月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2014年7月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2014年7月号

          日本資本主義の行き詰まりと経済本質論

 特集「日本の貿易赤字と対外関係」において、初めの編集部による「解説とデータ」に続く吉田三千雄氏の「日本の主要製造業の現状 輸出・輸入構造の変化を中心として」では、日本資本主義の厳しい現状を表すような各節の表題が並んでいます。<内需の低落のなかで急速に輸出比率を高める鉄鋼産業>、<東アジア諸国市場への依存を深める工作機械工業>、<「産業の空洞化」を進展させる自動車産業の動向>、<「凋落」の著しい電気・電子産業>という具合です。内需の低落と供給面でのアジア諸国の追い上げという動向を受けて、日本資本主義の屋台骨を支えてきた製造業の今後の発展をどう見通すべきでしょうか。吉田氏は、まず国内の消費需要と直結する産業部門向けの対策として、賃金上昇・不安的就業者層の解消を挙げています。中小・零細企業にも支えられて、国内需要を上回る生産能力と強い輸出競争力を持った重化学工業については、「互恵的な貿易のなかで、東アジア諸国を中心として、諸外国の機械工業の発展や国民生活の向上に資する方向性が必要とされよう」(36ページ)と指摘します。リストラと搾取強化によって、労働者のやる気をそぎ、内需を縮小させ、設備投資の低迷と内部留保の過度の増大そして投機化を招く、という不健全な企業経営を根本的に見直し、諸外国とウインウインの関係を築くため、経済政策の抜本的方向転換が必要です。目先の株高を目指し、国民経済発展より多国籍企業の利益を優先したアベノミクス・TPP路線を廃棄することは、「戦争できる国づくり」を断念させることと並ぶ重要課題です。ただし今やそのような一般論で済む段階ではなく、国民経済全体の指針作成(それは主には政党や研究機関の課題だろうが)だけでなく、労働運動を始めとする様々な社会運動がそれぞれの持ち場で主体的な変革像を具体的に描いて、当面する闘争課題の位置づけをはっきりせることが求められます。

そういう言い方自体も一般論になってしまいますので、一つ具体例を見てみます。「しんぶん赤旗」627日付は「リストラの果てに、日本の『ものづくり力』が根底から揺らぎ始めています」という問題意識から、神戸製鋼(神鋼)における労働災害を取り上げています。57日午前520分、21歳の労働者が一人で作業中に、作動する機械に体がはさまれる重大事故が発生し、20日に死亡しました。これを含め、神鋼の鉄鋼事業部門では416日からの3週間で5件の重大災害が発生しています。その原因として一つには、事故防止の設備対応が実施されずにきたことがあり、もう一つは、過酷な生産追求です。ラインの一部で発生するトラブルによってライン全体を止める時間=不良休止時間が増加し、それによる損失が大きな問題となっており、不良休止時間を削減するため、機械の停止をためらう雰囲気が広がっているというのです。

このように安全性と生産性が脅かされる背景には、若手とベテランの人員構成が高く、中堅層が低くなる「M字型」年齢構成があります。あるベテラン労働者はこう述懐しています。「かつて現場には品質を維持できる熟練労働者が多く、設備トラブルが起きたときにはすぐに対応できる技術者もいました。しかし、8090年代のリストラで、人減らしが強行され一人作業が増え、食事も満足にとれないほど忙しくなりました。熟練労働者が次々と出向させられ、現場からいなくなりました。その間、新規採用が抑制されたため、現在の年齢構成になりました。いま現場が劣化しています」。勤続10年未満の労働者ではトラブルにすぐ対応できず、余裕のない職場ではベテラン労働者から若手へ安全や技術の伝承ができなくなっているのです。さらにリストラの中で、設備保全の仕事が外注化されたことも、設備に関する技術の社内蓄積を阻み、トラブル対応力を落としています。成果主義賃金制度も安全より生産優先を助長し、そこでは失敗の個人責任追及が横行しています。定年退職後の継続雇用制度では同じ仕事で賃金が半減するためベテランの意欲を奪っています。

こうした悪循環に対して、吉田三千雄氏は同記事にも登場して「労災事故の責任を労働者に転嫁するのではなく、事故に遭遇しやすい生産現場には熟練労働の形成と継承を可能とするような計画的な正規労働者の配置をすべきです。短期的な利潤を求めた労働者削減は、長期的には自らの存立要因を弱体化させるでしょう」と指摘しています。資本家からも反省が出ています。林田英治JFEスチール社長は「効率を犠牲にしてでも人材を育てる、技術を高めることが経営に求められている」と日本鉄鋼協会の特別講演会で語っています。

ここまで追い込まれないと「正気の認識」が出てこない、あるいはその認識が出てきても実施される保証はない、という事態は、資本主義市場経済から原理的に発生します。まず市場経済では価値の獲得が目的であり使用価値の生産は手段に過ぎないので、使用価値生産における不具合は価値獲得の障害になって始めて問題となります。資本主義経済においては生産の目的は単なる価値ではなく剰余価値であるので、商品価値の生産と実現だけでなく費用価値の削減がぎりぎりまで追求されます。社長の言う「効率」を端的に示すものは利潤率(r)でしょう。M:剰余価値、C:不変資本、V:可変資本、C+V:費用価値 とすれば r = M/(C+V) となります。これを前に、分子を増やして分母を減らすためあらゆる努力が傾注されます(この際、資本の回転の問題は捨象します)。不良休止時間を減らすため、機械の停止をためらうのはMの減少を避けることです。事故防止の設備投資を怠るのはCの増加を避けることです。リストラや定年退職後の継続雇用制度はもちろんVの削減です。成果主義賃金制度はMの増大とVの削減を同時に狙っています。設備保全の仕事の外注化とは、Vの一部をCに切り替えた上で削減するものです(この「切り替え」は個別資本経営の観点からそう見えるものであって、総資本の観点に立てば成立せず、結果的・客観的にはただVを削減するものであろう)。

したがって神鋼において現場が劣化し重大な労働災害が頻発するのは資本主義市場経済の本領が発揮された結果です。それを克服するには、様々な次元で資本を規制しなければなりません。まず現場労働者が直接生産者として生活者として尊厳を取り戻すため、人間的な労働条件と賃上げを実現すべく闘うことです。政府はそれとは真逆のアベノミクス第3の矢に属する「雇用改革」を断念し、ILOのディーセントワークにそって真の労働改革を行ない、世界中に広げる先頭に立つこと。決定的なのは国内外の世論の変革です。生活と労働を守るため、グローバルで野蛮な資本間競争を制限することが当然である、という意識を一般化させること、過度に安価な途上国製品の製造のあり方に疑問を持つこと、店舗の24時間営業による「消費生活の利便性」の追求とか、商品の些末な機能の差別化による「生活の豊かさ」競争なるものがいかなる犠牲の上に成り立ち、消費生活ならびに人生そのものの希薄化と無意味化をもたらしているかを反省すること、等々。グローバル資本の「上から視角」によって、国民経済・地域経済・職場・個人の生活と労働を「改革」する(上から+右へ)のでなく、個人の生活と労働の「下から視角」によって、逆方向に改革する(下から+左へ)ことが必要であり、それを保証しうる資本への民主的規制を支えるのは世論の変化であり、決定的には民主的政府の樹立です。また民主的規制によって経済が停滞するのでなく、様々な経済主体が生き生きと躍動できる事例を紹介し、明るいイメージの変革像を提供することもきわめて重要です。

以上、具体的事例を見ながら、結局一般論に終わっておりますが、そこに幾分かの意味があるとすれば次のことが言えます。生活のあり方や労働現場そして地域から出発するような地に足の付いた議論が人々の実感に訴えるものであり、同時にその観点が、「上から視角」に対抗する「下から視角」によるオルタナティヴであることが理解されるなら、個々の実感が経済の全体像の把握に連動されます。すると切実な諸要求がその正当性と実現可能性という次元においてもより深く理解され、世論形成と運動拡大に資することになるでしょう。

佐野孝治氏の「日韓経済関係の歴史・現状と課題 韓国の視点からみた経済関係」では、政治を中心に冷え込んだ日韓関係の現状を前に、両国経済関係の歴史を振り返り、課題を提起しています。複雑な諸問題をあえて捨象して言えば、両国の共通性が浮かび上がってきます。佐野氏が指摘する韓国経済の問題点の中の多くの部分<内需の長期的停滞と成長率の鈍化、トリクルダウン効果の弱化、低賃金周辺労働者層の増加、社会の二極化>(39ページ)が日本と同じです。ある長期経済予測によれば、2050年には中国・インドなどの興隆を尻目に「日韓両国とも相対的に小国になると予想されてい」ます(49ページ)。そうした中で佐野氏が主張するように「今後、環境・エネルギー、人権、開発、貧困削減などグローバルな課題や少子・高齢化、格差問題など共通の課題について、着実に協力を進めていくことで、実質的な経済連携関係を築いていける」(同前)はずです。

多くの犠牲者を出した大型旅客船セウォル号転覆・沈没(416日)について、韓国では、一事故にとどめず社会全体の問題として、安全を軽視し効率一辺倒の新自由主義のあり方についても深く反省されていると聞きます。日本のやり方に学ぶべきだという意見も出ているようです。今日の険悪な日韓関係の中でそういう声があるということからは、事故のショックの大きさとともに冷静で謙虚な姿勢が感じられます。むしろそうした反応に対して日本の一部に歪んだ優越感を持つ向きがあることが心配です。昨今の日本を眺めれば、重大事故を生み出すような新自由主義的状況は韓国と共通であり、ともに深く反省するほかありません。

 日・中・韓の関係についても、ことさらに相違を強調し軋轢を生む議論がありますが、民衆の立場からすれば、上記、佐野氏の「共通の課題」での変革的協力こそが求められます。国内での格差拡大・貧困化を始めとする諸矛盾を排外的ナショナリズムで解消しようとする支配層の姿勢が共通ならば、逆にそれに乗せられない民衆の連帯が重要です。そうした世論の圧力によって日本がまず率先して歴史問題での真摯な反省を示すことで、中国の覇権主義や中韓両国にもある歪んだナショナリズムを正す資格が生じます。さらに北朝鮮を包容し正常化を援助していく中で市場拡大と東アジアの共同的発展が展望でき、日本資本主義の行き詰まりを新自由主義的でなく民衆的方向で打開する道が開かれるでしょう。

友寄英隆氏の「日本資本主義にとって、さし迫る『3つ子の赤字』は何を意味するか」では、財政収支・経常収支・家計収支の「3つ子の赤字」が恒常化した場合の影響が予想されます。最初に起こるのは「金融市場における内外の投機的資本の活動への影響」であり、「国債の暴落、長期金利の暴騰、円レートの暴落、株価の暴落など」(65ページ)の可能性があります。さらに経済政策の変化が重大です。マスコミを動員して危機感を煽り、「ショック・ドクトリン」としてハードな「緊縮政策」が一挙に強行され、人々に犠牲をすべて押しつける恐れがあります(66ページ)。

 このような事態を友寄氏は「日本経済の崖」(65ページ)として警告していますが、政府やエコノミストの多くは、「3つ子の赤字」の実現とそれへの懸念には否定的です。そうした種々の見解に対して友寄氏は「さし迫る『3つ子の赤字』の意味を、ただ金融的な現象としてしかとらえることができずに、その背後にある現実資本の循環、実体経済の異変とのかかわりで直視していない」(76-77ページ)と総括的に批判しています。たとえば輸出主導型再生産構造について見ると、一方では中国をはじめとする東アジアの新興工業化によって、他方では日本の大企業の多国籍企業化によって輸出主導型から海外投資主導型の資本蓄積へと変わってきたために、それは行き詰まっています(77ページ)。貿易赤字は一過性では済まないようです。

 論文は最後に、敗戦直後に国・企業・家計が赤字に陥ったことを想起し、1947年発表の第一回『経済白書』の結語を引用しています(78ページ。講談社学術文庫『第一次経済白書』95ページより孫引き)。「再生産の規模がだんだん狭まってゆくような事態」を受けて「経済が危機に立ったときには、われわれは否応なしに、ものごとをいままでになく透明かつ直接的につかむことを余儀なくされもする」。また「希望にみちた復興再建の途上にのりだす過程は、当然のことではあるが、まじめにはたらくものどうしがもっともっと直接につながりあって、自らの労働の成果を通じて生活を豊かにしてゆく過程」です。これは都留重人氏によるものでしょうか。私はマルクスのクーゲルマンへの手紙(1868711日付)を思い出します。労働価値論を説明した周知の叙述です。

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 どの国民も、もし一年とは言わず数週間でも労働をやめれば、死んでしまうであろう、ということは子供でもわかることです。また、いろいろな欲望量に対応する諸生産物の量が社会的総労働のいろいろな量的に規定された量を必要とするということも、やはり子供でもわかることです。このような、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではなくて、ただその現象様式を変えうるだけだ、ということは自明です。自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。歴史的に違ういろいろな状態のもとで変化しうるものは、ただ、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのです。

 マルクス=エンゲルス『資本論書簡(2) 1867年−1882年』(国民文庫、162163ページ)

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 これを想起して第一回『経済白書』の結語の言葉を読むと、危機に陥った経済を見るとき、その歴史的に特殊な形態の底にある歴史貫通的な内容を直接つかみ取り、しかもそれを社会的総労働の成果の適切な分配による生活の再建という次元で捉えるべきことが指摘されているように思えます。友寄氏があえて第一回『経済白書』に立ち返ったのは、際限ない搾取強化と金融化・投機化の極致に至った新自由主義的資本蓄積による経済の寄生性・腐朽性の高進と危機の深化に対して、まともな経済のあり方の基準を指し示すためではないでしょうか。

 日本資本主義の混迷を象徴するのが、アベノミクスの成長戦略に含まれるカジノ解禁です。『世界』7月号所収の帚木逢生「カジノ合法化は何をもたらすか ギャンブル依存四〇〇万人の実態」と古川美穂「東北ショック・ドクトリン 第6回番外編 天から円が降ってくる!」によれば、すでに日本社会は相当に病んでおり、カジノ解禁は正気の沙汰ではないことがよく分かります。一面的に貨幣資本循環の視点に立つ新自由主義にどっぷりつかった頭ではとにかく儲かればいい、ということであり、正気を保つためには労働価値論の経済観が最適だと言えます。

 先に神鋼の重大事故=労働災害に触れましたが、他にも、新日鉄住金製鉄所で事故が度重なり、JR北海道を始めとする脱線など鉄道事故が頻発する、等々、かつては考えられない事故・不祥事が連続して起こっています。日本資本主義は意気喪失の中で、必要な緊張感が途切れているようにさえ見えます。そこには新自由主義的資本蓄積路線における安全性の軽視がまずあります。その他に、同路線の搾取強化による内需縮小がGDPの成長を阻み(これが意気喪失の元だが)、内部留保の死蔵(ないしは投機への「活用」)を生むという価値視点から見た劣化のみならず、使用価値視点からは産業活動そのものの劣化が見えます。神鋼の労災を取り上げたところで関連して見た鉄鋼業資本家の「効率を犠牲にしてでも人材を育てる、技術を高めることが経営に求められている」という言葉は、危機に際してようやく、利潤追求という資本主義経済の形態の底にある、労働の連携としての産業活動そのものの内実に目が向いたことを示しています。正気が回復されればいいのですが…。

 資本主義経済が、生命・生活・環境などを破壊して進撃しているとき、「生命か経済か」というスローガンで抵抗する向きがあります。しかしこれは経済の形態と内容を区別しない誤りであり、十把一絡げで経済全体を否定するなら「どうやって生活するのか」と反問されます。正しくは「生命軽視の経済か、生命重視の経済か」という対抗関係です。先の大飯原発訴訟の福井地裁判決はこれを正しく踏まえていると評価できます。利潤追求を動機とする資本主義経済形態から発せられる原発再稼働という策動について、原発利益共同体がそれをあたかも経済の普遍的内容にかかわる公益であるかのごとく主張しました。その主張に対して判決は、憲法の人格権は経済活動の自由よりも優先されることをまず指摘しました。次いで、貿易赤字を国富の流出と捉えるのではなく、豊かな国土とそこでの人々の生活が取り戻せなくなることのほうが国富の喪失であると考えるべきだ、と厳しく言い渡しました。これは経済の否定ではなく、経済の本源的あり方の視点から、その方向性をさし示したものです。原発のある「生命軽視の経済」から原発の無い「生命重視の経済」への転換、狂気の経済から正気の経済への転換だと言えます。   

さる619日にホウネット(名古屋北法律事務所の市民運動組織)の「くらし支える相談センター」主催の研修会で、名古屋市守山区社会福祉協議会の内山勝彦氏の講演を聞きました。様々な先進的活動がありますが、高齢化の進む巨大集合住宅での買い物難民対策として実施されている「お出かけ安心バス」を紹介します。

事業概要としては「社協デイサービス福祉車両を利用した乗合によるアピタ新守山店と自宅間の移動サービス」であり「瀬古学区と幸心住宅において週212便の運行」を無料で行なっています。送迎車の「運転ボランティア」と店舗で待っている「買い物介助ボランティア」が活躍しています。

実施の効果として「買い物困難者の買い物支援」「送迎中利用者同士やボランティアとの会話がはずみ、社会的なつながりに結びついている」「個別支援として、会話の中から生活上のちょっとした困り事を把握し、専門機関やボランティアにつなぐことにより解決を図ることにつなげている」ということが挙げられます。

利用者の声として「出かけることが楽しくなった」「自分の目で見て、触れて選ぶことができ、幸せ」などがあります。ボランティア側からも「利用者から昔の話などを聞かせてもらえ楽しい」「食材に関する知らなかった料理方法を教えてもらうなど、こちらが教わることが多い」など積極的な反応があります。

地域の商店や公設市場が撤退するなどして、買い物難民が発生し重大な社会問題となっているのに対して、社協がボランティアを組織して対策を実施しているのは、経済活動として評価すべきだと思います。つまり市場経済でペイしなくなった領域を、無償労働の組織化でカバーしているわけです。先に見たマルクスの言う本源的な経済のあり方に立ち返ってみれば、必要があるところに労働が組織されて必要に応じるというのは立派な経済活動です。もちろん資本主義市場経済からこぼれ落ちる領域は従来から多々あり、その多くは財政支出によって公的にカバーされてきたわけですが、高齢化と不況に伴う買い物難民のような新たな領域が出てくることが予想されます。その際に公的責任の追及も必要ですが、市場外の経済活動としてボランティアの活用なども視野に入れることが、資本主義の行き詰まりへの対抗策として新たな社会の形成に生きてくるかもしれません。とにかく「経済=市場」というドグマを外してみることが必要です。

『雇用なしで生きる』の著者フリオ・ヒスベール氏に聞く「貧乏であることが一つの選択肢となる社会を築く」というインタビュー(『世界』7月号所収)は、地域通貨など補完通貨や「時間銀行」によって、資本主義経済の雇用関係によらず地域で生活できる可能性について、世界各地の実践と合わせて語っています。「時間銀行」は双方向ボランティアによる時間とサービスの交換システムです。そういうことが持続可能なのか、経済社会全体との関係はどうなのか、結局は新自由主義グローバリゼーションの補完になってしまわないか、とかいろいろ疑問はあるかもしれませんが、経済とは何かという経済本質論を考えながら、新たな経済のあり方を探る一つのきっかけになるようには思います。

「日本資本主義の行き詰まり」からとりとめない話になってしまって恐縮ですが、「行き詰まり」が提起するのは資本主義とか市場経済とかいうものを相対化する見方であり、それがあって初めて、資本主義市場経済批判が鋭くなり、未来社会への展望にも多少なりとも生きてきます。その見方を誰にもわかりやすく提供することが求められます。確かに当面する資本主義の枠内での変革では、グローバリゼーションへの何らかの対応を含め、社会的再生産への大企業の重要な役割を位置づけた国民経済の民主的編成を大枠で確保した上で、第一次産業、中小企業などを中心とする内需循環型地域経済を軌道に乗せる、といった形がまず考えられます。その中で上記のような資本主義市場経済をはみ出るような発想と実践をどう位置づけるかは難しいところがあるかもしれませんが、そこに現代への批判と未来の萌芽があると思います。

なお経済本質論については、拙論「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』第86号、20065月)の中の「5.価値論(価値・使用価値の二重分析)の意義―経済本質論(杉原四郎著『経済原論1「経済学批判」序説』)、未来社会論の観点から」という部分で触れました。参考にした杉原氏の著作は1973年、同文舘の発行で、『資本論』第3部第7篇第48章における資本主義経済の特質を的確に要約した有名な個所についても、人間生活における「必然の領域」と「自由の領域」などについて詳細に論じており、名著です。

 

アベノソーシャルを捉えるために

安倍内閣の暴走が続いています。その重要な政策はどれをとってもおおむね支持されていませんが、なぜか依然として内閣支持率だけは、やや落ち目になってきたとはいえ高いのです。その原因としてはまずアベノミクス幻想が挙げられ、他に巧妙なマスコミ対策、基調としての社会全体の右傾化などが続きます。

アベノミクス幻想については、垣内亮氏の「法人税減税への安倍内閣の暴走 国民には大増税、大企業には大減税」が法人税減税の理由を「株高維持」と指摘しています。株高こそがアベノミクス幻想の中心であり、政権維持の命綱だというわけです。

ところで「5月の有効求人倍率が1.09倍と、バブル経済崩壊直後の19926月以来、約22年ぶりの高水準とな」りました(「朝日」628日付)。しかし求人の中身は非正規が中心であり、当時とは雇用の「質」が違います。アベノミクスによる景気回復が「人手不足」をもたらしたという指摘に対して、都内で一人暮らしの女性(47)は「まともに食べていける仕事がない」「景気がよくなったなんて実感がない。長続きしないような職場の求人ばかりが増えている」(同記事)。ここに問題の核心があります。

 世論調査で政治への要望の一番はいつも景気対策ですが、本当の問題は格差・貧困を生む経済の仕組みにあります。確かに景気は目先の問題として動きが見やすいのですが、経済の二大要素である経済構造と景気循環のうち庶民生活にとって問題なのは経済構造の方です。つまりやるべきは庶民に資する構造改革なのですが、実際に行なわれているのは逆に財界に資する新自由主義構造改革です。もちろんアベノミクスは後者に属します。ただしそれが巧妙なのは、目立つ景気対策(実際には株価対策に矮小化されているのだが)で目くらまししながら構造改革を進めていることです。政治への一番の望みが景気対策というのがずっと続くというのは、万年不況に乗じた一種の世論操作の結果でしょうが(マスコミは庶民にとっての経済問題の核心を隠しながら新自由主義の方向へ誘導している)、そこを突破して経済構造を逆に変えるという問題に気づかせるように世論を喚起することが私たちの課題であり、アベノミクス幻想打破における重要論点です。

 それを突破して安倍政権を打倒することは極めて重要なのですが、問題はその先にもあります。中長期的な日本社会の右傾化の問題です。「ある意味では、安倍政権の浮沈よりも、社会が持つ欲求の方がはるかに重要である。なぜなら、一つの内閣は時々の情勢次第で沈み、消え去ってゆくのに対して、安倍政権をつくり出した下部構造、すなわち、経済的構造ならびに国民大衆が抱いている内面的なものは容易には変化しないからである」(白井聡「おもしろうてやがて悲しきアベノクラシー 3.11の痛みの中で自己愛の泥沼に引きこもる日本」、『世界』5月号所収107ページ)。

右傾化を固定的に捉えるのはもちろん誤りです。「階級闘争の弁証法」の見地で見ると、たとえばいわゆる侵略戦争の反省に触れた村山談話は一歩前進でしたが、「自虐史観」批判などの反動を呼び起こしました。逆に安倍政権の反動的暴走は人々の警戒と学習行動を呼び起こし、立憲主義という言葉が広く知られるようになりました。つまり戦後民主主義の一定の定着と反動攻勢・排外主義の噴出とがせめぎ合って現状況があります。ただし戦後民主主義が戦後改革の熱気と高度成長期以来のそれなりの経済の安定とに対応して形成されたものであるの対して、右傾化・保守反動・ナショナリズムが新自由主義下の格差拡大・貧困化の中での分断支配と近年の東アジア情勢の複雑化に対する排外主義という今日的傾向に基づく(単なる復古主義や時代錯誤ではない)という点でより今日的・攻勢的である点を忘れてはなりません。それら様々な要素を前提にしつつ、中長期的な右傾化を捉えたいと思います。こうした右傾化の様相とそれを生む社会的要因をアベノソーシャルと名付けることにします。また安倍首相とその取り巻き連中を「安倍一族」と呼びます。

 安倍政権はイデオロギー的には新自由主義と保守反動の野合であり、そこでは対米従属と「自立」志向とのせめぎ合いもあります。そこに人々の意識がどう巻き込まれるかも問題です。ということで、参考となる諸論稿を読み重ねる中で、アベノソーシャルを捉えるための素材を提供していきたい、と思っていたのですが、時間切れとなり(自分勝手に月末締切と決めています)断念します。できれば来月に。

 ただし一つだけ紹介したいのが、『前衛』7月号所収の須藤遙子さん(横浜市立大学客員准教授)に聞く「自衛隊協力映画を追う」です。今月読んだ中では最も秀逸な論考であり、冷静にリアルに右傾化の様相を分析しており、心ある人々にとって必読です。

 須藤氏は当初、防衛省が教化・誘導を狙い、ナチスのように戦略的なプロパガンダ映画をつくっているという仮説を持っていたのですが、実際には防衛省はいい加減で、むしろ映画産業の方がイデオロギーにかかわらず儲け本位で主導しているという結論になりました。したがってこの問題を考えるには、国家・防衛省・自衛隊だけでなく「中間にいるメディア産業の振る舞いや、受容する大衆・国民側の意識との相互関係を見ることが大事だ」(79ページ)ということになります。すでに自衛隊を受け入れる素地が人々の中にあるという現実を見る必要があるのです。須藤氏の初めの仮説のように、私たちはしばしば誤った先入観と紋切り型の思考方法で現状認識を損なってはいないか、ということを何事につけても反省してみる必要があると思います。

ナショナリズムについても、上からのナショナリズムということで、政府側が仕組み、国民を強制的に教化させるというイメージがありますが、むしろナショナリズムを主導してきたのは、政権の意向を忖度して、中国・北朝鮮脅威論をばらまいたマスメディアとくにテレビが問題だというのです。「日本が危ない」「東アジア諸国は敵」というイメージを蔓延させ、それが報道に反映し、ナショナリズムが社会的風潮になり、それを政治が利用するという形で、人民・メディア・政治の間の応答関係によってナショナリズムが顕在化し、右傾化が進むという構図があります。

 自衛隊が身近な存在になったということも直視する必要があります。東日本大震災での活躍で、「私たちを助けてくれる存在」という認識が社会の中で定着しました。「自衛隊が市民権を獲得してきたこととナショナリズムの昂揚が、原因と結果ではなく、同時進行的に、相互に呼応しながらすすんできたというのがここ二〇年の状況と言えます」(81ページ)。今の学生は、日本がアジア・太平洋戦争で何をしたかを知らず、自衛隊・軍隊・国家権力に対して批判的であるべきという感覚がありません。そうした中、メディアで自衛隊に親しみ、中国・北朝鮮・韓国敵視と「日本はいい国」メッセージを繰り返し浴びると、彼らは「ナチュラル・ライト」81ページ)とでも言うべき存在となります。 

 須藤氏の「ジコチュー・ナショナリズム」概念は、本来相互に相容れないはずの新自由主義がナショナリズムを生み出していく過程を見事に解明しています。社会や国家に関わりなく、愛する者を守るという自己責任論理に立つ犠牲精神をメディアは煽っていますが、それは国家が起こす戦争での犠牲に回収されていくものです。自衛隊協力映画を含め、現代ナショナリズムのキーワード「守る」です。愛する者を守ることに命をかける。公共的精神は希薄であるにもかかわらず。本人には国家への忠誠心はなくても、その犠牲精神は結果的に国家に都合がいいものです。これは新自由主義・消費主義と強い関連があります。

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社会の役割を否定し、やたらと家族や恋人との関係というものを重視し、崇めるような言説がテレビでもあふれるようになっています。そのなかで、自分と愛する者を「守る」という保守性、苛烈なまでの自己責任論理の内面化が進んでいる気がします。

82ページ

「国家」がおこなう戦争を描きながら、「個人」の心情しか表現しないというのはどうなのでしょう。アジアへの侵略戦争でありながら、アジア諸国とたたかったことはほぼ描かれず、天皇という言葉すら出てこず、ひたすら個人と家族の関係で戦争を描いているのです

 家族のためであって、国家のためではないということで、彼らは国家やナショナリズムから逃れているつもりなのかもしれません。しかし、自分ではどんなに国家の存在を拒否しようと、私的な犠牲はいつの間にか公的な犠牲となり、ついにはナショナルな犠牲となっていくのです。結果的には、彼らを尊いものと表彰することで、彼らの死を国家は自分のものにしてしまうのです。こうした行動が国家にとってどういうことになるのかという想像力が欠けているとしか思えません。     83ページ

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 以上の須藤氏の解明は、安倍首相が靖国参拝を合理化する際に、しきりに個人的心情を強調していることを想起させ、新自由主義と保守反動の野合たる安倍政権の本質を(それが支持される状況の一端を含めて)洞察しています。さらに須藤氏は若者たちにおける、リアルとヴァーチャルの問題、戦争を含めて具体的なイメージの想像力の欠如を指摘しています。その対策は「メディア断食」による日常生活のリアル体験と自分の頭で考えることです。想像力を身に着ける手段としての文学の重要性を社会科学研究者の立場から発してもいます。とにかく須藤氏の観察は冷静的確であり、メッセージは豊饒です。
                                 2014年6月30日




2014年8月号

          景気回復?

 世論の反対を押し切って、今年の4月より消費税率が3%上げられて8%とされました。ところが政府・日銀・マスコミをあげて、増税による景気の落ち込みは「想定内」で、夏から秋にかけて景気は回復する、という大合唱です。経済統計の内容はまちまちであり、できれば様々な経済指標を検討して真相を探りたいのですが、とりあえずはいくつかの議論を参照します。

工藤昌宏氏は以下のように述べます(「景気は着実に回復するか? 経済の停滞構造に的外れの政策」)。

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 有効求人倍率は上昇しているといっても、それは非正規労働者についてのものであり、正社員の有効求人倍率は逆に低下し続けている。また一方で、賃金とりわけ基本給(所定内給与)は減少し続けており、他方で、消費者物価は消費税増税と円安による輸入物価の上昇によって上昇し、そのため実質賃金は大幅に低下している。当然ながら、消費は急激に落ち込んでいる。

 しかもこの先、雇用環境の急激な改善や、賃金の急激な上昇も見込めず、日本経済が再生する兆候も材料も見当たらない。いったい、政府と日銀は何を根拠に景気は順調に回復している、消費は戻ると主張しているのだろうか。     120ページ

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 まったくその通りだと思います。6月の家計調査(総務省、729日発表)によれば、6月時点の実質消費支出指数(前年を100とする消費支出の季節調整指数)を比較すると、1989年(消費税導入)は99.71997年(3%から5%へ増税)は99.1に対して、今年は93.9で大幅に低くなっています。この落ち込みの背景には所得の伸び悩みがあります。勤労者世帯の6月の実収入は前年同月に比べて18308円減少し、名目で2.5%、実質で6.6%の大幅減少になっており、可処分所得はなんと実質8.0%減少です。賃金は伸びず物価ばかりが上がり、強烈な内需縮小に陥っています(「しんぶん赤旗」730日付)。

こんな状況でようやく体制内からも景気回復の翼賛的合唱の最中に疑問の声が出始めました。「しんぶん赤旗」712日付は民間調査研究機関の3人のエコノミストのリポートを紹介しています。

 三菱UFJリサーチ&コンサルティングの片岡剛士主任研究員のリポート「増税後の落ち込みは『想定内』ではない」は、19974月の前回の消費増税時と比較して「家計消費や賃金への影響が深刻で」「実態の動きが下振れする可能性が高まっていることを示唆」しています。日本リサーチ総合研究所の藤原裕之主任研究員のリポート「駆け込み消費後の反動減〜想定内は本当か」は駆け込み需要の反動減の現れ方を分析して、比較的ゆとりのある層が遅れて消費を減らしていることを指摘。これは名目賃金の上昇で財布にゆとりがあると錯覚しており、それに気づき始めれば極端な消費減退を引き起こすだろうとしています。ニッセイ基礎研究所斎藤太郎経済調査室長のリポート「『想定内』は本当か」は、45月の小売販売額と実質消費支出についてエコノミストたちの予測値と実績値を比較し、実績が予測を下回ったことを指摘し、「少なくともエコノミストにとっては増税後の個人消費の落ち込みは想定内とは言えない」としました。

 同紙722日付は、個人消費が持ち直してきたという理由で政府の「月例経済報告」が景気判断を引き上げたことを、国民の生活苦からかけ離れた判断だとしています。同記事は、労働者の実質賃金が13ヵ月連続で前年同月を下回っていることを指摘し、安倍政権が増税後の経済活動の落ち込みを「想定内」とする強弁を繰り返していることについて、「そもそも、人々の苦しみを『想定内』などというところに、生活苦を心にかけない姿勢があらわれています」と厳しく批判しています。

 これは国政の基本的性格を物語っています。今春放送されたNHKの朝のドラマ「ごちそうさん」には「空襲は怖くない、逃げる必要はない」という情報操作と安全神話によって、空襲時の消火活動が義務付けられた様子が出てきました。当時の新聞記事には「焼夷弾は手袋をはめて掴めば熱くもなんともない」「素早く焔に突撃せよ」などと繰り返し掲載されました(大前治「『空襲は怖くない、逃げずに火を消せ』―防空法がもたらした空襲被害―大阪空襲訴訟が問いかけた政府の責任」181ページ、『前衛』8月号所収)。まったく唖然としますが、昔の明治憲法下で戦時の事態とはいえ、現政府の「生活苦を心にかけない姿勢」にはこの国の支配層のDNAが連綿と生き続けているように思えます。

 安全神話で原発を運営してきて、福島の事故を経てもなお再稼働に邁進するという姿勢にもこのDNAは生きています。昨年9月、安倍首相が原発事故について「状況はコントロールされている」と大嘘をついて五輪を東京に招致したときから、事故収束を早めるために作業員が増えないのに業務量だけが増大し、連日5時間睡眠等々、過酷な労働条件に現場は疲弊しヒューマンエラーが起きやすくなりトラブルが頻出しています。かつて日本軍が無謀な作戦で多くの兵士を犬死にさせたように無理な「作戦」がイチエフの現場を覆っています(布施祐仁、ルポ・イチエフ「作業員がいなくなる 事故収束と廃炉への課題」、『世界』8月号所収)。

先の大飯原発訴訟の福井地裁判決は、人格権を侵す危険性のある原発運転を差し止める画期的な内容でした。そこでの「国富」論は圧倒的に支持されました。企業の利潤より、人々のかけがえのない生活が大事なのです。それに照らせば「生活苦を心にかけない姿勢」の経済政策は人格権の侵害として告発されるべきものです。福井地裁判決は裁判官の良心を示し、「司法はまだ生きていた」という声が日本中に響きました。しかしその判決を可能にした最大の要因は人民の闘いです。経済政策についても、人々の生活と労働を守り発展させるため、憲法を生かす闘いが求められます。

 いささか論旨が暴走しました。「消費増税の影響=想定内」論についてその思想=人間観・社会観を問うとともに、そのためにも経済統計の鮮やかな読解を追求する必要があります。

 

 

          倒閣へ

 萬井隆令・伊須慎一郎・井上久の各氏による座談会「安倍・労働法制改悪との対決点 日本の労働の総『ブラック』化は許さない」では以下のように言われます。

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 安倍政権がやろうとしているのは、アメリカと一緒に戦争できる国づくりと、大企業支援のグローバル競争国家づくりです。憲法を蔑ろにした国家改造を明確に意図して系統的に追求しているからこそ、さまざまな改悪が洪水のように押し寄せていると考えます。

 したがって、一つ一つの論点、課題をたたいているだけでは勝ち目はないと思います。例えば、憲法問題でも、安倍政権は最初は9条、次は96条、解釈改憲による集団的自衛権行使容認、「限定」というように、旗色が悪ければ、手を変え品を変えという感があります。

 だとすると、重要なことは、各課題・分野で一点共闘など共同した反撃をひろげると同時に、安倍政権の「暴走」の本質に迫る反撃をつくることだと思います。「人間のうえに企業を置くな」「グローバル競争国家ではなく、人間と被災地、地域社会が元気な日本に変えよう」という対話と共同を思い切ってひろげていきたいと考えます。   95ページ

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 確かに安倍政権の暴走は全面的です。中でも71日の集団的自衛権容認の閣議決定をもって緊張は最高度に高まり、集会やデモでは政権打倒の声が聞こえるようになりました。

「政権の暴走の本質に迫る反撃」の最も明確な形は倒閣でしょう。政党や大きな大衆団体がそれを提起する時期は慎重に選ぶ必要があるでしょうが、たとえフライング気味でも諸個人が声を上げ始めたということは変動の兆しとして、客観情勢の一部を構成するものに違いありません。…というふうに、7月前半時点で書いていたのですが、7月15日の日本共産党創立92周年記念講演において志位委員長は「安倍政権打倒の国民的大運動」を呼びかけ、歓声と鳴り止まない大きな拍手に包まれました。機は熟してきたということです。

上記座談会発言のような全面的観点を前提にしつつ、時々の状況に見合った攻めどころを衝いて行くことが必要です。そこで私は76日に「朝日」宛に投書を送り、同紙10日付に掲載されたのを受けて同日、あくまで個人的呼びかけですが、ホウネット(名古屋北法律事務所の市民運動組織)の役員各位に対して以下のメールを送りました。

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    新聞投書やマスコミ批判・激励の勧め

 7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定をもって、安倍政権の一連の暴走は「画期的」段階に入ったと言えるでしょう(政権による「改革」の進捗状況としても、人々との諸矛盾の高進という意味でも)。憲法や貧困の問題などに取り組んでいるホウネットとしては正面から受け止め、打破する取り組みが求められます。

 その一つとして、なかなか難しいですが、人々に広く影響を与えるマスコミへの働きかけが重要です。たとえば「安倍様のNHK」となってしまった公共放送の報道姿勢を批判したり、それでも中にはある優れた番組をほめたりすることは大切だと言われます。

私はときどき新聞に投書します。なかなか採用されませんが、ボツでも読者の意見を伝えること自身に意味があり、編集者には「圧力」となります。とにかくたとえ一言二言でもいいので多くの人々が何らかの形でマスコミにもの申すことが重要です。

 そこで7月10日の朝日新聞に載った私の投書を紹介します。掲載文は原文と少し違っています。狭いスペースにはめられて字数を削られました。意味を詰め込みすぎた原文の内容を少し削って読みやすい文章に直してもらったとも言えますが…。そこで掲載文の他に原文と注記を合わせてご笑覧くだされば幸いです。

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   <掲載文>

   生活向上、政策の抜本的改革を

古書店主  刑部 泰伸 
       (愛知県 56)
 5月の有効求人倍率が1・09倍と、バブル経済崩壊直後以来の高水準となった。だが、当時と違い、求人が多いのは非正規雇用が中心だ。また、アベノミクスの景気回復による人手不足と言っても、サービス業関連の求人が多く、本紙でも「まともに食べていける仕事がない」と、給料の少なさを嘆く中高年の声を紹介している。
 この20年余り、大企業は好況の時期があったが、庶民は「万年不況」が実感だろう。その原因の一つは、リストラと非正規化で人件費を切り詰め、利潤を増やす企業行動にあった。もう一つは、政府の政策による。福祉が削減され、消費税は上がったのに対し、大型公共事業の拡大や法人減税など大企業を優遇する政策を推進しようとする。
 安倍政権は「成長戦略」と称し、強者を助けて弱者をくじくような経済の仕組みを強化しようとしている。そのため株価対策に力点を置く。庶民の生活向上には、経済の仕組みと政策を抜本的に変えることが重要であり、政権交代するのが一番だ。

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<原文>

 5月の有効求人倍率が1.09倍と、バブル経済崩壊直後の19926月以来の高水準となったが、当時とは違って非正規雇用が中心だ。アベノミクスの景気回復による「人手不足」と言っても、ある女性(47)によれば「まともに食べていける仕事がない」「景気がよくなったなんて実感がない。長続きしないような職場の求人ばかりが増えている」(本紙628日付)。この二十余年、大企業には好況もあるが、庶民にとっては万年不況が実感だろう。その原因は明白だ。一つは企業行動にある。リストラと非正規化によって人件費を切り詰めることで利潤を増やした。もう一つは政策による。福祉が削減され、消費税率は上げられたのに対して、大型公共事業の推進や法人減税など大企業優遇政策が行なわれた(人件費カットも労働法制緩和で可能になった)。その結果の象徴として、1989年導入以来の消費税収額が同時期の法人3税減収額に匹敵することを指摘したい。

世論調査で政治に望むことの一番はいつも景気対策だ。しかし安倍政権は「成長戦略」と称し相変わらず、強者を助けて弱者をくじくような経済の仕組みを強化する政策で株価対策をしているに過ぎない。庶民の生活向上には、目先の景気対策よりも、経済の仕組みと政策を抜本的に変える方が重要であり、政権を変えるのが一番だ。

 

  <注記(原文と合わせて編集者に送った)>

 安倍政権の強行した集団的自衛権行使容認の閣議決定には何の道理もないだけでなく、すぐさま周辺国の警戒を呼び起こし、米軍との共同行動の如何では、世界中のテロリストを刺激することは必至であり、危険極まりない暴挙と言わねばなりません。原発、消費税その他の政策における政権の暴走に対する人々の怒りが、今回の閣議決定により、倒閣の声に高まりつつあります。

 その際、問題になるのが、さすがに下がりつつあるとはいえ、今だに高い安倍内閣支持率です。その最大の原因はアベノミクス幻想でしょう。アベノミクスの内実は、徹頭徹尾、財界主流の多国籍企業優遇策であり、消費増税・法人減税・福祉削減・労働法制改悪など、世界一の企業天国=世界一の労働・生活地獄を目指すものです。世論は、そうした政策の中身には疑問を持っているのですが、何となく景気が回復しているという雰囲気による幻想がまだあります。バブル崩壊後の20余年、景気回復の実感がまったくない中で、人々が景気対策を政治に一番期待するのは当然であるし、景気変動は短期的に見やすいものだから、どうしてもそこに目が行きます。しかし生活の実際を中長期的に規定するのは、雇用のあり方や社会保障の水準など経済構造に属するものです。経済の二大要因としての構造と(景気)循環のうち、構造を変えなければ失われた20余年を回復することは不可能です。

 ところで構造改革と言えば、多国籍企業中心に新自由主義グローバリゼーションに対応する政策であり、生活と労働を犠牲にして追求されてきました。それは内需を縮小し、日本を先進国では例外的な経済成長の止まった国にしました。生活を豊かに、労働をディーセントにして地域経済を復興し内需循環型国民経済を形成するため、逆方向の構造改革が求められます。安倍政権は新自由主義構造改革を強力に推進する一方で、法人減税や年金資金投入などで株価対策を行ない、砂上の楼閣的な景気回復を演出し、アベノミクス幻想を持続しようとしています。それに対する世論の幻滅を早期に実現し、安倍政権を崩壊させることこそが我が国とそこに住む人々の危機を救うことであり、私の愛国心の発露なのです。

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 以上がホウネット役員宛メールです。なお投書文と注記においてアベノミクスと株価対策に触れていますが、その後に読んだ『世界』8月号において、山口義行氏が、アベノミクスの成長戦略なるものが株価対策に過ぎず、それがいかに馬鹿げたものかなどについて、余すところなく解明しています(「法人減税と中小企業増税 株価対策と化した成長戦略」)。

安倍政権が支持される要因として、アベノミクス幻想の他に、中国脅威論など、日本周辺における「安全保障環境の悪化」論があり、ナショナリズム・排外主義があります。それとも関連し、また新自由主義的資本蓄積による格差と貧困の広がりによる社会的疲弊・閉塞感も原因となって、政治意識の右傾化が進んでいることも底流にあります。格差と貧困の広がりは本来、社会的連帯による左傾化に向かうべき現象ですが、新自由主義的個別化と自己責任論強化の進行により、バッシングと分断支配による右傾化が勝っています。右傾化については先月「アベノソーシャル」として問題にしました。その際に須藤遥子氏の「自衛隊協力映画を追う」(『前衛』7月号所収)で見たように、単に国家・政府による上からの教化としてだけではなく、中間にあるマスコミや娯楽産業などの行動と人々の意識の相互増幅作用をも含めて捉えるべきです。安倍内閣のような暴走政権を生み出す土壌を社会意識の右傾化が提供したとすれば、政権打倒だけで問題が解決するわけではなく、中長期的に政治経済を変革していく中で、社会的病理としてのイデオロギー状況の改善にも意識的に取り組むことが必要となります。

 

アベノソーシャルを捉えるために・続

 というわけで、先月に続き、右傾化の様相とそれを生む社会的要因を「アベノソーシャル」と名付け、安倍首相とその取り巻き連中を「安倍一族」と呼んで考えていきます。ただし何らかの論理を構成し、語りうるプロットを描く段階にはないので、参考となる諸論稿を読みながら、アベノソーシャルを捉えるための材料を提供していきたいと思います。

 実際には一方的に右傾化が進んでいるわけではなく、安倍政権の数々の暴走に対して世論の多くは批判的です。社会意識の基調が右寄りになっているのは確かであり(例えば安保・自衛隊容認や大企業中心の経済観など)ながら、安倍政権の政策はそれよりさらに右過ぎるので軋轢を起こしている状況だと言えます。それでも安倍一族の発する様々な暴言が批判されながらも、発言者や安倍政権が決定的な打撃を受けるわけでもなく結果的に受容されているかのような(彼らにとって)ユルイ状況があります。そうしたすきをついて、政権サイドたる安倍一族の放言や翼賛的マスコミが、閉塞感で混濁した世論に手を突っ込んで右回りに撹拌しています(もちろんその流れへの抵抗もありますが)。そうした中で人々の社会意識と政権の性格の相互作用を見ていきます。

 安倍政権の性格は新自由主義と保守反動の野合(というか、新自由主義が保守反動を必要とするがためにそれを包摂し利用している状態)であり、そこには対米従属と「自立」志向の相克があります。この相克について対米従属を基軸に解明したのが、白井聡氏の「おもしろうてやがて悲しきアベノクラシー 3.11の痛みの中で自己愛の泥沼に引きこもる日本」(『世界』5月号)です。

白井氏によれば「戦後レジーム」とは客観的には対米従属構造であり、安倍政権を含む歴代親米保守政治勢力にその打破は無理です。そもそも無謀な対中・対米戦争を敢行した保守勢力に、戦後支配層になる資格はなかったけれども、米国による免責と承認によって支配層たることを「外から」許容されました。しかし「内に」対しては敗戦の責任を最小化しなければ支配の正当性を失ってしまいます。戦後日本の支配層からすれば「対米関係における敗北の恒久化を代償として、対国内およびアジア諸国に対して敗戦を否認するという構造」を宿命づけられており、白井氏はそれを「永続敗戦」と名づけました(110ページ)。それは「アジアでの孤立と米国への属国化を表裏一体のものとしてもたらす」(同前)ものです。対米従属構造を直視せず、歴史修正主義的言動を振り回して「自立」した気になっている安倍流「戦後レジームからの脱却」は「永続敗戦レジーム」にはまっており、その無自覚さを白井氏は厳しく批判します。「安倍の理解する(その理解力の範囲内における)『戦後レジームからの脱却』とは『永続敗戦レジームからの脱却』ではなく『永続敗戦レジームの純化』にほかならないという認識上の大混乱が存在する…中略…。認識がよほど混乱した人物でない限り、首相とヴィジョンを共有しえないのである。かかる体制は、顕著に反知性主義的なものであり、『アベノクラシー』と名づけるのに値しよう」(111ページ)。

そこで首相の靖国参拝などをめぐって起きている「日米同盟の危機」をどう捉えるかが問題となります。「米国の不興」を読んで頭目を取り換えるという暗黙のメカニズムが失調して安倍首相が居座っているわけで、この新しい状況はある意味で(右からの反米感情という)「国民の支持」を得て成立しています。そういう意味では「戦後レジームからの脱却」が進んでいるように見えますが、それは一面的であり、「歴史認識問題というイデオロギーの領域における日米対立が生じている一方で、『臣従の強化』が別の領域では着々と進んでい」ます(112ページ)。まず歴史認識問題に関して、「従軍慰安婦」問題での河野談話を安倍首相は継承することを明言しました。「これは、安倍政権の敗北である。こうした安倍の態度変更が上辺のものにすぎないことはいまや世界的に知れ渡っていようが、日本が歴史を『修正する』自由は米国が許容する範囲内においてであることを、ひとまずは認めたわけである」(113ページ)。しかも歴史認識というイデオロギー次元における「反米」は軍事における日米緊密化によってカウンターバランスが保たれています(同前)。

安倍政権の「積極的平和主義」とは、日米軍事同盟の緊密化=自衛隊の米軍の指揮下への服属に他ならず、その具体策として、特定秘密保護法制定、日本版NSCの創設、普天間飛行場の辺野古移設の強行、武器輸出3原則撤廃などが挙げられ、その延長線上には集団的自衛権の解釈変更、自衛隊の国防軍への改組、さらには新憲法制定が控えています。永続敗戦レジームの純化による「自主憲法制定」とは、積極的・自主的に米国に隷従するため、日本の国益追求とは無関係に米国の軍事行動に血を流して補佐させられるという状況です(114ページ)。

こうして新自由主義と保守反動の野合としての安倍政権における対米従属と「自立」志向との相克は、あれこれ波風立てながらも、永続敗戦レジームの純化として従属の枠内に抑え込まれます。これを米側から見ればこうなります。

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 日本の「積極的平和主義」を歓迎することと、歴史修正主義的言動を抑止することは、米国の指導者にとって完全に両立する。

 もっと正確に言えば、安倍がどれほど盛大なレトリックを動員して懸命に説明しようが、安倍の掲げる「方針」など、どうでもよいのである。先に見た、安倍訪米に際してのオバマ大統領の「冷遇」ぶりを思い起こせばよい。要するに、米大統領から見て、「敗戦の観念的な否認」などというマスターベーションに耽る安倍は、世界秩序を構想するにあたって真面目に対話するに値する相手ではないのである。このことは、昨年六月のオバマ−習近平会談の対照的な長さによってはっきりと突きつけられた。

 アベノクラシーとは、戦後日本が基調としてきた「永続敗戦レジーム」の純化であり、それは戦後の本質を知的合理性に基づいて理解することを拒絶するものであるから、当然反知性主義に貫かれている。        115-116ページ

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 このように白井氏は安倍政権の本質を的確についており、その論調は安倍一族を嘲弄して痛快無比なのですが、「反知性主義をしかる知性主義」という上から目線の趣が、政権の共犯として人民を断罪するところまで及んでいるように見えるのが気にかかります。

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卑屈な六九年間。3.11以降変わったのは、日本社会(無論その全部ではないが)がこの卑屈さを恥じなくなった、それに気づきさえしなくなったということだ。大災害と原発事故のもたらした痛みのなかで、歪んだ自己愛の泥沼に引きこもろうとする衝動、それがアベノクラシーを下支えしている。 …中略… 米国は日本を「教育する」義務を持たない。仮にそれでも教育が行なわれるとすれば、それは愛情なき鞭によって行なわれるであろう。「敗戦の否認」に基づく「戦後レジーム」は、いま一度「敗戦」を叩き込まれることによって、確かに「脱却」されるのである。そのとき、滑稽な道化芝居として始まった物語は、深刻な悲劇へと転化しうるが、「永続敗戦レジーム」を長年戴き続け、今日その純化を寿いでいる日本国民は、それを甘受することによってそのツケを支払うことになるのである。

     116ページ

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しかし安倍政権を今支持している人々に対しても、突き放すのでなく寄り添うべきではないかと思うのです。「しんぶん赤旗」6月15日付読書欄で、渡辺雅之氏(『いじめ・レイシズムを乗り越える「道徳」教育』の著者)は「いじめやヘイトスピーチに加わる人たちは、自分の存在を認めてほしいと狂おしいほど願っています。不公平感や閉塞感から生まれた憎しみを乗り越える鍵は物事の背後に隠されている世界を読み解く力です」と語っています。同記事で田中佐知子記者は「本書を貫いているのは、同じ時代と社会に生きている以上、誰でも苦悩の背景には共通するものがあると寄りそう共感の姿勢です」と評しています。深く銘記したい言葉たちです。白井氏の言う「深刻な悲劇」を実現させないために、そういう姿勢で多くの人々に共感し、その結果としてこちらも共感してもらえることが大切です。

 主に安倍政権における対米従属と「自立」について白井論文によって見てきました。支配層における新自由主義と保守反動との野合の根拠と態様については様々な論及があるようですが、とりあえず最近の論稿から拾ってみます。

 藤森毅氏が教育政策の角度から論じるところでは、教育への政治支配を拡大する教育委員会「改革」の根本には、改憲と新自由主義(=「海外で戦争のできる国」と「弱肉強食の経済社会」)という二つの国策があります(「安倍流教育委員会『改革』の暴走と矛盾 『対決・対案・共同』の前進のために」122ページ、『前衛』5月号所収)。したがって侵略戦争の美化は単なるアナクロニズムではなく米国とともに戦争できる「愛国心」の形成であり、侵略戦争を美化する靖国的なイデオロギーは好戦的な「愛国心」を供給できる、とりあえずほぼ唯一のものでしょう(123ページ)と指摘されます(なお同論文は教育委員会制度のそもそも論から説き起こして、政権の暴走への「対決・対案・共同」まで論じており明快で重要です)。

 保守反動思想は、家族から国家に至る共同体的意識を主柱にし、そこに社会的安定を見出しますが、新自由主義的資本蓄積は格差と貧困を拡大しそれを破壊してしまいます。両者は本来的には対立します。この社会的矛盾の激化に対して、支配層は企業主義イデオロギーを国民国家の共同性に接合し、さらに諸矛盾の糊塗に保守反動思想を利用しようとしています。このメカニズムについて、佐貫浩氏はまず「政治的ナショナリズムの土台には、高度成長時代に強固に国民の意識に組み込まれた経済的ナショナリズムともいうべき企業と国民の一体感がある」(「安倍教育改革の道徳観と人間像 今、道徳教育をいかに進めるか」96ページ、『前衛』5月号所収)と指摘した上で以下のように論じます。

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 ナショナリズムの喚起は、企業利益推進のためにあからさまに反国民的となった安倍政権の政治を、共同体としての国民国家の営みとして正当化し、国民の支持を取り付け続けていく戦略に不可欠となっている。そして共同体としての国家を維持し強めるという思いを北朝鮮の挑発や尖閣諸島問題を利用して操作し、その文脈の中で軍事大国化、自衛隊の海外派兵を正当化しようとする。さらにそのような幻想共同体としての国家イメージアップのために、歴史修正主義による国民の歴史観の改造をも進めようとしているのである。

 それは一方で日本社会の共同性を破壊しつつ、もう一方でその幻想的共同性を演出しようとする、矛盾に満ちた危うい国民操作の方法である。   97ページ

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 このように新自由主義政策による社会的荒廃が進む中で、保守反動思想を利用した国民操作が狙われている状況下で、人々の社会意識がどうなっているか、特に安倍政権の存立とのかかわりで見ていきましょう。

 『世界』5月号「読者談話室」に載った秋田圭介氏(各務原市・66歳・自営業)の「チーム安倍が率先する社会」は問題の一面を鋭く抉っています(17ページ)。

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 最大の予想外は、政権内および周囲の粗雑な者達の暴言愚行によって支持率が急落するという期待に反し、安倍政権が広めるナルシスト的排外主義ムードが、予想もしなかった大衆レベルの行動を誘発していることだ。権力の周辺の者達の浅ましい言動に、「偉いさんがああいうことを言ってるんだから、俺だって言っていいんだ」という暴言愚行奨励効果があることに、私は気づかなかった。

 これは社会の底辺での例外的な現象ではない。あらゆるタガを外して節度もけじめも吹き飛ばす、人々の様々な感情が流れる河の堤防決壊とも呼ぶべき、社会全体を覆う危険な兆候ではないか。首相が公職に就けた者達は、劣等感の裏返しのような冷笑的な表情と人を馬鹿にした態度で、これまで我慢してきた個人的な鬱憤を晴らすことと公人としての発言の区別も付かない。他人を尊敬することを知らぬ彼らの陋劣な言動により、社会秩序を維持する重要な歯止めが吹っ飛んだ。「それを言っちゃあ、おしまいよ」と慎む暗黙のルールが共有されることで抑えられていた醜悪なものが、パンドラの箱から飛び出した災いのように無制約的に流れ出した。野蛮への退行である。

 チマチョゴリを狙う弱いものいじめ、街宣車でまき散らす暴力的騒音、更には公共空間を落書きで汚したり車やバイクで耳をつんざく騒音をまき散らす者達までが、「愛国」のスローガンを掲げれば立派なことをしている気分になれるような、倒錯的愛国者の国になろうとしている。過酷な労働と貧しさへの不満を日本企業にぶつけて「愛国無罪」を唱える中国の若者に対応する勢力を、チーム安倍は日本で育成する。

 …中略… アベノミクスが破綻すれば安倍政権は崩壊するだろう。しかし彼らが火を付けた乱暴狼藉御免の風潮は止まらない。精神的な拠り所を失い却って暴発するかもしれない。ファシズムとは別の危険性だ。

 首相は対米従属派だが、彼の国家主義的姿勢は反米右翼の台頭という結果をもたらす。単なる右傾化ではなく、問題が複雑になり先鋭化するだろう。昭和初期の悪夢の再現だけは防がねばならない。

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 もちろん安倍政権の暴走への反発は広がっており、おそらくヘイトスピーチやネット右翼などを念頭に置いた秋田氏の指摘は一面的だとは思います。しかし安倍一族の言動に「暴言愚行奨励効果」があり「野蛮への退行」「乱暴狼藉御免の風潮」が社会的に無視できない範囲で起こっており、暴言愚行にまで至らなくとも影響を受けている層が広がっていることは否定できません。

 植松健一氏は、権力側の「自由な放言」の跋扈が「暴言愚行奨励効果」を持ち、また自由な言論を委縮させることを解明しています(「安倍政権による『国策』の宣伝と教化 拡散する『放言の自由』と委縮する『表現の自由』」、『前衛』5月号所収)。特にそこで安倍一族の言動が影響力を持つことについて、「公と私」という観点から分析されているのが注目されます。

安倍一族の暴言は公的な場でなされたにもかかわらず、その内容は「むき出しの<私>の情念の吐露の類」(82ページ)だということから言えば、それは「『政府言論』などという緻密に計算された不可視的な国民教化の手法などではなく、もっと低次元の―しかし、だからこそ浸透力を伴う―国民間の私的な言論空間への<私>の資格での直接参入と捉えるべきなのかもしれ」ません(81ページ)。植松氏はこれについて政治学者・宇野重規氏の考察を参考にして「法的・政治的過程を媒介とすることなしに<私>と<公>をひたすら実感レベルでつなごうとする試み」(82ページ)と捉えています。ネット右翼などはこう反応するでしょう。「<公>の立場の者たちも、個人的な<私>の言葉を<公>の場で語っているではないか。それと同じ流儀で自分たちも発言して何が悪いのか」(83ページ)。これは、上記、秋田氏の「暴言愚行奨励効果」につながります。こうして低次元の私的情念的政治空間が<公>と<私>の相互参入によって形成され、ヘイトスピーチなどに見られるように「<公>の中にある排外主義的な風潮を、<私>が拡声器・増幅器となって社会の中に伝播させている現象」(83ページ)が生じます。

 保守反動派が異常に感情的に反発するのが日本軍「慰安婦」問題です。居丈高な開き直りと異常な攻撃性の裏には強烈な恥辱とやましさがあるのではないかと思われます。ある意味これと似た要素の感じられるのがインドネシアにおける「9.30事件」への社会的反応です。1965930日、スカルノ大統領を将軍たちの陰謀から守るために、大統領親衛隊が放送局を占拠したのを、スハルト少将率いる軍が粉砕しました。以後、容共的なスカルノ政権を打倒して権力を掌握したスハルト派は、事件を共産党によるものだとして、翌年にかけて共産党員とその関係者を百万人規模で虐殺しました。世界最高クラスの勢力を誇った共産党が抹殺された大事件ですがよく知られていません。それをテーマに1974年にテキサスで生まれた監督が映画化しました。

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 前代未聞のドキュメンタリー。圧倒される。普通、人を殺した人間はその過去を隠したい。取材になどまず応じない。ところがこの映画では、千人近い人間を殺した男がカメラに向かって得々と、いかにして殺したかを語る。自慢する。これには仰天する。

ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』監督ジョシュア・オッペンハイマー・インタビュー「権力は言う、『あれは正しいことだった』と」聞き手:川本三郎氏

     (『世界』6月号所収)264ページ

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 今では孫たちに囲まれて平穏に暮らしている好々爺であるアンワル・コンゴがこの映画の中心人物です。監督ジョシュア・オッペンハイマー(以下、JO)は「普通の人間が人を殺す。だから怖いともいえる」(265ページ)と言い、アンワルが殺人を誇らしげに語る背景について「スハルト大統領の政権が、事件を正当化し、殺人者たちを免罪したからです。いや、罪どころではない。彼らは正しいことをした英雄なんです。現在でもそう考えられています」と説明します(266ページ)。ところが監督の提案にしたがって、映画好きのアンワルが殺人行為の再現ドラマを撮ろうと嬉々として演技していくうちに変化が訪れます。

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 JO 私は何度もアンワルとどうやって再現の映画を撮ってゆくか話し合いました。彼はとても正直でした。そして気がついたんです。

 アンワルも決して自分が正しいことをしたとは思っていない。どこかで「言い訳」を求めていると。

 たくさんの人間を殺したからといって彼は決してモンスターではない。孫たちに囲まれている姿を見ても分かるように普通の人間です。「ヒューマン・ビーイング」です。

 だから「言い訳」を必死で求めるんです。そこに権力者が格好の「言い訳」を用意してくれた。「共産主義者を殺したことはよいことだった、正しいことだった」と。アンワルはそれにすがりついた。

 もちろん誰でも金と権力は欲しい。現在の政権のいうことを受け入れれば、安全な暮しが保障されることもある。

 川本 アンワルの心のなかには葛藤があったんですか。

 JO ある時、アンワルにそれまで撮影したものをまた見せた。この時、アンワルは涙を浮かべて見ていた。しばらく黙ってしまった。それからいった。「これが私なのか」。彼も苦しんでいた。

 おそらく、アンワルは政府が用意した「言い訳」を嘘だと感じるようになっている。なぜなら彼らが殺した「共産主義者」は、それまでの良き隣人だったのだから。

 川本 でも殺した。たくさん。

 JO 一度、殺してしまうと「言い訳」にすがってしまう。信じてしまう。そして殺人を繰り返す。「言い訳」を疑ってしまうと、最初の殺人からして否定しなければならない。

 彼らも決して喜んで人を殺したわけではない。実は軍や政府は、殺人者たちにたくさんウイスキーを与えた。飲ませた。そして酩酊状態で人を殺させた。

 そうしなければ殺人は出来なかっただろう。アンワルはもちろんマルキシズムがどういうものかは知りません。しかし、隣人である「共産主義者」が悪い人間ではないことは分かっていた。

 だから自分を無理にでも殺人者に追いこむしかなかった。そうすることが当時としては安全なことだったから。

      268ページ

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 監督は「個人ではどんなに人間的であっても、権力が『言い訳』を続ける限り、彼らもそれに従わざるを得ない。これはインドネシアだけの問題ではないと思う」(269ページ)とも語っています。他の殺人者が監督から過去の罪を問われると「アメリカ人だって先住民を殺しただろう、俺を批判する資格があるのか」と反論していることも紹介されています(同前)。この映画がアカデミー賞の記録映画賞にノミネートされた時、インドネシアの大統領スポークスマンが「1965年のジェノサイドは人間性に対する犯罪だった」とコメントしました。しかし映画に参加した多数のインドネシア人スタッフは匿名扱いとなっており、監督自身も二度とインドネシアには行けないと語っています(同前)。

日本軍「慰安婦」問題と共通部分が大きいわけではないかもしれませんが、強烈な恥辱とかやましさに対する「言い訳」として、正当化のための政治的言説をつくって、それにすがってきたという点は似ていると思います。この政治的言説は歴史観として「体系化」され、まず正当な歴史観に対して「自虐史観」という攻撃を加えています。それでは自身は何かと言えば「自慰史観」とでも言うべきもので、教育「改革」を通して子どもたちに、マスコミ等を通じて大人たちに押し付けられようとしています。「俺は気持ちいいぞ。お前もよくなれ」。本来やましさを直視して反省すべきところなのに、それを押し隠すために、自分たちだけでなく日本人民全体にマスターベーションを強いているのです。上述、秋田氏による「安倍政権が広めるナルシスト的排外主義ムード」、白井氏による「『敗戦の観念的な否認』などというマスターベーションに耽る安倍」という表現は、安倍一族を中心とする支配層の一部勢力の性向を捉えたものでしょう。それを社会意識にまで広めたアベノソーシャルは、真実から目をそらし、アジア諸国と共生する道から踏み外し、やましさを隠蔽してマスターベーションに逃避するという性格を持っています。

蛇足ながら、性教育的観点から言うと、マスターベーションを悪癖とする旧観念に同調するものではありませんので誤解なきように。

 日本軍「慰安婦」問題についての日本社会での受けとめの問題点とその克服について、林博史氏の「次々発見が続く河野談話を裏づける新資料」(『前衛』6月号所収)が解明しています。日本社会では先の戦争について侵略戦争という一般的認識はあっても、その事実や中身について十分に認識されてこなかったことが、今日の右傾化の基盤にある、と林氏は考えています。

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 日本では、侵略戦争と植民地支配という加害に対する反省をずっとあいまいにしてきたなかで、日本社会としても、共通の前提、共通の認識というものを十分につくれなかったのだと思います。だから右からの巻き返しになるとどんどん崩されていく。戦争はよくないという認識があっても、きわめて漠然としたものでしかないため、戦後日本が平和国家、民主主義国家として出発し、進むにあたって加害意識を共通のものにせずあいまいにしてきたのだと痛感させられます。そのことはヘイトスピーチについて「あそこまでいうのはひどい」という意識はあっても、重大な人権侵害であって、自由民主主義社会としては絶対に許されないことだという共通の認識が必ずしもないことにもあらわれているのではないでしょうか。         88ページ

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 確かに日本における社会意識は漠然と良識的ではあるわけです。それは一方では信頼し依拠しうるものではありますが、他方ではそのレベルの認識ではまだ右傾化に十分に対抗しえないのです。ここにメディアを巧みに利用するアベノソーシャルの付け込む余地があります。であるならば私たちの努力の方向は明確です。橋下大阪市長や安倍一族の妄言に対して、メディアが中国・韓国が怒っているというレベルの報道しかしない中で、自国の問題として「資料や証言がたくさんあることなど、事実がどんどん提示されて、国民がその事実にもとづいて判断するというふうになっていかないとだめだと思います。そこから、一つひとつ積み上げていくしかありません」(同前)。

 拙宅近くの大型書店の広いスペースを埋めているのは実用書と娯楽書ばかりであり、教養書と言えるようなものはほとんどありません。政治や社会の本と言えば「嫌中憎韓」本いわゆる「ヘイト本」が圧倒しています。「ヘイト本は売れるのでなかなかやめられない」「嫌韓嫌中がまるで娯楽になっている」という状況の中で出版社や書店などから抗する動きが出ています。「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」と出版労連共催の「『嫌中憎韓』本とヘイトスピーチ 出版物の『製造者責任』を考える」研究会や、河出書房新社による「今、この国を考える 『嫌』でもなく、『呆』でもなく」という選書フェアが開催されました(「しんぶん赤旗」722日付)。後者を企画した2030代の編集者と営業の4人の中では「国内の問題が置き去りにされている」と話し合われています(同前)。日中韓が不毛なナショナリズムの相互増幅に陥っているのは、それぞれの国内で格差と貧困などによる社会的荒廃が進んでいるのを排外主義で逸らして諸矛盾を糊塗しているからです。そういう意味では各国人民にとって、排外主義を排して国内問題を直視するという共通課題があり、連帯の可能性があります(ただし日本人民にとっては、自国の侵略戦争責任の明確化という特別の前提的課題があり、それを果たしながら「共通課題」に参加しなければならない、ということが銘記されるべきです。ヘイト本問題の克服はその不可欠の一部です)。新自由主義グローバリゼーション下で、排外主義視点による国家・民族問題へのすり替えを見破って、階級関係の普遍性の視点を押し出していくことが必要だと思われます。アベノソーシャルの克服もそうした位置づけにあるでしょう。

 そうした階級視点を前提としてさらに、統合性を持った人格として人間を捉える立場から、新自由主義下における人間の断片化・手段化の様相を捉え、その克服を探ることが必要となります。前出、佐貫浩氏の「安倍教育改革の道徳観と人間像 今、道徳教育をいかに進めるか」(『前衛』5月号所収)はまず「学力」問題を中心に、新自由主義下における歪んだ人間観・教育観を告発しています。

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 社会に非人間的な格差をつくり出しておいて、その底辺の困難を背負うことになるのは、学力がないものの自己責任だという論理が現代社会の仕組みとして組み込まれている。しかも、激しい競争をくぐり抜け、不利を人一倍の努力でサバイバルしてきたものにとっては、「自己責任」の論理は、その「努力」を正当に評価する正義の原則と感じられることもある。新自由主義社会を支える社会意識は、その意味で、競争の勝利者の心情をその中に組み込んでいる。「学力向上」というスローガンは、まさにその新自由主義的心情のまっただ中に教育を据えるイデオロギーとして機能しているのである。

 本来、子どもの学力向上は、子どもの権利の実現の一環をなしている。しかし子どもの発達は全体的なものであり、人格としての統合性を土台として、その人格の主体性、目的の発達を核心とし、自己実現に必要な諸力がそこに統合されることによって、初めて達成される。ところが政府やグローバル資本の側から、せまい「学力」だけが教育の達成目標として提示され、子どもはその学力の担い手としてのみ評価、評定され、人格と学力が切り離され、その結果、学力目標を達成できないものは値打ちのない存在としての烙印を押される。教師も学校も、この学力の達成度で評価され、管理され、達成効率の向上のために、権利としての子どもの成長に働きかける教育の全体性をはく奪されて、ただ子どもを「学力」達成の道具として訓練し調教するところへ追い込まれていく。そういう教育の変容は、学校という空間から、人間の尊厳の感覚を奪っていく。道徳教育でいくら人間の尊厳を強調しても、日々の学校での行動規範は、敵対的サバイバル競争の規範(ル―ル)となり、連帯と協同の価値を実感する場が縮小していく。その現実とたたかう姿勢なくして子どもたちを社会の公共性の担い手として育てることはできない。

   98ページ

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 新自由主義が人間の尊厳を奪い、社会の公共性を破壊していくことは、以上のようなまともな人間観に基づく反省によってはじめて捉えうるものであって、多くの現代人にとって新自由主義的な人間と社会の現実は「自然」として受け止められています(もちろん格差と貧困などの過酷な現実は人々に疑問と反発を生じさせるものだが、それと批判的な人間観・社会観との間にはまだ距離がある)。アベノソーシャルはそこに適合的なイデオロギーと社会的現状の総体の一つの型だと言えるでしょう。その克服にどう挑んでいくか。

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真の市民的主体化とは、むしろ共同性を演出しようとする装いの背後に隠された対立と論争点―すなわち真に論争・解明・克服されなければならない焦点的課題―を公的な論争場に引き出し、異議申し立てによって平穏な空間を論争化(政治化)し、新たな協同と合意を再形成し続ける能動的主体として参加することによってこそ遂行される。道徳性の獲得、発展は、その社会の支配的な価値規範や制度の同化的継承としてではなく、絶えずその時代の歴史的、社会的な課題、その実現にふさわしい社会規範の形成・変革・発展を遂行する価値的(思想的)格闘をともなった社会的実践として遂行される。そこでは既存の道徳規範は、新しい課題、あたらしい現実、新しい科学の発展と絶えず交渉しつつ、批判的に再創造されるべきものとして存在しており、道徳教育は子ども自身をそういう新しい道徳性の変革と創造の主体として育てる営みでなければならない。そして原発をどうするか、地球環境問題をどうすべきか、社会の格差貧困をどう克服するか、等々のまさに日本社会にとっての歴史的な課題が押し寄せている中で、それらに向かい合い、日本社会の歴史的選択力としての科学的視野と新たな正義の探求の営みに教育と子どもの学習をつなげることが求められているのである。

ともすれば学校は、学力競争に熱中すべき場として設定され、その秩序を撹乱する逸脱者への行動規範の教化として道徳教育が意図されることが多い。しかし本来学校は、新たな科学の習得によって知を拓く場であるとともに、新たな価値規範の創造主体として若い世代を育てる場ではなかったのか。授業それ自体が道徳性を創造する場とならなければならない。      101ページ

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 これは教育論文だから、そこでの主人公は子どもであり、その主な活躍舞台は学校ですが、大人を含めた人間とその社会全体に十分に通用する論理が展開されています。上述のような人間観に立てば、支配的な社会規範への「異議申し立て」「論争化」を通じて、すべての人々が「新しい道徳性の変革と創造の主体」となり、学校以外の社会全体においても「新たな科学の習得によって知を拓く場であるとともに、新たな価値規範の創造主体として若い世代を育てる場」を用意し、自からも育つことが求められています。

 私の観点からすれば、佐貫論文にはアベノソーシャルを生み出す新自由主義的基礎とそれを克服する人間観と社会観が提示されています。このようなしっかりした前提があって、より具体的な提案に進んで行くことができます。

 憲法や政治の次元での発言として興味深いのが、小堀眞裕氏の「海外で見た安倍政権の異常と日本政治の課題」(『前衛』6月号所収)です。小堀氏は、イギリスやオーストラリアなどと比較して、日本の政治=社会状況、マスコミのあり方、裁判所の姿勢などがきわめて異常であることを様々な角度から指摘しています。

その中で憲法と政治=社会状況について見ていきます。イギリスやオーストラリアでは憲法に生存権がないが、日本より人権は守られており、なぜかと言えば、コモン・ロー、人々の合意や慣習によって支えられている、というのです(69ページ)。

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私は、日本では、いま憲法への攻撃に対して、民意による合意によって、憲法を現実のものとしてしっかり社会に根づかせるということが必要なのではないかと思っています。逆に条文だけ守ればよいという態度は、国民自身が起こしている空洞化の危険から目をそらせがちです。    70ページ  

民主主義の原点は不平とか不満です。しかし、日本では不平や不満を言ってはいけないという雰囲気があります。不平を言って普通、不満を言って普通なのだというふうにしていかないといけません。  71ページ

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 デモが少なく、ストはなく、マスコミに依存するという状態で、人々の意志の自己表現がない日本社会。社会がどのように不合理で誤りに満ちているようであっても、そうなったのには理由があります。多数の人々にとって、受動的に沈黙していてもそこそこ生きていけるのが日本社会だったのでしょう。しかし小泉改革などの新自由主義政策によって社会の底が抜け、政権交代がありました(2009年)。逆にそれが失望を招いたとはいえ、3.112011年)以降の政治不信の爆発は日本社会の質を変えつつあるでしょう。それを逆手に取って右傾化に回収しようというのがアベノソーシャルですが、政権の余りの暴走ぶりに人々の対抗的自己表現が高まっています。これが憲法の実質化(空洞化の克服)という確かな方向性(一点共闘の結集軸)を獲得するなら希望はあります。

 同じ客観情勢であっても、主体の働きかけ次第で反動にも進歩にも変化しうる場合は多くあります。安倍政権の反動攻勢と対抗勢力の激突の中で、アベノソーシャルが効果的に働き反動化が進むのか、進歩勢力が連帯を構築して社会的変化を創造し押し返していけるのか。最近の社会運動にその教訓を探ります。

今野晴貴氏の「ブラック企業はなぜ社会問題化したか 社会運動と言説」(『世界』6月号)は、「日本のさまざまな分野の社会運動の広がりの一助とする」ために「ブラック企業問題を社会問題として認知させた、社会運動の成功要因について分析した」(190ページ)論稿です。

まず運動のキーワードについて、社会的な広がりを獲得できるような定義が重要です。たとえば「違法企業」という定義では、サービス残業をしている企業はすべて含まれてしまい、日本企業はほとんどブラック企業だということになり、あえて社会問題として特別に取り上げることが難しくなります。そこで「若者を使い潰す企業」という定義を採用することで効果をあげます。働けない若者が膨大に生み出されることで、生活を支える両親、就職指導をする学校教師にとって大問題になるし、税収・社会保障を圧迫し、経済界も人材の枯渇という悪影響を受けます。「このように、ブラック企業による若者の使い潰しは、日本の将来を危機にさらすと同時におよそほとんどの人々を関係当事者とする」(190191ページ)ことがこの定義によってあぶりだされ、社会問題化に成功する重要な一因となりました。メディアや厚労省がこの定義に注目し、地方自治体も含めて対策にも乗り出してきた「背景には、社会運動が積極的にこの定義を普及してきた経過がある」(192ページ)ことも合わせて今野氏は強調しています。

キーワードの定義に限らず、社会運動にとって言説は極めて重要であり、しばしば現実を動かす力となります。2000年代初めから中盤以降における、若年不安定就業者層に対する社会意識の逆転に、その典型例を見ることができます。2000年代初めには若者の非正規雇用が急増したのに対して、「フリーター」や「ニート」なる言葉で「若者の劣化」や「人間力不足」として理解され、若者たち自身も自分を責めていました。「堕落した若者」に敵対する情動が人々を捉え、親・教育者・行政そして労組さえも彼らに敵対する社会的な勢力として形成されました。ところが2000年代中盤に「ワーキングプア」「反貧困」という言葉が生み出されて以降、非正規雇用は貧困の問題に置き換えられ、若者は格差社会の被害者と認められ、教師や行政は彼らを助けるべき存在となり、反貧困という言説の下に政治勢力が形成され、敵対関係が変容しました(194ページ)。ここから今野氏はこう結論づけます。

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 このように、同じ事実であっても、言説化のされ方によって、私たちの関係やアイデンティティの構成は大きく変わる。人々の情動に訴えかける言説への実践的介入が新たな敵対性を構築し、現実の人間相互の関係や、社会の在り方そのものをも変質させていくことができるのである。       194ページ

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 ただしチャンスとピンチは裏表であり「情動の形成に失敗すれば、逆の社会的勢力が形成されることもあ」ります。たとえば学生たちが就活の困難さの原因を、解雇規制のせいで上の世代が良い仕事を独占しているためだ、と情動をかき立てられ、解雇規制の緩和を要求してデモをすることがありました(195ページ)。

 今野氏はシャンタル・ムフに依拠して「人々の情動に訴えかける言説への実践的介入」「新たな敵対性の構築」について以下のように述べます。

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 ムフは、人間は現実の社会構造に規定される一方で、「集合的な同一化によって動因される情動的次元」を有するのであり、利害関係や理性のみに従っているわけではないという。そして、この「集合的同一化(アイデンティティ)」を生み出すものは、「敵」「味方」という敵対関係である。  …中略…

 アイデンティティは事実に固定的に対応するものではなく、常に可変的なものである。そして、これらのアイデンティティは敵対性に直面した時に、「等価性の連鎖」を生み出す。すなわち、「対立する要素や価値を排除するような、要素や価値のあいだでの等価性を基礎にして社会的アイデンティティが構築される」のである。

 この、人々の多様な、そして揺れ動くアイデンティティに等価性の連鎖を生み出し、政治的権力関係を構築するものこそが、言説である。言説は社会の中の敵対関係を表現し、人々のアイデンティティを構成する。どのように言説が設定されるかによって、政治的な地勢図が決定づけられるというわけだ。

 この言説自体はつねに揺れ動く「空虚なシニフィアン」にすぎない、それは、「反ブラック企業」や「反貧困」にもなりえるし、「反規制」や「既得権批判」にもなりえる。だからこそ、言説は社会運動実践の地平にある。  …中略…

 こうした敵対性の再編は社会の権力関係を変化させることで、現実の変革を成し遂げる。たとえば、残業代不払いは違法であるといくら主張しても、社会の権力関係が変わらなければ、大多数の違法企業は従わない。だが、「反ブラック企業」という敵対関係に社会が編成されるならば、「支払わせる権力関係」が構築されるのである。

      196ページ

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 政治言説による対抗軸づくりによって、情動化の次元で社会的アイデンティティ(仲間内での等価性と外への敵対性)が形成され、それが社会の権力関係の変化をもたらすことが述べられています。これについて階級闘争の観点から二点に注目します。一つは「敵対性の構築」の積極的肯定であり、もう一つは、人間の行動が社会構造に規定される一方で、情動的次元にも従うという指摘です。

 小泉・橋下などの新自由主義的ポピュリストは、「既得権益勢力」とそれに挑戦し破壊する「改革者」という対立軸を無理やりつくりだし、大衆的情動を動員することに成功した結果、新自由主義的に破壊し荒廃させるという形で、社会を「変える」ことに貢献しました。これに対する「大人」の批判は次のようなものです。……白黒二元論・単一の対立軸による二項対立といった単純化はいけない。現実はもっと複雑だ。グレーゾーンがあるし対立軸はいくつも入り組んでいる。政治とは利害調整と妥協であって、一方的な正義を安易に語るのは誤りだ……。これは新自由主義構造改革の根本は不問にして、手法の問題にすり替えた小賢しい「批判」です。

実際には「既得権への挑戦」の名の下に、社会保障削減・労働規制緩和など、人々の生活と労働に対する厳しい攻撃がされているとき、まさに階級闘争の最中に、「社会の建設と運営」一般論の次元に解消した議論をして、「人々がこの複雑さを理解しない」といって、上から目線で嘆くのは、現実離れした牧歌的姿勢であり、人々の生活と労働の切実さに身を寄せず、階級闘争を中心に展開する政治のダイナミズムを無視する姿勢です。新自由主義的ポピュリストの問題点は、二項対立によって現実を単純化したことではなく、支配層と被支配層との根本的対立から目をそらすニセの対立軸を(支配層の立場から)設定したことです。したがってそれに対置すべきは、一般論の次元から現実の複雑さを説教することではなく、現実の階級闘争に立脚した対立軸を設定することです。それ故、今野氏が社会運動の課題として「新たな敵対性の構築」「敵対性の再編」を堂々と掲げたことは、自称「良識派」の欺瞞を衝く快挙だと評価できます。もっとも、新自由主義構造改革の暴力性と粗雑さに反対する限りでは、「良識派」とも共闘することは当然ですが。

「敵対性と情動」を中心にして社会運動を捉える、と言えば、「理性による共同性」という目指すべき社会像に反する「情動による敵対性に満ちた」社会像を肯定するのか、と短絡的に指弾されそうです。しかしそうではなく、現実の社会は敵対的であり、その中の人々が多分に情動に支配される側面があるということを直視した上で、敵対の性格を正しく捉え、そのすり替えを許さず、すり替えによって扇動された情動ではなく、真の敵対性を見据え、そこから沸き起こる正当な情動を起爆剤として社会を変革する、というふうに考えたらどうでしょうか。それを経過することで「理性による共同性」という社会像に接近しうる、と。今野論文ではそのような情動の二分化はないので、ひょっとすると、そうした固定的な二類型は誤りで、情動はアイデンティティと同様にいかようにも変幻自在だとされているのかもしれませんが…。

しかしいずれにせよ、現実にある敵対性である階級闘争を、まるでないかのようにして、「利害調整と妥協」、「理性による共同性」という一般論に無媒介に直結するような議論は、現実を美化し、変革の方向性を見失わせるものです。

存在が意識を規定するというのが唯物論の命題ですが、それは究極的あるいは大局的に言えることであって、少なくとも短期的・局部的には様々な屈折・逸脱等がありえるし、それが短期・局部に収まらない場合もあり、意識の存在への反作用が問題となる決定的時点さえもありうるでしょう。歴史を後から大きく振り返るのではなく、歴史を前に向って切り開く渦中にある場合(「歴史としての現在」)には、局面ごとに、存在に対する意識のこうした相対的自立性がいつも重大問題になります。その意味では、今野氏がムフを引用して、人間が現実の社会構造に規定される一方で、敵対関係の設定のあり方でいかようにも変化しうるアイデンティティによって動因される情動的次元を有する、という点に注目したのは卓見です。ただしその情動への恣意的な把握を防ぐために、ニセの敵対性に扇動された情動と客観的な階級対立を反映した情動とに分けて捉える必要があるのではないか、と私は考えます。たとえば今野氏の例示から拾うならば、「反規制」や「既得権批判」という言説が喚起する情動は前者であり、「反ブラック企業」や「反貧困」によるものは後者に属します。

後者の情動にとって、事実の深さによる支えが重要です。水谷正人氏の「欧米並みの全国一律最賃制の実現を 最賃裁判の到達点」(『経済』7月号所収)にそれを見ることができます。最賃裁判は「クレジット・サラリーマン金融被害者救済裁判」の宇都宮健児弁護士の講演に学びました。この裁判では、借りた金は返すのが当たり前だという非難を原告が浴びる中で、原告・当事者の声と実態、真実で徹底的に告発して、自己責任論を覆して勝利したのが教訓だというのです(126ページ)。最賃裁判では、「トリプルワークのシングルマザー:40代女性」「タクシー労働と生活保護受給で生活:50代男性」「法律事務所の正規職員として働くも低賃金で、居酒屋で働かざるを得ない青年:25歳女性」など老若男女13人が法廷に立ちました。「これら原告の意見陳述は、憲法違反の最賃を告発し、毎回迫力ある法廷をつくりだし、最賃裁判の意義をより深め傍聴者に怒りと感動を与えるものにな」りました(同前)。

 脱線しますが、水谷氏によれば、賃金・最賃闘争の基本はストを含む全国闘争だけれどもそれが難しい中で、激論の末、裁判闘争というインパクトのある闘いに取り組むことにしました。日本社会におけるそのことの意味はどうなのでしょうか。ストが人々の情動を喚起しないどころか反発さえ生みかねない(例外として何年か前のプロ野球選手会のストがあったが)、という状況下、上述のような法廷の様子や、そもそも世論へのインパクトを考慮して裁判闘争を選んだということからは、日本社会における正当な情動の喚起が難しいものであり、それだけにやりがいがあり、効果的戦術への工夫も求められる、ということが痛感させられます。本来、裁判闘争とは苦労多く繊細で究極の理屈の闘いであり、浮動的で大ざっぱな情動とは対極にあるはずですが、それもまた「人々の情動に訴えかける」という社会的効果に組み込まれるという自覚が必要なのでしょう。

 以上、アベノソーシャルを捉えるというテーマで、安倍政権の性格と世論との相互作用、そこから生じる右傾化の様相、その克服のための観点と実践の方向性などについて書いてきたつもりです。もちろんテーマに対する何らかの概念的把握には至っていませんので、あまりに散漫でまとまりがないものになりましたが、ほんのわずかでも参考になる点があれば幸いです。
                                 2014年7月30日




2014年9月号

          内需縮小を生活次元から分析 生活圧縮の思想

 政府やマスコミが、消費税増税の影響は「想定内」と喧伝する中、201446月期のGDPは実質で前期比1.7%減、年率換算6.8%減の大幅な落ち込みとなりました(813日、内閣府発表の速報値)。「最大の要因は、個人消費が増税前の駆け込み需要の反動を超えて落ち込んだことです。実質GDPを項目別に見ると、個人消費が前期比5.0%減(年率換算18.7%減)。9746月期の3.5%減(同13.2%減)より大幅に悪化しました。反動減だけでなく、長年にわたる国民の所得の減少が消費を押し下げました」(「しんぶん赤旗」814日付)。この内需縮小がバブル崩壊後の(庶民から見た)万年不況の原因であり、生活危機を伴っています。経済学にとって重要なのは、内需縮小の構造を生活次元から分析することで、生活意識と国民経済分析とを結ぶことです。それは実感を原動力として人々を経済変革へといざなう力になるでしょう。

 金澤誠一氏の「アベノミクスの下での国民生活の危機と再構築」によれば、資本主義の発展により生活の「社会化」と(商品化としての)「現代的・資本主義的社会化」が進むことで「賃金依存度」が上昇します。にもかかわらず雇用の不安定化と賃金の低迷が続き、「その結果は生活の圧縮である。徐々に国民の生活は圧縮・削減され、『貧困』が蔓延し、格差は拡大していく。それはまた国民経済の縮小をもたらす要因となる」(34ページ)。

 論文はそうした一般論からさらに人々の実生活のあり方に分析のメスを入れることを通じて、対象の総合的な認識に迫っています。生活の「社会化」概念に従って、総務省「家計調査」の費用分類を次のように再分類します。「個人的再生産費目」「社会的体裁維持費目」「社会的固定費目」「生活準備金費目」(34ページ)。

 論文は、低賃金不安定雇用化の進展で個々の労働者の給与収入が減少していることのみならず、労働者世帯としても収入が下がっていることを見た上で、家計支出の構造を分析しています。まず社会的固定費目が1970年の23.2%から2013年には42.1%と大幅に増大していることが指摘されます(39ページ)。当然、「個人的再生産費目」「社会的体裁維持費目」が圧迫されます。つまり自由に使える「日常生活費」が減少し「家計支出の硬直化」が進みます。こうして個々人の自己実現が阻害され、社会的交際が狭められます。金澤氏は「実収入が減少し、しかも『社会的固定費目』が増加すれば、その分『日常生活費』を削減せざるを得ないのであり、その分購買力を低下させ、地域経済の衰退の原因の一つとなり、そして何よりも人々の豊かさの実感をもてない理由ともなる」(41ページ)と総括しています。さらに「生活準備金」も1995年以降減少傾向にあり、特に貯蓄性の高い民間保険の解約が進んでいることが注目されます。福祉削減や教育費負担増などに備える「生活準備金」が削減されていることは、人々の将来への不安増となっています(42ページ)。

 このような生活危機が進行する中、逆に政府は生活保護バッシングなどをテコに、生活保護基準を切り下げ(そこで「デフレ調整」と称してインチキな統計利用が行なわれていることについては、白井康彦氏の「生活保護費を大幅削減する『手品』」/『週刊金曜日』201427日号所収、417日臨時増刊号にも再録/ と「デタラメな生活扶助相当CPI/『季刊公的扶助研究』第232号所収/ など参照)、それに連動して最低生活の「岩盤」をドリルで削っています(42-45ページ)。もはや泣き寝入りせず、堂々と悲鳴を上げ、政治変革を訴えることが必要なのです。その際に、生活実感に密着しつつ、その国民経済的意味を解き明かしたこのような論文が力を発揮します。

 ところで経済(学)の目的は生活を豊かにすることであり、コスト削減は手段です。それが両立できればいいのですが、そううまくはいかず、挙句の果て、目的と手段が逆転してコスト削減のために生活が貧しくさせられる場合があります。それに対しては、生活を守るため、相応のコスト負担は必要だと言うべきです。コスト負担のあり方については、今日でいえば、大企業が抱える巨大な内部留保を活用するなどして、ただでさえ貧困化している庶民を犠牲にしない方策を考えるべきです。

 医療費の増加が問題とされます。もちろんあれこれの部分ではいろいろとコスト削減が問題とされるべきことはあるでしょうが、全体として言えば、日本の医療費は他国と比べ少なすぎ、その中でも医療関係者の自己犠牲的努力で高い成果(長寿など)を上げているのが実態でしょう。そういう意味では日本の医療はきわめて「効率的」です。

 ところがコスト削減の問題意識の中で、「うまい話」として左右を問わず語られるのが、「予防活動を強化すれば、人々が健康になるだけでなく、医療費も節約できる」という神話です。しかし医療経済の実証分析と将来予測に定評のある二木立氏は以下のように述べています(インタビュー「参院選の自民大勝で、 医療政策はどう変わるか−安倍内閣の成長戦略と医療政策の今後の行方」、『国際医薬品情報』2013812日号/第991)。

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 ただし、予防によって医療費を削減できないことは、日・米両国で行われた膨大な実証研究で結論が出ています。例えば日本では、08年度から開始されたメタボリック症候群対策の先駆けとして、国民健康保険が0206年にかけて全国33市町村でヘルスアップ事業(モデル事業)を実施しました。これについてシステマティックレビューを行った岡本悦司氏(国立保健医療科学院)は「プログラムの介入後1年間の医療費への効果はバラツキが大きいが、総じて4〜5%程度の医療費膨張効果がある」ことを実証しました。

 米国の厖大な実証研究でも、予防が治療よりも医療費を安くすることは証明されていません。下げるものもあれば、上げるものもあります。一番良い例が禁煙です。禁煙は、確かに短期的には医療費を減らします。しかし余命を延長する結果、生涯(累積)医療費は増えてしまうのです。オランダでのシミュレーション研究では、余命延長が15年内であれば累積医療費は減りますが、15年を超えると逆に増えました。日本でも米国でも政治家や官僚は予防によって医療費が減らせると主張しがちですが、増える可能性の方が大きいと言えます。

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 まあ仮に医療費が増えないとしても余命が伸びれば財政上は年金支出が増えます。つまり予防というのはあくまで、健康で長生きするという豊かな生活の実現を目的として実施されるものであって、医療費や財政支出の削減を狙ってはいけないということです。「神話」を信じて、予防をやってみたけど医療費が増えたから止めようか、というような本末転倒の感覚が横行しているのではないか、と思えるのが怖いのです。良い効果を得るためにはそれなりの費用が必要であるのが普通であり、間違っても、費用の削減を目的に生活を縮めるのを普通にする(今の政治はそうなっている)ことを許してはなりません。

 この点では、「神話」にとらわれた記事も従来散見した「しんぶん赤旗」819日付の主張(「健康長寿社会」 看板に隠された危険な思惑)で、次のように、政府と対照的なきわめてまっとうな見識を示していることが注目されます。「政府は、国民の健康管理・予防の推進で5兆円規模の医療・介護費を抑制できると皮算用をしていますが、健康増進運動に励めば医療・介護費が減る根拠はないといわれています。『社会保障費削減』と直結させる『健康づくり運動』は短絡的な発想で危険です」。さらに政府の抱く「健康=自己責任」論や「不健康な個人=全体の迷惑」論を批判して、WHOが健康について「社会的決定要因」を重視している姿勢を紹介し、政府の責任を正当に厳しく追及しています。「主張」見出しにある「危険な思惑」とはまさに「危険な思想」でもあり、それは健康観とともに経済観・社会観も当然のことながら歪んでいる結果です。

 歴史貫通的には経済の目的は生活を豊かにすることです。資本主義の目的は利潤追求です。その結果として生活が豊かになる、というのが資本主義の歴史への弁明です(歴史的存在理由)。それはとりあえずここでは良しとしましょう。新自由主義は、利潤追求という資本主義的目的の手段としてのコスト削減を最大限に追求する(それは低成長期=資本の過剰蓄積期という資本主義の歴史的限界の反映であろう)ことが習い性となった結果、コスト削減そのものを目的とするという転倒に至ります。日本政府の経済観・社会観に従属した健康観・社会保障観は当然のことながらこの新自由主義的転倒に規定されて、人間(生活)をカットするまで暴走しているのです。ここには経済の本来の目的は跡形もなく、逆にそれは「経済」を阻害するものとされます(たとえば「賃金を上げたら企業が成長しないだろう!」)。経済の疎外体としての「経済」がここにあります。

 

 

          農業問題を根底から捉える

 労働力構成の高齢化・後継者難を抱え、日本農業の縮小が止まりません。解決策として政府からいつも出されるのは、農業保護切り捨て・規模拡大・株式会社参入など生産力主義に基づく政策です。対して環境・多面的機能・地域社会論などの観点からの反論がよく行なわれていますが、それだけでなく生産関係の視点を含む原理的・史的かつ世界的な視野を持った反論が必要です。

福島裕之氏の「新自由主義と闘う世界の家族農業と食糧主権」は、家族農業経営の持つ歴史貫通的意義を積極的に捉える観点を基礎にしつつ、その市場経済・資本主義経済での変容と世界中での健闘をおさえ、そのような歴史的・世界的視野を前提にして、1980年代以降のグローバル・アグリビジネスや投機資本などとそのイデオロギーたる新自由主義との激闘を見事に捉えています。広さ・深さ・原理性・実践性において括目すべき論稿です。

論文は、2013年国会で法案が成立し発足した農地中間管理事業について、農地貸借の最終判断は知事にあり、農業委員や市町村関係者は排除されていることを指摘し、いよいよ農民的土地所有を農外大企業の手に引き渡す段階に達した、と捉えています(87ページ)。日本経済調査協議会報告書「農政の抜本改革:基本指針と具体像」(2004年)に見られる、財界の農地制度「改革」論では、所有権と利用権の分離という本音が語られています。この路線では、不在村農地所有(単なる収益資産としての土地所有)の拡大により、農地所有権の単なる商品化が進み、マネー資本主義下で零細土地所有者の地権喪失・賃労働者化さらには、巨大企業による土地所有の集中独占、巨大地主的所有の出現へと展開する可能性があります(88ページ)。

 こうした近年の日本農業の危機をより深く本質的に捉えるためには、19世紀以来の世界の家族農業の歴史的展開と1980年代以降の新自由主義による攻撃とをおさえることが必要です。19世紀末以来、欧米では資本主義農業が進出し、家族農業と競争しましたが、その後の長い期間を通じて後者が勝利して今日に至っています。「20世紀に飛躍的に進展した農業の機械化が、一方では賃労働による資本主義的大農場の可能性を生んだが、同時に耕種部門を中心に家族労働による耕作可能面積の上限をも大幅に引き上げたので」す(90ページ)。

農業の資本主義化によって多くの家族農業経営が破綻してきましたが、残った農家は新しい生産技術を吸収し、農協など経営間の共同形態を生み出し経営を守り発展させてきたのです。もっとも、家族農業経営とはいっても、規模や市場化の程度など様々ですが、いずれも労働は主として家族労働で、経営の目的は何よりも家族の生活の維持と改善です。資本主義企業の利潤追求原理とは異質な生業なのです。

蛇足ながら、こうして先進諸国を含めて今なお世界的にも家族農業経営が支配的であるということは、経済原論へ一つの問題を提起しているのではないでしょうか。『資本論』第3部の地代論は資本主義的農業を前提にしています。それはおそらく当時のイギリス資本主義の状況(と発展が予想される方向)をある程度反映しているとともに、生産力段階的に考えて、資本主義的大工業に対応する資本主義的農業経営と大土地所有という生産関係および再生産構造を想定するのが理論的に整合的だという含意があるからだと思われます。ところが資本主義農業との競争の中でも依然として家族農業が支配的であるということは、農工間格差や生産力と生産関係との関係などを考慮しつつ、現代の経済原論としてそれを何らかの形で反映する必要はないのか、という問題が生じているように思われます。もっとも、今日のグローバリゼーションに生産力的に対応するのは、あくまでグローバル企業のアグリビジネスであり、理論はそのように構成し、家族農業経営の問題は保護政策を含めて農業政策の次元に属するという立場もあるかもしれませんが…。

 閑話休題。しかし1980年代から新自由主義が家族農業経営への攻撃を激しくしています。GATTウルグアイラウンド(19861994)とWTOへの改組により、WTOの農業合意が「国際規律」とされ、農産物の貿易自由化と国内農業支持政策の一掃が図られます。そうした中で、アグリビジネス資本によって世界食糧システムが形成され、資本主義大農場ができるだけでなく、家族農業経営が巨大アグリビジネスの傘下に取り込まれる事態となっています。土地所有の分野では、1990年代に新自由主義的な市場主導型農地改革(MLARが登場します。これは自発的売り手−自発的買い手<cfルによって、土地改革過程の歪曲・変質を図るものです。この登場の背景として、世銀・IMFによる新自由主義構造改革の押し付けの失敗に対して、新たな農民運動が昂揚し、国家主導の土地改革要求が噴出したことへの対抗があります。

MLARを批判して所有・市場・資本を本質的に論じた以下の部分が本論文の理論的白眉と思われるので、長くなりますが引用します。

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 世界史的な農民解放の波から取り残されて大土地所有に対する小作農民および土地なし農民の対抗が存在するところでは、対立しているのは自らの生活と生産の場である土地を「わがもの」にする権利としての所有と、それに寄生して剰余を取得する権利としての所有であり、この二種類の所有は質的に異なるだけでなく、根本的に対立している。

 MLARの本質は、土地を市場における単なる商品に転化することによってこの二つの所有の質的差異と対立を覆い隠し、地主制に近代的装いを与えることにある。そして、一方では大土地所有の解体と再分配を求める農民の要求を、地主の土地収用ではなく、地主に何の義務も痛みもなく農民の側だけに過大な負担を強いる地主の自発的売却と農民の融資つき買取りへとそらせるとともに、他方では土地の商品化の徹底を通じて資本が容易に耕作農民からその生活と生産の手段としての土地を買い取り、収益権としての土地所有を集積できるようにするのである。

その先にあるのは、資本主義的大農場経営の可能性だけではない。小作農民からの小作料収受を目的とする、資本による大土地所有、すなわち資本の寄生地主化の可能性も待ち受けている。現に高度に発達した資本主義の国アメリカでは、家族農業経営の約4割が耕作地の全部または一部を借地に依存しており、そこには大企業や富裕層による地主的所有が広範に存在しているのであって、小作料は3分の1から2分の1と高率な場合が多い。

こうして、あらゆる収益源を「資本化」して止まない資本の運動は、本来非資本主義的関係であるはずの地主−小作関係までも自らの運動の中に包摂してゆこうとするのである。従って、MLARに対抗し、土地の商品化に反対する農民たちの運動は、一見「近代化」に逆行するように見えようとも、本質的には生存権、生活権としての農民的土地所有を巨大多国籍資本の新しい攻撃から守ろうとする闘いを表現していると言わなければならない。

こうしてみると、日本の財界による農地法の耕作者主義への攻撃、所有と利用の分離論が、実は世界的に展開されている新自由主義的農地改革論の翻訳版、ひとつの亜流に過ぎないことがしだいに見えてくるであろう。    98-99ページ

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 『資本論』第1部の最終第25章「近代的植民理論」の冒頭もこう指摘します。

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 経済学は、原則上、非常に異なった二種類の私的所有―一方は生産者の自己労働にもとづくもの、他方は他人の労働の搾取にもとづくもの―を混同する。経済学は、〔右のうちの〕後者が単に前者の正反対をなすだけでなく、前者の墳墓の上でのみ成長することを忘れている。      『資本論』新日本新書版第4分冊、1308ページ

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 価値を生み出す生産過程のあり方を看過して、「土地を市場における単なる商品」としか見ない俗見(科学的経済学を知らず、資本主義経済を市場経済に解消する見方ではそうなるほかない)では、農民的土地所有と資本による大土地所有との本質的差異が分からず、「土地の商品化」が「近代化」として社会進歩の現れのように見えます。実際には以上みてきたように、農民的土地所有に基づく家族農業経営は歴史的・世界的にも生産力的に主力であり、逆に「小作農民からの小作料収受を目的とする、資本による大土地所有」は「資本の寄生地主化」を意味し、資本の寄生性・腐朽性・反動性という反生産力的性格を有します。資本主義的大農場の自然収奪的性格など環境問題も合わせて考慮すると、土地の商品化に抗して農民的土地所有を守ることの進歩的意義が明らかになります。農民的土地所有擁護は、没落するプチブルジョアの立場から先進的な生産力発展に反対する反動的な「経済学的ロマン主義」だ、というわけではないのです(なお二種類の私的所有については、拙文「『経済』20144月号の感想」中の「新自由主義批判の一視点」参照)。

 2007年の食料・金融危機以降、巨大資本や政府による農民的土地所有への強奪が世界的に強まり、資本の寄生性はより明確になりました。それについて生産力のみならず生産関係視点を生かし、使用価値・価値という二面性(特に下線部)を踏まえて次のように総括されます。

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こうしていまや、収益資産としての土地所有は資本所有と全く合体してしまう。このような事態の背後には、今日の資本主義の矛盾の集中的表現である深刻な資本の過剰と利潤率の低下に対して、巨大化した資本が自らの生存をかけて、あらゆる収益源を利潤追求に取り込まなければならないという事情がある。しかし、資本家的私的所有と地主的私的所有の合体は、これら非労働者所有の寄生的性格をますます浮き彫りにし、土地を耕し生産するものとしての農民的所有との対立をいっそう鮮明にしないではおかないだろう。

巨大多国籍アグリビジネス資本の世界市場支配を骨格とする世界食糧システムは、国際金融資本の投機的参入を通じて、今や食糧供給のための世界的分業の組織化というよりも、高利潤を求める資本の投機的運用の性格をますます強め、世界の農業・食料生産にいっそう破壊的な影響を及ぼすことになる。世界中になお多く存在する飢餓と貧困を根絶するために、これら多国籍資本の活動を規制し、農民的生産を発展させることがますます重要な課題となってきている。   102ページ   下線は刑部

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 こうした新自由主義の攻撃による危機感の高まりから、世界的な農民組織の連帯機関であるビア・カンペシーナ1993年に創設されました。ビア・カンペシーナはNGO間の厳しい論争で、WTO内での活動を重視する改良的アプローチを退け、いわば「WTOを農業から追い出す」立場で、食糧主権をWTO・新自由主義体制へのオルタナティヴとして提唱し、NGO共通のスローガンにしました。国連総会は2001年以降毎年、「食糧に対する権利」と題する決議の中で食糧主権の概念をとり上げています(104ページ)。論文では、ビア・カンペシーナ第3回大会(2000年)から、食糧主権の具体的内容を以下のように紹介しています(103ページ)。

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・健康で良質で文化的に適切な食糧の基本的に国内市場向け生産を優先すること。農民中心の多様な生産システムに基づき食糧生産能力を確保すること。それは生物多様性、土地の生産能力、文化的価値、天然資源の保全を尊重するものであり、人々の独立と食糧生産を保障するためのものである。

・農民(男性および女性)にひきあう価格を提供すること。そのためには低価格輸入に対して国内市場を守る力が必要である。

・過剰の発生を避けるために国内市場における生産を制限すること。

・生産方法の工業化の過程を止め、持続的生産にもとづく家族農業を発展させること。

・すべての直接間接の輸出補助金を廃止すること。      

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 ブラジルのMST(土地なし農民運動)の指導者サン・ペドロ・ステディールは食糧主権についてこう述べています。

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この考え方は、自由市場を求める国際資本と正面から衝突する。われわれは、すべての農民が、どんなに小規模であろうと、自らの食糧を生産する権利を持っていると確信する。農産物貿易はこのより大きな権利に従属すべきである。剰余だけが取引され、しかもそれは双務的な場合に限られる。われわれはWTOに反対であり、多国籍企業による世界の農産物貿易の独占に反対である。       104ページ

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 流布されている新自由主義的・生産力主義的俗見に影響されたままなら、上の言葉は小農の単なるエゴにしか聞こえないでしょう。幸いにして私たちは、農業にかかわる<所有・市場・資本>への本質的言及に続いて、食糧主権の内容を学ぶことができました。したがってそれが世界の農民の切実な要求であるのみならず、資本の寄生性・腐朽性と対決し、諸国人民の経済的利益とともに環境的・文化的価値を擁護することにつながり、社会進歩の正義にかなうものであることを理解できます。

 ビア・カンペシーナが多国籍アグリビジネスとそのイデオロギーたる新自由主義への有効な対立軸を生み出し得たのは、農民的アイデンティティの再発見によります。「耕作者としての農民と大地との不可分な結びつきの正当性を確認するところから出発して初めて、食糧主権は、労働と土地の商品化と両者の分離を前提とする新自由主義イデオロギーの核心に、正面から対峙し、決定的な反撃の土台を築くことができたので」す(105ページ)。

 このようにビア・カンペシーナは「農民と大地との不可分な結びつき」を起点に、新自由主義に対峙しうる世界中の農民の連帯を築こうとしているように見えます。論文は、労働と生産手段との結合形態を問うこの観点をさらに敷衍して、自営業者・中小企業のみならず労働者にも普遍的に適用し、階層を超えた連帯の可能性を探っています。今日、新自由主義的資本蓄積下における搾取強化で労働者の生活苦が増しているのみならず、生産過程においても、余裕・仕事のやりがい・労働の創意などの喪失に直面せざるを得なくなっています。一般的に労働力の再生産の危機とともに、人間的労働とは何かが問われる中で、重要な一例として、食糧生産という人間にとって根源的なものを考えることを通してその回答に迫っていくことが論文の結語となっています。

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 われわれは福島の原発事故以来エネルギー供給の在り方について根本的な見直しを迫られているが、同様に人間の生命維持の基本的要素の一つである食糧の生産と供給についても、刹那的で無責任な巨大資本の利潤追求に任せておいてよいのかどうかを、いまや真剣に考えなければならない段階に来ていると言えよう。

 これに対して、農民的土地所有の上に立つ家族農業経営は、巨大資本の圧力と闘いながらも、農業生産における多様な創意の源泉となり、現にそれぞれの国や地域の条件に応じた豊かな農業生産力を支えている。家族農業経営は近代産業が生み出す肯定的な成果を柔軟に吸収して生産力を高める能力をこれまでに十分証明している。そればかりか必要があれば、国や地域の実情に応じて、その農民的所有を維持しつつ、協同組合や地域的共同など経営間の多様な組織的協働関係を発展させて、生産力の新しい段階を切り開く豊かな能力をも示している。それは、家族農業経営が巨大企業経営と異なり、競争的資本市場の至上命令、すなわち利潤至上主義原理から解放されており、全社会的分業システムの一分肢として自由にその活動を展開できるからである。

 巨大資本の所有剥奪と解体の圧力に抵抗する家族農業経営の闘いは、同じく巨大資本の圧力と闘う数多くの自営業者や中小企業の闘いと呼応するものであるが、それだけではない。

 今日、新自由主義的雇用政策の下で、職場で安定して労働する権利を奪われつつある多くの労働者が、人間として、社会の一員として、社会的分業の一分肢に積極的に参加して労働する権利、すなわち客体的労働諸条件への安定的アクセスの権利を求めて闘っている時、家族農業経営は労働と客体的労働諸条件の一致にもとづく積極的な社会的活動形態として、過去の遺物どころか、ある意味では労働というものの未来の在り方を示唆する存在であるとさえ言えるかもしれない。家族農業を守る闘いと企業における人間労働の在り方をめぐる闘いとは、深いところでつながっているように思われる。   107ページ

  下線は刑部

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 以上のように、今日の日本の農業危機を打開する道を考える際に、支配層が声高に唱える農業保護政策の縮小・株式会社の参入・土地の所有権と利用権の分離などの生産力主義を根底から批判することが必要です。目前の困難は大きいのですが、まず視野を歴史的空間的に大きく構えることから始めねばなりません。その際に<所有・市場・資本>の本質を踏まえる生産関係視点によって、農民的土地所有に基づく家族農業経営の今日的状況を正確に捉えつつ、過去から未来に渡るその世界史的意義を認識すべきです。そうすることで食糧主権について、消費者の観点のみならず生産者農民の観点からもその普遍的意義を確認することができます。こうして支配層・マスコミが流布する分断攻撃を克服しうる深い基礎を築いて、農民の世界的連帯から農民と労働者・自営業者・中小企業との連帯まで実現することができるでしょう。

 そのような経済と農業の本質的原理から発する人民的連帯の可能性に対して、支配層は政策的分断で臨みます。田代洋一氏の「『戦後レジームからの脱却』農政の展開」は、安倍政権の農政について、「イデオロギーと経済成長政策という『農外からの発想』だが、それなりに農業の現実をよくみて、既存の農業者に代えて農外資本を農業の主たる担い手にしようとしている」(75ページ)として、その抜本的かつ全面的性格に着目しています。農業がGDP1%を切る中で、上記の野望のために規制改革会議が「競争力ある農業、魅力ある農業を創り、農業の成長産業化を実現する」(82ページ)と生産力主義的スローガンを掲げるのは、一見すると農業危機に対する分かりやすい政策的対処法のように思えます。そういう状況下で「消費者や研究者の関心は、1%産業としての農業そのものよりも、『食』や環境にシフトしており、一面では安倍農政に足をすくわれている」(76ページ)という田代氏の警告は急所を衝いており、「食や環境は農業と国民を繋ぐ重要な結び目だが、農業者による農業≠空洞化させる安倍政権の農政と対決してこそ、守られるものである」(同前)という農業研究者ならではの指摘と合わせて、農業をめぐる連帯と分断の勘所を的確に教えてくれます。

 論文は安倍農政が体系的で全面的であることを示したのちに、その全面性のゆえに、まず譲歩と強行の各論点分断的な攻撃を予想します。次いで「農協系統と農業委員会系統、各系統の市町村レベルと県・国レベル、連合会・中央会の間を分断し各個撃破する。最大の分断は、国民と農業者・農協の分断だろう」(85ページ)と、マスコミによる農協嫌悪の情報操作などを例示して指摘します。これに対して「特定分野の利害に終始」することなく、「情報を共有することにより、これらの分断にのらない対抗力の結集が求められる」(同前)と強調します。そこでは、先の福島裕之氏の論文が明らかにした家族農業経営と食糧主権の本質的意義が生きてくるのであり、それを「食」や「環境」に関心を寄せる人々を始めとして、広範な人々の間で共有する努力が必要でしょう。

 経済人、学者など社外筆者による「経済気象台」(「朝日」)は、多くの場合、匿名コラムであるが故に、支配層のホンネが端的に攻撃的に表明されます。826日付の見出しは「農業は誰のものか」(筆者「安曇野」)。それへの答えは「大胆な構造改革により、既得権益を打破するためには、『農業は農家のためでなく、国民のため』という視点が不可欠といえる。TPPはこの際、この視点を支える戦略となろう」。ウンザリするほど典型的なこの紋切り型の議論は、「農業者による農業」という田代氏の力点の正確さを反対側から照射しています。「国民のため」というオタメゴカシの真意が「大資本のため」であることは言うまでもありません。ここに「農業をめぐる連帯と分断の勘所」があります。

 農業をめぐる分断攻撃は地域社会論としても提出されています。昨年から今年にかけて発表された一連の「増田レポート」523自治体を「消滅する市町村」として名指しして、センセーションを巻き起こしました。その「効能」は以下のごとく。「『市町村消滅』が言われることにより、乱暴な『農村たたみ論』が強力に立ち上がり、他方では『あきらめ論』が農村の一部で生じている。そして、それに乗ずるように狡猾な『制度リセット論』が紛れ込むという三者が入り乱れた状況が、いま、各地で進みつつある」(小田切徳美「『農村たたみ』に抗する田園回帰 『増田レポート』批判」、193ページ、『世界』9月号所収)。制度リセットについては次の通り。

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グローバリゼーションの進行の下で、経済構造(TPP)、統治機構(道州制)、国土構造(東京の国際都市化)という三位一体的な刷新が究極の姿として意識されているとしても不思議ではない。そして、それぞれの要素から、農業、農村自治体、農村空間を「たたむ」ことが、その目的に従えば合理的な方向性である。このように考えると、政権の持つ将来ビジョンと「農村たたみ」には、親和的な要素があると言える。

  同前 194ページ

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 まさに増田レポートは新自由主義のショック・ドクトリンの一つでしょう。小田切氏は「農村たたみ論」の「哲学」を根本的に批判しています。「財政が厳しい中でそんな所に住むことはわがままだ」というのは、人々の居住範囲を財政の関数として捉えるという発想であり、その根源には「国民は国家のためにある」という本末転倒の価値観がある(196ページ)というのです。

 実際には、若者の意識変化や農村の地域づくりの努力の中で、増田レポートから消滅を宣告された自治体の一部が人口社会増加を実現しています。小田切氏はこうした「田園回帰」の動きに注目しています。上記の「本末転倒の価値観」は、都市が「わがままな」農村を経済・財政的に支えている、という形で都市住民による農村蔑視を含み、ひいては農業を農民に任せるのでなく、都市の資本が乗り出した方がいい、という発想になります。しかし一部に見られる「田園回帰」の傾向は逆に都市住民の農村へのリスペクトを含みます。それは自らが移住して「農業者による農業」の一翼を担うことにつながります。このように、農村を都市から分断する動きを機敏に批判しつつ、両者の連帯へ向かう動きの萌芽を見つけていくことが日本農業を守り、日本社会のバランスある発展を実現することにつながります。なお坂本誠氏の「『人口減少社会』の罠」(同号所収)も増田レポートを詳細に批判しています。

 閑話休題。田代論文は、安倍農政を全面的に分析していますが、その中でも「戦後レジームからの脱却」農政とは何か、という根幹部分を見ていきたいと思います。論文では、農業問題の角度から、安倍政権における新自由主義と保守反動の関係、あるいは対米従属と「自立」について様々に言及されており興味深いのですが、結論的には「真の仕掛け人は財界と農水省新自由主義官僚であり、それが、安倍という権力と『戦後レジームからの脱却』イデオロギーを利用していると思われ、その本質は新自由主義の追求にあるといえる」(8586ページ)と断言されます。

 農政についての「戦後改革期レジーム」としては農地耕作者主義、戦後農協、農業委員会があり、「ポスト高度成長期レジーム」としては農地の地域による自主的集団的管理のシステム、生産調整政策があります(76ページ)。アベノミクス成長戦略の鍵は規制緩和・撤廃であり、そのやり玉にあげられる岩盤規制の多くはこうした「戦後レジーム」の産物です。ここに、アベノミクス成長戦略という経済と、「戦後レジームからの脱却」という政治イデオロギーが一つに重なります(77ページ)。

ここで、白井聡氏の「おもしろうてやがて悲しきアベノクラシー 3.11の痛みの中で自己愛の泥沼に引きこもる日本」(『世界』5月号所収)に先月言及したことを振り返りましょう。そこではもっぱら「戦後レジームからの脱却」の問題を対米従属の視点から捉えています。安倍首相の主観的願望に反して、その「戦後レジームからの脱却」路線は実際には「アジアでの孤立と米国への属国化を表裏一体のものとしてもたらす」(110ページ)のであり、それはまさに白井氏の言う「永続敗戦レジーム」の純化に他ならないのです。これは鋭い指摘でしたが、その他に「戦後レジームからの脱却」路線の持つ戦後民主主義敵視という性格を捉えることも必要です。田代氏はそれをアベノミクス農政の分析ではたしました。他方で田代氏がその本質を新自由主義の追求にあるとすることを重ねるなら、新自由主義は民主主義敵視であるということになります。

田代氏の指摘した農政の「戦後レジーム」は経済民主主義に属するものであり、その否定が政治的民主主義あるいは戦後民主主義イデオロギーそのものの否定に直結するとは言えないかもしれません。新自由主義が市場での自由競争を強調することからすると、それは市場経済(商品=貨幣関係)のもつ独立・自由・平等の関係が想起され、新自由主義は民主主義イデオロギーに親和的だと捉えるのが普通のようにも思えます。しかし今日、新自由主義を担う代表的政治家として挙げられる安倍晋三氏とか橋下徹氏などは戦後民主主義イデオロギーの意識的な敵対者です。そこには新自由主義には外在的な(というか、今日では新自由主義への反動として存在する敵対者としての性格さえある。もっとも、敵対者でありながら補完者でもあるという矛盾した性格を持っているが…)日本の保守反動イデオロギーの影響が明らかにありますが、彼らが保守政治家として独占ブルジョアジーから存在を許されているのは新自由主義の実行者として認められているからです。「靖国派」的な保守反動性はあくまで従属的に利用可能な範囲で許容されているにすぎません。

新自由主義を市場原理主義という次元で捉える限りはその反民主主義性は解けません。しかしその本質は利潤追求至上主義であり、生産過程における際限ない搾取強化と、金融における投機化です。市場における自由とは対照的な生産過程内における資本の専制支配がやがて経済と政治そして社会の全部面を支配するようになる、という勢いを抱えたのが新自由主義だと考えるべきでしょう。新自由主義にとっては、医療・福祉・教育・農業などといった従来比較的に非市場的分野とされてきたものの単に市場化だけが問題なのではなく、そこに彼らが理想とする資本の専制支配を打ち立て利潤追求の楽園を拡大することこそが問題なのです。口元の監視までして、君が代を強制したのは、橋下大阪市長の保守反動的ロマン主義の故ではなく、自治体内における市長個人の専制支配を確立することが目的であったのだと私は推測します。安倍とか橋下とかいう政治家個人は、資本の専制支配の人格的担い手として新自由主義の全社会的な自己増殖運動の一環となっているのです。

 初めに挙げた農政の「戦後レジーム」の問題に帰れば、それは資本への一定の規制の要素を持っているのであり、経済民主主義の性格を持っています。それは経済・政治・社会における民主主義の比較的新しい先端部分であり、周縁に形成された部分です。そこをまず破壊しつつ、思想信条の自由などの古くからある核心部分にまで執拗に迫っていくのが、「資本の専制支配の衝動」=新自由主義の反民主主義運動です。もちろんそこには自由を求める人間の闘いがあり、唯々諾々とことが進むわけではありません。たとえば橋下市長は、市職員への思想調査について、ついに心ならずも謝罪に追い込まれました。

 またしても論旨が暴走しました。妄言多罪。

 

 

          安倍政権の集団的自衛権行使容認と日本経済

 集団的自衛権行使容認の閣議決定について、浜矩子氏は「アベノミクスという『衣』に隠された『世界戦略』が『富国強兵』という魂胆で突き動かされていることをはっきりと示しています」と喝破しています(「強兵のための成長戦略 人間不在で平和を破壊 浜矩子さんアベノミクスを叱る」、「全国商工新聞」714日付)。明治政府の富国強兵は富国が先にあったけれども、安倍政権は強兵のための富国だとも批判しています。にもかかわらず内閣支持率がそれほど低下していないのは、「アベノミクスに希望を託さざるを得ない厳しい現実」「絶望が生み出す期待」ではないか、と鋭く指摘しています。浜氏はアベノミクスをアホノミクスと命名していますが、それは「人間不在で、平和を破壊し、原発を輸出する行為を経済活動と呼んではいけないからです」。

安倍首相のスピーチには、格差・貧困・雇用などといった日本社会が直面する諸問題は出てこず、「人間」という言葉の不在と対照的に「成長」「世界」が頻出します。「世界の中心」「世界一企業が活動しやすい」「世界大競争」「世界を席巻する日本」等々…。「労働者ではなく、労働力」「生産者ではなく、生産力」「学生ではなく、学力」「技術者ではなく、技術力」そして「国民ではなく、国力」であって、「成長戦略もそういう発想の中でつくられている」。「人間に目が向かない、人間不在の経済政策は、到底、経済政策とは言えないものです」という浜氏の批判はアベノミクスの本質を痛撃しています。つまりアベノミクスにはいくらでも問題があるけれども、経済思想・政策哲学という根本が間違っている程度が従来以上に深刻なのです。

集団的自衛権行使容認の経済的意味について、友寄英隆氏は(1)「軍事予算の膨張をもたらし、軍拡増税に拍車をかける」、(2)「日本の産業技術や経済構造の軍事的な特徴を一段と強めることになる」、(3)「日本外交のアジア諸国との対立を深めて、貿易や経済交流にマイナスになる」とまとめています(「経済研究者・友寄英隆さんのなるほど経済 32 集団的自衛権と日本経済」、「全国商工新聞」811日付)。まだ閣議決定に過ぎないのに先取り的な動きで既成事実化が進んでいます。「海外で戦争する」体制を整えるために、自衛隊装備の「海兵隊」化に向けた軍拡予算があり、「武器輸出3原則」撤廃によって軍事大企業の海外進出に拍車がかかっています。

さらに重大なのは、貿易収支の大幅な赤字が継続している原因として近隣諸国との貿易活動の停滞が上げられることです。地球儀を俯瞰する外交と称して、安倍首相は財界人とともに嬉々として世界中を飛び回り、トップセールスを繰り広げていますが、その狙いの重要な部分は中国への対抗=中国包囲網の形成です。日本にとって最も重要な中国・韓国との関係が不正常なままで、いったい何をやっているのか、と言いたい。まさに首相個人の右翼イデオロギー・軍国主義がどれだけ国民経済にも悪影響を及ぼしているのかを考え、いい加減に個人の思い込みや趣味で政治を行なうのはやめてほしいものだ。いくら中国に覇権主義の誤りがあるとしても、理性的な議論で粘り強く克服すべきであり、日本の対処法は軍事力信仰ではありえず、平和外交・経済交流以外の選択肢はないのです(日本側にとって歴史問題の反省・正常化は当然の前提です)。

貿易赤字の問題については、海外投資=資本流出=産業空洞化から来る輸出の停滞がよく問題になりますが、輸入の方も大問題です。現在の日本はエネルギー資源(33.8%)と食料品(8%)で輸入総額の41.8%を占めています。エネルギー・食糧の自給率が異常に低く、輸入に依存することが所与の前提のように思われていますが、ここを変える必要があります。井内尚樹氏は双方の自給率100%を目指すべきだと訴えています(「井内尚樹のシリーズ腕まくり指南 第158回 デンマークから日本は何を学ぶのか」、「愛知商工新聞」714日付、「同 第159回 熱エネルギーの視点からエネルギー『自給』を考える」、同811日付)。食糧については先述のように食糧主権の確立と家族農業経営支持政策によって自給率の向上を図る必要があります。エネルギーについては、注目の集まる電気エネルギーだけでなく、熱エネルギーも重視し、再生可能エネルギー固定買取制度を適用すべきだと井内氏は主張しています。

1970年代の石油ショックを機にデンマークがエネルギー自給の道を歩んできたことは有名ですが、井内氏は何と内村鑑三の1911年の講演「デンマルク国の話」を紹介しています。実にそれが先見性に富み今日的教訓に満ちているから驚きです。

日露戦争に対して非戦論を唱えた内村は、講演当時、戦勝国であった日本で、その40年くらい前にドイツ・オーストリアに敗戦したデンマークがいかにして危機から立派に立ち直り、新たに出発したかを見事に語っているのです。いわく「国の興亡は戦争の勝敗によりません。その民の平素の修養によります」。戦勝におごる日本でそう言うことがいかに勇気のいることであったか、世論に超絶した見識を要したか、そして確信的な平和主義者の内村にして初めて言えることであったのか、といったことどもが思われます。しかし敗戦国デンマークが再興する過程をそのビジョンとともに生き生きと内村から聞かされるとき、なるほどこうした確信を得たならば語らざるを得ないに違いない、と納得させられるのです。ひるがえって今日の日本を見ると、15年戦争の敗戦の記憶が忘れられつつあり、対米従属の「永続敗戦国」でありながら、アジアへの歪んだ優越感が脅かされる状況を恐れているという屈折した心情が台頭し、戦後民主主義をめぐる対決が激化しています。1911年当時と同様に、必ずしも十分に安心できる世論状況ではない中で、内村の勇気と見識に学びしっかりしたビジョンを語っていくことが本当に大切です。

デンマークは敗戦の賠償で南部の最良の二州を割譲せざるを得ず、困窮を極めますが「今や敵国に対して復讐戦を計画するにあらず、鋤と鍬とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました」。内村は国土の大小は問題ではない、富はどこにでもある、「外に広がらんとするよりも内を開発すべき」と論じています。デンマークの農地開墾・植林・食糧・水自給の一貫した経過を踏まえての言ですが、日本を含めて帝国主義全盛期にあって、まったく超然とした先進的見識です。それだけではありません。その射程は現代にも及びます。「世界大競争」「世界を席巻する日本」とかいう先の安倍ちゃん的言語をここで想起してもよいでしょう。井内氏は「外に広がらんとする」アベノミクスを批判しています。グローバリゼーション下での国民経済の荒廃(今日の「経済敗戦」といってもいいかもしれない。他国との競争に負けたというよりも、「国策を誤って」人民と国民経済を疲弊させて自滅した)に対していかに「鋤と鍬とをもって」「内を開発すべき」かが問われているのです(もちろん農業だけの問題ではない)。

 驚くべきことに、小国を歎く必要はなく、エネルギーは太陽光・波・風・火山にあり、これらを利用すればみなことごとく富源になるのだ、と内村は主張しています。100年以上も前に自然エネルギー活用を説いていたのです。もっとも、化石燃料の大量使用とか原子力発電とかは人類史の中で一時代の例外的状況であって、それが普通だと思うのが異常であり、それより前もそれより後も本来、自然エネルギーが主流なのかもしれませんが…。内村の「外よりも内」というのは今日的には、多国籍企業のグローバルな雄飛よりも、人民の生活と地域経済の充実を優先させよ、ということであり、そこで自然エネルギーの地産地消がその充実の富源となります。

 アベノミクスは、経済の国際競争に勝ち、あわよくば戦争にも勝つ、という反省心のない「未来志向」の浮ついた経済思想と政策哲学によっています。対米従属と多国籍企業最優先の下で、集団的自衛権行使容認の冠をかぶった、人間生活犠牲の経済政策となっています。本来ならば十五年戦争の敗北と今日の失われた二十年(以上)の経済敗戦とを真剣に反省し、教訓を引き出し、何よりも平和のうちに人間を大切に、つまり人民の生活と労働の充実に根差した内需循環型の平和経済を築かねばなりません。「負けるが勝ち」のわからないお坊ちゃんは過去にも未来にも「勝ち」を自慰的に夢想しているのです。このように「人間不在で、平和を破壊」(浜矩子氏)する本質を持った今日のアベノミクスに対して、

敗戦小国が「民の平素の修養」で荒れた国土の内発的開発に成功した19世紀のデンマーク(内村鑑三)の方が真の意味で未来志向であることは間違いありません。たとえば食糧やエネルギーの自給率向上は政策如何によります。経済思想と政策哲学が重要です。

以上、今月は視点がドメスティックに偏したかとは思います。生産力主義に飲み込まれない「下から視角」のグローバリゼーションはどうあるべきかを探求するのが今後の課題として残りました。

 

          「戦争ができる国」への転倒

作家・精神科医の帚木逢生氏へのインタビュー「戦争を想像する」(「朝日」86日付)に注目しました。まずズームアップと俯瞰という二方向から迫る認識論に基づいて、戦争の全容と本質が捉えられます。

 1947年生まれの帚木氏が「まるで戦地を見てきたかのような作品を多く書いておられます」という疑問に答えています。

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 戦地に散らばった大勢の軍人の目に何が映ったのか。その集積を通じて、戦争とは何かが描けるのではないか。そう考えて、軍医たちが書き残した膨大な数の手記を20年かけて集め、読み込みました。細部にこだわって読んでいると、逆に全体が見えてきた。あちらこちらにある別々の細部をつなぎ、理解をどんどん広げていくうえで必要なのが、想像力でした。

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 その上で、今こそ戦争時代を歴史的に位置づけることができます。

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今だからこそ、偏見にとらわれない自由な目で、あの時代を見つめ直すことができると思うんです。むしろ現代に生きる私たちのほうが、様々な事実と知見を踏まえ、あの時代を俯瞰できる特権的な立場にいる。 …中略… 自らの歴史を、どうとらえ直すか。そのやり方が、日本の将来を決めていくんでしょうね。真実から目を背け、言葉をもてあそび、失敗を糊塗するようでは、たわけ者の時代に逆戻りするでしょう。

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そのように戦争の全体像を捉え、歴史的に位置づける中で、戦争の本質に関する鋭い洞察が語られます。命を尊ぶ医療を志した若者たちが、治癒した兵士を再び戦場に送り出さざるを得ない事態について、帚木氏は「無念でたまらなかったはずです。職能集団が本来の使命をずたずたにされ、その機能を果たせなくなる。これが戦争の本質だと思います」と指摘します。それを反面教師としてこれからいかに生かすか。「自分たちの職能集団としての機能が、より発揮できる世の中にするにはどうすればいいか。日ごろから考え、志をもって行動する。そうやっている限りは、この国が再びつぶれることはないと思う」。

 つまり戦時は平時の規範や価値観が不本意に転倒してしまうのだから、それを防ぐには戦争をやらせないようにするほかありません。今で言えば「戦争ができる国」となることを断固阻止する活動に立ち上がることです。この転倒の極北を示すのが軍刑法です。刑法学者の斎藤豊治氏が語ります(「しんぶん赤旗」86日付)。

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 一般社会では人を殺すことは重大犯罪ですが、軍刑法は「殺すのも殺されるのも嫌だ」といって逃げ出すと処罰します。まったく逆の「規範」がまかり通る世界です。なぜなら、人殺しが嫌だといって命令に背くことを許せば戦争はできません。軍人にはさらに特別の秘密保護規定が作られ、背けば死刑や無期懲役などの重い刑罰を科すことになるでしょう。抗命、つまり上官の命令に背けば非常に重い刑罰が適用されます。また徴兵制になると、徴兵を拒否すれば処罰されます。

 このように一般社会で禁じられていること、不自然な行為、非人間的な行為を強制するのが軍刑法の宿命です。それを適用するには特別の軍事裁判所=軍法会議が必要ですが、自民党の改憲草案では、「軍事審判所」が規定されています。

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 人々の生命だけでなく、まともな価値観や規範などの多くを奪ってしまうのが、平時から戦時への転倒であり、それを固く禁じたのが日本国憲法です。したがって集団的自衛権行使容認が閣議決定だけでできるわけではなく、関連法規の「改正」から改憲まで進まざるを得ません。平穏で普通の生活を望む多くの保守的な人々にとっても、生活実感の次元から、護憲と安倍政権打倒の声は浸透しうるものだと思います。

 

 

          断想メモ

 政府・与党あるいは保守政治家の二様の常套句。「丁寧な説明が必要」と「粛々と進める」

明らかに両者は矛盾していますが、同一コースの初めと終わりに必ず現れます。「丁寧な説明が必要」となるのは、人々の利益に背き、民意を無視した結果として、非難ごうごうとなり、そう言わざるを得ない状況に追い込まれたからであり、要するにそれは「どうごまかすか」ということに他なりません。結局それはうまくいくわけはないので、ろくに説明することもなく(というか、できるわけはなく)見切り発車し強行する以外なくなります。そうして開き直った言葉が「粛々と進める」。

だから「丁寧な説明が必要」と言い始めたらもう終わっているのです。問題の根源は民意を無視した独裁的な政治姿勢にあります。さらに究極の原因は、少数の支配層が自らの利益のために多数の被支配層の利益に背く政治を行なっている構造そのものにあります。にもかかわらず民主政治というタテマエ上、多数者が納得しているという状況が必要なのです。支配層と被支配層の共存は階級社会の常態であり、そうした内実と民主主義社会という形式との矛盾が上げる悲鳴が「丁寧な説明が必要」なのです。しかし結局、形式を押し破って内実が貫徹されるサインが「粛々と進める」なのです。被支配層にとっては、形式・タテマエを握って離さず、支配層をそれに従わせる闘いが必要であり、さらにはその形式・タテマエにふさわしい新たな内実・ホンネを創り出していく課題があります。その一連の過程の要には日本国憲法があります。

俗悪週刊誌が常に彼らの内実・ホンネの立場から民主主義的形式・タテマエの「偽善」を「告発」して、「真実の大人」ぶっているのは支配層の腐敗・堕落を象徴しています。得意気に行なわれる「偽善」非難の本質的狙いは、階級支配によってつくり出される非人間的でレベルが低く生活苦と労働苦を増大させる社会をそのままに承認する怠惰と安逸さへの逃避を正当化して人々に広めることです。

ここからは以上を受けて、極めて大ざっぱな図式的議論になります。資本主義の歴史的位置は次のように考えられます。ヨコから見た生産関係の歴史は<共同体→市場→共同体>となり(20世紀社会主義体制の崩壊は市場の歴史的強靭さを示しましたが、現状維持をよしとはせず、その克服を将来にわたる人類的課題としたい、という意味で従来からの図式を提示します)、タテから見た生産関係の歴史は<非搾取・無階級→搾取・階級→非搾取・無階級>となります。資本主義はヨコから見た歴史の市場(商品=貨幣関係)の土台上に、タテから見た歴史の搾取・階級(資本=賃労働関係)が存在します。ちなみに封建制は共同体の上に搾取・階級(農奴制)が存在します。

次に資本主義における経済と政治の関係を図式化するとこうなります。ヨコから見た生産関係は社会的広がりにおける結合のあり方(凝集しているか離れているか、さらにはその具体的あり方)を示し、タテから見た生産関係は生産過程における結合のあり方(平等か支配=従属的か、さらにはその具体的あり方)を示しており、生産関係において前者はフレームを形成し、後者は内実となっています。両者はいわば形式と内容に対応します。そのように見ると、資本主義経済の形式と内容(商品=貨幣関係と資本=賃労働関係)は資本主義政治の形式と内容(民主主義と階級支配)に反映するとは言えないでしょうか。今日の日本政治(あるいは先進資本主義諸国の政治)においても、1%の支配層の利益のために99%の被支配層が犠牲にされるという基本的構造は、前近代の封建社会などと搾取・階級支配の社会であるという点において共通であるから、それを継承したものだということができるでしょう。「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」という封建領主の心得は、資本主義経済においては「労働力の価値」規定に継承されており、ブルジョアジーの政治支配の心得としても共通のものでしょう。

前近代の階級社会の共同体は人格的依存関係により、生産過程での搾取関係とも相まって、その政治的上部構造は非民主主義となります。これは形式と内容とに矛盾のない非民主主義です。商品=貨幣関係が共同体を解体して、近代市場を形成するとき、人格的な独立と自由・平等な関係が成立し、政治的上部構造の民主主義の土台となりますが、なお生産過程は資本=賃労働関係という新たな搾取・支配=従属関係となり、それにより経済的実権を握ったブルジョアジーが政治上の実権も握ります。ここに実質的内容との矛盾を抱えたブルジョア民主主義の形式的性格が成立します。支配層は、イデオロギー支配などを通じて民主主義的形式を保持しつつ階級支配の内実を堅持しようとします。つまり被支配層が自発的に階級支配に同意する形を作ります。それが破綻しかけるとき、形式民主主義そのものへの攻撃が始まります。小選挙区制導入などの選挙制度の非民主主義的破壊がそれであり、その際にはブルジョア・イデオローグの御用学者が政府の審議会やマスコミなどに動員されます。その後の歴代保守政権による様々な民主主義攻撃の政治反動の根源は、このブルジョア民主主義における形式と内容の矛盾から発する形式民主主義廃棄の衝動なのです。靖国派などによるブルジョア民主主義以前の政治反動も絡んでくるし、対米従属からくるものもあるので複雑ではありますが、基本はそこにあります。

人類史的に言えば、生産過程における搾取・支配=従属関係が克服され、前近代とは違った民主的共同体へと市場が移行していく中で、ブルジョア民主主義の形式性は止揚され、十分な内実を伴った人民的民主主義が成立する、という人類本史の展望になります。かつて20世紀社会主義体制が存在していたころ、ブルジョア民主主義の形式性を批判し、内実を伴ったプロレタリア民主主義を主張する向きがありました。残念ながらその実態は、形式民主主義さえ欠く、ブルジョア民主主義以前の代物であり、説得力がまったくなく、今日そういった声は絶えて久しくなりました。しかしそこにあった問題意識まで流してしまうのは誤りです。ロシア革命や中国革命などの初心が生きていたころ、真剣にそれを追求する理論と実践があったろうと思います。

それはここでは措くとしましょう。現代の日本で、主に国政レベルでは、支配層がのべつ幕なしに繰り広げる反動攻勢に対して、民主勢力は形式民主主義の死守に追いまくられています。そうした中でも、反動攻撃の根源を見極めながら、目指すべき民主主義の高い志を忘れずに闘うことが必要ではないかと思います。職場・地域から実質民主主義をつくり出す実践がそこでは生きてきます。

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 貧困研究の第一人者、唐鎌直義氏河上肇『第二貧乏物語』を書評しています(「しんぶん赤旗」810日付)。まず江口英一氏の「貧困研究でない社会研究なんて存立しえない」という言葉が紹介されます。次いで本書の紙幅の3分の2以上が弁証法的唯物論と史的唯物論の説明に費やされているが、それは決して社会科学方法論の本ではなく、そのタイトルは断じて『貧乏物語』でなければならなかった、と力説されます。

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 資本主義という階級的利害の対立する社会において必然的に生み出される貧困は、個々の人格を持つ労働者に具現化される。それは極めて具体的な外観をまとわざるを得ない。労働者の貧困の必然性(共通性)と具体性(個別性)は表裏一体のものである。ここから、貧困問題を労働者にとっての「共通の運命」とは考えずに、個別性と多様性にのみ着目する見解が容易に生じる。

 最近の社会状況に照らすならば、厚労省の「自立支援」政策を支える研究者の貧困理解がその好例である。貧困者個々人の間違った行動・選択を自立支援によって改めさせることにより、貧困からの脱却は可能になるという。また資本主義的労働が搾取労働にほかならないことを忘却した、無責任な「就労支援」(アクティベーション、活性化)政策も全面展開されている。

 こうした誤れる貧困理論に鉄槌を下し、貧困の正しい理解を説いたのが本書である。

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 資本主義社会における貧困研究はまさに社会科学研究の核心部分であり、その内容と方法は表裏一体であり、そこを踏み外した「研究」は資本主義も貧困も捉え損なう、ということだろうか。対象の個別性・具体性に内在するのは研究の必要条件ですが、そこで共通性・必然性を見逃すなら容易に自己責任論の世界にのめり込むことになるでしょう。観念的な左翼の素人とは違って、現実を把握せんとする「有能な」研究者の陥りがちな陥穽がここにありそうです。搾取経済としての資本主義と貧困との必然的結びつきという普遍的基礎的事実が措かれるところでは、いかに精緻に現象に迫っているように見えても、本質が看過され、その結果として実践的にも誤った個別指導が正当化されるのでしょう。河上が学問的苦闘(思想変革)で到達したことの重みを理解しない昨今の研究姿勢への評者の強い怒りが感じられます。

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 いつも拙文の基本的観点は単純素朴です。のみならず、現実の複雑さや理解のむずかしさを説く議論に対しては、本質を隠蔽するものだとして食って掛かることもしばしばです。これは不勉強者のひがみと開き直りだとは思いながらも、だいたい強情を通しています。しかし時にはそれを反省してみることもあります。

 中国を代表する日本社会思想の研究者で中国社会科学院文学研究所研究員の孫歌氏の発言には考えさせられます(「朝日」827日付)。

 日本での中国蔑視の風潮に対して、虚を衝く視点を提供。

 「確かに中国には不自由がありますが、日本のように『空気を読む』必要のない自由はあります。体制でも反体制でもない空間で、自分で考える個人も確実に増えています。彼らの声、認識、発想は実に多様なのです」

 残留孤児の問題などを念頭にした「なぜ中国の農民は自分たちを虐げた日本人に手を差し伸べたのでしょうか」という質問への回答。

 「簡単にいえば、『天下』という公理感覚、人間関係を規定する道徳システムです。中国の王朝権力ではなく庶民の空間に古くから息づく生活倫理です。かつて中国の農民は王朝が滅びるのは恐れないが、天下が滅びるのを恐れる、といわれました。危機にさらされた幼い子供がいれば、敵の子供でも手を伸ばして助ける。学歴がなかった農民だったからこそ、その感覚がストレートに表出されたのでしょう」

 「庶民の生活倫理は今の中国にもあるのでしょうか」への回答。

 「今の中国にも『天下』はあります。近代国家システムとの関係は複雑で、当然、混乱も起こります。日本人はとかく西洋のレンズで『法治でなく人治社会だ』などと片づけがちです。しかし、こうした中国の歴史の論理を先入観なしに見ることによってはじめて、相互理解は深まるはずです」

 日本では、そしておそらく中国でも、日本と中国とを国と国としてその優劣を競うという見方が広がっている中で、孫歌氏は対等・公平な「人間」の視点を打ち出しています。

 「加害と被害を国の単位で整理することも必要でしょう。しかし国と国の関係だけでは歴史の本質を突くことになりません。国の視点から見ると人間は人形のように権力に翻弄される存在ですが、生活の視点から見た人間は決して人形ではない」

 いくらでも引用したいのですが、最後に。

 「ネット時代、情報は氾濫していますが、自分の好きな疑似世界に閉じこもりがちです。短い会話を交わす気分的パターンから、思考も短絡的になります。同じ現象は中国にもあります。あらかじめ用意された前提はいったんゴミ箱に捨て、日本、中国という未知の世界をお互いに発見しあいませんか」

 西欧発の人権や民主主義の普遍性と限界、それに照らしてみる先進国と後発国・途上国それぞれの内部問題と相互関係等々について、考えてみようという問題意識が前からありました。「自虐史観」批判に対しては、歴史的事実の問題だけでなく、後発国・日本と先進国・欧米との関係をどう捉えるか、という観点の問題もあると考えたからです。欧米の視点から日本を一方的に断罪するのではなく、欧米帝国主義が後発国・途上国に対してきた姿勢を含めて、世界的規模での公正な反省の中で、日本の特別な問題をさらに深く反省することができるはずです。当然、日本と中国の問題もそこでは重要であり、現代につながる視点を提供するでしょう。一面的な「西洋のレンズ」によらず、日本社会と中国社会をそれぞれ先入見なく多面的に見る孫歌氏の「人間」の視点は、空気のようにある硬直した俗見を克服する清涼剤となるでしょう。
                                 2014年8月31日




2014年10月号

          日本農業の可能性と地域経済

 先月は、福島裕之氏の「新自由主義と闘う世界の家族農業と食糧主権」と田代洋一氏の「『戦後レジームからの脱却』農政の展開」に学びました。そこでまず農民的家族経営の意義を確認しました。それに反して、耕作者主義に基づく農民的土地所有を農外大資本に引き渡すことを中心にして、農政でも安倍政権が「戦後レジームからの脱却」を図っていることを批判しました。つまりTPP推進などに見られる、もっぱら競争力重視の生産力主義的農業観に対して生産関係視点から批判を加えました。次には農民的家族経営にふさわしい生産力像を各国の状況に応じて提起することが必要になります。河相一成氏の「『農地中間管理機構』と農民的家族経営・地域農業再生の道」の中では日本農業の特質に即して、それが描かれています。

 そのテーマについて、河相氏は多面的に論じていますが、中心点は以下にあるでしょう。まず水田を中心とする日本農業は水利用の管理等が必要であり、地域協同を不可欠とします。次いで作物の品種改良や冬季でも生産可能な技術開発によって、「水田農業を基礎にしてヨーロッパ農業(畑作農業)の基礎である輪作農業が可能になる技術的条件の導入がほぼ可能に近づ」き、「耕地と畜産を結合した農業生産の一般的可能性が生まれ」ました(158ページ)。また農民的家族経営は一般的に農地面積が小規模なので、化石エネルギーや化学肥料の利用を抑制し「安全な食料を消費者に提供し、且つ生物多様性保持による環境保全に寄与」します(同前)。以上のような「農民的家族経営の積極性を引き出す不可欠な条件」は「政府による農産物価格の下支え政策及び農産物の無制限な輸入自由化の歯止め」です(同前)。さらには「協同組合の本来の理念に沿って『協同』する」(159ページ)ことも加えて、農業生産は飛躍的に増大し、農民経営を改善し、食料自給率を向上させることができます。「以上のことから、『農民的家族経営』は、農業生産にとって最も『生産力』が安定的に高く、最も効率が高く、且つ『安全性の高い』農産物生産が可能な『経営体』である」(同前)ということができます。

 今日では日本農業の危機は非常に深刻ですが、本来ならば戦後の農地改革によって形成された農民的土地所有が上記のような潜在的可能性を持っています。それを阻害してきた歴代自民党農政、さらに破壊しようとしている自民党・安倍農政が振りまく生産力主義の幻想を打ち破ることが重要です。農業の危機は多くの人々に食料確保への不安をかきたてており、一方ではそれが農業への一面的バッシングをおさえ、ある種の期待を抱かせていますが、他方では農協バッシングなどに象徴されるマイナスの農業イメージ上での不安であり続けてもいます。マスコミ等でときどき紹介される「頑張っている農家」にしてもしばしば企業主義的観点から採り上げられており、一部の例外という感じを抱かせます。だからその先は自民党農政の「近代化・効率化」による「改革」が正しいように思わせられます。これに対して、河相氏は、農民的家族経営の下で戦後日本農業が営々と築き上げてきた底堅い成果を普遍的可能性として結実させる方向性を指し示しています。これを多くの人々の共通の理解にしていくことが重要です。

 世界農業を見渡すと、日本以前の段階にある諸国・諸地域がまだ多いことに注意することも必要です。徹底した農地改革が行なわれず、一部の大地主経営が強力な支配力を持つ一方で、圧倒的多数の小作や零細小農が厳しい状況に置かれ、これが社会進歩にとって重しとなっています。そのことについては次節で後述。

 ところで農業の危機と展望は地域経済のそれと重なっています。地域における経済・政治・社会の現状の問題点をどう捉え、どう打開していくかについて、岡田知弘氏の「さらなる『選択と集中』は地方都市の衰退を加速させる 増田レポート『地域拠点都市』論批判」(『世界』10月号所収)と金子勝氏の「『地方創成』という名の『地方切り捨て』 地方に雇用を生み出す産業戦略を」(同前)が興味深い論稿です。

 岡田論文で特に注目されるのは、所得が東京に一極集中しているという指摘です。生産額シェアを見ると、東京は第一次産業ではほとんどゼロで、第二次産業は1割程度、第三次産業でも2割程度でしかないのに、法人所得シェアは5割弱にも達しています(68ページ)。つまり地方の支社で生産された価値が東京の本社に所得移転されているのです。コストぎりぎりや、今年のコメのようにコスト割れの低価格で農産物が取引され、結果として農家の労賃が最低賃金をはるかに下回っている(あるいはそもそも出ない)、という状況に見るように、もともと都市と農村との間には大きな不等労働量交換が存在しています。投下労働という次元ではそうなります。これを付加価値次元で見て、農業は(付加価値)生産性が低いとするのは、農業の切り捨てにつながり、国民経済のバランスある再生産という観点からは問題がある、と私は考えてきました(その意味では、農産物価格や農家所得に関する「保護政策」は不等労働量交換の是正措置と見なしうる)。その上に、東京の不当に圧倒的な法人所得シェアは、資本主義企業の本社・支社という関係を通した地域間収奪システムの存在を示しています。したがって搾取と収奪の資本蓄積機構という本質が価値の生産と分配を貫徹して、都市と農村、東京と地方という関係を通じて現象したのが東京一極集中だと言えます。何か東京に得体のしれない強さがあり(ソフトパワーとか?)、一人勝ちしている、というような「東京フェティシズム」を克服して、たとえば以下に岡田氏が主張する具体的な是正策を実施すべきです。「地方で生産される経済的価値を東京本社に流出する比率を減らし、生産地で雇用者報酬や原材料調達単価を引き上げて還元するだけでも、若年層を中心とした所得の向上を実現し、地域経済や地方税収を潤すことになるのである」(69ページ)。

 岡田氏によれば、市町村の大規模合併によって誕生した巨大自治体が「選択と集中」により「コンパクト・シティ」を目指していますが、地域全体の衰退に拍車がかかっており、むしろ住民に近いところでのきめ細かな小規模自治を強めることで地域内再投資力を向上させることが重要です。そもそも「選択と集中」は切り捨てを含むのであり、実際には切り捨てられようとしている人口の少ない地域こそが大都市圏に水・空気・食料・電力などを供給しています。住民がそれらの国土保全を担っている「この地域を投資や施策対象から排除したり、さらなる自治体合併に追いこむことは、大都市圏の持続可能性をも失わせることにつながるので」す(72ページ)。さらに岡田氏は、地域内再投資力を高めるために、TPPを許さず、中小企業振興条例や公契約条例の制定と実施を強調しています。

 金子氏によれば、産業構造と社会システムとして、安倍政権がとらわれている20世紀型の「集中メインフレーム型」は失敗が約束されており、ICTの発達による21世紀型の「地域分散ネットワーク型」に転換して、食と農業・エネルギー・社会福祉の(FEC)自給圏を基礎に経済成長させるべきです。

 農業については、環境と安全にかなう小規模農業の形態として「六次産業化」+「エネルギー兼業農家」を提唱しその地域経済的意義を以下のように描きます。

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 これまでは、工場を誘致して兼業の雇用を作りだしていたが、それは外部に依存する経済であるとともに利益の大半が地域から流出していく。これに対して、地域単位で行う六次産業化もエネルギー兼業も、自ら投資し、地域の資源をどう使ってどのような農産物や再生可能エネルギーを生産するかを自ら決定し、自ら雇用や所得を作りだす。地域住民とともに、自らが地域の将来を決定できるのである。

 それは自立的な地域経済を創り出す。そして、農業者は環境にやさしい安心・安全という社会的価値の守り手として重要な役割を果たすことができ、農業は誇り高い職業としての地位を取り戻すことができるはずである。高い職業的ミッションを持てるとともに、儲かる農業にならなければ、農業の担い手が生まれてこないだろう。

   79ページ

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 論文の最後に金子氏は、脱成長論について、それは成長至上主義を見直すという点では意味があるけれども、地域における若者の雇用創出の具体的ビジョンを持っていない、として批判しています。非正規雇用やブラック企業という労働環境に置かれた若者に対して「未来に希望が持てる社会ビジョンを語ることが今ほど必要な時はない」(80ページ)と指摘します。安倍「成長戦略」批判と合わせて見れば、金子氏の論稿は、生産力主義と反生産力主義との両面批判として正鵠を得ていると思います。

 

中南米の変革における諸問題

 安倍首相が地球儀を俯瞰する外交と称して、歴代政権としては最多の外遊をこなしています。内容的にはもっぱら、集団的自衛権行使容認を含む「積極的平和主義」なる「戦争のできる国」への転換の宣伝と、兵器や原発・インフラの輸出などのトップセールスを推進して、財界奉仕と政治的経済的な中国包囲網の形成を狙うという、まさに悪の外交に血道をあげています。首相は7月25日から83日まで、経団連会長を始めとする財界人と共に中南米5ヵ国(メキシコ、ブラジル、トリニダード・トバコ、コロンビア、チリ)を歴訪しました。中南米では対米自立を目指す地域統合の動きの中で、域内33カ国すべてが参加する中南米カリブ共同体(CELAC)が2011年に発足しています。対抗して親米・新自由主義構造改革重視の傾向を持った太平洋同盟(メキシコ、コロンビア、ペルー、チリ)が同年設立合意しています(翌年、枠組協定署名。ただしペルーとチリは中道左派政権に転換)。安倍首相は太平洋同盟との連携を強調する一方で、CELACへは一度も言及しませんでした。対照的に715日から23日まで同地域(ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラ、キューバ)を歴訪した中国の習近平国家主席は、ブラジルでのBRICS首脳会議や中国・ラテンアメリカ・カリブ首脳会議で「圧倒的な存在感を示し」「CELACの前進を高く評価」しました(田中靖宏氏の「6億人の市場と資源の開拓 安倍首相の中南米訪問」より)。もちろん中国の内政・外交に問題は多々ありますが、この地域での日中両政府の外交姿勢に関して言えば、反動と進歩の対照性が明確です。対米自立を強め、中国を最大の援助国とするに至った中南米では、対米従属で中国に敵対する「日本は、いかに新しい科学技術を持とうが、『古い存在』としか映らない」のです(伊高浩明「変質するベネズエラの『二一世紀型社会主義』」、『世界』10月号所収32ページ)。

 そうした対照性の中で、相変わらず支配層の立場から安倍首相訪問を側面援助しているのが「朝日」92日付の「コロンビア 成長軌道  ゲリラ一掃『世界一危険』返上」というボゴタ発の署名記事です。コロンビアがゲリラの抑え込みによる治安回復とともに、太平洋同盟の自由貿易で経済成長を実現していることを、ブラジルの「保護貿易による経済停滞」とことさらに対比して紹介しています。資本蓄積により必然的に生じる諸矛盾を経済成長で買い取るというのが、生産力主義であり、それは一定の成功を収めることはありえますが、持続可能でないことは、国際的な、特に中南米の経験から明らかです。資本主義一般とも違って、新自由主義の過激さはやがてそのことを激烈に表現するに違いありません。目先の経済成長による明るさは見やすい現象ですが、生産関係の視点(人々の生活と労働の視点)からその影を探る本質解明の姿勢がないことに対しては、誰のためのジャーナリズムなのかが問われます。

 蛇足ながら、「朝日」の報道姿勢については、日本軍「慰安婦」問題での吉田証言と東電福島原発事故での吉田調書におけるダブルの失敗で、最近、支配層と反動勢力から厳しいバッシングを受けています。これはほんの一部の誤りをことさら過大に採り上げることで、あたかも問題全体がなかったかのような錯覚を演出する詐術であり、日本軍国主義の加害責任と東電の原発事故責任を糊塗しようとするものに他なりません。だからバッシングは「朝日」ではなく、日本の良識全体に加えられているのであり、日本の支配層と反動勢力のならず者ぶりを暴露し撃退しなければなりません。

このような局面を作りだした「朝日」の責任は重大であり、どの深みから反省するかが問われます。技術的表面的問題ではなく、上記の外信記事に見られるような支配層の立場からの社論が紙面の大勢である状況を克服する必要があります。全体としては体制順応でありながら、ときに人々の気を引くセンセーショナリズムに色気を出して「進歩的」ポーズをとるようなあいまいな姿勢にわきの甘さが生じるのではないか。「大局を知らない大衆を啓蒙し導こう」という体制派エリートの傲慢な「使命感」と、体制に取り入っている安定感とから決別し、権力監視のジャーナリズムの使命感に基づく報道責任に徹することが必要ではないか。逆にかつて「読売」の執拗な攻撃に屈服して右傾化したことを今回も再現し、そういう方向で立場を「すっきり」させ、バッシングに「満額回答」を与えるようなら、「朝日」は戦後最悪の政権による民主主義破壊と亡国の道に最大限貢献することになるでしょう。もちろん立場の正しさが自動的に報道の質を保障するものではなく、そこには厳しい自己点検が必要ではありますが…。

 閑話休題。「しんぶん赤旗」は94日付から11日付まで、「南米政権与党に聞く」と題して、ブラジル労働党・ボリビア社会主義運動・チリ共産党・ウルグアイ共産党の幹部へのインタビューを掲載しています。続いて181921日付で、1012日の大統領選挙を前にしたボリビアの「変革8年の審判」上中下という現地報告を掲載しています。各国の事情はそれぞれですが、社会政策による所得再分配によって人民の生活向上を図り、内需を拡大し、経済を安定させ、それが政治の安定に結びついているという状況はおおむね共通しているようです。日米欧のグローバル資本の立場から人民の生活を規定する「上から視角」とは正反対の経済政策が展開されています。

ボリビアでは、現職のモラレス大統領への支持が圧倒しています。大統領は2006年に石油と天然ガスの国有化を宣言し、生産されたそれらをすべて国営石油会社の管理下に置いて、外国企業と新契約を結びました。頭脳流出を防ぎ、外国企業にも操業と投資を続ける意欲を与えるように現実的で柔軟な対応をして、生産の発展と利益増を実現しています。ただしこれに対しては、ガス生産の8割を外国企業が占めていることなどへの批判があります。

ここに見られるように、従来、外資の支配下にあった資源の収益を国家が確保し、それが社会政策の原資となっていることは重要ですが、国内生産が不十分であったり、資源を利用した工業化にまで至っていないなど、生産力基盤はまだ未整備です。政治安定の土台となる経済の安定を持続するには、人民の生活と労働の立場から出発しつつ、資源確保と農林水産業の安定の基礎上に工業化を進めるという再生産構造の漸次的な高度化を図っていくことが課題となるでしょう。

 上記の南米関係の連載に先立つ92日付では、ボリビアのラパスで開かれた20回中南米左派政党フォーラム(82829日)での同国のアルバロ・ガルシア副大統領の開会あいさつが紹介されています。ガルシア氏は、中南米では新自由主義の克服をめざす「ポスト新自由主義」のモデルが出現していると述べました。 

まず政治的には、選挙で多数を得て変革に取り組む「革命的手段としての民主主義」が強調されました。今日、それは選挙だけでなく人民の闘いや政治参加をよりどころに安定的な統治を維持しており、今後の変革の途上で生じる緊張も、ロシア革命や中国革命とは違って、民主的手続きで克服し、対立勢力も変革の陣営に包み込んでいくことが重要だとされます。これは20世紀社会主義体制における民主主義の欠如と日米欧諸国における民主主義の形式化の現状とに対する両面批判になっていると私は思います。

中南米での地域機構については、南米諸国連合(UNASUR)など対米自立の動きが強調されました。経済的にはエネルギーなど戦略的分野の国営企業の復興や所得再分配政策について、「新自由主義の解体」が進んでいると評価されました。ただし地域統合では様々な前進があるものの経済統合はうまくいっていないことが率直に指摘されています。

総括的展望として、「ポスト新自由主義」のモデルの将来について、「より人道的な資本主義」か「社会主義的、共同体的な社会」かの二つの選択肢があるとし、利潤最優先ではない後者を目指す取り組みをガルシア氏は呼びかけました。ここには経済・政治・社会の全面的変革過程としての21世紀社会主義の中南米における一つの探求があります。新自由主義の克服は当然の前提としつつ、西欧流民主主義の限界を意識しながら、(資本主義経済の変革を目指さない)社会民主主義は選択せず、もちろんソ連・中国等の経験は反面教師として進んで行くことになるでしょう。必ずしも科学的社会主義を出自としない勢力が、それもまた意識しつつ試行錯誤していくという独自の過程が予想されます。ここにはいわば中進的発展途上諸国の特質も刻印されているでしょう。新自由主義の暴走による資本主義体験を十分に持ちつつも、経済成長の余地がまだ大きく、社会の成熟化・飽和化に至っていない状況の持つ健全さと未熟さとから来る未知の可能性とリスクは魅力的でもあり危うさも感じます。対して、わが国を含む発達した資本主義諸国は長期的経済停滞の下、消費社会・情報社会などが格差と貧困を抱え込むという爛熟した矛盾状況にあり、社会主義的変革は霧の向こうにけぶっています。これは中南米と比べれば高度な状況かも知れませんが退嬰的でもあります。中南米と日米欧との交錯から新たな社会主義像が創造される日が来るでしょうか。

中南米はもともと格差と貧困がきわめて厳しい地域であり、それが左派・中道左派政権の社会政策によって是正されつつあるのですが、その延長線上に社会主義的変革に向かうのか、あるいはそこから脱線して結局、今日の発達した資本主義諸国の後追いとして、その「高度な病理」にはまっていくのか、がこの先問題となるでしょう。そこでは社会進歩の立場からの中南米と日米欧との交錯による相互の学び合いが求められるように思われます。

たとえばその点で注目されるのが、ベネズエラのエル・システマの日米欧への普及です。厳しい格差と貧困の中に置かれた青少年の非行を防止して健全な社会の一員となることを支援する(オーケストラへの組織を中心とする)音楽教育がベネズエラでめざましい成功を収めました。それに学び、発達した資本主義諸国でもそれぞれの当面する教育・社会政策上の課題に合わせて創造的に実施されています。日本では大震災後の復興の一環として福島県相馬市で実施されています。エル・システマそのものは必ずしも社会主義運動というわけではありませんが、そこには新自由主義的分断に抗する人民的共同性という社会進歩上の普遍性があります。それは西欧社会に生まれ確立されながら、人類社会共通の文化となったオーケストラの性格を反映するものでもあります。新自由主義の矛盾が特に厳しく、発展途上国でもある中南米の地に生まれ、後に左翼政権の強力な支援でいっそう拡大し、さらに世界に広がったエル・システマは、爛熟する現代資本主義の病理への治療薬の一つとなりうるかもしれません。

さらには、中国・ベトナムの探求する「市場社会主義」と、政治・経済における自立・平和的共同の実績を重ねつつあるASEAN、あえて言えばASEANに倣って作っていきたい東北アジア平和協力構想・同共同体へ、という政治・経済の様々な次元の動きを重ね合わせて見ることができます。アフリカでも紆余曲折を経ながらも、自立と民主化が追求されています。これらは新自由主義グローバリゼーションと帝国主義的秩序を解体しうる方向性を持っています(もちろんそれに飲み込まれたり変質したりという可能性もあるが)。そうした各勢力の意図は様々であっても、客観的に言えば、こうした世界的流れはすべて広い意味においては、利潤追求を至上命令とする資本が主人公である資本主義社会から、人間的な社会が主人公となるという意味での社会主義社会への人類史的移行の一部を形成しています。そうした中でも、濃淡様々でありながらも、新自由主義との対決と社会主義的変革を意識的に掲げた中南米の多くの政権と政党・社会運動体の存在意義は特別なものがあるというべきでしょう。

 ところで前出、伊高浩明氏の「変質するベネズエラの『二一世紀型社会主義』」(『世界』10月号所収)によれば、ポスト新自由主義とは、新自由主義の後にその克服を目指す、ということではなく、新自由主義に社会政策を加味した改良型新自由主義のことだというのです(30ページ)。ベネズエラのマドゥーロ大統領がブラジルのルーラ前大統領からこうした「ポスト新自由主義」路線に同調するよう働きかけられ、受け入れたようです。

 チャベス前大統領亡き後のベネズエラで、経済不調による政権批判が高まり不安定化しているのを私は危惧していました。しかし伊高氏によれば、人々の経済への不満はあるものの、深刻な事態を招いたのは、内外右翼・保守勢力がクーデターの誘発を狙って街頭破壊活動を展開したためであり、それが政府によって正しく鎮圧されたというのが真相です。それを内外メディアが「平和的反体制活動を政府が弾圧している」というふうに正反対に描き出し、政権に不利な国際世論が作りだされました。しかし南米諸国連合はマドゥーロ政権を断固支持し、米国の干渉をはねのけ、世論調査でも暴力反対・米政府の干渉反対が圧倒的多数です。引き続き米帝国主義が革命政権の転覆を虎視眈々と狙っている状況下で、中南米の政治革新を先導してきたベネズエラの政権自身が経済安定化を通して政治の安定を築いていけるかが注目されます。チャベスの「21世紀の社会主義」から「ポスト新自由主義」へのマドゥーロ政権の路線転換は、内外の厳しい情勢への現実主義的対応であり、吉と出るか凶と出るか、果たして革命は変質してしまうのか、予断を許しません。

 伊高氏によれば、ボリビアは改良型新自由主義という意味でのポスト新自由主義路線を採っています。すると先のガルシア副大統領の言説は、そのような改良的路線が、資本主義経済を真に克服した社会主義社会をやがて目指すようになる、と主張していることになります。それを頭から否定することはできないかもしれませんが、やや疑念が残ります。

そこで以上に紹介した中南米関係の記事や論説が言及していない問題を考える必要があるのではないでしょうか。社会の根底的変革にとって農業と土地所有を避けて通れません。日本とは違って中南米では農地改革が徹底されず、広大な大土地所有が存在し、農民が解放されず、ここに一方に前近代的関係の残存が、他方にアグリビジネスによる新自由主義的大農場経営の展開が考えられます。つまり変革過程への重大な桎梏があるように思われます。かつて左翼ゲリラが跋扈していた原因もここにあるでしょう。それらについて私は何ら勉強しているわけではないので、農業と土地所有のあり方に応じた各国の再生産構造の特徴、さらには政治的上部構造やイデオロギーなどへのその影響のあり方についても知識を持ち合わせていません。しかし先月から農民的家族経営の意義について学ぶ中で、中南米の変革においても農業と土地所有の問題が重要であることはおそらく間違いないであろうと思った次第です。それをテーマにした研究に学ぶことは今後の課題です。

 

          日本の生産性は低いか

 佐藤修氏の「グローバル経済と雇用劣化 経済『好循環』政策と『働き方』改革」の中で「日本再興戦略改訂2014」から「日本企業の生産性は欧米企業に比して低く、特にサービス業をはじめとする非製造業分野の低生産性は深刻」という記述が紹介されています(48ページ)。これは従来から日本の支配層が労働者階級に対して加えてきた「もっと働け」「ちんたらするな。効率よく働け」という攻撃に他なりません。働き過ぎの日本労働者が反論しないでどうするのか。

 資本家側はどう考えているのか。富山和彦氏(企業再生に取り組む経営共創基盤CEO)へのインタビュー「成長戦略の『勘違い』」(「朝日」99日付)は面白いところもあるし、この問題へのヒントも含んでいるのですが、当該部分では、経済学を知らない資本家意識の混乱を示しています。「主要国の中で、特にサービス産業の生産性の低さは歴然です」という富山氏に対して、インタビュアーが「商店にしろ交通機関にしろ、米国より日本のほうがよほどテキパキして生産性が高そうですけど」と当然の疑問を呈しているのを受けて、富山氏は「日本のサービスが過剰なんです。生産性は労働時間あたりの付加価値なので、日本人はサービスに対価を払っていないことになります」と答えています。

富山氏は、生産性とは付加価値生産性なのだと的確に答えていますが、おそらく生産性と言えばそれしかないと思っているのが問題なのです。商品の二面性、使用価値と価値を想起しましょう。本来生産性とは、単位労働時間当たりの使用価値生産量です。インタビュアーが、米国より日本のサービス業の生産性の方が高いと言っているのはこの本来の生産性を無自覚に念頭に置いているのです。しかし富山氏の答えがそれとはすれ違っていることは分かっていません。資本にとっては生産の目的は剰余価値の増殖であり、使用価値は手段に過ぎないのだから、付加価値生産性が問題であり、使用価値量は問題ではありません。

 問題は生産された使用価値の実現された商品価格です。一部が過剰であってそれに対しては「サービスに対価を払っていない」ということは、商品価値の一部が実現されていないということです。これではどんなに効率よい生産を行なっても付加価値生産性は低くなります。国際比較で日本の生産性が低いという原因はここにあるのではないか。これが私の仮説です。

 徹底的な賃金抑制・人員削減などコストカットで輸出競争力を強めることに注力し、その関連産業を中心にして国民経済が構築されてきた日本資本主義では、そのために内需が不足し内需型産業では十分な価値実現が困難になりました。輸出製品では、たとえ低価格でも世界市場相手に数量で稼ぐことができるので、先端輸出製造業では付加価値生産性は比較的高いのに対して、内需型産業ではそれができないので低くなります。国際比較で日本のサービス産業の生産性の低さが問題になるのはそういうことではないでしょうか。

 懐の深い内需循環型の地域経済があれば、そこで十分に価値実現が可能です。ところが何でも国際競争にさらされる環境ではそれができません。これは生活の質の問題です。何でも安物の輸入品で済ませるのか、作り込まれた伝統や文化の香りのする地域の産品を添えるのか。消費生活のあり方の問題を含めて、付加価値生産性の問題は生産過程よりも実現過程にあるのではないか、という気がします。

 以上、まあきわめて乱暴な議論で、生産的労働論とか、価値と価格の問題とか、穴だらけですが、とにかく問題を提起し考えるべきだと叫びたいのです。なおこれについては、拙文「『経済』の感想」の20077月号」200910月号」にあれこれ書いております。

 

          断想メモ

北東アジアではなく東北アジアが正しい。久保亨・松野周治対談「日本と中国・東北アジア 経済史・地域研究の視点から」での松野氏の見解(85ページ)を断固支持。

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日本語の歌の発音はひらがなのようであってほしい。カタカナましてやローマ字では困る。

                                 2014年9月30日




2014年11月号

          オルタナティヴとしての地域経済論

 安倍内閣の人気の原因について、私は7月号8月号の感想の中で「アベノソーシャルを捉えるために」正続としておぼつかない愚考をめぐらしました。さすがにわが国エコノミストの良心たる内橋克人氏は一論文でその仕組みにかなり迫っています(「『アベノミクス化』する社会 強者の欲望に寄り添う権力のもとで」、『世界』11月号所収)。

 辺野古基地建設強行とそれに伴う抗議行動への「常軌を逸した排除」、暴力的「拘束」などの強権発動への告発が冒頭に置かれているように、論文全体に安倍政権への強烈な怒りが貫かれています。大いに共感しますが、それはとりあえず措いて、「アベノミクス化」する社会を実現する統治手法として内橋氏が指摘する「3Mコントロール」を見ましょう。それはメディア・マネー・マインドを「制御下」に置くことです。

 メディアについては、会長の首をすげ替えたNHKが辺野古での「拘束」についてまったく報道しないことをその例として挙げています。日銀の総裁交代によって、政策委員たちがそろって「異次元の金融緩和」支持に宗旨替えしたことと合わせて、安倍政権によるトップ交代劇が組織全体を支配するさまを、久野収氏に倣って「頂点同調主義」と糾しています。内橋氏はこれを群集心理に拡大して「熱狂的等質化希求」とし、大衆による「集団的・自主的・異端排除」の心理が自然体で浸透していき(45ページ)、主権者であるはずの国民は、時の統治者にとって従順極まる「政治的資源」へと家畜化される(46ページ)、とマインド・コントロールの仕組みにまで言及しています。民衆は反権力の自主性も持ちうるという点をもし見落とすならば一面的ですが、少なくとも「アベノミクス化」する社会のメカニズムの一端を捉えていると言えるでしょう。

 残るマネーについて。アベノミクスの要諦は、株価上昇によって、有権者をしていかに昂揚感に浸らせるかの「あの手この手」に尽きる、と内橋氏は喝破しています(4647ページ)。そうしてつくった高い内閣支持率に乗じて、安倍政権は集団的自衛権行使容認などの本来のタカ派政策を打ち出しました。そこで若干支持率が下がった状況で、今度は年金資金を株式市場に投入するという私物化政策をやってでも株価を上げ、支持率を回復しようという算段です。

 以上のような「成功」に依拠する安倍政権ですが、消費税引き上げ後の景気落ち込みの中で、世論調査によってもその経済政策への支持は下がっています。アベノミクスの化けの皮がはがれようとしているときに対策として出てくるのが焦点の変更でしょう。「アベノミクス化」する社会という政治的「資産」を保持しつつ、経済政策でのじり貧状態から目をそらし、別に埋め合わせる材料を見出そうとしているようです。そこで、野党であってはほとんどかなわないという意味では政権固有の伝家の宝刀ともいえる「アジェンダ・セッティングの権力行使」に踏み切るときです。その意義については以下のように説明されます。

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 民主的政治過程は、言語が力に転換される場でもある。そこでは、最優先の政治課題を提示し、その実現にむけて日程とフォーラムを決め、制御する権力、すなわちアジェンダ・セッティングの権力を現実に行使した者が勝者となる。このアジェンダ・セッティングを主導できるか否かで、憲法上政治の基本方針をもたない首相の「強さ」が決まる。

   松平徳仁「『集団的自衛権』をめぐる憲法政治と国際政治」(『世界』10月号所収)

140ページ

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 首相が「勝者となる」べく近頃喧伝されているのが「女性が輝く社会、女性の活躍推進」と「地方創生」です。日本共産党が1021日発表した政策「女性への差別を解決し、男女が共に活躍できる社会を」は極めて包括的であり、当該問題で日本社会の抱える深刻な問題点を分析して、経済的・政治的・法的・社会的に解決方向を指し示しています。問題に真剣に取り組むとはこういう姿勢を言います。この政策が指摘するように「安倍政権がいう『女性の活躍推進』には、その要となる男女の格差の是正や女性に対する差別の撤廃の言葉も政策もなく、もっぱら自らすすめる『成長戦略』のために女性を活用するということしかありません」。問題の本質はここにあります。ただし注意すべきは、「民主的政治過程は、言語が力に転換される場でもある」中で、アジェンダ・セッティングが空虚なスローガンの連発に過ぎなくても、政権が発するならば、人々に何らかの幻想を持たせうるということです(そこでは空虚なスローガンという言葉が政治的力に転換される。もっとも端的には支配を維持する議席になる、といったようなこと)。私たちにはどうやって中身の勝負に持ち込むかが問われるのです。

 もう一つのアジェンダが「地方創生」です。もちろんこれはいっせい地方選挙に向けて出されています。ただし以下ではそうした政府与党の政策分析は措いて、特集「地域再生の対抗軸」に学んで、オルタナティヴとしての地域経済論について考えていきたいと思います。

 今日では、経済理論・現状分析とも、新自由主義グローバリゼーションへの批判が中核的位置を占めており、政策や運動の領域では、展望としてのオルタナティヴの提起が最重要な環であると言えましょう。その中でも地域経済の再生という課題が持つ意味は非常に大きいと思われます。国政や国民経済の変革がまだ遠い課題である中でも、地域経済はその身近さや問題の切迫感からして、変革対象として幾分は取っつきやすい側面があります。この分野では経済学研究と実践とが比較的直結し、豊富な実践経験に基づく、地に足の着いた研究が多いという事情もあります。

拙文「『経済』201311月号の感想」では下図を掲げました。

 

 これは個人から世界経済にまでいたる経済構造を上下5層に分け相互関係を図式化したものです。これによって「経済の重層性における諸個人とグローバリゼーション」が概観できます。

図で矢印の元にある階層は規定する側であり、矢印の先にある階層は規定される側です。左側の矢印群(↑)は「下から(上へ形成する)視角」(諸個人の生活と労働から出発して経済の重層性を見る人民の変革的立場)に、右側の矢印群(↓)は「上から(下へ支配する)視角」(グローバル資本から出発して経済の重層性を見る支配層の搾取者の立場)に反映されます。簡単に言って、図は「下から視角」と「上から視角」の対抗を描いています。

賃上げ・労働条件改善・福祉の充実・大衆課税反対といった諸要求を阻むものは、究極的には、「国際競争に勝たなければならないから、そのような要求は我慢せよ、法人減税なども理解せよ」という論理であり、これはマスコミ等を通じて流布されている「上から視角」のイデオロギーです。それは新自由主義グローバリゼーションの観点から、図の5層の最上位にある世界経済を支配するグローバル資本の利益のために下の4階層すべてを従わせるものです。

私たちは諸要求を部分的にでも実現するために、改良闘争に様々に工夫を凝らして臨むわけで、それ自身たいへんに重要なのですが、根本的には、かくも要求つぶしの圧力が強い原因たる「上から視角」をしっかりつかんでおくことが必要だと思います。それに対抗するには「下から視角」を確固としてつかみ豊富化しなければなりません。その際に、日本国憲法はその13条で個人の尊重から出発していることからして、その強い援軍であることに注目すべきでしょう。またこの豊富化において、図の中で下からも上からも3層目(つまり真ん中)にあたる地域経済が特に今出番だと言えます。

今日、様々な政治経済分野で保守・革新を問わない一点共闘が成立しています。その成立根拠の一つとして考えられるのは、全体としては支配層の(したがって支配的)イデオロギーたる「上から視角」の影響下にある人でも、自ら直面する切実な要求の分野では「下から視角」に立たざるを得ないということだと思います。地域経済の分野では、地域に根付いている生活者・生産者(あるいは生業を営む者)は、新自由主義グローバリゼーションの吹き荒れる中で、自らを「保守」しようとするなら「下から視角」であらざるを得ません。ここに地域経済において様々な立場の人々を巻き込んだ豊富な実践が生まれる根拠があるのではないでしょうか。

 特集「地域再生の対抗軸」の冒頭を飾る、岡庭一雄(長野県阿智村前村長)・岡田知弘(京都大学教授)両氏の対談「住民自治を生かした地域経済の発展」は、自治体運営の偉大な実践者と地域経済研究の第一人者との真に智慧あふれる対談であり、そこに学問研究と社会変革実践との聡明な一致を見ることができます。

政府の推進する市町村合併に異議申し立てする「小さくても輝く自治体フォーラム」の第2回が20039月に阿智村で開催されます。当時、長野県(田中康夫知事時代)が栄村、泰阜村の財政分析をやって、合併なしでも自治体自立は可能であることを明らかにしました。参加者は決して財政破綻しないと自信を持ち、地方自治の理念と財政分析という政策科学を結びつけるという流れをつくることができました。

さらに年に一、二度の交流会をより発展させ、自治体研究所の力を借り、2010年に緩やかな連絡会「フォーラムの会」が始まり、116月から恒常的な組織と活動を進めることになりました(1516ページ)。

こうして合併反対の運動が広がる中で、この変化を岡庭氏は、市町村制による国家を補佐する「行政体」としての自治体から、住民の「共同体」としての地方自治体への見直しが起こったと見ています(17ページ)。

 このような積極的動向の障害となるのがTPPです。それは自治体の調達を問題にし、自治体の地域づくりをつぶします。たとえばこれまで地域経済の活性化に貢献している「住宅リフォーム制度」が訴えられるようなことが起こり得ます。

「地域の経済が疲弊してきた原因の根本には、グローバリゼーションの経済システムの中に、小さな町や村を無防備に放り出してしまったところにあるのです。 …中略… 地域経済を疲弊させた経済政策の大本を変更しないで、政府がTPPのような政策を進めていくと、地域の再生などは吹っとんじゃうわけです」(22ページ)という根本問題をまったく見ないで逆立ちを推進しているのが、政府の成長戦略と連動した「地方創生」というわけです。

阿智村では、「住民一人ひとりが人生の質を高められる、持続可能な村づくり」(25ページ)という総合計画の基本理念を掲げました。5人以上の住民が集まって、自分たちでテーマを決めて活動する「村づくり委員会」を組織し、村は公的資金を出すが、自由にやってもらうことによって、住民の主体性・自治意識を高めてきました。

そうした中、地区自治会の地区計画は完全なボトムアップ方式で、レベルは高いものです。地域の産業、歴史、環境などテーマごとに、地域の一戸一戸を家族の状態も含めて調べ、10年後の地域のあり方を住民が主体で提案し、住民・村・県・国がやるべきことを仕分けして村へ要望します。その集約が村の施策となります。

この住民の力の充実が、その知恵、地域づくりの主体的主張として開花し、内部経済を高めて外部経済をコントロールする力をつけるに至っています。たとえば外部からの影響が大きい観光産業について、遊興型では子育て環境が悪化するので、村での話し合いの結果、風俗営業規制の条例を制定し、健全観光地としての発展を実現させています。

このように村に対してモノを言う住民ができた土台は、公民館での学習です。中央公民館で年一度、研究集会を、各地域の公民館でも同様の集会を開催しています。そういう長い歴史の成果が「村づくり委員会」となっています(以上、阿智村における住民主体の村づくりの驚くべき実践については主に2429ページ)。

以上のような「行政体」VS「共同体」そして「TPPVS「地域経済」という対抗関係は、私流には「上から視角」VS「下から視角」と換言できます。阿智村の村づくりは「下から視角」の肉付けとして、その豊かな実践から学んでいくことができます。この阿智村の実績から見ると、「上から視角」に立つ政府・民間大企業路線による地方自治の空洞化は明瞭に看取できるところです。観客民主主義の地方自治・地方経済版とでも言いましょうか。岡庭氏の警告をよくかみしめなければなりません。

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住民の主体的な力を引き出すのではなく、反対に、自治体をサービス産業に見立て、住民は顧客という形にして、主体をはく奪する状況が広がって、その下で地方自治の危機が進んでいると思います。顧客としてまつり上げられているうちに、地域の経済や福祉を創り上げていく力を失い、気が付いた時には、取り返しのつかない社会状況になっているということになりかねません。        33ページ

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 「顧客としてまつり上げ」「取り返しのつかない社会状況」をつくりだす原因の中でもかなり有力なのが「個人商店も市場原理の中で滅びるものは滅びるに任せた方がいい、という見方」であり、これは極めて広く支持されています。「だが『まち』は、合理性や経済効率だけで動いているわけではない」として、「まち」と消費地はイコールか、と問題提起しているのがフリーライターの古川美穂氏です(「東北ショック・ドクトリン 第8回 『まち』と『消費地』」、『世界』11月号所収192194ページ)。

 古川氏は様々な立場の人々に取材し、東北の被災地にイオンが進出して生じた状況を描き出したのちに、上の問題意識を提出しています。よそからきてやがて収益性がなくなればいなくなる企業によって、ただの消費地にされるのではなく、生きたまちをつくるにはどうしたらよいか。古川氏はまず立教大学の平川克美氏に聞いています。

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 復興に関しては、地元に市が立ち、その周辺に店ができ、人が集まり、という自然のプロセスを待ちながら、そこを支援していくのが一番健全な形です。だがイオンのような大型店が出るとそれが難しくなる。地域住民を消費者として囲い込み、地場の小商いをなぎ倒すというのは、まさしくディザスター・キャピタリズム(惨事便乗型資本主義)といえるでしょう。アメリカのウォルマートが街を枯らしていくのと同じような、非対称性が際立っている。       192ページ

  …中略…

 大型のものをドンと誘致すれば、人も集まり、何もかもうまくいくという考え方がある。だが結局そういうやり方だと最初が頂点で、だんだんすたれて行くというパターンを繰り返すのです。       同前

    …中略…

株式会社は垂直統合していく性格を持っている。つまり、どんどん多様性を失っていくということ。それに対して、生きたまちをつくるために、地域住民がどう対処するかです。長い時間の中でコミュニティを作っていくというのは、死者から受け継いだものを未来に手渡していくということ。それはその場に生まれ育った者たちの義務でもあります。そうした視点がないと、最終的には地域を荒廃させていくことにもつながる。

           193ページ

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 次いで関西大学の三谷真氏には、個人商店や商店街が大型SCに伍して生き残る道を聞いています。商店街にはその背後に「物語」があるはずで、大型店にない面白さがあります。

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 たとえば、モノを売るときに商品をひとこと説明する。若い人に旬の食材や美味しい食べ方を教えてあげる。「お客を育てる。それができるのは市場商店街なんや」と。そういうプロの集団として何ができるかというのが、とても大事なことだと思うのです。

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 資本主義国民経済のあり方においても、下からの自生的な道と、国家権力による上からの道、あるいは植民地・従属地域的な外国資本による道があります。地域経済にも地場から立ち上がってくる道と、地域外資本がつくり上げていく道があるわけで、地域の独自性・「物語」は前者によってしか維持できません。それがまたよそから見ても魅力的です。古川氏はこう言います。

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 自然発生的に人の輪ができる場所。旅人が土地の空気を吸い、地域の人たちと触れ合える場所。日常のゆるやかな繋がりで、人々の癒し役まで果たす場所は、意図して作れるものではない。それは「土地そのもの」と地域住民が一体となり、消費者・生産者ではなく生活者として生み出す「場」でもあるからだ。      194ページ

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 古川氏は優れた見識と感性でこのルポを書いていると思いますが、経済学研究者がより理論的に深め分析していくという課題もまたあるでしょう。

 話を戻すと、岡庭・岡田対談の豊饒な内容のわずかな部分しか紹介できませんでした。終わりの方で岡田氏が中小企業振興条例に触れています。その活用については、和田寿博さんに聞く「地域と大学の共同 愛媛・東温市、松山市」が参考になる論稿です(5766ページ)。

 和田氏は、中小企業振興の課題として、<@経営者の責任 A経営理念の実践 B社員教育 C市場・顧客および自社の理解と対応 D付加価値の向上>を挙げています。そして中小企業労働者、経済団体・大企業・金融機関の関係者、学識経験者そして首長や行政の担当職員といった地域パートナーとともに地域中小企業振興に取り組むことで相互交流・理解が深まり、中小企業経営者が変わり、企業が変わり、地域が変わっていくことになります。

 そうした実質的前進のためには、もちろん名目的にただ条例を制定するのではダメで、和田氏は「中小企業振興の三つの定石」を強調しています。それは<1.基本条例の制定 2.実態調査の実施 3.円卓会議の設置>です。たとえば愛媛県東温市では中小零細企業円卓会議を年3回予定しており、さらに商業、工業、PR、教育・町づくりの4つの小委員会も開催されています。こうして東温市産業創出課を事務局とする円卓会議委員の深い相互交流から短期・中期・長期の諸事業が数多く多彩に施行・準備されています。

 現在、過半数の道府県で基本条例が制定され、市町村での制定も進んでいますが、それが実質的に機能し、地域経済が振興し、地域パートナーが変わっていくには、「三つの定石」の具体的実践が問われます。

 先月紹介したように、金子勝氏は「六次産業化」+「エネルギー兼業農家」を提唱していました(「『地方創成』という名の『地方切り捨て』 地方に雇用を生み出す産業戦略を」、『世界』10月号所収)。大友詔雄氏の「バイオガスによる地域産業創出の新たな可能性 地域社会の健全な発展を目指して」は、それをいわば技術的・社会経済的に具体化していると言えます。その眼目は、大企業が押し進める「地域資源の収奪」を通しての金儲けの計画でなく、地域の事業者・農民・住民による地域産業創出、地域社会発展の可能性を切り開くことです。

今日の酪農家経営は、濃厚飼料(80%は輸入)を使用して、飼養頭数を増やし、乳量増加による収入増を図りますが、これは飼料代と労働負担との増加で経営改善が進まず、後継者もいなくなります。それのみならず、輸入飼料の代金は国外流出し、排泄物は増加し、農地土壌の不健全化を招き、循環型農業・地域内経済循環が成立しません。

大友氏は、この悪循環から脱するため、糞尿処理のバイオガス化によるエネルギー利用で農家収入の劇的改善を図ろうとします。「農家がバイオガス施設を所有できれば、農家の収入増になる。その収入増の分だけ、飼養頭数を減らすことも出来る。飼養頭数を少なくできれば、地域の牧草で飼養することも可能になり、労働負担も減らすことができる。こうして持続的循環型農業の確立に貢献する」(95ページ)というわけです。

これは生産力主義でなく、家族農業にとっての適正規模の視点を打ち出しているという意味でも注目されます。

この構想を実現するには、地域の仕組みづくりが必要です。ここで重要なのは、(1)電力の消費とその熱利用を地域内で行なうことであり、(2)その担い手は農家が中心であり、地域の民間事業者の異業種連携の力で地場産業として確立することです。

そうなると既存事業体の活用と新事業体の創出が必要であり、それを地域の諸条件にあわせてデザインする自治体の役割は大きくなります。地場産業は以下の事業体から構成されます(97ページ)。

@バイオガス生産事業会社 Aエネルギー供給事業会社 B地域エネルギーインフラ会社 C地域の設備会社(需要先の機器・設備を設置・保守・管理する)

D事業運営会社としてのエンジニアリング会社(事業全体を統括・管理する)

 こうして技術の開発・応用を生かす地場産業の組み立ての大枠が構想されます。そこで大切になるのが、阿智村の経験と同様に地域の担い手・主体づくりです。

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 バイオマスを利用することは、結局は、地域の仕組みをつくり上げることにある。この前提条件であり、かつ目標でもある重要な点は、地域の合意形成及び担い手の存在・育成である。ここで自治体の役割は大きく、原料供給者、エネルギー生産者、エネルギー需要者、インフラ整備事業者、学識経験者、一般住民、行政関係者、金融機関関係者などから構成されるラウンドテーブル(協議会)を開催し、地域の合意形成の中核となって、共通認識を醸成し、地域の計画の作成、実行の推進役としての役割が求められている。

 また地域における担い手及び、不足するノウハウとそれを補完するための人材育成策も必要である。自治体及び農協等の公的機関が主体となって、専門家を養成する。既に、バイオガスの専門家が配置されている農協もあり、地場産業として確立させる中で、専門家集団の育成と維持を図り、地域で不足するノウハウとそれを補完するための人材育成策を打ち出すことが求められている。       100101ページ

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 このように自然エネルギーを軸にした地域経済形成が、自然科学者であり、自然エネルギー問題の運動家・起業家でもある大友氏によってかなり具体的に提起されたことは、私見では「下から視角」による、地域経済論の有力な肉付けとして勇気づけられます。

 それとは対照的な「上から視角」として、大企業が押し進める「地域資源の収奪」を通しての金儲けの計画の一例への警告を放っているのが、「井内尚樹のシリーズ腕まくり指南・第161回 本当の意味での自然エネルギー生産の普及の重要性について―半田市を事例に―」(「愛知商工新聞」1013日付)です。これは反面教師として参考になります。

 住友商事グループの新電力会社・サミットエナジーが建設する「半田バイオマス発電所」は国内最大級の木質バイオマス発電施設ですが、井内氏は「とんでもない施設」と強烈に批判しています。

まず第一に、ヨーロッパでは木質バイオマスの活用では発電と熱供給を行なうコージェネ方式が当たり前です。半田市の施設は熱供給をしないので森林資源の効率的活用ではなく、電気の全量買取制度に便乗しただけの大企業の儲けの場に過ぎません。第二に、これは山間部ではなく港に建設し、東南アジアからの輸入を予定しており、国内の森林資源のフル活用ではなく、海外にエネルギー資源を依存することが前提になっています。

 したがって「半田バイオマス発電所」は、岡田知弘氏が常々強調している地域内再投資力の育成とは逆行するのが明らかです。自然エネルギーにしても地域経済にしても、確かな基準をもって接しないと、そこに生きる人々にとって害が多く益が少なく、大企業に利用されただけということになりかねません。

 以上のように、新自由主義グローバリゼーションを規制して人間的な経済を実現していく方向性を私は「下から視角」と呼びますが、その中でも特にオルタナティヴとしての地域経済論の具体化と実践は人々の目に届きやすいという意味で重要です。地域経済の担い手が育ち、それが変革主体形成につながっていくことが展望されます。

 

 

          グローバリゼーション下のサービス産業

 飯盛信男氏は次のように主張します(「サービス産業拡大の国際比較と日本の特徴」)。

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 日本経済はすでに巨大な生産力をもつ成熟段階に達しているのであるから、成長至上主義から脱却し健康・文化・環境など国民生活の質的向上を担う公共サービスに重点を置くべきであり、これによって雇用と内需が拡大され経済社会の安定がもたらされる。

     144145ページ

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 極めて妥当な認識だと思います。ただし低成長の要因は成熟の他に貧困もあり、したがって日本資本主義の問題点である過剰生産を見ても、絶対的過剰生産と相対的過剰生産が共存しています。「成熟=絶対的過剰生産」の系だけでなく、「貧困=相対的過剰生産」の系をも見ることが必要です。脱「成長至上主義」という場合に、後者の克服に伴う正当な成長率を基礎にしつつ、成熟化にふさわしい経済成長のあり方を追求すべきでしょう。

貧困=相対的過剰生産の激化をよそに(過去の成功体験の無反省的繰り返しとグローバリゼーションへの新たな危機感との複合の結果たる)成長至上主義が強行され、一方に低賃金、他方に企業の内部留保の蓄積に象徴される貧富の格差拡大があり、従来、その矛盾を回避する迂回路だった輸出主導も機能不全となり、適正な拡大再生産構造が破綻した結果として、日本資本主義の今日の宿痾たる例外的低成長があります。その裏で、成熟=絶対的過剰生産も同時進行してきました。両面の止揚に資するべく、「国民生活の質的向上を担う公共サービス」によって「雇用と内需が拡大され経済社会の安定がもたらされる」ことが期待されます。これは貧困と成長至上主義の同時克服と位置づけることができます。

 飯盛氏は、ダニエル・ベルの脱工業化社会論の四段階説を肯定的に紹介しつつ、それが対企業サービスの拡大・公共サービスの民間産業化・金融投機化を予測できなかった限界について「サービス経済化を資本蓄積を軸としてとらえる視点はなかった」(146ページ)と批判しています。つまりベルに対して、生産力視点においては評価し得るが、生産関係視点の欠如を問題としており、妥当な観点だと思います。

 以上のような観点から飯盛氏は日本におけるサービス産業の展開を分析し、「サービス部門についての日本の特徴は、公共サービスのたちおくれと並んで対企業サービスのうち低賃金・代行型業種の肥大化にある」(150ページ)と核心を指摘しつつ、以下のように現状批判と展望を語ります。

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 先進諸国と比してまだたちおくれているがゆえに今後大きな市場拡大が期待できる公共サービス民間市場化と人件費圧縮に貢献する派遣・代行型対企業サービスの拡大は、政府・財界の重要な戦略になっているといえる。前者は、公的支援抑制国民負担強化で利潤追求領域を広げる「貧困大国アメリカ」の手法であり、後者は人件費抑制で利潤を確保する古典的手法である。その結果は、国民要求を土台に公共サービスのウェイトは不可避的に高まるが公的支出抑制により家計負担の強化がすすみ、主要産業の雇用が代行型の派遣労働・請負業等へ置き換えられてゆくこととなろう。

  …中略…

 製造業海外移転・国内産業空洞化のなか、医療での混合診療導入など公共サービスの民間市場化=利潤追求領域拡大の試みとともに、人件費圧縮によって積み上げた内部留保を財テクに用いて営業外収益を高めることも財界の新たな戦略となっている。西欧型の所得再分配に支えられた公共サービスの充実と専門サービスの質的向上、代行型対企業サービスでの待遇改善・派遣労働の直接雇用への転換を対置してゆくべきである。製造業を維持し産業空洞化を止めるためには、まず西欧諸国と同様に安定雇用と人材育成を重視すべきであり、また、ローカリゼーション基盤の環境・国民生活充実型への転換をすすめるべきである。            151ページ

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 日本資本主義の現状批判と展望にとって、サービス産業からの分析視角がきわめて有効であることが分かります。このように飯盛氏の観点は全体としては非常に的確だと思いますが、対企業サービスの日米比較において示された米国サービス産業への見方に若干の疑問があります。

 日米サービス産業の労働生産性が比較される際のその定義は、<GDP÷就業者数>です。これは付加価値生産性の比較であって、労働時間当たりの使用価値量(サービス量)の比較ではありません。それぞれ異質なサービスの使用価値量を比較することは不可能なのでそれは仕方ないのですが、ここでは投下労働量とそれが実現される価格との間にギャップが生じることが自覚されていなければなりません。付加価値生産性ではそれがそのまま生産性の格差として認識されますが、そこに陥穽があります。

 飯盛氏によれば、対企業サービスの中身において、米国では専門的サービスが大きく拡大したのに対して、日本では代行型・人件費削減型が大きく伸びており、まずここで生産性格差が生じています。さらに専門的サービスの中身についても、「米国の専門・技術サービスは高生産性・高賃金であり、雇用規模も大であるのに対し、日本では生産性・賃金ともに高くはなく雇用規模も小さい」(154ページ)とされます。ここまで見ると(飯盛氏が直接そう言っているわけではないが)労働の複雑度に差があることが原因となって同一労働時間でも生産される価値量が違い、それが(付加価値)生産性の格差となっているように思われます。

 そうした要因があることは否定できないでしょうが、それがすべてでしょうか。「米国の成長型サービス産業では高利益率→高賃金・優秀な人材→高生産性→高利益率という好循環がみられる」(155ページ)にしても、問題は最初の高利益率にあります。米国において、高利益率をもたらす高付加価値がどう作られるかについて、二つ考えてみるべきことがあります。

 一つ目は、日本ではしばしばサービスが無償で行なわれる(日本では「サービス」という言葉そのものが「無償」という意味で使用されることがよくある)のでその分、付加価値が低くなり、(付加価値)生産性が低下するのに対して、米国では「所得介入」によって付加価値が増加しその分、(付加価値)生産性が上昇する傾向があります。

都留重人氏は所得介入によるGDPのかさ上げを問題視しています。都留氏によれば、所得介入とは「なくても済むサービスが、社会なり経済なりの仕組みで不可欠にされてしまっているため、そのようなサービスを提供する職業がそこでは市場性を獲得し、サービスの対価として受け取られる所得は、いわばそこへ割りこんだ形のものでありながら、利用者としては省くことができない種類のもの」と定義されます(『経済の常識と非常識』岩波書店、198733ページ)。この言葉を好んで使ったシュンペーターはその例として米国における弁護士業を挙げています(同前、34ページ)。弁護士業が過度に必要とされるがために専門サービスの生産性が高い、というのは社会として良い状態ではありません。

「米国は法律・会計・コンサル・情報サービス・特許などで圧倒的な競争力をもっている」(飯盛論文、153ページ)わけですが、その中の幾分かは米国社会における所得介入の流儀をグローバリゼーションの名の下に世界に押しつけた結果ではないでしょうか。本当の意味でのグローバル・スタンダードを築いて、特定国に合わせた所得介入をなくし、専門サービスの高生産性の中の歪んだ部分を是正することが必要です。異常な低賃金に基づく日本流無償「サービス」も米国流「所得介入」高付加価値も不健全であり、双方を見直す上では、サービス産業の生産性比較において統計数字の裏を読むことが必要だと思われます。

 二つ目は、こちらの方が重要ですが、WTO体制下での知的所有権の独占をテコにした高付加価値です。たとえば2012年の米国民間サービス貿易の「黒字額はロイヤルティ・ライセンス料が4割を占め」ています(飯盛論文、155ページ)。グローバルな生産体制の中で、パソコン等の製品価格における分配構成を見るならば、米国等多国籍企業の知的労働と途上国の現場労働との極端な不等労働量交換が明らかです。このような強搾取体制の生み出す超過利潤が米国などのサービス産業の高利益率とそれを起点とする「好循環」の土台にあるのではないでしょうか。

 もちろん高度情報社会は社会進歩の一形態であり、そこでの専門サービスには歴史貫通的意味において必要な部分があるでしょう。しかし上記のように新自由主義グローバリゼーション下で、特殊米国社会的な部分や多国籍企業の利潤追求にのみ意味がある部分もあります。それを考慮するならば、「米国の専門的対企業サービスの輸出競争力の圧倒的強さは米国企業のグローバル展開の結果として生じたものであり、そのなかでIT資本蓄積、ソフトウェア投資が進んだと考えられる」(156ページ)という叙述は、米国サービス産業の努力による成果という肯定的評価だけでなく、表裏一体のものとして、米国覇権下のグローバリゼーションの強搾取体制によるものだという否定的評価をも含めて理解する必要があります。

 飯盛氏が日本サービス産業の低賃金・代行型の性格を批判して「1990年代以降我が国経済の長期停滞の背景には、企業の人材育成関連投資の停滞があったこと」(同前)を指摘するのはまったく正当です。しかし米国サービス産業における専門サービスの高生産性を評価して、あたかもそれを目指すかのような文脈においてそれが述べられるとミスリーディングではないか、と思います。そこには生産力主義的観点があり、生産関係視点が抜けてはいないか、という疑義があります。その高生産性が米国のグローバル覇権下でもたらされた側面があるのではないか、という疑問からは、その正当性とともに、わが国への適応可能性に対する疑義も生じます。逆に「日本の専門サービス業は地元中小企業を対象とする小企業がほとんどである」(154ページ)という欠点の指摘は、「ローカリゼーション基盤の環境・国民生活充実型への転換をすすめる」(151ページ)のに役立ちうるという長所として裏読みすることができます。日本サービス産業の進路は、米国流専門サービスの後追いとは違ったところにあるのではないでしょうか。

 私は飯盛論文の全体的観点には賛成であり、それを米国サービス産業への見方にも貫徹すれば上記のようになるのではないかと考えました。もちろん様々な統計分析に立脚した論文に対して、統計的根拠によるのではなく、分析観点の一部に対して思いつき的に批判するのは失礼かとは思いますが、力量の限界によるものです。妄言多罪。

 

 

ノーベル賞雑感 普遍性とその敵対物

 日本人の三人の研究者がノーベル物理学賞を受賞したのは喜ばしいニュースです。ただし世間と同様にただ騒ぐのには違和感があります。

 ノーベル賞はもちろん世界で一番権威のある賞です。しかしだいたい授賞対象は何十年も前の研究成果であるし、当然世界には優れた研究は山ほどあり、その中から何とか選ばれたという二点を考えると、その受賞を現時点での比類ない成果であるかのごとく大騒ぎするのは、ノーベル賞の実像を見誤った錯覚でしょう。かつて益川敏英氏が受賞に際して開口一番「うれしくない」といったのは、一面ではやせ我慢・ひねくれの類ですが、本質的には研究者としての真実を示したのです。自らの理論が実験によって検証されその正しさが確定した時が研究者としての本懐であって、ノーベル賞の受賞は世俗のことに過ぎない、と喝破したのは痛快でした。

 もう一つ、日本とか日本人とかを異常に強調するのも気になります。自然科学の発展は国にかかわらない普遍的成果であり、偉大な発見は何よりも人類的成果として称えるべきものです。もちろん日本人の受賞は、日本の「ソフトパワー」を増大させるし、経済的実利につながる部分もあるでしょう。それを日本人として喜ぶのは当然ですが、自然科学の普遍性はそれより優先されねばなりません。特に安倍政権下の今、異常なナショナリズムが跋扈していることを思うと、馬鹿騒ぎには乗らないという姿勢が本当に大切です。

 ノーベル平和賞がパキスタンのマララ・ユスフザイ、インドのカイラシュ・サティアルティの両氏に贈られたのも喜ぶべきことです。しかしパキスタンでは、外務省の幹部が「なぜマララだけが注目されるのか。米国の無人機爆撃の巻き添えで亡くなった数多くの子供たちに、世界はなぜ目をつむるのか」と指摘し、インターネット上の書込みでも「欧米の操り人形だ」「かつて受賞したオバマ米大統領と同類だ」などと、批判的な見方が圧倒的です(「朝日」1011日付)。

 17歳の女子学生が、文字通り命を懸けて女子教育否定と闘っていることに対して、ノルウェーのノーベル賞委員会が「子供や若者への抑圧と闘い、すべての子供の教育を受ける権利のために奮闘している点」を理由に平和賞を授賞したように、彼女の業績は基本的人権の普遍性に属するものです。しかしパキスタンの圧倒的な声が示しているのは、欧米出自の人権は普遍的ではなく偽善という見方でしょう。

 同国のシャリフ首相は「彼女の功績は比類ない。国の誇りだ」と語っていますが、イスラム主義政党「イスラム協会」幹部は「彼女はパキスタン人学生なのに、海外から後援を受けている」と強い不信感を示しています。このように彼女に対して「欧米の情報員」「パキスタンの恥部を海外にさらしている」という批判の声は後を絶ちません(「しんぶん赤旗」1017日付)。これなどは、「自虐」「国益を損ねた」「中国や韓国の『反日宣伝』」などという言説が飛び交う、日本軍「慰安婦」問題をめぐるわが国内の反応を想起させます。人権の普遍性に思いが至らず、何が本当の恥なのかを理解していない勢力に対しては、いつどこであれ闘うしかありません。

 それは大前提なのですが、人権の普遍性を否定するに至るに際して、欧米発の人権に偽善性を見る、という視点は検討すべきです。もちろん、たとえそこに偽善性を見出したとしても、(水と一緒に赤子も流してしまうように)人権の普遍性そのものを否定するのでなく、逆に普遍的人権の観点から途上国と欧米の人権状況をともに批判的に見るのが正しい立場だとは思います。しかし人権問題に関して、途上国からの欧米批判を単に前近代的と切り捨てるのではなく、そこに相互反省の契機を認め、不毛の対立ではなく相互理解から人権の普遍性のヴァージョンアップに進むことが大切です。

 その際に、近代的人権から現代的人権へ、という概念が有効だと思います。私見では、それには二側面があって、一つは先進国と途上国との関係であり、もう一つは先行する自由権に社会権が付け加わるということです。そこで望田幸男氏の「未完の脱植民地思想」という問題提起が参考になります(「第一次大戦百年を遠望して ドイツと日本」)。植民地・従属地域体制は今や完全に崩壊していますが、それは植民地における解放闘争によって成就したのであり、旧植民地領有諸国が植民地・従属地域の支配に対する罪を認めた結果ではないと望田氏は指摘します。たとえば東京裁判において、裁く側が植民地領有国であったので、日本の朝鮮・台湾などの植民地領有の罪が問われることはありませんでした。それでは今日ではどうなっているのか。望田氏の評価は厳しいものです。

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 植民地主義への断罪が、国際的公論に浮上する第一歩は、2001年の国連主催の「ダーバン会議」までまたねばならなかった。だが、そのような国際的公論は、いまだ旧植民地領有諸国が共有する理念にまではなりえていない。そこに21世紀の平和にむけた重要な課題がある。このことが、「世界戦争の時代」のような植民地・従属地域の争奪戦は姿を消したものの、民族問題・国境問題、さらには資源問題をめぐる紛争という形姿で、「平和への道」が脅かされている現在の事情がある。そこには、いぜんとして市場と販路と原料の支配をめぐるグローバル化した金融資本・巨大企業の「影」が映じている。

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 近代的人権の主体は先進国の男であり、女が除外されているだけでなく、途上国(当時多くは植民地・従属地域)人民は人権の主体どころか被支配者にさえされていました。また近代的人権において経済的従属は視野の外であり、自由権があるのみで、生存権・労働権などの社会権はありませんでした。現代的人権においては、民族自決権の下で、世界中の人民の基本的人権が等しく認められ、そこには自由権だけでなく社会権も含まれるタテマエになっています。

 しかし実態はどうか。香港を中国に返還するに際して、イギリスのサッチャー首相(当時)は謝りませんでした。これなどは植民地主義そのものです。フランスもアフリカなどで紛争が起こると旧宗主国として軍事行動に出たりしますが、ここには「先進」民主主義国としての誇りが「遅れた」途上国に対する驕りとして現れており、そこには植民地主義への無反省が見て取れます。

アメリカはベトナムやイラクなど、自国による侵略戦争の被害国に対し決して謝りません。日本の頑迷な歴代保守政権でさえ、第二次大戦時の日本の行為について(ホンネはともかく)悪そうなそぶりを見せ、侵略や植民地支配の罪を認めた村山談話以降はそれを継承しています。アメリカの姿勢が日本より劣ることは明白です。アメリカの侵略戦争への無反省の根底には植民地主義があるというべきでしょう。

 ローレンス・サマーズは、アメリカの著名な経済学者で、財務長官や国家経済会議委員長などを歴任し、ハーバード大学学長も務めました。彼が世界銀行のチーフエコノミストのときに書いたサマーズ・メモ(1991年)は、公害産業を貧困国に移転するのが低コストなので推奨する、という内容で、世界中から批判されました。これは直接にアメリカ国家の態度ではありませんが、有力な政治家が「経済理論的根拠」に基づいて打ち出した主張として、同国における植民地主義の根深さを象徴する事件だと言えるでしょう。それはまた途上国への差別であるとともに貧困の放置であるという二重の意味において現代的人権から近代的人権への退行だと言えます。

今日では望田氏の「未完の脱植民地思想」の基盤上に新自由主義グローバリゼーションが展開しています。格差と貧困は世界中を覆っていますが、途上国民衆にとっては欧米グローバル企業の搾取が、消費生活と文化への支配と一体に認識されます。そこでの貧困拡大による社会権の侵害への反発が欧米グローバル企業の搾取に向けられるだけでなく、生活・文化への支配に対する反発とあいまって、その出自たる欧米諸国が掲げる自由権の主張にも(途上国では自由権が十分に浸透していないという土台もあって)向けられることになります。ここでは自由権の否定から基本的人権一般へのニヒリズムが生じやすくなるでしょう。対抗的に担ぎ出されるのは、伝統的な文化や生活様式あるいは宗教的アイデンティティなどです。

基本的人権そのものはたとえおもに欧米出自であっても、現代的人権の段階では普遍性を持つものです。世界中の伝統文化・生活様式・宗教的アイデンティティなどは現代的人権の中でこそ共存し豊かに発展しうるはずです。しかし「未完の脱植民地思想」の基盤上に展開する新自由主義グローバリゼーションは現代的人権とは相いれません。それは格差と貧困の普遍的拡大を通じて、上に見るように<社会権の破壊→自由権への疑念→基本的人権一般へのニヒリズム>という回路を形成し、現代的人権の開花の可能性にくさびを打ち込み、逆に先進国・途上国・文化・宗教・階級その他の様々な「差別化」の拡大と紛争の発生を助長しています。新自由主義グローバリゼーションを経済次元とするなら、同時に展開している、米帝国主義とそれへの同盟国・従属国の追随、中国・ロシア等の覇権主義その他に見られるいっさいの軍事的・権力抑圧的政治次元の動向もまた世界的悪循環形成の重要な要素です。

 戦後最悪の保守反動政権をもたらしたアベノソーシャル(安倍的社会、ネット右翼の跳梁などに象徴される)も上記の世界的悪循環回路に属するものでしょう。ただし日本の独自性も重要です。企業主義・開発主義の権威主義的統合秩序の形成と崩壊、新自由主義的自己責任論の強化と社会解体・社会的無力性の蔓延、そこでの人間観の変質・自己解体・人権理念の空洞化といった分析を展開した中西新太郎氏の論稿(「新自由主義国家体制への転換と暴力の水位」、『ポリティーク04』/旬報社、2002年/所収)が大いに参考になりますがここではとりあえず措きます。

 パキスタンでのマララ批判に端を発して論点が拡散してしまいました。ここで先進国と途上国の関係に問題をしぼり、それを単純化し、そこに日本を位置づけた表が以下のようになります。

 

 

国内

対外

先進国

民主主義

帝国主義的抑圧

途上国

非民主主義

反帝国主義

近代日本

非民主主義

帝国主義・軍国主義

現代日本

民主主義

対米従属 ただし帝国主義的抑圧も

現代中国

非民主主義

反帝国主義から覇権主義へ

 

 今日、先進国が途上国に対してしばしば人権問題など非民主主義の咎で非難し、途上国が先進国を軍事的覇権主義や経済侵略の咎で非難し返す構図があります。先進国が帝国主義的抑圧をやめ、途上国が民主化を進めることによって、民主主義的で反帝国主義的な現代的人権が実現します。上記のようにそれを阻む第一の要因が新自由主義グローバリゼーションであり、現代的人権の実現には経済民主主義が不可欠です。

 以上は非常に単純化・図式化しているので、個々の国や民族に当てはめると当然はみ出してきますが、近現代の日本の歩みはおそらくかなり特殊でしょう。

 近代日本は、天皇制絶対主義国家として富国強兵と帝国主義的侵略を続けました。したがって国内的には非民主主義・軍国主義であり、対外的には軍国主義による帝国主義国家でした。上表に基づくならば、途上国として出発しながら非民主主義のまま先進国に仲間入りし帝国主義国になり上がったということです。両者の悪い点をまとい、現代的人権から評価すれば、それとは正反対の位置にありました。

 現代日本は近代日本の反省に立って、戦後改革により、先進国にふさわしい民主主義国家となりました。しかし日本国憲法前文・9条などの国家主権と平和主義の理念に反して対米従属の軍事同盟国家となり、一方では沖縄米軍基地に象徴されるように、著しい民族的抑圧下にあり、他方では近年ジプチに自衛隊基地をつくって治外法権的な地位協定を結んでいるように、目上の米国に倣って帝国主義的抑圧をする立場にもなりました。現代的人権の観点からすれば、今日の日本は国内的には小選挙区制などによる民主主義の空洞化を克服し、対外的には対米従属と他民族抑圧の両面を克服する課題に直面していると言えます。

 ついでに現代中国にも触れます。中国革命は形式的なブルジョア民主主義を克服する実質的なプロレタリア民主主義を実現するはずでした。確かに革命過程での解放区での民主主義や戦後日本人捕虜に対して実施された人道的取扱いと政治教育などにはその萌芽が見られますが、結局のところ実現したのは、ブルジョア民主主義以前の共産党一党独裁政治でした。

また対外的には、建国以来の理念は当然反帝国主義であり、その側面がまったく消えてしまったわけではありません。しかし毛沢東時代からの政治的誤りに加えて、改革開放以後の経済発展の過程ではグローバリゼーション下で成功した経済大国として、覇権主義の傾向を強めています。資源確保をめざし領土的野心をあらわにする中で、日本や周辺諸国へ軍事的圧力を誇示したり、アフリカの農地を買い占めるなど、単なる政治的誤りに留まらない経済的土台から生じる覇権主義を見て取ることができます。

上表からすれば、国内的には非民主主義、対外的には覇権主義という現代的人権の対極にあります。国内的には香港に見られるような人民の民主主義的エネルギーの昂揚、対外的にはアメリカ帝国主義との現実主義的関係の調整や途上国との連帯を通じて少しでも良い方向に転換することが求められます。

以上あれこれの類型を提出したのは、民主主義・人権・格差・貧困など今日世界的に問題になる様々な事柄について、個別の問題だけを採り上げて一面的に非難するような議論を排して全体的関連の中に位置づけることが大切だからです。

 やや話題を転じて、近代的人権から現代的人権へという立場から見た希望の一つとして「子どもの権利条約」(以下「条約」と略)を採り上げましょう。以下は『世界子供白書 特別版 2010 『子どもの権利条約』採択20周年記念』(ユニセフ著、日本ユニセフ協会訳、英語版2009年、日本語版2010年発行)を参照しました。

 1989年に国連総会で採択され、翌年発効した「条約」は「差別のない処遇」、「子どもの最善の利益」、「生命・生存・発達の権利」及び「子どもの意見の尊重」という4つの基本理念に基づいています。当然、現代的人権として、先進国・途上国を問わず全世界の子どもに平等に権利が保障され、そこには社会権も含まれます。「条約」前文の最後には次のように書かれています(外務省による政府訳)。

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極めて困難な条件の下で生活している児童が世界のすべての国に存在すること、また、このような児童が特別の配慮を必要としていることを認め、

児童の保護及び調和のとれた発達のために各人民の伝統及び文化的価値が有する重要性を十分に考慮し、

あらゆる国特に開発途上国における児童の生活条件を改善するために国際協力が重要であることを認めて、

次のとおり協定した。

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 見られるように、まさに途上国の子どもの生存権の重要性が特記され、多文化主義も明記され、先進国の覇権から解放された現代的人権論となっています。途上国の子どもたちにとっては前近代的問題点という部分も含むとはいえ、それだけではなく新自由主義グローバリゼーション下、多国籍企業による搾取などによる格差と貧困の拡大が重大です。

 もちろん先進国の子どもにとっても「条約」は極めて重要です。「条約」の履行は国連子どもの権利委員会によって審査されています。締約国は委員会に定期的な進捗報告書を提出しなければなりません。各国NGOによるカウンターレポートも受け付けられます。たとえば日本政府の報告に対抗して、「子どもの権利条約 市民・NGO報告書をつくる会」は「豊かな社会日本における子ども期の喪失」(1996年)、「豊かな社会日本における子ども期の剥奪」(2004年)、「新自由主義社会日本における子ども期の剥奪」(2009年)といったタイトルの報告書を提出しています。残念ながら読んではいないので、題名から推測する他ありませんが、日本における子どもの自由権・社会権とも厳しい状況に置かれていることが告発されていると思われます。日本社会ではとくに貧困対策とともに「子どもの意見の尊重」という基本理念が厳しく受け止められる必要があるように思います。

 「条約」は途上国の子どもの深刻な実態を重視することから出発することで、まさに現代的人権論を体現するものとなっており、同時にそれは先進国の子どもにとっても切実な指針として存在しています。こうして「条約」は基本的人権の普遍性の精華たりえ、史上最も広く支持されている人権条約として、193の国と地域により批准、締約されています(ウィキペディアによれば、201310月現在、ソマリアとアメリカの二カ国だけが批准していないが、署名はしている)。

 「条約」の体現する現代的人権の普遍性の精神を世界中の政治・経済のすべての分野の原則として確立するよう奮闘することが、世界人民の共通の課題でしょう。

 以上、ノーベル賞を話題にしつつ、科学と人権の普遍性についてあれこれ述べました。現実には新自由主義、軍事的覇権主義、偏狭なナショナリズムなど、それを阻むものが多く、困難が渦巻く中、ただ混迷に陥ったり、ニヒリズムに逃避する傾向もなしとしません。拙文は社会進歩の原則がどこにあり、問題点をどう克服していくかについてのわずかな問題提起です。

 

 

          断想メモ

来間泰男氏はあえて通念に疑問を呈しています(「近づく沖縄県知事選挙と沖縄経済」)。

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「基地が撤去されたら経済が発展する」というのは、「経済が発展するだろうから、基地に反対する」という論理につながり、「経済が発展しないのなら、基地には反対しない」という論理と同居しているのである。だから私は「経済と基地を結びつけて論じてはならない」と言っているのである。基地は絶対悪、何としても撤去させたい、例え経済に悪影響があったとしても、基地は撤去させたい、これが私の主張である。    83ページ

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 この「基地と経済」の論理は、拙文「『経済』20149月号の感想」に書いた「予防と医療費」にも当てはまります。「予防すれば医療費が減る」というのは結局「医療費が減らないなら予防はしない」ということになりかねないので、予防と医療費を結びつけて論じてはならない、というのが拙論です。もちろん予防と医療費との関係を研究することは必要です。事実の解明は政策の進め方の参考になるからです。しかしそれがどのような結論になっても、生活の質を向上させるという政策目標からすれば、何らかの予防は必要だということです。

ところでたとえば前泊博盛氏は「基地による損失年1兆円 撤去こそ自立的発展の道 跡地利用の実践が証明」として、基地撤去の経済効果を大いに主張しており(「全国商工新聞」1013日付)、やはりそうかと思うのですが、来間氏の前掲論文には、跡地が開発されて繁栄するとしても周辺が衰退することもあるので「収支計算をしっかりして実際の効果を確かめなければなら」ない(82ページ)とあり、なかなか難しいところです。

しかしいずれにせよ「基地と経済」の関係については、実証分析や様々な研究がそれとして必要としても、上記に引用した来間氏の論理そのものは正しいと思います。対象とするものごとの関連のあり方、その構造論理といったいわば質的側面を明らかにした上で価値判断し、政策方針の大枠を確立した上で、対象の量的側面を分析し政策方針の必要な微調整をコントロールしていく、というのが正しい道筋ではないでしょうか。

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 東村高江地区住民を始めとした沖縄県民の米軍基地反対闘争を描いたドキュメンタリー映画「標的の村」を見ました。帝国主義・従属国・国家権力とは何か、ということを有無を言わさず教えられます。それによって破壊される当たり前の生活の尊さも。

オスプレイ配備阻止を目指し、自動車を連ね置き座り込んで、普天間基地を封鎖した人々を強制排除する警察権力の横暴さ。抵抗する自動車の中から女性が歌う「安里屋ユンタ」のなんと厳しくも美しいことか。

 男が作った映画だと思い込んでいたら、監督は女でした(自分のジェンダー感覚を思い知らされる)。三上智恵監督は琉球朝日放送のキャスターをしていた人で、この映画は多くの賞を獲得し、今も各地で自主上映が続けられています。そうした成功にもかかわらず、彼女は会社を辞めざるをえなくなったようです。続編の制作を決意した監督にカンパしました。

 志を持って生き、働き続けることについて、いろいろと考えさせられます。

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小西一雄著『資本主義の成熟と転換 現代の信用と恐慌』への書評で、著名な経済理論研究者の鶴田満彦氏は次のように主張しています。

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現在の金は、通貨当局の公的準備の一部を成しうるとはいえ、貴金属の一種に過ぎず、その価格は日々変動している。私見では、貨幣商品の特性は、価格が固定されている点にあり、現在の金はもはや貨幣商品とはいえない。こういう現実から出発して、貨幣論を再構築すべきではないのか。金貨幣を前提しなくても、労働価値論、剰余価値論、恐慌論を展開することは十分可能である。     105ページ

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 金貨幣論は『資本論』の主柱であり、今日でも経済原論の多くはそれを踏襲しているでしょうし、各地で行われている『資本論』教室の類でも同様でしょう。ところが現状分析家の多くはもちろんのこと、理論研究者でも金廃貨論が多数派ではないでしょうか。積極的にそれを主張しているというよりは、現象に合わせた暗黙の前提のような状態でありましょうが…。価値論・貨幣論・金融論研究者には意識的に金貨幣論の立場をとっている人々もいますが、おそらくマルクス経済学研究者全体を見渡せば、少数派なのではないでしょうか。

 20世紀の初期に金本位制は崩壊し、その擬制たる戦後のブレトン・ウッズ体制も1971年のニクソン・ショックを契機に崩壊し、公式には「金廃貨」となりました(19758月のIMF暫定委員会のコミュニケにおいて、金の公定価格の廃止、IMFとの取引における金の使用義務の廃止などが決定)。しかし通貨当局の公的準備の一部を成し、不換通貨ドルには担えない蓄蔵貨幣の役割がある等々、依然として金貨幣論の論拠となりそうな現象も存在しています。

 そこで一般向けの『資本論』教室では、金貨幣論で、研究者がそれぞれの専門分野を研究する際には多くの場合、金廃貨論を暗に前提しているような二重状態になっているのではないでしょうか。金貨幣論の決定版はもちろん『資本論』であるのに対して、金廃貨論の決定版はまだないように思います。当否はともかくとしても、今回の鶴田氏の主張は経済原論の根幹をなす貨幣論に対する重要な問題提起です。はたして貨幣論は現在の不確定状態を脱することができるのか。現象の表面をはい回るブルジョア俗流経済学に対して、本質に切り込む科学的経済学たるマルクス経済学の優位、ということを本当に確言できるかの一つの試金石がここにあります。

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「おじいさん」に焦点を当てつつ、老夫婦の現在と来歴を歌った吉田山田の「日々」が注目されています。老人を題材にしたJポップとして感動を広げているという点では、植村花菜の「トイレの神様」以来のことでしょうか。曲名について言えば、きわめてシンプルで、ある意味そっけなく、「流行歌」としては色気なく、しかしえもいわれぬ深さと普遍性を感じさせるという点では、中島みゆきの「時代」に迫るものがあります。

若者が老夫婦のことを想像して作詞するだけならば、案外難しくはないのかもしれません。しかしこの音楽業界の中でそれを世に問うという姿勢はなかなかのものだと思います。それが本物なのは「日々」というタイトルを選んだことに現われています。老夫婦の情景は、まさに誰もが経過し積み重ねる生活の日々の集成です。この普遍性を一つのスケッチに描き切り、その核心を「日々」と呼んだのは見事という他ありません。

人生を歌ったJポップとして思い浮かぶのは、スガシカオ作詞の「夜空ノムコウ」です。もちろんこれは老人の歌ではないけれども、若いカップルの過去・現在・未来へと続く歩みを歌ったという点で、普通のラブソングとは異質です。

あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…」とか「歩き出すことさえも いちいちためらうくせに/つまらない常識など つぶせると思ってた」とか「全てが思うほど うまくはいかないみたいだ」といった歌詞たち。小さな自分を意識しながらも、それを超えようとし、社会に挑戦し、あくまで信念を持ってぶつかりもがいている若者がここにいます。

私が一番注目する歌詞は「あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ…」です。現在はまさに過去から見た未来です。ある過去において、信念を持って未来を展望したのならば、現在は(過去から見た未来として)それを実現しているのかが問われます。無自覚に時を過ごすのではなく、ポリシーに照らして常に現在のあり方を点検する。過去・現在・未来を二人はそのようにともに歩いていくのでしょうか。

確か学校の教科書にも採用されたのでしょう。スガシカオが「国民的楽曲」と自負するこの曲(ラジオでそう言っていたように記憶する)。刹那の性愛を歌うラブソング(それが悪いとは必ずしも言わない)が多い中で、二人の今の愛をその生き方として捉え、それを社会と歴史の中に置くことができるようにも思える点に最大の魅力を感じます。

ところで吉田山田の「日々」を知ったのは、YouTubeBEBEという若い女性歌手がカバーしているのを聞いたからです。BEBEは「ファイト」「時代」といった中島みゆき作品の他、Jポップの名曲をたくさんカバーし、「やわらかな愛で」「ふたり」など自作のオリジナル作品も歌っています。今年「うたの宝箱」というカバーとオリジナルを含むCDをリリースしました。彼女のホームページや YouTubeでその透き通った美しい歌声を聴くことができます。カバーへの向い方やオリジナルの詞の中に、養護教諭を目指して挫折した経験を持つ彼女の何事にも真摯な姿勢が表れており、好感度が高いのです。もっと多くの人に知られてほしい。

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 「全国商工新聞」113日付の「読者の広場」掲載の絵手紙についた文言が傑作。

 「小さいものが見えにくい 人の声がききとりにくくなった 心の目と耳を使おう」

 老人力の増進を言っているよう。しかし本当は為政者への警告か。

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喫茶店に流れているラジオで久しぶりに、ふきのとうの「白い冬」を聞いた。その冷気さえる寂寥感と“胸キュン”メロディーに、ヴィグラスとオズボーンの「秋はひとりぼっち」を思い出す。それをネットで検索するうちに1970年代の洋楽を扱うブログに出会う。1972101日付の「TBSラジオ ポップス・ベストテン」が掲載されていた。リアルタイムで聴いていたので、1位のアリス・クーパー「スクールズ・アウト」から10位のラズベリーズ「ゴー・オール・ザ・ウェイ」まで全部知っている。3位には、ブリティッシュ・ハード・ロックの雄、ユーライア・ヒープの「安息の日々」が入っていた。

「秋はひとりぼっち」は6位。日本だけのヒット。9位のイングランド・ダンとジョン・フォードの「シーモンの涙」も“胸キュン”メロディーもの。

当時、僕は日本語の曲を聴くのは恥ずかしいと感じていた。しかし実際のところ、メロディー指向と、洋楽を邦題で捉えるようなセンスとを思えば、基底には日本的ナショナリズムがあるとしか言いようがない。

延々と続く雑文の最後にこんなことを書いているとよほどの暇人と思われるかもしれないが…。

♪ ヒマジン・オール・ザ・ピープル…

必然の国から自由の国へ。ジョン・レノンは労働時間短縮による人間の全面発達を夢想していた?!

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 今度こそ本当に最後です。1030日、名古屋北法律事務所とその市民運動組織「ホウネット」が運営する「くらし支える相談センター」の研修会が開かれ、中日新聞記者の白井康彦氏の講演を聞きました。白井氏は生活保護バッシングに情熱をもって立ち向かってこられました。その中で、保護費削減の根拠とされた「生活扶助相当消費者物価指数」なるものが統計偽装であることを突き止め、精力的に訴えられています。

 本年、あけび書房から『生活保護削減のための物価偽装を糾す! ここまでするのか厚労省』を上梓されました。巻頭には森永卓郎氏との対談を配し、面白く読めるとともに、物価指数のイロハから懇切丁寧に解説され、問題をラディカルに理解するのに最適な本となっています。生活保護などの貧困問題だけでなく物価指数など統計に興味ある方にも大いに推奨します。
                                 2014年10月31日




2014年12月号

          アベノミクス株売り抜け解散

 1118日の記者会見において、安倍晋三首相は、消費税増税の先延ばし(ただし「景気条項」ははずして20174月には必ず上げると明言)と国会の解散を宣言しました。増税の延期は国民の信を問うべき事項だから国会を解散するというのです。国民の支持なくして政治は成り立たないからだ、ということを繰り返しました。これが心にもない虚言だということは誰にもわかります。歴代自民党政権の中でも、安倍内閣ほど民意を無視した重大政策を強行し続けたものはありません。71日には事実上の改憲にあたる集団的自衛権行使容認を一片の閣議決定で強行しました。直近では、1116日の沖縄県知事選挙において辺野古基地建設反対の明確な県民の意思表示があったにもかかわらず、相変わらず基地建設を「粛々と続ける」方針です。民主主義破壊の暴挙において枚挙のいとまがないのが安倍政治です。保守反動右翼の面目躍如たるものがあります。

 彼のホンネはもちろん、今国会を解散しなければ政権はこの先じり貧になるばかりだということです。「国民の世論と運動が安倍政権追いこんだ」のです(「しんぶん赤旗」1114日付「記者座談会」)。消費税のみならず、集団的自衛権、原発、等々どれをとっても民意に逆行する政策をとる安倍政権の人気はこれから下がることはあっても上がることはありえません。追い打ちをかけるように79月期のGDPはマイナス成長になりました。予想外の結果に各方面にショックが走っています。これまでアベノミクス幻想や中国脅威論などで高い内閣支持率を演出してきましたが、もはや頭打ちは隠しようがありません。支持率暴落の前に、何とか4割台を保っている内に解散・総選挙に打って出て国会の過半数議席を確保して長期に居座ろうという思惑です。これはいかにも株価連動内閣といわれた安倍内閣らしい行動様式であり、株価と一蓮托生の内閣支持率をにらみながらの博打は、「アベノミクス株売り抜け解散」とでもいうべきものでしょう。

 ただし賭けではあるけれども安倍晋三氏は現状況下で「最善」の判断をしました。まだ政権への幻想がそれなりに残り、野党の体制が整わないうちに、どさくさまぎれに選挙に突入すれば、師走の忙しいときに、政策抜きの選挙という寝技に持ち込み、無関心による低投票率の下で自民・公明両党の組織力で野党をねじ伏せることも可能だからです。首相自身は「アベノミクス解散」と称して、原発・民主主義・安全保障関係などの不利なテーマを隠しつつ、人々の「景気回復期待」に訴えるという姿勢です。しかし客観的にはアベノミクスそのものが破綻しており、批判側が的確に衝けば逆にウィークポイントにさえなりえます。

伝統的には、保守政権は大企業優先で庶民生活には厳しい経済政策をとることで、逆に生活の苦しい人々に常に「景気回復期待」を惹起して、選挙の際には政権党の景気対策「実行力」を売り込んで勝つ、というマッチポンプ的行動様式が一定、功を奏してきました。「アベノミクス解散」もそれを踏襲しているわけで、現時点で「最善」の判断ですが、何せ政策的破綻は見る人が見れば明白です。したがって実際のところ、政権は「アベノミクス幻想の残り香」頼りであり、虚勢を張って経済政策の「成果」を強調するものの、もっと言えば要するに政策抜きの選挙にしたいのがホンネでしょう。「寝技・組織力で勝つ」。

共産党を始めとする民主勢力が勝つためには、有権者をしらけさせないように、政策的に中身のある選挙戦を作りだすことで、賭けに出た暴走政権を破産させねばなりません。短い期間にそこまで到達できるかが問われます。すでに悪政の暴露は系統的に取り組まれています。それを圧倒的多数の有権者の思慮と気分感情にどう届かせるかです。

 その点で一つ障害になるのは、原則としては消費税増税が正しい道であり、財政再建にはそれしかなく、たとえ増税は延期しても遅かれ早かれ不可避であるという論調がマスコミでは支配的だということです。これは多くの人々の気分を諦め的に支配する可能性が高いと言えます。しかし生活実感からすれば増税は嫌だというのが圧倒的多数の人々のホンネであり、それは何ら恥ずべきことではなく、増税によらない正道があるということを確信させることができるならば、「山を動かす」ことも可能となるでしょう。首相は当面、増税を延期すると言いつつも、20174月に断行すると明言しているのだから、ここに現われた経済政策の根本的違いを前面に全面的に展開すべきでしょう。

「大企業本位で庶民犠牲の経済政策」と「景気回復期待」との相互促進という、保守政権下におけるマッチポンプ的悪循環(支配層にとっては好循環)を根本的に打破して、「庶民本位の政策による景気回復」という好循環に取り換えることを分かりやすく訴えることが必要です。ここが中心的争点であり、他に集団的自衛権や原発など、安倍政権の不人気政策に集中攻撃を加えることも有効でしょう。そうして民主主義国家の選挙に恥じない全面的な政策本位の論戦を作りだすことが求められます。

 ところで話題はかわりますが、そもそも国会解散を首相が自由に行なえるというのは憲法上可能なのでしょうか。衆院解散については、国会が内閣を不信任した時だけできるという限定説と、天皇の国事行為を定めた73項を根拠にいつでもできるという非限定説があります。吉田内閣がGHQに問い合わせた際に回答は限定説によるものだったので、与野党の話し合いで内閣不信任案を可決し衆院を「なれ合い解散」しました。しかしその後吉田内閣は非限定説の立場から「抜き打ち解散」し、それが踏襲されて解散権は首相の「伝家の宝刀」となっています(南野繁九州大学法学部教授、「朝日」1118日付)。

 しかし象徴天皇制において天皇の国事行為はまったく形式的なものに過ぎず、それを根拠に衆院の解散という国政の実質的な重大事を自由にできるというのは間違っており、憲法違反だとすべきではないでしょうか。首相が自由に解散できるなら「常に与党に都合のいいタイミングでいつでも解散できることになる」(同前)わけであり、事実今回の解散などはその典型です。時期だけでなく、菅官房長官などは争点も「政権が決める」と発言し、安倍首相は過半数さえ取れば政権に居座る姿勢です。「受験生が嘆く。『問題は自分でつくり、合格ラインも自分で定め、試験日まで自分の都合。そんな試験があるなんて』」(「朝日」夕刊「素粒子」1120日付)。「7条解散」という(私見では)違憲の既成事実の積み重ねの上にこのように不合理な事態が放置され、支配層に不当に有利になり、社会進歩の障害となっていることがもっと直視されるべきです。

 とはいえ少なくとも目前の解散・総選挙はもはや所与の条件として受け入れざるを得ません。前提として野党は上記のような政治的ハンデを負いながら、それをはねのける勢いを示す必要があります。今回は、支配層を代表する「首相の賭け」とそれとは対極にある「人民の客観的利益」とが有権者の政治意識の獲得をめぐって短期決戦、スピード勝負を闘っています(もちろん後者を代表するのは共産党などの民主勢力)。今進行している安倍政権の政治的落下をいっそう早めるのか押しとどめるのか、このスリリングな展開の中で、「朝日」が111920日に実施した世論調査を見ましょう。

 安倍内閣の支持率は39%(1189日の調査では42%)で、不支持率は40%(同36%)。初めて支持と不支持が逆転しました。この時期での解散・総選挙については賛成18%、反対62%で、20174月に消費税を10%にあげることに賛成39%、反対49%で、アベノミクスへの評価として成功は30%、失敗は39%という、政権にとってはきわめて否定的な結果となっています。

ところが政党支持率を見ると(数字は%)<自民32、民主5、維新1、公明3、共産3、支持政党なし40 など>、比例区投票先は、<自民37、民主13、維新6、公明4、共産6、答えない・分からない30 など>であり、自民党の一人勝ち状態は変わりありません。

 まさに首相の賭けをめぐる状況は錯綜しています。従前からそうなのですが、安倍政権の政策内容そのものについて世論は批判的でありながら、内閣そのものは支持し、与党自民党への支持も高い、という矛盾は継続しています。ただしその矛盾が政権にとって不利な方向で激しくなってきており、今回の解散劇でいっそう厳しさを増しています。有権者が抱く、政権の政策への批判を別の展望へと導くことができるか、が自民党支持層の離反を促し、無党派層を反自民に導くポイントでしょう。そうした政策的対案を持った政党は共産党だけであり、最近盛んになってきた保守層を含む様々な一点共闘を政治変革に結実させる政策的打ち出しが重要になっています。

その点で沖縄の小選挙区において、先に勝利した知事選型の保革を超えた共闘が進行しており、その成果が注目されます。これは沖縄での反基地という一点共闘の格別の重みと政治的勢いとが可能にした枠組みです。本土の選挙では基本政策の違いの意味が大きいので同様の取り組みは現状では難しいですが、今回の総選挙で共産党が躍進し、様々な一点共闘がさらに発展していくならば、将来の選挙において全国的にも今回の沖縄のような「一点突破全面展開」的な方向が可能になるかもしれません。

 と、あれこれ書いてきて、1124日になり、「朝日」に上記の世論調査に続いて、112223日調査の結果が載りました。面倒なのでこのまま付けたし的に追記します(数字は%)。

安倍政権への政策評価としては、外交・安全保障政策において拮抗しているほかは、経済、社会保障、原発・エネルギー各分野で否定的評価が上回っています。これは政治が変わる要因ですが、他はあまり芳しくありません。

政党支持率<自民32、民主6、維新1、公明3、共産2、支持政党なし41 など>

比例区投票先<自民37、民主11、維新6、公明5、共産5、答えない・分からない30 など>

これらは前回と大差ありません。

選挙への関心<大いにある21、ある程度ある44、あまりない26、まったくない8

日本政治の課題<政治を安定させること50、今の政治を変えること43

 関心は過去3回の衆院選に比べて大きく低下しており(大いにある 47493921)、政治の課題が「変革より安定」だとする傾向とも合わせると、大いに心配になります。安定指向下の投票率低下で与党の寝技(組織戦)が勝つのか?

議席を増やした方がいいのは<与党18、野党36、今と変わらない31

無党派層では<野党44で、これらは一見良さそうですが、無党派層の比例区投票先は<自民17、民主12、維新7、共産6でぱっとしません。

もっと悪いのは、先の政策評価で安倍政権に批判的な人々の間でも比例区投票先は与野党に分散しているということです。安倍政権の政策に期待はしていないけれども、変わる展望が見いだせずに野党支持にはならず、強い関心が持てずに安定指向に逃避している、という傾向が見えます。「対決・対案・共同」をさらに進めて、分かりやすい展望をどう示していけるかが勝負どころです。

 

 

          アベノミクスの破綻

 内閣府が1117日発表した201479月期のGDPの1次速報では、実質成長率が前期(46月期)より0.4%減、年率換算で1.6%減となりました。消費税増税後、まさかの2四半期連続マイナス成長で、市場・政界とも衝撃が走っています。とはいえ庶民の実感からすれば何ら違和感はないと言うべきでしょう。実質賃金の低下が続くもとで、消費が回復せず景気回復につながらないのは当然であり、政府や多くのエコノミストたちが79月期からは緩やかに回復するなどと言っていたのは無根拠であったのが明白になりました。もっとも、批判する側でも同期がマイナス成長になるとまでは予想していなかったように、あらゆる立場から見てもアベノミクスの落日の勢いは想定外に顕著な様相を呈しています。

 つい最近まで政府・財界・支配層が景気回復を謳歌し、今もなお政権が虚勢を張るのを尻目にその没落が明白になったアベノミクスの顛末、その「成功」と破綻を端的に解明したのが、吉田敬一氏の「日本型グローバル化と中小企業問題 亡国のグローバル循環から持続可能なローカル循環へ」です。

 安倍政権の登場以降、一方で富裕層以外の内需は不振で、他方で円安の進行にもかかわらず輸出量は増えません。円安でも輸出量が増えないのは、海外生産の増加の他に、吉田氏によれば、「グローバル循環戦略の結果、ドル表示価格は円安下でも引き下げなかった」(16ページ)ためです。たとえば自動車産業の場合、「海外生産拠点の生産能力は、損益分岐点と生産効率を考慮して」(19ページ)一定ユニットが決められており、海外消費地で需要が超過した場合、「補完的供給拠点が日本である。すなわちグローバルな需給調整機能の拠点の役割を日本工場が果たして」おり、「同じ車種を世界中で生産・販売しているので、…中略…円安になっても日本からのドル建て輸出価格を引き下げられない」(同前)のです。したがって輸出量の増減は為替レートよりも、海外現地での需要状況に左右されます。

 「その結果、国内生産と輸出の減少が続いていた状況下では株価は下落するはずであったが、同時に進行していた円安マジックが売上減・収益増≠生み出し」(16ページ)ました。輸出売上のドル表示価格が多少下がっても、円安下では円に換算すると増収になるのです。同様に、海外現地法人からドル送金される利益の円表示金額も膨らみ「大幅な増収現象が加味され」(17ページ)ます。「こうした円安マジックによる『好況』現象が株価上昇の背景となり」ます(同前)。

 さらに実体経済と金融の不均衡は大資本と人民との格差に連動していきます。

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 実体経済と無関係に動いた証券バブル現象の結果、その成果は労働者や下請け企業に配分されるのではなく、大部分は内部留保と株主配当に回った。

  …中略…

 他方でデフレ持続下の円安は輸入価格の上昇により、内需関連の地域経済や中小企業にはコストアップで採算条件をさらに悪化させた。国民には食料品や電気代・ガソリン価格の上昇を強い、勤労者の雇用と所得の改善にはつながらず、格差は拡大傾向を強めた。

 こうした虚構に立脚した「景気回復」傾向の下で、景気に冷や水を注ぐことが明白な消費増税が4月から実施された。          17ページ

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 増税による不況圧力は上記のとおりです。結局アベノミクスの「成功」なるものは円安マジックによる金融バブルに過ぎず、それが実体経済の冷え込みを隠蔽するのみならずすでにさらに悪化させていたのです。にもかかわらず「成功」を過信して消費増税を断行した結果、実体経済をさらにさらに悪化させ、アベノミクスの破綻はもはや隠しようもなくなりました。

 円安と株高とがアベノミクスの政策効果によるものか否かについては諸説あります。したがって両現象がアベノミクス「第一の矢」としての日銀による異次元の金融緩和政策の成果であるのか否か、についても見解が分かれるかもしれません。しかし少なくとも日銀の政策が両者を維持する方向に働いたことは否定されないでしょう。

政策意図としては、円安は物価上昇の原因となり、株高は景気回復を象徴し、合わせて<「2%物価目標」達成による「デフレ脱却」>という政策目標を成就させることになる、というのでしょう。しかしここには強搾取による賃金下落が内需不振を招いて実体経済を疲弊させている、という観点がない、というかその改善の意志はないのでそこは初めから眼中にない、という重大な欠落があります(「デフレ脱却」の結果として、あるいは大企業の大儲けのほんのおこぼれとして賃金を上げてやろう、という程度の申し訳的な位置づけはあるものの、それが実体経済の中心にあるという立場ではない)。その結果、実体経済の不振をバブルで隠蔽し続けることになり、その政策効果として最終的に露呈したのは、不況のまま物価が上昇するというスタグフレーション的現象です。

 ここでは物価変動とは何かという原点に立ち返って、異次元の金融緩和という日銀の政策の異常さを糺す必要があります。それについては拙文「2%物価上昇目標の愚」(「『経済』20132月号感想」2013131日付より)から一部を再掲します。

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 物価変動の主な要因は(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給です。不換通貨が減価すれば商品価格が上がり、生産性が上昇すれば価格は下がり、商品への超過需要があれば価格が上がり、超過供給(需要不足)があれば価格は下がる、という具合です。本来の定義ではインフレとデフレは「(1)通貨価値」にかかわる物価変動です。確かに高度経済成長期の物価上昇では不換通貨の供給が重要な原因でしたので、それをインフレと呼ぶのは妥当です。しかし今日の物価下落において通貨が不足しているわけではなく、日銀は一貫してじゃぶじゃぶの通貨を供給してきました。物価下落の主な原因は商品に対する需要不足ないしはその供給過剰にあり、これをデフレと呼ぶのは不当です。にもかかわらずデフレと呼ぶことによって、あたかも今以上に無制限な金融緩和によって物価を上昇させることが必要かのような錯覚を起こさせています。

 物価変動は現象的にはすべて商品に対する需給変動を通して現れますが、本質的にはその原因を分析して対策を打つ必要があります。バブル崩壊後の日本経済の「失われた20年」と言われる長期停滞は確かに異常ですが、その原因は主に実体経済にあることを認識しつつ、そこでの金融の状況をつかんでいくべきでしょう。もし通貨価値が安定し、商品需給が均衡したもとで、この時期の緩やかな物価下落が実現したのならば、それは生産性の上昇を反映したものであり、問題のない健全な経済発展を表現していることになります。しかしもちろん現実はそうなっていません。不換通貨は過剰供給され、したがってむしろ潜在的には物価上昇圧力があってもよさそうな中で、有効需要不足=過剰生産の要因が圧倒することによって物価が下落してきたのです。つまり様々な原因によって現出する物価変動の量的結果だけを見て、経済の健全性を判断することは無意味であり、その原因を把握し対策を練ることが大切なのです。したがって「2%物価上昇目標」なる経済政策は無意味なのです。いや、無意味というより、この政策の狙いは、物価下落の真因である商品への需要不足という要因を相殺して、不換通貨の過剰供給によって物価上昇を実現することなのだから、実体経済の病理を金融政策の病理で隠蔽することに他なりません。物価の下落要因と上昇要因との相殺で若干の上昇を実現する、というのがこのインフレ・ターゲットの狙いであり、それは現象的・量的には「適切な」物価上昇幅の実現に見えますが、質的には経済の破壊の上塗りにすぎません。実体経済に対しては需要不足を解消し、金融に関しては異常な金融緩和を是正するという、両面からの質的に正しい政策の結果として、物価の安定という適正な量的結果が導かれねばならないのです。

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 こうした観点から見れば、異次元の金融緩和はいわば「毒を以て毒を制する」政策であり、一見すると相殺中和して無毒化するように見えて実は両方の毒がそれぞれに生き続けています。不況という実体経済の毒(これをデフレと呼ぶところに間違いが始まる)の中にそれを何ら治さない異次元の金融緩和という毒を投げ込んでも、「物価安定」という見かけ上の中和状態さえ実現できずに、不況の深化と物価上昇というスタグフレーション的状態という毒の競演が現出したにすぎません。もっとも、今のところ物価上昇の原因は主に消費増税と円安効果によるものであって、異次元金融緩和による国内のインフレ効果にまでは至っていない段階であり、逆に言えばさらにいっそう危険な状態(スタグフレーションそのもの)になる可能性を残しています。

 以上のように、物価変動とは実体経済と金融との両面それぞれの状態を複合的に反映した結果であり、物価安定のためには、両面から原因を探ってそれぞれに対処すべきです。ところが日銀はまったく逆立ちしていて、物価水準そのものが実体経済を左右する原因であって、金融政策によって物価を操作すれば、実体経済は制御できると考えています。現状では、異次元金融緩和によって「インフレ期待」(物価が上がっていくだろうという予想)を喚起すれば、値上がり前に、消費者は商品を購買し、企業もまた投資を進めることで景気回復に向かうだろうというのです。いくら日銀が国債などを購入することで銀行などに資金を流してもいっこうに市中の経済活動の活性化には結びつかない(マネタリーベースの顕著な増加にもかかわらず、マネーストックは微増にとどまる)現状から、最後にはこうした「インフレ期待」を持ち出してくるのですが、現実からはこうした精神主義は一蹴されています。

 国民経済を健全に発展させて不況を克服するためには、強搾取を規制して賃金を上げ、社会保障を充実することで、内需を拡大することが必要です。金融投機を規制して為替を安定させることで、輸出入品目にかかわる国内産業を安定化し、食料とエネルギーの供給不安を減らす(両者の自給が重要な課題ですが、当面は為替投機や商品投機による価格高騰を防ぐことが必要)ことも必要です。ところが政府は労働規制緩和で強搾取を支援し、福祉切り捨てを推進し、TPPで、農業を始めとする国内産業基盤、また金融や公共領域までを多国籍企業のなすがままにさせようとし、金融投機に対する効果的規制に踏み出していません。

ここで想起すべきは、新自由主義的資本蓄積とは、実体経済での強搾取と金融での投機化とを本質とするということです。日米欧の諸政府は新自由主義グローバリゼーションを推進しており、国民経済運営はそれに従属しています。上述のように、実体経済でも金融でも新自由主義的資本蓄積に沿った政策を展開しながら、国民経済を健全に発展させて不況を克服することは不可能ですが、それを「可能」かのように見せるところに、例えば今回の日銀の異次元金融緩和の意義があります。

実体経済の強搾取という病理をそのままに、金融面ではジャブジャブの投機資金投入につながる異次元金融緩和という病理を重ねることで、2%物価上昇と景気回復(といっても株価上昇に矮小化されているが)を実現しようというのです。庶民の視点から言えばその目標自体が歪んでいるのですが、消費増税後の二期にわたる四半期GDP統計が示しているように、それさえが破綻していることは明白です。

 以上のように基本的観点を定めた上で、物価・賃金の状況や日銀の行動を見ていきましょう。

 大門美紀史氏によれば、円安と消費増税による物価上昇のため、わずかな名目賃金の上昇では間に合わず実質賃賃金は低下しています。しかも食料・電気代・ガソリンなど生活必需品の価格が上がっており、この間の消費の落ち込みは単なる駆け込み需要の反動減ではなく実質賃金の減少が根底にあります。

 さらに総務省「家計調査」で収入階層5段階の最低の「第1分位」を見ると、他の分位と比べて実収入と消費が大きく落ち込んでいます。増税前の3月でさえ支出が多くなく、「買いだめ」する余裕もなく、今後もただただ生活を切り詰めるしかない状態です。

したがって「所得の低い層が消費全体を下押ししていることが、景気低迷の最大の原因です。この層の底上げなしに、消費の本格的回復などありえません。いまやるべきことは所得の低い層に重くのしかかる消費税の再増税などではなく、最低賃金の底上げです」。

山根香織、藤川隆広、大門美紀史座談会「消費税10%増税 冗談じゃない!」8182ページ)

 次に物価上昇の中身を見ましょう。2%物価目標とはもちろん消費増税の影響は除いたものです。消費増税分を除いた物価上昇率を見ると、最近は前年比1.5%前後で推移しています。さらに為替の影響を受けにくい品目に限った試算をIMFが行なっており、それによると上昇率は今年に入ってからプラス0.3%程度〜マイナス0.2%程度の範囲を動く状態が続き、ゼロ近辺にとどまっています(「朝日」1113日付)。つまり今日の物価上昇は消費増税と円安によるものであり、「国内消費が増え、物価が自律的に上昇していく循環にまでは至っていない」(同前)ことは明白です。

 2%物価目標なるものを掲げるのは、そういう循環を目指すからでしょう。そうでなければ「デフレ脱却」と称して不況克服を喧伝する意味はありません。円安で輸入品の価格が上がることは、人々の生活困難を増しこそすれ、経済活性化には役立ちませんから。

その実態を見ましょう。一方では「コーヒーやパスタ、セーターなど、原料を輸入に頼る身の回りのモノの値上げが目立ってき」ました(「朝日」117日付)。他方ではある食用油について、菜種や大豆の輸入価格の上昇を理由に出荷価格を引き上げ、店頭価格も一時上がりましたが、今は値上げ前の水準にほぼ戻ってしまいました。経営者は「消費者の気持ちは厳しく、値上げはあまり浸透していない。流通の方々に丁寧な説明を続けて、何とか理解を得たい」と嘆いています(同前)。いずれにせよ生産者・流通者・消費者とも円安による輸入価格高騰で困っています。ここからわかるのは、異次元金融緩和なるものが景気対策という意味では何ら効果を上げていないということです。

ところが日銀の黒田総裁は、<物価上昇による「インフレ期待」によって、個人消費や企業の投資が促進され雇用が増えて賃金が上がる>というありもしない「好循環」を勝手に描いて、とにかく物価目標の早期実現のため「できることは何でもやる」と言っています。「円安のマイナス面に配慮するより、短い期間で見た時の原油価格の下落の方が許容しがたいと判断し」て1031日の追加緩和に踏み切った(同前)というのですからあきれてものが言えません。物価上昇の中身をまったく考えずに、明らかに経済に悪影響のある円安による輸入品価格の上昇をも含めて、とにかく物価が上がりさえすれば「インフレ期待」につながるので結構だという立場です。教条主義の呪縛おそるべし。実際にあるのは<物価上昇→実質賃金下落→内需縮小→売上減少・投資減少→雇用減・賃金下落→内需縮小→…>という悪循環です。なおこの循環内から物価上昇は出てこないのですが、円安という外生要因によって物価上昇は持ち込まれこの悪循環は加速されます。もちろん円安もまた実体経済や金融政策と関連しますから、それをも内生化した関係を考えねばなりませんが…。

行論の本筋からははずれますがひと言。結局、異次元金融緩和は景気対策に役立たないのだから、その真の目的とは、事実上の財政ファイナンス、株価対策、投機資金の投入といったものではないでしょうか。

 日銀の物価政策を見る場合、どれだけの物価変動をもたらすのかという量的側面だけを見ていてはだめであり、物価変動の要因を質的に分析することが重要です。それは通俗的には「良い物価上昇」と「悪い物価上昇」などと言われているものですが、上記拙文にある物価変動の主な3要因に外生的要因を加えて考えるべきです。そこには現代資本主義における不換制・インフレ政策(恐慌対策)・為替制度といったものの一つの集約があります。しかし実際のところは、物価変動幅にしか興味のない議論が多く、問題の本質が看過されているのです。
                                 2014年11月24日


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