月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2005年)。 |
2005年1月号
IBMがパソコン事業を中国の聯想グループに売却すると発表しました。聯想は本社を北京からニューヨークに移します。先行きに対しては厳しい見方もありますが、「中国経済全体の勢いを象徴し、時代の節目を浮かび上がらせてもいる」(「朝日」夕刊12月8日)ことは確かでしょう。
ところで河村健吉氏の「雇用の変化と企業年金」によれば、IBMは終身雇用の代表的な企業であり人材の内部育成に費用を惜しまず一度もレイオフしないことを誇りとしてきました。しかし1994年に創業以来はじめてレイオフを行い、95年には企業年金も改悪しました。IBM労働者の有利な条件は独占的企業の地位によってもたらされてきた側面があり、それが崩れてきたことは直接的にはIBMの経営戦略の失敗による業績悪化が原因ということでしょう。しかしこのような企業間競争によって、IBMのみならずアメリカ全体(というか世界)の労働条件は悪化しています。つまり全体としてこの結果を見れば、各企業の労働条件の悪化は、その経営上の失敗が根本原因ではなく、労働条件の劣悪化(労働に対する資本の支配力の強化)を競うような企業間競争から生じていることがわかります。本来、労働運動が強力であればそのような企業間競争は許されないはずだということからいっても、個々の企業での労働条件の悪化は、企業経営の失敗の結果のように見えても、その基盤には資本=賃労働関係全体の劣悪化があるというべきでしょう。総資本による総利潤の分配競争の激烈さはいかにも鮮やかですが、総資本が総労働から総剰余価値を搾取する隠れた過程こそが元本を形成しているのです(平均利潤=生産価格範疇の底に剰余価値=価値範疇を見る)。
今日の資本=賃労働関係の劣悪化は、冷戦終結後の「市場拡大の時代」としてのグローバリゼーションの賜であり、「生産と消費の矛盾」の新たな展開をもたらしています。旧社会主義圏と発展途上諸国の資本主義世界市場への包摂、資本主義諸国における民営化の進展、人々の家庭生活の内実の希薄化と市場依存の増大などが、外延的・内包的な市場拡大の時代を形成してきました。多国籍独占資本は先進国の高度な技術と途上国などの低廉な労働力を結合して大競争を繰り広げ、先進国では産業空洞化を惹起しました。こうして「市場拡大の時代」は同時に「リストラの時代」です。つまり「市場拡大」は新たな労働力の創出だけでなく低廉化と失業を伴うのだから、多国籍独占資本は世界市場全体では強蓄積を実現しても、先進国では労働者所得の停滞=市場縮小圧力を受けることになります。もちろん多国籍独占資本は国民経済に責任を持つわけではないのでそれはかまいません。日本でもたとえば「中国特需」で企業が潤えば、勤労者の所得が減少したり、社会保障がどんどん悪化して人民が苦しもうといいわけで、とにかくどこであろうと強蓄積への投資環境が整うことが大切なのです。
こうして「市場拡大」によって「生産と消費の矛盾」は先送りされつつ深化しており、特に日本資本主義においてはバブル崩壊後は人民にとっては浮上することのない長期不況が続いているのです。福祉の市場化を進めても人民にそれを買える所得はありませんから「官から民へ」の「構造改革」は経済を活性化させずに社会不安を拡大しています。「市場拡大」と「所得縮小」の矛盾を外需で糊塗する国民経済に未来はありません。
陸が縮小し海が拡大して小舟が大挙して漕ぎ出してきたけれども、水質は悪化して元からいた船たちは痛みがひどく下手すれば沈んでしまう。いくら海が広がっても船が小さかったり、故障していたら、それに水質も悪かったら、海の幸は十分には取れない。船員を休める陸のスペースにも余裕が必要だろう。
世界が一つの市場に結ばれるのは必然でしょうが、社会的セクターを野放図に市場に開放するのはやめねばなりません。ILOに結集してディーセント・ワークのグローバル・スタンダードを形成することも必要です。このような方向は、無秩序な「市場拡大」によって「生産と消費の矛盾」を糊塗するのでなく、世界人民の生活向上でそれを調整する道ですが、資本の論理には反することなのだからその実現は困難であり、圧倒的多数の人々の支持の結集こそがカギとなります。
ここで最初に返ると、アメリカ資本と世界市場に挑戦した聯想は中国の看板は背負っているかもしれませんが、社会主義の看板を背負っているわけではないでしょう。中国経済は途上国としての低賃金を武器に世界資本主義を席巻しており、それは確かに現在の国益にかなった行動です。しかしこれからますます世界経済内に占める位置が大きくなってくれば(すでに現在でも購買力平価のGDPでは日本を抜いている)途上国を卒業した「社会主義国」としての真価が問われることになります。没落しつつあるアメリカ帝国主義の跡目をそのまま襲うのか、それとも世界資本主義の秩序に楔を打ち込んで人々の生活向上を目指せる新秩序への転回を果たせるのか。20世紀には「21世紀は日本の世紀」などといっていたけれども、もはや世界の覇権国としての野望は消えたかに見える日本資本主義にあっても、私たちは後者の道を選ぶべく、中国初め東アジアをにらみながら国民経済の再建を目指さねばなりません。
憲法九条をめぐっては当面の課題と根本的な理論問題とに関心があります。天皇制などの問題があるとはいえ、進歩的改憲はまったく問題になりえない現在、米日支配層による明文改憲を阻止することが私たちの絶対的課題です。この頃では「護憲」という言葉は時代遅れとかダサイとか思われているらしく、たとえば「活憲」などといいます。ただ守るのでなく活かそうという気持ちは分かるのですが、私たちの直面する課題の厳しさを直視する立場からすれば散漫な印象は免れない。むしろ憲法を「墨守」するというのが私たちの課題を厳格に限定する正確な言葉ではないかと思います。解釈改憲の問題も当面は保留です。改憲には反対だけど自衛隊も安保も賛成というのが「護憲」派の中の多数派でしょう。これは事実上、解釈改憲派ですがこの人々が明文改憲に行かないことが今重要なのです。自衛隊が日本軍として米軍とともに侵略戦争に行く(すでにイラクで半歩踏み出しているが)自由を確保するのが明文改憲の目的であり、それを防いで軍国主義化を阻止するのが私たちの最小限目標でしょう。課題は狭く仲間は広く。
余談ながら「墨守」というのは今日では守旧とか頑迷というニュアンスを込めて否定的に使われることが多いのですが、その語源は中国古代の墨家教団の思想と実践に由来します。墨子の思想として「非攻」「兼愛」などは学校で習った人は覚えているでしょうが、戦国時代にあって彼等は空想的にそれを唱えただけでなく、それを実践すべく、強国から侵略される小国の城を実際に堅く守り抜いたのです。これが「墨守」です。墨子は工人であり、その教団は戦国時代最高レベルの軍事技術者集団でもあったのです。ここから現代日本の私たちとして、専守防衛の線で憲法を理解するという考えも出てくるかもしれませんが、それは墨子の実践に対する教条主義であって、その精神を真に継ぐものとは言えないでしょう。戦乱の絶えない戦国時代にあって「非攻」「兼愛」を実践する道は「墨主」しかなかったのですが、曲がりなりにも平和を維持してきた私たちとしては、世界と東アジアに着実に進みつつある反戦平和の流れをいっそう強化するために憲法九条の完全実施を目標として堅持することが大切です。護憲の裾野は薄く広く保持しながら、その核心の部分では原則に堅く情勢に柔軟に対応していくことが私たちの「墨守」かと思います。
参考:酒見賢一『墨攻』(新潮文庫 1994年) これを原作とした同名のコミックもある
理論問題としては、日本国憲法の非武装平和主義を科学的社会主義の見地からどう捉えるか、ということがあります。戦前日本の科学的社会主義の正統派である講座派理論は当面する課題としてブルジョア民主主義革命を展望し、残念ながら日本革命は起こらなかったけれども敗戦と戦後改革によって、その課題は基本的には達成されました。以後、科学的社会主義は戦後民主主義とその法的表現である日本国憲法とともに歩んできたといえます。少なくとも戦後政治の大道の中にあってはそうです。日本共産党が社会党とともに護憲勢力の中心であったということはその証拠となります。
ただし理論的には、日本国憲法といえどもブルジョア憲法の一種であって、矛盾をかかえており、その非武装平和主義についても、通常のように、理想主義的な法イデオロギーから演繹するのは科学的とはいえません。「法規範のうち制定法のみを重視しているのが法実証主義であり、法規範を指導する法イデオロギーとしての法理念を重視するのが自然法学派であり、法規範のうち慣習法、慣習、その社会的存在形態を重視するのが法社会学である…(中略)…マルクス主義法学は、これらの一面性を克服して、法の諸要素をあきらかにしながらそれらを再構成し、法現象の全体像を再現しようとする。と同時に、それが上部構造として、土台とどのような関係にたつか、他の上部構造の諸部分とどのような関係にあるかをあきらかにしようとする」(長谷川正安『新法学入門』109-110ページ)。九条をめぐる本格的論戦の深化においてはこのような原則的見地が必要ではないかと思うのです。護憲勢力の中に現憲法に対する理想主義的聖化が生じるのは運動のパトスにおいてはプラスに作用しますし、理想を掲げることは現状追随主義への痛打ともなります。しかし現憲法への「理想主義的空論」という「現実主義」からの批判に対して観念的にでなく反論していくには、憲法を冷静に突き放して見る視点も必要です。もっとも、「現実主義」と自称する議論は実は「力崇拝」というイデオロギーから生じているのであり、平和主義を観念的イデオロギーとして攻撃する資格はないのですが。九条の現実性をめぐる議論は実際には具体的な政治論として展開されており、それが一番説得力を持ちます(たとえば、松竹伸幸「9条には世界を変える力がある」『前衛』1月号所収)。それだけでなく法の問題としても九条を科学的社会主義の見地から基礎づけ、様々な情勢の変化をも貫く護憲の立場を固めたいのです。市場経済の形成に基づく、自由・平等・無差別の市民法の生成が平和的秩序を求める理念に結び付き、資本主義的搾取と暴力の時代の底辺をも生き延びて市場社会主義の時代に開花する、という図式が浮かぶのですが、経済主義のつまらぬ産物でしょうか。
上記のこととも関連するのですが、日本共産党は戦後長らく中立自衛の政策を掲げ、従って将来的には自主防衛のための改憲という立場でした。ところが80年代くらいに将来にわたっても九条堅持の立場に変わりました。勉強不足でそのあたりの事情はよく知らないのですが、このような重要な政策変更についてまとまった論文が出されたということを聞きません。「プロレタリアートのディクタトゥーラ」や「資本主義の全般的危機論」と比べれば一般の人々の関心は高いはずの重要な問題であるにもかかわらず…。ロシア革命や中国革命は帝国主義の包囲の中で行われ、内外の反対勢力から革命を守るため軍隊は必要でした。従って少なくともレーニン以後の科学的社会主義の理論には非武装平和主義は現われ難かったことが日本共産党の戦後の政策にも影響したのだと思います。今日では九条の現実性は高まっており、同党の政策変更は妥当だったと思いますが、これを科学的社会主義の理論史の中にどう位置付けるかは残された課題ではないでしょうか。
「<シンポジウム>阪神・淡路大震災10年の教訓」は、このシンポジウム直後に起きた新潟県中越震災への見方にもそのまま通じるような先見性に満ちた内容となっており、生きた社会科学の威力を実感させます。神戸市などで立派な施設が建っていることなどからはいかにもきらびやかに復興しているように見えますが、自殺・孤独死・借金苦等々と人々の生活の復興はまだまだの状況であり、このような復興の光と影・二極化は外面的には見えてきません。これをもたらしたのは新自由主義路線であり、復興の過程にも二つの道の対決が貫いています。生活の復興を軸にした路線としては、たとえば、中小零細業者に資金援助をして営業を再開させて人々のにぎわいを取り戻し、地域内資金循環を確立して下から地域をよみがえらせる、というようなものが考えられます(168ページの発言から)。空港や新しいビルと比べればいかにも地味ですが、このほうが内実ある復興といえるでしょう。池田清氏が紹介している渡辺洋三氏の「人権としての財産権」(自営業者の場合は所有と経営と労働が一体となっているので、その財産権は生存権として位置づけられるという法理論)はこの路線の理論的基礎として注目すべきものです。この真の復興を実現していくために、先進的な研究があり、地域の人々の実践がありますが、その上に「被災自治体のトップの役割、責任が決定的に重要」(172ページ)となります。片山義博鳥取県知事は勇気を持って国の立場に反して被災者への個人補償を実現し偉大な先例を作り上げました。知事の次の言葉はまさにそうしたトップにふさわしい人間的感性を表わしたものであり深く感動しました。
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「災害復興にあたって何がいちばん重要かと問われれば、できる限り元どおりにすることに尽きる。よく大火があったり地震があると、この際とばかりに今までできなかったまちづくりをしようと区画整理や再開発を計画したりしがちだが、私はそれは間違っていると思う。住民がうちひしがれている時に行政による二次災害になるようなことはすべきでない。災害があると一○○年後を見通して創造的なまちづくりをしようというのはやりやすい。だからついつい行政はやってしまう。一○○年後には目の前の被災者はいない。復興は一○○年後の人のためにするのではない。今ここにいる困窮している人たちのためにするべきである。区画整理や再開発は平時に考えればいい。また数千億ものお金がかがる空港建設などはいったん棚上げしてでも、目の前の被災者を救済することが大事だと思う」(163ページ)。
2005年2月号
従軍慰安婦問題の番組をめぐって自民党有力政治家からNHKに圧力がかけられた事件について、民放のある番組で、大谷昭宏氏が熱弁を奮っていました。NHKが事実上の事前検閲を許したことについてジャーナリズムとしての資格が根本的に問われている、という誠にもっともな主張でしたが、それに対して同席していたコメンテーター(名前は知らない。確か弁護士だと思う)が食って掛かっていました。いわく、NHKは視聴者から料金を強制徴収しているのだから番組内容に干渉されてもあたりまえだ、自由に作りたければ自前で資金を集めるべきであり、そうしないで干渉するなというのは甘えた大学生と同じだ…。こんなのが弁護士で、しかもテレビの報道番組のコメンテーターをやっているのだから恐れ入ります。経済的に自立していないものは政府から干渉されても仕方がないということらしい。憲法にもそう書いてある、とか(そんな条文どこにあるんだ)。そうすると生活保護を受けている人は政治的発言なんかしてはいけないんだろうなあ。大学生や貧乏人に基本的人権なんかないんだ…。肝心なことを忘れていた。視聴者から料金を徴収しているのなら視聴者に対して責任を持つべきで、自民党や政府のご機嫌をとる必要はないのだけれども、このコメンテーター氏には公共性とお上との区別がつかないらしい。
従軍慰安婦やジャーナリズムの問題などについてはここでは措いて、経済に関連したことに触れます。放送の独立とか個人の政治的自由とかが普遍的に認められるべきことは、少なくとも建て前上は世間的にも広く浸透しています。このような法イデオロギーの定着状況下においては、今回の問題に関してコメンテーター氏の議論がまともに相手にされることはないでしょう。しかしここには経済主義者の発想の典型があり無視はできません。経済の現実から出発すると称して「経済力のないところに自由はない」とすれば、社会権はもちろん、自由権に至るまで、その「空想的理想主義」を批判し、当然のことながら日本国憲法を攻撃する立場になります。新自由主義的現実主義の暴走はそういう方向性を持っているのではないかと危惧しています。
もちろん史的唯物論の立場であれば、特定の法イデオロギーを前提して経済主義・生産力主義を批判するということではなく、やはり経済的土台から自由や人権を説明してその上で経済主義・生産力主義を批判せねばなりません。商品経済の発展が独立した経済主体を確立し、そうした経済力のあるところに自由の法規範が一般化したことは事実でしょう。その際に、あらゆる経済主体が自由・平等・無差別に扱われることによって商品流通の効率が向上します。いったん自由・平等の法規範が定着すれば、経済的弱者にとっては弱者故に無視されたり不利益をこうむるという法的扱いがなくなります。何でもケースバイケースの力づくでいちいち解決するという前近代的無法に対する市民法の普遍主義の進歩性がここにあります。もちろん他方では「領有法則の転回」によって自由・平等の市民法はそのままで不自由・不平等の搾取の麗しい外被ともなります。
経済実態と法規範との間には常にズレが生じますが問題はそれをどう調整するかです。ここに対決点があります。経済主義の究極の姿は、市民法の自由・平等の原則さえも取り払って力づくの前近代的無法を押し通すことであり、現実にも大企業と下請けとの関係にそれは現われています。ここでは社会権などは問題外の世界です。我々は逆にこのズレを人民の利益の立場から考えていかねばなりません。そもそも生存権・労働権といった社会権が登場してきたのは市民法と搾取の現実との矛盾からでした。この場合は、人民の利益をある程度反映して法規範が経済実態に対して折れることで、資本主義国家は矛盾した法体系(市民法と社会法)をあえて抱えることとなりました。逆に市民法については弱者保護に役立つ限りでは経済実態を法規範に合わせるように運用することが必要です。
このような抽象的な議論ではなく、河相一成氏の「憲法と経済民主主義」では国家主権と主権在民の観点から日本経済の現状が具体的に批判されています。その中で、やはり抽象的な議論になって恐縮なのですが、憲法一三条について「生命、自由、幸福追及を充たすことを国に要求する権利を国民が保有し、国はそれに応える義務があることを規定したもの」(172、173ページ)と、きわめて社会権的に解釈されているのが注目されます。一三条については以前に実に生き生きした解説に出会ったことがあります。
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「いじめられる者が悪い」などというとんでもない考え方があるが、憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とは、そういうことを言っている。
堀田力「憲法違反な人」 「朝日」夕刊2001年5月1日
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市民法が支える伸びやかな社会像が浮かんできます。これに関連して私としては、「個の自立」ということを「市場に投企する強い個人」という意味でなく、「市民的連帯に支えられて自己の意志を貫ける個人(弱い人かもしれない)」という意味と考えました。これはあくまで「市民社会」次元での課題ですが、さらに進んでは河相氏のように社会権的に解釈し、様々な個人が尊重される社会をつくる国の義務にまで及ぶことが必要かもしれません。
法学的にそのような解釈が妥当なのかはわかりませんが、ここから敷衍して、その起源とは逆に社会権から出発して自由権をも生活を守る観点から見直し活用していくのが、経済主義とは反対の人民の経済学の観点からの読み込みではないかと思います。この点では先月も紹介した、渡辺洋三氏の「人権としての財産権」(自営業者の場合は所有と経営と労働が一体となっているので、その財産権は生存権として位置づけられるという法理論)が改めて注目されます。
社会権とくに生存権の保障が国家の義務とされるのは、ほとんどの人々が社会保障制度に頼らなければ生活できない資本主義経済の現実からの要請ですが、そうした現実の究極の根拠は資本主義的搾取制度にあります。労働力の価値をこえる部分(剰余価値)については資本に処分権があり、社会生活上不可欠な共同施設などの建設と運用については労働者の支配権限は及ばず国家権力を通じて資本に負担を求めることになります。しかも労働力の価値そのものの確保が常に脅かされています。従って第1に剰余価値部分をいかに人民に有用に使わせるかが国家財政をめぐる対決点となります。第2に、労働力の価値そのものも直接的賃金だけで保障されるわけではなく、企業内福利と社会保障制度への企業負担が不可欠であるため、広い意味での賃金闘争は国の制度をも巻き込まざるを得ません。社会権から出発して自由権をも活用して生活を守ろうとする場合、このように出発点において国家のかかわりが大きいわけですが、しかしその根底にあるのは資本による社会的再生産(労働力の再生産を含む)の問題点であり、国家の登場はその結果であるといえます。これに関連して、上瀧真生氏の「総額人件費管理と労働者生活」は賃金の原理から最新の年金問題にまで一貫した科学的方法で考察した力作であり、十分に検討したいのですが、時間がないのでいくつか気付いた点について述べます。
論文では労働者の世代的連帯をテーマにしているだけに、直接賃金だけでなく企業内福利や社会保障給付にまで広げて、労働力の再生産(本人だけでなく世代的なそれを含む)を分析できる枠組みを確保しています。これは財界が総額人件費管理という彼等としてきわめて自覚的な階級的対決点を提起してきたことを十全に受け止めた正確な理論的対応といえます。また論文では、歴史貫通的な世代的労働力再生産の原理を確認しつつ、それが資本主義では賃金の運動という形態を受け取ることが明らかにされています。しかしそこでは賃金=「労働の価値」という転倒したイデオロギーによって、賃金が労働力の価値以下に抑えられ、状況によっては労働力の価値そのものが低下させられることがあわせて指摘されています。ここからは、資本主義は賃金抑制により、労働力の世代的再生産の歴史貫通的基礎を破壊する傾向をもつことが示唆されているといえます。つまり賃金抑制による個々の労働者生活の困難はそれにとどまらず社会的再生産の困難に導くともいえます。財界の総額人件費管理はまさにこれを加速するものであり、その御用を果たすべく、価値論が欠如し転倒したイデオロギーに基づく経済学ともども日本の国民経済を危機に陥れている元凶です。「社会が危機に瀕している時には、未来に対する希望も期待も失われている。未来への希望も期待も感じられない日本の社会が、『危機』に瀕していることは間違いない。危機に瀕している社会は、新しいヴィジョン、つまり新しい社会の目標を必要としている」(神野直彦「『三位一体』改革の真のシナリオとは?」25ページ、『世界』2005年2月号所収)という神野氏の言葉はその文脈とは別にしても、ここにもぴたりと当てはまります。資本の生き残りのため人間をコストとしか意識しないイデオロギーはその階級的本質に忠実であるが故に社会的再生産を破壊しています。その土壌の上に凶悪犯罪が横行し社会的退廃はとどまることを知らない。日本資本主義はそういう段階に達しているのだから、これを危機と呼ばずして何を危機というのでしょうか。とはいえもちろんそれが自動的に社会変革につながらないことは言うまでもなく、「新しいヴィジョン」が人民に共有されねばなりませんが…。
閑話休題。論文の最後に今日の賃下げについて、賃金の労働力の価値以下への低下だけでなく、労働力の価値そのものが低下している可能性を指摘して、その統計的分析が必要とされています。是非実現していただきたい課題ですが、ここでは賃金低下の理論的意味について感じていることを述べます。理論的には、価値(労働力の価値)と価格(賃金)の乖離は産業循環の各局面において常に生じますが全体を平均すれば両者は一致します。ところが今日の賃金低下は循環的変動を超えて構造的に定着しています。おそらく価値と価格の乖離が固定化し次いで価値そのものが低下し、また価値と価格が乖離し…というスパイラル的下落過程が予想されます。私はこれを価値法則のシフトダウンと呼んでいますが、その原因は通常の価値法則のベースとしての国民経済が徐々に融解し、グローバル化の中でそのベースのアジア化が進んでいるためではないか、と思われます。今日、立場の如何を問わず、東アジア共同市場のようなものが提唱されており、確かにアメリカ帝国主義からの自立の上でそれが必要なのですが、多国籍企業や国家主導にまかせるばかりで人民の生活の観点がないと大変なことになるでしょう。またこの労働力の価値そのものの低下とは、人類の進歩の敵となった資本主義を歴史から退場させるべき重要な根拠であるといわねばなりません。
ところでまだ理論的問題があって、消費資料の価格と賃金とが平行に下落するなら実質賃金は変りません。上で労働力の価値の低下について述べましたが、もし消費資料の価値の低下を反映した限りでの労働力の価値の低下であれば問題ありません。従って上で問題とすべきは「生活に必要な消費資料の使用価値量」そのものの減少を反映した限りでの労働力の価値の低下ということになります。これは統計的には実質賃金の低下となります。ただし実質賃金の低下が、労働力の価値以下への賃金の低下か、労働力の価値そのものの低下かは、それだけでは分かりませんが。理論的問題というのは以上のことではなくて、論文の93ページにある、賃金・労働分配率・付加価値の関連です。不況下では労働分配率が上昇するので資本は賃下げ圧力を強めます。しかしこの長期不況の中では実質賃金も下がっています。なぜ賃金が下がっているのに労働分配率が上がるのかといえば、論文が紹介する経団連の主張にあるように付加価値が減少しているからです。さらにその原因を経団連はデフレに求めています。しかし日本経済は貨幣論的意味でのデフレに陥っているわけではなく、需給ギャップによって物価が持続的に下がっているのです。需給ギャップの最大の原因は失業・賃下げによる所得減少と個人消費の減退なのです。個別資本のリストラ的資本蓄積運動の総体が社会的総資本の再生産の障害となっているのです。これを労働者の犠牲で乗り切ろうというのが財界と「転倒したイデオロギー」の経済学であって、日本経済もイラク戦争のような泥沼にはまっています。
実は問題はまだあって、付加価値が減少するほどに物価が下がっているのなら名目賃金が下がっても結果的には実質賃金は下がらないはずではないか、ということです。これは商品の実現問題によって解けるでしょう。企業の得る付加価値が下がっているのは個別商品価格の低下だけではなく、そもそも数量が売れないことによります。ならば付加価値の減少に比べれば消費資料の価格低下はさほどでもない、ということになり、名目賃金の低下を消費資料の価格低下で十分に相殺できずに実質賃金が低下することになります。以上で大切なのは、この長期不況を捉えるのに、恐慌論的には商品過剰を重視することであり、実現問題を捨象して資本過剰ばかりを見ると賃下げ論にはまるということです。不況対策として賃下げ論を展開したものとしては、伊東光晴、河合正弘「対談 デフレに有効な政策はありうるか 橋本寿朗『デフレの進行をどう読むか』を読む」(『世界』2002年5月号)があり、それへの批判として刑部泰伸「不況対策に賃下げ!?」(文化書房ホームページ http://www5b.biglobe.ne.jp/~bunka 内の「店主の雑文」内より)があります。もちろんきちんとした統計的裏付けがないと単なる空論に終わってしまうのですが。
書き始めてからずいぶん日にちが経ってしまいました。初めの問題では、今日もNHKニュースは何の反省もなく開き直って、自民党の安倍・中川と一体となった主張を垂れ流しています。恥を知れ!昨年、共産党や市民団体のビラ配布への政治弾圧が何度も強行されました。そして改憲、増税へ。これらの途方もない反動は明らかに日本資本主義の危機の反映でしょう。それを人民にとっての危険のままにするのでなく、変革の機会とすることができるでしょうか。
2005年3月号
佐貫浩氏の「戦後社会構造の変化と教育の転換」および座談会「現代の生活不安・社会不安をどう打開するか」からは、日本資本主義の新自由主義的転換が人間と社会にどんな歪みを作り出してきたかが見て取れます。座談会で浜岡政好氏が就職活動で傷つく学生の意識に寄り添って述べたことが印象的でした。国際的に通じるような特別の才能がないのはダメ人間とされ、真面目に普通に働いて生活が成り立つということが許されない、というような今日の状況は就職活動中の学生にとってのみならずすべての働く人々にとって異常な事態であるはずです。ところが教育でもマスコミでも、個性を尊重するということがいつのまにかこういう異常な社会に適応して生き抜く力を育成する(そしてそれをもっている人間だけが生きられる)ということに歪曲されています。だいたい日の丸・君が代を強制しながらいう個性なるものがまやかしであることは少しでもものを考える力をもった人間にとっては自明のことではないか。人間社会にとっての利益と資本の価値増殖にとっての利益とが資本主義社会では不分明なので、人間の能力も企業に奉仕できるかどうかという角度からしか評価されません。本当に大切なのは誰もが普通に働いて生きていける社会を形成する力です。経済活動は人間生活の一部であって、それ以外の自由時間においても個性や能力が本当に発揮されることが人間とその社会を真に発展させるのです。すべての力を経済活動にすりへらさせようとする(「24時間闘えますか」というCMがあったが)資本の衝動に従属している限り、人類の前史という野蛮時代は続くのであり、それはまさに弱肉強食という顔をしており、今日の競争崇拝はそれにつながっています。まともな社会の形成力とは現代資本主義社会への批判力であり、それは資本主義社会を歴史の一段階として相対化し別の社会を構想しうる想像力です。史的唯物論と労働価値論はその批判的想像力の核とされるとき真の力を発揮します。…論文の内容から離れて勝手に激して失礼しました。
山下唯志氏は郵政民営化批判の優れた論文を連打してきました。今号の「小泉郵政民営化と財界戦略」も政府=財界の民営化論を完膚なきまでに論破するだけでなく、郵政公社の経営の自由度拡大路線にも明快な批判を展開しています。今回の論文で特に注目したのは次の指摘です。「財界からみた郵政民営化の第一の意義は、郵政事業におけるリストラの解禁ということである。物流から金融事業に及ぶ日本最大の事業体で、今まで例外となっていた郵政事業におけるリストラの解禁が、日本の労働条件にもたらす影響は計り知れない」(115ページ)。物流についていえば、これまで私は郵便局から冊子小包などを数千件発送していますが1件の事故もありません。これが民間と比べれば労働者にとって有利な労働条件において実現されていることが重要です。確かに民間の宅配業者のサービスが利用者にとって非常に便利で、これが郵便局にも緊張感を与えていることは大切なのですが、私たちは享受できるサービス内容だけを見るのでなく、それを実現している労働条件にも目を向ける必要があります。今日の運送業における労働条件の凄まじさはそこの労働者にとっての問題にとどまらず、交通安全という全社会的問題ともなっています。これは日本資本主義のコスト構造を底辺で規定しているものの一つであり、私たちの経済活動は刃物の上を歩いているような危険なものです。ここに歯止めを掛けなければいけないときに、財界の望む郵政民営化はまったく逆行します。人間的社会を望む人はそれに反対しなければなりません。
田中昌人氏の「日本の高学費をどうするか(上)」における今日の学生の学費・生活費の詳細な分析には鬼気迫るものがあり、サブタイトルにある「無償教育の漸進的導入」との余りの落差に、あきらめ忘れていた怒りがふつふつと沸き起こってきました。学生の1ヵ月の書籍代は二千円台ですか!古本屋はダメだな。こんなに学費が高くて生活が貧しくては…日本社会の未来はない。「受益者負担の受益者とは誰なのか。卒業生を受け入れる国や財界、社会は受益者ではないのか」(152ページ)。国際人権規約による「無償教育の漸進的導入」<社会権規約第一三条二項(b)(c)>は、日本国憲法と教育基本法の精神に立つなら当然推進すべきものですが、日本政府は国際人権規約を批准したにもかかわらず当該条項については「拘束されない権利を留保」したそうです。1979年当時、ルワンダとともに二国だけ。経済大国=生活小国の真骨頂ここにあり。先月号の感想でも法規範と経済実態とのずれを問題にしたのですが、この場合は何としても経済を法に従わせねばなりません。「過度に競争的な教育制度や、学生納付金の急騰を続ける、といった教育制度上の虐待を改め、人間の発達を保障していく教育制度をつくっていく方向で問題の解決を図ることが、広く切実に求められている」(152ページ)。無償教育なんて空論だ、無理だ、という政府・財界の声が聞こえてきそうですが、諸外国では実現したり、少なくとも日本ほどひどくはないことは田中論文にも明らかです。そもそも無償教育という道理が引っ込んでいるのは、学生と親の法外な学費負担という無理がまかりとおっているからに他なりません。無理と道理が逆転するのは結局、日本資本主義の再生産構造に対する、新自由主義的見方と経済民主主義的見方の違いが原因です。新自由主義的現実が自然だと思うのはそれを成立させている多大の無理・犠牲を見過ごしているからに他なりません。その目から見れば、この無理・犠牲をはねのけようとする行動は自然な流れに逆らうことのように映りますが、それこそが「可能なもうひとつの世界」を作り出す自然な行動なのです。
各地の『資本論』学習会がけっこう盛んなようで喜ばしいことです。古典を学ぶとか、哲学も含めて学ぶ、ということは勉強の普遍的な力をつける上でたいへん重要ですが、その他にも、経済の現状分析にしぼった学習会も求められていると思います。そういう要求が働く人々の間で顕在化しているかどうかは分からないのですが、少なくとも情勢からいえば求められています。バブル崩壊後、企業利潤の動向を中心とした景気変動は上下がありますが、人民の労働条件と生活水準は一貫して悪化しているか少なくとも停滞しています。にもかかわらず支配者階級のイデオロギーである新自由主義に基づく経済論議がマスコミを支配し、人民にも影響を与え民主的変革の障害になっています。こうした中では資本主義経済の本質を認識しているだけでは不十分で、それを基礎にしつつ、経済統計を読み解き、日々の経済トピックを自分たちの立場から解釈することが必要です。そういう眼前の現実への読解力をもってこそ経済学を自らのものにした喜びがあり、ブルジョア理論との切り結びもでき、各人の理論も本物になるのです。
現状分析に取り組んでいる研究者の技を一般の人々にも分かち合えるような場ができないものか、と思っています。それは研究方法の明確化・自覚化にも役立つのではないでしょうか。『経済』を読む会のようなもので、きわめて低い参加費で運営できて…、とか勝手なことをあれこれ思っています。
2005年4月号
シンポジウム「戦後日本の進路と対外関係」では東アジア共同体についてつっこんだ議論がされています。これについての日本側の障害として先の侵略戦争への無反省と現在の異常な対米従属という二大問題点について詳しく解明されていますが、それにとどまらず各国間における産業と労働の課題まで議論されていることが重要です。基本的な視点は編集部による次の総括的発言で与えられています。
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アジアの産業と日本の産業が競合する場合、どう調整すればよいのか。賃金や雇用をどうするかという問題にも関わってきますが、まず第一は、各国が、経済主権、経済民主主義を確立することでしょう。その上で第二に、互いに対等・平等の関係で、相互協力をはかるという原則を確認することです。そして第三は、国際的な基準や原則を土台にすえることだと思います。たとえば労働条件でいえば、ILO基準で各国の労働運動が統一してたたかうことです。資本同士の競争に任せていると、低い方へ低いほうへ平準化します。農業・食料問題も「食料主権の尊重」が共通のルールになりつつあるわけで、その原則にたった努力が重要だと思います。 58ページ
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現実が厳しいことはいうまでもないわけですが、それを変革していくためには、とにかくこうした諸原則を共通認識にしていくことから始めねばなりません。さもなくば資本の跳梁のなかで人民の生活と国民経済が破壊されることは、保守的指導者といえども97年のアジア経済危機を経験した諸国では理解されるのではないでしょうか。ただしこの点では多国籍企業の利益確保に邁進し自国の自立と人民生活を顧みることない日本の保守政治家に期待することはできませんが。
農業の原則については次の言葉が参考になります。
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輸出目的の資源収奪型の単位作物生産は、その持続可能性に問題があるだけでなく、その自由化は、国内の小規模農民に深刻な打撃を与える。自給型、循環型の持続可能な農業システムを構築することは、日本だけでなく、都市と農村の格差、農村における貧困問題をかかえる東アジア諸国にとっても共通の課題なのである。
尹春志「日本のFTA戦略の現在」(『世界』3月号所収)235ページ
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東アジア共同体の形成にあたって各国民経済同士の矛盾がありその調整が具体的問題となるのは当然なのですが、実はその際に真の矛盾・深い対決点として、各国人民と多国籍独占資本との対決があることが忘れられてはなりません。編集部の総括が端的に指摘しています。
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東アジア共同体をめぐっても二つの道の可能性があるのだと思います。多国籍企業の資本が市場を広げて、アジア全体で活動できるようにする共同体の道と、アジア各国の経済がそれぞれ発展し、諸国民全体の生活が向上していくような共同体の道の二つです。
61ページ
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多国籍企業の活動が発展していくのは当然ですが、要は共同体の主人公は誰かということが問題でしょう。
ここまで引用ばかりになりましたが、ここからは例によってあやうい思いつきをいくらか語っていきます。東アジア共同体がどうなっていくか、というよりもどうすべきかについては、その世界史的位置付けのようなものを、現在のグローバリゼーションへのオルタナティヴの視点から考えていくことが有益と思われます。
藤岡惇氏が第5回世界社会フォーラムへの参加報告のなかで、スーザン・ジョージの見解を紹介しながら「もう一つの世界」へのグランドデザインを語っています(「しんぶん赤旗」3月11日)。藤岡氏によれば、1930年代に、民衆の闘いの圧力をうけて、世界資本主義がファシズム陣営と反ファシズム陣営に分裂したのと同様に、今日では民衆の闘いに押されて、ブッシュの新帝国主義の道とは異なる道を欧州が提起し、非同盟諸国がこれを支持するという構図が明瞭になってきました。欧州といえども新自由主義の力は非常に強いので、そのような構図が一直線で進むとは楽観できません。しかし大枠としては私たちにとってその方向に展望があるように思われます。
きたるべき東アジア共同体はその道のなかに位置付けられるのか、また他地域の民衆的運動との関連はどうか、ということを考えてみたいと思います。今日の発達した資本主義国と発展途上国との分岐は封建制(などの前近代社会)から資本制への移行を(上からの道と下からの道とを問わず)自主的に行なえたかどうかという点にあるでしょう(第1分岐点)。行なえた民族は近代的国民経済と主権国家を形成でき、行なえなかった民族は(行なえた民族によって)植民地や従属国とされてしまいました。途上国民衆の苦難の起源はここにあると思うのですが、グローバリゼーション下ではさらに途上国のなかでも分岐があり、新自由主義路線による経済成長を実現した一部の国とそれに失敗した多くの国とに分かれました(第2分岐点)。後者の民衆は塗炭の苦労を味わっているのであり、前者の民衆は生活改善の可能性を手にしましたが、劣悪な労働条件がその前提となっています。冷戦下で多くの途上国で試みられた自力厚生的路線は結果的には成功せず、今日の外資導入路線に蹴散らされることになりました。多国籍企業的な生産力段階にあってはその世界最新技術と前近代的低賃金労働とを結び付ける新自由主義政策の採用が、世界資本主義での途上国の生き残り策であったというのが冷厳な事実でしょう。
今日の世界においてEUは第1分岐点をクリアした勝組連合であり、東アジア共同体も第1分岐点をクリアした日本と第2分岐点をクリアした他国との勝組連合ということになるでしょう。しかし勝組=グローバリゼーション与党というわけではありません。第1に、藤岡氏も指摘するように、両者とも内部で異見があるとはいえ、それぞれ全体としては、ブッシュ新帝国主義の野党であり、第2に米国主導のグローバリゼーションに対しても与党というよりは野党に近いといえます(あえていえば「ゆ党」か)。そもそもEUの結成は、独仏資本による福祉抑制と米資本への対抗という狙いがあるとはいえ、米国一極支配ではないより公正な国際秩序を目指して行なわれたのです。東アジア共同体の形成を主導しているASEAN諸国は、開発独裁から新自由主義路線への転換という大枠のなかで、米国市場と外資導入に依存して地域内工業化を達成したという点では、今日のグローバリゼーション与党ともいえます。しかしまだ多国籍企業の母国ではなく、もともと第2次大戦後に植民地支配から独立し、ベトナム戦争の教訓もあって、帝国主義からの自立を目指して地域内での平和秩序を自主的に形成しながら米軍基地を撤去してきた国々です。しかも1997年のアジア経済危機とその回復過程では無警戒な自由化路線の危険性を認識しIMF路線の害悪を経験してきました。ここで日本の提唱したアジア通貨基金(AMF)がアメリカの反対で頓挫したことや、IMFに抵抗したマレーシアの経済回復路線が成功したことは、自主的路線の正当性をASEAN諸国に印象づけたに違いありません。中国もまた市場経済化の過程において米国市場と外資導入に依存した発展をとげましたが、独自の社会主義市場経済を掲げる国であり、ブッシュからは核攻撃の対象国とされてもおり、イラク戦争など国連では自主的立場に立っています。このようなASEAN諸国が中国を巻き込んで主導的に展開している東アジア共同体は、日本の財界が狙うような対米従属の多国籍企業路線に容易に行くとはいえません。
社会経済フォーラムを生んだ南米大陸に目を転じると、いわばグローバリゼーション負組連合が形成されつつあります。ブラジル・アルゼンチン両大国での変革的政権の誕生とともに、草の根からの革命が進むベネズエラを先頭にまさに民衆的な「もう一つの世界」を目指す運動が大陸を席巻しつつあります。
こうして勝組連合であれ負組連合であれ、ブッシュ新帝国主義には反対し、今日のグローバリゼーションのあり方には異議を申し立てる勢力が世界の大勢となる可能性があります。カギを握るのは各国人民の運動でしょう。勝組諸国においては新自由主義路線への規制を強め、資本と労働の力関係を少しでもよい方向に変えていく不断の努力が求められます。負組諸国は経済の民衆的あり方を実現しながら世界経済のなかで生き残るという困難な課題に挑んでいます。その上に米帝国主義を先頭にそれを政治的・経済的に圧殺しようとする策動が当然あるでしょうから、さらにたいへんです。勝組が新自由主義から離脱して、負組が世界経済に定着する、この二つの流れが合流するときに21世紀社会主義への道が開かれるというのは単なる夢想でしょうか。
新藤通弘氏の「ベネズエラ紀行(上)」によればチャベス大統領は現在の経済変革モデルを社会主義市場経済と呼んでいます。当面する変革に対して過大な性格付けをするのはその渦中にあっては危険なのですが、歴史の大局的観点からすればあながち間違った規定でもないと思えます。不破哲三氏が資本主義の失敗として強調する点の一つに経済発展から取り残された多くの途上国の存在があります。多国籍企業は世界的な経済格差を利用して最大限利潤を追及していますから格差構造は温存されこそすれ縮小されることはないでしょう。そもそも資本主義とは格差構造を活力の根源とする体制であって、全体を底上げしてみんなでよくなろうという発想とは無縁だといえます。従って発展途上国が不断に世界経済秩序に異議申し立てをせねばならないのは必然です。その先頭に立って圧殺されずになんとか生き残ってきたのが社会主義キューバだといえます。一部の途上国が新自由主義路線でグローバリゼーションに乗って華々しい経済成長を実現したことが20世紀社会主義没落の一つの原因ともなりましたが、それは決して地球的幸せをもたらしはしませんでした。多くの途上国にとっては経済の民衆的あり方をとっても脱落することのない世界経済秩序が求められています。IMFコンディショナリティのように人民の犠牲の上に対外経済均衡を強制されるやり方の対極の秩序です。
発達した資本主義国においても資本主義の限界ははっきりしています。これだけ人間が粗末にされる社会。その原因はシンポジウムのなかで小西一雄氏が見事に指摘しています。
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九○年代以降は、明らかに日本の資本主義には使用価値の社会的なマース(限度)の問題が前面に現われてきたのです。つまり、生産力水準や労働生産性はすでに極度に高い水準にあり、平均的な社会的必要を満たす十分な財貨・サービスがあるが、資本の価値増殖欲求(利潤欲求)を満たすためにはよりいっそうの労働生産性の上昇、生産力水準の増大を追及せざるをえないということです。そこでは、資本間競争が激化し、労働者の極限的な生存競争が強いられ、失業が増大し生活不安が増大するわけです。そしてこのもとで、一部の多国籍型大企業が「勝ち組」として生き残ることになります。
以上のように、九○年代以降は、日本において国民生活を向上させるという点では、資本主義という経済システムが重大な危機に直面している時期といえます。 30ページ
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さらに小西氏は、戦後日本経済において利潤率が傾向的に低下し、そのもとで利潤量の確保をめぐって競争が異常に激化していることも指摘しています。
寺沢亜志也氏は経済企画庁の分析を紹介して、高度成長期に日本経済を引っぱったのは民間設備投資だったが低成長期にはそれが個人消費に代わったといっています(「日本経済の再生と個人消費回復への道」『前衛』2000年9月号所収)。
両者の指摘は資本主義の異常さや活力低下を表現しているのですが、利潤追及や無理な競争をはずして見れば、つまり資本主義という形態をはずして生産力や産業構造のあり方を見れば逆に豊かな生活の条件が整ったことを現わしているのです。そのような状態のなかで絶対的貧困化が復活さえしているのも資本主義の矛盾なのです。利潤追及と競争が自己目的化している目からはそれは決して分かりません。
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「自分らしく」とか「自分なりに」という言葉が好きで、とても自分へのこだわりを語りうるほどの自己を練磨しているとも思えない人間が自己を主張する。「パンが好きかクレープが好きか」程度のことを個性だと思い込み、ささやかなライフスタイルへのこだわりが重大事であるかの錯覚の中に生きている。そんなことにこだわることのできる恵まれた自分を取り巻く環境がどう成り立っているのかに問題意識が向かわない。つまり、自分が相対化できていないのである。
寺島実郎「魯迅と藤野先生 なぜ日本人は脳力を失ったのか」
(『世界』2002年3月号所収)
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「自分が相対化できていない」のは若者たちだけではなく、そもそも資本主義社会の体制に関する自己認識というものがそうなのです。競争による活力が絶対化され、ひたすらそれが追及されるなかで、それによってどのような社会状況が形成され、人間がどのように扱われているのかが視野から落ちます。社会の全員にまともな生活を保障できる生産力水準にありながらも、決してそれは実現せず、次なる利潤追及の種を見つけては、そこに殺到して競争し続ける。その繰り返し。勢い種はどんどん瑣末なものにはまっていく。トリビアの泉は資本主義広場にこんこんと湧き出る。基本的な衣食住が足りていないのに「ささやかなライフスタイルへのこだわりが重大事であるかの錯覚の中に生きている」。たまにテレビで発展途上国で懸命に生きている子どもたちの姿などを見ると、社会のあり方の原点を見る思いで、生産と消費のトリビアリズムの悪循環にはまった私たちの姿が逆照射されます(そもそもそのような資本主義社会の相対化こそは科学的経済学の本領なのですが)。しかしそうしたトリビアのなかで研ぎ澄まされる感性もまたあるのでしょう。それが徒花にすぎないのか実があるのかは私にはわかりませんが。
2005年5月号
伊東光晴氏は理論・学史・現状分析・政策の関係について深い見識を表明しています。長くなりますが引用します。
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経済理論を学んでいる者が、現実政策について発言するときは、つねに自己抑制をともなう。理論は--明示的であるにしろないにしろ--それが持っている前提と、現実との間に乖離があるからである。もちろん論者の中には、そうしたことを考えることなく、理論をもって現実を切り、批判する人も入る。「理論信仰」である。しかしもし、歴史の深淵の中で理論の変化を考えるという学説史の修練を持っていたならば、理論は論者が重要と思う現実の一部を切りとって構成したものであり、理論の相対化が意識されると同時に、現実の変化とともに、重点は変わり、理論と現実との乖離が生まれる可能性を強く意識するはずである。同時に経済政策は、事実についての深く広い追及の上に立たねばならないのである。事実についての知識の有無が人々の判断を左右するからである。
この小著を通じて私が強く言いたいのは、事実についての追及努力なしに、既存理論やイデオロギーで政策を論じようとする「原理主義」的理論家の政策発言に対する疑問である。
『「経済政策」はこれでよいか』(岩波書店 1999年)はしがき
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もちろんここで批判されているのは直接には新自由主義者ですが、そのままで、多くのマルクス主義者の陥りがちな誤りへの批判にもなっています。私も耳が痛いところです。伊東氏は理論と事実双方の該博な知識を縦横に駆使して新自由主義的経済政策の誤りを徹底的に批判しています。ここで問題とされる事実には、企業・金融・財政・世界経済などがあるのですが、これらに加えて私たちが取り上げ依拠すべきものは、人々の労働と生活の事実でしょう。本誌、3、4、5月号に連載された、田中昌人氏の「日本の高学費をどうするか 『無償教育の漸進的導入』の課題」には厳しい生活実態が詳述され、高学費の理不尽さが胸に迫ります。資本が作り出している経済の現実に合わせて生活を切り縮めるのでなく、生活の現実に合わせて経済を作り変えていくことが切望されます。その法的根拠は国連人権規約や日本国憲法にあるわけで、生活の事実と法とには一致があり、経済の事実だけがはずれています。平和の問題に限らず、逆立ちした社会を正しく立て直そうとすることを敵視するからこそ、改憲論者は憲法を単なる理想論として蔑視するのです。眼前の現実を「自然」と見るのでなく、無理が通って道理が引っ込んだ状態と見るセンスが大切であり、しかもそれは空想ではなく、依拠すべき現実も法もあるのです。
現実を捉えるという点で、新藤通弘氏の「ベネズエラ紀行」が紹介するベネズエラ革命は実践的に成功しています。それは単なる政権交代ではなく、参加型民主主義つまり人民の生活と労働の変革をともなった社会革命=多数者革命として進行しています。その情景は、「三○年間ベネズエラに住んでいる日本人の女性」で「貧しい人とは対極にある階層の人で、最高のインテリで視野の広い方」が次のように語っています。「ベネズエラの大きな変化は、人々の目つき、表情が、本当に変わって明るくなっていることだ。それは、この政府が続く限り、自分たちのくらしは間違いなく向上する、自分たちの子どもや孫、さらに先の世代も前進できると強く感じていて、それが多くの人たちに、政治はまさに自分たちのくらしをよくするものだという確信をあたえている」(緒方靖夫、神田米造「対談 チャベス政権下のベネズエラを訪ねる」『前衛』5月号 25ページ)。およそ日本では考えられない政治意識が高揚しているわけです。これは貧しい人々の生活を着実に改善してきた成果だろうと思いますが、革命政権が現実の提起する課題の核心部分を的確につかんでいることを物語っています。
それでは日本の現実を革新的勢力はいかに把握できるのか。現代を小林多喜二の時代と対比しながら、ノーマ・フィールド氏は語ります(「朝日」夕刊4月7日)。「ひどい世の中になってきた、と言い出してはや十年、十五年経ってしまった。日本もアメリカもここ二、三年、速度を増してひどくなっていると感じるのは私だけではないはず。なによりも不思議なのは、そう認識していても…中略…何もしようとしない、ということ。何をしても世は変わらない、という雰囲気が蔓延して、実に心地悪い。それに比して、多喜二や他のプロレタリア文化運動家たちは20年代、30年代の社会の不正と侵略戦争態勢に真っ向から物書き、音楽家、絵描き、として闘ったのである。理念を掲げることを恐れなかったし、ましてや冷笑しなかった」。続いて彼女はプロレタリア文化運動の作品が通常思われているような粗雑なものではなく、現実を細やかに捉え、運動を美化するのでなく丁寧に表現していることを指摘しつつ次のように述べます。「多喜二の世界がそのまま今の世界と重なるとは思わない。戦後日本はなんと言っても豊かになり、苦しみが目に見えるものから見えないものに変貌した。結果として、人々が自らの苦しみから疎外されてしまったのではないか。疎外は無関心やシニシズムを装うことが多い。多喜二の作品はそんな装いに激しく抗議する。もっと、違った人間関係があるはずだ、と」。多喜二を「読まず嫌いの人がいかに多いかと思うと残念でならない」という彼女は、戦前と現代との距離感を意識しつつも、愚直な人間的精神に対して、時代を超えた変革の志と現実把握力を認めているように思われます。
話が迂遠になったかもしれませんが、次いで現代日本の経済政策を把握する重要な視点を提供している二木立氏の論文を紹介したいと思います。以前、二木氏の『医療改革と病院』に対する鈴木篤氏の書評が2004年11月号に掲載されていたのに対して、私は貴編集部あてに感想を送りホームページにも公開しました。このほど思いがけず、それを読まれた二木氏から「医療政策分析の視点・方法と小泉政権の医療・福祉改革」(『民医連医療』2004年11、12月号掲載)という論文をインターネット経由でいただきました。医療・福祉問題だけでなく、社会科学の方法にもかかわって重要な問題提起にもなっている論文ですので、私の興味深い部分について感想を述べたいと思います。
論文は第1部「私の医療政策研究の視点と分析方法」と第2部「小泉政権の医療・福祉改革の中間総括と『客観的』将来予測」とからなっています。第1部の方法の当面の課題への適用が第2部ということになり、方法の真価は予測の妥当性によって明らかになりますが、現時点で私などに第2部の専門的・具体的内容について判断することはもちろん無理です。ただ著者によればこれまでの実績としては「私の『客観的』将来予測の的中率は自称9割です」。「自称」はもちろん謙遜であり、様々な立場の人々から著者の研究が注目されていることを思えば(普通、体制側の論者が左翼系の研究をあえて問題にすることはないのだから)、この的中率を素直に受け取ってもよいでしょう。そこでそのような成果をもたらした著者の「視点と分析方法」が表明されている第1部に関連していくつかの感想を述べます。
著者は、「代々木病院での医療・経営活動の経験を原点にしながら」、「医療経済学の視点からの、政策的意味合いが明確な実証的研究と医療・介護政策の批判・提言」を行ってきました。その視点と分析方法については次のように述べられています。
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私は、次の2つの心構え・スタンスで、研究・言論活動を継続しています。1つは、医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点から研究をおこなうこと。もう1つは、日本の医療と医療政策についての事実認識、「客観的」将来予測(私の価値判断は棚上げして行う)、自己の価値判断の3つを峻別するとともに、それらの根拠を明示することです。この手続きを守らない限り、価値観が異なる人間・組織が建設的に討論することは不可能だ、と私は考えています。
他の研究者にはみられない私の研究の特徴の1つは、事実認識(現状分析)だけでなく、「客観的」将来予測にも挑戦し続けていることです。
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事実認識と価値判断との峻別というのは、ウェーバー的問題といえますが、残念ながらそれについては私は不案内ですので語る言葉はありません。そこで考えるべきことは「変革の立場」とこの「峻別」や「『客観的』将来予測」との関連です。従来、「変革の立場」といわれていたものが、実態としては客観性の乏しい希望的観測を意味するにとどまっている場合が多かったように思います。結果としてそれは実践の基準とはなりえず、現実に対する無力をさらけ出すことになります。従って著者の研究方法と成果に学びかつ対峙しない限りは真の「変革の立場」に到達することはないでしょう。
ところで著者の研究対象は医療政策ですから、たとえば産業構造などというものと比べればもともと客観性の低いものです。経済的土台はある程度「自然史的過程」として扱うことが可能ですが、政策というものはすでに政策主体の主観に大きく影響されます。それに対して著者が「客観的」将来予測に成功してきたのは、医療政策の特殊性を十分に考慮しつつ、支配階級・政府機構の内部動向についての卓抜した観察を継続してきたためでしょう。その職人的ともいえる方法についてはまた後で触れます。しかしこのことは、彼我の力関係に対する一種の諦観があるということです。「私の価値判断は棚上げして行う」というのは客観的にはそういうことでしょう。「原理からではなく事実から出発する」この厳しい現状認識と将来予測を前提に、実践的には著者は部分改革の積み重ねと医療者の自己変革を提起しています。確かに新自由主義的抜本改革の挫折を断定して医療政策と医療機関経営の方向を明確にしたことは重要な成果ですし、医療者を対象にした論文においてそのような堅実な結論が出されるのは妥当です。ただ著者の方法と変革の立場が「医療改革の志を保ちつつ、リアリズムとヒューマニズムとの複眼的視点」として結実していくためには、政治経済の全体的流れとそこでの人々の労働と生活の実態の中から変革の芽を捉えていく方向性との結合が期待されます。換言すれば、この論文は優れた現場感覚に発する現実把握力によって有用性の明確な分析と政策提言を成就していますが、変革的なグランドセオリーがそうした成果を尊重し包摂していくことが期待されます。また「客観的」将来予測、とあえてかぎかっこ付でいわれるのは、唯一の自然的過程ではなく、力関係によっては可変的な過程としての将来が暗示されているのだと思いますが、その可変性にどう迫って行くのかが問題となるでしょう。もっともこのように観念的にあれこれ言うのではなく、現実の中への内在からしか変革の芽は捉えられないのでしょうが…。
この論文で目を見張ったのは、公式文書などの読解を通じて支配層・政府の意志形成・政策決定過程を科学的に分析する方法論を具体的なノウハウとしても提示した部分です。私なども支配層は有力なイデオロギー(今でいえば新自由主義)に基づいて統一的に行動していると考えがちですが、我々が実際に要求運動などを進める際には、支配層内部での様々な対立や流れの変化などを具体的に捉えて行くことが必要になります。著者は政府の公式文書の分析ポイントを3つ示しています。……1.各種文書の序列・重みづけを常に意識して分析する。2.各省庁の公式文書の相互関係と異同に注意する。3.最近の公式文書と以前の公式文書との異同を分析的に検討する。……さらに閣議決定や政策担当者の発言などの見方についてもていねいに説明しています。研究者でもない私たちは直接こうした原資料にあたることはまずないので、論文や新聞記事などを通じて間接的に知るしかないのですが、その際に紹介の仕方が恣意的であれば現実を読み間違えることになります。著者が経験的に身につけたノウハウによればそれを防いでリアルな分析に近づけます。これは広く社会科学研究者の共有すべき方法だと思います。私は常々思っているのですが、おそらく様々な現状分析に携わっている多くの研究者はそれぞれに独自の方法論やノウハウを開発しているでしょうから、それを著者のように自覚的に整理して公開することが社会科学の前進につながるのではないでしょうか。
著者の最近の研究成果の焦点は、医療政策における新自由主義的抜本改革の挫折を断定したことです。それに至る前提として医療経済学の立場から「厚生省は医療費増加を招くことが明らかな政策は、特別の事情がない限り選択しない」という視点を確立していたことが重要です。これを展開した「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」の指摘が見事です。つまり医療の市場化・営利化は医療費増加をもたらすため、医療費抑制という「国是」と矛盾するのであり、これが新自由主義的医療改革の全面実施が不可能な根本原因だ、というわけです。ここを読んだとき、総医療費は増加しても公的医療費を抑制することは可能ではないか、と私は思ったのですが、即座に、「アメリカと日本の現実によって簡単に否定される机上の空論」として一蹴されています。
グローバルな資本間競争を前提する限り、国際的なソーシャルダンピング競争などの形をとって新自由主義は強力に自己貫徹する現実主義であり、それへの部分的抵抗は蹴散らされます。しかしそれは究極的には労働者・人民の生存権を否認するという点において、現実を無視したブルジョア教条主義であり、その現実性は、生活と労働を破壊された人民の抵抗を抑え込める範囲内にしかありません。その範囲内が残念ながらずいぶん広いのですが、この究極の問題以前に、社会の様々な領域の特性に応じて新自由主義の現実性は制限され得ます。著者が医療政策における新自由主義的改革の挫折を断定したのは、医療の持つ独特の公共性を念頭において支配層の動向を冷静かつ具体的に分析した成果でした。医療・社会保障においては支配層内でも、全面市場化の新自由主義派と公私2階建て化派が対立しており、両者は収斂せず前者は挫折しました。ここでは新自由主義派のヘゲモニーを予想した二宮厚美氏や横山寿一氏が批判されています。新自由主義とオルタナティヴとの対抗を主軸に今日のイデオロギー・政策・運動を鮮やかに分析してきたのが、両者も含まれるであろう、渡辺治氏らの『ポリティーク』派であり、その理論的貢献は大きかったと思いますが、最近ではその議論への批判も見られるようになりました。いずれにせよ先入観にとらわれない現実の分析から確実なものを積み上げて理論化していくことが大切であり、二木立氏の実績が社会科学の広い分野でより注目されることを期待します。
中国での反日デモは暴力行為にまで及びました。いかなる理由があるにせよ暴力は否定されるべきであり、当然のこととして中国政府は謝罪・補償をしなければなりません。それは前提とした上で、中国側の対応のいかんにかかわらず日本政府にはもともと歴史問題での反省を誠実に行う義務があります。いわゆる村山談話などがあるにせよ、小泉首相の靖国参拝や政府・与党の有力者による侵略戦争への度重なる無反省な発言などから明らかなように、日本国家はまともに反省しておらず、これは絶対に許されません。両国政府が今回の問題に対して正しい対応ができない原因の一つとして「国内世論への配慮」が上げられます。中国では経済成長にともなう貧富の差の拡大などへの不満が政府批判に直結しないように、反日意識を利用していることが考えられます。「対日弱腰」と見られるようなことになれば、批判の矛先が日本から中国政府に向けられることが警戒されているのでしょう。日本でも同様に、長期不況の不満を中国批判のナショナリズムにすり替えることが系統的に追及されてきました。侵略戦争をまともに反省することが「自虐」であるかのごとき保守反動派の言説がこれほど流布することは以前には考えられないことでした。
日本国家はなぜ侵略戦争をまともに反省できないか。一つには日本の支配層には戦前と連続した意識があるという前近代性・保守反動性があります。自民党の改憲案の驚くべき復古的性格にはそれが明瞭です。これは誰にも分かることですが、もう一つ見逃されているのが、対米従属の問題です。勇ましいナショナリズムと卑屈な対米従属が共存しているのは一見異様ですが、アジア蔑視というコインの両面に過ぎません。米国はベトナムを初め多くの侵略戦争を行ってきており、今またイラクを侵略・占領支配してます。そして一切反省していません。日本はベトナム侵略の基地を提供し、今日では自衛隊を派遣して米国のイラク侵略に荷担しています。このように戦後一貫して米国の侵略に荷担してきた国家に過去の自己の侵略を本当に反省することができるだろうか。逆にいえば、過去の自国の侵略戦争に無反省だからこそ現在の侵略にも荷担できるのではないか。日本国家の侵略戦争への無反省は決して過去への評価の問題だけではなく、現在と未来につながる問題なのです。これは改憲策動が復古主義と新自由主義の両面から追及されていること符合します。
侵略戦争へのまともな反省を「自虐史観」として揶揄するのは、問題を国家対国家に矮小化してナショナリズムに流し込むものです。侵略戦争の被害者には被侵略国だけでなく、侵略国の国民も含まれます。確かに侵略国の国民は加害者責任を免れるものではありませんが、侵略戦争を敢行した政府に対して被害者として告発する権利をも持っています。侵略国が自国民をいかに無残に扱うかということは、何もかつての半封建的軍国主義的日本にだけ当てはまるものではありません。現代の民主主義国家である米国がイラクにおいて自国の若者を「捨て駒」のごとく扱っていることは、堤未果「イラクの戦場に送られる若者たち 米国のもう一つの真実」(『世界』5月号)に見事に描かれています。貧しい若者たちが軍隊に吸引されスポイルされていく。「彼らはみんな、弱者ががんじがらめにされるアメリカ社会で『戦争というビッグビジネス』を続けるための捨て駒なんです」(220ページ)。イラクの戦場は米国社会の病理の輸出先ともいえます。かつてベトナム戦争とはベトナム問題ではなくアメリカ問題だ、といわれましたが、イラク戦争も同様です。
日本国民にとってアジア侵略は確かに自分の問題でもありますが、それ以上に天皇制政府の責任の問題であり、その意味ではヤツラの問題なのです。「自虐史観」批判の連中は普通の国民の立場ではなくヤツラの立場に立っているからこそ「自虐」と感じて侵略戦争の反省ができないのです。つまり侵略戦争への反省は単に過去の問題ではなく、中国や韓国などから批判されるからする問題でもありません。何よりも自分たちの現在と未来のため「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」(憲法前文)するために行うものなのです。
2005年6月号
この四月、NHKFMの午後の洋楽番組のパーソナリティが総入れ替えになりました。新陣容についての評価はまだこれからでしょうが、旧陣容では、月曜日から金曜日まで毎日、いずれ劣らぬ個性的でそれぞれに素晴しい見識を持った方々が力を込めて担当していました。火曜日には竹村淳さんが中南米とカリブの音楽を聞かせてくれました。なぜ「ラテン」と一言でなく、「中南米とカリブ」なのかは本号の特集で初めて分かりました。カリブ海諸国はラテンだけではなく英仏系も含むわけです(フランス人もラテン系ではあるけれどもラテン音楽と聞いたときフランス音楽は含まないように思う)。仕事のBGMでぼうっと聞いていたのできっとそういう説明を聞きのがしていたのでしょう。
私もラテン音楽といえば、明るく陽気なあるいは能天気な、というステレオタイプなイメージを持っていましたので、いかにも日本人的に生真面目な感じの竹村さんには違和感を抱いていました。重く深いラテン音楽もあることはすぐに分かりましたのでそれは訂正しましたが…。竹村さんの番組はあえていえばエンターテインメントとしては「失格」だったようにも思えます。社会的常識のないリスナーのことは叱るし、音楽的趣味の偏狭な人々に対して苦言を呈することもありました。ただ聞いて気持ちよい番組を目指すならば、こういうトゲはなかったことにして、ひたすらに明るい話題だけをさわやかな声で進めるべきですが…。あえてそうしなかったのは、リスナーを単にお客さんとしてではなく、ともに成長していくべき同好の志として遇していたのだと思います。クラシック界でのピアソラ・ブームに対してもなかなか厳しい見方でした。他の曜日もそうですが、この番組のリスナーは鍛えられたと思います。
番組では、毎年、ビクトル・ハラの命日あたりでは彼の特集が組まれていましたし、確かメキシコのサパティスタ民族解放軍の蜂起について触れたり、経済封鎖に苦しむキューバの子どもたちへの支援の運動にも取り組まれていました。公共放送たるべきNHKのニュース番組が事実上、自民党広報に堕している今でも、わずかな希望が持てるとすればこういう番組が作られている点でしょうか。ラテン音楽を流す以上、歴史的・社会的背景にも触れずにはおけないという姿勢の確固とした番組でした。本誌の評論でも、様々な条件の中で、その国、その土地ならではの独自の音楽が民衆によって育まれてきたことが強調され、逆に昨今の「無国籍ラテン」に警鐘が鳴らされています。無国籍化を推進するのは米国流の商業主義ですから、音楽文化を守るためにもグローバリゼーションへのオルタナティヴが必要となります。そこで面白いのは米国でのイスパニック系人口の増大です。イスパニック系が米国音楽の主流となり、文化的に米国の植民地下にある日本でも猛威を振るう日が来るかもしれない、と竹村さんは楽しげに書きます。私としては、そうした民衆的・文化的変化がやがて政治経済におけるWASP支配をゆるがしてグローバリゼーションに変化をもたらすことを期待したいところです。もっとも、国務長官がアフリカ系でも帝国主義は増進するばかりの現状ですから、安易な期待はできませんが。
資本の自由が前提される限り、新自由主義は強力に自己貫徹する現実主義でありえますが、人々の生存権を否認するという究極の意味においては、現実に立脚しないブルジョア教条主義となります。つまり人民的抵抗がないか抑圧できる状況が、新自由主義の生存領域といえます。ラテンアメリカにおいて新自由主義が破綻しつつあることの客観的要因は、経済成長の失敗と貧困層の増大でしょうが、主体的な要因として人民的抵抗が呼び覚まされているということが大切です。座談会「中南米の変化をどうみるか」のなかで菅原啓氏が「我慢の度合はアジアの人々に比べてラテンアメリカの人々は短いと思いますが」(24ページ)と述べています。しかしこれはただ我慢が足りないので反抗する、というような単純なことではなくて、一つには民主主義の伝統があって日本以上に根付いているということであり、二つにはオルタナティヴとしての市民の連帯・運動があるということでしょう。日本などでは、人権意識の弱さと連帯・運動の欠如によって、個人的な我慢でやり過ごさざるをえないという状況があるわけで、これをいわゆる「日本人論」で宿命的に捉えるのでなく、諸外国の運動にも学んで打開していく姿勢が大切です。民主主義の伝統については、岡部広治氏が、ロシア革命やワイマール憲法以前にメキシコ憲法が社会権を掲げていた、と指摘しているのがきわめて印象的で、ラテンアメリカの変革の底深さを思わされます。市民の連帯・運動では、菅原氏の紹介によれば、労働組合運動の弱体化に代わって新しい切実な運動が起ってきています。失業者団体による工場の自主再建や集合住宅の建設とか地域住民の学習会とか目覚ましいものがあります。とても「我慢の足りない人たち」にできることではありません。資本の無理難題に耐えるのか、新しい道を切り開く困難に立ち向かうのか、という選択の問題だと思えます。選択のカギは展望の有無でしょうか。
高懸雄治氏の「日本・メキシコ経済連携協定」によれば、WTOの行き詰まりの代わりとしてFTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)の締結が世界的に盛んになっています。こうした国際的交渉では、まず国益という言葉に象徴される、国対国の対立と調整が注目され、次いで各国内での産業対産業、具体的には農業対工業の対立と調整が問題とされます。しかし私たちはそれらの中にも階級的観点を貫くことが必要です。高懸氏によれば、今回の日本・メキシコ経済連携協定に「関する論調には、一つの特徴があった。工業品(輸出)と農産品(輸入)におけるダブル・スタンダードである。工業品輸出論は、いうまでもなく製造業企業のメリットであり、その受益主体は生産者(企業)である、そこでは、その損失額まで試算されている。だが、農産品輸入論では、そのメリットは消費者であり、その受益主体は生産者(農民)ではない。しかも、その損失額は試算されてもいない。つまり、一方では生産者の、他方では消費者のメリット論にすり替わっているのだ」(99ページ)。様々な利害の錯綜はありながらも大筋では、農民の犠牲で多国籍独占資本の受益が貫かれており、それを支えるイデオロギーが振りまかれています。
だからといってFTAやEPAに原則として反対では、特に東アジア共同体を目指す方向には反し、世界的な経済発展から取り残されることにもなりかねません。そこで日本の場合には農業をどう位置付けていくかが最も重要な問題となります。佐藤洋氏の「自由貿易協定と東アジアの地域統合を考える」(『前衛』6月号)では、やはり階級的観点に立って、農業問題の困難さの基本点を日本と東アジア諸国との関係にではなく、両者と多国籍アグリビジネスとの関係に求めています。そして自給率向上、小規模経営の発展などのためには一国的対応ではなく東アジアでの地域的対応が必要です。佐藤論文では、貿易関係の調整やODAの活用など東アジア農業の共存共栄に向けた具体的提案が行われています。高懸論文との関係でいえば、利益を得る部門から不利益を被る部門への所得移転が提起され、FTAの締結に先だって政府が各部門での利益・不利益を明らかにする必要性が強調されています。FTA交渉が活発化している今、東アジア共同体についても理念と政策の両面で佐藤論文のようなつっこんだ議論が必要でしょう。
憲法記念日に発表された朝日新聞の世論調査を見ると、護憲派にとってはきわめて厳しい結果となっています。特に9条改正には反対が多いとされてきたわけですが、その内実も限りなく空洞化していることが分かります。確かに、「変えるほうがよい」36%に対して、「変えないほうがよい」51%ですから、圧倒していると言ってもいいのですが、他の設問では、「自衛隊は今のままでよいが、憲法を改正して、その存在を明記する」が58%もあって、まったく矛盾しています。自衛隊も9条も支持という矛盾は従来から言われていますが、ここには自衛隊のための改憲と9条擁護の両立という矛盾の極致が見られます。「日米安保条約賛成」76%はそんなものかと思いますが、「集団的自衛権の行使賛成」53%というのは脅威です。現在の最大の焦点においても護憲派は追い詰められている、といえます。軍事的問題に対する日本の世論は、常に平和への希望は持ちつつも現状追随主義的に推移してきました。その到達点として、安保も自衛隊もけっこう、改憲もけっこう、ただし9条の条文は残したい、という矛盾と混乱のなかにあります。ある意味では、これだけ右傾化が激しくなっても、9条の条文そのものは聖化され、お守りのように扱われている、ともいえます。これは、9条がさんざん蹂躙されながらも最低限のところで規範力を発揮して軍国主義化の歯止めになっている(小泉首相もイラクに戦争に行くのではない、と言わざるをえない)ことの、人民の意識への反映なのでしょう。私たちはここに依拠することから出発しなければなりません。はっきりいって改憲問題の意識状況は最悪に近いものがある、ということも正確に認識した上で、世論の矛盾のどこから切り返していくか、といえば、お守りとしての9条しかない、と思えます。とにかくこの条文を墨守すること。
終戦直後の憲法制定当時には、9条の平和構築力は実感を持って圧倒的に支持されました。9条のリアリティが最高潮のときです。その後も9条が平和に役立っているという意識は持続しますが、日米安保条約の締結、再軍備、と日米政府は9条を蹂躙し続けます。そして人民の多くの意識としても9条と安保・自衛隊との共存という矛盾を受け入れ、9条は限りなく空洞化しフィクションに近づきます。しかしその条文の存在は、今問題となっている東アジアでの日本の軋轢を解消する導きの星です。過去の侵略戦争への反省を本物として、中国や韓国などとの関係を改善し、6ヵ国協議を通じて、ならず者国家・北朝鮮とアメリカ帝国主義及び従属国日本という東アジアの危険要因を規制する環境が形作られれば、9条のリアリティは回復されていくでしょう。そう考えれば現在の9条のフィクション性は、過去のリアリティの記憶を喚起し、未来のリアリティを創造していく交点にある想像力として捉えることができます。
いささかロマンティックな表現になってしまいましたが、実際にやるべきことはロマンティシズムを排して現実を見据えて9条を墨守することです。国民投票で9条を選び直すという議論があるそうですが、こういう潔くてカッコいいが実際には非現実的で結果として無責任な議論はダメです。愛敬浩二氏は世論調査の「ねじれ」を直視し、「選び直し」成功の見込みは少ない、と率直に述べています(「しんぶん赤旗」5月4日)。戦後政治の力関係の中で9条の条文が作用して、海外派兵の禁止、集団的自衛権行使の禁止というところで何とかとどまっているわけで、9条が変えられればそこは突破されます。「9条の選び直し」などという悠長な議論を許す状況にはなく、「9条を使い尽くす」ことを通じて、日本政府による米国への軍事協力を抑制することこそが、私たちの課題とされるべきだろう、という愛敬氏の結論は憲法学者としての使命感ある現実主義だろうと思います。
2005年7月号
北村洋基氏の力作「日本資本主義の新段階」では、経済構造と産業構造との区別、また経済のメイン・システムとサブ・システムとの区別という両視点が確立されます。その視点から、80年代から現在までの新自由主義的構造改革を一色ではなく、各段階の特色を押さえながら深化の過程を追い(産業構造の変革から経済構造の変革へ、サブ・システムの変革からメイン・システムの変革へ)、現段階を総仕上げとして把握しています。
初めに概念整理が行われます。経済構造というのは通常、通時的・現象的観点から経済循環との対比において捉えられることが多いのですが、本論文では共時的・本質的観点から史的唯物論の土台=上部構造論の中に生産諸関係の総体として位置付けられています。そして構造改革とは、「資本主義という枠内において、主として国家権力によって経済構造やそれにつながる上部構造を改変すること」(89ページ)と定義されます。これは政治的には左右を問わない定義です(たとえば98ページでは「国民的な下からの運動」による構造改革に言及されている)。産業構造の方は生産力にかかわる概念であり、社会的分業の発達水準を表わすものとされます。なお尾上久雄氏は「構造」という用語について、近代経済学的意味とマルクス経済学的意味とを対比させ、イタリア共産党の構造改革論を意識しつつ、上部構造とのあるいは体制変革との関係を考察しています(尾上久雄、新野幸次郎編『経済政策論』新版、有斐閣大学双書、1991年、358-360ページ)。
問題提起においては、人々の生活を含めて日本経済のマクロ的状況の深刻さとバブル期に匹敵する大企業の高利潤とが対照的な現段階が活写され、日本資本主義は長期不況終結後の新たな段階に入ったとされます。そしてこの対照は単にリストラ効果だけでなく、大企業において新たな収益基盤が形成されつつあるためではないかと示唆されます。結論的にはその基盤としてグローバル化と情報化が上げられます。つまり多国籍独占資本がグローバルに活動できるような国づくりが行われ、情報化によって大幅に生産力が上昇し、労働過程が改変されたことなどを通じて、競争至上主義的な分裂社会が形成され、人民の犠牲の上に資本の繁栄が謳歌されることになります。
ところでいわば横道的エピソードとして以下の点に触れられたのは興味深いことです。90年代初頭のバブル崩壊時に日本経済の歪みへの反省が体制側からも語られ、企業中心社会から生活大国へという「国民的合意」が形成されました(そんなことも確かにあったが、すっかり忘れていた)。この目標は事実上すぐに放棄され、まったく逆のヴァージョンアップした90年代新自由主義的構造改革に換骨奪胎されました。悪いことにエピソード的スローガンだけは表面的に記憶・利用され、あたかも構造改革が生活大国への道であるかのごとき幻想がかもしだされました。たとえば内外価格差によって生活費が高いことが、豊かさの実感できない原因だとして、農民・中小企業・自営業者など「非効率」部門に責任を押し付け、その淘汰を推進し、効率至上主義で働き過ぎ社会を作り出している独占資本を賛美しその自由を拡大する構造改革に邁進しました。
しかし一時的にせよ企業中心社会への反省が体制側からも出てきたのはどういうことでしょうか。それはおそらく人民の意識と要求が高まってきたこともありますが、当時日本の大企業の国際競争力の強さが世界的な脅威を与え、日本経済や社会に対する異質論バッシングが起って、それへの対応としての「普通の国」ポーズがあったのではないでしょうか。体制側の日本経済上出来論、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という奢りが国際的非難(そこには不当なものも含まれるとはいえ)とバブル崩壊の衝撃で一時的な「反省」に至ったように思われます。しかもバブル崩壊とはいえ、その後の泥沼的長期不況は思いもよらずにまだ余力がある段階で、まあちょっとおこぼれを民の生活に回してもいいか、という程度のノリではなかったかと…。だからもちろん本気ではないので不況の深刻化ととともにすぐに撤回されました。「甘いこと言ってられるか」。やがて資本の側はバブル期並に回復しても人民に対しては、「競争は厳しいんだよ。気を抜くな」。
しかしここは他山の石。1970年代の政治過程を回顧して山本義彦氏(「日本資本主義の発展とその特徴(下)」)は次のように反省します。
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六○年代から上げ潮を迎えてきたこれらの社会運動と革新勢力の運動を支えていたのは、当時の高度成長の持続による「要求実現の可能性」にあったであろう。その後の経済の低迷は人々の意識を萎縮させ、企業内に閉じこもった状況を作り出したし、雇用不安がそれに拍車となり社会運動の主張の多くは、物的要求に根ざすものであったから、当然企業余力が縮小する下では、要求実現の基礎が堀り崩されていった。 156ページ
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残念ながら革新勢力も実際には体制側のトリクルダウン理論の枠内にいたということです。人民の生活と労働の向上という目的がまずあって、それに合わせた社会全体の設計がなされる、という発想が少なくとも本音の部分ではなかった。熊沢誠氏の見解を参考に考えれば、日本のこのような事態を招いた一つの重要な原因は、左右を問わぬ労働運動の体質にあるでしょう。つまり社会全体に影響するような組織労働者の規範を私たちは持たないできた。それは資本主義社会の「国民の常識」としての個人主義的自由競争志向とは分立した「仲間同士の能力主義的競争の制限」「働き方に関する集団的な自治」といったものです。労働組合は単なる賃上げ機関ではなく、本来は労働そのもの・仲間関係・職場集団に関する独自の論理を持たなければなりません。日本の職場社会は企業社会でしかありませんが、欧州ではそこに労働社会があるのです。労働社会に生きる人々は生活の資本への従属には抵抗するでしょうから、自立した家庭生活と地域生活を自らの人生の基盤と考えるでしょう。社会のあり方はそれを阻害するものであってはならないので、当然資本には必要な規制が加えられることになります。
今日のグローバリゼーションへのオルタナティヴとしてのそのようなもう一つの社会(90年代初頭の「国民的合意」としての生活大国もまたその一形態である)が可能か、というのが私たちの課題です。そうした文脈の中で、日本経済に即した北村洋基氏の次の問題提起を受け止めたいと思います。
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内需主導でなおかつある程度の貿易黒字を恒常的に実現しうる安定的な産業構造と経済構造とは、具体的にはどのような構造なのか、またそれをどのように形成し実現するのかについて、本格的な議論が必要である。その際、とくにアジア諸国・地域との経済的関係をどのような内容のものとして構築してゆくかが課題となろう。 108ページ
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ところで経済社会の質的転換において、労働運動の職場把握が重要なことを述べてきましたが、北村論文では情報化の進展にともなう労働力の構成の大幅な変化が問題とされています。労働の二極分解・多極分解に適合するように労働法制等が変えられ、経済構造のメイン・システムの解体と再編成を後押ししています(107ページ)。つまり労働者にとって不当とも思われ、資本=賃労働関係を労働者不利に悪化させている、労働条件の法的・実質的改悪には、情報化における労働過程の変化という実在的基盤があるということになります。これは深刻な問題であり、抵抗の基盤と変革の芽をどこに見い出すのか、情報化された労働過程の分析が求められます。
また「日本でも九○年代以降の統計上の製造業就業者数の比率の急速な減少や生産額の低減は、製造業の情報化を反映した生産性の向上と相対価格の低下、そしてグローバル化によるところが大きく、単純に製造業の地盤沈下や空洞化としてだけとらえることはできない」(109ページ)という指摘は価値論的に興味深いものです。
2005年8月号
およそ批判的=科学的経済学の課題は「現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがまだその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることであ」り(ポール・スウィージー『歴史としての現代』序文)、大きくいえば資本主義から社会主義への移行期としての現代のうちに、自覚的な自由な労働としての人間的労働の実現の展望を見い出すことであるともいえます。
保守反動派と新自由主義派とは本来的には対立しつつも相互補完をも演じながら、今日の改憲策動などの危険な動きを推進しています。両者を含めたイデオロギーの諸潮流については私はかつて「今日の政治経済イデオロギー」(2000年)を書きました。そこでの分類と諸問題の提起とは今なお有効と考えています。最近ではたとえば二宮厚美氏が『前衛』8月号の「財界の労働政策とジェンダー視点の再検討」で、ジェンダー問題における諸潮流の交錯を整理し、マルクス経済学からの原則的批判を加えています。これは憲法・福祉・賃金論・価値論など多岐に渡る論点をも含んだ優れた論稿ですが、それらの論点や諸潮流の交錯についてはここでは措いて、新自由主義批判について触れます。
新自由主義が男女共働きを推進したりしてあたかもジェンダー・エクィティ(男女平等)の側に立っているかのように見えながら、その政策が実質的には男女共倒れと格差拡大に帰結することを二宮氏は指摘します。
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男子正規労働者層の世帯給または「家族賃金」の見直し、つまり切り下げです。これと競い合い、並行するようにして、女性サイドでは、パートタイマーや派遣労働に代表される不安定低賃金労働者が増大していきます。男性・女性双方が雇用・賃金の両面にわたって、ともに下方にむかって平準化する状態がつくりだされたわけです。下方平準化に向かって男女の横並びがすすみ、そのかぎりで男女の形式的平等化、ただし実質的には賃金・雇用両面にわたる不平等・格差の拡大という奇妙なねじれ状況が生み出されることになります。 102ページ
いきつくところは、労働者個々人をバラバラに分断し、能力主義競争に駆り立て、結果として、正規労働者の非正規化、男性労働の女性労働化、家族賃金の個人賃金化、つまり労働者全体が下方に向かってイコール・フッティング化(均等条件化)する事態を導き出す。 106ページ
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こうした新自由主義への対抗として二宮氏は、人格的発達保障の平等化、女性の社会的ハンディキャップを取り除く福祉国家の建設とならんで、能力主義的支配・競争に制限を課すことを力説しています。
二宮論文では「シングル単位論」が批判されているのですが、伊藤誠氏は「日本経済の構造的困難 景気はなぜ回復しないのか」(『世界』8月号)で次のように述べています。
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グローバルな競争圧力のもとで高度情報技術の影響をもふくめ、企業中心社会の特性がいっそう強化される中で、核家族が核分裂を生じているようなシングルスが増大して、より安価な労働力が個人単位でより大量にしかも弾力的に利用可能とされている。それにともない消費財やサービスが家族向けではなく個人に向けて売り込まれ、その市場が拡大される傾向も顕著である。携帯電話や携帯音楽プレーヤーはその典型例といえる。そのような労働市場と消費市場のあい関連した個人主義への再編がまた、さきに述べた若い世代の生活上の諸困難と結合し、少子・高齢化を促進しているのである。
こうして、現代の先進資本主義社会は、日本にとくに顕著に進展しているように、極度に個人主義的市場経済社会を形成し、労働力の商品化にゆきすぎた成功をおさめた結果、人間の再生産という、みずからの社会的基礎を損なう逆説的作用を生じているわけである。 203ページ
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ブルジョア教条主義としての新自由主義は、資本至上主義の実現のため市場原理主義を推進し、核家族を核分裂させ、極度に個人主義的市場経済を形成して、社会的再生産を損なうことになりました。労働者の貧困化と人間の再生産の困難ということは常々私も強調してきたことですが、伊藤氏は家族形態と市場の変容という角度からそこに接近し、「景気はなぜ回復しないのか」という問題に関連させていることが重要です。そこには「資本主義経済の基本矛盾の根源をなす労働力商品化の無理の現代的発現形態」(203ページ)という宇野派用語もあるのですが、宇野恐慌論の機械的適用かと思われる「賃下げによる不況打開」という荒唐無稽な議論(たとえば橋本寿朗氏。伊東光晴氏も同調している。『世界』2002年5月号、伊東光晴、河合正弘「対談 デフレに有効な対策はありうるか 橋本寿朗『デフレの進行をどう読むか』を読む」参照)とは反対に労働者の困難から出発しています。
二宮氏と伊藤氏の議論で見てきたのは、形式的な自由・平等の追及が労働者にとってはその反対物に転回し社会的再生産の困難さえもたらす、というブルジョア教条主義の帰結の新自由主義段階での現われであるといえます。ここに社会科学の課題としての「自覚的な自由な労働に基づく人間的自由の実現の展望」の敵対者が新自由主義という名で跋扈している逆説を見ることが大切です。前述の「今日の政治経済イデオロギー」では、人間の自由が市場の自由を経て資本の自由に絡め取られていく、と総括しました。ブッシュ米大統領の大好きな「自由」は人類史の求めるべきそれとは異なることは明白です。
『経済』8月号の座談会「大企業の労働者支配とたたかい」での黒田兼一氏の報告からは、上記の自由の逆説が、企業内では「自発性を強制するシステム」(22ページ)としての能力主義管理として現われてきたことがわかります。その本質は「自己の企業成長を第一に考える企業主義、競争への参加が民主的に開かれているという民主主義、そして歯止めがない底なしの競争」まとめて「底なしの企業主義的競争民主主義」(22ページ)です。グローバリゼーションとIT革命によって、成果主義賃金・裁量労働制・非正規雇用の拡大などの新しい形態に替わられようとしているということですが、いずれにせよ、自由と一体として観念されている「底なしの競争」への規制なしには人間の自由はありえないでしょう。
新自由主義の形式的自由・平等論の法学次元での問題が、小沢隆一『はじめて学ぶ日本国憲法』への横田力氏の書評(『経済』8月号)で扱われています。「『人権・民主主義・平和』からなる価値原理に対して『自由・民主主義・市場経済』なる価値原理を対置させ、人権からその内容における普遍性を奪い、それを諸力能をもった市場における諸個人の自由乃至権利に還元させる動きである。それは、また個人を力能化させるだけでなく、自由と秩序の擁護者としての国家の力能化をも招来させ、これまで築き上げられてきた戦争違法化、諸人民による人道の保障といった普遍的課題を相対化させる最大の要因ともなっている」(173ページ)。このような憲法原理の形骸化・逆行を許さないためには「形式的平等即ち『人一般』の諸自由を人権とする構想に対して、実質的平等即ち『労働者・女性・老人などといった具体的属性を持った人間が主体として規定され』、彼等の権利を同じく人権とする構想が対置される」(172ページ)ことが必要です。このように人権と市場(に代表される経済制度)との関連像の違いは当然のことながら基礎となる経済理論の違いによって大きく影響されます。つまり新自由主義の基礎である新古典派のアトミックな市場像と、領有法則の転回を媒介として階級関係が包摂されたマルクス経済学の市場像との違いです。もちろん後者こそが人権の具体的展開に開かれた理論です。
佐貫浩氏の「子どもの暴力とコミュニケーション」(「しんぶん赤旗」7月19/20日)では競争・暴力・表現・コミュニケーション・人格形成・平和といった問題について教育学者の視点から深く解明されています。「新自由主義によって強力な社会的メッセージとなっている『自己責任論』も、弱者として生きているものの率直な思いや不満や怒りの表現を閉ざしている。そしてこの表現抑圧が、ますます人々を無力化する。そして、このような人格の構造が日本社会や世界のあり方として平和を構想していく力量と想像力を奪っているのではないか」。近代社会の原理は個人の尊重・自立ですが、それを生産力主義的に市場に投企する強い個人(新古典派的人間像)と考えるのではなく、様々な弱者も含めた個人として理論的に出発することが必要です。「底なしの競争」から脱却して人間的社会と世界平和を実現するためにも。
先日、ある優秀な中国人留学生と日中関係について話す機会がありました。彼は日本の農業経済などを学んでおり、美しい日本語を話します。自国民の多くがまだ貧しいことに心を痛めつつ、逆に近年、大国意識が高まっていることに危惧の念を抱いていました。普通の日本人が考えているほど中国に自由がないわけではないが、民主化は必要であり、それは困難だがやがて実現されるだろう、と語っていました。このように自国を反省する良識が今、日中両国人民に広く求められている、と感じました。
日中両国でのナショナリズムの高まりについて私は次のように話しました。……中国のナショナリズムは元来は外国からの侵略に対抗する中で生まれた健全なものだが、近年では大国意識によって歪められた部分があるかもしれない。それに対して日本のナショナリズムはアジア侵略のイデオロギーであり、敗戦によっていったん挫折した。しかし近年また蔓延しつつある……そのように考えると、日中双方についてナショナリズムの行きすぎを警戒して同様に抑制を説くのは、一見穏当のようですが、各々のナショナリズムの中味を分析せずに、結果として今日の日本のナショナリズムの危険な本質を見逃すことになりかねません。
対話の中では、かねてより抱いていた疑問を彼にぶつけてみました。侵略戦争は当時の日本政府に責任があり、日本人民も被害者である、というのが中国政府・共産党の公式見解だが、実際、中国の民衆は日本人を恨んでいるのではないか、と。自分の家族や回りの人々などを含めてそういうことはなく、おそらく中国人が一般的に日本人を敵視しているわけではなく、公式見解のように考えている、というのが彼の回答でした。中国人民の中で良識は生きているといえます。
政府と人民を区別するのは科学的社会主義の原則であるばかりでなく、そもそもブルジョア法の原理としての立憲主義は人民による国家権力への規制を根本原則とするものです。今声高に「自虐」史観批判を唱えて侵略戦争への無反省を喧伝する向きがありますが、彼等にとって15年戦争を侵略戦争と認めることは政府と国民が一体となった自国=日本の罪を認めることになります。軍国主義日本を正当化する彼等はそれを認めないことによって国民と国家とがともに浄化されると感じるのです。国家と人民を区別する立場からすれば侵略戦争の自覚は自虐ではなく、国家責任の正当な追及となります。改憲勢力が立憲主義を攻撃して逆に人民を縛る憲法を構想しているのは、単に反動というだけでなく、この「自虐」観、侵略戦争への無反省の根底にある国家と国民の同一視(国家の中に埋め込まれた国民)が浮上したということでもあります。侵略戦争への反省の上に立つ日本国憲法とその無反省の上に立つ改憲論との対照の内に、まさに憲法とは歴史を反映した構成(constitution)であることを読み取ることができます。
中国人民の良識に答えるためには、私たちは外に向かっては日本国民として侵略戦争の反省を語り、内に向かっては、首相の靖国参拝に代表される無反省を追及し国家責任をはっきりさせ、二度と侵略戦争の愚に至らないようにしなければなりません。それが現代に生きる私たちの戦争責任の取り方だと思います。いくら政府と人民は区別されるといっても民主国家においては政府の行為も究極的には人民の責任に帰されるべきですから。
2005年9月号
シンポジウム「こんにちの食糧問題を考える」では、FTA・バイオテクノロジー・食糧自給率といったきわめて現実的な課題から出発して、「食糧経済学の課題と方法」という理論的総括に至るという、大変興味深い議論が展開されています。
食糧というのは人間生活にとって根源的なものであるだけに、「食糧経済学の課題と方法」として提出された議論は、史的唯物論と労働価値論の根本に触れるものとなっています。たとえば河相一成氏が用意した「食糧経済学の概念図」は人間の全生活過程24時間を睡眠と労働と自由時間に3分割しています。これは、労働時間の短縮を軸にした人間発達と社会発展という史的唯物論と労働価値論の立場が食糧経済学の基礎にすえられていることを表現しています。そして河相氏による『資本論』第1部第3篇第8章第5節からの引用は実に鮮烈な印象を与えるので敢えて再掲します。
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資本は、身体の成長、発達、および健康維持のための時間を強奪する。それは、外気と日光にあたるために必要な時間を略奪する。それは、食事時間をけずり取り、できれば食事時間を生産過程そのものに合体させようとし、その結果、ボイラーに石炭が、機械に油があてがわれるのと同じように、食物が単なる生産手段としての労働者にあてがわれる。それは、生命力の蓄積、更新、活気回復のための熟睡を、まったく消耗し切った有機体の蘇生のためになくてはならない程度の無感覚状態の時間に切りつめる。
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カローシに至るような現代の労働者も本質的には同じ状態に置かれているといわねばなりません。ここには労働者からの時間の強奪だけでなく、生産過程において彼等が生産手段として扱われていることも書かれています。労働過程において労働だけが主体的要素であるからこそ労働が価値を生み出すのであり、資本主義的生産においてもそれは貫徹されるのですが、あたかも客体としての生産手段のように扱われるのです。ここでは資本が主体とみなされています(確かに資本主義的生産過程の主体は資本なのですが、それは労働が主体である労働過程という内容を、価値増殖過程という形態に包摂することの上に成立します)。そして機械に油をさすように、労働者に食物があてがわれる(通勤途上の立ち食いそばとか、ファーストフードなど)中では食糧が使用価値として歪みます。こうして労働時間増大・労働主体喪失による生活破壊、食糧の使用価値破壊が進みます。この惨状の意味を理解するには、労働時間短縮による人間発達と社会発展、という史的唯物論と労働価値論の見地をしっかりおさえなければなりません。
食糧経済学では、労働者の全生活過程の中に食糧消費過程を質・量の両側面において位置付け、従って使用価値と価値の双方をふまえた消費過程をおさえます(156ページ)。価値的側面としては可変資本としての労働力の再生産が問題となりますが、長期不況の中でこれが深刻になっています。賃金が労働力の価値以下に下がっている、あるいはグローバリゼーション下で労働力の価値そのものがアジア的水準に下げられようとしているといえます。これはいずれも生活必需品の使用価値量が減少することになります。それだけでなく上記のように使用価値の質的側面での歪みも深刻です。河相氏は健康に害がある使用価値の低い(ない)食糧品には商品価値がないことをはっきりさせる必要があるとしています(157ページ)。
そうするとそもそも市場での評価とは何か、ということが問題となります。商品経済においては、私的労働が社会的労働としての実を持っているかどうかはその商品が売れるかどうかにかかっています。健康に害があっても売れる以上はその商品を作った私的労働は社会的労働として認められたことになります。逆に農産物では生産費をあがなえずに補助金など何らかの政策的援助に頼る場合が多くなっています。市場ではその私的労働は社会的労働としては認められていないことになります。しかし実際にはそうした農産物は無用の長物ではなく必要とされ消費されています。
有害なものが売れるということは、ゆとりのない歪んだ生活に合ったものが売れるということでしょう。それは河相氏が強調する、食糧の調理過程の社会化の矛盾の現われです。もちろん松原豊彦氏や久野秀二氏がいうように社会化すべてを否定するべきではありません。資本が押し進める消費社会の生活スタイルによって、家庭での調理過程がどんどんなくなっているのが問題です。したがってその解決には労働を含む全生活過程の改善が必要となります。そうしないと、有害な食糧が市場で売れていく、つまり誤った使用価値を生む私的労働が社会的労働として認知される、という現状が続きます。
逆に市場では多くの農産物の価格が十分に形成できないということは、外国産農産物の価格の影響や過剰生産などが原因としてあり、生産調整や価格調整を経て何とか生産費をペイする、あるいはペイできなくて農外所得で補うということが多いのだと思います。しかしそれでも米などがそうして作られた価格で売られ国民経済が成り立っていることは厳然たる事実です。そういう現状への批判もあり、生産力主義的立場から株式会社の導入などが唱えられてきましたが、現実的でないし、大規模農業の環境への悪影響も心配されます。また農産物輸入のさらなる拡大には消費者の懸念が高まっています。したがって家族農業などの小経営が支えている日本農業の現状を直視し、その発展を図ることが大切です。その際に様々な産業間にある不等労働量交換という事実から出発することが必要です。農業のように死活的に重要でありながら旧来型の産業はリーディング産業との間には所得格差があり、これは不等労働量交換が成立していることを示しています。新古典派などはこれをもって農業労働の非効率という非難に代え、現実を無視した「改革」を押し付けてきます。しかし現実の投下労働を正当に評価する視点があれば、市場の需給関係で成立する価格を絶対視することなく、国民経済のバランスのために一定の不等労働量交換の是正という政策課題を是認することができます。
問題をこのように抽象的次元で捉え返すことは現実的政策にとってはあまり意味がないかもしれませんし、そもそも理論的にも失敗しているかもしれませんが、市場原理主義が正義として君臨している現状において対抗の深い視点が必要だと思ったのです。しかしせっかく現実的問題に切り込んだシンポジウムに対して、的外れかもしれない抽象的感想に終始して失礼しました。妄言多罪。
先日、米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店 2001年刊)を読みました。「大宅壮一ノンフィクション賞受賞」と書かれた帯に、6人の選評から一言ずつ抜粋されていました。ぼくのきらいな猪瀬直樹や立花隆のもあるが…。5つまでが「渋滞なく読ませる技倆、プロの仕事だ」(関川夏央)など文章のうまさをほめたものばかり。確かにそれはそうなのだが、立花隆からの抜粋だけが「とんでもない重みをもった作品だ」と、内容の核心を衝いていました。
著者は1960年1月から1964年10月まで小学校4年生から約5年間、プラハのソビエト学校に学びます。1968年のソ連のチェコ侵略よりは前ですが、1963年の部分核停条約発効をきっかけとした中国とソ連との決裂表面化の時期を含みます。日本共産党幹部であった父、米原昶は当時の国際共産主義運動の理論誌『平和と社会主義の諸問題』の編集部へ党から派遣されプラハに赴任したのでした。著者は多感な時期に政治の波にもまれながらも同級生たちとかけがえのない友情を育んでいきます。その中でもギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤースナという3人の少女との思い出と彼女らのその後の歩みを綴ったのが本書です。
社会科学的関心からいえば、本書は、大きくいえば、20世紀「現存社会主義」とは何であったのか、という問いや他の多くの問題に理論的研究とは違った角度から生き生きとした答えのヒントを与える文学作品といえましょうか。ちょっと拾ってみても、共産主義者の矜持、「現存社会主義」の偽善、日本とソビエト学校との教育比較、欧州各国の生活と文化、移民問題、ユダヤ人問題、ナショナリズム・愛国心・グローバリゼーションと人間など、現代の重要な問題群が、伸びやかなユーモアと人間臭いエピソードの中に語られています。
今ではソ連とか社会主義といえばマイナスイメージの塊のようなものですが、このソビエト学校の有様は日本の学校の陰鬱な様子と比べるとはるかに溌剌としています。いい意味で社会主義の建て前が生きていて、多くの国の子女がいても差別を許さない友好の雰囲気があり、また当時の社会主義国間の様々な問題が生徒たちに悪影響を及ぼさないように気を使う教師集団がありました。個々にも優秀で魅力的な教師たちがいて、もちろんつまらない教師もいますが、生徒たちも彼等を人間臭い男や女として捉えるほどにさばけています。学業はさっぱりだが、耳年増のリッツァは、宿題を忘れて教師から叱られ無視されても「あの先生は欲求不満のヒステリーよ」と切って捨てていました。学校で「レーニンの生涯」などというソ連の啓蒙映画を見せられて著者が感心しているときに、リッツァは「レーニンって、ずいぶんいい暮らししてたのね」と意外な点を見抜く慧眼をもっていました。この一事から成績だけで頭の良さは判断できないことを悟った著者もまた子どものころから慧眼の持ち主だったというべきか。
長じてドイツで医者となったリッツァは移民の患者たちから信頼を得ていました。久しぶりに会った著者に語る祖国ギリシャのこと、ドイツとチェコの比較、スロバキア人・ロシア人の評価とか…。縦横の語り口はヨーロッパ社会と文化に対する鋭い批評となっていました。ソ連・東欧の激変などを経て、賢い少女が幾多の苦難を糧にたくましい生活人となっていました。
本書は大切なこと、面白いこと満載で、ここまでほんの序の口しか書けなかったのですが、きりがないのでやめておきます。著者は今では有名なエッセイストであり、今回初めてその著書を読んだのですが、希有な体験でありながらその普遍的意義を余すところなく捉えて提供するその洞察力と筆力に脱帽です。
2005年10月号
資本家というのは、資本の運動の担い手であって、何よりも利潤追及を使命とします。経済同友会はかつては修正資本主義の立場だといわれていましたが、今では過激な新自由主義を唱えて財界全体を先導しようとしています。まさに資本の魂の集団といえましょうか。ところが経済同友会終身幹事の品川正治氏の話「憲法9条と日本経済の将来」からは、資本の論理に対する人間の論理の優位をうかがうことができます。
品川氏が主張するのは「戦争を甘く見るな」「福祉を経済成長の範囲に押さえるというのは誤り」「貧困や病気など、より困っている国を支援するのは当たり前。日本政府にはその感覚が欠けている」という、まったく人間的感覚に基づくことです。憲法との関連でいえば、個人の尊厳から発する感覚といえます。そういえば、個人生活を犠牲にして悪政に耐える、筋違いの「大所高所」好きの日本人気質を、山家悠紀夫氏が嘆いていました。それは自民党の悪政を支えるだけではありません。「会社がたいへんだ」「国家財政も大赤字だ」ということで、痛みに耐えていると、財界奉仕の政治のおかげもあって、大企業だけは空前の好景気になっています。そしてたとえばいまやトヨタ・システムは世界の自動車産業を制覇し、この非人間的労働強化が世界中で行われています。グローバリゼーション=大競争の典型がここにあります。個人の尊厳を損なって耐えに耐えてきたことは美徳ではなく、結局自分の会社さえよければということで、資本の専制を強化し世界中の人々を不幸にしてきました。本当に「大所高所」に立とうとするなら逆に自分の生活を守るため闘うべきなのです。
ブルジョア革命の理念の継承者としての日本国憲法は個人の尊厳を出発点にすえるのですが、現代においてそれを実現するためには資本への規制を行わねばなりません。財界が改憲=軍事化の方向に向いているのは、品川氏によれば、現在の日本経済の課題を見失っているためです。資本間競争による成長の呪縛にとらわれ福祉などをなおざりにすることを、品川氏は「近代化」路線の不必要な継続としての「市場主義」の中に見い出しています。それには国民経済全体の観点がありません。個人の幸せ、国民経済そして世界経済の発展、それらすべてが「市場主義」からの脱却にかかっている、というのが日本国憲法の観点から出てくる経済民主主義の立場ではないでしょうか。日本国憲法は自由権、社会権、平和的生存権という人権の歴史を反映した重層的構造をとっているだけに、我々はもっとそれを様々に生かして行けるはずです。
品川氏は9条を守る闘いの留意点と意義について重要な指摘をしています。ひとつには小選挙区制の下で作られた国会議席だけで判断して改憲ができる、というのは狭い考え方だということです。民意とはずれている。ふたつめには対峙する相手は国内の改憲勢力だけでなく、むしろ基本的にはアメリカだということです。そしてこの闘いの意義の大きさについての以下の発言には大いに勇気づけられます。
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もし私たちが改憲の動きから、憲法九条を守り切ることができたなら、日本の経済も外交も根本的に変わってきます。経済では、先ほど行ったような「近代化」の道を転換できるでしょうし、アメリカとの関係も変わるし、中国の日本を見る目もまったく違ってくる。東アジアの諸問題に日中韓三ヶ国で、共同して取り組むことも可能な流れになってくることは間違いありません。
そういう点で、私たちの運動は現在の不当に仕掛けられた攻撃から憲法を守るという受身の形ではない。我々が本当にがんばって、憲法九条を守り切れば、二一世紀の世界を大きく変えるような意味を持っているんだと自覚すべきだと思います。そして、まったく違った日本、世界を子どもたち、孫たちに残したい。私は、この思いが一番強いのです。
66-67ページ
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これから、憲法を変えることは「改革」であって、護憲は守旧派・抵抗勢力、要するに後ろ向きの連中だというキャンペーン、ムード作りがマスコミを動員して行われるでしょう。小選挙区制導入のときも、「政治改革」の名の下にすべての商業マスコミが取り込まれ、御用学者が大活躍しました。何の道理もない小選挙区制が、白を黒と言いくるめる言説の繰り返しで正義であるかのごとくに粉飾され、それに反対するのは時代遅れであるかのような無知蒙昧の状態が現われました。改憲策動ともなれば、それを何倍する、狂気に近い状態になるかもしれません。今からでも、品川氏が指摘した護憲の積極的意義を握って放さず、草の根から憲法を大いに語っていくことが大切です。
2005年11月号
本号において、私たちは日本資本主義の生産力の最先端部分およびその対極にある広範な貧困をともに見据えることができます。その両にらみの間に自らを置いて、それぞれの「現場から経済改革を考える」よすがを得ることができます。
トヨタに対しては本誌でも多くの論文が掲載されてきて、告発型のものと内在的にその強さを分析したものとが見られます。小阪隆秀氏の「世界に進出するトヨタの新戦略」は後者のタイプであり、トヨタの直面する様々な問題点も指摘されているとはいえ、世界を相手にしたその周到な経営戦略に圧倒される、というのが一読した印象です。トヨタの賃金は社会的に相対的には高いでしょうが、毎年賃上げゼロが続いています。賃金上昇圧力は利潤圧迫要因となり技術開発のインセンティヴとして働きますが、それなしでもトヨタは部品コスト削減や新技術開発の手をゆるめません。もちろんそこには厳しい世界的な競争が強制力として働いているとはいえ、経営者のモラールの高さがうかがえ、労働者の緊張感が伝わってきます(もっとも最近、プリウスやカローラなどのリコールが相次ぎ、ほころびがかいま見られますが。また1997年のアイシン精機の火災でトヨタの生産は停止してしまった。かんばん方式の盲点であり「遊び」のなさが不測の事態への対処を不可能にした)。そのスピード・効率・「先見性」に満ち張り詰めた現場は、零細な古本屋の身からは違和感しか感じられません。
しかし世界No.1のグローバル企業になろうとしているトヨタの現実は、紛れもなく世界資本主義の現実の縮図であり、私たちの生きる世界そのものがこの生産力のあり方を離れて存在しないのです。だから外からの何らかの基準やましてや願望の立場からだけの批判は無力といえます。小阪氏は最後に企業の社会的責任の観点からトヨタの市場での成功の暴走にたがをはめています。これはトヨタの成功の内在的分析の結論から出てくる控えめな批判でしょう。しかしこれだけ肉薄したのならば本質的内在的批判に進めるように思うのですが。トヨタシステムとかリーン生産方式とかいわれるものの生産力のあり方の人類史的意義を腑分けしつつ、それが労働・環境に与える負荷、車社会の問題点といった、「自動車の社会的費用」のトヨタシステム的段階といったものが指摘できるでしょう。それが単なる外在的批判と違うのは、トヨタの経営戦略(と労働過程のあり方)そのものが生み出す必然的結果として摘出することが期待されるということです。
「今日の自動車企業は、グローバルな配置と規模拡大のスピードおよびモデルチェンジと技術革新のスピードの両方を同時に追い求めなければ、競争優位に立てない状況のなかに置かれているのである」(78ページ)。これは情報化によって強制されることであり、またトヨタなどの生産力によって可能となったことでもあります。しかしたとえばモデルチェンジのスピードなどということは、資源・環境問題という歴史貫通的使用価値の観点からいえば無用というより、有害であるとさえいうべきことでありながら、資本主義的価値増殖の観点からは強制法則として作用します。それを制御できるのは資本の外にある社会的力だけです。そう言ってしまうと、経営戦略の内在的分析に基づく批判なるものは無意味であって、初めから外在的批判をしていればいい、ということになりかねません。しかし引用文にあるようなグローバル企業の置かれた位置、そこに進まざるをえない衝動の客観的根拠は内在的分析から得られるものでしょう。
以上、論文の内在的検討になっていないのが申し訳ないところです。新自由主義は生産力主義と生存権否認との結合であるといえます。それは市場原理主義を手段とした資本至上主義を本質とします。そこで新自由主義批判として人間の生存権の立場から資本を規制する経済民主主義があります。労働者の正当な権利を前提としつつ、NPOなどを含む様々な小経営や中小企業の活躍が期待されます。そうした人間の顔の見える経営の成功例はしばしばマスコミでも報道されます。問題は、国民経済や世界経済のレベルでは、新自由主義の本丸としての多国籍独占資本の制御にあります。もちろん現状では、諸国家や諸国際機関がその任務をよく果たしているわけではなく、逆に資本に奉仕している側面のほうが大きいですが、人民の圧力で任務を果たさせねばなりません。新自由主義の生産力主義への反発から反生産力主義に陥って、小経営の活躍だけに注目して、その観点からグローバル企業を告発するだけか逆に無視するか、ということでは現実の変革の展望が出てきません。反対に左翼的生産力主義の立場では結局、新自由主義に取り込まれることになりかねません。体制としての社会主義的変革が当面する課題とはいえない段階では、人間的社会の観点から多国籍独占資本の存在を前提にそれを制御することが不可欠となります。その際にその内部を知り、生産力のあり方の合理性と矛盾とをともに明らかにし、巨大企業を経済民主主義の中に位置付けていくのが科学的経済学の任務といえましょう。それが首尾よくいくためには研究対象との密着と突き放しというスリリングな緊張関係が要求されることが推測されます。阿諛でもなく遠吠えでもないためには。
生産力の最先端の真逆には貧困の蓄積があります。もちろんこれは日本資本主義における表裏一体の現実です。貧困と社会進歩とはどうかかわるのか。金澤誠一氏の「生活不安と経済学研究の課題」122ページから。
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低所得層からみれば、生活保護受給世帯の生活水準は相対的に高いことになり、低所得層の増大は、そうした見方をする人々の増加を意味している。相互に足の引っ張り合いをするのか、それとも保護基準を一つの防波堤・抵抗線として、低所得層の生活水準を引き上げるのかの岐路に、今日の日本社会は立たされている。
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貧困の増大は社会進歩にとっては諸刃の剣であって、差し当たっては残念ながら凶と出ています。「相互に足の引っ張り合いをする」人々の増加こそが、公務員をスケープゴートにした小泉劇場の成功の基盤でした。「保護基準を一つの防波堤・抵抗線として、低所得層の生活水準を引き上げる」ことは人民の闘争力にかかっていますが、その側面援助としては、「構造改革」のオルタナティヴとしての経済民主主義のヴィジョンが必要です。人民の生活が豊かであってこそ発展する経済。「構造改革」は小泉=奥田路線に象徴されるトップダウン式ですが(やることはコストダウン)、私たちはボトムアップ式を推進したい。座談会「現場から経済改革を考える」の中で松村加代子氏はこう言っています。「労働者のきちんとした賃金・労働条件、雇用確保があって、それがあるからこそ、事業主・雇用主も元請や上位下請に適正な工事代金・単価を請求できるような、ボトム・アップ式の価格形成がやはり必要です」(62ページ)。大門実紀史氏も次ぎのように受けます。「企業がみんなコストダウンばかりを追及すると、結果的に生産性も下がり、技術力も継承されないし、日本全体の経済が沈没してしまう」(同ページ)。実際その路線で沈没しきっています。ただしこのボトムアップを可能とする条件・方策は難しいのですが。
「現場から経済改革を考える」という座談会のコンセプトはたいへん優れたもので、『経済』誌のこれから推進すべき企画です。各人の生きざまから企業のありよう、政府の責任などが生き生きと語られ理論的にもいろいろと考えさせられます。まあしかし今月もここまで長々と言葉ばかりを転がしてきたわけで(実際中味はどうなのか?)、せっかくの生きた現実を死んだ理屈にしてしまってもいけないので経済についてはここでお開きとします。残念ながら政治の話が続きますが…
「上海協力機構」というものを初めて聞いたとき何か唐突な印象を受けました。中国とロシア及び旧ソ連の中央アジア諸国、この組み合わせはいったい何か?と。堀江則雄氏の「『上海協力機構』の形成と展開」を読むとその必然性が理解できます。かつての中ソ対立を克服して「国境線を画定して相互信頼の国境地帯を作り出していく過程」(143ページ)から「上海協力機構」は生まれました。こうしてユーラシアの地域に信頼が醸成され、中露両国に隣接する広大な地域に非核地帯が創設されることにも論文は触れています。9.11以降に生まれた、アメリカ帝国主義のむき出しの力の政策に対抗して、国際社会では紛争の話し合い解決、国際法の尊重、国連重視という大きな流れが定着しつつあり、「上海協力機構」もまたそうした地道な努力の一環として重要です。ただやや気になるのは、「上海協力機構」が「テロリズム、分離主義、過激主義」への共同対処を謳っている点です。これが事実上、各国の少数民族抑圧政策を合理化する側面を持つのではないかということです。加盟国はいずれも多かれ少なかれ権威主義的体制を取り、十分な民主国家とはいえないからです。一般に私たちは各国政府が平和的政策を取るのを支持することは当然ですが、しばしばその裏に各国内の抑圧的政策が隠されていることがあり、政府への無限定な支持が民主勢力への妨害になる場合もありうることに注意が必要です。ただその民主勢力というのがしばしば非合理的な闘争手段を用いることもあるので、問題がますます複雑になるのですが。なお本論文を理論編とすれば、『世界』11月号のやはり堀江氏の「分割された島」はルポルタージュ編として中露国境の現場状況を興味深く描いています。実効支配していた地域の一部を中国に譲ったロシアにおいて、住民の同意を取り付けるに際して、いかに政治家の「リーダーシップ」が発揮され、住民が怒りながらも「同意(あきらめ)」していったかがわかります(そのやりかたの是非はともかくとして)。現実の歩みはごたごたしたものですが、その中でも両国の貿易経済関係の発展を背景に、中露関係の歴史上初めての画期的な国境線の画定が貫徹されたのです。
ユーラシアにおけるこのように地道だが広大な平和の取り組みを頭において見ると、『前衛』11月号の松竹伸幸氏の「憲法九条はアジア共通の平和の基盤」もその表題通りの内容がより説得力をもって迫ってきます。また10月17日、日本記者クラブ主催の研究会における不破哲三氏の講演「憲法九条改定論の三つの盲点」(「しんぶん赤旗」10月19日付)にもつながります。この講演は特別に新しいことを述べているわけではないと思いますが、語りの方向が新しいといえます。「憲法九条の意義」を内輪に向かって語るのではなく、いわばその裏返しの「憲法九条改定論の盲点」を外に向かって語っているわけです。政府と改憲勢力のごまかしと「常識」について、それに影響されている多くの人々に向かって説いています。内輪で鍛えられた論理を今こそ外に向かって、世間の「常識」によくかみ合う形で提供し切り結んでこそしっかり納得してもらえ、護憲の輪を広げられます。「常識」にとらわれている人にとって「日本の安全保障の弱点になっているのは、憲法九条でも軍事力の不足でもない。外交力の弱さにこそ最大の弱点がある」と喝破されるのは新鮮ではないでしょうか。
2005年12月号
90年代以降の社会的荒廃を前にして、資本が労働を破壊することで人間と社会が破壊されていく、ということを認識の起点に置かないものは今日のまともな社会科学とはいえません。いったん資本の立場に立ってしまえば、人間と社会はすべて逆立ちして見え、「構造改革」に蛮勇を振るうのを野蛮ではなく正義と思ってしまいます。マスコミと主流派社会科学の社会認識はそういうものです。「日常生活の宗教の体系」としての近代経済学の究極の姿がここにあります。
労働がなければ資本もありえないのですが、新自由主義的グローバリゼーションは労働破壊の限界まで挑戦しているかのようでもあります。労働のフレクシビリティのあくなき追及はこの限界の延長戦です。これに対して、資本を労働の下に置き、やがて止揚してしまおう、というのが社会主義でしょう。また労働破壊を適当なところで押しとどめ、資本の存在を穏当な線で確保しよう、というのがいわば資本の理性的調整の立場としての社会民主主義あるいは市民主義(両者の相違は「福祉国家」と「市民社会・市民的公共性」のどちらに強調点があるかということか)といえるかもしれません。残念ながら社会主義の側には先々までの具体的展望があるわけではないので、一般的には新自由主義への対抗軸としてはもっぱら社民的立場があげられます。ただしベネズエラ革命を見ていると、民主的変革の段階においても草の根からの根本的な社会変革が進行しており、社会主義革命への転化の可能性が考えられます。発達した資本主義国でも新自由主義との闘いの過程の先にその段階での人民生活の根本的変革を通した社会主義への志向が具体性をもって現われてくる可能性があります。だから初めから社民的枠組みにはめ込む必要はありません。とはいえ当面は、野蛮な本性むき出しの資本に規制を加えることが切実な課題ですから、一部の保守勢力をも含めて幅広く共同していくことが求められます。
本号では、丹下晴喜氏の「グローバリゼーションと財界の雇用・賃金戦略」、森岡孝二氏の「『フリーター資本主義』と公共性」、伍賀一道氏の「雇用と働き方の戦後史」において、グローバリゼーション下における労働の劣悪化や消費主義の問題が理論的に解明されています。村岡俊三氏の「マルクス後半体系と帝国主義」では、今日でも労働条件の世界的格差のあることが指摘されつつ、「グローバルな資本に国境を開放することと、世界中の労働者の社会的な条件が均一なものとならないように過剰な統合を阻止する」という「矛盾した必要性の間で微妙なバランスをとる」国民国家の役割が解明されています(171ページ)。
田代洋一氏の「日本資本主義の農業・食料問題」は社会科学・経済学の本旨とは何かという強烈な問題意識において農業・食料問題を論じているのですが、それは不可避的にグローバリゼーションと労働の問題に及び、その観点から小泉「構造改革」の本質が喝破されます。今日では日本資本主義は農業や外国人という外部の低賃金基盤を必要とせず、内部に非正規労働力という低賃金基盤を装填したことの指摘に続いて次のように言われます。
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小泉「構造改革」の本質にはいろいろな捉え方があろうが、その根底にあるのはこのような労働規制の緩和を通じる資本・賃労働関係、蓄積基盤の「構造改革」に他ならない。そしてそのさらなる根底をなすのが、グローバル化に伴う、中国基準の国際的低賃金のグローバル化である。それは後述する「競争的国家化」の基調でもある。
57ページ
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「構造改革」とはグローバリゼーションに合わせた=多国籍独占資本のための国家・社会の根本的改造、と私は捉えてきましたが、上の認識はより根底的であろうと思います。続いても引用ばかりで芸がありませんが、逆立ちした社会認識たる「日常生活の宗教の体系」に対して、社会科学の本旨からの怒気を含んだ逆襲集として記録しておきたい思いがあります。
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経済学の世界では農業問題というと日本農業の零細性や低生産性といった農業の問題性のみが問われがちである。しかし農業を包摂できず、解体に追い込み、圏外にはじきだしてしまう日本資本主義のあり方の方が問題ではないか。いいかえれば問われているのは、農業を持続可能な産業として包摂できる持続可能な日本経済のあり方である。本論文はこのような観点から農業・食料問題を論じる。
55ページ
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「食料問題」という捉え方は、固有の階級・階層問題としての農業問題を環境問題や食料問題にすり替えていく今日の新自由主義イデオロギー攻勢に迎合する点で本意ではないが、本稿末尾で述べるように、そのような一歩後退した地点で戦線を立て直す必要性と有効性を認めざるを得ない面もある。
67ページ
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(日本生協連「農業・食生活への提言」について)
提言のとりまとめ役は「消費者は本来なら価格が安い方が良いというのが本音だろう」と語る。前述の絶対的・相対的貧困の広がりという文脈に照らせば、その「本音」は分からないでもない。しかしこのような「構造改革」の結果を所与として、そのシワをもっぱら農業に寄せていくことの延長上に日本農業を位置づけることはできない。経済学に問われているのは「構造改革」への対抗戦略である。
58ページ
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(経済財政諮問会議と規制改革・民間活力推進会議について)
とくに宮内・オリックス会長が議長を務める後者は、財界利害とともに個別資本(リース業)の利害丸出しで農地・農村市場への進出を狙い、特定の新自由主義経済学者や団体・企業からのヒアリングの都合の良い部分を報告に丸写しし、それにお上の葵の御紋を付けて行政や国民に押しつける極めて権威主義的な手法の道具になっている。それは手法的には「官から民へ」ではなく「民の官化」に他ならない。
58ページ
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学界も圧倒的に直接支払い政策支持である。それはこのような政策の本質をみずに支持しているのではなく、「政策の国際標準だから」というのがその理由と推測される。しかしそれでは与件の是非を問う経済学ではなく、与件にいかに対応するかという経営学になってしまう。実はWTO発足後の世界の農業経済学がそうである。しかし政策論は本来、国際標準からではなく、食料自給率の向上といった基本目標をたて、そのためにいかなる政策が必要かという形で論じられるべきである。
68ページ
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地道な個別問題研究の積み重ねによる社会認識の深まりは不可欠ですが、社会科学の総合的批判的認識力が導きの糸として存在しなければなりません。
小泉首相が靖国神社に参拝できるのは、世論の少なくない部分がそれを容認しているからです。我々の立場からはこれは人民の意識の遅れと考えられますが、もう少しその意識に寄り添って、右翼的方向ではなく日本国憲法の方向に向かう必然性を探ってみたいと思います。首相の靖国参拝問題は何より日本の国政そのものにおける軍国主義や政教分離の問題であるのですが、今はもっぱら近隣諸国との外交問題と意識されています。平和・外交問題での人民の意識として多いのは、以下のようなものでしょう。……日本人は平和を愛し、他国を侵略しようという意志は持っていないのだから、靖国問題などで近隣諸国があれこれ言うのも気持ちは分かるが、杞憂であり、我々としては心外である。平和を守るのは外交努力が一番だが、いざというときには戦力が物を言う。北朝鮮はならず者国家だし、中国も台頭してきたので脅威となるかもしれない。日本は弱いのでアメリカに守ってもらってきたしこれからもそうしていくほかない。
こういう日本の善男善女の思いはアジアの中で客観的に見ればまったくの的外れと言わねばなりません。日本を侵略する意志と能力を持った国はなく、逆に日本を脅威と感じる国はあります。それには根拠があります。日本は膨大な軍事費を投じて強大な自衛隊を形成してきたし、かつての侵略戦争について口先だけの反省はしているが、行動をもって示さず、有力者の無反省な妄言は後を絶たないし、何よりアメリカの従属国としてベトナム戦争などには協力してきたし、現在はアメリカとの集団自衛権という名の侵略戦争協力体制を着々と準備しています。多くの日本人の意識はまったく逆立ちしており、アジアでどのように思われているかを少しでも想像してみる必要があります。在日米軍は日本防衛を目的とするのでなく、イラク戦争のようなアメリカの勝手な世界戦略の基地としてあるのだということも徹底すべきです。力ではなく話し合いによる平和維持の具体的実績がアジアでも積み重ねられ、平和憲法の現実性が高まってきている、ということも知られていないので、知らせていくことが大切です。
では善男善女の思いはまったく笑うべきものなのか、と言えば、そうではない、と私は思います。対米従属下で客観的には危険な道を歩みつつあるとはいえ、「普通の国」とは違って、社会の中で軍事的価値が優先されない(というか、そもそも意識されない)状況というのは平和と人権にとってかけがえないものです。そして日本が侵略戦争をするなどとは思いもよらない、というのは平和憲法が育ててきた意識であるだけでなく、日本人民が社会的歴史的に育んできた意識として評価すべきではないでしょうか。これについては日本を知る中国人から教えられることがあります。現代中国論の天児慧氏が、帰国した中国人留学生(日本の農業政策を研究するため様々な農村地帯を訪ねた人)のメールを紹介しています(「朝日」11月16日)。
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ありがとう日本!険しくも恵まれた自然風土。厳しい規則を保ちながらも寛容であり続ける社会。そして、自己に対しては内省的で自律的でありながら、自然や社会、他人に対しては優しく感謝の念を抱く人々……広大な欧亜大陸と果てしない太平洋に挟まれた小舟のような島国が、世界と文明に対し、これほどまでに貢献し咲き続ける貴重な一輪の花---日本は本当に不思議な国です。この日本の文明をつぶさに観察し、身をもって体験することができたことは、まさに私の幸せと感じるところです。
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読んでいると気恥ずかしくなるような日本賛歌です。何年か前に愛知県小牧市でブラジル人の少年が殺される事件がありました。周りの人の無関心や事勿れ主義がなければ、死なずにすんだと思った遺族は、愛を知らない哀れな人々として日本人を告発しました。確かにそういうことなどもあるから批判的な社会認識を含めた自戒が必要なのですが、日本人がもともと培ってきた優しさに自信を持ち、それを伸ばしていくことは大切です。
王敏(ワンミン)法政大学教授は中国に帰国した際に、知人の大学教員から「日本人の不思議な行為」について説明を求められました(「朝日」9月5日付「日本の秘められた文化力」)。ある日本人教員が、皿に盛られたアヒル料理の顔にティッシュペーパーをかぶせたが、他国人にはそういうことをした人はいない、と。王氏は、アヒルの顔を見るのが辛くなった日本人の心情が推察できたので「日本人の生き物に対する優しさの現われかしら」と言ったら、知人は驚いたふうでした。そういうのは本当の優しさではない、という見方もあるかもしれませんが、とにかく外国人にはない繊細な優しさを日本人は持っているらしいのです。王氏は、日本人のささいな気配りや「ふるさと」「さくらさくら」のメロディーなどを想起しつつ、「論理的な言葉で表現できない優しさ、すなおさ、透明な純朴さ」を日本文化の魅力としてあげています。そして次のように提言します。
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壮大な理念志向の中国文化に比べれば、日本文化にはこぢんまりまとまろうとする美意識の中に、しとしとと降る小雨のようなパワーが秘められていると思う。この美の心はもっと見直されていい。
政治や外交できしみ合ったり、歴史を教訓にできない愚行を繰り返したりしている今の世界では、決して背伸びをしない文化力こそ、平和のキーワードになるのではないだろうか。
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こうして見ると、中国人から指摘される日本人の美質とは、一方では「構造改革」によって喪失しつつあるものばかりのような気がするし、他方では憲法9条に連なる精神のようでもあります。「構造改革」に反対し、護憲を掲げる革新勢力こそが日本の伝統を自覚的に代表しているのであり、それは保守的な人々も含めて多くの日本人の自然な心情をつかめるものなのです。
我々は反動勢力が言うような「自虐」をしていません。政府などへのまったく必要な批判をし、人民自身の問題としても過去の歴史を反省して誤りない未来を築けるようにしているだけです。ただそこで反動勢力が対米従属の醜い姿を隠しつつ、あたかも自分たちが日本の伝統を代表し、日本人としての自信やアイデンティティを体現しているかのように主張していることに対してはもっと有効に反撃すべきです。彼等のいう日本人の自信は、中国や韓国になめられるな、というようなことであり、対米従属とアジア蔑視という、日本の長い伝統とは異質の近現代の体制的構造の徒花に過ぎません。しかも細いとはいえ、もう一つの進歩的近現代だって我々は持っているのです。
普通「平和ボケ」というのは外国からの脅威に対するノーテンキさとして使われますが、我々の立場からはむしろ軍国主義化への無防備さと考えられます。しかし民衆を叱りつけるような思想はいけない、という鶴見俊輔氏にならっていえば、軍事的価値を優先しない意識の積極的意義をよく評価して(情勢の危険さへの警戒心をもってもらうとともに)、それがより建設的なアジアの平和構築の流れに合流して行けるよう誘導していくことが大切です。北朝鮮・中国脅威論などで情緒的な危機感を煽る勢力に対して、理性的な認識・平和の展望を対置していくことの大切さはこれまでも強調されてきました。しかし我々は日本人民の善意の獲得という感情的次元でも、本来、保守反動勢力を圧倒できるはずなのです。