月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2019年7月号~12月号)。 |
2019年7月号
本源的所有の展開
本誌復刊第一号(1995年10月号)に対して私は感想を送り、――掲載論文で「現代日本での小農民擁護の必要性」が明らかにされているとして、さらには「現代日本経済における小経営の意義とその実態」などについての理論的解明を期待する――と述べていました。続く同年11月号への感想の中では、――マルクスを「根拠」にして「弱者救済反対」を主張する「理論」があり、そういう冷血な客観主義によって科学的説明力が回復される、と主張していること、それによれば、農民や中小企業などを保護せず没落させるのが社会進歩になること――などを紹介しました。そういう結論を導く生産力主義的な史的唯物論理解=新自由主義的マルクス主義でいいのか(もちろん間違いだろう、しかしどのように批判すべきか)、ということは一貫した関心事でした。生業としての小経営を守るというのは、当事者にとっては死活的課題であり、政治変革においても彼らの支持を得ることが必要不可欠である、というような極めて具体的次元での考察がまず必要です。経済政策次元では、保護・育成策が具体的に問題となるし、小経営が活躍できる地域経済の構築も重要な課題です。しかしそれだけでなく、理論的に抽象的な次元においても歴史的・構造的に生産力主義の誤りを解明することが求められます。
それに関連して農業分野においては、福島裕之氏の「新自由主義と闘う世界の家族農業と食糧主権」(本誌2014年9月号所収→以下、「2014年論文」)があります。それへの読者の反響に応えた「筆者からひと言」(同12月号所収、163ページ)において、福島氏は「新自由主義の農業論が大きく前面に出てきている今日、農業問題の分野でマルクスの理論に正しくその真価を発揮させる」ためには「『資本論』における論理的分析と歴史的分析の関係」を「正確に理解する必要があ」るとして以下のように述べています。
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…略… これまでのいわゆる「経済原論」の中には、農民的経営の分割地所有を封建地代から資本主義地代への単なる過渡的範疇とみなす傾向もありました。これでは農民経営が資本主義的経営にとって代わられるのは不可避だと理解されかねません。実際には『資本論』の地代の篇で過渡的範疇として挙げられているのは分益小作だけです。
それに、もともと地代の篇は、「農業が製造業と同様に資本主義的生産様式によって支配される」場合を想定したうえで、資本主義的地代が剰余価値の諸派生形態の一つであることを論理的に解明して資本の分析を完全なものにするために書かれたものであって、マルクス自身が「土地所有を様々な歴史的形態において分析することは本書の限界外にある」と断っているのです。
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始めに、この引用文のテーマからは外れますが、ここでひとつ留意すべき点は、「資本主義的地代が剰余価値の諸派生形態の一つであることを論理的に解明して資本の分析を完全なものにする」という理論的課題はいわゆる「資本一般」に属するということです。その解明を前提として「土地所有の様々な歴史的形態」を解明するのはさらに発展したテーマとなります。このように資本の本質をまず「資本一般」で解明して、次により具体的なテーマ、あるいは周辺のテーマに進む、という段階的アプローチによって対象を概念的に把握するのが「資本一般」を核心とする経済理論体系の方法論です。たとえば恐慌論においては、「資本一般」次元で恐慌の可能性と根拠を明らかにし、「競争=産業循環」の次元でその具体的な運動形態を描き出すというように、本質から現象に進む方法が取られます。こうした段階を踏まないで経済現象を捉えようとすると皮相な現象論にはまる可能性があります。上記の農民経営の捉え方の場合は、逆に、資本の本質論としての地代の篇の論理を直接に農民経営の分析に当てはめることで、その独自の存立の論理を解明することなく、分析対象そのものの消滅を予想するという短絡に陥った――現象そのものの把握を抜かして筋違いな本質把握に還元してしまった――というふうに福島氏の立論からは言えるように思います。いずれにせよ、対象の歴史的性格を捉えつつ、分析の論理次元を正確に適用することが必要です。
閑話休題。科学的経済学においては、使用価値と価値、生産力と生産関係、内容と形態、といった区別が採られますが、俗流経済学にそれはありません。現代資本主義における小経営の分析は複雑な現象を対象とするだけに、しっかりした基礎理論の土台上にヴィヴィッドな現象把握に進むことが必要です。新自由主義グローバリゼーション下での小経営の発展の展望を論じた論稿としては、たとえば吉田敬一氏の「亡国の日本型グローバリゼーションと地域経済・中小企業危機打開の基本的観点」(『前衛』2019年5月号所収)があります。これは文化型産業と文明型産業との対比をキー概念として、地域の伝統や文化に根ざした文化型産業を見直し、グローバル競争から相対的に自立した内部循環型地域経済を作ることで、小経営の発展の場を確保する、として実例を交えながら、具体的な現状分析と政策論を展開しています。その立論の中心にあるのは、いわば使用価値視点あるいは「生産力の型」視点とでも言うべきものでしょう。
それに対して、福島氏の「2014年論文」は農業の特殊性から展開しているという意味では、やはり主に使用価値視点に立脚した具体的論稿です。逆に、本号所収の福島氏の「家族農業経営と本源的所有」(「本号論文」)はいわば主に価値・生産関係視点により、農業の使用価値的・生産力的特殊性はおおむね捨象しています。したがってそれは、農業の特殊性論は「2014年論文」に譲る一方で、小経営一般に適用され得る普遍性を持っているといえます。もっとも、前近代において農業は主要産業なのでその分析がおおむね普遍性を持ちます。しかし近代以降の再生産構造において、農業は従属的産業となった(使用価値的意味でのその死活的重要性は不変だが、再生産構造における位置づけは暗転した)ので、その特殊的分析は資本主義一般での普遍性を持ちえません。「本号論文」は人類史の始原から現代・未来まで「本源的所有」の展開という抽象度の高い視点で一貫することで、現代資本主義分析において小経営一般に適用されるのみならず、労働者階級の歴史的使命の意義付けにも資する内容となっています。
私は史的唯物論に関する哲学的知見も経済史の素養もないのですが、以下では開き直ってあえてうかつな議論をします。マルクス経済学の中で1960年代から「市民社会論」という潮流が形成され、当時、平田清明氏が従来の通説を「単純粗野な階級一元論」と呼んだのは有名です。市民社会論そのものの当否は別としても、この指摘そのものは正当であり、以後、論争などを通じて史的唯物論の理解は深く豊かに展開されてきたと言えます。そうすると、冒頭の生産力主義はおそらくそうした展開から外れて、従来の通説の粗雑さを引き継いでいるのではないかと推察されます。もちろんその論者が一連の議論を知らないわけはないので、あえて何らかの意図を持って外れているのだとは思いますが…。
生産力主義からすれば、家族農業は少数の資本主義的農業経営者と大多数の農業労働者へ分解し、やがて農業労働者が都市労働者とともに社会主義の担い手になるのだから、家族農業経営の残存は社会進歩の障害とされます。こういった、「家族農業を社会主義への障害とする誤った見解」(「本号論文」、123ページ)に対して福島氏は以下のように批判しています(同前)。
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このような主張は、私的所有が商品交換分業における交換主体の所有であり、その内部に資本家的私的所有と労働する個人の個人的私的所有との対立を含み、前者は後者の否定であること、個人的私的所有としての農民的所有は本源的所有の発展形態としての性格を持つこと、という問題の核心を理解しないものである。これでは、今日現われている新自由主義の資本主義的大農業経営礼賛論と闘うことはできない。
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ボーとみていると私的所有は一塊(ひとかたまり)にしか見えず、まとめて、一面では生産力発展の源泉として礼賛され、他面では社会主義への障害物として糾弾されます。しかし私的所有は「資本家的私的所有」と「労働する個人の個人的私的所有」とに分けられ、両者は対立を含みます。両者を分かつ基準は、本源的所有です。
では本源的所有とは何か。人間社会と自然との物質代謝、その活動としての労働、それが人類の生命維持を担うことを指摘しつつ、労働過程を分析してこう述べられます(同、117ページ)。
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労働は、労働主体による、対象となる自然すなわち客体的労働諸条件(労働対象や労働手段)への、意識的働きかけである。これは、分業関係のもとでは様々な中間生産物を対象とした労働の形をとりうるが、これらも広い意味で自然への働きかけの一部である。これらの生産活動は、本来は労働主体による客体的労働諸条件の所有なしには行われえない。このような労働主体と客体的労働諸条件との不可分な結びつき、すなわち両者の本源的統一こそが、本源的所有としての人間の生存の基本条件となる。 (下線は刑部)
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論文では、人類の始原において、本源的所有が共同所有として現われ、やがて共同体内に個人的所有が発生し、さらには本源的所有に対立する階級的所有が発生することを見ます。これはいわばタテの関係における搾取の発生です。それに対してヨコの関係では、共同体分業と原理的に対立する商品交換関係が登場し、前者に対する後者による浸食と解体が歴史的に進みます。その中で共同体成員の自給的家族農業生産が小商品生産に転化してついに個人的私的所有を形成します。「この個人的私的所有は、共同体的分業から商品交換分業への移行に対応した、本源的所有の発展した形態で」す(119ページ)。
上記のタテの関係とヨコの関係との交点に、資本=賃労働関係を創出する本源的蓄積が敢行されます。それは「共同体的所有と個人的私的所有をともに解体する」ものであり、「一言でいえば本源的所有の徹底的な解体であ」り、「生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかな」りません(120ページ)。「この市場に投げ出された労働力商品と、同じく商品となった労働諸条件を購入して、新たに協業形態で結び付ける」(同前)のが資本であり、その高い生産力によって周囲の個人的私的所有を解体して自己増殖を続けます。
ここで論文にとって極めて重要なテーマである、個人的私的所有としての家族農業経営を解体する資本の運動の問題が登場します。ところが歴史的経験によれば、「賃労働による大農場経営の試みの多くは失敗に終わってい」ます。「これは、単に農業生産の特殊性によるというだけでなく、農民的所有の本源的所有としての抵抗力の強さにもよると言えよう」(122ページ)と総括されています。この特殊性や抵抗力の強さについて具体的には「2014年論文」で展開されており、それを「本号論文」は歴史的文脈の中で本源的所有の問題として提起したのが重要です。自然条件に強く規定され環境保全の課題を担うべき農業においては、労働主体と客体的労働諸条件とが不可分に結びついた本源的所有としての家族農業経営こそが、生活者として地に足をつけた適正規模の生産にふさわしいと言えます。労働と所有が分離し、利潤追求を至上命題とする資本主義的大規模農業では、土壌の劣化など環境・農業破壊に帰結します。
他の産業についても小経営と大資本とで同様の関係があるか否かはそれぞれに見る必要がありますが、本源的所有の優位性という観点から見直すことは有用でしょう。その際には、使用価値・生産力視点で具体的に検討することになりますが、その前提として生産関係視点としての本源的所有の観点が生きてきます。私的所有の中に、資本家的私的所有と個人的私的所有とがあり、前者は搾取関係だが、後者は商品交換分業における本源的所有の発展形態であり、人類史上に進歩的意義を持つ、と自覚されれば、「個人的私的所有は社会主義的変革の障害であり、小経営は淘汰されるべきものだ」という先入見を払いのけ、事実に即した具体的分析に進むことができます。その際に、本源的所有の対極にある階級的所有においては、労働と切り離された所有の暴走が、一方で際限ない搾取強化に、他方で金融化・カジノ化という寄生性と腐朽性の深化の方向に進む傾向があることに留意されるべきでしょう。
資本主義的生産関係は本源的所有を解体したところに成立し、いったん分離された労働主体と労働諸条件とを大規模な協業形態で結び付け、前近代の生産関係や個人的私的所有が持つ生産力をはるかに超えた生産力を実現します。しかしそれは一面であり、他面では上記のような階級的所有の持つ問題点が露呈します。資本主義的生産関係における労働主体である労働者階級は社会主義的変革で、生産手段を社会化します。それは「本号論文」では「奪われた本源的所有を社会的所有として労働主体である人間の手に奪い返す、つまり個人的所有の再建のための闘いである」(124ページ)と意義付けられます。ここでいう「個人的所有の再建」とは、一部に言われているような、労働者が消費手段を豊かに私有できるようになる、という意味ではなく、労働者が生産過程の主人公となって生産手段を実質的に所有するようになることを意味します。「客体的労働諸条件への本源的所有を回復した賃労働者たち」とか「客体的労働諸条件の社会的所有者」(同前)という表現からは、「個人的所有の再建」は単に消費手段に関して言われているのではなく、生産手段の所有についても言われていることが分かります。ここにおいて、小経営の「巨大資本による本源的所有の解体に対する闘い」と「賃労働者階級の奪われた本源的所有の回復を求める闘い」(同前)とが交差し、資本主義的生産関係が生み出した巨大な生産力が等身大の人間的制御の下に服する展望が開かれます。
ブルジョア経済学の魂は市場への物神崇拝です。それに対して「本号論文」では、人間社会と自然との物質代謝による生命維持という根源的事実に重ねて、「人間の生存の基本条件」(117ページ)としての本源的所有(労働主体と客体的労働諸条件との不可分の結びつき)から出発します。市場という言葉は抑制的に使われ、通常なら「市場化」の一言で済まされるところを「従来の共同体的分業に代わって商品交換的分業者の世界が共同体の内外で拡大してゆく」(119ページ)と表現されます。
物神崇拝の対象としての市場は、それ自身が主体であり、諸個人を振り回します。市場崇拝イデオロギーの支配の下では、社会を制御する人間の理性への信頼は人間自身の思い上がりであるとされ、たとえばソ連・東欧のような20世紀社会主義経済の失敗がその実例とされ、市場による裁断に服するような「謙虚」な姿勢こそが称賛されます。こうした市場崇拝は、資本の法則の内的貫徹が、個別資本にとっては、市場を通じて外的強制法則として作用することの現れです。その典型が恐慌です。「市場への畏れ」は社会観において理性を退けシニシズムを正当化するものであるとともに、転倒した社会観でもあります。大ざっぱに言えば、市場経済は社会的分業と生産手段の私的所有という生産のあり方に規定されて存在するものです。市場経済においては、生産は私的領域であり、公的領域は流通によって担われます。したがって社会的に生産者同士を結び付ける市場流通こそが主人公であるように見えるのですが、本質的には上記のように、市場流通は社会的分業と生産手段の私的所有という社会全体の生産のあり方に規定されて存在しているのです。
経済における生産の第一義性に留意するならば、生産過程の人間的あり方に合わせて経済全体を組み立てる、という発想が地に足のついた姿勢です。本源的所有の展開という視角で人類史を見渡すことはそのような正立の姿勢であり、市場流通を主人公として見るのは倒立の姿勢であると言えます。上記のように敢えて市場を「商品交換的分業者の世界」と呼ぶのは流通に対する生産の本源性を示しています。「人間に対する強制を生み出している今日の資本主義的競争的市場は、資本家的私的所有の社会的所有への移行によって、逆に人間によって管理された、生活のための自由な交換の場となるであろう」(124ページ)という未来社会論の経済像は、市場崇拝の転倒した社会観に対峙する生産主体による正立した社会観の表現だと言えます。
以上のように、福島氏の観点からすれば、現代資本主義において、家族農業や中小企業・自営業者などの小経営を守ることは、弱者救済主義などと揶揄されるべきものではありません。弱い者を助けようという義侠心は大切ですが、小経営は単なる弱者ではないし、ましてや社会進歩の障害物ではない、ということに留意すべきです。それは人類史を貫く本源的所有が資本主義経済の中で存在している形態の一つであり、将来は、生産手段の社会化を通じて本源的所有を回復する労働者階級とともに、社会主義経済の重要な担い手となります。小経営に働きながら社会変革を目指す人々が、決して卑屈になる必要はなく、様々な困難の中でも、日々実感しているであろう労働の充実感・やりがいがそれ自体で人類史の大道=社会進歩につながっていることを、以上の議論は示しています。
最先端の生産力や大工業などを中心とする理解と比べて、本源的所有をキー概念として小経営の積極的意義を認めるような史的唯物論理解は、プチ・ブルジョア的偏向とされる恐れがあるかもしれません。しかしそれは、今日の統一戦線において、労働者と農民・自営業者などが階級・階層を超えた対等なパートナーとして、日々の労働と社会変革の活動をともに担う仲間であることを人類史の深みから実感させる理論であると思います。
年金問題の本質=資本主義的搾取
年金問題では、マクロ経済スライドのもたらす状況を把握することやその廃止後の代替財源等々をめぐって複雑な議論が展開され、毎日の新聞を注意深く読まざるを得ないような気の抜けない日々が続いています。たとえば安倍首相が口を滑らせた「マクロ経済スライドを廃止するのに7兆円必要だ」という議論に対して、当初、共産党側は、自らの「三つの提言」の財源7.5兆円の問題と年金問題とを首相が混同しているのだ、と思っていたようです。それが共産党側の勘違いであり、実際にマクロ経済スライドの結果、2040年時点で7兆円削減されることがわかる、などという経過があります。こんなふうに、あのアベちゃんが共産党の政策を勉強している、などというとんだ買い被り(妄想)まで生むような議論の錯綜があって、ついて行くのが大変です。
ただしそれだけでなく、マルクス経済学の基本的観点から一番根本的な問題を確認しておくことも必要ではないかと思っています。それは自己責任論への根底的批判を「決める」ということです。年金問題の対立軸は政府・メディアと共産党との間に典型的に現れており、簡単に言えば、前者が「制度は変えられない、あるいは変えるつもりはないから個人で工面せよ」と言うのに対して、後者が「制度自身を変えて個人が安心できるようにせよ」と主張しています。これは自己責任論の肯定か否定かということにつながります。
「年金をあてにせず二千万円をためて資産運用しろ」という金融庁の審議会の報告が出て、当然ながらそんなことはとても無理なので、人々の怒りが高まる一方で、メディアでは相変わらず自己責任論に基づいてこの報告通りの方向を推奨する議論が主流になっています。さすがに居丈高に庶民に説教するという表現ではないのですが、何とかなだめすかして個人的努力を引き出そうという姿勢であり、何のことはない、結局「2000万円貯める」無理を押し通そうということです。それは要するに制度を変えることの拒否です。これでは到底人々を納得させることはできません。
確かに、眼前の問題としては、個人の生活防衛の観点で、現制度を前提に考えざるを得ないので、そういう議論が主流となるのはやむをえないのですが、それでは問題の本質が消えてしまいます。個人の老後の生活を保障する年金制度を目指すことを肯定するか否かがまず問題であり、それを肯定した後、制度を変える進捗状況に応じて、諸個人がどうやりくりしていくかを具体的に考える、というのなら分かります。今言われているのはそうではない。制度は変えないから個人で工面せよ、で終わりです。まあせいぜい現状の社会保障制度のあれこれの部分を探してその工面の参考に供する、ということを付け加えるか、という程度のことです。これは同じようなことを言っているようでも、先の見通しがまったく違います。「現状改革+当面の対応探求主義」と「現状固定=追随主義」との違いと言ったらいいでしょうか。
メディアの状況の一例として、オピニオン&フォーラム・耕論「『2000万円不足』の衝撃」(「朝日」6月26日付)を見ます。年金問題が喧しい中で、岩城みずほ(ファイナンシャルプランナー)・山田俊浩(週刊東洋経済編集長)・坂口力(元厚生労働大臣)の三氏を登場させているのですが、三人とも制度改革否定論では同じです。これではあえて複数の識者の見解を載せた意味がありません。要するに「朝日」は現行制度固守の姿勢だということがここからわかります。山田氏はこう述べています。
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年金制度は人口や経済情勢に応じて不断に微修正する必要があり、「100年安心」という言葉は有害無益です。今回のような騒動があると、「100年安心はやはりうそだ」と逆に国民の不信を高める原因にもなります。一方で、政争の具にして、不安だけをあおることにも疑問を感じます。人口の構成によって年金財政は決まるので、どの党が政権の座にいてもほとんど変わらないのですから。
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年金問題を政争の具にして不安だけを煽るな、という言い方は一見「良識」的かと映りますが、要するに現行制度を変える論議に行かないように、と言っているだけの話です。そこにはまったく当たり前の前提であるかのように自己責任論が存在しています。
それに対して共産党は、まずは低年金者に年額6万円の底上げを実現し、さらにマクロ経済スライドを廃止して、減らない年金に変え、ゆくゆくは経済改革と併せて最低保障年金を確立するという段階的アプローチを表明しています。自己責任論を否定して、制度改革の道筋を提起しているのです。人々の経済的実態と実感からすれば当然のこと(「2000万円なんて貯められるわけないだろう!」)ですが、「甲斐性なし!」とか「ちゃんと工夫して努力しろよ」とかいう非難を撃退するリクツを以下に提起したいと思います。
封建社会では身分が固定され、職業選択の自由はないので、自分の生活の苦しみは「世の定め」でした。商品経済になると諸個人は独立し、自由・平等の市場で、それぞれ自己責任で幸福を追求します。しかしそれが資本主義経済に発展すれば、労働者が生み出した価値の内、何とか生活していける程度の部分だけが賃金とされ、残りは企業が取り上げ、それが利潤の源泉となります。これが搾取の仕組みです。したがってそこでは、病気・失業・老後などに個人が備えることは非常に困難で、社会保障制度で補う必要があります。つまり資本主義社会では、形式的には自己責任が通用するように見えて、実質的には不可能なのです。「年金をあてにせず二千万円をためて資産運用しろ」などという自己責任論は、資本主義的搾取という、この問題の本質を覆い隠しています。
さらには、労働に基づく所得(賃金)が少ない分を、資産運用という、リスクを伴う不労所得で個人的に補え、というのは、社会観・労働観の堕落です。社会保障を充実させ、人々の労働と連帯で助け合うような社会観を広げていくことが大切です。もちろんそれは支配層の言う「共助」、つまり国家の責任を放棄して人民同士で助け合え、ということではありません。それは、国家が責任をもって社会保障制度を整備し、所得再分配を含めて社会全体が支え合う仕組みを確立することで、自己責任と競争を中核とする社会観から、労働と連帯を中核とする社会観へと、人々の常識が転換するようなイデオロギー状況を生み出すことです。
年金問題の本質が資本主義的搾取だというのは、社会保障制度全体にも当てはまります。搾取によって、労働者の自己責任による生活が原理的に不可能である以上、資本主義社会では社会保障制度が必要不可欠です。にもかかわらず、支配層が自らの階級的利益のために、社会保障制度を削減し、そこに自己責任論を持ち出すことに対して、憲法の社会権・生存権によって対抗するのが普通ですが、さらに進んでは、資本主義的搾取への批判によって対峙することが労働者階級の歴史的使命に照らして正当であろうと思います。
参議院選挙が7月4日告示、21日投開票で実施されます。年金問題の喧騒の中、消費税増税問題も絡んで、場合によっては、安倍政権や自民党への支持が雪崩を打って崩壊する可能性もあります。「他の内閣よりよさそうだから」という消極的理由で長らく続いてきた安倍政権に代わって、「安倍内閣よりよさそうだから」と思える政策提示を果たして、野党共闘と共産党が前進できるか、本気の闘いが問われています。
2019年6月30日
2019年8月号
不破哲三氏の連載第4回「マルクス弁証法観の進化を探る 『資本論』と諸草稿から」は、マルクスが『1857~58年草稿』(『経済学批判要綱』、以下では『要綱』と略記)の一部で労働価値論を否定する議論を展開している、と見ています。生産力が発展した機械段階では、労働者と労働手段との関係が逆転して、生産の主体が労働者から機械に移行した、という主張(136ページ)とか、「大工業のもとでは、価値法則が機能を停止するという驚くべき断定」(138ページ)などがあるというのです。ここで不破氏は当時のマルクスによる労働価値論否定(と見える内容)を明確に批判しています。生産主体が移行した、という議論については、後に『資本論』で訂正されることを不破氏は指摘しています(同前)。
『要綱』において、労働価値論が否定されている(ように見える)根拠としては、次の二点にまとめられるように思われます。(1)生産主体交代論:生産の主体が労働手段になり、労働者が付属物化して主体でなくなれば、労働が価値を生むということが言えなくなる。(2)生産量の主因交代論:大工業による生産力発展によって労働量が「富の生産の決定的な要因」でなくなり、富の生産はむしろ科学や技術の進歩に依存するようになる。
本誌6月号の座談会で、GAFAのようなデジタル資本が獲得している価値の実体・源泉をどう捉えるか、という問題提起に関連して、『要綱』の関連箇所に言及されていました。拙文の「感想」では、使用価値と価値とをきちんと区別して労働価値論を擁護する観点から、『要綱』の論述は間違っていると言ってもいいが、マルクスが「価値の尺度」ではなく「富の尺度」と書いている点が気になる、という意味のことを述べました。本号での不破氏の言及を受けて、あらためて『要綱』の「Ⅲ資本にかんする章」の「第二の項目 資本の流通過程」の「固定資本と社会の生産諸力の発展」を読んでみました(大谷禎之介他訳『マルクス 資本論草稿集② 1857-58年の経済学草稿 第二分冊』所収、大月書店、1993年、以下では『資本論草稿集②』と略記)。関連する研究はあまたあるに違いないけれども、不勉強で知らないのであくまで自己流の読みですが…。ところで、高度な生産力発展に伴う労働価値論の成否という課題からすれば、それは生産過程論での議論であるべきなのに、『要綱』の当該箇所では、「資本の流通過程」での固定資本の問題として扱われているのは違和感があり、そういう扱いから来る歪みがおそらくあるのでしょうが、それはとりあえずここでは措きます。
(1)生産主体交代論について
生産過程における、労働者から労働手段への主体交代という見方については、不破氏が引用している『資本論』での以下の叙述をマルクスの後の到達点とみて、『要綱』での議論を検討してみてはどうかと思います。
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自動化工場のピンダロス〔ギリシャの抒情詩人〕であるユア博士は、この自動化工場を、一方では、「一つの中心力(原動力)によって間断なく作動させられる一つの生産的機械体系を、熟練と勤勉とをもって担当する、成年・未成年のさまざまな等級の労働者の協業」であるとし、他方では、
「一つの同じ対象を生産するために絶えず協調して働く無数の機械的器官および自己意識のある器官――その結果、これらすべての器官が自己制御的な一つの動力に従属する――から構成されている一つの巨大な自動装置」
であると記述している。
これら二つの表現は、決して同じではない。第一の表現では、結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置は客体として現われている。第二の表現では、自動装置そのものが主体であって、労働者はただ意識のある諸器官として自動装置の意識のない諸器官に付属させられているだけで、後者とともに中心的動力に従属させられている。第一の表現は、大規模な機械設備のありとあらゆる充用にあてはまり、第二の表現は、それの資本主義的充用を、それゆえ近代的工場制度を特徴づけている。それゆえユアはまた、運動の出発点となる中心機械をただ自動装置としてのみならず、専制君主として叙述することを好むのである。
「これらの大きな作業場では、仁愛な蒸気の権力が自分のまわりに無数の家来を集めている」。 新日本新書版『資本論』第3分冊、725ページ
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ここでマルクスは、生産過程における労働者から労働手段への主体交代を示す「第二の表現」を必ずしも否定しているわけではなく、それは大規模な機械設備の「資本主義的充用を、それゆえ近代的工場制度を特徴づけている」と指摘しています。ただしそれだけでは一面的であって、歴史貫通的視点から言えば主体は交代していないことを示す「第一の表現」があくまで前提されるべきことを述べているように思われます。
そのような総括的観点に従って読めば、『要綱』の叙述はかなりの程度まで正当な内容として受け入れられます。『要綱』での主体交代論とその正確化に関わる観点として二つが挙げられます。一つは、上述の歴史貫通的視点と特殊資本主義的視点による両面的考察であり、これは労働手段としての機械装置の自動的体系を素材的視点と形態的視点の両面から考察することと関連しています。二つ目は個別的労働から共同的な諸労働へ、あるいは直接的労働から社会的労働へという見方の転換です。
『要綱』では、大工業の発展によって、生産過程で労働者が機械(より詳しく言えば、機械装置の自動的体系)に従属させられ、主体が労働者から機械に取って代わられることがひたすらに叙述されているので、見方によっては、これが労働価値論否定の前振りとして語られているように思えます。しかし上記『資本論』の到達点を参考にすると、必ずしもそうとは言えず、この部分は生産過程のあり方が特殊資本主義的に編成替えされることを解明した重要な論述だと見ることができます。
『要綱』では、機械が素材的かつ形態的に捉えられています。ただ両面的に考察されているというのではなく、むしろその素材としてのあり方が、つまりその使用価値がそのままで、労働者を搾取して価値増殖を図る資本主義的形態に最もふさわしいものになっていくことを見事に活写しています。素材と形態の融合が語られているのです。
まずそれを分かりやすく示したのが以下の叙述です。分業が労働を分解して機械的作業にしてしまうと、労働者は機械に取って代わられ、それは次のような意味を持ちます。
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つまりここでは、特定の労働様式が労働者から機械の形態にある資本へ直接に移転されて現われるのであって、この移し換えによって労働者自身の労働能力は無価値になる。ここから機械装置にたいする労働者の闘争が生じるのである。生きた労働者の活動であったものが、機械の活動となる。こうして労働者にたいして、資本による労働の取得が、生きた労働を自分のうちに吸収するものとしての資本が、荒々しく官能的に〔grobsinnlich〕――「胸に恋でも抱いているかのように」――立ち向かうのである。
『資本論草稿集②』、488ページ 下線は刑部
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この事態を、資本の概念の機械による実現としてより普遍的に描き、さらには科学・技術が「労働者の意識のうちに存在するのではなく、」(同前、475ページ)疎遠な力として機械そのものの力として「労働者に作用する」(同前、476ページ)ことを示すことで、資本主義的生産関係下で、機械における素材と形態の融合が、労働者を支配する搾取形態として完成することが解明されます。
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資本の概念のうちにある、対象化された労働による生きた労働の取得――それ自体として存在する価値による価値増殖的な力〔Kraft〕または活動の取得――は、機械装置に立脚する生産では、生産過程そのものの性格として――それの素材的諸要素およびそれの素材的運動からも――措定されているのである。
同前、476ページ
労働手段の機械装置への発展は、資本にとって偶然的なものではなく、伝統的に受け継がれた労働手段を、資本に適合するように変形されたものとして、歴史的に変革することである。知識の蓄積と熟練の蓄積、つまり社会的頭脳の一般的生産諸力の蓄積は、このように、労働に対立して資本のなかに吸収され、だからまた資本の属性として、さらに明確には、本来的な生産手段として生産過程にはいるかぎりでの固定資本の属性として現われる。だから機械装置は、固定資本の最も妥当な形態として現われるのであり、また固定資本は、資本が自己自身への連関において考察されるかぎりでは、資本一般〔Capital überhaupt〕の最も妥当な形態として現われるのである。
同前、477ページ
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機械・固定資本のこのような外観は、「固定資本を労働時間とはかかわりのない、自立的な価値源泉にしようとする」(同前、484ページ)見解や「労働から切り離された資本それ自体に、価値を創造させたがり、だからまた剰余価値(あるいは利潤)を創造させたがる見解」(同前、486ページ)を生み出します。もちろんマルクスは「固定資本がそのような源であるのは、ただ、それ自体が対象化された労働であるかぎりでしかなく、またそれが剰余労働時間を措定するかぎりでしかない」(同前、484ページ)と、きっぱり批判しています。それだけでなく、以下のように、素材と形態とをはっきり区別する歴史貫通的視点によって、機械における素材と形態の融合という現象の特殊資本主義的意味を明らかにし、翻って「最も適当かつ最良の社会的生産関係」としての未来社会で機械が充用される可能性を示唆しているようにも見えます。こうして、事実上、資本主義を永遠のシステムと見なすことで、資本主義社会の歴史的意義を理解できず、それとは違う未来社会は思いもよらない俗流的観点との違いが鮮明になっています。
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資本が、機械装置やその他の固定資本の素材的定在諸形態、たとえば鉄道等々(この点にはのちに論及するであろう)においてはじめて、生産過程の内部にある使用価値としての、自己の妥当な姿態を自己に与えるとしても、このことはけっして、この使用価値――機械装置それ自体――が資本であることを、あるいは、機械装置の機械装置としての存立がそれの資本としての存立と同一であることを意味しないのであって、それは、もしも金がもはや貨幣でなくなったなら、それは金としてのそれの使用価値をもつことをやめる、というわけではないのと同じである。機械装置は、それが資本であることをやめたとしても、それの使用価値を失うわけではない。機械装置が固定資本の使用価値の最も適当な形態であるということからは、資本という社会的関係のもとへの包摂が機械装置の充用のための最も適当かつ最良の社会的生産関係だ、という結論はけっして出てこないのである。
同前、481ページ
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ここでは先に引用した『資本論』の見地――「大規模な機械設備のありとあらゆる充用」と「それの資本主義的充用」との区別――と同様の見解がすでに示されています(「ありとあらゆる充用」には当然、共産主義的充用が含まれるでしょう)。以上から推測できるのは、次のことです。<『要綱』において、大工業下の生産過程では、主体が労働者から機械(固定資本)に交代することが執ように主張されているのは、あくまで特殊資本主義的生産過程で労働者が疎外される事態の本質を解明するために、労働者がそこで従属的地位に置かれていることを強調したかったためではないか。それでも歴史貫通的に見るならば、あくまで労働者が生産の主体であり、それは資本主義的生産過程においても貫徹しており、労働価値論が妥当する、と見ることは前提だったのではないか。だからこそ「固定資本を労働時間とはかかわりのない、自立的な価値源泉にしようとする」見解はきっぱりと批判されているのではないか>
しかしながら、生産主体が交代して、労働者が機械に従属する資本主義的生産過程においても、歴史貫通的次元では、労働者が生産の主体であるということが貫徹されている、ということは一見矛盾しているようであり、どのように両立し得るのでしょうか。そこで問題となるのが上述の「個別的労働から共同的な諸労働へ、あるいは直接的労働から社会的労働へという見方の転換」です。
『要綱』においては、「機械は、どの点から見ても、個々の労働者の労働手段としては現われない」(同前、475ページ)というように、資本主義形態において労働者諸個人が機械の主人公ではありえないことが語られています。それは逆に労働者が機械に従属することを示唆しています。また「生産過程の単純な労働過程から科学的な過程 …中略… への転化が、固定資本の属性として生きた労働に対立して現われるとすれば、また、個々の労働そのものは、およそ生産的なものとして現われることをやめ、むしろ自然の暴威を自分に従属させる共同的な諸労働のかたちでのみ生産的であり、そしてこのように直接的労働を社会的労働へ高めることが、個々の労働を、資本において代表され集中されている共同性にたいする無力さにまで引き下げることとして現われる」(同前、482ページ)というように、ここでは個々の労働の資本への従属が語られます。そういう意味では個々の労働や労働者個人にとってはネガティヴな叙述なのですが、同時に「共同的な諸労働」や「社会的労働」が登場することに注目すべきです。それは資本主義的形態下では「資本において代表され集中されている共同性」として存在しています。しかし、大工業の発展を未来社会につなげる視点で、労働と労働手段について述べた以下の部分の前段として、それを捉えるならば、明るい展望の端緒であるとも言えます。
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{大工業が発展するのにつれて、それがよってたつ土台である他人の労働時間の取得が富を形成したり創造したりすることをやめると同様に、大工業の発展とともに、直接的労働は生産のそのような土台として存在することをやめる。なぜなら、直接的労働は一面から見ればますます監視と制御の活動に転化されるからであるが、さらにまた、生産物がばらばらな直接的労働の生産物であることをやめて、むしろ社会的活動の結合〔Combination〕が生産者として現われるからでもある。 …中略… 直接的交換では、ばらばらの直接的労働は、ある特殊的生産物または生産物部分のかたちで実現されたものとして現われるのであって、この労働の共同的な社会的性格――一般的労働の対象化および一般的欲望の充足としてのそれの性格――は、ただ、交換によって措定されるにすぎない。これにたいして、大工業の生産過程では、一方で自動的過程にまで発展した労働手段の生産力においては、自然諸力を社会的理性に従わせることが前提なのであり、また他方で、直接的定在における個々人の労働は、止揚された個別的労働として、すなわち社会的労働として措定されているのである。こうしてこの生産様式の他方の土台〔すなわち、他人の労働の取得という一方の土台にたいする、直接的労働という他方の土台〕がなくなるのである。}
同前、496ページ
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先に紹介した『資本論』での「結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置は客体として現われている」という叙述を想起すれば、すでに『要綱』にもこのように、個別的労働に対比される社会的労働の観点が登場していることに注目すべきでしょう。『資本論』では、上記の命題は資本主義的充用だけでなく、「大規模な機械設備のありとあらゆる充用にあてはま」るとされています。このように、生産主体を個別労働ではなく、社会的労働とするならば、労働が生産主体として価値を創造しているという命題は依然として維持されます。
以上を考慮するなら、次のような関係が成立します。資本主義的生産過程において、「機械への労働の従属=生産主体の交代」は個別労働、労働者個人の直接的労働にはそのまま当てはまります。まさに資本主義的形態における生産過程の主体交代がここに表現されています。しかし機械を充用する大工業においては、「共同的な諸労働」が(直接的労働から転化した)監視と制御の活動を含む「社会的労働」として立ち上がり、それが新たな生産主体となります。こうして、「結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置は客体として現われている」ということ、つまり「労働者が主体であり生産手段は客体である」という歴史貫通的命題が、拡大し変容されながらも資本主義的形態の底流に貫徹します。ここまで見てきた『要綱』の叙述も、こうした『資本論』の認識に接近しているとするならば、そこで労働価値論の否定が安易に主張されているとは言い難いように思います。
(2)生産量の主因交代論について
以上は労働価値論の「否定」との関連で生産主体交代論を見てきました。以下では、仮に「生産量の主因交代論」と名付けた見方を検討します。こちらの方が労働価値論の否定としては直截的であり、「直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の[尺度]であることを、やめるし、またやめざるをえない」(同前、490ページ)という有名な命題がこの見方に該当します。
大工業が発展し、生産力が増大すれば、使用価値が生産される量は労働量よりも、科学・技術の進歩に依存するようになります。この傾向がどんどん進んで行けば、労働時間が富の尺度であることをやめるというわけですが、それはどういうことでしょうか。科学・技術の進歩によって生産力が増大し、労働量の増え方よりも使用価値の生産量の増え方の方がはるかに大きくなるならば、生産物の個別価値は下がります。あるいは、労働量が減っても生産力の増大で生産量が増える場合さえもありえます。この場合は個別価値だけでなく総価値も減少します。したがって科学・技術の進歩に応じて、労働量と使用価値生産量との因果関係は弱くなり、同時にそれは生産物の個別価値あるいは場合によっては総価値の減少に帰結します。この現象を見れば、確かに科学・技術の進歩による生産力の増大によって、「労働時間が富の尺度である」ことを、また「交換価値が使用価値の尺度である」ことをやめる、ということが言えます。ただし以上のことは、生産物の価値が投下労働量によって究極的には規定される、という労働価値論と何ら矛盾せず、価値法則が否定されるわけではありません。そのように思うのは、使用価値(量)と価値(量)とを混同しているからです。
しかし、もちろんマルクスが『要綱』で言いたいのは、生産力の非常に高度な発展により、生産量が増大するのに対して、投下労働量が圧倒的に減少すれば、生産される使用価値量と価値量とがまったく乖離して、「労働時間が富の尺度である」ことを、また「交換価値が使用価値の尺度である」ことをやめてしまうので、それは不都合だろうということでしょう。資本主義体制の枠内の思考であれば、ならば労働時間に代わる基準で搾取を続けよう、とでも考えるかもしれません。しかしおそらくマルクスとすれば、労働という基準は客観的に人間生活と経済社会を規定しているものだから、恣意的に基準変更はできないと考えるでしょう。ならば価値を基準とする生産である資本主義的市場経済そのものが変革されるべきだ、ということになります。上述の有名な命題のすぐ後に「交換価値を土台とする生産は崩壊し」(同前)とありますから、革命家としてマルクスは商品=貨幣関係と価値法則を超えた共産主義社会の到来を念頭に理論を展開しているのでしょう。そういう突飛さが、労働価値論否定の議論のように見える一つの原因かもしれません。
つまりマルクスは労働価値論を否定していないけれども、価値法則を超えた社会をすぐそこに見ている、というのがここでの議論の意味するところでしょう。とはいえ、『要綱』の論述はかなり性急であり、AIなどが問題となりかけている21世紀初めの現在でさえ到達していないような(投下労働量が極端に減少した)状況を19世紀に想像しているように思えます。それを革命に結びつけるという現実離れした「突飛さ」があり、ブルジョア社会の常識で思考している大方の人々にとっては考えもつかないので、「マルクスは労働価値論を否定した」という受け入れやすい線で理解されることになります。
ところでいささか脱線しますが、「生産量の主因交代論」やその周辺の議論が展開されているのは、訳書『資本論草稿集②』では489~503ページくらいであり、ここは商品論ではなく、「資本にかんする章」に属し、搾取論や未来社会論をも交えています。だから構造的(理論次元の問題)にも歴史的にも縦横に議論されていると言えます。生産物の価値規定の問題が、商品論次元に留まらず、搾取論や未来社会論に絡めて論じられているのです。たとえば次のように。
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諸個人の自由な発展、だからまた、剰余労働を生み出すために必要労働時間を縮減することではなくて、そもそも社会の必要労働の最小限への縮減。その場合、この縮減には、すべての個人のために自由になった時間と創造された手段とによる、諸個人の芸術的、科学的、等々の発達開花〔Ausbildung〕が対応する。資本は、それ自身が、過程を進行しつつある矛盾である。すなわちそれは、〔一方では〕労働時間を最小限に縮減しようと努めながら、他方では労働時間を富の唯一の尺度かつ源泉として措定する、という矛盾である。だからこそ資本は、労働時間を過剰労働時間の形態で増加させるために、それを必要労働時間の形態で減少させるのであり、だからこそ資本は、過剰労働時間を、ますます大規模に必要労働時間のための条件――死活問題――として措定するのである。 同前
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ここでは、未来社会論の高みから資本主義的搾取を描き出し、労働時間を縮減しつつ増加させるという資本の本質的矛盾を剔抉しています。必要労働と剰余労働との対抗は資本=賃労働関係次元の問題であり、社会的な必要労働時間の縮減は商品=貨幣関係次元の問題であり、その交点に、剰余労働時間を増大させつつ結果的に社会的必要労働時間を縮減する資本の矛盾した運動が見出されます(『資本論』であれば、特別剰余価値の獲得をめぐる資本間競争によって生産力が上がり商品価値が下がる論理がそこに含まれる)。これは一面では、諸個人の自由時間を拡大する未来社会への客観的条件を整備することになりますが、他面ではそれを回避する資本の運動を呼び起こします。「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである」(同前、494ページ)からです。つまり資本は労働者にとって時間泥棒なのです。その周辺の論理として、機械の資本主義的充用に関連して「労働の生産力の増大と必要労働の最大限の否定とが資本の必然的傾向であることはすでに見たとおりである。この傾向の実現が労働手段の機械装置への転化なのである」(同前、476ページ)ということもだいぶ前のところで言われています。
「過程を進行しつつある矛盾」としての資本は今日では、未来社会への方向ではなく、逆に、自由に処分できる時間を労働者に手渡さず、過労死するまで剰余労働に転化しています。労働者としての過剰労働と消費者としての過剰サービスの享受=生活の受動化(その象徴がコンビニの24時間営業)という消費社会の悪循環は、まさに時間泥棒としての資本の本性が全開されたものです。今日、社会主義を考える場合、資本によって盗み取られた時間を取り戻して、人間らしい余裕ある生活と労働を創造するための現実的道を考えることが非常に重要です。実はあり得たその道を人類は選択しないできてしまったのではないか、という世界史的反省が必要ではないでしょうか。その意味では未来社会論は遠い先の話ではなく、現代社会を見つめ変革する基準を与えるものだと思います。
閑話休題。私はかねがね労働価値論においては、使用価値と価値との区別が重要だと言ってきました。使用価値の側面から、効用のある生産物ということに引き付けて価値を捉えるのではなく、人間の生活時間の一部を必要な労働時間として費やさねばならないこと、それを差し引いた自由な時間によって人間的発達が可能になること、したがって労働の提供そのものが費用であり、そこに価値が成立すると捉えることが大切です(この観点は、杉原四郎氏の「マルクスの経済本質論」による「費用価値」論を参照している。同氏『経済原論1――「経済学批判」序説――』、同文舘、1973年、より)。だから『要綱』の関連個所において全体としては、機械の資本主義的充用に目を据えながら、未来社会論と一体に労働価値論が展開されている、と見ることができるように思います。生産の結果としての富よりも、それを造り出す人間の生活と労働、その時間のあり方をまず第一に考える――ここに投下労働による価値規定の意義があり、それを歴史貫通的視点として採る中で、資本主義の特性を理解し未来社会への変革を展望する基礎が据えられるように思います。『要綱』について言えば、草稿というものの難解さなどもあり、そんなことが述べられていると簡単には断定できませんが…。
以上、私が読んだのは『要綱』の一部、訳書でほんの30ページ程度の部分に過ぎませんが、浅学菲才にとっては、一読・再読くらいではもうろうとした印象が残る程度で、内容把握にいたらず、何度も読んでようやくその豊穣さの一端に何とか触れられたか、という思いです。したがってこの部分から軽率に労働価値論の否定に飛びついたり、逆にその否定のゆえにこの部分の内容を間違いと決め付けたり、あるいはここで労働価値論が正確に展開されていると断定したりするのは、どれもいただけないように思います。今日、AIやデジタル資本の発展がある中で、労働価値論の成否が問題となりますが、その検討においても『要綱』の問題提起はなお留意して精査すべき内容であることは間違いありません。マルクスの叙述に対しても、その発展過程を考慮し、時々の論稿に対して遠慮ない批判が加えられるべきことは当然ですが、そこに批判の安易さが生じて、せっかくの優れた内容を、自己流の理解で看過してしまう可能性に十分に注意しなければなりません。
日本経済のグランドデザイン
(1)経済の軍事化を許さない
以上では、『要綱』での労働価値論「否定」を検討する中で、大工業の発展によって、資本主義的生産過程における主体が労働者から固定資本・機械体系に交代する事態について考えました。そこでは労働者個人は機械に従属しますが、「共同的な諸労働」が(直接的労働から転化した)監視と制御の活動を含む「社会的労働」として立ち上がり、それを新たな生産主体と見なすことができます。そうした生産過程における主体は、個別企業から、地域=国民経済、はてはグローバル経済にまでわたって形成されえるでしょう。その際に特に問題となるのは、『要綱』でも焦点が当てられていた科学・技術の応用です。それは生産過程だけでなく、社会全体の問題としても存在しています。人間社会が科学・技術に従属するのでなく、使いこなすことができるのか、という問題です。たとえばAIや宇宙開発のような最先端科学・技術では、一方に素晴らしい可能性がありますが、他方に従属どころか人類の破滅にさえいたるかもしれない危険性があり、深刻です。
すでにコンピュータによる自動的株取引が市場を暴走し問題となっていますが、小金澤鋼一氏の「AIを軍事利用しないために 破壊的自律型兵器の現状と禁止運動」は、はるかに危険な「AIを搭載した破壊的自律型兵器(LAWs;Lethal Autonomous
Weapons)」を問題にしています。たとえばすでに「完全自律型兵器」であるイスラエルの無人攻撃機Harpyが中国・チリ・インド・韓国に配備されており、米中は無人ステルス戦闘機の開発競争を展開しています。
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軍事大国はこのように「完全自律型兵器」の開発にしのぎを削っている。それは現実の戦闘場面において、多くのセンサーからの情報を分析して状況を把握し、ミサイルやマシンガンを発射する判断を下す時間的余裕は数ミリ秒に過ぎない場合があるからである。特に、自律型兵器同士の戦闘、さらにそれぞれ複数の自律型兵器が対する場合において、人間の判断速度をはるかに超える時間軸で戦闘が行われることが想定される。このために、人間の介在を一切必要としない自律性が必要なのである。 89ページ
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これはまさに人類が科学・技術に従属し、自律型兵器による戦争の暴走に着々と向かっているようなものです。人類自滅への道です。
これに対して、2016年4月に行なわれた国連の第3回特定通常兵器使用禁止制限条約に関する会議で、14カ国が完全自律型兵器に対する予防的禁止を求める声明を発表しましたが、日本を含めた主要先進諸国は禁止条約の制定に反対しています(90ページ)。そうした中で、『平成30年度版 防衛白書』では軍事的抑止力・対処力強化のための科学技術の推進が縷々述べられています(91ページ)。これに対して論文はこう結んでいます(同前)。
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科学・技術を今後さらに軍拡競争に加担させようとする宣言である。戦争を放棄した憲法をもつ我々は、世界のLAWsに反対する運動に呼応し、核兵器禁止条約の制定とともにLAWs禁止条約の制定向けて力を合わせるべきだ。そして、安全保障技術研究推進制度に代表される軍拡競争を煽る動きに対抗していく必要がある。
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資本主義的生産過程における(科学・技術を体現した)機械に対する労働者の従属関係の延長線上に、科学・技術に対する社会の従属関係があるという状況を許してはなりません。生産過程において、「共同的な諸労働」「社会的労働」が生産の主体として現われたように、社会全体が理性を発揮して科学・技術の主体として確固たる存在とならねばなりません。その中でも別格の問題が、科学・技術の軍事利用を排して人間社会の最大の災厄を防ぐことです。
話がまた労働価値論の問題に戻りますが、人間が生産過程の主体であることが価値を創造する前提であり、先述のように、そういう主体である人間の生活と労働の時間配分の問題が、労働の「費用価値」性格を生じさせます。これは歴史貫通的に成立し、社会的分業と生産手段の私的所有という条件で成立する商品生産においては、それが商品そのものの価値性格として現象します(物象化)。つまり労働価値論の視点からは、生活し労働する人間が生産過程の主体であるという歴史貫通的事実こそが、商品が価値性格を持つことの前提としてあります。生産力発展の決定的要件である科学・技術の適用は、本来こうした生産過程における人間の主体性に基礎をおいています。
ところが資本主義的生産過程においては、科学・技術を体現する労働手段としての固定資本に労働者が従属する転倒が生じます(疎外現象)。それが全社会的規模で生じるのが、人間を害する科学・技術の暴走です。労働価値論の視点は、そうした転倒・疎外現象を見定めるためにまともに足で立つ思考基準を提示する意義を持っています。それはもともと生産過程・経済の視点ですが、人間と社会を見る基準として押し広げられます。
閑話休題。LAWsに劣らず宇宙軍拡も大問題です。藤岡惇氏の「米国の宇宙軍拡と『核ミサイル防衛』の復活」は、何度も消えては復活してきた「核ミサイル防衛」(核MD)の歴史を振り返り、今また、30年前のレーガンによるSDIの高次復活ともいうべき、トランプ政権の「宇宙軍資本主義」の構想(108ページ)が登場してきたことに警鐘乱打しています。
藤岡氏によれば、「敵基地にたいする先制攻撃が米国MDの基本方針」(115ページ)であり、「生き残った中・ロの核ミサイルが米国に向かったばあい、中・ロの報復第二撃から米国中枢を守る『盾』となる」(同前)等々が日本の任務です。とするならば以下のような状況に陥ります。
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9条改憲の実際の意味は、集団的自衛権を完全に承認させ、米国や宇宙に向かう核ミサイルを日本が盾となって撃ち落とさせることにある。いま日本のような「前線国」が「改憲」を行い、核ミサイル防衛に組み込まれると、どうなるのか。電磁パルスが宇宙から地上を襲い、電力網の全系崩壊が起こり、長期間、「核の闇」に閉ざされる。最悪のばあい、日本は無人の荒野に戻る可能性がある。 117ページ
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したがって憲法を守りさらに実現するための努力の中には、宇宙軍拡を止めることも含まれるでしょう。それは日本にとって特別に新奇な課題というわけではなく、核兵器廃絶の運動とともに進むことです。
藤岡氏によれば、「1986年、レイキャビックの米ソ首脳会談では、『核兵器全廃』合意の直前に到達しながら、失敗してしまった。最大の原因は『宇宙兵器』の評価をめぐる不一致にあ」りました(118ページ)。当時のレーガン、ゴルバチョフ関係と同様に、今日のトランプ、中・ロの関係でも後者は「核兵器を失うと米国の圧倒的な宇宙兵器の力で滅ぼされることを懸念してい」ます(117ページ)。したがって「核兵器禁止と宇宙兵器禁止の同時的実現」(同前)が必要です。論文は「宇宙兵器の配備の禁止」や「宇宙軍拡競争の停止(現状凍結)」などを含む五つの課題を提起して結論としています。
このように小金澤論文・藤岡論文では、科学・技術と人間社会との一般的関係を前提にしつつ、それぞれの具体的分野で軍事利用に反対する論陣が張られています。その他にも、特集「『安倍軍拡』との対決点」の諸論文では、米日の軍産複合体などの利潤追求が問題のベースにあることを踏まえつつ、トランプの危険な軍事政策とそれに追随する「安倍軍拡」、それと一体の改憲策動が捉えられています。
実際、上記の小金澤・藤岡両論文も科学・技術の軍事利用の問題に絡めて、憲法の平和主義や核兵器廃絶を語っています。安倍改憲の狙いや全体像・意義については、渡辺治さんに聞く「市民と野党の共闘で安倍改憲に終止符を!」が全面的に分析しており、それに譲りますが、9条に自衛隊を明記する加憲論の問題点に関して興味深い指摘が纐纈厚氏の「安保法制成立以後の自衛隊と安倍政権 新しい安全保障論を求めていくためには」にあります。
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これまで自衛隊を法律の段階に押しとどめることにより文民統制を実効化してきたが、これが憲法に明記され、格上げされることになれば、九条による間接的な意味での自衛隊統制の意義が完全に損なわれる。
自衛隊明記によって自衛隊の軍隊化を容認するか、それとも明記しないで将来において、段階的であれ解体へのプロセスを設定するか、の二者択一となる。法理論上、「後法優先の原則」からして、「九条の2」の加憲は、特に九条1項と2項とを有名無実化することを意図したものに他ならない。まさに「九条の2」加憲論は平和憲法を、その内部から食い破る目的が明らかである。 80・81ページ 下線は刑部
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昨今、「護憲的改憲論」の名の下に、現行9条を、集団的自衛権を排して個別的自衛権を容認する条文に変えて、9条と自衛隊の存在との矛盾をなくそうという議論があります。憲法と現実との矛盾をなくすのが立憲主義だという発想のようですが、それは現実を憲法に合わせるのでなく、憲法を現実に合わせるものであり、まったく転倒したニセの「立憲主義」です。あえて言えば、9条と自衛隊の存在という矛盾があることにこそ今日的意義があります。この矛盾を糊塗するために歴代政府は自衛隊の存在を極めて抑制的に扱わざるを得ず、海外派兵などは問題外とされてきたのです。矛盾は現実の発展の動因です。この矛盾を反動的になくすか、進歩的になくすかの二者択一が「自衛隊明記によって自衛隊の軍隊化を容認するか、それとも明記しないで将来において、段階的であれ解体へのプロセスを設定するか」ということです。ここから、確固たる護憲には未来の展望があることが分かります。それを見据えて矛盾の存在に耐えることが必要であり、「とにかく矛盾をなくそう」という安易な改憲志向では、集団的自衛権と海外派兵に反対する意図があろうとも、米日支配層=改憲勢力にとっては「渡りに船」であり、護憲派の分断に利用しようと手ぐすね引いて待っているところでしょう。もちろん「護憲的改憲」派とも安倍改憲反対では一致して闘わねばなりませんが、運動の動揺などを未然に防ぐ意味で必要な理論的警戒を怠ってはなりません。
(2)バランスある再生産構造・産業構造・経済政策
閑話休題。以上、ずっと政治向きの話をしてきたようですが、言いたかったのは日本経済のグランドデザインを描くときに真っ先に軍事化を排除することが必要であり、これは絶対に譲れない問題だということです。外交で解決すべき問題を武力によって解決しようとするところに、平和の危機と経済のムダ・歪み・疲弊が生じます。愚策の極みです。
その上で、平和産業による日本経済の発展をどう描いていくかが問題です。以下に、日本経済のグランドデザインとして触れるべきことをとりあえず思いつくまま挙げます。
○生産・流通・消費の全体を捉えて、分配・再分配のあり方を調整する。
○その際に、社会保障財源としての大企業負担は再分配として当然だが、その一方で、生産そのものの変革が重要であり、グローバリゼーションから相対的に自立した内需循環型の地域=国民経済を再生し、農民・自営業者・中小企業などの小経営が活躍できる場を確保する。
○大企業には、その巨大な生産力と影響力にふさわしい社会的責任を果たさせる。
○生産力の最先端の発展と生活密着型経済の充実とを両立させる。
○人々のディーセントな生活と労働を保障し、そこに生まれる活発な個人消費を起点にした経済のあり方を定着させる。
一国の経済を考えるとき、とかく派手なリーディング産業を中心に見がちですが、人々の生活を成り立たせている普段着の経済のあり方を地に足付けて見る姿勢が大切です。那須野公人氏の『グローバル経営論 アジア企業のリープフロッグ的発展』に対する牧良明氏の書評には次のように述べられています。
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一国の経済は成長する産業だけで構成されるのではなく、全体のバランスによって構成される。日本でいえば、第二次産業の急成長の裏で第一次産業の衰退があり、食糧自給率の低下といった弱点を抱えることになった。他方、ICTや製薬など先端産業において大きな後れを取っている日本ではあるが、そうした中でもある程度安定的な経済社会を実現できているのは、分厚い第二次産業のおかげとみることもできる。 105ページ
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大企業の社会的責任に触れましたが、大企業に対する見方としては対極的なものがあります。いわば告発型としては、強搾取と政策的優遇によって、膨大な内部留保を貯め込んでいるのだから、社会保障財源などに応分の負担をするのが当然であるとされます。支配層の危機感に立つ立場としては、グローバルな産業構造の変化に出遅れて不振に陥っているのだから、そのようにいじめるのではなく、いっそう政策的に援助すべきだ、となります。先の参院選においては、年金を始め社会保障の財源論が政策的焦点として最も注目されました。そこでは大企業をどう見るかが強烈な対決点となります。社会変革を進める立場からも紋切り型の言葉だけで済ませるのでなく、グローバリゼーション下の日本経済が抱える問題点と対峙する問題意識を持って考えてみることが必要です。
社会進歩の立場から、しかし支配層の言う問題点についても会計学的に考察したのが、小栗崇資氏の「大企業の3月期決算と景気の後退」です。上場企業の2019年3月期決算では、製造業が7.9%の減益で、非製造業が4.5%の増益となっています。製造業の減益の原因としてはかなり深刻な構造的な背景があると言えます。第一に「世界的な景気後退の影響」(94ページ)があります。景気後退と言っても「先進国の低成長と資金需要の縮小は、すでに2000年代初頭から始まって」いる(同前)ということですから、単に一時的な循環的要因ではなく、定着した構造的要因と言えます。第二に、「産業構造の変化による従来型産業の低迷」(95ページ)が挙げられます。自動車産業においては「15年比で世界全体の株は30%上昇したのに対し、自動車株は4%低下し」、「投資マネーは自動車から離れつつある」(同前)というような産業分野としての地盤沈下の実態があります。電機産業ではデジタル・エコノミー化の中で中国・韓国などに後れを取り、「デジタル分野の中で日本企業が世界で勝負できるハードはほとんど残っておらず、プラットフォーム型のソフトを創出できる企業はほとんど見られない状況にある。これまで日本が得意としてきた部品製造でも、日本企業は後退しつつあ」ります(同前)。先の牧良明氏の書評が紹介する那須野公人氏の著書によれば、デジタル化・モジュール化の進展によって台湾とインドの製造業企業が台頭しています。
この3月期決算に見る日本企業の財務構造からは、むしろ日本経済の体質が露わになっています。「外需依存、賃金削減、消費低迷という負の循環が日本で生じているので」す(96ページ)。「負の循環」の上に膨大な内部留保が形成されています。一般論としては一定の内部留保は企業にとって必要でしょうが、この過剰さはそうではなく日本の経済・企業・経済政策の病理の結果であり原因ともなっています。
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内部留保は賃金削減分や法人減税分、海外子会社からの利益の蓄積から形成されている。投資は国内の産業・設備投資には向けられていない。内部留保の過剰な蓄積が、国内市場の活力を削ぐ要因となっているのである。内部留保は生産的な投資ではなく、もっぱら金融投資や海外投資に注がれている。 97ページ
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この状況に対して経済政策として実行されたのは、ナント、日銀と年金積立金管理機構による日本株の買い支えです。何ごとにつけ、深層の矛盾を表層の賑わいで糊塗するのが安倍政権の習性というか戦術ですが、その象徴としての「株価連動内閣」の行動様式でしょうか。日本経済と大企業の病理を前に「アベノミクスはその是正どころか、企業の歪んだ財務構造を拡大する方向に進んできたといわざるをえない。アベノミクスの製造大企業依存、金融緩和一辺倒の経済政策が日本経済の起動を狂わせている」(98ページ)と評さざるを得ません。打開策として小栗氏はこう結んでいます。
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日本経済が再生へと向かうためには、日本社会の構造的問題の解決を図りつつ、産業構造の変化に対応していかねばならない。デジタル・エコノミー化の中で何よりもカギを握るのがヒト(人材)の育成である。アベノミクスは非正規雇用や賃金削減に示されるようにヒトへの投資を軽視することで、日本経済の再生を阻んでいる。日銀による金融緩和の大きなツケだけを残す形で、アベノミクスは日本経済に危機をもたらそうとしているのである。 98ページ
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財界・支配層からすれば、自動車・電機といった日本のリーディング産業が苦境にあり、たとえば社会保障財源の応分の負担などといった要求に取り合っている余裕はない、といことでしょう。共産党はそうした財源論などにより「マクロ経済スライドの廃止」を参院選の焦点に押し上げましたが、安倍首相の回答は「馬鹿げた政策」呼ばわりです。保守的な知識人たちからも現実的な政策として評価されているものであっても、支配層の危機感に忠実な首相にとっては悪罵の対象でしかないのでしょう。小栗氏にすれば、自動車・電機を含む従来型製造業の低迷は、日本経済・経済政策・企業行動の歪みがその原因なのだから、状況の改善にとって、そこに切り込むことが前提なのに、アベノミクスはその病理を増長するものでしかない、ということでしょう。
ところで、デジタル・エコノミー化の問題では、GAFAなどのデジタル・プラットフォーマーについて、情報産業研究者の高野嘉史氏はこう述べています(「しんぶん赤旗」7月30日付)。
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これらの企業は、消費者に対して利便性を提供しているのも否定できませんが、他方で独占的な立場を乱用した消費者の利益に反する行動や個人情報の漏えいといった問題を頻発しています。
これらの企業がわが国に物理的な拠点を設けていないことから、有効な規制を課せていないのと同時に、法人税や消費税の課税すら困難であるという実態があります。
しかも、わが国においてGAFAやBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)と称される中国IT企業に対抗できる企業が育っていないことから、デジタル経済の利益が海外に流出しているという大きな問題があります。
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小栗氏・高野氏とも、大企業の問題点については指摘しつつも、デジタル・エコノミー化に対応すること自体は必要な課題として掲げています。グローバリゼーションの最先端で、グローバル資本が熾烈な競争戦を闘うのは当然でしょう。しかし各国政府としては、税収の確保、個人情報の保護、独占的行動などの規制とか、あるいは何が問題になるのかよく知りませんが、デジタル化に伴う様々な社会問題への対応などの課題に積極的に取り組むのは当然としても、産業政策としてその振興策に尽力すべきかどうかは判断の分かれるところでしょう。経済政策は経済成長を自己目的化してはならず、人々の生活の安定が最優先されるべきで、そのために必要な再生産構造・産業構造のあり方に画一的な「正解」はありえないでしょう。最先端産業に乗り遅れないということが、人々の幸せの条件かどうか、各国・各時代に応じた多様性がありえるのではないか、等々を冷静に考えてみるべきです。上に紹介したように、牧良明氏は日本経済の長短についての「大人の考察」を加えながら、産業の全体的バランスの捉え方に言及しています。何だかそういう思考の「余裕」がないと、支配層の危機感(それは資本間競争の外的強制=資本の法則の内的貫徹がもたらす)に巻き込まれるばかりで、人間の主体性が失われそうです。これは素人の牧歌的経済観に過ぎないかもしれませんが…。
断想メモ
およそあらゆる社会現象は諸個人の何らかの行動を介して現われます。だからすべての社会問題は自己責任とされる可能性があります。市場経済が前近代的な共同体を崩壊させて以降、諸個人が自立する中で自己責任を問う条件が出てきました。ただし資本主義的搾取が確立して以降は実質的にはそれは問えないと思いますが…。資本主義市場経済において、自己責任論は形式的には成立しても実質的には成立し得ない。
本来、社会科学はそういう個人と社会の関係を明らかにするものです。しかし新古典派の経済像では、自立した諸個人が行なう市場でのアクションがすべての始まりであり、経済現象はそのブラウン運動の結果として現われるという原子論的世界が描かれています。そこには階級も搾取もなく、諸個人にとっての因果応報の世界です。これは資本主義市場経済の表層をそのまま反映した意識に適合しており、ブルジョア社会のフツーの社会意識であり、要するにこの社会で支配的なブルジョア・イデオロギーです。社会科学の任務はその仮象を通して、個人に対する社会の規定性という本質を暴くことです。
しかしそれはなかなか難しい。ここに小説家がその啓蒙を担ってくれています。平野啓一郎氏の言葉を7月31日付「朝日」夕刊が伝えています。
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小説の傍ら、SNSでニュースや社会問題に反応した日々の発信も行う。「生きるということを考えれば、どうしても社会システムと関わらざるを得ない。だから社会的な発言を行うのも自然なこと」
社会と個人の関係については、「若い人たちを見ていて、自己責任論の行き着く果てを感じる」とも。「社会と自分を切断している。社会は安定していて、自分の状況は自己責任だ、と。そう思わせている構造自体が日本社会の不安定さを何よりも示しているのですが。人間の一生が社会構造に大きく左右されるという理解が不足していることに問題を感じています」
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2019年7月31日
2019年9月号
日本資本主義の長期停滞のマルクス経済学的分析
(1)現状分析について
1)生産過程を捉える
佐藤拓也氏の「〝生産性の低迷〟とは何を意味するのか 日本資本主義の長期停滞」は日本の「生産性の低迷とは何を意味するのかということを鍵に、現代の日本資本主義の長期停滞の要因とその影響を明らかにすることを課題と」しています(102ページ)。それをマルクス経済学の立場から行なうので、現状分析における統計利用のやり方や労働価値論による分析の特質も理論的課題となります。簡単に言えば、アベノミクス批判を含む日本資本主義の現状分析そのものとマルクス経済学的分析方法とが本論文の重要な問題提起であり、是非ともそれは広く検討されるべきだと考え、拙文もそこに参加するものです。
第二次以降の安倍政権は早7年にも迫り、第一次を含めれば、あの佐藤栄作政権をも超える長期統治を実現しています。改憲を最大の課題とするこの政権に対して、戦後民主主義の伝統を引き継ぐ「市民と野党の共闘」は両院で改憲勢力2/3を許しておりましたが、「安倍政権下での改憲には反対」という世論に支えられ、政権の野望を阻止し続け、ついに2019年7月の参院選で改憲勢力2/3を突き崩す成果を挙げました。しかしもちろん安倍首相の改憲への執念はすさまじく、まったく油断はできません。
改憲の野望にとって政権の維持は至上命題であり、その保障の第一は経済の安定の確保です。それを実現しながら、米日支配層の求める新自由主義改革を推し進めるものとして、アベノミクス、「三本の矢」なる売り文句が喧伝されてきました。その内在的検討はここでは措きますが、要するにこの経済政策下で、不安定雇用の拡大・法人減税・社会保障削減・軍拡などが断行され、その当然の帰結として、格差・貧困の拡大と個人消費の低迷を招き社会的閉塞感を蔓延させています。安倍政権期ではそうした人民的危機だけでなく、支配層にも危機感が充溢しています。かつて世界のトップを走っていた電機産業の没落を始めとして、デジタル産業での米中に対する決定的遅れがあるからです。
客観的には安倍政権は内政外交とも行き詰まっており、それをごまかすためにメディアを支配し、いつも目先を変えたスローガンを次から次へと繰り出して、人々が諸矛盾の原因に気づかないように最大限の努力を傾注しています。それに欺かれている人々が多いだろうし、本当のところが分かっていても政治を変えることを諦めてしまっている人々も多いでしょう。しかしそんな中でも、格差・貧困の拡大を、安倍政権のもたらした主要矛盾の一つとして問題視する人々は多い。おそらく彼らは、税制の改革や社会保障の充実を始めとする所得の再分配を経済政策の中心に置くべきだと考えているでしょう。確かにそれは痛みへの即効性ある対症療法として不可欠ですし、それが消費需要の喚起に役立つことも明らかです。
ただしそうした政策に対しては、支配層の側からは、最先端の技術開発など、生産力発展で世界水準から後れを取っている現状への危機感もあり、「そんな捨て金のバラマキをしている場合ではない、日本のグローバル資本を援助して国際競争力を確保せよ」というホンネが聞こえてきそうです(もちろんそのようにあからさまには言わず、「持続的社会保障の確保のため、痛みに耐える必要がある」、などの「良識」的言説がブルジョア・マスコミを支配している)。それに対して答えた上で、人民の側からも、再分配政策だけでなく、支配層へのオルタナティヴとして、生産のあり方そのものを見直すことも提起されるべきでしょう。それでなければ持続的な再分配の源泉を見出して経済を変革することはできません。
金子勝氏は「先進諸国の中でも、日本の賃金指数は飛び抜けて停滞している。つまり、賃下げと雇用破壊はますます内需を細くし、輸出への依存度を高め、ますます円安と雇用破壊・賃下げが進む悪循環を生んでいる」(「新・賃上げ論」、『世界』9月号所収、86ページ)という基本認識を表明して、「最優先に取り組むべき政策は何か。それは最低賃金の引き上げだ。 …中略… 包括的な生活水準を引き上げるには、最低賃金の引き上げだけではなく、同時に住宅と教育の現物給付の充実を図ることである」(89ページ)という処方箋を打ち出しています。分配・再分配政策がまず提起されているのです。ただしそれだけでなくそれを支える産業戦略の必要性が次のように指摘されます。「何より、今は産業と技術の大転換期であり、産業衰退を食い止める産業戦略こそが必須である。それは金融政策や財政政策の『需要』の問題では捉えることができないことをきちんと認識すべきだろう」(89・90ページ)。さらに以下のように具体化されています。
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…略… 電力会社の解体によって脱原発とエネルギー転換、社会福祉の分権化改革を突破口に、地域分散ネットワーク型のシステムを創出していくことである。何より改革を急がなければならない。まずはエネルギー・福祉・食と農業といった領域で、地域の市民・中小企業者・農業者・組合などが経済民主主義の担い手となって、投資や需要を創出するのである。それが、インフラ、建物、耐久消費財へのイノベーションの起点になっていくのだ。 92ページ
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同論文では、先端産業の衰退(86ページ)や国際競争力の持続的低下(89ページ)なども問題視されていることからすれば、この具体策の中にデジタル産業などへの言及がないのはどうなのかとは思います。とはいえこの考え方は、グローバル資本第一の新自由主義政策から転換して、諸個人の生活と労働を起点にして、内需循環型の地域経済・国民経済を作っていくものだという意味では、きわめてまっとうなオルタナティヴです。文明型産業に対比して文化型産業の意義を見直し、中小企業・自営業者などを中心として、グローバリゼーションから相対的に自立した地域内循環型経済の再生を提起している吉田敬一氏の構想とも共鳴する部分があります。
2)「利潤率の傾向的低下の法則」から見た日本資本主義の現状
前掲・佐藤論文は、金子論文のような具体的政策提起よりも、主に原理的次元を扱っています。ただし、金子氏が分配・再分配の問題からさかのぼって産業戦略のあり方に問題の核心を見ているのと同様に、佐藤氏も日本資本主義の長期停滞の原因に関して、消費需要の側面より生産過程を主に考察している、という意味では相照らす内容を含みます。佐藤氏はさらに進んで、そのような生産性低迷という生産力問題の底に、資本主義的生産関係の矛盾を指摘しており、それが本論文の核心部分でしょう。
日本の労働生産性の伸びが低いことに関連して、それを上昇させるために「働き方改革」が必要である、ということが広く喧伝されています(佐藤論文、102ページ)。あたかも労働者の働き方が悪いので生産性が低い、という「印象操作」が行なわれており(というか、本当にそう信じ込んでいるのかもしれないが)、これは事実上、日本の労働者階級への支配層からの攻撃です。佐藤論文の狙いの一つは、それに生産過程の分析という次元から反撃することでしょう。そのことに関連して、わざわざ私(刑部泰伸)のコメントから示唆を得た、と注記されているのは誠に恐縮です(120ページ)。私の議論は――通常、労働生産性と言われているのは付加価値生産性であり、そこでは実現された付加価値が問題とされている以上、直接的生産過程のみならず、流通過程における商品価値の実現問題が含まれるのであり、「低生産性」について、生産過程における労働者だけに責任転嫁するのは筋違いだ――というものです。併せて、吉田敬一氏の議論を参考にして、日本とヨーロッパの地域経済のあり方の違いを念頭に、次のような推定をしています。――グローバル競争に直接さらされて低価格を余儀なくされ、価値流出が目立つ日本の地域経済に対して、ヨーロッパでは内部循環的な地域経済圏が確立しており、そこで一定の価値実現が図られる。それが付加価値生産性における日欧の差の原因ではないか。
この内部循環的な地域経済圏の確立という点では、産業構造ひいては生産過程の問題にも関係してくるとは言えますが、拙文ではあくまで実現問題が中心的観点となっています。なおこれらについては、散漫なものですが、拙文「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」(2007~16年の雑記)があります。ただしここでは、日本の先端産業の立ち遅れについての今日のような危機感がなく、楽観的な感じが残念なところです。
佐藤氏も実現問題にきちんと触れていますが、分析の中心は生産過程にあります。分析方法としては、きわめて正統的にマルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」の現代的適用という手法を採っています。ただしその際に、マルクス経済学にはない「資本生産性」を「資本家的観点から見た場合の最重要概念の一つとして」(105ページ)積極的に活用しているのがユニークです。政府統計を活用するには、マルクス経済学上の利潤率である、M/(C+Ⅴ){価値=剰余価値次元での表現。剰余価値の利潤への転化後ならば、P/(C+Ⅴ)}を使うわけにはいかないし、P/Cでも代用可能なので(その理由は108ページに説明)、P/Cを使用し、以下の2式を中心に分析されます。
P/C(資本利潤率)=N/C(資本生産性)×P/N(資本分配率)
……108ページ、拙文ではA式とする。
N/C(資本生産性)=N/L(労働生産性)/(C/L)(技術的構成)
……109ページ、拙文ではB式とする。
P:利潤 C:機械や設備などの生産手段に投下された資本(*)
N:付加価値 L:労働者数
(*)このCについては、原材料などの労働対象を含まず、
固定資本などの労働手段ではないかと思われる
マクロ経済学の宮川努氏の統計分析によれば、――1)労働生産性が上昇している一方で、資本生産性は1980年代から傾向的に下落しているが、2000年ごろから回復している。2)資本生産性の下落は利潤率の下落を意味する(107ページ)――ということになります。
宮川氏によれば、資本分配率はおおむね一定なので、A式から資本生産性の下落は資本利潤率の下落となります。これは2000年ごろまでの状況に当てはまります。他方、B式から資本生産性は、労働生産性と技術的構成とによって決まり、前者の上昇率より後者の上昇率の方が高いと資本生産性は下落します。これも2000年ごろまでの状況に当てはまります。技術的構成の上昇が労働生産性の上昇につながる関係を含めて、以上をまとめて図式化すると次のようになります。
上昇率:①>② の場合 ①技術的構成の上昇 → ②労働生産性の上昇
→ ③資本生産性の下落 → ④資本利潤率の下落
宮川氏は労働生産性が上昇しているにもかかわらず資本生産性が低下している(それは利潤率の低下につながる)ことが問題だとしましたが、それはマルクス経済学の「利潤率の傾向的低下の法則」に該当し、むしろ当たり前ということになります(109・110ページ)。
ところが2000年以降、投資行動が消極的になり、技術革新が停滞することで、上図の①も②も鈍化し、しかも①の上昇率が②の上昇率を下回るようになるので、A式とB式から以下のようになります。
上昇率:①<② の場合 ①技術的構成の上昇鈍化 → ②労働生産性の上昇鈍化
→ ③資本生産性の上昇 → ④資本利潤率の上昇
ここでは、「利潤率の傾向的低下の法則」の論理はそのまま貫徹されながらも、投資の抑制によって、論理の起点にある「技術的構成の上昇」が鈍化することで、一連の過程が転倒する結果となっています。資本主義的生産力発展への反動が生じている、というべきでしょうか…。『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」では、利潤率の低下を利潤量の増大で補おうとする激烈な資本間競争が活写されていますが、現代では「独占資本として、競争の強制法則の作用を一定程度回避することが可能」(121ページ)なので、投資抑制による利潤率確保を選択できるわけです。いわゆる株主資本主義が、活発な投資戦略によるのでなく、人員削減を始めとする人件費抑制などのコストカットによって利潤増大を推進していることを想起すれば、そのような資本の行動様式の底には、上記のような「利潤率の傾向的低下の法則」の逆行的適用と資本主義的生産力発展の行き詰まりがあると言えます。それは同時に資本主義的生産関係が乗り越えられるべきものであることも示しています。
以上がまさに特に2000年以降、日本資本主義に対して、慢性的経済停滞の下に、一方に大資本の繁栄、他方に格差と貧困の拡大をもたらしたものを、生産過程の変容(投資抑制)から説明する論理です。投資抑制は労働生産性を低迷させるとともに、以下のように、需給両面から経済停滞を招きます。アベノミクスはそれを是正せず、その上で資本利潤率を上昇させ、経済成長を実現させたかのような錯覚を演出しているのです。
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資本蓄積がなければ、資本主義経済は拡大再生産ではなく単純再生産にならざるをえない。不変資本も増大せず、それに伴って雇用も拡大しないならば、マクロ経済全体としては価値生産物も増大せず、経済を成長させにくくする。しかも、資本家による投資の抑制は生産手段への需要を抑制するだけでなく、雇用の伸び悩みを通じて、労働者による消費需要つまり生活手段への需要も停滞させることにつながる。こうして、投資の抑制は、生産力(供給)面と需要面の双方から経済を停滞させる。 113ページ
したがって、2000年頃以降の資本生産性(N/C)の上昇と、それによる史上空前とも言える利潤率の上昇は、アベノミクスによって経済成長が実現してGDP(付加価値N)が増大したために生じたのではなく、むしろNがほとんど増大しない経済停滞の下で、それ以上にCの増大が抑え込まれることでもたらされている(…略…)。 114ページ
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ところでA式によれば、資本分配率を上昇させれば(=労働分配率を低下させれば)、資本利潤率を上昇させられます。2000年以降、労働生産性の伸び悩みの一方で、労働分配率は一貫して低下してきました。しかも同時に実質賃金も低下しています。それは労働者の生活水準の低下を意味します。「こうした実質賃金の低下を伴う労働分配率の低下」(116ページ)によって資本利潤率の上昇が実現していることも重要です。
したがって、2000年以降の利潤率の上昇要因として、佐藤氏の論理の主要部を簡略化した系列①<投資抑制→資本の有機的構成低下→利潤率上昇>とともに<実質賃金の低下→剰余価値率上昇→利潤率上昇>という系列②が挙げられます(117ページ)。労働生産性がある程度上昇している時期には、実質賃金を切り下げなくても、労働分配率を下げる(資本分配率を上げる≒剰余価値率を上げる)ことが可能でしたが、2000年以降のように、労働生産性の上昇が低迷するようになると、実質賃金を切り下げて労働分配率を下げるという形での、あからさまな労働者犠牲の搾取強化が図られるようなりました(116・120・121ページ)。労働生産性が低迷する下で利潤率を上昇させる仕組みを上記の系列②に沿いながら、A式・B式の記号を使って表すと次のようになると思います。
110ページ図2より、労働生産性(N/L)において、Lは労働者数です。ここで、Lの代わりにVを置いたN/Vを考えます。これは賃金に対する付加価値生産性とでもいいましょうか(あるいはいわば人件費基準の労働生産性)、労働分配率の逆数でもあります。本来Vは資本1回転あたりに投下された賃金ですが、統計上の制約からここでは時・日・週・月・年など物理時間当たりの賃金とします。労働者数が増えて、N/Lが下がっても、賃金が下がれば、N/Vは上がります。つまり労働分配率(V/N)は下がります。あるいは、N=M+Vなので、Nが一定でVが下がれば、Mが上がり、M/Vは上がります。剰余価値率が上がり、利潤率の上昇につながります。したがって、系列②によれば、労働生産性の低迷下での利潤率上昇は、N/L(一般的な労働生産性)が下落する下で、N/V(人件費基準の労働生産性)が上昇することから出発します。付加価値一定(それは経済停滞を示す)を前提とすれば、それは労働者数が増えて、賃金が下がる状態を反映しています。これは非正規労働者の増加と賃金全体の抑制を表しており、「90年代終盤以降、雇用形態自体を転換することによって、実質賃金を切り下げている」(117ページ)という佐藤氏の指摘に相当します。
以上のように、日本資本主義において、2000年以降の利潤率上昇は、系列①(投資抑制)と系列②(賃金抑制)によって説明されます。系列②はよく言われることであり、佐藤論文の主眼は系列①にあります。系列②はまさに資本主義的生産関係の問題であり、系列①の方はまずは生産力のあり方の問題なのですが、資本主義的生産関係に規定されていることを見ることも必要です。
系列①は資本主義的生産力発展の行き詰まりの下で、「利潤率の傾向的低下の法則」が逆行的に貫徹されたものです。本来この法則下では、利潤率の低下を利潤量の増加で補う激烈な競争戦が行われるのですが、佐藤氏によれば、現代の独占資本は競争を抑制して投資を控えることで、利潤率の低下を防止しています。それは、資本の経営戦略の選択の一つというより、資本主義発展の絶対的枠に直面していると言えないでしょうか。資本間競争による無限の生産力発展が実現問題によって阻まれているのではないかという問題です。
需要不足には相対性なものと絶対性なものがあります。前者は、資本主義的生産関係による労働者階級の消費抑制ですが、現代ではその他に後者として、経済の成熟による消費抑制があります。後者は「今はモノがあふれているから、心の豊かさの方が大切だ」というような、階級的観点を喪失して貧困問題を隠蔽するような安易な語りに陥ることをきちんと警戒しながらも、それを解決した後になお存在する問題としてあるように思います。今日では、一方では貧困問題はそれとして放置しつつ、他方では絶対的需要不足を見越して、トリビア消費を誘発・喚起して、トリビア生産を創出し、新たな利潤追求の源泉を開発しています。しかしそれはいわば全体から見ればニッチの問題であり、国民経済レベルで強力な資本主義的発展を実現するものとはならないでしょう。普通の人々が誰でもそれなりに豊かな生活を送れるような生産力段階を実現することで、すでに資本主義は人類史的使命を果たし、その生産関係の故に格差・貧困問題を決して解決できない以上、世界史から退場する他ないのです。しかしこれ以上の生産力発展が無意味だということはありません。「もし、資本の自己増殖を至上命題としない生産関係の下であれば、こうした制限なく生産性を上昇させ、人々の生活(余暇)時間を増大させ、真の『働き方改革』を実現することも可能で」す(119ページ)。資本主義的生産関係はその可能性を奪っています。「利潤率の傾向的低下の法則」の貫徹(生産力発展下の利潤率低下)を「克服」して現われた、その現代的適用としての逆行的貫徹(生産力発展停滞下の利潤率上昇)は大資本の繁栄を謳歌しつつ、資本主義的生産関係の反動的性格を見事に露呈していると言えます。
(2)分析方法の諸問題
1)学派の名称
だらだらと冗長な作文を書いていたら、考える時間がなくなってしまいました。その上、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」中止事件が起こり、再開を求める連日のスタンディングなどに何回も参加しております。これは政権とメディアが韓国バッシングによって世論を一色に染めようとする中で発生し、日本社会のファッショ化の画期ともなりかねない事態なので、傍観することが許されないと考え、時間を費やさざるを得ないのです。そういう言い訳をしつつ、遺憾ながら分析方法に関してはいくつかの雑感を順不同で摘記する程度になりそうです。
近年では、「マルクス経済学と近代経済学」という表現は見かけなくなりました。マルクス経済学という言葉は健在ですが、近代経済学という用語は死語になったようです。もちろんそれは近代経済学が滅んだからではなく、マルクス経済学陣営が非常に縮小して、それに対置するブルジョア経済学陣営全体の名称の必要性がなくなった、と一般には思われているからだと思います。そこで、「近代経済学」に代わって「主流派経済学」と称されるようです。しかしその場合、主流派経済学とは新古典派理論を意味し、ケインズ理論は含まないのではありませんか。もしそうであれば、マルクス経済学の本来の立場から言えば、現代のブルジョア俗流経済学を総称する「近代経済学」という用語はいまだ存在理由があるように思います。
「科学的経済学 VS ブルジョア俗流経済学」という対抗観念がなく、様々な流派があちこちにある、という多様性尊重の「民主的」見方であれば、それは無用な用語ですが…。現実的には研究者にとってそういう構えで冷静に理論研究に臨むことは必要なのだろう、と思いますが、素人から見ると、それは根本的には違うだろう、という思いがあります。
2)マルクス経済学と近代経済学との並行的比較
佐藤論文は、現状分析を主要テーマにしながら、現実をはさんで非常にていねいに、マルクス経済学と近代経済学との概念の対応を吟味し、近代経済学の概念で作られている政府統計をマルクス経済学の発想で利用しうる方法を提起しています。そうすることで、マルクス経済学的現状分析での統計の読み方において、無意識のうちに近代経済学的概念に引きずられて分析を誤ることを防げます。たとえば生産性に関する様々な定義を、投下労働量と生産量(使用価値量)という最も基底にあって規定的な関係から出発して、それぞれに位置づけ、目的に応じて活用することを提起しています。この基底からの出発が重要であり、いきなり価格次元から始め、個別経済主体のアトミックな運動=市場競争に諸現象を解消していく俗流的立場では国民経済の質も量も不分明なままです。使用価値と価値との対抗という、価値論の次元から出発し、階級的見方を経ることで、生産力と生産関係の総体を明らかにして始めて国民経済の質と量を解明できます。
近代経済学を学んでいない立場からのテキトーな見方ではありますが、――隣り合う二つの山があって、低い山からは高い山の上方部分は望めないが、高い山からは低い山の全貌が見える――あたかもそのように、歴史的にも構造的にも経済社会の基底から把握することで(比喩としては逆の表現になるが)、マルクス経済学は「高い山」の位置から「低い山」を利用することが可能になるように思います。
3)生産性上昇の表れ方の違い
マルクス経済学と近代経済学との概念を特にていねいに比較してあるのが、労働価値論を基礎に置くか否かによる生産性上昇の表現方法の違いです(105~107ページ)。投下労働量が変わらず生産性が上昇した場合、労働価値論によれば、個別価値が低下し、生産量が増えるので、価値の総量は変わりません。しかし同じ前提で、労働価値論によらなければ、「基準年の価格を用いて表示すると」(106ページ)個別価格は変わらず生産量が増えるので、商品総価格・付加価値総額が増大して現われ、これが経済成長として把握されます。前者に対する後者の違いは、「基準年の価格を用いて表示する」ことにあります。それは具体的には比較年の価格を物価指数で割ることです。それはつまり比較年における物価変動の影響を除去することであり、主に以下三つの要素を複合的に除去します。
(1)インフレ(あるいはデフレ)の影響の除去(*注)
(2)生産性上昇による個別商品の価値低下の除去
(3)商品への需給状況の変化の除去
普通、物価指数で割ることは、単に(1)の通貨価値の変動をなくすことだと思われていますが、実際には(2)と(3)の意味もあります。生産性上昇による商品総価格・付加価値総額の増大という上記の説明は(2)の効果を示しています。実際には個別価値が低下し、総価値は変わらないのに、商品総価格・付加価値総額が増大して表現されるのは、個別価値が基準年水準(生産性上昇下では比較年より高い)に固定されているためです。佐藤氏は、通常看過される(2)に事実上着目し、労働価値論に立つか否かによって生産性上昇の表現が対照的になることを的確に指摘したのです。
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(*注)ここでインフレとデフレとは、物価変動一般ではなく、通貨価値の変動による物価変動を意味します。通常、両者は混同されており、少なくともマルクス経済学における理論的検討では、峻別することが不可欠です。なお拙文「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』86号、2006年5月、所収)ではインフレ率という言葉を通常の物価上昇率という意味ではなく、「単位労働量を表示する不換通貨量の増加率」という意味で使用しています(同文、75ページ)。そこで紹介したように、置塩信雄氏はインフレの三つの定義を示しており(『マルクス経済学 価値と価格の理論』、筑摩書房、1977年、126ページ)、拙文のインフレ率の定義は、その中の一つである、労働量まで下向したインフレの定義を参考にしました。
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4)使用価値次元と価値次元
実は、上記から、労働価値論に一つの不都合が生じます。ジョーン・ロビンソンは次のように労働価値論を根本的に批判しています。
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生産力や、国民所得の成長というのは、財の産出量の流れと理解されている。そこで注目しなければならないものは、まさに、一人一時間当りの物質的産出量の変化である。ところが、価値表示においては、一時間は、あくまでも一時間である。一定の労働時間は、年々、同じ価値しか生産しない。しかし問題はそこにあるのではない。われわれの知りたいのは、一定の労働時間がどれだけの物質を生産しているかということである。
宮崎義一訳『経済学の考え方』、岩波書店、1966年、71ページ
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投下労働・価値次元では、生産性上昇によって、投下労働時間当たりの使用価値生産量が増えることを表現するのが難しいということです。もちろん、「商品単価×生産量」という形で、単価の低下と生産量の増加を表現することは可能です(膨大複雑な現実の国民経済の表現には、それぞれの数値は実数でなく行列で表示することになるのでしょうが)。こうすると使用価値量の増大だけでなく、投下労働量の節約を表現できるという優位性はあります。
以上見て来ると、労働価値論では国民経済を価値次元で見ることになり、労働価値論に立たず、基準年固定価格の政府統計では、それを使用価値次元で見ることになります。後者は経済成長を直接的に表現できます。両者を労働価値論の見地から総合することは可能でしょう。そのようなものとまでは言えませんが、生活の視点から様々な経済指標を以下のように図式化してみました。
図出所:拙文「ゼロ成長の国民所得論 -国民所得と労働価値論 」1999年
その解説 ↓
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生活の論理を左に、それを表現する諸指標の重層的体系を右に図解しました。
本来、大目的は生活であり、その大手段として市場があります。市場では小目的として
モノがあり、小手段としてカネがあります。生活の論理としてはそうなりますが、現実の
資本主義経済では、この目的と手段は逆転し、生活は市場によって規定され、モノはカネ
によって規定されます。価値増殖を発展の推進力とする資本主義経済では、本来、小手段
に過ぎないカネが大目的となります。 前掲拙文より
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分析目的に応じて、諸指標を使い分けることが有効でしょう。
5)生産力発展の捉え方
生産力発展の人類史的意義について、使用価値・価値の二重視点から考えて、図式化すると次のようになります。
*1.使用価値量が増える 生活が豊かになる
*2.労働時間短縮の可能性が生まれる 生活時間に余裕ができ人間的発達保障へ
*1 → 政府統計 使用価値次元…… 生活視点:消費財の質と量
*2 → 労働価値論 価値次元…… 生活視点:労働時間と余暇時間
昨今話題の未来社会論では、労働時間の短縮と自由時間の拡大、必然性の国から自由の国へという文脈が中心的に論じられています。資本主義社会においては、使用価値の充足が中心問題であり、生産力的には優にその段階を実現しつつも、生産関係の制約でそれが万人のものにならない状態が続いています。生産関係の変革で共産主義社会を実現した暁には、生産力発展の成果を労働時間の短縮に向けられるようになります。ここには使用価値次元から価値次元への視点の転換が見られ、歴史貫通的視点を踏まえた労働価値論の射程の広がりが発揮されています。
もちろん資本主義社会においても労働者階級の闘争は労働時間短縮を克ちとっていますが、その厳しさは未だ過労死をなくせないことに象徴されています。資本主義的生産力発展と生産関係との矛盾を労働価値論の視点から労働時間論として展開したのが、マルクスの次の言葉です。「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである」(『資本論草稿集② 1857-58年の経済学草稿 第二分冊』、494ページ)。これは「雇用創造」という意味では資本主義に延命効果をもたらしたのですが、人間の自由拡大を阻害してきたという意味では、まさに人類史的に反動的役割を果たしてきたと思います。社会変革を目指す人々の間でさえ、資本主義の使用価値的繁栄に目を奪われて、その強靭さを称え美化する傾向が強いことに私としては大いに反発し、価値論の視点から、もはやとっくの昔に旧体制と成り果てた資本主義に人類史からの退場を迫る意義を強調したいと思います。
6)「利潤率の傾向的低落の法則」と労働価値論
佐藤論文は労働だけが価値を生み出すという労働価値論に立っているので、マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」を引き継ぎ、その応用として、<労働生産性の上昇→資本生産性の下落→資本利潤率の下落>という論理図式を採用できますが、たとえば固定資本が、あるいは科学技術が、GAFAなどデジタル資本のプラットフォームが価値を生み出す、というのならばそれは成立しません。もちろん佐藤論文において、資本生産性・労働生産性・技術的構成・利潤率などの統計上の関係をよく説明できるということは、労働価値論の正当性についての有力な状況証拠の一つと言えます。そうはいっても価値論そのものの議論は続くということは念頭に置きつつ、スマイル・カーブ現象を労働価値論の立場からどう考えるかということは重要な考察課題です。
プラットフォームなどが価値を生み出すのでなければ、何らかの形で価値の移転(収奪)が起こっています。そのあり方によっては、(「利潤率の傾向的低下の法則」に抵抗する)利潤率上昇の原因とならないか、ということが問題です。直接的生産過程の中核の現業部門(中流)で創出された価値が、設計とマーケティングなど(上・下流)に流出するということで、単なる総過程の内部での価値移転ならば、資本全体として利潤率は上昇しません。しかしグローバリゼーション下の底辺への競争を背景に、現業部門の労働者への搾取が強化されるならば、剰余価値率の上昇を通じて利潤率上昇に帰結する可能性はあります。もっとも、底辺への競争による搾取強化はデジタル資本などでのスマイル・カーブ現象に限ったことではないのですが、そこでの上・下流の権力強化が中流からの収奪を強め、それゆえ中流での搾取強化を一層激しくすることで、当該個別資本全体での利潤率を上昇させるかもしれません。それがあたかもプラットフォームなどが価値を生み出すという外観を生じさせる可能性があります。
以上、論文への感想なのか、自分の思いつきの雑念的記述なのか、不分明になってしまいましたが、とりあえず拙速にでも書いて、後の検討(があり得るならば)に委ねるものを残しました。妄言多罪。
2019年8月31日
2019年10月号
新版『資本論』の問題点
不破哲三氏の連載第6回「マルクス 弁証法の進化を探る 『資本論』と諸草稿から」は「利潤率の傾向的低下の法則」について以下のように言及しています。
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ですから、マルクスが生前に公表した文章のなかには、利潤率の低下の法則について述べた文章は、一つもありませんでした。マルクスの死後、エンゲルスが、『資本論』第三部の旧稿を編集発行したときに、マルクスが1864年の時点でそういう見解をもっていたことが、はじめて明らかになり、それとともに、利潤率の低下法則に資本主義的生産様式の「必然的没落」の根拠とする見地(マルクスが1865年冒頭に克服し放棄した見地)が、『資本論』の正当な構成部分と位置づけられることになったのでした。これは、マルクスの経済学の継承のうえで、一つの不幸な出来事でした。 135ページ
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不破氏によれば、マルクスは1865年に「流通過程の短縮」を発見し、それによって「恐慌の運動論」が完成することで、経済理論上の大転換を果たし、それが一挙に恐慌革命論の克服にまで至りました。逆に言えば、マルクスは1865年の大転換以前には恐慌革命論に基づく誤った認識をもっており、たとえば現行『資本論』第3部第3篇はそれに当たるので、第13章は良いとしても、第14・15章は『資本論』から削除すべきだ、ということになります(同氏「『資本論』全三部を歴史的に読む(第6回)」、『経済』2017年10月号所収)。現行『資本論』にまだそれが残っていることが「一つの不幸な出来事」だということで、それを明示するのが、おそらく新版『資本論』の画期的特徴の一つとされているのでしょう。
不破氏の「1865年大転換説」に基づく『資本論』第3部第3篇の解釈――「第14・15章不要論」――に対しては、拙文「『経済』2017年10月号の感想」で批判しました。そこでは、(1)「第14・15章不要論」の根拠として挙げられている、1868年4月30日のマルクスのエンゲルス宛手紙における叙述は何らその根拠にならないこと、(2)第15章の課題は「資本主義的生産における利潤率の特別な意義を明らかにし、それによって資本主義的生産様式の(絶対的ではない)歴史的性格を確定すること」であり、そこに「利潤率の傾向的低下が恐慌の必然性の根拠となって、資本主義的生産様式の必然的没落に導くことを証明しようとする当時のマルクスの意図」を読み取ることは相当に無理であること、を指摘しました。マルクスの手紙や『資本論』に対するこうした不破氏の読み間違いは、「第14・15章不要論」の誤り、ひいては「1865年大転換説」の疑わしさを示唆するものです。
本号において不破氏は次のように書いています。
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資本構成の変動の結果、何が起こるか。2年前の旧稿では、利潤率の低下が危機を加速するはずだという思い込みがあって、資本構成がこんなに変動しているのに、危機の起こり方が遅いとされ、利潤率の低下を妨害する要因――「反対に作用する諸要因」の探究に特別の一章をあてたりしたものでした。 132ページ
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しかし第3部第3篇を素直に読めば、マルクスはそんなことは思い込んでおらず、「当時のマルクスはそう思い込んでいるはずだ」と不破氏が思い込んでいるだけのことです。「利潤率の傾向的低下の法則」を解明するのに、まず第13章「この法則そのもの」で法則の本筋部分を明らかにし、続く第14章「反対に作用する諸原因」で「この下落の相対的緩慢さということを理解する」(新日本新書版『資本論』第9分冊、408ページ)ための補足を施すことで、両章が相まって法則の全体像が解明されるという、ごく自然な論建てになっています。マルクスは「この法則は傾向として作用するだけであり、その作用は、一定の事情のもとでのみ、また長期間の経過中にのみ、はっきりと現われてくる」(同前)と言明しており、「危機の加速」という、この法則を体制崩壊につなげるような捉え方はしていません。
以上のように、マルクスの手紙や『資本論』そのものをきちんと読むと、不破氏の一連の研究の土台である「1865年大転換説」の妥当性が疑われ、そういう思い込みがマルクスや『資本論』の実像把握の妨げになるのではないか、と思われます。マルクスが恐慌革命論を克服して、労働者の変革主体形成論へと転換していった、という道筋は大きくは妥当でしょうが、それが1865年の経済理論の大転換によって一挙に実現したというのはかなり疑わしいと言わねばなりません。そういう説を採用することで、たとえば現行『資本論』第3部第3篇のようなそれ以前の著作の内容を不当に批判して、その真価を見落とす結果となっています。
もちろん不破氏は諸草稿を読み込むことで自説を展開しているのだから、その本格的な検討は諸草稿の研究によらねばなりません。しかし私の持てる能力と時間ではそれは無理です。何しろ、本年の本誌8月号の感想で『1857・58年草稿』における労働価値論の扱いを考えるのに、図書館で問題箇所の30ページばかりをコピーして、ひと月近くかかって何とか読んでやっと一文を書いたという体たらくですから。それでも『資本論』を読むだけでも、「1865年大転換説」への十分な疑義が生じるのですから、その道の専門家にぜひ奮起してもらって真相の究明に挑んでほしいと思います。今まさに恐慌論やプラン問題などでの膨大な研究蓄積が何のためにあるのかが問われています。
そもそも『資本論』の一部を再編成し、新しい注解をつけるという新版の発行に際して、その中心的コンセプトを、必ずしも定説になっていない一研究者の見解に依存するということがあっていいものでしょうか。単に研究論文を発表するのではなく、人類の共有財産である『資本論』そのものに手を入れて発行するのですから、しかるべき学会での検討を経て、ある程度の共通理解を得る努力の上で始めてそれはなされるべきでしょう。新版『資本論』の刊行方針は明らかにそのような学問の本来のあり方に反しています。『資本論』の日本語訳は長い歴史と誇るべき伝統を刻んでいます。私は一人の素人学習者に過ぎないのではなはだ僭越ではありますが、わが国のマルクス経済学界の名誉のため、新版『資本論』の編集コンセプトに対しては非常に危惧してします。
前掲不破論文は、『資本論』第1部第7篇「資本の蓄積過程」の最後から二つ目の第24章「いわゆる本源的蓄積」の最終に位置する第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」を取り上げています。それが、資本主義的生産様式の「必然的没落」の「新しい理解」(135ページ)あるいは「新たな定式」(136ページ)として、「資本主義的生産の発展と没落の弁証法」の「見事な到達点」(138ページ)であることが強調されています。もちろんそれに異存はありませんが、以下の有名なテーゼにある「個人的所有の再建」の解釈については検討の余地があります。不破論文の中心的な論旨からは外れますが、原始共同体から共産主義社会までも射程に入れた所有論として考えてみるべき課題がそこにあります。それは資本主義社会の変革の先に追求すべき社会主義社会像にも影響を与えます。
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資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する。
新日本新書版『資本論』第4分冊、1306ページ
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不破氏は個人的所有が再建された未来社会について、「生産手段はすべての人間の共同所有になり、生活手段は各人の個人的所有となります」(137ページ)と捉えています。これは「社会的であると同時に個人的でもあるというもうろう世界」というデューリングの非難に対するエンゲルスの回答を継承しており、いわば通説ですがこれまで異説も提起されてきました。
マルクスは第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」の冒頭で、「資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的な創生記とは、結局どういうことなのか? それは奴隷および農奴の賃労働者への直接的転化、したがって単なる形態変換でない限り、直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私的所有の解消を意味するにすぎない」(同前、1303ページ)と述べています。つまり資本の本源的蓄積とは、奴隷制ないし封建制から資本制への搾取形態の転換ではなく、自己労働に基づく私的所有の解消を意味するのです。
次いでマルクスは「労働者が自分の生産手段を私的に所有していることが小経営の基礎であり、 …中略… 確かに、この生産様式は、奴隷制、農奴制、およびその他の隷属的諸関係の内部でもまた実存する」が、「労働者が自分の使用する労働諸条件の自由な私的所有者である場合」に「その全活力を発揮し、適合した古典的形態をとる」(同前)としています。したがって、資本の本源的蓄積論が扱う歴史的射程は、単に封建制から資本制への移行だけではなく、以前の各時代に様々な形態で存在してきた自己労働に基づく所有が一掃されるということに及びます。さらに敢えて言います。「自己労働に基づく私的所有の解消」と言明されていることからすれば、いささか勇み足ではありますが、資本の本源的蓄積では、前近代の共同体的諸関係も一掃されることを考慮すると、原始共同体以来の労働主体と客体的労働諸条件の本源的統一(それは商品生産における小経営の私的所有にも貫かれる)が破壊されるというように、人類史的パースペクティヴの中にそれを位置づけることが可能です。
だからマルクスの「個人的所有の再建」テーゼにおける「否定の否定」は、封建的(ないし奴隷制的)所有を否定した資本主義的所有がまた否定される、という図式ではなく、自己労働に基づく私的所有(ここではもちろん社会的所有は措かれているが)を否定した資本主義的所有がまた否定されるという図式になっています。したがってそれは、搾取形態の移行としての<封建的搾取→資本主義的搾取→共産主義的非搾取>ではなく、<自己労働に基づく個人的私的所有→搾取に基づく非所有→労働する個人たちの社会的所有(個人的社会的所有)>として理解されます。「個人的社会的所有」などというと、デューリング流の非難をまた受けそうですが、それは後で説明します。
以上のように、人類史的パースペクティヴで生産のあり方<労働主体と客体的労働諸条件の本源的統一から分離へ、そして再統一へ>を見て来ると、「個人的所有の再建」が単に消費手段の問題ではなく、生産手段の問題としても捉えられるべきように思われます。「否定の否定」は初めに否定されたものが二度目の否定によって高次元で復活するということです。始めに否定された「自己労働に基づく個人的私的所有」では、当然のことながら消費手段だけでなく生産手段も所有されています。だから高次元で再建される個人的所有においても、そこには生産手段も含まれると考えるべきでしょう。消費手段だけでは、「個人的所有の再建」が生産のあり方を含まないことになり、生産手段の社会的所有における個人の位置づけが欠落します。それは個人の尊厳を欠いた形式的な社会的所有(社会的所有の空洞化)としてスターリン型社会に通じることになります。
「個人的所有の再建」テーゼをきちんと理解するには、まず私的所有(privat
Eigenthum)、個人的所有(individuelle Eigenthum)の区別をはっきりさせる必要があります。私にそれを教えてくれたのは、福島裕之氏の『本源的所有の解体と再生―資本論に社会発展の論理を読む―』(三省堂オンデマンド、2018年)です。『資本論』第1部第24章第7節への上記の解釈もそれを参考にしています。その拙さはあくまで私の責任ですが…。
「個人的所有の再建」テーゼから二語を並べると問題点がよく分かります。
○資本主義的な私的所有
○個人的な私的所有
二語に共通な「私的所有」は「社会的所有」の対立概念であり、ここに一つの所有規定があります。次いで「資本主義的」と「個人的」という対立概念ももう一つの所有規定をなしています。このように、私的所有が二つに分かれるし、所有規定そのものも二重になります。それらを福島氏は以下のように明晰に整理しています。
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ここでは所有は、「資本主義的」または「個人的」という規定と「私的」という規定との二重の規定を受けている。前者は所有主体が非労働者(資本主義的等々)であるか労働者(個人的)であるかに対応した規定である。後者の「私的」所有とは資本論で述べられているように商品交換という歴史的に特定された分業形態における商品交換主体としての所有を意味している。
商品交換は人類社会の唯一の分業形態ではなく、歴史的に限定された分業形態である。それ以前には共同体的分業が存在し、さらに将来には社会的協働的分業が存在しうる。従って所有の二重の規定は、一方は所有主体が労働者であるか非労働者であるか、非労働者であればどのような剰余取得形態に基づいているかを示す規定であり、他方はその所有がどのような分業形態に基づく所有であるかを示している。 前掲書、9ページ
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個人的私的所有などというと、「個人的」と「私的」という似たような言葉が重複して「所有」を修飾しているように見えますが、福島氏によればそこにははっきりとした区別があります。個人的所有とは労働者個人が生産手段を所有することで、自己労働に基づく所有を実現している状態を指します。それに対して、労働者個人が生産手段を所有せず、剰余労働を搾取される場合には、たとえば資本主義的所有といった搾取形態を示す言葉が付きます。私的所有とは、簡単に言えば市場経済における所有を現わし、過去にせよ未来にせよ、何らかの共同体における所有は社会的所有と呼ばれます。
したがって『資本論』の理論体系に即せば、「私的所有VS社会的所有」は商品=貨幣関係次元に対応し、「個人的所有VS資本主義的(奴隷制的・封建制的等々…)所有」は資本=賃労働関係次元に対応することになります。一般的に言えば、前者は社会的分業形態のあり方による対抗概念であり、後者は剰余取得形態による対抗概念と言えます。私流の俗な言い方では、前者はヨコの生産関係に、後者はタテの生産関係に属します。
小経営の基礎としての個人的私的所有は、商品生産という場を背景に、労働主体と客体的労働諸条件とが結合し、自己労働に基づく所有を実現しており、市場経済における本源的所有の展開形態です。それに対して、未来社会での個人的社会的所有は、社会的協働分業による一種の共同体経済において生産手段の共有を実現し(社会的所有)、剰余取得形態としては搾取をなくしています(個人的所有)。これは未来の共同体における本源的所有の展開形態です。
福島氏の所説を参考に私なりにまとめたのが下表です。表化に伴って簡略化・不正確化が免れないでしょうから、若干の注解をします。Aは主に未来社会をイメージしていますが、原始共同体もその低次形態として含まれます。もちろんそこではまだ個人が未確立なのでずいぶんと低次ではありますが…。ソ連・東欧などの20世紀社会主義体制は、Aを目指したけれども、Bの「高次」形態に転落したと捉えられるかもしれません。労働者にとっては、生活物資の不足とともに生産過程においても主人公になれなかったという意味で、消費手段・生産手段ともに個人的所有を実現できないような形骸化した「社会的所有」の社会であったと言えるかもしれません。Cは様々な時代の様々な部面に現れる小経営であり、新自由主義グローバリゼーションの今日にあっても、ささやかながら本源的所有の一つの展開形態として生き残っており、社会主義的変革の過程でも一定の役割を果たすことが期待されます。
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個人的所有 (労働者所有) |
非個人的所有 (非労働者所有) |
社会的所有(共同体的分業) |
A.個人的社会的所有 |
B.奴隷制・封建制など |
私的所有(商品交換的分業) |
C.個人的私的所有 |
D.資本主義的私的所有 |
以下、福島氏による人類史の包括的展開を紹介します(前掲書、10ページ)。
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マルクスの場合、個人は抽象的非歴史的個人ではなく、社会を構成しつつ労働を通じて自然との物質代謝活動を行う具体的な歴史的個人である。その活動の前提としての客体的労働諸条件すなわち大地は、最初は共同体的所有として現われる。この共同体の中で次第に個別性を強めて個人が歴史的に成立してゆくのであり、そのようなものとして生成した個人的所有が、やがて商品交換分業関係の浸透と共に私的所有の性格を帯びるが、そこでも労働主体と客体的労働諸条件の本源的統一は貫かれている。
資本主義、すなわち資本―賃労働関係は、このような労働主体と客体的労働諸条件の結合の剥離解体すなわち本源的蓄積を前提とする、労働力の商品化を通じて成立する。従って、「資本論」の「否定の否定」の理論は、まさに労働主体と客体的労働諸条件の本源的統一すなわち本源的所有の、解体と再生の物語に他ならない。人類の社会は、労働する者の所有と、それが生産する剰余を取得する非労働者、すなわち貴族、領主等々の所有との対立を軸として発展してきた。本源的所有の解体を通じて生まれた資本主義は、やがて自らの矛盾を通じて、非労働者所有の最終的廃止と、連帯して労働する個人たちの本源的所有回復の展望をもたらす。
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このように人類史を本源的所有の解体と再生として総括する福島氏は、私的所有の二形態の区別――個人的私的所有と資本主義的私的所有――を強調し、マルクス死後、この区別があいまいにされ、社会主義運動が私的所有一般の廃絶を目指したことに重大な誤りがあると考えています。確かに、個人的私的所有の積極的意義を認めないソ連社会主義体制などが個人の尊厳を損なって全体主義化して崩壊したことは、それと無関係ではないでしょう。福島氏は個人的所有の歴史貫通的意義を次のように力説しています。「『労働する個人の所有』としての『個人的所有』は共同体的分業でも、商品交換分業でも、社会的協働的分業でも姿を変えつつ存在するのであ」り(同前、178ページ)、「労働と所有の本源的統一が労働する個人たちの所有として、共同体のなかで成長し自立して、労働する個人たちの発展とともに一時的な解体と再建を経つつも、歴史貫通的に発展してゆくものである」(同前、178・179ページ)。
世界史における社会主義
以上のように、福島氏は「本源的所有の解体と再生」の観点により、資本主義的私的所有と区別しながら、個人的私的所有の積極的意義を強調し、私的所有一般を敵視する社会主義(理論・運動・体制)を批判しています。それを頭の片隅に置いて社会主義について考えてみたいと思います。
今日、発達した資本主義諸国の経済的・政治的覇権は以前よりはかなり揺らいでいます。しかしグローバル資本を中心とする資本主義体制はなお世界で支配的な力を持っています。この資本主義の人類史的生き残りについて、それを当然視するのか、そうでないかは重要な問題です。
本来は、第一次世界大戦・ロシア革命によって世界史の資本主義段階は終わり、資本主義から社会主義への移行期となるはずであり、それがはっきり見えないとしても、潜在的には現代はそういう時代だと捉えることが体制認識において必要ではないかと思います。帝国主義世界戦争という人類史的災厄を引き起こした以上、資本主義は歴史の舞台から消えるべきであり、生産力的にも、全人類が十分に食べていけるだけの水準を実現した以上、世界史的役割はもはや果たした、というべきでしょう。
その後、資本主義体制が実際にやったのは、核兵器の開発と使用に代表される軍事化と戦争の継続、公害・地球レベルでの環境破壊、過労死に至るものも含む過酷労働の推進などでした。しかし残念ながら人類史選択として実現したのは資本主義的発展であり、社会主義的発展は実現しませんでした。その要因の一つとして、たとえば今日あるネット社会に代表される便利さを挙げることができるかもしれません。それは利潤追求を目的とする激烈な資本間競争によってしか実現しえなかったかもしれません。のんびりと人間的にやっていたらどうだったか、ということです。しかし確かに一度手に入れた便利さは手放せないのですが、もともと知らなければ問題ありません。消費者としての便利さの追求と労働者としての人間らしい働き方とのトレードオフの関係がここにあります。
私は便利さの追求を含む生産力発展や経済成長そのものに反対しているのではありません。それらを人間社会のコントロール下に置くことを主張しています。人間の生活と労働のあり方・バランスが第一であり、生産力発展や経済成長はそれに従属すべきものです。ところがそうはいかないのが、資本主義的生産力発展の本質です。マルクスはこう言っています。「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである」(大谷禎之介他訳『マルクス 資本論草稿集② 1857-58年の経済学草稿 第二分冊』所収、大月書店、1993年、494ページ)。
資本主義は消費者として無制限に便利さを追求するのには適した経済体制ですが、その裏で、労働者としては労働時間が延長され、生活のゆとりを失います。消費者としての利便性を適当に制御して「自由に処分できる時間」を確保するためには、根本的には社会主義的変革によらねばなりません。生活と労働のあり方としてどちらを選ぶかは人類の選択の問題であり、そこで変革への意識的選択をしなければ、惰性に任せていれば、旧体制としての資本主義が「自然」として残ります。
ここで「悪貨が良貨を駆逐する」という問題があります。ギャングと善男・善女が喧嘩すればギャングが勝つように、あるいは低賃金国が高賃金国との競争では勝つように、ディーセントな生活のあり方という基準からすれば悪い資本主義体制が良い社会主義体制に経済競争で勝つということになります。世界に先駆けて民主主義的・社会主義的変革を進める国が(社会進歩の観点からすれば遅れた)新自由主義諸国の包囲網の中で経済的に負けて挫折するのはありうることです。だから国と国(社会と社会)との競争ではなく、グローバルな独占資本と人民との対決に持ち込まなければなりません。19世紀のグローバリゼーションをヴィヴィッドに描いた『共産党宣言』が世界革命を掲げたように、新自由主義グローバリゼーションに対して、世界人民の連帯で民主的規制を実現させねばなりません。
かつてロシア革命では、続く西欧での社会主義革命が期待されましたが失敗し、一国社会主義の歴史的実験へ突入しました。最終的にはソ連の崩壊でこの実験の失敗は確定していますが、だからと言って、そもそも遅れた社会で社会主義革命をやったのは間違い、という主張には与しえません。一国社会主義の困難さという問題がまずありますが、もう一つ重要な論点として、福島氏の先述の観点が参照されるべきでしょう。個人的私的所有の重要さを見逃して、資本主義的私的所有とまとめて私的所有一般を敵視し、社会主義経済というものを、市場の機能を活かさない過度に中央集権的な指令経済にしてしまったという問題があります。
ロシア革命では、当初、戦時共産主義として、戦時国家独占資本主義を転用した統制経済を実施し、これがその後の「計画経済」のイメージの歪みにつながっているのでしょう。レーニンは戦時共産主義の失敗からネップへ転換し、市場を通じての社会主義への道に踏み出しました。この方向が実現していけば、人権や民主主義を尊重しながら進む社会主義の道があり得たかもしれません。福島氏がその意味を明らかにした、マルクスの「個人的所有の再建」テーゼに沿って、一方で個人的私的所有の意義を尊重した社会主義像を掲げながら、他方で個人的社会的所有を実質化できるような生産手段の社会化を伴う社会主義経済の実現を目指す道があり得たかもしれません。もちろん実際には理念だけで社会主義経済の建設ができるわけではないし、過去に向かって実現しなかったオルタナティヴを語ってもむなしいとは言えます。ただそれを夢想に終わらせずに、これからに活かしていくならば意味があるでしょう。そういう意味で、現代の運動に寄せた福島氏の以下の論述は重要です。
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現在、現実の運動の中では、将来の新しい社会において農民経営や小生産者、中小企業にも積極的な役割を求め、また大企業についても巨大資本の自己増殖の場から社会的分業の一分肢として社会的責任を果たす存在への転換を求める考え方が現れている。そのような新しい社会像は従来の私的所有一般の廃止と国有化をもって社会主義とする考え方とはおよそ異なるものである。かつて一時期の社会主義論の根底にあったマルクスの所有論への不正確な理解に対して、真のマルクスの理論像を明確にすることは、新自由主義と戦い新しい社会を理論化するに当たって不可欠の課題となっている。
福島前掲書、6ページ
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マルクス主義者の中でなお生産力主義的偏向があり、一部には「農民経営や小生産者、中小企業」の存在意義を認めない向きさえあり、そうでなくても、多数者の支持を得るという、社会変革の運動の必要上、認めると言うだけの消極的理解もあるでしょう。どちらでもなく、マルクスによる二つの私的所有の区別の見地に立って、個人的私的所有の積極的意義を承認し、そうした小経営が今日、大資本と闘い生き残り、将来社会においても積極的役割を果たす方向を見定めることが、今日の闘いにも将来社会の展望にも極めて重要な意義を持っています。
「表現の不自由展・その後」中止事件
8月1日に始まった「あいちトリエンナーレ2019」の企画展の一つである「表現の不自由展・その後」が、脅迫・テロ予告を含む妨害を理由として、大会実行委員会の大村会長(愛知県知事)と津田大介芸術監督(ジャーナリスト)によって8月3日に中止されました。その背景には安倍政権・大阪維新・河村名古屋市長などの歴史修正主義勢力による事実上の権力的弾圧があります。国と名古屋市は補助金を出さないという暴挙に出ています。幸いにして9月30日時点では、企画展実行委員会と芸術祭(トリエンナーレ)実行委員会との和解によって再開される方向となっています。
政権とメディアの扇動で韓国バッシングが世論を席巻する中で、この事件が起こったことを私は重視し、たとえば戦前の天皇機関説事件のように、ファッショ化と戦争に向かう一里塚のようになる危険性を感じ、会場の愛知芸術文化センター前で毎日行われているスタンディングにできるだけ参加してきました。街頭演説も行なったので、それを基にしてでも若干の考察を書こうかと思ったのですが、時間切れとなりました。できれば来月に書きます。
もう昨年に還暦を過ぎたので、これからは静かにクールに勉強にでも励みたいと常々思っているのですが、頭に血が上るような事件が発生し、ヒートアップして落ち着かず、時間も消耗して怒り心頭です。
2019年9月30日
2019年11月号
日本資本主義の病理の総合診断
2019年10月から消費税率10%への引き上げが強行されました。2014年に5%から8%へ引き上げて以降、人々の所得が伸び悩んでいることも併せて、個人消費の低迷がずっと続き、世界経済を見てもトランプ米大統領の暴走であちこち経済摩擦が生じ、先行き不透明感が蔓延しています。したがって今回は、過去の税率引き上げ時や引き上げを見送ったどのときよりも悪い経済情勢における増税であり、全く無謀としか言いようがありません。しかも消費増税のいつもの言い訳である社会保障の充実どころか、「全世代型社会保障改革」(いかにも安倍政権の常套句らしい、ゴマカシの命名にはいつもながらウンザリする)という名の社会保障削減計画とセットであり、今後いっそう人々の生活を直撃することは間違いありません。
したがって、生活苦を増し個人消費を抑制する大衆増税ではなく、担税能力のある大企業・富裕層から税金を取り、社会保障を充実することで、所得再分配を強化する、という道が需要面から日本経済を活性化することにつながります。これはもう言い古された当たり前のことであり、その実現には、大企業本位でそういう意思を持たない安倍政権を打倒し、野党連合政権を実現するしかありません。日本経済にとってそれが喫緊の課題です。
特集「岐路に立つ日本資本主義」はそういった認識は前提としているでしょうが、日本資本主義をより多面的に分析し、経済再生に向けた政策構想の提示にまで及んでいます。俗に言えば、サプライサイドの問題として自動車産業、技術、労働力を論じたのが、小阪隆秀氏の「自動車産業の『CASE』をめぐる競争と支配」、藤田実氏の「日本の長期停滞と技術革新」、伍賀一道氏の「『労働力不足』と外国人労働者問題の岐路」の三論文ということになります。
小阪論文によれば、日本経済をずっとリードしてきた自動車産業は100年に一度という変革の途上にあります。紹介されている「環境規制」「自動運転」「コネクテッドカ―」「シェアリング」などをめぐる最先端の技術競争と主導権争いは実に目を見張るものがあります。トヨタのような一見盤石の企業をも含めて、日本の自動車産業が過去の成功に囚われておれば、電機産業のように新しいビジネスモデルを見失う危険性があります。それは自動車産業に留まらない、広い産業領域に当てはまる問題として次のようにまとめられています。
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過去に日本のエレクトロニクス企業は、技術力によってではなく、新しく生まれてきたビジネスモデルの持つ効率性のもとに敗北してきた、という苦い経験を持っている。今また同じような状況が、自動車産業のみならずさらに広い産業領域にかかわって、新しいビジネスモデルの形成をめぐる競争が展開されつつある。これは、リスクなのか、チャンスなのか、日本の技術力や構想力が問われている局面であろう。そして、それにともない問われていることは、人材への長期にわたる投資と教育の必要性である。
51ページ
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藤田論文によれば、技術革新は「消費需要や投資需要を大きく喚起」し、「中長期的に経済活動を活発化させ、経済成長に寄与する」のだから、その裏返しで「日本の長期停滞は技術革新の停滞によってもたらされていると考えることができ」ます(52ページ)。そこで、まず「日本における技術革新の停滞の諸相」が様々に概観されています(56~59ページ)。次いで「停滞の要因」として、「重層下請け構造とスタートアップ企業の少なさ」と「研究開発における博士号取得者の少なさ」が指摘されています(59~62ページ)。その上で、「これらの問題は20年以上前から問題視されてきたものであるが、未だ解決されていないことを考えると、日本の技術革新と経済成長の停滞は、今後もより深刻な形で現れて来るものと考えられる」(62ページ)と厳しく結論づけられています。
毎年、自然科学系のノーベル賞の日本人受賞者について喧伝されますが、科学技術の人類的発展を啓蒙するのでなく、単にナショナリズムの扇動に利用されるような報道ばかりが目立ちます。それとともに、授賞理由は何十年も前の業績によるものだということを考え合わせれば、ノーベル賞騒ぎは、結果的に、日本の科学技術の今日の深刻な状況から目をそらす現実逃避の自慰的行為だと言わねばなりません。多くの受賞者が、たとえば基礎科学の重要性とそれが軽視されている現実に警鐘を鳴らしているにもかかわらず、それが一向に活かされていません。
「朝日」10月28日付の記者解説「後退する基礎研究」では、ノーベル賞において2001年以降の自然科学3賞の受賞者数がアメリカに次いで日本が多いことを紹介しています。しかしそれは「昭和の遺産」に過ぎず、論文数・博士号取得者数などの近年の指標では、日本の基礎研究の地盤沈下が明らかなのを指摘しています。その原因として、政府の政策の誤り――大学の予算難や目先の目標を達成するための企業的手法による競争政策などによって基礎研究の創造性が阻害されている――を強調しています。その上で、自由な研究を推進することの正当性を以下のように論じています。
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日本の国家予算は「借金」の返済と社会保障費が6割を占める。科学技術や教育、公共事業の予算額の割合は、平成の30年間横ばいのままだ。国の成長を考えれば将来への投資は必要だ。しかし、社会保障費を削ってでも「好奇心の赴くままの自由な研究」にお金を回す価値が本当にあるのか、疑問に思うかもしれない。
個々の基礎研究は「賭け」のようなものだ。だが国全体でみると、基礎研究力と経済力には相関がある。大学経営に詳しい鈴鹿医療科学大学の豊田長康学長によると、OECD(経済協力開発機構)の人口当たりの統計では、論文数とGDP(国内総生産)は比例する。GDPとイノベーション力の指標もおおむね比例する。基礎研究力、イノベーション力、GDPには、相互に押し上げ合う関係があると推定できる。
…中略…
そして、イノベーションの成果は市場を通じて普及する。日本が「百に一つのリターン」という大きなインパクトを得るには、いたずらに競争を促すのではなく、現場を信頼し、豊かな好奇心の「苗床」を作る施策が求められる。
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予算についての見方には、いかにもブルジョア・ジャーナリズムらしい誤りがあるし(社会保障を削る必要はない!)、基礎研究力の測り方にももっと的確な方法がないのか、とは思います。しかし「基礎研究力と経済力との相関」をそれなりに明らかにすることで、それに反して、経済力にふさわしい基礎研究への投資を怠った国策の誤りによって、近年の日本の研究力と経済力とが同時沈下している様相をある程度説明しています。財界などの支配層は経済的支配力によってこの国の政治に君臨しています。彼らの立場から来る一面的見方によって、基礎研究を軽視し、大学に企業経営の手法を持ち込むのでなく、学問の論理としての現場の自由な研究を尊重することが必要です。それによって始めて、研究力と経済力との同時的発展という当たり前の常識が実現するのでしょう。研究現場にも企業経営的競争手法が有効だ、とにかくコスト削減だ、という間違った尊大な思い込みを是正すべきです。
伍賀論文では、今日の労働力不足について様々な要因を考察しながらも、「労働力使い捨て社会」という問題を最も重視しているようです。安倍政権が有効求人倍率の高さなどを自慢しているのに対して、伍賀氏は「今日の『労働力不足』はアベノミクスの成果などではなく、『雇用の劣化と働き方の貧困』のシグナルと捉えるべきである」(87ページ)と厳しく指摘しています。ただでさえ人口減(それも失政の結果だが)なのに、日本の就業構造の中で比重が高い「多様な低賃金・非正規労働者が多数就労する消費サービス関連産業・職業」(92ページ)において劣悪な労働条件故に求職者が不足し、「労働者はよりマシな仕事を求めて頻繁に移動を繰り返している」(93ページ)状況で有効求人倍率が高くなっています。
この「雇用の劣化と働き方の貧困」を放置して、外国人労働者の導入によって労働力不足の「解決」を図ることは、外国人技能実習生の悲惨な実態からも明らかなように、日本人の労働条件をもますます劣化させることにつながります。劣悪な労働条件を改善し、求職者を増やして職場に定着させることが求められます。
その他に特集「岐路に立つ日本資本主義」では、国と地方の財政について鶴田廣巳氏の「国と地方の財政赤字1100兆円 税と財政をどうする」、金融と財政について山田博文氏の「迫る財政金融破綻と資本の強蓄積 アベノミクスの到達点」が論じています。
消費税増税、社会保障削減、富裕層・大企業の税負担軽減などというおなじみの現象、つまり、相対的には、国民一般や中小企業にとって負担が重く給付が低くなり、富裕層や大企業にとって負担が軽く給付が手厚くなるという現実があります。鶴田論文は通俗的な没階級的財政観を批判し、「財政活動は国家や地方自治体という権力機構の経済活動である」という観点から、そういった現実を「権力機構の階級性からくる必然の傾向」(86ページ)として捉えています。また、消費税による「分かち合い社会」を説く論者をその観点から批判しています。
論文は戦後日本財政を概観し、「社会保障費が財政危機の最大の原因であるかの言説」(78ページ)については、社会保障は財政の本来の役割であり、それを果たせなくなるような政府の失政こそ批判されるべきだと断じています。財政赤字1100兆円に対して、一方で危機を強調して消費税増税などを煽る財務省などの論調を、他方で危機を軽視して財政赤字の拡大を問題視しないMMT(現代貨幣理論)を、いずれも極端な主張として両面批判しています。後者に関しては、「わが国において膨大な長期債の累積にもかかわらず、インフレや長期金利の上昇が生じていない」(79ページ)諸要因を考察しつつ、それらが徐々に変わりつつあることを指摘して、先行きへの「懸念」を表明しています。これに関しては、日本共産党が「消費税減税・廃止を求める、新たなたたかいをよびかけます」(10月1日)という政策提言において、財源に触れる中で、「なお日本共産党は、赤字国債の乱発と日本銀行による直接引き受けなど、野放図な借金を消費税減税などの財源にすることには賛同できません」と明言していることが注目されます。
鶴田論文は経済の再建と財政再建を両立させるため、「地方分権と内発的発展、維持可能な社会の実現という基本理念に基づいて体系的な経済政策を構想することが求められている」として「その骨格」(81ページ)を以下の項目に関して提示しています。
(1)再生可能エネルギー導入による地域のエネルギー自治の確立
地域の内発的発展・維持可能な社会の実現・地域分散型社会システムの実現
(2)先端技術に対する国家戦略の策定
日本経済の衰退・空洞化を食い止め、産業基盤強化
(3)分権型社会実現のため財源と権限を大幅に地方に移譲
地域における福祉優先型経済モデルに基づく地域包括ケアの充実
医療・介護の持つ生産・所得・消費創出効果による地域経済の内発的発展
(4)労働法制の規制緩和ストップ
雇用条件・雇用環境・労働法制の抜本的改善
(5)科学研究・基礎研究の充実・発展を図るために科学技術予算の充実
大学・研究機関の研究者を大幅拡充 家計の教育負担の大幅軽減
これは、大企業を中心とする先端技術の問題から、中小企業などを中心とする地域経済の内発的発展、生活と労働の改善などにまでわたる総合的な提言として重要だと思います。
鶴田論文が財政の階級性の基本認識を示しているように、山田論文は「安倍政権下の財政と金融を動員した資本の強蓄積を検討し」(64ページ)ています。たとえば、アベノミクスの「2%の物価上昇」という看板に隠された本来の目標について「異次元金融緩和を継続することで、実体経済が必要とする以上の過大なインフレマネーを供給し、株式や国債の官製バブルと大幅な円安を主導し、大資本に巨額の利益を実現してやり、また長期金利をゼロ近傍に張りつけて、企業の金利負担や政府の国債利払い費を軽減し、財政破綻を先送りする、などなどにあった」(65ページ)と指摘されます。こういった政策は、円安による輸入品価格の高騰が人々の生活苦を招き、それなどが福祉削減や大衆増税とあいまって、消費抑制による不況圧力となります。それだけでなく、「異次元金融緩和政策下の国債ビジネスは、日銀が損失を抱えながら民間大手金融機関に国債売却益を提供してきた。だが、増大する日銀の損失は日銀信用を毀損し、『円』暴落・物価高・金融破綻のリスク」を高めています(72・73ページ)。さらに、政府債務残高が「GDPの2倍超の1103兆円にまで増大」(73ページ)する中でも、異次元金融緩和政策下の超低金利によって国債利払い費が抑制されていますが、いわゆる出口政策に転換して金利が上昇すれば、国債費は現在の歳出額の2割超から4割近くに跳ね上がり、財政破綻を招きます。
現代資本主義の病理の本質
(1)金融化論の視点を提起する背景
以上のように、鶴田論文と山田論文はともに、人民を犠牲にして支配層の利益を図る政策が財政金融破綻に導くことを指摘しています。それは直接的には、日本資本主義におけるアベノミクスの弊害を示しています。しかしそれだけでなく、その破綻が金融化された現代資本主義下で起きること、そして金融化が資本主義の本質の現代的顕現であることにも注目すべきです。つまりこの国で今生きる人々の苦難と経済危機について考える際に、資本主義の本性にまでさかのぼることが必要です。そこにマルクス経済学と労働価値論のラディカルさ(根源性)が発揮されます。地に足付けた人々の健全な生活と労働が再生産を支える、という本源的な経済の共同(協働)的あり方(市場経済の基底においてもそれは貫徹されなければならないのだが)が、支配者(搾取者)と被支配者(被搾取者)とに分裂し、生産力発展をリードしていた支配者の寄生性・腐朽性の深化によって経済活動の空洞化と腐敗が進み、社会的危機にまで至る、というプロセスの焦点に金融化があるように思います。
その意味では、特集「岐路に立つ日本資本主義」外になりますが、高田太久吉氏の〔研究〕「現代資本主義をどう捉えるか 経済の金融化論の視点から」が非常に参考になります。この論文は、金融化に代表される現代資本主義の転倒性と病理現象を入り口に、それを資本主義の原理までさかのぼって解明しており、誠に壮大で根源的であり、繰り返し読み込むことを要求する内容となっているので、要約ノートを作りました。以下では、私の能力と時間の関係で、論文の提起する論点の一部にだけ言及します。
科学的社会主義・マルクス経済学の立場に立たない知識人の中からも、資本主義の終焉を唱える声がしばしば聞こえるのが昨今の状況です。それは、格差と貧困の拡大、経済のカジノ化、環境問題、異常な低金利…等々資本主義の病理がなせる業への深い危惧が一定の知識層の中に浸透している状況の反映でしょう。ただしそれを表明する人々の中で、混沌とした現象を前に悲観論やニヒリズム、反生産力主義などに陥り、あるいは文明論に問題を一般化して、打開の展望を見出せない場合が多いのではないかと思います。そこには20世紀社会主義体制の失敗を「教訓」として、生産関係や経済体制そのものに問題の本質を見ることを無意味とする観点あるいは諦念があるように思います。たとえば「社会主義によって解決されるというようなナイーヴな考えは無力だから、資本主義は確かに問題だが、体制としてのそれをマルクス経済学的に分析しても無意味」という気分です。
そこで、資本主義の科学的分析こそが現代経済と社会の病理を理論的に解明できる方途であることを示すことが必要となります。したがってまず現代資本主義の病理の極めて重要な原因であり、非常に顕著に現われている金融化という現象(それは立場の如何を問わず注目されている)に内在し、それが生じさせるものを解明し、さらにその本質を、その根源にある資本主義そのものの矛盾から説き起こすことが求められます。
換言すれば、ブルジョア的・プチブルジョア的な様々な悲観的・退嬰的な危機論に対して、労働者階級の立場からの資本主義体制の危機の本質論と克服の展望を考察するため、様々な立場から注目されている諸現象を列挙し、その本質を剔抉することが課題として挙げられます。高田論文が提出される背景はそんなところにあるように思います。
(2)金融化と現代資本主義の性格規定
論文は、戦後資本主義の転換期として1970年代を摘出しています。71年の「金・ドル交換停止」により、国際通貨システムが一大転換し、ブレトンウッズ体制が崩壊し、その後のオイルショックによって、国際通貨制度がさらに不安定化し、国際経済におけるマクロ不均衡が拡大し、60年代以降に活発化していた「ユーロダラー市場」が急膨張することを指摘しています。これがその後の世界資本主義のカジノ化・金融化の直接的な起点と言えるでしょう。この一大転換の基底的要因に1950・60年代の資本主義の高度成長による世界的な「資本の過剰蓄積」を置いているのも重要であり、実体経済の停滞による貨幣資本の過剰が金融化の源泉になることが指摘されています。
論文では後の行論上、金融化の潜在的原点が「労働生産物の商品化」つまり商品生産そのものから説き起こされています。商品生産における価値法則の役割は資本間競争で形成される生産価格に引き継がれ、さらに独占資本形成による市場支配は価値法則の社会的調整機能を媒介的・不透明にします。そうした資本主義の歴史的発展の中で、労働生産物以外(土地や証券など)の多様・膨大な商品市場が発展します。利子生み資本は証券化されて架空資本に発展し、架空資本化によって「資本の商品化」が完成します(119・120ページ)。これは、商品生産において労働生産物の使用価値が交換価値の単なる担い手になる(使用価値の生産が目的でなく手段となる転倒性に注目)ところから発して、資本の「架空化」の歴史的プロセス(118ページ)をたどる叙述です。
金融化はまずは金融市場の膨張として現れますが、それはかつての預金・貸出市場ではなく、架空資本の種類・市場価格・取引高が急速に増大する市場です(113・114ページ)。論文は金融化の視点で展開するに当たり、まず金融化現象から出発し、金融化に至る過程とその本質論は後に説明される構成となっているようです。先述のように、論文の冒頭では、架空資本の形成から金融化現象を現出させる現代資本主義の本質的特徴として、戦後の高度経済成長期に生じた資本の過剰蓄積と、それを基底とする「金・ドル交換停止」による国際通貨システムの一大転換が指摘されます。
そうした金融化の直接的起点としての1970年代の前に、20世紀初めに独占資本主義化が帝国主義列強の対立を生み、やがて帝国主義世界戦争(第一次世界大戦)を勃発させ(1914年)、その過程でロシア革命(1917年)によって「社会主義をめざす政権」が誕生し、人類史が資本主義から社会主義への移行の時代に入ったことが重要ではないかと思います。その際に、資本主義側の対抗として、もはや恐慌の自由な発現を許すわけにはいかず、恐慌をインフレで買い取るため、兌換制から不換制へ、金本位制から管理通貨制へと、資本主義経済の基底にある商品=貨幣関係の人為的管理に至り、以後インフレマネーの取り扱いがいつも焦点となります。さらに、ブロック経済化が第二次大戦の一つの原因となったことを踏まえ、大戦後、各国の不換制によっても世界資本主義を成立させるために、いわば国際金本位制の擬制としてIMF固定為替レート制を中心とするブレトンウッズ体制が発足し、管理通貨制度の国際的編成が実現します。これは基軸通貨ドル体制であり、第二次大戦後も常にどこかで戦争を続けるアメリカ帝国主義主導の軍需インフレ蓄積が、先進資本主義諸国の高度経済成長の一つの重要な要因となります(たとえば日本資本主義にとっての朝鮮戦争とベトナム戦争)。ここにもすでに搾取制度としての資本主義の寄生性・腐朽性が現れています(高度成長期は、その破綻後の新自由主義期よりはましな時代として今日的にはもっぱら顧みられますが、そこにも寄生性・腐朽性は貫き、現在の「資本の架空化」に連なっていることが忘れられてはならない)。そして1971年、「金・ドル交換停止」により、ブレトンウッズ体制が崩壊し、高田論文の冒頭部分に接続します。以上はいわば金融化前史に属することでしょうが、商品経済化から出発して、資本の「架空化」の歴史的プロセスをたどる中に挿入することが適当ではないかと思われます。
(3)新自由主義の本質
高田論文で非常に強く共感したのは、新自由主義を「市場原理主義」ではなく「企業原理主義」だと断じている点です。論文は新自由主義の政府が市場介入を繰り返していることを指摘した後、現代資本主義におけるその本質を次のように剔抉しています。
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要するに、現代資本主義の運行は、好むと好まざるにかかわらず、政府・金融当局の介入と企業支援、大規模で構造的な景気浮揚策によってかろうじて維持されているのであり、「市場原理主義」が意味するように、経済の運行を文字通り市場原理(価格競争)に委ねれば、遅かれ早かれ市場自体が深刻な機能不全に陥り、再生産過程の破滅的混乱によって、資本主義自体が立ちいかなくなるのは明らかである。現代資本主義には、大恐慌やリーマンショック級の経済危機が発生した場合、政府の力を借りずに自力で克服する自動調節機能は内蔵されていない。その意味で、現代資本主義の存続基盤は政府によって防御されており、こうした政府の役割に国民の多くが厳しい不信の目をむける政治的危機に対して、現代資本主義は非常に脆弱と言わなければならない。近年、欧米諸国に広がる財界保守派と結びついた排外的で右翼的な「ポピュリズム」の傾向は、このような現代資本主義の政治的脆弱性の表れとして捉えることが妥当である。
このように考えてくると、新自由主義が決して単なる「市場原理主義」ではないことが明確になる。新自由主義の最大の特徴は、企業の営利活動の障害を取り除き、その権益を擁護・増進するために、政府の介入・規制と市場機能(競争原理)を、時と場所に応じて便宜的に使い分ける機会主義である。したがって、新自由主義の特徴付けとしては、イデオロギー的市場信仰の印象を与える「市場原理主義」よりも、企業の利益と権益を公共の利益や国民経済に優先する、「企業原理主義」がよりふさわしいと言えるであろう。
112・113ページ
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まずそもそも現代資本主義は政府の介入なしには成り立たない、と指摘されているのが肝要です。その上で、企業の権益の擁護・増進のために、政府の介入と市場原理とを時と場所に応じて使い分けているのが新自由主義の実態なのだから、その本質は「市場原理主義」ではなく「企業原理主義」であるという断定は説得力があります。
もっとも、搾取を否定するブルジョア経済学においては、資本主義経済は市場経済の次元でしか捉えられないので、利潤最大化のためのあらゆる方策は市場原理そのものの実践であり、「イデオロギー的市場信仰」とは矛盾しないと捉えられるのかもしれません。したがって、新自由主義の本質規定は「企業原理主義」(私見ではかねがねより「資本原理主義」と称してきた)であるとともに、新自由主義推進派の自己認識としては「市場原理主義」であり、それはブルジョア・イデオロギー(虚偽意識という意味での「イデオロギー」)における市場崇拝として、スミスなどの(科学的な)古典派経済学から今日の俗流経済学に至るまで貫徹していると思われます(こんな言い方はイデオロギー的勇み足だろうか)。
(4)経済の本源的あり方と架空化
論文は、金融化現象として、「金融市場と金融産業の膨張」「経済成長を上回る金融取引と金融資産の増大」「金融的利得と金融的富の増大及び集中」「IT化と連動した金融イノヴェーションの加速」などを挙げています。それだけでなく、企業経営、家計の経済行動、財政・金融政策、経済学、経営学、社会学を始めとする社会科学の教理と教育、人々のイデオロギーや価値観の領域まで、したがって、世論と政治にまで強く影響することを指摘しています(113ページ)。次いで金融化を主導する「株主価値重視の経営」に触れた後に、金融化の本質を「架空資本市場依存型資本主義」として以下のように描きます。
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以上から引き出される結論は、現代資本主義のもとでは、金融産業だけではなく、企業経営、家計の経済活動、さらに政府の財政・金融政策が、金融市場とりわけさまざまな架空資本市場の動向に左右される度合いが極度に高まっているということである。言い換えれば、金融産業、企業財務、家計、財政、さらには国民のセーフティネット(年金・保険他)が、つまり、企業・家計・政府の所得と富が、総じて経済活動全体が架空資本市場に依存し、その動向によって規定される傾向が強まっているということである。これが「経済の金融化」の意味するところである。 116ページ
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この「架空資本市場依存型資本主義」は「現代資本主義のもとでは、社会の富は『膨大な架空資本の集合』として現れ、個々の架空資本は、その『要素形態』として現れる(117ページ)」と規定されます。これ、明らかに、資本主義社会の富を「商品の巨大な集まり」と規定した『資本論』第一部冒頭のパロディです。もちろん笑っている場合ではなく、金融化による重大な変質として、資本主義を規定し直さなければならない、という事態なのでしょう。そして架空資本に依存する資本主義の不安定性は甚大なものがあります。
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いずれにしても、現代資本主義が依存している架空資本市場は、企業経営者はもとより、政府・金融当局の理性的な政策によっても制御できない不透明かつ重大な不安定性を内包しており、それがいついかなる金融危機として発現するかは予測困難である。そして架空資本市場に、いったん深刻な混乱や機能不全が生じて価格が暴落すれば、金融機関、投資家、企業、家計を含め、国民経済全体が甚大な影響を免れない。その際、架空資本暴落の直接的な影響は、企業収益や家計所得の減少だけではなく、社会全体の「富」の甚大な喪失として発現する。 116ページ
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これは、金融化された資本主義経済の下では、前記の鶴田論文・山田論文が問題とする、GDPの2倍超に上る政府債務残高の抱えるリスクが増長される、ということも意味しています。そこで金融不安定性が増長される具体的メカニズムは次のように描かれます。
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これらの機関投資家は、通常大手投資銀行や専門的な資産管理業者と連携し、運用資金の利回りを確保するために、保有株式(ポートフォリオ)の入れ替えを頻繁かつ大規模に行う。また、公的年金や企業年金を運用する機関投資家は、運用資金の相当部分を、ヘッジファンドを始めとする投機組織に預託している。現代ファイナンス論を応用した、大同小異のコンピュータプログラムで資金運用する機関投資家の市況判断はおおむね同調的である。このため、機関投資家が主導する株式市場では、株価はいったん均衡から外れると、きわめて大きな振幅で変動し、金融不安定性が極度に高まる。
114ページ
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ところで、これは、マルクスの経済学批判プランないし恐慌論の体系性からすれば、「資本一般」の論理次元よりも具体的な固有の「競争論」の次元に属する叙述であり、資本間競争における一方的殺到が不均衡を助長するさまが描かれ、金融化された資本主義における恐慌=産業循環論の一つの具体化と言えましょう。こうして「資本一般」で恐慌の本質論が確定されているのを前提に、「競争」の論理次元で産業循環の具体的メカニズムが解明されます。マルクス恐慌論の広大な体系性の意義がここに見られ、それを『資本論』体系の中だけに押し込むことを戒めるものです。
閑話休題。以上のような金融化の矛盾を資本主義の矛盾の中に置くと次のようになります。――資本主義では、人類社会と文明の存続・発展の根源である人間労働が、貨幣価値増殖の手段として資本に従属し、階級的搾取の対象にされる不合理があります。そこでは、人類社会の存続基盤(富と文明)が、架空の「富」(貨幣)の自己増殖運動によって規定されるという意味では、目的と手段とが完全に転倒しており、そこには社会的富の現実性と架空性との倒置が見られます(122ページ)。資本主義が本来的に持つこの転倒性は金融化でさらに次のように「発展」します。
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資本主義の金融化(架空資本依存型資本主義に向かう傾向)によって、この転倒性と矛盾はかつてなく顕著に発現する。ここでは、労働生産物の商品化に代わって、貨幣資本の商品化が優勢になる。経済活動の重点が産業から金融にシフトし、労働と雇用が実体経済から遊離して貨幣の自己増殖運動に包摂され、架空的「富」の組成・販売活動に変質する。この結果、架空資本の形態での金融的「富」の法外な集中と格差が広がり、金融市場のカジノ化(貨幣資本の投機的資本化)が進行する。こうして、本質的に不透明・不安定な架空資本に依存した経済社会の運行は、頻発する金融恐慌、バブル崩壊、国際通貨危機によってかく乱される。 122ページ
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論文はさらに金融化の様々な病理現象を列挙しています。――企業が「モノ作り」から離れ、営業利益より資産収益を重視し、株価最優先で自社株買い・M&Aに利益の大半を投入し、雇用創出・社会貢献から離反します。財政・金融政策は国民的課題を放棄して、通貨価値の維持に必要な規律を喪失し、株価暴落を食い止め、暴落した場合、評価損を引き受ける「最後の買い手」に変質します。等々――(122ページ)
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近年の金融化にともなってますます顕著になっているこれらの病理的な諸現象は、資本の活動と賃労働が、社会的有用性・必要性から乖離し、貨幣=交換価値、要するに架空の「富」の自己増殖運動に従属・埋没し、人類史的基準からは「没」価値化していることの証明である。 123ページ
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つまり私たちが常日頃、苦々しく接している社会問題の多くはまさに金融化による病理現象であり、その根源を探れば、そこには上記のような資本の本質的な転倒性があり、金融化は「資本の『架空化』の歴史的プロセスの延長線上で、生まれるべくして生まれた倒錯的現象として理解することができ」ます(118ページ)。
ところで、金融化の転倒性・架空化といえども無制限に発現するわけではなく、実体経済の制約を受けざるを得ません。その側面について、小西一雄氏が次のように展開しています。
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金融取引が繰り返され、金融市場に流入する貨幣資本(moneyed
capital)が増大することに対応して銀行の預金残高の回転数が高まり、帳簿上の金融資産が増大したのである。それらの金融資産はまさしく貨幣請求権の堆積であり、「架空」なものである。だから金融取引が萎縮し、貨幣資本の流入がストップすれば、それはたちまち「架空」であったことが露わになる。しかし、金融資産の価格が右肩上がりで上昇している時期には換金性は確実であり、実体的富の再分配の果実にありつけたのである。
ここで重要なのは、貨幣資本の蓄積(金融資産の蓄積)は現実資本の蓄積(実体経済における蓄積)を超えて進むということ、そうしたことが可能であるのは貨幣資本の蓄積は貨幣「請求権の蓄積」であって価値物の蓄積ではないということである。これもまた『資本論』の重要な見地である。 (下線は小西氏)
…中略…
産業資本の儲けであろうが金融収益という儲けであろうが,儲けは儲けであると理解する主流派経済学では「金融化」現象は資本主義の発展、新たな収益機会の増大と映る。しかしマルクス経済学では「金融化」現象は資本主義の成熟と行き詰まりの現れと理解される。それは現実資本の蓄積の停滞であり、金融収益は所得再配分に過ぎないからである。もちろん資本主義の歴史において、金融は現実資本の蓄積を促進する重要な役割を担ってきた。しかし今日の金融取引の増大は行き場を失ったが、moneyed capitalとして動きまわるほかはないという事態の反映である。
だがインカムゲインの世界は実体経済の動向を離れることはできない。経済が停滞しているのに利子や配当が一方的に増大するなどということはありえない。しかし、キャピタルゲインの世界は、moneyed capitalが流入し続けるかぎりでは収益機会が増大する。そして魅力的ではないインカムゲインの世界をキャピタルゲインの狙える魅力的な金融商品に変容させる技法こそ、証券化の技法やデリバティブによって生み出される仕組債などの証券流通の世界なのである。
…中略…
このことにもみるように、現実資本の蓄積の停滞が続く現代資本主義で、「金融化」の進展は不可避である。しかしそれは、実体経済と連動するインカムゲインの世界の制約を逃れることはできず、その周期的崩壊もまた不可避である。
「マルクスの利子生み資本論と『金融化』現象」(『経済科学通信』
2019.1 No.147 所収) 52ページ
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上記の下線部分は貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積を超えて進むことができる理由を説明しており、それは架空資本の架空性と現実性の両面を表しています。最後の「周期的崩壊」は、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積を凌駕して進む過程で、いつしか貨幣資本の流入が途絶えて金融恐慌が勃発することを言うのでしょう。リーマンショックが一例でしょうが、この金融恐慌と過剰生産恐慌との関係がどうなっているのかは、貨幣資本と現実資本との関係の一側面と言えるでしょう。現実資本に対する貨幣資本の相対的自立性と、貨幣資本に対する現実資本の究極的規定性とはそれぞれどういう仕組みになっているのか。これだけの叙述ではその辺のことは分からないのですが、いずれにせよ貨幣資本と現実資本、金融と実体経済の関係を「資本主義の成熟と行き詰まり、現実資本の蓄積の停滞」という事実の上に把握すべきであり、間違っても「金融立国」的な、金融化を新しい儲け口などとするような表層的な理解に陥ってはいけないことだけは確かです。
再び閑話休題。百花繚乱の現代の経済問題を、金融化の病理という切り口で理解できる部分が多いことを高田論文は示しています。金融化の病理は資本主義がもともと持っている転倒性の今日的展開形態であることも的確に説明されています。問題は、資本主義市場経済の中で生まれ育った人々にとっては、それが唯一の経済のあり方であり、その病理は「自然」として理解されているということです。そこから離れて、病理に染まらず、転倒し倒立した状態を正立に戻す、本源的な経済のあり方を想定できるかが、現代資本主義下に生きる人々の課題です。現代資本主義を歴史的に相対化する視点を持ち、「現実」を絶対化せずに、オルタナティヴを提起できるかが問われます。そこには疎外されていない生活と労働から出発する歴史貫通的視点が必要となります。
論文はそこに(資本と矛盾する)文明という視点を提起するとともに、福祉国家を過渡的要因として重視しています。文明と両立する福祉社会を目指して、人々はまず福祉国家において資本を規制し、その政治的・社会的運動を徹底していきます。そうする中で、資本主義の枠内にある福祉国家を超えて進む様々な客観的条件を模索するうちに変革主体として自らを形成し、資本主義を克服していきます。――それは社会進歩のルートの内の一つの提起だろうと思います。人々が疎外された生活と労働を日々経験する中で、それを宿命と諦める(それが普通である)のでなく、現状を直視し変革を望むためには、資本主義的「自然」「現実」を相対化しうる視点……現実は病的で転倒し倒立しており、本来は正立しているべきだ……を分かりやすく提起することが大切です。
断想メモ
☆消費税
庶民いじめの罪だけでなく、内外の経済先行き不透明の状況下での天下の愚策・消費増税は政府も実質的には何とも言い訳できません。しかし珍奇な弁護論が出てきました。原真人氏の「多事奏論 価格を科学する 消費税コミコミの新発想」(10月9日付「朝日」)によれば、消費税も価格の一要素に過ぎません。確かに我々もそれは主張してきました。しかしそれは消費税の価格転嫁力が事業者の大小で異なるということを言うためであり、中小企業や中小業者が転嫁できずに身銭を切る状況を告発していたのです。
原氏の場合は、法人増税を避ける言い訳のために持ち出し、次のように言います。「実は消費税だって事業者がまとめて税務署に納める一種の法人税だ。仮に消費税廃止で生じる財源の穴をすべて法人税増税で埋めたとしても、理屈の上では全事業者が納める税総額は変わらない。/事業者が払うあらゆる税は最終的に何らかの形で消費者に転嫁される。消費者だけが得をする、ということにはならない」。……法人増税したら価格に転嫁されるぞ、というわけです。
しかし法人税は法人所得に課せられます。赤字法人は払いません。担税力を見極めた上での課税です。だから納税した法人税分を価格に転嫁して取り戻すなどというのはまったく不当です。日本経済の焦点の一つは大企業が内部留保を貯めるばかりで活用しないところにあるのですが、「法人税転嫁論」はその利潤第一次主義をますます後押しするものであり、日本経済の活力を削いでいる歪んだ分配構造を助長するものです。大企業がその市場支配力を使って法人税分を価格転嫁したらブーイングの嵐でしょう。消費税が価格の一要素に過ぎないというのは実態としてはそうであり、弱い事業者の苦境を言うためにそれを指摘するのは当然ですが、法人増税を防ぐために言うとは、まさに弱きを挫いて強きを助ける支配層エリートの見苦しい詭弁です。
消費税のタテマエは消費者が負担し事業者は納めるだけで負担しない、ということです。消費税は消費者全員が「公平に」負担するのだ(もちろん本当は消費税はまったく不公平だ)、という消費税肯定論はここから来ています。実態がそうなっておらず、弱い事業者に不利だということは、消費税に反対する一つの理由になっています。しかしその実態を法人税にまで不当に拡張して、どんな税であれ、価格転嫁できるというのは暴論です。消費税を支持するためにタテマエを言い、法人増税を防ぐために実態を利用する。これは税制のタテマエと実態をご都合主義的に使い分ける屁理屈であり、その真意は、庶民増税と法人減税を擁護することです。もっとも、原氏がこの記事でタテマエの方を言っているわけではありません。しかし支配層エリートの言説全体として見るなら、そういう屁理屈だということです。
消費税も価格の一要素に過ぎない、ということを一般化すれば、どんな価格であれ消費税は後から決まることになります。原氏の言う「消費税後決め方式」です。価格転嫁力の強い者も弱い者も一緒くたにして、そうすれば「消費税率の変更をあまり意識しなくてすむらしい」などと涼しい顔で言うのは、庶民(消費者・中小業者など)を苦しめる悪税攻勢の現実をそのままに、解釈によって善政に転化できるという観念論の立場です。この記事に「価格を科学する」という見出しをつけるというのは、いかにもブルジョア俗流経済学の弁護論が階級支配のための非科学であることを象徴しています。
☆貧困専業主婦
<(インタビュー)「貧困専業主婦」のワナ 労働政策研究・研修機構主任研究員、周燕飛さん>という記事が「朝日」10月10日付に載っています。
「子育てのため選択 でも教育費が不足 子どもに貧困連鎖」という見出しがあります。貧困専業主婦の4人に1人が「不本意型」ですが、残りは自主的な「選択型」であり、大きな不満を持っていません。しかし客観的に見ると、子どもの健康状態が低いとか、虐待の割合が多い、貧困専業主婦はうつ傾向が強いなどの問題があり、教育投資が不十分で貧困が連鎖する、といったことを周氏は指摘しています。その上でこうした「意識と現実のズレをなくすために、軽い政策誘導が必要だと思います」として、保育園の整備など、女性が働く方向を推奨しています。
それに対して「声」欄(投書欄)に4人の主婦が反発を寄せています。幸福感を語ったり、自分の状況では専業主婦が合理的選択であると言ったりして、生き方への指図を非難しています。周氏と3人の主婦に共通しているのは、政治や社会のあり方への批判がなく、現状を所与としてどう懸命に生きるかという議論に終始していることです。残りの1人の主婦は貧困の連鎖は主婦の責任ではなく国の責任だとして、主婦の自己責任論を批判しています。ここに問題のカギがります。それだけでなく、今日の男女の働き方と家庭責任のあり方の問題を当事者の自己責任ではなく社会問題とする視点が必要だと思います。
もう一つ気になるのは、周氏は政治変革に言及していない点が問題ですが、ともかく貧困専業主婦の客観的状況をそれなりに明らかにして、生活改善の必要性に言及しているのに対して、主婦たちが自分の生き方と実感に固執して反発していることです。懸命に生きることの尊さとそこでの矜持は最大限尊重されねばならないけれども、生活は社会のあり方によって、よりよく変えられるという思いが欠落しているところでは、自己責任による保守主義に陥ります。そして有用な知見をはなから受け付けず、自分の実感にこもるという姿勢は反知性主義に通じます。「朝日」に投書する程の主婦であれば反知性主義というわけではないでしょうが、今の日本にはびこる歪んだナショナリズム・歴史修正主義はそうした反知性主義から発生しているのでは、と思います。
社会と個人の関係について、一人ひとりの暮らし方・働き方、及びそこに生じる実感を尊重しながら、その外的条件にまで思いをはせることが大切です。変えられるのだ、と。「朝日」紙上でのこの議論の交流に即して言えば、ひどい労働条件は当たり前ではなく、それを前提に就労を諦めるべきではない、ということが不可欠の論点だと思います。社会認識とは、何よりも、オルタナティヴがあり得るということを前提にした眼前の社会への批判的認識であるはずです。
☆表現の自由
「表現の不自由展・その後」中止事件について、それなりに総合的に書こうかと思いましたが時間がないので断念します。概要については、文化書房ホームページ上に「表現の不自由展・その後」の再開を求める街頭演説として掲載しました。
今回の事件に対して、憲法上の「表現の自由」を直接的に適用するのは難しいと言われています。そこでいろいろな議論があるわけで、たとえば志田陽子氏の「《芸術の空間》と共存社会」(『世界』10月号所収)は、慎重に複雑に思索を巡らしており、何とも要約しがたいのですが、端緒的なことを言えば、「憲法二一条の『表現の自由』は、一般人が自発的に(経済的には自前で)行う表現について、国家や自治体などの『公』からの干渉を受けない権利のことを指している」(158ページ)とまず指摘しています。しかし憲法には、「あいちトリエンナーレ」のような文化支援を積極的に行なうことを国に命じる規定はない(159ページ)とか、公共の文化事業において行政が「金を出しても口は出さない」と言われる原則は、憲法上確立した「権利」というわけではない(同前)とも指摘されています。その上で、今回の事件に即して考察されるのですが、簡単なものではありません。
そこで、やはり志田氏による「(ひもとく)検閲 主権者の『知る権利』塞ぐ介入」という10月26日付「朝日」記事から引用します。
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日本国憲法21条2項によって禁止される検閲は、最高裁判例によると、表現の思想的内容について、公表前(事前)に行政権によって網羅的に行われる審査、とされている(84年12月判決)。この定義は実際に起きたことに比べて、あまりに狭い。辻田真佐憲『空気の検閲 大日本帝国の表現規制』(光文社新書)などを見れば、戦前・戦中も、新聞社や出版社の自己検閲と忖度(そんたく)、つまり「空気」が大きな力を持ったことがわかる。こうした総合的な「検閲」概念を、憲法21条2項の解釈に取り込んでいくのか、あるいは「萎縮効果」のような別の観点からとらえて理論化していくのかは、今後、議論が成熟してくるだろう。
■警鐘鳴らす必要
「表現の不自由展・その後」は再開され、「あいちトリエンナーレ」は終了したが、文化庁はこれに対する補助金を交付しないと決定している。自治体が行う芸術祭のような場面では、作品の内容に問題ありとして支援しないことが、かつての《検閲と統制》と類似する効果を持ってくる。補助金は、表現活動の成否を決定的に左右する。補助金の操作を通じて表現内容に介入するような運用は、「事実上の検閲」「助成制度の上で起きる、新たな検閲」ではないかと警鐘を鳴らす必要がある。問題はなお終わってはいない。
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ここでのテーマは「検閲」なのですが、そこで問題にされているのは、最高裁判例による検閲の定義があまりに狭いということです。そこで、自己検閲・忖度・「空気」といったものを総合的に勘案した「検閲」概念を憲法解釈に取り込んでいくなどの方向性が示唆されています。そのアナロジーとして、「表現の自由」概念についても、公共の場におけるあり方や自己検閲・忖度・「空気」・「萎縮効果」といったものを取り込んで、より実際的で幅広く適用できるように憲法解釈を拡張していくことが必要ではないかと思われます。国内的には社会権、国際的には民族自決権を取り込むことによって、人権概念が近代から現代へと進んだように、「表現の自由」概念もそれを実質的に実現する現代的状況に即して変わっていくことができないでしょうか。
またもう一点、「表現の自由」は単に国家・公権力からの自由にとどまらず、それを破壊する勢力から人民が守って闘い取るものだということが重要です。米、英、独、仏、オーストリア、豪、韓国などの日本研究者や美術研究者が名前を連ねた「日本の芸術家、ジャーナリスト、学者を支持する声明」はこう言っています(「しんぶん赤旗」10月29日付)。
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民主的かつ多元的な社会において、政治と行政が表現の自由に敵対する勢力から芸術と学問を守らずに、ポピュリストの要求を唯々諾々と受け入れ、あまつさえテロリストの恫喝(どうかつ)に屈するなどということは到底受け入れられるものではありません。
私たちは、海外の芸術家や学術関係者および諸機関と日本の政府機関との間の協力関係に支障が生じかねないほどに、日本の公的機関に対する信頼が甚だしく損なわれてしまったことを深く憂慮しています。
私たちはまた、日本政府ならびに日本の政治指導者が、国際協力、和解、平和の精神に敵対するヘイトスピーチその他のあらゆる言語的・非言語的な脅しに立ち向かいたたかうという法的義務を果たすよう切願します。
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ドイツのボン大学教授(日本史研究)のラインハルト・ツェルナー氏もこういっています(同前)。
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民主主義を破壊する勢力に対しては、民主主義の自衛権があると思います。自衛する責任は、政府、行政だけでなく、市民にもあります。とくに外国人、女性、障害者などの少数者、弱者をしっかり守る義務があります。
しかし日本ではそれに触れないで、何を言ってもいい、というスタンスをとっている人が多いようです。「NHKから国民を守る党」なんていう党もそう考えているようです。私はそうではないと思います。差別や暴力を起こすヘイトスピーチに対しては、全力で民主主義を守るべきです。
民主主義は一回作れば大丈夫、というものではありません。民主主義の敵との毎日のたたかいが大切です。
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以上のように、残念ながら日本の民主勢力は、民主主義の危機の厳しい現実から見ると、まだずいぶんと安閑としている、というのが実態だということを、海外からの声でやっと知ることができます。
☆多様性
「しんぶん赤旗」10月6日付によれば、何と安倍首相が4日の所信表明演説で、「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩を引いて「新しい時代の日本に求められるのは、多様性であります」と言い放ちました。同記事の「あなたにだけは言われたくない。心底怒りが湧きました」にはまったく同感。――安倍首相の言う「多様性」とは、非正規雇用や、家計のために働かざるを得ない高齢者の増加など、政治が生み出した格差や貧困、生きにくさを「多様な働き方、多様なライフスタイル」の言葉の下、「自己責任」として甘受させるものではないか。生活を支える国家の責任を「画一的」だと放棄する姿勢もにじみ出ています――という指摘も本質を衝いています。保守反動の安倍首相のもう一つの顔、「新自由主義」が言わせる「多様性」なのです。
日本社会にはびこる「多様性」に異議申し立てた伊藤亜紗氏(美学者)の洞察は感動的でさえあります(10月9日付「朝日」夕刊)。――もしかすると、多様性という言葉は、「みんなちがってみんないい」と単にバラバラな現状を肯定するだけの、生きた優しさや寛容さとは無関係な標語になってしまったのかもしれない。そこに空虚な演技を、「多様性を尊重するフリ」を見た気がして、何だか怖くなってしまったのだ。――
それでは本当の多様性とは何でしょうか。
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Be your whole self. 「ありのままのあなたで」と訳したくなるが、ややニュアンスが異なるだろう。なるほどと思ったのは、「まるごとのあなた whole self」という表現だ。 …中略…
要するに、重要なのは、ひとりの人間の中にある多様性なのではないか。人と人の違いという意味での多様性は、「○○な人」というラベリングにつながりがちだ。それは容易に「賛成/反対」「右/左」という対立の構図に置き換わってしまう。けれども、言うまでもないことだが、人にはいろいろな側面がある。例えば目が見えないからといって、いつも視覚障害者としてだけ扱われたらつらいだろう。
目の前にいる人には、自分には見えていない側面が必ずある。隠されたものがあることに敬意を払いながら、もし相手が望むなら、それを隠さなくてもすむ土壌を作っていくこと。そしてどんな人に対しても自分との共通点と差異を見出していくこと。そんな姿勢が重要なのではないか。
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平野啓一郎氏が「個人」概念に対比して「分人」と言っていることを想起しました。それにしてもこんなに深く人間とその社会のあり方に切り込めることに感心するばかりです。
2019年10月31日
2019年12月号
日本経済の低迷打開を考える諸課題
(1)問題提起
資本主義の現段階としての新自由主義は、強搾取と金融化とを特徴とし、労働者・人民の生活を保障しながら拡大再生産するのでなく、利潤第一主義を極端に貫き、なかでも貨幣資本の蓄積に偏重することで、実体経済の健全な発展を破壊し、人々の生活と労働を危機に陥れています。これを打開するには、新自由主義路線を破棄し、グローバル資本などへの民主的規制を中心とする経済政策への転換が必要です。これがまさに<1%VS99%>の中身ですが、1%による強力な支配下にあって、99%の側が一進一退の闘いを続けているのが世界の現状でしょう。日本は自民党を中心とする保守政権の万年支配下にあり、近年では戦後最悪の安倍政権が長期に君臨し、そのアベノミクスによって企業利潤や株価などは好調でありながらも、人々の生活が疲弊し、労働も困難を極めているのみならず、デジタル経済などの最先端部門の発展で後れを取っているという問題も抱えています。支配層は、人々の格差・貧困などは事実上スルーしても、その問題については危機感を持っています。生活苦と労働苦は主に生産関係の問題であり、先端産業の停滞は主に生産力の問題です。つまり日本資本主義は生産力と生産関係の両面で、支配層・被支配層ともども極めて厳しい状況に置かれており、それが日本経済の低迷と言われるものの本質です。日本経済の低迷を克服するためには、その両面をにらみながら、別の両面としての供給と需要との関係をも考慮して、生産と分配・再分配のあり方をどう変えていくかが問われます(それに規定される流通や消費のあり方も問題となりますが、ここでは措きます)。新自由主義はグローバル資本の立場なのでもともと国民経済擁護の視点がないのですが、その他に、生産関係視点がなく、供給側に偏重しているという意味でも国民経済の健全なバランスを無視していると言えるでしょう。
そこで、本誌と『前衛』の12月号のいくつかの論文の内容を見ながら、日本経済の低迷の克服に向けて考えてみるべき課題を以下のように並べてみました。
☆1―技術革新・生産力発展 日本の技術革新の停滞については、先月号所収の藤田実氏の「日本の長期停滞と技術革新」で触れられていました。そこでは、「停滞の要因」として、「重層下請け構造とスタートアップ企業の少なさ」と「研究開発における博士号取得者の少なさ」が指摘されていました。その他の問題として、最先端技術は主にデジタル企業とかグローバル企業に担われていますが、それは今後とも人々の生活を変え、それによって社会変動にも影響を与える、ということがあります。そういう意味では身近な問題です。それを現在の生産関係のあり方と未来社会への展望とのつながりを意識しながら考えてみる必要があります。
☆2―地域経済 国民経済の低迷からの脱出には地域経済の再生が欠かせません。私はこれまで、地域経済の内発的発展とか内需循環的構造の構築と言ったことに言及してきましたが、都市のあり方と周辺部の関係の問題や農業の再生なども重要です。
☆3―分配構造 労資関係と資本間関係と(政府との関係と)に規定された分配構造に関わる問題として、最低賃金の問題、人件費・支払利息・賃貸料・(税負担・)最終利益といった付加価値の分配(人件費以外は剰余価値の分配)の問題があります。
☆4―再分配政策 国と地方の財政による、社会保障や教育などのあり方を中心とした所得再分配体制の構築(正常化)、そこでのイデオロギー問題もきわめて重要です。
本誌と『前衛』の12月号の諸論文のいくつかを上記の問題意識に沿って整理すると以下のようになります。
☆1と☆2に関連:中山徹氏の「産業構造転換と新たな都市戦略 『スーパーシティ』構想とその問題点」
☆1と☆4に関連:児美川孝一郎氏の「産業界・財界の欲望が教育に持ち込まれる――Society5.0は何をもたらすのか」(『前衛』12月号所収)
☆2に関連:関根佳恵氏の「新自由主義政策の帰結と国連『家族農業の10年』」
☆3に関連:野中郁江氏の「富と貧困の累積を描く付加価値分析 労働によって作り出された価値はいくらか、それは誰のふところに入ったのか」、萩原伸次郎氏の「トランプ政権の経済政策とアメリカ経済の行方――なぜ今、最低賃金の大幅引き上げが必要なのか――」(『前衛』12月号所収)、斎藤寛生氏の「最低賃金引き上げで日本経済の好循環をつくる」(『前衛』12月号所収)
☆4に関連:渡部昭男氏の「権利としての教育無償化」、中嶋哲彦氏の「大学等修学支援法と教育の機会均等」、岩重佳治氏の「『奨学金被害』の実態と制度改善にむけて」。
(2)生産力発展と生活・地域経済の変革――先端産業と都市戦略
☆1と☆2に関連した中山論文によれば、日本資本主義が「輸出主導型の産業構造から、多国籍企業型の産業構造に変わり出した」ことにより、政策的に「地方の縮小、首都圏を中心とした大都市部への集中という方向性」(38ページ)が明確になりました。地方の人口減少に促迫された消極的対応がコンパクトシティだとすれば、大都市でのコンパクト化の積極策がスーパーシティであり、それは「まるごと未来都市を作る」(41ページ)こととされます。その技術的基盤は、第4次産業革命(IoT、ビッグデータ、AI、ロボット)の先端技術をあらゆる産業や社会生活に導入しSociety5.0を実現することです(40ページ)。Society5.0とは、「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」と説明されています(39ページ)。
これまでの情報社会(Society4.0)では、人間が情報を解析して価値を生み出してきましたが、Society5.0では、人間の能力を超えるAIが膨大なビッグデータを解析し、そうしたサイバー空間の成果をロボットなどを通して、フィジカル空間の人間にフィードバックすることで、新たな価値が産業や社会にもたらされます(同前)。それを実現するために、「価値の源泉の創出」として、公共データのオープン化、社会のデータ流通促進、教育・人材力の抜本的強化などが必要であり、「価値の最大化を後押しする仕組み」として、規制緩和、行政手続きの簡素化などが必要とされます(40ページ。なお「価値」については*補注1参照)。こうして「Society5.0を実現すれば、経済発展と社会的課題の解決を両立させることができる」(43ページ)というわけです。
まさにICTの先端技術によって、産業から人々の生活と社会が変わり、大都市は未来都市に変貌するという夢のようなビジョンです。しかし技術発展が社会的課題も解決するというのは、まさに生産力主義的偏向であり、中山氏は生産関係視点なども含めて批判しています。それは、個人情報保護の危機、所得格差や不安定就労はAIによって解決されないこと、収益の有無によるいびつな発展の可能性、新たな格差の発生、市民がスーパーシティの運営主体となる保証がないこと、といったような諸問題です(43・44ページ)。さらには大都市への集中の激化、都心部と郊外との階層化、住民自治の形骸化(企業主導下で、自治能力のある市民ではなく、生活を管理され、消費を引き出される対象としての市民へ)も指摘されます(44~46ページ)。
中山氏は結論として、スーパーシティを単なる妄想として片づけるのではなく、産業構造の転換に伴った新たな都市戦略の端緒として位置づけ、きちんと検討し対峙すべきことを提起しています。
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スーパーシティの危険性を適切に予測すべきである。ただし、それはAIやIoTの発展を阻止することではない。むしろその発展が市民生活の向上に役立つようにすべきであり、それとの関係でスーパーシティとは異なった新たな都市戦略を展望すべきである。
46ページ
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生産力主義に機械的に反発して反生産力主義で対抗するのでなく、消費社会の受動的人間像に替えて、住民自治の確立下で主体的民主的な人間像を確立し、新たな生産力を適切に制御することが、諸個人の生活を豊かにし、地域経済を発展させるカギとなります。特に地方では自然エネルギーの活用による内需循環型経済構造への転換が叫ばれており、そこではAIやIoTの活用によるスマート化も重要な役割を果たすのではないでしょうか。人口減少下で停滞色を強める各地の地域経済が、大企業誘致などの外在的な開発主義から内発的発展路線へという転換の大枠を共有しつつも、住民自治の強化を通じて、それぞれの地域の特色を活かした発展を追求することが前提であり、そこに最新技術の適用が生活と社会の前進に役だつ基盤があります。
(3)農業の再生――新自由主義路線の破綻を超えて
☆2に関連した関根論文は、世界的に2008年を画期として既存の農業政策の見直しが進み、国連「家族農業の10年」(2019~28年)の開幕に至る主な動きを紹介しています。これは農業分野における新自由主義政策の破綻を示しています。多大な矛盾を抱えながらも未だに新自由主義路線が世界経済を支配している中で、その意義は大きいと言えます。
それはどういう意義か。新自由主義が激化させた格差と貧困の問題は、資本主義的生産関係に規定された分配構造の問題であり、客観的にはその普遍性が世界中を揺り動かし続けています。しかし主観的には、人種・階層・職業等々による様々なスケープゴートが設定されたりして、多くの人々が差別と分断の迷路に誘い込まれています。それもまた世界の政治と経済を混乱させる元凶だという意味では、新自由主義体制の危機の一要素でありながら、矛盾の本質から多くの人々が目をそらされるという意味では、その打倒を免れさせる防御壁ともなっています。そうした混迷の中で、新自由主義政策の下で産業としての農業生産の破綻が進行し、そこからの離脱に向かいつつあるということは、資本主義的生産関係に対応する生産力構造の一部に明確なほころびが生じたということです。食料生産は実体経済の中核部分として、直接的に人々の生存を支えています。そこにおける変化は重要です。イデオロギー的アピールに満ちた、分断と混迷という派手な表層の下に、それは隠されているけれども、実体経済における注目すべき底堅い変化でしょう。
論文で示されている主な動きの一部とその評価は以下のようです。
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2008年から国際家族農業年の設置を国連に求める運動を始める 2011年に設置決まる
2014年 国際家族農業年
「世界では農業政策をめぐる基本的パラダイムが大きく転換した」(59ページ)
2015年 国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」スタート
「家族農業が重要な貢献をする存在として位置づけられた」(60ページ)
2019年 国連「家族農業の10年」開幕 (~2028年)
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一連の動向の画期となった2008年はリーマンショックの勃発とともに、世界食糧危機の最中でもあり、「それまでの新自由主義的な農業発展モデルやそれにもとづく政策(経営規模拡大を促進する構造政策、貿易自由化と輸出促進政策、規制緩和、民営化等)の有効性を問い直す気運が各国で高ま」り、「政策的支援からこぼれ落ちていた小経営・家族農業の役割を再評価し、支援強化する運動」(59ページ)が国際社会で影響力を増しました。その背景には、(1)近代農業への批判とオルタナティブ(代替案)を求める運動、(2)反グローバリゼーション運動、(3)環境保護運動という三つの運動の興隆がありました(67ページ)。
こうして、新自由主義グローバリゼーションへの反対運動や環境保護運動などを背景としつつ、国連での議論では、新自由主義的農業政策に替えて、「農業労働力に占める家族労働力の役割を重視」(61ページ)し、「家族農業」「小規模農業」「農民(小農)」という三つの概念が中心に座っています。「いずれも利潤追求を第一義とする資本主義的企業農業(経営)に対置される概念で」す(同前)。労働力のあり方にまで根を下ろした議論であることが重要でしょう。したがって、論文はこう評価しています。「このように、世界の農業政策をめぐる議論は大きく転換しており、それは新自由主義政策からの一時的な揺り戻しというより、持続可能な社会への移行にむけた本質的な転換というべきだろう」(61ページ)。
論文はさらに「農業分野における新自由主義政策がもたらした負の遺産」(62ページ)を様々に具体的に見た上で、農業問題の議論の潮目の変化を以下のように結論づけています。
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以上のように、新自由主義政策がもたらした農業・食料分野における帰結は、2008年には誰の目にも明らかになっていた。それまで、マイノリティの意見として公には取り上げられなかった新自由主義政策に対するオルタナティブを求める声は、今や多くの国で共有されるようになっている。世界各国はすでに生産性や経済効率性を優先してきた価値観を見直し、よりよい社会、持続可能な社会、経済中心ではなく人間中心の社会、人間と自然が調和して暮らせる社会への転換を本気で模索している。その文脈の中で、小規模、家族農業の価値が再評価されていると理解するべきだろう。 64ページ
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ところが日本の農業政策は新自由主義路線を突き進み、世界的潮流と正反対です。そんな中でも、意外にも日本には国際的に有名な自然農法・有機農業の農業者がおり、「地域で支える農業」としての「産消提携」などの取り組みが世界的に評価されていることが紹介されています。したがって、「日本が有する豊かな経験と伝統の知恵を再評価し、小規模・家族農林漁業を中心とした政策に転換するならば、日本は世界から歓迎されるだろう」(66ページ)と言えます。
家族農業の復権に関連して、より普遍的視点から論じたのが、福島裕之氏の「家族農業経営と本源的所有」(『経済』2019年7月号所収)です。そこでは家族農業に限らず、小経営一般の持つ本源的所有としての積極的意義が力説されています。それを受けて農業への適用として感想を述べたのが以下の拙文です。
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自然条件に強く規定され環境保全の課題を担うべき農業においては、労働主体と客体的労働諸条件とが不可分に結びついた本源的所有としての家族農業経営こそが、生活者として地に足をつけた適正規模の生産にふさわしいと言えます。労働と所有が分離し、利潤追求を至上命題とする資本主義的大規模農業では、土壌の劣化など環境・農業破壊に帰結します。 『経済』2019年7月号の感想、6月30日付
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以上、日本農業の危機的現状を明らかにして、新自由主義的農業政策を打破する具体的展望を示すところまでは迫れませんでしたが、日本の農業政策が世界の新潮流に逆行することと、本来ならば、現農政に対置される家族農業の発展にこそ未来があることは明らかになったように思います。世界的潮流に沿って日本の農政が転換し、危機にある日本の家族農業が復活するならば、地域経済の再生に結びつき、国民経済の停滞の打破に資することになるでしょう。
(4)分配構造の変革
☆3に関連した野中論文は階級的視点を踏まえ、労働価値論に立った啓蒙的論文であることがまず大切であり、会計計算と付加価値計算とを対比しながら、その基本的観点が次のように説明されています。
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ここで用いる付加価値統計は、財務省の『法人企業統計』であり、会計数値を基礎としている。会計計算は資本家(企業)に帰属する最終利益(税引後当期利益)の算定を目的としており、人件費(労働力価値)、支払利息、賃借料、税負担は、利益を圧迫するコストでしかない。ところが付加価値計算では、人件費(労働力価値)、支払利息、賃借料、税負担と利益が横並びで、生み出された富(付加価値)の分配先として、認識される。資本家(企業)のための利益の計算である会計計算から、付加価値計算の世界への拡大、別の見方の提供は、価値を生み出すのは労働であることを多少でも数値化するものといえる。
134・135ページ
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論文の長い題名と副題「富と貧困の累積を描く付加価値分析 労働によって作り出された価値はいくらか、それは誰のふところに入ったのか」に上記を重ね合わせるとその趣旨がいっそうよく分かります。そうした階級的観点に従って、法人企業統計の1996年度と2016年度を比較することで、日本資本主義の問題点が浮き彫りにされます。
その比較分析によれば、1法人あたりの売上高規模が減少し、景気の低迷が反映されています。売上原価と原価率が下がり、販売費及び一般管理費が大きく伸びており、製造業の衰退とサービス産業化、情報産業化がうかがえます。原価率低下により営業利益は大きく増加し、営業外収益も伸びています。ここでは低金利による営業外費用の減少が効いており、また内部留保が投資に回されず金融資産として運用されていることを表しています。そこで経常利益も大きく伸び、さらに法人税等の負担率が下がることで、当期純利益は急上昇しています。以上を見て「こうして売上高が停滞するなかで、企業の利益は増加している。しかも利益の内容が、金融・投資利益への依存を深めており、アベノミクスによるマイナス金利と異次元金融緩和の恩恵を受けていることがわかる」(139ページ)と総括されています。
売上高の低迷に対して、全体の付加価値額は伸びていますが、一社当たりの規模別では零細法人・小法人は減少し、中法人は変わらず、大法人・巨大法人は増大しています。大法人より巨大法人の方が伸びが小さいのは海外展開の進行によると説明されています(141ページ)。従業員一人あたり付加価値額(付加価値生産性、これが通常「労働生産性」と称されている)は下がっており、女性労働者や非正規雇用の増加により一人あたり労働時間が減っているためではないかと推測されています(140ページ)。
付加価値の分配については、まず何と言っても一方で「労働者全体の分配率が下がっており、一人あたりの収入の減り方も大き」く(142ページ)、付加価値計算で算出された剰余価値率が高まっています(143ページ)。他方で「支払利息等の下げは劇的」(同前)で、配当金と内部留保が激増しています。つまり「20年間で付加価値総額が10.8%伸びている中で、配当金、内部留保以外のすべての分配率が下がって、株主への配分と利益のため込みが急激に進んでい」ます(142・143ページ)。このように付加価値分析によって、「20年間にわたって進行してきた格差社会と利益のため込み経営という大きな変化」がよくわかります(143ページ)。
こうして日本資本主義の歪みが浮かび上がってきます。一方に非正規雇用の増加などを含む賃金低下と搾取強化が進み、他方で金融化と株主資本主義の進展によって、資産運用を含む企業利益が増大し、同時に実体経済が停滞しています(実体経済の停滞が金融化を促進してもいるが)。アベノミクスなど経済政策は、労働規制緩和、法人減税、異次元金融緩和による低金利、社会保障削減などによって、もともとある「富と貧困の蓄積」を増長し、本来あるべき所得再分配に逆行しています。そうした中で、「付加価値分析は、わが国の景気回復と社会問題の解決のためには、分配を変える必要があるということを俯瞰的に示すことができるように思われる。富の創出と分配を明らかにする付加価値分析が活用されて、社会的な格差や不公正をなくすことに貢献することを願う」(146ページ)という論文の結論には大いに共感します。
野中論文は剰余価値の分配を含む付加価値全体(V+M)の分配を俯瞰しました。それに対して、付加価値の分配の中核にあるVとMとの対抗について、その中でも最低賃金に焦点を合わせたのが、いずれも『前衛』所収の萩原論文と斎藤論文です。
萩原論文の対象はアメリカ経済ですが、分配論を含む経済政策の考え方については日本とも共通する部分があります。トランプ政権の経済政策はトリクルダウンの考え方に基づいています。確かに2017年成立の「減税および雇用法」は、法人減税と設備投資の完全費用化によって設備投資を活発化させることで、雇用拡大と賃金上昇を狙っており、実際にもそれなりに実現しています。しかし企業は資金の多くを自社株買いによる株価の上昇に使用しており、「減税および雇用法」の効果は一時的で持続しない、と萩原氏は指摘しています。また石炭・石油産業や労働市場への規制を撤廃することで企業活動を自由化し経済成長を促すという政権の方針ですが、そうした減税と規制緩和策は深刻な格差を生み、アメリカ経済を長期的な停滞状況に追い込んでいるとされます(101ページ)。
それを受けて、「格差と停滞」の関係について論文は考察しています。不平等と成長の関係について、伝統的見解では、「不平等が是正されると経済成長が阻害される」とされてきましたが、アメリカの最近の研究では逆に「不平等が深刻になると経済成長が妨げられる」と言われています(102ページ)。その理由として、不平等の広がりによって(1)教育が行き届かず潜在成長力が低下し、(2)競争のスピリッツが減退し、(3)政治的不安定が増大し経済の不確実性が高まる、ということが挙げられています(同前)。1980年代以降、格差が拡大したのは、最低賃金が引き上げられなかったことと労働組合の組織率の低下が原因とされます。2008年のリーマンショック後に就任したオバマ大統領は、最も重要な貧困対策として最低賃金の引き上げを実施しました。それがトランプ政権によって中断され、現在それを継承しようというのが、大統領予備選挙を闘う野党民主党の進歩派の候補者たちです。
日本経済の停滞問題にとって萩原論文からの教訓は、「トリクルダウン理論」や「格差と経済成長の正の相関論」が破綻しており、格差と貧困の是正が経済成長に必要であり、最賃の引き上げを始めとする分配構造の変革が求められる、ということです。
斎藤論文は日本の最低賃金引き上げ運動を直接論じています。日本では1970年代の高度経済成長の破綻とともに、春闘ベースアップの大幅ダウンやいわゆるスト権ストの敗北などを契機に、労働組合運動の停滞が語られて久しくなっています。組織率もどんどん下がって労組はどこに行ったかという感じでもありますが、近年の最賃引き上げ運動はスマッシュヒットと言えるでしょう。数年前まで最賃1000円要求さえ言いにくい状況でしたが、今では1500円要求もあたり前と感じられるまでになり、実際の各地の最賃引き上げもまだまだとはいえ以前よりは前進しています。非正規雇用の広がりにより、生活困難が深刻化し一般化したという客観的状況の悪化もその原因としてあるでしょうが、最低賃金生活体験(109ページ)とか、マーケットバスケット方式による「最低生計費試算調査」の実施(110ページ)など、地道だが説得力のある活動への取り組みが評価されているとも言えるでしょう。
斎藤論文で私が大切だと思うのは、最低賃金・最低生活などに関するこれからの考え方をかんで含めるように提起していることです。世間の常識を変えなければ社会変革はできませんから。最低生計費試算調査の結果について、全労連の地方組織が記者発表すると「そんなに高いはずはない」「〝最低〟のはずなのに、どうして旅行や飲み会の費用まで含まれているの?」等々の反応が寄せられ、一部には「死んでないならOK」というものもあるそうです(112ページ)。運動の現場ならではの生々しい声の紹介です。これらはある意味で世間の常識なのでしょうが、実体験に基づかない上から目線の言葉でしょう。貧困生活の惨めさへの想像力を欠いています(それはもはや例外とは言えない広がりを持っているのだが…)。続いて紹介されているエピソード――最賃ギリギリで暮らしている人の冷蔵庫が壊れても現金で買えなくて、そこでローンを申し込んだのだが、給料明細を示したら断られた――は現実の厳しさを端的に語っています。同調査でマーケットバスケット方式に採用する所有物品などの基準を説明したところでは、それは「人としての尊厳を守る」と判断される〝つつましい〟金額を重ねた合計である、として次のようにその意義が語られています。
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この調査は「貧乏の自慢大会」ではない。「憲法が保障する水準を客観的に求める調査」であって、「絶対的貧困だけでなく、相対的貧困基準を科学的に示しているもの」と説明している。しかし街の多くの人々は「最低限度」の意味を取り違えているようだ。それを客観的に知らせるためには、「健康で文化的な最低限度」の水準(=ナショナルミニマム)を具体的に国が示すことが必要だ。国が示さない以上、全労連が調査して発表しているのだ。
112ページ
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誤解されている「最低限度」の意味はその前に説明されています。
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・「最低」=the lowest,worst……〝最も下〟〝最下層〟〝最底辺〟〝ドン底〟の意味。(反対語)top,best
・「最低限」=minimum……健康で文化的な生活水準を維持できる状態の底辺=ナショナル・ミニマム
日本国憲法が保障しているのは、最低・ドン底の水準ではなく、人間らしくくらせるレベルで、「普通のくらし」とされる範疇のなかで、〝許容され得る最低限度の水準〟を求めているという点が重要である。 108・109ページ
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上記のように、最低生計費試算調査によってその「最低限度の水準」を国に代わって全労連が示しているわけです。これを何とか広めることが、格差と貧困の克服、ひいては日本経済の停滞打破に結びつきます。これは労使関係における分配関係に作用する人権意識の問題であり、同様に再分配政策に関わる人権意識について次に触れたいと思います。
(5)再分配政策と人権意識
以下では、拙文初めの「問題提起」での整理において、☆1―技術革新・生産力発展と☆4―再分配政策とに関わるとされた児美川論文を皮切りに、☆4に関連する渡部・中嶋・岩重の3論文を参照します。
最初に紹介した中山論文は、先端技術の適用による社会構想「Society5.0」とその都市戦略として「まるごと未来都市」を目指す「スーパーシティ」を論じました。いわば最新の生産力と地域経済との結びつきを考察したわけです。児美川論文では、先端技術と教育との結びつきが考察されています。それは国家戦略を体現した経産省の主導下に文科省がついて行く形で推進されています。Society5.0に対応したSTEAM教育(Sciecce,Technology,Engineering,Art
and Mathematics)はAIとICT機器のフル使用による学習の「個別最適化」であり、そこには教科学習と探究しかなく、集団的取り組みは視野になく、いっせい授業や学年・クラス等は要らなくなり、学校の解体に行き着きます。それは「Society5.0段階の産業界が求める人材養成に応えようとするもの」(182ページ)です。これは技術偏重主義の果てに人間の全面的発達と社会形成を破壊するものであり、以下のように批判されます。
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ここまでくると、学校はどうなるのか危惧を強く持たざるをえません。先にふれたように、経産省の考え方のなかでは、教科学習と発展的な探究的学習だけが教育であり、集団のなかで社会性を身につけることや主権者になる準備をする教育、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育てるという教育の根幹が抜けおちてしまうという大問題があります。
183ページ
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教育のSociety5.0化の流れの中で出てきた新学習指導要領は「おそらくは三割の子どもしかまともな育成の対象に考えていない」(187ページ)のであり、「そのなかから一割のできる子どもが出てくればいいと考えているわけです」(同前)。そこから必然的に、新学習指導要領は「選抜と格差拡大のもとで子どもたちが荒れてしまったりしないように、学校教育全体を『道徳化』し『生き方教育』化するということをもう一つの特徴としているわけです(同前)。
ここで安倍政権の性格の二面性を想起します。それはグローバル資本・財界の要請に従って、新自由主義政策を強力に推進する一方で、保守反動・歴史修正主義者の集団としての性格も持ちます。新自由主義はグローバリゼーションを推し進め、古い共同体的関係を破壊し、国民経済を顧みないので、本来両者は矛盾します。しかし新自由主義は自己のもたらす格差と貧困の拡大と社会の不安定化を解決するすべを持たないので、その人民的解決を阻止して、資本主義的搾取社会の支配機構を維持するためには、ナショナリズムの喚起を始めとする、保守反動勢力による旧来からの社会維持機能に頼らざるを得ません。
Society5.0に対応したSTEAM教育は新自由主義政策の一環であり、前記のように一部グローバル人材の確保のため、多くの子どもたちを切り捨て、事実上の学校解体を始めとして教育を破壊します。そこに起こる社会不安を糊塗するために、ナショナリズムを喚起する道徳教育や反動化した社会科教育などが必要となります。両者は矛盾しながらも相補い合っています。アベノミクスの失敗など、グローバリゼーションに対応した新自由主義的経済政策がうまくいっていない中でも、教育の国家主義化・権威主義化が一定成功して、教育が「安定している」うちに、新自由主義政策を押し込んで、Society5.0によるグローバル人材育成と教育の市場化による儲けの確保を狙っている、と児美川論文は見ています。
こうした新自由主義と保守反動との野合による二重の意味での教育破壊に抗して、民主的教育を守り育てるためには、当然その内容面の検討が第一になりますが、今回の拙文の全体的テーマは日本経済低迷の打開ですから、以下ではそれは措いて、国民経済や財政において重要になる再分配政策に関連した考察を課題とします。そこからさらに絞って簡単に言えば、発達した資本主義諸国の中でも最低水準である、日本財政における教育費支出の現状を変えるためのイデオロギー的課題を考えます。
岩重論文ではその問題意識が次のように的確に表明されています。
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教育費の負担の重さを実感する人が多いにもかかわらず、公費による負担の軽減がごく限られたものとなっている背景には、教育費は自分で負担することが当たり前という意識が、市民の中に根強く染みついているという問題があると思う。一体どうすれば、世界でも際だった教育費の私費負担の問題性に気づき、社会全体で子どもや若者の育ちを支えるという意識のスイッチを押すことができるか。 …中略…
高等教育無償化の実現には、費用を公費で賄うための税負担を受け入れるという市民の意識改革が不可欠だ。
これについて、東京工業大学名誉教授の矢野眞和氏は、一つの重要な視点を提示している。矢野教授らの調査によれば、日本の進むべき社会像について、国民の多くが北欧型の福祉国家が望ましいと考えている。しかし、その問いに「税金でこれを賄う」との一言を付けると、自己責任を前提とする小さな国家への支持が大幅に高まると言う。これは、国民の税負担を大きくして、教育を社会全体で支えることに対する国民的合意ができていないことを示している。背景には、大学は優れた者だけが行けば良い、優秀でない者は好きで大学に行くのだから、自分たちがお金を出す必要はないという根強い意識があると教授は指摘する。
これに対して、矢野教授らは、その研究の中で、高等教育の成果は、偏差値などの高い低いに関わらず、誰に対しても期待でき、その効果が社会全体に波及することを明らかにしている。矢野教授らは、高等教育で得るものは、知識ではなく、本を読む力、学ぶ力であり、成績の高低にかかわらないものであると指摘する。そして、それは所得を増やし、将来、社会の財政的負担を減らし、その効果は学んだ人の周囲にも及ぶことを明らかにして、「教育は大衆のものだ」と結論づける。その上で、高等教育の恩恵を誰でもが受けられる具体的施策の第一歩として、若者だけでなく、社会人の学び直しのための、大人に開かれた無償教育を提唱している。
…中略… こうして、自分にも恩恵があると多くの人が思える状況を作り出すことが、教育への税負担への合意を醸成する一つの方法になるとの指摘は、とても重要だと思う。
98・99ページ
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ただし、教育費を「公費で賄うための税負担を受け入れるという市民の意識改革」は一般論としては妥当ですが、今日の日本の財政状況と人々の意識とに照らし合わせると、必ずしも適当でない部分があります。というのは、税負担というと、あたかも消費税の増税だけしかないかのような世論操作が行われており、多くの人々が生活状況悪化の中でそれに反発するのは当然だからです。以上のような税の集め方についてだけでなく、使い方でも、生活保護バッシングや公務員バッシングなどの意識の歪みが意図的に作られています。そういう混乱はありながらも、大企業優遇税制や「桜を見る会」問題などに代表される税金の私物化などへの批判など適正な意識動向もあります。要は、生活費非課税・応能主義・総合課税などの課税原則や、軍事費を削って社会保障を充実させる等々の歳出の適正化など、財政に関わる正しい世論形成の中の重要な要素と位置付けて、上記のような研究成果も踏まえて、教育費を公費で賄うことの正当性を訴えることが必要だと思います。
渡部論文は教育無償化の法原理を以下のように説明しています。
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現在、教育無償化の法原理は三層構造となっている。①国の最高法規(憲法98条1項)としての日本国憲法、②誠実遵守の義務(憲法98条2項)がある条約・国際法規、そして③法律の中の基本法、すなわち教育基本法である。
権利としての教育無償化は、直接的には①の日本国憲法14条(平等権)、25条(生存権)、26条(教育を受ける権利)、②の児童権利条約28条(教育の権利)、国際人権A規約13条(教育への権利)、③の教育基本法4条(教育の機会均等)から導かれる …中略… 。
73・74ページ
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論文は、様々な人権保障の思想や運動の広がりの中で、日本で以前には問題にもされなかった教育無償化が動き始めており、「授業料無徴収を最低ラインとして、無償範囲を拡大し権利保障を拡充する過程にある」(74ページ)と指摘し、義務教育・高校教育・大学教育の各段階においてそれを追っています。財界筋からの人材確保を目的とする新自由主義的な教育ではなく、個々人の人格の自由な発展・幸福追求の尊重を出発点とする、上記のような法原理に則った教育の実現は、必然的に無償化に結びつくものです。それは落ちこぼれなく人々の能力を向上させることで社会的な生産力を発展させ、豊かな生活を保障し、有効需要の拡大によってバランスある経済構造を実現する、というように、人々を幸せにする経済発展の普遍的な道を作る基盤になっていくと思います。
中島論文は今年成立した「大学等修学支援法」を詳細に検討し、そこにある様々な問題点を具体的に指摘するとともに、新制度の政策理念を次のように批判しています。
「政府の言う子どもの貧困対策とは、自助努力で経済的に自立し貧困の連鎖を支援することなのだ」(89ページ)。
「大学等修学支援法による新制度は、子どもの貧困対策推進法を捻じ曲げながら政府が進めてきた貧困対策、すなわち将来における自力による貧困からの離脱の支援と一致するところが多く、自助努力による貧困離脱を目的とする救貧的・恩恵的な就学支援と考えるのが適切だろう」(90ページ)。
岩重論文も新制度を次のように批判しています。
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新制度は、低所得層だけを対象とする限定的な貧困対策と、競争力人材の育成策とを結びつけた施策となっており、高等教育費の私費負担原則はそのまま温存されている。これは、高等教育を受けることは国民の権利ではなく、受益者が自らその経費を負担すべきことを前提として、その例外としての、競争力人材になりうる若者に対して限定的に与えられる恩恵的措置に過ぎない。貧困からの即時離脱ではなく、貧困連鎖遮断のための自立支援となっているとの批判もある。教育支援を重視することは、学歴取得による経済的自立を求めるものであり、貧困離脱は自己責任との前提に立つものであるとの観点からの批判である。 97ページ
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まさに高等教育において、「新自由主義経済政策の人材確保の手段としての教育」と「諸個人の発達を保障する人権としての教育」との理念上の対決が見られます。その基礎にあるのは、「新自由主義グローバリゼーションの経済像」と「グローバル資本への規制を利かせた経済民主主義の経済像」との対立です。財政上は後者において適正な再分配政策が実現されます。
ここで人権概念の近代から現代への発展を想起します。それは「男性の権利から女性も含めて」「自由権に加えて社会権も」「発達した資本主義諸国人民だけでなく発展途上諸国人民も」というようにまとめられるでしょう。男が女を支配し、帝国主義諸国が植民地・従属諸国を支配していた近代から、その支配構造が少なくともタテマエでは崩壊した現代において、資本主義的搾取への抵抗という意義を持つ社会権も承認されるに至りました。性や人種・民族などに関わらず人間が法的に平等であるだけでなく、経済的不平等を是正するという点にも人権概念が拡張されました。
したがって、古典的には近代において自由権の一部として登場したであろう「個人の尊重」や「幸福追求権」も現代的には社会権を含むものとして理解されるべきでしょう。人権としての「個人の尊重」をめぐって、個人を抑圧するものとして、古典的にはもっぱら国家が想定されているでしょうが、今日的には資本もそこに加えるべきでしょう。つまり一方では国家主義・ナショナリズムなどから、他方では新自由主義あるいは根本的には資本主義から個人を守るという課題が生じます。安倍政権との闘いの中で「個人の尊重」が喧伝されるようになったのは、まさにこの両面からの危機が迫ってきたからです。
「個人の尊重」が社会権を含めて理解されるなら、そこでは、累進課税や社会保障制度を始めとする所得再分配機能を発揮する財政政策が追求・強化されねばなりません。社会権の規定はその保障を国家に義務付けているのですから。資本主義搾取制度がある以上、そこには格差と貧困の拡大が必然的に生じます。それを弱めて、諸個人の経済状況を多少なりとも改善することで、「個人の尊重」を曲がりなりにも実現する責任が、経済への国家介入で果たされるべきだ、というのが憲法の要請するところでしょう。とりわけ今日では新自由主義下での搾取強化による貧困化が有効需要の慢性的不足による経済停滞を招いています。それを打破するには、たとえば諸個人が労働運動などに階級的に結集して職場での労働条件改善を勝ち取るとか、自然エネルギーの導入を通じて、内需循環的な地域経済を作っていくなど、経済内的努力が重要なのですが、何と言っても国民経済的には国家の経済政策による所得再分配機能の回復・強化が決定的です。新自由主義政策はそれに真っ向から逆行しています。まさに政治変革が問われています。
以上、無理やり多くの諸論稿をまとめたような感がありますが、日本資本主義の生産・分配・再分配の過程をそれなりに見渡し、経済政策やイデオロギーの問題を加味して、この国の国民経済の停滞を克服する方向性について考えてみました。
*補注1 高度な生産力発展と価値論――デジタル企業の場合
小栗崇資氏の「GAFAなどデジタル大企業の財務構造」(政治経済研究所『政経研究時報』No.22-2,2019.10、所収)が価値論上の興味深い論点を提供しています。小栗氏はデジタル企業の財務構造の分析から二点の検討課題があることを指摘しています。
1)費用と収益の対応関係が希薄であり間接的であること
2)価値の源泉が隠れた無形資産にあること
1)は、商品やサービスを取引して対価が生じるのでなく、プラットフォームに加わる関連業者の広告料から収益が発生する、ということであり、そのビジネスモデルはtwo-sided platform businessと呼ばれます。今日ではごく当たり前のビジネスモデルですが、それが価値論上の難問になるという指摘に、これまでそれに気が付かなかった迂闊さを思い知らされました。こうした「費用と収益の不対応」という事実を前に、小栗氏はデジタル企業における価値創造について以下のように語っています。
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プラットフォーマーのビジネスは、個々のアプリやサービスの開発というよりは、プラットフォームの仕組みや枠組みそのものの開発を志向している。その中で生まれる一般利用者のコミュニケーションやネットワークに価値(収益)創造の源泉を求めているように思われる。そうした関係性を生み出すようなソフト(商品)は従来のモノ作りを含む産業の上に位置し、そうした従来型産業を組み換え、作り変えるような形で、ある意味で社会構造の再編成を伴うようなビジネスとなっている。そうした事象は従来のような費用・収益の構造や資本・利益の関係では表すことができないと考えられる。したがって、これまでのような財務構造分析ではその解明が困難になってきているのである。
13ページ
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2)について。会計上、自己創設無形資産が計上禁止され、多くの無形資産が開示されません。特許権のような外部から購入したものには客観的な原価が設定できるけれども、企業内部で形成されたノウハウやブランドは測定することができない、というのが計上禁止の理由です。また何を無形資産にするかも不明確です。企業買収の際には隠れた無形資産が表面化するのですが…。
研究開発投資の扱いも問題であり、アメリカ基準では全額「研究開発費」、国際基準ではごく一部が無形資産とされます。ほぼ全額が費用とされる理由は、研究開発が成功して資産価値を持つかどうかは不確実だからです。これに対して、Lev and Gu は無形資産化すべきであり、成功の割合にこだわらず資産化(資本化)することが重要な情報となる、と論じています。
1)と2)の考察を受けて、デジタル企業の価値の源泉について、上記の引用の発想を受け継ぐ形で以下のように言われます。
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デジタル企業・プラットフォーム企業が生みだすものには、人間の社会的交流への欲求や生活の利便性や文化性を求める欲求を満たす使用価値があるのではないか。コミュニケーションやネットワークそのものが価値となっていると考えられる。そうした価値は人間の精神(知的)労働から形成されるもので、労働時間ではなく人間の一般的知性が価値の源泉となっているのではないか(『資本論草稿集』②、489ページ)。
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ここで最後に参照されている、マルクス『経済学批判要綱』の周知の叙述が「労働時間ではなく人間の一般的知性が価値の源泉となっている」という意味なのかどうかは一つの問題です。使用価値と価値との対応関係を考える必要がありますから。使用価値は価値の担い手ですが、使用価値があるからといって価値があるとは限りません。周知の叙述の中で、マルクスは、知性について価値の源泉ではなく、使用価値の源泉と言い、知性が労働時間よりも重要な発展段階においては、価値を基準とするのでない(使用価値を基準とする)経済社会の形成を主張している、と読むことができるようにも思います。もちろんマルクスの真意がどうであれ、「労働時間ではなく人間の一般的知性が価値の源泉となっている」という命題は検討すべき課題ではあります。そこには、プラットフォームに収益をもたらすのは価値の創造か移転か、という問題もあります。
ともかくも、高収益をあげるデジタル企業のあり方から出発して、それによる従来型産業の組み換え、社会構造の再編まで考察を及ぼすことは、確かに現実内在的であるとともに未来志向であり、重要な問題提起です。会計学的アプローチとして、収益という結果から価値の源泉の考察にさかのぼるのも現実の重みを感じさせます。商品論次元での分析という既存のアプローチがどう対応するのかが問われています。
*補注2 AIの負の循環
上記の中山論文や児美川論文で取り上げられ、支配層から発して世間で喧伝されるSociety5.0の技術的基盤の一つとしてAIがあります。分かりやすいところでは、囲碁や将棋などで人間がAIに負けるような状況で、AIへの絶対視が生じていますが、その実像を見定めて相対化し、人間が主人公であることを取り戻す必要があります。そこでは資本主義的利用の問題点という生産関係視点が重要になるでしょう。そういうことを考える際に参考になる記事がキャシー・オニール氏(数学者、データサイエンティスト)の「AIのわな」(「朝日」11月7日付)です。
素人にとって理解しがたいAIについてオニール氏はこう説明します。「考え方はシンプルです。成功に導くパターンをデータ分析によって探すのがAIです。ここで大事になるのは、その『成功』を誰が定義するかです」。分析の目的やそれを設定する価値判断はあくまで人間によるものです。資本主義社会ではそれが利潤追求として設定される場合が多いでしょうが、別様に設定することも可能です。
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「良い社会かどうかが、経済成長しているかで決まるならば、AIのアルゴリズムは効率優先になります。でも、一番恵まれない人が幸せに生きられるかどうかという視点で、定義すべきだという考え方もあるでしょう。それは本来政治が判断すべきことです。AIが恵まれない人を助けるために使われるのか、あるいは自己責任を問い排除するための道具になるのか。AIが使われるプロセスの全体と目的を見る必要があります」
――AIを信奉する企業や人を説得できるでしょうか。
「データを使う側は、『AIはデータから答えを導き出しているので客観的です』というでしょう。ですがAIをつくるのは人間であり、その価値観が反映されます。人間であれば、責任を問うことができますが、AIは単なるプログラムのコードです。私たちは数学におじけづいたりシステムを妄信したりすることなく、権利を主張して疑問を突きつけていかねばなりません」
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AIは未来予測が得意で様々な問題を解決してくれるかのように思われますが、必ずしもそうではないことも次のように説明されます。
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「AIは自動運転や囲碁のように、過去のデータからシミュレーションできるものへの応用は優れています。でも、高齢者など人間へのケアは不確実で、予期しない状況に対応する必要があります。創造力が求められるのです。未曽有の少子高齢化は、過去のデータがないでしょう? それをAIが解決するなんて考えられません」
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AIが自己責任論に利用される場合が例示されています。
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「米国では、個人の消費行動や居住地域などから、病気になる可能性を予測して、リスク・スコアという形で示すことが可能になっています。これを医師が患者の治療に活用するならよいのですが、社会統治の手段として使われるようになったらどうでしょう。たとえば糖尿病になるかどうかは自分ではコントロールできない要因が多々あるのに、『あなたの恥ずべき選択の結果です』と自己責任にするために利用されかねません。その方が支配者側にとって都合がよいからです」
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ここでは、もともと問題の全体像を見ずにあらかじめすべてを自己責任に帰して考えてしまう観点に問題があります。そんなことは当り前ですが、上の例では、AIを使うとそれがもっともらしく見えてしまうわけです。
過去のデータからのシミュレーション(=未来予測は難しい場合がある)に自己責任論あるいは様々な偏見や先入見が重なるところでは、この記事の見出しになっている「恵まれた人を優遇 偏見や格差を拡大 負の循環生まれる」という状況が次のように現出しています。
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「たとえばAIの犯罪予測に従い、犯罪率の高い地域を重点的に警察官が見回ると、結果として黒人が多く住む地域と重なることがあります。そのため実際は違法行為をする割合に人種間の違いがなくても、黒人が逮捕される確率が上がる。裁判でも、居住地域や家族の犯罪歴のデータにより再犯率が高く予測されるので、刑期も長くなる。社会復帰が難しくなると、再犯の可能性が高まる――。そんな負の循環が生まれ、AIの予測は正確だと思えてしまうのです。これが『AIのわな』です」
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余談になりますが、この「負の循環」がなかなか複雑で質的なものであるのに対して、量的な展開として、資本主義経済における無政府的な資本間競争に生じる現象を見ることができます。そこでは、産業循環上の景気過熱期に超過需要と市場価格騰貴が一方的に生じますが(逆方向の不均衡もある)、それをいっそう増幅し経済危機を深める作用がAIにはあります(高田太久吉氏の「現代資本主義をどう捉えるか 経済の金融化論の視点から」、『経済』2019年11月号所収)。
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これらの機関投資家は、通常大手投資銀行や専門的な資産管理業者と連携し、運用資金の利回りを確保するために、保有株式(ポートフォリオ)の入れ替えを頻繁かつ大規模に行う。また、公的年金や企業年金を運用する機関投資家は、運用資金の相当部分を、ヘッジファンドを始めとする投機組織に預託している。現代ファイナンス論を応用した、大同小異のコンピュータプログラムで資金運用する機関投資家の市況判断はおおむね同調的である。このため、機関投資家が主導する株式市場では、株価はいったん均衡から外れると、きわめて大きな振幅で変動し、金融不安定性が極度に高まる。
114ページ
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以上で言えるのは、AIそのものだけを取り出して特別視するのでなく、生産関係視点を持って、そこに資本主義的利用の問題点を剔抉し、資本の運動を規制して人間が主体的に利用する方向を探ることが重要だということでしょう。当たり前のつまらない結論ですが…。
2019年11月30日
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