月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2022年1月号~6月号)

                                                                                                                                                                                   


2022年1月号

          使用価値視点へ 農業・ケア労働での対抗軸

 

☆農産物輸出推進とグローバル資本主義

 農林水産省によれば(ホームページ1228日時点)、111月累計で農林水産物・食品の輸出実績が1779億円となり、前年比+2,280億円、+26.8%です。12月を待たずに初めて年間1兆円を超えました。すでに1217日付「朝日」記事「(経済気象台)農産物輸出への期待と課題」は、「コロナ禍においても、わが国の農産物輸出は好調である。輸出額は年間で初の1兆円突破と9年連続での過去最高更新が確実視されている。 …中略… 高級食材などでは海外から引き合いも増えるなど、さらなる飛躍が期待できる状況である。いまや農業は日本にとって重要な輸出産業になりつつある。国内市場が少子高齢化で伸び悩むなか、輸出の拡大はわが国農業の成長に不可欠である」とか「現在、政府は農産物輸出額を2025年に2兆円、30年に5兆円とする目標を設定している。 …中略… 農業の輸出産業化は地方創生に直結する政策になっていると言えよう」などと主張しています。農産物輸出とそれを推進する政府の政策とへの手放しの礼賛です。「朝日」は他にも、84日付「今年上期の農産物輸出額は過去最高 年1兆円視野に」、1229日付「農水産物輸出、初の1兆円超 ホタテや牛肉、酒もブリもリンゴも好調」などで同様の調子です。

それに対して、「しんぶん赤旗」は、2022年度政府予算案を報じる中で「農林水産物・食品輸出5兆円目標に向けた輸出力強化に21年度当初比8.9%増の108億円を計上」と紹介しつつ、「史上最低へ下落した食料自給率を向上させる特段の措置はみられません」と批判しています(1225日付)。コロナ禍によるグローバル・サプライ・チェーンの切断などにより、食料に限らず、工業製品や中間財などの不足も叫ばれ、従来のような海外依存経済のあり方が反省されているにもかかわらず、食料自給率の改善よりも輸出促進策に注力するという政策はまったく転倒しています。

これは、コロナ禍における病床逼迫で、救えるはずの多くの命を見殺しにしたにもかかわらず、コロナ以前からの既定の方針である、医療機関統合による病床削減を強行しているのと同様の姿勢です。「自由貿易」とか「小さな政府」とかの新自由主義・資本主義イデオロギーのドグマに囚われていると、いかに現実が見えないかが痛感されます。それらはまさに人民を犠牲にして大資本・支配層の利益に直結する政策ですが、そこにこそ経済の活力を引き出し、効率化する「公共性」がある、と彼ら自身は確信しているわけで、まさに悪い意味でのイデオロギー性が充溢しています。

 そうしたイデオロギー性による現実把握の雑駁さ(それは私たちも注意すべきですが)は、先の一連の「朝日」記事における「農産物」把握によく現れています。実は「農産物輸出」なるものが増えても必ずしも農業の活性化には結びつきません。そこには統計上の「農産物」への錯覚(あるいは意図的すり替え)があります。農林水産省ホームページの「統計の作成方法」によれば、「財務省『貿易統計』を基に、農林水産物に該当する品目を抽出し、品目別・国別に組み替え・集計を行っている」とあります。問題はその「農林水産物に該当する品目」には輸入原材料を加工した食品が多く含まれているということです。

山口亮子 (ジャーナリスト)氏の「日本農産物〟輸出1兆円を手放しで喜べないのはなぜ?」916日付、https://wedge.ismedia.jp/articles/-/24254)がそれを批判しています。「この輸出額にはチョコレートやコーヒー、ココア、ソース混合調味料、清涼飲料水、パーム油なども含まれている。しかも農水省はこれらを『農産品』に分類している。原料はほとんどが輸入品で、輸出が増えたところで日本の農林水産業への影響は少ないにもかかわらず、である」。「金額ベースで40%(21年上半期)を占める加工食品の原料の多くは、海外から来ている。つまり、輸出額が増えても、国内の農家が潤うとは限らない」。つまり「輸出額1兆円を達成しても、農業の所得増に結びつかない。当然ながら、今年1兆円に達したところで、農業所得は倍増しようがない。これは、当初から農業関係者の間で言われてきたことだ」というのです。したがって当然のことながら「輸出1兆円、さらには5兆円という目標は、華々しく聞こえるものの、達成したところで政府や与党の自己満足にしかならない。地に足のついていない目標を掲げ、その達成に邁進する余裕が、日本の農林水産業に果たしてあるのだろうか」と批判されます。「そもそもの目標設定がずれているので」すが、そういうおかしなことの舞台裏は以下のごとく。

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 農水省が頭に「農林水産物」を冠して発表するために、あらぬ誤解を生んでいる。いや、むしろ誤解が生じることを狙って目標を設定し、発表していると言ってもいいだろう。「農林水産物・食品の輸出額」は、農林水産業と直結した指標だと一般に誤解されているのではないか。こう輸出企画課に尋ねたところ「(受け取る)人の捉え方だと思う」との回答だった。

 達成すると農林水産業にどういうメリットがあるのかよく分からないこの目標のために、農水省は多額の予算を要求している。「2030 年輸出5兆円目標の実現に向けた『農林水産物・食品の輸出拡大実行戦略』の実施」として、今年度は99億円の予算が付いたところを22年度の概算要求では倍の188億円を求めている。

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 さすがにその後の政府予算案の段階で188億円は108億円に下げられていますが、それでも21年度当初比8.9%増です。一般農家にも国民経済にも利益にならない「農産物輸出推進」は農水省の省益、役人の「やってる感」演出の産物のようです。それは食料自給率の改善という喫緊の国民経済的課題から目をそらし、新自由主義の「自由貿易」イデオロギーにフィットし、グローバル資本に奉仕する結果となっています。もちろん一部の「農産物輸出」関係者の直接的利益にはなりますが、個別資本の経営感覚で国民経済の運営を見てはならないことは資本主義分析一般に言えることです。

 ここで斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がコミュニズムを何よりも「使用価値経済への転換」として特徴づけたことが想起されます。「商品としての『価値』だけを重視する資本主義システムのもとでは、社会の再生産にとって有益であろうが、なかろうが、売れ行きのよいものを中心に生産が行われる。その一方で、社会の再生産にとって、本当に必要なものは軽視される」(301ページ)。これはいかにも啓蒙書的叙述であり(同書は単なる啓蒙書ではなく、著者の最新の研究成果と問題意識を提示していることはここでは措く)、マルクス経済学としては当たり前のことですが、資本主義の枠内での変革という問題意識での分析においてはあまり重視されてこなかった観点のように思え、同書が改めてこれを前面に押し出したことは意味があると思います。

 農産物輸出推進とは個別資本の利潤追求、つまり価値=剰余価値視点から発する政策であり、食料自給率の向上とは、国民経済次元でのバランスのとれた使用価値の追求です。食料自給率の問題はまずは対米従属の問題ですが、さらにグローバル資本主義の展開の中に位置づける必要もあります。それを使用価値・価値の視点からも見て行こうと思います。

 「農産物」輸出の中身の問題について、平賀緑氏の「『食』から問うグローバル資本主義」は「すでに小麦や大豆など農産物(一次産品)の貿易より、いくらかの加工が施された食材や加工食品などの貿易が大半を占めるようになった」(72ページ)と指摘しています。そこでFAO(国連食糧農業機構)の「Agri-food trade」の対象は「生きている動物から農産物をはじめ、調整食料品、油脂・分解生産物、飲料・アルコールなどまで、ありとあらゆる食品飲料品を含んでいる」ので、昔ながらの農産物がイメージされやすい「食料」ではなく、英語の「Agri-food」を直訳した「食農」という語を平賀氏は採用しています(7273ページ)。よって「農産物貿易」ではなく「食農貿易」となります。

 日本の食料自給率とか「農産物」輸出を考えるには、孤立的に捉えるのでなく、この食農貿易のグローバル展開をまず見る必要があります。「グローバル資本主義においては、需給調整のために余っている国から足りない国へ輸出入するだけが貿易ではなくなっている」。「生きた家畜から、液卵、冷凍焼き鳥、サラダチキンなど業務用・小売用を含めた中間財から完成品までが、頻繁に国境を出入りする時代である。一つの加工食品に複数国からの原料が使われたり、加工場所が複数国にまたがったりしていることも少なくないだろう」。したがって、「同一産業の財を相互に輸出入する『産業内貿易』や、親会社と海外子会社、海外子会社同士など、同一の企業グループ内で輸出入する『企業内貿易』も増えている」(73ページ)。こうした食農貿易の複雑な面的関係を推進しているのは「世界規模に生産過程を分散させコストの最小化と利潤の最大化を狙う」「グローバル・バリュー・チェーン(GVC)」(同前、太字化は刑部)です。グローバル・サプライ・チェーン(GSC)という言葉にはまだ使用価値の側面がありますが、GVCには価値=剰余価値の側面しかありません。そして「各地で比較優位理論に基づき生産を特化し、その国際貿易を推し進め、労働力には季節労働者や外国人労働者を使ってコスト削減してきた」「食農の生産供給体制」(70ページ)をつなぐ鎖がGVCというわけです。この「食農の生産供給体制」の本質は「売るための商品作物を生産する農業、農産物を原料に加工食品を製造する食品産業、さらには外食産業、流通・小売業、商社・金融業など様々な産業が絡み合って構成する食料供給体制」としての「資本主義的食料システム」です(71ページ)。それは「農村や植民地、地域社会や自然環境から富を吸い上げながら、労働者の胃袋も組み込んだ資本蓄積体制」(同前)だと言えます。ここでは生産・流通・消費という経済全体を価値=剰余価値の原理が貫き、使用価値の生産はその手段に過ぎず、自然と人間は搾取=浪費の対象とされます。日本の食料自給率の低下、農林水産業の衰退、農山漁村の荒廃、それと対蹠的な「農産物」輸出推進政策の展開はまさにこうしたグローバル資本主義による「食農の生産供給体制」の一環だと言えます。

 平賀論文においてはさらに、「金融化」と「デジタル化」がグローバル食農資本を包摂するさまが活写されています。その詳細は省きますが、使用価値が手段とされ、価値=剰余価値が自己目的化された食農においては、「投機目的を含む、食農に関連あるなしを問わない資本が率いる」(76ページ)ようになり、その先には「利潤追求を第一目的とする一部の資本と企業群がすべての情報と経済を管理する、究極の計画経済」(78ページ、太字化は刑部)が実現する可能性があります。そこにあるのは情報管理によって生産・流通・消費の全体構造だけでなく、個々人の生活をも含めて支配する監視資本主義の悪夢です。この「究極の計画経済」は新自由主義を現象的に象徴する市場原理主義の対極形態だと言えますが、社会的規制を排除して資本の自由を最大限実現するという本質的意味では新自由主義の完成形態だと言えます。

ただしそれを裏返して見るとこうも言えます。ビッグ・データの集積により個々人の好みに応じた食事の配送システムが整備され、「そのための食料供給体制を、生産から調達・加工・調理まで遡って、業界を統合した大資本がGVC全体をコントロールする。かつての計画経済では不可能だった細かい生産供給管理も、IoTとAI技術で可能かもしれないといわれている。それは競争を排除してムダをなくし、限られた資源をもっとも有効に使い、人類にとって最大の効用を引き出す、『地球に優しく』私たちに便利なシステムかもしれない」(同前)。ここでの大資本の支配を、人々が主人公となった社会による支配に置き換えれば、真の計画経済が実現するとは言えないだろうか? もっとも、そういう発想は、かつて戦時国家独占資本主義を見て、人民が権力を握ればその統制機構を社会主義計画経済へ転化できると捉えた20世紀社会主義に似ています。その発想そのものが間違っていたのかどうかは別として、それが結局うまくいかなかったことは事実ですが…。

 平賀論文は「グローバル資本主義への対抗軸」という結語の節において、別の道を提起しています。「ビッグ・キャピタルとビッグ・データが資本と力を集めようとしているグローバル資本主義への対抗軸として、小規模分散型の、地域に根ざした食と農と経済を人びとの手に取り戻す活動も世界各地で始まっている」(同前)。あるいは「やがて人びとが立ち上がり、食や農、保育教育や介護を中心に雇用を増やしながら経済を再建し、データ管理も民主化して自然環境を再生する」(79ページ)という方向です。これは生産力主義とは一線を画して小経営を中心に据え、環境・ケア・フェミニズムといった近年の生活視点を重視した変革の展望に基づいています。20世紀の上からの国有化社会主義ではなく、社会主義への下からの民主的接近と言えましょう。

 論文の立場はこのように明確です。そこで大切なのは、その立場から自然と農業者や労働者・人民の視点で周囲の状況を描くのにとどまらず、というかむしろそれよりもグローバル資本主義の現状を分析し告発することにテーマがあることです。新自由主義的現実へのオルタナティヴを提起する側は有効な事例を見せるために、個々の具体的な実践を紹介することが多くなり、それ自身は是非とも必要なことですが、それだけに終わると、そのオルタナティヴがグローバルな有効性(そこまでいかなくても国民経済的な有効性)を持つかどうかは示せません。それを示す前提としてまず必要なのは、新自由主義グローバリゼーションの現状に内在してその問題点を根底から明らかにすることです。それを分かった上で、「対抗軸」的な諸実践を提示する必要があります。それでもまだオルタナティヴのグローバルな有効性を示すまでには距離がありますが、それを埋めるさらなる理論と実践を積み重ねる土台となることができます。

 眼前の世界を分析する視点として「上から視角」と「下から視角」が対抗していると思います。「上から視角」は、現状の新自由主義グローバリゼーションの支配秩序に従って、<世界経済→国民経済→地域経済→職場・企業→諸個人の生活と労働>という規定関係(→)を所与の前提に分析します。その関係を強化発展させることが経済成長という公共性に合致すると考えるからです。実はそのイデオロギーはグローバル資本の利益から発していますがそれは隠れて(隠されて)います。それに対して「下から視角」は変革の要請に従って、<諸個人の生活と労働→職場・企業→地域経済→国民経済→世界経済>というあるべき規定関係を念頭に、それとは逆規定関係にある現状を批判的に分析します。現状の関係を逆転させることが、諸個人の生活と労働の発展という公共性に合致すると考えるからです。そこでは「全体の公共性」なるものは「諸個人の生活と労働」を土台とし、前者は後者に従属するということがはっきりと意識され、悪い意味でのイデオロギー性はなくなっています。日本でいえば、憲法第13条「個人の尊重と幸福追求権」が政治変革の旗印として掲げられていることにそれは現われています。

「上から視角」はその起点がグローバル資本の利益なので、価値・剰余価値視点によって分析が貫徹されます。対して「下から視角」はその起点が諸個人の生活と労働の発展なので、使用価値視点の分析が適切に重視されます。以上の私流に言えば、平賀論文は「下から視角」に準拠して、アグリビジネスやグローバル資本による食農支配を批判的に分析した上で、対抗軸を端緒的に提起しており、今後の理論と実践の基礎としうると思います。

 

☆グローバル課税への挑戦

 平賀論文は食農の分析においてグローバル資本主義批判を展開し、食農の最前線においても「金融化」と「デジタル化」が進んでいることを活写し、最後に下からの抵抗の対抗軸を提起しました。それに対して、河音琢郎氏の「新国際課税ルールの特徴と課題 巨大多国籍企業と『底辺への競争』への対応は、グローバル資本主義の最上部にあるOECDやG20という舞台において、グローバル資本への民主的規制として重要な課税問題――巨大多国籍企業へのデジタル課税とグローバル最低課税(無形資産から派生する所得への課税のあり方と法人税率の国際的な引き下げ競争への対処)――への一定の合意が得られたことを扱っています(8081ページ)。時間がないので、その詳しい紹介はできませんが、結論的には、「今回の新国際課税ルールが、主権国家の課税権を制約し、グローバルに展開する多国籍企業の租税回避防止に向けた大きな一歩であることは事実である。しかし同時に、そのルール形成は主権国家の課税権を前提として、各国の利害対立が錯綜する場でもある」(89ページ)とされ、その画期的成果と共に限界にも注意を促しています。

 グローバル資本主義の暴走に対して、従来のように個々の主権国家による対応では間に合わず、グローバルな民主的規制が必要となります。課税問題はその中でもかなり重要な柱であり、グローバル課税に向けて曲がりなりにも前進が見られることは重要です。しかしたとえば「底辺への競争」は法人税だけでなく、労賃や労働条件などでも深刻な問題です。地球環境問題もあります。それらに見られるように、グローバル資本への民主的規制は広大な領域にわたります。各国の課税権の空洞化はどのような性格の政権にとっても深刻な問題であるので、グローバル課税の問題は困難ではあってもまだ比較的合意に至りやすい課題であるのかもしれません。しかし、主要国の政権がグローバル資本の支持する新自由主義政策を基調とする政府である以上(岸田政権のように、表面的には新自由主義批判を掲げながら実質的にはその継続に過ぎない政策を実施している政府も多いであろう)、その他の課題も含めて、新自由主義グローバリゼーションの規制に向かうのはなかなか見通せません。当面の実効性という意味で、OECDやG20といった既成の国際舞台は重要ですが、やはり根本的には各国での下からの政治変革が欠かせないと言えます。

 

☆ケア労働への視点

 使用価値視点の重視は食農やグローバル資本への規制の問題の他にも、医療・社会保障分野にも適用されます。価値=剰余価値視点では、利潤追求のためひたすら生産性重視となります。農業や製造業などでは、使用価値視点と価値=剰余価値視点との対比は、まずは生産物のあり方と利潤追求との対比として現れます。例えば先の「農産物」に関しては、食料自給率の向上という使用価値視点から発する問題提起と「農産物」輸出で儲けるという価値=剰余価値視点から発する問題提起とが対立しています。医療・社会保障では物的生産物ではなく、サービス労働の中身が問われるので、両視点の対比は労働過程と価値増殖過程との対比として現れます(*注)

 新自由主義構造改革では、医療・介護・保育などのケア労働についても製造業などと同様の発想で労働生産性を要求します。この問題について「しんぶん赤旗」1223日付記事「規制改革会議 介護基準議論 『4対1』に改悪検討」が次のように報じています。

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 政府の規制改革推進会議で、介護施設の人員配置基準を現行の「3対1」(入所者3人に職員1人)から「4対1」に後退させる議論が行われており、介護現場からは「安全性と質の低下につながる」「必要なのは処遇改善と増員だ」との声が上がっています。

 20日の医療・介護部会では、介護施設を展開するSOMPOケア株式会社が、センサーやカメラなどの導入と引き換えに「人員配置を半分にすると約30万人のマンパワーが創出」と主張しました。現行基準でも足りないとして多くの施設で「2対1」となっている現状を「4対1」に引き下げて人員削減をはかるねらいです。

 大手社会福祉法人は「トヨタ改善方式でムダやムリを徹底的に削減」し、原則10人以下のユニット型特別養護老人ホームで、見守り機器を活用して「3対1」を達成していると報告。ユニットの定員を15人に引き上げ、夜間の人員配置基準の緩和を主張しました。

 介護施設の人員配置基準の緩和はもともと政府の全世代型社会保障検討会議でも打ち出されたものでした。

 2020年2月の会合ではSOMPOホールディングスの社長が「4対1やそれ以上の生産性向上に取り組まなければならない」などと主張していました。

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 このように一部の企業・法人による人員削減の実践に先鞭を切らせて、政府の新自由主義構造改革路線を押しつけようとしています。それは、ケア労働を、価値=剰余価値視点から価値増殖過程として捉えて、人員削減による「生産性の向上」を図ることです。同一紙面の記事「介護に生産性求めないで 全労連がツイッターデモ」が労働者の反撃を紹介しています。

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 全労連などの呼びかけで21日午後6時から、「#介護に生産性を求めないで」と題して人員配置基準緩和に反対する緊急ツイッターデモが行われました。

 愛知県医労連は、介護現場で働く労働者が思いを書いたボードを手に発信。「いのち守る医療・介護に経営合理化はダメ」「働き続けられる給料を下さい!」と訴えました。

 介護福祉士は「1対3配置の現在だって、利用者さんを見ていて心が痛むことがある。余裕がほしい。もっとこまやかなケアをしたい」。要介護3の母親がいるという人は「年寄りは『物』では無い、感情を持った1人の人間です。生産性とは?理解できません」と書きました。

 俳優のラサール石井さんは「介護士の生活向上を考える方が先では。介護される側にはどんな利益があるのか。どちらも『生産性』という言葉でモノのように扱われていないか」と述べました。

 ほかにも「今朝も母へのヘルパーさんの丁寧な声かけに感謝しました。まめな声かけやこまやかな対応から温もりが生まれます。温もりを感じられない介護は、介護される側もする側も不幸にする」などの声がありました。

 22日午後5時半現在で4万5000件のツイートがされています。

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 使用価値視点に基づいて、ケア労働の労働過程を把握することで、その豊かな内容が明らかにされています。ケア労働の対象は生身の人間であるので製造業のような「生産性」はなじみません。「生産性向上」によって「介護される側にはどんな利益があるのか」、「介護士の生活向上を考える方が先では」というラサール石井氏の言葉は、価値増殖の視点に立つ新自由主義構造改革論者の虚を衝くものです。

 保育士の労働についても、同紙・同日の記事「ケア労働の現場から 低すぎ 国の配置基準 補助金なしで独自の加配も 保育士」では、国が定める保育士の年齢別配置基準では「子ども一人ひとりをきめ細やかに見ることができない」という保育士の声を紹介しています。「座ってじっくり遊ぶ子もいれば走り回って遊ぶ子もいます。低年齢の子は保育士と一対一で向き合って遊ぶのを好みます。保育士が少なければ『子どもをおとなしくさせ、管理しやすいようにみんな一緒の活動をさせるようになってしまう』」というのです。したがって「子どもの安全や豊かな育ちのためだけでなく、職員の処遇や働き方の改善のためには、低すぎる国の配置基準の見直しこそが必要だ」というのが現場の声であり、「生産性向上」による人員削減などは問題外です。

 先のツイッターデモの記事の隣には、中央社会保障推進協議会山口一秀事務局長の談話が次のように紹介されています。「介護現場からは、人員配置基準の緩和は職員の負担がさらに重くなり、サービスの質の低下を招くとの批判の声が上がっています。/過酷な労働環境や低賃金が介護の離職を考える理由となっています。配置基準の引き下げはやめて、賃金引き上げ、処遇改善による人員確保こそ緊急に求められています」。このようにケアの労働過程に内在すればするほど、価値増殖過程の視点による人員削減の生産性向上「改革」なるものの空疎さがはっきりします。

 医療もまた同様です。コロナ禍での教訓にもかかわらず、病床削減の既定路線を強行するとともに、医師・看護師を始めとする医療スタッフの不足を放置する「改革路線」は医療労働過程(使用価値視点)を無視し、医療費抑制(価値=剰余価値視点)を貫徹するものです。先ごろの抑制ありきの診療報酬改定論議はその弊害を明白にしています。日本の医療はコストパフォーマンスがいいとされますが、それは医療労働者の自己犠牲的頑張りによるものです。コロナ禍下では一部に医療崩壊を伴いながらもこれまでなんとか持ちこたえたのですが、そういう「やりがい搾取」に依存するのは福祉国家とは言えず、持続可能性も低いと言わねばなりません。

 

(*注)サービス労働が生産的労働か否かという価値論上の論点はここでは措きます。サービス労働価値不生産説からすれば、ここで価値増殖を言うことはできず、生産的労働部門からの価値分配に過ぎませんが、使用価値と価値=剰余価値との対立というここでの論点提起には支障ありません。使用価値視点を重視して、複雑なケア労働が提供するサービス内容にふさわしい賃金と人員配置を要求する立場に対して、価値=剰余価値視点を最重視して、そのサービス内容を顧慮することなく、賃金と人員配置を抑制する立場とが対立しています。この立場の対立は、ケア労働過程で価値が生産されるか分配されるかにかかわらず成立します。

 両視点の対立は、農産物価格の低迷やケア労働の低賃金などに典型的に現れ、営業の継続や労働力の再生産の支障となり、国民経済再生産上の重大な問題点ですが、支配層はひたすら当事者に困難を押しつけることで平然と乗り切ってきました。ここから先は当事者の反乱があるかなしか、それを支援する広範な政治的連帯が成立するか否かの政治的問題となりますが、それ以前に経済理論の問題としては、適正な農産物価格やケア労働の賃金を保障できない資本主義市場経済とは何かということが問われねばなりません。これはブルジョア経済学的には「市場の失敗」と言われます。それに対して「農業労働やケア労働の低生産性」という問題把握はまったく転倒したイデオロギーの産物であり、最低限「市場の失敗」を認めさせ、事態を政策的に改善させる必要があります。マルクス経済学的にはこの「市場の失敗」を価値論的、資本蓄積論的に、あるいはジェンダー視点を交えて解明する必要があります。

 なおこの拙文を一通り書き終えた後に、岡野八代氏の「ケア/ジェンダー/民主主義」(『世界』1月号所収)を読み、自分のケア理解の粗雑さを改めて知ったのですが、書き直す間もないのでこのままとし、後の機会に再考することとします。

 

 

          野党は復活なるか

 

 1031日の総選挙では、自民党が議席を減らしたとはいえ、単独で絶対安定多数を確保して実質的に勝利し、自公に維新を加えれば衆議院の2/3を超え、改憲論議に拍車がかかっているという危機的状況です。さらにメディアでは野党共闘と共産党への集中攻撃が加えられ、支配層の事実上の独裁体制を確立するための策動が進行しています。この政治状況について、本来なら客観的データに基づいてじっくりと考えるべきところですが、とりあえず時間がない中で、いくつかの新聞記事を参考に、印象批評的なメモを残しておきたいと思います。

 野党共闘には実質的成果があったという反論が行なわれつつ、反省点も探られています。その点についてはここでは措きます。しかし攻撃は野党の存在そのものにも向けられていると捉えるべきでしょう。「野党は批判ばかり」という批判がその典型です。それへの反論も行なわれていますが、その内容に立ち入る前に総選挙後の世論状況を見ましょう。

 安倍=菅政権は保守政権としても空前の悪政を執行してきましたが、長期にわたって存続しえました。政策が支持されていないにもかかわらず内閣支持率が大して下がらず、危機水準(3割を切れば、と言われている)までには至らない状況を維持しました。それを私はアベパラドクスと呼びました。さすがにコロナ禍への無策と逆行で悲惨な状況を呈する中で、菅政権は危機水準を突破して実に惨めに瓦解しました。

 支配層の危機感は的確に作動して、迅速に菅氏から岸田氏へ首相の首をすげ替え、総選挙を乗り切りました。1220日付の「朝日」世論調査(1819日実施)では、内閣支持率が49%で、第1次岸田内閣発足直後の45%を上回りました。不支持率は23%で前回11月の27%より下がりました。注目すべきは、安倍=菅政権とは違って、政策への一定の支持があることです。新型コロナウイルスをめぐるこれまでの政府の対応について、「評価する」は51%で、「評価しない」は36%。「評価する」は衆院選公示に合わせて実施した調査の51%と並び過去最高となり、「評価しない」は過去最低となりました。一定割合の賃上げをした企業に対して、税の控除額を引き上げる税制改正を「評価する」は46%、「評価しない」は35%です。さらにメディアで連日報道され注目された施策について次のように報じています。

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18歳以下の子どもがいる世帯への10万円分の給付で、政府は、現金とクーポンを併用した給付から、全額現金での給付を認める方針に変わった。岸田首相の一連の対応について「評価する」は50%で、「評価しない」40%を上回った。年代別に見ると、子育て世代の3040代で「評価する」が大きく上回り、支持を得た形だ。

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 政権のコロナ禍対策に支持が上がっているのは、感染状況が落ち着いているからで、何も政府の対応が良かったからではありません。欧米に比べワクチン接種の時期が遅れた日本では現在まだ人々の免疫力が落ちていない時期に当たっていることが最大の原因と言われています。検査体制は十分ではありません。賃上げに対する法人減税はこれまでも行なわれており、実効性は乏しい施策です。子どもがいる世帯への10万円分給付方法の変更については、始めから現金支給にすればよいものを、クーポンなどを出してきて、混乱を持ち込んだだけです。いったん間違ったことを後から当たり前に是正したことがさも手柄かのように錯覚されています(その指摘はたとえば、「武田砂鉄のいかがなものか!?プラス、29 寝起きに迷走する人」、「しんぶん赤旗」1221日付)。

 率直に言って、子どもだましに引っかかって、政策に対する好感が生まれ、内閣支持率が上がっているようなものですが、そうなるには背景があると思います。安倍=菅長期政権の間に、人々の眼中にまったく野党がなくなり、政権・与党が何とかしてほしいし、少しはしてくるだろうという心理が支配的になり、政権交代による抜本的政策転換でなく、現政権内での些末な動向にも期待が集まるという状況になっているためではないでしょうか。そのベースにあるのは、経済の長期停滞と貧困・格差の拡大でしょう。私たちの発想ではそうなれば根本的な政治革新の出番ですが残念ながらそうはなっていません。そういう状況下で、一方で生活困窮者にすれば、政府に今てっとり早くわずかでも救ってほしいと思い、他方いわゆる中間層などは常に経済的転落の不安を抱え安定志向で、政権交代という賭けはしたくない――そういう社会意識状況になっているように思います。

 その中で、支配層はかさにかかって野党共闘批判、あわよくば野党つぶしに出ています。「野党は批判ばかり」という言説は、野党が現政権批判をすること自体がケシカランかのように言いつのり、すでにあるそういう雰囲気をいっそう定着させ、悪政への批判を許さないファッショ的政治状況を作ろうというものです。反撃としてはまず野党とは政権批判にこそ存在意義があるという点があり、次に実際問題として野党は批判だけでなく建設的提言を重ねて実績も十分あるという点です。後者については、たとえばコロナ対策において、PCR検査の拡充、持続化給付金や家賃支援給付金などの直接支援制度を実現してきました。アベノマスク配布、小中高校の全国一斉休校、感染爆発下でのオリパラ強行など、無策と逆行に終始した安倍=菅政権と比べても実効性のある政策を提起してきました(野党の政策提案実績については「しんぶん赤旗」1212日付の「『野党は批判ばかり』の非難に答えます 間違った政治にも『黙って従え』というのでしょうか」が手際よくまとめています)。

 前者の批判政党としての野党の存在意義としては、原理的に次の指摘があります。議院内閣制においては、「政権と与党は一体であり、『内閣VS国会』というより『野党VS政権』『野党VS与党』が実態です。野党による行政監視、政権批判は憲法が求める野党の決定的な役割です」(「しんぶん赤旗」1220日付)。三権分立をぼおーと眺めていて、「内閣VS国会」と思い込んでいると議院内閣制の特質を見逃します。同記事はこう結んでいます。

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 野党による批判と監視の役割は、なにものにもかえがたい重要なものです。森友・加計問題、「桜を見る会」などの権力私物化疑惑に対する批判と追及も同様です。

 野党による行政監視の役割を「相対化」させるような言説が、本来、権力監視の役割を担うべきメディアから出される状況には強く警鐘を鳴らしたい。

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 この筆者の中祖寅一氏は「赤旗」の中でも最も鋭い論説を書く人だと思います。他に、先の1212日付同紙記事は、作家の平野啓一郎氏の次のようなツイッターを紹介しています。「野党が批判するのは、次から次へと、とんでもないスキャンダルが噴出し続けたからで、それは誰が悪いのか? 与党だろう。それを追及しきれなかったメディアは、何故『野党は批判ばかり』という愚論に荷担するのか?」。

青木理氏は、批判も満足にしないで新聞の元政治部長らが「今後は批判より提言」と言うのに呆れています(「しんぶん赤旗」日曜版、1219日付)。さらに「モリ・カケ・桜」や元法相夫妻の選挙買収事件などで誰一人責任を取らないどころか、権力の中枢でのほほんと権力を行使して恥じ入る気配すらない状況さえあり、「与党が国会を軽視し、憲法を無視して好き勝手なことをやっても政権が吹っ飛ばなかったのはなぜが。ぼくはメディアの政権監視機能が衰えたことが大きいと思います。 …中略… そして現在の政権や与党はだれがどう考えても批判されるようなことばかりやっている。それを満足に批判せず、批判する側が批判されるのは本末転倒です。いま、野党やメディアに必要なのは、事実をえぐり出し、権力や与党に迫る徹底した『批判力』です」と喝破しています。まったく当たり前のことだと思うのですが、これが異端なのが今の世論とイデオロギーの状況です。

 野党一般ではなく、共産党には独自の課題があります。「毎日」12月6日付の山田孝男特別編集委員によるコラム「風知草」への「しんぶん赤旗」129日付の批判を読んで思ったのは、山田氏の「根拠ない断定で、日本共産党を叩く異常」は確かに問題だけれども、その他に共産党に考えるべき問題があるということです。山田氏はあからさまな体制派ジャーナリストの立場から、日米安保条約、自衛隊、天皇制(共産党の用語では「天皇の制度」)などについての共産党の綱領が「現実離れも、私から見れば度を超している」と断定しています。天皇制については「綱領の感覚は、国民の8割近くが象徴天皇制を支持している現代の世論調査とは懸け離れている」と述べています。社会変革の立場からは「現実離れ」という評価は問題外ですが、上記の諸問題について「世論調査とは懸け離れている」のは事実です。

 民主主義社会では世論は最大限尊重されるべきですが、それと世論が正しいか否かは別問題です。社会変革の立場からすれば、世論は大方間違っており、共産党の綱領や政策とは乖離しています。共産党の綱領や政策は客観的には99%の人々の利益を代表していますが、主観的には数%の人々からしか支持されていません(政策への支持と党への支持とは別であり、おおむね「政策への支持>党への支持」という関係にある。しかし共産党の支持者の多くが安保条約や自衛隊に肯定的だというねじれもある)。これは当たり前のことですが、共産党においてはどうも十分に自覚されておらず、何か世論は自分たちと一致しているという錯覚があるのではないかと思えます。綱領と基本政策が世論と乖離しているからこそ、世論を変える必要があるということが銘記されねばなりません。もっとも、社会保障の充実というような日常的な政策と安保条約破棄のような基本性格とでは扱いが違ってきます。当面する政策ではそのまま支持されやすいものが多くなっています。そのことが逆に安保条約破棄のような基本政策が支持されていないことをつい忘れさせる要因ではあります。

 以上のことは共産党が政権を奪取する段になると特に問題となります。当面する政策で世論とも他の野党とも一致できるので、本来政権参加には何の問題もありません。しかし綱領と基本政策において世論や他の野党と乖離していることが、意図的かつ筋違いに問題とされ、共産党と一緒にやることは危ないという印象操作を許すことになります。このあたりの事情に触れたのが「朝日」1215日付「『なぜ負けた』共産の自省 衆院選『政権に関わったら…という不安は…』という記事です。これは無視せず真面目に検討すべき内容を含みます。「政権参加不安問題」と名付けることができるでしょうが、解決には、一致できる点で政府をつくるという統一戦線政策の考え方を広く普及することが世論的には基本でしょう。もちろん実際に政権参加すれば、政策実現の具体的プロセスにおける種々の困難などといった問題は起こるでしょうが、そのときはそのとき。当面する課題を一歩一歩解決するしかありません。同記事では「政権参加不安問題」を提起しようとした田村智子政策委員長のツイッターの「投稿は自身の判断で削除された」とありますが、残念なことです。きちんと議論すべきことです。

 

 

          断想メモ

 

 藤井克徳氏(NPO法人日本障害者協議会代表)の「脆くない社会へ 優生思想との訣別と障害者の権利(『世界』1月号所収)にはすべての人々が基本的常識として獲得すべきことが書いてあります。一人ひとりの人権観と社会観が厳しく問われています。それはもちろん決して極端で奇矯な主張ではなく、本来誰にとってもどんな社会にとってもあたり前であるべき内容ですが、日本社会の実態がその水準からまだあまりに後ろにかけ離れており、そこに暮らしている私たちの意識がそれに規定されているため、「浮いて」見えます。

 藤井論文によれば、障害者権利条約(第61回国連総会で採択/20061213日)第17条に「その身体がそのままの状態で尊重される権利を有する」とあります。「ひたすら社会に合わせようとする考え方から、社会が障害者に近づこうというので」す(70ページ)。それは同条約が打ち立てた「新たな障害者観」である「障害の社会モデルまたは人権モデル」(69ページ)に基づく考え方です。

その考え方の変更を私流に言えば、資本が主人公の社会から人間が主人公の社会への変革ということではないかと思います。私たちの社会観は、たとえコミュニストであっても、資本主義社会にいる以上、知らず知らずのうちに資本が主人公のそれになっており、その偏向が障害者観には表れやすいということではないでしょうか。生産性や効率は大切だけれども、あくまで人間尊重が前提にあってのことです。それが実現しない毎日の経験の中では資本主義的社会観が誰にとっても深く沈潜するのです。ゆっくりしか歩けない人の後ろで早く行けないときに、つい舌打ちしてしまうようなセンスはなかなか抜きがたいものがあります。

 

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 森友問題での財務省文書改ざんの裁判で、政府の「認諾」には驚きました。そんな言葉があることも知らなかったのですが、とにかく真実を隠すために1億円以上もの税金をつぎ込んで裁判を終わらせる奇策です。原告の赤木雅子さんが「ふざんけんな。夫は二度殺された」というのも当然で、日本の支配層の卑劣さは極まれりです。

 安倍晋三元首相の後援会が「桜を見る会」の前日に開いた夕食会の費用を安倍氏側が補填した問題で、検察審査会の「不起訴不当」の議決を受け再捜査した東京地検特捜部は1228日、公職選挙法違反と政治資金規正法違反の疑いで告発された安倍氏を再び不起訴処分(嫌疑不十分と公訴時効)としました。元首相を告発した「『桜を見る会』を追及する法律家の会」は声明を発表し「政権を忖度して真相究明に蓋をするものであり、検察の存在価値自体が厳しく問われる」とし、今回の処分が「おざなりな再捜査による結果と言わざるを得ない」と批判しました。

 生活保護基準切り下げ反対の生存権訴訟が全国で闘われていますが、大阪地裁で勝った以外は負け続けています。リクツの問題だけでなく、原告の訴え、その厳しい生活実態を裁判官はきちんと聞いているのか、と思います。ところがこの訴訟で人生をかけて真剣に取り組んでいる原告に対して、各地裁の裁判官は請求棄却という結論ありきで、判決のオリジナルデータのようなものをコピペで使い回しているという疑惑が出ています(「しんぶん赤旗」、1217日付)。集団訴訟の判決文で、福岡と京都、金沢各地裁の文章に酷似している箇所があります。5月に出された福岡地裁の判決文では、テレビやパソコンについて「生活扶助により支出することが想定されない非生活扶助相当品目(医療費、NHK受診料等)とは明らかに性質を異にするというべきである」と言及していました。「NHK受信料」と書くべきところを誤記したとみられますが、9月の京都地裁判決、11月の金沢地裁判決でも「受診料」と記していました。誤記を含む文章全体も字句や語尾は若干異なっているものの、構成はほぼ同じで、三つの判決文には他にも同様に酷似した箇所があります。しかし京都地裁と金沢地裁はコピペ疑惑に対して無回答で、最高裁も調査しないと言っています。

 長く続いた安倍・菅政権の腐敗堕落と無能ぶりにはもう飽き飽きしました。その下で、有能なはずの高級官僚たちが政権への忖度で文書改ざんを始めとして、何でもアリの悪事に手を染めてきました。検察も裁判所も上記のような体たらくです。権力は頭から腐り始め、足元までどろどろに融解していくのでしょうか。怖いのはそれに対するメディアの忖度を始めとして、自主規制が世間を覆い、政権批判に対する「反日」呼ばわりが事実上市民権を獲得していることです。「非国民」言説の復活です。NHKニュースや各メディアは、中国・ロシアを始めとする権威主義政権による民主主義破壊をまるで他人事のように報じていますが、自国における国政私物化への批判の役割を事実上放棄している自らの姿勢への反省が全くないことには驚くばかりです。
                                 2021年12月31日






2022年2月号

          コロナ・パンデミックと物価・賃金

 

     *日本の社会構造と低賃金

 日本資本主義の特質は、資本の法則が過剰貫徹して人間が抑圧され、自己実現が難しいということではないかと思います。劇団二兎社を率いて社会的テーマを含む演劇などをつくってきた永井愛氏は日本社会の本質を次のように語っています。まず「忖度の構造」について「論理ではなく、力関係で物事が決まっていくというのは、日本のあらゆる組織、バイト先、会社、グループで長くまん延している病です」。あるいは「日本には本人の良心や意志によって発言できない仕組み、社会構造が根強くある」。さらに「日本人のメンタリティーって、歴史的に形作られてきたわけだから、本当はこうだと思うけど、言うとたいへんなことになるから、言わないみたいなことが処世訓としてまだ生きていて、物言わぬおとなしい、我慢強い日本人をつくっている」(「新春アトリエ対談 日本共産党書記局長 小池晃さん、劇作家・演出家 永井愛さん」、「しんぶん赤旗」13日付)。

 我慢強い日本人は強搾取に耐える。強搾取の根づいた社会は我慢強い日本人を再生産する。そうでない者は社会的に排除される。(*注)――日本資本主義の性格と日本人のメンタリティー、その相互関係は「ニワトリが先か卵が先か」のように悩ましい。しかし大切なのは日本人のメンタリティーは宿命ではなく「歴史的に形作られてきた」のだから、歴史を創造する実践によって変えることが可能だということです。この対談で小池氏は「ジェンダー平等の問題でも、多くの方が勇気をもって声をあげるようになって、大きなうねりになってきているし、逆流を押し返す動きも出てきている」と指摘しています。永井氏も上述の日本の社会構造に対して、「それを超えて発言しようとする人が増えてきたと思います。それと、『どうせ変わらない』と、あきらめる人、両者がせめぎあっている感じですね」と社会的対抗関係の現状を捉えています。

(*注)スポーツ界において、非科学的な精神主義のしごきに耐えて生き残った者だけが、好成績を上げて引退後も指導者として君臨し、同じことが繰り返されます。しごきに淘汰された選手の中にも良い才能があったかもしれないのに、その可能性は摘まれます。同様に「24時間闘える」企業戦士だけが中心になって日本資本主義社会を形成してきました。それは一見効率的ですが、その道から外れた人々の中に多様な可能性があるかもしれないのにそれはみすみす看過されます。利潤追求以外に人間と社会を真に豊かにする新たな方途を模索することが社会変革につながります(それについてはたとえば、小西一雄氏の『資本主義の成熟と終焉 いま私たちはどこにいるのか

(桜井書店、2020年)、特に第5章「ポスト資本主義社会の足音」に考察があります)。

科学的社会主義を中心とする社会進歩の勢力が、新自由主義=資本主義勢力に勝利するのは、生産力という一次元の数直線上での綱引きだけにとどまるのでなく(それも大切ではあるが)、様々な方向性と長さを持ったベクトルの多様性という二次元・三次元上に舞台を拡張することができたときでしょう(あるいは生産力概念をそのように拡張するという考え方もあるか?)。一次元的先入見に囚われている私たちは、効率性以外の基準を持った諸実践に遭遇すると、新鮮さを感じるのですが、それは、そこに二次元以上的な社会空間のあり方を予感するということでしょう。

 歴史的に形成されてきた日本人のメンタリティーと日本の社会構造、それとともにある日本資本主義の特質を象徴するものを、バブル破裂後の新自由主義構造改革下での長期停滞の中から敢えて一つ選ぶとするならば、賃金の低下ではないでしょうか。最近では韓国にも抜かれたということが話題になり、台湾にも抜かれるだろうとも言われています。もっとも、それが喧伝されるのは――「わが国」はアジアナンバーワンだ、世界に冠たる経済大国だ――という高度成長期から引きずる時代錯誤的な大国意識・ナショナリズムから発する「情けない」という意識が原因でしょう。中国にGDPなどで抜かれて以降、私たちに必要なのは、対米従属とアジア蔑視という歪んだナショナリズムを克服して、人民の生活と労働の真の豊かさを実感できる、内需循環的な地域経済から成る、身の丈に合った国民経済の質と量を確立することであり、賃金の適切さはその中核として捉えられ据えられるべきものです。それは同時に米中を中心とする新自由主義グローバリゼーションに飲み込まれるのではなく、東アジアに根を張って、デジタル化に対応しつつ、金融化を克服する自立した国民経済としても実現されねばなりません。そこに当面立ちふさがっているのがコロナ・パンデミックです。

     *コロナ・パンデミックからの立ち直り

 したがって近年の日本資本主義の象徴としての賃金低下を捉え、その上昇を実現する道を今探るには、コロナ・パンデミックからの国民経済の立ち直りという問題意識を持ってアプローチする必要があるでしょう。コロナ禍による様々な困難はそれ以前からの日本資本主義の諸問題が増幅して顕在化してきたものだと言われます。コロナ危機を総合的に俯瞰し、一括解決を目指して合田寛氏の「新自由主義的税・財政の克服を模索する世界」は次のように主張しています。

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 以上で見たように、コロナ・パンデミックによって浮き彫りにされた公衆衛生の危機、貧困・不平等の危機、気候変動の危機、そして経済・財政の危機は、互いに連関し合う複合的な危機である。それらの危機は新自由主義的政策によって増幅され、ますます深刻さを増している。

 したがって当面する現代の危機を乗り越えるためには、課題別に個別に対応するのではなく、これらの危機を一括して総合的に解決する道を探ることが望ましく、また効果的である。            94ページ   

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日本共産党は同様な認識に基づいて、新自由主義を「冷たい経済はもろく弱い経済」と特徴付け、「やさしく強い経済」をつくろう、と変革目標を端的に表現しています。政策スローガンとしては「賃上げと社会保障が日本救う」となります(「しんぶん赤旗」日曜版、130日付)。政治変革を目指し、世論の獲得が一大事である政党としては、こうした分かりやすい打ち出しが是非とも必要になるし、短く適切に本質を衝いているとも言えます。では賃上げにどうするか、ということになりますが、その前に日本資本主義の本質的特徴を捉えた総合的長期的問題提起とコロナ恐慌の性格及びそこからの立ち直りのあり方に触れた友寄英隆氏の「2020年代、日本資本主義の動向と課題」を若干見ていきたいと思います。ただしこの論文は表題に関わるような総合的長期的問題提起を平易に人々に呼びかけている点にその重要な意義があるのですが、今回の拙文ではコロナ恐慌の性格及びそこからの立ち直りのあり方の方を主に見ていきます。

 論文は資本循環論からコロナ恐慌の本質を明確に規定しています。コロナ・パンデミックによる「再生産の突然の攪乱」は「再生産過程内部の矛盾の爆発としておこる全般的過剰生産恐慌」<W´―G´(商品資本の貨幣資本への転化)で起こる>とも「自然災害がもたらす急激な再生産の攪乱(特殊な恐慌)」<G―W(貨幣資本の生産資本への転化)で起こる>とも異なります(7071ページ)。それは人間と人間の結びつき、人間の社会的諸関係の一時的中断をともなう「経済外的な要因(感染症の拡大)によって、強制的に、生産、流通、消費の全体が一時的に中断を余儀なくされ、急激な縮小再生産に陥った」(7172ページ)ものです。

 そうした本質規定の上で、いくつかの特徴が挙げられます。産業部門間で落ち込みに格差があり、信用破綻(金融恐慌)を伴わず、アベノミクスで累積していた再生産内の矛盾による不況と重なって生じており、グローバリゼーション下で過度に進行した貿易依存のサプライチェーンの矛盾が露呈しました(7373ページ)。これらの内、金融恐慌を伴わないという点については、金融化が進んだ現代資本主義において、政策的にも、寄生的な金融的蓄積が最重視され、経済危機に際して何としても金融恐慌を防ぐことが優先されることが関係していると思われます。たとえば安倍政権は株価連動内閣と言われ、結局アベノミクスは実体経済の停滞を克服できず、株価上昇など金融的利益に奉仕して、貧困と格差を拡大させました。

こうしたいわば金融化の守護神としての政権の無理な政策が持続可能かということが問われます。論文では、国債発行の限界、異常な金融政策の限界が国際収支の不安とあいまって、「日本発の金融危機(国債・為替・株価の暴落などによる金融パニック)への懸念が強まることも考えられる」(77ページ)と指摘されています。

コロナ恐慌からの回復過程については、落ち込みでの産業部門間格差を反映し、「その格差が回復過程でさらに拡大しつつある。それは、再生産の不均衡を拡大して経済活性化の足かせとなり、長期停滞傾向に拍車をかけることになる」(73ページ)と予想されています。デジタル化やグリーン・ニューディールに向けた投資が喧伝されているけれども立ち遅れが目立つこと、経済政策が明確な理念に基づく再分配政策になっておらず、財政破綻の危険性が高いこと、国際環境についても、新興国などの追い上げで輸出増加の条件が厳しくなっているなどもあり、こうして様々に回復過程の困難さが強調されています(7374ページ)。さらに先述のコロナ恐慌の本質規定との関連で、回復過程の長期停滞への傾向が以下のように予想されています。

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 パンデミックに特徴的なことは、経済外的な要因によって、生産、流通、分配の全体が一時的に中断(収縮)するために、社会的再生産の全体的なあり方が問われる時期、社会的再生産の総点検の時期にもなりうるということである。パンデミックの終息後の回復過程では、狭い意味での生産過程の技術革新としてのデジタル化だけでなく、社会全体でいっせいにデジタル化が進む可能性もある。

 しかし逆に、コロナ禍を契機に、過去の資本蓄積過程で長年にわたって累積してきた再生産構造のゆがみによる矛盾が噴出してくる可能性がある。そうした長期的構造的矛盾と結びつくことによって、コロナ後には長期停滞が続き、いわば「令和大不況」が始まる可能性もある。        75ページ

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 このようなコロナ後の長期停滞の予測は立場の如何にかかわらず多いようです。最近の物価上昇とあいまって、「日本はスタグフレーションに陥る」と危惧する識者が増えています(「しんぶん赤旗」125日付)。同記事によれば、「昨年、原油や原材料の価格上昇がガソリン価格や企業物価を押し上げ、食料品値上げが相次ぎました。企業物価の上昇は今後も製品価格に波及すると日銀は予想します」。さらにFRBが「国内の物価上昇を抑制するため、今年中にゼロ金利政策を解除して3回利上げするシナリオを描きます。/日米の金利差が広がると、日本から米国へ資金が流出し、円安が加速する可能性があります。そうなれば、輸入物価が上昇し、国内物価に波及します。米国と違って賃上げが進まずに消費不況が続く日本は最悪のスタグフレーションに陥る、と心配されています」。そうした懸念をよそに、「異次元金融緩和で円安と株高へ誘導し、輸出大企業と投資家の利益を増大させてきた日銀」は政策を変更せず、物価安定という日銀本来の任務を果たせない危険が高まっています。

 

     *物価と賃金

 上記は先進国で例外的に賃金の低迷した日本経済のアキレス腱が切れそうということです。ここで賃上げを考える前提として、最近の物価上昇の性格を捉えることが必要となります。建部正義氏の「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」(『前衛』2月号所収)によれば、今日の世界的な物価上昇は、貨幣・信用的現象であるインフレではなく、供給制約によって生じています。したがって根本的には金融政策では対処できません。また論文によればデフレは貨幣・信用的現象ではなく、その原因は実質賃金の上昇率の遅滞ないしは名目賃金の切下げです(86ページ)。厚労省編『労働経済白書』2015年版での叙述や、賃金の上がっている欧米ではデフレは起こっておらず、賃金の下がっている日本だけで起こっていることなどが証拠として挙げられています。

本来のデフレは貨幣・信用的現象であって、日本経済史上では松方デフレやドッジラインとして実在していますが、今日の物価下落ないし停滞をデフレと表現することは間違っているというのが私見です。しかし「デフレ」を「物価下落」という言葉に置き換えるならば論文の事実認識は支持できます。したがって1)バブル破裂後の日本資本主義に特有な物価下落の下での賃金低迷も、2)今日の世界的な物価上昇も、(1)(2)の複合および日米の金融政策のずれから今後生じる恐れのある3)日本のスタグフレーションも、すべて実体経済の問題です。したがって金融政策はそれぞれの現象への対症療法・弥縫策としていくらかの意味はあるとしても、根本的な対策にはなりません(というか、歪んだ実体経済への歪んだ金融政策という二重の歪みが国民経済の矛盾を拡大させるという点に注意すべき)。「日米の金融政策のずれ」について言うと、日本の場合は賃金低迷を始めとする実体経済の落ち込みへの対処がなく長期停滞が続いている中で、きわめて異常な異次元金融緩和から抜け出せないのであり、アメリカの場合は供給制約への有効な対策がないところで、金融緩和を徐々に停止して物価の急上昇を抑えようということであり、根本的な解決策ではありません。それぞれ地道に土地を耕すことから目をそらして、華々しい空中戦での上昇と下降ですれ違っているという体のものです。「大企業と投資家に奉仕する政治を転換し、国民生活を支援して不況を打開し暗雲を払う必要があります」(前掲「しんぶん赤旗」125日付の結論)。

 なお建部論文は、マルクスの『資本論』や『経済学批判』を参照して物価問題を理論的に考察しており、興味深い論点を多く含んでいますが、結論的には『資本論』第2部の有名な「注32」にトドメを刺します。「資本主義社会は、自分が作る商品の買い手としての労働者の購買力が重要であるにもかかわらず、労働力商品の買い手としてはそれを最低限の価格に制限する傾向を持つ。これこそが、資本主義的生産様式における矛盾である、と」(86ページ)。資本主義国民経済の分析に際して、この実体経済の根本矛盾が常に基礎に置かれねばならないのであり、上の「赤旗」記事の結語もその一つの表現です。資本主義である以上、根本矛盾をなくすことはできませんが、それを緩和して人々の生活と労働の苦難をやわらげるような国民経済の運営が求められます。人々の疲弊は脆弱な経済に、人々の苦難の緩和は強靭な経済につながります。

 

     *金融化と株主資本主義の下の企業行動・日本

上記の認識につながる先述のスローガン「賃上げと社会保障が日本救う」は経済政策として打ち出されています。社会保障が所得再分配に関わる政治問題であることは明らかですが、賃上げについては、最低賃金など政治問題の部分もあるとはいえ、基本的には労資間の階級闘争における分配問題です。小栗崇資氏の「コロナ禍の下での企業業績の動向と特徴」は、その問題も含んで、企業経営と国民経済、あるいは企業の社会的責任という角度から分析しています。

 コロナ禍での人々の苦しみをよそに、上場企業の223月期決算の予想では「本格的な回復基調に入ったと見ることができ」ます(51ページ)。日本企業全体の動向を見ると、20年度はコロナ感染に直撃され、「従業員を減らし給与を削減する一方」、「利益が低下しているにもかかわらず、配当金や内部留保である利益剰余金が増え、投資有価証券が増加してい」ます(52ページ)。それに対して「そうした資源を雇用の確保や従業員への給付に向けることはできなかったのであろうか。国難ともいうべきコロナ危機の中で、このような財務行動は企業の社会的責任の欠如を示すものである」(53ページ)と糾弾しています。さらに20年度の営業利益の81%相当の金融収益が生まれ、コロナ禍下で金融収益依存が進んでおり、それは「金融緩和や証券市場における金融資産価格の上昇や株高によって支えられている。その株高を作っているのは日銀のETF(上場投資信託)購入やGPIF(年金積立金管理運用独法)の日本株購入である」(同前)と指摘しています。「デフレ」対策と称する金融政策の歪みが企業行動の歪みを誘導して産業の歪みに帰結しています。

 結局、コロナ禍下で売り上げが低迷する中で、人件費などの経費削減と金融収益で生み出した多額の利益を株主に配当し内部留保を積み増すという企業行動となっています。金融化と株主資本主義化による企業行動は国民経済的には以下のように厳しく評価されます。

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企業収益によって業績が回復しているように見えるだけで、経済の実態として見れば国内経済は停滞した状態が続いており、その中で富の偏在と格差の拡大が進んでいるのである。日本においては株主資本主義が続いたままで、目先の利益追求で産業の転換も進まず、企業経営の持続可能な将来展望を見通すことができない。    56ページ

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 こうした企業行動の分析から言えるのは、賃金の低迷という分配問題は、日本資本主義の生産のあり方=「生産の停滞と利潤の寄生的変質」と表裏一体(A)だということです。ならば賃上げは国民経済の健全な再建と表裏一体(B)だとも言えます。AからBへの転換は国政の変革とともに、労働者の階級闘争を始めとする人民各層の闘いにかかっています。

 賃上げと物価上昇の悪循環という見方について、古典的にはマルクス『賃金・価格・利潤』の見地に立ち、賃金と利潤の対抗関係で利潤が圧縮されるのであって、賃上げで物価が上がるのではない、と捉える必要があります。不換制・管理通貨制度の下での財政・金融を始めとする経済政策によって、マルクスの時代よりは相当に複雑になっているとはいえ、小栗論文にもあるように、今日的には内部留保の取り崩し問題に見られるように、やはり階級的対抗関係として捉えるべきです。そうして賃上げを物価上昇に安易に結びつける見方を克服し、それを起点として企業行動を改善し国民経済を健全な再建軌道に乗せる問題として提起し直すことが求められます。

 物価下落の下での賃金下落(通俗的把握としての「デフレ」状況)において企業利潤は増大し続け、内部留保が蓄積・死蔵され国民経済は長期停滞しました。その企業行動様式を許したままで、世界的物価上昇と日米金利差を迎えれば、賃上げのない物価上昇の下での経済停滞(スタグフレーション)に突入し、人々は塗炭の苦しみに沈むことになります。最悪シナリオを防ぐには、上記の賃上げを起点とする国民経済再建をオルタナティヴとして提起すべきでしょう。本来、賃上げと物価をめぐる具体的情勢についてさらに検討すべきところですが、時間不足のため散漫で漠然とした話で終えることになり遺憾です。今後の宿題です。

 

     *株主資本主義の極北・アメリカ

 日本はアメリカの後を追う。日本資本主義を堕落させている金融化と株主資本主義化もアメリカ追随の産物と言えますが、その極北の姿をアメリカのボーイングに見て、株主資本主義を完膚なきまでに批判した圧巻の連載記事が「強欲の代償 ボーイング危機を追う」(「朝日」12329日付)です。2018年と19年に連続して起きたボーイング製小型旅客機「737MAX」による事故で、それぞれ189人と157人が犠牲になりました。これが決して偶然ではなくボーイングの企業としての変質がもたらした必然的結果であることを、この連載記事は株主資本主義への告発として衝きつけています。元社員が開発過程に問題があったことを語っています。「機体の不安定さという問題の根源を残したまま、それがもたらす現象にだけ生煮えの技術で対処しようとしたことに、致命的な落とし穴があった」。しかも開発陣はシステムの危うさに感づいていたのに、米連邦航空局(FAA)に隠していた疑いも強いと言います(123日付)。エアバス社との競争に負けそうになって挽回するために、手抜きの開発で時間と費用を削減しました。その結果「MAXの好調な売れ行きと株主還元を好感し、ボーイングの株価は高騰。 …中略… 株価に連動する高額報酬を受け取った経営陣も、株高を謳歌(おうか)した。 …中略…  その間、企業としての体力は逆に細っていき、19年に債務超過に転じていた」(同前)。

 手抜き開発の背景には、財務戦略としての自社株買いへの傾注があります。株価を引き上げる効果がある自社株買いは株主還元の手法の一つです。技術開発よりも自社株買いに資金が流れ、企業の財務体質も悪化させたのです。識者はこう嘆きます(同前)。

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 「株主価値を最大化するという名の下で、企業が現金を求めて金融マシン化し、超富裕層への富の集中と雇用の空洞化、そして生産性の停滞を招いた」。マサチューセッツ大の名誉教授ウィリアム・ラゾニックは言う。「ボーイングに限らない。80年代から続く米国経済の病理だ」

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 これに対して社会的規制が働かないという問題があります。「FAAは人手も予算も足りず、審査の大半はボーイング自身の技術者に委ねられていた」(同前)。つまり「(規制される側が規制する側を凌駕〈りょうが〉する)『規制のとりこ』にとらわれている。検査官の尊厳は失われ、士気は地に落ちた」(127日付)という状態です。ボーイングは「規制を忠実に守るより、ロビー活動で当局を乗っ取ろうという姿勢が露骨になった」(同前)と言われています。この変質は次のように総括されます(123日付)。

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ボーイングは、安全な飛行機をつくる「エンジニアリング企業」から、株主のためにキャッシュを生み出す「金融マシン」へとその本質を転じていたのだ、と。それはボーイングだけの現象ではなく、米国の資本主義そのものの変容をも映し出していた。

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 ボーイングとアメリカ資本主義では生産資本循環の視点が投げ捨てられ、貨幣資本循環の視点だけに純化されてしまった…。さらに連載記事はボーイングとアメリカ資本主義の変質のイデオロギー的背景をきちんと指摘し、最近見られる「改心」の本気度に疑念を呈し徹底的に批判しています。

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 米経済学者ミルトン・フリードマンが1970年に記したエッセー「企業の社会的責任とは、利益を増やすこと」は、GMに社会的責任を果たすよう求めたネーダーらの運動に対抗する文脈で生まれたものだ。

 企業はお金もうけに集中すべきで、社会的な問題は慈善団体や政府に任せた方がうまくいく――。「フリードマン・ドクトリン(教義)」は、米国と世界を席巻した新自由主義や株主資本主義の「のろし」ともいえる記念碑的な一文となった。   (128日付)

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 こうして新自由主義がアカデミズムと現実の政治経済に覇権を確立することで、格差と貧困が拡大するのみならず、飛行機事故に象徴されるように人命さえも軽視される資本主義が横行するようになりました。リーマン・ショックとコロナ・パンデミックなどにより誰の眼にもその破綻が明確になる中で、あれこれと「改心」が語られるようになります。岸田首相の「新しい資本主義」が眉唾物であり、安倍=菅政権の新自由主義の継承に過ぎないことは明白ですが、話題となった、米経営者団体ビジネス・ラウンドテーブル(BRT)が発した2019年の声明(通称パーパス文書)はどうなのでしょうか。もっぱら株主の利益を追い求める株主資本主義から、顧客や従業員、取引先、地域、地球環境など全てのステークホルダー(利害関係者)に配慮した新たな資本主義へ――ステークホルダー資本主義の宣言というわけですが、「改心」の本気度が、コロナ危機で試されました。20年春の調査によれば、パーパス文書に署名しなかった同規模の企業よりも、署名した企業は2割多く株主に還元していました。人員削減した割合も2割高く、物資増産や緊急支援、商品の値下げも、署名企業はむしろ消極的でした。株主に多く還元してきた企業ほど、今回も「悪い」行動をとる傾向が強かったのです(129日付)。どうやら「株主資本主義を支えてきた株価連動型の経営幹部への巨額報酬を見直そうという議論や、富裕税導入に向けた動きは鈍い。コロナ禍で経営幹部と働き手の所得格差は一段と広がった。経営者は身を切らず、最重要の利害関係者である働き手を置き去りにして『ステークホルダー資本主義』はおぼつかない」(同前)というのが妥当な評価でしょう。パーパス文書が出た背景として、「コストダウンで利益をひねり出して株主に還元し、株価も最高値を更新し続けてきた。しかしそれも限界に近い。会社そのものが壊れかねないのに、株主の要求はやまない。そこで出てきた考え方が、ステークホルダー重視だった」(同前)という指摘があるのも納得できます。文書は確かに世間の空気を反映はしていましたが、実際の企業行動はそれが見せかけの「改心」に過ぎないことを露呈しました。やはり労働運動・社会運動による対抗と立法措置を含む確かな社会的規制によって、つまり下からと上からの民主的規制によって資本の運動にタガをはめることなし、ステークホルダー資本主義なるものは実態が伴わないことがはっきりしています。それはアメリカも日本も世界の資本主義も同様です。

 

     *バイデン政権――物価・賃金の苦闘

 アメリカの話題ついでにバイデン政権について考えます。まずはっきりさせるべきはバイデン政権もアメリカ帝国主義の政権だということです。それが最も分かりやすいのは、日本を属国として扱う姿勢です。直近の話題として言えば、沖縄・山口・広島でのコロナ感染爆発は米軍基地由来でした。「日米同盟」による屈辱的な地位協定の下、「検疫自主権」さえ持たない日本で、米軍人はフリ-パス状態でオミクロン株を振りまき上記地域で感染爆発を招きました。国政の問題としては、コロナ禍での人々の苦闘をよそに、反人民的な改憲・軍拡路線を突っ走る対米従属政権は米帝国主義の後ろ盾なくしてあり得ません。バイデン政権は中国包囲網形成の手駒として、岸田政権をいいように使っています。世界を見渡せば、中国・ロシアの覇権主義の悪行が突出しており、それと対決するアメリカが正義の味方かのような錯覚が生じています。もちろん両国の覇権主義は厳しく批判されねばなりません。しかし米帝国主義自身がこれまでの数々の侵略戦争を全く反省しない存在であり、それにふさわしく中国・ロシアの覇権主義に対するに、軍事同盟の包囲網を最大限活用するという力の政策にもっぱら依存しています。日本は本来、世界の多数派である非同盟路線に沿って、日本国憲法の平和主義に適った外交を確立すべきですが、歴代自民党の対米従属政権にそれは期待できません。

 バイデン政権の内政については別の評価があり得ます。大統領自身は民主党中道派ですが、近年の民主党左派の進出著しい状況を反映して、税制を始めとする経済政策においてかなり人民本位の方向に転換する志向が見えます。それについては前掲・合田論文が「ビルド・バック・ベター」プランを紹介しています(9497ページ)。それは貧困対策・インフラ投資・気候変動対策などを総合的に解決するプランであり、その財源としても法人税の意義を再確認し、課税の中心を労働から資本に移し、タックスヘイブン対策や国際的税率引き下げ競争への規制を打ち出し、新自由主義からの転換が明確な政策となっています。しかし残念ながら、今は支持率低下に苦慮しています。その状況は以下のようです(「しんぶん赤旗」120日付)。 

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 新型コロナ対策法、インフラ投資法と合わせ、バイデン政権は、教育・子育て支援、低所得者むけ政策、気候変動対策などを盛り込んだ国民向け施策を発表しました。「ビルド・バック・ベター」と名付けられた大型歳出法案は、3兆5000億ドルから1兆7500億ドルの規模までに引き下げられましたが、政権発足1年を経ても議会通過・成立の見通しが立っていません。

 同法案の主な財源は、富裕層、企業への増税です。昨年11月に下院で採決されました。しかし、上院では民主50対共和50の拮抗(きっこう)した議会勢力状況のもと、共和党とともに民主党のマンチン議員(ウェストバージニア州選出)が反対を表明。採決のめどがたたないまま、年を越しました。

 サプライチェーン(供給網)の混乱、物不足・各サービスの低下、インフレなど、国民生活が厳しい状況におかれるなか、バイデン氏の支持は低迷しています。1月14日に発表された世論調査(ラスムセン)では、大統領の支持率は38%(不支持60%)にまで落ちました。

 一方で、「ビルド・バック・ベター」法案に対する国民の支持は高く、データ・フォー・プログレスが11日に実施した調査では、65%が同法案を支持する(不支持29%)と答えています。

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 ここで私が対蹠的に想起するのが、アベパラドクスです。安倍政権はその政策に支持がないのに内閣支持率はそこそこで推移し、長期に存続しえました。この逆説の原因は、野党への不審などいろいろあげられるでしょうが、ここでは措きます。逆にバイデン政権はその重要政策に支持があるにもかかわらず、政権支持率が低迷しています。この逆説の原因としては、アフガニスタンからの撤退の問題などもありますが、物価上昇への不満が大きいと考えられます。これは日本での政権交代に対しても重要な示唆を与えます。人民本位の政策を提起しても、前政権の悪しき遺産などを含めて、経済状況が悪化すればたちまち政権への信任が揺らぎかねません。詳しい状況を「朝日」121日付に見ます。

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 ■巨額財政出動、届かぬ効果

 労働者の交渉力の向上は「最も労組寄りの大統領」を自任するバイデン氏の思惑に沿うものだ。だが、支持率は低迷した。何を誤ったのか。

 過去数十年間、米国民所得に占める労働者の取り分は低下し続けた。情報通信革命など技術革新の加速や製造業の海外移転などが背景にある。グローバル化の恩恵を労働者が感じられず、中国からの輸入増で製造業地帯が打撃を受けたことは、トランプ前大統領の台頭を招く要因になった。

 これに対し、バイデン氏は巨額の財政出動による「大きな政府」へとかじを切り、労働者の支持を広げようとした。経済政策を担うイエレン財務長官が念頭においたのが、米連邦準備制度理事会(FRB)議長として携わったリーマン・ショック後の経験だった。

 リーマン後は、消費など「需要」の落ち込みとデフレ圧力、低成長が長引いた。消費者でもある労働者の購買力が縮めば需要は弱含む。イエレン氏は16年の講演で、景気回復後も財政金融政策のアクセルをふかし、あえてインフレ気味にする「高圧経済」に言及した。

 バイデン政権はこの「高圧経済」を実行に移した。21年3月には米議会が1・9兆ドル(約220兆円)もの経済対策を与党民主党単独で可決し、国民への直接給付金で需要を刺激した。

 しかし、誤算だったのは、問題が需要ではなく「供給」にあったことだ。物流の混乱や人手不足が重なり、製品の供給が停滞。想定を上回って物価が上昇し、その勢いも持続してきた。21年12月の米消費者物価指数の上昇率は前年同月比7・0%と、39年半ぶりの高水準を記録した。

 賃金の伸びを超えるペースで物価が上がったため、人々には回復の実感が届かない。コロンビア大経営大学院前学長のグレン・ハバード氏は、バイデン政権がリーマン後の経験に縛られたと指摘し、「供給制約とコロナ対策に専念すべきだったのに、需要を刺激し続けたのが政策の誤りだった」と批判した。

 一方、「S&P500株価指数」を構成する米大企業の21年の利益は、20年を4割超上回る見込みだ。空前の財政金融政策であふれた資金は株式市場に流れ込み、21年の1年間でS&Pは約27%、ダウ工業株平均も約19%上昇した。

 資産家や富裕層が大きな富を蓄積した半面、インフレは資産を持たない低所得層を直撃する。バイデン政権が制御できなければ、労働者の怒りが民主党に向かった過去の「悪夢」の再来が現実味を帯びてくる。

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 前掲の建部論文にあるように、今日の物価上昇の原因は「供給制約」にあります(インフレではない)。そこで需要対策に注力するという方向違いを犯したのが政策的誤りの核だというのがこの記事の主張です。そのあたりの成否は私のようなものでは分かりかねるところがありますが、物価と賃金の関係は生活に直結するものであり、政権の帰趨を制するとも言えるという構えで捉える必要があるでしょう。今回の拙文の題を「コロナ・パンデミックと物価・賃金」としたのはそうした政治経済学的意味合いがあります。野党共闘さえどうなるかという状況であまりに先回りした「心配」ではありますが…。あれにもこれにも言及して、いつにもまして散漫な作文になってしまいました。妄言多罪。

 

 

          一般教養の大切さと注意すべき右傾化

 

 日本の主要メディアは日米安保条約支持で、「日米同盟」なるものを国際情勢の空気のようなインフラのごとく扱っています。それはつまり平和は軍事的抑止力で守られるという立場に立って、世界をアメリカの眼で見ることにどっぷりつかっているということです。それに対して、羽場久美子さんに聞く「移民・難民問題からみた国際政治の課題」では、たとえば空爆が生み出す難民の数が圧倒的に多いことを指摘し、先進国の責任を問うています(111ページ)。大河ドラマなどに見られるように、幕末・明治期につながる欧米崇拝に未だに囚われている日本では、先住民の地域への支配・侵略に対する批判や反省がなく、バイデン政権の中国・ロシアへの軍事的封じ込めに何の疑問を感じていないことが批判されています。小泉親司氏の「日米同盟の現段階と9条外交 『安保法制』強行から6年の変貌は、戦争法の強行成立後の日本の政治の危険な変貌を捉えつつ、最後にASEANを中心とする東アジアでの平和の努力が紹介され、日本外務省もそれを評価せざるを得ないことに言及されています(132ページ)。

 そのような見解は私たちにとっては普通のことですが、世間では例外であり、一般教養の基準そのものがいわば右傾化していることに注意する必要があります。そこで、120日付の「朝日」に載った、2006年東大入試の「世界史」の問題と解答例がなかなか秀逸なので注目しました。学校で習う社会科なんてのは暗記物、すぐ忘れるだけで、大人になったら役に立たん――というのが世間の常識でしょう。しかしこの記事は、世界史を長いスパンで見渡すことで、今日の戦争と平和を考える糧となる――ということがよく分かる良問と解答を紹介しています。

 内容としては――近世、近代、20世紀の各時期を代表する三つの戦争<三十年戦争、フランス革命戦争、第1次世界大戦>を扱って「戦争の助長と抑止」を論じる――というもので、「ウェストファリア条約」「国際連盟」など八つの語句を使って510字以内で書きます。とても難しいですが、解答例を見るとなるほどと感心します。ところが、残念なことに解説記事の次の部分には重大な間違いがあります。

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 集団安全保障による平和への試みは冷戦後も続いており、憲法解釈の変更による日米同盟強化もその一環でしょう。集団的自衛権という「正義」が、新たな戦争を助長する火種とならないのか。

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 集団的自衛権に対する懸念が表明されているのはセンスとしてはいいのですが、その前段が理論的に誤っています。ここでは「集団安全保障」と「集団的自衛権」とが等置されています。しかし両者は似て非なるものです。図式的に説明します。ABCDの4カ国があり、AがBを侵略した場合、集団安全保障では、CとDが、侵略者であるAを抑えると決めておき、戦争を抑止します。4カ国は共同で平和を守るのであり、ここには仮想敵国はありません。

 それに対して集団的自衛権では、A・BとC・Dがそれぞれ軍事同盟を結びます。AがCを侵略したらDはCを助けてAとBに対して参戦し、BはAを助けてCとDに対して参戦します。ここにはあらかじめ仮想敵国があり、一つの戦争が4カ国を巻き込む戦争となります。 → (※注)

 

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☆集団安全保障

       

 → 外部に仮想敵国を持たず、内部のABCD間で相互不可侵を約束

 

☆集団的自衛権を要する軍事同盟

  <  > VS <  >

 → A・BブロックとC・Dブロックとがあらかじめ仮想敵として対立

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 両方とも軍事的抑止力を前提しているという意味では、交戦権を否認した日本国憲法とは相容れません。しかし集団安全保障はいわば平和への備えであるのに対して、集団的自衛権は戦争への備えであり、ベクトルが逆です。国連のタテマエは集団安全保障であり、日本はその直接的当事者とはなれませんが、日本国憲法は軍事同盟の集団的自衛権ではなく、その国連のタテマエの集団安全保障と連携しているはずです。

 ところが日本は現実には日米安全保障条約という軍事同盟を結び、2014年には(従来、違憲と言ってきた)集団的自衛権の行使を閣議で(!?)容認するに至り、翌15年にはそれを立法化しました。安保法制と言いますが、私たちはその本質を捉えて戦争法と呼んでいます。日本は憲法の精神とはますます離れて戦争に近づいています。

 今日の世論は圧倒的に日米安保条約を支持しています(憲法9条も支持されているが…。その矛盾などについては拙文「平和について考えてみる」参照)。メディア報道は「日米同盟」を守ることが絶対的前提となっています。メディアの言う「世界」は米国という色眼鏡を通したものしかありません。当たり前の自主性を主張する勢力や政権は内外問わず「反米」というレッテルを張られます。日米同盟への絶対視で他の可能性が見えず思考停止状態です。憲法に基づく平和外交の想像力が働きません。軍事的抑止力の観点から、バイデン政権の中国包囲網形成にどう参加するかはあれこれ考えても、ASEANが推進している東アジアサミットにもっと積極的に参加して、これを東アジアでの平和構築の中心に据えようと言った発想の転換がありません。

 そんな思考の枠組みの中では、米国の属国かと思われるような状況への当然の怒りさえ起こりません。「検疫自主権」さえなく、米軍基地によってオミクロン株が持ち込まれ、沖縄・山口・広島などで感染爆発が起こっても、日本のメディアと世論が爆発することはありません。そういうノーテンキな空気ならびに先の「思考停止状態」の中では、集団的自衛権があたかも「平和」とか「正義」の側に見え、集団安全保障と混同されるのも当然です。

 また解説記事の他の部分では、米国など先進資本主義諸国が民主主義で正義であり、中国・ロシアなどが権威主義で悪であるという認識で書かれています。確かに中国・ロシアに問題があることは当然ですが、米国もまた第二次大戦後もベトナムやイラクを始めとして多くの諸国を侵略し何の反省もない帝国主義国です。日本は憲法に逆らって対米従属国としてそれに協力してきました。そういう認識を欠落させた平和論・民主主義論はあり得ません。それも日米同盟絶対視の産物でしょう。

 この解説記事は「朝日」記者と河合塾の講師が書いています。特に右派というわけではなく、まあ普通の体制内リベラルとでもいう立場でしょう。そこで良質の一般教養が語られているかに見える中でも、戦争と平和に関するとんでもない間違いが平然と犯されています。日米同盟絶対視の害悪は深刻であり、「普通の空気」に合わせて今日の世論はこうして右寄りにつくられるということを私たちは銘記する必要があります。

 もちろん戦争法のような明白な違憲立法や敵基地攻撃論のようなあからさまな全面戦争への肯定が登場する、という異常事態を解決するのが当面する課題です。そこでは日米同盟支持者とも共闘する必要があります。そういう共同の努力の中でも、日米安保条約支持が多数派であることが、憲法を十分に活かせず、平和の世論の脆弱性につながり、様々な脅威論などで戦意を煽られる危険性があることに留意すべきです。 

 先に、東大の過去問について良問だと言いましたが、こうして見て来ると私の見識が足りないだけで、本当はそうでもないか、という疑問も生じます。しかしその判断には、歴史学や政治学の(あるいは経済学も)一定の知識が欠かせないので保留する他ありません。拙文の始めの方では、学校の勉強から始まる標準的一般教養の大切さ、ということを書いたのですが、それがいつの間にか右傾化している可能性がある、という注意を再び喚起して終えることにします。

 

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(※注) 『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)より

 

集団安全保障

「勢力均衡」政策下の軍事同盟と対比される、戦争を防ぎ平和を維持するための国際法・国際政治上の方式。外部に仮想敵国を持たず、内部の諸国間で相互不可侵を約束するとともに、これに反した侵略の防止および鎮圧のために協力することを内容とする。 …後略… 

 

個別的・集団的自衛権

 …前略… 集団的自衛権は、国連憲章第51条ではじめてみとめられた権利であるため、その内容をどう理解するかについては見解に対立がある。一般には、自国と連帯関係にある他の国が武力攻撃を受けた場合に、その国にかかわる自己の死活的利益の侵害を理由として、みずからも反撃にたちあがる権利と解されている。集団的自衛権は、大国が、みずからは武力攻撃を受けていないにもかかわらず、武力を行使することを可能にするものであり、北大西洋条約機構(NATO)や旧ワルシャワ条約機構(WTO)などの軍事同盟の根拠とされている。これらの軍事同盟は、外部の敵にたいする同盟国の共同防衛を約束するもので、国際社会の共同の力で侵略を阻止しようという国連の集団安全保障とは両立しない。なお、日本国憲法第9条は集団的自衛権をみとめていない、というのが従来の政府の憲法解釈であったが、日米安保条約にもとづく日米軍事協力は、憲法違反の集団的自衛権によらなければ説明できない。

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                                 2022年1月31日






2022年3月号

          ASEANの政治と経済

 

☆ASEANをめぐる問題意識

 ヨーロッパでは、ついにロシアがウクライナに侵略しました。東アジアにおいても米中対立を背景に、東および南シナ海で中国が覇権主義的活動を強め、台湾への武力進攻の可能性が取り沙汰され、北朝鮮も核・ミサイル開発を急速に進めるという情勢が続いています。日本ではこれらを奇貨として特に安倍政権以来、中国・北朝鮮の脅威を煽り、対米従属下で、着実に軍拡が進むとともに改憲策動も性急に追求されています。

 1970年代くらいまでは、日米安保条約への賛否が国論を二分しており、非同盟中立ということがそれなりの勢いを持って議論されていました。ところが現在は、世論上、安保条約や自衛隊への支持が圧倒し、メディアでは「日米同盟」なるものが日本外交の不動の前提であるかのように議論されています。軍事的抑止力論が世論の常識的前提になっていると評価せざるを得ません。それとは根本的に矛盾する憲法9条は今なおそれなりの支持を保っています。しかしメディアやネットで、中国や韓国への敵対意識が簡単に煽られ定着している状況を見ると、9条支持の世論は、各種脅威論によって容易に扇動され、ひっくり返されるであろうと推察されます。「日米同盟」下での抑止力論に基づく軍事・外交的既成事実の積み重ねによって、戦後民主主義の平和意識は極めて脆弱化されました。既成事実がその重みで大衆的に定着する一方で、対抗すべき理念が相手にされず宙に浮いている状況があります。

 日米安保条約破棄を標榜する主要政党が共産党だけになり、それが世論調査上、2or3%程度の支持しか得られないのが現状です(一人ひとりの内面では安保条約破棄と共産党支持とは必ずしも一致しないが、総計としては同程度になるようだ)。もはや世論上、「革新」は死語となり、国会議席は総保守化が圧倒しています(野党共闘が困難性を持つ究極の根拠はここにあるが、その考察は措く)。抑止力論と脅威論とに憲法の平和主義を対置するイデオロギー上の勢力基盤が大衆的にも政界でも失われています。

にもかかわらず、平和憲法がそれなりに権威を持ち、9条改定には強い抵抗感が示されるという事実は我々にとって重要なアドバンテージであり、依拠すべき基盤ですが、それを活かす具体的方法についてはここでは措きます。理想が空想かせいぜいタテマエ程度に扱われる状況下で、日本国憲法的な平和主義の「論より証拠」としてしばしば提出されているのがASEAN(東南アジア諸国連合)の実績です。かつてベトナム戦争で二分された東南アジア地域において、その戦後は、対話・外交に徹して、紛争があっても国家間の戦争にせずに積み上げてきた実績(=既成事実)は貴重です。その政治・外交上の内容については後ほど見るとして、まずは本誌特集1「模索しつつ進むアセアン」からASEANの経済を見たいと思います。

と言いながら、その前にASEANを見る視点を三つばかり提起したいと思います。一つは政治と経済、それぞれの進み具合の関係です。ここで想起されるのはEUです。政治的には歴史上、第二次大戦まで何度も戦争を繰り返してきた独仏両国が今戦争するとはだれも思わない状況になっています。これはその前身を含めてEUが所期の目的を達した重要な成果ですが、経済統合は必ずしもうまくいっていないようです。イギリスの離脱、域内での経済格差、移民問題等々、内部での多くの問題を抱え、対外的にもEU・ユーロはアメリカ・ドルへの対抗勢力になり得ていません。ASEANもまた政治主導、安全保障が目的であり、その点では成果を上げていますが、経済統合は手段であり、それは必ずしもうまくいっていないようです。

 二つ目は内政と外政との関係です。ここで想起されるのは、日本共産党の野党外交の苦い経験です。かつてアメリカ帝国主義にも、ソ連・中国の覇権主義にも対抗して、発展途上国を中心に非同盟中立運動が活発に展開されました。そうした外交上の観点で、冷戦期においてたとえばルーマニアのチャウシェスク政権と、冷戦後であればチュニジアのベン・アリ政権と日本共産党は友好関係を築きましたが、いずれも独裁政治に反対する民衆の決起によって打倒されました。前者は1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される一連の東欧政変の中でもひときわ劇的な一幕として、後者は2011年の「アラブの春」の先駆けとして、両者とも強い印象を残す政変でした。チャウシェスク政権は1968年時点ではソ連のチェコスロバキア侵略に反対する自主独立の立場を示していましたが、国内的には警察国家であることが研究者などにはよく知られていました。1989年の東欧政変に際しては、チャウシェスクはソ連の介入を主張するに至りました。

ベン・アリ政権との関係は一連のアラブ・イスラム諸国との関係構築の中で結ばれたものです。無神論を敵視するイスラムと共産主義者との異なる価値観の共存関係として当時喧伝されました。しかしウィキペディアによれば「ベン・アリ大統領は近代化・西欧化を推進。その一方で、社会主義運動及びイスラム過激主義運動を弾圧して政治的安定を維持してきた」ということであり、「201012月にチュニジア中南部で発生した貧困・雇用対策を求める大規模抗議デモを機に、国内各地で反政府デモが発生。住民と治安部隊の間で衝突も頻発。2011114日、反政府デモ・暴動が急速に拡大・深刻化し」政権は崩壊しました。

 これらの例は、対外関係と内政との正しさが必ずしも一致するものではないことを示しています。北京五輪に際しても、中国の人権問題が採り上げられるように、今日、人権は国際問題として扱うことが求められるので、内政不干渉の原則を無制限に適用して独裁政権への批判を避けることは許されません。中国の場合は内政・外政両方ともあまりに問題ありなので、批判は当然と言えますが、片方だけが問題だということもあります。内政と外政は区別しつつも、まったくの別物扱いをすることはできません。一方でこの区別と連関をさばく基準(内政不干渉の適用領域)が微妙であり、他方で内政での人権・民主主義の評価基準をどこに置くかも問題です。二つの基準をともに考慮する必要があります。

一般に先進的な民主主義国と認められている国の場合は、その対外政策が帝国主義・覇権主義的であるかどうかだけで、内政・外政の全体的評価ができます。問題となるのは、発展途上国・新興国において、人権・民主主義の成熟度において必ずしも先進国の水準には達していないが、それなりに達成の努力があり、対外関係において帝国主義・覇権主義に反対し民主的な国際関係、民族自決を追求しているというケースです。ここでは外政での積極面を評価し、内政については必ずしも西欧的基準を一律に当てはめるわけにはいきません。かといってあまりに甘い基準でも問題を残します。国連憲章や世界人権宣言を始めとする今日普遍的に認められた法典・条約などを参照して判断する他ないでしょう。平和・安全保障において顕著な成果を上げているASEAN諸国の内政にしてもそれぞれに即して検討することが求められます。

三つ目は新自由主義グローバリゼーションとの関係です。ここで対比されるのは中南米左派政権です。20世紀末、冷戦後から今日までは新自由主義グローバリゼーションの時代であり、その中でASEANは勝ち組(と言ってもその意味と、手放しで礼賛はできないことは後述)として顕著な経済成長を実現し、中南米は負け組としてIMFコンディショナリティを押し付けられ、経済は停滞し民衆の貧困は増大しました。1990年代末以降、中南米においては、人民の不満が左派への政権交代を実現しましたが、その後は各国ごとに様々な曲折を経て行方は定まりません。中南米の左派・中道左派政権を担う勢力は第3インター出自の共産党とも西欧型社会民主主義とも違う21世紀の社会主義として注目されましたが、中には独裁化するなど混迷を深めているものもあり、全体として社会主義の運動としても政権としても優位性を発揮しているとはとても言えません。

それに対してASEANは開発独裁と民主化が交錯する中で、政権への左派の出番はなく、保守政権として外政・安全保障の領域で顕著な成果を上げています。ここまで両者を見て来ると、冷戦期と新自由主義グローバリゼーション期とを通じて、「社会主義の敗北と資本主義の勝利」のようにも総括できそうです。しかし帝国主義・覇権主義に抗する発展途上国(とその人民)の闘いの試行錯誤の過程と総括するならば、むしろ未来社会を切り開く社会主義へつながる道であるとする可能性もなくはありません。新自由主義グローバリゼーション下でのASEAN各国内部の矛盾を捉えるならば、外政・安全保障での保守政権の成果を継承しながら、将来的には人々の生活と労働を改善する社会主義的変革に進む左派政権登場の可能性があるということも、あながち強弁とのみは言えません。中南米においても、対米自立を一つの軸として新自由主義に抗する左派の存在感は依然として強く、20世紀旧社会主義像に囚われずに、人民の現実に即した変革の歩みが期待されます。

 

☆ASEANの経済統合

 以上の三つの視点は極めて雑駁な問題提起に過ぎません。次にASEANの経済統合について本誌特集論文による本格的な検討に触れることにします。特集冒頭、西口清勝氏の「ASEAN経済共同体(AEC)の現状 成立後の経済統合の実態と評価は経済統合への行き届いた分析・評価の後、三つの共同体――ASEAN政治安全保障共同体(APSC)、ASEAN経済共同体(AEC)、ASEAN社会文化共同体(ASCC)――から形成されるASEAN共同体(AC)全体の基本的性格としての「平和の共同体」という観点から総括するという壮大な力作です。が、きわめて読みにくい。理由は以下のごとく。テーマ関連で独自の政策・協定・経済用語などがやたらと多く登場し、始めに登場する箇所には日本語表記の後のカッコ内に英語の頭文字が表記され――たとえば、ASEAN経済共同体(AEC)――、二回目からは頭文字表記――AEC――だけになります。すぐに忘れるので後者だけでは意味が取れません。そこで始めに登場する箇所に赤鉛筆で傍線を引いて、繰り返しそこに立ち返って頭文字の意味を確認しながら読まねばなりません。おかげで誌面がずいぶん赤くなり、読む時間も長くなりましたが、それだけしたかいはありました。

 論文はまずASEAN経済統合に関する公式評価文書があてにならないことを詳細に検討して明らかにした(この部分はかなり紙幅を使ってウンザリさせられるのだが、分析の土台を抜かりなく固めるためにはやむを得ない)後に、信頼に足る公式統計(ASEAN事務局刊行の『ASEAN統合報告(2019年版)』)に基づいて経済統合の実態を評価しています。

それによれば、物品貿易・サービス貿易とも顕著に増大していますが、ASEAN域内貿易の伸びは全体より少ないので、域内貿易比率は低下しています。ASEANは貿易依存度(貿易/GDP)が他国・地域に比べて顕著に高いのと対照的に、域内貿易比率は低くなっています。これは「域外からの輸入と域外への輸出に大きく依存しているためであり、世界経済の変動を受けやすいASEAN貿易と経済との不安定性と脆弱性とを示してい」ます(21ページ)。

ASEANは外資依存の輸出指向型工業化政策を長年にわたり採り続けてきており、外国直接投資(FDI)が経済成長と国際競争力の強化に貢献し、域内に生産基盤を形成する上で大きな役割を果たしているという認識を持っています(22ページ)。したがってASEANのFDI受入額は米国・EUに次いで世界第3位で、中国・インド・日本・韓国を上回っています。しかしASEAN域内直接投資の比率は20%以下しかありません。証券投資も顕著に増加していますが、ASEAN内比率は10%余りしかありません(23ページ)。

以上を見ると、マクロの経済指標では増加していても、域内比率は低い水準で停滞しています(24ページ)。したがって「単一の市場と生産基地」を形成するために、域内で生産要素の自由で規制のない移動を可能にするよう取り組む、というASEANの経済統合は「失敗」していることになります(25ページ)。

これに対して、域内比率の低迷よりもマクロ経済指標の増加を見て「成功」と評価する立場もあります。ASEANの地域主義の目的はグローバルな統合による福祉の最大限の追求である、あるいはASEANの真の目的はグローバリゼーションのために地域主義を利用することである(同前)という観点からの評価です。これはオープン・リージョナリズム(開放的地域主義)を指し、その担い手は多国籍企業と現地の大企業集団(財閥)であり、その政策は外資依存の輸出指向型工業化政策(EOI)となります(26ページ)。域内貿易比率・投資比率がどうであれ、マクロ経済指標さえよければASEAN経済統合は成功しているという立場からは、ASEANのグローバル経済への参入と統合によるEOIの成功がカギということになります。

 しかし論文は「そこには現在のグローバル経済に固有な『陥穽』がある」(27ページ)と見ています。多国籍企業によるグローバル・ヴァリュー・チェーン(GVC)が発展している現在、貿易額そのものよりもそれを構成する付加価値を国内付加価値(DVA)と外国付加価値(FVA)とに区分して考える必要があります。前者は国内に残りますが、後者は国外に流出します。この付加価値の分配が問題となります。生産・雇用の増大や競争力強化を期待して多くの途上国がGVCに参加するわけですが、その中で先進国はより多くの利益を受け、途上国はより少ない利益しか与れないという、付加価値貿易分析の結果が紹介されています(2729ページ)。ASEAN諸国もGVCに参加する程度は高いが、そこから得られる利益がより少なく、GVC参加による利益がより不平等に配分されています(29ページ)。したがってASEAN経済統合について次のように総括されます。

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 GVCの時代においては、輸入(とりわけ部品・中間財の輸入)依存の輸出指向型工業化政策には大きな限界があり、マクロ経済指標の量的拡大だけでは到底解決できないことを意味している。それを克服して行くためにはこれまで輸入してきていた高付加価値の部品や中間財をASEAN域内で代替生産することが必要であり、ASEAN域内経済協力による経済統合の重要性をあらためて示唆している。     29ページ

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 こう見て来ると、もっぱらマクロ経済指標の好調さに依拠したASEAN経済統合「成功」論がグローバル資本と国内財閥の利益を代表する立場であり、ASEAN域内ならびに各国民経済の利益と産業バランスという視点を欠くことが分かります。それに対して同「失敗」論は人民の利益から出発してそうした視点に配慮したものと思われ、今後の改善方向を指し示しています。

 ASEANが新自由主義グローバリゼーションの勝ち組であると前記しましたが、その意義と限度がここに明らかになりました。外資依存の輸出指向型工業化政策(EOI)によってグローバル経済への統合を果たし、その結果としての経済成長の実現を始めとするマクロ経済指標の好調ぶりからは、一方での絶対的貧困の削減などの成果が予想されます。他方では、国際的な先進国と途上国との格差構造に取り込まれるとともに、国内での格差拡大と貧困の残存が予想されます。ここにASEAN加盟諸国とその人民にとっての社会進歩の課題があり、たとえ勝ち組であっても新自由主義グローバリゼーションそのものの克服が求められていると言えます。

 このように少なくとも各国人民にとっては、ASEAN経済統合が必ずしもうまくいっていないとするならば、そこでの人々の生活と労働の視点から各国経済を分析することが必要となります。その一例が岩佐和幸氏の「マレーシア 政権交代と階級社会化」です。マレーシアと言えば、1997年のアジア通貨危機に際して、IMF路線に反して独自の経済管理で危機を脱したり、2018年には日本の消費税に当たる物品・サ-ビス税(GST)を事実上廃止したりなどで、日本の民主勢力の間では注目されてきました。そのような国際的評価の裏で国内的には様々な経済的矛盾が累積し、最近は政界の混迷が続いています。その原因として、汚職や権力闘争などの政局だけにとどまらず、経済成長に伴う格差拡大など社会経済構造の変化に根を持つ政治不信が挙げられます。論文は「家計調査の分析等をベースに、政権交代の底流にある階級社会化の実態を人々のくらしの視点から検討し」(60ページ)、次のように結論づけています。

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 …前略… マレーシアは、先進国の仲間入りを目指して比較的順調な経済成長を遂げてきたが、その果実は均等に配分されたわけではなかった。実際には、伝統的な民族/地域格差を残存させながら、絶対的貧困の周囲に位置する多数の人々と、利権と資産をテコに富を一層蓄積するごく少数の富裕層との経済格差が一層明瞭となる階級社会の性格を帯びるようになっている。しかも、政府は社会的不平等の改善よりも資本の要請に沿った外国人労働者の導入を容認してきた結果、多数派を占める中・低所得層は、新自由主義に基づく低賃金と物価高の狭間で生活難と家計債務の累積に陥り、利権確保に勤しむ守旧派エリートへの不信感をつのらせていったのである。そして、コロナ禍の現在では、こうした矛盾が一挙に露呈し、社会経済構造の変革が迫られる時代を迎えているのである。

     65ページ

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 この中で、社会矛盾に階級的にアプローチするマレーシア社会党が誕生し(1998年設立、2008年公認)、その今後の展開が変革のメルクマールになる、と論文は主張しています(6566ページ)。おそらくASEAN加盟の他の諸国も似たような経済状況でしょうから、新自由主義グローバリゼーションの勝ち組であっても、そのもたらす経済的諸矛盾の中で、人々の生活と労働を改善する根本的な社会変革が求められることでしょう。

 以上、三つの視点(1.政治と経済、それぞれの進行度、 2.内政と外政の関係、 3.新自由主義グローバリゼーションとの関係)を念頭に、ASEANの経済事情と経済統合について見てくると以下のように評価できるでしょうか。――(1)平和・安全保障分野での先進的な役割の拡大に比して、各国経済の矛盾は大きく、経済統合も必ずしも順調に進んでいない(政治に対する経済の遅れ)。 (2)外政・国際関係としてはASEAN域内でも域外に対しても良好な関係を拡大しているが、各国内では困難も多い(内政に対する外政の優位)。 (3)新自由主義グローバリゼーションに乗って経済成長を実現し、その力も一つの背景にして、平和・安全保障の領域で積極的な役割を果たしてこられたが、格差拡大など階級的矛盾は大きい(新自由主義グローバリゼーションの「勝ち組」の光と影)。

 

☆「平和の共同体」としてのASEAN

 ここで西口論文に戻ると、ASEAN経済統合の分析に続いて、「平和の共同体」としてのASEAN共同体(AC)全体の役割について述べています。ASEANは1967年の成立から今日まで「①ASEAN加盟国間の紛争が武力衝突へ発展しないようにすることと、②域外パワー(大国)が、ASEANを彼らの対立の場として利用することがないにすること、という二つの目的を持ち続けてきてい」ます(30ページ)。それはベトナム戦争を反面教師として学び取った原則と言えます。ASEANは着実にその実現に努めてきました。

 ベトナム終戦の翌1976年に「東南アジア地域における永続的平和と安全を確保するための方法及びそのための地域協力のあり方についての法的枠組み」として締結されたのが「東南アジア友好協力条約」(TAC)です(同前)。TACは東南アジア地域内外から加盟国を増やして世界に平和の輪を広げています(31ページ)。その後、ASEANが中心となる地域協力組織が次々と構築され、中でも重要なのが以下の三つです。ASEAN地域フォーラム(ARF、1994年結成)、ASEAN+3(APT、ASEAN10ヵ国と日中韓、1997年結成)、東アジアサミット(EAS、2005年結成、APTにオーストラリア・ニュージーランド・インドが加わり、その後、米国とロシアも加盟し、18ヶ国に)。最近、EASは特に注目されています。たとえば敵基地攻撃能力や9条改憲など抑止力信仰に基づく軍事対軍事の発想に対置する形で、「東アジアを平和と協力の地域にしていくための東アジアサミット=EASの活用・強化など、9条を生かした平和外交によって、この地域と日本の平和と安定を確保していくことにこそ力を注ぐべきだ」と志位共産党委員長が主張しています(「しんぶん赤旗」114日付)。

 以上のように、「平和の共同体」としてのASEANが中心となる地域協力組織の構築が東南アジア地域で定着し、アジア太平洋とインド洋地域にまで波及する中で、「ASEANの中心性」という考え方が存在感を増してきました。東南アジア地域に関与しようとする域外主要国がそれを尊重せざるを得ないからです。しかしそれが米中対立によって試練を迎えますが、かえってその「強靭性」(33ページ)や正統性が浮かび上がってきたとも言えます。

2010年代に入ると米国が対中包囲網を構築し、中国が米国中心の国際秩序に対抗し始めました。米中それぞれの地域主義が、ASEANの中心性を核とする地域主義の機能発揮の試練となってきたのです(同前)。ここで重要なのは、米中の地域主義が相互牽制・排除の覇権主義的性格を持つのに対して、ASEANの地域主義は以下のように、米中のそれとは対照的な性格と優位性を持っていることです。

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  …前略… ASEANの地域主義は――TACにみられるように――地域の関係する諸国を包摂し対話の輪の中に迎え問題を解決していこうというものであり、また二国間ではなく多国間の友好と協力をめざすものである。インド太平洋の中心に位置するASEANは、EASにみられるようにこの地域において、米中を含む関係する諸国を結集できるだけの力を持っており、かつ現在それに代わるものがないという大きな優位性があり、何よりも「平和の共同体」を構築するという正統性がある。他方、主要国は相互の不信と対立のためにEASのようにこの地域を包含する地域協力のための組織を構築し指導することができないでいる。       33ページ 

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 ここには、まさに社会進歩の観点から見て、米中覇権主義の不義・逆行性と「平和の共同体・ASEANの中心性」の正義・正統(正当)性とが鮮やかに対照されています。これを普遍化すれば、俗耳に入りやすい「軍事力=抑止力信仰、力の対抗の論理」に対して、多国間の友好と協力をめざす包摂的な対話の輪の理想性のみならず現実性が提起されていると言えます。前者は集団的自衛権を含む軍事同盟の論理につながるものであり、対して後者は集団安全保障を支える思想的基盤を提供するものでしょう。

 ASEANがその経済力も一つの背景にして、ベトナム戦争の教訓に学んで、域内相互の平和的関係と域外からの干渉の克服を柱に、東南アジアに「平和の共同体」を構築し世界に向けてその影響力を波及しているのを見るとき、日本人民はどうすべきか、自ずと明らかではないでしょうか。世界第3位の経済力と平和憲法をもつ日本が対米従属を脱して、TACに学びその意義を真に理解し積極的に参加して、東北アジア地域にも軍事対抗ではなく包摂的対話の場を実質的に実現することこそが最も理想的のみならず現実的な平和の努力ではないでしょうか。中国・北朝鮮を仮想敵とするのでなく、恒常的対話の相手として包摂していかねばなりません。それは日本や周辺国、東アジアだけでなく世界平和への重要な貢献となり、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という憲法前文の誓いを実現する道です。

 ロシアのウクライナ侵略戦争はいかなる口実を持ち出しても合理化することはできません。しかし米国とNATOが正義面することも間違っています。テレビ報道によれば、外務省の元高官の東郷和彦氏はロシア側の見方として、次のように紹介しています。――ソ連崩壊にともなって、ワルシャワ条約機構も解体しました。併せて存在理由をなくしたNATOも解体し、ヨーロッパにおける集団安全保障体制を構築すべきであったのに、NATOの東方拡大によるロシアの孤立化が追求されました。―― ロシア・ソ連政治が専門の下斗米伸夫氏も「四半世紀前、米クリントン政権時代に始まったNATO(北大西洋条約機構)の東方拡大問題は、最悪の結果を生みつつある」と述べています(「朝日」226日付)。もちろんだからと言って、米国とNATOに責任をなすりつけて侵略を合理化するプーチンの言説を認めるわけにはいきませんが、抑止力信仰に基づく軍事同盟の対抗が最悪の結果を導いたことは間違いありません。

 ロシアのウクライナ侵略戦争はむしろプーチンの侵略とも言えます。ロシア国内外で多くのロシア人たちが反戦の声をあげています。実態としてはプーチンの専制国家ではあるけれども、幾ばくかの自由は残っています。そこがかつての戦前・戦中の日本との違いです。この戦争を始めたのも止められるのももはやプーチンその人だけです。その判断に影響を与える最大のものはロシア民衆の意思です。世界の反戦世論がロシア人の声と結んでプーチンに圧力を加えることが求められています。経済制裁など様々な対抗手段もそこに向かっていくとき、効果を発揮します。

 東アジアで同じ轍を踏むことは許されません。TACなどを通じて中国・北朝鮮を含めた恒常的対話の必要性を重ねて強調したいと思います。このようなことはかつてはごく常識的な言説でしたが、今日では「日米同盟」が絶対視される中で異様に空想視されています。この状況の克服が日本の未来を左右すると言えましょう。

 時間がなくなりました。毎月末にこの感想を送り、翌日、毎月初めに「草の根憲法運動」の街頭宣伝の準備をするのですが、いつも前者にぎりぎり間に合わせ、後者はいつも大方手つかずでやっつけ仕事で何とかやり過ごしております。今日は特に厳しい。明日の街宣はロシアのウクライナ侵略の糾弾の場となるだろう。準備せねば。それ故、本来書くべきことは多く残されているけど若干記して終わりです。

 冒頭で述べたように、軍拡と改憲に反撃するという課題に関連して、ASEANの実績を参照してきました。そういう問題意識からすれば、敵基地攻撃論・岸田大軍拡・9条改憲などについて『前衛』3月号が次のような充実した論稿を満載しており、要注目です。

山根隆志氏の「岸田政権と日米軍事同盟――『敵基地攻撃』能力保有へ踏み込む」

竹内真氏の「暴走始めた岸田大軍拡の危険」

佐々木森夢氏の「岸田政権による改憲、九条破壊の新たな策動に立ち向かう」

川田忠明氏の「憲法九条を生かした安全保障を考える」

永山茂樹氏の「経済安全保障戦略・経済安全保障法の憲法的検討」

 いずれもしっかり読んで検討すべきものですが、大方ざっと読んだだけで終わっています。山根氏の論文はいつも軍事用語をちりばめた事実の羅列が字数の多くを占め、率直に言って非常に退屈です。しかしそれ抜きに政策と展望を語ることはできないので毎回必読です(*注)。竹内論文は財政規律を幾重にも脱法的に破って進める軍拡を詳細に分析しており、しかも財政の仕組みと基本的語彙が分かり非常に参考になります。川田氏の論文はいつも平和についての考え方をかみ砕いて説明しており説得力があります。

 とにかくはっきりさせなければならないことは、軍事的抑止力ではなく、平和外交こそが平和・安全保障にとって第一義的なのだということです。その点で、山根氏と川田氏が言及している国際法学者の松井芳郎氏の発言を参照したいと思います(「しんぶん赤旗」18日付、「2022焦点・論点 『敵基地攻撃能力』保有の問題点」)。松井氏は「敵基地攻撃能力」保有論の誤りを詳細に検討して批判した後に、インタビュー末の二つの質問に対して次のように分かりやすく答えて、(一見逆なようだが)抑止力論の非現実性と平和外交の現実性を明らかにしています。

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 (問い)―自民党は、「抑止力向上」を「敵基地攻撃」能力の保有の理由としています。

 (答え)抑止論とは、自国が強固な軍事力を有すれば相手国は自国への攻撃を差し控えるだろうという発想に立つものです。しかし、歴史的経験によれば、こちらが強大な軍事力をもてば、相手国は自国への攻撃を控えるのではなく、より強固な軍事力の建設に向かい、その結果一層の軍拡競争と国際緊張の激化がもたらされたというのが現実です。ましてや、中国についていえば、核軍備を含む強大な軍事力をもっているわけで、日本がこれを「抑止」するに足る軍事力を有することはまったく非現実的です。

 抑止論の虚妄は一般的には、ほぼ結論が出ています。1978年の国連第1回軍縮特別総会では、抑止論に対置して、国連の集団安全保障強化と全面軍縮を進めることで平和を維持しようという考え方が示され、米国やソ連を含めて合意されました。ただ、現実の政策はなかなか変わってきませんでした。これをどういうふうに現実化するかということが重大な課題となっていると思います。

 (問い)―抑止論に代わる対処政策として、どのようなことが考えられますか。

 (答え)私は、平和的生存権と戦力の不保持を規定する日本国憲法に基づく平和外交の政策が、一見したところ理想主義にすぎると見えるにもかかわらず、かえって現実的ではないかと思います。

 日本はこれまで、日米安保体制を軸として、中国や北朝鮮という近隣諸国を仮想敵国として、それに備えるという政策をとってきました。これが逆に、相手国にとっては大変な脅威となって、相手国の軍事力増強の一つの口実になっています。

 しかし、日本が憲法に基づいて平和外交を展開すれば、地域の緊張緩和が進み、これら諸国の軍備増強の口実の一つを除去することができる。現状では、中国などを相手に、紛争案件をめぐる対話はほとんど行われていなのが実態です。

 さらに、日本がより広く世界的な規模で平和的生存権の実現を推進する外交政策を展開し、そのような国としての国際的評価が確立すれば、この事実は軍事力をはるかに凌駕(りょうが)する「抑止力」を発揮すると思われます。

 憲法に平和的生存権と戦力の不保持を規定する日本は、国民の英知を集めて、この平和外交の具体的な在り方を組み上げていくことこそ必要だと思います。

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 川田論文は中国や北朝鮮へのあるべき対応方法、ならびにASEANの成果にも言及しています。論文の作りとして、抑止力と平和外交とについての一般的な疑問提示を平易に示し、それへの回答を多角的に重ねる形の中で、上記の内容について説得力を持って展開しています。その上で結論的に次のように述べています。本当は前記の論旨を全体的に詳しく見ていきたいところですが、時間がないので、私たちがこの問題を考えるうえでの拠り所となる将来的展望をイメージ豊かに明らかにしたこの箇所だけを紹介します。この地平から逆照射することで現状の到達点を捉えることができ、どこから変えていくべきか、これから自分の頭で考えていく参考になります。

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 前述のように、多くの国民は日米安保条約と自衛隊で「国を守る」という考えです。同時に、憲法九条については、どの世論調査でも維持派が改定派を上回っています。憲法の平和原則を生かした安全保障が実績をあげていくならば、国会論戦や国民的な運動ともあいまって、「国を守る」うえでも憲法九条=非軍事が、理想ではなく、現実的であることを多くの人々が認識していくに違いありません。そうなれば、「九条を守り、生かす」という意識はより広く、深く、そして強固に国民の間に根を下ろすことになるでしょう。

 攻勢的な外交で、中国や北朝鮮の我が国にたいする姿勢も変化する。領土問題でも交渉のレールがひかれる。さらに、朝鮮半島での非核化と平和体制の確立がすすみ、東アジアの平和の枠組みが前進する。東アジア地域の緊張緩和がすすみ、国民レベルでも他国、他民族への否定的感情がやわらぐ。軍事費の削減によって社会的予算の増額が可能になる――こうした目に見える成果があらわれれば、軍事力や軍事同盟よりも、外交努力によって安全保障をはかることへの国民的支持は広がるでしょう。軍事的な「抑止力」は、その根拠と説得力をいっそう失っていきます。      83ページ

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 「日米同盟」絶対視の「常識」をどう打ち破っていくか。川田氏の展望は重要な示唆を与えています。あるいは、ASEANの経験に学ぶことは一点突破全面展開につながるかもしれません。

 

(*注)

鷲田清一氏「朝日」連載「折々のことば」226日付で次の言葉を紹介し、解説しています。    

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何といっても本当に面白い点は事実の羅列にあるのであって、議論にあるのではない

 (中谷宇吉郎)

     ◇

 科学の先端的なトピックに飛びつき、それをもとに「高遠な」思想を語るのではなく、問いと探究を地道に重ね、何がどこまで明確になったかを淡々と語る。そのほうが心も躍ると、“雪博士”と呼ばれた物理学者は言う。良い絵は見て感心するだけで充分(じゅうぶん)。それと同じだと。情報が錯綜(さくそう)する中で何より重要なのは、物語ではなく事実の正確な描写だ。評論「科学と文化」から。

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 社会科学では自然科学よりもいっそう「思想」と「物語」が重視されますが、そこでも「事実の正確な描写」の地道な追求の大切さは変わりないと言えましょう。

 

 

          断想メモ

 

 「朝日」25日付の「(インタビュー)デジタル人民元の行方 経済学者、エスワー・プラサドさん」では、ロシアへの経済制裁に登場してきた国際銀行間通信協会(SWIFT)にも言及されており、改めて注目されます。この記事の中で基軸通貨の資格について次のように説明されているのが参考になります。

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 「米ドルがなぜこれまで基軸通貨として覇権を維持できたのかを考えてください。まず支えとなっているのが、強い米国経済です。また、米国債をはじめ多様な金融資産の売買が活発に交わされる、高度に発達した金融市場も見逃せません。さらに、法の支配や三権分立といった権力の抑制と均衡のシステムや、独立した中央銀行をはじめとする金融取引を支える制度上のインフラも備えています。こうした枠組みが定着していることによる『信用』が重要です」

 「2008年のリーマン・ショックに端を発する世界的な金融危機の震源地は米国でした。にもかかわらず、各国政府や民間投資家は、米国債などのドル資産をこぞって買い、リスク回避を求める資金が米国に流れ込みました。つまり、米国は世界の投資家にとって『安全な避難場所』なのです」

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 この基軸通貨の資格の中で、「法の支配や三権分立といった権力の抑制と均衡のシステムや、独立した中央銀行をはじめとする金融取引を支える制度上のインフラ」という部分は納得できるところです。しかし「強い米国経済」に支配され「多様な金融資産の売買が活発に交わされる、高度に発達した金融市場」というのはどうなんでしょうか。これはカジノ資本主義にふさわしい「基軸通貨の資格」ではなかろうか。山田博文氏は「『金融の自由化・国際化』は、 …中略… 巨大金融資本の権力を著しく強め、英米の投資家や大株主の下に世界の富を手っ取り早く集める『カジノ型金融独占資本主義』となって、人々の暮らしや地域経済を衰退させてしまいました」(「しんぶん赤旗」23日付、「金融と新自由主義(3)」)と述べています。公的制度に関して、「民主性」と「資本主義性」あるいは「新自由主義性」とをきちんと識別できる見識が必要です。本来はドルでない基軸通貨が形成されるべきであろうかと思われます。国連本部が米国でなく中立国にあるべきではないか、ということも併せて想起されます。 

 

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 渡辺努氏の『物価とは何か』(講談社選書メチエ)に対する坂井豊貴氏(慶応大学教授・経済学)の書評には以下のようにあります(「朝日」212日付)。

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 物価に影響を与える事柄は多岐にわたる。人々の将来物価への予想だけでなく、著者はノルム(社会的規範)も大きな影響をもつと考える。ノルムとは人々が共有する相場観だ。それは例えば、賃金は「毎年これくらいの引き上げ」が妥当だというような感覚だ。その感覚は必ずしも経済的な合理性とは合致しないが、実質的な力としてはたらく。

 日本のデフレは難題だ。馴染(なじ)みの店が値上げしたとき、物価は変わらないものと考える消費者は他店をあたる。しかし物価は上がるものと考える消費者は、その店で買う。日本は前者のような消費者が多く、著者はそれをデフレの一因と見る。結果として企業は、価格は同じままで分量を減らしたり、内容がほとんど変わらない新商品を過度に市場に投入したりする。いずれも実のある商品開発とは言い難いものだ。

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 ここでは物価下落とそれによる生産の不都合、その原因を消費者の行動様式に求めています。消費者の行動様式を経済外的なものとしているのです。しかしまずは何より所得減という経済内的原因によってその行動様式は説明されるべきではないでしょうか。これでは「デフレ」と称される一連の困った事態の原因を消費者に責任転嫁しています。

 この評者によると著書は、商品価格の相互関連をよく分析しているようです。それで分かることは確かに多いでしょう。しかしそれより深いものを分析しなければ「物価」の本質は分からないだろうと思う。管理通貨制度を始めとする現代資本主義の本質、その上に展開される経済政策の効果。そこから来る物価の実質的変動と名目的変動の関連。等々…

                                2022年2月28日





2022年4月号

          新自由主義「改革」に絡め取られる民主的要求

 

☆壊憲の行政「改革」

 

 新自由主義はグローバル資本への規制をなくし、搾取と資本蓄積を強化するイデオロギーと政策を具えています。したがって労働者・人民の利益に反するが故に、「小さな政府」というスローガンから想起されるイメージとは逆に、彼らの反抗を未然に摘む、あるいは事後に抑圧するために、強大な国家権力と行政機構を構成する必要があります。労働規制緩和や株主資本主義など資本の直接的生産過程や企業経営方針あるいは金融化など、新自由主義の経済次元の問題は本誌では常に取り扱ってきました。その他に政治・行政次元にも光を当てることで、特に安倍政権以降の空前の悪政を支える制度的本質に迫ることができます。それに関連して、晴山一穂氏の「憲法を生かす行政の課題 『デジタル庁・デジタル臨調』は「安倍・菅政権に象徴される反憲法的な政治状況が、どのような歴史的状況の下で作り出されてきたのかを、行政の在り方に焦点を当てながら振り返り、憲法の原点に立ち返った政治と行政の再構築のための課題を考えてみたい」(43ページ)という問題意識とテーマで書かれています。

 まず憲法に基づいて行政の本来の役割などが次のように規定されます。「日本国憲法の全体構造から導き出される行政の最も重要な役割は、国民主権に基づいて国民の基本的人権を保障することに求められることになる。そして、行政の担い手である行政組織と公務員の在り方もまた、右の行政の役割にふさわしいものでなければならないことになる」(44ページ)。

 それが基本的に覆されてしまったのが、まず1997年の「橋本行革」とその法制化の帰結としての2001年の中央省庁改革です(46ページ)。そこでは「内閣機能の強化」の名の下に内閣総理大臣と内閣官房の権限が強化され、他の省よりも一段上位に位置する内閣府という異例の機関が新設されました。次いで2014年の国家公務員法改正により、内閣官房の下に内閣人事局が設置され、各省庁の幹部人事が内閣総理大臣と内閣官房長官に掌握されることになりました(48ページ)。後者については、財務省の公文書改ざん事件を始めとした幹部官僚の不祥事が多発するたびに、安倍氏らの国政私物化に従属した「忖度官僚」発生の元凶として問題視されてきました。

 一連の「改革」は「自律的個人」や「自由かつ公正な社会」を目指すとしていますが、それは文字通りに捉えるわけにはいきません。それは、人々が「国家や行政への依存体質から脱却」して自己責任を負う「自立・自助の社会」であり、要するに、福祉国家的な要素を切り捨て、生存権や社会権を保障すべき国家の役割を否定し、市場原理と自由競争の支配する新自由主義的な社会(より本質的には、労働者の生存権の否認の上に資本主義的搾取強化が優先される社会)にほかなりません。つまり「改革」の核心たる「内閣機能の強化」の目的は、経済社会、政治・行政のあり方を新自由主義の強力な推進により適合的な方向へと大きく転換させることです(47ページ)。

 この行政改革は、その少し前の1994年に細川内閣の下で強行された「政治改革」(小選挙区制と政党助成金制度の導入が二大柱)と一体の関係にあります(49ページ)。その帰結を先に上げておくと――(1)小選挙区制により、議席と民意が乖離、(2)金権腐敗政治の横行、(3)「政」による「官」の支配、国政の私物化、(4)新自由主義改革の大規模な進行――となります(50ページ)。この惨状をもたらした「政治改革」の論理である「政治主導」論が検討されねばなりません。

 それは「国民主権と議院内閣制からストレートに内閣総理大臣の権限強化を導き出す」ものであり、「選挙で国民の信を得た国会の多数派によって構成された内閣が、国益よりも自らの権益(省益)を追求しようとする霞が関官僚体制を打破し、 …中略… 内閣総理大臣の強力なリーダーシップの下で、国民によって負託された公約(マニフェスト)を実現する」という論理に基づきます(49ページ)。これが「国民の間に広く根づいてきた官僚不信と共鳴しあいながら、『政治主導』論の大きな流れを形成」(同前)してきました。この「政治主導」論が新自由主義改革を推進し、格差と貧困の拡大を始めとする今日の政治経済的惨状をもたらしました。「官僚制の弊害の打破」(50ページ)というのは、憲法にもとづく行政の実現という文脈であれば、民主主義的性格を持ちます。しかしここでは逆に、人々の生活と労働を破壊する新自由主義構造改革の貫徹のために「官」が「政」の支配に服することに帰結しました。「官」がそれまで不十分ながら果たしてきた人々の権利保障の役割を放棄して、最悪の場合、新自由主義構造改革のみならず、それを超えて国政の私物化に奉仕するまでに至ったのです。ここには民主主義的要求が新自由主義の貫徹方向に絡め取られ、反対物に転化するさまが現出しています。

 これはまさに、バブル破裂後の1990年代以降、日本経済の停滞状況下で社会的閉塞感が蔓延し、格差・貧困拡大の下で、人々の要求が社会進歩の方向に実現されるのでなく、捻じ曲げられ新自由主義構造改革に絡め取られていく様の一端を示しています。晴山論文はその過程の中で、行政の問題について主に憲法を基準に考察しています。これは分析の対象と方法(および基準)とが論理次元において釣り合っているという意味で適正です。眼前の行政のあり方が、公正の基準たる憲法に適合しているか否かを判断することは学問的正義に適い、かつ社会変革の実践に役立つという点でも非常に意義深いと言えます。

 ただし晴山論文でも政治・行政改革の問題を、主に経済的イデオロギーや経済政策次元を中心に展開してきた新自由主義との関連でも考察しており、憲法を基準とする方法との二段構えであるとも言えます。憲法は1947年に施行されており、新自由主義が経済イデオロギーと政策の主流となるのはせいぜい1980年代以降であることを考えれば、日本社会を把握するのに憲法の方が根源的であると言えそうです。しかし今日では経済的土台のみならずイデオロギーにまで浸透した新自由主義の規定性は極めて強いと言わねばなりません。もちろんそれは憲法が時代遅れだとか、その意義が減少したとかということではありません。新自由主義の覇権の下で、逆にそれに対抗し変革する橋頭保としての新たな意義を憲法は獲得しています。したがって、新自由主義段階で、社会的公正基準としての憲法を活かすためには、経済・社会次元での変化を的確に捉えることが必要となります。

 

 

 

☆ハシズム――新自由主義「改革」下の倒錯イデオロギー

 

 1990年代以降、新自由主義構造改革が錦の御旗とされ、たとえば公共事業偏重=利益誘導の「土建国家批判」などの民主主義的要求が、東京一極集中、農林水産業・地場産業・地域経済切り捨てなど、新自由主義の貫徹方向に絡め取られ、反対物に転化するといった事態が続いてきました。さすがに、新自由主義政策による格差・貧困拡大と、リーマンショック=世界金融危機による金融化の弊害の露呈、コロナ・パンデミックが暴いた社会保障の貧困の深刻さと危機に際しての資本主義市場経済の無力さ…等々によって、今や新自由主義の覇権は大きく傾いているように見えます。しかし新自由主義批判を装う「新しい資本主義」を掲げる岸田政権の政策基調が依然として新自由主義であることが明白であることに象徴されるように、依然として新自由主義のグローバル覇権は続いています。しかも、大阪で東京を上回るコロナの死者を出し、世論の支持のないカジノに依然として固執するなど、荒唐無稽な悪政を推進する維新の会が人気を博するという状況は「新自由主義の奇跡」とも言えましょう。自公政権でさえ、今日の時点では表だって成果を誇示することができない労働規制緩和についても、維新の会はいっそうの推進を主張しています。彼らはまさに新自由主義の最右翼からの切り込み部隊であると同時にトリックスターとして「愛されて」います。

 したがって、「共産党は保守、自民党や維新の会が改革派」という倒錯した政治意識がはびこる新自由主義構造改革のパラドクスの解明は依然として必要な課題として残されています。新自由主義「改革派」が正義の味方として、社会保障などを守る者を「守旧派」として揶揄する、という1990年代的なメディア状況はもはやないけれども、民主主義的要求が新自由主義に絡め取られ、搾取強化に帰結するという構図は残っています。橋下徹氏が大阪府知事になったのが2007年で、大阪市長になったのは2011年です。そのころには「橋本劇場」などと言われて、(私自身を含め)一部には蛇蝎のごとくに嫌われながらも、メディアでは大いにもてはやされるという状況でした。苦々しい日々の中で、拙文「ハシズム批判の基盤的論点」(『経済』感想/2012年2~7月号からの抜粋/以下「ハシズム批判」と略)をホームページに載せ、微力ながら新自由主義構造改革のパラドクスを検討しました。橋下氏は大阪市長時代に市職員の思想調査を実施し、選挙結果による「一時的独裁」の必要性を主張したりするなど、そのファッショ的言説は「ハシズム」と称されました。日本軍慰安婦容認論など数々の失言と大阪都構想に関する住民投票敗北による政界引退にもかかわらず、今日に至るもテレビ出演などで相当な人気を誇り、新自由主義と保守反動の最も影響力の強いイデオローグだと言えます。そこで2012年当時の拙文「ハシズム批判」から、その克服にとって今日的にも有効かもしれない部分を振り返ってみます。それは大きくいって、「民主主義の捉え方」と「経済像と人間観」の二つからなります。

 晴山論文が上記で「政治主導」論としているものについて、橋下氏においてそれに相当するものを北野和希氏は「選挙絶対主義」と称しています(「橋下維新、躍進の理由」、『世界』2012年2月号所収)。それはより極端で、したがってより分かりやすいものです。「ハシズム批判」では以下のように紹介し、批判しました。

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 北野氏は橋下氏の政治観を「選挙絶対主義」と実に的確に指摘しています。「有権者の投票による選挙こそが、全ての始まりであり、終わりなのであ」り(211ページ)、「有権者を自らの生死を決める有能な裁判官であり、極めて優れた感覚を有した市民と位置付けている」(同前)と。この政治観の首尾一貫性と(大衆蔑視でない)民主的性格を北野氏は高く評価しています。橋下氏はメディアを巧みに利用するだけではなく、メディアを注視することで、有権者が求めるものをつかみ、自分の感覚の「正しさ」を試している、とも指摘しています。従来の政治家・政党の「有権者の意識と外れた主張や理解をえようとしない姿勢」(217ページ)とは違って、このように優れた市民感覚を橋下氏はもっている、というわけです。確かにここには、左右を問わず、普通の人々の生活感覚と遊離しがちな政治姿勢への批判として傾聴すべき点があります。しかし「選挙絶対主義」とか橋下氏の有権者観は正しいものなのだろうか。

 民主主義において、その制度上、選挙が頂上にあることはいうまでもありません。橋下氏の圧勝を快く思わない「民主的」「市民的」な人々も、選挙結果に不満は持っても、それを尊重すべきことは当然と考えているはずです。しかし頂上にある選挙は広い裾野に支えられて初めて生きてきます。町内会やPTAのような地道な地域活動、署名やデモ、メディアへの投書、インターネットを通じた発言等々、多彩な政治参加が日常不断にあって、それらのある時点での総括として選挙は位置付けられます。選挙は巨大な民主主義の山の一部であって、たとえ頂上であってもそこですべてを見渡せるわけではないのだから、選挙結果への白紙委任を意味する「選挙絶対主義」は正しくありません。選挙後もその結果を尊重し前提しつつも、様々な民主的政治活動が続けられ、それが行政に影響を与えることは当然です。その他に人権とか教育などその原理的性格からいって、そもそも時々の選挙結果からは相対的に独立した問題もあります。教育委員会の自立性などが選挙結果如何で左右されるようなことがあってはなりません。

 残念ながら日本社会ではまだ政治活動は奇異なこと、自分はかかわりたくないことという感覚が根強くあります。たとえば街頭署名などもフツーの光景として受け入れられているようには思われません。ビラ配布が弾圧されても世論の怒りが沸騰するなどということは決してありません。こうした中で事実上、選挙だけが民主主義の政治イベントとして捉えられる傾向があります。選挙開票結果のテレビ(ネット)観戦を中心とする観客民主主義、おまかせ民主主義が定着しており、それは安易な「強力な指導者待望論」に流れ込みやすく、この政治風土に咲いた徒花が「選挙絶対主義」ではないでしょうか。橋下氏が選挙に賭けて、敗れれば潔く引き下がる覚悟だということから、その政治観の民主主義的一貫性を示すものとして「選挙絶対主義」を北野氏は称えていますが、そもそもそれは民主主義の矮小化の枠内での潔癖感や高揚感に過ぎません。東日本大震災・福島第一原発事故後には、既成の政治勢力ではない若者らが主体となって、ネットなどを通じた新たな集会・デモが開催されるなど、矮小化された民主主義を打ち破るかもしれない動きが端緒的ながら見られます。それと対比するならば、「選挙絶対主義」の時代錯誤性が浮き彫りになります。

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 民主主義の矮小化・空洞化としての観客民主主義状況が生み出したあだ花が「選挙絶対主義」です。その克服は草の根の地域活動から地方自治体、国政にまで至る各層の民主主義の実質化以外にありえません。

 2012年、民主党最後の野田政権時には「決められない政治」が批判され、メディアは「決められる政治」を喧伝し、たとえば「朝日」610日付若宮啓文主筆の「『決められる政治』見せる時 消費増税の正念場」という論説を載せています。橋下氏は「決定できる民主主義」を主張し、メディアが便乗するという状況であり、若宮論説もそれに肯定的に言及しながら消費増税を説いています。ここで民主主義の形式と実質、世論・政局・政策の錯綜した関係について私なりに整理して、すでに53日に「朝日」宛に投書し、514日付の「声」欄に掲載されました。以下は投書文面とそれに付けた注記です。

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     「決定できる民主主義」とは

 橋下徹大阪市長が主張する「決定できる民主主義」に政界・マスコミがこぞって便乗しているように思える。確かに政策的議論は乏しく、政局の駆け引きに終始して何も決定できない国会に、人々はうんざりし、閉塞感を深めている。しかし、なぜ決定できないのだろうか。そもそも何を決定したいのだろうか。

 消費税増税、TPP参加、原発再稼働。これらは国民の生活と安全を脅かすものとして多くの人々が疑問視している。これらの問題を決定できないのは、政治家が悪いのではなく、むしろ世論が抵抗しているからだと思う。つまり「決定できる民主主義」とは民意に反するごり押しを正当化する「詭弁」ではないか。

 もちろん何も決定できないのではいけない。問題はその中身だ。例えばこんなふうに。脱原発を決断し、具体化するためエネルギーの地産地消を進める。非正規雇用を規制し、賃金を上げる。

 さらに外需依存と国際競争力至上主義を克服し、内需を高め経済成長を実現する。大企業・大資産家への優遇税制も改めTPP参加と消費税増税をやめる。生活者の立場で日本と世界の政治経済を変えることは可能だと、私は信じる。

 

(注記)

 橋下氏の「決定できる民主主義」はもちろん独裁の婉曲な表現に過ぎません。前代未聞の思想調査を敢行した大阪市長が大人気で平然として居座っているというのは、危機的な異常事態です。当時最も先進的なワイマール憲法の下でヒトラーが出現したように、今日の世界でも有数の優れた内容を誇る日本国憲法の下ですでに独裁が始まりつつあることをジャーナリズムはどう考えているのか、厳しく問い正したい、と毎日思っています。

 投書文面に関して言えば、橋下氏はTPP参加は掲げているけれども、消費税増税には「今のやり方には反対」で、原発再稼動にも反対しています。しかし消費税増税そのものは支持しているようだし、原発再稼動についても「再稼動がいやなら生活を我慢しろ」といった脅しをかけており、真剣に再稼動反対という姿勢ではありません。その辺の橋下氏自身のあいまいさはここでは措くとして、問題は中央政界の大政党が彼の「決定できる民主主義」に便乗して悪政を強行しようとしていることです。まったく中身を抜きに「決定できない」のが悪く、「決定できる」ことが称賛されています。人々の間に充満する閉塞感につけこんでそういうムードが醸成されています。

 政策と政局について指摘したいことがあります。二大政党は政策が同じなので、国会では政局的駆け引きに終始しています。これが政治不信を招いていることは言うまでもありません。これから消費税増税をめぐって政局の駆け引きが激化するでしょう。しかし私はこの「政局」には積極的意義があるとあえて主張します。二大政党は消費税増税の政策では一致しているので、政策論としてはすんなり通るのが当然です。しかし現実にはそうはならないでしょう。世論の反対を背に「政局」づくりを企む政治家が出てくるからです。そういう連中は唾棄すべき「政治屋」あるいはポピュリストであることは確かです。政策と行動が一致しないのは政治家失格です。しかし政策的信念を貫いて消費税増税に邁進する野田首相のような政治家が立派かというと、それも違います。なにせ前提にある政策が致命的に間違っているのですから。

 政策を貫かない不誠実な政治屋によって作られるのが「政局」ですが、それを支えるのが世論であることが重要です。この矛盾した「政局」を根本的に克服するのは、消費税増税反対という「政策」を貫くこと以外にありません。おそらく今後マスコミは「政局」批判で増税政策の実現を訴えるでしょうが、それは「政治屋」に対しては表面的な潔癖さを誇ることができても、世論と人々のかけがえない生活に対して全く責任を追わない立場です。「政策抜きの政局」を批判する資格があるのは、民意に適う正しい政策に立っているときだけです。間違った政策の立場からそれを非難しても、政策の首尾一貫性という形式的正義に適うだけであり、世論に反するという内容的不正義を免れません。それよりは世論を反映した「政局」という形式的不正義のほうがまだマシです。

 これに対するマスコミの回答は「世論・民意が間違っている」ということでしょう。消費税についての議論はやりだせば切りがありませんが、一つだけ指摘します。財政がたいへんだから消費税増税だ、という主張ですが、全く逆で消費税増税で税収は減るのではないか、という疑問への回答を見たことがありません。1997年に消費税率を上げましたが、確かに消費税収は増えても、所得税収と法人税収は減り、今日では全体としては減っています。累進税率の緩和や法人税率の引き下げ等の政策がまず問題ですが、それだけでなく日本経済の長期停滞が重要な原因です。日本は先進諸国では例外的に経済成長の止まった国になっています。暴虐な労働政策などで人々の可処分所得が下がり続けて内需が縮小し、国際競争力至上主義で外需依存を強化するという悪循環を断ち切らない限り、日本経済の低迷とそれによる閉塞感の充満は克服できません。消費税増税が責任ある政策で、それに反対するのは無責任なポピュリストだという考えは、人々の生活にも国民経済の発展にも全く責任を負わない(多国籍企業を中心とする)支配層の傲慢な自己中心的姿勢の反映だと思います。

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 上述のように、「政局」ではなく「政策」を、という一見すると正論が実は悪政推進論であり、不純な「政局」のなかに世論の反映を見るという視点が、民主主義論として必要だと考えます。以上が、新自由主義の覇権を支える「民主主義」論としての「政治主導」論ないし「選挙絶対主義」です。すでに上記投書文面中に触れていますが、次にそれらの土台にある「経済像と人間観」について、拙文「ハシズム批判」から見ます。「朝日」2012212日付けのインタビュー「覚悟を求める政治 橋下徹・大阪市長に聞く」への言及から始まります。

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 「朝日」インタビューで橋下氏は要するに「国際競争に勝てるようにもっと努力せよ。さもなくば日本は没落して生活水準も下がる」と人々に向かって説教しています。彼の経済の見方は生産力主義的で、生産関係を見ません。発展途上国と比べて日本の生活がよいということを言い、国内で貧困と格差が広がっていることを無視します。わが国における現状の獲得物をこれまでの人々の努力の成果と見るのならば、同時にそこにある貧困について資本の搾取・収奪の結果だという認識もあるべきです。彼からすればそこは自己責任なのでしょう。しかしたとえば正規雇用が原則の社会ならば、多くの労働者はまともな生活が営めるのに、様々な不安定雇用が常態化した今日の日本では、多大な労働支出が正当に報われていません。ここで問題なのは個人の努力の有無ではなく、社会システムのあり方です。大資本への民主的規制が働いている社会ならば貧困はずっと少なくなります。

 つまり人々の生活水準を規定するものが何かを考えるのに、財界と同様にもっぱら国際競争だけに目を向けることが誤りなのです。日本経済の最大の問題点は、そこではなく大資本が強搾取で蓄えた巨大な内部留保が国民経済の中に還流しないことです。ここには観点の対決があります。対立図式は<国際競争力VS内需循環型国民経済>あるいは<個別企業の利潤増強VS内部留保を活用した国民経済の循環の再生>となります。「合成の誤謬」あるいは「生産と消費の矛盾」を克服するために、賃金の引き上げを起点とする経済改革によって内需循環型国民経済をつくることが必要です。そのときに、競争力強化のため努力せよというのは、相変わらず搾取強化路線を推進し、格差と貧困を拡大し、循環不全の国民経済の困難をますます大きくするものです。経済を見るときに、階級的問題を見ずに、人間的努力の一般論に解消していることが間違いなのです。ここからは<努力する者VSしない者>あるいは<既得権益に安住する者VS新たな努力で挑戦する者>という対立図式が生じ、公務員バッシングなどへと向かいます。支配層の常套手段である分断支配に手を貸す結果となります。

    …中略… 

 再び橋下氏の努力論について。そもそも努力とは人間一般について言いうるものですが、彼が力説しているのは資本主義的努力です。もちろん彼もその議論を受け止める人々も、それを努力一般だと思っています。しかし彼が言うところの努力はもっぱら競争の上に乗った努力です。「努力」に象徴されるものには、向上心、精進、自己実現、発達、進歩、前進などがあり、それは歴史貫通的な人間の良きもの・美質を表現しています。対して「競争」は資本主義市場経済を象徴しています。誰でも怠惰はよくない、努力すべきだと思っていますが、なかなか難しいとも感じています。そこに橋下氏が努力を強調すると、多くの人々は自己反省しつつ努力しようとなるかもしれませんが、それは際限ない競争の悪循環の扉を開ける資本主義的努力(搾取強化)への道なのです。

    …中略… 

 先述のように、新自由主義や橋下劇場との対決点は経済像の次元(大資本の国際競争力が第一か、地域内循環経済が第一か)にありますが、人間観の次元にもあります。分かりやすい例は橋下氏の政策を支えているだろうと思われる人間観です。それはおそらく競争ないしは強制で動かす対象としての人間観です。それに対して、最も受動的な存在と考えられる被災した子どもたちにおいても確かな主体性が育っているのです。一人ひとりの主体性を尊重し、分断に抗して連帯を求める人間観によって新自由主義を克服することも重要な課題です。

    …中略… 

橋下氏の教育「改革」は新自由主義グローバリゼーションに従属しているのだから、それを批判するのに憲法の幸福追求権や生存権を提出する場合も、その土台としてのオルタナティヴな経済像をあわせることが必要です。経済要求から発する競争と強制の教育像に対して、単に経済からの教育の分離を主張するのは、誤った機械的反発の潔癖主義です。経済というのは何も競争と利潤追求一本槍ではなく、人間尊重の経済もありえます。そうした土台にふさわしい・競争と強制ではない教育のあり方を提起するのが、橋下教育「改革」への根本的な批判となるでしょう。

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 上記の被災した子供たちの主体性については、臨床教育学者・田中孝彦氏の「子どもとともに、地域と学校の『復興』を考える―教師たちの震災体験を聴いて(『前衛』20123月号所収)から取りました。被災した子どもたちの作文などを通して、彼らを単に「ケアの対象として見るだけでなく」「主体として理解することが重要だ」(52ページ)と田中氏は提起しています。新自由主義を批判するにはオルタナティヴとしての経済像を提起することが必要であり、それが政治論や教育論などの土台となります。

 「ハシズム批判」では、以上の他に、想田和弘氏の「言葉が『支配』するもの 橋下支持の『謎』を追う」(『世界』20127月号所収)を紹介して橋下人気の一端に迫り、それとの関係で、新自由主義グローバリゼーションに規定されたメディアの問題性とそこで踊る橋下氏のトリックスター性、新しいポピュリストとしての性格に言及しています。

想田氏は「民主主義は感情統治」と指摘します(136ページ)。「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」(同前)というのです。そういう中で橋下氏は「人々の感情のありかを察知し、言葉で探り当てることに長けているので」、その言葉は「人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなもので」、「(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じ」させるものとなっています(135ページ)。そこに橋下氏の支配力の源泉があり、民主主義社会で成功することになります。「ハシズム批判」はこう続けます(記事引用は2012年当時から)。

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 想田氏の語り口はきわめて説得力があります。ただしその指摘は、コアな橋下支持者に対してはまさにぴたりと当てはまるでしょうが、その周辺の広範な支持層を見れば、支持の度合いに応じて当てはまり具合にも濃淡が出るはずです。ここにはマスコミの問題があります。マスコミは思想調査のような度外れた行為さえ事実上不問に付しています。また思想調査実施の一つの口実として、労組の「ぐるみ選挙」にかかわる内部告発がありましたが、これが捏造だったことが判明しても、橋下氏は開き直っています。かつて野党時代の民主党議員が国会で質問した際に、証拠に用いたメールがガセネタをつかまされたものであることが判明しました。このとき前原党首が辞任し、当該議員が後に自殺しました。それくらい重い事態に対して橋下氏も維新の会も当該議員も何ら責任を取らず、マスコミも追求しません。不真面目・無責任・厚顔無恥が橋下氏の処世術なのかもしれませんが、まともな社会で本来それは通用しません。しかし社会がまともでなくなって、「無理が通れば道理が引っ込む」状態です。一事が万事で、橋下氏のめちゃくちゃぶりはまともに知らされ問題にされることがないので、「感情統治」の度合いの低い支持層もなかなか崩れないのでしょう。

 このマスコミの体たらくにはいろいろ原因があるでしょうが、一つにはおそらく支配層の意向が反映していると考えられます。新自由主義的資本蓄積下では、富の蓄積と貧困の蓄積が拡大し、人々の生活と労働条件は下降しつづけます。支配層は「飴と鞭」の政策ではなく、「飴なしの鞭」を追求しています。賃金と所得を下げ、その上に増税と福祉切り捨てを強行しています。そういう政策を選択しているというよりは、新自由主義グローバリゼーションによる国際競争下ではそうせざるを得ないということです。「経済のグローバル化による制約」で「各国政府には市場に反発されない選択肢しかない」ので「国民に痛みを強いる政策を『決める』」ことになります。「グローバル時代の民意と市場のこんな相克に、だれもまだ解決策を見いだせていない」(大野博人論説主幹「朝日」617日付)。もちろん「多国籍企業が支配するグローバル市場」至上主義の「朝日」が「解決策」を見いだす気がないだけの話で、日本と世界の人民の立場からはオルタナティヴが探究され具体的な提言や実践もありますが、支配層がそれを採用することはありえません。したがって支配層の課題は「飴なしの鞭」「欲しがりません、勝つまでは」を人々に受容させることです。それには、一見支配層への挑戦に見えるような姿勢で閉塞感をガス抜きし、分断と俗論で「飴なしの鞭」の「必然性」を納得させるような人気者を必要としています。橋下氏はまさに支配層のトリックスターなのです。Tricksterは神話や民話での道化・いたずら者を意味しますが、ここではあえてトリック=策略・ごまかしというニュアンスもこめたいと思います。橋下氏のスローガン「決定できる民主主義」「決められる政治」が悪政推進に利用されており、マスコミ上に見ない日はありません。たとえば若宮啓文「朝日」主筆は、消費税増税のため民主・自民両党首の談合による「決められる政治」を勧め、その促進材料として橋下・維新の会の国政進出がもたらす脅威を利用しています(「朝日」610日付)。ちなみにこの「朝日」主筆の論説はどこをとっても簡単に反論できるような代物で、その不見識ぶりはもはや痛々しい感じさえします。支配層の道具と化したマスコミの病状は回復不能なのでしょうか。こころあるジャーナリストに一抹の希望を託したいところですが…。

 ここで以上をまとめると、ハシズム興隆のミクロ的主観的要因として橋下流の巧みな「言葉の支配」「感情統治」をあげることができ、そのマクロ的客観的要因として支配層の課題とそれに奉仕するマスコミの存在をあげることができるでしょう。

 ハシズムを支配層の課題との関連において捉えることは、ポピュリズムについて考える過程でその必要性が強く感じられました。橋下氏をポピュリスト扱いすることに何か違和感があったのがその端緒です。どうしてかと考えると、本来のポピュリストは人々に無責任に飴を与える公約をするものだけれども、橋下氏はまったく逆で人々に「覚悟と努力」を迫っているからです。これは痛みに耐えることを訴えた小泉純一郎元首相と同じです。従来の「甘い飴」配り人気取りポピュリズム・ポピュリストと違って、両者は「苦い薬」を飲ませても人気のある新ポピュリズムを演じる新ポピュリストとでも名付けることができます。これはまさに新自由主義的資本蓄積の矛盾を打開する課題…人々に「飴なしの鞭」を受容させること…を担う「理論」・パフォーマンスであり、人材であるわけです。だから新ポピュリズムについて考えるには、その手法をあれこれ論じる前に、支配層の課題との関係を明確に位置付けることによってその本質をつかむことが不可欠なのです。

 次いで新ポピュリズムの手法を考えることになります。それは支配層の課題と人々の気分との交点をどう捉えるかです。支配層と人々との利害は客観的には対立するので、支配層の課題と人々の気分とは相容れず反発しかありえないはずですが、主観的要素をはめ込めば融和する可能性があります。支配層の課題に沿う形で、人々の気分を歪めて再編成するのです。人々の間に対立を煽り、分断とバッシングによるうっぷん晴らしを誘うという周知の手法は、こうした支配層の課題に適合するという点に最大の意義があります。

 新自由主義的資本蓄積がもたらした格差と貧困の閉塞感の中で、多くの人々は「自分はこんなに苦労しているのに報われない、なのにアイツは…」という気分を抱いています。問題はこのアイツというxに何を代入するかです。1%の支配層を入れないように(99%の内部で)身近な公務員等を入れるよう仕向けるトリックが熱望されるのです。閉塞感をもたらしている支配構造の本質を隠し、99%内部での相互対立の方に目を向ける手法としてのバッシングがそれです。一方では公務員バッシングのように「身分保障」され相対的に恵まれていると見なされている階層を攻撃し、他方では生活保護バッシングに代表される弱者バッシングで「ばらまきの受益者」階層を攻撃します。これは上方に対するねたみと下方に対する歪んだ優越感との双方を刺激するものであり、「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「既得権益」攻撃として、うっぷん晴らしのみならず「正義感的爽快感」を人々の中の多数派階層に与えることができます。新ポピュリストの人気の源泉を手法上からはこのように見ることができます。

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以上、十年前の拙文の紹介という手抜きに終わってしまいましたが、新自由主義の覇権とメディアの追随、世論の攪乱者による幇助という状況は基本的には変わっていない中で、その内容は未だに古くなっていないように思えます。

2012年には民主党政権が崩壊し、以後、安倍晋三首相による戦後最悪で憲政史上最長期政権が成立・存続することになります。世論上、政権の主要政策が不評であるにもかかわらず、自民党一強で野党が不当に軽視される状況が、後続の菅・岸田政権でもずっと続いています。2021年の総選挙での岸田政権の勝利により、野党共闘の困難性が増し、22年参院選が目前に迫っています。野党連敗の要因は多々あるでしょうが、最大のものは、政権へのオルタナティヴを有権者に効果的に示すことに失敗しているために、与党しか見えない状況が打破できていないことです。本来ならば、政権交代の展望を前面に掲げて、野党共通政策を世論に浸透させねばなりません。総選挙時に野党第一党の立憲民主党がその点でまったく腰が据わっていませんでした。これでは勝てない。共産党との基本政策の違いが大きく、それで野合とみられた、などという点に負けた原因を求めているようでは問題外です。一致点に基づく共闘の意味が分かっていない。この状況がずるずる続いています。

そういう立憲民主党の直接的責任はありますが、ベースには新自由主義のイデオロギー覇権があります。新自由主義の弊害が誰の目にも明らかになった今でも、自己責任論や分断バッシングによって労働者・人民が十分に連帯できていません。自公政権、さらにはコロナ禍がもたらした苦難は個人的努力によっては解決できず、人々の共同による政治変革の道以外にはないことが自明であるかのように多くの人々が「感じられる」にはどうしたらいいか。10年前のハシズム検討にも多少のヒントはあるかもしれないと思った次第です。

 


          ロシアの侵略戦争、日本の平和・安全保障

 

 224日、ロシアがウクライナを侵略しました。このプーチンによる侵略戦争の意味や背景、アメリカやNATOとの関係、日本ではこれを契機にいっそう喧(かまびす)しくなった軍拡、改憲、敵基地攻撃能力保有、核共有…等々、様々に想起される問題群は未だとても整理できないので、断片的にでもそれらを考えるうえで参考になる論稿などを見ながら、順不同でメモしておこうかと思います。

本誌34月号所収、坂口明氏の「〔研究〕QUAD、AUKUSと米中対立 米アジア戦略の新展開と日本」(上・下)はアメリカ帝国主義の冷戦後の世界戦略の変遷を改めて概観させてくれます。ソ連崩壊後の新たな「敵探し」から、対テロ戦争による「大中東」偏重政策へ、さらにはアジアへの軸足移動から中国への対抗戦略重視へ、と大きな流れを捉えることができます。今日の中国についても冷静に見る必要性を説いています。全面戦争をした経験がなく、軍事的冒険が国内矛盾を激化させる危険性があること、米ソ冷戦とは違って、米中の経済的相互依存関係が大きいことなどが指摘されています。インドについても、QUADに取り込まれているとはいえ、国境紛争を抱える中国との関係から、ソ連時代から続くロシアとの関係を重視していることが指摘され、今回のウクライナ侵略に際してもロシアを明確に批判しない背景が分かります。

 ロシアのウクライナ侵略の口実としてプーチンはNATOの東方拡大を挙げます。もちろん普通それを支持する論調はありませんが、侵略の背景として指摘し、軍事同盟の危険性を批判する議論はありますし、私も支持します。しかしそれはそう単純には言えず、NATOの東方拡大がある時期にはロシアの黙認のもとに進み、東欧諸国のNATO加盟自身がロシアの脅威によって進んだという側面があることなど、ソ連崩壊後のロシアとNATOとの関係について布施祐仁氏がきちんと解説しています(「平和新聞」325日付)。事実の正確な認識の上で、以下の結論が重要です。

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 冷戦が終結に向かった1980年代末、ソ連のゴルバチョフ書記長はワルシャワ条約機構とNATOを全欧州安全保障機構に統合し、経済統合も進める「欧州共通の家」構想を提唱しました。これが実現していれば、今日のような事態にはなっていなかったかもしれません。軍事同盟は地域の緊張を高め、戦争のリスクを高めるからです。

  …中略… ロシアはNATOに、ロシアを敵視しない、より包摂的な欧州の安全保障を求めていますが、そのためには、ロシア自身が覇権主義を改め、国連憲章に従って他国の主権と領土を尊重する必要があります。

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 ウクライナが核兵器を手放したからロシアに侵略されたという俗論に対して、同紙上で川田忠明氏が以下のように反論しています。

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 ウクライナには1994年まで核兵器がありました。核を手放したから侵略されたという声もありますが、これは二重に間違っています。1991年のソ連崩壊時にウクライナには核弾頭が176発ありましたが、これはロシアが保有し、ロシア軍が運用するものでした。当時、もしもウクライナが核は自分たちのものだと固執していたら重大な紛争になったでしょう。その後、核兵器をロシア側に戻す代わりにウクライナの安全は保障すると、ウクライナとロシア、米国、イギリスが1994年に「ブダペスト覚書」を調印しました。ロシアはこれを破ったわけです。

 ウクライナが新たに核兵器で対抗するようになったらどうなるでしょう。ロシアの先制攻撃を誘発し、核兵器の打ち合いになりかねません。しかも、国際的に非難され、連帯の土台を失います。核保有で高まる安全はありません。核兵器の廃絶こそすべての国の安全を保障する唯一の道です。

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 続いて川田氏は日本の問題に言及し、「『核共有』は議論だけでも、核軍拡を引き起こし、核衝突のリスクを高めます。被爆国が核兵器の使用を言い出したら、プーチンの無法と同罪です」としてアジアでの外交的解決の必要性と現実性を次のように主張します。

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 9条は、紛争を解決するのに武力の行使を禁じています。つまり外交でやる。アジアでは、その実績があります。南シナ海で緊張が高まっても、国同士の戦争は起こさずにきました。中国も外交で迫られるのが一番効きます。

 ヨーロッパではNATO=軍事ブロックが幅を利かせているのに、アジアには東南アジア友好協力条約や東アジアサミットなど対話の枠組みがしっかりあります。9条を生かした外交は、理想でなく、現実的な政策なのです。

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 このようにアジアとくれば、ASEANの話題になります。本誌3月号での特集「模索しつつ進むアセアン」に続いて、4月号にも豊田栄光氏の「ASEANに学ぶ平和外交 現場取材で見た、聞いた、感じたことがあり、『前衛』4月号にも井上歩氏の「ASEANのインド太平洋構想――大国対抗期の地域平和創造努力」が掲載されています。いずれもアジアと世界の平和に貢献するASEANの貴重な実践を具体的に紹介しています。

ところで気になるのはロシアのウクライナ侵略に対するASEANの姿勢です。「朝日」331日付によれば、「冷戦時代に代理戦争の場となった経験や、一方の陣営に偏りすぎない外交方針から、表だったロシア批判を避ける加盟国が目立つ。 …中略… 1950年代に冷戦が激しさを増す中、中立主義を掲げた経緯もあり、対立する当事者の一方を支持することには慎重だ」ということです。しかし中立主義とはそういうものか。ロシアのウクライナ侵略に関する人道決議を採択した国連総会の議論で中立国オーストリアは「侵略に対し中立ありえない」として真の中立主義を以下のように明らかにしています(「しんぶん赤旗」328日付)。そこには軍事同盟加盟国のロシア批判とは次元の違う格調高い正義の論戦があります。

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オーストリア―中立国だが国際法違反に反対

 

 政治化をさけ、決議はバランスをとり中立的な文言にすべきだ、という一部の国の代表の議論に、われわれは当惑している。これは人道決議で、武力攻撃と戦争犯罪による人々の苦しみに関するものだ。どうやれば、バランスや中立を求めるべきだとなるのか。被害者と侵略者の間のバランスを取るべきなのか。

 オーストリアは中立国だ。どんな軍事同盟にも属してない。中立は価値観の中立を意味しない。勝手で正当化できない国際法の侵犯に直面した時に何らの立場もとらないということでもない。われわれは、明確なスタンスをとる。国際法と人道法の違反に反対し、国連憲章の違反に反対し、声を上げる。罪を犯した者に責任を取らせる取り組みを支持する。被害者と侵略者を区別する明確な文言を支持する。

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 オーストリアの見事な議論に比して、ASEANの立場はいかにも後ろ向きと思われます。東南アジア友好協力条約(TAC)など、ASEANの掲げる原則は立派なものであり、確かにこれまでそれを活かして、当該地域で紛争を戦争にしない実績を上げてきました。ただしそこにはおそらく原則を掲げながらも、具体的には様々な利害調整・忍耐・妥協の連続であったのではないか、と思われます。時には現実的利害の前に、あるいは衝突を避けるために原則を曲げる場合もあり得るでしょう。ロシアのウクライナ侵略に対して明確な反対ができないのはもちろん良くないと思いますが、そこには現実主義の苦悩があるのでしょう。もし加盟国の中にロシアとのつながりを生かして何らかの働きかけができるものであればという、わずかばかりの希望を持ちたくなります。極めて歯切れの悪い言説になってしまいましたが、オーストリアの明晰な原則論に感心しつつも、ASEANの実績ある現実主義を簡単に切り捨てられないという気がするのです。

 時間が無くなったので、最後にいささか放言に近いかもしれない議論で終わります。当初の目的だった、キーウ(キエフ)陥落と傀儡政権樹立をプーチンは諦めたらしい。侵略後数日で首都陥落か、というのがもっぱらメディアによる事前の予想だったのが、それが外れてみると、もはやこの侵略戦争でロシアの実質的な勝利はなく、世界的孤立の中で歴史的衰退が待っているだけと思えます。プーチンの冒険は、かつての大日本帝国のアジア侵略に続く対米英戦争開始という愚挙にも似せられるではありませんか。

 プーチンはせめてマリウポリなどを奪取して、ウクライナ東部の一部の実効支配を確保することで、国内への言い訳として「戦勝」を僭称できるように格好を整えるのを急いでいるのかもしれない。これはいかにもプロの将棋で行なわれる投了の形づくりみたいなものです。実際には内容的に大差であっても、いかにも攻め合いで僅差であったかのような投了図を残すために、敗者側が投了前の数手を費やすことがあります。プロ棋士の意地とミエのためなら分かる話ですが、戦争でプーチンの格好付けのためにすぐにやめるべきところ、戦闘継続でまったく無駄な死者を出すのならとんでもないことです。

 ウクライナの悲劇はずっと続きますが、戦後今度はロシアの苦難が本格的に始まります。今のままでは「大きな北朝鮮」になるとか、中国のお荷物になるだけだとか言われています。それから脱するためには独裁と軍事大国の道ときっぱり手を切るという発想の転換が必要です。プーチンを戦犯としてさばいて、民主化し軍備を劇的に縮小し、経済再建とともに、文化国家として再出発するのが一番ではなかろうか。ロシアの本領は文学・音楽など世界に冠たる芸術大国にあるのではないでしょうか。ソ連時代には科学技術も発展しました。それが独裁と軍事で歪められていたのです。ぜひとも、非軍事化、平和憲法制定など、戦後改革初期までの日本に倣ってほしいと思います。無謀な侵略戦争の後、その抜本的反省によってこそ、無限の発展の可能性が開けます。20世紀の日本は焼け野原になって初めてそうしたのですが、21世紀のロシアは、世界人類が少しは進歩した証しとして、そこまでいかなくても正しく再建してほしい、というのは夢想でしょうか。

 

          断想メモ

 

 川上則道氏の著書『本当に、マルクスは書いたのか、エンゲルスは見落としたのか ――不破哲三氏の論考「再生産と恐慌」の批判的検討――』(本の泉社、2022年)が刊行されました。ざっと通読しただけなので、できればまた改めて言及したいのですが、『新版資本論』編集のキーコンセプトである不破哲三氏の恐慌論と『資本論』形成史論がもはや維持不可能なのは明白でしょう。すでに2020年に、谷野勝明氏の「『恐慌の運動論の発見』と利潤率低下『矛盾の展開』論の『取り消し』はあったか」『関東学院大学経済経営研究所年報第42号』21-39, 2020-03、所収)と同「『資本論』体系形成の段階区分について――「恐慌の運動論の発見」による「大転換」説批判――」関東学院大学経済経営学会研究論集『経済系』第28020208所収)が出されていますが、何の反論もされていません。反論は不可能だからです。

 谷野氏が広範な問題点を扱っているのに対して、川上氏は不破説の核心である「流通過程の短縮」論に絞って実に丁寧に検討しています。そこでは「流通過程の短縮」は本質的には「商品在庫の増加」の問題であるとされます。景気循環としては様々な現象が知られていますが、その中でも「流通過程の短縮」が関わるのは在庫循環(40カ月ほどの短期循環)ということになります。主循環とされる10年周期のジュグラー循環ではありません。したがってそれによって恐慌についての中心部が解明されたとまでは言えません。

 こうして谷野論文に続いて川上著書の刊行で、『新版資本論』編集のキーコンセプトは否定されました。関係者がこれ以上だんまりを決め込むとすれば、学問的良心が問われる事態です。

                               2022年3月31日





2022年5月号

          「マルクス経済学のすすめ」雑感


 1975年、高校3年生のときから毎年、本誌5月号、マルクス経済学入門の特集はずっと読んでいます。復刊後は全320号の全論文を読んでいます。ひょっとすると無意味なノルマを自分に課しているのかもしれませんし、もちろん「読む」と「分かる」とは別問題ですが…。

失礼ながら、人には勧めますが、復刊後の5月号はおおむね成功していないという印象を私としては持っています。かつてのように、『資本論』あるいは『帝国主義論』などの古典そのものを詳しく解説するのに付き合ってくれる読者はもはやあまりいません。そこで、今日的なトピックに絡めて分かりやすくマルクス経済学のエッセンスを紹介し、『資本論』にも触れるといった体の論文が多くなっています。が、どうもテンションが上がらない感じで、それが魅力的な啓蒙になっているか、私などにはよくわかりません。もっとも、もしそうなっていないとしても、それを打開する名案を持ち合わせてはいませんが…。他に、新版『資本論』を特別に押し出すような非学問的な姿勢を改めてほしい、という少なくとも当面叶わぬ願いは持っています。

 『資本論』の内容に賛同するにせよ、しないにせよ、敬して遠ざける、というのが世間の相場です。よく言えば、立場の如何にかかわらず、何だか分からないけど、依然として『資本論』に権威はあるようです。ならばそれを利用しない手はない、というところです。格差・貧困の拡大に加えて環境問題の深刻化から斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がブームになるというのは、そういう状況の一端を現わしています。

 それで、『資本論』そのものをとにかく読む、という体の読書会・学習会がけっこうあるようです。もちろんそれはけっこうなことですが、場合によっては、受験勉強の延長みたいに、叙述そのものを倣い覚えるのが自己目的化される可能性もあります。およそいろいろな本を読むというのは、世界(現実)というただ1冊の書物を読むという目的に対する手段です。『資本論』学習でいえば、資本主義経済そのものを捉えるのが目的であって、難しい内容を理解するのはその手段です(いや、哲学などの勉強にもなる、という意見もありましょうが、それは副次的なものです)。語句にこだわることは必要ですが、その中で、そこで何を対象に何が解明されているのかが忘れられがちになることはないでしょうか。

 マルクスの経済学=『資本論』が経済学批判でもあるということは、学説批判が自己目的なのではなく、資本主義経済そのものをどう捉えるかという点で、先学の格闘に学び克服するということであり、資本主義把握の不可欠の過程なのでしょう。他者の視角を通して認識対象そのものが浮かび上がります。それは、その批判を経過して自己の視角を確立する一助となります。

 マルクス、エンゲルスは先学たる古典派経済学を科学的経済学として尊重し、同時代ないし後発の限界効用価値説に基づく経済学を俗流経済学と見なして前者とは区別しました。後者はその後、本質論としての価値論を放棄し、需給均衡価格論に立ち、新古典派と称され、今日では主流派経済学の地位にあります。俗流経済学という捉え方、扱いをどうするかはここでは措きますが、少なくとも量的に見て、今日における経済像が圧倒的に新古典派によって形成されているのだから、マルクス経済学の視角を明確化させるうえで、それとの対決は不可避であり、その対決を通してこそ現代資本主義の把握が前進すると言えましょう。何だかよくわからない別物がある、ということではなく、現代資本主義という共通の対象を前に、何をどう問題にしているのかという課題設定とその解決のあり方を対照することで、対象認識の深化と自己の方法の確立が進みます。

村上英吾氏の「労働問題をとらえる視点」は新古典派的労働市場モデルの批判を通して、マルクスの剰余価値論などを浮き彫りにしています。まず、新古典派的労働市場モデルを形成する労働供給曲線と労働需要曲線の虚構性が問題とされます。労働者が満足度の高まる労働時間を主体的に選択し、企業がそれを無条件に受け入れるという、この理論における暗黙の仮定に対して、企業が強要する労働時間を労働者が受け入れざるを得ないという現実が対置されます(147ページ)。その問題点に対して、労働密度に関するウォーミングアップ効果と疲労効果との組み合わせという超歴史的一般論から説き起こし、「ウォーミングアップ効果が大きく、疲労効果が生じるまでの時間が長い場合、企業は同じ労働者を長時間働かせた方がメリットは大きくなります」(147148ページ)と説明しています。そののち、マルクスの議論によって、生産手段の私的所有という資本主義の特殊歴史性から、雇用の決定権と利潤取得権を明らかにし、賃金・利潤・搾取の本質を解明します。

論文はできるだけ「理論内在的な問題」(153ページ)を指摘することを通じて、新古典派理論を批判することを目指しています。しかし、「労働者は満足度が最大化される労働時間を主体的に選択しているという労働供給モデルは、過度の単純化に基づく非現実的な理論です」という結論を導出するのに、労働密度の問題を持ち出してきたのは、いささか本質を外した説明になっているように思えます。それは問題の一端でしょうが、本質は資本主義的生産関係の歴史的特殊性に求められます。

 ここで、昔の言葉で言えば「マル経から近経まで」踏まえた碩学の指摘を聞きましょう。

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 伝統的な理論のえがいた社会は、ロビンソン夫人がいうように、ちょうど夕日が沈もうとするのを見ながら、もう一時間働こうか、それとも家に帰ろうかと考える農夫のようなものである。土地も鋤もかれのものであり、かれは自分の畠を自分で耕し、今日何時間働くかを自分できめている独立小商品生産者である。このような場合にのみ、伝統的な理論のように、労働のために生じた背中の痛みをさすりながら(負効用)、収穫物を売った時の貨幣額の効用と、この苦痛とを計算し、もっと働いた方が得かどうかを考えることができるのである。

 だが人に雇われて働いている労働者は何時間働くかを自分できめることはできない。雇われた人は、きまった労働時間を働き、他のものは背中の痛みはないから働きますといっても、工場には入れてくれないのである。このように伝統的な理論は、資本家も労働者もいない社会を前提した理論であった。資本主義以前を前提する理論でありながら資本主義特有の失業という現象を分析しようとしたところに、伝統的理論の無理があったのである。

   伊東光晴『ケインズ』(岩波新書 1962年)P100101

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 ここで「伝統的な理論」というのは新古典派理論でしょう(20世紀中葉、ケインズ理論が支配していた時代、新古典派は古臭い理論と見なされていましたが、今日では不動の真理のように扱われています)。その理論モデルは、資本主義の本質を看過して単純商品生産表象で見ている、あるいは資本=賃労働関係を商品=貨幣関係に解消し、賃労働者を独立生産者と取り違えているので、資本主義的生産過程における決定権の在り処、労働に対する資本の専制支配が見えません。だから諸々の要因をいろいろに指摘するにしても、何事も資本優位に決定され労働者に不利になるという決定的根拠はここに集約されるべきです。

 資本=賃労働の搾取関係を看過し(というか、意識的に認めず)、市場経済における労働者の個人的主体的決定権という幻影を創出して、その階級的結集を妨害し、その結果、看過したはずの搾取関係をより強化する役割を新古典派理論は客観的には果たしていると言えます。強固な数学的形式性をまとうことで、一般に科学的・普遍的と見られる新古典派の強烈なイデオロギー性がここにあります。自己と他者を同時に欺くというのが虚偽意識としてのイデオロギーの典型的姿ですから。

 ところで、村上論文のはじめに、現代の主流派経済学であるミクロ・マクロ経済学が「狭義の経済学」とされ、それに対して「マルクス経済学をはじめとした広義の経済学」という表現も見られます(145ページ)。こういう用語法は筆者独自のものか、それともある程度広がっているものでしょうか。ここからは、ミクロ・マクロ経済学が経済学の核にあり、その周縁にマルクス経済学などがある、という経済学像が見て取れます。

 通念では、「狭義の経済学」とは資本主義を対象とした経済学であり、「広義の経済学」とは資本主義以外の経済的社会構成体をも対象にした経済学を指します。もっとも、それはマルクス経済学内での用語法ですが。資本主義をその歴史的特殊性において捉えるという発想がないブルジョア経済学では、そうした狭義・広義の経済学は成立しようがありません。だからその立場からは、「狭義・広義の経済学」という用語法で想起されるのは、「厳密で科学的で汎用性がある」ミクロ・マクロ経済学こそが経済学の核心にはっきりとあるべきで、「あいまいでイデオロギー的な」マルクス経済学などは経済学の周縁にぼんやりと広がっているという経済学像となるのでしょう。

 さらに言えば、先述の「マル経・近経」というのは今や死語です。「マル経」はまだありますが、「近経」は聞かれません。それは実体としての「近経」そのものがなくなったからではなく、「マル経」が凋落した結果として、その対概念としての「近経」がなくなったからです。現状では、「新古典派=主流派経済学」「ケインズ経済学」「その他」というような勢力配置でしょうから、「マル経」に対抗する「近経」集団はなくなり、言葉もなくなったのです。

 アカデミズムの中はそんなふうではないかと想像していますが、シャバでは資本主義の矛盾が爆発し、マルクス経済学の出番が来ています。労働者階級の多数派がそれに触れることで、「領有法則の転回」がもたらす市場経済像を乗り越えて、搾取経済としての資本主義そのものに諸悪の根源を見出すことが期待されます。

牧野広義氏の「マルクスの未来社会論と生産力」は表題について手際よくまとめています。そのモチーフの一つは斎藤幸平氏などの「脱成長」論への批判にあります。「労働の生産力」と「資本の生産力」とを区別し、未来社会では後者が克服され前者が発展するとされます。その見地から「脱成長」論は「もしも、未来社会が『生産力』の発展がない『脱成長社会』とするならば、それは、資本によって歪められたままの旧来の生産力を引き継ぐことになりかねません」(116115ページ)と批判されます。

 確かに一般論としては分かります。しかし、たとえば斎藤幸平氏などは、これ以上の生産力発展は地球環境への負荷が大きすぎ、キャパオーヴァーになると具体的問題を提起しています。それに対して、「労働の生産力」と「資本の生産力」とを区別する立場ではどう考えるのか、具体的には地球環境問題に関して、「労働の生産力」は「資本の生産力」とはどのように違った対応で解決するのか、ということをクリアに打ち出す必要があります。牧野氏の他の論考では解明されているのかもしれませんが、本誌本号の論稿ではその点が不明なので感想として書きました。

 山口不二夫氏の「会計から社会がみえる 会計学のすすめは日産自動車の財務3表を掲載していますが(132ページ)、なぜか20003月期という古いものです。第4節「会計データの粉飾」(132134ページ)を読んでその理由が分かりました。

 会計データの粉飾で特に注意すべきものとして、特別損益項目が指摘されています。特別損益は臨時異常な損益であり、合法的に粉飾ができる項目です(133ページ)。中でも特別損失が要注意です。帳簿価格より安く売ったり安い値段に置き換えると特別損失が出ますが、「その資産を買ったのは過去のことですから、実際にお金は出ません」(同前)。したがって損益計算書に特別損失を計上しても、キャッシュフロー計算書にそれに相当するキャッシュの流出が発見できません。本業が儲かっているとき、含み損失のある資産をこの際処分するというのが、特別損失を利用した合法的粉飾の普通の適用法です。ところが業績が悪いときに特別損失を出して資産を整理するのがBig Bathと呼ばれる財務戦略です。

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 このBig Bathという財務戦略により、利益データを下げ、業績のV字の底を作って「会社は大変なことになった」と宣伝して、賃金の抑制を行います。しかし、投資家や債権者は事情を知っているので、将来企業の業績がV字回復すると予想して好印象をもつ。実際、早めに将来出そうな特別損失を出しておくので、その後の利益は出やすくなります。これは膿を出し切る、回復のためのバネとも呼ばれました。

   …中略… 

 ちなみにこのBig Bathという財務戦略を初めて日本に導入したのは、日産自動車のカルロス・ゴーン社長(当時)です。2000年に日産自動車は工場の閉鎖と大幅な人員削減を行いました。投資家は、将来日産の業績がよくなるとこの戦略を大歓迎し、実際V字回復が達成されました。でもこの時日産の国内7工場のうち3工場が閉鎖され、その地域の経済は大打撃を受けました。           134ページ

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 ゴーン氏が日産再生の救世主としてもてはやされているときも、労働者・下請けいじめの「コストカッター」として私たちは嫌っていました。しかしそれだけでなく、地域経済破壊の株主資本主義の化身として、特殊な会計手法を悪辣に駆使していたことをここに知りました。「自己増殖する価値」としての資本の闇の部分を内在的に析出し暴露しうる科学的会計学の威力を教えられたと言えます。しかし、立場をたがえれば、会計学は闇を増長する経営手法の指南役にもなりうるということであり、現代資本主義という共通の対象をめぐる「経済学批判」的対決の一つを見る思いです。

 話はだいぶ違いますが、財政の粉飾のようなものもあります。426日に決定した「原油価格・物価高騰等総合緊急対策」について、国費6.2兆円、民間支出などを含む事業規模13.2兆円と発表されました。しかし、ここには政権与党によるごまかしがあり、新たに措置された国費は2.7兆円にすぎず、6.2兆円というのは誇大宣伝です。22年度予算にすでに計上されていた施策に「緊急対策」の看板をかけただけの2兆円と、すぐに支出されるわけではない予備費を補充するための1.5兆円とを、6.2兆円から除けば、残り2.7兆円に過ぎません(「しんぶん赤旗」429日付)。

 一方に「会社が大変だ」と言ってリストラなどを正当化する粉飾会計があり、他方には選挙向けに「こんなにやったぞ」として、看板を付け替えて国費の措置学をごまかし、「物価対策」を誇大宣伝する財政の粉飾があります。資本主義下では、企業も国家も善人をだまして支持を獲得して支配を維持しています。「経済学を学ぶのは経済学者にだまされないためだ」(ジョーン・ロビンソン)という言葉が想起され、マルクスを現代に継承する私たちの「経済学批判」の重大さを痛感します。

 

 

          ロシアの侵略戦争、日本の平和・安全保障(続)

 今月はロシアのウクライナ侵略戦争についてしっかり書かねばと思っていましたが、例によって時間がなくなりました。先月は「順不同のメモ」として書きましたが、それよりも貧弱になりそうです。そこで、410日の愛知県AALA学習会における坂口明氏の講演「ロシアのウクライナ侵攻とクアッド、台湾有事 ――対中包囲の軍事同盟か、非同盟・平和共存の枠組みか――への感想とその他若干気づいた点について述べるにとどめ、今後の宿題とします。特にプーチンが核兵器の使用をちらつかせて世界を恫喝していることは極めて重大であり、核抑止力について理論的に解明する必要性が改めて高まっています。ずっと考え続けるべき、しかし喫緊の課題でもあります。

 410日の学習会の最後の参加者発言(韓国人の方による)が正鵠を得ていたと思います。ロシアの侵略戦争によって我々の運動が深く傷ついたと言われました。日米NATOなど軍事同盟が正義であるかのような状況が作られています。もちろん米帝国主義は何度も侵略戦争を敢行し、日本はそれに従ってきました。しかし現在の局面では、ロシアの不正義に対して、それら勢力が国連憲章や国際法の守護者となっています。残念ながら。この状況の背景について、大国のはざまで苦難の歴史を歩んできた東欧・旧ソ連圏の「小国」の現代史に詳しい南塚信吾・千葉大学名誉教授はこう述べています(「朝日」424日付)。

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 ロシアの今回の軍事行動は暴挙であり、侵略は絶対悪だ。そのうえで世界史の観点に立つと、この戦争は旧社会主義圏にグローバル経済の「新自由主義」が浸透する過程で起きた出来事の一つと言える。80年代のレーガンやサッチャー以来、西側諸国は一貫して規制緩和や民営化、市場化を世界に求めている。

 89年の冷戦終結後に限っても湾岸戦争、旧ユーゴ、アフガン、イラク、あるいはリビアのほか、アフリカや中南米で多くの戦争や内戦が起きてきた。そうした軍事衝突の多くに西側の大国が介入し、自由や民主、人権などの「普遍的価値」の名の下に欧米型の新自由主義を浸透させるための障害を取り除こうとしてきた。

 ウクライナを含む東欧・旧ソ連圏の小国の経済も、欧米資本の新自由主義に組み込まれつつあり、天然資源や農産物の供給地としてだけでなく低賃金労働者の供給地、グローバル企業の新しい市場になっている。

 ただ、この地域の住民には社会主義体制という独特の経験がある。当時は国営企業やコルホーズ(集団農場)などに所属し、体制を批判しない限り、豊かとは言えないが比較的安定した暮らしを送ることができた。ところが90年代以降は自己責任の世界が押し寄せてきた。かつての暮らしから放り出され、個人の利益優先ですべてがお金次第になった。格差が生まれ、寄るべき柱が消滅した。

 ロシア側の主張に一片の合理性を見いだすならば、欧米型の新自由主義とは別の道を探ろうとして今回の戦争に至ったのだと言える。プーチン氏は戦争ではなく、社会主義という共通体験を持つウクライナやベラルーシ、カザフスタンやジョージアなど旧ソ連圏諸国と手を携えて、欧米型の新自由主義に代わる「新たな普遍的価値」を示すことを目指すべきだった。

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 ロシアの侵略戦争に対抗するには、国連憲章・国際法の遵守という一点での一致で十分であり、それで広範な統一戦線を構築すべきです。ところが米国のバイデン大統領は「民主主義VS専制主義」というスローガンを掲げています。それ自身は正義のスローガンと言えるかもしれませんが、必ずしも民主的でない様々な政権が存在する世界の中で、平和の戦線を縮小するという意味でミスリーディングな方針です。それだけでなく、南塚氏の指摘を踏まえれば、このスローガンの含意として、新自由主義グローバリゼーションへの支持が秘かに組み込まれていることを見抜くことが必要です。20世紀「現存社会主義」への評価を措くとしても、今後の社会主義的オルタナティヴの観点からすれば、ロシアの侵略戦争への批判・克服という世界万人共通の課題をあくまで追求する中に、軍事同盟の美化を含む新自由主義・帝国主義的秩序の正当化を忍び込ませないことが必要です。それには国連憲章・国際法の遵守という一点での共闘でまず侵略戦争を止めることだけが喫緊の課題です。その先に経済のあり方を含む価値観での新たな競争が展開されます。もちろんプーチン路線自体はあくまでロシア帝国の末裔に過ぎず、新自由主義に抗する意志があるとは思えず、いかなる意味でもそうした新たな価値観につながるものでないことを確認することは前提ですが。

 410日学習会での坂口講演は、きわめて充実したレジュメに基づき、詳細な知見が紹介されました。それだけでなく、公式的な筋論(民主勢力のタテマエ)で済ませることを良しとしない率直な語り口が新鮮でした。それはできあいの「正解」を持って説得するというのでなく、自分の頭で考え直してみて、様々な人々の間での議論を縦横に発展させ、その上で平和の世論を作り出す、という意味で大切な姿勢なのだと思いました。

 21世紀のヨーロッパで、ロシアがあからさまな侵略戦争を決行する、というまさかの事態を受け、衝撃が走っています。それで平然としたふりをするのはよくない、と坂口氏は考えたのではないかと思います。戦争と平和の問題で、究極的には何が起こるかは分からないのだから、確定的なことを言うのは難しい、と言われました。

 かつての北朝鮮のミサイル実験をめぐっての(小此木慶應大学名誉教授と思われる)発言を例に、一定の根拠があり蓋然性が高いと思われる事であっても、うかつに発言できないのが普通だと言われました。――当時、北朝鮮がミサイルを盛んに発射しても戦争へと暴発することはない、と多くの研究者が見ていたが、メディアでそう発言はしなかった―― しかしそれを自覚した上で、一定の打ち出しは必要ではないか、という趣旨でもあったように受け止めました。

 もう一つ、平和・民主勢力の中で、軍事の認識が不足していて、理想論・タテマエに終わっているのではないか、それで人々の懸念や疑問に答えられるのか、という論点も提示されたように思います。そうした二つの問題意識の交点で、坂口氏は以下の発言を批判しました。

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 「攻められたらどうする」ではなく、「攻められないためにどうする」という視点がとても大切です。「攻められたらどうする」というのは、軍事的な緊張を高める危険な発想です。

     弁護士・伊藤塾塾長 伊藤真氏 「しんぶん赤旗」317日付

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 ロシアの侵略を受けて、何が起こるかわからないと思って、人々が「攻められたらどうする」という懸念を持つのは当然であり、軍事的な問題にも答える必要がある、という問題提起というか主張が行なわれました。それで、日本が島国であることに始まって、一定の説得力を持って軍事問題が分析されました。

 それは良いのですが、では伊藤氏の主張が間違っているかというと、なお依然として私は正しいと思います。確かに人々の疑問を封じ、軍事問題を無視するという文脈に置かれるならば間違いですが、それらに開かれていることが前提であるならば間違っていないと思います。

 確かに「何が起こるかわからない」のだから「攻められたらどうする」という疑問は出てきますが、それが前面に出て、他が後景に退いているという状況が問題なのです。そうなるのは、世論では、日米安全保障条約と自衛隊が圧倒的に支持され、軍事的抑止力によって平和を確保する、という見地が常識になっているからです。憲法の道としての、外交による平和こそが前面に出てくる必要があります。あくまでそこに説得力を持たせることが中心になるべきです。

 ロシアのウクライナ侵略を受けて、言い古されたことのようで、改めて以下の真理が輝いているように思います。

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 際限のない軍拡競争では平和をつくることはできません。軍備増強にあてる予算を医療や教育、福祉に向けて本当の安全保障を高めることが必要です。

 自国だけがよければ平和だということにはなりません。全ての国は経済的にもつながっています。それはロシアのウクライナ侵略で明らかになりました。

 石油や小麦、エネルギーなど世界中に影響を与えています。どこかで戦争が起きれば、さまざまな影響が広がり、日本もその影響を受け、無関係ではいられない。だからこそ、対話での交流、努力が必要です。

 ロシアのウクライナ侵攻により、二つの考え方が出てきました。

 ひとつは、どこから攻めてこられるかわからないので武力で守る軍事力強化の考え方です。もうひとつは、武力では解決できないという考え方で、核兵器を含む武力や軍事力に頼らず平和に向かう道です。

  原水爆禁止日本国民会議(原水禁)川野浩一共同議長 「しんぶん赤旗」412日付

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 つまり軍備増強論とは自国さえよければいいという「一国平和主義」であり、世界的つながりを無視しており無力だということです。そこでまさに簡潔に提起されたこの「二つの考え方」の対決に焦点を当てることが私たちの喫緊の課題です。そこを外して軍事問題中心に考えると軍事マニア化して、現状に絡み取られる恐れがあります。改めて言いますと、<「攻められたらどうする」というのは、軍事的な緊張を高める危険な発想です>という伊藤真氏の発言は、軍事問題を無視しろと言わないならば、正しく急所を衝いていると評価できます。

 それに関連して、日本共産党「自衛隊活用」論を改めて持ち出してきたのは、それ自身が間違っているということではありませんが、世論状況、その文脈的に見てミスリーディングになる可能性があります。もちろん志位和夫委員長は以下のように正確に語っています(「しんぶん赤旗」424日付)。

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 すなわち、わが党が参加する民主的政権ができた場合には、日本共産党は、「軍事対軍事」の悪循環に陥ることを厳しく退け、9条を生かした平和外交によって、東アジアに平和を創出する努力を最優先で行う。そうした努力を重ねても、その努力の途上で、万が一、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、民主的政権がどういう対応するかについて述べたものです。

 自公政権が、かりに安保法制を発動して、日本が攻撃されていないのに、集団的自衛権を行使して、米軍と自衛隊が一緒になって、「敵基地攻撃」に乗り出して、その結果、戦火が日本に及んできた。そういうケースは急迫不正の主権侵害とは言いません。わが党は、安保法制の発動に断固反対ですし、安保法制廃止を強く訴えています。こうしたケースは、わが党が述べている「自衛隊活用」論とはまったく別の話です。災害救助で汗を流している自衛隊員を「殺し、殺される」海外の戦場に投入するなど絶対に反対を貫くというのが、日本共産党の立場であることは、いうまでもありません。

 実は、こういうケースについては、第22回党大会の中央委員会報告で解明しています。「周辺事態法」を、自民党政府が発動して、自衛隊が海外での米軍の軍事活動に参戦して、結果として、戦火が日本に及ぶようになった場合に、これは急迫不正の主権侵害とは言えないと言って、次のように、大会決定は述べています。

 「安保体制のもとで日本国民にとっての現実的な危険は、米軍が『日本周辺』で介入・干渉戦争をはじめ、日本が戦争法を発動してそれに参戦し、その結果としてその戦火が日本におよんでくるケースであります。これは不当な介入戦争のなかで生まれてくる事態であって、『急迫不正な主権侵害』にはあたりません」

 この22年前の大会決定の提起は、まさに今にも当てはまります。今の日本にとっての現実的な危険は、さきほども強調したように、安保法制を発動して、自衛隊が米軍と一緒に海外での戦争をやることにあり、その結果、戦火が日本に及んでくることにあります。それは急迫不正の主権侵害とは呼べないし、私たちの述べている「自衛隊活用」論とはまったく別の話です。

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 「自衛隊活用」論はこの文脈を正しく理解した上で普及させる必要があります。しかし、実際問題としては、安保条約と自衛隊が支持され、軍事的抑止力によって平和を維持するのを当然視する世論状況の中では、まったく「急迫不正の主権侵害とは呼べない」「安保法制を発動して、自衛隊が米軍と一緒に海外での戦争をやる」状況への適用と誤解される恐れがあり、結果として間違った世論への迎合となってしまいます。それを防ぐには相当の説明が必要です。また、国家の持つ自然権としての自衛権というものと、違憲の自衛隊の活用との関係をどう捉えるのか、あるいはその自衛権の実現形態としての非武装抵抗の可能性(自衛権と言えば武力の行使に直結する発想の相対化)など、法的・実際的に検討すべき課題は残されていますが、ここでは措きます。

 ロシアのウクライナ侵略戦争を眼前にして、「攻められたらどうする」論が出てくるというのは、あたかも日本がウクライナのような被侵略国になるかのような漠然としたお人よし的錯覚を前提にしています。少なくとも現行の対米従属の自公政権下において、そんなことはあり得ず、逆に侵略側に立つことで戦火が日本に及ぶようになる可能性が高いわけで、それでも自国が戦争している以上、支持すべきだという「愛国心」が煽られるという状況が最も考えられます。「攻められたらどうする」論は先々そのように利用されるということを、平時の今から捉えておく必要があります。

 自国がそういう状況になったら、私たちは多くの人々とともに反戦運動に立ち上がらねばなりません。だからこそ国家権力は従前から反戦運動を敵視しており、それは最近国会で暴露されました(330日、衆議院外務委員会、共産党・穀田恵二議員)。反戦デモの敵視について、政府は表面上取り繕っていますが、ホンネのところでは、思想・信条・表現の自由などは無視して、国家権力の発動する戦争へのジャマは何としても排除するつもりです。問題はメディアと世論の沈黙です。体制追随が常態化しているメディア動向が主導しているわけですが、世論における問題はおそらく、「攻められたらどうする」論と密接に関係しています。ウクライナのようになったら困るという漠然とした不安を持ちつつ、その中で国に盾突くこと自体がいけないという空気(それは安倍右翼政権下で非常に強化された)があり、反戦活動など問題外とされる状況に近づいているのではないでしょうか。

 したがって「攻められたらどうする」論の克服は、戦争と平和を考える上で重要であるのみならず、人権と民主主義を守る上でも必要不可欠だと言えます。ロシアのウクライナ侵略のような典型的な侵略戦争を見て、あたかも今の情勢で日本が被侵略国になるかのような漠然とした錯覚に陥るのを正す必要があります。

日本国憲法の存在にもかかわらず、対米従属下で歴代日本政府が誤った外交政策に陥り、自衛隊が米軍とともに海外での戦争に参加する可能性が高まっていること、確かに中国・北朝鮮・ロシアの覇権主義的誤りは深刻だが、軍事対軍事の対抗ではなく、東アジアサミットなどの対話の枠組みを活用した包摂的対応で平和を維持する努力が十分に現実的であることなど、抽象的不安を払しょくする具体的政策対応を前面に押し出していくことが必要です。

 「攻められたらどうする」問題の最悪の系論として「核共有」論があります。軍事的抑止力論が世論の主流である現在、最低限、「議論」に持ち込めば、この先、日本人の「核アレルギー」を克服して実現可能性があるというのが、安倍元首相や維新の会などの目論見でしょう。

 この問題では、一部の世論調査が世論誘導になっています。「朝日」48日付夕刊記事<(世論調査のトリセツ)「核共有」、賛否は聞き方次第?>が「朝日」「FNN産経」「毎日」の世論調査を比較しています。

 

○朝日

 非核三原則のうち、「持ち込ませず」を見直すべきだという意見についての賛否

   *「賛成」35%  *「反対」54

 

○FNN(フジテレビ系ニュースネットワーク)と産経新聞

  *核共有に向けて議論すべきだ        20.3

  *核共有はすべきでないが、議論はすべきだ  62.8

  *議論すべきではない            15

 

○毎日

  核共有を求める意見についてどう思うか

   *議論すべきだ 57%   *議論すべきではない 32

 

 「朝日」以外は「核共有」推進勢力の意向に沿うように世論を誘導しています。特に「FNN・産経」の「核共有はすべきでないが、議論はすべきだ」という回答項目設定で6割以上もの多数派を作り出しているのがきわめて巧妙・狡猾であり、人々の平和意識を好戦の方向にずり動かそうとしています。

 これに対して、私たちは核共有など議論も許されない、ときっぱり言うべきです。日本人が核共有など議論し始めたら、周辺国がどう思うか。軍拡の悪循環にさらに拍車をかけることは火を見るよりも明らかです。シンガポールのリー・シェンロン首相は、安倍元首相が提案した「核共有」の考えや、韓国の世論調査で核能力開発支持が多数となったことなどをあげて、もし北朝鮮、韓国、日本、中国に核兵器があり、さらにイラン、トルコ、サウジアラビアやその他の中東諸国まで核兵器を持つことになれば、「われわれは非常に危険な方向に向かっていると思う」と述べました(「しんぶん赤旗」41日付)。まさにASEANの良識は事態の本質を射抜いています。

 したがって、「攻められたらどうする」というのは、軍事的な緊張を高める危険な発想だ、ということを大いに主張することが必要です。もちろん付随的に軍事情勢を分析して平和路線の説得力を高めることは有用です。

 坂口氏は、軍事問題抜きの平和理想主義だけでは、人々への説得力がないということを強調したかったのだと思います。その点は同感です。軍事によって平和はもたらされない、ということを一面的に強調する向きがありますが、それでは世論から浮いてしまいます。そこで、平和・安全保障についてどう捉えるか、その理屈を素人考えながら組み立ててみました。

 平和主義の立場から軍事問題に接近するには、現状分析の課題として現実に内在するリアリズムが求められます。平和のための外交展望を考えるには、価値判断・政策の問題として、現状打開の構想力が必要となります。したがって、平和について考えるには、現状認識と価値判断とを区別し、それとの関係で、外交などによって支えられる真の平和と軍事的抑止力・軍事均衡に依存するカッコつきの「平和」とを区別することが必要と考えます。

 「軍備によって平和はもたらされない」という言説は正しいと思いますが、それが成立する文脈を見極める必要があります。現実には、軍事的抑止力によって戦争が回避されているという局面はあり得ます。そこから見ると先の言説は非現実的な理想主義に過ぎないということになり、「軍備によって平和はもたらされる」が正しい、となります。

 しかしここで「軍備によってもたらされる」平和もありうる、という現状認識を是認するとしても、それを良い状態と考えるか否か、という価値判断の問題が別に生じます。平和主義の価値判断では、それは悪い状態なので変えるべきだ、となります。そこで平和という言葉で表されるものの中にもいろいろある、ということが次の問題となります。外交などによって成立する真の平和と軍事均衡などによるカッコつきの「平和」との二つがあり(現実にあるのは両者の混合物なのだが)、平和主義の立場からは前者から後者に変えることが課題として挙げられることになります。

 すると「軍備によって平和はもたらされない」という言説の含意が分かります。そこでの平和は、カッコつきの「平和」とは区別される真の平和であり、眼前の「平和」を捉えた現状認識を突き抜けて、真の平和を求める価値判断(と運動)を促す――この短い断言はそのように捉えて始めて十全にその意味が把握されると私は思います。それは単なる空想的理想主義の願望ではありません。以上の議論は2014年の拙文「平和について考えてみる」で詳しく展開しました。

最後に、断片的言及になりますが、核抑止力論を考えるに際して、人道的アプローチの重要性を改めて想起させたのが、前広島市長の秋葉忠利氏による<「核兵器を使わない」と、ただちに宣言して下さい!>という電子署名の呼び掛けです。プーチンの度重なる核兵器使用の脅しに対して秋葉氏はこう叫んでいます。

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今回、「万一」プーチン大統領が核兵器を使ったとすると、その結果起きる「生き地獄」は、インターネットとドローンを通じて世界の人々が目の当りにすることになります。

 

それは、数十億の人々が広島・長崎で実際に起きた生き地獄を、大きな画面で長時間にわたって見続けることを意味します。その人々がどのような反応を示すのか、少しでも想像力が残っているのなら考えてみて下さい。

 

人々が悶え苦しみ死に至る阿鼻叫喚は、録画され編集された映像として残され、「プーチン大統領」のしたこと、「ロシア」のしたこととして永遠に語り続けられます。

 

プーチン大統領の言葉、「歴史上で類を見ないほど大きな結果」とは、プーチンという名前とロシアという国が未来永劫、人類全体から蔑まれ、厭われ、共存したくない存在としての烙印を押されることになるのです。

 

広島・長崎を知っている私たちは、ロシアがそのような存在になることを望んではいません。それ以上に、一人たりとも広島・長崎の被爆者と同じ思いをすることになってはいけ(ママ)ことを声に大にして叫びます。

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 現代の人類は核兵器使用の惨状をどのように目撃する羽目に陥るのか。「歴史上で類を見ないほど大きな結果」などという大言壮語をそれにふさわしい覚悟もなく発するプーチンへ、そして世界の人々にも向かって、秋葉氏は生き地獄のもたらすトラウマを生々しくぶつけています。核兵器廃絶への人道的アプローチ――人類を救う想像力がここにあります。それは核兵器禁止条約を採択・発効させる大きな力となりましたが、今、核兵器使用阻止に向け緊急発進しているのです。

 

 

          断想メモ

 428日に「消費税をなくす全国の会」あてに以下のメールを送りました。

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 「ノー消費税」2022.5、第369号、大門美紀史議員による内部留保課税の解説が大変簡潔で分かりやすい内容でした。まず内部留保課税の正当性が明らかにされ、次いで「株主配当と自社株買い」中心から、「賃上げと適切な投資」実現へと企業行動を誘導する徴税の制度設計が語られ、最後に新たな税収による中小企業・中堅企業への賃上げ支援で締めくくられています。

 大企業と富裕層に応分の負担を求めるという政策に対して、世間では、回避行動によって成果が上がらないとか、経済の混乱や停滞をもたらすという反対論・懐疑論があります。それに対して、適切な制度設計によって、きちんと効果を上げ、混乱と停滞どころか、経済構造の健全な変化をもたらす、と説得力を持って反撃することが大切です。

 安倍政権以来、空前の悪政(絶後にしなければならないが…)が続いているのは、オルタナティヴがないという漠然とした諦めがあるためです。明快な政策的対案を提示して、「目からうろこ」体験を多くの人々に実感してもらうことが政治転換につながります。今回の記事はその実例となり得るものとして推奨します。
                               2022年4月30日





2022年6月号

          「民主主義VS専制主義」をめぐって 

 世間の話題はロシアのウクライナ侵略戦争で持ち切りで、さしものコロナ禍もすっ飛ぶ勢いです。テレビニュースなどは連日、軍事情報満載で、外交努力による紛争解決の視点がかき消されています。戦争の原因にしても、ただロシアの専制政治だけに解消し、もっぱら「民主主義VS専制主義」の観点だけが押し出され、その関連でアジアでは専制国家・中国の脅威が強調されるばかりです。NHKニュースでは(おそらく民法も)中国を仮想敵国視し、アメリカに従って中国包囲網を形成するのは当然の前提としてすべての報道がされています。したがってウクライナのような惨状を回避するには、軍事同盟を強化し、武力を拡張して抑止力を高めるしかない、という観念が毎日「全国民的」に注入されています。それは問わず語りに、(軍事同盟とは対極にあり)無力な憲法はジャマなので変えるほかない、という方向に誤導する狙いを持っているというべきでしょう。安倍晋三元首相や維新の会の「核共有」などの妄言が大した批判もなく報道されている状況がそれを示しています。そして岸田首相自身がそうした一連の言説の先頭を切っています。さすがに核共有を支持するとまでは言わないけれども、日米首脳会談でも軍事費大幅増を公約するという暴走にまで至り、しかもそれがメディアで現状追認的に報道されるという事態を支えているのは、ウクライナの恐怖をテコにした首相の言動でしょう。日本の現状からすれば、ウクライナではなくロシアのようにならないように反戦活動しなければならないのですが、メディアの扇動ですっかりウクライナ的状況への恐怖が覆い、それは軍拡世論の興隆に一役買っています。ウクライナ・岸田シンドロームとでも言うべき病的状況です。

戦前の日本では「非国民」「鬼畜米英」「暴支膺懲」などと言われました。現在の日本はアメリカの属国なので、「鬼畜米英」とは言いませんが、「非国民」の代わりに「反日」が日常語として通用しています。330日の衆院外務委員会で共産党の穀田恵二氏が暴露した防衛省の資料で、「反戦デモ」と「報道」を敵視していることが分かりました。階級支配を本質とする資本主義国家の実態はこんなものだ、と言ってしまえばそれまでですが、何のことはない、非民主主義的で人民を敵視しだまして戦争を準備しつつあるという意味では、ロシアと同様なのが日本国家の状況です。それは国家の本質にとどまらず、政府を批判すること自体がはばかられ、与党が愛好され、野党が忌避される「空気」が蔓延する現象にまで達しています。権力監視という機能をほとんど果たさなくなった日本のメディア状況がそれを加重しています。さらに中国脅威論の扇動下では、そのうちに「暴支膺懲」という言葉までが復活するかもしれません。今の日本の「空気」からはヘルマン・ゲーリングの金言が想起されます。

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 もちろん、普通の人々は戦争を望まない……しかし、政策を決定するのは最終的にはその国の指導者であるのだから、民主政治であろうが、ファシスト独裁であろうが、議会制であろうが、共産主義独裁であろうが、国民を戦争に引きずり込むのは常にきわめて単純だ……そして簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国家を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国家についても等しく有効だ。

 

 「国家秘密警察ゲシュタポを創設し、経済計画四カ年計画の全権として軍備拡張を強行したナチスの軍人ヘルマン・ゲーリングに対して、独房でインタビューを行ったアメリカ人のグスタフ・ギルバートの記録である『ニュルンベルク日記』の中の言葉」

  山室信一「『崩憲』への危うい道 軽々な言動によって骨抜きにされる日本国憲法

    (『世界』201310月号所収) 51ページ

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 このような世論状況を克服するのは極めて難しく、簡明な反撃策を示すことは私にはできません。とりあえずは「民主主義VS専制主義」スローガンの虚実を暴露し、ロシアの侵略戦争をめぐる状況をできるだけ多面的に把握し、そこに戦争と平和の教訓を引き出すことが必要でしょう。それを参考に日本と東アジアの平和への道に接近することで、今日の世論状況の異常さを浮き彫りにし、軍事同盟に基づく軍拡・改憲路線を克服し、国連憲章・国際法と日本国憲法の持つリアリティを説得力を持って押し出す必要があります。

 どのような理由を持ち出してこようとも、ロシアのウクライナ侵略が正当化されえないことは国際法の専門家などから指摘されており、これは不動の前提です。その点で、一部「左翼」陣営から様々な経済的・政治的観点からロシアへの批判をあいまいにする言説が流されているのは遺憾です。しかしだからと言って、逆に問題を政治的民主主義に一面化し、「民主主義VS専制主義」の価値観対決に絞り込むのも誤りです。それは第一に、侵略戦争批判としての国連憲章擁護の一点での一致という幅広い統一戦線を阻害します。世界各国の半分以上は民主主義というよりも専制主義であるとされますが、その多くは侵略戦争には反対していますからそれを排除するのは誤りです。

 誤りの第二は「民主主義VS専制主義」で言う「民主主義」は実際にはずいぶんなバイアスがかかっているということです。だいたいこういう価値観の強要においては、「民主主義」と「市場経済」がセットで出てきます。市場経済と言っても実際には、新自由主義グローバリゼーションという今日の資本主義経済を指しています。それは格差・貧困の拡大や環境破壊によって現代世界の様々な危機を生み出し、紛争の原因となっています。

 バイデン政権の政策には新自由主義への一定の批判がありますが、軍事同盟によってグローバル資本主義の秩序を守ることは大前提になっています。「民主主義VS専制主義」というスローガンは結局そうした価値観を押し付けるものです。しかしスローガンの経済的土台は表面に現れることなく、政治的民主主義ないし自由主義の次元だけで語られます。

 さらに、メディアの「平和」ドグマ(日米軍事同盟と自衛隊による「平和」の絶対視)とバイデン氏のスローガンは「常識」として世論を支配しており、そういう状況は知識人の右傾化の土台となっています。やや横道にそれますが、憲法学において「憲法学新世代の第三の論陣」と呼ばれる研究者たちが現れ、旧来の改憲派よりも理論水準が高く、一見穏健であっても国民民主党や維新の会などの改憲ブレーンになっているようです(植松健一氏の「国会での改憲勢力の動向と、対抗する野党の役割」、『前衛』5月号所収、70ページ)。必ずしも改憲派でなくとも、保守的あるいは体制内リベラルの以下の議論は注意を要します。それらを反面教師として検討することで、「民主主義VS専制主義」というスローガンに同調するのでなく、国連憲章擁護の一点で共闘する意義が一層明確になると思われます。

 長谷部恭男氏の「(ひもとく)戦争と憲法 何を守るのか、それが問題だ」(「朝日」430日付)は一見常識的なように見えてその実、極めて危険な議論を展開しています。長谷部氏はルソーの遺稿「戦争法原理」に依拠して「憲法原理が根底的に異なるからこそ国家は対立する」と主張し、さらに「第2次大戦でアメリカが日本に憲法原理の根底的な転換を求めたのも、それなくしては両国の間に安定した友好関係が成り立ち得ず、戦争が終結し得なかったからである。共産主義陣営と自由主義陣営が対立した冷戦も、共産主義陣営がリベラルな議会制民主主義国家になることで終結したはずであった」としています。ところがロシアは議会制民主主義を今も受け入れず、プーチンは演説でファシズムの思想家イヴァン・イリインから引用していると批判し、こう続けます。「ヘーゲル思想を歪曲(わいきょく)したヘーゲル左派(マルクス主義)もヘーゲル右派(ファシズム)も、現状で受容されている法や道徳は、歴史をさらに高度な段階へと進展させる『革命』によって破壊されると説く。国際法も人道法も守るにはあたいせず、あからさまな嘘(うそ)をつくこともさしたることではない」。

 ここには科学的社会主義に対する驚くべき歪曲が展開されています。マルクスがヘーゲル左派から出発しつつ、やがてそこから脱却して史的唯物論を形成したことを長谷部氏が知らないわけがないから、たとえそうであっても、マルクスの思想はヘーゲル思想を歪曲した(現状の法や道徳が「革命」によって破壊されると説く)ヘーゲル左派の枠内にあるのだ、と言いたいのでしょう。そう見る根拠は「国際法も人道法も守るにはあたいせず、あからさまな嘘をつく」プーチンの侵略戦争の実績からさかのぼった類推にあると思われます。もちろんソ連崩壊後のロシアは公式にもマルクス主義を放棄しているし、それ以前のソ連にしても「マルクス=レーニン主義」を掲げていたけれども、その実態がマルクスの思想と隔絶していることは常識でしょう。であっても、あくまでマルクス主義を法の支配や立憲主義、議会制民主主義とは対立するものと描くことは、少なくとも現代の普通の科学的社会主義の言説を無視しているのですが、ブルジョア的教育とメディアが形成している俗信にはかなうので、「朝日」紙上では平然と主張できるということなのだろうと思います。

 それだけであれば、科学的社会主義という、ブルジョア社会にあっては片隅の存在でしかないイデオロギーにだけ関わる主張ですが(その本質的意義は重大なのだけれども、とにかく社会のごく少数派の問題ではある)、問題は戦争の原因を憲法原理の違いに求めていることです。ブルジョア政治学であっても、戦争の原因をもっぱらイデオロギーの違いに求めるというのは特殊な立場であり、リアリズムを排した観念論だと見なされるでしょう。日本には、ウクライナに向かって、降伏した方がいいという「平和主義」の主張があります。もちろんそれは当事者の選択の問題なので余計なお世話です。しかし長谷部氏のように、「命をかけても徹底抗戦するというゼレンスキーのことば」を専制主義のロシアの属国になることを拒否して「ヨーロッパ型の議会制民主主義国家になる」選択だと熱烈支持することは果たして適切だろうか。そこに停戦の追求という大事な課題は欠落していないか。

その延長線上に「日本の安全保障と憲法についても考えるべきことは多い。何の安全であり、何の保障なのか。突き詰めて言えば、守るべきは現在の憲法原理である。日本のリベラルな議会制民主主義を断固として守るという気概が今の日本国民にあるか否かが問われている」といういささか上から目線のご託宣が下されます。こういう純粋イデオロギーは危険だというのが、左翼に対するブルジョア現実主義の批判としてよく見られるのだが…。守るべきは人命ではないのか。カッコ悪い妥協も含みながら。残念ながら長谷部氏の所説を知らないのですが、おそらく日米安保条約と自衛隊を支持した上での「護憲」ではないかと思います。2015年の戦争法の審議に際しては自民党推薦で国会に出席しながら、「安保法制」を憲法違反と断じて話題となった憲法学者ですから、集団的自衛権には反対なのでしょう。しかし「リベラルな議会制民主主義」至上主義からは、台湾有事に際して、中国の専制主義に反対するために日本の参戦を支持することになりはしないか、と危惧されます。こういう議論は、「民主主義VS専制主義」の純粋型とも言えるものであり、その最悪の帰結は「民主主義のための参戦」であり、その「民主主義」は本物ではなく米国主導の新自由主義グローバリゼーションの秩序に過ぎない可能性があることに注意すべきです。そういう意味でも、「国連憲章擁護の一点での団結」が推進されねばなりません。

 なお同記事では最後に「憲法9条が必要最小限の自衛力の保持を禁じているわけではないことを分かりやすく説明するのが、木村草太著『自衛隊と憲法』(晶文社・1595円)である」と記されています。かつて聞いた長谷部氏の講演では憲法13条の幸福追求権によって、自衛隊合憲論が主張されていたように覚えています。木村氏も同様ではなかろうかと思います。しかし13条の本意は、戦争しても自衛して命を守ることが幸福追求なのではなく、あくまで戦争をしないことが幸福追求だ、戦争そのものがすでに不幸なのだ、と見るのが前文・9条と整合的な解釈ではないかと思います。

 日本共産党も自衛隊活用論の文脈の中で、9条の下でも自然権としての個別的自衛権が存在することを指摘しています。しかしそれは自衛隊合憲論ではないはずだし、交戦権の否認・戦力不保持という9条の真意をどう守っていくか、という観点からすれば、安易な武力行使の是認に導く恐れなしとしません。

 閑話休題。インタビュー「ロシア、強権の歴史」(「朝日」511日付)で、「戦闘行為でロシアの残虐性が際立つのはなぜでしょうか」という質問に、池田嘉郎氏は以下のように答えています。

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 「多数の犠牲者を出した革命や戦争の後、その痛みから、生命や人権を尊重する考え方が育ってきたのが西欧の歴史ではないでしょうか。ロシアではそうならず、強大な権力による秩序の回復が、個人の尊重よりも優先される歴史が繰り返されました。革命後の共産党は国民を監視し、ソ連崩壊後の不安定な国をまとめたプーチン政権は、野党指導者やジャーナリストが殺害される事件の真相究明どころか、むしろそれを無言の脅しに使います。個人が尊重されない社会のあり方が、戦闘行為での人間の扱いにも反映されています」

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 これは常識的な回答のように見え、確かに「個人が尊重されない社会のあり方が」ロシアの残虐性に関係していることは明らかでしょう。しかし、ならば「西欧の歴史」に含まれるはずの米国のベトナム戦争での残虐性はどう説明できるでしょうか。「しんぶん赤旗」511日付のインタビューはこう告発しています(「沖縄復帰50年 「戦争犯罪」の拠点に ベトナム戦争最前線で取材 石川文洋さんに聞く」)。

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 私は南ベトナムで沖縄から移動した米第3海兵師団、米本土からきた陸軍第1騎兵師団などに従軍取材しました。66年には、ビンディン省の「ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)村」侵攻を取材しました。2機の戦闘機が爆弾を次々と投下し、ナパーム弾で村を燃やし、さらに攻撃ヘリが1分間で6000回発射できる銃で機銃掃射する…。米軍は「ベトコン1個大隊がいる」と言っていましたが、実際は民間人だけでした。抵抗できない住民を包囲し、上空から機銃掃射し、爆弾で焼き尽くす―。これはテロです。

 米軍はこうした民間人への殺戮(さつりく)を何年も続け、その中で虐殺やレイプなど、数多くの犯罪行為も明らかになってきました。

 枯れ葉剤の被害も深刻です。ベトナムで枯れ葉剤の被害者を取材してきましたが、すでに第4世代、ひ孫の代まで遺伝し、障害が出ています。これを戦争犯罪といわずして、なんというのでしょうか。

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 石川氏はどの戦争の残虐性の根底にも「差別」があると指摘しています。上記では米帝国主義の侵略戦争という性格が残虐行為を加重しているし、そもそも搾取制度としての資本主義そのものが人間を軽視するというのが問題の土台にあると思います。それらに抗して個人の尊重、生命や人権の尊重を貫くということは人民の闘いによるのであり、「西欧の歴史」の専売特許ではありません。

 池田氏は「人権の尊重や私有財産の不可侵を基礎におく西欧的な近代思想」を称揚した上で「個人の自由を集団性の下に置いてきた」ロシア社会についてこう説明します。「私的所有権を否定する共産党のソ連時代に集団主義的だったのは当然ですが、帝政時代から常に、支配者による上からの命令で社会を近代化させてきたのがロシアです。いわゆる『啓蒙(けいもう)専制』です。貴族や商人も国家への奉仕を義務づけられ、十分な自立性を発揮できず、個人の権利の尊重という法文化が発展しませんでした」。

 ここにはあからさまな資本主義擁護の反共思想が見られます。確かにソ連社会主義は人間抑圧型の社会であり、このように軽侮されても仕方ない状態ではありましたが、ひるがえって「私有財産の不可侵」を唱えることで現代資本主義=新自由主義グローバリゼーションの問題を看過し美化する結果になっています。それは、和田春樹氏をはじめとするロシア史研究会の有志の声明「ウクライナ戦争を1日でも早く止めるために日本政府は何をなすべきか―――憂慮する日本の歴史家の訴え―――」315日)への反応によくあらわれています。 

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 「侵略した国と侵略された国の双方に戦闘停止を求め、日本政府に中国、インドと共に停戦交渉の仲介をせよという内容でした。私の考えは違って、戦闘停止や撤兵は侵略したロシアに向けて言うべきだと思いました」

 「和田先生の声明は、戦後日本の平和運動の経験を踏まえたものでしょう。他方私はリベラルデモクラシーが危機にあるという認識に立っています。『外』ではロシアや中国といった権威主義的な国が存在感を増し、『内』では分断を背景にポピュリズムが台頭しています。民主主義体制の堅持が重要だという観点に立てば、欧米諸国とともにウクライナを支援する日本政府の選択は妥当でしょう」

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 同声明は表題の通りに実践的訴えであり、停戦のために日本政府などをとにもかくにも動かすことに重点があり、ロシアの侵略という本質に触れていないので、上記の池田氏の感想の前半にある批判は当たっていると言えるでしょう。しかし後半であえて「戦後日本の平和運動の経験」と距離を置く構えで「リベラルデモクラシーが危機にあるという認識」を対比的に強調するあたりに非常な政治性と問題点を感じざるを得ません。確かにリベラルデモクラシーの危機の認識は妥当であり、それは防がねばなりません。しかしだからと言ってロシアの侵略戦争に対して、「民主主義体制の堅持が重要だという観点に立」つ、つまり「民主主義VS専制主義」スローガンに同調して、「欧米諸国とともにウクライナを支援する日本政府の選択は妥当」だと評価するのは間違いです。日米両政府のように特定の価値観に立つのではなく、専制主義諸国をも巻き込んで侵略戦争反対、国連憲章を守れの一点で停戦へ働きかけることが求められます。

 さらに言えば、リベラルデモクラシーの危機はなぜ起こり、どう対処すべきかについて、長谷部氏や池田氏からは初期ブルジョアジーの啓蒙思想のレベルの言説しか出てこないように見えます。この点で、先月紹介した議論を再掲します(「大国のはざま、東欧『小国』の苦難 南塚信吾・千葉大名誉教授に聞く」、「朝日」424日付)。

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 ロシアの今回の軍事行動は暴挙であり、侵略は絶対悪だ。そのうえで世界史の観点に立つと、この戦争は旧社会主義圏にグローバル経済の「新自由主義」が浸透する過程で起きた出来事の一つと言える。80年代のレーガンやサッチャー以来、西側諸国は一貫して規制緩和や民営化、市場化を世界に求めている。

 89年の冷戦終結後に限っても湾岸戦争、旧ユーゴ、アフガン、イラク、あるいはリビアのほか、アフリカや中南米で多くの戦争や内戦が起きてきた。そうした軍事衝突の多くに西側の大国が介入し、自由や民主、人権などの「普遍的価値」の名の下に欧米型の新自由主義を浸透させるための障害を取り除こうとしてきた。

 ウクライナを含む東欧・旧ソ連圏の小国の経済も、欧米資本の新自由主義に組み込まれつつあり、天然資源や農産物の供給地としてだけでなく低賃金労働者の供給地、グローバル企業の新しい市場になっている。

 ただ、この地域の住民には社会主義体制という独特の経験がある。当時は国営企業やコルホーズ(集団農場)などに所属し、体制を批判しない限り、豊かとは言えないが比較的安定した暮らしを送ることができた。ところが90年代以降は自己責任の世界が押し寄せてきた。かつての暮らしから放り出され、個人の利益優先ですべてがお金次第になった。格差が生まれ、寄るべき柱が消滅した。

 ロシア側の主張に一片の合理性を見いだすならば、欧米型の新自由主義とは別の道を探ろうとして今回の戦争に至ったのだと言える。プーチン氏は戦争ではなく、社会主義という共通体験を持つウクライナやベラルーシ、カザフスタンやジョージアなど旧ソ連圏諸国と手を携えて、欧米型の新自由主義に代わる「新たな普遍的価値」を示すことを目指すべきだった。

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 啓蒙思想を基準にした政治次元の話だけでなく、上記のように現代資本主義の経済的土台をも考慮しなければリベラルデモクラシーの危機の本質は分かりません。南塚氏の議論の問題点としては、(1)ソ連などの20世紀社会主義体制に対してきちんとした批判がなく、(2)欧米型の新自由主義に代わる「新たな普遍的価値」を示すことをプーチンに求めるのはまったくの無いものねだり・筋違いだ、ということを挙げられます。しかし池田氏のように「私有財産の不可侵」(生産手段の私的所有の絶対視)を唱える反共主義においては(2)の課題そのものが見えないのです。

念のために言えば、ロシアの侵略戦争をめぐって、「民主主義VS専制主義」スローガンに対抗して、新自由主義に代わる新たな価値観を提起せよ、と言いたいのではありません。この戦争をめぐってはあくまで国連憲章擁護の一点での広範な統一戦線が必要です。「民主主義VS専制主義」スローガンはその阻害要因になります。そういう誤りが提起される原因として、新自由主義グローバリゼーションの問題を看過して、政治的民主主義の押しつけを図るイデオロギーがあるということを指摘しています。そしてとにかく停戦させた先の課題として、新自由主義グローバリゼーションの秩序を暗黙の前提にした「民主主義」と新自由主義に代わる新たな価値観に立脚する「民主主義」との対決がある――そのように考えています。今は民主主義観の違いは措いて、侵略戦争反対で一致すべきです。

 市原麻衣子氏の「(あすを探る 国際)規範揺らぐ今、本質的対処を」(「朝日」526日付)も長谷部氏や池田氏と似た「欧米的偏向」を抱えています。市原氏が冒頭で「ロシアのウクライナ侵攻は、国際秩序の根幹を成す『国家主権』と『人権』という二つの規範に、直接・間接の打撃を与えている」とし、途中で「この戦争が権威主義対民主主義の文脈で語られる」のを批判しているのは妥当です。しかし残念ながらその真意は「自由な選挙で選ばれたウクライナのゼレンスキー政権を転覆させようとするプーチン氏の侵略に対する抵抗は、普遍的価値としての自由をかけた実存的な戦いである」ということであり、長谷部氏と同様な「イデオロギー戦争論」です(「イデオロギーの闘争」という意味の比喩的表現ではなく、イデオロギーを原因として戦争が起こる、あるいは戦争の主要な性格がイデオロギーである、という議論)。市原氏が「権威主義対民主主義の文脈」を批判するのは、このイデオロギー戦争に途上国を巻き込むに際して、阻害要因になるからに過ぎません。結局、市原氏の論説は「欧米・西側先進国」の立場からの発展途上国への居丈高な説教になっています。

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 ロシア批判を控える国々は自由のみならず国家主権の侵害にも間接的に加担する結果となっていることは皮肉である。植民地支配の経験から、これらの国々は大国の帝国主義的行動に反対の立場を取ってきたはずだ。途上国内で深刻な人権侵害が見られる場合にも、先進諸国が批判しつつも介入を控えてきたのは、これらの国の国家主権を尊重し、内政不干渉原則重視の姿勢に理解を示してきたためだ。しかし現在多数の非欧米諸国が取っている姿勢は、主権規範の重大な侵害国を批判しないという点で自己矛盾を抱えている。

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 確かにこれは「国家主権」と「人権」という問題において、途上国側の矛盾を的確についています。しかし先進国側が途上国の抱える人権問題を大目に見てやっている、という上から目線においては、先進国自身の抱える問題が看過されています。「この戦争による経済的打撃も難民の増加も、中長期的にはポピュリズムの伸張(しんちょう)と民主主義の弱体化を予感させる。日本にとっても決して他人事ではない。各国は国内の弱者救済を急ぐとともに、ポピュリズムに脆弱な若い民主主義国に対する支援を強化しておくべきだ」とされますが、「ポピュリズムの伸張と民主主義の弱体化」、あるいは「弱者救済」が必要とされる事態は何も「この戦争」によって始まったのではありません。上記の南塚氏の論説にあるように新自由主義グローバリゼーションがその原因です。

 市原氏は同じ紙面の「論壇委員が選ぶ今月の3点」において、ロバート・ケーガン「何がプーチンを侵略に駆り立てたか」(フォーリン・アフェアーズ・リポート5月号)を選び、以下の短評を加えています。「プーチン氏がウクライナ侵攻に向かったのは、旧ソ連圏諸国の人々が安全・繁栄・自由を求め、欧米のパワーと民主的信条に惹(ひ)かれたためだと論じる。ロシアが提供したのはロシアナショナリズムと野望のみだったと指摘」。この「指摘」の後半はその通りでしょうけれども、前半はどうか。仮に人々が「惹かれた」としても、その先には失望が待っており、「ポピュリズムの伸張と民主主義の弱体化」を帰結したのではないでしょうか。ここには欧米民主主義への信仰の陥穽が露わになっています。

 また市原氏は「ウクライナ以外の難民問題に同じ基準で対処する公正さも求められる。ウクライナ難民支援が、ミャンマーなどで弾圧・殺害の危機に直面する人々の目にも救済の希望として映るようでなければ、人種差別主義的な白人尊重とのそしりは避けられない」と主張し、民主主義の普遍性に対する純粋な追求と潔癖性が短い論説の中にもみなぎっており、そういった姿勢を非イデオロギー的と見ているようです。しかしそうした望ましい公正さがしばしば裏切られている現実の重要な基盤的要因として、資本主義搾取制度そして新自由主義の展開があることは見ていないように思われ、それはイデオロギッシュな姿勢ではないかと思います。

 長谷部・池田・市原、三氏の議論は、経済と生活の視点を持たず、民主主義・自由主義と人権の「正解」を受容せよと迫る「優等生」の観点に終始しています。経済的土台と社会の諸相がもたらす政治への影響を抜きに、グローバル資本主義下での民主主義・自由主義・人権、そして戦争と平和について考えることはできません。初期ブルジョアジーの啓蒙思想の観点から今日の現実を裁断するのは限界があります。根本的にはそもそも資本主義下の政治は内実としては階級支配によっており、そういう意味で民主主義のあり方は大きく規定されます。モデルとされる先進民主主義論は主に民主主義形式を扱っています。確かにそこで問題にされる公正性・普遍性は民主主義成立の必要条件ですが、人民の支配という民主主義の内実には踏み込んでいません。そういう全体的観点から、グローバル資本主義下での先進国と途上国それぞれの民主主義のあり方を、ソ連など20世紀社会主義政治の惨めな失敗を反面教師としつつ考察することが必要です。そのほんの若干の私論(試論)として拙文「民主主義における形式と内実」(「『経済』20195月号の感想」/2019430日/より)があります。

 以上、「民主主義VS専制主義」スローガンを批判し、侵略戦争反対・国連憲章擁護の一点での共闘の意義を考えてみました。事実上このスローガンを奉じる体制内リベラルの学者たちは、初期ブルジョアジーの進歩性に立脚し、政治的民主主義イデオロギーの純粋化を追求し、それを基準に現実をしかりつけて済ますことで、不都合な現実の原因である新自由主義グローバリゼーションそのものを看過し追認する結果となっています。それに対して日本・アメリカ等の政府・与党政治家たちはこのスローガンの価値観を前面に押し出し(それをナイーヴに信じているのか、政治的効果を計算した上でそうしているのかは措くが)、新自由主義グローバリゼーションの秩序を守り、したがってグローバル資本などの利益を確保する断固たる行動をとっていると考えられます。

 

 

          沖縄県「新たな建議書」の意義

  ロシアのウクライナ侵略戦争の脅威によって、日本の世論は軍拡と改憲の方向に傾いています。もともと安保条約と自衛隊が圧倒的に支持される状況がベースにあるので、何らかの脅威を煽られると憲法の平和主義が後景に退くことはこれまでも繰り返されてきました。しかし21世紀のヨーロッパで熱い侵略戦争が繰り広げられるというのは予想外の衝撃であり、日本世論も下手をするとかなり悪化することも考えられます。ただし憲法の平和主義が世論上死んでしまったわけではないので、複雑な様相をきちんと捉えてよい方向への変化の足掛かりを見出すことも必要です。ここで詳しい考察は措きますが、参考に「朝日」53日付の世論調査結果の一部を引用します(質問文面は一部省略、数字は%)。

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◆改憲勢力が参議院全体で3分の2以上を占めたほうがよいと思いますか。

占めたほうがよい57▽占めないほうがよい35

◆憲法第9条を変えるほうがよいと思いますか。

変えるほうがよい33▽変えないほうがよい59

◆いまの自衛隊は、憲法に違反していると思いますか。

違反している14▽違反していない78

◆自民党は、憲法9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する憲法改正案を提案しています。こうした9条の改正に賛成ですか。

賛成55▽反対34

◆非核三原則をどうすべきだと思いますか。

維持すべきだ77▽見直すべきだ19

◆安全保障を考える上で、軍事的な面と外交や経済などの非軍事的な面ではどちらの面がより重要だと思いますか。

軍事的な面19▽非軍事的な面73

◆日本が専守防衛の方針を今後も維持するべきだと思いますか。

今後も維持するべきだ68▽見直すべきだ28

◆日本が敵のミサイル基地を攻撃するための能力を持つことに賛成ですか。

賛成44▽反対49

◆日米安保条約をこれからも維持していくことに賛成ですか。

賛成82▽反対10

◆集団的自衛権の行使について、どうするべきだと思いますか。

行使するべきだ21▽どちらかと言えば行使するべきだ37

▽どちらかと言えば行使するべきではない30▽行使するべきではない9

◆いまの日本の憲法は、全体として、よい憲法だと思いますか。

よい憲法58▽そうは思わない32

◆いまの憲法を変える必要があると思いますか。

変える必要がある56▽変える必要はない37

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 現下の情勢において、自民党の9条加憲案と集団的自衛権行使への支持が多くなり、敵基地攻撃能力保有への賛否が拮抗しているなどが非常に気になる点ですが、安全保障上、軍事よりも非軍事を重視するのが圧倒している点には光が見えます。ただし日本政府と支配層は軍拡と改憲の立場から、メディアを駆使して世論操作しているので非常な困難があります。それに対して、沖縄では県政が違う方向を向いています。本土政府による悪政の強行継続によって沖縄世論にも諦めや屈曲があり、自治体選挙での自公の優位という現実もありますが、県政の姿勢の如何は重要な問題です。

オール沖縄県政は安保条約廃棄の革新県政ではありませんが、50年前の琉球政府の「復帰措置に関する建議書」に掲げられた「反戦平和の理念をつらぬく」方針を継承しています。もし自公与党県政であれば、この情勢では抑止力の強化に努めると称して、進行中の南西諸島の日米軍事要塞化路線を追認する声明でも出していたでしょう。しかし玉城デニー知事が5月7日公表し、日米両政府に提出した「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」には情勢に抗して反戦平和の理念が高らかに掲げられています。日本政府による民主主義・地方自治破壊に抗議し、辺野古新基地建設反対・地位協定見直しの要求に続いて、平和理念に基づく現情勢の捉え方と政策が提起されています。長くなりますが引用します。

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 さらに、近年、アジア太平洋地域の安全保障環境の変化を背景に、沖縄の軍事的機能を強化しようとする動きや核兵器の共有、敵基地攻撃能力の保有等の議論が見られるようになっておりますが、このような考えは、悲惨な沖縄戦を経験した県民の平和を希求する思いとは全く相容れるものではありません。

 沖縄県としては、軍事力の増強による抑止力の強化がかえって地域の緊張を高め、意図しない形で発生した武力衝突等がエスカレートすることにより本格的な軍事紛争に繋がる事態となることを懸念しており、ましてや米軍基地が集中しているがゆえに沖縄が攻撃目標とされるような事態は決してあってはならないと考えております。

 本年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻で、ウクライナの国民に甚大な犠牲が生じ、美しい街並みや空港、道路等の重要なインフラが徹底的に破壊されていく状況は、77年前の沖縄における住民を巻き込んだ悲惨な地上戦の記憶を呼び起こすものであり、これが過去のことではなく、今、現実に起こっている事態であることに例えようのない衝撃を受けるとともに、沖縄を取り巻くアジア太平洋地域の今後の情勢等について重大な危機感を持たざるを得ません。

 さらに、このことは沖縄だけの問題ではなく、日本全体の安全保障や日本の将来の在り方、そして国民一人ひとりの生活にも密接に関わる重要な問題であることを全ての国民に共有していただきたいと考えております。

 政府においては、平和、経済、交流等の武力によらない手法によって、アジア太平洋地域の現在および将来にわたる安定した発展を図るため、国および地域間の協調を基本とする外交に取り組んでいただきたいと考えております。

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 ウクライナの悲惨な状況を見ても、というかそれだからこそ、抑止力信仰を超えて、「武力によらない手法に」よる「安定した発展を図るため、国および地域間の協調を基本とする外交」を求めています。沖縄を決して再び戦場にしない。――痛恨の歴史的経験に根ざした沖縄の現実主義がここにあり、敵基地攻撃能力保有・核共有などといった抑止力信仰に基づく軍拡・改憲路線の空想性が浮き彫りになっています。

 先に体制内リベラルの学者たちが、経済と生活の視点を持たず、政治的民主主義の理念を押し付け、果ては民主主義のための参戦を唱えかねない勢いだということを批判しました。それに対して沖縄県の「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」はその名の通り、経済的土台を含めた平和のあり方を語っており、日本国憲法の平和的生存権にしっかり立脚していると言えます。「民主主義VS専制主義」スローガンと軍事同盟・抑止力信仰という支配的イデオロギーの対極に位置していると言うこともできましょう。

 「新たな建議書」では、いわば沖縄戦後経済史の総括とそれに基づく政策的未来展望が語られています。まず日本政府と沖縄県政による経済開発政策の展開を主軸に、産業構造・社会資本・県民生活における達成と未成が明らかにされ、アジアの結節点として独自の魅力「ソフトパワー」を活かした発展が展望されます。その際に、基地負担が経済発展の障害になっており、平和的発展が重要であることが前提とされ、環境視点も併せて次のように展開されます。

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 これら沖縄の潜在力や発展可能性を生かし、未来に向かって、県民が望む平和で豊かなあるべき沖縄の姿を実現するためには、環境との調和を図りつつ日本経済をリードする経済的なパワーを身につけ、アジア太平洋地域等における信頼醸成や緊張緩和のための平和貢献の地域協力外交を通じて平和の拠点としての役割を担っていくための取組を進めていく必要があります。

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 このようにあくまで平和を基軸とした「豊かな沖縄」を目指す「新たな建議書」をさらに理解するには、沖縄についての基本的な知識が必要でしょう。来間泰男氏の「日本復帰50年の沖縄 いま思うことは噛んで含めるような叙述で、私も含めて何も知らない本土人に沖縄のことを何としても知らせようという気迫に満ち、教えられるところが多々あります。

 論文は原始から現代まで沖縄史の概観を与えており、私などは大方初めて知ることでした。マルクス経済学の立場から沖縄問題を批判的に論じているのでしょうが、告発調の文章では取り上げられないような客観的事実への言及を含み、冷静な分析として成立しています。何よりテーマ全体について「復帰の評価は、前進面/改革面を主要な要素とすべきものなのである」(135ページ)と規定しています。日本復帰運動が「単に施政権の回復ということではなく、平和と基地撤去、基本的人権の尊重、賃上げ・減税など、多様な要求を含み、それらを統合したものであ」り、1960年に「沖縄県祖国復帰協議会」が結成されて以後、「沖縄の社会は米軍の一方的な力によって動くのではなく、それに抵抗し、時に覆すこともあるような、活気に満ちた社会へと変化していった」とされ、復帰は「上から/外から『与えられたもの』ではなく、沖縄人を中心に、日本の人民が勝ち取った成果であった」と高らかに謳い上げられます(同前)。米日支配層への批判は当然としても、むしろそれよりも(沖縄のみならず日本の)人民とその運動への肯定が論文の太い幹として貫かれています。

 基本的知識として、1972年の日本復帰以前について、45年の敗戦から52年の対日講和条約の発効までは国際法的には「戦争状態」であり、52年以降は「平時の占領支配」と区別されます。復帰にまで至るこうした時代の移行を「沖縄人の戦い」(124ページ)とともに見るべきことが指摘されています。

「本土並み返還」の意味には驚きました(128129ページ)。その意味するところは、軍事基地について、安保条約と地位協定が沖縄にも本土同様に適用されるというだけで、基地負担が本土並みになるということではないのだそうです。

さらにこの地位協定ですが、日本では、米軍が駐留する他国と比べてもひどい治外法権で、故翁長沖縄県知事の働きかけによって、保守政治家ばかりの全国知事会でさえ、その改定を要求するに至っています。それくらい悪評ぷんぷんの代物です。しかし沖縄の日本復帰によって地位協定が適用されるようになったということは、米軍から見ると、沖縄全体が治外法権だったのが基地内だけに限られることになり、占領下よりも「不自由」になったのです(129ページ)。立場が違うとまったくものの見え方が違ってきます。

 また論文では、日本政府が軍用地料を高くしたことが、反戦地主を減少させるなど「成果」を挙げたことや、沖縄への自衛隊配備に対して当初は激しい反対運動が起こったが、今ではなくなっているなど、運動にとって不利な事実もリアルに触れられています。

 以上、平和と経済の問題について、日本の中では特殊な地位にある沖縄を採り上げました。沖縄は米軍の暴虐と日本政府の悪政に苦しめられ、その上、本土人からの無関心と差別という重大な問題にさいなまれ、したがってさまざまな矛盾を抱えながらも、悪政に抗してオール沖縄県政を継続してきました。復帰50年を機にその県政が公表した「新たな建議書」は敢然と軍拡・改憲の大逆流に抗して独自の発展を目指しています。社会科学を学ぶ者としては、時代と切り結ぶ生きた教材を与えられたことに対して深い敬意を表したいと思います。

 

 

          抑止力信仰と対外脅威論 

 今月、本来なら、ロシアのウクライナ侵略を奇貨とした米日支配層による軍拡・改憲の大逆流への反撃を企図したところですが、「民主主義VS専制主義」スローガンの批判などに終わってしまいました。それは当該テーマに関してはむしろ傍流であり、検討すべき本丸は抑止力信仰や対外脅威論など、軍拡・改憲の論理の中枢と言わねばなりません。そこで最後に若干触れることとします。

 上記の来間論文で、日本では保守勢力にさえ悪評の地位協定(米国に一方的に有利だ)について、米軍から見るとそれでさえ占領時より「不自由」になって不満だ、という話があり、なるほど立場によって捉え方が正反対になるのかと感心しました。想起したのは、フランシス・ベーコンの「洞窟のイドラ(個人経験によるイドラ)」と「劇場のイドラ(権威によるイドラ)」です。個人的立場と権威依存とから来る偏見によって、平和・安全保障の見方が歪んでしまいます。

 日本では自国が羊で、周辺国が狼だという見方が一般的で、逆に周辺国から見たら、日本は羊というより狼に見えるというか、むしろ虎の威を借る狐に見えるということが分かっていないようです。抑止力強化のための軍拡が際限ない軍拡競争を引き起こすという事実に想像力が回らないのは、まさに「洞窟のイドラ」的な偏見に無自覚だということです。

 「反日」「反米」という言葉は「洞窟のイドラ」と「劇場のイドラ」の合作でしょうか。かつての対米戦争下では「反日」と「反米」は絶対に両立しえなかったのですが、戦後、対米従属下のアジア蔑視状況においては、社会進歩を目指す勢力に対する非難の言葉として、保守反動勢力が「矛盾なく」併せて愛好しています。「従米」は「反日」のはずですが、彼らにそんな発想はみじんもない。そこでは「愛国」とは天皇制だけでなく対米従属国家の支配体制を愛することであり、それへの異議申し立ては「反日」なのです。そこにはまず、近代日本のアジアへの侵略と植民地支配に対して無反省で、アジア諸国の立場が分からないという「洞窟のイドラ」があり、米国のイデオロギーを愛好し、無理難題にも無条件で従うという「劇場のイドラ」があります。

 安倍政権以降、それまで街宣車の騒音集団と見なされていた右翼が市民権を得るとともに、「嫌韓本」「嫌中本」が売れるがごとくに「反日」も普通に流通する言葉になりました。ただしまだ世間的には右翼臭のぬぐえない言葉ではあるように思います。それに対して「反米」はずっと以前より、支配的メディアなどを通じて、たとえば日本共産党に対するレッテル張りに使用される「普通の言葉」であり続けてきました。20世紀末以降、中南米で新自由主義に反対して続々と登場してきた左派政権に対して「反米政権」と決めつけるのがメディアでは一般的でした。当たり前の自主独立の主張をすることが、日本では「反米」なのであり、米国中心の世界秩序以外は考えられないのです。「劇場のイドラ」全開です。

 そういうイデオロギー状況下というか、要するに「空気」があるところで、中国が覇権主義的行動と民主主義・人権に対する抑圧とを強化しているのは、米日支配層にとってはまさに「カモネギ」状態と言えます。敵失のおかげで自分たちのやましい実態を隠すことがいとも簡単にできます。この煙幕のおかげで、日本人は自画像も日米中の関係も客観的に見通すことができなくなっています。それに対して、坂本雅子氏の「米国の対中国・軍事・経済戦の最前線に立つ日本」は米日支配層から見れば「反日」「反米」でしょうが、いわば左翼ナショナリズムの立場から「洞窟のイドラ」と「劇場のイドラ」を取り払い、米国の世界戦略の大転換によって反中国を押し付けられ「戦後最大の平和に対する危機と激動の時代を迎えることになる」(103ページ)日本の今日の自画像を隠すところなく暴露し、日本人にその覚悟を迫る論稿となっています。中国批判が一言もないのに違和感がありますが、中国脅威論に踊らされているとどうなるか、以下の結語は真情のこもった警告としてすべての日本人が心に刻むべきです。

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 日本は今、米国本位の中国排除と対中戦の最前線に立たされつつある。軍事面でも経済面でも。もし対中戦が勃発すれば戦火にさらされるのは米国ではない。日本の国民と国土である。中国の徹底排除で経済に破壊的ダメージを与えられるのは米国ではない。日本の経済と企業である。日本国民は、日本が米国の「踏み台」・「捨て駒」にされつつある現実を見抜き、今、何としても日本の中立・平和と経済、そして国民の命を守らねばならない。

      119ページ

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大久保賢一氏の「『核共有』の妄論を批判する ロシアによるウクライナ侵略糾弾、『死神のパシリ』の妄動を許すなによれば、軍拡と改憲の扇動者たち「死神のパシリ」は「核共有」を主張するに際して、侵略されることを前提としてものを言っています。しかし彼らは以下の疑問について全く説明していないと大久保氏は詰問しています。

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 第一に、その前提は絶対的なものなのか。第二に、日本に米国の核爆弾が存在していれば侵攻はないと保証できるのか。第三に、その選択に危険性はないのか。第四に、その侵略を避けるために、核に依存する以外の方法はないのか、非軍事の平和的手段はないのかということです。        137ページ

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 さらに、確かに周辺国からの脅威はあるということを認めた上で、平和的対処は可能だということを説明しています。喧伝される安全保障環境の不安定性や危険な状況は否定できないけれども、それは周辺国が一方的に醸成しているのではなく、「日米の行動との相関関係で形成されています」(140ページ)とも指摘しています。

 最後に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」憲法の思想が自民党などから嘲笑されているのに対して、軍隊のない国が26カ国も存在していることを指摘した上で次のように反論しています。

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 今、ウクライナの人々に連帯して、ロシアにも、当局の厳しい弾圧にめげずに反戦行動に出ている市民がいます。世界でも日本でも多くの市民がロシアの侵略犯罪を糾弾する行動に立ち上がっていますが、その手に武器はありません。平和を愛する諸国民は間違いなく存在するのです。

 核兵器に依存しても、私たちの平和と安全を守れないことは明白です。にもかかわらず、核兵器国や日本政府、そしてパシリたちは、核兵器に依存し続けようというのです。全人類を死神に引き渡してしまうのか、それとも、平和を愛する諸国民の公正と信義を信じて人類社会を形成するのか、今、私たちは大きな分岐点にあるのです。        

143ページ

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平和構想研究会「戦争を終わらせるために 人道上の危機と国際関係の危機(『世界』臨時増刊no.957)は、軍事的攻撃力を強化すれば戦争を抑止する力が高まるという通念を以下のように退けています。

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 相手に軍事行動を起こさせないためにまず必要なことは相手の動機を考えることである。政治的・経済的な目的が動機なのであれば、対話と交渉で解決または管理が可能である。そして、軍事行動による利益よりもむしろ損失が大きいということを相手に理解させる必要がある。その際の損失とは軍事的な意味に限らない。今回ロシアは軍事行動に出たことで大きな経済的打撃と国際的な非難を受け、それはプーチン政権の基盤を揺るがしている。戦争の予防は、そうした総合的な力によってなされる。軍備拡張や攻撃態勢の強化は、相手方にも同様の行動を誘発し、軍拡競争を招く。必要なことは、相手国との間で相互に軍縮を進め、軍備の情報公開などを通じて信頼醸成を図ることである。

         151152ページ

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 もちろんこれは軍事的抑止力論に対する有効な批判になっています。ただし一点補足したいことがあります。これは自国が正しくて相手国が間違っている、自国が攻められそうだ、という状況設定になっています。しかし可能性としては逆の場合もありえます。日本はむしろそうなる可能性が高い。集団的自衛権の行使で米軍とともに海外で戦争する――先制攻撃もありうる――事態が想定されます。そうなれば相手国への働きかけでなく自国への反戦活動が必要となります。日本政府を始め米日支配層はそれを弾圧する法的政治的手段を着々と打ってきています。またその支配を支える世論形成をメディアによってつくり上げてきているのが今日の「空気」であり、どのように反撃するかが喫緊の課題です。
                               2022年5月31日



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