月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2016年1月号〜月号)。 |
2016年1月号
安倍政権打倒へ世論の獲得を
2015年は画期的な年となりました。一方で、戦後最悪の安倍政権が暴走全開であらゆる悪政を実施しました。中でも戦争法を強行成立させたことによって、この政権の悪政ぶりは従来の保守政権とは異次元の領域に突入し、立憲主義を無視する公然たる独裁に近づいたと言えます。他方、こうした安倍独裁による国会・議会制民主主義の機能不全に対して、広範な「街頭の民主主義」が立ち上がったことも前代未聞です。それも組織動員ではなく諸個人が自覚的に創造する民主主義の時代が始まろうとしています。このように平和と民主主義をめぐる危機と希望が鋭く交錯する年となりました。
この情勢下、日本人民にとって、諸悪の根源たる安倍政権を打倒することは喫緊の課題となっています。しかし世論調査を見ると、政権の主要諸政策への不支持が強いにもかかわらず、内閣支持率自体は強行採決後の一時的な下落を経て4割程度には回復しています。その原因としていくつか挙げてみるとたとえば以下のようになるでしょうか。
(1)中国脅威論を始めとする「安全保障環境の悪化」への不安が煽られているため、タカ派政権による「安心」を評価する。
(2)新自由主義政策の継続により格差・貧困が拡大し、多くの人々が閉塞感にとらわれる中で、経済の民主的変革を目指すオルタナティヴが知られていないので、藁にもすがる思いで、喧伝されているアベノミクスを信じてみる。あるいは与党による景気対策や「バラマキ」に期待する。
(3)まったくアベチャンネルと化したNHKのニュース報道に代表されるように、多くのマスコミが政権におもねり、批判的報道を控えているのが影響している。
ただし内閣支持率が4割程度とはいっても、弱い支持が多く、逆に強い不支持も多いのが実態であり、たとえば野党の結集が進み、人々にとって政治変革の道筋が見えてくれば世論が雪崩を打って変化する可能性もあります。12月19・20日実施の世論調査(「朝日」22日付掲載)は興味深いものになっています。なお<>内の数字は全体に対する比率で、丸カッコ内の数字は11月7・8日の調査結果です。
*** ---- ---- ┬┬ ---- ---- ***
◆安倍内閣を支持しますか。支持しませんか。
支持する 38(40) 支持しない 40(41)
◇それはどうしてですか。(選択肢から一つ選ぶ=択一。左は「支持する」38%、右は「支持しない」40%の理由)
首相が安倍さん 15〈6〉 7〈3〉
自民党中心の内閣 24〈9〉 21〈8〉
政策の面 37〈14〉 65〈26〉
なんとなく 20〈8〉 5〈2〉
◇(「支持する」と答えた38%の人に)これからも安倍内閣への支持を続けると思いますか。安倍内閣への支持を続けるとは限らないと思いますか。
これからも安倍内閣への支持を続ける 45〈17〉
安倍内閣への支持を続けるとは限らない 52〈20〉
◇(「支持しない」と答えた40%の人に)これからも安倍内閣を支持しないと思いますか。安倍内閣を支持するかもしれないと思いますか。
これからも安倍内閣を支持しない 62〈25〉
安倍内閣を支持するかもしれない 33〈13〉
◆今、どの政党を支持していますか。政党名でお答えください。
自民33(34)▽民主8(7)▽公明3(4)▽共産3(3)▽維新1(1)▽おおさか維新1(2)▽社民0(0)▽生活0(0)▽元気0(0)▽次世代0(0)▽改革0(0)▽その他の政党0(1)▽支持政党なし42(41)▽答えない・分からない9(7)
*** ---- ---- ┴┴ ---- ---- ***
この調査では、安倍内閣への支持・不支持を聞いた後に、「これからも支持を続けるか」「これからも不支持か」を聞いています。「これからも…」への回答に応じて支持・不支持の強弱を分類して全体への比率を見ると次のようになります。
安倍内閣への強い支持 17% 弱い支持 20%
強い不支持 25% 弱い不支持 13%
また支持と不支持の理由として「政策」と「なんとなく」をやはり全体への比率でみると、次のようになります。
政策で支持 14% なんとなく支持 8%
政策で不支持 26% なんとなく不支持 2%
さすがに支持者でも「なんとなく」よりは「政策」が多いとはいえ、その差は小さく、逆に不支持層では「政策」理由が圧倒しています。つまり安倍政権は依然として4割程度の支持を維持しているとはいっても、その質はもろく、逆に不支持層は政策を理由とした強い不支持で固められています。私たちが感じる「街頭の民主主義の熱気」と「茫洋とした安倍政権支持模様」という対照的印象をこの世論調査はうまく浮き彫りにしています。しかし確かに「熱気」の中には安倍不支持の確信があるのですが、その外部との温度差を的確に捉えて全体状況をどう変えるかが課題として残されています。それをつかむ必要性がここから感じられます。熱気があろうとなかろうと一人一票は同じであり、選挙結果はそれによって決するのですから。
このように安倍内閣の支持状況の把握に関しては今回の「朝日」の世論調査はなかなか有用です。余談になりますが、NHKや「読売」の世論調査は政権に有利な数字が出るというふうに言われます。NHKは10月の世論調査では「安保法の成立を評価するかどうか」を質問し、「評価せず」が圧倒していました。ところが11月調査では「安保関連法が必要かどうか」という質問にして、「必要」が上回る結果となっています。反対世論が逆転してしまったかのような印象ですが、同時期の他社の世論調査では安保法成立について質問しており、「評価せず」が多数です。「反対世論を小さく印象づけるNHK調査は、戦争法反対の多数世論をごまかす意図を疑わざるをえません」(「しんぶん赤旗」11月11日付、「NHK調査 戦争法反対の世論 設問変えごまかす?」)。今回このようにNHK調査の作為が明らかになってしまいましたが、他でも見えないところで様々な手練手管を使って、政権に有利な調査結果を「創造」しているのではないか、という疑いは消えません。
もっとも、「今回の戦争法には反対だが、何らかの安保関連法が必要だ」という世論状況が明らかになったということはいえます。それは私たちの運動の到達点を示しており、その改善を考えさせる調査結果ではあります。また「朝日」調査に見られるように、安倍政権への支持の実態は弱々しいものだとはいえ、自民党の支持率が野党と比べれば非常に高いことにも留意する必要があります。小選挙区制などの非民主的な選挙制度の下では支持率3割程度の「一強」でも圧倒的議席を獲得でき、それがまた「強大な政権党」という、実像からはずれた誤ったイメージを作り出し、それが次回選挙の判断基準になるという悪循環が成立します。これを抜け出す決め手は「野党は団結」でしょう。小さな野党も結集すれば、無党派層を取り込んで与党を上回り、獲得議席で大差をつけることも可能となります。このようにして、必ずしもフェアとは言えないという気はしますが、非民主的選挙制度を逆手に取って自民党の議席を蹴落とすことに全力を注ぐことが、戦後最悪の諸施政を終わらせることにつながります。
政権打倒を考える際には、以上のように世論の大枠の動向をにらみつつ、与野党間の力学を捉えることが最重要です。次いで政策課題ごとの世論動向を直視して、悪政を徹底批判し対案を提起することで政権支持率をさらに低下させ、政権交代への期待を高める必要があります。その際にマスコミのあり方も要検討課題です。したがって前記のように内閣支持率下げ止まりの3要因である「安保」「経済」「マスコミ」について考えてみます。
「安保」についてはここでは簡単に触れます。戦争法の国会審議では憲法違反が明白になる中で、政権側は参議院段階では憲法論は回避して、もっぱら「安全保障環境の悪化」なるものを持ち出してきて、中国脅威論などを扇動して世論の支持をつなぎ止めようとしました。国会論戦の中では、さすがに中国脅威論を公式には否定せざるを得ない(外務大臣など)状況でしたが、実質的には中国包囲網の外交姿勢とマスコミも動員した脅威論の扇動によって世論の不安をかきたてて戦争法の必要性を印象付ける作戦でした。もちろん戦争法の真の狙いは米国に従属して世界中どこでも戦争協力する体制を構築することであり、さしあたって焦点になるのは中東やアフリカです。それは押し隠して中国脅威を中心とする「安全保障環境の悪化」を煽っているわけですが、世論に一定の影響を与えていることは否定できません。あれだけひどい戦争法について、国会答弁もボロボロで、世論上も当然反対が多かったとはいえ一定の支持が残った原因としてはそれが挙げられます。
中国脅威論については虚実様々ありますので、分析的に批判していくべきであり、中国に対しても言うべきことは言い、併せて日本の外交姿勢としてあるべき姿を示していく必要があります。
緒方靖夫氏は10月14日から北京で開催されたアジア政党会議に参加しました。この会議のテーマは中国の「一帯一路」構想であり、そこで支持・礼賛・協力の発言がほとんどの中で、緒方氏は基本的に賛成と述べた上で、領土紛争への姿勢・小国への対応・世界からの信頼という3点について、中国に対して要望しました。さらに次の3点を指摘しました。…1.英米が帝国主義の覇権争いから台頭してきたのとは違って、中国は国連憲章が国際社会に浸透している時代に台頭していること。2.中国は平和共存5原則・バンドン10原則など、現代国際政治の原則形成に率先して関与してきた国だということ。3.中国は帝国主義とは無縁なはずの社会主義を標榜している国だということ。…同時に緒方氏は日本政府の歴史問題への姿勢と中国敵視の外交に対して批判しました(「アジアと世界の平和のために 緒方靖夫さんに聞く」、88・89ページ)。また中国に民族主義や大国意識が台頭していることが脅威論の根拠となっている点は認めつつ、しかし「それと日本の進路を結びつけるのは大きな間違いです」(89ページ)として、ASEANの中国対応の経験に学んで「外交的に、平和的に、粘り強くコツコツと話し合うことが肝要だし、それしかないのです。/中国が一番気にするのは国際的評判です。これを犠牲にしてまで、無理難題をふっかけることは本来できないのです」(90ページ)と指摘しています。
おそらく緒方氏は中国に対しては、そのタテマエと実際の覇権主義的行動との矛盾を衝き、中国革命の原点にも連なるタテマエの大切さと、その道にこそ大国となった中国の世界の中での本来の発展方向があることを説いているように思えます(良心を呼び起こす「挑発」?)。そこからは(たとえ保守政権であっても)日本の姿勢としては、中国に対してそのような方向性に沿うように平和共存すべきであり、まちがっても軍拡や日米軍事同盟強化に基づく中国包囲網の強化戦略などに立って、かえって中国の覇権主義的行動を煽るような誤った道を取るべきではない、という結論が出てくるでしょう。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という日本国憲法前文の一節ほど保守反動勢力から嘲笑される言葉はないのですが、節穴の目には見えないものがそこにはあります。確かに「平和を愛する諸国民の公正と信義」に反する「現実」はいくらでもあります(本来「諸国民」は平和を愛するが、「国家」がそうとは限らず、後者が前者を戦争に扇動することはよくある)。だがそのような「現実」に留まるのを潔しとせず、覇権主義に対して覇権主義で応じるのではなく、理想の実現のために国際関係の普遍的原則に沿って粘り強く話し合い外交努力し、新たな世界の現実を作り出す、それがあの一節の精神であり、真の積極的平和主義に連なる指針であり、長い目で見た現実主義でもあろうと思います。軍事的に「勇ましい」言動は「現実」に即しているように見えながら、何の展望もなく破壊の道でしかない最悪の非現実主義でしょう。
閑話休題。緒方氏はASEANの政治力の源泉・秘訣について5点指摘しています(92〜94ページ)。その内容はここでは措きますが、日本の中国脅威論との関係でいえば、ASEANが中国との外交において「さまざまな辛酸辛苦の経験を経て、懐を深くしてきた」(93ページ)ことを指摘しつつ抱かれる次の述懐が印象的です。「ASEANの公式文書は、1967年の設立文書も含めて、普遍性をもつ、大事な原則で貫かれています。それを起草したタイやマレーシアやインドネシアの官僚の優秀さと敵をつくらないという指導者の発想に感心するのです」(同前)。原則と柔軟性との共存に発する包容力がASEANの魅力でしょうか。日本の官僚や政治家も本当は「優秀」なのだと思います。ただそれが対米従属と財界奉仕という大前提の下で思考停止に陥って迷走し、安倍政権に至っては暴走しているわけです。
以上のように、尖閣諸島や南シナ海など様々な問題で中国が「悪い話題」となり、中国脅威論が高まっている中で、緒方氏はそういった中国の覇権主義的現象への批判を念頭に置きつつ(普通は諸現象を声高に非難するだけをもって良しとされているが)、国際関係の原則の本来のあり方を対置し、その中での中国の位置やあるべき方向性を理念的にも歴史的にも指摘しています。その上で日本が中国敵視ではなく、歴史を反省し、適切な外交努力に徹することを提起し、その際に中国との関係で長年苦労してきたASEANの経験、その原則性と柔軟性に学ぶという指針を指し示しています。中国脅威論の克服については、当然様々な事実の確認と細かい議論が必要となるでしょうが、その前提として、何よりも国際関係の普遍的原則を尊重し、それにそった諸国の外交努力の積み重ねの経験に学んで、今後の方向性を定める、という姿勢が必要であり、緒方氏はそれを分かりやすく説いていると思います。
経済問題―「消費税増税」「分断支配の打破」
「安保」については簡単に触れるだけのはずだったのですが、ついつい中国脅威論をめぐって冗長に書いてしまいました。次に「経済」についてまず消費税増税の問題を中心に触れます。本来はアベノミクスへの批判を通して世論の獲得について考えるべきなのですが、このところいわゆる軽減税率問題があまりにかまびすしく、しかもまったく世論をミスリードする論調がマスコミを支配しているので、当面問題にすべきはそれか、と思ったのです。しかしやはり「経済」に触れるとすれば、その前に安倍悪政の頂点となった戦争法の強行について、その経済的基盤として日本資本主義の蓄積の型の大転換があることを指摘した関野秀明氏の論稿から紹介します。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「国内市場・内需依存」でなく「国内に生産基盤を置いた輸出依存型」でもない、日本の大企業体制の「多国籍企業化・海外直接投資型」の資本蓄積は、その上部構造である政治・安全保障政策を「平和憲法と共存する専守防衛型」から「海外市場・権益、現地企業を守り拡大する海外派兵型」への大転換を促します。この大転換は、現実には、日本が米国の世界戦略に従属し、TPP(環太平洋連携協定)のような米日多国籍企業の求める自由市場秩序を全世界に拡大する米国の戦争に自衛隊が参戦する形態で推進されています。「構造改革政治」・アベノミクス成長戦略の実行で貧困・格差の矛盾が高まることが、その反動的打開策として、海外市場を日本の権益として取り込む、軍事同盟を強化して米日多国籍企業に有利な自由貿易・自由投資原則を世界に強制する自由市場拡大のための戦争国家化を推進しています。
「貧困、恐慌、世界市場開拓と『資本論』」、45ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
これは戦争法を廃止する闘いが資本蓄積の型の転換(国民経済をグローバル資本従属型から内需循環自立型へ)と関連していることを示しているとも言えます。それを認識することは、私たちの世論獲得への挑戦にとって、「経済」の側面から接近することに深い意義があることに新たな光を当てると思い、その重要さに鑑み、長さをいとわずに引用しました。
閑話休題。消費税増税をめぐっては、いわゆる軽減税率に関する自公協議がさも一大事であるかのような報道が両者の妥協まで連日にわたって鳴り物入りで行なわれました。そもそも消費税率を10%に上げることが根本的な大問題であって、それを若干緩和するだけの「軽減税率」で大騒ぎするマスコミは問題の本質を隠す役割を果たしています。しかも軽減税率と言っても10%に上げるときに一部を8%のまま据え置くと言うだけのことであり、これは政策名の詐称であり、世間で「軽減詐欺だ」と叩かれているのももっともなことです。「税率を8%に据え置くのは食品と新聞で、5.5兆円の増税が4.5兆円の増税になるだけです。日用品や物流コスト、電気料金などは一律10%に増税で、国民生活に大打撃です」(「しんぶん赤旗」12月30日付)という当たり前の報道をブルジョア・マスコミはできません。それは消費税増税に賛成しているからです。
ここでいったん一般論として、「悪政による政権支持率上昇術とマスコミの共犯」現象を提出します。根本的な悪政があってそれをいくらか緩和する政策を行なうと、あたかも善政が行われているかのような錯覚が起き、政権支持率が上昇することがあり得ます。この場合、悪政による痛みが強いほど、それが多少とも緩和されることのありがたみが増します。このような倒錯が起こる前提は、人々が根本的な悪政そのものに目を向けない、あるいはそれが続くことを諦めて受容している、という状態です。その状態をつくるためには、一つにはマスコミが問題の根本を報道せず、枝葉末節にこだわってそこにばかり人々の目を向けようとすることが必要であり、もう一つには、たとえ悪政の根本問題に人々が気づいても、政権が続くほかないので仕方ないと諦めさせる、ということもあり得るでしょう。戦後最悪の安倍政権が比較的長期政権として続いている状態は、以上のケースに当てはまるわけで、今後とも悪政をほしいままにしつつ、部分的な緩和策で支持率上昇と政権の延命にこれ努める可能性があります。
ただしまた具体的に「軽減税率」問題に戻ると、「悪政による政権支持率上昇術とマスコミの共犯」は必ずしも今回は成功していないことが分かります。「朝日」12月22日付掲載の世論調査(19・20日実施)の結果を整理すると以下のようになります。
(1)消費税率10%への引き上げ 賛成 35% 反対 56%
(2)軽減税率の自公合意 評価する 39% 評価しない 47%
(3)低所得老人・障害者1250万人対象の一人当たり3万円臨時福祉給付金
賛成 34% 反対 54%
(4)子育て給付金の来年度廃止 賛成 20% 反対 70%
ここで(1)と(4)は生活破壊の悪政そのものであり、(2)と(3)はその緩和策です。いずれにせよここでの安倍政権の政策はすべて支持が少数になっています。生活が厳しいので悪政そのものにはもちろん反対だし、緩和策もいかにもごまかしのバラマキくさいので支持できない、ということでしょうか。政権とマスコミの共犯が見破られて失敗しているということであればたいへんに結構なのですが、そう楽観ばかりもしていられないという気もします。
マスコミはバラマキ批判をいつも居丈高に行ないます。それは分析的に見る必要があります。何もかも一緒になって「正義感」に浸っていてはいけません。バラマキというのはむだな公共事業に対して言われることもありますが、それよりも社会保障とか農業保護など実際には必要なものに対して向けられることの方が多いのです。マスコミは基本的には大企業の利益第一ですから、人々の生活を破壊する政策であっても彼らの論理の「大所高所」の見地から支持する場合が多いのです。財政再建と言えば、社会保障削減と消費税増税しか言わず、法人税や軍事費あるいは富裕層・大企業の税逃れなどの問題は聖域という姿勢です。マスコミではその立場からのバラマキ批判が実際には多いわけです。
軽減税率については、そんなことをやったら増税で入るはずの税収に穴が開いて無責任だ、ということでマスコミは批判しているわけで、それに同調していると、やはり消費税増税に賛成するのが正しいのか、ということになりかねません。臨時福祉給付金については、「朝日」12月19日付などは、選挙目当てのバラマキだというだけでなく、そもそも高齢者にお金を使うのがバラマキであり間違いだという論調です。「しんぶん赤旗」12月30日付は「『3万円の臨時給付金』といっても、年金は毎年、削減されており、来年は物価上昇にもかかわらず改定率をゼロとします。その上、消費税10%が押し付けられることになれば、給付金など吹き飛んでしまいます」と根本的批判を展開しています。「選挙目当てのバラマキ批判」はその限りでは正しいのですが、ブルジョア・マスコミの文脈においては、それは社会保障削減推進の一環に注ぎ込まれています。低年金が放置されるどころかますます削減されるという根本問題を置き去りにして、「選挙目当てを許すな」という表面的な正義感だけで「バラマキ批判」に同調していると危険です。マスコミはこのようにして世論を捻じ曲げて支配層の利益に奉仕しようとしていることに注意して世論調査の結果を見る必要があると思います。もちろんマスコミの自己認識としてはおそらく、特定の利益に奉仕するのではなく、あくまで「大所高所から正しく国民を導く」というエリート主義的使命感から公正な論陣を張っているのだと言うつもりでしょう。しかしその「大所高所」がすでに階級的なのです。
「軽減税率」導入に絡んで、インボイス制度の採用や簡易課税制度や免税点の廃止ないし縮小などが打ち出されています。これらは一般消費者にとってはなじみがない問題だし、事務作業の負担増などを理由に反対するのは事業者のエゴだと思う人も多いかもしれませんが、すべて中小業者などにとっては死活問題です。そもそも消費者から見ても「軽減税率」なるものの導入で、多少なりとも10%の一般品目に対して8%の食料品の価格が相対的に下がるのかどうかの保証はありません。「価格を決めるのは企業ですから、便乗値上げも可能なのです。消費税法はそれを禁止することができません」(湖東京至氏。「全国商工新聞」12月14日付)。このような現場で実際に切実な実務的問題を取り上げるのは民商の先の「全国商工新聞」とか「しんぶん赤旗」12月24日付などで、一般のマスコミではおそらくあまりないでしょう。
消費税率がどう決まろうとも実際の商品価格は時々の需給に応じて変動せざるを得ないとか、赤字の事業者が身銭を切って消費税を納めなければならない、といった事象は理想的に理論上の問題を追いかけている向きには目に入らないのではないかと思います。インボイスの導入と簡易課税制度・免税点の廃止は純粋に消費税を機能させるという意味では必要ですので、理論的に要請され、政策上も追求されることになります。しかしそれは消費税の存在を認めた上での「正義」や「理論的一貫性」に基づく「純化」に過ぎません。そもそも消費税には逆進性という根本的不正義があり存在そのものが不適当なのです。それが無理やり存在していることから、特に中小業者の実際の利益との軋轢が生じ、そこに現実的妥協として簡易課税制度や免税点や帳簿方式が成立しているのです。だから当然それは理論上、理想的な消費税から見れば「不純」であり、不断に「純化」の衝動が起こってきます。中小業者の立場からすればそんな「純化」の「正義」に付き合う必要はありません。こちらの正義と純化は消費税廃止です。妥協の結果として実際にある不純な諸制度をどうするかは理論の問題ではなく現実的力関係によって決せられるのです。
来る参議院選挙との関係では、「軽減税率」ではなく消費税増税そのものを一つの重要な争点にすることが必要です。ただし悩ましいのは、国民連合政府を実現させる観点からすれば、第一の争点はあくまで戦争法廃止=立憲主義の回復だということです。たとえ国民連合政府が将来実現したとしても、すぐには消費税問題での一致点はなく私たちの要求実現には遠いでしょう。しかし一致点以外の問題でもそれぞれの政策を掲げるのが選挙戦であり、先を見据えてその時点でふさわしい力点をもって臨むことが必要です。
以上が消費税・「軽減税率」をめぐる政権の詐術、つまり人々に(悪政を善政と感じさせるような)錯覚を起こさせたり、世論を巧妙に誘導したりして、支配を維持しようとする術策についての考察でしたが、次に分断支配について考えてみます。搾取社会では支配階級は人民の中での様々な差異を利用して分断支配を行ないます。前近代においては、身分・人種・民族・宗教等々、非経済的要因を含めて分断に利用します。近代資本主義社会においても同様のことはありますが、むしろ中心的には、資本蓄積法則が生み出す相対的過剰人口の作用という経済的に組み込まれた要因が大きな役割を果たします。ここに今日の分断支配を容易にする客観的構造があります。貧困・格差・差別という現象とそれがもたらす様々な主観的・主体的反応がどうしてもまず目につきますが、それ以前に近代資本主義社会に特有なこの客観的構造を捉えることが必要です。
伍賀一道氏の「非正規雇用による日本の貧困と『資本論』」と関野秀明氏の前掲「貧困、恐慌、世界市場開拓と『資本論』」において、その原則的解明がされています。伍賀氏は労働市場の需給関係に関する俗論を批判するという形で相対的過剰人口論の意義を示しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
『資本論』では、需要(資本蓄積)と供給(労働者人口)が相互に独立した関係にあって、両者の量的関係の変動で賃金が決定されるという労働市場のとらえ方は正しくないとしている。なぜならば、資本は労働市場の需要面だけでなく供給の側面にも同時に作用しており、資本蓄積はそれ自身のなかに労働供給の限界を打破する機構を具えているからである。その一つに相対的過剰人口が就業労働者にたいして加える圧力がある。
伍賀論文 28・29ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
労働規制が弱く長時間労働や労働強化が野放しの社会では、資本の大きさに比して就業労働者数が少なく、相対的過剰人口が増加し、その圧力によって就業労働者の労働条件が悪化するという「相互促進作用が形成され」ます(同前、29ページ)。ここでは直接的には労働者階級の内部で、就業者と失業者との利害が対立することになり(たとえば「少ない仕事を就業者が独占しているから仕事にあぶれた失業者が出る」VS「失業者が多くて悪い労働条件で働こうとするから就業者の労働条件が悪くなる」等々…)、それは資本の側の思うつぼです。この「相互作用」の労働者的解決は、過度労働を規制して人間的労働に改善し、そうすれば労働者個人の労働量は減るから、資本は就業労働者を増やす必要があり、労働需要が増加し失業者が減る、という好循環に持っていくことです。そのためには労働者間の対立・競争を抑制して自覚的連帯を強化して労働条件改善に立ち上がることが必要です。敵は労働者同士ではなく資本です。
今日ではそうした就業者と失業者という単純な区別だけではなく、相対的過剰人口の一つの形態としての半失業が重要な位置を占め、非正規雇用がそれに当てはまりますが、上記の「対立から連帯へ」という基本図式は通用します。関野秀明氏はその対立図式の現代的現象としてのイデオロギー状況を指摘しています。正規労働者の過度労働と非正規労働者の不安定雇用・不規則就業・頻繁な失業との相互促進が資本蓄積の手段となる「相対的過剰人口の法則は、大企業の高収益のために『非正規労働者が自己責任論で』『正規労働者が既得権益論で』責められる、現代日本の貧困の本質をなしています」(関野論文、46ページ)。その解決は当然「今日でいえば正規雇用と半失業・非正規雇用との連携による労働組合運動の高揚をおいてほかにない」(伍賀論文、36ページ)ということになります。
ただしもちろん半失業の増加はそうした図式に当てはめるだけでなく、独自の問題の分析を要します。伍賀氏は以下のように指摘します。半失業・非正規労働者の増加はそれを基盤とする産業を台頭させ繁栄させることになります。今日では飲食部門や流通サービス産業部門がそれに当たり、安価な労働力を基盤とする過当競争がもたらす過剰サービスが当たり前になっています。またメーカーにおいても、頻繁なモデルチェンジなど「資本が主導した消費者の欲望の喚起による市場拡大戦略」(伍賀論文、35ページ)において「業務量の変動にあわせて人員調整を容易にする」(同前)ため彼らを利用します。したがって「半失業・非正規雇用は働き方の貧困をともなうと同時に、こうした半失業・非正規雇用を基盤とする産業を隆盛させ、ふたたび半失業状態を再生産するという構図がつくられてい」ます(同前)。現代資本主義における半失業・非正規雇用の拡大と固定化・不可欠化という深刻な問題です。さらに付け加えれば、「過剰サービス」や「資本によって喚起された欲望」にすっかり浸かってしまった消費者(その多くは労働者でもあるが)も再生産されるわけです。すると労働者の連帯した闘いによる過度労働の抑制という課題にとって、労働者が消費者としても適切なあり方を追求するということも不可欠な要素となります。たとえば24時間365日営業が当たり前というのは異常ではないか、ということを正面から提起することです。まさに野蛮なむき出しの資本主義としての新自由主義の時代にあって、労働者はディーセントな未来社会の建設主体としての自覚が求められるのかもしれません。いやそこまで言わないにしても、この異常な働き方を少しでもまともに近づけるために、お互いに消費欲望を理性的に制御し、過剰サービスを求めないとか、些末な使用価値の追求を反省するなど、ということは可能ではないでしょうか。労働の側からも、出来ないものは無理にやらない、という姿勢を社会的に一般化させる意識的努力が必要でしょう。
また現代資本主義においては、働き方の問題は社会保障のあり方と密接不可分です。上記では、相対的過剰人口の存在による過度労働と失業との悪循環を見ましたが、低福祉による貧困と(ワーキング・プアなどの)悪条件労働との悪循環もあります。そもそも社会保障が充実しておればワーキング・プアとしての半失業・非正規雇用は存在しにくいので低福祉の悪循環も本来はありません。日本におけるその悪循環ぶりはヨーロッパと比べるとはっきりします。低福祉は異常なバッシングも生みます。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
欧州福祉国家の労働者は、社会保障を利用してワーキング・プア的な労働を断り、結果として「高失業でも低貧困」です。しかし、日本の労働者は社会保障で守られないのでワーキング・プア的な仕事を断れず、「低失業でも高貧困」なのです。
関野論文 43ページ
弱い社会保障ゆえの「働く貧困」の蔓延は、「福祉に甘えるな」「とにかく働け」という社会保障バッシングを生み、病人や老人を「働く貧困」へさらに追い詰めていきます。
同前 43・44ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
こうして半失業・非正規雇用の拡大再生産は貧困を広範に固定化させ、その惨状が社会を覆いさらにバッシングのような恥ずべき社会的病理を生み出します。この惨状は文化的領域にまで及びますが、そうした現象展開は本質を見えにくくします。中西新太郎氏はこう指摘します。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
文化次元に現れるこうした貧困は、経済的余裕がなくて本が読めなかった、旅行に行けなかった等々のようには表出されず、そう受け取られない。「本が好きじゃないから」「外に出かけるのは好きじゃない」という仕方でしか表出できず、そうでなければ認められない。経済的不利を文化的に挽回する努力が欠けていると判断されてしまうから、貧困を理由にできない。 …中略… 文化的貧困は貧困としての認知(社会問題としての貧困の把握)を拒まれるのであり、貧困としてさらされることが劣等視を招くのである。本来は貧困と考えるべきなのに、そう気取られてはいけない。文化次元の貧困に負わされた厄介な性格がここにはある。 「新自由主義と文化的貧困の広がり」、55・56ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
こうして「社会問題として扱われるべき格差―貧困が個人的(文化)能力に由来する問題へと読み替えられ、そう読み替えられることで、社会的にみえにくくなる」(同前、56ページ)わけです。
このように多岐にわたり荒廃した社会が出現したのは、20世紀終わりごろからずっと行われてきた新自由主義政策が、労働規制緩和や社会保障削減などによって、資本蓄積の法則の作用を放任してきたためです。現在この荒野に屹立する安倍政権はもちろんそれを是正するのではなく、逆に貧困の体制的維持・固定化を図っています。それは統治の危機をもたらす可能性がありますが、対処法として強権的治安対策というよりはイデオロギー支配によって乗り切ろうとするばかりか、むしろ政権への支持に利用しようとさえしています。もともと日本社会では権利意識が希薄なのに乗じて、安倍政権は「権利と義務とを等置させることで国家による権利制約を正当化する特異な国家観」をもって「貧困状態を甘受させる意識統制」「権利感覚を喪失させるための社会・文化統制」を図っています(同前、59ページ)。その狙いと対抗勢力の心構えについて中西氏は次のように言います。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
既存の保守政治では、その事態は自らの統治の失点と受けとられたが、右派政権は、そうした事態を、そこへと転落すべきでない教訓として扱い、恐怖感を煽る対象として利用する。新自由主義政治家も同様だが、「そうなっては困る」事態と感じさせることで、まだしも何とかやってゆける生活にしがみつくよう恫喝し誘導するのである。安倍政権への支持はこの恐怖に支えられており、貧困が激しいバッシングの対象となるのはこのゆえであろう。したがって、貧困を克服する課題、運動は、貧困に苦しめられながらも普通に生きたいと願う人々の要求を尊厳回復の問題としても受けとめ、人の尊厳を傷つけて恥じない政治と対決する姿勢、精神に立たねばならない。 60ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
「人の尊厳を傷つけて恥じない政治」の代表的実践例は橋下徹氏の言動と実績でしょう。大阪市職員の思想調査をしたファシズム体質、自己責任論の強調と生活保護・公務員へのバッシング、反対者に対する異常な徹底攻撃…等々あり、既得権益批判を装った「改革者」気取りで、グローバル資本の利益を擁護する政策を推進する支配層のトリックスターの役割を十分に果たしています。その悪質さについては、先月も引用しましたが元大阪城天守閣館長・渡辺武氏が「本音の質の悪さを恥もせず押し出し、さっき言ったことを平気で覆し、それを恥ずかしいとも思わない人がいます。橋下大阪市長は、まさにそれです」と批判しています(「しんぶん赤旗」10月27日付)。
新自由主義がもたらした貧困・格差・閉塞感の下で、知的・理性的に真理や正義を追求することを嗤うシニシズムが蔓延し、ホンネ主義から「現実」がわかったつもりで「気の利いた」偽善批判をする風潮があります。「偽善」には基本的人権・平和主義などが挙げられ、もちろんそういう連中は改憲派であり、貧困の存在に心を痛めるどころか嘲笑のターゲットにさえします。自分自身が貧困であってもそういう心性に共感する人々が多いのも現実です。「差別され、バッシングされるヤツが悪いんだ。キタナイ現実に目を背けてキレイゴトを言うな」。これは悪いホンネに開き直って自堕落になっている状態であり、支配層の分断政策に乗せられてバッシングに興じることになります。当然今日の状況を見たわけではないのですが、かつて丸山眞男氏は「現代に何が容易かといって、偽善を嘲笑する程たやすいことはない」と喝破し「偽善のすすめ」という一文を書いています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
なぜ偽善をすすめるか。まず自明なことをいえば、偽善は善の規範意識の存在を前提とするから、そもそも善の意識のない状態にまさること万々だからである。動物には偽善はないし、神にも偽善はない。偽善こそ人間らしさ、もしくは人間臭さの表徴ではないか。偽善にはどこか無理で不自然なところがある。しかしその無理がなければ、人間は坂道を下るように動物的「自然」に滑り落ちていたであろう。
『丸山眞男集』第9巻(岩波書店、1996年)所収 325ページ
初出、『思想』1965年12月号、岩波書店
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
今、山田洋次監督も同じことを言っています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
寅さんだってええかっこしいの男なんですよ。でも、皆それはわりに許せるんですね。人間て、実はちっともいい人じゃないでしょう。いやなところをいっぱい抱えているけれども、だからこそ格好をつけていい人になろうとする。いい人でない自分を恥じているというのかな、それは悪いことではない気がします。
山田洋次、吉永小百合、早野透座談会「戦後七〇年、忘れてはいけないこと 映画『母と暮せば』に寄せて」、58ページ(『世界』2016年1月号所収)
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
これも先月紹介しましたが、白井聡氏は「橋下氏(大阪市長)の政治はある種のファシズム。ファシズムとは、人間だれしもがある程度持つ、悪い気持ちの部分に依拠する政治だ」と指摘し、「橋下さんや安倍さん(首相)に代表されるような政治は、人々のすさんだ心に依拠し、むしろそれをたきつけて権力を維持するという政治手法を取っている」と述べています(「しんぶん赤旗」11月11日付)。丸山・山田両氏は「悪い気持ちの部分」の他に「良い気持ちの部分」がどこにあるかを示し、両面ある中でも後者に着目できることを教えてくれ、精神が貧困でもっぱら「人々のすさんだ心」に依拠する人気政治家への反撃の糸口を提供しています。彼らの政治手法に対決するには政治次元で反駁するだけでなく、大きな人間把握に立って人々の心に訴えることが必要です。そこでは共感能力が試され、「貧困を克服する課題、運動は、貧困に苦しめられながらも普通に生きたいと願う人々の要求を尊厳回復の問題としても受けとめ、人の尊厳を傷つけて恥じない政治と対決する姿勢、精神に立たねばならない」という先の中西氏の言葉を噛みしめることになります。そのように前進するためにもう一つ参考になる小山内美江子氏の言葉を紹介します。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
人権というのは、条文や条件ではなくて、人間の生きる喜びまで到達したときに、
はじめて確立するのだろうと思うんです。
……
異質なものがあっていいのだということ、そこに人権を考える基本がある。異質の
ものが虐げられているならば、それを感じる心、それと一緒に生きていく気持ち、そ
の人が浮かびあがることは、自分にとってもとても楽なことなんだという考え方。そ
ういうものが一人一人にあって人間ですよ。
小山内美江子,黒沢惟昭「金八先生と語る人権教育」
(『世界』1999年11月号所収)、58ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
ここには分断を克服する連帯(共感)の心性が「人間の生きる喜びまで到達した」人権意識として表現されています。
人権・平和・憲法は学校で習い覚えるもの、社会科は暗記科目という受けとめが一般的だろうと思います。社会に出て、その内容が一向に通用しない現実に接して、アレはキレイゴトであり偽善であった、と思う人も多いでしょう。「やっぱり現実は違う、タテマエはダメだ、ホンネで行こう」。そこに橋下・安倍・ファシズムはつけこんできます。逆に私たちが運動の中でシールズのスピーチに感銘を受けたのは、かつて社会科で習ってタテマエや偽善と思われていた諸概念に、生活実感のこもった言葉を重ね、現実政治に生き返らせ、ホンネに焼き付けることに成功したからだと思います。彼らの生活実感には貧困の影響も大きいでしょう。シールズの敬愛すべき愚直さの裏にそういったものを感じます。さらに欲を言えば、そうした生きた言葉を史的唯物論の諸概念で説明し、社会認識・社会科学を前進させることが私たちの課題だろうと思います。
拙文のこのあたりの主要テーマは「分断VS連帯」です。分断支配勢力の理論や心性には、新自由主義・自己責任論とか悪いホンネの開き直りなどがあるでしょう。連帯勢力は理論を鍛え心性を豊かにして、分断支配勢力を克服する言葉を持たねばなりません。シールズの愚直な言葉はそこに一石を投じシニアたちを感動させました。なお分断攻撃への反撃では、生存権を中心に人権意識の向上、生活保護など社会保障の理念と制度の理解などが重要です。それらを戦後の政策の変遷とそれに対する運動の歴史の中で包括的に説いたのが尾藤廣喜氏の「歴史のなかで生活保護の意義を考える」(『前衛』2016年1月号所収)であり、大変に参考になります。
以上、貧困・格差をめぐる「分断VS連帯」について、政治や文化の領域まで含めていろいろな現象をつまみ食い的に取り上げてしまいました。最後に再確認したいのは次のことです。諸現象やイデオロギーに接近し直視することがもちろん必要なのですが、「分断VS連帯」を解明する一番基盤になる理論は資本蓄積論であり、そこの相対的過剰人口論に立ち返ってまず問題の客観的構造を理解するのを忘れないのが大切です。
次いで本来ならば、安倍政権打倒に向けての世論獲得の考察として、「安保」「経済」に続いて「マスコミ」も取り上げる予定でしたが、時間切れとなり断念します。
戦後生まれの戦争責任
戦後世代の戦争責任について以前、次のように書きました(「『経済』2015年9月号の感想」より)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
本来ならば戦後世代に15年戦争の責任があろうはずがありません。しかし日本社会と政府においていまだ戦争責任問題が解決されず、誤りを繰り返さないという保証がない状態が続く限り、同時代を生きてそれを許している戦後世代にも戦争責任が生じています。
問題はずれますが、戦後世代の戦争責任は別の意味では確かにあります。戦後日本は少なくともアメリカ帝国主義のベトナム侵略・イラク侵略に加担したことは事実であり、その政府と人民は戦争責任を免れません。戦後世代は15年戦争に対する上記のような今日の時代状況を介した「間接責任」と、戦後におけるベトナム・イラクなどへの米国を介した「間接責任」とをともにきちんと認識し、戦争立法の成立を通して侵略戦争への「直接責任」を将来に渡って負うことがないように闘うべきなのです。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
戦後世代にとって、侵略戦争への二重の意味での「間接責任」があることを、以上のように提起しました。このうち15年戦争(あるいは明治維新から1945年までの侵略戦争全部というべきかもしれないが)への戦争責任に関連して、テッサ・モーリス・スズキ氏がより的確に語っているのを見ましたので紹介します(「朝日」12月25日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
モーリス=スズキさんは英国出身。1980年代にオーストラリアに移住した。直面したのは、英国が18世紀以降に同地を植民地化した歴史だ。先住民アボリジニーから土地を奪い、虐殺もあった。
自分には罪や責任があるかとモーリス=スズキさんは自問し、「罪はないがインプリケーションはある」との結論に達した。インプリケーションは新たな概念で、「連累」と邦訳した。「直接関与していないにもかかわらず『自分には関係ない』とは言えない。そんな過去との関係を示した概念です」と話す。
連累とは「事後の共犯」的な関係だという。たとえば、収奪行為には関与しなかったが、収奪されたものに由来する恩恵を「現在」得ているケースだ。「私自身も今、奪われた土地の中に住む一人です」。虐殺に関与しなくとも、その歴史を隠蔽(いんぺい)したり風化させたりする動きに関与すれば責任が生じうると見る。
「アボリジニーは差別や不平等に直面させられているが、そのことと収奪や虐殺の歴史にはつながりがある。過去の不正義を支えた『差別や排除の構造』が今も生き続けているということです。そこから生まれる『責任』にこそ目を向けていくべきでしょう。不正義を支えた構造は、私たちが積極的に是正に動き出さない限り、社会の中で再生産され続けるからです」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
これは日本にもあてはまるわけで、彼女は「歴史事件そのものに対して戦後生まれの個人が謝罪する必要は原則ないと思う。ただし国家は連続性のある存在であり、謝罪すべきです。また国民には、謝罪するよう政府に求める義務があります」と言い、さらに「謝罪は、今の社会に残っている『過去の暴力の構造』との闘いでもあるのです」と、その現代的意義を強調しています。
謝罪ができない国家と国民は、過去の不正義を支えた「差別や排除の構造」を今だ抱えるという不幸の中にあるわけです。多くの人々がその不幸を自覚せず、逆に差別と排除に爽快感を持つことが自縄自縛をもたらしています。実際、中国や韓国(朝鮮)および在日外国人に対する、少なからぬ日本人たちの歪んだ見方のおかげで、支配層は以下のことが容易になっています。一方では「安全保障の脅威」の扇動によって戦争法を正当化し、他方では格差と貧困の拡大による社会的閉塞感を排外主義と外国人差別の方向にガス抜きして、新自由主義構造改革(人民の生活と労働への攻撃)を貫徹する、このようなことが。
であるならば、子孫への戦争責任の継承を断ち切ることを宣言して、安倍70年談話が世論の支持を得たことは、戦争法の成立だけでなく、今後の日本社会にとっても暗い影を投げかけているというべきでしょう。戦後世代に戦争責任があるわけない、という単純な思考を克服して、「事後の共犯」的関係があるという自覚の上に、過去を直視し、現在の差別と排除の構造をなくす努力が欠かせません。それ抜きに日本における社会進歩と人民の幸福はありません。
2015年12月31日
2016年2月号
「個人の尊厳」は「アベ経済」を許さない
安倍政権の暴走を止め、戦争法を廃止して立憲主義の回復を求める運動が力強く前進しています。その中で、立憲主義の目的は個人の尊厳を守ることだ、ということが強調されています。日本国憲法において個人の尊厳を直接うたっているのは13条です。おそらくその起源は、ブルジョア革命期に絶対主義に対して諸個人の自由権を擁護したところにあるでしょう。だから現代資本主義において、この13条をそのままに読むと、自立した諸個人が競争によって幸福を追求する権利として新自由主義的に解釈することも可能です。その含意としては、たとえば「経済的に失敗しても自己責任だ」と。
しかし人権概念の近代から現代への発展の中で重要な要素は、生存権を始めとする社会権の確立です。この発展に即して、個人の尊厳の内容として自由権だけでなく社会権をも含めるなら、13条の新自由主義的解釈は破棄され、25条などを前提としてそれは成立していることになります。
戦争法の強行採決を受け、いち早く日本共産党が国民連合政府構想を提唱し野党結集を呼びかけたことはまさに時宜にかなった必然の道でした。今なお民主党が逡巡する中で、多くの心ある人々が「野党は共闘」と訴えています。この間の闘いを担ってきた在野の有力組織が大同団結した「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」は、▽安全保障関連法の廃止▽立憲主義の回復(集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回を含む)▽個人の尊厳を擁護する政治の実現―を目指し、参院選一人区での野党統一候補のために協議、調整することを求めています。この「市民連合」の目標とする「個人の尊厳を擁護する政治の実現」の内容としては、上記の解釈によれば、生存権など経済問題に関わるものも含まれると言えます。したがって「野党は共闘」というスローガンに発する倒閣運動は政治的一点共闘として出発しつつも、さらに経済問題も含めて一致点を広げていく可能性を持っています。
安倍政権が広範な憤激を呼んでいる原因は、まず平和主義・民主主義・立憲主義の乱暴な蹂躙にあることは確かですが、そのベースには格差と貧困を拡大する経済政策への反発があることも明白です。安倍政権の暴走は平和主義と民主主義の蹂躙だけでなく、基本的人権としての自由権と社会権への全面的攻撃であり、それは必然的に諸個人の尊厳の否定となります。今後、『経済』誌の諸論稿をこの視点から取り上げていくことも大切になっていくでしょう。
小西一雄・今宮謙二・萩原伸次郎・寺沢亜志也座談会「『アベ経済』を許さない 暴走政治から国民の生活と権利を守る」では、人口減少問題に関連して、一日8時間労働という「標準労働日」さえ壊してしまおうという策動の中で、「どうして安心して結婚・出産・育児などができる環境になるでしょうか」という発言を受けて、以下のように言われます。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
こうなりますと、人間社会のバランスが壊れる。たとえば金融、労働、技術のバランスで、「金融」=通貨が安定し、銀行の信用がある、「労働」=安心して働けて、働けばそれなりの生活ができる、「技術」=社会のために役立つ技術が生まれ新商品ができて消費される―こうしたバランスのうえで、安定した社会が維持され発展します。
ところが今、金融は日銀自らが秩序を壊していくような状況だし、労働は非正規労働が広がって貧困が進む、技術は資本が大もうけする金融工学や軍事技術に重点がおかれるような状況です。この大元には「資本主義の限界」があり、それが投機資本主義になって、人間社会のバランスが壊れはじめてきていると思います。そのために、人権、労働権、生存権、民主主義、自由という基本的な価値が危うくなり、個人としての人間の生きるのも困難な社会となりつつあります。 37ページ
経済の金融化がすすみ、投機資本主義が権力と一体化して、民営化、規制緩和、福祉国家反対、働く人の権利無視という新自由主義思想を広めるなか、とくに注意することは市民生活への圧力です。市民意識の醸成よりも愛国心を押し付け、自己責任を強調し、文化や教養ではなく科学技術偏重になります。こうした新自由主義の、権力志向の危険性が強まることに警戒をしなければなりません。 44ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
本来、ディーセントな労働を基盤とする経済社会があるべきで、現代社会としてはその上に金融・労働・技術のバランスがとれている必要があります。しかし「資本主義の限界」を露わにしてこのバランスを崩して搾取強化と投機化を進める新自由主義は、諸個人の自由・人権を迫害します。それは生存権を否認し労働権を劣悪化するなど社会権を毀損するだけでなく、「権力志向」によって自由権をも圧迫します。資本主義では、もともと直接的生産過程において資本の専制が支配していますが、現代の新自由主義においてはそれが政治やイデオロギーを含めて全社会を覆っていこうとしています。安倍政権の独裁的傾向はその靖国派的・歴史修正主義的な保守反動性から発することはもちろんですが、それのみならず新自由主義の持つ資本の専制性からも来ていることに注意すべきです。個人の尊厳はこのようにして圧迫されてきました。
こうして安倍政権によって個人の尊厳が総体的に破壊されてきていることから、その暴走から暮らしと権利を守る諸要求での闘争…沖縄・原発・消費税・TPP等々…が様々な一点共闘として発展してきました。したがって戦争法の廃止・立憲主義の回復という一致点での倒閣と連合政府樹立の闘争は、それらの一点共闘の合流として闘わざるを得ないものです。ならば「大義で一致するなら、具体的な問題でも一致点での前進をはかることはできると考えています。そして国民連合政府ができれば、日本経済の再建でも、新たな展望が開けると思います」(46ページ)とか「日本でいま起こっていることは労働の劣化です。これをどうするかという課題は、広い合意が出来る課題だと思います」(47ページ)と言うことができます。戦争法廃止と立憲主義回復を掲げる・安倍政権打倒の闘いは、その一点共闘の突破力によって、「無理が通れば道理が引っ込む」状態の閉塞感から多くの人々を解放し、道理に導かれて諸要求を実現する民主主義社会への道を開くきっかけとなる可能性があります。圧迫されている諸個人の尊厳の解放です。その解放のいくつかの課題の中の一つ、しかし大きな一つを現わすスローガンとして、「個人の尊厳」は「安倍経済」を許さない、と掲げることができます。これまで繰り返し述べていることですが、それを支える経済観として、「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場→諸個人の生活と労働)から「下から視角」(諸個人の生活と労働→職場→地域経済→国民経済→世界経済)への転換を指摘できます。
ここで話はやや横道にそれますが、座談会の中で、財界・政府が盛んに労働生産性の問題を強調していることが批判されています。それに関連して若干考えてみましょう。
「需要がなければ生産をしないし、設備投資もしない」にもかかわらず「彼らは、あくまでも労働生産性の拡大ありきなのです。だから、やはりトリクルダウン論にしがみついているのです。だからアベノミクスの失敗の分析ができない、分かっていないのだと思います」(35ページ)。「労働力人口が減る⇒成長力が落ちるということへの危機意識は明確ですが、その原因分析はないし対策もない。『的』は示しても『矢』がない。あいかわらずの労働生産性の強化であり、後は『生めよ増やせよ』式の発想しかない」(37ページ)。
ここには「供給側重視」の立場と国家主義とへの批判が表明されています。前者について言えば、以下のようになるでしょう。個別資本が剰余価値の増大のために搾取を強化し、結果として国民経済において内需が縮小し供給過剰となって不況から抜け出せない、という「生産と消費の矛盾」による「合成の誤謬」に日本経済ははまり続けています。この悪循環を脱するためには生産における搾取強化にメスを入れる必要がありますし、社会保障の充実で家計を助けることも消費需要の増大につながりますが、いずれに対しても現政権は逆行しています。そこで資本側はあくまで生産の強化=労働生産性の向上によって「企業が儲ける」ことにしか目が向かず、それが社会全体の利益になる、というトリクルダウンの神話に固執するばかりです。需要を見ない「供給側重視」で不況は永続化しています。
次いで後者に移ります。財界・政府の労働政策によって、まともな賃金が支払われないので物が買えないし子どもも産めない、という状況が不況と少子化をもたらしています。その原因に手を付けるのでなく、ただ結果を是正しようと、企業には賃上げを、労働者には労働生産性の強化を、また特に青年労働者には「生めよ増やせよ」と国家が指令する、というトンデモナイ勘違いに安倍政権は陥っています。
以上の問題については後で藤田実氏の論稿を参照してさらに考えたいのですが、その前に、労働生産性について一つの問題点を指摘します。資本側が労働生産性の問題に固執するのは労働者階級へのイデオロギー攻撃の一環です。「ダラダラ長時間働いて、労働生産性が低い」という類の非難で、日本資本主義の不調の責任を労働者に転嫁しています。しかし少なくとも通常の現状分析論や政策論で言われる「労働生産性」で、生産過程における労働者の責任を問うことはおかしいのです。本来の労働生産性は、一定の投下労働量(分母)に対してどれだけの使用価値量(分子)を生産したかという指標です。しかし通常の議論での「労働生産性」における分子は商品の市場価格ですから、それは純粋に生産過程の問題に限定されることはなく、流通過程における実現問題の影響もうけます。今日のような内需不振下では販売量が少なく、単価も価値以下の価格が横行しています。しかも、これは誤用の類だろうと思いますが、一定の人件費に対してどれだけの生産量(現実にはこれも実現量によって規定される部分があるが)があるか、というのが資本側にすれば「労働生産性」として観念されかねません。そうなると「賃金が低いほど生産性が高い」ということになってしまいます。後に藤田論文で見るように、通常の「労働生産性」指標で考えても資本側の攻撃に理はないのですが、そこにはすでに実現問題が混入しているので、生産過程における労働者の責任を問うのは始めから筋違いだ、という認識が必要だろうと思います。
アベノミクスに限らず新自由主義の経済政策では国民経済における内需の問題が軽視されています。それはグローバル資本の観点や「供給側重視」の理論などによるものでしょう。その根底には全般的過剰生産を否定するセーの法則に立脚する新古典派理論があるのではないでしょうか。実際に存在する実現問題をパスするそのような目で、生産過程における労働者を見て、「もっと労働生産性を高めよ」と叱咤しているのが財界・政府の労働生産性偏重論でしょう。事実はまったく逆で、実現問題は生産過程にさえも浸透していると捉えるべきです。
藤田実氏の「財界戦略とアベノミクスは労働者国民に何をもたらすか」(『前衛』2016年2月号所収)は、労働政策を軸にアベノミクスを全面的に分析し、財界・政府の戦略が日本の国民経済を悪循環に導いていることを批判した充実しまとまった論稿です。その中でも特に、アベノミクスが(新自由主義と本来矛盾する)国家介入を行なっていることに焦点を当てて、その意味を解明している点が注目されます。その紹介の前に、先に触れた労働生産性の問題に立ち寄ります。藤田論文によれば、財界・政府が惹起した日本経済の悪循環において、労働生産性と賃金の関係は以下のようになります。
2015年3月期決算を見ると、経済成長しない中で多くの企業が過去最高の利益を計上しています。つまり財界は国民経済や国民生活の状況とは関係なく、企業が成長できる体制を目指しているのです。それは経済財政諮問会議・産業競争力会議を通じて労働者を自由に使役できる労働環境をつくり(搾取強化)、国民経済は空洞化させつつ、グローバル展開によって企業を成長させるという方向です。しかしその下で、日本経済は企業収益を拡大させようとする個別企業の行動が、国民経済を縮小させるという悪循環に陥っています。したがって悪循環を断ち切るには、リストラ・非正規雇用の抑制、賃上げが必要にもかかわらず、財界は賃上げの条件として「競争力の強化」「生産性の上昇」を言いつのります。しかしたとえば2000年代において、労働生産性は16.4%上昇しているのに、実質賃金は0.4%しか上昇していません(164ページ)。ここから、現在の不況は労働生産性が低いからではなく、それに見合って賃金を上げなかったから生じたことが分かります。
次いでアベノミクスにおける国家主義の問題です。安倍政権は新自由主義と保守反動との野合という性格を持っています。これについて、たとえば渡辺治氏によれば、安倍政権は新自由主義的性格において、対米従属のグローバル大国化を目指しています。普通に考えれば、そのために米国に従って、中国・韓国などアジア諸国との関係を改善するため、歴史修正主義など「靖国派」的イデオロギーを封印すべきですが、そうなっていません。何故か。渡辺氏はこう答えています(「戦後安保体制の大転換と安倍政権の野望」、『経済』2015年11月号所収)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
安倍自身が歴史修正主義の文化とサークルの出身者でありそれを母体に政治家になったと言うことも一つの理由であることはいうまでもありません。
しかし、一番大きな理由は、日本が軍事大国になるには戦後日本のとってきた非軍事の路線を否定しなければならないという日本独特の要因にあると思います。大国化を正当化するには、国民意識のなかにある「戦後」の日本を否定しなければならないということです。 25ページ
たとえ「自由と民主主義」という口実であっても、日本は海外に自衛隊を派兵することはしないという原則を堅持してきた。ここがドイツと違うところなのです。だから、軍事大国化を推進するには、この自民党政権でも堅持されてきた「戦後」の国是を否定しなければならないのです。この日本独特の困難、戦後の平和主義を否定する武器として、かつての欧米列強の侵略と圧迫に対し国民が団結して立ち向かった日本近代に帰れ、というイデオロギーが持ち出されるのです。 26ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
この説明によって、安倍政権における新自由主義と保守反動との対立的共存というまさに矛盾の原因が理解できます。政治と歴史認識の問題としてはそれでよいのですが、経済政策の中で、一方で規制緩和・企業の自由な活動促進(「世界一企業が活動しやすい国を目指す」)という新自由主義的性格と、他方で政労使会議で賃上げ・設備投資の要請という国家介入の手法との矛盾をどう捉えるか、という問題は残ります。
上述のようにアベノミクスの新自由主義的手法は日本経済の悪循環を惹起し行き詰っています。その打開に、根本原因である新自由主義的政策を改めるのではなく、とにかく賃上げ・設備投資に向けて国家介入して、(低賃金・設備投資停滞による国民経済の縮小という)政策的帰結だけを力づくで是正しよう、という国家主義がどこから出てきて(主体的条件としての安倍イデオロギー、客観的条件としての資本と労働の日本的状況)、それがどういう性格を持っているのか(ケインズ主義的国家独占資本主義政策との対比)を藤田氏は解明しています。
安倍首相の著書『美しい国へ』では、市民の安全・財産・人権を担保するのは国家であるとされ、国家は国民の上に超越し、国民の守り手として絶対の存在であるという国家観が現れています。ここには、国家が個人の自由や生活を破壊することがあるので、国家の行動を制限する必要があるという近代民主主義の立憲国家の考えがありません。「こうした国家観からすれば、経済循環を安定させるためには、国家が経済政策にも積極的に介入する必要があるということにな」ります(166ページ)。それは、国家が企業や労働者・人民の上に立ち、経済活動をコントロールする、という国家主義的経済観でもあります。
国家介入と言えば、戦後の国家独占資本主義が思い浮かびますが、それは以下のような性格を持っています。「社会主義」台頭の危機の時代に、公共事業で需要創出、完全雇用・社会保障政策で労働者国民の生活安定・経済成長、労使妥協により生産性上昇への労働者協力と賃上げ、それによる消費需要創出というケインズ政策として展開されました。それに対してアベノミクスでは、完全雇用・社会保障充実を政策目標にせず、リストラ・非正規雇用拡大で労働者を自由に使役し、企業の力と収益を高め、その上で、国家が企業の利害と労働者の利害を超越的に「調停」する存在として、分配面から労使関係に介入して経済の好循環を創り出そうとしています。しかしこれは矛盾した政策であり、企業の使用者権限を拡大する規制緩和を進めながら分配面だけ介入しても効果は望めず、非正規雇用拡大などを進めては、労働者の賃金は全体としては増大しません(166ページ)。
経済への国家介入という言葉の限りでは両者は一致しますが内容を見ると大きく違います。ケインズ政策においては、支配層の労働者階級への一定の譲歩、生活と労働の改善の方向性がある程度はあります。しかし安倍的国家主義では資本の専制支配には手を付けず、分配面での若干の介入でお茶を濁そうというのです。中西新太郎氏が言うように、格差と貧困の悲惨な現実を解決せず、むしろそれを脅しの手段として、そうならないように自己責任で努力せよ、というメッセージがまずあります。ひどい状態が常態化しているからこそ、若干の「バラマキ」政策に対しても藁にもすがる思いを抱かせる効果があるでしょう。新自由主義の上に立つ安倍的国家主義は、相対的過剰人口の創出を促進し、それが持つ労働者階級内部の対立促進作用を大いに利用していると言えます。ケインズ政策による社会保障がそうした作用を緩和する意味を持つ(たとえば失業給付が充実していれば、失業者が労働力の安売りで現役労働者と対立するのを防ぐ効果がある)のとは対照的です。
このような安倍首相の国家主義が登場する背景をも藤田氏は指摘しています。一方では、労働組合の闘争力の低下こそが、賃金停滞を長期化し、政府の介入を招いた一番の原因であり、他方では、財界が個別企業の立場に立ち、総資本の立場から国民経済を発展させる立場に立たずに、労働条件の引き下げを放置し、内需縮小・売上減退を招きました。総括的には「結局、労働組合の戦闘力の喪失と個別利害の立場に拘泥する財界という労使関係の歪みが、国家の指導による賃上げ実現というファシズム的な経済政策にも通じる道を準備したのである」(167ページ)ということになります。
新自由主義政策による国民経済の悪循環突入とその矛盾の糊塗としての国家主義介入という今日の醜態を総括し、抜本的打開の道を藤田氏は次のように提起しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
財界と政府の新自由主義的「成長政策」は、労働者国民の生活を改善するどころか、格差と貧困、過重労働と過小労働を増大させ、日本経済を悪循環に陥らせている。したがって新自由主義的経済政策と決別し、国民生活を立て直すことを第一とする生活経済の立場から経済循環を考える必要がある。
しかし安倍首相は、アベノミクスが破綻したことを覆い隠すために、企業に賃上げや設備投資を要請するという国家主義的な行動に出ている。これは、「全ての利害の調整者」として国家が企業・労働者の上に君臨するという安倍首相のファシズム的国家観に基づいたものであるということを認識する必要がある。
破綻が明確になったアベノミクスと財界戦略である新自由主義的政策を一刻も早く退場させ、国民生活を安定させる労働政策への転換を勝ち取る必要がある。
167ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
以上、渡辺氏と藤田氏の論稿によって、安倍政権における新自由主義と保守反動(国家主義)との共存という醜悪な矛盾について、経済・政治・イデオロギーなどの分野にわたって見ることができました。従来の政権にも類例を見ない安倍政権の暴走はこの矛盾の全面展開による諸個人の尊厳への全面攻撃という性格を有しています。攻撃の峻烈さに抗して、反撃も様々な一点共闘の林立の様相を呈していますが、それらが個人の尊厳の擁護という包括的スローガンの下に結集し、倒閣と連合政府樹立に向かうのは歴史の必然です。
日銀の暴走・異常政策への対案
日銀は1月29日の金融政策決定会合で、マイナス金利の奇策に打って出ました。貨幣数量説・外生的貨幣供給論という謬論に立脚したこの政策は当然のことながら厳しく批判されています。「導入するのは、銀行が日銀の当座預金に滞留させているお金を、企業への貸し出しに回すように促すためだ。/しかし、いま歴史的な超低金利のもとでも銀行が貸し出しを大きく増やさないのは、企業の資金需要が乏しいからである。その根本的な問題がマイナス金利の導入によって解消するわけではない」(「朝日」社説、1月30日付)。奇策は効果をもたらすどころか、異次元の金融緩和(量的・質的金融緩和)の失敗をさらすだけであり「黒田バズーカ砲」の限界を決定づけるでしょう。「内外経済が不安定になるたびに、新たなサプライズを市場に与える今のやり方がいつまでも続けられるとは思えない。その手法はいよいよ限界にきている」(同前)。
そもそも物価停滞を伴う慢性不況を「デフレ」と称し、対策として異常な金融政策を続けてきたのが間違いであり、実体経済の改善を助ける経済政策に転換するしかありません。「異次元緩和の行き詰まりはアベノミクスそのものの破綻です。日本経済再生には、消費税10%増税の中止や社会保障の充実など暮らし優先の政策への転換が必要です。それ抜きに異常な金融緩和を重ねても、効果がないばかりか、経済は落ち込みの深みにはまるだけです」(「しんぶん赤旗」1月30日付)。
むしろ深刻な問題として、諸論者が指摘しているように、日銀の異常な政策が「出口」も見つけられずに進行するならば、国債価格暴落=金利騰貴により、財政破綻の他、市中銀行経営・企業の設備投資・家計の個人消費等に甚大な影響を与えることなどが危惧されます。本質的な解決策は実体経済の改善を基礎とする財政・金融の健全化などですが、それ以前の当面の対案によって破局を回避し、本質策実現までの時間を稼ぐ必要があるでしょう。建部正義氏は以下の具体的提案をしています(「漂流する異次元金融緩和政策」、『前衛』2016年2月号所収、153ページ)。
(1)2%の物価目標を停止し、消費者物価(除く生鮮食品)の対前年比上昇率を「インフレでもデフレでもない状態」に誘導すること。
(2)金融政策の発動にあたって、操作目標を、マネタリーベースという「量」から無担保コールレート(オーバーナイト物)という「金利」に変更すること。
(3)長期国債保有残高の年間増加ペースを、とりあえず、「量的・質的金融緩和」導入時を下回る「約45兆円」へと減額すること。そして、長期国債保有残高の増加の目的を、マネタリーベースの増加をも目的とするものではなく、長期金利の低下を促すという目的に一元化すること。
金融の素人として、この対案を評価する能力はありませんが、印象としては、具体的であるがささやかな提案であり、またそうあらざるを得ないのだろう、と言う他ありません。これまで日銀の暴走に対して、本質的批判・解決方向、あるいは重大な危険性の具体的指摘などはよく見ましたが、当面の具体的対案は寡聞にして知りませんでした。本質論と危機暴露はある意味格好がいいのですが、それ以外にも格好悪い「弥縫策」のように見えるかもしれない具体的対案が必要とされる状況に立ち至っているのではないでしょうか。
2016年1月31日
2016年3月号
新自由主義の規制緩和と寡占体制
西川純子氏の「軍産複合体について アメリカの例から日本の将来をみる」の中から、新自由主義の規制緩和と寡占体制について考えてみます。西川論文によれば、クリントン政権の規制緩和によって「兵器産業に少数の大企業による寡占体制が生まれ」ました(86ページ)。「市場の競争を尊ぶ新自由主義政策のもとで、なぜこのような事態がおこったのだろうか」(同前)という「問い」に対して以下のように答えられています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
5大企業は規模が大きいだけでなく、それぞれに異なる兵器の生産を独占していたから、クリントン政権が反トラスト法にてらして司法の判断に訴えることは十分に可能であった。しかし、兵器産業が主張するように、反トラスト法は企業活動にとっての規制に違いなかったから、この件だけを規制緩和の対象から外すことはできなかったのである。反トラスト法の目的が競争的市場の実現にあることをクリントンが知らなかったはずはない。しかし、新自由主義の立場に立てば、反トラスト法を繰り出して企業の集中活動を止めるのは、規制緩和の看板を下ろすことを意味したのである。 同前
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
「問い」の抱いた逆説的違和感をすっきり解消するには、まず市場には自由競争市場だけでなく、寡占市場もあることに気づくこと、次いで新自由主義の規制緩和とは何かを正確に理解することが必要です。新自由主義の本質を市場原理主義として捉えて、そこでは市場競争が必ず強化されると思いこんでいると逆説的違和感から抜けられません。
理念的には市場は完全競争市場から独占市場まで様々なグラデーションがありますが、ここでは現実的な二つの類型として、自由競争市場と寡占市場を考えます。自由競争市場で規制緩和を行なえば競争が強化されますが、寡占市場で大企業に対する規制緩和を行なえば市場支配が進んで競争は弱化します。逆に寡占市場では大企業に対する規制を強化して中小企業を擁護育成することで競争が強化されます。図式化すればこうなります。
自由競争市場で: 規制緩和→競争強化 規制強化→競争弱化
寡占市場で: 規制緩和→競争弱化 規制強化→競争強化
規制と競争との関係は、市場のあり方によって違ってくるのです。新自由主義は資本への規制緩和においては一貫しているので、寡占市場では競争を弱化させます。新自由主義においては必ずしも競争強化がまずあるわけではなく、競争が目的ではないのです。
ここで始めの「問い」に返れば、「市場の競争を尊ぶ新自由主義政策」という前提そのものが間違った思い込みだということです。「新自由主義の立場」とはあくまで資本に対する規制緩和であり、反トラスト法が目指す競争的市場の実現ではありません。
一般的に経済的自由は、「人間の自由」「市場の自由」「資本の自由」の三層からなります。上記図式からは、「市場の自由」と「資本の自由」は市場のあり方によって、同調する場合と相反する場合とがあることが示唆されます。新自由主義が守るのは「資本の自由」であり、そのために資本への規制緩和という姿勢においては一貫しています。したがって寡占市場においては規制緩和された大資本の市場支配力が強まり、競争は弱まります。たとえば競争促進を目的とする独占禁止法を規制緩和すれば、当然のことながら競争は弱まります。このように、競争強化である「市場の自由」と利潤追求である「資本の自由」とは必ずしも一致するとは限りません。新自由主義は「資本の自由」の立場に立って、「市場の自由」を利用した方が良いときは利用し、それを抑制して市場支配を強めたほうが良いときは抑制します。
資本主義社会において、「人間の自由」の実現は、人間的社会の観点から、「市場の自由」と「資本の自由」とをいかにコントロールするかにかかっています。俗論では、「資本の自由」を意識的にか無意識的にか「市場の自由」の中に忍び込ませ、そうすることで事実上「資本の自由」と化した「市場の自由」を「人間の自由」と同一視します。ブッシュJr大統領はイスラム諸国や発展途上国に向って「自由の大切さを教える」と言ってイラク戦争などを敢行しましたが、そこにある自由とは「人間の自由」のようでありながら、本質的には「グローバル資本の自由」であったのです。ブッシュの錯誤の基礎には、経済的自由に関する俗論があります。さらにその基礎には、経済における歴史貫通的なもの(「人間の自由」に対応)と特殊資本制的なもの(「資本の自由」に対応)とを(両者の中間層である)単純商品生産表象(「市場の自由」に対応)に解消してしまう新古典派理論があるだろうと思います。さらに言えばもちろんこの理論は単なる恣意的妄論ではなくて、資本主義の客観的法則である「領有法則の転回」を反映した俗流経済学のエレガントな完成型でしょう。
「安心ファシズム」を克服する社会づくり
(1)新自由主義的社会状況と「安心ファシズム」の成立
大阪ダブル選挙でのおおさか維新=橋下徹一派の勝利によって、安倍首相は憲法改悪策動への確信を強めているようです。閣僚・自民党議員の不祥事・問題発言が相次いでも内閣支持率が下がらないという情けない事態も首相を調子づかせています。これは野党のふがいなさが一番の原因です。そうであるだけに、2月19日に5野党の選挙共闘の合意ができたことで、反転攻勢に局面を転回できるかが注目されます。人民の様々な運動の後押しがますます重要になっています。
そうした政治のリーダーシップが今は最も大切なのですが、それ以外にも、安倍=橋下人気を支える社会状況の分析も中長期的視野から言えばきわめて重要です。この安倍=橋下状況とでもいうべきものは、新自由主義を起点とする経済・政治・社会の悪循環=社会的劣化(とそれによる民主主義破壊)としてそれを捉えれば、固有名詞を超えた分析対象として普遍的意義を持ちます。安倍政権打倒というのは極めて明快な政治目標なのですが、それを社会的次元の深みから捉えるならば、新自由主義起点の社会劣化悪循環(以前の拙文では「アベノソーシャル(=安倍的社会)」と表現していろいろその本質について探りましたが)を克服することによってこそそれは本当の意味で果たされます。政権打倒後も、別のプレイヤーによる安倍=橋下状況の復活を許さないところまで社会変革を進めることを見据える必要があるのです。根本的には新自由主義的資本蓄積とそれを促進する経済政策を止めさせるべきですが、一挙にそこまで行くのが難しいとすれば、さしあたって草の根から社会的病理を治療していく実践とイデオロギー闘争とが求められます。それは対症療法の経験・知見を通じて、根治療法を準備しうる意識変革を獲得する作業でしょう。
まず新自由主義起点の社会劣化悪循環をおおよそ以下のように三点から概観してみます。新自由主義政策による格差・貧困・閉塞状況・社会的荒廃など(要するに新自由主義的社会状況)を起点としながら、(1)経済、(2)政治・社会、(3)国際関係において、新自由主義的社会状況を再生産しながら、人権・自由・民主主義と平和を破壊する意識が次のように促進されます。……(1)社会的連帯による変革の展望を持たずに分断された人々にとっては、一人ひとりが自己責任において必死に生き抜くことが必至であり、転落への恐怖を持ちながら勝ち組でありたいと望み、落(堕)ちていく人々をバッシングしながら、自身はそうならないように現体制にしがみつくのが「安心」、というのが経済や社会保障などに対する見方となります。(2)社会的荒廃がもたらす身辺の治安上の不安を手っ取り早く「解決」するものとして、行政権力の管理強化によって「安心」を得ることを最優先にし、人権や自由と民主主義が制限されることを容認します。(3)身辺的不安の延長線上に、「東アジアの安全保障環境の悪化」を捉え、中国・北朝鮮の脅威から日本を守るために対米従属の軍事的抑止力を強化する戦争法や軍事経済の強化などによって「安心」を得ようという意識が強まります。……
新自由主義的社会状況のこの自己運動において、保守反動イデオロギーが伴走し補完的役割を発揮して民主主義・平和の破壊を加速しているのが安倍政権の特徴です。いずれにせよこれらは支配層を利する・人民の自縄自縛イデオロギーですが、経済・政治・社会の諸矛盾を何ら解決しないどころか累積させるものであり、社会的分断を克服した連帯による民主的方向転換によってしか解決されません。ここにおいてマスコミの役割を見ると、一部の(とはいえ最大部数だったりするが)保守反動応援団は論外としても、全体的に新自由主義と対米従属の日米軍事同盟とを容認する立場なので、安倍=橋下状況という現象形態の次元においてもジャーナリズムとしての当たり前の批判精神を欠いています。もちろん個々には批判的論調もあるとはいえ、全体としては民主社会にとってのこの凶悪な敵に対峙するにふさわしい姿勢が見られません。対峙どころかときに追従(ついしょう)さえ見られるのは嘆かわしい限りです。
新自由主義的社会状況に発する「不安」が身辺から地域社会・国内レベル、さらには国際関係にまで延長され、過度に「安心」を求める心情が、自由・人権・民主主義を犠牲にする方向に作用し、ファシズムと軍事化への傾斜を支持することにつながります。したがって上記の(1)→(2)→(3)と串刺しに連鎖していく状況を「安心ファシズム」と呼ぶことができます。以前に共謀罪・盗聴法の学習会に参加した際に、治安状況の不安につけこみ、行政権力による管理強化で「安心」を確保する、というその手法が、安全保障環境の悪化という不安を煽り、軍拡と対米従属軍事同盟の強化による抑止力という「安心」を押し付ける、という戦争法版の世論操作とパラレルだと感じました。<不安の扇動→「安心」への備え>という図式を人々の感情に訴えることで、国家権力強化と軍事化によって、自由・人権・民主主義と平和を破壊することを受容させるところに「安心ファシズム」の本領があります。人々にとって、これは知識の習得を要せず、身近な肌感覚から出発するところに強みがあり、市場経済社会の普遍的イデオロギーである自己責任論を前提とし、自己愛と地域への親しみとの延長として受容しやすいナショナリズムを随伴しているという意味でも、極めて「自然な感情」として成立しがちであることを肝に銘じる必要があります。したがってこれに反対することは、不自然な理屈を押し付けてくるものだ、という反発が当然予想されます。社会変革を目指す人々は、そもそも社会のあり方はどうあるべきかという根源的視点を常に念頭に置き、分断を克服する連帯の意義を理屈として提示するだけでなく、社会的連帯の実践活動を通じて具体的に社会のあり方の経験(連帯下における真の自然な感情の成立)を提示することが必要です。そうして始めて、荒廃した新自由主義的社会状況下で「安心ファシズム」に絡め取られた「自然な感情」を、本源的な社会のあり方を取り戻し創造もする側の自然な感情として奪還することができるでしょう。その際に、上記の(1)→(2)→(3)においてそれぞれ対峙することになります。そこで生きてくるのが日本国憲法です。これまで憲法の理念がどこまで真の自然な感情に溶け込んでいるか、あるいは逆にタテマエに留まっているかが、新自由主義的社会状況下の「自然な感情」との浸透度との対比で試されます。もしまだダメな水準であれば、これからつくっていくのです。
もっとも、「安心ファシズム」の「安心」はまったく名ばかりであることをまず暴露することが必要でしょう。「安心ファシズム」において確保されるように見える「安心」の実態は次のようなものです。……格差と貧困を拡大させたままで、経済・政治・社会の諸矛盾を強権的に糊塗するか、被支配層内部の対立の方へと目を背けさせる、あるいは国際関係においても、紛争やテロの原因に理性的に対処するのでなく、武力の行使や軍事的抑止力によって「解決」しようとする……これらはまったく安心でないことは明らかですが、それは諸問題を根源的に考えて始めて気づくことであり、目先の「安心」に囚われていれば支配層の情報操作下に置かれることになります。新自由主義政策・グローバル資本の行動様式・軍需資本と軍事同盟の存在といった諸矛盾の根源に目を向け、社会の本源的あり方の次元からオルタナティヴを提起し、社会の草の根からの諸実践を重ねることで「安心ファシズム」の詐術を克服することが必要です。
(2)日米の社会状況と軍産複合体
新自由主義的資本蓄積という土台上に劣化した社会状況が形成され、その培養土上に「安心ファシズム」が群生し繁茂してきます。「安心ファシズム」は戦争法成立の助産婦となり(注)、戦争法を強行した政府は、兵器輸出など経済の軍事化を推し進めています。経済の軍事化は新自由主義経済の論理から出てきますが、好戦的政府とそれがまとうイデオロギーによって加速されます(これは土台と上部構造の作用・反作用の一例でしょう)。
(注)世論に反対された戦争法を安倍政権が強行できたのは、内閣支持率が下がっても3割程度で持ちこたえたからであり、その原因の一つは「安心ファシズム」が一定浸透しているからだと思われます。それは戦争法に賛成するまでには高まっていません。しかし「安全保障環境の悪化」を始めとする様々な不安に対処するにあたって、コワモテの政権をなんとなく支持する雰囲気を醸成し、内閣支持率の低下を防ぐ役割を果たしているように思われます。
そうした日本の将来を危惧し、アメリカの経験を考えようというのが、前出の西川純子氏の「軍産複合体について アメリカの例から日本の将来をみる」であり、論文の結論部分は「日本の道」と題されています。渡辺治氏は、戦後西ドイツの再軍備が反共民主主義の名目で行なわれ、海外派兵まで敢行され戦闘に至ったことに対比して、自衛隊の創設を許したとはいえ、そこまでは行っていない戦後日本の平和主義・民主主義を評価しています(「戦後安保体制の大転換と安倍政権の野望」、『経済』2015年11月号所収)。この戦後日本社会の積極的側面を西川氏も評価しアメリカへの追随を警告しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「軍産複合体」はアメリカで生まれたといってよいが、アメリカ人の多くはこの言葉を知らないし、知っていたとしてもこれを取り除く術を知らない。それほど「軍産複合体」はアメリカの社会に根をおろし、強固で当たり前な存在になっているのである。アメリカと同じ歴史を繰り返したくなければ、われわれは他の道を探さなければならない。そのための道標が憲法なのである。これは日本を「軍産複合体」と無縁な国にするためには憲法を守ることが先決であることを示している。 90ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
アメリカでは銃乱射による殺人事件が頻発し、そのたびにオバマ大統領が、先進国では例外的な恥ずべき事態として悲痛な面持ちで銃規制を訴えています。アメリカ帝国主義・軍産複合体にはそのような社会的基盤があるというべきでしょう。この日米社会の落差について、ある米国人留学生(「YOSHI基金」で来日した男子高校生)が旭丘高校での交流会で語った言葉を紹介します。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「日本人には銃で身を守ろうという考えはない。彼らは家や普段の暮らしで銃を持っていないから。お互いへの信頼が彼らの身を守っている」
服部政一・美恵子夫妻(1992年に息子・剛丈/よしひろ/が留学先のルイジアナ州で射殺された。「YOSHI」基金の設立者)が2013年2月にオバマ大統領あてに銃規制を訴える手紙を送った、という「朝日」記事(2013年5月8日付)より。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
これこそ日本からアメリカに「輸出」すべき社会のあり方です。対米従属国家日本が何でもアメリカに倣って経済の軍事化を推し進め、社会も同様に荒廃させようとしているのとは正反対です。戦後、アメリカに「押し付けられた」憲法の下で培われた非軍事の平和文化こそがアメリカに対する日本の独自性であり、「押し付け」憲法を改定するという政府や自民党・保守反動勢力こそ、日本社会の美質を喪失させ、政治経済だけでなく、軍事的な文化や社会のあり方でも対米従属を推進しているのです。西川氏の言うように、憲法を守って、軍産複合体とは無縁な平和社会を堅持していくことが、これ以上「安心ファシズム」がはびこらないための最低限の条件です。
(3)テロリズムとの対峙
今日、世界的に言えば、中東地域でのイスラム原理主義によるテロリズムが特に問題となっており、そういう意味ではテロは国際問題です。しかしヨーロッパでは、そこで生まれたアラブ人などが差別と貧困の中でテロリストになる例が多く、そういう意味では各国内・地域・社会レベルの問題です。日本においてもテロは起こりうるわけで、国際レベルと国内・地域・社会レベルとの双方の接点にある問題として捉える必要があり、「安心ファシズム」の一要因ともなりうる問題です。
ここで「テロの抑止力」(テロが、「その反対者による力の行使」を抑制する効果)について考えてみます。「テロに対して暴力的に反応すると、また報復テロが起こるので止めろ」(たとえば、ISへのアメリカなどの空爆に「後方支援」すれば日本にもテロが起こる可能性があるから反対だ、という言説)という意見があります。それに対して、「その意見はテロへの屈服であり、しかもテロという暴力が持つ抑止力を認めることにもなるので、テロへの暴力的反撃に反対する平和主義(暴力の抑止力を認めない)にも自己矛盾するのではないか」という反論がありうると思いますが、これをどう考えればいいでしょうか。
実際問題として、「テロの抑止力」は認めざるを得ません。少しでも暴力の犠牲を少なくするという責任を果たそうとするためには、「今日の対応」はそうした認識を前提にせざるを得ないと思います。現実認識としてはそうなりますし、対策としてもそのような当面の弥縫策として「テロに暴力的に対応しない」行動を取るしかないでしょう。たとえ「テロへの屈服」と言われても。
そのような当面の対応が情けないとしても、問題の本質的解決はその延長線上にあります。テロと反テロという双方の暴力の抑止力を現状認識の次元では認めるとしても、テロに暴力的に対応する(その極北が「テロとの戦争」という威勢のいい言明)ことは、一時的な抑止力の働くことはあっても、恒久的には報復の連鎖を生み、暴力の拡大の他に何ももたらしません。したがって価値判断と将来を見通した政策という次元では、「暴力の抑止力」という考え方には断固反対しなければなりません。テロの根本的な解決策は、テロによらない平和な社会があることを示し、テロの原因となる社会状況をなくすほかありません。上記の米国人留学生(「YOSHI基金」で来日した男子高校生)のように、銃所持が当たり前の社会しか知らない若者が、銃の無い社会に実際に触れて、信頼し合う社会で安全が保たれることを実体験してカルチャーショックを受ける、というようなことこそがこの問題の根本的解決につながります。
テロをなくすには、人間社会の普遍的原理を踏まえつつ、それぞれの社会の特徴に応じた対策・活動を具体的に進めることが必要です。アメリカなどの「対テロ戦争」が失敗しているアフガニスタンにおいて、顕著な成功を収めている中村哲氏の活動には深い感銘を受けるとともに尽きせぬ教訓をくみ取ることができます。ここにこそ、テロに暴力的に対応するのでなく、その原因をなくす活動をするという典型があります(インタビュー・アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん 「朝日」1月30日付)。
中村医師は初め医療支援に入りましたが、その後は灌漑(かんがい)事業を中心に主に農業の復興に取り組んでいます。社会的な生活基盤を整備することが、貧困・健康・テロ対策などすべてを支えることになるからです。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「道路も通信網も、学校も女性の権利拡大も、大切な支援でしょう。でもその前に、まずは食うことです。彼らの唯一にして最大の望みは『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』です。国民の8割が農民です。農業が復活すれば外国軍や武装勢力に兵士として雇われる必要もなく、平和が戻る。『衣食足りて礼節を知る』です」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
この理念に基づいた取り組みで「3千ヘクタールが農地になり、15万人が地元に戻りました。成功例を見て、次々に陳情が来た。20年までに1万6500ヘクタールを潤し、65万人が生活できるようにする計画ですが、ほぼメドが立ちました。政権の重鎮らが水利の大切さにやっと気づき、国策として推進しなければと言い始めました」という大成果を勝ち取っています。
普遍的な理念に基づきつつ現地の住民の意識に寄り添い信頼して支援を続け、欧米などの「常識」を覆す成果が上がったのが、ケシ生産(アフガニスタンが世界の9割を占める)の問題です。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「我々の灌漑農地に作付け制限はありませんが、ケシ畑はありません。小麦の100倍の値段で売れますが、ケシがもたらす弊害を知っているから、農民も植えないで済むならそれに越したことはないと思っている。先日、国連の麻薬対策の専門家が『ケシ栽培を止めるのにどんなキャンペーンをしたんだ』と聞くから、『何もしていない。みんなが食えるようにしただけだ』と答えたら、信じられないという顔をしていました」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
そして何より中村氏が支援を続けてこられたのは、憲法に裏打ちされた「平和国家・日本」というブランドの強さです。しかし日本の米国への追随が知られることでそれが揺らいでいます。戦争法による駆けつけ警護や後方支援の解禁について、現地の実情を知る立場から中村氏は厳しく批判しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ」
「それに、自衛隊にNGOの警護はできません。アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です」
「軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社は、狙撃されて殉職者を出しました。私たちも残念ながら日本人職員が1人、武装勢力に拉致され凶弾に倒れました。それでも、これまで通り、政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
「きれいごとを言ってもダメで、テロには暴力で対抗すべし」という議論に対しては、以上のように中村氏の実践と理念が何よりもの反証になります。これはテロを生まない社会をつくっていくという真の「積極的テロ対策」であり、構造的暴力をなくすことで戦争の原因をなくして平和を実現するという「積極的平和」の考え方につながるものだと思います。
ただ実際問題としてすでにテロが頻発する状況下では、事後対策に追われることになり、テロ対策において国連では「安全保障上の措置」も含めて考えざるを得ません。しかしそれだけでなく暴力的過激主義を助長する原因に直接対処するための予防策にも取り組んでいます。潘基文事務総長は1月15日、その行動計画を国連総会に提示しました(「しんぶん赤旗」1月17日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
行動計画は、過激主義の背景として▽社会的、経済的機会の欠如▽疎外と差別▽人権や法の支配の侵害▽長引く紛争▽拘束者への過酷な扱い―があると指摘しました。
そのうえで過激主義の防止に、若者や宗教者、民間組織、メディアなど多様な主体を関わらせることが大切だと強調。外国人戦闘員の渡航を防ぐための法整備、地域協力による武器密輸の監視、持続可能な開発、各国での差別的な法律の禁止、治安部隊への人権教育、不寛容を許さない教育などを勧告しています。
「軍事行動が必要になる状況」に関しては、「いかなる対応も、国際法、特に国連憲章、国際人権法、難民法、人道法に全面的に従うよう」呼びかけました。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
事の大小を問わず「何かにつけ結局は力だ」という考え方と言うかむしろ感じ方が人々の周辺では広がっています。そうしたニヒリズムやシニシズムが新自由主義的社会状況の原因でもあり結果でもあります。それに対して、確たる理念に基づく対処によってより人間的社会をつくっていくことが可能だ、という見方を広げることが「安心ファシズム」への歯止めとなります。国際テロという最も深刻な問題においても、国連が上記のような理性的対応の原則を持っており、中村哲氏のような理念と実践が具体的に成果を上げていることを多くの人々に知らせていくことが本当に大切になっています。
(4)「安心ファシズム」の克服:草の根からの社会形成
それではほかならぬ私たちの社会において「安心ファシズム」をどう克服していくかについて考えましょう。
まず不安の芽はどこにあるのでしょうか。ハンセン病への差別と偏見に関連して、マツコ・デラックス氏は「すべての差別や偏見のきっかけになるのは知らないこと、無知から始まっている」と発言しています。さらに、知らないこと、得体の知れないものへの「恐怖心」が人々を攻撃的な行動にかりたててしまう、だからこそまず知ることが大切で、それによって不必要な恐怖心がなくなるのではないか、すべての差別と偏見のない素晴らしい社会をつくるためには「知ること」から始めてほしい、と繰り返しています(「しんぶん赤旗」2015年2月4日付)。
知らないことは分断を生みます。その克服は連帯の構築です。共謀罪に関連して加藤健次弁護士は次のように鮮やかに対照的な社会像を提起しています(「『戦争をする国』づくりを支える治安立法=共謀罪導入阻止へ」、『前衛』2月号所収)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
監視と密告の社会は、国民の相互理解や連帯ではなく、「あっち」と「こっち」という、分断と対立、疑心暗鬼を生み出す。そこで新たに生まれる不安を解消しようとすれば、ますます治安強化の方向を強めざるを得ないという悪循環に陥ってしまう。それは、民主主義の危機にもつながりかねない。憲法が保障する自由やプライバシーが侵害される社会では、本当の意味での「安全」を確保することはできないのである。
私たちがめざすべき社会は、軍事力と監視・密告によって「安全」を確保する社会ではない。国民の自由を保障した上で、テロや犯罪の原因をなくしていくために、相互に議論し、連帯していく社会である。自由を抑圧し、国民を分断する共謀罪の法案提出は絶対に阻止しなければならない。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
支配層にとって、人々の連帯を断ち切り、分断支配するのは常套手段であり、そこに上記のような治安強化と自由・民主主義破壊の悪循環(支配上は好循環)が形成されます。支配においては、さらに分断された諸個人をそれぞれ強権的国家権力に由らしめることが必要です。その傾向が被支配層自身の中に、ナショナリズムと結びついて生まれることを中村文則氏が指摘しています(「朝日」1月8日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
不景気などで自信をなくした人々が「日本人である」アイデンティティに目覚める。それはいいのだが「日本人としての誇り」を持ちたいがため、過去の汚点、第二次大戦での日本の愚かなふるまいをなかったことにしようとする。「日本は間違っていた」と言われてきたのに「日本は正しかった」と言われたら気持ちがいいだろう。その気持ちよさに人は弱いのである。
そして格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人々がなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合がある。これは日本だけでなく歴史・世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に「弱い立場」の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく、「強い政府」と自己同一化を図ることで自己の自信を回復しようとする心理が働く流れを指摘している。
経済的に大丈夫でも「自信を持ち、強くなりたい」時、人は自己を肯定するため誰かを差別し、さらに「強い政府」を求めやすい。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
このように他者をバッシングし、自分は「強い政府」と自己同一化するというのが「橋下政治」の隆盛を支えています。それを反面教師に民主主義とは何か、良い社会とは何かを考えることが必要です。薬師院仁志氏は次のように語っています(インタビュー「問われる民主主義って何だ=v、「全国革新懇ニュース」2016年2月号)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
こんな橋下流の政治を支持する層があることを深く考えなければなりません。もちろんいろいろな要因がありますが、コアな支持層は、勝ち組=A正確にいえば勝ち組と思いたい組≠ナす。新自由主義的な志向がある層、自分たちは重い税金を取られている、公共サービスの恩恵など受けていない、自分たちの税金を生活保護など余計なものに使うな、という気分ですね。
自分が幸福になるには、何が最も大切か。それは、どんな社会で暮らすかということだと思います。自分が幸せになるためには、何よりも自分たちの国や町がよくならなければならない。ところがこの発想が欠けている人は、自分の「幸福」しか考えない。公共が眼中にない。公務員など減らせ、議員など減らせ、税金を安くして自分のカネだけで自分を守ることに汲々とすることになってしまう。ここに橋下流の政治が入り込むのです。
結局、民主主義が問われている、と思います。民主主義って、自分たちが国の主人公になる、ということです。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
ここには安倍=橋下状況を歓迎する新自由主義病の症状が克明に描かれています。新自由主義のカリスマ、マーガレット・サッチャーは「社会などというものはない。あるのは個々の男と女だけだ」という意味のことを喝破したそうですが、私たちはまさに正気を取り戻すために、サッチャー流の「社会抹殺」に抗して、新自由主義によって破壊された荒野において、意識的に社会をつくることに取り組む必要があります。
ここまで多くの人々の言葉を過剰なまでに引用してきました。そこではまともな社会のあり方について、あるいは社会の本質について分かりやすく語られていました。新自由主義的社会状況に規定されたイデオロギーが支配的な中で、そうした社会観を普及していくことは急務です。そしてそれは悪政に抗して人間的社会をつくっていく具体的な実践を通じて、人々の実感と体験に蓄積され、理屈としても浸透していくでしょう。そうすることで「安心ファシズム」の入り込む余地をなくしていけます。
本来ならば自分が関わるささやかな諸実践の中にそうした法則性を見出し披露できればいいのですが、かなわないので、最後に新聞に見た例を紹介します。
移民の急増するバルセロナでは住民と移民との共生を意識的につくりだしており、その地道な努力は欧州やカナダ・中米にまで広がっています。街づくり専門家、ダニエル・デ・トーレス氏は次のように語っています(「バルセロナの挑戦」「移民への誤解とく 『反うわさ戦略』 市民みんなが主役」、「朝日」1月23日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「04年から市長と副市長のアドバイザー、07年から11年まで移民担当のコミッショナーとして取り組みました。欧州各国の先例を調べたところ、共通の問題は、元の住民と移民との間に行き来が少ないことでした。住む地域も分かれてしまっていて、こうなると共生は難しいなと思いました。そこでバルセロナでは、人々の間に接点が生まれるよう政策的に誘導することにしました」
「市のすべての部局で、政策が住民と移民とを結びつけるものになっているかどうか、点検してもらいました。図書館の蔵書や博物館の展示、スポーツ施設の利用状況、市からの情報発信ではすぐに問題が見つかりました。お祭りやイベントに助成を出す時には、移民との交流が盛り込まれていることを条件としました」
――抵抗みたいなものはなかったのですか?
「経済担当の部局にはなかなか必要性を理解してもらえませんでしたが、投資を呼びかけるための訪問団を中国やブラジルに出していることがわかり、協力できる移民の人たちを紹介したら、驚かれました。移民のなかには高学歴で専門性をもった人たちが多くいるのですが、そのことを知っている人が少なかったのです」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
こうした共生の意識的努力の他に、先入見に基づく移民への誤解を解くユニークな「反うわさ戦略」をトーレス氏は発案します。自分の母が移民への誤解を言うのを聞いて、その必要性を痛感したのです。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「そこでまず、移民にまつわる否定的な表現や見方を集めてみました。公営住宅に優先的に入居できる、言葉を学ぼうとしない、子どもに特別な補助金が出ている、交流を望んでいない。いろいろありました。次にそうした見方が本当かどうかを調べ、反証できるデータをそろえていきました。『誤解』と言うと非難する感じになってしまうので、『うわさ』と呼ぶことにしたのです」
――一般の市民を「反うわさエージェント」として養成しているとのことですが、どれほどの効果があるのでしょうか?
「日常生活のなかで、上手に働きかけをする市民の存在が不可欠です。プログラムに基づいて養成され、すでに1200人が活動しています。学校の先生や経営者もいます。エージェントには、うわさを耳にしたらその人に語りかけてもらうほか、職場や地域でワークショップを開いてもらっています。説明用に使っている漫画やコメディー動画も好評です。ワークショップのモデルもそろっており、ヒップホップや演劇を通じたものもあります」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
あまりお金もかからず、まさに市民みんなが主人公で、地域社会をつくり上げていく優れた実践です。しかしトーレス氏はバルセロナのこの経験についてあくまで冷静に謙虚に自己評価しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
「何年もかけて地道にやってきたことが、ひとたび事件が起きると崩れてしまう。そのことを痛感した1年でした。仕事がら欧州各地を回っていますが、今後の状況も楽観はしていません。各国で極右勢力が支持を広げていますし、旧東欧では状況は特に厳しい。幸い、スペインには極右政党はありませんが、油断はできません」
「けれども、努力することをやめてしまったら、どうなるでしょうか? 考えると、本当に恐ろしくなります。積み上げたものが壊れたとしても、残るものもあると信じたい。うわさを確かめた経験や、偏見を改めた経験は、他者を拒否する方向に社会が一気に流れ始めた時に、立ち止まってみる力にはなると思うのです」
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
安倍政権下で反知性主義がはびこるこの国と比べて、何と知性的な活動であり堅実な姿勢でしょうか。ルソーの「理性、判断力はゆっくり歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」という名言を思い起こします。日本の移民問題への教訓となりますが、それ以前に、すでに分裂した社会意識がはびこる日本の状況を改善するのに、意識的な社会づくりが必要であり、そうして「安心ファシズム」を克服していくべきだ、という一般的教訓でもあると言えます。
2016年2月29日
2016年4月号
アメリカ大統領選挙を見る視点
特集「大統領選挙のアメリカ」には、西村央「大統領予備選挙の風景 何が問われているのか」、河音琢郎「混迷深めるアメリカの政治と財政」、岡田則男「アメリカの労働運動と大統領選挙」、大塚秀之「米国社会の人種的分裂 雇用と居住地を中心に」の四論文が掲載されています。トランプ旋風を始めとするお祭り騒ぎ的な大統領選挙とその表層的マスコミ報道に対して、この特集全体を通してアメリカ社会を深部から捉えることができます。
その中で気になったのは、西村氏の「決められない議会」(106ページ)および河音氏の「決められない政治」(112ページ)という日本政治でもおなじみのフレーズです。日本では「決められない政治」批判を橋下徹氏が先導(扇動)し、政府自民党やマスコミなどが追随して喧伝してきました。「痛みを伴う」構造改革が「守旧派」の抵抗で進まない状況を打破すべきだという、「正義感あふれる痛快な」政治スローガンとして一世を風靡しました。その意味するところは、人民に犠牲を強いる新自由主義政策が当然のことながらなかなか「理解され」ずに一気には進まないから、世論を無視してでも断行すべし、ということです。ホンネをしゃべる下世話な橋下氏にいたっては「政治には独裁が大事」とうそぶき、もう少し上品な主流派エリート政治家たちは「丁寧な説明が大事」とか言いながら何の説明もせず(できず、と言うか、始めから説明する気がない)、大声出さずに「粛々と進める」ことに徹してきました。いずれにせよ声の大きさは違っても、人民犠牲の「決められる政治」を追求してきた点では同じです。
だから『経済』誌が「決められない政治」批判とはどういうことかと思ったのですが、アメリカではむしろ逆で、多少なりとも人民の利益になるリベラルな政策が保守派の抵抗で進まない状況の批判的分析ということです。河音論文は、民主・共和両党が上下両院で繰り広げる「予算編成や税制改革といった財政政策決定過程」(112ページ)を分析し、その泥沼的膠着状況下で「赤字削減の実質合意が適わないまま緊縮財政のフレームワークが課されたために、既存の予算編成が機能不全に陥り、その場しのぎの財政運営が常態化した」(117ページ)次第を描き出しています。問題解決にあたって河音氏は「財政資源配分と財政規律との二つの課題の関係のあり方について再考することが必要である」(119ページ)として、前者の優位を確認し、それに基づく改革手法を考察しています。それとともに、政策立案を担う政治の側にある超党派合意形成の困難の背景に「イデオロギー的に分極化した世論の存在」(同前)を指摘しています。そこで今秋に迫った大統領・議会選挙を「アメリカ国民が政策選択に参画し、政策停滞を打開する絶好の機会」(120ページ)としてその意義を確認し、特に陰に隠れがちな連邦議会選挙の方の重要性を強調しています。
アメリカの政治制度、特に議会の状況などをよく知らない者にとっては、河音論文は今日のアメリカの財政運営事情とそれをめぐる世論状況(党派間対立による財政運営の機能不全と政治不信との悪循環、118・119ページ)を理解する糧となりました。それにしてもこうした制度内在的な分析は堅実であり、事態理解に欠かせないものではありますが、論文の結論部分において、今日のアメリカの「決められない政治」の背後にイデオロギー的に分極化した世論が存在していることが指摘されていることからすれば、問題の本質的分析はむしろそこから始まると言わねばならないように思います。
河音氏は「トランプ、サンダースの掲げる政策は180度異なるものの、両候補の捲き起こしている異例ともいうべき旋風は、いずれも現在の連邦政治への不満に依拠している点で共通している」(112ページ)と論文の初めに指摘し、以下、二大政党間の対立による「決められない政治」批判に進んでいます。それに対して西村氏は論文の初めにこう言います。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
今回の大統領選挙に大きな影響を及ぼすことになりそうなのは、一部の富裕層の所得が抜きんでて伸びる一方で、中間層も含めた圧倒的多くの国民の実質賃金が低迷し、所得格差が一層拡大していることです。このなかで改革のエネルギーはこれまで見られなかった左派色が強い候補者押し上げにつながっています。一方で、現状への不満や焦りが、より強いリーダーシップを求める傾向にもつながっています。 102ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
連邦政治への不満は確かに重要な要素なのですが、それ以前に格差拡大と貧困があり、それを解決できない「決められない政治」が見放されつつあるということでしょう。すると問題は、格差拡大に対処すべき財政の機能不全が重大であることは当然ですが、それだけではすみません。再分配以前に生産のあり方が問題にされねばなりません。グローバル資本が主導する新自由主義的資本蓄積をどう規制するかが問題です。最低賃金など労働のあり方、金融化の問題、TPPなど国際経済関係…等々。これらはいわば政治に対しては客観的条件に属するものですが、格差拡大などの同じ状況下でなぜトランプとサンダースに二極化するのかという主観的条件についても独自に考察する必要があります。それは同様の状況下で安倍=橋下人気という新自由主義ファシズムが進行している日本とも共通する課題です。
悪政をほしいままにし、多くの実害を人民に与えながら、安倍内閣の支持率が4割程度を維持していることの原因はいろいろあるでしょうが、マスコミにその一因があることは確かです。アベチャンネルと化したNHKのニュース報道は言うまでもありませんが、その他でも主要メディアの権力監視機能の劣化や政権・与党に対する委縮や忖度という状況、そしてそれを生む政府・自民党のマスコミ対策とメディア側の対応については、阿部裕氏のメディア時評・新聞「『明文改憲』安倍政権打倒の引き金に 金看板アベノミクス、すでに破綻露呈」(『前衛』4月号所収)が触れています。テレビ報道の現場については、金平茂紀氏(TBSキャスター)が、開かれた空気が消え同調圧力が高まり、「危機管理ばかりが組織で優先され、やっかいごとはやりたくない」状況になっていることを告発しています(「朝日」3月30日付)。そうしたマスコミの内部事情とはまた別に、私としては、紋切り型の視点や単純な図式化によって現実を見損なうとか、「論点整理の仕方」において「些末に集中して本質を隠す」ような世論誘導をするとかの傾向を感じ、そこにわが国の民主主義を劣化させる責任を指摘せざるを得ません。
たとえば「適切な中庸があって、そこから偏った左右がある」という紋切り型の単純な図式から出発することによって、現実そのものを見損なったりします。それは先入見に基づく安易な「対称性」理解をしばしば伴います。今日の経済の見方におけるインフレと「デフレ」(バブル崩壊後の日本経済の状況は「物価下落を伴う長期不況」というべきであり、通貨を原因とする真のデフレではないので、カッコつきの「デフレ」と表記する)の取り扱いなどがそれに該当します。近年の日本経済の現状を誤ってデフレと規定して、ただインフレとの対称性において物価下落という現象をなぞり、それを経済政策による克服の対象とするばかりで、物価下落の本質・原因を(当然対処法も)見誤っています。したがってインフレに対して金融引き締めなら、デフレには金融緩和だという対称性の論理で取り組み、うまくいかなければ(実体経済に問題があるのに金融対策に特化しているからうまくいくわけはないが)、まだまだ不十分だからということで、異次元の量的・質的緩和だ、果てはマイナス金利もふくめて最強の3点セットだ、と日銀は暴走するに至っていますが、インフレ・「デフレ」理解において卑俗な対称性理解の点で日銀と変わりないマスコミは何ら本質的批判を展開できません。
政治の見方ではもっとはっきりしていて、先のアメリカ大統領選挙におけるトランプとサンダースについて、左右の「ポピュリズム」の対称性において捉え、簡単に両者を同様に斬り捨てることで、トランプの危険性とサンダース躍進の意義とをともに看過しています。日本のマスコミはただ中庸を良しとし、左右の「偏向」を排する立場から、共和党主流派待望論や民主党クリントンへの期待を流しているので、格差と貧困の蔓延によって、一方で危険な差別・分断の独裁的主張が人気を呼び、他方では問題の根本的解決に向け、アメリカ社会ではタブーとされる社会主義への忌避が薄れている、という今最も注目すべき問題への分析に力が入りません。もちろん例外はどこにもあります。たとえば「朝日」2月12日付では、アメリカ政治の現状においてサンダースの政策の実現可能性が低いことを指摘しつつも、彼の友人の弁護士の言を紹介しています。「諸外国なら彼の政策が受け入れられる国も多いだろう。米国の方がおかしいのでは」。このような現状拘泥でない視点の転換がジャーナリズムには求められます。
マスコミの「ポピュリズム」批判はいつもいかにもエラそうですが、自身がポピュリズムにはまって、「些末に集中して本質を隠す」ような世論誘導に陥っている例として、衆議院選挙制度における一票の格差是正と定数削減問題などを挙げることができます。
問題の検討の前に、「ポピュリズム」批判についての私見を紹介します(『あいち県民教育研究所年報第21号』2013年6月発行・所収の拙文「ハシズムにおける経済・政治・教育」参照)。ポピュリズムにはもともとは肯定的意味もありますが、今日では多くの場合、大衆迎合・人気取りのような否定的意味でつかわれます。ここでもそういう意味で使用しますが、正当な要求(何を持って正当とするかは問題だが)を採り上げることに対しても排撃するためにポピュリズムと呼ぶことがあります。その場合は「ポピュリズム」と表記します。
そこでポピュリズム批判には2種類あることに注意すべきです。一つは、消費税増税批判などに対する支配層からの反批判です。新自由主義的な経済整合性論・大所高所論の立場から、人々の経済要求自体を「ポピュリズム」と決めつけて排撃するものです。もう一つは、君が代強制・思想調査・公務員バッシング・生活保護バッシングなどの反人権・反民主主義的イデオロギーと施策が批判されずに受容されている意識状況に対する批判です。これは支配層の政策とそれに影響された人々に対する批判です。両者は逆方向ではあるけれども、人々の意識の現状に対する批判という意味ではポピュリズム批判として一括されます(「ポピュリズム」批判を含む)。このポピュリズム批判の現象(ア)と分析(イ)を次のように図式化します。
(ア) ポピュリズム批判 → 人々の意識・ポピュリズム(「ポピュリズム」を含む)
(「ポピュリズム」批判を含む)
(イ)
経済面 支配層からの経済「ポピュリズム」批判 → 人々の経済要求
政治面 人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム
(イ)の四つの要素を縦横に配置して組み合わせると、次の表のようにイデオロギー状況の四つの相が浮かび上がってきます。ハシズム(橋下徹氏の思想)は支配層からの経済「ポピュリズム」批判と政治ポピュリズムとを結合しており(B+X)、支配層による新自由主義的独裁イデオロギーとなっています。それとは正反対に、人々の経済要求と政治ポピュリズム批判とを結合させる(A+Y)方向への意識変革が必要です。マスコミ主流の立場はおおむね(B+Y)の体制内リベラリズムであり、支配層からの経済「ポピュリズム」批判と人権派からの政治ポピュリズム批判との組み合わせと言えましょう。
政治 経 済 |
(X)政治ポピュリズム (反人権・反民主主義) |
(Y)人権派からの政治ポピュリズム批判 |
(A)人々の経済要求(場合によっては経済ポピュリズム) |
(A+X)人々の意識の現状 |
(A+Y)人々の意識の変革方向 |
(B)支配層からの経済「ポピュリズム」批判 |
(B+X)支配層による新自由主義的独裁 |
(B+Y)体制内リベラリズム |
こうした私見によれば、マスコミは新自由主義的な大所高所論(体制擁護)で人々の経済要求を退けるという点では批判されるべきですが、ハシズムや安倍流の保守反動から流れる反人権・反民主主義の卑劣な言動に対しては一定の批判を加えている、という意味では積極的役割を果たしています。ところが選挙制度問題では日頃自分たちが批判してきた政治ポピュリズムに陥っています。
一票の格差是正に絡んで、マスコミは連日、アダムズ方式を採用するかどうか、いつ採用するかが最大の焦点であるかのように報道しています。しかし定数が一に固定されている小選挙区制では人口変動に合わせて格差是正するためには、そのたびに不自然な選挙区割り変更をせざるを得なくなり、事実上、投票権の平等を実現することは不可能です。問題は小選挙区制そのものにあるのです。そもそも小選挙区制は民意を反映せず切り捨てるという意味でおよそ民主主義の選挙制度とは言えない代物です。そうした「根本悪」だけでなく、投票権の平等を事実上実現できないという「副次悪」もあるわけで、まともに選挙制度問題を直視する気があるなら、アダムズ方式云々は問題外で、小選挙区制の廃止を訴えるべきです。ここに、些末に集中して本質を隠し、世論誘導する、というマスコミの病弊が典型的に現れています。
ここで想起されるのは、「軽減税率」騒動です。いまや10%への増税そのものが問題視される状況で、かの騒動の些末なバカバカしさは明白です。NHKニュースを始め、連日、自公間の軽減税率の範囲の線引きを巡る駆け引きが、国政の最重要課題であるかのように声高に報道され続けたのは何だったのでしょうか。消費税増税さらには消費税そのものを疑問視するという問題の本質に迫る視点を何としても封印したい、という支配層の狙いに沿った見事な本質隠し=世論誘導「ジャーナリズム」の面目躍如たるものがありました。
閑話休題。選挙制度問題でのマスコミの姿勢においてはもっとひどいことがあります。アダムズ方式云々が喧伝される中で、定数削減は当たり前の前提としてまったく議論されません。衆院選挙制度調査会の答申でさえ、定数を「削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い」としています。なのになぜそんなことを実施するのか。唯一の根拠は世論の支持でしょう。確かに世論は尊重されねばなりませんが、多数意見ならば何でも実施していいわけではありません。議員定数の削減は民意反映に逆行し、人々の声を切り捨てるものであり、国会の政府監視機能の低下にもつながります。民主主義の自己否定です。諸外国と比べて議員定数の少ない日本の国会では決してやってはいけません。
しかしなぜ多くの人々が議員定数削減を支持するのでしょうか。それは政治不信・議員不信でしょう。確かに汚職・暴言などの数々を見ればそれも理解できますが、とはいえその議員たちを選んだのは有権者です(選挙制度の害悪はここでは措くが)。安倍政権に典型的な諸々の悪政を、そうした劣等議員たちに代表させ、うっぷん晴らし感情で、悪政の本当の原因をよく考えずに、白も黒もなく十把一絡げで議員定数を削減してしまえ、という短慮がことの実相でしょう。要するにここには、自分たちで劣悪議員を選んでおいて、議員削減(民意の削減)に向かう愚への無自覚があり、その「痛快さ」を伴った民主主義破壊によって自分で自分の首を絞めているのです。このような状況は格差と貧困の蔓延の中での閉塞感・憤懣によって増幅されており、的外れなバッシングで被支配層人民同士が叩きあうという現象と同様、新自由主義起点の社会劣化悪循環の一例と言えます。
そしてここに最大の問題としてのマスコミの不見識があります。定数削減の無根拠さは無視して多数派世論の無責任な気分に迎合し、民主主義破壊に手を貸しています。日頃のエラそうなポピュリズム批判はどこに行ったのでしょうか。2月19日、野田元首相と安倍首相とが衆院予算委員会で「定数削減」をめぐって「直接対決」したのをさも一大事かのように持ち上げて報道したことはまさに愚の骨頂でした。「不見識の五十歩百歩」という共通の土俵で自己満足に舞い上がった安倍・野田・マスコミの姿には本当に情けなくなりました。「読売」のように自覚的な安倍政権支持勢力だけでなく、その他のマスコミもまたこのような民主主義破壊の無自覚的同調者として、新自由主義起点の社会劣化悪循環の一翼を担い、安倍内閣の異常な高支持率を維持させる力となっているのです。
現場に内在する姿勢
上述のように、朝日新聞などには、支配層のエリート主義的使命感に基づく「大所高所論」で「大衆を啓蒙」しよう、という姿勢の記事・論説が多くみられます。そのような「大所高所論」が公正を装いつつ支配層の利益実現を狙うものに過ぎないことを左翼は衝くのだから、それは本来エリート主義とは無縁なはずですが、しばしば支配層と類似の「上から目線」に陥ることがあります。たとえば、少年非行等に対して、安倍晋三氏は「規範意識」なるものを持ち出してくるのがお好きなようです。そういう非社会的観点の道徳主義は嗤うべきものです。しかしそう嗤っている者が、人々の様々なあり方(それは必ずしも褒められたものではない状態を含む)を優等生的姿勢から勝手に裁断してはいないか、という自省もあってしかるべきでしょう。
後藤道夫氏の書評(96ページ)によれば、杉田真依氏の『高卒女性の12年 不安定な労働、ゆるやかなつながり』(大月書店、2015年)は「低処遇で不安定な非正規労働が日常となった、低階層若年女性の労働・生活世界に内在する理解の必要」を主張しています。本書からは「彼女たちが荒波に翻弄され、数々の困難に打撃を受けつつ、どのように、働き生きることに習熟し、それぞれの生き方を蓄積してきたのか、ある種の畏敬の念とともにそれをうかがい知り、おぼろげな想像力を働かせることができ」ます。「正規を規範とし正規への移行条件探しに帰着するような比較研究」といった規範意識的観点を超えたところでは、「彼女たちは、職場、職業を拠り所とする生き方が困難であるため、消費文化が生きる支えとして大きな位置をもち、趣味の持続可能という条件が、労働条件とならぶ比重をしめる場合もある」という柔軟な見方も生まれます。こうした杉田氏の「内在」によって「自分たちの労働・生活のあり方に即した彼女たちの『洞察』(P.ウィリス)を見抜き、『漂流者』としてだけでなく『航海者』として(中西新太郎)彼女たちをつかむ」という「強い志向」が実現しています。このように厳しい現実に内在することによってしか、当該労働者の主体性を捉えるのを始めることはできません。そこからさらに「こうした『洞察』やゆるやかなネットワークが、彼女たちが置かれた状況に対する『怒り』に結びつく回路は、どのようにして形成されるのか」という「たいへん大きな課題」(97ページ)を後藤氏は最後に提起しています。これは一見するとありがちな問題提起のようです。しかし「上から目線」に陥って「嘆かわしい現実」を受け止めえずに現状へ外在的失望をかかえてしまった状況を脱し、内在的希望につながりうる経路への模索として受けとめられるべきかもしれません。
『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新書、2015年)がベストセラーになっている藤田孝典氏は自身の研究と実践の原点と姿勢について以下のように述懐しています(藤田孝典・田村智子対談「『貧困大国』からの脱却を」、『女性のひろば』4月号所収)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
学生時代にホームレスの支援活動と出合いました。現場にいったらびっくりです。大学で福祉について学んでいましたが、教わることは路上の方がはるかに大きかったです。政治経済、社会保障制度の不備など、彼ら自身のほうがよほど知っている。山一証券が破たんしたころで、社長をしていた人、銀行員など、こんな人でもこうなるのかと思いました。境遇をきくと自分だって同じ選択肢をとるだろうなと思いますし、自分だったら生きていくのが嫌になるかもしれないと思う。彼らのほうがよほど強いと感じました。それを知らないままだったら、貧困に陥ったのは特別な事情があったからだ、本人のせいでしょうとなっていたかもしれません。現場でそういう人たちをみていると、自分も将来そうなるだろうなと漠然と思います。
実は「当事者」という言い方も苦手で、私自身が「当事者」だと思っています。自分の問題として、民主主義の問題、社会保障の問題をみているので、素朴な感想が出てくるのです。現場に立脚していくことは大事です。現場の人の声をきき、その声をきいている以上、私たちが代弁していかない限り、その人たちはずっと虐げられていきます。相談を受けるだけでなく、問題を分析してわかったことを条例や貧困対策、政策として提案しています。 54・55ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
対談相手の田村氏(共産党参議院議員)は「現場の声をいかに政治につなげるかが、日本の社会を変える大きな鍵だと思いました」(56ページ)と応じています。
藤田氏の著書『下流老人』の分かりやすさはまさにこうした姿勢から出てくるのだと思います。社会保障制度そのものはとても複雑で分かりにくいのですが、現場の視点・自分自身が当事者であるという立場からすれば、貧困対策ならびにそれとかかわる社会保障制度の伝えるべき要点は自ずと整理される(もちろん藤田氏のように研究と実践に精通した人であれば、というのが前提だが)ということでしょう。現場で人々が生きていく、ときにギリギリのところで生きていく、そこでの必要性から政治経済の現状や様々な制度の仕組みとその問題点などを捉えていくという姿勢は万人に開かれた方法だと言えます。専門家にとっては教科書的に微細な点にまでわたって把握する必要がありますが、それが困難な素人にとっては、身の丈から、自身の要求から届くところをまず捉えることが必要であり、そうした切実さに沿って援助するのが専門家の使命でしょう。著書『下流老人』は現場への内在の成果として、まさにそうした役割を果たした成功例だと言えます。しかも貧困に陥った当事者だけでなく、その現場から学んで、多くの普通の人々がそうなる潜在的可能性を持っていることを具体的に指し示し、貧困問題の普遍性を誰の目にもわかるようにしたという意味でその社会的貢献ははかり知れません。
不遇な状況に陥った人々に対して、「自分とは違う」という上から目線で誰しも見てしまいがちになります。しかしその人々の苦闘に「ある種の畏敬の念」を持ち、自分と地続きであることに思いを馳せることが良い社会を創造していく上で最重要です。社会的閉塞・劣化が進む中で分断の楔が打ち込まれ、対立と憎悪を伴いながら貧困化とともに民主主義破壊が進む状況下で連帯の芽をつくっていくことが大切だからです。「現場の声をいかに政治につなげるか」が国会議員にとって肝要な課題であることは当然ですが、それは私たちの課題でもあり、その前に現場の声を社会全体に広めることが必要であり、そのためには現場への共感能力と社会へのアピール力が求められます。
「中立」攻撃の撃破
佐貫浩氏の「『教育の政治的中立』と教育の論理 一八歳選挙権と政治学習のあり方をめぐって」(『前衛』4月号所収)は「教育の政治的中立」についてのたいへんに行き届いた分析的論考であり、感銘を受けました。それは何より政治権力に対して課せられている規範であることを前提に、教師の教育実践において守られるべき中立性の規範について、体系的に縷々明らかにされています。
たとえば対立する論争点について、単に両方を提示するというだけでは不十分であり、「そのテーマに関わって、学問的、科学的にはどういうことが論争点の中心にあるのかを明らかにしていく働きかけも重要で」す(218ページ)。そうして深めていけば、そもそも「正解を暗記する科目」としての社会科のイメージを転換し、主権者として政治を批判的に考える力を培うことがその中心に据えられます。そのためには政治概念を若者のイメージの中で転換する必要があります(221ページ)。つまり「政治学習の目的と価値は、社会の主権者、歴史をつくる主体としての誇り、自分の運命を自分で切り拓いていくことができるという自己への信頼感の獲得、すなわちユネスコの『学習権宣言』に記されている『なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体』に成長できることのなかにこそ存在している」(222ページ)のです。
素晴らしいことに、私たちはすでにそのような主体を見ることができます。2015年10月、文科省は18歳選挙権導入に伴って、高校生の政治活動を制限する通知を出しました。文科省の担当者は「政治活動に没頭して学業に支障が出ないように」などと述べていますが、ティーンズソウルは見事に啖呵を切って返しています。「私たちにとって、政治は『没頭するもの』ではなく、『日常に普通にあるもの』です。私たちの政治参加を政治家が正当な理由もなく抑制するようなことはあってはなりません。政治家が認めるべきは政治参加の規制ではなく、促進のはずです」(T-ns SOWLが2月7日に発表した声明「高校生にも声をあげる自由がある」より、「しんぶん赤旗」2月23日付)。エリート官僚のおびえ干からびた精神と高校生たちの伸びやかな感性・知性とが民主主義理解に鮮やかな落差を描いています。
閑話休題。教育分野において佐貫氏は政権の「中立」攻撃に対して、「政治的中立」の中身を問い、分析的にその内容を明らかにし、「政治学習」観の転換によるその新たな創造という積極的姿勢で立ち向かうことを提起しました。これは「中立」攻撃に対して、委縮して消極的防御に陥ることなく、政治概念のイメージ転換による社会科教育の内容的刷新を訴えることです。「中立」を口実に、教育のみならず、放送を始めとするメディア、公民館などの市民社会にまで、思想・言論・表現に対する規制を加えようという文脈の中で、佐貫氏は教育分野におけるいわば積極的攻勢的防御を示したと言えます。さらに教育に限らずこの「中立」攻撃全体の欺瞞性を分析的に明らかにして反撃することが求められます。政府見解の記入を義務づけて、沿わないものを不合格に切り捨てていく、という教科書検定に典型的に見られるように、勝手に座標軸を右にずらして、そういう右傾化した「中立」にそぐわなければ攻撃を加えるという保守反動政権の手法に切り込んでいくことが必要です。ネトウヨなどの草の根右翼・保守反動と政権とが結託して(民の暴力的言動と官の権力的威圧によって)社会的右傾化を促進し、「委縮」が広がりつつある状況を見るにつけ、個々の分野での機敏な反撃はもとより、全社会的な俯瞰による解明と攻勢的対処が求められていると思います。もちろん問題の本質は右か左かではなく、自由と民主主義を擁護するため多様性を確保しつつ公正さを追求するということなのです。しかし権力を握る側が「中立」を表看板に右傾化を進める中で事態が動いていることを直視して、その欺瞞的手法を暴露しつつ本筋としての公正さを提示して圧倒的な多数の共感を得ることを抜きに、もともとある力関係の不利さを切り返すことはできません。お人よし的に「中立」の考察に埋没するのでなく、強大で腹黒い権力との対峙という実態を見据えた闘いが求められます。
右傾化の中での「中立」攻勢という欺瞞を全体的に俯瞰する課題について、私としてまだ確たる見通しはありませんが、憲法問題がそこで重要な位置にあることは明らかです。安倍政権の存在によって保守反動・右翼勢力が勢いづき、政権の磁場による政治上の座標軸の右移動が起こっている中でも、政府・行政権力が憲法擁護義務に反する姿勢を開けっぴろげにして、公然たる改憲姿勢を取っていることが最大の問題です。首相や閣僚、与党がたとえ改憲の信条を持っていても憲法擁護義務は免れません。何を思ってもいいが、憲法を破壊する行動は許されません。彼らの立場からすれば「悪法も法」として行動を律しなければなりません。ところが「安倍はどうせ右翼だから憲法など守るはずはない」という悪慣れが批判する側にもあり、何があっても「驚かない」状況で、第99条の憲法擁護義務そのものが厳しく追及されないことは重大問題です。本来なら憲法擁護が原点になければなりませんが、政府の姿勢によってなし崩し的に座標軸が右移動し、NHK報道などに典型的なように、事実上改憲派が原点の位置を占めるに至り、「改憲と護憲を対等に扱う」というのが、あたかも政権が過剰に譲った結果のようにさえ見える、という錯覚は由々しき事態です。もちろん安倍政権とてタテマエ上は憲法に則って政治を行なっていることになっていますが、集団的自衛権行使容認の解釈改憲を始めとする荒唐無稽な言い訳は「壊憲」を行なって恥じるところなき傍若無人さを露呈しています。だからこそ立憲主義を守れという声が起こってくるのですが、そのような一般論以前に、公然たる99条違反を衝くことが必要でしょう。
話は変わりますが、先のティーンズソウルの名言の他に、最近目にした素晴らしい街頭スピーチの記録を心に刻んでおくことはむだではないと思います(「しんぶん赤旗」3月22日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
なぜ憲法は政治権力者に憲法の擁護義務を課しているのでしょうか。それは、日本国をつくっている日本国憲法がもっとも大切にしているのが、私たち個人の尊厳だからです。
尊厳とは、私たち一人ひとりに生きる価値がある、幸せになりたいと願う価値があるということを大切にするという考え方です。
私は安倍政権を憲法破壊政治≠ニして批判してきました。憲法を軽視することは、私たち一人ひとりの人間としての価値を軽視する態度に他ならないからです。今私たちに問われているのは、幸せを願う市民が本当に幸せになるための政治を選ぶのか、政治権力者のために市民を犠牲にする政治を選ぶのか。その大きな選択だと思います。
私たち一人ひとりが「生きる価値がある」と信じられるような政治に向かって、自公とその補完勢力、憲法を破壊する勢力に立ち向かう共産党を応援させていただきます。
岡野八代氏(同志社大学大学院教授)
安倍政権は、社会には「もう生きられない」「もう働けない」の声が満ち満ちていることに気がつかないのでしょうか。
…中略…
上から目線で人を見下す人たちは「自己責任だ」と言うかもしれません。一生懸命生きている人にとって、これほど残酷な言葉はありません。何よりも尊いはずの生きることが、今の日本では「コスト」とされ、「コスト」を削減するのが立派なことのようにいわれています。そんな国は豊かでも何でもありません。
武器ではなく暮らしにお金が回るようにしましょう。そのために、人の痛みを感じ取れる人を政治家に送り出しましょう。私たちの声には社会を変える力があります。一人ひとりが自分の居場所から、自分の声を上げていきましょう。
西郷南海子氏(安保関連法に反対するママの会@京都メンバー)
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
二つのスピーチには、13条・25条を始めとする日本国憲法の原理が生き生きと語られており、グローバル資本と安倍政権による新自由主義ファシズムの本質とそれが作り出す社会と政治の惨状、そしてそれに立ち向かう力のありどころがこの上なく分かりやすく示されています。昨年来の闘いの中で、シニアたちを感心させたシールズの言葉に続いて、新たな担い手によって、このように新鮮で輝く言葉が続々と誕生していることは、いよいよ日本社会の変革が本物に近づいてきたということを予感させます。
1960・70年代あたりに発せられた「社会科学的な考察が、言葉によって育ってくるような、そういう日本語をどうしたら手に入れられるか」(内田義彦『作品としての社会科学』、岩波書店、1981年発行、34ページ)という問いは、「社会科学が日本語を手中に収めえないかぎり社会科学は成立してこないし、日本語が社会科学の言葉を含みえないかぎり、日本語は言葉として一人前にならない」(同、35ページ)という課題設定を伴っていました。内田氏は主にアカデミズムにそう投げかけたのだと思いますが、21世紀に入って、普通の人々もまたその担い手として登場してきた、と捉え返してもよいのではないでしょうか。最近の「保育園落ちた 日本死ね!!」といういささか乱暴とはいえ驚くべき政権破壊力を持った言葉も合わせていいでしょう。そうした多様性の中で、日本語と社会科学が自然に両立し融合し、人々の生活と労働に根づいて、成熟した社会変革のあり方をリードして行く時代を切り開きたいと思います。
平和をめぐるメモ・二題
川田忠明氏はいつも紋切り型に終わらない平和論を展開しています。「第七〇回国連総会 核兵器禁止をめざす新たな段階」(『前衛』4月号所収)では核抑止力論を立ち入って検討し、その克服の展望に論及しています。その情勢分析では、負の側面としては、中国政府の姿勢の重大な後退が目を引き、日本政府の従来からの欺瞞的路線(被爆国でありながら核の傘に依存し、核保有国と非保有国との「橋渡し」になるというタテマエ)への固執は相変わらずです。しかし後者は破綻が明らかであり、近年の人道的アプローチの強まりなどによって核保有国が追い詰められており、核兵器禁止条約の交渉開始に向けた取り組みの圧力をますます強めていくことの重要さが痛感されます。
平和問題ではいつも理想と現実との両立が大切です。核軍縮を目指す科学者のパグウォッシュ会議が核抑止力論に傾く中でも、日本の科学者たちは核兵器廃絶を追求してきました。1981年に亡くなった湯川秀樹氏は晩年、「すべての国が核兵器をなくし、軍事力を放棄する。こんな当たり前で簡単なことが、なぜわからないのか。それがわからない」と嘆いていたそうです。絶筆となった色紙に書かれた言葉…「世界連邦は昨日の夢であり明日の現実である 今日は昨日から明日への一歩である」(「朝日」夕刊3月15日付)。世界連邦への評価は私には分かりませんが、核兵器廃絶の夢を現実にするために日本と世界で訴え続けた姿勢には敬意を表します。川田氏の論稿からは、今それを私たちが現実化すべき時に直面していることが感じられます。理想と現実をともに見つめ、現実を直視しつつ理想を諦めないために、「昨日から明日への一歩であるような今日」を毎日生きているだろうか?と故湯川氏から問われているようです。
* * * * * * * * *
今闘われている「戦争法廃止・立憲主義回復」の運動は平和と民主主義という二つの軸を持っており、これは憲法の所産としての戦後日本に伝統的な運動文化です(二宮厚美「改憲・アベノミクスに対抗する楕円型国民総がかり運動の形成」、74ページ、『前衛』4月号所収)。それでは両軸においてそれぞれ、今日の運動は1960年や70年の安保闘争と比べてどういう特徴を持っているでしょうか。
まず民主主義の軸では、その運動主体のあり方において、動員型ではなく、自発的な諸個人の参加が見られ、理論面でも、立憲主義の解明や個人の尊厳の重視など、民主主義と人権の把握において重要な前進が見られるように思います。
しかし平和の軸においてはむしろ後退しているというべきでしょう。今日の運動を60年や70年になぞらえて安保闘争と表現する向きもありますが、日米安保条約と自衛隊そのものへの批判が闘争の主題になっていないという意味では違和感があります。世論の圧倒的多数が安保・自衛隊支持という状況下で、集団的自衛権行使容認とそれに付随する戦争法には反対するという広範な一致点で闘われているのが今日の闘争です。そこには安保・自衛隊反対勢力も参加していますが、日米軍事同盟と個別的自衛権の戦争法以前の状況については容認するという枠を超えることは、共闘の中では自制しています。したがってこの運動全体では、軍事的抑止力そのものを否定する議論は控えられています。憲法だけでなく、安保条約と自衛隊によっても戦後日本の平和は守られてきた、という認識が、反戦争法陣営においても多数派です。これはやむを得ない状況であり、それを踏まえて運動を組み立てるほかないのは当然ですが、60年や70年より相当後退しているという認識を忘れてはなりません。
ここで次のことを想起すべきです。全体的には政策的に破綻が明白な安倍政権への支持がいまだに高い理由の一つとして、中国・北朝鮮脅威論によって危機を煽る作戦がある程度、功を奏しているということがあります。コワモテ政権への「安心感」と平和勢力への不安視・無責任者扱いです。それを土台のところで支えているのは、日米軍事同盟と個別的自衛権の容認が長らく続いてきた中で、軍事的抑止力論が「常識」として定着してきたという現実です。もちろん安保・自衛隊(したがって)軍事的抑止力容認だが戦争法反対という保守良識派の立場でも、様々な現実的な情勢論・制度論などによって、安倍政権とそれを支える戦争法勢力(=非現実的な対米従属教条主義)を論破することは可能なのでしょう。しかしこの先、様々な軍事関連の出来事が起こるたびに生じるであろう世論の波風を考えると、安保・自衛隊・軍事的抑止力論そのものへの批判意識を広範な人々の常識にしていく長い闘いを構えることが必要です。戦争法反対の一点共闘を強力に推進しつつ、今それをもっと強く支え、さらに先を見据えるために。今日の闘争の持つ後退面を直視することの意味はそこにあります。
軍事的抑止力論批判とは「軍事力によって平和は作れない」ということですが、それを空想的理想主義ではなく現実的議論なのだ、と多くの人々に思ってもらえることが必要です。中国・北朝鮮脅威論などに踊らされている人々にも説得力ある議論を組み立てねばなりません。そのための試論として「平和について考えてみる」という拙文を2014年に書きました。とてもその課題に届いているとはいえませんが、今後とも考えていきたいものです。
2016年3月31日
2016年5月号
資本主義の動態と存在根拠
現代の資本主義はきわめて複雑であり、その諸現象を追うだけでも相当に困難です。そして俗流経済学にあっては、さらにそこから本質を剔抉するという問題意識はなく、そんな「形而上学」の追究は無意味で、諸現象を同一平面上の連立方程式にまとめ、その解を求めて政策に代入して「問題解決」するのが学問の現実への貢献だ、と思われているかのようです。そこでは連立方程式を構成する体系原理そのものを問うことはないか、せいぜい完全競争市場という「理想状態」からの乖離が叱責され、いっそうの「構造改革」が強調されるだけです。そこでは資本主義市場経済そのものは所与であり不動の前提であって、あたかも自然現象のように当然あるものとして受け止められており、それが歴史的・社会的構成物として捉えられていません。
それとは対照的に、桜田照雄氏は「『どのようにして、なぜ、なにによって、あることがらがそうであるのか』を明らかにすることをマルクス経済学は要求する。この要求に応えようとする努力が自らの成長を保証する。そこに私はマルクス経済学を、とりわけ若い人たちが学ぶ意義があると考えている」(「投機マネーと金融商品、カジノの危険性」、106ページ)と指摘しています。
さらに金谷義弘氏は、資本主義市場経済を、「内実と形態」あるいは「歴史貫通的なものと特殊歴史的なもの」という二面性から捉え以下のように敷衍しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
マルクスは、商品を分析して、これを使用価値と価値に区別しました。また、資本主義的生産を分析して、労働過程と価値増殖過程に区別します。これは、いつの時代やどの社会構造でも存在する、自然存在としての労働生産物や、労働力と生産手段による生産活動が、資本主義経済体制の下では、特殊歴史的な形態を取ること、すなわち、労働生産物が商品、それも利潤を含む資本主義的商品という経済的な形態をまとっていること、何時の時代にもある生産過程が、剰余価値生産を目的にした資本主義に特有の価値増殖過程という形態を取るということを意味します。前者の自然的ないし超歴史的な基体が一方的前提になり、それが経済的形態規定をまとっているのです。
「現代資本主義のマネーと投機を解剖する」、104ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
このようなマルクスによる一般的解明は今日の資本主義にも当てはまりますが、冒頭に述べた現代資本主義の複雑さ、その現象理解の困難さを正面から捉えるには、それとは相対的に区別される現代資本主義そのものの特殊性をも考慮する必要があります。それについて今宮謙二氏は、マルクスの時代と現代との「最大の違いは現在投機資本主義が世界を支配していることであろう」(「『資本論』の魅力 マルクスとエンゲルスの友情が築いた人間解放と変革の経済学」、20ページ。ちなみにこの論文のサブタイトルこそ、『資本論』についてのあらゆるアカデミックな意義付けにも勝る理論的性格付けでしょう)と指摘しています。投機資本主義は金融化とともにあります。桜田氏は「金融経済化という新たな現象が資本主義世界に現れてくるのは、世界経済が変動相場制に移行してからのできごとである」(前掲論文、107ページ)としています。これは、世界大恐慌による金本位制の崩壊と不換制・管理通貨制度への移行、その下での戦後におけるIMF固定レート制(国際金本位制の一定の擬制)の成立、という前段を補って、その崩壊による変動相場制への移行(不換制の全面展開)という文脈の中で捉えることが適当かと思います。変動相場制は裁定取引という投機を活発化させますが、そこには不換制下での貨幣資本の過剰が前提となっています。
金谷論文は、リーマンショックを典型例として、現代資本主義を特徴づける金融化・投機化を本質的に分析し、それが『資本論』の解明した資本主義一般の原理を基礎においてこそ説明しうることを明らかにしています。さらにはそこに「何時の時代にもある生産過程」「の自然的ないし超歴史的な基体」(前掲論文、104ページ)が貫徹されることを見ていると言えましょう。
「1929年の大恐慌以後、産業循環を伴う経済システムと、管理通貨制度に基づく財政・金融政策との長い相互作用は、現実資本の成長と規模を相対的に上回る貨幣・貨幣資本の供給に帰結したのです。しかし、現実資本蓄積を超える供給量の貨幣ですから、その全てを産業諸部面への投資に振り向けることはできません」(同前、101ページ)。こうした貨幣資本の過剰に際して、「流通が進まない貸付債権を、譲渡可能な証券にして世界に提供し、大きなビジネスにし」(97ページ)てその運動領域を広げました。この証券化を通じて「銀行にとっての貸出業務が、金融商品の売買業務へと変貌を遂げ」、さらに証券を担保に新たな証券を発行する連鎖が生じ「金融商品の売買業務が新たな金融商品の売買業務を呼び起こすこととな」り「経済の金融化が進行し」ました(桜田論文、112ページ)。
このような新しい現象の典型例として金谷氏は「リーマンショックの下で起こったこと」を以下のように総括しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
(1)投資銀行などの仲介によって現実資本の運動から遊離した利子生み資本の運動領域を多元的派生的に創出して、(2)投機マネーに運動の場を与えてバブル経済との相互作用に入って現実資本にたいして寄生性を発揮したことです。しかし、(3)現実資本の運動から遊離した利子生み資本の運動は脆弱で、住宅価格上昇の限界、格付けの虚偽性が明らかになるや、その反動でもとあった限界に引き戻されることでバブル崩壊を生んだのです。(4)金融の規制緩和は、起こりえるこうした危険な展開の環境を提供したといえます。
102ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
ここには、眼前に展開する一見根無し草的な現象の表面を撫で回すのではなく、その隠れた根を問う姿勢が貫かれています。その方法を提供したのが『資本論』です。マルクスは恐慌を資本主義経済の「あらゆる矛盾の現実的総括および強力的調整として理解」し、「そうした強力的調整が起こる前提には、生産と消費、産業と流通、投資と回収など元来依存しあう諸契機が独立化する過程がある」(103ページ)としています。『経済学批判要綱』にある「資本は、自己の制限をのりこえようとする無制限・無限度な衝動である」(同前)という言葉はこの「独立化する過程」をもたらす根拠を示しています。証券化による金融化・投機化はまさにこの資本の衝動による限界の乗り越えであり、その強力的調整としてのリーマンショックを呼び起こしたのです。これを一般化すれば「一つに結び合わされたものが独立化し、資本蓄積の制限に運動可能な形態を切り開き、それが撹乱の要因になりながら、強力的に再統一される」(同前)と表現できます。この論理を受けて、金谷氏は「資本主義経済の枠内での変容と矛盾を捉えるマルクスの『限界と制限の弁証法』という方法は、現代資本主義社会の動態的な分析にとって不可欠な方法です」(同前)と推奨しています。
「限界と制限の弁証法」によって投機化された現代資本主義の動態を捉える、ということは、大まかにその一例を挙げるならば、金融が実体経済を乗り越えて振り回しているようだけれども(虚栄の幻覚)、究極的には金融は実体経済に規定されていることに気づく(正気の認識)ことであろうかと思います。これは複雑な現象の根を問うことであり、そうしてその全体像を分かりやすく捉えることです。その見方を延長すれば、経済が資本主義的形態規定の下にある中でも、一人ひとりの生活と労働のあり方がどうであるかという歴史貫通的問題に引き寄せて捉えようという姿勢につながるでしょう。
ところで「資本蓄積の制限に運動可能な形態を切り開」く古典的方法として1920年代アメリカで生み出されたのが「消費者割賦信用」です。これは「限られた所得と高価な耐久消費財の購買という限界をそのままに、支払いを現在から将来の所得に分散させる法と信用の技術で、もってこの時代の耐久消費財産業の飛躍の槓杆となりました」(103ページ)。これは「生産と消費の矛盾」という資本蓄積の制限を「克服」する方法ですが、それのみならず住宅ローンでより顕著に見られるように、人々を保守化させ資本主義体制の安定装置にもなっています。「住宅ローンを組んだ多数の人々の日常行動を債権者が縛り、過酷な長時間労働にかりたて、企業人間を生み出し、地域と切り離された生活、社会活動に参加できない、参加しない人々を再生産し」ているのですから(山田博文「現代の資本主義と金融寡頭制 古典に学び『カジノ型金融独占資本主義』をつかむ」、86ページ)。
さすがにサブプライムローンのように常軌を逸したやり方まで行くと、リーマンショックのような「強力的調整」に帰結して、人々を覚醒させ資本主義経済への批判意識を喚起します。住宅バブル崩壊から金融恐慌へというこの道程は、投機化された資本主義という構造を前提した上ではあるけれども、一種の循環現象です。しかしそのような循環的危機状況に至る前に、ディーセントな生活と労働にふさわしい経済のあり方という経済構造、つまり強搾取と投機化とを克服した経済構造を求めることが必要です。消費者信用をテコにして投機化を過度に進め、生産と消費という「元来依存しあう諸契機が独立化する過程」を放置して「強力的調整による再統一」に任せるという構造そのものが問題なのです。
こうして見てくると、人々の所得の向上によって、生産と消費のバランスを回復する経済政策の重要性が、資本主義一般の問題と投機化された現代資本主義の問題との双方から理解されます。生産と消費の矛盾は資本主義につきものですから、そうした政策は一般的に必要ですが、信用の導入と投機化によってそれを「克服」した現代資本主義にあっては、矛盾の一層の潜在的拡大によって、より厳しい「強力的調整」を招かざるを得ないことが分かっており、その政策はより切実に求められます。このように経済循環のあり方は経済構造によって規定されるのだから、政治要求としてポピュラーな「景気対策」と「格差是正」とを比べるならば、後者により重きを置くことが必要です。それも税と社会保障という所得再分配の問題に限らず、非正規雇用や下請け叩きのような生産のあり方から問題にしていくべきでしょう。
「一つに結び合わされたものが独立化し、資本蓄積の制限に運動可能な形態を切り開き、それが撹乱の要因になりながら、強力的に再統一される」例として、金谷氏はリーマンショックなどにおける金融の投機化を考察したのですが、それは複雑で難しいので、ここでは上記のように実体経済における「生産と消費の矛盾」について考えています。それに関連して、家計調査から最近におけるエンゲル係数の上昇が注目されています。多賀谷克彦「朝日」編集委員は、「エンゲル係数は、消費支出に占める食料費 の割合を示す。食品は他の物品と違って、なかなか支出を抑えることができない。一般に係数が高ければ、家計にゆとりがないとされる」(「朝日」4月26日付「波聞風問(はもんふうもん)」)と解説しています。「しんぶん赤旗」4月6日付によれば、「安倍晋三政権が発足した2012年には23.6だったエンゲル係数は、15年には1.4ポイント上昇し、25.0(2人以上の世帯)になりました」。同記事はさらに以下のように分析しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
家計調査によると月額平均の食費は12年から15年の間に4631円増えました。背景に食料品価格の上昇があります。食料品の消費者物価指数は12年の99.7から15年の106.6へ7%近く上がりました。異次元緩和に加え、消費税増税の影響です。
消費支出の減少もエンゲル係数を高めました。エンゲル係数が最も低かった05年から15年までの11年間に消費支出は4.2%減少しました。
消費支出が減少したのは可処分所得が減少したためです。可処分所得は実収入から直接税と社会保険料を除いた金額です。勤労者世帯の可処分所得は11年間に1万2225円下落。実収入の伸び悩みに加えて、安倍政権下での年金保険料や医療保険料などの負担増が響きました。
可処分所得が減少し食料品が値上げされても、食費を極端に削ることができません。その一方で、衣類や教育費、医療費などが減少しています。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
確かに物価が上がっているにもかかわらず、賃金下落と税・社会保障負担増のダブルパンチで可処分所得が減っているので、食費以外を切り詰めて消費支出全体も減らせば、食費の割合=エンゲル係数は上昇します。これだけでも家計の苦しさは分かりますが、実は円安・消費増税などによる価格上昇で、食費は上がっても購入量そのものは切り詰めているという実態があります。それは2010年平均値を100とする指数において、2014年4月以降の名目値と実質値との乖離という形で現れています。実質値は物価変動の影響を除いた額ですから、その指数は購入した食品の量の変動を現わすことになります。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
家計調査によると、かつては同様の変化をしていた食品の実質値と名目値に連動性が見られなくなり、最新の統計である2016年2月には名目値108.6、実質値100.2と8.4ポイントもの差がみられるようになりました。
食品支出の実質と名目値がかい離し始めたのは2014年4月。安倍晋三政権が消費税率を5%から8%へと引き上げた時期と重なります。当時、アベノミクス(安倍政権の経済政策)により円安が加速し、輸入品の物価が高くなりつつありました。さらに、消費税増税などを契機に食品値上げが続き、アベノミクスが国民生活を苦しめています。
「しんぶん赤旗」4月21日付
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
食品支出の指数(実質値)は2014・15年では100を切っている時期が多くなっており、食生活を削るような貧困化が進んでいることが分かります。安倍政権批判はまったく当然のことです。
ところが先の多賀谷克彦氏のコラムにアベノミクス批判はありません。家計の厳しさには触れつつも、むしろ小売りの側に問題の中心があるという主張です。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
家計の厳しさに加え、小売りの側にも問題はないか。そういう見方が広がりつつある。こういうときこそ、消費者が望む商品やサービスを提供しなければならない。でも果たして、それができているだろうか。
戦後、消費者の心をつかんだ画期的な商いが三つある。
ダイエーを創業した中内功氏の「価格破壊」、小売業に文化と芸術を融合させた堤清二氏のセゾングループ、小売業を社会インフラに変えた鈴木敏文氏のセブン・イレブンだ。だがそれ以降、小売業に大きな変革はない。
社会、消費者のニーズのありかは、おおよそ見えている。高齢化社会が求めている小売業、サービス業とは、どのようなものだろうか。また、たとえば、共働きの子育て世帯は、何を求めているのだろうか。
こうしたテーマに対する答えを見つけることができれば、社会は大きく変わる可能性がある。いまだに、それが見つからない。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
生活と社会のあり方を見つめ変えようという課題そのものは否定しませんが、政権・支配層が進めている強搾取=貧困化政策を放置して経済社会を良い方向に変えることはできません。多賀谷氏の言説は、生産と消費の矛盾を固定化したまま、そういう資本蓄積の制限を「克服」する新たな運動可能な形態を切り開こうとする姿勢の現れのように見えます。たとえば確かにかつての消費者信用の創出そのものが悪いわけではないでしょう。しかしそれがもっぱら低所得の解決を回避する手段とされるところでは、一方で労働者の債務奴隷状態を生み出し、他方で投機化の契機とされたように、資本の専制下で諸個人を抑圧し、経済社会を破壊する作用をもたらしたのです。ディーセントな生活と労働のあり方を実現するという課題、これは現代では資本の民主的規制と切り離せません。一般的に言えば、生産関係のあり方抜きに、(消費生活様式や産業構造などを含む大きな意味での)生産力のあり方だけを問題にするのは誤りです。それは、生産と消費の矛盾を始めとする資本蓄積の制限を直視するのでなく、それを回避して「克服」する手練手管を見出して、矛盾の潜在的累積とその後の大破綻を招くことになるでしょう。
以上では、金谷論文に学んで、「一つに結び合わされたものが独立化し、資本蓄積の制限に運動可能な形態を切り開き、それが撹乱の要因になりながら、強力的に再統一される」という観点Aと、資本主義経済を「内実と形態」あるいは「歴史貫通的なものと特殊歴史的なもの」という二側面から捉えるという観点Bとによりながら考えてきたつもりです。しかし両観点がまだらに混在し、さらに「資本主義一般と現代資本主義」とか「循環と構造」というような論点まで含めてしまったので、不分明な内容になってしまいました。少なくとも観点A・Bについては整理してみます。
観点Aは資本主義経済の動態を把握しその発展と矛盾を捉えるものです。観点Bは資本主義経済の体制原理であり、人類史上における存在根拠を示すものです。観点Aの核心は制限を突破しようとする資本の衝動であり、それは一方では巨大な生産力発展を通じて社会進歩を導き出しますが、他方では自然・人間・社会に破壊的に作用します。したがってそこで「突破される制限」も克服されるべきものと守られるべきものと二重に捉えられねばなりません。そこで少なくともディーセントな生活と労働のあり方は、明らかに守られるべき制限であり、観点Bにおける社会的内実・歴史貫通的なものとして資本主義的形態規定を規制し返し、その発展と矛盾をコントロールする前提・基盤であるべきです。それさえも克服されるべき制限とみなすのが新自由主義の規制緩和です。それはもはや人類史上における資本主義段階の存在理由を破棄するものであり、歴史貫通的な社会的内実の外皮として資本主義的形態規定がふさわしくないことを表わしています。
個人の尊厳・基本的人権と分断社会
基本的人権・立憲主義・民主主義の過去・現在・未来のアウトラインを的確にまとめることを通じて、戦争法廃止運動を始めとする昨今の人々の諸闘争の意義を、石川康宏氏が見事に総括しています(「『自己責任』論脱し 新しい可能性」「権利の保障 攻勢的に迫る」、「しんぶん赤旗」2016焦点・論点、4月22日付)。まずその歴史的評価について。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
戦争法反対から始まった「市民革命的」なたたかいが、国民の基本的人権の保障にまで運動の幅を広げています。「戦争か平和か」を入り口とした立憲主義の回復・実現という要求が、憲法の全面的な実施に広がりつつあると見ています。日本史上画期的なことです。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
さらに石川氏は、一連の運動が個人の尊厳の擁護を課題に掲げていることに言及しつつ、その運動の性格について「現実の深刻さに余儀なくされた怒りの表出だけでなく、憲法で保障された権利の実現を国に求める国民の主権者意識の高まりをもつという特徴をもっています」と指摘しています。「守りから攻めへ」ということです。憲法に規定された社会権と日本社会の実態がかけ離れている中で、権利の実現には自己責任論が克服されるべきという自覚も広がっていることが注目されています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
日本社会の実態はこれ(憲法上の社会権…刑部注)とかけ離れています。個人の尊厳を守る責任を負った政府がそれを放棄し、問題を国民の「自己責任」に解消する姿勢をもっているからです。いま急速に広がっている市民の運動は、ここに最大の問題があることを見抜いています。問題の根本を見抜く目を深めさせるところに、立憲主義を守れという運動の格別に大きな意義があると思います。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
石川氏はヨーロッパにおける基本的人権概念の誕生と運動によるその発展の歴史を振り返り、それと比較して日本での従来の遅れを指摘しつつ、現在の運動が「その制約を超える歴史的な意義をもっている」と評価しています。自己責任論を克服し憲法の全面実現を目指す攻勢的な運動の中に、日本の未来を見ているということでしょう。確かに、運動の高揚がそのような局面を切り開いてきた、というこの時点での評価は是非とも確認しておくべきだと思います。
ただしこれは日本社会における先進的部分を抽出しているとも言えます。確か宮本百合子は、社会進歩の程度はその最も遅れた部分で測るべきだ、という意味のことを述べていたと思います。これだけの悪政と反対運動の高まりとにもかかわらず、内閣支持率が4割を超える状況が続いていることも直視する必要があります。
神里達博氏は、人権を無視した過剰なバッシングが横行する日本社会のメカニズムについて以下のように述べています(「朝日」4月15日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
西洋中世史を専門とする阿部謹也はかつて、日本の本質は「世間」であって、「社会」ではないと看破した。世間は歴史的な秩序であり、この国を実質的に支配している原理だと彼は説く。そこには個人の観念はなく、おのおのの「地位」だけが存在する。また法や契約よりも贈与と返礼による「互酬」の原理が優越する。そして世間自体は、人為的に変えられない、外的条件と理解されている。一方で「社会」は明治の近代化によって輸入された外来概念であり、いわば「建前」の日本を支配するが、本当の意味で信じられているわけではない、というのだ。
明治以来、150年にわたって、近代国家を建設、運営してきた私たちであるが、もしかすると基礎が不安定のまま、高いビルを建設してしまったのかもしれない。そのような国は、少し強い風が吹くと、容易に揺らぐだろう。最近の過剰ともいえるバッシングは、もしかするとその兆候の一つではないだろうか。また、そうすることで私たちの社会は、本当に考えなければならない、より大きな問題から逃げてはいないか。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
これによれば、個人の尊厳を土台とした基本的人権の体系が日本社会(実は「世間」?)では「建前」に過ぎない、ということになります。
大阪市営地下鉄の河野英司運転士が、ひげを生やしていることでボーナスが下がるなどの影響があった、として損害賠償の訴えを起こしているそうです。大阪市交通局は、多くのお客様から「運転士のひげは不快だ。安心して乗車できない」という声を頂いている、と言っています(大野博人編集委員「日曜に想う」、「お客様は神様か?」、「朝日」4月17日付)。大野氏は以下のように感想をもらします。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
お客様って、どこまで「神様」扱いしなければならないのだろう。
「『お客様が剃れといっているのだから剃れ』は、あまりに『私』を消させようとする発想」と、河野さんの代理人である村田浩治弁護士(56)。
そもそも、運転士がひげを生やしているだけで「安心して乗車できない」というのはいったいどんな人だろう。その声が「多くの」というほど届くのだとしたら、そっちの方がひげの運転士よりもっと怖い。
もっとも、そんなお客様にしたところで、おそらく自らの職場では、今度は自分たちのお客様の僕(しもべ)になることを求められているだろう。四六時中どこでも、お客様でいられる人は多くはあるまい。
時と場所によって、神様になってふんぞり返ったり、僕になって懸命に服従したり。なかなか疲れる。それよりも、お互い「神様」役を演じるのをやめて、いつでも人間同士として接した方が気楽でいいと思うのだけれど。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
TPOによって「神と僕」になることで「人間同士」の関係が築けず、個人の尊厳が踏みにじられているわけです。先の「社会」ならぬ「世間」でも個人の尊厳が実現しないのですが、これは前近代的問題です。対して交替する「神と僕」は、利潤追求を至上とする資本主義経済での市場関係に生じる現象です(ただし特殊日本的現象かもしれない)。例はたまたま市営地下鉄だから公務員の問題なのですが、むしろ私企業においてより深刻に見られる現象でしょう。以上のように、現代日本社会において、個人の尊厳を始めとする基本的人権が毀損される原因は、この社会を重層的に構成する前近代性と資本主義的性格との双方に見出すことができます。それを克服するには、分断を乗り越え連帯を作り出す運動に多くの人々の参加を勝ち取っていくことが必要です。いきなり一人ひとりに向って、個人の尊厳が大事だから自立せよ、と言っても無理なので、それを実現できる社会を連帯して作っていく他ありません。克服すべき対象が歴史的重層的構成物であっても、現代を生きる諸個人の幸せの観点で一括して対処し未来を切り開いていくのです。
「朝日」の以上二つの記事はおおざっぱな啓蒙的問題提起であり、諸個人を抑圧する分断社会の様相をさらにシャ−プに捉えていかなければなりません。禿あや美・古賀光生・祐成保志・津田大介 司会・総括=井手英策・松沢裕作<座談会>「分断社会を乗り越えられるか」(『世界』4月号所収)は手ごたえのある分析を施しています。時間が足りないのでこの重要な座談会の内容をうまくまとめて生かしていくことができないのですが、いくつかの点を紹介して今後の参考に供したいと思います。
座談会の冒頭で「今日の日本社会が連帯を失い、いたるところに分断線が走っているという現状認識」を示し、「いくら勤労しても幸せな未来が描けず、『袋叩きの政治』と言えるような、悪者探しをして溜飲をさげる政治がはびこっているのではないか、そう問題提起をし」ています(148ページ)。
ここではまず典型的な例として、公営住宅をめぐる分断の創出と政府権限の増大という支配にとっての「好循環」を見ます。問題の根源を看過して課題設定を誤ると、とんでもないところに世論を落とし込まれてしまうことがよく分かります。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
公営住宅を増やすかというと、まったく増やさない。それどころか、本当は公営住宅に住まなくてもいい人が居座っているのではないかといった批判がつきまとう。各省が政策を自己点検する「行政事業レビュー」で、ある外部委員は「公営住宅には家計が楽になった人もいるが既得権を手放さない。彼らに出て行ってもらい、空いたところに本当に困った人が住めばよい。住宅を増やすよりそれが先決だ」と言ってのけました。
公営住宅の倍率が高い本当の理由は、私からみれば住宅市場の歪みです。ところが、あたかも現入居者と入居希望者の対立であるかのように語られる。このような、誰かを助けるとほかの誰かが排除されるような状況を、平山洋介さんの言葉を借りて、「陰鬱な椅子取りゲーム」と呼ぶことができるでしょう。
そもそも乏しい供給量に合わせて必要な人が誰かを絞り込んでいくと、入居できるカテゴリーは、あるときは低所得者、あるいは高齢者、母子世帯、障がい者というように、どうしても恣意的な区分けになり、政府の裁量が強化されます。小さな政府、大きな政府とよく言いますが、大事なことは政府の大小ではなく、政府が人の生き方に干渉するかどうかです。つまり、政府の大/小という軸と、干渉的/非干渉的という軸がある。いちばん避けたいのは小さくて干渉的、ケチなくせにもったいぶる政府ですが、それが公営住宅問題に如実にあらわれています。 150・151ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
「既得権」「本当に困った人」といった分断攻撃でおなじみのキーワードがしっかり出ています。「陰鬱な椅子取りゲーム」も多くの分断攻撃を理解する鍵で、「そもそももっと椅子を増やせよ」という反撃で打開すべきものです。
座談会では、分断攻撃が盛んになる背景として、経済成長の鈍化・社会保障の未整備(=自己責任社会)・労働と苦痛・想像力の欠如といったものが挙げられています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
日本人は、自分で働き、蓄え、備える社会、家も老後も子育ても、自分で何とかする社会をつくってきました。所得の低下は、それらを一斉に難しくします。社会化すべきだけど、所得が減って税が払えず、必要なときに社会化ができずに行き詰まるという問題に直面しています。働き者のアリが働けなくなれば終わりという状況に近い。 154ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
「日本は働くことが前提の社会」だけれども「働くことは苦痛でしかないように見え」、「働かないで生活保護をもらっている人は許せないといった情緒が支配的」であり、「いまの日本の分断状況の基礎には、自分がどれだけ苦痛であるかの競争、不幸自慢のようなものが、原理的な問題として横たわっています」(152ページ)。
これは日本社会の現状の雰囲気をよく説明しています。しかし厳しい社会状況だからといって必ずしも不幸自慢の競争で分断に陥るとは限りません。なぜなら、病気・交通事故・リストラなどにあって「いつ自分たちが転落してもおかしくないと不安に思うなら、本当は他者を叩けないはずです」から(153ページ)。しかし「自分は備えているから困らないという成功の記憶に分断の萌芽を見てとれます」(154ページ)。自分が弱者になる可能性を想像する力がそのように欠如しているところでは「他者の立場や思いを見えなくするから、社会が正義を失うことにつなが」ります(153ページ)。
以上からは、日本社会を社会保障の充実した連帯社会に作り変え、不毛な不幸競争の分断社会を克服していく課題が浮かび上がってきます。分断か連帯かをめぐって、社会のあり方と諸個人の性向とがそれぞれ対応しています。分断的社会と分断的諸個人、連帯的社会と連帯的諸個人。社会が先か個人が先か。現状は分断的社会と分断的諸個人であり、分断的社会の惨状が先進的諸個人に連帯志向を芽生えさせ、なお多数派の分断的諸個人への働きかけが強まりつつあります。戦争法廃止の運動などでの幅広い共闘の経験において、連帯的社会の萌芽が生まれています。そして政権交代の実績などを通じて、連帯的諸個人が多数派となったとき、連帯的社会への移行が進みます。
ここまで主に特殊日本的事情を見てきましたが、ヨーロッパでも想像力の衰退と分断的状況は存在しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
ヨーロッパでも想像力は少しずつ衰えてきたと言われています。ウルリッヒ・ベックによれば、ヨーロッパでは失業や厳しい経済環境は個人ではなく社会の問題なのだから、階級的に負担をシェアすべきだと六〇年代ごろまでは何とか信じられていた。階級的連帯、あるいは人びとが個人の問題ではなく社会の問題だと想像するために必要な共通の経験を生み出す基盤が、工業社会では厚かった。でも、産業のサービス化が進み、選択の自由の余地が増えると、逆に自己責任、自由選択の結果だという言説が強まる。就業機会や社会的な立場が細分化されていけばいくほど、自分と同じ選択をしてきた人が少なくなりますよね。そういったポスト工業社会における変化が、階級的連帯を難しくしたとベックは指摘します。 155ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
これはよく言われることであり、座談会ではヨーロッパの事情についてさらに展開されていますがひとまずこれで措きます。
日本型労働における地域生活の困難性から福祉と連帯の基盤喪失が生じていることを最後に紹介します。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
さらに問題を深刻にしているのは、「生活」のイメージがあやふやなことです。正社員の包括的無定量制により、地域に根差して子育てしながら、ほどほどに働き、家事をし、育児して生きていくことができません。すべてを会社に捧げないと正社員ではないという基準が強いのです。そうした働き方は妻が専業主婦でなければ無理です。その限界が明らかになったのが、やはり九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけてです。
本来、子育てや介護には地域が非常に大事なのですが、包括無定量制に縛られた日本の正社員は、エリートになればなるほど転居、転勤が当たり前で、地域に根差して働き、生活することができない。かつては地域活動を担ってきた専業主婦も、夫の給与所得が下がる中で働きに出るので活動を担えない。正社員の夫も転勤でいない。子どもも中学受験のために地域から遠ざかる。こうして九〇年代後半から二〇〇〇年代に、福祉を供給し、支える地域基盤が失われました。 157ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
さらに「所得格差だけではないんですね。地域で働き、生活していくことが難しくなっていくと、地域内での価値の共有や共通の経験を持つことが難しくなる」(同前)とか「正社員が何でもありの世界になっていくことを法律が後押しした。地域の問題が大事で、コミュニティをどうつくっていくかが盛んに議論されている中で、労働の中ではそれと逆向きの動きが起きていた。ますます地域から遠ざかる働き方しか正社員はできない、それが無理ならみんな非正社員で諦めろとなってしまった」(157・158ページ)という指摘が続きます。
座談会では他にも重要な議論がありますがこのくらいにしておきます。ほとんど引用だけに終わり分析と考察を欠きましたが、個人の尊厳に立脚して基本的人権の実現を目指す今日の政治・社会運動の先進性を確認した後に、それが克服すべき分断社会の正体を解明するのに少しでも役立てれば幸いです。
2016年4月30日
2016年6月号
新自由主義的資本蓄積の克服とサービス産業の課題
長い引用となりますが、飯盛信男氏による以下のような日本資本主義の現状と課題についての認識ならびに分析課題の提示に共感します(「日本経済長期停滞のなかのサービス産業拡大 非正規雇用増大と公共サービスの産業化」、139ページ)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
日本経済はすでに巨大な生産力をもつ成熟段階に達しており、成長優先策は過剰生産・失業と非正規雇用増加、賃金低下をもたらしている。成長至上主義から脱却し健康・文化・環境など国民生活の質向上に重点を置くべきであり、これによって安定雇用と内需が拡大され経済社会の安定がもたらされる。物質的生産力が十分に高まった段階以降には、人間そのものの成長が自己目的となる真の人間的な社会が始まるというのが、マルクスの未来社会論である。人間それじたいの成長を担うのはサービス部門であるが、現実にはそれは、低賃金・不安定雇用の拡大と営利追求の手段へと転化されている。『経済』誌でも、医療福祉の産業化、社会教育の民営化、学習塾・外食チェーンでのブラックバイト、カジノ合法化などが個別に論じられてきた。小論の課題は、サービス部門のなかで生じている諸問題を、非正規・低賃金雇用拡大、民間産業化を中心に、日本経済の全体像と転換のなかに位置づけて検討することである。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
今日の日本資本主義のかなり重い長期停滞状況は成熟化と貧困化の両面から捉えるべきでしょう。貧困化は特殊資本主義的要因であり、その生産関係がもたらしたものであるのに対して、成熟化は資本主義的生産力発展がもたらしたものではあっても、その意義は特殊資本主義的性格だけに解消しえない人類史的性格における歴史的達成として普遍的意義をもって評価しえます。この歴史的達成を生かす道として、資本主義的生産関係を廃棄して、「人間そのものの成長が自己目的となる真の人間的な社会」である共産主義社会を実現するのが「マルクスの未来社会論」でしょう。しかし残念ながら諸般の事情からそのような生産関係の全面的変革を実現しうる状況にない現在、資本主義の枠内であっても、資本への民主的規制を通じて貧困化を抑制し成熟化の成果を生かす方向を探る必要があります。マルクスにとっては、資本主義段階における様々な改良は労働者階級のより良き生存にぜひ必要なものと考えられたでしょう。しかしそれはあくまで当面する日常的戦術的課題であって、革命による資本主義経済そのものの止揚を戦略的課題として現実的に追求していたマルクスにとって、資本主義国民経済そのもののマネジメントを戦略的課題とすることはなかったでしょう。現代はそういう意味では、後退した課題設定に甘んじざるをえないと言えますが、新しい困難な課題に挑戦しながら別様の道をたどって「未来社会」に向かう途上であるとも表現しえます。そのような展望を見据えた上で、サービス産業が抱える困難な諸問題をそれぞれ個別的に捉えるにとどまらず、「日本経済の全体像と転換のなかに位置づけて検討する」ことは意義深いと思います。
「未来社会」が自由時間の増大を土台とした「自由の王国」であることを指摘した後、下記のように、飯盛論文は新自由主義時代の性格付けとその克服過程におけるサービス産業の意義を認めます。論文はその観点からサービス産業の現状を批判するのが目的であると宣言しています。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
新自由主義の潮流は工業生産能力過剰化のなかで巨大グローバル企業の成長と支配を続けるために登場したのであり、それに対抗して成長至上主義から脱却し健康・文化・環境など生活と社会の質の向上を達成することが人間そのものの成長を目的とする「自由の王国」の実現であり、それを担うのはサービス部門の拡充である。小論の目的はその実現を担うべきサービス部門が搾取の強化と営利追求の手段へと転化されていることへの批判である。 141ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
このようにサービス産業の歴史的位置づけにおける積極的意義にもかかわらず、新自由主義的資本蓄積下の現実はそれに背いています。その問題について、全産業内におけるサービス産業の伸長の確認とサービス産業内の分野別の分析とに基づいて次のように指摘されます。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
1990年代以降雇用が拡大したのはサービス産業のみであるが、そのなかでも最大の伸びをたどったのは人件費抑制に貢献する代行型対企業サービスと医療福祉介護の分野である。前者は、その役割が業務代行によるコスト削減にあることから低賃金・不安定雇用が中心となるのであり、後者は、新自由主義への転換・公財政支出抑制のなかで低賃金と不安定雇用が増加してきた。90年代以降わが国でのサービス産業の急成長は、人件費抑制による利潤確保という資本蓄積様式を支えるものとなってきた。 145ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
このような現状を批判して、政策転換を促す結論が次のように下されます。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
公共サービスの国民収奪機構への転換、民間サービス産業での大量の低賃金不安定雇用をテコとした人件費圧縮が政府・財界の重要な戦略となっている。巨大企業と高額所得層への課税強化・所得再分配強化をとおしての公共サービスの充実、民間サービス産業での労働条件改善をとおして、サービス部門を生活と社会の質の向上、人間そのものの成長に貢献する部門へと転換させることが課題となっている。 153ページ
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
この転換において、低賃金・低生産性の克服を重視して、「サービス産業の生産性向上のためには人件費削減貢献型の低生産性代行型対企業サービスではなく、高度な専門的・技術的対企業サービスのウェイトを高めるべきである」(150ページ)と提言されます。それはもちろん妥当な方向なのですが、低賃金と低生産性とを同一次元で等置しているように見える点に若干の疑問を感じます。明示されているわけではありませんが、<単純労働=低賃金=低生産性>、<複雑労働=高賃金=高生産性>という図式があって、前者から後者への転換をもって、サービス産業における労働内容の高度化が産業の性格の高度化に結びつき、その中で賃金も改善される、という構図が描かれているようです。これはどちらかというと生産力視点であり、生産関係視点が後景に退いているように見えます。もちろん飯盛氏は生産関係を軽視しているわけではなく、搾取強化を批判していますが、その見地を一貫するためには、低賃金と低生産性とを安易に等置するのでなく、両者の次元の相違に意識的であるべきだと思います。
<単純労働=低賃金=低生産性>、<複雑労働=高賃金=高生産性>という図式は労働の価値形成力に着目した商品=貨幣関係次元の論理から導かれます。それを前提としつつも、資本=賃労働関係次元では、労働の複雑度を打ち消すように賃金低下圧力がかかります。今日では非正規労働の跋扈で、単純労働では労働力の価値以下の賃金が横行しており、正規労働者の賃金もつられて下落しています。飯盛氏の上記提言に反して、サービス産業に対して「政府が選んだのは質の向上ではなく効率化で」した(150ページ)。政府・財界が推進するこの効率化は「サービス産業を支えている零細経営の淘汰、失業増加をもたらすこと」になります(151ページ)。現状の労資関係下でこの「効率化=高生産性」が作用すれば、先の図式は<単純労働=低賃金=高生産性>、<複雑労働=低賃金=高生産性>に変質する可能性があります。労働が生み出す価値と労働力の価値とは別であるというのが剰余価値論のイロハであり、しかも労働力の価値としての賃金さえもが成立しえないのが当たり前に見られる状況では、厳しい労資の力関係を含めるならば、産業構造の変動=高度化で「低賃金=低生産性」が「高賃金=高生産性」に移行すると簡単には言えません。
上記は直接的生産過程での論理ですが、商品価値が実現する流通過程の論理も考慮する必要があります。生産性というのは本来、生産過程の問題ですが、政府統計を利用して議論する場合は事実上、実現問題を含みます。論文に「2013年、サービス業の就業者数に占める比率は40%、GDPでの比率は27%であるから、その労働生産性は全産業の68%である(国民経済計算年報、サービス業は飲食業含む)」(150ページ)とあるように、ここでの生産性は投下労働あたりの使用価値量ではなく、付加価値生産性です。したがってそこには、直接的生産過程における生産効率だけでなく、流通過程で成立する価格が影響します。グローバリゼーションや下請け構造あるいは消費不況などにより絶え間なく働く価格下落圧力によって中小零細経営の「生産性」は恒常的に低下を余儀なくされています。現状の低生産性はこの問題を含むことに留意しなければなりません。ここに政府流の「効率化」を貫徹すれば、低価格のままに低コストによる「高生産性」追求に追い込まれることは必至です。このような実現問題を隠し、直接的生産過程における強搾取から目をそらすため、グローバル資本や政府は労働者と中小零細経営とを「低生産性」と非難し、さらなる搾取強化と淘汰路線の正当化を図っているというべきです。なお目指すべき「高度な専門的・技術的対企業サービス」について、必ずしも手放しに称揚するわけにはいかない点があることについては拙文「グローバリゼーション下のサービス産業」(「『経済』2014年11月号の感想」所収)を参照してください。
飯盛論文の主眼が、サービス産業に見られる新自由主義的資本蓄積の強搾取などに対する批判であり、そこに生産関係視点が貫かれていることは明白です。それに加えて、サービス産業の高度化という主に生産力視点での課題を論じる場合にも適切に生産関係視点を含める論理を拙文は提起しました。
人権と生活の擁護―社会変革の開拓
不合理で荒唐無稽なものが存在しているとしても、現にある以上はそれなりに存在する根拠があります。それを把握せずにただ批判するだけでは、その存在を克服することはできません。悪政をほしいままにしているだけでなく、その当然の結果として主要政策への支持を失いつつある安倍政権の支持率がいまだに4割以上もある、ということもその理由を説明すべき重要な変事です。しかしもっとすごいのが、暴言連発とデタラメな政策にもかかわらず大きな支持を集め、共和党の大統領候補となろうとしている富豪ドナルド・トランプ氏です。これについて、かつて鋭い橋下徹批判で注目された想田和弘氏がなかなかうまい比喩で説明しています。トランプ人気は、「エスタブリッシュメント」、日本語では「既得権益」をぶっ潰してくれるだろうという期待から生じていると指摘して、以下のように展開します(「思考のプリズム 米大統領選・トランプ現象 破壊願望、民主主義の毒」、「朝日」夕刊、5月18日付)。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
彼は大富豪なので選挙資金を自分でまかない、業界団体からヒモ付きのカネを受け取っていないらしい。だから「しがらみ」がなく、思い切って「改革」できるはずだ……。こういう理屈は、トランプ支持者からよく聞かれる。要は既成政治の「破壊者」として待望されているのである。小泉純一郎氏や橋下徹氏に熱狂した少し前の日本と、面白いように重なるではないか。
期待された役割が「破壊者」であるならば、彼が政治的自殺行為をいくらしても、支持率が下がらず逆に上がるのも頷(うなず)ける。彼の振る舞いや問題発言が醜悪であればあるほど、破壊者としての期待値が高まるのは当然の理だからである。トランプ氏の支持者たちは、氏に一票を投じることで、彼の破壊行動に参加しているのであろう。
それを学級に例えるなら、問題行動で授業をめちゃくちゃにする子どもに、かなりの数の子どもが拍手喝采し、同調するような状況だ。授業を壊して喜ぶ子どもたちは、それが自分たちの不利益になることには気づかない。とにかく目の前の「嫌な授業」が消えれば満足なのである。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
もちろん想田氏はこの「授業」そのものに問題がある、としてアメリカ社会の現状を批判しつつも、トランプ現象のような民主主義破壊の毒への一般的警戒を結論とします。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
いずれにせよ「トランプ現象」が示しているのは、デモクラシーの根源的な難しさだ。民主社会で権力者は「民意」に基づいて選ばれるが、ナチス政権が選挙で誕生したように、民意が破滅的なまでに間違っていることがある。そのことを僕は近年の日本で思い知らされているが、やはり怒りや破壊願望を持ち込むことは、デモクラシーには猛毒でしかないのである。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
こうした文脈に照らすと、「理性、判断力はゆっくり歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」という ルソーの言葉は、衆愚の拙速を排して、一人ひとりがじっくり考えることで、民主主義を守るべきだという警句として捉えられます。その警句は正しいとしても、そうした啓蒙によって事態が解決する状況ではありません。民主社会の主権者の政治的成熟が大切なのは言うまでもないのですが、新自由主義グローバリゼーション下では、生活・労働破壊が急速で、そうした成熟を醸成する余裕を失う中で、閉塞感・不公平感・鬱憤を分析的に解決するのでなく、現状を破壊することで溜飲を下げようという感情が拡大していきます。こうして、いい大人たちが「自分たちの不利益になることには気づかずに授業を壊して喜ぶ子どもたち」と同様な政治的幼児と成り果てていきます。
この状況に対抗して、「人権・民主主義を尊重する政治的成熟の醸成」と「(経済面を中心に)閉塞した社会の進歩的で具体的な変革」とが車の両輪として進むことが必要です。特に後者は身の回りの状況の改善という目に見える形にすることが大切です。それによって生活実感に浸透し、民主政治の中で破壊によらない建設的方向があることが了解されることを通じて、政治的成熟の醸成にも資することでしょう。
そうした観点から注目されるのが、5月5日投票されたイギリスの統一地方選挙で、ロンドン市長に人権派弁護士でパキスタン系ムスリムのサディク・カーン氏が当選したことです。保守党陣営は、欧州を席巻する反イスラム感情を追い風に、カーン氏を「イスラム過激派」になぞらえるネガティブキャンペーンを展開しましたが、カーン氏が約131万票を獲得し、約99万4千票のゴールドスミス氏(保守党)に圧勝しました。投票率は46%で、前回12年を8ポイント上回り、関心の高さを示しました。これについて「朝日」デジタル版(5月18日付)は以下のように論評します。
---- ---- ---- ---- ┬┬ ---- ---- ---- ----
なぜカーン氏は勝てたのか。
背景には、ロンドンという街が培ってきた「多様性」がある。
これまで、旧植民地や欧州連合(EU)加盟国から多くの移民を受け入れてきた。11年国勢調査によると、人口817万人(当時)のうち約37%が英国外生まれだ。「英国籍の白人」は約45%にとどまる。イスラム教徒も100万人以上で人口の12.4%を占める。
カーン氏自身が、そんなロンドンの多様性を体現する存在だ。地元のモスク(イスラム教の礼拝所)に通い、戒律に従って酒は飲まない一方、イスラム教が認めない同性婚を支持するリベラルさを併せ持つ。カーン氏は英誌に「私たちはみんな、複合的なアイデンティティーを持つ。信仰は私の一面にすぎない」「私はロンドン市民で英国人、イングランド人、パキスタン系アジア人、父親で夫。(サッカークラブの)リバプールファン、労働党員、そしてイスラム教徒だ」と語った。
ロンドンでは伝統的に労働党が強いことや、庶民目線の行政手腕が期待された面もある。
保守党陣営の戦術は、党内からも「市民の分断をあおる」と批判が噴出。ゴールドスミス氏の支持離れを招いた。カーン氏は当選後、「市民が恐怖より希望を、分断より団結を選んだことを誇りに思う」と語った。
ロンドン大学経済政治学院のトニー・トラバース教授(政治学)は「マイノリティー出身の市長を嫌ってカーン氏に投票しなかった人がいた一方で、ロンドンが民族や信仰に寛容な都市である象徴として、あえて投票した人もいたのではないか。ロンドン市民もテロを懸念しているが、市長を選ぶ判断には影響しなかったということだろう」と分析する。
---- ---- ---- ---- ┴┴ ---- ---- ---- ----
たまたま私は5月7日に「東海地域ホームレス・生活保護研究会」に参加して、名古屋市北区における「子ども食堂」の実践報告に続いて、「イギリスの実践に学ぶ住まいの貧困対策―調査報告―」と題した現地調査団からの報告を拝聴していました。その中で、「ロンドンでは住宅価格や家賃がべらぼうに高くて普通の人が住めなくなっている。消防隊員が通勤に2時間もかかるようなところに住んでおり、大災害があったらどうするんだ」という状態だと聞きました。
翌朝の新聞でロンドン市長選挙の結果を知り、そこで住宅問題が重要争点だと報じられていました。保守党の偏見扇動戦術に対して、市民に切実な問題の改善を訴えたことも勝利の要因でした。おそらく不断からの地道な要求実現運動が地域社会に根づいているのでしょう。不満の具体的な解決方法を探ることができるなら、偏見による現状破壊の爽快感を求めるような愚を犯す必要はありません。こうして「ゆっくり歩く理性・判断力」が喚起され、恐怖・偏見・分断を煽る支配層のいつものやり方を打破し、寛容・多様性・団結を意識的に選択する動向を生んだと言えます。このように見てくると、支配層の恐怖・偏見・分断の扇動に対抗して、人権=民主主義擁護と生活=労働改善とを車の両輪として相乗効果を発揮させ、先進的な団結によって政治的勝利に導く、というのがそれなりの普遍性を持っていると思われます。
余談になりますが、イスラム教徒の入国禁止を提唱するトランプ氏はカーン新ロンドン市長を「例外」にすると提案しましたが、カーン氏は「私だけの問題ではない」と即座に拒否しました。その上で「トランプ氏は西欧のリベラルな価値観と、イスラム教(の教え)の主流は相いれないと考えるが、ロンドンがそれは間違いであることを証明した」と強調しました(「しんぶん赤旗」5月12日付)。姑息な卑劣漢ときわめて自覚的なデモクラットとのこの落差。人間としての格が喜劇的なまでにまったく違います。同様の印象は菅官房長官と翁長知事との対談に際しても抱いたものです。人民の多様性を前にして、そこに上から分断を持ち込む者と下から団結を築こうとする者とでは社会形成への貢献が正反対であるのみならず、両者の人間性自体も対照的であることは当然と言えば当然であろうと思います。ここでは社会進歩の大道とは何であるか、を具体的な人格を通して見通すことができます。
トランプ氏同様の愚劣漢として、さっそく橋下徹氏が本領を発揮しています。20歳の女性が米軍属の元海兵隊員によって襲われ殺害され、遺体が沖縄県恩納村で5月19日に発見されました。かつて橋下氏は2013年に、旧日本軍による「慰安婦制度は必要だった」と持論を展開し、さらに沖縄の米軍普天間基地を視察した際に司令官に、米兵による性犯罪抑止策として「もっと日本の風俗業を活用してほしい」と勧めて、世界中から厳しい批判を受け謝罪に追い込まれました。ところが今回の悲報に際して、当時の風俗活用発言を撤回しなければよかったとツイッターで開き直っており、おおさか維新の会の松井代表も同調しています。「基地があるがゆえに米軍による犯罪・事件が続いてきた沖縄の歴史を無視し、女性を男性の性欲を処理する対象として捉える橋下氏と、おおさか維新の会の主張は、女性はもちろん男性をもおとしめるものです。/基地撤去こそ米兵犯罪をなくす最も有効な解決策という声に背を向け、沖縄での米軍新基地建設に固執する安倍政権。米兵犯罪の本質から目をそらさせようとする点で、おおさか維新の会は、やはり安倍政権の危険な補完勢力です。異常な人権感覚を恥じない、おおさか維新の会に、改憲勢力として期待を寄せる安倍首相の姿勢もまた問われます」という「しんぶん赤旗」(5月25日付)の見解は当たり前すぎるものですが、今なお橋下氏に人気があるという現実は、日本社会の闇の深さを現わしており、それもまた安倍政権の高支持率の一端を担うものであろうかと思います。
閑話休題。トランプ氏に対して共和党主流派は反対しています。確かにさすがに彼らはトランプ氏に比べれば最低限の良識は維持して、人権と民主主義の徹底的破壊は躊躇しているということは言えます。しかしそれは同時にトランプ氏の訴えの中で、ウォール街批判とかTPP反対とかの人民の利益を反映した部分を共和党主流派は許さない、という意味でもあります。つまり彼らのトランプ批判の主眼はあくまで人民の願いを打ち砕くことにあり、それを正当化するために最低限の良識を発揮しているだけです。このタイプの議論では、トランプ氏もサンダース氏も十把一からげで非難することになり、エスタブリッシュメントの既得権益擁護という「原点」の死守に留まり、人々の閉塞感・不公平感を高めるだけです。これでは民主主義破壊の願望を高進させるがままになるでしょう。したがってこうした議論は、破壊的ポピュリズムへの批判で一致できる点については肯定的に評価しても良いですが、その良識ぶりはあくまで部分的であり、支配層の利益を守るために社会的諸矛盾を放置し問題を拡大していることをきちんと押さえるべきです。
このような支配層のものを含めて、トランプ現象のような混乱の中で、様々な言動が錯綜します。そこではマスコミの論調、支配層の意向・対策、人民の意識と政治動向などをどう整理して理解するか、が問題となります。まず社会的混乱と民主主義の危機を引き起こしている問題の本質的構造を押さえ、次いでそこに発生しているポピュリズムとそれへの批判とがいかなる内容を持っているかを分析する必要があります(以下、ポピュリズムという言葉は「人気取り」、「大衆迎合」というような悪い意味で使います)。
現代社会に蔓延する閉塞感・不公平感・鬱憤を生み出している土台は、資本主義経済の停滞と格差・貧困の拡大です。これは新自由主義的資本蓄積と(それに基づきそれを促進する)経済政策との結果です。新自由主義は労働者の生存権や社会の安定を破壊してもグローバル資本の利益を守るイデオロギーであり、今日の支配層の基本的戦略となっています。その結果として人々の生活と労働が破壊され、社会が不安定化し閉塞感等が蔓延し、その中から人々の「既得権益」批判が沸き起こってきます。しかしそこで何を持って「既得権益」と捉えられているかが問題です。
問題を見えにくくしている要素として、新自由主義そのものが「既得権益」批判の構造改革として現れてきたことが挙げられます。日本ではバブル崩壊後の1990年代以降、構造改革が錦の御旗としてマスコミを席巻し、それに反対する者は押しなべて守旧派のレッテルを張られ政治的に失速する事態となりました。構造改革の対象は一面では(日本では公共事業偏重など特殊に発達した)土建国家であり、他面では(人民の運動の成果として不十分ながらも存在した)福祉国家です。財界の主流がグローバル資本になって、旧来の土建国家の財政負担が邪魔になり、小さな政府の立場からその政官財癒着構造という既得権益を批判するという一面の「正義」を獲得した余波で、福祉バラマキ批判(これも既得権益批判として喧伝された)を展開し、わずかながらの福祉国家さえリストラしてきました。
さらに日本資本主義の蓄積構造にとって、最も重要なのは、労働法制の改悪を強行し、非正規雇用をどんどん拡大して、今日の異常な強搾取構造を確立してきたことであり、これも新自由主義構造改革の「成果」です。これが格差・貧困拡大の直接の原因であり、福祉切り捨てとあいまって、人々の生活・労働の困難を未曾有の状態に追いやってきました。ところがここで留意すべきは、正規雇用労働者の当たり前の権利さえもが「既得権益」として非難の対象とされたことであり、これは明らかにスケープゴートを仕立て上げることによって、雇用の不安定化による搾取強化という問題の本質を隠蔽するものです。
これらから当然に生じる閉塞感・不公平感・鬱憤が、問題の根本たるグローバル資本の既得権益に向けられるのをそらすため、土建国家・福祉国家批判という大筋だけでなく、正規雇用労働者批判の他にも公務員や生活保護などへのバッシングという見えやすい「既得権益」批判としてきわめて大々的に喧伝され世論をミスリードしました。これらは基本的人権への攻撃を含むため、今日に至るまで民主主義の危機として展開されています。
閉塞的社会状況を打ち破るためには、新自由主義的資本蓄積を推進するグローバル資本の既得権益こそ批判しなければなりませんが、それが見えないところでは、生活・労働の苦難がいつまでも続く中で、憲法・人権・民主主義といったものが、弱肉強食の競争という現実に合わない、紙の上だけの空約束とか偽善に見えるという転倒が起きます。自分はそれらによって何も守られていないのに、公務員とか生活保護受給者などはそこから不当な利益を得ている、というわけです。自分にとって役に立たず偽善的な人権・民主主義が一部の他人の既得権益を守るものと映るのに対して、困難な自分への慰謝としてナショナリズムに帰依することも広範に起こっています。
新自由主義グローバリゼーション下での経済・政治・イデオロギーの基本的構造とそこで隠蔽される本質と表面に浮かんでくる現象とを以上のように捉えました。批判されるべき既得権益はグローバル資本のそれであるにもかかわらず、現象的には近くに見えやすい正規雇用労働者・公務員・生活保護受給者さらには「役立たずで偽善的な」人権や民主主義を擁護する人々などが「既得権益」の「受益者」としてバッシングの対象となりました。この基本的構造の本質と現象の中にポピュリズムとポピュリズム批判を位置づけてみます。
トランプ・橋下等に典型的な、今日の政治的危機を先導する政治ポピュリズムとしての人権・民主主義攻撃がまずあります。これを支配層は一方では掌中において利用しつつ、他方ではそこからこぼれ落ちて政治危機が爆発しないように適当に批判したりします。支配層にしてみれば、彼らの新自由主義的政策そのものが一定の人権・民主主義攻撃に他ならないのですが、ポピュリストの暴走によって制御が難しくなるのは避けたいところです。当然ながら、リベラル(市民主義や社会民主主義など)や左派(共産主義など)はそれぞれのやり方で政治ポピュリズム批判を展開します。ということで、様々な立場で政治ポピュリズム批判があります。
政治ポピュリズムは新自由主義政策の結果=あだ花であり、その根源としての経済問題を見る必要があります。日本で分かりやすい試金石として消費税増税にどういう態度を取るかということを挙げることができます。増税反対にはポピュリズムという攻撃が加えられます。社会保障の財源をどうするのか、などと言われますが、そこでは消費税以外の財源が検討されず、財政の歳入・歳出構造を抜本的に変えるという発想がありません。それは法人減税などに見られるグローバル資本の既得権益を護っているからです。したがって消費増税反対は何らポピュリズムではなく責任ある政策として成立しています。しかし世上、そういったポピュリズム攻撃はありますので、それをカッコ付きで、支配層による経済「ポピュリズム」批判と呼ぶことにします。
このように分析することで、ポピュリズムは悪であり、ポピュリズム批判は良識である、という雑駁な印象を駆逐することができます。政治ポピュリズムには必要な批判を加え必ず克服して、現下の民主主義の危機を回避しなければなりません。逆に経済「ポピュリズム」批判に対しては、その既得権益擁護の姿勢を暴露し、それこそが今日の社会的閉塞状況を招いて、政治ポピュリズム発生の温床を作り出していることまで批判する必要があります(ポピュリズムとポピュリズム批判についてのより詳しい説明は拙文「民主主義の劣化とマスコミの役割」/「『経済』2016年4月号の感想」所収/参照)。
このように社会変革の運動は、経済「ポピュリズム」批判への反批判と政治ポピュリズム批判という二重の課題を背負っていると言えます。その観点からも、私見によれば先述のロンドン市長選挙の教訓と思われる「生活=労働改善と人権=民主主義擁護とを車の両輪として相乗効果を発揮させ、先進的な団結によって政治的勝利に導く」という方向が採られるべきではないでしょうか。
今日、安倍政権による生活破壊・立憲主義破壊などによって、必然的に各地・各分野でほうはいとして様々な「一点共闘」が起こり、さらには「個人の尊厳」を基軸に政権打倒に向けて大同団結の方向に向かっています。その旗印として日本国憲法を立てることができます。そこには自由権と社会権、政治的権利と経済的権利などが総括的に提示され、「憲法を暮らしに生かす」(蜷川京都民主府政のスローガン)ならば生活・労働を守るものとしての人権・民主主義の重要性を実感できるはずです。格差・貧困の拡大の中、学習支援や子ども食堂などが各地で取り組まれるようになっています。これらは生活に根づいて地域社会を変えていく底堅い運動であり、生活擁護であるとともに民主主義の学校の役割をも果たしています。こうして浮ついたポピュリズムが入り込む余地のない社会をつくっていくことが大切であり、世界経済・国民経済・地域経済でのグローバル資本への規制や新自由主義政策の克服と並んで重要課題です。
ところで日本の現段階として「橋下徹現象」を見ると、公務員バッシング・生活保護バッシングに加え、労組攻撃・思想調査・女性蔑視など相当にひどい人権・民主主義攻撃を伴う政治ポピュリズムでありながら、現状打破ということで喝采を浴び、今なお社会的に葬られていません。しかも重要なのは経済問題では人々に「覚悟」を迫ると言い、大企業優遇・福祉切り捨て政治を公然と推進してきたことです。つまり経済ポピュリズムらしいことを言わなくても人気を獲得してきたという点が看過できません。このようなものが成立し得る日本社会の要因を考えてみる必要があります。そこまで政治的後進性がひどいのか。経済的困難に忍耐強いからか。悪政をやり過ごすことには慣れてきたから、政治の実質はともかく「面白そうなこと」さえあればいいのか。悪い社会状況を前にして、ああでもない、こうでもないと貧しい頭をひねっているより、身の回りで実になる社会実践に参加して良い社会状況を作り出していく方がマシかと思ってしまいますが…。
共産党は野党共闘のアキレス腱?
参議院選挙(衆参ダブル選挙?)に向けて、自民党から野党共闘への「野合」攻撃が激化するのが目に見えているので、あえて誤解を招くような表題を掲げてでも、考えておくべきことがあるだろうと思いました。
「野合」攻撃は基本政策の違いに向けられ、その中でも安保政策に集中するでしょう。共産党は他の野党とは違って日米安保条約・自衛隊に反対しています。これは確かに根本的に政策が違います。しかも世論の多数派はそれらを肯定しているのだから、自民党から見れば、共産党こそが野党共闘のアキレス腱であり、攻撃を集中するのは当然です。野党共闘の推進力が共産党であり、政策的一致の追求と政策の確固性の保障も共産党あればこそなので(民進党の頼りなさは衆目の一致するところ)、なおさらそれをたたくのは常道でしょう。
そういう構図をまずしっかり把握し、正面から撃退しなければなりません。言わずもがなですが、まずは戦争法廃止で立憲主義を回復するという野党共闘の大義は、基本政策の違いを脇においても実現すべき緊急で重大な課題であることを世論に対して普及すべきです。次いで経済課題も含めて野党間で多くの政策的一致点があり、すでに国会でも共同提案の実績を上げていることも、野党共闘とは意外に堅実で現実的なのだ、と人々に印象付けることになるでしょう。
そして共産党にとって大切なのは、野党間の一致点を堅持する姿勢を前提としつつも、党独自の政策を積極的に語っていくことでしょう。特に安保と自衛隊に反対する意味を明らかにすることが重要です。それでこそこれから真の平和を実現できるし、これまでカッコつきの「平和」ではあったけれども、それを維持できたのは、憲法を掲げて安保・自衛隊に反対する確固たる勢力が存在し、対米従属の改憲派と対峙してきたからだ、ということを伝えていくことが必要です。
いまだに安倍政権と自民党の支持率が高い一つの原因は、「軍事的抑止力による平和」という考え方が世論の大方の前提になっており、中国・北朝鮮の脅威に対する備えが必要という理屈が容易に通用する現状であることにあります。軍事的抑止力論は、戦争法反対でも安保・自衛隊は支持という人々も共有しています。ここを突破することがこれから将来に向かって長い闘いの課題となります。もちろん戦争法廃止・立憲主義回復の一致点は今日では不動の前提であり、むやみにそれ以上に進んだ政策を、違う立場の人々に押し付けるのは得策ではありません。しかし自民党が安保条約・自衛隊護持を焦点に攻撃を強めてくる情勢である以上、戦争法について切り込むだけでなく、論戦上必要な場面では、軍事的抑止力論を批判して、安保条約・自衛隊のない、憲法に基づく真の平和について解明していくことは重要です。
なおその際に軍事的抑止力について、現状認識と価値判断とを区別することが必要です。現状認識の次元で、軍事的抑止力が存在しないというような議論をすれば空想的理想主義と思われてしまいます。その存在に対する価値判断と政策的方向性の次元でそれを否定する(悪いものだからこれから政策として採用できない)というスタンスが現実的であろうと思います。各種の脅威論に惑わされない確固たる平和の世論を将来築いていくためには、軍事的抑止力論を超えて進む必要があり、それにはそれが空想的理想主義ではなく現実的理想主義なのだということを説明しなければなりません。憲法前文・9条の文言をそういう見地で読み込むことが必要です。安保・自衛隊支持の人々の多くも憲法前文と9条を支持しているのは矛盾ですが、それは前向きに解決しうる矛盾であって、真の護憲派はチャンスを持っていると理解すべきです。
現状の一致点は徹底的に尊重することは当然としても、降りかかる火の粉は払わねばなりません。自民党が攻撃してくるなら、逆に真の平和論のチャンスだと捉えるべきでしょう。
2016年5月30日
月刊『経済』の感想・目次に戻る