月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2022年7月号〜12月号)

                                                                                                                                                                                   


2022年7月号

 

          円安と物価高について

 日本資本主義はアベノミクスの下で格差・貧困の拡大とともに経済停滞し(冷たく弱い経済)、それを映し出す実体経済の衰退と金融化が一層進展しています。しかも、アジア経済圏が世界の中心になろうとしているのに、旧態依然とした対米従属政策に固執する日本の支配層は、国民経済発展の桎梏と化しています。それだけでなく、ロシアのウクライナ侵略の下で、戦争終結を目指すべく、「国連憲章を守れ」の一点での世界の団結を追求するのでなく、バイデン政権の分断スローガン「民主主義VS専制主義」(元来は中国包囲網形成のスローガン)に追随し、軍事対抗路線によって軍拡と改憲を目指し、戦争する国家体制へと、日本社会の歴史的危機を引き寄せています。由々しき事態です。円安と物価高は、ロシアの侵略戦争による世界経済の混乱だけでなく、そうした日本支配層の悪政の帰結でもあり、人々の生活を直撃しています。

 山田博文氏の「円安と物価高が襲う日本経済 その脆弱性の克服と21世紀の展望は、まさにそうして日本人民が迎えた生活と平和の危機を根底から捉える視点を提供しています。そこには、「金融と実体経済」、ならびにそれをある程度体現する「欧米とアジア」という両様の相互関係があるといえます。

 まず論文が「インフレ・物価高」という二重表現を採っている点に注目しました。ここには金融と実体経済との相互関係の視点があります。一般的には物価高は、通貨の過剰流通によるインフレ、あるいは商品の供給不足ないし需要超過によって生じます。前者によってか、後者によってか、あるいは両者によって物価高となります。通俗的にはこうした原因の区別なく物価高をインフレと呼びますが、そこには物価変動を貨幣的要因に一面化する危険性が含まれています。その一面化は現在の物価高局面以前の物価下落局面にすでに顕著に現れていました。バブル破裂後の物価低迷を伴う不況をデフレと呼んで、「異次元の金融緩和」によって「デフレ脱却」が図れる、というリフレ派の妄想がそれに当たります。リフレ派は、不況の原因である低賃金などの実体経済の問題から目をそらし、見当違いな金融政策によって日本経済の長期低迷を固定化しました。

俗説とは違って、インフレ・物価高という表現は、眼前の物価高が貨幣的要因と実体経済的要因との複合であることを明示しています。まず貨幣的要因を見れば、各国政府・中央銀行による大規模な財政金融政策が挙げられます。不況対策などで、各国の中央銀行が世界経済の成長をはるかに上回る資金を供給しました。2007年から21年にかけて、世界のGDP1.6倍となったのに対して、基軸通貨ドルの供給元であるFRBの資産は9.8倍にもなり、日銀や欧州中央銀行の資産も約6倍化しています。こうして「実体経済に必要とされる通貨量を超えた過剰な通貨が流通し、通貨価値の下落と商品価格の全般的な上昇=インフレーションが発生し」ました(77ページ。ただしここには、中央銀行によるマネタリーベース増がマネーストック増に必ずしも直結するわけではない、という問題は残されている。特に日本経済においては)。

次に実体経済的要因を見ると、コロナ禍でのロックダウンによるグローバルサプライチェーンの切断が世界的生産の低迷・供給減をもたらし、ロシアのウクライナ侵略が資源・原材料の供給減をもたらしました。こうして「通貨価値の下落によって発生するインフレと区別される需給ギャップから発生する物価高」(78ページ)が現出しました。

 ここで金融政策の意義と限度を考えます。発熱に対して当面、解熱剤を投与するのは、多くの場合、必要な対症療法でしょう。しかしその先、発熱の原因疾患に対処しないと治癒には至らないことが多くあります。その場合、やみくもに解熱剤を投与し続けるのは無意味か、ときには逆効果でさえあります。金融政策はとりあえず物価と景気の変動に対する対症療法として作用しますが、それが原因療法にもなっているかどうかはケース・バイ・ケースです。インフレ抑制としての金融引き締めには意味がありますが、供給不足対策にはなりませんから、とにかく物価を抑えるために金利を上げることがいつまでも有効だとはいえません。

 今日の「インフレ・物価高」局面においてはそういうことですが、バブル破裂後の物価低迷局面においてはどうだったでしょうか。金融緩和基調の下でずっと物価低迷し不況が続いてきたのですから、いわゆる「デフレ」不況の原因は通貨量の不足ではなく、実体経済における、賃金の過少などを原因とする需要不足です。にもかかわらず原因療法に転ずるのでなく、対症療法効果を妄信して、さらに「異次元の質的量的金融緩和」(いわゆる「黒田バズーカ」)へと間違ってアクセルを踏み込んで事故に至ったのがアベノミクスの帰結です。実体経済の歪みを是正せずに、金融をさらに歪めることで対処できるという錯覚によって、実体経済と金融の双方が歪みを蓄積したのが「アベノミクス効果」による今日の日本経済の体たらくです。そこにはもっぱら物価下落に注目し、しかもそれを「デフレ」と称して貨幣的要因のみから見るという誤りがあります。

 実体経済の歪みの中心にある低賃金構造は、財界主導による労働規制緩和がもたらしたものであり、そこにメスを入れるべきでしたが、支配層にとっては階級的にできない相談です。すると、労働規制緩和を核心とする新自由主義構造改革が失敗しているのではなく、「改革がまだ足りないからだ」という掛け声の下で、労働規制緩和をさらに進め、社会保障を削減するという具合で「改革」が徹底されました。要するに搾取強化で資本に有利になる政策を進めたということであり、国民経済的には衰退を招くばかりでした。

 こうして異次元金融緩和も構造改革も誤りに誤りを重ねることで、「冷たく弱い経済」を形成しました。コロナ禍での医療崩壊の犠牲者はその象徴です。1%の利益の追求は99%の利益を裏切り、国民経済の発展を阻害することが明らかになりました。カタカナ言葉が出てきたら気をつけろ、とよく言われますが、「異次元の金融緩和」とか「構造改革の徹底」とか声高なスローガンも要注意です。それらが喧伝されるとき、そこには支配層の失敗が隠されており、(しかし失敗とは思わず、まだやり方が不十分なので結果が出ていないだけだ、という認識で)政策転換ではなく、失敗を糊塗するさらなる改悪を強行する決意表明だと捉える必要がありそうです。安倍晋三元首相の好んだ言葉――「道半ば」とか「この道しかない」――は支配層の政策主体の思考様式と階級性を象徴しています。

 したがって、物価低迷であれ、物価高であれ、階級的に捉える必要があります。現局面について山田論文はこう言っています。「インフレ・物価高は、最終消費者の国民には高負担と生活苦・賃金や貯蓄の目減りを強いる。だが、大量の商品を生産・販売し、商品の価格決定に支配的な影響力を持つ大企業には独占的な超過利潤をもたらし、利益を増やす」(77ページ)。コロナ禍や円安・物価高などで、庶民は生活苦を強いられてきているので、世の中すべからく大変なんじゃないかと思いがちですが、空前の利益を確保している大企業も多くあり、貧困だけでなく格差も広がっています(国債の大量発行による莫大な財政赤字についても、万人が等しくその重荷を背負っているわけではなく、金融独占など国債所有者が利益を得ていることを山田氏は以前指摘していました)。人民の苦難を尻目に、その利益は過剰な内部留保として積み上がり、賃上げや設備投資には回らず、株式配当や金融投機などに費やされています。このような「冷たく弱い経済」を「やさしく強い経済」に変えるには、まず分配と再分配を人民優位に変えて消費需要を喚起し、生産のあり方も、中小企業などを中心とする地域内循環を基礎にした国民経済を形成する――総じてトップダウンからボトムアップに移行することが必要です。

以上のように、山田論文の7778ページでは世界的なインフレ・物価高の原因がまず一般的に説明されています。さらに、インフレ・物価高の展開を世界経済から日本経済へと見ていく必要があります。英吉利氏の「大揺れの国際金融市場 コロナ禍とロシアのウクライナ侵略は、物価対策を優先するFRBが利上げに転換したことで、アメリカを起点として、世界経済のリスクが拡大していることと、その政策転換の日本経済への強い影響について論じています。

 そこでは「アメリカのコロナ禍からの回復は、所得格差の拡大を伴いつつ、家計や企業の債務の増加にも支えられていた」ので、「金融市場の流動性(資金繰りの状況)が突然悪化するリスクが高い」と指摘されています(22ページ)。またアメリカの利上げは新興国を直撃します。なぜなら、金融緩和を背景に、新興国のドル債務残高はこの10年で倍になっているので、利上げによるドル高で、自国通貨で換算した対外債務が増加するからです。さらにコロナ禍で財政支出も増え、一部の国ではすでにデフォルトが発生しています(2223ページ)。このようなアメリカと世界の金融リスクの高まりにもかかわらず、「有事となれば外国のドル資産を凍結するという特権的な地位を占めている」(23ページ)アメリカはこれまでも基軸通貨国の責任(貿易や資本取引の不均衡の是正など世界経済の安定化)を果たさずに特権だけを享受する行動をとってきており、世界金融危機の可能性から目を離すことができません。

 とはいえ現在のFRBの利上げは、インフレ対策としても、金融政策の正常化・出口戦略という意味でも首肯すべきものですが、日銀はそれに反して異次元の金融緩和をだらだらと続け、低金利を維持しています。それによる日米金利差は異常な円安を惹起し、輸入品価格の上昇が物価高の主要な原因となっているのは周知の事実です。「それにもかかわらず、なぜ低い金利を維持するのか。それを解くカギは、日本の巨額の政府債務残高に」あります(同前)。「低利での財政ファイナンス」(24ページ)が至上命題となっているからです(この問題については後述)。

円安の二つ目の要因として、貿易収支の赤字増大が挙げられます。それにより経常収支もしばしば赤字になり、もはや日本の国際収支の構造はかつての円高トレンドとは違ったものになっています(2425ページ)。円安の三つ目の要因として、投機活動があり、「為替相場の変動にしばしば行き過ぎが生じ」、「今回の急激な円安にも当然そうした面があろう」(25ページ)とも指摘されています。

 日本の物価高について、大門実紀史氏は「三つの要因が複合的に重なったもの」(「やさしく強い日本経済へ 逆転の成長戦略33ページ)と捉えています。――(1)新型コロナからの経済回復に伴う世界的な需要増、(2)ロシアのウクライナ侵略によるエネルギー・小麦価格上昇、(3)日銀の異次元金融緩和政策による円安誘導から来る輸入品価格上昇―― これは日本経済の現局面に即した分析による具体的指摘といえましょう。

 ここで(3)は<低金利→円安→物価高>を意味し、是正すべき対象ですが、上記、英論文は、低利での財政ファイナンスが至上命題となっていると指摘し、山田論文も「もし日銀が、各国中央銀行のようにインフレ・物価高を抑え込むため政策金利を引き上げると、財政危機を誘発する」(81ページ)と警告しています。このまま低金利による不況下での物価高(スタグフレーション)にずるずるはまるのか、利上げによって財政危機に陥るのか――まさに「前門の虎後門の狼」、文字通りの矛盾状態であり、日銀・金融政策は進退窮まっています。いやしくも政府・与党たるもの、責任政治・責任政党という自負があるなら、人民の立場からの根本的解決なるものは無理としても、せめて危機回避の弥縫策くらいは提起すべきですが全く無責任に成り行き任せに終始しているようです。アベノミクスで日銀の独立を侵して無謀な政策を強要し、挙げ句の果ての失政に、後継の岸田アベ亜流政権は茫然自失で、日銀の独立「尊重」か(放っているだけのことだが)。アベノミクス下で、政府の「子会社」にされた日銀に今さら「独立」もないか。いや岸田政府はそこまで事態の深刻さを把握さえしていないようで、相変わらずアベノミクスの継承を掲げています。岸田首相にとって、安倍元首相の恩義は人々の生活よりも重い。

 そこで、失礼ながら最も政権とは縁遠いと見られている共産党の大門氏が、異次元金融緩和政策からの転換=金融政策の正常化を以下のように提起し、責任政党としての模範を示しています。

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 第一に、もはや何の意味もない、2%の物価上昇目標を取り下げることです。

 第二に、日銀の国債保有残高を減少させる方向に明確にかじをきることです。

 第三に、政策転換時に、国債の空売りなどでもうけをねらう海外投機筋の動きをけん制する特別措置をとることです。

 第四に、日銀が巨額に保有した国債などについては、長期的な市場への売却計画をはっきりしめし、市場との意思疎通、理解の促進に尽力すべきです。長期保有の投資家を優遇して国債などを購入してもらう措置も検討されるべきです。

 私は日銀の黒田総裁にたいし、これらのことを何度も提案してきましたが、もはや日銀は自分の判断では政策転換ができない行き詰まり状態におちいっています。

             34ページ

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 「物価目標」なんてはじめから全く無意味だと思っていたので「第一」は痛快です。物価指数=物価変動量はその質(原因)と切り離しては無意味であり、2%上昇という量だけの目標を決める意味はありません。実際のところ現在2%目標は「達成」されつつありますが、さすがに黒田総裁もこれで良しとはいえません。以前からある「悪い物価上昇」という言葉は、無自覚ながら物価上昇の質的意味を問うている表現です。

「第二〜四」は市場との対話(*注)であり、難しい課題への挑戦です。「格差と貧困の拡大」、「異常に膨大な財政赤字の累積」などをはじめとする悪政の積み重ねから来る圧倒的な負の遺産を引き継いだ上で、財政破綻と金融危機を回避しながら、物価上昇を抑制しつつ不況を打開する。――まさに絶対的矛盾をなだめすかして破綻を回避しソフトランディングを実現するという微妙なさじ加減が求められます。それとともに経済を好転させ、変革を実現しなければなりません。ただでさえ難しいですが、共産党の参加する民主的政権が実行するとなれば、支配階層による意識的妨害が避けられず、世論の圧倒的支持を調達することが必要となります。まあそれは当面の現実的心配とはいえませんが、大門氏の提案は、共産党が単に理想を掲げるだけなく、その実現過程にも責任を持った政策構想を準備できることを示しているとはいえます。もっとも、提案の実効性についてはよくわからない、というのが「市場の素人」の実感ではありますが…。

(*注)「市場との対話」とはいささか現象的であいまいな表現です。内実としては、グローバル資本などを含む投資主体への民主的規制であり、民主的権力基盤がまだ不十分な段階で、もっぱら市場誘導的方法で政策目標を実現しようという姿勢を指します。したがって、非民主的政権でもやる気になれば実施可能なので、黒田日銀に向かっても繰り返し提起されているわけです。支持基盤とイデオロギーの関係で「やる気」にはならんでしょうが…。

話はいささか飛躍しますが、自衛隊を解消して、憲法9条を完全実現するという目標を実現する道も同様の性格の問題を抱えています。というか、歴史的・構造的にもっと困難であることは明白です。アベノミクスを含む新自由主義構造改革路線は早く見ても1980年代以降の問題です。しかし日米安保条約と自衛隊という、平和憲法に反する対米従属的軍事路線は1950年代に始まり、今日まで圧倒的な負の遺産としての既成事実が積み上げられ、それに基礎づけられたイデオロギーの支配力は極めて強固です。もちろん平和・民主勢力の抵抗によって、一人の自衛隊員も戦闘で死亡していない、ということに象徴されるように、「負の遺産」への一定の歯止めは効かせてきました。しかし今回のロシアの侵略戦争に際して軍拡の大合唱が沸き起こっているように、積み上げられた負の既成事実の世論支配力を重く受け止めることが必要です。私たちが通常肯定的に言及する戦後民主主義的世論形成において、憲法9条への一定の支持とともに、安保条約と自衛隊への強固な支持が矛盾的に共存していることを複眼的に見据えるべきでしょう。

自衛隊を解消するまで9条との矛盾は存在し続けます。圧倒的な既成事実の累積という負の遺産とそれに基礎づけられたイデオロギーと対峙しつつ、当面は戦争法の廃止、その後、安保条約の廃棄と進めていくことができるならば、この矛盾の存在様式は民主勢力にとって有利に変化していきます。

そのような進行を実現するには、時々の情勢に即した現実的な展望に基づく政策提起が必要となります。ここ数年を見ても、日本共産党は、北朝鮮のミサイル発射が脅威として注目を浴びる中で、いわばそれを逆手にとって、6カ国協議を発展させる形で東アジアの新たな平和保障機構を提起しました。最近では、ロシアの侵略戦争に際して、冷戦後のヨーロッパでの集団安全保障機構があっても形骸化し、NATOという軍事同盟とロシアの覇権主義とが対決する構図になり、この外交的失敗が今回の戦争の遠因となっていることを指摘しました。それと対照的に、アジアにおいてはASEANによる東アジアサミットなどの努力に着目し、軍事同盟による対抗ではなく、包摂的な外交による集団安全保障的な平和の構築という展望を提起しています。平和の危機の中から逆に打開の芽を探る、それも根のない提起ではなく、現実の進行の中から生まれてきた機構などを生かすという具体性のある提起が情勢に応じて連打されています。

圧倒的な負の遺産を、漸進的に克服する粘り強い努力、その針路を示す具体的政策展望が常に求められる、ということは特に平和・安全保障の領域では顕著です。日銀・金融政策が直面した困難――財政破綻と金融危機を回避しながら、物価高と不況を打開する:金利の上げ下げにも当惑する矛盾―― それに対して向けられた大門氏の上記の金融正常化への四つの提起は具体性を持っており、負の遺産を引き受ける覚悟を示しています。そこに見られる、喫緊の経済課題に取り組む迫真性から、戦争と平和の問題でも負の遺産を引き受け克服することの困難性・重みを想起した次第です。変革が遅れれば遅れるほど、戦争の危険性が切迫したり、財政赤字が累積したり、というように打開の困難性が増します。現時点での、そして将来に向かっての巨大な負の遺産の磁力を直視し、それと変革目標との長期にわたる矛盾的共存に耐えうる展望を人々と共有することが必要となります。

 

 閑話休題。山田論文に戻ります。「金融と実体経済」の二重視点から最近の物価高を捉えてきました。その視点からは、日本資本主義の根底にある矛盾として、資本過剰(実体経済の停滞・産業空洞化)と金融化を捉えることができます。そこでは、生活苦からグローバル経済の寄生性・腐朽性にまで至る諸現象が統一的に描かれます。それは日本に限らずグローバル資本主義一般の特徴付けでもあります。

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 実体経済が成長せず、実体経済からの利潤が低迷しているのに、それでもなお利潤を追求する資本の本質的な行動は、コストと見なす賃金を切り下げ、他社や他国の利潤・国民諸階層の既存の資産などを金融的に収奪する道を選択する。金融収奪型の金融ビジネスは、高性能コンピュータやIT革命の成果、経済のデジタル化に支えられ、時間と空間を超越し、グローバルに展開される。マネーは投機マネーとなって世界を駆け巡る。金融ビジネスで安心して利益を増やすには各種の金融商品や資産を高値に吊り上げてくれる金融緩和政策が不可欠となる。それは、金融セクターに主導されたバブル経済の膨張と崩壊を繰り返す不安定な金融経済を肥大化させていく。独占的な巨大金融資本や大口投資家の金融収奪と富の一極集中が加速される一方、経済危機・貧困・格差拡大という負のスパイラルが繰り返される現代資本主義経済が立ち上がる。 
    
8485ページ

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 今日、一方では貧困・格差拡大の下で、「弱者」「負け組」などに対する自己責任論的バッシングが横行しています。他方で、誰が実際に社会を支えているのかという本質的視点(労働価値論に通ずる)から、「エッセンシャルワークVSブルシットジョブ」という正反対の資本主義批判も登場しています。バッシングする側はしばしばブルシットジョブや金融収奪による「勝ち組」に過ぎないことがあります。この光景は、資本過剰と金融化の悪循環内でのあだ花が、社会を底辺で支える人々を踏みにじっている、という現代資本主義の搾取構造を象徴しています。それは国内関係ですが、次に国際関係を見ましょう。

 日本は中国と広く深い経済関係を結んでおり、最大の貿易相手国がアメリカから中国に変わって久しい。にもかかわらず、今国会では、中国を仮想敵国とする「経済安全保障法」が成立しました。メディアではこの法の本質を捉えた批判は全く見られませんでした(「赤旗」を読まねば何もわからない状況)。日本は、アメリカよりも、中国をはじめとするアジア経済圏に深く組み込まれているのに反して、政治的・経済的に漫然と対米従属政策を続けています。その理由は、表面的には政治的価値観の共通性からと見られますが、本質的には上記のグローバル資本主義内でアメリカと同様に金融収奪の側に立っているからではないでしょうか。

 各国内にそれぞれ階級関係がありますから、上記のグローバル資本主義の構造図式「金融化VS実体経済」を地域関係に置き直すことは単純化のそしりを免れませんが、大雑把に言えば、その対抗は「欧米VSアジア」として現れています。

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 アメリカが基軸通貨ドルの特権と高度な金融ビジネスを駆使し、グローバルな金融収奪の体制を構築していても、金融収奪のそもそもの源泉である利潤(剰余価値)の生産地域、その最大の経済圏は、ヨーロッパやアメリカ経済圏からアジア経済圏に移行したのである。これは世界の主要企業や金融機関が、中国やインドなどアジア経済圏に活動の拠点を移してきた経済的背景である。また、パックス・アメリカーナを志向するアメリカがその軍事力をアジア太平洋地域へシフトさせていることの背景でもあろう。 
   
89ページ

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 第二の覇権国家・中国もまた、新自由主義グローバリゼーションの勝ち組として、アメリカを後追いし、同様の傾向を持ちつつあることには留意が必要ですが、アジア経済圏ということでは上記の図式はある程度妥当だといえるでしょう。

 アジアにおけるアメリカの軍事的プレゼンスというのは完全に既成事実化して、何の疑問も持たれないというのが日本の「空気」ではありますが、そもそもあんな遠方の国の軍がアジアにいること自体おかしいのです。まあそれはここでは措きましょう。しかし最近ではイギリス、フランスさらにはドイツまで軍艦をアジアに送ってきています。まるで19世紀の帝国主義の再来のようです。これも中国包囲網の一環なのでしょうが、アジア人としては欧米帝国主義を警戒するのは当然です。

 元来、中国包囲網のスローガンであった「民主主義VS専制主義」が、ロシアの侵略戦争に対抗する正義のスローガンに格上げされてしまいました。侵略戦争の不正義に対しては、特定の価値観による分断を許さず、「国連憲章守れ」の一点で団結せよ、というのが私たちの断固たる方針です。それは当然ですが、「民主主義VS専制主義」スローガンにおいてはその美名に隠れて、上述のグローバル資本主義の搾取構造を維持することが狙われているのでしょう。そこには軍事的抑止力と軍事同盟が不可欠に存在しています。

 プーチンのウクライナ侵略は、中立国フィンランドとスウェーデンをNATOに追いやったという点でまさに典型的なオウンゴールでしたが、軍拡と軍事同盟をあたかも世界的正義に転化したという点で、社会進歩と平和への計り知れない逆行的悪行でした。これまでも自由や民主主義は、グローバル資本主義の新自由主義的搾取構造のイチジクの葉として使用されてきました。しかしグローバル資本主義がもたらす貧困・格差構造は、自由・民主主義と本来的には両立し得ないものとして批判され、資本主義そのものと民主主義との矛盾が大問題とされてきました。ところが、ロシアの侵略戦争と中国の覇権主義、両国の専制主義はそのあまりのひどさの故、グローバル資本主義の弊害を後景に追いやり、その自由・民主主義の偽善性を忘れさせるものでさえあります。

 私たちはいかなる国のものであれ、侵略戦争と覇権主義には厳しく反対し、同時にグローバル資本主義、新自由主義そして資本主義そのものについて批判的分析を絶やさず、平和と生活向上、自由と民主主義を追求し続けねばなりません。そこに科学的社会主義の本領が発揮されます。

 

 本来ならば、最近の新聞記事などを基に、物価上昇のあり方を分析的に見て、特に庶民生活への影響を中心に何か考えたいところでしたが、果たせませんでした。6月末にして思わぬ猛暑に襲われ、心身が働かなくなったのが誤算で、もっと早くから準備しておけば良かったと悔やんでおります。毎月のことではありますが…。 
                                 2022年6月30日





2022年8月号

          中東欧の体制転換 その事実認識・追認・理念

 ハンガリーは旧東欧社会主義諸国の中でも異彩を放っているように見えます。「灰色のソ連圏の一国」にとどまらないイメージがあります。まず民族的にアジア系出自ということがありますが、1920世紀を見ると、作曲家でリスト、バルトーク、コダーイ、リゲティなどが、社会科学関係では、ルカーチ、ポランニー、マンハイム、コルナイなどがすぐに思い浮かびます。芸術・学問ともに世界的に偉大な人物を輩出しています。

 ソ連圏にあった1956年のハンガリー動乱は同年のスターリン批判と並んで日本の左翼運動に甚大な影響を与え、いわゆる「新左翼」発生の基となったと聞いています。それを聞いたのは学生時代で1970年代後半であり、当時まだ日本共産党はハンガリー動乱へのソ連の武力介入を是認していました(後に撤回されますが)。

 その1956年から88年まで社会主義労働者党書記長であったカーダールは、ソ連との政治的妥協の下で干渉を回避して経済改革を推進し、東欧社会主義諸国の中では一定の成果を上げました。もし民主的選挙があれば、東欧圏で唯一、最高権力者として当選する可能性のある人物という評価を彼は得ていたようです。しかしその「社会主義市場経済」は実を結ぶことはなく、1989年の東欧社会主義諸国のドミノ倒しの中で潰えました。

その後の政治的変遷を経て、現在のオルバーン政権はEU内で異端視される専制主義的な右派政権であり、ロシアのウクライナ侵略に融和的な姿勢をとっています。いろいろあっても先進的な伝統も持っているハンガリーが今何故そんなことになっているのかが疑問とされます。そうした政治的疑問に対して、ソ連・東欧社会主義圏崩壊後の経済体制転換過程を捉えることがまず必要となります。主にハンガリーの転換過程を追いながら、それとの対比でロシアの体制転換を捉え、ウクライナ侵略に至る過程を分析し、この侵略を未然に防ぐ可能性について追求したのが、田中宏氏の「中東欧からロシアのウクライナ侵攻を見る EUの不作為の『道義的責任』です。

 この論文、通読するのに難解というわけではありませんが、諸問題が錯綜し、さらにハンガリー、その他の中東欧諸国、ロシアとウクライナ、とそれぞれで諸問題の展開に違いがあるのでなかなか頭の整理がつきません。通読は直線的に進んでも、論文内容そのものは面というか立体だったりするので、何度も行きつ戻りつ読み直して、中東欧とロシア・ウクライナの体制転換過程の全体像を手探りする感じです。

中東欧諸国の体制転換に関するはっきりした立場として、以前にも引用したのが、南塚信吾・千葉大名誉教授の以下の見解です(「朝日」424日付)。

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 ロシアの今回の軍事行動は暴挙であり、侵略は絶対悪だ。そのうえで世界史の観点に立つと、この戦争は旧社会主義圏にグローバル経済の「新自由主義」が浸透する過程で起きた出来事の一つと言える。80年代のレーガンやサッチャー以来、西側諸国は一貫して規制緩和や民営化、市場化を世界に求めている。

 89年の冷戦終結後に限っても湾岸戦争、旧ユーゴ、アフガン、イラク、あるいはリビアのほか、アフリカや中南米で多くの戦争や内戦が起きてきた。そうした軍事衝突の多くに西側の大国が介入し、自由や民主、人権などの「普遍的価値」の名の下に欧米型の新自由主義を浸透させるための障害を取り除こうとしてきた。

 ウクライナを含む東欧・旧ソ連圏の小国の経済も、欧米資本の新自由主義に組み込まれつつあり、天然資源や農産物の供給地としてだけでなく低賃金労働者の供給地、グローバル企業の新しい市場になっている。

 ただ、この地域の住民には社会主義体制という独特の経験がある。当時は国営企業やコルホーズ(集団農場)などに所属し、体制を批判しない限り、豊かとは言えないが比較的安定した暮らしを送ることができた。ところが90年代以降は自己責任の世界が押し寄せてきた。かつての暮らしから放り出され、個人の利益優先ですべてがお金次第になった。格差が生まれ、寄るべき柱が消滅した。

 ロシア側の主張に一片の合理性を見いだすならば、欧米型の新自由主義とは別の道を探ろうとして今回の戦争に至ったのだと言える。プーチン氏は戦争ではなく、社会主義という共通体験を持つウクライナやベラルーシ、カザフスタンやジョージアなど旧ソ連圏諸国と手を携えて、欧米型の新自由主義に代わる「新たな普遍的価値」を示すことを目指すべきだった。

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 これに対して、「『経済』20226月号の感想」(531日)の<「民主主義VS専制主義」をめぐって>において「(1)ソ連などの20世紀社会主義体制に対してきちんとした批判がなく、(2)欧米型の新自由主義に代わる『新たな普遍的価値』を示すことをプーチンに求めるのはまったくの無いものねだり・筋違いだ」というコメントを付しました。しかし「現代資本主義の経済的土台をも考慮しなければリベラルデモクラシーの危機の本質は分かりません」という観点から、「民主主義VS専制主義」という政治的スローガンの限界を指摘し、南塚氏の議論の一定の妥当性を認めました。

 つまり、旧ソ連・東欧の経済体制転換過程が同時に、西側への従属化=新自由主義の覇権確立過程であり、それが人々の苦難の原因となっていることをきちんと指摘した点にこの議論の優位性があるのですが、対蹠的に転換以前の体制への甘い評価が難点となっています。だから中東欧の新自由主義化の中で、ロシアが専制主義を強めて侵略戦争にまで至った現状に対する現実的打開方向の提起ができずに、いささか逆行的で思弁的な問題提起に終わっています。田中論文はこの転換過程に内在的に接近しているので、よりバランスのとれた議論になっています。ただし逆に現実追認的になっている部分がないか、という点を考慮する必要はあるかもしれません。

 田中論文のハイライトである、ロシアのウクライナ侵略は未然に防げなかったのか、という問題提起に関して、幾重もの考察が見られますが、直近のものとして、2度のミンスク合意に言及されています。2014年のロシアのクリミア併合後、訓練・兵器供与などもっぱら軍事的対応を強めたNATOと違って、欧州安全保障機構(OSCE)と独仏両国は和平構築・戦争勃発防止の方向にも動きました(106ページ)。2014年と15年の2度のミンスク合意以降、EUの姿がない点をとらえて、歴史的好機を逃したEUの「不作為」を田中氏は批判しています。ウクライナに対して、EU加盟の展望を明示しながら、NATO加盟でない地域安全保障のあり方を発信する――ウクライナ東部の2州に高度な自治を付与すれば、プーチンはウクライナ侵略の口実を失い、ロシアはウクライナにおける国外同胞問題を解決する糸口を発見できたかもしれない、としています(109ページ)。ここでOSCEの活用に触れていますが、それはメディアでは見られない観点です。このような政治的展望がどれほど妥当かはよくわかりませんが、無法なロシアの侵略は不可避だった、と始めから投げ出すのでなく、戦争回避とその後の恒久的な平和構築の可能性を追求する姿勢が重要だと思います。昨今、フィンランドとスウェーデンの中立放棄とNATO加盟申請をとらえて、平和を守るには集団安全保障より集団的自衛権だという議論が声高です。しかし、プーチンの侵略を防ぐ可能性として、NATOよりもOSCEという構想があり得たはずだがそれが逸された、ということを指摘することは、軍事的抑止力による「平和」ではなく、外交努力などによる本当の平和の実現可能性を諦めない、という意義があります。

 論文では、以上の侵略戦争の政治的直接的考察に先立って、前提的考察として、経済体制転換における新自由主義的ショック療法の問題が指摘されています。西側アドバイザーは共産党の永久排除とロシア市場の解放を狙って短兵急な新自由主義改革を指南し、エリツィンはそれに従って強行しました。そこでは「市場化・自由化は民主主義の自生的発展を生み出すと信じられていた。だが、旧計画・官僚制度の廃止と自由化は市場制度を短期間に生み出さず、インフレ、ヤミ市場・汚職を蔓延させた」(103ページ)。それへの抵抗に際して、エリツィンは戦車によって立憲民主主義を廃棄し、専制的な大統領権限を確立し、プーチンに継承されました。こうして「ショック療法がプーチンの戦争を引き起こした」(同前)という最悪の結果につながる状況が作り出されました。これは上記の南塚氏の議論と共通します。田中氏は中東欧の体制転換過程の共通性とロシアの特殊性をこう述べています。

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 中東欧では最初は部分的改革から出発して、その後新自由主義的改革が全開して、そして次にネオ保守主義、非リベラルな権威主義が台頭した。そこでは人的資本の不足と、並びに権力と再分配の問題の軽視が決定的な問題となった。国民はバラマキ政治を求めるようになる。エリツィン体制による新自由主義的改革が最初から全開したロシアで、非リベラルな権威主義への転換の画期となったのはプーチン体制への移行であった。

      102ページ

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 以上のような、人民から見れば破綻した「改革」「体制転換」に際して、本来の体制転換の政策課題とそれを体現する理論について論文はこう語ります。「体制転換のなかで求められていたのは、新自由主義からの離脱と民主主義の育成、立憲主義の順守、人的資本育成、各国独自の産業政策の推進、民族的アイデンティティの形成を総合した政策を、それぞれの国・地域にあわせて、ネイション・ビルディングとして提案することができる広義の政治経済学であろう」(110ページ)。この課題設定には困難点があります。「体制転換」は「国家指令経済体制から資本主義経済体制」(98ページ)に向けて実施され、それは米・西欧主導の新自由主義グローバリゼーションへの従属として実現しました。おそらく現実的には、中東欧諸国の世界経済への接合はそういう道しかなく、社会主義を名乗っていた国家指令経済体制の廃棄は必然だったでしょう。その結果が新自由主義グローバリゼーションへの従属であり、人々の生活苦の増大です。したがって、その立場からは体制転換の課題として、新自由主義からの離脱が第一に取り上げられるのは当然でありながら、もともと現実の体制転換とは新自由主義化であったという根本矛盾が屹立しています。理念と現実課程の矛盾です。

 ところで、拙文冒頭でハンガリーの体制転換過程の特殊性に触れました。「ハンガリーの市場経済転換は他の中東欧諸国やロシア、ウクライナ等と異なって、開始されたのは1990年代になってからではなかった」(99ページ)とされ、19世紀後半からの産業革命と資本主義工業化、および1950年代末からのカーダール体制下での部分的市場導入による「グヤーシュ社会主義」の経験を指摘しています。後者については「これは官僚体質・国家依存体質を固定化した反面、非市民的で法律を潜り抜ける態度を広範に市民・労働者に体験させた。結果的には民主主義と市場経済への本格的な移行準備に十分貢献するものではなかった」(同前)と評されます。

 ハンガリーは他の中東欧諸国と同じく、西欧型の資本主義になることはできず、「2010年以降、ユーロを導入しない非正統的経済政策を動員し、EUの基本的価値を拒否する非リベラル専制主義国家体制へと変化してきてい」ます(99100ページ)。ロシアのウクライナ侵略後の選挙でも、プーチンと仲良しのオルバーン政権与党が勝っています。他の中東欧諸国と違って、ハンガリーは「大きな国家」が転換後も残され、しかもその国家の能力が低位であり、これが失敗の原因とされます(101ページ)。以上によっても、今のハンガリーの「残念な状況」に至る原因と経緯について十分には理解できないという感じが残ります。

 論文では、体制転換過程におけるネイション・ビルディングの重要性が指摘されています。これが日本人にはわかりづらいところがあります。「単一民族」という日本社会像が誤りであり、それも一つの原因となって外国人や少数派の人権軽視が生じていることは承知しています。しかし他国を見ると、多くの諸国が民族的多様性を抱えており、それと比べれば、日本社会は言語・文化等々の均一性が高いと言え、それは長短様々な性格を有することになります。私を含め日本人の多くは、少なくない諸外国がネイション・ビルディングの困難性を抱えていることが実感しにくくなっています。

 ネイション・ビルディングについて論文はいくつかの解釈を紹介しています。その中で採用しているのは以下のものです。「エスニシティや言語が異なっても歴史、神話、シンボル、共通の歴史的参照をもつ精神的構築物」、およびそれに「関連して、経済、政治の内発的信頼の発達、民族的アイデンティティの構築を含む総合的な複合物」(100ページ)。それらは、一国の土台である国民経済を形成する上でも必要な条件ですが、多数の諸国にとって意識的に取り組むべき課題であるのに対して、日本では無意識的に前提されています(そこにマイノリティの問題が生じるのだが)。

上述のように、中東欧諸国やロシアの体制転換過程において、政策諸課題を総合して、それぞれの国・地域にあわせて、ネイション・ビルディングとして提案することが最大焦点となっています。ネイション・ビルディングに関連して、「帝国」の解体に伴って、国外同胞問題が発生します。大国でもないハンガリーでさえ、在外ハンガリー人の問題を抱えており、「体制転換後の中東欧において、西欧的主権国家とその市民という関係を超えて、民族的本国と国外同胞の間に準市民的関係を形成できるか否かを問い直し」ています(105ページ)。ましてや「欧州最大の国外同胞を抱える大国ロシアを統合の拡大・深化する欧州にどのように包摂していくのか、という長くかつ広範囲の射程を有する問題」(同前)が深刻に提起されています。しかしEUは「民族的本国と国外同胞」の問題について、あくまで「国家主権の尊重及び市民的本国の責任優先という立場」から「帰属国家との関係に関わる基本的な権利義務については、越境性は全く存在しない」(同前)としています。論文はこれをもってEUの不作為の一端として批判しています。

 おそらく日本人の多くの感覚としては、EUの国家主権観に対して違和感はなく、「越境性」を認めれば今回のロシアのウクライナ侵略の論理を是認することにつながりかねない、という危惧を抱くことになるでしょう。しかしソ連「帝国」の解体に伴って、ロシアは大量の国外同胞を発生させており、その一方で進む欧州統合の東方拡大(NATO拡大を含む)の中で、ロシア国家と国内外のロシア人の抱く疎外感が高進することは理解できます。これは根深い敗者の感覚と言え、今後は、今回の侵略戦争のような暴発を防ぐために慎重に対処すべきであり、論文の趣旨のように、いかに包摂していくかという課題として捉える必要はあります。

 論文の多様な問題提起に対して、以上のようにほんの一部しか採り上げられないのは恐縮ですが、上述した、経済体制転換を捉える際の理念と現実課程の矛盾について最後にまた触れます。論文の「まとめ」は、体制転換の中で求められていたものの筆頭に「新自由主義からの離脱」を挙げています(110ページ)。またロシアの侵略戦争に対して軍事的対抗の世論が圧倒している中でも、軍事同盟NATO強化の方向に同調するのではなく、侵略戦争を未然に防ぐ可能性として、欧州安全保障機構(OSCE)の活用があり得たことを指摘しています(105109ページ)。つまり体制転換過程と侵略戦争の考察上、経済・政治・軍事・外交における変革志向の理念を提起していると言えます。

 それは一つの価値判断ですが、空論に終わらせないためには、現実過程にしっかり内在した上での検討が必要となります。その検討の前提として第二次大戦後の世界秩序の五つの新しいルールが以下のように提示されています。

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 1)世界市場で米国の主導のもと合意に基づいてモノ・人・資本・サービス・情報の自由な移動(国境機能・水準の低下)を進める。(2)そのなかで上記の諸移動の自由を後退させない限りで地域統合(域外国境の新設)を認める。(3)戦争・武力による国境の変更を許さない。(4)自前の国家を持つことができる民族自決を承認する。(5)一国内の人権侵害について国境を越えた国際取り組みを認める。

 それぞれのルールの定義、範囲、現実への適用、限定性については議論、異論があるだろうが、ここでは踏み込まない。         97ページ

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 最後に留保条件がついているので、五つのルールが手放しに認められているわけではありませんが、先の変革思考の理念・価値判断に比べればより具体的な基準としてその後の検討で参考にされているとみられます。ただし意地悪く言えば、これらはたぶんに欧米帝国主義陣営の新自由主義グローバリゼーションが形成した今日の世界像の美化されたものから後付け的に戦後世界像を総括したものと言えます。

たとえば(1)については、IMF固定為替レート制時代には資本の移動は規制されていたので当てはまらず、変動相場制以降の金融自由化された新自由主義時代の原則であって、「第二次大戦後の世界秩序」とまで一般化はできません。(3)(4)は国際関係上の当然の民主主義的原則ですが、米国自身は事実上無視して振る舞ってきました。ロシアのウクライナ侵略がその公然たる侵害であることは明白ですが、対照的に米国の数々の侵略戦争が不問に付されている現実は重大です。(5)は大切なルールですが、現実の適用には往々にして微妙な問題を惹起します。「五つの新しいルール」は世界の具体的な現状分析にそれなりに有用ではありましょうが、新自由主義と軍事同盟にとっては何の差し障りもない、という意味では、現実追認を美化するルールに終わる可能性があります。

 「第二次大戦後の世界秩序の五つの新しいルール」に続いて、「ハンガリーの体制転換」の四つの課題が、「経路依存・回帰と経路創造(選択)」という重要な視点とともに提出されています。その中で始めの三つの課題として、(1)ソ連からの独立・主権の回復を果たし、(2)一党制から民主制へ移行し、(3)それらを支える対外的構造の創出として、EUNATOへ加盟することが挙げられています。確かに事実としてそうなったのですが、特にNATO加盟に批判的検討がないのが気になります。もちろん現実問題としてそうならざるを得ない状況であったのでしょうが…。 

 最後の四つ目の課題である「国家指令経済体制から資本主義経済体制への転換」において、経路創造(選択)する諸主体の(政策立案・実施)能力の限界が指摘され、それを超える方向性として三つが次のように提起されています(あるいはそれらの組み合わせも可、98ページ)。――(1)過去の経路・制度への回帰(経路依存性)、(2)垂直的で権威主義的位階制構造の創発、(3)世界経済や地域経済への統合の開始――

 (1)の「過去」として、19世紀の帝国時代の産業革命と資本主義化の経験に加えて、20世紀のソ連圏時代の「グヤーシュ社会主義」(部分的市場導入)が指摘されていますが、後者は今回の体制転換に貢献するものではないと評価されています。したがって、新自由主義構造改革過程の中で(2)と(3)が奇形的に実現することで、西欧型の資本主義とは違って、「EUの基本的価値を拒否する非リベラル専制主義国家体制」(99100ページ)形成に至ります。

 以上はハンガリーの体制転換過程の問題点ですが、ロシアのそれは新自由主義的ショック療法として断行されます。その新自由主義的ブレーンのもくろみと結果は「市場化・自由化は民主主義の自生的発展を生み出すと信じられていた。だが、旧計画・官僚制度の廃止と自由化は市場制度を短期間に生み出さず、インフレ、ヤミ市場・汚職を蔓延させた」(103ページ)ということです。この「改革」の問題点として、「旧社会主義システムの遺産」が「過小に評価されつづけてきた」(101ページ)とか、「旧国有企業の現場・工場で蓄積されてきた製造技術のノウハウや知識、製造能力も…中略…解体された」(102ページ)など、旧体制との乱暴で性急な断絶が指摘されています。その中で、「国家の管理能力と辛抱強い社会心理的な管理が必要とする民主主義体制は成熟せず、萎縮していった」(102ページ)のであり、体制転換がポピュリズムと専制主義の温床と化していきました。

 ハンガリーとロシアのこうした経験は中東欧諸国の体制転換過程とも一定の共通項がありそうです。西欧型の資本主義が成立しなかった原因として、乱暴で性急で断絶的な体制転換過程が人々の生活破壊とともに進行したことが予想されます。したがって、彼の地の現状について現地の人々の自己責任論に終わらせるのでなく、体制転換を企画・強行したグローバル資本や国際機関・西側諸国政府の責任を問うことも必要かと思います。

 論文は、ロシアのウクライナ侵略を未然防止する可能性について、2度のミンスク合意その他を基軸に検討する想像力を発揮しました。同様に中東欧諸国とロシアの体制転換の問題点についても、現状追認ないし、新自由主義的観点からの「批判」(「改革」が足りない論)ではなく、もっと広く、新自由主義と軍事同盟を超える民主的な体制転換の可能性を検討する想像力もあり得るのでないでしょうか。その際に、政治の民主化と経済の資本主義化を「欧州化」と一括することで、軍事同盟加盟を当然の課題のように並列することから自由でなければなりません。

中東欧諸国とロシアの現状は、乱暴で性急で断絶的な新自由主義的構造改革下で生じたのであり、必ずしも歴史的に必然の過程ではないと考えられます。もちろん新自由主義グローバリゼーションの圧力は圧倒的に強いけれども、それへの過剰適応ではなく、各国独自の事情に応じた国民経済の更新・建設とそれを土台とするネイション・ビルディングを実現していくことが課題としてあります。それを民主的に実現する究極の力は、新自由主義グローバリゼーション・構造改革による搾取強化がもたらす人民の苦難とそれを打破しようとする運動です。そこに展望を示す政治経済学の使命は大きいと言えます。それは現実への内在と歴史的想像力とのせめぎ合いと両立の上に成立するものでしょう。

 以上、事実認識そのものでの必要な知見を持ち合わせていないので、紹介された事実と情報を受容していくらか知見を補ったと考えた上で、分析の視点に関しては多少の意見を持ちうるかもしれないということで、アレコレ述べました。論文全体から見れば恣意的なピックアップにすぎないかもしれませんが…。妄言多罪。

 

 

          政治変革をめぐる公共性の争奪戦

 710日の参議院選挙では、自公与党が勝利し、立憲野党が後退し、与党に維新・国民民主などを加えた改憲勢力が議席の2/3を優に超えました。危機的状況です。

 ある学習会で、生活破壊の自民党政治がなぜ支持されるかが問題となりました。いろいろ議論しましたが、私としては一番基底にあるのは「公共性」の争奪戦ではないかという気がします。人々がどのような「公共性」を「自然」と捉えているのかが問題です。一貫して続いてきた保守政権のブルジョア的公共性がそれに当たると言えます。

 国家を階級支配の道具と見る単純な議論は今日では通用しません。実際、社会保障をはじめとする国家の公共機能を抜きに私たちは一日たりとも生活できません。しかし、軍拡と社会保障削減、労働規制緩和による搾取強化など、時の政権の政策が人々を犠牲にして、階級支配の維持を目的としているのも確かです。

 この「階級性」と「公共性」とはどういう関係にあるのか。「階級性」一般と「公共性」一般とが抽象的に対立しているわけではありません。資本主義などの階級社会においては純粋の公共性はありません。あるのは支配層と被支配層とがそれぞれの「階級性」に基づいて主張する二つの対立する「公共性」です。

 戦後日本の政治経済体制では、独占資本が米国に従属しながら人々を支配しています。この対米従属の国家独占資本主義体制の下で、日米軍事同盟で「安全保障」を確保し、経済成長を追求し、その枠内で人々の生活をそれなりに安定させることがここでの「公共性」であり、それ以外の体制は想定外です。この秩序を揺るがすことは「公共性」を破壊する悪であり、大企業や米国を批判するのは非現実的な異端論としてあしらわれます。

 この「公共性」は支配的イデオロギーとして世論に定着しています。その象徴は日米安全保障条約に対する圧倒的支持です。1970年代あたりまではそんな状況ではなかったのですが、今日ではそうなっており、メディアの報道でも大前提とされ、疑われることはありません(*注)。大企業中心の経済体制とそれを支える経済政策もそれに準じて扱われています。社会保障削減や消費税増税などは断行すべきとされながら(せいぜいましな扱いとしては「やむを得ない」とか「丁寧な説明が必要」とされる程度)、逆の政策は「実現は難しい」とされます。こうした毎日のイデオロギー注入は人々の政治社会意識を支配しており、別の「公共性」(対米自立と経済民主主義など)があり得るという想像力を奪っています。

 しかしバブル破裂後の経済停滞と新自由主義構造改革の断行は格差と貧困を拡大し、未曾有の生活困難の発生は、支配層の「公共性」への疑問を拡大しています。選挙での度重なる勝利にもかかわらず、自民党の絶対得票率が低水準に推移しているのはこの状況の反映です。しかし対案としての被支配層の「公共性」が目に見えない中では、支配層の「公共性」が「自然」であって、せっかく発生した疑問が野党支持に結びつきません。

 安全保障の分野は経済政策よりもさらに支配層の「公共性」の破綻が見えにくくなっているので、ロシアのウクライナ侵略に際して、日本では軍拡の大合唱になっていますが、その問題はここでは措きます。

 野党共闘を支えた市民と野党の共通政策は、支配層の「公共性」の部分的批判であって、被支配層の「公共性」の提出という水準まで行っていませんが、最低限の前進ではありました。しかしその野党共闘さえ今回は後退した中で、支配層の「公共性」がその客観的破綻にもかかわらず、一人勝ちし、非民主的な選挙制度においては、与党の常勝が当然となります。

 政策破綻で劣悪な経済状況にもかかわらず、政治が一向に前進しない基底には、人々にとって支配層の「公共性」が「自然」であり続け、被支配層の「公共性」が見えない現状があります。そこでは野党は眼中になく与党に頼る考えしかなく、日々の生活苦は耐え忍ぶしかありません。自覚的民主勢力がその現状を直視し、被支配層の「公共性」をつかんで踏まえながら、当面の政策目標として、市民と野党の共通政策をいかにわかりやすく提起し、現実的打開策としての野党共闘をどう再建するかが喫緊の課題です。悪政への対案としての政策的想像力を人々の心中に湧き上がらせることなしに前進はあり得ません。       

 

(*注)

 一例を示します。「朝日」デジタル617日付が那覇市出身の俳優・津嘉山正種氏を登場させています。瀬長亀次郎の演説の再現場面を含む「沖縄の魂」と題した一人朗読劇についてのインタビューです。驚くべきは、記者が事前に示していた質問要旨に「今の国際情勢への思い(中国との緊張も高まり基地の固定化が避けられない現状)」という一文があったというのです。津嘉山氏はこれを指し、「なぜ、避けられないと思っているのか」と詰問しました。これでようやく記者ははっと気づきました。

想定内とはいえ、安保・沖縄問題に対するブルジョア・ジャーナリズムの意識水準はこの程度です。米軍基地の固定化=「日米同盟」絶対視の支配層の「公共性」が大前提となっています。しかし同時に、この記者はあえて自分の恥をさらし、この「公共性」に疑問を呈する記事を書いたということは賞賛に値すると言えます。

 

 

          歪んだ愛国心の正体暴露

 安倍晋三元首相の殺害に関連して、統一協会がクローズアップされていますが、先述の学習会では、ジェンダー平等に敵対する自民党政府の姿勢に関連して、旧統一協会=世界平和統一家庭連合の影響力が話題になりました。

 それは反共謀略組織であるが故に、自民党に重用されていますが、同時に韓国由来のこの組織へ日本人から財産を巻き上げているという点で非常に注目されます。反共のためなら日本人の犠牲をいとわず外国組織を利用する――韓国バッシングを一つの売りにしてきた安倍自公政権の愛国心の欺瞞性が暴露されています。

 ナショナリズムには大雑把に言って二つあります。植民地・従属国における独立志向の積極的なナショナリズムと、他国を従属させたり下に見る「大国」「先進国」の消極的なナショナリズムです。中国のナショナリズムは19世紀から今日までの間に前者から後者に変質しました。前者に基づく中国革命は人類史の進歩の象徴ですが、後者に基づく今日の覇権主義は社会進歩への大きな逆流となっています(後者だけを見て中国革命の意義まで否定するのは誤りです)。

 そしてたいへん残念なことに、戦後日本にはあるべき前者がなく、あるべきでない後者があります。それは対米従属とアジア蔑視という負の複合物としての歪んだナショナリズムです。

 自民党の主流派など保守反動勢力は、一方で韓国バッシングをやりながら、他方で韓国由来で日本人の信者を食い物にする統一協会=勝共連合を利用しており、いかなる意味でも愛国者ではありません。つまり日本の自公政権は徴用工や「慰安婦」の問題で、日韓対立を煽り、いかにも「国益」を守っているかのように装いながら、実際には日本の「人民益」を害しているのです。そこには統一協会による日本人の家庭破壊という卑近な実例だけでなく、大きくは、日本の未来を破壊するという意味もあります。

 そこでは、「日本VS韓国」や「日本人VS韓国人」はニセの対立軸であり、「日韓の保守反動勢力VS日韓の進歩勢力」が真の対立軸です。日本の支配層は、自国の侵略戦争の歴史に向き合わず、植民地支配の責任をとらず、韓国バッシングと中国脅威論で排外主義と軍拡を煽っています。米軍の下で自衛隊が参戦できるように、平和と民主主義破壊の改憲の道を突き進んでいます。日本の排外主義はアジア人だけでなく日本人にも有害なのです。

 一般論を言えば、愛国心とかナショナリズムを持つか持たないかは全く自由です。私は、対米従属とアジア蔑視に貫かれた日本の支配層が振り回すエセ愛国心は蛇蝎のごとく嫌悪し、日本国憲法を活かし社会進歩を切り開く自主独立の批判的愛国心を支持します。

 さらに正しいナショナリズムの物質的基礎として、食料とエネルギーの自給を強調したいと思います。歴代自民党政権はそれを破壊し続け、今日もまた、際限ない農産物輸入の自由化推進と原発固執による再生可能エネルギーの抑制とで両者の自給率向上を阻んでいます。人々の生存の土台を壊しながら、対外脅威を煽って軍拡を進めることは真の安全保障とは正反対の姿勢です。

 

 

          共産主義と共産党の名称問題

 先日知人から、共産党は政策はいいけど、名前が中国共産党を思い出すので良くない、という意見をもらいました。そこで以下のように答えました。

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 共産党という名前が悪いという意見は大変よく聞きます。中国と重なるというのもごもっともです。

 共産主義という言葉の普通のイメージは、ソ連や昔の中国(以下、中国というのは昔のイメージの中国)の現実から作られ、まず政治的に自由がない、経済も停滞して、貧しい平等主義だというものです。日本共産党はそういう社会を目指していないし、そもそもマルクスの共産主義もそういうものではありませんでした。ソ連や中国の共産主義はそれぞれの歴史的事情の中から作られた特殊なもので、共産主義の本来の道から外れてしまったものです。ただし現実に共産主義を名乗る社会はそういうものしかなかったので、世間のイメージが悪くなったのは仕方ないと言うほかありません。

 資本主義の支配層はそれをうまく利用して、共産主義のマイナスイメージを作り上げてきました。日本共産党や世界の真の共産主義者たちはマルクス本来の共産主義社会の実現を目指しています。もちろんそれはまだ実現していないので、空想だと言われればそれまでです。しかし資本主義が格差と貧困を拡大し、環境を破壊して人類社会を危機に陥れている今、それを克服する社会像を示す必要があります。その際にマルクスの共産主義がもっとも理論的に整備され、その足がかりになると見られているのです。

 しかもそれは単なる空想ではなく、資本主義社会における労働者・人民の闘いの中で、労働組合・協同組合・社会保障制度などという形で部分的に実現されています。たとえば医療生協というのは、住民が地域社会の中で共同して健康作りの運動を自主的に作り上げようという運動であり、資本主義の原理を超える可能性を持っています。

 「共産」というのは共有財産の略だと思います。ただしソ連や中国のイメージからすると、共有財産とは、乏しい消費財をみんなで分かち合う、ということになってしまうでしょう。しかし「共有財産」の本当の意味は、「生産手段の社会的所有」です。生産手段の社会的所有によって、資本主義企業の私的所有での利潤追求第一主義から解放され、人々が主人公となった社会のための生産を実現します。消費手段は私有であり豊かさが目指されます。「共産」という言葉はなかなかそういう意味として受け止められないという難点があります。

 共産主義はコミュニズム(communism)の訳です。コミューン・イズムですから、直訳すれば共同体主義となります。これも何だか窮屈なイメージなのでそのままでは使いにくい。

 共同体の対義語は市場です。人類史の始まりは原始共同体です。生産力が低く最低限度の生活を平等に営んでいました。やがて生産力が高まると余裕部分としての剰余労働に対する搾取が始まり、経済社会は搾取する者とされる者とに分かれ、奴隷制・封建制へと発展します。しかしここまで経済の基盤はずっと共同体です。

 やがて共同体同士の接触によってそれぞれの生産物の交換が始まり(商品と市場の発生)、共同体の中にそういう交換のための生産者(商品生産者)が生まれると彼らが共同体から独立し、市場の形成者となります。独立した生産者が自らの才覚で生産を発展させ、競争するようになると、市場はますます発展します。

 一部の独立生産者は資本家へと発展し、多くの人々は労働者として賃金を得て生活するようになります。自給自足から、商品を買って消費する生活になります。つまり自分の労働力を商品として資本家に売り、得た賃金で消費に必要な商品を買うようになります。

 こうして経済の土台は全面的に商品生産=市場となり、前近代の共同体が解体し、市場を土台とする近代資本主義経済が確立します。前近代の共同体は安定しているけれども、個人の自由はありません。市場経済は独立・自由・(法的)平等な社会をもたらしますが、弱肉強食の不安定な自己責任の社会でもあります。近代の市場は、自由・民主主義・人権をもたらしましたが、同時に資本主義経済によって強烈な搾取による格差と貧困の拡大をももたらしました。

 原始共同体は別として、前近代の共同体社会(奴隷制・封建制)も近代の市場経済社会(資本主義)も搾取経済という点では共通です。共同体と市場のそれぞれの光と影(安定性と自由・独立)を総合して克服し、併せて搾取をなくし、未来の高度な共同体社会の実現を目指すのがマルクスの共産主義(コミュニズム)です。

 

 ☆人類史の骨格   共同体 → 市場 → 共同体

 

 ☆説明付き  (前近代の)共同体 → 市場(全面化すれば資本主義社会)

           → (未来の高度な)共同体=共産主義社会

 

 それは自由・民主主義・人権を継承し、徹底し、労働者が主人公となった経済によって搾取をなくして生活の安定と発展を目指します。ソ連や中国はこの道から外れましたが、日本共産党はそういう未来社会を展望しています。もちろんすぐに実現できないので、目の前の資本主義社会を少しでもましなものにするため、具体的な改良の政策提案を全面的に切れ目なく提出しています。

 憲法守れ、軍拡許すな、消費税減税、ジェンダー平等実現、等々の政策は全く空想的ではなく、実現可能です。それらを一つ一つ実現していく経験が、人々を未来社会建設の主体へと鍛え上げていきます。僕の生きているうちに一歩も前進しないかもしれないけれど、資本主義市場経済との毎日の格闘が未来の共産主義社会を生み出す基となると思い定めてアレコレあがいております。

 共産主義(コミュニズム)と共産党(コミュニスト・パーティー)の本来の意味は以上のようなものと僕は捉えています。ソ連や中国のイメージと訳語のぎごちなさからこの言葉が嫌われていると思います。変わるスマートな言葉が思いつかないのと、日本共産党という名前で、反戦平和、生活向上の一貫した実績を上げてきた100年の歴史があるので、名前は変えられないというのが僕の結論です。

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 以上への返信は「労働者が主人公となる経済による生活の安定 実現可能へ道は険しそうです・・」ということでした。すんなり納得とはいかないものです。
                                 2022年7月31日






2022年9月号

          社会進歩の敵:「歪んだナショナリズム」

 

◎悪政の長期暴走と批判勢力の課題

 参議院選挙に勝った岸田政権ですが、新型コロナ第7波の空前の拡大による医療崩壊、旧統一協会問題とそれに関連した安倍晋三元首相の国葬への不支持の拡大などによって、内閣支持率が急落しています。「しんぶん赤旗」89日付は「岸田政権の行き詰まり」を言いますが、政権には一向に反省の気配はなく、それにふさわしい危機感も感じられず、一時しのぎの弥縫策しか出てきそうにありません。憲法に基づく野党の国会開催要求を無視しており、基本姿勢としては、おそらくただじっと時が過ぎるのを待つのだと思います。それが安倍政権以来の「成功した処世術」だからです。政府にはもとより人々の命に対する使命感はないので、どれだけ医療が逼迫して犠牲が出ようとも、ただ感染のピークアウトが過ぎればそのうちみんな忘れてくれる、多くの人々にとってはよそ事で終わる、そういう計算でしょう。統一協会とは思想的にも組織的にも骨がらみなので、本当に関係を絶つなどは思いもよらぬことで、今はただ黙って頭を下げて、非難の嵐が過ぎるのを待つ、それでごまかし通せる。あるいはもうちょっと譲歩して、言葉上は「関係を絶つ」と言いはするが、こっそり現状維持でも、後でなんとでも言い逃れはできる。人の噂も七十五日。コロナ禍で医療崩壊したり、アベノミクス失敗で物価高が止まらなかったり、「モリ・カケ・桜」に続いて統一協会問題で政治不信を招いても大丈夫。無策と悪徳でも政権は持ってきた。当分国政選挙はないし。――安倍的経験:緊張感のない長期政権の悪しき成功体験のもたらす惰性はこんなものではないでしょうか。この現状を変えられるのは世論のいっそうの怒り爆発以外にありません。さもなくば、「いつまでやってんだ」という例の「声」がそのうちに出てきて、徹底糾明が悪いことかのような「空気」が醸成され打ち捨てられます。

 それにしても、明らかに戦後最悪で、しかも政策的に支持されていたわけでもない安倍政権が、「他の内閣より良さそうだから」ということで選挙に勝ち続け、憲政史上最長を記録した原因を簡単には特定できませんが、そこに生まれた空気はこんなものでしょうか。「最初から野党が眼中にない与党病」、「忍耐過多=日々困難やり過ごし主義」、「諦念=大人」観。道理が一切通用せず、無理=悪政が通るのをただ諦めるしかない政治下では、反知性主義とシニシズムが跋扈します。日本社会は根腐れし、退嬰的閉塞感が蔓延しています。岸田政権はその「遺産」上にあります。

 このように、世論はさすがに「モリ・カケ・桜」のごとき、およそ信じられない国政私物化の際には多少揺らぎもするが、じきに回復し、いかなる悪政にも「動じません」。これを近代経済学の概念になぞらえて「世論の悪政弾力性」として扱ってみます。

経済学における「需要の価格弾力性」は、価格の変化率(%)に対する需要の変化率(%)の比です。弾力性の絶対値が1を越えると弾力的、1を下回ると非弾力的と呼びます。したがって、「世論の悪政弾力性」は、政治の悪化率(A%)に対する世論の支持低下率(B%)の比です(B/A)。たとえば政治が10%悪化しても内閣支持率が5%しか低下しなければ、弾力性は0.5であり、非弾力的です。もっとも、分子のBは世論調査の内閣支持率で客観的に数量化できますが、分母のAは客観的に数量化できないので、主観的に決めるほかありません。だからまあ、これはたとえ話程度のことではありますが、ものの見方の補助線にはなるかと思います。

私の実感としては、「モリ・カケ・桜」のごとき国政の私物化とか、消費税増税のような生活を直撃する顕著な悪政に対しては、内閣支持率が急降下するので、「世論の悪政弾力性」は短期的にはわりに弾力的だと言えます(それでも1.0以下かもしれない)。しかし支持率はじきに回復するので、中長期的には非弾力的です(0に近く、場合によってはマイナス――悪政が支持率上昇要因に。たとえば生活保護バッシング・韓国バッシング・中国脅威論による軍拡)。「需要の価格弾力性」では、他の財で代替することの困難な財では概して非弾力的となります。石油が10%値上がりしても、需要を10%下げることは困難であり、2%しか下がらなければ、弾力性は0.2となります。それになぞらえると、政権交代は困難だと頭から思われておれば、悪政が恒常化しても支持率はそれにふさわしくは下がらず、「世論の悪政弾力性」は非弾力的になります。

 科学的社会主義を学び始めた10代の頃は、資本主義下で労働者階級が増大し陶冶され、人民を率いて社会主義革命が実現するものと思っていました。しかし現実にはそのような変革主体形成は進まず、資本主義体制(現代日本の場合には対米従属の国家独占資本主義体制)は人々の保守化・体制順応化によって護持されてきました。戦後最悪の安倍政権の長期化はその期間・それ自身の特殊要因もあるでしょうが、日本資本主義の展開下における戦後政治の長期にわたる保守化・右傾化の一つの到達点として捉える必要もあるでしょう。

 体制擁護の社会科学の場合は、そういった現状をただ現象的に観察し追認すれば足ります。それはそれでけっこう内在的で精密な研究として成立するでしょう。変革の立場では、それに負けないような現象把握を果たす中で、同時に客観的かつ主体的な変革要因を剔抉し、針路を指し示さなければなりません。その際に上記の私のような大ざっぱな認識では話にならないわけです。もちろん様々な学問研究や実践主体がその程度にとどまっていることはあり得ないはずですが、実際のところ、五十歩百歩ではなかろうかという気もします。紋切り型で、現実への内在が不十分で、変革の展望というよりも希望的観測に終わっているのではないか…。私の認識不足に過ぎないのであれば良いのですが。

 柳沢遊氏の「戦後77年に想う 平和意識の変貌」は全2ページの短い論考ながら(4849ページ)、平和問題の推移と平和意識の変貌という視角から、戦後77年を概観しており、変革運動の停滞感と現情勢への危機意識とを共有できます。まず戦後77年が4期に分けられます。――第1期(19451964年)、第2期(19651982年)、第3期(19832001年)、第4期(20012022年)――

この画期が適切かどうかはわかりませんが、運動の困難が増していく状況とその原因が端的にまとめられているのが重要です。第1期は、「戦後」ゆえの平和が、生々しい傷跡を伴って息づいていた時代で、多彩な市民運動・労働運動が発展・継続しました。しかしすでに第2期の70年代後半は、「石油危機後の、社会秩序安定化志向と企業社会・学歴社会の全面的制覇」が「平和運動を含め戦後社会運動の基盤を浸触して」、「担い手の世代循環が縮小過程に入った時期」と特徴づけられます。「急速な都市化、工業化、核家族化、教育の階層化、企業社会化が進行する過程で」戦後型の「平和」価値意識と「戦後」平等意識が分解傾向を示した、という重要な指摘もされます。

私なりに解釈すればこうなります。石油危機前後の時期は、戦後高度経済成長後、初めて本格的な世界恐慌が襲い、資本主義の危機の時代です。しかし資本主義体制はそれを逆手にとって、社会秩序安定化志向を醸成し、確立した企業社会・学歴社会の枠内に危機意識を抑え込むことに成功しました。その後の危機対応は、新自由主義政策を基軸にいっそう強力に労働運動を弾圧・無力化し、搾取強化によって強大な資本蓄積基盤を整備していきます。支配層は、経済危機をめぐって、それを社会変革の契機とすべき労働者階級の運動の機先を制して、資本主義的発展のもたらしてきた社会・生活状況の変化を捉え、それに応じて確立してきた体制擁護機構をフル動員して変革を抑え込んでいます。

ここでは客観的条件の変化を背景とする階級闘争において、支配層が政治・経済・社会的力をテコに、変化への対応でも被支配層を凌駕し包摂するシステムが形成されています。被支配層が力の劣勢を挽回するためには、人々の苦難を前にその原因をはっきりさせ、乗り越える展望を提示し、それを日々の生活意識の中に無理なくはめ込めるアピール様式を備えた運動を創造して、数の力を結集する必要があります。その際に注意すべき一つの点は、新自由主義グローバリゼーション、その強搾取・収奪・福祉切り捨て等がもたらす諸困難を明示し、それから目をそらそうとして支配層が用意するスケープゴートへのバッシングを無効にすることです。

さらに変革の展望を示す中心は政策的なオルタナティヴの提示です。そこでは、支配層と被支配層とがそれぞれの階級性を潜ませて「公共性」の争奪戦を繰り広げます。もちろんメディアが意識しているのは、支配層の公共性だけなので、公共性と言えばそれを指すと通常は思われています。大企業の資本蓄積が最優先され、日米軍事同盟によって「平和」を維持することと相まって、人々の生活が守られ向上していくのが公共性なのです(トリクルダウン理論など。他には、国内外の自主的動向に対しての「反米」レッテル貼り)。それに対して、直接、人々の生活を優先する経済政策によって内需主導の経済成長を実現し、非同盟中立外交で平和を守るのが被支配層の目指す公共性と言えます。それは現に存在はしていません。しかし今日、実際にはトリクルダウンは成立せず、日々人々の生活と労働の困難が増しており、米国の戦争に巻き込まれる危険性も増大しているわけですから、支配層の公共性なるものも本当のところ存在していません。そういう幻想的公共性だけが現実に唯一存在する公共性として扱われているのに対して、別の公共性があり得るということを指し示すことが必要です。実際にはそれぞれの階級的利害を土台とした二つの公共性が争い、どちらが本当に「みんなの利益」なのかを競うことになります。しかしその土俵に上がっているのが支配層の公共性だけなのが問題なのです。経済をよくすると言えば、条件反射的に「(新自由主義)構造改革の推進」という言葉が返ってくるのがメディアの経済認識です。そういう状況を打破すべく、「冷たく弱い経済から優しく強い経済へ」というスローガンを打ち出すのは公共性の転換という意味があります。

 閑話休題。上記の第3期の特徴付けでは、日本人多数派の歴史認識として、大国ナショナリズムの台頭と侵略国としての責任意識の欠落が指摘されます。そうした中、戦後政治の総決算を強調する中曽根政権が1986年の総選挙で大勝しました。さらに第3期については、1993年、ついに小選挙区制が導入され、「バブル崩壊後の混乱と負担増加、企業と教育への競争原理の導入」などの中で、民主主義・平和意識の「戦後」遺産が崩壊しつつあったことに護憲志向勢力はまだ鈍感であった、と痛烈に指摘されます。さらに「戦後体験」皆無世代が「権威主義」と新自由主義に傾斜し、それに翻弄されていく、とも追い打ちされます。

 第4期では、まず郵政民営化を争点にした解散総選挙(2005年)での小泉政権の圧勝に、都市有権者層の新自由主義構造改革への期待が見て取れます。さらにリーマンショック(2008年)後、雇用の不安定化と各種中間組織の疲弊が進み、非力な「孤人」を大量に生み出し、「自己責任」で努力を強いられる「新自由主義」的心情が若年層に浸透した、と指摘されます。そして2022年、ウクライナ侵略戦争に際して「緊急事態」「国防」への関心が喚起され、戦後経験の継承の困難さが露呈し、改憲勢力が参院選で圧倒し、日本国憲法体制は危機を迎えています。

 柳沢氏の論考の基調はきわめてペシミスティックですが、それは社会変革の勢力が見たくないものを見ないできたことへの警告だと思います。資本主義発展による労働・生活様式の変化、ならびにそれへの支配層の対応とイデオロギー教化が、自己責任論の浸透など新自由主義の支配を着々と作り上げてきました。労働と消費生活のあり方がともに個別分断化される傾向が強まるのに対して、労働運動・市民運動などが連帯と団結の再構築に失敗してきたことが直視されねばなりません。運動の惰性・自己満足・独善への自己批判を前提に、社会・生活の変化に対応して、一人ひとりが変わっていける、困難を乗り越えて参加できる運動の深いあり方が求められています。

 

     ◎「歪んだナショナリズム」克服の想像力喚起

日本における社会進歩阻害イデオロギーとしては、大企業の資本蓄積を最優先する思想とともに、日米軍事同盟がアプリオリに前提され、代わる政策は考えないという思考停止も挙げられます。他国に例を見ない極端な対米従属性により、日本の外交政策は全く幅を持たず、平和・安全保障のそのように狭い枠組みは日本の現在と未来を大きく損なっています。柳沢氏が指摘する「大国ナショナリズムの台頭と侵略国としての責任意識の欠落」という「日本人多数派の歴史認識」はその枠組みの中で形成され、また逆にそれを支え強化する意識として作用しています。この大国ナショナリズムを私は、「対米従属とアジア蔑視の歪んだナショナリズム」(以下、「歪んだナショナリズム」と略)と呼んでいます。ある自民党政治家はそれを恥ずかしげもなく公言しており、驚きました。衛藤征士郎・元衆院副議長は「我が国はかつて韓国を植民地にした時がある。そこを考えた時に、韓国は日本に対してある意味、兄貴分みたいなものがある」と説明し、日韓は対等ではないのかと問われると、「日本国民は日米関係を対等だと思っているか。僕は思っていない。同じように日韓関係は対等だと韓国が思っていると、僕は思っていない」と述べました(「朝日」85日付)。

 「歪んだナショナリズム」を日々拡大再生産しているメディアの中にも、それにとらわれない例外的に秀逸な論考の登場することがあります。重田園江氏の「(政治季評)敗戦国に生きる意味 戦争への悔恨をかみしめて」(「朝日」823日付)によれば、今日の日本人がまるでアプリオリに受容している「歪んだナショナリズム」が、戦後の一時期に他の可能性をなぎ倒した上で作り上げられ、育てられてきたものだということが痛切にわかります。重田氏は「国際軍事法廷を通じて国家として戦争責任を負わされた国」はいまだにドイツと日本だけであることを指摘しつつ、ドイツがいち早く冷戦構造に組み込まれたのと対比してこう言っています(*注)

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これに対して日本では、朝鮮戦争前の数年間、一から国を作り直そうとするある種の理想主義が支配した。占領当局と日本の人々が自由と民主主義の夢を共有した時期があったということだ。ダワーはこれを、日本人が「敗北を抱きしめ」た時代であると表現した。日本国憲法はこのとき作られた。終戦後のこの数年間は、日本にとって重要かつ特異な時代だと言える。では「敗北を抱きしめる」とは一体どのような経験なのだろう。

 人々は日本国憲法を押しつけと感じたのか。誰に戦争の責任があると考えられたのか。天皇の戦争責任が問われず、裕仁が退位しなかったことはどう受け止められたのか。食糧不足と飢餓は誰のせいだと思われたのか。支配層の変わり身はどう風刺されたのか。GHQによる検閲を、教師や生徒はどう受け止めたのか。そして何より、日本軍と日本人が戦時中に行った残虐行為について、どうやって見ないふりをしたのか。

 敗北を抱きしめることの中には、平和と民主主義を自分たちのものにするという誓いも含まれていた。民主主義は希望で、二度と戦争をしないことは未来への約束だった。それを押しつけたアメリカの方針転換で、数年後にはこの理想は、冷戦イデオロギーによって踏みにじられたが。

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 重田氏はこの後、戦勝国である旧ソ連=ロシアと米国が(第二次大戦後も含めて)過去の残虐行為や戦争について反省も謝罪もしていないことを指摘し、その傲慢さよりも、国際法廷で裁かれた敗戦国が後ろめたさや悔恨を抱くことの方が貴重であると喝破しています。日本がそうした道徳的優位性を持ち得たのは、「敗北を抱きしめ」た「重要かつ特異な時代」としての「占領当局と日本の人々が自由と民主主義の夢を共有した時期」です。そこでは「ある種の理想主義が支配し」、「平和と民主主義を自分たちのものにするという誓い」の結晶としての日本国憲法が制定されました。具体的には「朝鮮戦争前の数年間」のことです。残念ながら、日本人はこの平和と民主主義の可能性を現実性に転化することができませんでした。米国の方針転換で、冷戦イデオロギーによって踏みにじられたのです。日本は重要な社会進歩の機会を逸しました。それを銘記することが、今現在を相対化し、未来を展望する想像力を確保することにつながります。

 踏みにじられた後に待っていたのは、対米従属の日米安保条約締結であり、冷戦構造優先の中で再軍備が急がれ、平和と民主主義の理想が後景に退く中で、アジアへの侵略戦争の反省は曖昧にされました。もっとも、上記引用(「見ないふり」)にあるように、理想主義の時代にあっても、不戦の誓いに比べて、アジア太平洋戦争における加害責任の意識は希薄でした。1990年代以降、アジア諸国からの責任追及に応える形で、その意識がそれなりに形成されつつあるときに、陰に陽に政権の援護下で保守反動勢力が強烈なバックラッシュを敢行し、韓国バッシングやヘイトスピーチが横行し、ネトウヨなるものが登場・拡大・定着するなど、事態は急激に悪化しました。「自虐史観」批判という名目で、非科学的な「自慰史観」が普及され、書店には嫌中・嫌韓本が大量に平積みされ、テレビでは日本自己満足番組が花盛りという、日本人として大変に恥ずかしい状況となっています。サンフランシスコ単独講和と日米安保条約締結以降、「歪んだナショナリズム」は公式イデオロギーとして定着してきましたが、安倍政権を典型とする「新自由主義+保守反動」政権の下でそれは異常に奇形的発展を遂げました。それが空気になっている状況にとらわれない自由な発想で、重田氏は理想主義の時代の実在を指摘し、戦勝国の傲慢さに優越する敗戦国の自省の立場から、「対米従属とアジア蔑視」とは逆の「自主独立と侵略・加害責任の自覚」(=「正しいナショナリズム」)を描き出していると言えます(「平和と民主主義を自分たちのものにするという誓い」という表現を私は自主独立と読む)。理想主義の過去の実在は、現代の変革の一つの基準となります。

 もっとも、理想主義の時代に日本国憲法が生まれたのは正に僥倖と言うべきです。それは理想主義の過去の遺産であり、理想主義がそのままでは実現せず、軍事同盟が平和と民主主義を破壊し続ける時代においても、それがどれほど悪政の防波堤になってきたかを考えると、護憲運動と立憲主義の意義は切実さを増します。それだけに「安倍暴走」の経験は憲法の無視と形骸化の深刻さを痛感させるとともに、そうして作られた現実と憲法との激しい矛盾が引き起こす改憲衝動の激烈さと野蛮さはレイプのごときものと捉えて撃退すべきと感じます。

上記の「それを押しつけたアメリカの方針転換」の「それ」は平和と民主主義です。確かに平和と民主主義は米国に押しつけられたのですが、それを含む「押しつけ憲法」の内容そのものは自主独立です。対して改憲は米国からの押しつけであり、自衛隊が実態として軍隊となって(現行の自衛隊はハードとしては立派な軍隊だが、ソフト=法的には軍隊になりきれていない)、米軍の指揮下で戦争できる体制を確立することであり、まさに対米従属の法的完成を意味します。戦後史を規定する憲法と安保体制との矛盾に咲くあだ花が「歪んだナショナリズム」であり、平和と民主主義をタテマエとして掲げつつも、対米従属をあたかも自然なこととして受容する精神構造を日本人多数派に植え付け、自国の針路を決める自由な発想を断ち切っています。そこではウクライナ侵略のような事態が起これば、たちまち軍事同盟の強化と軍拡が世論を制することになります。メディアはそれに加担しています。もちろんそこでも憲法を拠点に反対論を提起する広範な世論的基盤は残っています。重田氏の論説は、歴史を振り返って、敗戦国の本来持っている道徳的優位性と日本国憲法の意義を確認すべく、その原点としての「理想主義の時代」の実在に注目しています。そうすることで、もう一つのあり得た歴史への想像力を喚起し、日本の今を相対化する視点を提供し、改憲・軍拡が必然の一本道ではないことを浮かび上がらせています。

(*注)

 冷戦への組み込み時期が遅かったことからすれば、この時点では日本はドイツよりも理想主義を貫く可能性が大きかったかもしれません。しかし周知の通り、その後の展開では、戦争責任の反省という点で日本はドイツから大きく後れを取っています。特に政府・与党政治家による戦争の国家責任の取り方という点において、彼我の差の大きさに愕然とさせられます。それについては、高橋哲哉氏の「終わりなき歴史責任 欧州の現在と日本(上)(『世界』9月号所収)参照。 

 

 

     ◎日本帝国後責任、移行期不正義の自覚

 「歪んだナショナリズム」が支配的であるのは、一方では平和・安全保障分野での対米従属意識が、他方では侵略戦争と植民地支配への反省の風化(というか、バックラッシュ下では開き直りさえある)が原因となっています。逆に「歪んだナショナリズム」がそれらの基盤となっているとも言えます。倉沢愛子氏の「戦後77年に想う 風化できぬ重い真実」によれば、195060年代の東南アジア諸国へ金銭的戦時補償で一件落着というのが日本政府の見解ですが、国家に対してはともかく、被害当事者諸個人への償いは一切行なわれていません。「そもそもそのような金銭的賠償では道義的責任に対する謝罪も清算も、不十分である」(46ページ)。残念ながらここには、重田氏が言う、戦争責任の反省に基づく敗戦国の道徳的優位性は全くありません。倉沢氏は日本政府と日本人による戦争の忘却を厳しく批判しています。

本庄十喜さんに聞く「『慰安婦』は問い続ける 歴史認識問題を前に進めるためにはわずか8ページのインタビューでこのテーマを明快に解説しています。数々の雑音を排して「慰安婦」問題の本質を剔抉し、経緯を簡潔にまとめており、多くの人々にとって問題入門に最適です。私が不明を恥じたのは、2015年の「日韓合意」が「公式文書」のない「口頭合意」であることを初めて知ったということです。また、植村隆氏の名誉毀損訴訟について、「この不当判決内容で、司法界、とりわけ裁判官に歴史修正主義的な思想がかなりはびこっているなと感じ、危機感を抱いています」(91ページ)とか、「歴史研究の成果を顧みない被告側の資料が認定されてしまったことに、私たち原告側はとてもショックを覚えました。 …中略… これまでの歴史教育の責任を強く感じます。右派勢力は教育の影響力をよく分かっているからこそ、教科書攻撃や学校教育への介入を、長年かけて執拗に行ってきているのだと考えます」(92ページ)、あるいは「歴史教育こそが戦後補償にとって大変重要である」(93ページ)といった叙述に、問題の深刻さとともに同時代を生きる私たちの責任の重さを痛感させられます。

 「これは当然のことですが、私たちは過去の世代が獲得した多くの権利を享受して、今生きています。そうであるならば、過去の世代がいまだ果たしえていない義務を負うのは当然のことではないかと言えます。その国の国民としての権利と義務の継承ということです」(93ページ)という言説も、「戦後生まれに戦争責任などない」という開き直りへのよく考えられた反論であると思います。この点については、さらなる展開を後述したいと思います。

 歴史教育については、久保田貢氏の「青年が戦争と憲法を学ぶとき――侵略戦争と大国主義に抗するために――(『前衛』9月号所収)が教育実践を踏まえて現状を詳しく紹介し論じており、危機感を抱きます。加藤圭木氏の「『日韓歴史問題』と大学生 ――モヤモヤは進化する(『世界』9月号所収)もまた貴重な教育実践です。一橋大学社会学部加藤圭木ゼミナール編『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(大月書店、2021年)を作るゼミ生たちの奮闘を描いています。ゼミ生たちは「混迷を極めているのは、日韓関係ではなく日本社会なのではないか」(185ページ)という認識に至ります。普通の人々と問題を共有すべく、普及のために徹底的に考え抜かれて、本書は作成されました。現代の若者と政治の関係を考える上でも感動的なレポートになっています。関連してやはり加藤圭木氏の「日本・韓国における歴史否定論とどう向き合うか」(『前衛』9月号所収)は朝鮮植民地支配の問題を中心に日韓それぞれにおける歴史認識についての妥協ない論考であり、必読と思います。

 以上、「歪んだナショナリズム」におけるアジア蔑視を批判するために、歴史認識の問題に踏み込んできました。保守反動派はまともな学問的議論をするのではなく、とにかく「両論併記」に持ち込んで、一般の人々に対して、何か自分たちの暴論もそれなりの根拠があるかのように見せるだけで政治的には十分なのです。まともな歴史研究の立場から、そういった問題を原理的に考察したのが、武井彩佳氏の「歴史否定論と陰謀論」(『世界』9月号所収)です。時間がないのできちんと紹介できませんが、たとえば次のようです。「特定の史実を選んで線で結び、任意に解釈することで、国家や国民に利益をもたらす過去を手に入れる手段が、歴史修正主義なのである。過去を書き替えることで現在の評価を変え、これによって未来も変えるという、実利的かつ未来志向な思想として歴史修正主義は登場する」(132ページ)。日本の保守政治家が、過去の反省の欠如を覆い隠す言葉として「未来志向」を乱発するのを苦々しく聞いてきましたが、歴史研究の視点からここにその意味がすっきり解明されています。

 古賀由起子氏の「帝国の遺産 なぜ歴史責任をいまだに問うのか」(『世界』9月号所収)は、先の本庄十喜インタビューでも考察されていた戦後生まれの歴史問題=「自分が直接かかわっていない、しかし未だに清算されていない過去の暴力という負の遺産に対して、今なぜ向き合っていく必要があるのか、という問いかけ」(174ページ)などについて、きわめてラディカルに取り組んだ秀逸な論考です。そこでは、本来、日本帝国の解体過程で解決されるべきだった被害者補償が済まされなかった「移行期不正義」=「いかに被害者に沈黙を強いつづけたのか、という帝国後責任」(175ページ)として問題提起されています。それは憲法批判としても容赦なく展開されます。帝国日本から民主国家への移行期正義の産物である日本国憲法は、同時に他面では「新生日本の法的構造の根底に刻み付けられた帝国後の責任回避の仕組み」、「法による帝国の忘却」という側面も持っています。英文の「人民」(people)から日本語の「日本国民」への置き換えで旧植民地や帝国の人民は権利保障から外されました。この「法的排除」の構造=「法的棄民」は国家賠償法(1947年)によってより明らかになりました(176ページ。この「人民」と「国民」という言葉は、憲法という枠を超えて私もずっとこだわってきましたが、その意味がより深く理解できました)。

 先に倉沢愛子氏の論稿に関連して、東南アジア諸国との戦時補償における国家と個人との扱いの違いに触れましたが、同様の問題は韓国などとの間にもあります。それについて古賀論文はこう述べます。

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…前略… 帝国主義の累積負債が、ポストコロニアルな社会の抱える複雑な政治・経済状況から、旧宗主国からの開発援助に形を変えることによって、加害者側の道義的・金銭的負債を社会的に見えづらくしていることが指摘されている。 …中略… 帝国解体の過程で、ポストコロニアルな社会の抱える複雑な政治・経済状況から帝国主義の蛮行への歴史清算という課題は隅に押しやられ、被害者個人は社会的沈黙を強いられる一方で、国家レベルでの和解と開発援助が優先されたのである。

 戦後補償裁判はこうしてみると、戦時中の暴力を明らかにすることから始まりつつ、はからずも帝国後の作為・不作為、それに伴う棄民といった帝国後の責任回避の土台となる法的・経済的枠組み自体への批判を含むものとなったことが評価されるべきであろう。戦争責任の問題を超えて、帝国解体過程の見直しを迫るものとなっているのである。

      178ページ

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 そして戦後補償裁判の意義についてさらにこう言及されます。

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 様々な形で負の遺産を認識し、それを返済するという目的に突き動かされるようにして戦後補償裁判運動に引き寄せられた弁護士や市民の長年の熱意。そしてその熱意に動かされて、初めは半信半疑だった被害者が、一人、また一人と、裁判を通して、日本側の市民から投げかけられた返済への強い思いを受け止めることによって、彼らの人生を取り返しのできないレベルで破壊した「日本人」への信頼を取り戻していく過程は、被害者がしばしば「血債」(xuezhai)と表現する血塗られた負債が、傍観者からは想像もできないような葛藤を経て、新たな社会関係へと変貌していく道程でもあった。「和解」という表現があまりにも平べったく感じられるような、こうした関係性が編み出されてきた経過を理解するには、負債の相反的な作用に注目する必要がある。不正な利益の堆積としての負債、そして返済を迫る運動の原動力としての負債、このような「負債」の両義性から読み解くと、帝国主義の責任回避の構造と、負債の返済を試みる市民運動との力学が明らかになると思われる。      180ページ

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 ここには、国境を越えた連帯が実に感動的に描出されています。外国人被害者は自国では不遇の人生を送っていたであろうし、彼らを援助する日本人は「反日」呼ばわりされる立場です。しかし正義の連帯はそんな障害物を乗り越え、「和解」をはるかに超えた信頼をもたらしたのです。それが正当に評価されるならば、当事国の社会それぞれでの権利保障の前進につながり、友好関係の発展が平和的環境の増進の下で経済・文化交流の活性化となります。韓国バッシングや中国脅威論などを超える人民同士の交流を先行させ、国家関係の正常化の土台とすることが大切です。戦後補償裁判というのは、国家権力の発動としての戦争に関連して諸個人の権利保障を要求する以上、どこの国にとっても異議申し立て的な性格を持たざるを得ません。しかし正義に基づく草の根の友好関係の発展につながるものであり、近視眼的には白い目で見られようとも、深く遠く平和の土台となります。以上のことは「歪んだナショナリズム」が社会進歩の障害であり、その克服が関係当事者諸国人民に幸せをもたらすことを示しています。

 

     ◎ナショナリズムの経済的基盤

 日本の「歪んだナショナリズム」が対米従属意識とアジア蔑視とからなることは、今日の米中対立のはざまにある日本にとって大変重大な意味を持っています。そこで、涌井秀行・松野周治・坂本雅子各氏によるオンライン座談会「東アジア経済と日本 “米中対立の中で”から、いきなりですが、政治的結論に触れます。台湾有事が喧伝される今、坂本氏は「日本は、長きにわたって対米従属策を取り続けてきましたが、今回のそれは単なる従来の延長ではなく、日本を直接、戦争に巻き込む可能性がきわめて高い異次元のものです」(26ページ)という認識を前提に、危機感に満ちた以下の訴えを発しています。

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 米国の戦略を国民に明らかにすることは喫緊の課題です。私の報告で述べたように、米国が、「台湾有事」の際に日本を先頭に立たせる作戦を準備していること、沖縄などの島々からミサイルを中国に向けて発射し戦おうとしていることを国民に訴え、それを拒否するよう訴えることが、今、何よりも必要です。国民の認識と、それに対する強い拒絶の意思があれば、たとえ日米安保体制下であっても、米国の具体的な要求を個別に日本が拒否することは可能でしょう。

 東アジアサミットなどでの平和のための話し合いも大事ですが、その前に日本自身が、今の米国の要求をまず拒否することが大前提です。日本は2000年代半ば以降、東アジアサミットをはじめとしたアジアの協働の組織で、常に米国の代弁人として発言・行動し、組織を混乱させてきた歴史があります。アジア全体の平和を守れるか否かも、日本自身が米国の対中国・軍事・経済戦の先頭に立つことを拒否できるか否かにかかっています。日本自身の拒否を出発点としてアジアの協働組織に臨んでこそ、アジア全体での平和を守る話し合いも可能になるでしょう。              44ページ

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 東アジアでの話し合い以前に、まず日本自身の対米従属姿勢の是正が(とりあえず最低限でも)必要だというのは正にその通りであり、はっと気づかされました。しかし今の自公政権にそれは期待できません。まずは911日投票の沖縄県知事選挙で、玉城デニー知事の再選を勝ち取ることが大前提です。彼はウクライナ侵略戦争後の世界と日本の軍拡大合唱に同調せず、日本復帰50年に際して新たな建議書を発し、断固として基地増強に抗して沖縄の平和を守り抜く決意を表明しています。保守政治家であっても、対米従属一辺倒ではなく、県民生活と平和を守るため、日米政府に抗うことが可能であることをデニー知事は示しています。その意味では、世論を変えその力によって「たとえ日米安保体制下であっても、米国の具体的な要求を個別に日本が拒否することは可能でしょう」という坂本氏の見解は重要であり、「歪んだナショナリズム」克服の課題と併せて追求すべきものです。

 以上は対米従属の克服という課題についての考察ですが、もう一つ、アジア蔑視の克服という点では、中国や東アジアとどのように経済協力を作り上げていくかが課題となります。その際に日本で流布している中国脅威論・敵視論を克服するために、座談会では日中経済関係の深さ・重要さに関して具体的に明らかにされています。また今は米国の中国包囲網形成に盲従して日本政府が意図的に敵対的政治関係を作っていることに対して、日中国交正常化以来の友好関係の基本的枠組みに依拠した外交関係の推進を対置していることも当然です。また涌井氏は中国経済の様々な問題点にも触れています。だから座談会の基調は、反中国的な世論状況に機械的に反発した中国美化論というわけではありませんが、さらに一歩進んで、中国覇権主義の問題にも触れ、きちんと批判しておかないと、対米従属を基調とする世論形成に効果的に対抗することはできないと思われます。

 日本・中国・東アジアの経済関係のあり方については、松野氏と坂本氏とでは違いがあるようです。坂本氏が特に日本の産業空洞化と経済停滞を重視し、危機感を持っているのに対して、松野氏は東アジア経済圏内での発展に注目し、「日本経済の新たな発展局面が構築されようとしています」(41ページ)と評価しています(*注)。松野氏は「グローバリズムとリージョナリズムの均衡発展」として、「地域内国際分業と地域間国際分業のバランス、前者を基礎にした後者の発展が重要である」(35ページ)と提起し、座談会の最後には「国民国家体制の揚棄」あるいは「東アジアや東北アジア共同体」という「夢」にまで言及し、気宇壮大です。

松野氏は、日本の貿易収支が赤字基調になっているのに対して、所得収支の黒字で経常収支黒字を確保していることについて、「中国、アジアに対する直接投資が高収益をもたらし、日本の国際収支を支えている行動が確認できます」(41ページ)と肯定的に評価しています。坂本氏は「同じ10兆円、20兆円の黒字でも、国内のものづくりを背景に輸出で得たものと、海外からの配当や利子で得て企業の本社の懐に入るだけのものとでは、国内経済と国民生活にもたらす作用は本質的に違います」(43ページ)と「産業空洞化」批判を展開しています。これは帝国主義化批判でもあり、この点では坂本氏を支持できます。

 両氏の観点は、主な経済基盤を日本の国民経済に置くのか、東アジア地域経済に置くのかで分かれるように思われます。その点の評価は措きますが、「歪んだナショナリズム」批判の観点からはナショナリズムの経済的基盤は何かが問題となります。中国は今、近代国民国家建設のいわば「完成」に向けての最終段階に立っている、という基本認識を松野氏は持っています(25ページ)。そこに「中華民族」概念が登場します。それはフィクションではないかというのがこれまでの私の感想でしたが、松野氏によれば「中所得国まで到達した中国がもう一段の発展、高所得国化するためのイデオロギーとして、『多民族国家』中国において『中華民族』論が展開され、少数民族を含めて人々の国家帰属意識を高めようとしているのです」(26ページ)。一般論としては次のように説明されます。

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 近代国家とは、当時ならびに現在の国際秩序の基礎である、国民国家Nation Stateでしかありえませんでした。したがって決定的に重要なのは、それまで存在していなかった「国民」を作り出すことであり、「国家」という一種の、上位共同体に自らが属しているというイデオロギーを人々が受け入れることです。その際、「民族」Nationも創造されます。

      25ページ

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 上記に続いて、近代国家建設のイデオロギーとして、「国家神道」「ルネサンス」「カースト制」「ヒンズー原理主義」「イスラム原理主義」が例示されています。やはり近代国家建設とは、虚構的イデオロギーに基づくものかとも思えますが、もちろんそのイデオロギーには経済的土台が対応します。

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 しかし、人々(集合としての地域)の国家に対する帰属意識は、それが自分にとって利益であるという認識によって強められます。帰属する国家の経済社会が持続的に発展すること、それが特定の人々や地域に偏らないことが、国民国家体制を強固にするとともに、その持続にとって不可欠です。       26ページ

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 そのために中国では「国内国際双循環」すなわち「国内の大循環を主体にして、国内循環と国際循環を相互に促進しあう」発展戦略が計画の「指導思想」に加えられています(同前)。中国におけるそのような経済政策思想と近代国民国家建設イデオロギーとの関係はここでは措きます。

問題は日本の「歪んだナショナリズム」の形成過程とこれからの行方です。「帰属する国家の経済社会が持続的に発展する」という意味では、サンフランシスコ体制成立後、対米従属下で高度経済成長を実現し、アジア諸国に対しては侵略戦争や植民地支配の真の反省は抜きに経済援助で黙らせるという形で「うまくやってきた国民的体験」がその経済的土台となりました。しかし、1970年代以降の高度経済成長の破綻と、90年代以降のアジア諸国の民主化の一定の進展の下での民衆の権利意識の覚醒、戦時被害の隠蔽と抑圧の限界が明白になり、客観的にはもはや「歪んだナショナリズム」は持たなくなっています。にもかかわらず、バブル破裂後の経済停滞下で自信喪失した日本人の「国民的意識」は逆に、歴史認識とジェンダーのバックラッシュにはまり、メディアとエンターテインメントでは顕著な日本自己満足現象が蔓延し、「歪んだナショナリズム」は奇形的発展を遂げています。新自由主義構造改革による格差と貧困の拡大を土台とする社会的荒廃を糊塗する道具としての「国家・家族の利用」もまたその奇形的発展の土壌を形成しています。

 米中対立下でそれは、ウクライナ侵略戦争に触発され、「台湾有事」に備えた従属的軍拡の強固なイデオロギー的基盤となっています。日本経済は、食料・エネルギーでの対米従属を含む圧倒的な対外依存を克服し、東アジア諸国との共存共栄の経済関係を何としても築かねばなりません。日本の自然に依拠した再生可能エネルギーの全面的発展を一つの起爆剤とする内需主導型の国民経済の確立、先端産業の国内回帰、大国中国との政治関係正常化をテコとする経済関係の一層の発展、ASEANの先進的政治性に連帯した平和と繁栄の東アジア建設等々を進めることが「歪んだナショナリズム」克服の過程と重なりますが、逆に、民主勢力の自覚的努力でその克服を先行させ、イデオロギー的にもすっきりして、自主独立の日本が東アジア繁栄の先導役となろう、というのが私たちの目指す自立したナショナリズムではないでしょうか。

(*注)

 松野氏は日本経済停滞論を批判して「失われた30年」は一面的見方であるとし、その前段で「成長が仮にゼロとなっても、価値・価格と使用価値の峻別、貨幣を通さないモノやサービスの交換などを考慮すると人々の生活は豊かになりえます」(41ページ)と主張しています。これは価値論的に興味深い指摘です。ただし注意すべき点として、GDP統計における経済成長率はすでに価値ではなく使用価値の成長を反映しています。

それについて参照 → 

拙文@「ゼロ成長の国民所得論」  1999年


拙文A「生産力発展と労働価値論(『政経研究』第86号所収)」  2006年

 いずれも文化書房ホームページ http://www2.odn.ne.jp/~bunka 「店主の雑文」より


                                 2022年8月31日





2022年10月号

          会計のオルタナティヴをめぐって

 

     ☆社会発展と会計

 オイルショック、金ドル交換停止(ニクソンショック)によるIMF固定レート制の崩壊とともに、戦後初の本格的な1974/5年恐慌は、世界資本主義の高度経済成長の終焉を宣言するものとなりました。以後、資本主義体制はスタグフレーションに悩まされました。そこで支配層においては階級融和的なケインズ政策への批判が噴出し、搾取と支配権力との強化による資本の活性化を目指して、新自由主義イデオロギーが美化・喧伝され、その政策が世界的に採用されました。それは各国内だけでなく、グローバルに展開しました。さらに1989年以降は、東欧とソ連の現存(した)社会主義体制の崩壊とともに、新自由主義グローバリゼーションが、発達した資本主義諸国はもちろん、中国や発展途上諸国も含めて地球上を制覇しました。しかし21世紀を迎えて、格差と貧困の拡大と地球環境問題の深刻化によって、新自由主義への批判がグローバルに強まっています。もちろんまだ新自由主義の覇権は続いており、グローバル資本及びその番頭たる各国政府と人民の運動とのせめぎ合いが本格化しています。

 そうした中で、人間の経済認識を担う会計の変遷と現状ならびに変革の構想を語ったのが、小栗崇資・内野一樹・山口不二夫・松田真由美の四氏による誌上討論「経済と会計のオルタナティブ」です。まず新自由主義化の進行とともに、会計が金融化と株主資本主義のためのものとなり、株価のための情報が中心で、財務情報が空洞化してきました(142ページ)。しかし新自由主義への批判の高まりによって、SDGsやステークホルダー資本主義が提起され、企業や証券・金融市場の変革が求められています。そうした「新たな経済社会を担う会計のあり方」(同前)を構想する必要性が提起されているのに対して、同誌上討論は具体的に検討しています。その検討内容は極めて多岐にわたっていますが、私としては、変革の歴史的性格と社会的再生産の構造認識という二面に焦点を合わせて見ていきたいと思います。

 誌上討論の問題提起はきわめて実践的ですが、そういうときこそまず原理的検討が避けられません。そもそも会計とは何かという本質論が次のように据えられます。

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 会計は人間の基本的な認識行為のひとつであり、社会の形成の端緒から存在し、主として物量計算によって経済社会を支えてきましたが、資本主義の芽生えとともに利益概念が形成され、やがて複式簿記の生成を経て価値計算を前面に押し出してきます。その後、資本主義の発展の中で価値計算が資本利益計算(資本所得の顛末を認識するための価値計算)に進化していったのです。  117ページ (→ 以下では「会計的認識の本質規定」

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 ここでは、社会的再生産の認識が基底に据えられ、それが歴史貫通的にかつ特殊資本主義的に捉えられています。かの「マルクスのクーゲルマンへの手紙(1868711日付)」にあるように、社会的総労働の分割の必要性はどのような社会にも共通ですが、それは社会的再生産の特定のあり方に沿ってそれぞれに違った形で実現されます。その認識行為としての会計も変容していきます。上記の<物量計算→価値計算→資本利益計算>という変遷は、経済範疇的には<使用価値→価値→剰余価値>の認識と言うことができ、それはまた<共同体→市場→資本主義>という生産関係の変遷を反映しています。ならば資本主義の次に来る高度な共同体=共産主義は経済範疇的には、価値・剰余価値の展開を踏まえ止揚した使用価値的関係の高度な復活であり、会計的には、価値計算・資本利益計算を踏まえ止揚した高度な物量計算の復活ということになります。たとえばその端緒的例として、資本利益計算では登場しなかった地域環境資産というものが、誌上討論で貸借対照表上に新たに提起された(115ページ、図1)ことが挙げられるように思います。

 もっとも、誌上討論では、資本主義から共産主義への転換が直接問題にされているわけではなく、新自由主義からの「資本主義の転換」が扱われています。だから明示的には例えばステークホルダー資本主義への転換というような資本主義の枠内での変革が問題とされています。しかしその射程は資本主義の止揚にまで届いているようです。誌上討論をリードしている小栗崇資氏は、本誌201612月号所収の「株式会社とは何か マルクスの『所有と機能の分離論』からにおいて、「会社は資本であり敵」と見るような従来の運動の見方(85ページ)は捨てられるべきであるとした上で、社会主義への漸進的改革像を次のように展開しています。「資本主義の資本性を抑えて眠り込ませ、脱資本主義へと押し進めることが変革とな」り「政治的転換を基軸としつつ、様々な規制の強化、法・制度の改革、労働運動や市民社会の運動などの広範で長期にわたるトータルな展開となるであろう」(同前)。

 ソ連・東欧などの20世紀現存(した)社会主義体制の失敗を念頭に、国有化中心ではない生産手段の社会化とは何かということが問われています。本号の誌上討論で「現代の経済状況を変えるには、巨大な存在となっている企業を変えていくしかないように思います」(132ページ)と言われているのは、直接的には資本主義の枠内での変革を指していますが、社会主義的変革にも続く、経済の実質的変革の追求という問題を含みます。ソ連などでは実質的に労働者が生産の主人公になりえず、生産手段の社会化といっても形式的なものにとどまりました。生産手段の社会化が形骸化した経済的土台は、政治的民主主義の形骸化や自由と人権の抑圧という上部構造を規定するものだと言えます(*注)。いや、強力革命によって、政治革命主導で経済と社会の改造を短期決戦で強行したという歴史的経緯からすれば、政治による「反作用」が経済のあり方を創出するという端緒がまずあって、以後長期的にその経済的土台が、非民主的な政治を始めとする上部構造を規定するようになったと言うべきかもしれません。

(*注)

 資本主義の場合は、生産過程において労働に対する資本の専制支配がありますが、それはいわば私的領域であり、公的領域としては流通過程が市場経済であり、そこでは独立・自由・平等の世界が展開します。個人の尊厳を基軸とする人権と自由・民主主義はそこに生成します。資本主義社会における自由と民主主義を巡る闘争は、専制支配を公的領域まで及ぼそうとする資本家階級と、公的領域における自由・民主主義を死守しつつ、私的領域での専制支配に挑戦しようとする労働者階級との対決を主軸に展開されます。

対照的に図式化すれば、市場経済を止揚した段階(今日的にそれは見通せないが)においても、生産過程における民主的関係が成立しているならば、それを土台とする社会主義社会において、自由・民主主義を実現することは可能です。市場を通じる社会主義的変革においては、ブルジョア民主主義の形式的積極面を継承しつつ、生産過程の民主化を基礎としてプロレタリア民主主義としての実質化を追求することになります。

 

そういう反面教師の教訓を生かすには、形骸化した「社会化」を超える実質的変革をどう作っていくかが課題です。株式会社の漸次的変革を通してそれを基盤とする社会主義経済像を構想することは、資本主義下における今日の人民の様々な諸運動の延長線上に社会主義的変革を位置づけることになり、現実主義的な魅力を備えています。ただしそれが「資本主義の資本性を抑えて眠り込ませ」ることにつながるのかが問われます。

 その答えは私の手には余ります。誌上討論での課題に即せば、会計が「企業の実態を映し出す鏡である」(132ページ)のみならず、国際標準としての「会計基準に照らして事業を行うように企業を動機づけられる」ならば、「企業そのものを変えるトリガー(起動)になりうる」(133ページ)と言えます。企業の変革にとどまらず「会計はあらゆる意味で今の経済や社会に大きな役割を演じ、社会の方向性を決める場合さえあります。経済の基礎データを提供しますし、分配の指標や効率性の指標も提供します」(同前)。それだけに会計の適切さは切実です。それを確保した上で「会計の変革は、企業の経営や意識を変え、そして経済にも影響を与えることが可能であるといえます」(同前)。もっとも、会計の粉飾などによる負の方向への影響もまたあり得るのですが…。いずれにせよ、会計という細かくて地道な実践が持つ経済社会の基盤としての意義は決定的です。このように会計が現実を正確に反映する受動性とともに、それ故に持つ現実変革に役立つ能動性が同時に意識されます。会計は資本主義の枠内での変革だけでなく、社会主義的変革においても、その実質化を図る(測る)一つの基準としての存在意義があります。

なお社会主義的変革については、拙文「企業の社会的責任と社会変革」(『経済』201612月号の感想、20161130日)において、小栗崇資氏の上記論稿と併せて、塩川伸明氏の『現存した社会主義 リヴァイアサンの素顔(勁草書房、1999年)についても若干考察しています。これはソ連に内在した視点から社会主義理念を相対化している(辛口で見ている)という意味で現実主義的な力作であり、変革のロマンに課された重い試金石として、無視し得ない迫力を持って存在しています。

 

     ☆会計と資本主義認識における現象と本質

先述の「会計的認識の本質規定」117ページ)に立ち返れば、以上は会計と社会発展という歴史軸の問題ですが、もう一つ、構造軸の問題として、会計における資本主義経済の構造認識の問題があります。以下では、価値論の観点から、あるいは(分配関係を基軸とした)資本主義経済認識(理論)における現象把握と本質追究との関係という観点から、会計的認識のあり方に迫ってみたいと思います。

「会計的認識の本質規定」では、主に会計的認識の歴史的発展が書かれていますが、「会計は人間の基本的な認識行為のひとつであり、社会の形成の端緒から存在し、主として物量計算によって経済社会を支えてきました」という冒頭の規定からは、社会的再生産の歴史貫通的認識が基底にあることが示されています。あくまでそれが前提とされることを銘記しつつ、資本主義経済の会計的認識として、現象把握と本質探究がどう果たされるのか、そこで価値論はどのような意義を持つのかについて考えてみたいと思います。

『資本論』第3部の第1章「費用価格と利潤」の冒頭では、第1部と第2部の内容を簡潔に振り返った後に、第3部の課題として、現象への接近が宣言されます。

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諸資本は、その現実的運動においては、具体的諸形態――この諸形態にとっては直接的生産過程における資本の姿態も、流通過程における資本の姿態も、特殊な契機としてのみ現われるような、そのような具体的諸形態――で相対し合う。したがって、われわれがこの第三部で展開するような資本の諸姿容は、それらが社会の表面で、さまざまな資本の相互の行動である競争のなかに、また生産当事者たち自身の日常の意識のなかに現われる形態に、一歩一歩近づく。     新版『資本論』848ページ、Werke版:33ページ

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 ただしこのような現象への接近においてもまだ一定の限定が設定されています。3部第7篇「諸収入とその源泉」第48章「三位一体的定式」には以下の叙述が見られます。

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 生産諸関係の物化、および生産当事者たちにたいする生産諸関係の自立化を叙述するさいには、われわれは、いかにそれらの連関が、世界市場、その商況、市場価格の運動、信用の期間、商工業の循環、繁栄と恐慌との交替によって、生産当事者たちにとって、圧倒的な、不可抗的に彼らを支配する自然法則として現われ、彼らにたいして盲目的な必然性として作用するか、その仕方には立ち入らない。なぜなら、競争の現実の運動はわれわれのプランの範囲外にあるのであり、われわれはただ、資本主義的生産様式の内部組織のみを、いわばその理念的平均において、叙述すべきだからである   

新版『資本論』1214851486ページWerke版:839ページ  

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3部は『資本論』の中で最も資本主義経済の諸現象に接近したものですが、それでもなお上記のような限定を伴っています。マルクスは本質から現象へ「一歩一歩近づく」認識の歩みを、その巨大な「経済学批判体系」において周到に実現しようと追求し続けました。『資本論』体系はその中でなお本質解明に重点が置かれた部分だったと思われます。俗流経済学のような本質論なき現象論に陥らずに、科学的に諸現象を解明することが目指されたのです。

それに対して会計は経済(主には企業などの個別経済主体、さらにはその集積としての国民経済・世界経済まで)の記録そのものとして、現象を直接的に反映します。それが資本主義経済の本質ないしそこにも貫徹される再生産の歴史貫通的原則をも同時にしっかりと捉え、現象と本質との総合的解明にいかに資するかが問われます。価値論的検討はその一端を担うと言えます。ただし理論的に従来からの本質確認に終わるような保守的姿勢では、新自由主義の展開とそれへの批判・オルタナティヴの提起・そうした変革に挑戦する新たな実践的試論の探究といった革新的理論展開となりません。誌上討論では、会計のオルタナティヴとして、新たな付加価値計算と財務諸表が提起され、分配を基軸として企業活動のあり方を把握しその変革を迫っています。新たな現象に新たな実践を対置するこうした試論の志向性を歓迎しつつ、資本主義分析の本質論との関係を若干考えてみたいと思います。

 誌上討論では、会計の現象的性格(それは実践的性格と表裏一体だが)が確認されています。「経済では、生産資本が剰余価値を創出し、生み出された剰余価値が商業資本や金融資本に分配されると理解されますが、会計では現象面を扱うので、流通やサービスも利益を生み出すという見方に立っています。そこで金融収益やサービス収益を付加価値とするかどうか」(135ページ)と問題提起されています。それに対して、金融収益は付加価値ではないが、本業と無関係で生まれるのでもないので「拡張された付加価値」(同前)と考えてみては、という答えがあります。また「剰余価値から生まれるものと剰余価値の分配にあずかるものというように収益の源泉は違いますが、集まってきた企業収益は全体的に付加価値としてとらえるのが良いのではないか。今日ではどこでどのように剰余価値が生まれているのかを明らかにするのは難しくなっているのではないかと思います。金融を含めて企業が生み出した収益を付加価値とみなして、それを幅広いステークホルダーに分配することに主眼を置いて計算した方が前向きなものになるのかな、と思うのですが」(同前)という回答も出てきます。さらに「どのような付加価値概念であろうと、それがどこに分配されているのかに注目しなければいけないと思います」(同前)とも言われます。

 要するに分配の計算とその変革という川下の必要性からさかのぼって、川上にある価値概念を規定しようということです。これは株主資本主義からステークホルダー資本主義への変革という課題に適合するように概念規定を扱うという意味でプラグマティックな対応と言えます。あるいは、剰余価値の源泉を確定することが困難なので、付加価値の本質解明も困難であり、それを回避する取り扱いだという意味でもプラグマティックだと言えます。

 労働者階級の投下労働が付加価値(価値生産物)を生み出し、その一部を労働者階級が賃金として受け取り、残りを剰余価値として資本家階級が搾取し、それが産業利潤・商業利潤・利子・地代に分割される、というのが資本主義における生産と分配の立体的な構造です。それに対して、利潤を企業者利得と利子とに分解し、前者を賃金と見なすことで、利潤範疇を消し去るという詐術をもって、<資本―利子、土地―地代、労働―賃金>という「社会的生産過程のいっさいの秘密を包含する三位一体的形態」(新版『資本論』121465ページWerke版:822ページ)が完成されます。本質としての立体的構造を隠蔽する単純化された現象的な平面的認識の成立です。というか、それこそまさに『資本論』第3部冒頭が指摘する「生産当事者たち自身の日常の意識のなかに現われる形態」です。

 上記の付加価値概念も、マルクスの言う「三位一体的定式」に類似した平面的認識だと言えます。ただし俗流経済学とは違って、本質認識の必要性を認めながらも、その困難性から、認識と活用の容易さを優先したという、「自覚された」平面的認識だと言えます。プラグマティックな取り扱いを即「悪」だと決めつけるわけにもいかないので、現象的認識の持つ限度に留意しつつ実用的成果を評価するという二面的対応が必要かと思います。

 誌上討論では、新自由主義からの転換という資本主義変革の課題(さらには資本主義の止揚までも展望して)において、株式会社が私的企業から社会的企業に転換していくというコースが重視されます。そこでは会計上、資本利益計算から付加価値計算へ、「分配会計の再構築」が課題となり、「付加価値計算書を中心とした分配や貸借対照表における持分構造の改革を図らなければならない」(116ページ)とされます。それを念頭に、付加価値計算の意義が以下のように労働価値論に基づいて説明されます。 

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 企業が社会的な機能を果たす方向に進めば進むほど、利益だけではなくその元となる価値がどれくらい形成されたかを示すことが必要となります。企業で生み出された価値は、資本から生まれた価値ではなく、実は労働が生み出した価値である。さらに、労働が社会や自然の資源を取り込み利用することによって価値が生み出されてもいるので、それを加えた価値全体を示すことが求められるようになると思います。そうして会計は、株主だけではなく様々な価値形成の関係者=ステークホルダーに対する計算と報告へと向かい、そこでは資本利益計算という形態から社会的な価値計算という形態に変わらざるをえないと思います。その社会的な価値を表すことが可能なのは、これまでのところ付加価値計算しかないのではないか、と考えています。        118ページ

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 ここで問題は、「労働が社会や自然の資源を取り込み利用することによって価値が生み出されてもいるので、それを加えた価値全体を示すことが求められる」という部分です。まず「社会や自然の資源」は価値を持っているのか。持っているとしても、価値形成過程ないし価値増殖過程としての生産過程において、それは生産手段として機能するのだから、生産物に価値移転されるのであって、新たに付加価値として創出されるのではありません。

 社会や自然の資源の価値については、無形資産概念の拡張として、「市場外付加価値の創造」(123ページ)が提起されています。財務諸表との関係では次のように言われます。

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付加価値計算書の方に地域社会とか自然環境、知的・人的資源を含めたとしても、貸借対照表の方ではそうした要素を入れることが困難です。というのは、これまでの貸借対照表は出資者による貨幣資本の投下・回収を示すものだったからです。貨幣では計算することが難しい人的資本や自然資本を入れることが可能か、さらに改善・充実を図っていくことが必要だと思います。         130ページ

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 いずれにせよ、経済的に無から有を生じさせるとはどういうことなのかが問題となります。また上記の生産過程の問題を考慮すれば、社会や自然の資源を資産計上しても、付加価値に含めることはおかしくなるので、貸借対照表に入れられても付加価値計算書には入れられないという、上とは逆のことが起こります。

 誌上討論では、コロナ禍によって、企業・産業による収益の大きな不均衡が生じたので、政府による所得の再分配が必要となったということに注目しつつ、同様にデジタル・グローバル資本の独占的高利潤に対しても、課税による所得の再分配が必要であると問題提起されています(120123ページ)。その際に着目されたのが、無形資産の測定・財務諸表への掲記方法そして課税の仕方です。その際に、「企業の収益の多くを無形資産が生み出すようになっています」(121ページ)という現象が指摘されています。そこから無形資産を金額測定し、課税に結びつけるという発想になります。所得再分配のためにそうするわけですが、そもそも「企業の収益の多くを無形資産が生み出す」ことに何らかの収奪構造があると考える必要があるように思えます。その結果への対処としてはとりあえず所得再分配によるほかない。そこから逆に発想すると、所得再分配によって対処すべきような問題は、始めの所得構造に歪みがあるのではないか、となります。その補正として、様々なものの価値測定と財務諸表への掲記が新たに提起される、ということになるのか…。よく分かりませんが、これまでの市場評価と異なる価値計上(「無から有」を含めて)の問題は、所得再分配からさかのぼって不均衡の原因を考えてみるような問題と何らかの共通点があるように思えます。

確かに、地域社会や自然環境における資源、人的・知的な資源等を可能な限り表示して、付加価値創出の基盤となる資産を表示する(115ページ)ことには意義があります。ある意味で、価値中心から使用価値中心へ転換していく端緒となるかもしれません。剰余価値獲得を至上命題として、生産過程での搾取と市場競争を動因とする経済社会を止揚し、自然環境と人間自身が主人公となる経済社会を実現するには、価値関係を相対化して使用価値関係を直接的にコントロールすることが目指されるべきです。しかしその際にも、上記の「マルクスのクーゲルマンへの手紙(1868711日付)」にあるように、歴史貫通的な社会的再生産の法則は貫徹されるので、これまでの価値・剰余価値法則に代わる合理的な経済運営の原則が求められます。それとは歴史段階が違いますが、眼前の日本資本主義に即して言えば、新自由主義グローバリゼーション下での搾取強化と金融化による国民経済の空洞化、腐朽性・寄生性の高まりに対して、よりましな再生産構造の再構築が提起されなければなりません。生産過程を起点とする労働価値論的考察の必要性を感じます。

 以上では、付加価値計算が問題の焦点となりました。その際に生産的労働論も心得ておくべき課題だと思いましたが、それはぜひ勉強すべきでありながら手がついていません。付加価値の創出と分配の構造を捉えるためには、生産的労働と不生産的労働との区別をつける必要があります。もちろん両者の区別はそれぞれの労働の使用価値の社会的意義の有無とは別問題です。たとえば、コロナ禍下でエッセンシャルワークとブルシットジョブとにおける使用価値的重要さと所得との転倒が問題となりました。介護などのエッセンシャルワークは人々の家庭生活=消費過程を支えるものであり、不生産的労働ですが(生産的労働と見る立場もあるがそれはここでは措く)その社会的重要性・不可欠性は言うまでもありません。それでも産業資本を中心にして「経済のサービス化」を併せて捉えるような再生産論の把握が資本主義経済の全体的な構造分析には必要であり、その際に一定の生産的労働論が前提とされます。最近読んだ渡辺雅男氏の「特殊資本と不生産的賃労働――利潤の補償理由と『経済のサービス化』――」(『政経研究』No.118  2022.6、所収)からそのようなことを感じました。

 以上、新自由主義からの変革を求める「会計のオルタナティヴ」のせっかくの新鮮な問題提起に対して、会計の内容以前の後ろ向きの検討になってしまったかもしれませんが、着実な前進を期待した言として、ご海容を請う次第です。

 

 

社会保障と社会進歩

 

 社会保障といえば、高福祉国家スウェーデンが思い浮かびますが、同国政治は必ずしもうまく行っているわけではありません。911日の総選挙では、反移民の極右政党・スウェーデン民主党が議席・得票を大きく伸ばし、第2党に浮上し、与党・社会民主労働党(社労党)のアンデション首相が辞意を表明する結果となりました。2014年まで政権党だった穏健党のクリステルソン党首が右派連合政権を率いる公算が強まっています(「しんぶん赤旗」91617日付)。

 同国では犯罪組織による抗争や、銃撃戦で市民が巻き添えになる事件が相次ぎ、国内の治安悪化が最大の争点となり、民主党を利しました(同前)。その背景には、社労党政権も含めて、1990年代以降、緊縮と新自由主義政策で格差と貧困が拡大し、移民の社会からの分断が進んだことがあります(民営化による教育・医療・介護などの劣化と移民の困難性増大の仕組みについては、労組系シンクタンク「アレナ・イデ」のリサ・ペリング代表のインタビュー参照。「しんぶん赤旗」91516日付)。

 民主党の人種差別的主張も、社労党の新自由主義路線も批判してきた左翼党は、移民に焦点を当てた「ひどい選挙戦」が、貧困や格差拡大を「霧で覆い隠し」、右派を利したと分析しました(「しんぶん赤旗」917日付。なお左翼党は議席を減らしていますが、NATO加盟に反対したことが影響したかどうかは同記事では分かりません)。移民をスケープゴート(*注)に仕立て上げて政策の誤りを隠蔽するようなことはどこでも行なわれています。日本でも公務員とか生活保護受給者などがバッシングの対象になってきました。

 

(*注)スケープゴート

 個人、集団、あるいは民族の苦難、不安、恐怖、欲求不満、罪意識から派生する憎悪、反感、敵意、攻撃的衝動を本来の原因からそらし、なんのいわれもない、報復や反撃の可能性の少ない弱者や逸脱者に転嫁し、非難と攻撃の標的として血祭りに上げること。

   ネット上の「コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)」より

 

 ここには緊縮政策・新自由主義路線を取ってきた西欧社民主義の限界、もっと言えば資本主義そのものの限界が露呈しています。資本主義的搾取強化に対して民主的規制を加える路線への転換が求められます。格差と貧困を拡大する政策を隠蔽するスケープゴート戦術の下で何回選挙をやっても、社会進歩にはつながりません。

 スウェーデンは日本その他と違って比例代表制なので、より民主的であり、投票率も高く、人々の政治意識も高いと言えます。それでも極右が勝つところに、ブルジョア民主主義の形式的空洞化が純粋に現われています。日本などは、小選挙区制など民主主義形式そのものに問題を抱え、それ以前の段階ですが…。小選挙区制とセットで二大政党制が民主主義の理想のように語られる場合がありますが、これなどは資本主義体制擁護(日本の場合は対米従属の大企業体制擁護)を大前提に毎回の選挙で有権者に「政権交代」で目くらましを与えるものであり、社会進歩にはつながらず、民主主義の形式的空洞化の最たるものです。各国の憲法に謳われている「国民主権」を実質化するとは、つきつめるとどういうことなのかが真剣に考えられねばなりません。

 先日、知人との雑談で、朝鮮戦争勃発前、戦後改革の理想主義の時期に日本国憲法が作られたことの幸運が語られました。その後の自民党の悪政をどれだけ憲法が縛ってきたことか。もちろん憲法の条文だけでなく、それを支える人民の運動が不可欠ではあります。

 しかし逆に言えば、憲法の制約下で暴走が抑止され、そこそこの政治状況であったからこそ自民党政治は続いてきたとも言えます。改憲を立党の原点とする自民党の長期政権を実現したのは憲法だという皮肉。ただし当然のことながら自民党政権下で「国民主権」は限りなく空洞化しています。

 社会保障もまた、資本主義とは異質の原理でありながら、資本主義はそれなくしては今日まで存続できませんでした。

 つまりもはや歴史の舞台から去るべきはずの自民党政治や資本主義は、その延命のために自己の本質とは逆の異質の原理を持つ日本国憲法や社会保障を抱え込んで利用せざるを得ません。ここに根本矛盾があります。利用はする(した)が異質なので攻撃をやめない。改憲や社会保障削減の衝動は決して止められません。根本矛盾の止揚には、自民党政治と資本主義の延命を断つほかありません。両者はずいぶん歴史的スケールの違う課題ではありますが…。私たちが今やるべきことは、憲法を単なる悪政のタガにとどめず、その全面的実現を通して、社会変革の展望を分かりやすく指し示すことです。憲法擁護・実現と社会保障充実の運動に、未来社会の萌芽があります。

 なおスウェーデンはロシアのウクライナ侵略戦争に際して、中立政策からNATO加盟に転換しました。左翼党と緑の党は反対しています。西欧社民主義の限界について、軍事同盟の問題も併せて考慮する必要があります。

 

 

感情の煽動 VS 公正な客観性の反撃力

 

 スケープゴート戦術は民主主義の劣化の象徴です。日本では政治の言葉の劣化も顕著です。小泉純一郎元首相以来、国会答弁は無茶苦茶になりました。安倍晋三元首相は息をするように嘘をつきました。それらに先導されるがごとく、ネット上などの「言葉の惨状」は目を覆うべき状態です。鷲田清一氏(哲学者)は「露骨な差別や捨てぜりふ」、「アリバイや言い逃れ」、「ことばの無力にひしがれ、口をつぐんでしまう人」などを指摘し以下のように憂慮しています(「朝日」916日付)。

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 ことばの暴力と無力。ことばの横暴とことばの喪失。一方にことばで煽(あお)る人たちがいて、もう一方にことばの前で身を退(ひ)く人たちがいる。ことばが両端に裂かれていて、この国を「言霊(ことだま)の幸(さき)わう国」などとは口が裂けても言えない。

 戦争の足音が遠くから響いてくるなか、人びとを煽ることでことばが戦争を構成してゆくこともあれば、口をつぐむことで人びとを戦争へと押しやることもある。だからことばの無力を前にうなだれてはいられないと焦る。

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 情動は言葉で煽られるだけでなく、芸術もまた重要な役割を果たし得ます。桜木紫乃氏(小説家)は音楽家・女優との鼎談の内容を紹介しています(「朝日」914日付)。彼女の小説の一節「感情が極まったところでメロディをかぶせてたたみかければ、人間ってのは嫌でも泣くようにできているのさ」に対して、音楽家は同意し、さらに「あざとい手で人を泣かせるのは、プロの演奏家ならば誰でも簡単にできることだ。ただ、そこには表現者としての矜持(きょうじ)も品もない」とたたみかけています。

 続いて桜木氏は「感情を煽(あお)り煽られしているところに、『思考』はあるか」と問い、女優との話の中から、自分を冷静に眺められることの重要性を指摘しています。以上では、あくまでプロの表現者における矜持の問題、そこでの客観性の大切さ、が語られています。私たちはそこに芸術鑑賞の一つの勘所を見いだすことができ、表現者との内なる対話を豊かにすることもできます。しかし鷲田氏の先の憂慮を重ねれば、芸術家・表現者が政治的煽動に利用される危険性に触れていると考えることもできます。

 「あざとい手で人を泣かせる」ような煽動に対抗しうる客観性の確保は優れた知性によって実現されます。スケープゴート戦術・弱者バッシング・戦争の煽動など、社会進歩に敵対する意識形成は、排外主義的ナショナリズムと体制順応主義(政府批判のタブー視)などによりますが、家父長制とそれによるジェンダーバイアス(偏向)がその一つの重要な土壌として存在しています。まさに自民党=統一協会的世界観ですが、決して一笑に付せるようなものではなく、世の空気としてはびこっています。そこに厳しく切り込んでいるのが、小田原のどか氏(彫刻家・評論家・出版社代表、1985年生)です(「朝日」夕刊914日付)。

 彼女は「表現の現場調査団」による「ジェンダーバランス調査」の結果を紹介しています。それによれば、「芸術9分野の賞や栄典の審査員は77.1%を男性が占め、大賞受賞者も65.8%が男性」です。そこから、「価値を決めること、教授することを特定のジェンダーが専有する背景には、性差にもとづく差別的な社会構造がある」と考察されます。さらに私たちが陥りがちな陳腐な意識形態が以下のように厳しく批判されます。

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 加えて、表現の現場に横行する「幻想」がある。「優れた作品に犠牲はつきもの」「人格的に問題があるのは優れた作家の証し」というようなものだ。これらの幻想は、表現の現場における暴力や搾取を正当化してしまう。しかし果たして、暴力や搾取のもとに「優れた表現」が生まれることなどあるのだろうか。私はそうは思わない。そもそも、「優れた表現・作家」は誰かがそう価値を与えることで世に認められる。この度のジェンダーバランス調査が明らかにしたのは、価値を決定する仕組みの偏りに他ならない。「優れた表現」と暴力を関連づける価値観も、偏りある評価の体系が作り上げてきたのではないか。

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 実に清新さにあふれた「論断」です。それを支えているのは次に見る学問の喜びです。

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 美術史を学ぶ意義とは、「優れた作品」を自明とするのではなく、その評価は誰が構築してきたものなのかに目を向け、「美しさ」を支えてきた性差別や抑圧、そして排除を看取する力を身につけることにある。それはまさに、未来を変えるための力だ。歴史に学び、現状を知り、問題を広く伝え、他者とともに変化を促していくこと。こんなに楽しいことはない。

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 学問の本質は対象への批判的認識(たとえば、太陽が動く現象の裏に地球の自転を見抜くこと)であり、それは既存の社会秩序とそれに基づくイデオロギーへの批判につながります。表現の現場とそれを取り巻く世間の評価にあるジェンダーバイアスと「幻想」を批判するためには、そこに埋没しない客観性と公正性が必要です。その広い視野を培うのが学問です。社会を情動的に劣化させ、右傾化・軍事化などに向かわせる力を凌駕する可能性を、それは持っています。

 まず小田原氏には、何だかモヤモヤしたもの=幻想をそのまま見過ごすのでなく、分析しその秘密に迫るはっきりした志向性が見て取れます。「地の巨人」加藤周一を想起させる明晰な理性を感じます(いささか大げさか)。彼女はさらに同記事で労働組合を作って教員間ハラスメントを解決した経験を記し、組合の有効性を強調しています。何という行動力か。若き実践的知性の登場に拍手を送ります。

 「情報化の時代は短絡の時代である。だが、短絡は科学の敵であり、ファシズムの友である」(高島善哉『時代に挑む社会科学』、まえがき−岩波書店、1986年)。私たちが今感じている危うさはそこに一つの根を持っているのかもしれません。手強い相手だ。しかも情報化そのものを否定することはできず、賢明な共存が必要です。その中で「短絡」を克服し、「感情の煽動、情動の動員」に私たちの社会がさらわれないよう、理知と実践を草の根に育てることが求められます。若者にも学びながら。

 ここで筆を置いた後に、「朝日」924日付の(書評)『デジタル空間とどう向き合うか』 鳥海不二夫、山本龍彦〈著〉(評者:宮地ゆう・「朝日」GLOBE副編集長)を見つけました。高島氏の言葉に呼応する内容となっています。

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 人間には二つの認知システムがあるという。一つは深く考えず反射的に反応するもので、二つ目は熟考して反応するシステムだ。人間を理性的な存在にしているのは、二つ目があるからだ。だが、デジタル空間では、もっぱら一つ目の反応が利用される。脳に刺激の多い情報やデマ、陰謀論などの前に、二つ目の認知システムはまともに機能しない。どうすればいいのか。

 興味深いのは、本書の出発点が、人間の弱さを受け入れ、個々の人間の理性の力に過度な期待をしていないことだ。対話や教育、リテラシーといったものだけでは太刀打ちできないと認め、合理的な判断を支援する仕組みや環境を、社会的に構築するべきだという。

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 関連して、「オンラインでの誹謗中傷問題という切り口から、デジタル社会の現在、また政府やプラットフォーム、ジャーナリズムの果たすべき役割」(200ページ)を語った、山本龍彦・小嶋麻友美両氏の対談「兵器化する『表現の自由』とアテンション・エコノミー」(『世界』10月号所収)から引用します。まずアテンション・エコノミーを山本氏がこう説明します。

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 私たちは日々、SNSを無料で使っています。しかし、実際にはアテンション(関心)を支払っている。情報やコンテンツが氾濫する情報過剰時代には、市場に供給される情報量に比して、私たちが支払えるアテンションや消費時間が圧倒的に希少になるため、それらが交換材としての価値を持って経済的に取引されるわけです。これがアテンション・エコノミーですね。    204ページ

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次いで、プラットフォームに対する一定の規律を組み込んだ画期的な法律といわれているEUのデジタルサービス法に触れて、山本氏が今日的な自由論を展開しています。

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 私より上の世代の――私は一九七六年生まれですが――憲法学者の多くは、アメリカの表現の自由論を参照してきたこともあって、「思想の自由市場」論(思想・言論の善し悪しは市場が決めるもので、国家が介入すべきではない)を純粋かつ原理的に支持してきた面があります。放送法に関しても規制は不要とする考えも強かった。しかし今、アテンション・エコノミーの氾濫を前に、国家の不介入を原理的に主張する見解は支持を失ってきているのではないか。その点では前述のようなヨーロッパ的な方向性が一定の支持を集めてきているように思います。          206ページ

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 「思想の自由市場」論についてはどう考えるべきかと常々思ってきましたが、やはり今日の現実は一定の規制を必要としているようです。
                                 2022年9月30日






2022年11月号

          円安・物価高騰と日本経済の課題

 バブル破裂後、日本経済は長期不況――もちろん統計的には好況局面(しかも最長期のそれ)を含むが人々の生活は改善されず、実感としては万年不況――に陥り、その結果として、物価は下落ないし「安定」(仮に、併せて「低迷」と表現)を持続してきました。転倒的意識においては、この物価「低迷」こそが長期不況の原因であり、それを「デフレ」と称して、過剰通貨を供給する異次元金融緩和によって解決できると観念されました。それで日銀は2013年に「黒田バズーカ」なる号砲をぶち込みました。量的緩和として、銀行などから国債などを買いまくり、通貨供給にこれ努めました。しかしベースマネーは積み上がっても、マネーストックは伸び悩み、実体経済が拡大することはなく、2%物価目標は一向に実現しませんでした。ところが20229月にはついに3%となり、数字上は超過達成と相成りました。しかしさすがに日銀・黒田総裁も、物価上昇に賃金上昇を伴う好況という好循環になっていないことから、目標達成とは言えません。それで考え直すならいいですが、好循環実現のために異次元金融緩和を続けると宣言し、日米金利差拡大でいっそうの円安=輸入物価高を助長し、不況の続く日本経済をスタグフレーションに追い込んでいます。政府と日本銀行は922日にドル売り円買いの為替介入を24年ぶりに実施し、その後も覆面介入し、円安是正に動いていますが、日銀が円安=物価高を導く金融緩和を基本政策としているという矛盾から抜け出せずにいます。それでも日銀は1028日の金融政策決定会合(年間8回開催、メンバーは総裁以下9人)でこの大規模緩和を当分続けることを決めました。

2021年、コロナショックからの回復過程で欧米中心に物価高騰が襲い、日本も2022年についに長年の物価「低迷」を脱して、賃金上昇を上回る物価高騰が人々の生活を脅かす段となりました。しかし上記のように日銀が「目標達成」を誇れない物価高騰とは何か。福田泰雄氏の「問われる食料・エネルギー・円安政策」は物価高騰の原因から影響、政府の対応、並びに私たちのオルタナティヴの基本観点を一論文にコンパクトにまとめています。続いて湯浅和己氏(日本共産党政策委員)の「加速する値上げ、生活と営業守る緊急対策を」が具体的政策を提起しています。

 福田論文では、世界的な物価高騰の原因として、エネルギー並びに食料という資源価格の高騰を挙げています。それは第一に途上国の経済発展と人口増加に伴う資源需要の高まり、気候変動などによる供給制約、第二にロシアのウクライナ侵略戦争とそれに対する経済制裁の影響によるとされます。なお山田博文氏は、各国中央銀行が2008年の金融危機後、GDPの成長を上回る過剰な通貨を供給する金融緩和政策を実施し、景気を刺激してきたことを背景として指摘しています。その上でコロナパンデミック対策としての財政支出による需要創出をきっかけとして世界で10%前後のインフレ・物価高がもたらされたのです(「物価高騰と亡国政権」、「しんぶん赤旗」624日付)。

 福田氏は世界的な資源価格高騰といっても、各国の状況により影響が異なるとして、日本の場合、「エネルギー資源小国」かつ「円安」という二重のハンディの加重による「経済停滞下での物価上昇という新たな日本病の発生」(17ページ)を指摘しています。円安については、世界の主な中央銀行が物価対策として利上げを実施しているのに対して、日銀だけが上げられません。日銀による事実上の財政ファイナンス政策のため、利上げによる国債費増を避ける必要があるからです。「日銀は金融政策手段である金利調整機能が使えず、各国との金利差が拡大しても、なすすべもなく円安が進行する」(18ページ)状況に陥っています。この円安による輸入物価の上昇が日本の物価高騰の主な原因です。輸入物価上昇は、まず世界的な資源価格そのものの上昇によりますが、その上に円安が加重します。20226月には円安要因が輸入物価上昇の43.1%を占めます(19ページ)。

 物価高騰は国民生活と中小企業経営に打撃を与えます。可処分所得比で見ると、低所得層ほど負担増割合が大きくなります。中小企業は仕入単価の上昇を売上単価に転嫁できません。農業においても、輸入に依存する肥料・飼料価格の高騰が深刻な影響を与えています(1920ページ)。

 福田氏は政府の対応として五つあげています。――1.輸入小麦の政府売り渡し価格の抑制、2.石油元売り業者への補助金支給、3.地方創生臨時交付金の増額(生活困窮者支援、学校給食費の軽減、農林水産業・運輸・交通分野の中小企業支援)、4.肥料高騰への補助、5.飼料高騰の補填拡大

 福田氏はこれらの対策を不十分として、消費税率5%への引き下げや、生活困窮者対策としても、1回限りでなく継続した対応などを求めています。さらにエネルギー・食料資源小国、円安(=自国通貨が売られる)という日本の脆弱性が、戦後、そして1990年来の政策の産物であるとして、その抜本的転換を求めています(14ページ)。それは以下のようにまとめられています。「原発政策から再生可能エネルギー政策への転換、自由化による農業破壊政策から食料自給率引き上げ政策への転換、そして労働規制緩和による雇用破壊政策から、ディーセント・ワークの実現、賃金引き上げによる内需拡大政策への転換が求められている」(23ページ)。

 湯浅論文は物価高騰の深刻な影響と賃金がそれに追いつかないこと、政府の対策がまったく不十分で、諸外国に比べても消極性が際立つことを指摘し、日本共産党の対策を対置しています。「@消費税率5%への緊急減税やインボイス導入中止、A困窮者への支援金拡充などの抜本強化、B賃金の大幅引き上げ、C医療費負担増の中止――などです」(28ページ)。消費税減税については、世界100カ国近くで実施されており、実施していないのは日本くらいだとされます。インボイス導入中止が消費税減税と並べられているのはその重要性と切実さを表わしています。

賃上げはきわめて重要でありながら、日本の労資間の力関係の格差から長年抑え込まれてきました。その中でも、労資当事者の外から政府ができることとして最低賃金の引き上げがあります。生活の厳しさの広がりが「世間の空気」(明確な「世論形成」とまでは言いにくい微妙な表現)を変えています。それがこれまでの労働運動の努力継続(最賃生活の実体験や生活必需品アンケート調査などによる1500円要求の実証的証拠提示とそれによる世論アピールと政界工作――自民党内にも全国一律最賃支持グループが登場――などを含む)と相まって、かつては問題にされなかった時給1500円要求が焦点に浮かび上がり、今やそれを掲げるのが当たり前となってきました。湯浅論文によれば、時給1500円未満の労働者は一般労働者の36%で1230万人、短時間労働者の87%で1070万人、会わせて2300万人にも達します。その賃上げはそれ以外の労働者にも影響を与えます(30ページ)。その実現は「相対的過剰人口」の賃金・労働条件に対する下押し圧力を緩和するとともに、全労連などが主張するように、産業連関を通して実体経済の拡大に波及していきます。これは「優しく強い経済」の重要な要素であり、搾取強化と生活犠牲による新自由主義構造改革・緊縮政策型の「強い経済」と鮮やかな対照をなしています。また時給1500円実現のための中小企業支援策の財源として、日本共産党は大企業の内部留保への時限的課税を提案しています。内部留保課税に際しては、適切な控除を設けることで、賃上げと「グリーン投資」を促進するとしています。

 今回の物価高騰の中心は円安による輸入物価上昇です。円安をめぐっては、金融政策の違いによる対外金利差――金融引き締め=利上げに向かう主要中央銀行の中で、日銀だけが金融緩和に取り残された――がまず当面の問題とされますが、長期的視点では、日本の経済力の低下や生産性低下による「日本売り」の様相と深刻に受け止められています。その打開には、強い経済をどう作っていくかが問われます。その観点から、一方では新自由主義構造改革の立場のサプライサイド・エコノミクス的な大企業強化論があり、他方には共産党の政策に代表される「優しく強い経済」の立場があり、鋭く対立しています。メディアの論説の多くは前者の立場から語っています。もちろんそれらは複雑な現実に即した議論を様々に展開しているので、単純な論断は避けてきちんと分析的に見ていく必要があります。しかし根底にはこの対立があることに留意しながら検討することで、上記・本誌の福田論文・湯浅論文などを含む後者の立場の中身や意義をいっそう明確にすることができます。

 現象にただ振り回されるのでなく、本質に迫るためには、そうした検討に先立って、円安を考える基準としての為替レートの原理をおさえておかねばなりません。「しんぶん赤旗」の連載記事「円安時代」1026日付では以下のように説明されています。

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 「為替レートの決定要因は主に四つ」だと国際経済研究者の木原隆氏は話します。

 (1)インフレ率(商品量に比べて貨幣量が多くインフレ率の高い国の通貨は安くなる)(2)貿易収支(赤字の国の通貨は安くなる)(3)金融政策(金利の低い国の通貨は安くなる)(4)政治的要因(信用の低い国の通貨は安くなる)―です。

 「このうち(2)(3)が現在の円安の原因だと考えられます。短期的には金融政策の方向性が決定的ですが、長期的には貿易収支の状況が重要です」

 9月の貿易収支は2兆940億円の赤字でした。単月の赤字は14カ月連続です。2022年度上半期(4〜9月)の貿易収支は1175億円もの赤字でした。半期の赤字として比較可能な1979年度以降で最大です。輸入額が輸出額を上回る貿易赤字の拡大は円売り・ドル買い取引の増加を意味します。

 長期的には鉱物性燃料(石炭、石油、天然ガスなど)や繊維・衣類の赤字が膨らみ、電気機器の黒字が縮小しています。(図)

 中央大学の村上研一教授は「貿易赤字拡大の一方の要因は燃料輸入額の増大ですが、他方の要因は国内供給力の衰退です」と指摘します。「輸出産業は海外に生産拠点を移転し、空洞化しました。国内の製造業生産能力が減衰したために輸出額が落ち込んでいるのです。輸出産業支援に主眼を置いたアベノミクスの失敗です」

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 ここでは貿易赤字を拡大させる産業空洞化(国内供給力の衰退)への対策に焦点が当てられていますが、その他にも物価高騰に対する見方を含めて、いくつかの論調を見ていきます。「朝日」923日付は、日銀が金融緩和を続ける(止められない)理由を次のように見ています。

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 日銀が緩和を続け、金利を低く抑えているのは、景気回復が不十分だとみているためだ。日本はコロナ禍からの回復途上で、ロシアのウクライナ侵攻による資源高は企業や家計の重荷となっている。こうした中で、日銀は景気を冷え込ませる恐れのある利上げではなく、緩和によって景気を下支えすることを優先させてきた。ただ、動けない背景には、利上げすれば、政府が発行する国債の利払いの負担が重くなり、財政に影響が出るリスクも指摘されている。

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 ここでは、福田論文が指摘していた日銀による財政ファイナンス政策の問題にも言及されていますが、その他に景気回復のためであることも語られています。しかしそうした循環的要因というよりもっと根本的な構造的要因を指摘する向きも多いようです。たとえば、明治安田総合研究所の小玉祐一氏は「90年代以降、経済の生産性は低迷し、企業は賃金を上げられず、物価上昇圧力が弱い状況が続いた。日銀が緩和をやめられない背景には、長年にわたる日本経済の弱さがある」(「朝日」1015日付)、あるいは「米国の金融政策の潮目が変われば短期的に円高が進んでも不思議ではないが、経済そのものを強くしないと、長期の円安トレンドを反転させるのは難しい」とか「医療、教育、農業などで規制改革を進め、民間企業がより活躍できる成長戦略を地道に進めることが、円を強くする」(「朝日」1026日付)と指摘しています。

 これは典型的な新自由主義構造改革の議論で、賃金が上がらない原因を生産性低下に求め、日本経済=円を強くするには、規制改革で民間企業が活躍できるようにすべきだと主張しています。つまり悪いのは規制であり、それを緩和すれば企業が自由になって生産性が上がり賃金も上がるという思考様式です。有効需要注入政策ではなく、企業活動の強化が必要だというサプライサイド・エコノミクスの発想だと言えるでしょう。メディアの円安是正論の基調はここにあります。賃金抑制を中心とする搾取強化が労働主体的には生産性向上に逆行し、同時に内需を冷え込ませて「生産と消費の矛盾」を拡大するという観点が欠落しています。

また先の「朝日」1015日付は米国の「インフレ高止まりの主因は、賃金上昇の影響を受けやすいサービス価格の上昇」であり「サービス価格の上昇が収まるには、賃金の伸びが鈍化したり、失業率が上昇したりといった、労働市場の悪化が必要だ」と主張しています。FRBによる急速な利上げの原因をこんなところに見る議論に対して、具体的にどう反論するかは課題ですが、企業利潤の問題を差し置いて、労働者の賃金上昇を敵視し、労働市場悪化を当然視するきわめて露骨な階級的主張が横行している点に留意すべきです。日本のメディア多数派の円安に関わる経済弱化論・生産性低下論も同様な階級的議論であり、逆に労働者・人民の側から経済弱化・生産性低下の原因を提示し克服策を提起することが必要です。「朝日」の議論をもう少し見ていきます(1021日付)。

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 手詰まりの状態なのは、日本経済が「失われた30年」とも呼ばれる低成長から抜け出せなかったことが背景にある。日本はバブル景気がはじけて以降、長期の停滞期に入った。円高によって輸出産業を中心に競争力が弱まり、国内消費が冷え込み物価が下がり続ける「デフレ」に陥った。

 これを打開しようとしたのが第2次安倍政権の経済対策「アベノミクス」だ。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、成長戦略を「3本の矢」と呼び、賃金上昇による消費の拡大と物価の上昇という好循環をめざした。日銀総裁に就いた黒田氏による「異次元の金融緩和」で、低迷していた株価は上昇。一定の効果は出たものの、成長力の底上げには結びつかなかった。

 グーグルやアマゾンなど、米国や中国で巨大IT企業が次々と生まれる中、日本は旧来型のモノづくりを中心とした産業構造から抜け出せず、かつては世界トップだった半導体など電機産業まで競争力を落とした。財務省が発表した21年度の法人企業統計調査で、企業の経常利益は円安が追い風となり、前年度から3割以上増えて過去最高を更新した。しかし、企業の事業規模をあらわす売上高はこの30年間ほぼ横ばいだ。

 世界を席巻するようなイノベーションが起きず、生産性が上がらない中、円安を助長する金融緩和をやめられなくなった。大量のお金が市場に供給されたことで、本来、市場から退場すべき企業が生き残り、新陳代謝を妨げているという弊害も指摘される。

 1ドル=150円を招いたのは、こうした「失われた30年」のツケとも言える。

 「新しい資本主義」を掲げ、経済成長に重点を置く岸田政権は円安をメリットとして製品の輸出に取り組む中小企業を支援するほか、国内への工場誘致なども後押しする。

 だが、個人消費など国内需要が弱い日本に、生産拠点の回帰が進むかは未知数だ。経済を牽引する新たな産業を見いだせないなか、国際競争力を取り戻す萌芽(ほうが)も見えていない。

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 長い引用になってしまいましたが、それなりに事態の総合的な理解が現われています。「失われた30年」の低成長から説き起こし、アベノミクスの功罪、日本企業の生産性低迷と競争力弱化、「ゾンビ企業」の問題、内需低迷など、多くの問題点が提起されています。エネルギー=食料資源小国という重要問題については、同記事内で別の記者がこの前に触れてはいますが、ここではあくまで企業の生産性や競争力を中心に見ているのは問題の核心をそこに置いているからだと思います。ところが日本企業の生産性低迷と競争力弱化の原因と打開策についての確たる記述はありません。アベノミクスについては、株価が上昇したが、成長力の底上げにはならず、企業の経常利益は上がっても売り上げは横ばいであり、市場への過剰な通貨供給によって「本来、市場から退場すべき企業が生き残り、新陳代謝を妨げているという弊害」を指摘しています。アベノミクスを引き継いだ岸田政権の「新しい資本主義」に対しても、「個人消費など国内需要が弱い日本に、生産拠点の回帰が進むかは未知数だ。経済を牽引する新たな産業を見いだせないなか、国際競争力を取り戻す萌芽(ほうが)も見えていない」と批判しています。

 アベノミクスなどに対する批判としては的確な部分を見ていますが、観点が新自由主義構造改革の生産力主義からであり、おそらく対策としては逆行する方向に向いているでしょう。アベノミクスや世間の通説のように「世界で一番企業活動が自由な国」を作ることで生産性を上げ、「世界を席巻するようなイノベーション」を創出することができるでしょうか。人々が創意を発揮できる環境をどう整えるか、考えるべき方向が違うのではないかという気がします。「株価ばかり上がって経済成長につながらない、利益は上がるが売り上げは横ばい、内需が弱い」といった問題群は強欲の資本主義としての新自由主義の強搾取に起因するものです。そこを放置してはまともな労働と経済社会は作れません。

 観点の誤りとして、たとえば、不況の中でも懸命に経営を継続している中小企業などに対して事実上「ゾンビ企業」呼ばわりしていることが挙げられます。効率重視だけでは、人々が根付いて生きていける地域社会を形成していけません。また「旧来型のモノづくりを中心とした産業構造」という揶揄も問題です。確かにデジタル化などに沿った新たな産業構造を作っていくことは必要ですが、「旧来型」も国民経済を底支えする必須部門として残るでしょう。農林水産業も同様です。利潤第一主義で先端産業に特化したような産業構造でいいのかを考える必要があります。国民経済のバランスある再生産構造をどう作っていくかは重要な課題です。すでに日本は農林水産業をスポイルしたことを反省し再生させ、自然環境を生かして再生可能エネルギーを活用した地域経済を土台とするような再生産構造を形成していくという課題あるいはチャンスに直面しています。利潤第一主義と生産力主義ではそれを看過してしまいます。

 渡辺博史・元財務官(国際通貨研究所理事長)の話には参考になるところがあります(「朝日」1027日付)。渡辺氏は「円安の半分以上は日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきていることが要因だと考えている」として、「この10年ほどで日本の貿易収支は赤字が多くなり、投資を含む経常収支の黒字も小さくなってきている。ウクライナ危機でエネルギーや食料問題が表面化し、日本の国力や将来性に対する経済の基礎的条件の弱さを、マーケットが見抜き、為替にも反映されているということだ」と診断しています。したがって為替介入には否定的であり、「国力を高めるための政策」が必要だとしています。円安でもうけた企業は賃金を上げ、下請けにも還元すべきで、それで不十分なところは政府が分配政策として税金を使う必要があると主張しています。ガソリン補助金や電気・ガスの価格抑制には批判的で、むしろ国民には負担増や消費抑制などの我慢をお願いし、生活に大きな影響がある人たちにだけしぼった支援を行うべきだとしています。そうして国民の危機感と構造転換の必要性を説いています。このあたりでは物価高騰下での人々の生活の窮状にそぐわないところがあるように思いますが…。

また財政の悪化で、将来の政府の対応力を損なうことを警戒しています。巨額のバラマキ政策については、英国のトラス政権が自殺行為のような巨額の減税策を打ち出し、マーケットが見放した形だと述べています(*注)。英国については、ブレグジット(EU離脱)の誤りとともに、製造業を放棄し、金融で食べていけるという産業選択が間違いだったという根本的な批判も加えています。対照的にドイツについては、健全財政と再生可能エネルギー政策を参考にすべきとしています。さらに市場政策としてEUをうまく使っていることを指摘し、日本にはASEANが重要だとしています。EUでのドイツの独り勝ちや緊縮政策の押しつけが批判されることもあるなど、考慮すべきことはありますし、渡辺氏の立場は私たちとは違うでしょうが、比較的堅実な言説として参考にすべき点はあります。

(*注)トラス政権の金持ち減税はもちろん間違いですが、どこでも民主的政権が逆の格差是正の税政策を採ったとき、マーケットが攻撃してくるという心配があります。マーケットが正しいという市場崇拝は誤りですが、実際のところ、どのように市場と対話し規制・誘導していくかは社会変革の重要課題です。

 

 物価高騰を導く円安(=日本売り)で、日本経済の弱体化が顕著に露呈されました。その強化という課題をめぐって以上見たように、生活犠牲・搾取強化の「サプライサイド」型の新自由主義構造改革路線と生活・労働の改善を起点とする「優しく強い経済」とが対峙しています。その政治的現れが1023日のNHK番組「日曜討論」です(残念ながらそれを見ていないので、「しんぶん赤旗」1024日付を参考にします)。

 この討論では日本共産党の田村智子政策委員長がまず賃上げを中心とする政策転換による日本経済の強化を主張しています。アベノミクスの異次元金融緩和を是正して、金利が上がれば中小企業の融資返済や住宅ローンに影響が出るため、「金利が上がっても大丈夫な経済状況を早く作らないといけない。それは何といっても、思い切った賃上げだ」と強調し、「賃上げを軸とした構造的な経済政策が『日本は金融・経済政策を変えるぞ』というメッセージになって円安にも歯止めがかかっていく」と述べました(*注)

 続いて田村氏は、物価高騰下での負担軽減策として、電気・ガス代等への部分的支援だけでなく、消費税減税を主張し、この間の政府による医療費負担増や年金削減を厳しく批判しました。さらに異次元金融緩和で賃金が上がらず、大企業の内部留保が積み増しされていることを指摘し、それに課税して中小企業の賃上げ支援に回すことを主張しました。

それに対して自民党の新藤義孝政調会長代行は内部留保課税を拒否し、賃上げには経済成長が必要だとして、「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」など「新しい市場をつくってお金が流れるような政策を打たなければだめだ」「学び直し(リスキリング)によって労働職場を変わったら賃金が上昇する国にしなければいけない」などと主張しました。公明党の伊藤渉政調会長代理は労働生産性の低さなどが問題だと語りました。いずれもこれまで見てきたような生産力主義的発想です。

これに対して田村氏は「物価高騰に見合う賃上げはすぐにやらなければならない」とぴしゃりと反論し、共産党の内部留保課税の内容と意義を説明しました。さらに「リスキリングというものも出てきたが、労働生産性が低いのは、能力があっても不安定雇用で切られてきた人がたくさんいるからです。長時間労働で低賃金だからです。小泉構造改革以来、人件費を抑えなければ企業が生き残れない状況をつくった政治の転換が必要です。8時間労働で生活できる賃金や安定雇用で、給料が上がる、希望が持てる、スキルが上げられる、こういう経済政策の転換を求めていきたい」と力を込めました。新自由主義構造改革と対決する「優しく強い経済」の観点を鮮やかに示したと言えます。

(*注)

共産党の大門実紀史・前参議院議員は市場との対話を通じた政策転換について以下のように述べています(消費税をなくす全国の会発行「ノー消費税」2022.10,第374号)。

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 政府の責任で「異次元の金融緩和」からの方向転換を明確にし、国内の市場と対話、協調しながら、国債の買い入れを減少させ、金融政策の「正常化」に踏み出すべきです。政府関係者や与党議員の中には「異次元の金融緩和」から方向転換すると、金利が急上昇するとの主張する人がいますが、彼らが実際に恐れているのは株が下がることでしょう。仮に「正常化」によって金利が上昇に転じたとしても、せいぜい「マイナス金利」からの是正程度で国民生活の打撃を与えるような金利上昇は考えられません。いまは円安の進行を止めることを最優先に考えるべきです。

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 大門氏はこの後に「この機会にエネルギー政策の転換と食料自給率向上に本気でとりくむことです」と付け加えています。初めの福田論文にあるように、この点は重要ですが、上記のNHK番組では出ていないようです。

 

 本来なら、緊急企画「物価高騰が襲うくらし・経済」の諸論文から各分野での価格状況とその影響に関する事実認識を得て、それを基に物価高騰を経済理論的に考察すべきところでした。しかし力不足でかなわず、主に政治議論次元の内容に終わってしまったのは遺憾です。またエネルギー・食料資源が物価問題の焦点になっていることからすれば、特集「地域から日本農業を考える」も重要であり、食料自給率向上の政策に触れることもできなかったのは残念です。

 

 

          統一協会への政策批判を

 世界平和統一家庭連合(旧「世界基督教統一神霊協会」:以下、「統一協会」)の問題が岸田政権の支持率低下の最重要な原因となるほどにクローズアップされています。霊感商法や集団結婚など、常軌を逸した人権無視の反社会性からすれば当然の事態です。しかしこの統一協会バッシングには一抹の不安も感じます。それは反動的な生活保護バッシングや公務員バッシングあるいは韓国バッシングなどとは本質的に異なり、むしろ社会進歩の方向に向けられる可能性も含みますが、現状でそうなるか否かは不確定です。「失われた30年」の閉塞状況下で発生してきた他の様々なバッシングと同様に、歪んだ攻撃性の発出やガス抜きへの利用などで終わってしまう危惧もあります。統一協会の問題は政治的にはいわばマイナスをゼロにする類い(当たり前に正常化するだけのこと)です。しかも多くの人々にとっては直接関係ありません。それに対して例えば物価対策のような問題は生活上の何らかのプラスを求める性格を持っているので、持続性が期待できますが、「マイナス→ゼロ」案件は「飽き」が来やすいものです。「モリ・カケ・桜」の際、時を見計らって「いつまでやってんだ」という揶揄が出てくるようになりましたが、同様にならないように、問題の中身を掘り下げていくことが必要です。

 この反社会集団への反発が岸田政権と自民党批判にもつながっていますが、反社会性以外の政策問題に批判が向けられていないのが問題です。だから政権支持率低下が野党支持率上昇につながっていません。それは野党共闘が頓挫しているという体たらくが大きい要素ですが、その他に、反共主義・改憲・軍拡・ジェンダーバックラッシュなどの政治内容に焦点が当たっていないことからも生じています。ロシアのウクライナ侵略戦争以後、日本では軍拡と改憲に向けた世論誘導が優勢であるという事態は、自民党=統一協会ブロックが反社会性の故に批判されていても、容易に崩壊せず、政策的な支持基盤をなお維持していることを示しています。バッシングによってしばらく逼塞(ひっそく)していても、隠忍自重で時の過ぎるのを待ち、復活を狙っているのは明らかです。自民党にしてみれば、統一協会の反社会性は不都合でも、政策的一致点が大きく、選挙や大衆運動に利用できる組織は手放しがたいに違いありません。

 そうであればこそ、自民党=統一協会ブロックの政策を徹底的に世論から孤立させることは重要課題です。反共主義は直接的には共産主義への対抗の問題ですが、実は平和と民主主義への脅威であることは歴史的経験から明らかであり、特に昨今の改憲・軍拡志向の世論操作状況下ではいっそう切実さが感じられます。しかしそれを世論にアピールすることはなかなか難しいということがあり、課題と意識しつつ、ここではジェンダーバックラッシュの問題に触れます。

 その前に、統一協会が韓国に本部を置く組織だという点に触れます。これは自民党議員が統一協会と政策協定を結ぶことが内政干渉になるという重大事態であることをまず確認します。その上で、自民党や反動勢力が率先してきた韓国バッシングとの矛盾をどう捉えるかという問題を考えます。韓国バッシングの底流には、植民地支配を反省せず続く歪んだ優越感が未だ日本社会に広く巣くっていることがあります。しかし直接的には、元「慰安婦」「徴用工」の被害救済が進んでおらず、その人権をかけた闘いに対して、歪んだナショナリズムに基づく攻撃が日本政府と反動勢力のみならず、一般のメディアを通しても繰り広げられ、世論に浸透しているという日本社会の後進性・異常性が問題です。

 しかしそこには、韓国人被害者と彼らとともに闘う弁護士・市民組織などの日本人たちとの熱い連帯が見られることから明らかなように、問題の本質は「日本対韓国」や「日本人対韓国人」ではなく、両国の「進歩勢力対反動勢力」という構図です。被害者たちは韓国内でも民主化以前はなかなか声が上げられず、民主化後にようやくカミングアウトできたのであり、今日でも保守勢力の妨害にあっています。残念ながら日本世論の多数派はまだ反動勢力の枠内にとどまっています。メディア状況がそれを規定しているのが最大の問題です。

 日韓関係のそうした本質の一方で、日本の支配層の意識はどうなのかが、統一協会問題における韓国をめぐる矛盾を解く鍵です。韓国バッシングに励むような日本の保守勢力が、韓国による内政干渉の手先のような統一協会と何故組んでいられるのか。上記の構図から言えば、日韓の保守反動勢力の連帯ということになります。自民党にとっては反共主義こそが重要なのであり、韓国の手先であることは二の次なのです。二の次だと言っておれる意識構造も確かにあります。統一協会と関係の深い自民党の衛藤征士郎氏の発言記事を引用します(「朝日」85日付)。

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 自民党の衛藤征士郎・元衆院副議長は4日の党会合で、日韓関係について「韓国はある意味では兄弟国。はっきり言って、日本は兄貴分だ」と述べた。続けて「韓国ともしっかり連携し、協調し、韓国をしっかり見守り、指導するんだという大きな度量をもって日韓関係を構築するべきだ」とも主張した。

 衛藤氏は記者団の取材に対し、発言した真意について、「我が国はかつて韓国を植民地にした時がある。そこを考えた時に、韓国は日本に対してある意味、兄貴分みたいなものがある」と説明した。日韓は対等ではないのかと問われると、「日本国民は日米関係を対等だと思っているか。僕は思っていない。同じように日韓関係は対等だと韓国が思っていると、僕は思っていない」と述べた。さらに「日本は常に指導的な立場に立ってしかるべきだ」との持論も展開した。(里見稔)

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 要するに米日韓という支配従属関係が絶対であり、親分のアメリカに対して子分の日韓がおり、日本は兄貴分で韓国は弟分というわけです。ここでは誰も対等だと思っていないと衛藤氏は言っているのです。まさに対米従属とアジア蔑視の歪んだナショナリズムが恥ずかしげもなく全開になっています。事実上の三角同盟をつなぐ反共主義が大切であり、多くの日本人が自己破産に追い込まれるほど韓国の協会本部に貢がされようと、内政干渉されようと(「内政干渉と言うが、自民党と同じ政策だから問題ない」というのがホンネだろう)反共の大義の前で何か問題があるのか。まさにそういう認識なのでしょう。

 ジェンダーバックラッシュの問題に戻ります。たとえば選択的夫婦別姓問題は本来なら20世紀のうちに解決しておくべきでした。同姓を強制しているのは世界中で日本だけと言います。選択的夫婦別姓は同姓か別姓かを選べるということであり、何の強制もありません。同姓がいいという人に何の不便も起こりません。世論上もこの制度変更への理解が深まっていました。ところが家父長制的意識からジェンダー平等に反対し、そうした家族こそが国家を支えるというイデオロギーに凝り固まった一部の勢力の妨害で今日まで問題が持ち越されてきたのです。政府のアンケート調査の意図的な変更による世論操作まで行われています。自民党内でも選択的夫婦別姓支持が増えつつある中で、一部の頑迷な保守派があくまで主導権を握っていられた一つの背景に統一協会の存在があったのでしょう。

 自民党と統一協会は全国各地で「家庭教育支援条例」を推進しています。大阪府では維新の会が主導しています。その条例案を白紙撤回させた大前治弁護士は以下のように語っています(「しんぶん赤旗」921日付)。

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 家庭教育支援とは聞こえがいいですが、実際は家庭への介入です。いったん制定されれば、予算がつき、研修会やメール、文書頒布などで国や自治体の方針に沿った指導が行われ、考え方や個人の自由がしばられる危険があります。

 そのねらいは両性の平等をうたう憲法24条を否定し、男尊女卑や「産めよ増やせよ」など戦前回帰のような価値観の押し付けです。公教育の責任を放棄して家庭に責任を負わせ、忍耐と感謝を美徳として社会や政治への不満を抑える面もあります。

 大阪では「発達障害は親の愛情不足」とする条例案の非科学的な文面に批判が集まりました。最近は、条例制定の理由として「虐待防止」といっていますが根は同じです。くたくたになるまで働かされる労働環境や女性に育児や家事が押し付けられている現状に目を向けず、親の心構えで解決するとしています。

 保護者が早く帰宅するには、長時間労働の抑制や所得向上などの運動と要求実現が大切です。統一協会と自民党らがつくった条例を撤回させ、教育や保育の充実など家庭・子育て支援を行わせていきましょう。

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 まさに新自由主義の自己責任論と家父長制イデオロギーとの結合で、政治の無責任を免罪する策動だと言えます。これは憲法24条に家族保護条項を創設しようという改憲運動に結びついています。2012年の自民党改憲案にあり、統一協会や保守派全体の共通認識と言えます。その自民党改憲案では、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」と位置づけ、「家族は、互いに助け合わなければならない」という文言も追加し、個人の尊重を弱め、家族を集団として一体的にとらえているのが特徴です(「朝日」1025日付)。このような反動的方向ではなく、逆に24条の「個人の尊厳」が「個人の尊重」を定める13条とつながり、「両性の本質的平等」が、14条の「法の下の平等」とつながっている点を捉えて、選択的夫婦別姓や同性婚など今日的問題を発展的に解決する方向に憲法を活かしていくことが求められます(同前)。

 統一協会と保守反動勢力は性教育バッシングにも注力してきました。私は1970年に中学生となり、当時のテレビは盛んに、スウェーデンなど北欧はフリーセックスだと煽っていました。日本では婚前交渉の是非が真面目に論じられる時代に、我々ガキどもはうらやんでいたものです。ところが今では日本も事実上のフリーセックス状態です。ただ他の先進国と違うのは、日本ではまともな性教育がなくて、子どもたちは無責任で人権侵害的なネット情報などに無防備にさらされていることです。そこで性病や望まない妊娠、DV、アダルト動画への出演強要、等々、様々な性被害が蔓延しています。今こそ、包括的性教育が求められています。包括的性教育とは、自分や自分以外の人も大切にするという人権の尊重をベースに、月経や射精、性行為などだけではなく、健康や安全、性の多様性やジェンダー平等、家族や友人関係を含め、性を幅広く学ぶものです(「朝日」1029日付)。

 ところが統一協会は性教育バッシングで執拗な攻撃を仕掛けてきました。「行き過ぎた性交教育、家族破壊、国家転覆」などと歪曲し、実践する学校や実践者に電話、ファクス、抗議文などを送り、積み上げてきた性教育をやむなく中断させたのです(「しんぶん赤旗」1024日付)。こうしたバックラッシュの中で、学習指導要領に「妊娠の経過は取り扱わない」などと学習内容を制限する「歯止め規定」があります(「朝日」同前)。このように日本が性教育後進国にとどまり、青少年が性被害にさらされている責任は自民党や統一協会など保守反動勢力にあります。

 もう一度結論を言いますと、現在の統一協会バッシング状況を眺めているだけではダメで、彼らの危険性についてその反社会性だけでなく、政策そのものにまで踏み込んで世論を喚起することが必要不可欠です。それは自民党の政策の誤りにも触れることになります。そこまで追及しなければ、自民党=統一協会ブロックはやがて息を吹き返してくるでしょう。

 

 

          戦争の抑止力を考える

 岸田政権は自民党政権でも初めて、いわゆる敵基地攻撃能力(あるいは反撃力)の保有の検討を公言し、事実上その方向に邁進しています。軍事同盟下での常套句は、外交、話し合いだけではダメだ、それには力の背景が要る、強い軍事力を持つことが抑止力になるということであり、表向きは、強力な軍事力を使わなくていいんだ、持っていることで戦争を抑止するのだという理屈です。まともな外交をやらない連中が何を言うかと思いますが、そもそも抑止力とは軍事力を使うことが前提であり、軍拡競争を招くことで、意図しない軍事衝突の可能性が大きくなります。本来、戦争は急に起こるものではなく、政治的関係の悪化があり、そこで未然に戦争を防ぐ外交があり得るのですが、軍事技術の発展の中での軍拡競争の激化は偶発的戦闘の発生の危険性を増します。軍事力に頼る限り安全保障のジレンマは免れません。

 戦争を抑止するものは何かという問題で、古谷修一・早稲田大学教授(国際法)が興味深い問題提起をしています(「朝日」デジタル、1018日付)。これはもう下手に紹介するより、とにかく皆さん全文を読んでくださいと言いたくなる傑作ですが、とりあえず私なりに端折って紹介することとします。

 古谷氏によれば、ロシアのウクライナ侵略戦争において、「国家の戦争」から「個人の戦争」への転換が起こっているというのです。ロシア軍の残虐行為を戦争犯罪として国際法廷で裁きにかけるための動きが、早くも本格化しています。従来、戦争犯罪を裁くのは戦争が終わってからでした。ところが今回はすでに国際刑事裁判所(ICC)が動いています。

ロシア軍の侵攻には、二つの大きな問題があり、一つは、侵略戦争であること、もう一つは、ロシア軍が虐殺などめちゃくちゃなことをしていることです。どちらも容認できませんが、どうやら後者の方がより注目を集めているようです。世論が被害者と人権の問題に関心を持つようになったのです。

 ウクライナには、国連人権理事会も事実調査委員会を派遣し、刑事手続きを進めるうえで証拠集めもしており、その証拠は、最終的にICCに渡されます。したがって、プーチンを裁くうえで、法的な障害は何もなく、残るは、逮捕できるのかという物理的障害だけ、という状況になっているのです。

 現場の映像が見えるようになったことによって、世論がこれほど、被害者と人権の問題に関心を持つようになりました。ミサイルを受けて崩れたアパートの様子が実際に見える。亡くなった人々の遺体が実際に見える。みんなSNSに載っている。その映像を一般の人が見て、自分のところにミサイルが落ちたら、と考える。戦争を、国と国との戦いという抽象的なレベルではなく、もっと身近なものとして受け止めるわけです。「国家同士の戦争」という抽象的な概念にとどまらない情報が入ってきますから。遠い国であっても、子どもが殺された、家族が殺されたということに対しては、同じ人間ですから同情を感じます。戦争の可視化が世論を動かしているのです。

 ところが皮肉なことに、これが戦争の終結を困難にしています。戦場の非人道的様相を見て、戦争犯罪人のプーチンとは交渉できない、という「正義」があるので、「平和」を実現するために、清濁併せのんで妥協するのができなくなっています。これは、「正義」と「平和」との相克です。戦争が「人権問題」と化した世界では、妥協が難しい。それを世論が許さないのです。この「戦争の人権化」「戦争の犯罪化」というのは、戦争が国レベルの関係ではなく、人間関係のレベルで語られるようになったという意味では「戦争の個人化」とも言えます。

 「戦争の人権化・個人化」によって、ウクライナ戦争の終結はこのように困難になっていますが、逆にこれから戦争を始めることも難しくなっています。これで動きにくくなったのは、中国です。中国が台湾に侵攻した場合、それはもはや中国と台湾の問題ではなく、台湾にいる人々の問題となります。戦争で、軍事目標を攻撃した際に起きる民間人の巻き添えは、付随的損害として国際法上ある程度認められています。ただ、子どもや女性が犠牲になる映像が流れたら、もう「国際法では認められる」などと言っておれません。中国だけでなく世界中がそうなります。「戦争の人権化・個人化」が世論を動かし、それが戦争の抑止力になる時代が来つつあると言えます。人権を中心に据えた世界がすでに現れてきており、それが強化された新時代が来ると想像すると、希望が持てます。

 以上の古谷氏の所説に接して、想起したのが、前広島市長の秋葉忠利氏による<「核兵器を使わない」と、ただちに宣言して下さい!>という電子署名の呼び掛けです。これは核抑止力論を考えるに際して、人道的アプローチの重要性を改めて印象づける訴えです。さらに言えば「戦争の人権化・個人化」が戦争の抑止力になる時代を迎えて、「戦争の可視化」の威力を見事に体現しています。プーチンの度重なる核兵器使用の脅しに対して秋葉氏はこう叫んでいます。

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今回、「万一」プーチン大統領が核兵器を使ったとすると、その結果起きる「生き地獄」は、インターネットとドローンを通じて世界の人々が目の当りにすることになります。

 

それは、数十億の人々が広島・長崎で実際に起きた生き地獄を、大きな画面で長時間にわたって見続けることを意味します。その人々がどのような反応を示すのか、少しでも想像力が残っているのなら考えてみて下さい。

 

人々が悶え苦しみ死に至る阿鼻叫喚は、録画され編集された映像として残され、「プーチン大統領」のしたこと、「ロシア」のしたこととして永遠に語り続けられます。

 

プーチン大統領の言葉、「歴史上で類を見ないほど大きな結果」とは、プーチンという名前とロシアという国が未来永劫、人類全体から蔑まれ、厭われ、共存したくない存在としての烙印を押されることになるのです。

 

広島・長崎を知っている私たちは、ロシアがそのような存在になることを望んではいません。それ以上に、一人たりとも広島・長崎の被爆者と同じ思いをすることになってはいけ(ママ)ことを声に大にして叫びます。

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 現代の人類は核兵器使用の惨状をどのように目撃する羽目に陥るのか。「歴史上で類を見ないほど大きな結果」などという大言壮語をそれにふさわしい覚悟もなく発するプーチンへ、そして世界の人々にも向かって、秋葉氏は生き地獄のもたらすトラウマを生々しくぶつけています。核兵器廃絶への人道的アプローチ――人類を救う想像力がここにあります。それは核兵器禁止条約を採択・発効させる大きな力となりましたが、今、核兵器使用阻止に向け緊急発進しているのです。

 これまでも核兵器の使用を思いとどまらせてきたのは、被爆者を初めとする平和運動の力が大きいと言われています。たとえば1950年に採択され世界の人々に署名を呼びかけた、核兵器禁止を求めるストックホルム・アピールでは5億の署名が集められました。アメリカ合衆国国務長官などを務めたヘンリー・キッシンジャーは、「この運動のために朝鮮戦争で核兵器を使うことができなくなった」旨回顧録に記しています。現代においては、さらに「戦争の可視化」がもたらす「戦争の人権化・個人化」が世論を動かし、戦争の抑止力になろうとしています。軍事同盟と軍事的抑止力を絶対化した日本での世論操作に対抗する重要な拠点がここにあります。
                                 2022年10月31日






2022年12月号


          新自由主義批判の一典型を提示

友寄英隆氏は「『新自由主義』というイデオロギーの問題と、個々の具体的な経済政策としての『民営化』などの問題とを直結して考え」ることを戒め、「理論・イデオロギーのたたかいは、非常に重要だが、それは実践的な大衆運動、経済闘争や政治闘争のなかでの個別・具体的な政策論争と混同してはならない」として、「経済政策を検討するときには、そのイデオロギーで決め付けるのではなくて、その政策の具体的な内容や条件にそくして、厳密に検討・評価することが必要です」と指摘しています(『「新自由主義」とは何か』、新日本出版社、2006年、9597ページ)。

まさにそれを文字通りに実践し、様々な分野の民営化を一括して整理し、さらに民営化の経済的本質を明確化したのが、尾林芳匡氏の「自治体民営化はどこまできたか PFIの実態と『再公営化』への動きです。おそらく尾林氏は弁護士として眼前の案件を具体的に解決することに迫られ、その積み重ねの中で問題の体系的理解に達したのだと思われます。論文が言及するのは、保育所、市民プール、体育館、図書館、水道、学校給食、公園、病院、大学、学童保育など多様な分野です。

たとえば「市場化テスト」について、政府と財界が推進し、マスコミが無批判に海外事例集を報じるのに対抗して、「研究者に問い合わせて、諸外国の官民の競争入札の仕組みを調べ始め、海外の事例を現地に聞き取りに行ったりもしました」(92ページ)と書かれています。この責任感あふれる行動力に感服します。そうした地に足の付いた実践的認識の積み重ねが問題の体系的な理論的把握の土台にあります。

2000年代初めはまさに規制緩和万能論が支配し、郵政民営化なるものが拍手喝采され、小泉首相の解散総選挙=大ばくちを勝利させるという異常な時代でした(20059月)。後から見ると、彼は勝つべくして勝ったかのように思われていますが、実際には「改革」への「抵抗勢力」による自民党分裂の危機をはらむ情勢の中で解散総選挙を断行し、勝ったのです。体制側=新自由主義勢力からすれば、英断による大勝利であり、私たちからすれば、政治変革の機会を逸したということです。叩かれているとはいえ、今日も実質的には新自由主義の覇権が続いていますが、当時はそれどころではなく、国を挙げて熱病に浮かされている状態でした。

 そういう時代の気分に抗して、早くから準備を進めていた尾林氏は市場化テスト法制定(2006年)直後から批判できました。マスコミが新自由主義構造改革を礼賛する中での厳しい階級闘争・イデオロギー闘争だと言えます。それは以下のように展開し始めました。

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当初は、憲法の地方自治の理念に照らして批判していました。地方自治の本旨には住民自治と団体自治があり、自治体行政が実務を担っているからこそ、地方議会の審議が及ぶし、住民の意思が反映でき、基本的人権を保障する様々な施策が可能になります。これが営利主義に傾斜してしまえば、それは不可能になるということです。

                  92ページ

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 このように理念が提示され、その内容が説明されます。さらに進んで、民営化の経済的本質が次のように「様々な事例の集積の中で、裏付けられてい」ます(93ページ)。物的経費は、自治体運営と民営化後とでほとんど変わりませんが、後者では利益配当、役員報酬などの「利益」を確保しなければならないので、「必然的に人的経費が、おおむね3分の1程度に圧縮され」ます。これが「わが国の公共サービスの民営化の経済的な本質」です。したがって、「公共サービスの民営化は、必然的に、その現場の労働者に強度の搾取を持ち込み、働き手、担い手を非正規雇用に置き換えて、民間事業者が利益を確保していく特徴があ」ります(同前)。

 これを明らかにすることで、「行政が関与して民営化を進めることで、住民が主体的に自治体運営に参加できるといった、前向きな要素があるかのように語る」(同前)市民主義的な論調の誤りが暴露されました。そこでは、資本が民営化を推進するのは、それが「公共サービスの現場に、民間企業のような搾取強化を可能にする制度である」(同前)からだ、ということが看過されているのです。

 以上には、まず法的理念を提示し、それを指針に実践を積み重ね、そこから経済的本質の認識に至り、それがまた法的理念にいっそうの実在的根拠を与える、という理論と実践の好循環が実現されています。そこには、何事も憲法の理念から出発するという運動の正当性とともに、それをさらに深化させる運動の法則性が示されています。

 こうして民営化問題の核心に労働者の搾取強化が剔抉されました。それは「公共サービスの質と密接に関わる問題です」。「人件費削減の問題は、働き手の処遇の問題だけではなく、安全のための知識や専門性をもつ人員の確保がおろそかになり、利用者の安全を守る上で大きな問題であることを理解しなければなりません」(同前)と厳しく指摘されます。そこでいくつかの事例が紹介されていますが、特に2006年の埼玉県ふじみ野市で起きた市民プールの小学生死亡事件が象徴的です。事故前に客から注意喚起があったにもかかわらず、プールの安全監視員が高校生アルバイトで、プールの構造の基礎的な知識がなくて事故を未然に防げなかったのです。

 こうした事例は、その時々に単発的にニュース報道で接し、多分に偶発的事故として受け止められやすいのですが、事例の積み重ねの上に理論的解明を加味すれば、「民営化→働き手の搾取強化と公共サービスの質低下」の文脈の中に位置づけることができます。悲惨な事故を繰り返さないように教訓を引き出す上で、社会科学と運動の視点がいかに重要かが分かります。

 また論文は、地域経済の振興に対しても焦点を当てています。民営化では、東京に本社がある委託先企業に利益が集中する一方で、地域の労働者の賃金が下げられ格差を拡大します。本来ならば逆に公共サービスによって各地域に良質な仕事の場を確保することが大切です(94ページ)。ここからは、かつて大規模小売店舗の無秩序な出店で地域経済が衰退していく論理が指摘されたことが想起されます。他の様々な業種においても、本社のある東京への利益の一極集中が起こり、地域マネーが流出して、地域内経済循環が断ち切られる問題があります。その是正策として自治体が公共サービスを充実させることがきわめて重要です。

 続いて論文は、PFI・指定管理者制度・地方独立行政法人といった民営化の法制度の概要とタテマエ・実態などを説明しています。さらに自治体民営化の影響について、公立保育園・学童保育、図書館、自治体病院、都市公園、公有地の民間活用、樹木伐採など、具体的事例を検討しています。そうして、民営化を中心に新自由主義の虚像が暴露されていきます。

 民営化を含む新自由主義構造改革は市場至上主義で、自由で公正な競争によって既得権益を打破し、結果として「国民的利益」を向上させると喧伝されてきました。しかし実際には、上記のように、搾取強化=人件費削減で安全性を損なうなど、公共サービスの質低下を招いています。また現在のPFIは国の補助金に誘導されており、「新自由主義と言っても、民間に任せるという新自由主義の制度というより、公的資金を全体として縮小する意味では新自由主義的であるけれども、経済界や時の政権の意向に沿った事業には、特別に公的資金を投入して援助をするという、資金のバラマキとセットになっているのが特徴だと言えます」(97ページ)。公有地で営利事業を行なうのに補助金を出すためにPFIが検討・計画されています(100ページ)。地方独立行政法人もタテマエは「公共上の見地から行う重要な事務・事業を確実に実施するための法人と規定」されています。しかしその確実な実施のための規制はなく、「事業の効率化、リストラを義務づけた法律」(98ページ)となっています。各地で公園の樹木の伐採問題が起こっているのも、公園を営利企業に委ねることで、樹木管理の経費を減らし、その収益拡大が追求されているからです(101ページ)。

 市場化テストの競争入札では、行政部門の側は事業内容・人件費が情報公開されているのに対して、民間企業の側は人件費の中身は企業秘密とされ、コストが半分だからと勝ってしまい民営化が進みます。競争入札と言いながらまったく競争条件が不公平です(101ページ)。したがって、EUや英国では事業譲渡の際に労働条件の引き下げが許されないのに対して、日本では「民営化により人件費削減をはかり、担い手の非正規への置き換えをはか」っている状態ですから「事業譲渡の際の労働者保護の法規制がないままで市場化テストをやってはならない」(102ページ)と論文は主張しています。

 以上のように、新自由主義の下では、「市場の自由」の解放で経済的福利の向上というタテマエの下で、「資本の自由」(公共を食い物にし、搾取を強化する利潤追求第一主義)を推進して、公共性と人々の生活と労働を犠牲に、大企業の経済的政治的覇権を強化しているのが実態です。日本では批判もあるとはいえ、未だに新自由主義が支配的ですが、「世界中で民営化による公共サービスの低下、コストの上昇、労働者の処遇の劣化、環境保護はじめ様々な施策の後退といった問題が十数年にわたって指摘され続け」、「地方自治体として民営化路線の転換を掲げる勢力が議会の多数派となり、再公営化を実現している自治体もたくさんある」のです(102ページ)。論文は日本でもそうした世界の潮流に負けない先進的事例が各地にあることを紹介しています(102104ページ)。

尾林論文は、高度な専門性を持って現実問題の具体的解決にあたる弁護士が、その実践活動を通して、法のみならず経済も含めて包括的に理論化し、民営化問題を切り口に新自由主義への本格的批判を展開しており、理論的実践的に非常に重要だと思います。

 

 

          物価高騰への経済理論的アプローチ

 先月、「物価高騰を経済理論的に考察すべきところ」と書くだけ書いて終わっておりました。その課題に迫るのが松本朗氏の「非伝統的金融政策とバブル、インフレ 歴史と理論から読み解くです。これは貨幣・信用制度・金融政策などを原理的に解明して現状分析に適用しているという点で、主に物価上昇についての現象的分析から政策提言に直結する多くの論考とは趣を異にします。ただしたとえば、食料・資源エネルギー自給率や、サプライチェーン切断などを原因とする供給のボトルネックの問題などを直接扱っているわけではないし、現状分析としては主に米国を対象にしているので、日本が直面している物価高騰問題への総括的な回答になってはいません。しかし世界的インフレーションが襲い、日本にとっては輸入インフレが大問題ですから、基軸通貨国である米国を分析することは不可欠であり、生産と供給の問題を捉える前提として、実体経済と金融との関係を原理的に把握するために、貨幣・金融の基礎理論的解明もまた是非とも必要とされます。

 まずは迂回になりますが、日本の物価高騰と対策を大まかに捉えるために、Q&A記事「知りたい聞きたい 利上げでインフレ抑制できる?」(「しんぶん赤旗」1122日付)を見ます。そこでは、「金利を上げるとなぜインフレを抑制できるのか」という問いに対して、二つの効果として、「景気抑制による投資と消費の減速から来る物価下落」と「通貨高による輸入物価の抑制」とを挙げています。その他に、コロナ禍対策での都市封鎖とロシアのウクライナ侵略戦争とによる部品・食料・資源などの供給不足による物価上昇を指摘しており、これは利上げでは解決できません。そこで日本共産党の物価対策が以下のように打ち出されます。

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 現在の日本の物価上昇についても、総合的な対策が求められます。輸入物価を押し上げている異常円安の主因は日銀の超低金利政策です。賃上げを軸に実体経済を立て直し、マイナス金利などの異常な金融政策を正常に戻す展望を切り開かなければなりません。食料やエネルギーを輸入に頼るぜい弱な経済構造を転換し、国内供給力を高めるための産業政策も必要です。

 日本共産党は「物価高騰から暮らしと経済を立て直す緊急提案」(10日)を発表しています。その柱は(1)賃上げを実現する緊急で効果のある対策(2)消費税の緊急減税、社会保障と教育の負担軽減(3)中小企業・小規模事業者の大量倒産・廃業の危機を打開する抜本的な支援策(4)食料・エネルギーの自給率向上―の4本です。

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 上記では、金融政策として、円安是正に日銀の超低金利政策の転換を打ち出しつつ、物価対策の「緊急提案」の4本柱を提示しています。(1)(2)(3)は実体経済と財政についての当面する対策であり、(4)は実体経済上の中長期的課題です(とは言っても、政策の意識転換としては緊急を要する)。松本論文では、最後に金融政策だけでなく財政の役割の重要性にも触れられていますが、全体としては金融政策に考察を絞っています。だから緊急の物価対策という意味ではその一部に過ぎません。しかし現代資本主義のあり方とそれに対応した金融政策から物価問題の本質に迫っているので、具体的物価対策の議論の土台としてきわめて重要な意義を有すると思います。

現今の物価高騰の直接的原因として、円安・コロナ禍・ロシアのウクライナ侵略戦争などがすぐ浮かびます。しかしそのベースとしては、1980年代以降くらいから先進諸国で物価安定し、リーマン・ショックでの大規模な財政出動を含む金融危機対策にもかかわらずそれが継続し、コロナ禍とウクライナ侵略戦争で一挙に物価高騰に転じた、という大きな世界的流れがあります。松本論文によれば、これは現代資本主義の特性と、それに対応した経済政策(特に金融政策)のあり方、その変遷によって規定されています。そういう基礎構造・過程を分析すること抜きに、現今の物価高騰の原因を探っていては現象論にとどまり、今後の見通しが成りゆき見の行き当たりばったりになります。

論文は、管理通貨制度下での貨幣、信用制度、中央銀行、金融政策について原理的に解明しています。金本位制下とは違って、金兌換に支えられない分、預金と銀行券(近代的信用制度下のマネーの大宗としての信用貨幣)の信用を支えるものは、民間取引=信用取引の完全な履行と国家信用であり、信用貨幣がその価値を維持しつつ中央銀行に環流してくることが必要です(125126ページ)。

 管理通貨制度下では、中央銀行(最終的な決済手段である準備預金と銀行券を唯一供給できる)は、銀行制度の信用維持のため、準備預金制度下で民間銀行に必ず必要な資金を供給しなければなりません。中央銀行は資金需要に対して量的に受け身で対応せざるを得ませんが、資金供給の仕方を変えることで、金利を誘導させられます(126ページ)。したがって、「中央銀行の伝統的金融政策とは、短期金融市場金利を操作して金利水準を目標水準である政策金利に近づけることで、経済活動全体に影響を与えようとする政策だと定義でき」ます(127ページ)。

 それに対して、非伝統的金融政策とは、短期金融市場金利がゼロにまで引き下がった(ゼロ金利制約を受けた)時に、中央銀行預金の増額や資産の買い入れ、さらにはフォワードガイダンス(中央銀行が金融政策の先行きについて示す指針)によって、量的に、また直接に中長期金利に働きかけることで金融緩和を行う政策と定義されます(128ページ)。――ただしポール・ボルカーFRB議長時代の1979年の新金融調節方式は、逆にインフレ終息のための金融引き締め策なのでこの定義から外れるが、政策目標を金利でなく、準備預金量に置くことから非伝統的金融政策とする見方がある(129ページ)――

 1980年代後半以降、一般物価が安定し、資産価格が膨張する金融化の時代となりますが、両者には相関関係があります。金融肥大化の中で供給・創造された通貨は支払手段として資産市場に吸収され、直接的な購買力として流通局面に現われません。また過剰に供給され資産市場に流れたマネー(支払手段)は、過剰流動性として流通部面に出る前に、バブルの破裂(資産市場の価格の暴落)で整理されます。実体経済の成長率の鈍化も物価低下の原因の一つです。資産市場の拡大は民間の信用創造を実体経済に向けずに資産市場へ誘導し、実体経済の停滞は国民経済のマネー需要(特に流通手段・購買手段への需要)の鈍化を意味します(130131ページ)。

こうして、実体経済の停滞と資産市場の拡大という対照的かつ相補的な状況は、景気動向に新たな事態を生み出します。資産市場でのバブル膨張が景気下支え要因となる資産効果です。バブルの発生と崩壊が国民経済を左右するバブル・リレーが発生し、バブル破裂への対処が政権の課題となり、中央銀行の金融政策のターゲットの中心も資産市場価格の動向に移ります(131132ページ)。

 2008年のリーマン・ショックはこの状況下で最大の金融危機であり、貨幣恐慌です。各国政府はなりふり構わず財政出動し、中央銀行は国際協調で莫大な流動性供給を実施しました。にもかかわらず、物価は安定していました。その理由として以下の3つが挙げられます(136137ページ)。

1.資産市場で棄損した債権価値への救済的な流動性供給で、債権債務が両建てで消滅。

2.資産市場で不良債権が償却された。

3.残存した債権債務は購買力として流通市場に流出せず、支払準備金として市場にとどまって物価上昇要因にならなかった。

 →3.の理由 1.金融化で肥大した資産市場が支払手段としての流動性の受け皿になった。

       2.国民経済の再生産を脅かす供給のボトルネックが起こらなかった。

(米国の場合、基軸通貨特権で外貨準備の制約なく財の輸入が可能)

 政策的対応としては、バブルが破裂した直後には流動性供給で資産市場価格の暴落と連鎖的な信用不安を抑え、事態の沈静化とともに資産市場を通した景気浮揚策を図りました。これは、資産市場の膨張が経済を支えるという構造に変化した世界経済における経済政策と言えます(137ページ)。

 しかしコロナ禍とロシアのウクライナ侵略戦争開始が転機を画します。論文は米国を対象に経済実態と財政・金融の動きを追います(138142ページ)。当初、コロナ禍は実体経済の収縮にともなう実質的な物価下落をもたらし、政府はかつてない規模と範囲で財政・金融の両面からテコ入れします。トランプ政権は22000億ドル財政支出し、FRBはゼロ金利政策に復帰し、巨額の資金を供給しますが、M2は急増せず、物価上昇率も213月まで低位です。その一方で、貯蓄率と資産市場価格は上昇しています。つまり人の動きの強制的な抑制下でも資産市場は拡大し、支払手段と蓄蔵貨幣が積み上がり、過剰流動性をインフレ・マネーとして市場に流出することを抑止しました。しかし214月以降、貯蓄率は傾向的に減少し、物価は上昇し始めます。貯蓄と資産市場にとどまっていた過剰流動性が購買力として放出されたのです。他方で、世界的な経済活動抑制が供給のボトルネックを生じさせました。したがって、流通必要貨幣量が増えていない(というか減っている)にもかかわらず過剰流動性が購買力として放出されたので、通貨価値の下落=インフレが発生しました。

 22224日には、ロシアのウクライナ侵略戦争が始まり、エネルギー中心に世界的物価高騰が生じました。物価上昇要因が22年初を境に転換しました。コロナ禍においては過剰流動性の購買力の放出が中心ですが、22年以降はそれに戦争に伴うエネルギー・食料など供給のボトルネックが加わります。供給面でのボトルネックは金融化の下で、金融資本による投機的な要因を呼び起こし、資産バブルが実体経済における価格騰貴に直接つながります。そこでFRBは資産圧縮と金利の大幅引き上げの継続を決定し、資産市場における金融資本の動きに強力な金融引き締めで対応し、物価高騰を押さえ込む意図があると思われます。なお、利上げと物価高騰抑制との関係について、コロナ禍やウクライナ侵略戦争による供給制限に対して利上げでは解決できないと私は前記しました。それは間違いではありませんが、上記のように、供給制限下で生じうる投機的要因による価格騰貴を利上げで抑制するという意義はあります。

 これについて論文は、FRBの方向を、非伝統的金融政策からの離脱と金利政策(伝統的金融政策)への回帰と見ています。しかしさらにインフレが進めば、ボルカーのような量的目標を置く金融政策に変更するかもしれません。すると実体経済へ急速な収縮圧力がかかる可能性が高いと指摘し、過度に金融政策に依存するのでなく、政府との連携で「出口」を見いだす必要があると結論づけています(142ページ)。これは後に見る日本の問題につながります。

 論文は「結びにかえて」で日本経済の問題を扱っています。そこで興味深い指摘があります。二国間で、金利差と物価上昇率差とがどう交錯して作用するかについて、次のように一般的に考察されています(143ページ)。国内経済の低迷と資産規模拡大の中で、二国間金利差が広がれば、低金利国から高金利国へ資金が移動し、低金利国の為替相場は下落します。高金利国が基軸通貨国であれば、自国のインフレは世界的なインフレの原因になります。本来、物価上昇の低い国の通貨は高い国の通貨に対して切り上がるのに、金利差によって逆に切り下がるとなると、為替相場が自国通貨の防波堤にならず、他国の物価上昇を加速して呼び込むことになります。つまり、現今の円安は日米金利差から生じていますが、それは米国の物価高騰を加速して呼び込んでいるというわけです。

 上の指摘に先立って、米国の金融政策において、さらに物価高騰が進んだ場合、ボルカーのような量的目標を置く金融引き締め政策に変更すると、実体経済へ急速な収縮圧力がかかる可能性が高いと警告されています(142ページ)。日本についても同様に警告されますが、インフレ論としていっそう深めた叙述となっています。――いったんインフレは物価を上昇させますが、それは引き下げられた通貨価値=上昇した物価水準で国民経済が再生産活動を行なっていることを意味します。この物価水準をある一定のレベルまで引き下げれば、実体経済に急速な収縮圧力がかかります(国民経済全体の流通貨幣量を縮小させる、142143ページ)。――

 ここではいったん供給のボトルネックの問題などは捨象して、通貨の減価による全面的な物価上昇=国民経済の名目的膨張下において、その(減価した通貨による)物価水準で再生産が成立していることが指摘されています。この一種の均衡成立状態から、物価水準を無理に下げれば、その時点では再生産が破壊される=実体経済に急速な収縮圧力がかかる、ということになります。もちろんここでの物価上昇の「名目的」変化という性格に着目すれば、物価を押し下げても、それが全面的に波及する時間的経過の中でやがて経済実体そのものは(増価した通貨による物価水準で)復旧するとは言えましょうが、それでは生きた人間生活や日々の経済実態にはそぐわないということになります。

 俗にデフレと呼ばれるバブル破裂後(ほとんど今日まで)の日本経済低迷期には、通貨不足による名目的な物価下落ではなく、実体経済の収縮による実質的な物価下落が生じており、賃金上昇などによる内需拡大をテコとした再生産の拡大が求められました。松本論文によれば、コロナ禍後の米国では過剰流動性が金融市場から流通過程に押し出されてインフレ(国民経済の名目的膨張)が生じているので、無理な金融引き締め策で実体経済の急速な収縮を招くことは避けるべきと考えられます。日本では、食料・資源エネルギーその他の供給不足があり、世界経済からの上昇した輸入品価格が円安で増幅される状況なので、国内的には実質的な物価上昇となっており、まずそれぞれへの対策が求められます。急速な円安をまねいた異次元金融緩和を終わらせるには、財政と実体経済の改善を同時に進めソフトランディングする必要があります。また米国と同様なインフレがあるのかどうかは分かりませんが、無理な物価下落の追求で実体経済の急速な収縮を招くことを避けることは同様に必要だと思われます。

 日本の場合は、長らく続いた物価低迷期も、今年からの物価上昇期も賃金の低迷は一貫しており、それが経済構造の最大の弱点となっています。食料・資源エネルギーの自給率向上を初めとして、先端産業・地場産業のバランスある発展など、供給力の向上で円安=日本売りを克服する中長期的課題はもちろん大切ですが、賃金上昇や社会保障充実を核とする分配政策の抜本的改善が喫緊の課題です。

 閑話休題。論旨が散漫になってきました。先述のように、松本論文では管理通貨制度下での貨幣・信用制度・金融政策などを原理的に解明し、金融化における実体経済と金融市場との関係を踏まえて現状分析を展開しています。その上で、1980年代後半以降の物価安定と今世紀に入ってのリーマン・ショック、コロナ禍、ウクライナ侵略戦争での変容・激変をそうした分析枠組み内に位置づけています。それは、眼前に展開する深刻な物価問題を資本主義経済の本質的把握から解明する試みとして、当面の政策論にも、大きく言えば未来社会論にも通底する重要な意義を持っていると思われます。

 なお勉強不足なので印象として述べる程度のことですが、一つ付け加えます。松本論文では、信用制度の発展として、金本位制から離脱し管理通貨制度が確立していると見ているようなので、マルクスが金本位制下で本質的に解明した貨幣論・信用論の規定が延長して管理通貨制度においても適用されています(*注)20世紀初めの世界大恐慌などを契機とする金本位制からの離脱と管理通貨制度への移行、そして管理通貨制度下においても、1970年代初めのドル危機によるIMF固定相場制の崩壊から変動相場制への移行という二つの断絶を私は重視してきました。両過程は、それぞれインフレーション的蓄積化とカジノ化=金融化の画期をなし、資本主義の腐朽性と寄生性を拡大してきました。そこで二つの移行を資本主義の断絶的「発展」(人類史的には退行・反動)として捉えて、金本位制、管理通貨制度・その中でも変動相場制について断絶面を強調してきました。ただそうすると管理通貨制度以降について、金本位制下での本質論に匹敵する理解を提出できなければ、現象論的把握に終わる可能性が出てきます。松本論文におけるマルクスの貨幣論・信用論の現代資本主義への適用は、資本主義の土台をなす貨幣・信用制度の移行について、私にとってはその発展と断絶に関する見方の再考を促すものと思われます。

 金本位制に復帰することはあり得ないでしょうから、これからどうなっていくのか。現代資本主義では金融化によって、実体経済が金融に振り回される状況であり、疎外の深化が進んでいます。利潤追求の中で貨幣・信用制度の暴走によって、人間の生活と労働が破壊される関係を止揚し、人間が貨幣・信用制度を本当に管理し、やがて社会主義経済(その姿は見通せないが)へつなげていくものへと、管理通貨制度を発展させることが求められます。

(*注)

 貨幣恐慌時の最終的な支払手段について、通常、マルクスはそれを金と見なしていたとされるのに対して、論文では、『資本論』から「貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない」と引用し(134ページ)、現代においては、国家信用が安定している場合、準備預金および銀行券を頂点とする決済システムの安定性が維持されていれば、銀行券と中央銀行準備預金は最終的な支払手段になりえる、としています(135ページ)。金本位制下での規定を現代の管理通貨制度下での現象理解に適用しています。信用制度の発展という見地からの説得力ある説明かと思います。国家信用や決済システムの安定の決壊の可能性はどうなのか、という問題は残りますが…。

                                 2022年11月30日




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