ落した「効率的」な体制に変えてきました。しかし、その政策は、今回の事態で明確に破綻しました。少なくとも、現在の医療政策のベースになっている「効率性」の考え方、その前提となっている医療需要のとらえ方を抜本的に見直し、病床・医師・看護師の配置を今回の経験を踏まえて一から作りなおす必要があります。

 医療は、社会科学的な意味でいえば、社会的共同的な生活基盤であり、マルクスが『ゴータ綱領批判』(1875年)で「社会的総生産から控除されるべきもの」として挙げた「共同で欲求を満たすための設備」「事故や天災に備える予備積立または保険積立」として位置づけることができます。したがって、社会的共同的な管理の下で計画的に整備を進めていくという基本にたち戻る必要があります。       78ページ

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 PCR検査が進まない現状から出発して、以上のように一方で、中長期的視点からの新自由主義批判と医療・社会保障の再建の必要性が展開されています。他方で、PCR検査の拡充を軸に、当面するコロナ対策を考えることも求められます。

 「3密の回避」がコロナ対策の基本ですが、それは「社会的存在としての人間の本性に反して」います(7484ページ)。この矛盾をどう調整するかが問題です。現状では、過剰な「社会不安」による消費需要の蒸発が経済停滞をもたらしています。過剰な恐怖による自粛の行き過ぎを正して、経済活動を適正に再開させることは、打撃の大きい貧困層などの救済などにとっても喫緊の課題です。PCR検査などで感染の実態が正確に把握できるようになれば、「3密の回避」措置は一律ではなく、個別・具体的に行なっていくことが可能になります。感染のリスクの内容と大きさを具体的に評価し、正確な科学的分析に基づくマニュアルをつくり、リスク管理の仕方を誰にもわかりやすく周知する必要があります(85ページ)。そうして休業補償と営業再開とを適切に組み合わせていくことで経済活動を徐々に正常化させていかねばなりません。

 

2)所得保障の問題

 コロナ禍の惨状の中で、新自由主義政治からの決別が大きな一致点になりつつありますが、「座談会」ではもう一つ、所得保障まで進むことが提起されています。「医療と年金を両輪とした社会保険中心の社会保障制度から、貧困層への所得保障を第三の柱とする社会保障・社会福祉制度への抜本的な再編が求められ」ている、という考え方です(91ページ)。問題の本質は「労働と所得が結びついた資本主義の原理を変えないと立ち行かない事態」(93ページ)としてまさに捉えるべきでしょう。そこで「生活保護だけでどこまで対応できるか議論が必要」との認識の下、「ベーシックインカムの議論が再燃してい」る状況にあります(同前)。その評価は措きますが、まずは捕捉率2割の生活保護を文字通り最後のセーフティネットとして、生存権保障機能を十全に実現すべきでしょう。社会保障というのは一面では資本主義の延命策ですが、他面では失業者や貧困層の生存権を否認する「資本主義の原理」に逆らって労働者階級が勝ち取ったものですから。

 とはいえ、「労働と所得が結びついた資本主義の原理」が支配的な経済を現在は前提にせざるを得ません。したがって、コロナ禍の悲惨な経済状況を前に、社会保障などによる所得再分配が喫緊の課題であるのは当然としても、その先には、グローバリゼーション下で衰退した地域経済を内需循環的に再構築するなどして、国民経済を再建し、労働と所得の結びつきを実現する必要があります。当面の再分配論から、その先には生産論の新たなビジョンに前進すべきでしょう。

 

3)デジタル化をめぐって

 資本主義下で新たな生産力が展開するとき、支配層は搾取と社会的支配の強化に利用しようとし、被支配層はその生産力の持つ、主体的・客観的可能性と、その資本主義的利用がもたらす矛盾との両面を見据えて社会変革に利用しようとします。「座談会」では「コロナ後のデジタル化」について、様々に語られていますが、私はデジタル化などの新しい動きには疎いせいで、残念ながらなかなかその問題点も可能性もイメージが浮かばないというところです。支配層が攻勢的に宣伝してくる中で、普通の人々の生活と労働にとっての具体的イメージを対抗構想に示すことが必要です。

 教育におけるSociety5.0の実践の一つとして、すべての子どもに端末を持たせる「個別最適化された学び」なるものが目指されています。コロナ禍でそれが加速されそうです。これなどは教室における集団的学びの意義を否定するものとして由々しき問題として捉えられます。教職員の方々からは、実際にはそう簡単に進むものではない現実のあり方を聞かされます。その他の分野でも同様のあつれきはあるでしょう。

 生活の利便性の向上などを餌にしたり、あるいは使用せざるを得ない状況を作って、半強制的にマイナンバーカードの普及を一気に図るようなことが狙われているようです。個人情報の漏えいや悪用が心配されます。たとえば「しんぶん赤旗」929日付は「デジタル化が生む差別」として次のように警告しています。

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 経団連は医療・生活・購買・移動などの個人情報を民間事業者が蓄積する「パーソナルヘルスレコード」(PHR)の仕組みづくりを進めます。政府がマイナンバーのもとに蓄積しようとしている国民の医療・健康情報をPHRに統合することも求めています。

 それらの情報を新サービスや医薬品の開発に利用しつつ、国民に対しては情報を参照して「健康意識を高める啓発活動を実施していく」といいます。

 健康の自己責任論を極限まで推し進め、「健康スコア」の低い人を断罪し差別し排除する「新サービス」が出現しかねません。

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それに対して「座談会」では、デジタル技術は新たな社会的共通財(コモン)であり、それにふさわしい管理・運営が確立されるべきで、情報公開・市民参加・統制の仕組みが必要だとされています(89ページ)。そうした正しい原則をどう具体化していくか、イメージの提起が必要でしょう。

 

4)資本主義批判と社会主義論の意義

 1970年代にケインズ主義の矛盾がインフレ・財政危機・石油危機・環境危機などとして発現し、「経済学の第二の危機」(ジョーン・ロビンソン、1971年の講演)が叫ばれました。そこで80年代以降は新自由主義が取って代わって主流となり、規制緩和・民営化などによる構造改革が福祉国家を破壊し、「今回のパンデミックでその弊害が鮮明になってきたわけです」(92ページ)。だから2020年代の新自由主義の破綻は1970年代のケインズ主義の危機に比肩されます。そこで経済理論の課題として「公共性をめぐる議論の再構築が改めて必要になっている」(同前)とされます。その際に、「ケインズ主義や厚生経済学の伝統を踏まえたうえで、『公共性重視』の議論を展開し」た(同前)R・マスグレイブや「社会的共通資本」の理論を展開した宇沢弘文らの議論が採り上げられるべきだとされます。

 もっとも、「経済学の第一の危機」は20世紀前期の世界大恐慌後の大不況を背景としており、危機に陥ったのは新古典派理論です。ロビンソンはケインズ理論によってそれが克服されたとするわけですが、1970年代の「第二の危機」は前進的に解決されるのではなく、彼女の問題提起とは逆に、ケインズ反革命の実現となります。つまりグローバリゼーション下での新古典派の復活ともいうべき新自由主義の覇権確立に帰結します。そこで2020年のコロナ・パンデミック危機あるいは、2008年のリーマンショックによる世界金融危機をも併せて「第三の危機」と呼ぶならば、新自由主義とケインズ主義がともに克服され、未来から振り返れば、社会主義的変革に向かう前の第一歩であった、となればいいですが、なかなか難しそうです。

 「座談会」では、新自由主義への防衛的闘いだけでなく、「コロナ後の新しい社会構想の具体的内容」(94ページ)を積極的に提起するという問題意識から、かつてのケインズ主義的修正資本主義に戻るのではなく、かといって社会主義・共産主義をすぐ実現する段階でもないので、「現在の資本主義を改革する新しい民主的な経済社会をめざすことが必要です」(95ページ)とされます。日本におけるその内容は、「憲法の平和的民主的な条項を法制的にも実態的にも、厳密に具体化する」ことです。それを「社会経済的な再建策によって裏付け、産業や企業、人々の仕事や暮らしが豊かに成長する必要があ」り、新自由主義的な市場万能でなく、国家責任による「長期社会経済計画」の策定が不可欠である、と主張されます(同前)。同様に、ケインズ主義と異なる新たな福祉国家像が次のようにも提起されます。「憲法9条と25条の徹底プラス環境政策が基本になる」として、「資本に対する活動の規制と税財政の抜本的改革」による「生存権、生活権・健康権保障を軸とした経済と社会保障、雇用の新たな相互促進的な政策体系の実現が必要です」(同前)。ここでは、資本への規制を軸とした生存権保障がおそらくケインズ主義とは異なるキーポイントでしょう。

 以上は、現状を基盤とした実現可能性のある堅実で穏当な構想だと言えます。ただそこで問題になるのは、確かに社会主義・共産主義をすぐに実現する段階でないとはいえ、2008年の世界金融危機も2020年のコロナ・パンデミック危機も単に新自由主義が招いたのではなく、資本主義そのものが根源的原因であり、本来そこでは資本主義体制そのものが問われねばならないということです。それこそが、新自由主義へのオルタナティヴがケインズ主義ではないとする根拠です。

私見では「新自由主義批判≒資本主義批判」です。それは「新自由主義≒資本主義」だからです。ケインズ主義が修正資本主義であるのに対して、新自由主義は純粋資本主義であり、資本原理主義です。市場原理主義という現象形態をまとった資本原理主義です。それは実体経済での搾取強化と金融化とによって特徴づけられます。極限までの利潤追求としての搾取強化が核心にありますが、搾取を他人労働への寄生と見れば、金融化は、資本主義が搾取経済として本来持つ寄生性の最大限の発現だと言えます。この搾取強化=寄生性の拡大は自然に対しても行なわれ、環境問題の激化をもたらしています。したがって、搾取強化と金融化の結合は資本主義の爛熟の示す寄生性・腐朽性の極致であり、この人類前史最後の体制が克服されるべきことを人類に対して要請しています。

 実際、コロナ・パンデミック恐慌での惨状は、何よりも資本主義的搾取強化を原因とする格差と貧困の拡大を誰の目にも明白にし、経済混乱への対応において、資本主義市場経済が無力であり、国家権力の介入=経済政策の発動による他ないことも明らかになりました。まさに全面的な市場経済(商品=貨幣関係)を土台とする搾取経済(資本=賃労働関係)としての資本主義体制そのものが失敗したのです。

にもかかわらず社会主義的変革が当面の課題にならないということは、一方では社会主義の意義自身が問われているのであり、他方では新自由主義へのオルタナティヴを提起する段階で、資本主義批判と社会主義の展望とを語る意義が問われていると言えます。それに関連して、コロナ禍の下で、資本主義の限界を主張する知識人が増えている状況を受けて、社会主義をどう語っていくかについて、日本共産党の志位和夫委員長飯塚恵子・読売新聞編集委員からの質問に答えています(923日夜放送のBS日テレ番組「深層NEWS」より、「しんぶん赤旗」925日付)。

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 飯塚 おっしゃるように、資本主義の限界について論陣を張る人が世界でも増えてきたと思います。先ほどの7月の講演で志位さんは、社会主義・共産主義に進むことにこそ、いま人類社会の抱えている焦眉の問題の根本的解決の展望があるとおっしゃって、大いに広げようではありませんかと呼びかけていますね。一般的な国民からすると、いきなり社会主義・共産主義を大いに広めましょうと言われると、こんなにはっきり打ち出してしまって、ついてこられるのかなと感じてしまうんですけれど、大丈夫ですか。

 志位 講演ではいきなりそこにいったわけではなくて、まずコロナ・パンデミックで新自由主義が破綻した。すべてを市場原理にまかせて社会保障をどんどん削っていく、公衆衛生・保健所を削っていく。こういうやり方が成り立たなくなって転換が求められているというところを第一に押し出したんです。これは野党で共有できる立場だと思うんですよ。

 そのうえで、さらに突っ込んで考えていった場合、格差拡大の問題、地球的規模での環境破壊の問題という二つの大問題が、資本主義のもとで必然的に出てきて、(この体制のもとでは)根本的には解決できない問題だということを提起したんです。

    …中略…

 それでは、格差や環境の問題を解決するうえですぐに社会主義に進むか。そういうことを言っているんじゃないんです。まずは資本主義の枠内で地球環境の問題に最大限の対処をする。格差の問題に対処する。しかし根本的に解決しようと思ったら、利潤第一主義を乗り越える必要があるんじゃないかという展望を大いに話そうということを言っているんです。

 飯塚 たしかにコロナをきっかけに資本主義と社会主義の話が出てきたのは面白い論点ですね。 

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 今日の資本主義の抱える二大問題――格差拡大と環境破壊――をまずは資本主義の枠内でできるところまで解決に努めるが、根本的解決には利潤第一主義を克服して社会主義に進むしかないので、今からでもその展望は語っていこう、というのが志位氏の論じる趣旨です。穏当な回答だと思います。ただし問題はあります。一つ目は、飯塚氏だけでなく志位氏にとっても、社会主義に「一般的な国民」の支持がなく、社会主義的変革は当面の課題とはされない、という状況は所与だということです。なぜそうなのかを考える必要があります。二つ目は、そういう状況であっても資本主義批判と社会主義の展望とを語る意義はあるわけですが、その際に人々のイデオロギー状況はどうなっており、どう語って行けば心に届くのかということも問題です。

社会主義的変革が当面の課題にならない要因として、客観的なものと主観的なものがあります。客観的要因は次のように考えられます。マルクスやその後のマルクス主義者の想定以上に、市場経済は強靭であり、それを踏まえれば、今日における社会主義への道は市場経済を通じて行く他はなく、まず資本主義の枠内での変革の積み重ねが必要であり、その経験を基にして、搾取の廃絶を目標とする社会主義的変革を、市場との折り合いを付けながら進んでいくことになります。言葉にするのは簡単ですが、実際の変革過程は想定外の困難をたどることは必至でしょう。それにしても社会主義的変革の「遠さ」の客観的要因は容易に理解できます。

その主観的要因の理解はかなり困難です。大前提として、20世紀におけるソ連・中国などの「現存社会主義」の失敗が、人々に決定的な社会主義のマイナスイメージを刻印したことが挙げられます。今日の日本について言えば、「中国共産党」の名において日々報道される数々の非民主的・覇権主義的行動が、社会進歩にとってとてつもない重石になっていることは明らかです。

しかしそれら「社会主義」の外国の実物だけが問題なのではありません。新自由主義下で個々人に分断され徹底的に抑えこまれ、労働者階級の連帯と団結を知ることなく、自からの狭い生活と労働の困難性に閉じ込められた諸個人にとって、およそオルタナティヴを想像することができず、知る機会もない中で、資本主義の現実に埋没するだけ、というのが一般化しているところにこそ最大の問題があるのではないか。こういう「資本主義への閉じ込め」を考える参考に、ブレイディみかこ氏の評論「(欧州季評)英保守党、脱緊縮の総選挙 暗黒の2010年代の終焉」(「朝日」20191212日付)を読んでみましょう。これはジョンソン首相の保守党が左派コービン党首の労働党に勝つだろうと言われていた時期に書かれたものです(実際、保守党が大勝した)。そういう情勢の中でも、保守党が従来からの緊縮政策を脱して、労働党の経済政策に接近せざるを得ない点に、一つの確実な希望を見出そうとしたのがこの評論の主題でしょう。しかしここでそれに触れるのは、そうした前進的な方向においてではなく、日本における社会主義の困難性を考える参考としてです。

ブレイディみかこ氏は、英国の批評家、マーク・フィッシャー氏2009年の著書から、「資本主義リアリズム」という言葉を紹介しています。それは「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済制度であり、それに対する代替物を想像することすら不可能だという意識が蔓延した状態」を指します。しかし彼女によれば、「金融危機とそれに続く不況で、自由市場資本主義は完全無欠という信仰は、少なくとも英国では打ち砕かれた。資本主義が自らを食い潰すのを防ぐために、国家の介入が必要になり、冷戦後のリベラルな自由市場主義者たちの強欲さが批判の的になった」というのです。

ところが「資本主義リアリズム」の崩壊に続いて、2010年代には今度は「財政再建無双、代替策などあり得ない」という「緊縮リアリズム」の感覚が支配することになりますが、あまりに過酷な緊縮政策のせいで貧困が蔓延し、国連が人権問題として英国に調査に入る事態となりました。そこで2019年の総選挙では、保守党が緊縮政策を取り下げることになり、「緊縮リアリズム」はようやく終わろうとしている、というのが彼女の評価です。

ここでは英国での見聞による生活実感に基づいた政治評論が展開され、事態が前進的に捉えられようとしていますが、日本に当てはまるのは「資本主義リアリズム」の概念そのもののように思います(「緊縮リアリズム」についてはここでは措きます)。

資本主義では、市場経済から由来する法的な独立・自由・平等があり、市場での取引はその原則に従うため、生産過程における搾取が隠蔽され(領有法則の転回)、個人的努力が報われるという感覚が支配し、したがって成功していない者は努力が足りないという自己責任論に攻められます。資本主義社会に生まれた個人は元来そのイデオロギーに支配されているため、容易に「資本主義リアリズム」に染まります。それから本当に脱するには、搾取に由来する生活困難・労働苦を確実に受け止めるのみならず、資本主義を相対化する社会科学の理論を知る必要があります。現代日本ではそういう条件はほとんどないので、まさに「資本主義リアリズム」の天下となっています。

「資本主義リアリズム」は恐ろしく現状肯定的で他者排除的であり、おそらくその現実的機能は、単に社会主義を排撃し資本主義体制を一般的に擁護するにとどまらず、現状を総体として聖化することにあります。あるいはそこまでいかなくても、現状をおとなしく受容するような諦念を一般化します。あらゆるオルタナティヴへの想像力を奪うのです。安倍晋三氏の「この道しかない」です。日本社会の本質に関連して言えば、対米従属と大企業中心主義に疑問を持たないイデオロギーとして、それは作用するでしょう。そういうと非常に特殊なセンスのように聞こえますが、それは極めて「普通の意識」であり、たとえば「朝日」などに代表される必ずしも反動的ではないマスコミも共有しています。したがって、「資本主義リアリズム」のイデオロギー的覇権という現実を捉えるなら、それが先々の体制選択の問題のみならず、当面する民主的変革においても克服すべき対象であることが分かります。

そうした中では、志位氏が述べているように、格差拡大と環境破壊という資本主義の二大問題の解決を資本主義の枠内だけでなく、資本主義体制そのものの克服と社会主義的展望とを併せて語ることは、当面する闘いにも有意義だと言えましょう。一般的に言えば、あらゆる批判には確固たる基準が要るのであり、現実の徹底的分析とその矛盾に対応したオルタナティヴがあってこそ可能になります。それは民主的変革の段階にも、社会主義的変革の段階にも当てはまります。前者におけるオルタナティヴの提起の基には、資本主義のもたらす矛盾への批判的認識があるので、社会主義的変革の必要性にまで言及することは民主的オルタナティヴへの理解を深めます。

人を見て説けということではありますが、人々が社会主義を支持していない中でも、眼前の困難の原因が資本主義そのものにあることを解明しながら、それと、社会主義による根本的解決とをしっかり結び付けて語るならば、社会変革へのラディカルな(根源的な)理解に達する可能性はあります。

 

5というより番外)不合理に見える現実の認識

――「資本主義リアリズム」批判から考える

 上記の「資本主義リアリズム」のリアリズムとは、無批判的現状追随主義を意味しているでしょう(仮に「似非リアリズム」と呼びます)。それに対して、本来の意味のリアリズムとは、現実をありのままに見て徹底的に分析することで、そこにある矛盾を明らかにする、つまり現実への科学的批判を不可分に含んでいる姿勢を意味すると思われます(仮に「真正リアリズム」と呼びます)。ただし先入見や予断を持って、作為的に矛盾を読み込んで現実に押しつけるような態度に陥ることは警戒されねばなりません。それは変革の意志に貫かれた善意であっても明らかに「非リアリズム」です。

 私流の「真正リアリズム」提起の源泉は、弁証法の神髄を語ったマルクスの有名な言葉です。

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 その神秘化された形態で、弁証法はドイツの流行となった。というのは、それが現存するものを神神しいものにするように見えたからである。その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌まわしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである。

 マルクス『資本論』第1巻 あと書き〔第二版への〕

(日本共産党中央委員会社会科学研究所監修、新版『資本論』1、新日本出版社、2019年刊、3334ページ)

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 社会には不可解なものが満ちています。しかしどんなにおかしくても、そこに現にある以上はその存在理由があります。それを認識するには、まずは現存するものを肯定的に理解し、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解をも含む必要があります。性急に前段を省けば非リアリズムに陥り、前段だけに留まれば、現存するものを神神しいものにする神秘化された認識=似非リアリズムに陥ります。

 私にとって、78カ月も続いた安倍政権は最高に不可解な存在でした。特に、その主要な政策に対する支持がないのみならず、数々の政治汚職にまみれても、ときに若干落ちながらも、内閣支持率がおおむね45割程度をずっと保ち続けたことは驚きでした。この大いなる矛盾をアベパラドクスと名付けて解明しようとしましたが、その繰り出す魔球に対して何ら決定打を打てずに勝利投手としての降板を許しました(9月の「朝日」世論調査で実績評価:71%!!)。安倍政権が政策的に行き詰まって終わった、というのは、客観的にはそうなのですが、それは世論という主観には何ら反映されていません。

 ここで「資本主義リアリズム」の定義を再掲すると、それは「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済制度であり、それに対する代替物を想像することすら不可能だという意識が蔓延した状態」です。この「資本主義」に他のものを代入して、似非リアリズムたちを陳列して見ると、今日における社会的政治的判断停止状況が浮き彫りにできます。「ボーと生きてんじゃねえよ」と叫びたくなります。――安保(日米同盟、対米従属)リアリズム、大企業支配経済リアリズム、安倍政権リアリズム―― 最後のものはこうなります。「安倍政権が唯一の存続可能な政治・経済制度であり、それに対する代替物を想像することすら不可能だという意識が蔓延した状態」。アベパラドクスが成立する土壌はこれであったかという気がします。もちろん「安倍政権リアリズム」はその風景を描いただけで、その成立理由を何ら説明していませんが…。

 「安倍政権リアリズム」を打破すべく、真正リアリズムを貫く努力はもちろんされています。たとえば、重田園江氏の「投資する人々、沈黙の政権支持」(「朝日」923日付)は、「安倍政権の経済政策は、明らかに富裕層と企業向けのものだった」と批判的に認識しつつ、それでも株価連動政権とさえ揶揄されるほどに株価対策に集中して生きたことが政権維持に役立ったことを解明しています。NISAのような小口分散投資が増えると、経済情勢に精通して有望株に賭ける必要はなくなり、日経平均株価が高い状態が歓迎されるようになるというのです。

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 経済と政治の話は別だなどというのは大間違いだ。平均的な株価水準維持を願う人々は、頼もしい異次元緩和を財政規律の観点から批判することはできず、また首相夫妻が誰と桜を見ようと、あるはずの名簿がないと言い張ろうと、興味がないふりをすることができる。そして政治的意見を表明することのないまま、アベノミクスありがとうと心で唱えて沈黙の支持をつづけてきた。こういうことではないだろうか。

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 そういう小口投資家がどれほどいるのかは知りませんが、安倍政権への隠れた支持層を暴き出しています。これは「安倍政権リアリズム」の一端に迫っていると言え、マルクスの言う「現存するものの肯定的理解」の側面を担うものではあります。重田氏の政権への批判的認識からすれば、これは「否定的理解」に向かう足掛かりとすることができるでしょう。

津田大介氏は毎月末、「朝日」の「論壇時評」で鋭い社会批判の観点を披露しています。924日付では、「安倍政権の功罪」と題して政権の8年近くを論じていますが、意外に高評価を与えています。たとえば飯田泰之氏のアベノミクス礼賛を無批判に紹介しています。リフレ派が異次元金融緩和のアベノミクスを礼賛するのは当然であり、そこで言われている正規雇用者がいくらか増えたというようなことは、新自由主義政権の非正規雇用拡大政策の中での一時的現象に過ぎず、そもそも政権の姿勢がどうなのか、という本筋の観点を外しています。おそらく津田氏の今回の論稿は、安倍政権批判派としても「公正な観点」を採っていることを示そうとするあまり、政権そのものの本質を衝くことを忘れ、所与の状況の中での若干の動きを細かく見ている、という些末なことを誇示しているように思えます。これは、「現存するものの肯定的理解」を追うあまりに、「否定的理解」へのつながりを欠いていると言わざるを得ません。対象の本質への根底的批判とオルタナティヴ提示という基本を外せば、容易に似非リアリズムにはまります。ここでは「安倍政権リアリズム」に絡め取られたということです。

 山之上玲子氏の「政権評価の声、感じ取れたか」(「朝日」929日付)に至っては、惨憺たるものと言う他ありません。安倍政権を評価する「71%の衝撃」に腰を抜かし、ひたすらそうした世論へのオモネリに向かっています。そういう世論を見抜けなかったことを反省するのは当然としても、ならばなぜそれが形成されたかを考え、自分たちメディアもその原因の一つであろうことを反省し、間違った世論をどう立て直していくかに思いをはせるべきです。戦前・戦中、世論が侵略戦争支持一色になったとき、メディアはその状況を積極的に推し進めました。歴代自民党政権をはるかに上回る勢いで、安倍政権は日本の民主主義を徹底的に破壊しました。その実績を71%が支持する世論は、かつての戦争支持の世論にも近づくものです。それにオモネルことはかつての誤りをまた繰り返すことです。「現存するものの肯定的理解」と同時の「否定的理解」がまさに求められているのです。

 もっとも、「朝日」930日付では、集団的自衛権の問題に絡んで、2013年に内閣法制局長官を退任させられた山本庸幸氏が登場して、安倍政権の恣意的人事を批判しているし、同一面では、これまで執拗に安倍政権を批判してきた高橋純子編集委員がそれを総括し、菅政権への交代をこき下ろしています。そのかたくなで依怙地な姿勢がいつもながら痛快です。そういった記事が「安倍政権リアリズム」の批判と解明に貢献しているかどうかは分かりませんが、私が言いたいのは「何のために理解するのか。変えるために理解するのだ」ということであり、ただしそれを非リアリズムに陥らずに実行すべきだ、ということです。


                                 2020年9月30日




2020年11月号

☆目次

1> 「世界農業」化 VS 「国民的農業」

2> 「属国化」「空洞化」を捉える政治経済学

     ☆補注 中村哲氏と憲法の平和主義

3> 学術会議への国家権力の介入

     < 1. ホンネとウソ >

     < 2. 内閣支持率、世論の動向 >

☆反知性主義の蔓延:学問への無理解と学者への反発

1)事実ではなく、日頃からの不公平感・不遇感、

そこから来る妬みの感情に訴える

2)庶民の無知やマイナス感情だけでなく、専門バカも問題

3)反知性主義がはびこる原因

     < 3. 学問の自由とは何か >

     < 4. 学問の自由と公共性 >

     < 終わりに >

4> 公共性の考え方

 

 

         <1> 「世界農業」化 VS 「国民的農業」

 

磯田宏氏の「戦後日本の農業食料貿易構造の変化 メガFTAEPA局面の矛盾と打開の方途は、「経済条項」を明記した新日米安保条約の1960年の発効以来、今日までの農業食料貿易構造の変化を追っています。その間において、三次に渡る自由化段階を画しながら、2010年以降を「メガFTAEPA局面」と呼んでいます。そこでは、新自由主義グローバリゼーションによる「世界農業」化の下で、それに追随する農政によって日本農業は深刻な矛盾を抱えているとされます。それを反転させるオルタナティヴとして「国民的農業」路線が提唱されます。

 この対抗を捉えるには、まず「世界農業」化とは何で、その日本での現われ方はどういうものかを理解せねばなりません。1990年代以降、世界的に農産物の貿易依存度が高まっており、これが「世界農業」化の特徴的現象であり、「世界農業」化とは「新自由主義グローバリゼーション、農業食料分野へも浸透する金融化、それらの一環としての重債務国への構造調整・債務返済強制が相まって、先進国・途上国にまたがって促進される」(61ページ)事態です。

 その矛盾の最大の焦点が、貧困で食糧自給がままならない低開発途上国です。この諸国は低所得なので、価格が暴騰し不安定性を増した国際市場に食料確保を依存することは高リスクなのですが、それでも自給率を下げながら輸出率を上げています。先進諸国の隠れダンピングによって、基礎食料の国内生産が「比較劣位」化され、先進国・富裕消費者向けの「高付加価値」な輸出換金農産物への転換が推進されたためです(60ページ)。

 日本もまた、戦後一貫して農産物輸入を拡大しながら、「メガFTAEPA局面」では輸出を急加速させています。その意味が国民経済的観点から次のように解明されます。

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 これらを総じて、@バルク(かさのはる)な業務用または大衆向け中・低価格品を圧倒的大量に輸入しながら、A富裕層向け高価格・高級品の輸出を桁違いに少量だが急速に増やすという構造である。

 この二つに分岐する方向性は、(a)歯止めのかからない全般的所得低下と格差化、および(b)突出して低い食料自給率をさらに下げ続けているという日本的コンテキストにおいては、多数派の国内消費者はますます国内農業食料から離れて農業食料輸入依存を深めざるを得ず、もっぱら富裕層向けの一部分野・地域の農業食料が輸出主導型で「成長」していくという、国内農業と多くの消費者・市民国民との乖離を招来するものである。

       60ページ

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 このような国策は「食料供給をつうじた国内消費者との関係でも、また、農業生産と結合した多面的機能発揮をつうじた地域住民・国内市民全般との関係でも、結びつきを希薄化させようということであり、『国民的農業』からの乖離と『世界農業』化の戯画的な形態と言えるだろう」(61ページ)と、根底から酷評されます。

 こうして、日本経済が格差・貧困を拡大し、それに伴って消費構造が二極化する中で、新自由主義グローバリゼーションに対応して、日本農業が「世界農業」化へ包摂されていることが分かります。論文はさらに進んで、「世界農業」化路線の基本矛盾を分析・総括しつつ、オルタナティヴとしての「国民的農業」路線の内容を提起しています。それが論文の中心でしょうが、ここではとりあえず次のことを確認するだけに留めます。日本農政は、あい変らずの輸入拡大路線を前提に、なぜわずかばかりの輸出拡大に狂奔するのか、という素朴な疑問に対して、その意味を解明した、ということです。それは単に政策のバカバカしい誤りというのではなく、新自由主義グローバリゼーションの中での「世界農業」化というそれなりの「必然性」「普遍性」「根拠」を持っているのです。

もちろんこの路線は、食料の安定供給に反し、輸入依存の故に資源・環境の濫用につながり、農業・農村の多面的機能を損ない、その衰退を招き、消費者・市民と乖離することで、農業への財政支出への支持を弱める(61ページ)などの深刻な問題を包含している以上、オルタナティヴとしての「国民的農業」路線が登場せざるを得ません。こうして私たちは農業について大局的観点を得ることができます。今日の日本農業は多くの問題を抱えており、その一つひとつが難しいのですが、それらを全体像としては、「世界農業」化路線と「国民的農業」路線との対抗の中において考えることができるのです。

さらには米中対立=覇権抗争の中で、日本における「国民的農業」路線確立の必要性を確認することもできます。米中は「政治形態は違っても新自由主義経済政策原理を共有」し、「多国籍金融コングロマリット主導型資本主義」アメリカと「党営・党軍型資本主義」中国という、それぞれに歪んだ経済構造を持って覇権抗争しており、どのような「結末」も世界的な公共益とはなりません(64ページ)。日本はどちらの「周辺国」ともならず、「世界農業」化路線を止めて「国民的農業」路線に転換し、東アジアでの「地域共同体構築」(63ページ)の中で食と農の再建を図ることが必要です(64ページ)。

 以上、「国民的農業」の内容については端折ったのですが、論文の中で、その現実化のむずかしさに触れた、やや苦みのあるところにだけ言及します。東アジアにおける地域共同体を構築する場合に、各国の貿易構造を調整する必要があり、相互の妥協が求められる場合に、日本が「一定の農業国境措置低減を避けて通れない」(63ページ)ことが指摘されています。関税などの国境措置を国内農業発展の必要性だけから実施することができないということでしょう。また、経済政策の失敗が原因だとはいえ、格差・貧困が広がり、人々の所得が低下している中では、食料の低価格化が求められ、そのための生産力向上が必要となりますが、短期・一挙には進みません。これら二つの問題に対処するには、「農業生産に対する直接支払の本格的拡充が欠かせ」ません(同前)。納税者への説得力が求められます。「国民的農業」の実現には「国民的理解」が必要だということになります。しかし「世界農業」化の下で、圧倒的に輸入食料に依存した多数派の国内消費者に対して、国内農業生産者への直接支払を理解してもらうというのは、なかなか困難でしょう。そうした中でも「安心安全な食料は日本の大地から」というスローガンがそれなりに受容されていることには、いくらか希望を託すことができるように思います。

 最後に繰り返しになりますが、磯田論文において「世界農業」化路線と「国民的農業」路線との対抗が農業問題の中心に置かれたことを確認しておきます。

 

 

         <2> 「属国化」「空洞化」を捉える政治経済学

 

 以上のように、米中対立の中で、どちらにも偏しない「国民的農業」路線の必要性が確認されますが、農業に限らず日本経済全体としても、対米従属を脱して「自主的・自立的で、民主的な発展の道を」(35ページ)進むことが求められます。それについて米日支配層内部の政治的分析を始めとして、外交・軍事への言及なども含めて、幅広く骨太にまさに政治経済学的視点から解明したのが、坂本雅子・萩原伸次郎・佐々木憲昭座談会「日米経済関係の構造と特徴」です。

 軍事をテコとして、経済も含む対米従属体制は戦後一貫してありますが、ここ30年くらいは、それとは相対的に区別して、経済的「属国化」とでも呼ぶべき深刻な状況にあることがまず強調されます。属国化は空洞化を伴っています。90年代以降、経済成長が止まってしまった最大の原因は製造業の空洞化=海外移転で国内生産が激減したことです(20ページ)。まさに「対日圧力を繰り返す米国のねらいは、日本をたんに輸出・投資市場として『開放』させるだけでなく、日本の製造業の『競争力』をたたきつぶすことにあるという指摘」(15ページ)が当たっています。その内容としては、労働規制緩和によって、終身雇用・年功賃金を破壊し、労働者を流動化させ、短期的利益を重視する株主資本主義を導入させたことなどがあります。それに関連して、柚木澄氏の「アメリカ的経営の導入と日本的経営 米国の対日要求は日本の経営と社会に何をもたらしたかは「アメリカ的経営の席捲によるモノづくりの基盤破壊」(97ページ)として次のように指摘しています。「長期に亘る正規雇用の採用手控えによって製造業では人的資源が空洞化した」。「株主価値志向で短期的視野の経営を強めた結果、日本的経営の企業内外での長期的信頼関係を破壊した。雇用や取引における長期的信頼関係を解体し、働く人々や下請・中小企業の使い捨てと所得低下をもたらした」。「バブル崩壊後の減量経営と短期主義の中で、設備投資とともに、長期的視点に立った研究開発投資も人材教育投資も削減の対象となった。米国的成果主義による人材評価も、短期的な成果と個人業績に偏重し、長期の取り組みが求められる基礎研究が軽視された結果、創造的な製品開発力が低下した」(96ページ)。

 以上は属国化と空洞化の中心をなす製造業の内容ですが、米国の対日要求の手法を見ても、「米国は、日本とは協定の形すら取らず、一方的な要求書の形で日本政府に突きつけて」くるような「世界でも類を見ないほどの極端な」「属国化」(「座談会」に戻って、12ページ)となっています。このように内容・手法とも深刻な属国化ですが、その指標として次のように言われます。「むろん自民党政権の政策を根本で左右しているのは経済界の意向ではありますが、米国の圧力と日本経済界の利益が対立した時にどちらを選択するかは政権の本質として大きな問題だと思います」(19ページ)。このように判断の基準を設定した上で、安倍政権は「岩盤規制」の打破と称して、米国の要求を優先したと断じられます。

 なぜそんなことになってしまったのかが問題です。まず新自由主義改革に伴う人民の不満と抵抗を政治の強権化で抑え込もうと、小選挙区制と政党助成金を導入した「政治改革」(1994年)、官邸機能を強化した「行政改革」(2000年)、公務員を官邸に奉仕させる「公務員制度改革」(2014年)が実施されました(17ページ)。ところが「その仕組みがいったんできあがると、こんどはそれが米国の対日要求を実現するテコとして機能するようにな」りました(同前)。したがって、米国の要求が優先されるのは「たんに巨大資本間の力関係によるのではなく、国家権力を通じて押しつけられてきたからで」あり(15ページ)、「アメリカの対日圧力が90年代以降、猛烈に強まり、国内財界の要望よりもアメリカの要望を優先せざるを得なかった」(17ページ)ためだと見られます。米国の経済要求がどれだけ強くても、政治的に拒めばいいはずです。それができないということは、異常な「属国化」を支えているのは、究極的には安保条約に基づく軍事的従属化だということになるのではないでしょうか。軍事的従属化をテコとした、経済的・政治的従属化以外に自国の針路を描き得ない支配層の限界が現れています。日米経済関係を見るに際しては、政治・軍事が特別に重要だと言えます。

客観的にはそういう構造があるところで、「純粋経済学」的分析を行なうのは、対米従属を無意識のうちに所与の前提とし、批判の対象から除外することになります。そうして日本の国民経済や人々の生活と労働にとってどうであるかを無視したアメリカ的経営の礼賛など「アメリカ出羽守」の横行を招きました。問題は、ブルジョア・イデオローグの「真理追究」の陥穽だけでなく、日米安保条約支持の世論が圧倒的に形成されていることです。普通の人々にとっても対米従属構造が所与の前提とされており、日本の未来を切り開く想像(創造)力を阻害し、社会進歩を大きく遅らせています。属国化の現実を鋭く指摘したこの「座談会」に対しても、「世の片隅の左翼人士が異常な怪気炎を上げている」という違和感しかない人が多いのではないか、ということも危惧されます。もっとも、そういう人がこれを読むわけはないのですが、「世間」ではどうなのかということを想像することも必要です。

 「座談会」では属国化をめぐる対立が主に支配層内部の抗争として分析されたのですが、労働者階級を始めとする人民の闘争の与える影響はどうなっているかも問題です。ただしその力はまだ弱いので、分析の中心にはされないとも言えます。問題に関係する「日本人民の意思と利益」「日本財界の意向」「米国の要求」の三者を見ると、階級的自覚の問題として、後二者においてはおおむね意思と利益とは一致しており(主観と客観の一致)、自己の利益を正確に認識しているでしょう(日本の支配層の内部では、一部に新自由主義的錯覚によって、米国による属国化を自己の利益と勘違いしている向きもあるかもしれませんが)。しかし被支配層である日本人民においては、意思と利益は必ずしも一致していません(主観と客観のずれ)。階級社会においては、被支配層は支配層のイデオロギー的影響下に置かれますから。その例がまず資本主義と社会主義の体制認識であり、戦後日本では日米安保条約への姿勢です。今日、日本人民の多数派は資本主義と安保条約を支持し、政治経済の問題についてはその枠内で考えます。根本的なところで被支配層の意思と利益はずれています。今さらそんな左翼原理主義的なことを確認しても無意味・無力だろうという声も聞こえてきそうですが、日常的に当面する様々な政治経済的要求闘争を進めるうえでも、そうした根本問題との関連を意識することは必要だと思います。

 経済的属国化の問題の根底に安保条約による軍事的従属化があるので、その打開には、日本の安全保障についての一定の展望を説得力を持って示すことが必要不可欠だと考えます。憲法と安保体制との矛盾を基軸に考慮しながら、憲法に基づく平和主義を理想主義と現実主義との統一として、「お花畑の議論」という揶揄を許さない構えで展開すべきでしょう(<☆補注>)。その際の考え方の基本として三つの区別が必要です。 

 1.平和・安全保障についての<現状認識>と<価値判断>との区別 

  2.<真の平和>と<軍事的抑止力による「平和」>との区別

  3.<積極的平和>と<消極的平和>との区別

 ここでそれだけ書いても「何のことやら」でしょうが、主に上の1.2.を使って考えたのが拙文「平和について考えてみる」です。2014年のものですが、今でも基本的に有効だと思っています(http://www2.odn.ne.jp/~bunka/heiwa.html)。安保破棄は当面の課題ではなく、それで一致できない人々とも戦争法の廃止などで共闘することが喫緊の課題であることは当然ですが、属国化をきちんと捉えるには安保条約の問題を捉えることが必要だと考えます。

 閑話休題。米中対立の中で、先の磯田論文においても、日本はどちらの「周辺国」ともならず、「世界農業」化路線から「国民的農業」路線に転換し、東アジアでの「地域共同体構築」の中で食と農の再建を図るような自主路線が提起されました。「座談会」でも、米中対立の中で自主的方向を目指すべきとされます。

ただしそれを論じるにしても、まずは対米従属の現状を捉えることから出発しなければなりません。米国は「最先端のIT技術の軍事利用で敵(中国)に勝利しようという」第3次オフセット戦略(31ページ)において、同盟国を巻き込むわけですが、そこで日本はこうなってしまいます。

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日本のような国は、当該分野の企業が丸ごと協力し、「負担と義務」を負わせられることにもなり、またそこで日本企業が技術を開発・獲得しても、今までのように世界で自由に利用・生産・販売することは不可能になるでしょう。その他の日本企業も、米国企業と同じく、中国との生産ネットワークや技術の共同開発を強制的に遮断させられるようになることが予想されます。        31ページ

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 今、菅政権の日本学術会議への不当な政治介入が問題になっており、その最大の動機が軍事研究推進の邪魔になる学術会議を変質させることにある、と目されています。それについて、日本の軍事化だけでなく、上記のような対米従属下での技術開発の歪みをも考えあわせる必要がありそうです。すでに日本企業は中国製品に依存し、共同技術開発なども手掛けていますが、最近の米政府からの規制で、他国への切り替えや中止を余儀なくされています。このままでは「米国の無謀な戦略で、日本まで将来の先端分野での発展の芽を摘まれたり、制限されたり、中国に進出した企業に対して他の国に移転することを要求される可能性まであります」(32ページ)。しかも米国が勝つかどうかは疑わしい状況ですから、なおさら対米従属路線は日本の国民経済発展の桎梏となっています。米中は経済的に相互依存関係にあり、米国の金融界もグローバル資本も米中分離には反対しています(33ページ)。にもかかわらず国家対立を煽るのは、地域経済とも結びついて影響力の大きい軍事産業であり、「軍事のロジックは特別です」(同前)。まさに「無謀な戦略」であり、未来はありません。当然「座談会」では、以下のように日本の自主的方向が主張されます。

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 佐々木 日本は自主的方向をめざすべきですね。米中どちらについても大変なことになります。米国の日本支配の仕組みを見直して、地位協定も見直す。安保条約を破棄してその代わり日米友好条約を結ぶ。そして、東シナ海や南シナ海における中国の覇権主義的な行動や、人権蹂躙の香港の事態でも、日本政府としてただしく批判すべきです。

 萩原 そのためには、自公政権の路線を転換するほかないですね。戦争法廃止が市民と野党の共闘の原点ですし、協力できるところで政策を実行する。安倍政権のもとで、韓国との関係も最悪です。政治的に暗い話が多いのですが、政権交代を実現して、憲法9条にもとづく平和外交をアジアで展開し、核兵器禁止条約を批准する。ぜひ明るい話題をつくりたいですね。          33ページ

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 見慣れた政治スローガンのようではありますが、日本の属国化の進行と米国の無謀な政策を踏まえると、そのオルタナティヴとしての意義と切実さが深く感じられます。逆に憲法より安保条約を優先させる通念に基づく現状追随の「現実主義」では、現状の危険性が何も見えず、政策的展望を描けないということがはっきりしています。

 なし崩しに進んでいる「対米従属の深化=属国化」路線か、「日本経済にたいする米国からの干渉の仕組みをすべて洗い直し撤廃し …中略… 平等・互恵、相互に経済主権を尊重する経済・外交の確立をめざす」(35ページ)自主・自立の路線か、二つの道が問われます。従属と自立をめぐって、国家の政策における階級性・公共性の対決が先鋭になっています。

 

☆補注 中村哲氏と憲法の平和主義

 平和をつくりだす実践と考え方として、2019124日にアフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲氏のそれが参考になると思い、『経済』20201月号の感想(20191231日付)に、「中村哲氏追悼」と題して、憲法前文からの引用を振り出しに以下のように書きました。 

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 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 

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 一方で多くの人々から愛されるとともに、他方で右派や「現実主義者」から嘲笑されるこの理念を、中村さんはその身を持って体現したと思います。そしてあえて言います。ひどい現実の前にたおれました。

 私たちはどう捉えるのか。しょせん、理念より現実に隷従するしかないのか。中村氏は志半ばでたおれたとはいえ、この理念を一歩一歩確実に実現しつつありました。私たちもその置かれた場所でそれなりのやり方で、彼の遺志を継いでいけるのではないか。

 憲法は未完なのだと思います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるようにはまだなっていない。だから善意でも殺されることがある。でも始めから諦めないで、信頼に値する世界を率先して作っていけ、と憲法は言っているのでしょう。その道を行くのか、冷笑し改憲するのか。憲法を完成させる道を中村氏はかなりのところまで行きました。たとえたいしたことはできなくても、同じ志を進みたいと願うばかりです。

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 その後、「朝日」202033日付の中村氏の著書の広告に以下の言葉を見つけ、彼の憲法理念に基づく活動はどういう思いで貫徹されたか、その一端に触れました。

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「信頼」は一朝にして

築かれるものではない。

利害を超え、忍耐を重ね、

裏切られても裏切り返さない

誠実さこそが、人々の心に触れる。

それは、武力以上に

強固な安全を提供してくれ、

人々を動かすことができる。

私たちにとって、平和とは

理念ではなく現実の力なのだ。

私たちは、いとも安易に

戦争と平和を語りすぎる。

武力行使によって守られるものとは何か、

そして本当に守るべきものとは何か、

静かに思いをいたすべきかと思われる。

『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘いNHK出版、2013年)終章より

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 信頼に基づく平和をつくるのはどんなに困難か、中村氏は語っていますが、それは本当の平和に至る唯一の現実的な道なのでしょう。軍事的抑止力は一時的な「平和」をつくることはできても、懐疑による軍拡競争を必然とし、常に戦争と隣り合わせとなります。それは手ごろな現実主義に見えて、実は平和の実現にとってはまったくの非現実主義に過ぎません。

核兵器禁止条約がついに2021122日に発効します。平和への道は核兵器をなくすことによってしか実現しない。そんな当たり前のことをようやく人類は法的に確立しました。もはや核兵器は存在そのものが不正義なのです。やがて条約批准国が百を超え、日本もまたその一員である・核の傘の下にある諸国の中から条約に参加する国が現れ、最後は世界的に包囲された核保有国が廃棄を決意するに至る――核兵器による安全保障という現代最悪の抑止力神話を一日も早く終わらせねばなりません。

中村氏は軍事的抑止力を超える、「現実の力としての平和」をつくりだし、核禁条約は核抑止力という神話を超えようとしています。平和を考えるうえで、軍事的抑止力をどう捉えるかについては、前出の拙文「平和について考えてみる」で試論を提起しています。

 

 

         <3> 学術会議への国家権力の介入

 

     < 1. ホンネとウソ >

 

 101日、菅義偉首相は、日本学術会議の新会員の候補者105名のうち、6名を除外して任命し、除外の理由は示されていません。任命を拒否するには各人についてそれ相応の具体的理由が必要ですが、「総合的・俯瞰的に判断した」などと漠然としたことを言ってごまかしています。同会議の推薦した候補者を首相が任命しないのは初めてのことです。この6人は、秘密保護法・戦争法・辺野古基地建設などの問題について政府に批判的な立場なので、それを理由に任命を拒否されたと考えるのが自然ですが、さすがに政府はそんなことは認めていません。もちろん、それはあからさまに思想信条の自由を否定するわけにはいかないので、拒否の本当の理由を伏せているだけでしょう。そうすることでかえって、研究者だけでなくメディアを始め、世間一般に向けても、政府の意向を忖度し自主規制する風潮をさらにいっそう行き渡らせることができる、という思惑がミエミエです。誰も菅首相らが本当のこと言っているとは思っていないでしょう。そこで「朝日」108日付・夕刊コラム「素粒子」 は次のように書いています。

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 菅発言の本音を読む……。

(1)政府の金を受け取る者は、全て官邸の意向に従うべし。

(2)学者の批判など耳障りだ。

(3)過去の答弁と違っても「前例踏襲見直し」で済むだろ。

(4)問答無用の慣例破りが忖度(そんたく)を広げるなら、それでいい。

(5)これも安倍継承の一部さ。

(6)内閣支持率は下がらんよ。

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ここでまず注目すべきは、内閣支持率に関連して、世論の動向をどう読むか、ですが       これについてはまた後で述べます。もう一つの注目点は、このホンネを隠すためについたウソによって、どうにも説明がつかない事態に政府は追い込まれたということです。

菅首相は109日のインタビューで、学術会議が推薦した105人の名簿を見ず、6人が削除された99人分の名簿しか見ていなかったと答えました。おそらく発言の狙いとしては、 自分は悪くない、当事者ではない、とでも言おうとしたのでしょう。実際には見てないわけがない、官僚が勝手に消せるか、首相が自分で消したはすだ、と思うのですが、確かに拒否する6人を選ぶ知識が首相にあるとも思えません。実際のところは、杉田和博官房副長官が実行犯であり、「朝日」1013日付によれば――官邸幹部は「首相は(除外された候補者の)個人名は知らなかったかもしれないが、何人かが任命されないことは説明されていた」と語った――ということです。つまり政府に盾突くやつは落とすという肚は決まっていたわけです。

 真相はどうあれ、首相は学術会議が推薦した105人の名簿をきちんと見ず、どういう人が除外されたかをはっきり知らないようなので、どうにも説明のつかない矛盾が出てきます。素人でも思うことは、「推薦名簿を見てもいない、あるいは6人について知りもしないのに、どうやって『総合的・俯瞰的』に判断して6人を除外できるのか」ということです。専門家はさらに法的な問題点を厳しく指摘しています(学問の力をまざまざと感じます)。任命拒否された当事者の岡田正則教授(行政法学)は1010日に次の見解を発表しています(「しんぶん赤旗」1011日付)。

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 昨日、日本学術会議が推薦した105人のリストを首相自身が見ていないということが、首相発言で明らかになりました。その意味は、菅首相の「任命行為の違法性」がますます明確になった、ということです。総理大臣が推薦段階の105人の名簿を見ることなく任命行為を行った、ということであれば、法的には当然、次のようなことになります。

 (1)推薦段階の105人の名簿については「見ていない」、「自身が決裁する直前に会員候補のリストを見た段階で99人だった」ということは、日本学術会議からの推薦リストに基づかずに任命した、ということです。これは、明らかに、日本学術会議法7条2項「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」という規定に反する行為です。

 (2)6人の名前を見ることなく決裁した、ということは、学術会議からの6人の推薦が内閣総理大臣に到達していなかった、ということですから、改めて6人について「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」という行為を、内閣総理大臣は行わなければなりません。任命権者に推薦が到達していないのですから、任命拒否はありえないし、なしえないことです。

 (3)任命権を有する内閣総理大臣に推薦リストが到達する前に何者かがリスト上の名前を105人から99人に削除した、ということであれば、総理大臣の任命権に対する重大な侵害であり、日本学術会議の選考権に対する重大な侵害です。リストを改ざんした者は、虚偽公文書作成罪(刑法156条)の犯罪人です。

 (4)推薦のあった6人を選ぶことなく、放置して「今回の任命について、変更することは考えていない」という態度をとることは、憲法15条に違反します。なぜなら、国民固有の権利である「公務員を選定する行為」を内閣総理大臣は放棄できないところ、その職務を行わないことは、憲法と法律によって命じられた職務上の義務に違反するからです。

 

 このようなあからさまな首相の違法行為と職務怠慢は、即座に是正されなければなりません。

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 政府の政策に反対したことをもって、学術会議の会員への推薦に基づく任命を拒否すれば、明らかに憲法23条「学問の自由」に違反します。それを隠すために、いい加減なウソをついて言い逃れようとすると、岡田氏が指摘するように、どうしようもない違法行為まみれに陥るということです。首相は、政府反対者を任命拒否するという肚は決まっていたようだけれども、それを隠すために105人の推薦名簿を見ていないというウソを言い、それも都合悪いと言うので、加藤官房長官は付属資料としてその名簿は首相に渡っているとか言い繕っていますが、とにかく首相にきちんと名簿を検討する見識もないだろうから、杉田官房副長官の選んだ6人拒否をそのまま実行したのでしょう。そうすると上記の岡田氏の批判は仮定の話ではなく、実態としても妥当することになります。

もっとも、安倍政権の官房長官としての「モリ・カケ・桜」の経験から、どんな無理無体な状態でも無根拠に「批判は当たらない。まったく問題ない」とさえ言っていればやりすごせる、と菅首相は思っているのだろうが…。政府に反対する学者は学術会議の会員にすることを拒否する、ということを少なくともタテマエとしては言えない状況がまだあるうちに、何とか押し返さないと、ファシズムへの扉がすぐ開かれてしまいます。そのタテマエを維持させたままで、6人をきちんと任命させることが必要です。それができないと、やがて政府がタテマエをかなぐり捨てる日を迎えます。

 

     < 2. 内閣支持率、世論の動向 >

 

 次に、内閣支持率をめぐる闘い、つまり世論の動向について見ます。痛感するのは、「悪い奴は厚かましい、盗人猛々しい」ということです。支配層のいつものやり口ではありますが、今回の学術会議への国家介入は、「学問の自由」の侵害が問題であるにもかかわらず、政府・自民党はそれをスルーして、学術会議を行政改革の対象にする、と言い出しています。まさに卑劣な論点ずらしと恫喝です。政府から独立した学問研究の立場を堅持し、政府にとって耳の痛いことも提言している学術会議を「国策のジャマ」と見なして、その御用機関化などを図ることが本当の狙いでしょう。しかしそうしたあからさまな学問の自由への弾圧の意図はあまり正面に出さないで、俗受けのする「税金の無駄遣い」の点検という線を中心にして攻めようということだと思います。危惧されるのは、学術会議の梶田会長が、任命拒否問題の解決を強く押し出さないで、政府の言う「改革」の協議に応じていることです。6人の任命拒否を取り消すことで、政府の無法行為を是正させることが前提であり、そうでなければ、一切の協議に応じるべきではありません。無法者に話し合う資格はありません。

 先日、ある憲法学者の講演を聞きました。この任命拒否について、――自分が政権のブレーンだったらそんなことはせずに、黙って承認する。学術会議の言うことなんか聞かなければいいんだから――というようなことを言っていました。まあそうだろうな、と聞いていたのですが、政府自民党の実際の対応を見ると、任命拒否の始めから意図していたかどうかは分かりませんが、はるかにウワテです。自から悪をなして、相手からの当然の反撃に対してもまったく引くことなく、逆に戦線をずらして自らの野望を実現すべく、一挙に悪を貫徹しようというのです。一点突破、全面展開。事なかれ主義で済ますようなタマではない。油断もスキもあったものではない。どうもわが方は構えがまだまだ甘い。

 そういう論点ずらしの中で、「朝日」が101718日に実施した世論調査では、首相の任命拒否について、< 妥当だ31、 妥当ではない36、 その他・答えない33 >(数字は%)となっています。首相の説明については、< 十分だ15、 十分ではない63、 その他・答えない22 >です。内閣支持率は、< 支持する5365) 支持しない2213) その他・答えない2522)、カッコ内は91617日の調査結果 >であり、支持率下落が12ポイントで不支持率上昇が9ポイントです。この人気下落は学術会議問題の影響だと言われています。そうすると先に引用した「朝日」「素粒子」の「内閣支持率は下がらんよ」という「菅首相の本音」は外れたことになります。ただし首相の説明が不十分だとするのが6割以上あるのはいいですが、任命拒否について「妥当ではない」が36%で相対多数とはいえ、「妥当だ」が31%もあり、「その他・答えない」が33%というのはあまり感心したものではありません。「菅政権のやっていることは不当だから、民主主義をしっかり守らなければいけない」という世論状況にはなっていません。ますます強まるであろう、政府自民党の論点ずらしの全面的攻勢にしっかり反撃する必要があります。

 もっとも、ただ攻め込まれている、という捉え方ではいけません。先日、尊敬する活動家の知人から次のように聞きました。――学術会議への攻撃は、向こうは「やった」と思っているかもしれないが、これで今まで学問の自由について、あるいは学問について考えたことない人たちが考えるようになったという意義は大きい。学者も学問を侵された結果として、これまで発言していなかった人たちが発言し始めている。――問題を弁証法的に捉える観点を学んだように思いました。

 もちろんまだ学問の自由を考えている人々が多数派になったというわけではないでしょうから、敵の攻撃の特徴をよく捉えて反撃することが重要です。政府自民党は「学術会議に10億円使っている」を盛んにアピールしています。「政府を批判するヤツに無駄金を使わせるな」「政府批判には生産性がない」「政府に協力してこそ建設的だ」という思い込みを利用しようとしているのではないでしょうか。特にこういうセンスが若者の間で広がっているのが気になります。

だから、逆にきちんとした政府批判こそが人々の利益になる、ということを強調する必要があります。たとえば、感染症病床やICUや保健所の削減など、この間の公衆衛生の後退について、従来から専門家の批判をきちんと聞いて軌道修正していれば、コロナ禍にもっとよく対処できたことは明らかです。おそらく欧米諸国に比べれば患者数・死者数が少ないことを念頭にして、「日本モデルが成功した」と安倍首相(当時)が言っていましたが、比較対象が間違っています。韓国・台湾・ベトナムなどの東アジア諸国と比べれば劣っており、日本政府の対応のまずさは歴然としています(*注)

 

(*注)安倍政権の愚策は数々ありますが、最大の問題はPCR検査が世界的に見ても非常に少ないことです。これについては、在外日本人からの警告が教訓的です。ニューヨークの大学病院医師の島田悠一氏は日本での検査数の少なさを憂い、経済活動と感染防止との両立について実に的確にアドヴァイスしています。

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やみくもに経済活動を急ぐのではなく、やみくもに恐れるのでもなく、検査数を増やし感染状況をきちんと把握できる体制を整備して、そこから得られる情報をもとにアクセルとブレーキを踏みわけていく必要があるのではないでしょうか。

 …中略… 

検査数が少ないままで経済活動を再開すると、もし感染数が増えた場合にそれを感知することも早期に手を打つこともできません。一度感染が拡大してしまうと経済活動が圧迫され、活動の再開も遅れます。 

        「しんぶん赤旗」日曜版、111日付

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 イギリスのキングズ・カレッジ・ロンドンの渋谷健司教授(公衆衛生学)も感染再拡大の進むイギリスの経験から日本に警告を発し、「検査・追跡・隔離(保護)」が重要だと強調しています。そこで、私などの疑問点としては、日本と違ってイギリスなどでは検査をずいぶんやってきたのに感染拡大が再燃し、検査の効果はどうなっているのか、というのがあったのですが、それにも的確に答えています。

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 「PCR検査を増やしても感染は抑えられない」という人がいますが、そうではなく、検査を増やす前に大幅な緩和をしてしまいました。そして、検査を増やしても追跡と隔離が機能していません。特に追跡(コンタクトトレーシング)ができていないです。濃厚接触者の追跡率が平均で「60%程度」という状況です。

  …中略… 

 現在、1日2万人以上の感染が報告されていますが、実際は10万人単位で感染しているわけで、1日30万件の検査といっても感染が拡大してしまってからでは全然追いつかない。

 「早期の対処が大事だ」というのは、第1波で学んだはずなのですが、経済活動を止めたくないイギリスでは、感染制御が後手に回りうまくいっていない。これは日本にとって対岸の火事ではなく、今こそ必要な対策を改めて急いで進めるべきです。

  …中略…     (以下、日本について)

 現に都市部を中心に感染者数が減っていないので、潜在的には市中感染が広がっているはずです。検査もそれほど増えておらず、経路不明も5割くらいいますね。実際の感染者は発見されている新規感染者よりかなり多くいるはずです。そして、国外からは欧米の第2波がいつ来てもおかしくない。今後、感染者数が下がる理由はなく、対策を急がないと深刻な状況になりかねません。

  …中略… 

 日本では保健所を中心に追跡調査(クラスター対策)をしっかりやっていて成果も出していますが、機能強化が遅れています。検査と保護(隔離)施設が少なすぎます。

 特に、従来のクラスター対策では、無症状感染者の発見という視点が明確にされてこなかったことは見直すべきです。

  …中略… 

 恐怖をあおるわけではありませんが、データを見る限りたたかいはこれから本格化して、終わりはまだ見えません。経済を維持することはどの国にとっても最重要課題です。その前提条件として感染をしっかり制御して社会経済活動との両立をはかることが肝要です。

       「しんぶん赤旗」、1029日付

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 二人は海外にあって、日本への愛からあえて苦言を呈しているのでしょう。それに接するにつけ、学者の見解を謙虚に聞くことよりも、学術会議を政治的に支配することとやみくもに経済活動を再開することに熱心な右派愛国主義者の形成する日本政府のコロナ禍対策への不安が余計に強くなります。日本の感染拡大はこの警告の通りに進んでいます。

 

 軍事研究の問題では、学術会議が「戦争を目的とする研究を行なわない」としてきたことが、憲法9条とともに、日本の平和を守るのに貢献してきました。そこを突破し「戦争する国」をつくりたいというのが、今回の学術会議への攻撃の隠された最大の理由でしょう。自由・民主主義への攻撃は戦争への道を掃き清めることになります。自民党は軍事研究の問題をあからさまに攻撃しようとしているので、正面から対決することが必要です。もちろん今回の事件が自由・民主主義・人権がなし崩しに否定される大きなきっかけになり、息苦しい社会に向かうことを訴えることも重要です。学者の問題だと思っているうちに徐々にファッショ化が進み、誰もが我が身に降りかかることになるだろうから、まだ間に合う今こそ考えるべきときです。人々が余裕のない生活に忙殺されているときに、どうそこに目を向けてもらえるか、厳しい闘いです。格差と貧困そして時間貧乏がはびこる状況はファシズムの温床です。以下では、ネトウヨを重要な支持基盤とした安倍政権下で進んだ社会の右傾化と反知性主義の蔓延を反映して、テレビやネットで歪んだ世論がつくりだされている事例を見ます。

 

☆反知性主義の蔓延:学問への無理解と学者への反発

 

1)事実ではなく、日頃からの不公平感・不遇感、そこから来る妬みの感情に訴える

 「朝日」109日付は「増幅する『学者への反発』 フジ解説委員や議員ら誤情報」と題して次のように報じました。

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 「この(学術会議の)人たち、6年ここで働いたら、そのあと(日本)学士院ってところに行って、年間250万円年金もらえるんですよ、死ぬまで。皆さんの税金から、だいたい。そういうルールになってる」

 5日昼に放送されたフジテレビの情報番組「バイキングMORE」。学術会議の制度上の位置づけについて、同局の平井文夫上席解説委員がそう話すと、MCの坂上忍さんら出演者からは「えーっ」という声があがった。他の出演者が口を開けて驚く表情も画面に映された。

 だが、学術会議の会員がすべて日本学士院の会員になれるというのは誤りだ。文部科学省によると、学士院会員130人のうち、学術会議出身者は三十数人にとどまる。学士院の担当者は「会員は厳正に選考されており、学術会議出身かどうかは無関係。出身でない会員もいる」と話す。

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この嘘八百は当然、後で訂正されますが、この発言を紹介する投稿は5千回以上リツイートされ、「(学術会議の会員は)優遇されすぎじゃないか」といった反応が起きています。日頃からの不公平感・不遇感、そこから来る妬みの感情が刺激されたのでしょう。本来それをぶつけるべき先は1%の支配層なのですが、当の支配層はいつもうまく別のスケープゴートを用意しているというわけです。

 

2)庶民の無知やマイナス感情だけでなく、専門バカも問題

 同記事では、もう一つ、次のような誤情報が紹介されています。――任命を拒否された6人の学者について、ある理科系の大学教授が、論文データベースで調べて、引用される数が「極めて低い」ので「国際的にはとても学者とは言えない数値。総理はこれを調べてこれらの人をはじいたのでは?」「思想以前に学者としてのレベルが低い」などと投稿した。投稿は約6千回リツイートされ、約8千の「いいね」がついた。ネット番組では経済評論家がこの情報を紹介し、6人の学者を酷評した。――

 しかし、自然科学の論文は英文でネット上に発表されるので、世界中から引用されますが、文系では日本語の論文なので、引用は少ないのがあたり前です。そう指摘されて、この理系の教授は後から投稿を削除しました。「そんなことも知らないのか! 専門バカ!」と思わず叫びたくなります。理系の学者がみんなそうだとは思いませんが、こういう自然科学者が軍事研究によって国を滅ぼすのでしょう。経済評論家も程度が低いのが多くて、何だかこっちが恥ずかしくなります

 以上の二例はあまりに知的にお粗末と言うほかないのですが、先入見としてある政府擁護の右寄りの心情(理屈ではない)そのものが問題です。学術会議の推薦名簿にあるにもかかわらず、引用される回数が少ない学者については、首相が勝手に任命拒否してもいい、などという「見解」は、およそ民主主義的常識からは出てくるはずがなく、右派的心情の産物でしかありえません。

 同記事では、大阪大の辻大介准教授(コミュニケーション論)が、「ソーシャルメディアで好まれるものかどうかは『その話題で盛り上がれるか』『ネタになるか』が重要です。それに比べれば、その話が真実か偽物かは大切ではありません。学者への反発がこれだけ強いと、これからどんな経緯をたどるかは予断が許せません」と、反知性主義の危険性を警告しています。

 

3)反知性主義がはびこる原因

 こういう情けない状況の原因はいろいろあり、先述のように、格差と貧困の拡大下で余裕を失った生活に陥っていることがまず挙げられます。その他に重要なものとして一つ挙げれば、今日の学問と教育のあり方そのものに問題があるということです。学問と教育が人々のものになっていません。それは本来、人間を解放し自由にするものですが、逆に強制され、競争の中で序列づけに使われ、自由を奪うものとして感じられています。そういう中では、進歩的な人文・社会科学の内容は偽善として受け止められる傾向があり、憲法や人権は絵空事に過ぎないと感じられ、生きる指針になってきません。

 これは今日の支配体制や教育の中では必然です。だからこそ、学問と教育を民衆に取り戻す闘いが必要です。それは遠回りではあるけれども、スケープゴートにされた学者への反発、ならびに実像を歪めた学術会議への攻撃を克服するには必要な一過程です。学術会議への攻撃は確かに自由・民主主義のピンチですが、学問と教育を生活のあり方と結び付けることで、自由と民主主義を実現していくという深い道を進むチャンスでもあります。

 

     < 3. 学問の自由とは何か >

 

 学術会議への国家介入の問題について、政権側はいとも簡単に、学問の自由とは何の関係もないと言い張っています。そこで思い浮かべられているのは、学術会議会員となることを拒否されても、自分の研究は自由にできるのだから問題ない、というような粗雑な考えでしょう。ここには二つの問題があります。一つには2019年のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」弾圧事件において、たとえその開催が拒否されても、公的にできないだけであり、私的にはどこでもできるのだから、表現の自由は侵害されていない、と言う論理です。これは「表現の自由」に対する公的責任を放棄しています。現代社会において実質的にそれを実現するには公的役割が不可欠であり、それを放棄して私的空間にだけ任せることはその実現を狭めます。ましてやこの事件では、表現の自由に対する政治的攻撃が問題であり、公がそれに屈服(あるいは加担)することは、私的空間を含めた社会全体での「表現の不自由」を公認することになります。同様に、学術会議はまさに政府の学問への公的責任の象徴であり、政府から独立した自由な学問の機関としての学術会議を尊重し、財政的にも支えることは、学問の自由を社会的に実現していく当然の前提であるはずです。

 もう一つの問題は、表現の自由や思想・良心の自由などの他の精神的自由権と区別される学問の自由の特別な意味を理解する必要があるということです。これについては「立憲デモクラシーの会の声明」(106日発表、「赤旗」107日付より)と<(憲法を考える)「学問の自由」なぜ関わるの? 日本学術会議、候補6人の任命拒否問題から>(「朝日」1027日付)を参照します。

 「立憲デモクラシーの会の声明」の中では学問の自由について、概略以下のようなことが主張されています。

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学問の自由は、一般国民の学問研究の自由を保障するだけでなく、大学の教員などの権利をとくに保障している。

学問の自由は、研究の内容と手続について、研究者の間で相互批判し検証できるように、研究の内容と手続について厳しく規律が課されている。この点で、表現の自由や思想・良心の自由などの他の精神的自由権とは大きく異なる。研究の内容と手続に関する厳密な規律があってはじめて、社会全体の利益に貢献する研究業績を生み出すことができる。学問の自由の意味は、こうした規律があくまで、大学などや各分野の研究者集団の自律に委ねられるべき点に存する。

学問研究の成果は、社会の既成の価値観やその時々の政府の政策への批判やその変革をもたらし、そのために社会や政治部門の側からの敵対的反応を招きがちである。だから外部の政治的・経済的・社会的圧力に抗して、各学問分野の自律性を保護する必要性もそれだけ大きい。

したがって日本国憲法は学問の自由を保障する条項を特別に設けている(第二十三条)。日本学術会議法が、会員の人事について独立性・自律性を強く認めているのも、科学者集団の自律性が保障されてはじめて、わが国の「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させる」という目的を達成できるからである。

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 以上はいわば研究者の矜持を示し、学問の自由の実現過程に責任を持つ立場から、その特別の意義を社会構造的論理において解明したものです。

 「構造(論理)」は「歴史」で補完されます。「朝日」1027日付記事は憲法23条制定に至る歴史的経過から学問の自由の意義を説いています。憲法学者の石川健治・東大教授によれば、単なる「勉強したり研究したりする自由は、思想・良心の自由(19条)や表現の自由(21条)でカバーされてもよいはずで」、憲法23条で学問の自由をわざわざ特別に定めているのは、「多くの言論弾圧事件を踏まえて専門分野の自律を守るために意識的に加えられた」ためです。言論弾圧事件の代表的なものとして、「滝川事件」(1933年)と「天皇機関説事件」(1935年)が挙げられます。前者では大学の自治が破壊され、後者では「何が正しく、何が間違いかを政府が決めるという、学説の『公定』が行われ」ました。こうした学問の自由の侵害を突破口に社会全体のファッショ化が進み、1936年には青年将校によるクーデター未遂の二・二六事件が起こり、戦争への道を突き進みました。戦前の経験から来る教訓と今回の学術会議会員の任命拒否問題とは次のようにつながっています。

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 「慣習」として定着したと思われていた「学問の自由」は、政治に介入されると実にもろかった。こうした歴史の反省に立ち、日本国憲法23条で「学問の自由は、これを保障する」と明文化された。

 大学における学問の自由を守るため、判例でも「大学の自治」が学問の自由の一つとして認められている。

 石川教授によると、大学の自治を保障する憲法23条は、何より学問共同体の自治や自律を守るためにこそあり、大学を超えた学問共同体を束ねる日本学術会議についても、自律が尊重されなければならない。「任命拒否という人事介入はその自律を侵害したという点で、大学の自治の外堀を埋めてしまうことにつながる」と指摘する。

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 学問の自由をめぐる、戦前から戦後への大きな歴史的文脈に続いて、安倍政権から菅政権への継承という小さな歴史文脈を読むと、学術会議への今回の不当な介入が、学問の自由の侵害だけにとどまらない問題拡大となる可能性を指摘せざるを得ません。

菅首相は前例踏襲を打破する「改革」姿勢の適用として今回の事件を合理化しています。しかし同記事によれば、「『前例』として批判されているのは、日本学術会議の『自律』を守るために長く定着した『慣例』であり、学問・専門分野で守られるべき『自律性』という価値そのもの」です。

ここで想起すべきは安倍政権下で起こった一連の事態です。たとえば、歴代内閣が憲法9条の下では認められないとしてきた集団的自衛権の行使容認を閣議決定で認めてしまいました(20147月)。その際、「行使できない」と主張する内閣法制局長官を更迭し、容認派の元外務官僚にすげ替えました。20201月には、検察人事に政治が口を出さないという「慣例」が破られました。政権に近いとされる黒川弘務・東京高検検事長(当時)の定年延長が閣議決定されました。検察官に適用できないとされてきた一般の国家公務員向けの法律を当てはめたのです。

 つまり、「前例踏襲打破」という「改革」姿勢の美名が意味するのは、恣意的な法解釈と法の支配の軽視という「アベ政治の継承」です。同記事は「今回の任命問題は、政府が都合良く法を解釈・運用するという流れの延長線上にある。/事態が深刻なのは、政治権力が足を踏み込むべきではない領域として憲法が定める『学問の自由』への介入だからだ。同じような手法がほかの領域にも広がりかねない」と警告しています。  

 

     < 4. 学問の自由と公共性 >

 

 「しんぶん赤旗」1018日付は「公共の放送でデマ 許されぬ 右派論者が学術会議攻撃」という記事で、まず橋下徹氏の議論を紹介し批判しています。

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学術会議が戦前の反省の上に立って、過去3度にわたって「軍事研究せず」の声明を出していることが気に食わないようで、自身のツイッターで、「学術会議は軍事研究の禁止と全国の学者に圧力をかけているがこちらの方が学問の自由侵害」(1日)と、学術会議を攻撃してきました。

 レギュラーコメンテーターを務めるフジ系「日曜報道 ザ・プライム」(11日)では、軍事研究をやるかやらないかは、科学者自身が判断することとして、「それが本来の学問の自由」とのべ、「団体としてこういう声明を出すのは学問じゃない。学術会議が政治介入してきている」と論点をそらしました。

 橋下氏の言い分は「学問の自由」とは何かをわきまえないものです。「学問の自由」とは、研究・教育への国家権力の介入からの自由だからです。

 橋下氏は、12日のTBS系「グッとラック!」でも、「学術会議は政府の機関。民間の機関だったら好き勝手やっていい。公の機関なので、国民主権の元、国民の声を代弁する政治が関与しなければならない。政治の暴走ばかり言うけど、学術会議の暴走だってあるんですよ」と荒唐無稽な議論で菅政権をかばいました。

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 学問の自由の意味については、すでに述べた通りで、ここでは、それをわきまえないとこういう珍論になるという例を示しただけです。ただしもう一つ問題があって、最後の段落で展開されている「公の機関なので、政治が関与しなければならない」という議論も、もちろん学問の自由への侵害なのですが、そこには別の問題もあります。

同記事では、政権を批判するものは、なんでも「反日的」と片づける桜井よしこ氏の発言も紹介しています。両氏に共通するのは「政府」「政権」「日本」というものを何でも「公」と見なすということであり、公共性とは何かという問題を提起しています。桜井氏のような右派にとっては、「反日」とはかつての「非国民」と同様に、蛇蝎のごとく嫌悪すべき対象でしょう。日本を批判するなど考えられないという精神構造においては、日本とは神聖な対象であり、その内容を問わず「公」と認識されているのでしょう。ここでは「日本」は公共性の権化です。

橋下氏の場合には一応「国民主権」という論理があるようです。国民主権に基づく選挙で選ばれた議員が選出した政府は国民の声を代弁しているのだから、公の機関はそれに従わなければならない、という論理でしょう。ただし橋下氏の場合は、大阪府知事のときに、府職員の思想信条を侵害して裁判で断罪された経歴の持ち主ですから、この議論は、選挙で勝ったものは何でもできる、という「選挙独裁」というべきものにまでなっています。もちろん、立憲主義によれば、たとえ選挙で民主的に選出された政府・政権・国家権力であろうとも侵害できない人権があり、それを憲法は決めています。その論理によって、たとえ公の機関であっても、その上位にある政府などの公の機関がそれに対して政治的に介入して学問の自由を侵すことは禁止されると言えます。

 ここで別にまた問題としたいのは、「政府」「政権」「日本」というのは確かに公であろうけれども、それが持っている公共性とはいかなる性格かということです。橋下氏のように、選挙で勝ったら何をやってもいい、という極端な論理ではなく、幾分か抑制されたものであっても、政権が公共性の名によって自己の党派的利益を国政に押しつけること、政権による国政私物化、つまり公共性の僭称あるいは簒奪はいくらでも起こりうるのです。その分かりやすい例は、1017日の中曽根元首相の政府・自民党の合同葬に9600万円もの税金が使われたことです。安倍晋三氏による公の行事「桜を見る会」の私物化には、公共性の「こ」の字も感じられないので、例に出すのもはばかられますが…。同様に、学術会議への国家介入は公共性の発揮ではなく、たとえば科学の軍事利用を拡大したい、あるいは政府批判派の自主規制を促したい、といった特定の党派による国政私物化なのです。それは憲法の平和主義と学問の自由を侵しているのですから、そのように糾弾されるべきです。

民間なら何をやってもいいが、公的機関は政権に従え、という一見もっともらしい形式論理は、こういう実質を見ると、公的機関を私物化する行為のカムフラージュに過ぎません。「公共性」と「私物化」を全くの別物と固定的に見ていると、こういう詐術を見破れません。この形式論理においては、政府という最上位の公的機関を掌握した特定党派が下位の公的機関を私物化することが可能になります。進歩的世論が、立憲主義や様々な民主主義の形式的手続きの助けを借りて、それに歯止めをかけ、かろうじて私物化を部分的に押しとどめている、というのが政治の実態でしょう。

 「日本」という「国家」に対する「公共性」神話も問題です。昨今では、「反日」への反発というのも、ネトウヨだけでなく、広く一般的意識としてあるように思います。「日本」・「国家」・「政府」への肯定は、実際には日本政府の悪政への肯定になっています。もはや権力監視という機能を大幅に後退させたメディアのニュース報道の出発点はそこにあります。「国益」と言ってもだいたいは支配層の利益ですが、「国民益」と勘違いされています。たとえば「国益」による韓国バッシングは、通常リベラルと言われているようなメディアも含めて体制翼賛的に行なわれています。そこでは、植民地支配の問題を看過して、従軍「慰安婦」や徴用工の人権を軽視する報道が大半であり、それは日本人を含めた人権にも跳ね返り、日本社会の様々な後進性を維持する役割を果たしています。こうして日本の社会進歩を大いに遅らせることで「国民益」を害していますが、メディアの影響で、それに気づく人々は少ない。

なお公共性については、経済の次元から考えることも必要であり、後で別に論じることにします。

 

     < 終わりに >

 

残念ながら日本社会では、国家権力だけでなく、学問への政治介入や民主的権利に対する侵害が民主勢力の中でも起こっています。世界でも最低水準のジェンダー指数が象徴する日本社会の後進性がそのベースにあります。事実に基づいて自分の頭で判断するのでなく、偏った情報に基づいて情動的に付和雷同することが横行しています。「学問の精神」は空気を読むのではなく変えることにあります。それは民主主義社会を支える精神でもあります。

だいぶ前に、共産党や市民団体のビラ配布を弾圧する事件が続いたことがありました。昨年は、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」弾圧事件がありました。こうした精神的自由というかけがえのない権利に対して、世論の多くは他人事として傍観しています。怒りが湧き起る状況にはなっていません。今回の「学問の自由」に対する弾圧への闘いは、いわば「炭鉱のカナリア」として、日本社会の暗い行末に対する警鐘乱打の意味を持っています。多くの人々に自分事として理解してもらうため、すべての人々にとっての学問の自由の意義を明らかにしていくことが大切です。

 

 

         <4> 公共性の考え方

 

 前述のように、磯田宏氏の「戦後日本の農業食料貿易構造の変化 メガFTAEPA局面の矛盾と打開の方途では、「世界農業」化路線と「国民的農業」路線との対抗が農業問題の中心に置かれました。坂本雅子・萩原伸次郎・佐々木憲昭座談会「日米経済関係の構造と特徴」では、「対米従属の深化=属国化」路線か、「平等・互恵、相互に経済主権を尊重する経済・外交の確立をめざす」自主・自立の路線か、二つの道が問われました。日本学術会議への国家介入の問題では、「学問の自由」をめぐる闘いの中で、憲法の平和主義と基本的人権の尊重を実現するか、戦争のできる国を目指して、思想信条・言論・表現・学問の自由などの精神的自由を圧殺するかという、相対立する内容が争われました。その際に、後者の側から、選挙によって成立した政府は公を担っているのだから、公共機関は政府に従うべきだという「公共性」の理屈が主張されました。とても正当化できない内容を隠して押し通すための形式論理です。

 公共性というのは、主に政治の次元で問題になるものでしょうが、経済を勉強してきた者としては、公共性もまた経済的土台から捉えたいと思います。上記の対抗関係で言えば、政権側は、新自由主義グローバリゼーションと対米従属関係を前提に、「世界農業」化路線や「属国化」路線を推進しています。学術会議問題で橋下氏が主張した「公共性」の論理を適用すれば、政権による「世界農業」化や「属国化」に公共性があるということになります。もちろん人民の側からすれば、それは悪しき内容を糊塗する形式論理による公共性の簒奪・僭称に他なりません。そこに実際にあるのは、公共性の名による支配層の階級性の強行です。

 そもそも国家は階級性(階級的機能)と公共性(公共的機能)との二面性を持ち、両者の対立関係の中で、(階級)国家はあくまで階級性を主要性格としてもち、その機能を果たし、あくまでそれを実現するために従属的に公共的機能を果たし、その限りで公共性をもつ、とマルクス主義国家論では考えられてきたと思います。階級性と公共性との対立を出発点とする考え方でいいのか、ということが点検されねばなりません。

そこで注意すべきは、経済危機などにおいては階級国家が中立的権威として現れるということです。たとえばEU諸国では、緊縮政策による医療・福祉の切り捨てがコロナ禍において大問題となりましたが、それまで緊縮政策はやむを得ないものとして選挙で承認され続いてきました。多数派の人々から公共性が認められてきたということです。日本においても消費税の増税は嫌われてはいますが、それを掲げる自公政権はずっと続いており、メディアも責任ある政策として支持しています。ここでも自公政権は中立的権威として公共性を承認されていることになります。

それらは単に人民が騙されているということではなく、格差と貧困を拡大し、しかも経済の低調さを脱することができないという状況ではあっても、最低限、経済社会の混乱を抑え何とか社会的秩序を維持しているという意味では、公共性を担っていると認められるということでしょう。経済的不安が強い中では、与党の政策と違うものが行なわれて混乱が生じるのではないか、という危機による萎縮と政府の政策への翼賛、つまり国家への統合が強化されます。そういう状況では、何か有望なオルタナティヴが分かりやすく示されない限り、これで我慢するしかないか、という思いになります。

そもそも純粋の公共性があるわけではなく、あらゆる公共性と称されるものは、むしろ何らかの階級的利害を集約してそれを社会全体の利益になると主張する体系だとも言えます。そのヴァリエーションの違いを賢く選択して、より良い公共性を実現するのが民主政治と言えます。今回の拙文では、日本農業・日本経済・学問の自由をめぐって、それぞれの対決点を見てきました。それは何がより良い公共性を実現するものか、という闘いであり、公共性を自称できることをめぐる争奪戦だとも言えます。階級性と公共性との対立ではなく、公共性のあり方をめぐる対立を通した公共性そのものの争奪戦なのです。

この対抗関係を図式化すればこうなります。――<公共性一般 VS 階級性一般>ではなく「公共性A」VS「公共性B」であり、その土台には「階級性A」VS「階級性B」がある――

どちらの公共性がより普遍的・進歩的かを競うということです。そういう意味では、現政権の様々な施策について、公共性の簒奪・僭称というのは言い過ぎかもしれません。内容は最悪だけれどもそれもまた公共性の一種ではあります。私たちはより良い公共性を分かりやすく提示することで政権を奪取しなければなりません。以上の考え方によって、経済危機において国家が中立的権威を持つことと、それを打倒する側が掲げるものとは何かという問題を、公共性概念の検討を通じて、ともに合理的に理解できると思います。この試論は、資本主義国家の本質を経済理論の観点から解明した以下の論稿を参考にしています。

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 「法治国家」のもとでは、資本家階級の階級的支配は、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成をとおして貫徹する。ここでは「社会の利益」は、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる。したがって国家は、資本蓄積の諸障害の克服と蓄積の諸矛盾の緩和を意図した諸政策を追求することによって、「社会の利益」を代表する「中立的権威」=「一般的利害」の担い手の衣装をまとうことができる。これが、客観的に「資本の自由」の優先的保障となることは、あきらかであろう。

 「社会の利益」と「資本の自由」との右の関連は、資本主義国家に一般的なものであり、今日の国家においても基本的に変わりない。成長政策も福祉政策も、いずれにせよ、資本蓄積の促進とその諸矛盾の緩和という一体的な国家目的の追求のそれぞれの側面を表現するにすぎず、それらをつうじて、「資本の自由」の優先的保障がたえず追求されていくものである。

 今日の特徴は、この国家目的の追求そのものが「国家の危機」をもたらしていることである。いうまでもなく、それは資本主義そのものの危機の「反射」である。ここで問題となることは、国家の階級性と公共性との対立でも、特殊利害と一般利害との対立でもない。それ自体が階級的利害の集約的表現である公共性=一般利害の概念の対立である。ここでは、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成か、「人民の自由」=「人間的労働への要求」を原理とする国民経済の統一的再編成かが、たえず問われているのである。

 

大島雄一「経済学と国家論――その方法論的基準――、同『現代資本主義の構造分析』所収196197ページ、大月書店、1991年、初出:『現代と思想』第38号、青木書店、197911

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「社会の利益」は、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる、という上記の論理は今日の俗語で言えばトリクルダウン理論です。その破綻は明白です。これが書かれた1979年とは違って、「生活の向上」はもはや期待されてはおらず、客観的にはそれだけ資本主義の危機は深まったと言えます。にもかかわらずメディアの劣化などによるイデオロギー支配の強化、右派ポピュリズムの跋扈など体制護持要因は増えています。それを打ち破るには、分かりやすいオルタナティヴを提起して、新たな公共性を「国民的常識」とすることが求められます。
                                 2020年10月31日





2020年12月号

          デジタル社会の真実

 

1)目指すべき日本社会像

 

 毎月、『経済』の全論文に目を通して、いくつかについて、編集部あてに感想文を送っています。ここのところずっと、一読して感想を書きたくなる論文がないので、主なものを再読して書いています。だから、一方では(大衆音楽の用語で言えば)キャッチ―な論文がないということですが、他方では再読・三読に値する中身の濃い論文が多いとも言えます(一読で理解できない能力の問題は措く)。もっとも、今月号で言えば、アナログ人間の私の頭では、「デジタル社会」というテーマについて、いくら読んでもクリアにはなりません(アナログという言葉が本来の意味ではなく、古臭いとか時代遅れという意味で使われることが多いのはどうかと思うが、致し方なく従っている)。そこで、諸活動を整理縮小して捻出した多少の時間で何度も読んで、「下手の考え休むに似たり」ではあろうけれども、ボーと浮かんできたものを以下に提起してみようかという次第です。

 史的唯物論に基づく社会認識では、生産力的問題と生産関係的ないし(それを土台とする上部構造での)社会関係的問題との両面的分析が進められます。生産力はどんどん発展してゆき、生産関係(と社会関係)は今日では資本主義に固定されています。人間社会が主人公となった社会主義社会(それはいまだ実現していないが、それを措定することで資本主義の本質をあぶりだし批判しやすくなる)ではなく、資本が主人公である資本主義社会において、デジタル技術の進展という生産力発展は、生産関係の次元においては厳しい労働問題を惹起し、社会関係の諸次元では、資本ならびにその利益を代表する国家が、プライバシーを始めとする人権を蹂躙しながら人間生活(とその意識)をも支配していきます。

 特集「デジタル社会」実像と課題を読んだ大ざっぱな印象としては、デジタル化の資本主義的利用によって押し寄せる大きな諸問題にどう対処するか、実害をどう防ぐか(確かにまさにそれが喫緊の課題なのだが)、そこであたふたせざるを得ない、という段階であり、どう具体的に人々の立場で利活用していくか、あるいはその前提としての目指すべき社会像・国家像はどうあるべきかということはクリアにはなっていません。

 そこでまずデジタル化という問題そのものに焦点を当てる前に、目指すべき社会像・国家像について、かなり漠然とした一般論から出発しようと思います。右翼思想を研究している片山杜秀氏は、幕末の志士に影響を与えた水戸学と旧日本軍の精神主義とに通底するもの――「寸法足らずのやせ我慢」――を見出し、ともに現実に目をそむけて狂信化し、崩壊していった教訓に学び、やはり現実から目をそむけている今日の日本に警告し、現実的指針を提唱しています(「朝日」夕、1125日付)。

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 「なぜ前政権が長く続いたのかと言えば、『日本はまだ大丈夫だ』とポーズをとり続けたから。日本の没落を認めず、夢を見続けたい人々が支持し続けたからとしか説明がつきません」

 たとえ現実から目をそむけようと、国際社会における経済的な存在感は下がり、少子高齢化も進む。明治150年で「日本人には底力がある」とナショナリズムに訴えかけても、五輪・万博で「よき時代をもう一度」と夢を振りまいても、窮状が劇的に好転しようはずもない。

 片山さんは発想転換を訴える。「元気のでる提案ではありませんが、あまり背伸びをせずに、国民がそこそこ食べていけるような福祉国家をつくるべきだと私は考えています」

 「持たざる国」日本には、背伸びを重ねて大けがをした苦い歴史がある。ならば、それを教訓としよう。日本の失敗をつぶさに学んできた片山さんの導き出した国家像は「身の丈にあった日本」だ。

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 デジタル化に限らず、何か新たな生産力発展のネタがあると必ず、その資本主義的利用のもたらす剰余価値追求による資本蓄積の強化(それは歴史貫通的表現として「経済成長」と呼ばれる)を実現しようと、支配層は大々的なキャンペーンを始めます。日本はバスに乗り遅れそうで大変だ、という脅迫を伴って。今で言えば、「デジタル敗戦」などという「時代錯誤のフレーズ」で危機感演出とか(解説「デジタル庁」創設29ページ)…。そのたびにやれやれと思う私の感覚を片山氏は的確に表現してくれました。「国民がそこそこ食べていけるような福祉国家」「身の丈にあった日本」というのは現実的かつディーセントな目標だと思います。

「世界的なデジタル経済の中で …中略…アメリカ、中国のIT企業だけが勝ち組で、日本企業は太刀打ちできない」(内田聖子氏の「『デジタル・ガバメント』による公共の破壊 企業主導のグローバルなIT化に抗する市民社会32ページ)というのが現実であり、そこでの日本の決定的立ち後れを一気に挽回して競争に打って出よう、などという空想を排して、少なくとも当面は現状を前提にどう生きていくかを探るべきです。もっとも、そういう無理を排して上記の「ディーセントな目標」を掲げるにしても、それさえ許さないというのが、新自由主義グローバリゼーションです。だから対処法として勝ち組になるしかない、という支配層の焦りも分からないでもありませんが、そういう追い詰められ逆上した戦略では、結局「欲しがりません、(グローバル競争に)勝つまでは」といって、賃金を下げ、福祉を削って人々に犠牲を強いる現在の路線のいっそうの拡大に突っ込むことになり、まさに「背伸びを重ねて大けがをした苦い歴史」を繰り返すことでしょう。

 確かに「身の丈にあった日本」の目標実現も簡単ではありません。たとえば、たとえ今から農政の改善へ舵を切っても、食料自給がしばらくはとても見通せない中では、外貨を稼ぐ輸出産業の一定の維持は必須であり、それにふさわしい国際競争力維持のため、デジタル化を含む先端技術の獲得とそれに対応した社会のあり方を切り開いていく必要はあります。だから支配層の危機感演出に乗せられて無謀な競争目標に付き合うべきではありませんが、自分たちなりのデジタル社会の構想は持たねばなりません。もちろん本来はそのような消極的理由からではなく、豊かな生活と余裕ある労働を実現するために、人々に役だつデジタル社会を目指すべきですが。

歴史貫通的視点からはデジタル技術は本来「あらゆる人・国にとって公共的な基盤」(前掲内田論文、35ページ)であり、そこからこの技術と社会との関係は次のようにまとめられます。

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 デジタル化は、あくまで手段です。それを使って、どういう社会を目指すか、どのような産業を伸ばしていくか、そこが不在のデジタル化では、結局、技術のための技術促進となってしまいます。これから日本は世界でどういう存在をめざすのか、その根本のところが欠けているのが最大の問題ではないかと考えます。    同前、35ページ

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これは現状での技術発展の自己目的化を指摘しており、それは「経済成長」の自己目的化の帰結であり、その根源は「生産のための生産、蓄積のための蓄積」(『資本論』第1部の資本蓄積論より)という資本主義の本性にあります。資本家とは資本の運動の人格的担い手に過ぎないことを想起すれば、グローバル資本の資本蓄積運動とそれを推進する国家の経済政策において、人間と社会のあり方が不在で、技術発展が自己目的化するのは必然だと言えます。今日の資本主義的デジタル社会では、自己目的化された技術発展が人間と社会を支配し、それによってこれから見るような様々な不都合が生じます。上記引用は、内田論文の結論であり、同時に課題提起ともなっています。今日のデジタル化の諸問題を鋭く分析した同論文が、「公共的な基盤」としてのデジタル技術の社会的活用のあり方の解明を今後の課題として残しているのです。それは社会進歩を担う勢力の到達点を象徴しているように思います。

 

2)デジタル社会の諸問題の列挙

 

以上は、デジタル社会を見る一般論であり、人間が主体となったデジタル技術の活用、およびそれを可能とする社会のあり方の解明は今後の課題となっている、ということを言いました。以下では、諸論文が提起しているデジタル社会の現状、支配層の進める政策の矛盾をいくらか見ていきます。とは言ってもデジタル化そのものに暗いので大ざっぱに見ていくしかありませんが。

 中平智之氏の「菅政権のデジタル化政策とD・X法、D・P法 国民・中小企業の見地からの考察は主に政策の次元から、デジタル化のもたらす諸問題を次のように概観しています(D・Xはデジタル・トランスフォーメーション、D・Pはデジタル・プラットフォーマー)。

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 以上のD・X法、D・P法の概観より、安倍政権の企業デジタル化政策の特徴は、一部大企業へのIT投資・人材の集中と中小企業との格差拡大、大企業本位の「規制ゼロ」領域創出、個人情報保護や中小企業、ギグ・ワーカー、フリーランスの権利保障への後ろ向き姿勢と指摘できる、言い換えれば、安倍政権は新自由主義の立場からデジタル化政策を推進してきた。               61ページ

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 ここでは、大企業と中小企業との関係を中心とした産業政策の問題に重点を置きつつも、個人情報保護という形で、プライバシーなど人権の問題、ギグ・ワーカー、フリーランスの権利保障ということで労働問題などにも言及しています。その他、正規労働者の働き方も含めて労働問題全般がさらに考察されるべきですが、それについては高田好章氏の「デジタル社会における働き方の現実 スマホと自転車が詳しく解明しています。労働問題はまさに資本主義的生産関係に直接かかわるので後で取り上げます。また行政のデジタル化も重要な論点であり、前掲内田論文が言及しています。

 上記引用に続いて中平論文は「新自由主義の立場からデジタル化政策を進めるのは、先進資本主義諸国の必然ではない」(同前)として、ドイツを例に、社会発展との調和を重視して格差を縮小し、雇用破壊や労働条件の劣化を防ぐ取り組みがありうることを紹介しています。当面する菅政権のデジタル化政策への対応の際に留意すべき視点と言えます。

高野嘉史氏の「『デジタル・トランスフォーメーション』とは何か」によれば、DX(デジタル・トランスフォーメーション)の定義は「仕事や生活の中のアナログのプロセスをデジタル化して得られたデータが、社会や産業のあり方を変えていく一連の経済活動」(37ページ)です。それがあたかも「現下の窮状から脱出する救世主のような議論が横行し」ていますが、「労働者、国民にとってバラ色のものであるどころか、資本に雁字搦めに絡めとられるリスクが隠されているのではなかろうか」(同前)と指摘されています。

同論文は、DX・行政デジタル化の狙いについて、上記の立場から<(1)官民データの共有とビジネス利用、(2)「柔軟な働き方」の実現、(3)サプライチェーンのグローバル化、(4)「新しい生活様式」をビジネスチャンスに>とまとめています(4243ページ)。それへの対策の課題として、以下を列挙しています(4346ページ)。<(1)個人情報の行政・ビジネス利活用に対する規制、(2)柔軟な働き方という名の労働強化への対応、(3)米国のデジタル・プラットフォーマーへの規制強化、(4)携帯料金引き下げ―通信事業者への規制の強化で、(5)テレビ放送のインターネット同時再送信問題、(6)セキュリティの確保>。

 

3)超監視社会への警告

 

以上はデジタル社会の問題から全体的に必要項目を列挙してみただけですが、以下では各論として、監視社会問題と労働問題についてもう少し見ていこうかと思います。最初に採り上げる大門美紀史氏の「菅政権のデジタル戦略と『超監視社会』 国家による監視と資本による監視が結びつくときはもはや始まりつつある恐るべきディストピアへの警告だと感じました。この論文は単にその危険性への恐怖を煽るというのではなく、私のようなアナログ人間にも、わずか17ページの紙面の中でそのテーマに関していくらかの重要かつ基本的な知識を習得させるものでもあります。たとえばビッグデータの利活用とは<(1)収集と集積、(2AIによる解析、(3)諸個人の状態・行動などを予測するプロファイリング、(4)予測結果の特定目的への利用>であると解説されます(20ページ)。あるいはNSA(米国国家安全保障局)が日本政府に「エックスキースコア」というシステムを提供したことをスノーデン氏が暴露したことは、新聞報道で知っていましたが、名前以上にそれがどんなものであるかはよく知りませんでした。論文によって、それが「ネット上のほぼ全ての情報を収集し、個人のネット上の活動をリアルタイムで監視することも出来る」「最強のスパイ装置であり、大量・無差別の国民監視を可能にした」(22ページ)ものであることを教えられました。また日本が米国のそうした大量監視システムに参加したことが特定秘密保護法や共謀罪の制定につながり、「民主主義とは真逆の違法な権力行為を制度化する動き」(23ページ)であると指摘されています。そこからは、安倍=菅政権の特別の強権性の基盤として、新自由主義グローバリゼーション下に成立したデジタル社会段階における情報的・法的対米従属性を看取すべきでしょう。単なる伝来の保守反動性だけに解消できないものがそこにあります。

論題にある「超監視社会」とは、「現在の監視の状況からさらに進んで、個人情報のほとんどすべてが一元的に集積され分析され、その活用をつうじて、私たちの行動が国や企業の意図する方向へ誘導される社会を意味します」(17ページ)。監視だけでなく、サブリミナルやマイクロターゲティングなどの誘導によって、個人の意思や行動が操作される段階に入っているのです。自由意志そのものが操作される、というのは人間の尊厳にかかわる事態であり、「民主主義の基盤をも損ないかねない」(25ページ)と言わねばなりません。この段階での資本主義と権力の関係には恐ろしいものがあります。「権力が目指すのは、社会を都合よくコントロールできる場所にすることだ。産業資本主義では自然の素材が商品に変えられた。監視資本主義が素材としているのは、人間自身なのだ」(同前)。

すでに私たちの毎日の買い物やネット視聴など普段の行動を通じて、個人情報がビッグデータに蓄積され、国家や企業に監視されています。デジタル社会となった今では、もはや昔の生活に戻ることができない以上、こうした監視から人権を守る対抗軸をどう設定するかが問われます。国連のプライバシー権に関する特別報告者として、安倍政権の「共謀罪」法案に懸念を表明したジョセフ・ケナタッチ氏が「監視システムに対する保護装置」として以下の5点を挙げていることを論文は紹介しています(28ページ)。<(1)法の支配、(2)独立機関による承認、(3)監視手法の限定、(4)具体的要件の設定、(5)透明性の確保と情報公開>。山本龍彦氏は「現在のビッグデータへの情報集積からAIによる分析、活用の一連の流れの中に、個人情報とプライバシーを守る装置を組み込むべきだ」と主張し、スノーデン氏はエンジニアがそれを実現する可能性を指摘しています(同前)。欧米では個人情報保護の法的整備が進みつつあります(29ページ)。日本の立ち遅れを睨みながら、以下のように論文が結ばれます。

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 デジタル化に対応した個人情報保護の強化はいまや世界の流れです。にもかかわらず菅政権はデジタル化で米中に追い付くことしか頭になく、日本の個人情報保護制度はデジタル以前の不十分なままに放置されています。

 今、日本に求められているのは、個人情報とプライバシーを厳格に保護しながら、先端技術を国民生活向上のためにどう生かすかという真剣な議論ではないでしょうか。そこにこそ日本経済と企業の未来があると確信します。     29ページ

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 以前であれば、この結論は当然のことが書いてある、と読み流していたかもしれませんが、「超監視社会」の中身を知ることによって、そこで言われていることの切実さが深く心に刻まれました。資本が主人公の社会から人間が主人公の社会への変革を展望する立場からは、人間の主体性を確保するために、個人情報とプライバシーを資本と国家が握るのでなく、諸個人とその連帯によって成り立つ社会とがコントロールすることが必要です。誰のためのデジタル社会かが問われています。

 

4)デジタル社会の労働

 

 休業・失業の急増やテレワークの急速な普及などを含めて、コロナ禍の下での労働条件の激変を見ることは、デジタル技術という生産力発展が資本主義的生産関係にいかなる影響を与えるかを分析する一つのカギを与えます。高田好章氏の「デジタル社会における働き方の現実 スマホと自転車は多様な問題を扱っていますが、その中から<(1)「雇用によらない働き方」という名の雇用労働を含む、多様な雇用形態の流動化と融合、そこでの資本からの攻撃、(2)ネット世界と現実世界という二つの世界の接点を捉える視点>という二つの問題に触れます。

 コロナ禍において、副業・在宅勤務・テレワークといった多様な勤務形態が急増しています。そこでいずれも労働時間が問題となります。副業では「副業先の労働時間は労働者の自己申告で把握する」と決められ、「弱い立場の労働者が正しく申告できるのか」が疑問とされ、あるいはフリーランスの場合は「労働基準法の対象外とな」るなど、働き過ぎを助長する政策となっています(72ページ)。在宅勤務では、これまで多くの企業が禁止してきた残業や休日・深夜労働を容認する方向とともに、「ジョブ型」雇用への誘導も画策されています。「自宅での時間管理が不要となり、それこそ成果を出すために家族のいる自宅で長時間労働を強いられることとなる」(73ページ)と高田氏は警告しています。テレワークでは、「メリハリが難しく、時間に追われる場合があり」「上司とのコミュニケーションに8割以上の人がストレスを感じている」など不評です(75ページ)。先述の高野嘉史氏はこう指摘します(「しんぶん赤旗」1127日付)。

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 「テレワークは、通勤時間の負担を解消し、労働時間に一定の自由度を与えるなど、労働者に歓迎される側面があるのも、否定できません。しかし、忘れてはならないのは、テレワークは、長時間・不払い労働の拡大につながるだけでなく、ジョブ型社員の導入、成果型の労働時間管理、裁量労働制など『柔軟な働き方』として資本の側が導入を試み、労働者側の抵抗に直面してきた課題を一挙に解決しようとするものだということです」

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 まさに技術発展が歴史貫通的意味で持つ進歩性とその資本主義的利用による搾取強化との両面が指摘されています。さらに高田論文では、多様な雇用形態の融合というか相互移行の可能性に触れています。ネット上の仕事ということでは同じなので、在宅勤務のテレワークでの本業の仕事がフリーランスの副業に取って代わられることが考えられます(75ページ)。正規労働が「雇用によらない働き方」になってしまう可能性があるのです。

 次に、ネット世界と現実世界という二つの世界の接点を捉える視点について見ます。Society5.0とかDXの議論では、バラ色の近未来が描かれるのですが、以下のように、地に足を付けて労働の現実を見ればその虚妄性が分かります。

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 DXとはデジタル化を推し進めることに尽きるが、それではそこではどのような働き方になるのであろうか。 …中略… DXの解説書には、外部からの人材登用、多様な働き方の許容、雇用の多様化が必要と書かれている。オンデマンドサービスで多様なニーズにオンラインで素早く応じることを提唱している。オンライン化されるデジタル社会は24時間稼働するが、全てが自動化されるわけではなく、そこで働く人たちは昼夜の別なく仕事に携わることになる。ここに必要なのは柔軟な働き方である。このように、「働き方改革」の次の目標とDXの目標が、柔軟な働き方として重なり合っている。   67ページ

 

 (コロナ禍で多くの産業が生産と雇用に大打撃を受けたことを示した後で…刑部注…)

 コロナ禍で逆の影響を受けたのは、物流である。外出自粛で買い物に出かけずネット通販に頼る事態となり、家でワンクリックするだけで注文できるが、ネットの先では多くの人が注文品という現物をめぐって動く。広い倉庫で注文品をピックする人、それを梱包しトラックに積み込む人、何人かのトラック運転手が積み替えて、やがて注文主宅の呼び鈴を押す。呼び出しても反応がなければ、再配達となる。ここに、インターネット世界と現物世界との二つの世界の接点がある。         69ページ

 

 さらに忘れてはならないのは、生産現場・工事修理現場・配送現場・販売現場など、テレワークできないところの労働者である。ここでもデジタル化が進展するであろうが、直接対象に向かうのは労働者である。また、デジタル化により、それを維持管理する仕事が増えてくる。データは様々な機器を通して、世界を駆け巡っている。それらの機器は24時間動き、そこに維持管理する人が24時間必ずいる。そのような労働者がデジタル社会には必要である。        76ページ

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 バラ色の近未来は、ワンクリックで注文する消費者の視点からだけ見ているわけです。そうした使い勝手の良さを支えるのは、多様化・不安定化された雇用形態が担う「柔軟な働き方」であり、実際に24時間の現場労働を営む上記のような様々な労働者の存在です。高田論文の副題「スマホと自転車」はネット世界と現実世界の関係を象徴し、「デジタル社会の裏の姿、いや真の姿を」(76ページ)見ています。自由気ままにあるかのように見えても、サイバーはリアルの支えなくして存在できないのです。

以上の労働現場の問題だけでなく、資本主義経済全体のあり方を見ると次のことが言えます。「ネット社会が広がっていても、ネット社会になる前と同様に、不況・恐慌期や今回のパンデミックは、働く人々に不安と雇い止め・失業を及ぼす。ネット社会は決してそれを助けることはできず、できるのは現実社会だけである」(6970ページ)。であるならば、デジタル社会においても、人間的労働を実現する考え方や手段の本質は従前の資本主義社会と同じであるはずです。以下に、労働条件の良くない労働者の問題を分かりやすく説いたコラムを紹介します。

首藤若菜氏の随想「労働条件決めるのは誰か」(「全国商工新聞」1123日付)は、コロナ禍の下で脚光を浴びたエッセンシャルワーカーを含む、条件の良くない労働者の問題を「世間の常識」にかみ合う形で論じて、その誤りを正しています。首藤氏は、多くの人々が条件の良い労働に就けるようにする職業訓練などの政府の施策の意義を評価しつつも、以下のように続けます。長い引用となりますが、社会認識における科学的批判性とヒューマニズムの統一の好例としても紹介したいと思います。

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 他方で、さほど労働条件の良くない仕事も、社会には残り続けている。しかも、社会を維持していくために不可欠な仕事であることが多い。多くの人がより良い仕事に移ろうとしている中、そうした仕事は人手が足りていない。賃金をはじめとする労働条件には、優劣がある。その優劣を見て、私たちは条件のより良い仕事に就こうと努力する。政府も支援する。しかし、劣位な労働条件の仕事が、社会から消滅していくわけではない。

 労働条件の優劣は、市場競争によって決まるものだと考えられている。ゆえに、仕事の劣位性やそこで生じる人手不足も、仕方のないことだと思われている。だが、それは本当だろうか。

 労働条件は、政治的・社会的に決まる面もある。競争の舞台である市場のあり方は、制度的に決まっている。最低賃金を引き上げれば、賃金は底上げされる。労働時間の長さは、法律によって規制できる。

 私たちは、劣位な労働条件の仕事を、十分な報いのある仕事に変えることができるのに、それを放置してきた。社会にとって必要な仕事に就く人々が、少なくとも平均的な生活を享受でき、安心して働き続けられるために、何が必要となるのか。それを考えることは、社会をいかにして安定的に維持してくのか論じることでもある。

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 「資本=賃労働関係」という搾取関係を看過して「商品=貨幣関係」だけの単層として捉え、資本主義経済を市場経済と同一視する通常の観点からすれば、上のことは「市場の失敗」と把握される事態です(首藤氏がそう考えている、という意味ではない)。安定的な社会的再生産を実現するために、労働力を適正に配置することに、資本主義経済における労働力市場は成功せず、政治的介入を不可欠とするわけです。なぜそうなるか。そのような「市場の失敗」は、搾取に基づく市場競争の制度であるが故に、格差と貧困を必然とし、またそれを経済発展のインセンティヴとする資本主義経済に必然的な現象だから、人間的生活の保障という観点からすれば、それを是正すべく、経済外の介入が必要となるからでしょう。

 高田論文の最後は、「『雇用によらない働き方』で働く人たちは個人事業主ではなく、労働者である」(76ページ)と強調しています。フリーランスがあたかもデジタル社会にふさわしい新しい働き方であるかのように言われている中でも、実際の労働実態に即して、個人の尊厳を実現する働き方がどうあるべきかを政治的に考えていくことが必要です。

 以上、デジタル社会の特殊性を明らかにする点は不十分で、それが資本主義的搾取形態の一環である点ばかりを私は前面に押し出したかもしれません。しかしバラ色社会の宣伝に対して疑問を呈し、人間にとってのまともな生活と労働を獲得していくために、新たな技術・生産力のあり方をどうコントロールするかが問題であり、それを考える出発点は従来から労働者を守ってきた思考にあります。もちろんそれは単に踏まえるべき出発点であって、さらに新しい社会の構想が必要となることは当然です。

 

 

          米中対立の本質

 まだすったもんだしていますが、113日のアメリカ大統領選挙で、現職で共和党のトランプ候補が破れ、めでたく退陣の見通しとなりました。右派ポピュリストのトランプ大統領は、コロナ禍対策の失敗を糊塗するために中国敵視を前面に出して選挙を闘いました。もっとも、コロナ禍以前から中国たたきは一貫した政策であり、しかもそれはトランプや共和党に限らず、濃淡はあれども民主党も含めて「国民的合意」だと言えます。米中冷戦とまで言われるこの動きの本質は何か、もう書く時間がないので少しだけ触れてみます。

 中国は東&南シナ海での強引な行動などの対外的覇権主義、ならびに香港問題に代表される内政での人権軽視と民主主義抑圧が世界中から批判されています。そこでたとえば日本のメディアなどでは、アメリカの中国敵視が正しい政策のように報道されています。確かに中国に政治的問題があるから、それを批判するアメリカは正しいように見えますが、それは今の表層をなぞっているだけで、歴史的・経済的に深く捉える必要があります。

 コロナ禍の下での米中対立が日米経済にとって資本蓄積上もつ意味を薄木正治氏の「米国の対中覇権に与する5G新法」は次のように指摘しています。

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 コロナ禍で従来の多国籍企業モデル――中国で効率的に安く生産した製品を欧米で販売し、香港などタックス・ヘイブン(租税回避地)で富を蓄積する仕組み――が変革期を迎えた≠ニの指摘がある一方で、これまで対米従属下で中国依存を強めてきた日本の多国籍企業、財界にとっていよいよ矛盾を深める事態となってきた。   52ページ

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 さらには米中対立を世界的・経済史的文脈において見ることが必要です。夏目啓二氏の「コロナ禍と米中デジタル技術覇権競争」は対立の起点を1990年代にさかのぼります。新自由主義グローバリゼーションの中でついに200708年にGDPにおいて、新興国と途上国との合計が先進国の合計を追い抜きます。「衝撃のGDPシェア・シフト」であり、「1990年代から2020年代にいたるグローバリゼーションは、世界経済を主導する主要国を先進国から新興国へとシフトさせ、世界経済の主役を交代させた」(96ページ)と評価されます。したがって「ここに米中対立の世界経済的、歴史的背景をみることができる。今日、トランプ政権が仕掛ける米中対立は、この『衝撃のGDPシェア・シフト』に逆らう無謀な試みであることがわかる。それは、新たな世界経済秩序のかく乱でしかない」(97ページ)と断罪されます。

 続いて「新たな世界経済秩序」の内容が分析されますが、その中でもその原動力として「アメリカ製造業の海外生産の展開」(98ページ)が指摘されているのが重要です。今日の事態の本質をアメリカのグローバル企業の資本蓄積のあり方の深みから見ているのです。米中対立の未来をかけた頂点に立つのが、デジタル技術覇権競争です。それを検討し論文は以下の結論を打ち出しています。

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 米中デジタル覇権競争に突き進むトランプ政権は、世界のデジタル経済を分断しようとしている。しかし、世界の企業と日本企業は、トランプ政権のデジタル部品・生産の分断に対して、ファーウェイのグローバル・バリューチェーンとの協力と協調に活路を見出している。ファーウェイの排除ではなく、協力と協調である。これは、世界と日本経済の雇用と暮らしを守ることに繋がる道でもある。       105ページ

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 中国経済の将来的優位性という基本認識を基に、世界のデジタル経済の分断はアメリカ多国籍企業も容認するところではなく、協調政策しかない、という見通しは少なくとも長期的には妥当なものと思われます。しかし最近の状況は必ずしもその通りではありません。それについて奥野皓一著『米中「新冷戦」と経済覇権』に対する角田修氏の書評は以下のように述べています。

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 中国による米国の覇権への挑戦を許さないという点では、米支配階級は一致しているし、主要同盟国も同調せざるを得ず、封じ込めが長期化し、成功する可能性も否定できない。実際、米政権による圧力は、本書では失敗とされている5Gでのファーウェイ排除に英仏が同調しつつあるように、西欧諸国の対中政策に変化をもたらしている。本書の議論を踏まえて、変化する現実を注視していかねばならない。       109ページ

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 まさにトランプ退陣を受けてどう動いていくか目が離せません。米中対立のアメリカ側要因としてはそういうことです。中国側要因としては、経済発展の優位性で世界に影響力を強めるものの、内外政治における覇権主義と反民主主義によって世界的信頼を失墜させている状況への反省が見られないことが重大問題です。それを動かすような民主化のダイナミズムが働く余地はないのか…。

 ところで、夏目論文で興味深いのは、アップルとファーウェイのスマホ生産におけるグローバル・バリューチェーン(GVC)を比較して、それぞれのスマイルカーブを提起したことです。スマイルカーブは「国際分業体系における付加価値の関係性」(102ページ)を表現しています。たとえばiPhoneの生産過程は次のような国際分業体系で行なわれています(101ページ)。――商品企画・デザイン→研究開発→部品生産→組立加工→営業・販売→アフターサービス―― スマイルカーブによれば、この中で、最も価値が高いのは商品企画・デザインとマーケティングであり、それをどの国・企業が取るかが問題となります。この各過程における価値の違いをどう考えるかは労働価値論上の問題となります。労働の複雑性の差の問題か、付加価値の収奪関係なのか。後者とすれば、現代資本主義の寄生性・腐朽性の表現ということになります。

 価値論では前掲の中平論文にも興味深い問題があります。まず経済産業省の情勢認識が次のように紹介されています。「第4次産業革命の第1幕(ネット上のデータ競争)ではプラットフォームを海外に握られ、我が国産業は『小作人化』した。例えば、ゲーム市場では、AppleGoogleのアプリが寡占化したことで、国内のゲームコンテンツ製作者は『小作人』となった」(55ページ)。するとデジタル資本主義においては、プラットフォーマーは「地主」であり、プラットフォームは「土地」ということになり、「小作人化」した我が国企業は剰余価値の一部を「地代」として支払っているということでしょうか。あるいは「寡占化」とありますから、独占利潤の問題でしょうか。

 また20205月に施行されたD・X法によるDX格付に関連して「DX銘柄2020」企業(優れたデジタル活用の実績を持つ企業)の巨大な内部留保はどこから来るのか、ということを同論文は提起しています。その一つの論点としてビッグデータの経済的価値とその帰属問題(566364ページ)があります。ビッグデータの収集・集積をめぐって大企業と下請企業との付加価値の収奪関係が問題となります。

 閑話休題。夏目論文は米中対立というすぐれて政治的な問題の根底に、世界的・経済史的問題の存在(「衝撃のGDPシェア・シフト」)を摘出し、その原動力として、アメリカ製造業資本が海外生産の展開による資本蓄積様式を確立したことを指摘しています。トランプ劇場という政治的ノイズの底に、グローバル独占資本が主導する今日的な資本主義的経済関係の貫徹を見ることが重要です。またスマイルカーブの比較を通して、米中のデジタル企業による「付加価値の開発・生産・分配を巡る国際競争」(102ページ)を「米中デジタル技術覇権競争」の中に見ています。これは価値の収奪関係の問題を提起しています。寄生性と腐朽性の現代的あり方に繋がる問題かもしれません。以上の意味で、夏目論文は、新自由主義グローバリゼーションを見据えた現代帝国主義論という性格を持っているように思います。

 

 

          熟議民主主義の可能性

 ますますもって時間はなくなってきましたが、学術会議への政治介入問題などをめぐって、世論の良からぬ「空気」とその前進的解決に向けた方向性について若干記しておきたいと思います。

 (山腰修三のメディア私評)「学術会議問題 改革を評価し、批判を忌避する『空気』」(「朝日」1113日付)は、学術会議問題をめぐる「空気」に関する秀逸な評論です。この問題では、学術会議が会員に推薦した105人中、6人を任命するのを菅首相が拒否しましたが、それを「妥当とする」が31%もあり、「妥当でない」の36%とあまり変わりありません(10月の「朝日」世論調査)。そこには「権威主義的な政治への自発的服従、こうした潮流を批判するアカデミズムやジャーナリズムへの冷笑や敵意」、あるいは「たとえフェイクであっても信じたいものを信じる、という」ポスト真実の態度があり、政府による学術会議の「改革」への支持と、政府の決定を批判することへの忌避感があるというのです。この忌避感は「政治的に中立でいたいから」ということですが、「中立」とは政府への批判を避けるという意味なのですから、何ら中立ではありません。これに対して、最近の新自由主義への批判の高まりに山腰氏は期待をのぞかせていますが、「その道のりが長く険しいことをアカデミズムもジャーナリズムも覚悟しなければならない」と結んでいます。

 神里達博氏の(月刊安心新聞plus)「格差が広げるポピュリズム 専門家を『贅沢品』と敵視」(「朝日」1120日付)はポピュリズムの流行の原因とそれへの対処について述べています。民主主義を動かすには、政治権力と距離を置いた専門家集団が必要だが、それが「エリート主義的」に捉えられたり、実際にもそのような傾向もあったことを指摘して以下のように論じます。

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 物事が、そこそこ、うまく回っていた時はよかった。しかし、冷戦終結以降のグローバル化・新自由主義の拡大は、そのような先進諸国においてとりわけ、中間層の格差を広げていった。それまで通りのやり方が「なぜか」通用しなくなり、多くの人々は、同じように努力を続けても、暮らし向きは悪くなっていった。

 当然、「環境整備」を担当してきた専門家たちに、その直接の原因があるわけではない。しかし、それらのセクターが相対的に「贅沢(ぜいたく)品」に見えるようになってしまったのだ。そうなれば、政治的なスケープゴートになりやすい。

 こうして日本でも、地方や国の機関、メディア、教育機関など「民主主義体制を維持するための専門家集団」が、繰り返し、批判の対象になってきた。果てることのない「改革」には、そういう側面もあるのだ。

 この袋小路から脱出するには、結局、新時代に適応し、国の津々浦々までを豊かにすること、そして、民主主義と専門主義の絶妙なバランスをとるための議論を、公共的な言論空間で粘り強く続けるしかない。

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 格差と貧困の是正など経済の回復と政治的民主主義を実現する粘り強い公共の議論が必要だということです。山腰氏も神里氏も、変調した世論をできるだけ客観的に捉えて、是正策としては大言壮語することなく、その原因を捉えて慎重に語っていくしかないという姿勢でしょうか。

「『冷笑の時代』声上げる シンポ開く」(「しんぶん赤旗」1122日付)では、首相官邸前での反原発デモを取材・研究した滋賀大学の田村あずみ特任講師の意見を次のように紹介しています。

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デモに浴びせられる「対案を出せ」「当事者や専門家でもないのに意見するな」などの反応は「社会の複雑性を考慮しろという“冷笑の温床”になっている。一方で参加者からは“声を上げなければ生きられない”という切迫感が伝わった。社会は複雑だからこそ、声を上げる必要がある」

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 なるほど、「社会の複雑性」というのが「権威主義的な政治への自発的服従」や「政府批判への忌避感」の一見お利口な口実になっているわけです。それに対して、生きるための切迫感に基づいて、「複雑だからこそ声を上げる必要がある」という切り返しは見事です。同記事では、パレスチナの旅行でデモに出会った人の「自分には尊厳があるんだと言葉にしたくて日本でもデモに参加するようになった。声を上げることで、私という存在はつくられる」という意見とか、「声を上げることは、政治的な要求を伝えるとともに他者と絡まりあう自分を知ることだ」という語りを紹介しています。こういう「参加する人」の声をどう広げるか。

 「学術会議問題、学生118人議論白熱 鹿児島大の授業で」(「朝日」1116日付)によれば、学術会議問題での首相の任命拒否について、当初「適切」と考えた学生が53%もあり、「適切ではない」は47%でした。グループ討議を経て、授業後のアンケートでは「適切」31%、「適切でない」68%となりました。討議内容は省きますが、熟議によって人権・民主主義を守る方向に変化する可能性を示しています。指導した渡邊准教授は「学生の半数が問題を知らなかった段階から、調べて議論する段階へ。生の問題で不確かな情報をうのみにせず、自分で吟味して考える大切さを知ってほしい」と語っています。

 維新の会の「大阪都構想」(大阪市廃止)の是非を問う住民投票が111日実施され、接戦の末、反対が多数となりました。維新の会が大阪で絶大な人気を誇っていることからいって、当初は圧倒的に賛成多数になると思われていましたが、その内容が知られるにつれて反対派が盛り返し最後には逆転しました。それまで政治に無関心の人や行動を起こしたことがない人も立ち上がって街頭で反対を訴えたと言います。まさに草の根民主主義の底力が発揮されました。「若者BOX 大阪市住民投票 10代・20代アンケート 賛成も反対も『大阪良くしたい』」(「しんぶん赤旗」1112日付)は大変に秀逸な記事で、賛成・反対の様々な声をていねいに紹介しており、特に「思いに寄り添い対話」と題した日本民主青年同盟大阪府委員長の酒巻眞世さんの以下の話が教訓的でした。

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 住民投票の期間、路上に出て数多くの青年や市民と対話をしました。「賛成」「反対」「わからない」と意見はさまざまでしたが、共通していたのは一人ひとりが、よりよい大阪にしたいと真剣に考えていたことです。

 対話では、投票で悩む人に一方的に意見を押し付けないことを心掛けました。それぞれに「どんな大阪に住みたいか」「どんな点で迷っているか」を聞き、疑問に答える中で正確な情報や自分の思いを伝えました。

 実際に対話した方から「本当にどうしようか悩んでいました。投票前に話ができてよかった」「反対している理由がよくわかった」などの言葉をたくさんいただきました。

 誰のために宣伝するのかを考え、相手の思いに寄り添う。わからない人が「わからない」と聞ける宣伝の雰囲気をつくり、「教える」「わからせる」ではなく、「一緒に考え合う」対話が、青年や市民が自信をもって投票することを励まし、大阪市を残す結果に結びついたと確信しています。

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 奇跡的な逆転勝利に見えた大阪の闘いは、このように模範的な熟議の民主主義を創造する活動によって得られた当然の勝利だったのです。変調した世論に当面しても、人々への信頼と、ともに考える姿勢とを貫くことが大切なのでしょう。

                                 2020年11月30日



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