以下は、「『経済』誌への感想」から民主主義論をいくつか抜粋しました。中心は2019年5月号の「民主主義における形式と内実」であり、その前に「安倍暴走を資本主義社会の原理までさかのぼって捉える」を含む2018年4月号の安倍政権批判を配し、最後に、2020年11月号の「公共性の考え方」を付しました。これは公共性と階級性との関係を考察したもので、まだ前記「民主主義における形式と内実」とうまくつながっていませんが、参考のため載せました。


「民主主義における形式と内実」考


目次

☆1 『経済』2018年4月号感想より 安倍政権と政治スキャンダルを捉える
☆2 『経済』2019年5月号感想より 民主主義における形式と内実  国内民主主義と国際関係
☆3 『経済』2020年11月号感想より 公共性の考え方

 

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☆1  2018年4月号(2018年3月31日記)


          安倍政権と政治スキャンダルを捉える

 

◎公文書改ざんの衝撃と安倍政治の本質

 

 森友学園をめぐって財務省の公文書改ざんが大問題になっています。すでに防衛省による南スーダンPKOの日報隠蔽、厚労省による裁量労働制のデータねつ造が暴露されています。情報や記録の問題とは別に、前川喜平・前文科省事務次官の公立中学校での授業に対する自民党や文科省からの圧力といった問題も起こっています。こうした一連の問題は、以下の動向の下で生じていることが重要です。――特定秘密保護法・戦争法・共謀罪法の制定、集団的自衛権行使容認の閣議決定、そうした解釈改憲に留まらず引き続く9条明文改憲の策動、といった、政府による情報管理と弾圧体制の強化を不可欠の要素とする「戦争する国家づくり」が民主主義・立憲主義破壊とともに進行している。――

日本国憲法下の平和・人権・民主主義体制へのこのように全面的で乱暴な破壊策動が一連のスキャンダルを必然的に生み出したと言えます。自民党=安倍一強状況が独裁政治体制を生み、もはや恐れを知らず何をやってもおかしくない、というところまで安倍政権は来たか、――そんなある種の感慨さえもよおす今日この頃です。

 このような事態とそれを起こした安倍政権をどう捉えるかについて様々な見方があり得ます。トランプ政権になぞらえて「フェイク政府」と規定するのも有力な見方です。斎藤貴男氏は「国民を己の支配欲を満たすための駒か道具としてしか捉えていない現政権は、嘘に嘘を塗り固め続けてきた」(「全国商工新聞」319日付)と糾弾しています。その根拠として、「森友」公文書改ざん・南スーダンPKOの日報隠蔽・裁量労働制のデータねつ造だけでなく、使用者側に都合の良い「働かせ方改革」を労働者にとっての「働き方改革」と見せるべく政策名を偽るネーミング詐欺、実質GDPの算定基準変更によるかさ上げ、日銀と年金による操作で実現した高株価、社会保障の充実と称して消費税増税が実は法人減税や軍事費に費消されている問題などを挙げています。つまり広範な政策領域が嘘に満ちていてまさに「フェイク政府」と呼ぶにふさわしいわけです。そういう状況に対して「彼は下衆な事実を暴露されるたびに、報じた側を、フェイクニュース≠セ、ねつ造≠セと嘲笑し、それがまた一部ネット右翼の喝采を浴びるデジタル社会の反知性メカニズムの中でのさばり続けてい」ます(同前)。「フェイク政府」に踊らされてそれを支える人々がおり、そういう社会状況が根強くあるのです。

 「朝日」編集委員の大野博人氏はさらに安倍政権の悪質さの深層を読み解き、「クーデタ」政権と規定します(同紙、325日付)。フランスの碩学ガブリエル・ノデが1639年に出版した『クーデタをめぐる政治的考察』が参考になるというのです。「クーデタ」とは当時の意味では、「国家が社会に加える打撃」です。ノデは以下のように主張します。

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 君主や宰相たる者は、道徳や法律を尊重しているだけではダメだ。そこから外れても公益のためなら、ごまかし、だまし、ときには暴力的手段も使わなければならない。つまり「クーデタ」という手法。君主の正義や徳、誠実さはほかの市民とはいささか異なる。「隠し偽ることができない者は、統治することもできない」

 なぜなら大衆は「獣より百倍も愚か」だからだ。 …中略… そんな大衆には秘かにあるいはいきなり衝撃を与え、操る――。

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 森友文書に見るように「今も為政者はその手法に頼るが、目的は公益というより権力の維持」です。

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 法や道徳を棚上げし、公文書を改ざんして問題点を隠蔽(いんぺい)する。愚かで気まぐれな大衆や「ペテン師」のようなメディアに余計なことを知られると話が面倒になるからとばかりのふるまいだ。それがばれても、「誤解させる」ための改ざんを「誤解されない」ためだったと人を食ったような一撃で切り抜けようとする。

 今月、改ざんの事実は明るみに引きずり出された。けれども、国民が正しい説明を受ける機会を奪われたままだった昨秋、安倍晋三首相は解散総選挙に踏み切り、それに勝った。ノデ流にいえば、社会に対する「クーデタ」は成功し、権力を維持したというわけだ。

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 大野氏によれば、前川喜平・前文科省事務次官の公立中学校の講演に対する文科省の「調査」も「クーデタ」政権による教育現場への一撃だと言えます。先述のように齊藤氏は「フェイク政府」を支える社会状況を指摘しました。大野氏も「クーデタ」政権の支援者の醜悪な役割を描いています。

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 「クーデタ」政権がつねに気にするのは正統性の弱さ。それを補強する言説を振りまき、疑いのまなざしをそらす情報戦略は欠かせない。森友文書や講演調査の問題でも、ひたすら政権の擁護に走ったり、官僚をあしざまに言ったりする国会議員や言論人が登場した。その姿にノデが本で触れている伝承話が重なる。権力を握ろうとする者が人々をたぶらかす方法について語る中に出てくる。

 人々にあがめられたいと願うプサフォンという男がいた。彼はおびただしい数のインコやオウムを飼育し、「プサフォンは神だ」という言葉をしっかり覚えさせた。そして、解き放った。あちこちから繰り返し降ってくるこの言葉を耳にした人々が、彼のことをほんとうに神だと信じるようにするために。

 プサフォンが放ったインコやオウムは今も、私たちの空を飛び交っていると思った。

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 安倍首相から罵倒されてきた「朝日」は「インコやオウム」としっかり闘うのみならず、今こそ「クーデタ」政権打倒の狼煙を上げるときではないだろうか。

 以上のように、財務省の公文書改ざんに代表される一連の事態は、民主政治の前提である公正さをかなぐり捨てて、権力支配の維持のためにはだましと弾圧が当然となることを白日の下にさらしました。さらに脅威となるのは、それを支える社会的空気をその担い手とともに作りだし、まともな世の中を作ることを諦めた体制順応主義とシニシズムが蔓延する社会への変質が促進されることです。安倍政権におけるその帰結は民主主義の破壊のみならず平和の喪失に直結しています。したがって安倍政権打倒の意義は、単なる一つの政権交代ではなく、平和と民主主義を救出するということです。安倍晋三氏がその政治的原点として「戦後レジームの転換」を唱え、それを政権奪取後も一貫して政治理念の中心に置いてきたことにはもちろん注目してきましたが、その深刻な意味を改めて戦慄を持って実感させたのが、財務省の文書改ざんに代表される一連の事態です。今この政権を打倒し損ねることは、後々まで響く歴史的悔恨となることは間違いありません。そうならないため世論の怒りをさらに高め、内閣支持率を奈落の底に落として、与党が雪崩を打って安倍おろしに動く状況をつくり出すことが当面の現実的展望ではなかろうかと思います。

 「フェイク政府」とも「クーデタ」政権ともいえる安倍政治のあり方を、一連の事態の中で財務省の公文書改ざんと文科省の前川前事務次官に係る教育現場への介入とに代表させれば、前者は嘘と隠蔽つまりだましであり、後者は弾圧です。他に弾圧の例としてさらに深刻なのは、辺野古や高江に代表される沖縄の米軍基地問題であり、ここでは住民の意思を無視した問答無用のあからさまな暴力による権力支配がまかり通っています。菅官房長官などは「日本は法治国家だ」といってこの問題を正当化し開き直っていますが、選挙や住民投票の結果を無視した「法」なんてありえないのであり、安倍政権は日本を「無法放置国家」にしているのです。

このように権力支配のために安倍政治は主にだましと弾圧に頼ってきました。一般論としては人民の積極的同意に基づく権力支配もありうるわけですが、安倍政治はそうではありません。だましと弾圧に基づく権力支配を捉える際に、「だまし」に重点を置いて見るのか、全体としての「権力支配」を重視するのか、という違いがあり得ます。

財務省の「森友」公文書改ざんの衝撃が余りにも大きいので、今はもっぱら「だまし」に着目した議論が優勢です。「だまし」を防ぐべく、公文書管理に始まり公務員のあり方などを含めて、民主主義との関係で行政のあり方が論じられ、それは普遍性を持った一般論にもつながり、極めて重要な意義を持ちます。本来の規範はどうあるべきで、一連の事態における現実はどうなっているのかがともに明らかにされるべきです。しかしその先に、なぜ規範と現実が乖離するのかが問題とされねばなりません。それは「権力支配」のあり方に切り込むことになるでしょう。

「行政のあり方一般」論自身は確かに重要であり、それは普遍的意義を持った論点ですが、一連の事態を見るとき、むしろ「安倍が悪い」という素朴な見方の方が本質を衝いているように思います。それは一見すると、問題の個別矮小化のようですが、普遍的意義を十分持っている、ということを以下では述べます。

 

◎安倍暴走を資本主義社会の原理までさかのぼって捉える

 

資本主義的生産関係は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開します。商品=貨幣関係は「市場経済」を形成し、その等価交換の世界は、諸個人の独立・自由・平等・公平・公正の経済的基盤です。そこから民主主義の政治と市民法が成立します。資本=賃労働関係は「搾取経済」であり、資本と労働者との支配・従属関係が生じます。搾取関係による資本蓄積の進展は政治における資本家階級の権力の経済的基盤であり、その支配に対する労働者階級の闘争の反映として社会法が成立します。資本主義経済はそうした「市場経済」と「搾取経済」の二層構造を持っていますが、前近代の搾取社会とは違って、独自の「領有法則の転回」を介して搾取関係は市場経済の等価交換の外皮に包まれ同化されることで隠されます。よってその社会の公認のブルジョア・イデオロギーでは資本主義経済は単層の市場経済であり、搾取の存在は否定されます。

したがって発達した資本主義社会は民主主義の政治と資本家階級の権力という二重構造を持っており、その歴史的本質はいわば民主主義的階級支配社会と規定できます。民主主義と階級支配とは本来両立不可能ですが、ここで民主主義を形式と実質とに分けて考えてみます。一方で形式は、たとえば普通選挙権のように、普遍性や公正・公平を保障するものです。他方で実質は、デモクラシーの語源である人民の支配を意味します。日本国憲法を例に考えてみると、それは国民主権を謳っていますが、一貫して日本政治の実質は対米従属の独占資本に握られており、内実としての国民主権は実現していません。しかしあまりに問題が多いとはいえ、曲がりなりにも普通選挙権や議会制民主主義は存在しており、形式的・制度的には国民主権が整い、実質的な民主主義を実現する可能性は残されています。そのようなことを考えると、発達した資本主義社会は民主主義的階級支配社会である、という命題は、それは民主主義形式を具えた階級支配社会である、と言い換えることができます。

ところで資本主義社会ではブルジョア・イデオロギーが支配しており、労働者階級の多くもその影響下にあります。上述のようにブルジョア・イデオロギーでは資本主義経済は単層の市場経済であり、搾取の存在は否定されます。その政治的反映によれば、当然、資本主義社会は単なる民主主義社会であり、階級支配社会ではないことになります。これは資本主義社会におけるタテマエであり、実際にはそのホンネである階級支配の要素が顔を出しタテマエを常に脅かします。資本主義社会における階級闘争――経済闘争・政治闘争・イデオロギー闘争――はどれをとってもこのタテマエとホンネの矛盾から発し、労働者階級はむしろブルジョア・イデオロギーを盾にとってそのタテマエの実現を迫ることができます。民主主義形式の破壊を許さず、その実質の充実を実現するという形で階級支配に対抗することができます。

ここで日本国憲法を見ると、一方で市場経済を反映して、政治的民主主義、市民法に対応する市民的・政治的自由が規定されています。他方、29条の財産権の不可侵は市場経済次元の見方では、人民の小所有を擁護する規定となりますが、一般的には消費資料だけでなく生産手段の私的所有の原理であり、資本主義経済したがって搾取の自由の根拠ともなります。ただし公共の福祉の概念によって経済的自由には一定の規制が加えられることで、社会法に対応する生存権・労働権など各種の社会権を実現する基盤が与えられています。そういう意味で日本国憲法は、(1)単に政治的民主主義と市民法に対応する内容をよく規定し、民主主義形式を整えることで資本主義社会のタテマエをきちんと表明しただけにとどまらず、(2)社会権を明確に規定することで、資本家階級の権力へ一定の規制をかけ、民主主義の実質の一部の実現を図り、(搾取の護持と階級支配の実現という)資本主義社会のホンネに一定の歯止めをかけるという性格も併せ持っています。

 改憲ないし解釈改憲=憲法の空洞化を目指す米日支配層と護憲=憲法の実現を目指す民主勢力との対決が、戦後日本政治史の一貫した基調であるのは、こうした日本国憲法の先進性の故であり、民主主義の形式と実質の両面をめぐる階級闘争において人民にとって有利な舞台として憲法が存在し続けたのです。

 さて安倍暴走です。お友達優遇による国政の私物化というのがその到達点であり、それは独裁による腐敗現象という他なく、今日の支配層の利益という観点をも超えています。ましてや資本主義社会の原理から考えた上記の理解がそのまま当てはまらないのは当然です。しかし安倍暴走政権といえども資本家階級の権力の一形態であり、その強権支配の出発点が資本家階級による支配である点で例外ではありません。国政私物化という特異性を持ちながらも、その政治全体を見渡せば、米日支配層の要求に応えて「よくやってきた」と評価されているでしょう。したがって安倍政権をめぐって日々メディアが伝える政治闘争の様子を見ても、それが資本主義社会のタテマエとホンネの相克であることは、主権者の公僕であるべき官僚が権力の下僕に成り果てている実態を見ても明らかです。

 しかし安倍政権も資本家階級の権力の一形態だというのはきわめて抽象的な規定であり、その暴走の本質を捉えるほんの出発点に過ぎず、もっと具体化する必要があります。それはグローバル資本主義の時代にあって、新自由主義と保守反動との野合政権であるという性格を持っています。現代資本主義を支配しているのはアメリカなどの巨大多国籍企業=グローバル資本であり、そのイデオロギーと政策である新自由主義は発達した資本主義諸国の政府にとって必携です。日本の対米従属政権がその例外であろうはずがありません。ただし安倍晋三氏の出自は保守反動派であり、美しい田園風景などを称揚するそのセンスは新自由主義とは本来は水と油ですが、現代の権力者としてその点はわきまえ、米国と財界の期待に応えるべく新自由主義政策を強力に推進してきました。従来の首相と比べてもその実現力は高く評価されており、支配層から保守反動の地金を警戒されつつも(「中国で商売できなくなるようなことだけはやめてくれよ」とか…)、適度に抑制して、ついに戦争法を制定するに至ったことは前人未到の「快挙」です。安倍氏のように議会制民主主義と世論を無視し悪法の強行を粛々と連発する首相はかつてなく、その蛮勇は「知的で上品な」支配層にとって望外の価値があります。彼らにとっては、この政権のご威光でネトウヨなどの反知性主義が隆盛になるような品の悪い事態も、気にするより分断支配に利用できるというものです。

ところで先に見たように、発達した資本主義社会は本質的には民主主義形式を具えた階級支配社会ですが、ブルジョア・イデオロギーにおいては、それは単なる民主主義社会であり、階級支配社会ではないことになります。これは資本主義社会におけるタテマエであり、実際にはそのホンネである階級支配の要素が顔を出しタテマエを常に脅かします。このタテマエとホンネとの相克のあり方が、資本主義社会のタイプによって様々に異なります。 

安倍政権は従来の自民党政権と比べてもきわめて強権的であり立憲主義無視と民主主義破壊が突出しており、まさに階級支配としての資本主義社会のホンネがむき出しになっています。この点では、新自由主義もまたケインズ主義などと比べれば、むき出しの階級支配という性格を持っています。労働運動への強圧的姿勢や社会保障の削減が当然のように追求されます。もっとも、企業別組合が主流の日本においては労働運動がもともと弱体で、初期の新自由主義政権である中曽根内閣が断行した国鉄分割民営化による国労の実質的解体と官公労の没落により、それ以降今日までストライキが実質的に消滅するなど、労働運動の抵抗はとるに足らないものになり、搾取強化と社会保障の削減が粛々と進行してきました。

新自由主義は生産過程における搾取強化、ならびに金融肥大化・カジノ化を本質とし、労働者階級への支配強化とともに資本主義社会の寄生性・腐朽性を進行させます。アベノミクスによる貧困・格差の拡大とそこから必然的に生じる実体経済の停滞と過剰貨幣資本による金融利益の拡大は新自由主義の矛盾と階級支配の拡大を示しています。搾取強化と貧困・格差の拡大を糊塗するために、「働き方改革」のように政策名を偽るネーミング詐欺や賃上げ・奨学金・待機児童対策・幼児教育など、アリバイ程度の政策を針小棒大に誇大宣伝するなどスローガン乱発のだましにこれ努めているのが安倍政権の実態であり、むき出しの階級支配を「印象操作」で少しでもごまかそうとしています。

 その一方で、一連の「戦争する国家づくり」を政治的・法的に強力に推進しており、これもグローバリゼーション下に生きる対米従属的新自由主義政策の一環です。新自由主義の「小さな政府」のスローガンは強権的国家となんら矛盾しません。もっとも、安倍政権は「小さな政府」を喧伝するわけではなく、労資関係にも介入するような強大な国家権力を誇示していますが…。

 以上のような新自由主義政策の推進はむき出しの階級支配の現れであり、安倍暴走の一つの強力な根拠であり、支配層の利益に合致しています。この過程で議会制民主主義破壊はもちろん、立憲主義の無視にまで及ぶ暴挙は、民主主義形式の乱暴な蹂躙であり資本主義社会のタテマエからまったく逸脱していますが、支配層の支持の下、強力的に断行されました。安倍政権の強権性はこのように新自由主義的性格から説明されますが、保守反動的性格によって増強されていることは言うまでもありません。侵略戦争美化の歴史修正主義者であり、戦前日本の体制に憧憬をもつ安倍政権中枢が単なる新自由主義者より強権的であるのは当然です。ただし政権の強権性を保守反動性だけから説明するのは誤りであり、それ以前に新自由主義そのものの持つ強権性(さらにはその源泉は資本主義社会そのものが持つ階級支配社会という性格にあることも要注意)があることが忘れられてはなりません。

 安倍暴走の現今の問題は、そのような支配層の利益に合致している段階を通り越して、個人独裁による腐敗の域に達してしまったということです。安倍氏らの蛮勇と反知性主義が支配層の方針を強力に推進しているうちはいいのですが、お友達優遇の国政私物化は支配層の利益にもかなわず、世論の離反を招くという意味では階級支配に反する事態になり得ます。戦争法の国会審議当時、世論の多数は成立に反対しました。しかし政策として賛成派もあり、反対派もこれはあくまで政策の問題であるとは考えていましたが、モリ・カケ問題のような国政私物化はいかなる意味でも政策問題ではなく政治腐敗であり到底世論の支持は得られません。

 この国政私物化について、白井聡氏は政権の保守反動性の面から説明しています。

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 (森友学園は)極右の学園だからこそ、便宜を図ってもらうことができたというわけです。

 この事件をめぐっては「極右の幼稚園」と「国家の私物化」という二つがキーワードになるわけですが、共通点は「あの戦争の未処理」ということに関わるんですね。

 あの戦争に「負けた」ということを、「なかったこと」にしてごまかすことによって成り立っている政治・社会の在り方を、私は「永続敗戦レジーム」と呼んでいます。安倍首相の政治そのものです。

 戦前は国土や国民が天皇の持ち物であるかのように扱われてきました。前近代国家の考え方だったんです。安倍政権になって、戦前への反省を欠くだけでなく、むしろ賛美する勢力が大手を振るようになった。極右的な森友学園の経営者が便宜を図ってもらえたのはその象徴です。戦前への反省がないから安倍首相は、国家の私物化も平気でやったのだと思います。   

  白井聡・小池晃緊急対談、「しんぶん赤旗」日曜版、325日付より 白井発言

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 戦後民主主義の時代であるはずの現代に安倍首相は、「国土や国民が天皇の持ち物であるかのように扱われてき」た戦前を賛美するだけでなく、まるで当時の天皇の地位についたがごとくに「国家の私物化も平気でやった」というわけです。前人未到の多くの政策・立法を実現してきた全能感から来る傲慢さがなせる業かもしれません。

 以上、「国家の私物化」にまで至った安倍政権の暴走の根拠を、資本主義社会の原理から始まって、新自由主義の強権性を経て、兼ね備わった保守反動性による増強という道筋で順番に見てきました。極めて非合理で恣意的に見える現象を、客観的基盤からできるだけ段階的・合理的に解き明かそうとしたのです。それにしても、支配層の利益に反するような汚職にまで至ったのは何故か、という問題は十分に解明されていません。

 それは新自由主義グローバリゼーションの矛盾の激化とその克服の困難性に求められるのではないでしょうか。貧困・格差の拡大、それによる実体経済の停滞と金融肥大化の下で、その矛盾を糊塗しつつ、対米従属下の軍事大国化を成し遂げるという重大な課題を支配層は抱えています。議会制民主主義や立憲主義にそれなりに配慮するような普通の保守政権にそれを託すのは無理であり、新自由主義的合理性をも超えて、反知性主義で保守反動的蛮勇を持って、だまし・ゴマカシを駆使しつつ強権性を十全に発揮する政権でなければならなかったのだと思います。世論の支持を得るには人々の感情を喚起するナショナリズムに訴えることも必要です。人権や民主主義をタテマエとしては立てつつも、ネトウヨのような政権の別動隊に「反日」なる社会的排撃言語を日常化させ、中国・北朝鮮脅威論を煽り、人権・民主主義破壊のホンネを吐かせ、社会全体にシニシズムを行き渡らせる状況がつくり出されようとしました。議会制民主主義と世論を無視する強行採決を乱発し、したがって主要政策への支持を失いながらも、内閣支持率だけは高止まりを実現してきた背景の一つがこのあたりにあるようです。

しかしそれは新自由主義で荒廃した社会状況の中に閉塞感と精神の腐敗を広げさせるのみではありません。政権中枢でも「安倍・自民一強」という独裁状況下での全能感・傲岸不遜さにともなって、理性と抑制が失われ、「国家の私物化」に至ったのではないでしょうか。つまり、新自由主義グローバリゼーション下での矛盾の激化を克服するため、支配層は異常な政権にその課題を託すほかなく、そのことが極めて異常な国政私物化の原因となったと思われます。そういう民主主義破壊の時代精神として反知性主義は象徴的です。

支配層の思惑をも超える安倍政権の変調を前に、世論の怒りを高め結集して政権を退陣に追い込むこと、今はこれしかありません。

 

◎民主主義の復権

 

 安倍暴走に対してできるだけ階級的に見てきました。ここでは、立憲主義の階級的本質について考えてみます。立憲主義は当初、封建制末期の絶対主義権力への規制であり、ブルジョア階級の利益を代表していました。今日の世界では諸国家と世界経済を支配しているのはグローバル資本ですから、日本国憲法かそれに近い民主的憲法を戴く立憲主義はグローバル資本の権力への規制となる可能性があり、労働者階級を始めとする人民の利益を代表することになります。

 もちろん本来立憲主義は、個人と国家との関係に関わり、個人の尊厳を国家権力から守るためにそれを規制するものです。それは絶対主義との階級闘争から生まれたけれども、階級関係に関わらず普遍的に一般論として通用します。たとえば経験則として「権力は専制化し腐敗する」という命題は普遍的に妥当し、被支配階級が権力を奪取して民主主義的政治体制を確立しても、それが専制体制に転化する場合が多くあるので、抽象的な「個人VS国家」から出発する立憲主義はなお有効です。

ただしそのことを踏まえた上で、憲法の役割を具体的な政治情勢の中で考える場合は立憲主義の階級的考察は必要だと思います。安倍暴走が蹂躙している立憲主義とは、まず第一に「個人VS国家」関係から発する立憲主義の原像あるいは一般像であるのは当然です。保守反動としての安倍政権がこれには関わります。もう一つ、新自由主義政策を断行する安倍政権が蹂躙する立憲主義は、グローバル資本の権力を規制するという意味での現代的なそれであるといえます。このように階級視点を踏まえて、安倍暴走が蹂躙する立憲主義を二重に捉えることが必要です。

 次に社会変革の反面教師として、ソ連・東欧・中国などの20世紀社会主義体制を見ます。先述の民主主義における形式と実質という見方によれば、そこではブルジョア民主主義が形式的だとして批判され、プロレタリア民主主義こそが実質的民主主義を実現するとされました。しかし実態としては、それはブルジョア民主主義未満であり、民主主義形式さえ具えない前近代的非民主主義社会でした。

アグネス・スメドレーの『偉大なる道』に活写された中国革命に至る過程での解放区の姿などを見ると、被搾取人民が国家権力を奪取して主人公になる人民民主主義体制が民主主義の形式と実質をともに実現するのではないか、という展望を抱きたくなります。しかし残念ながら歴史の事実としては、中国に共産党の一党独裁権力が成立することになります。このことは抽象的な立憲主義の有効性とともに民主主義形式の重要性を示しています。しかしなお上位の課題としての民主主義の実質化が残されていることを忘れてはなりません。マルクスとエンゲルスは民主共和制が労働者階級の権力に適合した形態であることを述べています。これは、民主主義形式の徹底を通じて民主主義実質の拡大につなげていく道を展望するものでしょう。

 安倍政権に限ったことではないですが、そこに典型的に見られるように、民主主義実質が少なく、階級支配が非常に優勢な政治においては、民主主義形式の破壊が進みます。小選挙区制・ベからず公選法などの従来からの悪い制度に加えて、今回は公文書改ざんなど、政権の都合にあわせた不公正で悪質な情報支配が暴露されました。すくなくとも民主主義形式の破壊に歯止めをかけて改善していくことが最低限必要です。小選挙区制を廃止し、まっとうな政策宣伝を可能にする公選法へ改正し、公文書管理を適正化し情報公開を拡大して行くことは喫緊の課題です。

さらに言えば、民主主義形式の徹底は必要条件ですが、それだけでは支配層の経済力・政治力の優位によって民主主義実質は拡大しにくく、階級支配の実質は続きます。たとえば、改憲の国民投票におけるテレビコマーシャルの問題があります。べからず公選法に比べると、国民投票法では大幅に運動が自由化されています。それ自身は良いように思われますが、実際のところ、誰でも自由に宣伝できるという形式的平等は金力を握った改憲勢力に有利に作用します。投票の2週間前まではテレビコマーシャルが自由なので、テレビが改憲派に乗っ取られる事態が予想されます。民主主義形式の真の徹底のためには政治力・経済力を考慮した公正さの追求が必要です。

 安倍暴走についてわざわざ資本主義社会の原理から出発する以上の議論は、観念的で現実味が薄いという印象を与えるかもしれません。そこで民主主義形式の徹底から民主主義実質の拡大に向かう地道で現実的な実践例を紹介します。藤田安一さんに聞く「最低賃金審議会に民主的ルールを 『鳥取方式』の経験からは、鳥取地方最低賃金審議会の会長を2008年から5年間務めた藤田氏が、最賃審議を全面公開させ、最賃額を一定上昇させた経験を語っており、たいへんに教訓的です。

 「鳥取方式」と呼ばれる最賃審議会運営の民主的ルールは<(1)審議会の全面公開、(2)意見聴取の実質化、(3)傍聴の自由化、(4)水面下での交渉の禁止>という内容です。もともと審議会は原則公開なのですが、実際には、集中して審議が行なわれる専門部会が非公開でした。これを全面公開させたのです。この改革で危惧された混乱は起こらず、今日までスムーズに運営されています。案ずるよりも産むが易し、です。この改革が実現したのは、藤田氏が長年委員を務めた上で会長に就任したことで、その提案が当たり前だと見られてすんなりと受容されたことと、審議会と専門部会の議事録(そこには審議内容が発言者名も明記されて詳しく記録されている)がすでに公開されていたということによります。長年の地道な努力が実ったということでしょう。藤田氏は改革の狙いを以下のように語っています。

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 本来、私が審議会の完全公開によってめざしたことは、これまではあまりにも最賃決定の過程が不透明で、国民の知る権利が侵害されている、そうした状況を是正することにありました。透明性や公平性が求められる行政は、もっと積極的に情報公開に努める必要があります。

 原則公開とうたいながら、肝心なところは非公開となっている審議会のあり方を是正したかったからです。そうすることによって、私は国民の監視が強まり憲法25条が提唱している健康で文化的な最低限の生活を保障する最賃額に決まることを期待しました。

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 まさに民主主義形式の整備が民主主義実質の充実に向かうことが期待されているのです。また最賃審議会の独自性も指摘されています。他の審議会と違ってただ意見を出すだけでなく、最終的に最賃額を決定して労働局長に答申しなければならず、かなりの熟練を必要とするのです。特に公益委員の役割と負担は大きく、労使双方の委員から攻撃され険悪な関係となることもありメンタルの強さが求められます。それ以上に経験の蓄積に基づく審議会運営の技術が要求されるということで公益委員の任期は長くなります。こうした下地があって信頼を得た藤田会長の提案による最賃審議会全面公開の改革が実現しました。

 審議内容に関しては、最賃制度の存在意義の確認が重要だと言います。使用者側委員が「国が賃金額を決めるのはおかしい」という意見を言う場合があります。それに対して、――労使の力関係により生存権が保障されない賃金となってしまう、という事態を防ぐ必要が国の社会政策にはあり、それは憲法25条が法的根拠になっている――といった最賃制度の原則をきちんと述べて納得してもらう必要があります。会長にはこうした見識をしっかり示す姿勢が求められます。

 その上で、最賃額の決定に際して「事実上、経営者の賃金支払い能力が優先されるということ」(105ページ)が問題となります。これに対して、2008年のリーマンショック以降、不安定雇用と低賃金が拡大して、最賃のあまりの低さが注目され、2010年の閣議決定で、20年までの早期に全国最低800円を確保し、全国平均1000円を目指す、とされたように、新たな動きが生まれました。

 そうした中で、鳥取では20年前の最賃500円台から今では700円台になりました。中小零細企業ばかりの鳥取でのこの現実をどう説明するか。企業の経営が劇的に良くなって支払い能力が増大したわけではないし、企業の倒産が増えてもいません。要するに以前から支払い能力があったにもかかわらず、企業が最賃の引き上げを渋っていたのです。そこには日本の企業社会の存在とそれに付随する社会意識の問題があることを藤田氏は指摘しています。

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 これまで最賃額がなかなか引き上げられなかったことについては、企業の支払い能力を重視するあまり、労働者の生活を支えるに足る賃金の最低限を保障するという最賃法の趣旨が、しっかりと理解されてこなかったということです。審議会において、その理解を進めていく必要があります。

 この課題は、とくに日本の場合、企業社会といわれるように、企業の力が強く、それが当然のことだと認められてきたわが国社会の風潮と大いに関係しています。最低賃金はこうした日本社会のあり方と密接に関連していることなので、社会意識の改革と結び付けて考える必要があります。         107ページ

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 通常の研究においてもこのような主張は可能でしょうが、最賃審議会の実践を通じての言明には独自の重みがあります。藤田氏は、最賃制度のそもそもの存在意義を明らかにし、それを使用者側委員との共通理解にする努力をした上で、最賃が低く抑え込まれてきた原因を審議会の論議の中に見ています。このように最賃審議会の全面公開と議論の実質化を進めることは、民主主義形式の徹底化であり、それによって現行の最賃の問題点が鮮明になり、結果的に最賃の上昇に結びつくならば民主主義実質の充実となります。

そこにまた憲法25条に基づく最賃制度があるということの意義が決定的です。現代日本における階級闘争の一つの形態においては、そうした既存の民主的制度の到達点を踏まえ、たとえばこのような審議会運営への参加を通じて経験と熟練を重ねながら、民主主義形式の破壊を許さずその徹底を求め、民主主義実質の充実を実現すべく努力することになります。それは武器を手にしての強力革命と違うのは当然ながら、民主的な選挙闘争とも違う、極めて地道な普段からの不断の闘いです。

 このように見てくると日常の行政の民主化が重要な課題として浮かび上がり、森友問題ともつながり、公文書管理や公務員のあり方が問われます。「佐川とならず前川となれ」という警句もあるようですが、公務労働の公共性をどう考えるかも問題です。それについてはこれからさんざん議論され、私のまとまった考えはまだないですから、問題が振り出しに戻ったところで、公文書改ざん問題などに見る安倍暴走の性格の捉え方について、独自の私見を提起することはこの辺で終わりたいと思います。

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☆2 2019年5月号 (2019年4月30日記)

          民主主義における形式と内実

 平和・民主主義・暮らしの全域にわたって、政権・支配層による攻撃が絶え間なく続き、それに対して人民の側が防衛闘争を繰り広げる、という状況があります。攻守の関係を逆転したいところですが、大勢としてはそうはいかず、しかしながらたとえばジェンダーをめぐる意識状況などに見るように、部分的にはわずかに前進している、という微妙な錯綜した関係があります。今日、主に支配層が攻撃しているということは、逆に言えば、高度経済成長期・ケインズ主義政策の時代には、それなりの階級的妥協があり、人々の所得の上昇と社会保障制度の整備が一定進んだ、という到達点を築いたからこそ、それをめがけて非妥協的な新自由主義政策による破壊活動が全面化している、とも言えます。以上が、197080年代くらいから今日までの状況だと感じられます。

安倍政権下の政治もまたその延長線上にありますが、従来の保守政権下よりはるかにむき出しの強権的な闘争として激烈になっています。それは現代資本主義の経済停滞の深さを反映し、その打開策としての新自由主義が過激化している状況です。また、それに伴う格差・貧困の拡大に代表される社会不安・閉塞感を糊塗すべく、アジア蔑視のナショナリズムなど、保守反動イデオロギーによる補完が強化されてもいます。

 しかしながらそういう政治状況は前振りであって、ここで問題にしたいのは、≪この激烈な闘争を人民の側から闘う場合に、あくまで民主主義形式を踏まえて公正かつ普遍的に、俗に言えば(ジェンダーバイアスを伴う表現ではあるが)紳士的に実行することから、隔靴掻痒感、あるいは偽善感とかタテマエ感という違和感みたいなものが生じるが、それをどうにか理解し飼いならすために、闘争の全容をどう捉えるか≫ということです。

もう少し説明するとこういうことです。≪アベはウソツキ平気で、権力も私物化し、キタナイことこの上なく*注、しかもそれを合法的手続きに則っているかのごとくに強弁している(たとえば辺野古新基地建設における政権の振る舞いは、政治的・道義的・法的にも異常という他ないが、菅官房長官の常套句は「我が国は法治国家である」。…?! 無法放置国家だろう!)が、それに対して我々が民主主義的なキレイな言葉だけで対峙しているのはいかにも不公平で不利であるし、核心を外しているようにも思えて欲求不満が溜る≫といった憤懣が沸き起こっているように思います。この権力対決の非対称的な構造自体を変えることは難しいけれども、支配層と人民のそれぞれのよって立つ基盤と、両者が闘う舞台のあり方を全体的に見渡し理解すること、簡単に言えば、ホンネとタテマエの構造を捉えることで、「キレイな闘い」に邁進することの意義に迫ることができるのではないか、と考えています。

 

(*注)歴代政権をはるかに上回る安倍政権の不良ぶりは、日々情報を追いかけるだけで大変で整理もできずにウンザリした印象が残るばかりですが、その罪状を必要に応じていつでも引き出せるように用意しておくべきでしょう。石崎学氏の「議院内閣制から診た安倍内閣」(『前衛』5月号所収)は「安倍政権が、日本国憲法が採用した議院内閣制の趣旨を軽視ないし愚弄し、もって日本における国民主権原理に基づく統治の根幹部分を破壊しつつある」(50ページ)という視点から、その悪行の全体像を手際よくまとめており、簡潔な備忘録としても恰好な論文です。

 

 私は政治学の知識がないので、経済の原理から直結して政治状況を読もうという単純な発想になってしまいますが、拙文「安倍暴走を資本主義社会の原理までさかのぼって捉える」(「『経済』20184月号の感想」/2018331日/より)で、アベとの闘い(それだけでなく資本主義支配層一般との闘いにもある程度当てはまるが)における隔靴掻痒感の原因としての「ホンネとタテマエの構造」にそれなりに迫ってみました。

 それによれば、資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開しており、前者から政治的民主主義と市民法が成立し、後者の搾取関係による資本蓄積の進展が政治における資本家階級の権力の経済的基盤となり、その支配に対する労働者階級の闘争の反映として社会法が成立します。したがって発達した資本主義社会は民主主義の政治と資本家階級の権力という二重構造を持ち、その本質は民主主義的階級支配社会という矛盾した規定を与えられます。

 ただし資本主義経済は前近代の搾取社会とは違って、独自の「領有法則の転回」を介して搾取関係は市場経済の等価交換の外皮に包まれ同化されることで隠されます。よってその社会の公認のブルジョア・イデオロギーでは資本主義経済は単層の市場経済であり、搾取の存在は否定されます。その政治イデオロギー的反映として、資本主義社会は単なる民主主義社会であり、階級支配社会ではない、という政治社会像が成立します。これが資本主義社会における表面上のキレイなタテマエであり、本質から来る他面である階級支配の側面は、隠微なホンネとしてのみ意識されます。

 たとえば、今日の新自由主義構造改革による社会保障削減攻撃は、まさにこの階級支配から生じていることは明らかです。しかし「民主主義社会」においては、それは「少子高齢化社会への対応」とか「財政赤字の削減」とか「持続可能な社会保障制度の確立」とかの全社会的利益に沿った必要な政策だとされます。人民の闘いは、そうした政府・支配層の言説が大企業や富裕層向け政策の弁護論に過ぎず、民主主義社会のタテマエに反していることを明らかにすることを重要な局面として含みます。そうして見ると、資本主義社会における階級闘争――経済闘争・政治闘争・イデオロギー闘争――は多くの場合、そのタテマエとホンネの矛盾から出発していると言えます。つまり、支配層は「資本主義社会は(階級支配ではなく)単なる民主主義社会である」というイデオロギーに則って、その統治手法として、階級支配としてのホンネを隠して民主主義的タテマエを前面に押し出してきます。もちろんそのホンネとタテマエは激しく矛盾しているので、必ずほころびが暴露されます。労働者階級を始めとする人民は、むしろブルジョア・イデオロギーを逆手にとり、その矛盾を指摘してホンネを白日にさらし、タテマエの実現を迫ることができます。資本主義社会は実際には少数者による階級支配社会であるにもかかわらず、あくまで「人民の人民による人民のための政治」を実行している社会であるというフィクションをまとっています。このフィクションを見かけ(タテマエ)どおりのホンモノに変えてしまえ、というのが人民の運動の要求であり目標です。だからホンネの暴露の場面では階級的に厳しく露骨にやる必要がありますが、民主主義の実質化の追求においては、上品に普遍的・公正にやる必要があります。

 資本主義下の民主主義=ブルジョア民主主義の実体暴露と変革という二重の過程を進めるうえで、「民主主義の形式と内実」という見方が有効なように思います。民主主義における形式は、たとえば普通選挙権のように、構成員の公正・公平を保障する普遍性を持った制度であり、民主主義の実質は、デモクラシーの語源である「人民の支配、民衆の権力」の実現です。日本国憲法下の日本政治を例に考えてみると、憲法は国民主権を謳っていますが、一貫して日本政治の実質は対米従属の独占資本に握られており、内実としての国民主権は実現していません。しかしあまりに問題が多いとはいえ、曲がりなりにも普通選挙権や議会制民主主義は存在しており、形式的・制度的には国民主権が整い、実質的な民主主義を実現する可能性は残されています。そのように考えると、発達した資本主義社会は「民主主義的階級支配社会」である、という命題は、「民主主義形式を具えた階級支配社会」である、と言い換えることができます。民主主義形式の存在が民主主義実質の実現にとってテコとなり得る、ということが大切です。

以下では、形式民主主義と実質民主主義について考えてみます。ここでは、前者は単に「形式の整備された民主主義」という意味であり、それ以上でも以下でもなく、「形骸化された民主主義」という否定的意味では使いません。後者は、内実の確保された民主主義であり、「人民の権力」の実現した状態です。もっとも、そこには「民主主義(人民権力)の暴走の可能性」という問題があり、それ自身十分な検討を要するのですが、とりあえず立憲主義による制御を前提とするということで、それ以上の議論は措きます。

両者の関係は一般論的には、ドーナッツ型の二重円であり、内円に実質民主主義があり、外円に形式民主主義があります。学校の数学で習う初歩的な集合論や論理学を思い出すと、「政治体制Aは実質民主主義である」を命題pとし、「政治体制Aは形式民主主義である」を命題qとすれば、pq(政治体制Aが実質民主主義ならば形式民主主義である)は成立しますが、逆は必ずしも真ならずで、qp(政治体制Aが形式民主主義ならば実質民主主義である)は不成立です。<pq>において pqに対する十分条件であり、qpに対する必要条件であると言われます。このあたり、p(内円)に「犬である」、q(外円)に「動物である」を置くとよく分かります。したがって、政治体制Aが実質民主主義であるならば、それはもう十分に形式民主主義であり、Aが形式民主主義であることは実質民主主義であるための必要な前提となります。

 ところで、現実世界には実質民主主義をきちんと実現している国はありません。つまり先の二重円の内円は空洞であり、それはまさにドーナッツ型モデルと言えます。このドーナッツは、形式民主主義から実質民主主義を引いた部分になるので、発達した資本主義諸国の民主主義体制・ブルジョア民主主義だと言えます。

もちろんブルジョア民主主義は実質民主主義ではない、というのは単純化であり、現実には労働権の導入や社会保障制度の一定の整備など実質民主主義の要素を部分的に備えています。それは労働者階級の従来の闘争の成果として確立してきたものであり、今日では先述のようにそれをめぐって新自由主義からの攻撃があり、そこに階級闘争の焦点があります。この状況は人民の生活と労働を不安定にし、その真の原因をつかめず、変革への展望が持てないところでは、的外れにも様々なスケープゴートを見出して分断・バッシングが起こります。もともと脆弱な実質民主主義がさらに破壊され社会不安が増大している場面で、新自由主義政策への批判抜きで、人権や民主主義の諸制度を擁護する、つまり形式民主主義を主張すると、民主主義そのものへの不信や偽善視が爆発します。そうした状況では新自由主義批判をしてさえも、理解されず分断・バッシングにかき消される恐れがあります。そこに現れるのが、右派ポピュリズムの跋扈と体制内リベラルの不振であり、たとえばトランプ米大統領の登場やマクロン仏大統領の人気凋落であり、この状況に対応できるかどうかで左派の動向も左右されます。

逆にたとえば20世紀の旧社会主義体制では、ブルジョア民主主義批判というタテマエの下で、形式民主主義を具えずに実質民主主義が「追求」されました。しかしそれは一定の社会保障などはあっても前近代的抑圧型社会に転落しました。先述のように民主主義政治にとって形式民主主義は必要条件であり、それを欠くところに実質民主主義が存在するわけはありません。20世紀のロシアや中国などにおいて、革命の過程では参加型の実質民主主義が実現したわずかな時期がありましたが(たとえばアグネス・スメドレー『偉大なる道』に見られる中国革命期の解放区の状況)、やがて体制確立に向かう中で、自由権を始めとする基本的人権や議会制民主主義などの形式民主主義が破壊され、革命当初に目指された、人民が社会の主人公になる実質民主主義は喪失しました。

その体制確立後に、発達した資本主義諸国に対して行なわれたブルジョア民主主義批判は、確かにそこでの実質民主主義の不在については当てはまり、その偽善性を衝いてはいます。しかしその批判は何より、形式民主主義さえ具えず、したがってブルジョア民主主義以前に過ぎない自己の状態への批判を許さない中での「攻撃的防御」であり、最大限好意的に見て、帝国主義諸国との闘争という意味はあったにせよ、民主主義論としては正当性のない破れかぶれの議論に終わっていました。

単純化して図式的に言えば、発達した資本主義体制は形式民主主義を具えていますが、実質民主主義を欠いています。20世紀社会主義体制は資本主義体制批判として、実質民主主義志向ではありましたが実現せず、形式民主主義さえも捨てて、ブルジョア民主主義以前の状態で終焉しました。翻って安倍政権下の日本政治を見れば、資本主義体制下に部分的に存在する実質民主主義への攻撃が厳しいのはもちろんとして、資本主義体制が少なくともタテマエとして掲げる形式民主主義さえもハデに蹂躙しています。特定秘密保護法・共謀罪法・戦争法の制定などを筆頭に、メディアへの陰に陽にの弾圧、公文書の隠蔽と改ざん、統計偽装、国政・行政機構の私物化など悪行に枚挙がなく、さすがに体制側メディアの多くも批判しています。それさえ擁護するウルトラ体制側メディアがあることが日本の現状のすさまじさではありますが…。

 以上みてきたのは――(1)新自由主義グローバリゼーション下での格差・貧困の拡大下で、脆弱な実質民主主義がさらに後退する中で、形式民主主義の重要性のみを説くことが逆に民主主義への不信を広げること、(220世紀社会主義体制は実質民主主義を志向はしたが結局果たせず、形式民主主義さえも満たせないブルジョア民主主義以前の体制として崩壊したこと、(3)安倍政権は実質民主主義の破壊を強めるだけでなく、形式民主主義さえも従来の保守政権とは異次元の激しさで攻撃していること――です。形式民主主義と実質民主主義とをともに発展させることが重要であり、資本主義体制下では、形式民主主義への攻撃には断固反撃し、それを足掛かりに階級支配の内実を少しでも侵食しつつ、実質民主主義の拡大に努めることが必要です。ところがそれどころではなく、憲法無視・立憲主義破壊の安倍政権が君臨する日本政治の現状では、形式民主主義の後退阻止が喫緊の課題であり、それには立場を超えた共感に基づく広範な共闘が可能になります。

 以上、散漫にあれこれ書きましたが、日本を含む発達した資本主義社会において民主主義が議論される場合の問題点を以下にまとめてみます。

  (a)資本主義社会で民主主義について議論されるのは主に形式についてであり、内実については少ないと言えます。階級支配下では、内実は常に削られる傾向があります。それへの抵抗として形式には、被支配層の武器としての意義があります。民主主義について形式の危機がもっぱら語られ、実質への言及が少ない場合(たとえば現安倍政権下)、これはすでに実質が相当に破壊され、その破壊をさらに増進するために形式そのものの爆破が進んでいるということを意味します。

(b)資本主義社会は階級支配社会であり、実質民主主義を完全に実現するのは不可能です。ただしそこでも民主主義の形式を改善するとともに実質化に努力することは当然です。

(c)資本主義社会における諸困難の主要な原因は、少数の支配者が自己の利益のために多数の被支配者を犠牲にすることであり、それは消費増税などで一目瞭然です。これは主に民主主義の内実に関する問題であり、その形式だけを問題にしても解決しません。

(d)資本主義社会における支配的イデオロギーは上記(b) (c)を踏まえず、社会一般に生じるあつれきを民主主義形式において解決する、という次元でしか問題を見ません。それはどのような社会にも通用する抽象的な思考様式ですが、それだけに資本主義社会独自の問題の本質を見損なうことになります。そういう思考様式の中では「民主主義の混迷」という議論がよく出てきます。なぜなら、多くの諸困難の根底にある階級問題を看過し、体制維持を暗黙の前提に、社会や政治一般次元で考えるので「解決」を見失ってしまうからです。

(e)体制側によるポピュリズム批判の意味を考えてみます。右派ポピュリズムが人権や民主主義ルールを無視することへの批判は、民主主義形式を破壊から守る姿勢としてそれ自身は正当ですが、格差・貧困を進める新自由主義政策・緊縮政策の擁護と同時に行なわれれば、民主主義への不信と反発を強め、右派ポピュリズムを増長させます。

 左派「ポピュリズム」批判は、たとえば消費増税反対を無責任として批判するように、支配層の利益を擁護することであり、民主主義の実質化を求めることへの批判です。それは諸矛盾への批判を民主主義そのものあるいは経済秩序の破壊として描き出すことで、あくまで階級支配の護持を狙うものです。

 

 

          国内民主主義と国際関係

民主主義を国際関係に延長して考えると、国内民主主義と国際民主主義との関係、特にそれが先進国と発展途上国との関係に絡めて問題となります。それらを単純化して20世紀に発する対抗の原型を表示すると次のようになります。

 

 

国内

国際関係

先進資本主義国

民主主義(形式民主主義)

非民主主義――帝国主義

新植民地主義、経済支配

発展途上国

非民主主義(実質民主主義志向だが未成立)

民主主義――民族自決、独立、平等

 

20世紀には、発展途上国内での民主化が一定進み、国際関係でも植民地が独立し、民族自決権が確立しました。その延長線上に、21世紀の社会進歩の方向として、上表の4枠そろって民主化へ前進することが望まれます。しかし新自由主義グローバリゼーション下、グローバル資本が世界経済を実質的に支配する中で、底辺への競争などにより、資本=賃労働関係が労働者階級にとって悪化し、各国の実質民主主義が後退し、それは形式民主主義にも悪影響を与えます。国際関係もグローバル資本を中心とする支配=従属関係が強いので、必ずしも民主化が一路進むとは言えません。とはいえ、グローバリゼーション下、長期的に見れば、「先進資本主義国」と「新興国及び発展途上国」との世界に占めるGDP比率は後者が優位になりつつあります。そうした経済的土台での着実な変化だけでなく、国際政治においても進歩の動きがあります。国連での核兵器禁止条約の議決に見られるように、先進資本主義国や中国・ロシアなどの大国による力の支配から、発展途上国や小国を中心とする道理と法の支配に基づく方向への動きも勢いを増しています。こうした複雑な対抗関係の中でジグザグした動きを伴いながら、各国国内と国際関係においても形式民主主義と実質民主主義とを相携えて前進させる人民の運動が社会進歩のカギです。

 民主主義の「国内・国際」「先進国・途上国」対抗の以上の視点から、たとえば「台湾独立」論について、考えてみます。外面的・図式的考察に過ぎませんが、次のようになります。中国にとって、帝国主義時代の遺産である台湾問題の解決は「一つの中国」の実現しかありえません。しかし共産党独裁の中国は台湾住民に歓迎されません。理想としては、中国国内が民主化され、台湾住民が「一つの中国」を望むという方向に進めば、「国内・国際」「先進国・途上国」対抗が一挙に解決します。それに対して、「一つの中国」の実現に反する「台湾独立」は国内民主主義を優先して、帝国主義時代の傷を残すことになり、「国際」関係の側面で「先進国・途上国」対抗での先進国優位構造に屈することになります。現状では、中台の密接な経済関係と(背後に米国を含む)政治的軍事的関係との中で、民主化としての台湾独立を選ぶわけにはいかず、かといって、「一つの中国」を何らかの形で実質化する方向に舵を切るわけにもいかず、という現状維持に留まっているように思います。やはり中国の民主化が問題の全面的解決をもたらすはずですが、その実現はかなり難しい。台湾問題の大枠はそう捉えられるように思われますが…。

 同様の視点から日韓関係を見るとどうなるでしょうか。韓国の経済発展と民主化によって、戦後しばらくの<先進国VS途上国>型から今日では<先進国VS先進国>型へ基本的には移行しました。移行の画期をいつにおくかは分かりませんが…。しかし徴用工問題などで明らかなように、植民地支配問題の清算が済んでいないので、未だに<先進国VS途上国>対抗を部分的に引きずっていると言えます。日韓関係には国際関係民主化の課題が残っているということです。この対抗で、もちろん「先進国」は日本であり、「途上国」は韓国なのですが、それはあくまで「日帝時代」の地位であり、帝国主義・植民地支配の問題なのですから、日本は先進国だと威張るわけにはいかず、どう反省するかという立場に置かれています。ところが今日の日本では歴史教育が正しく行なわれていないこともあって、未だに反省どころかアジア蔑視イデオロギーを含む反動的ナショナリズムが優勢であり、徴用工問題に典型的に現れているように、政府が先頭に立ち、メディアが扇動して韓国バッシングが吹き荒れる状況です。

 日韓関係という国際関係の民主化における日本の異常さは、国内民主主義にも当然影を落としています。日韓関係が全体としては<先進国VS途上国>型から<先進国VS先進国>型へ移行したのは、韓国が途上国から脱して先進国に仲間入りしたからですが、社会進歩の観点から見て、つまり国内民主化の程度においてはっきりと日韓が逆転しています。 言うまでもなく、日本は明確に戦後最悪で、新自由主義+保守反動の性格を具えた安倍政権を長らく戴いているのに対して、韓国は反動的な朴政権を民衆の力で打倒して進歩的な文在寅政権を登場させました。もちろん文在寅政権にもいろいろ問題はあろうけれども、安倍政権とは比較の対象ではありえません。日本では週刊誌を先頭にメディアで韓国・文在寅バッシングが横行しているような救いがたい状況で、歴史に無反省な歪んだナショナリズムがいかに悪政を助け自国の社会進歩を妨げて人民の幸福追求を阻害しているかが絵に描いたように見えます。実質民主主義を食いつぶしている安倍政権はブルジョア社会のタテマエさえ投げ捨てて形式民主主義をも破壊しています。内政と国際関係における民主主義は国により区別すべきこともあるとして、上の表を掲げたのですが、日韓両国の現状を見る限りは、良い国は内政・外交併せて前向きに努力しているが、悪い国はどっちもどうしようもない、という身もふたもない単純な状況であり、自国を愛する日本人として誠に恥ずかしい限りです。


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☆3 2020年11月号 (2020年10月31日記)

☆目次

1> 「世界農業」化 VS 「国民的農業」

2> 「属国化」「空洞化」を捉える政治経済学

     ☆補注 中村哲氏と憲法の平和主義

3> 学術会議への国家権力の介入

     < 1. ホンネとウソ >

     < 2. 内閣支持率、世論の動向 >

☆反知性主義の蔓延:学問への無理解と学者への反発

1)事実ではなく、日頃からの不公平感・不遇感、

そこから来る妬みの感情に訴える

2)庶民の無知やマイナス感情だけでなく、専門バカも問題

3)反知性主義がはびこる原因

     < 3. 学問の自由とは何か >

     < 4. 学問の自由と公共性 >

     < 終わりに >

4> 公共性の考え方

以下では、「<4> 公共性の考え方だけを掲載

         <4> 公共性の考え方

 

 前述のように、磯田宏氏の「戦後日本の農業食料貿易構造の変化 メガFTAEPA局面の矛盾と打開の方途では、「世界農業」化路線と「国民的農業」路線との対抗が農業問題の中心に置かれました。坂本雅子・萩原伸次郎・佐々木憲昭座談会「日米経済関係の構造と特徴」では、「対米従属の深化=属国化」路線か、「平等・互恵、相互に経済主権を尊重する経済・外交の確立をめざす」自主・自立の路線か、二つの道が問われました。日本学術会議への国家介入の問題では、「学問の自由」をめぐる闘いの中で、憲法の平和主義と基本的人権の尊重を実現するか、戦争のできる国を目指して、思想信条・言論・表現・学問の自由などの精神的自由を圧殺するかという、相対立する内容が争われました。その際に、後者の側から、選挙によって成立した政府は公を担っているのだから、公共機関は政府に従うべきだという「公共性」の理屈が主張されました。とても正当化できない内容を隠して押し通すための形式論理です。

 公共性というのは、主に政治の次元で問題になるものでしょうが、経済を勉強してきた者としては、公共性もまた経済的土台から捉えたいと思います。上記の対抗関係で言えば、政権側は、新自由主義グローバリゼーションと対米従属関係を前提に、「世界農業」化路線や「属国化」路線を推進しています。学術会議問題で橋下氏が主張した「公共性」の論理を適用すれば、政権による「世界農業」化や「属国化」に公共性があるということになります。もちろん人民の側からすれば、それは悪しき内容を糊塗する形式論理による公共性の簒奪・僭称に他なりません。そこに実際にあるのは、公共性の名による支配層の階級性の強行です。

 そもそも国家は階級性(階級的機能)と公共性(公共的機能)との二面性を持ち、両者の対立関係の中で、(階級)国家はあくまで階級性を主要性格としてもち、その機能を果たし、あくまでそれを実現するために従属的に公共的機能を果たし、その限りで公共性をもつ、とマルクス主義国家論では考えられてきたと思います。階級性と公共性との対立を出発点とする考え方でいいのか、ということが点検されねばなりません。

そこで注意すべきは、経済危機などにおいては階級国家が中立的権威として現れるということです。たとえばEU諸国では、緊縮政策による医療・福祉の切り捨てがコロナ禍において大問題となりましたが、それまで緊縮政策はやむを得ないものとして選挙で承認され続いてきました。多数派の人々から公共性が認められてきたということです。日本においても消費税の増税は嫌われてはいますが、それを掲げる自公政権はずっと続いており、メディアも責任ある政策として支持しています。ここでも自公政権は中立的権威として公共性を承認されていることになります。

それらは単に人民が騙されているということではなく、格差と貧困を拡大し、しかも経済の低調さを脱することができないという状況ではあっても、最低限、経済社会の混乱を抑え何とか社会的秩序を維持しているという意味では、公共性を担っていると認められるということでしょう。経済的不安が強い中では、与党の政策と違うものが行なわれて混乱が生じるのではないか、という危機による萎縮と政府の政策への翼賛、つまり国家への統合が強化されます。そういう状況では、何か有望なオルタナティヴが分かりやすく示されない限り、これで我慢するしかないか、という思いになります。

そもそも純粋の公共性があるわけではなく、あらゆる公共性と称されるものは、むしろ何らかの階級的利害を集約してそれを社会全体の利益になると主張する体系だとも言えます。そのヴァリエーションの違いを賢く選択して、より良い公共性を実現するのが民主政治と言えます。今回の拙文では、日本農業・日本経済・学問の自由をめぐって、それぞれの対決点を見てきました。それは何がより良い公共性を実現するものか、という闘いであり、公共性を自称できることをめぐる争奪戦だとも言えます。階級性と公共性との対立ではなく、公共性のあり方をめぐる対立を通した公共性そのものの争奪戦なのです。

この対抗関係を図式化すればこうなります。――<公共性一般 VS 階級性一般>ではなく「公共性A」VS「公共性B」であり、その土台には「階級性A」VS「階級性B」がある――

どちらの公共性がより普遍的・進歩的かを競うということです。そういう意味では、現政権の様々な施策について、公共性の簒奪・僭称というのは言い過ぎかもしれません。内容は最悪だけれどもそれもまた公共性の一種ではあります。私たちはより良い公共性を分かりやすく提示することで政権を奪取しなければなりません。以上の考え方によって、経済危機において国家が中立的権威を持つことと、それを打倒する側が掲げるものとは何かという問題を、公共性概念の検討を通じて、ともに合理的に理解できると思います。この試論は、資本主義国家の本質を経済理論の観点から解明した以下の論稿を参考にしています。

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 「法治国家」のもとでは、資本家階級の階級的支配は、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成をとおして貫徹する。ここでは「社会の利益」は、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる。したがって国家は、資本蓄積の諸障害の克服と蓄積の諸矛盾の緩和を意図した諸政策を追求することによって、「社会の利益」を代表する「中立的権威」=「一般的利害」の担い手の衣装をまとうことができる。これが、客観的に「資本の自由」の優先的保障となることは、あきらかであろう。

 「社会の利益」と「資本の自由」との右の関連は、資本主義国家に一般的なものであり、今日の国家においても基本的に変わりない。成長政策も福祉政策も、いずれにせよ、資本蓄積の促進とその諸矛盾の緩和という一体的な国家目的の追求のそれぞれの側面を表現するにすぎず、それらをつうじて、「資本の自由」の優先的保障がたえず追求されていくものである。

 今日の特徴は、この国家目的の追求そのものが「国家の危機」をもたらしていることである。いうまでもなく、それは資本主義そのものの危機の「反射」である。ここで問題となることは、国家の階級性と公共性との対立でも、特殊利害と一般利害との対立でもない。それ自体が階級的利害の集約的表現である公共性=一般利害の概念の対立である。ここでは、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成か、「人民の自由」=「人間的労働への要求」を原理とする国民経済の統一的再編成かが、たえず問われているのである。

 

大島雄一「経済学と国家論――その方法論的基準――、同『現代資本主義の構造分析』所収196197ページ、大月書店、1991年、初出:『現代と思想』第38号、青木書店、197911

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「社会の利益」は、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる、という上記の論理は今日の俗語で言えばトリクルダウン理論です。その破綻は明白です。これが書かれた1979年とは違って、「生活の向上」はもはや期待されてはおらず、客観的にはそれだけ資本主義の危機は深まったと言えます。にもかかわらずメディアの劣化などによるイデオロギー支配の強化、右派ポピュリズムの跋扈など体制護持要因は増えています。それを打ち破るには、分かりやすいオルタナティヴを提起して、新たな公共性を「国民的常識」とすることが求められます。


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