月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2019年1月号〜6月号)。 |
2019年1月号
トランプ政権を捉える
トランプ大統領の奇矯な言動や極端で危険な思想と政策はもはや喜劇的様相を呈しています。しかしその全体を単に嘲笑の対象とするのは誤りであり、その言動と政策の中には気まぐれや独りよがりとは別に支配層の利害が貫徹している部分もあり、それを見抜くことが必要です。すでに本誌10・11月号所収の山脇友宏氏の「トランプ政権と軍産複合体」上下によれば、トランプ政権は軍産複合体の利益を代表しています。もっとも、軍産複合体の代弁者としてのマティス国防長官(上、120ページ)が最近辞任することは要注意ですが、今だ、中ロとの新冷戦を煽っているトランプ政権は軍産複合体の利益に忠実であると言えます。新冷戦は冷戦とは違って、グローバリゼーション下で経済的相互依存関係が深まっているので、実際に熱い戦争になる可能性は低く、「米国軍産複合体にとっては(ロシア軍産複合体にとっても同じだが)、軍事超大国間の軍拡競争が展開されて、相手よりも優位が保てる『国家独占兵器市場』が形成されれば充分である」(下、126ページ)ということになります。もちろん戦争の危険性がまったくないわけではないので、注意は必要ですが…。たとえば今日のイランに対するアメリカの状況は2003年のイラク戦争前に似ているという指摘があります。当時のように無根拠な難癖をつけてアメリカ政府が開戦に踏み切るなら、ロシアがどう出るかが問題となります。
米中貿易戦争が世界経済を揺るがしています。当初は、まるで重商主義のごとくに自国の貿易赤字を異常に問題視し、他国のせいにするトランプの個人的主張に振り回されている、という印象でした。しかし昨今では、中国の追い上げに対するアメリカの警戒(中国脅威論)という支配層共通の意志(もちろん一般世論を巻き込んでいる)がそこにあることが明白になってきました。この点では民主党も異存がないようです。小林尚朗・平野健・宮ア礼二の三氏による座談会「『米国第一主義』が揺るがす世界経済」では、共和党の元来の主流派に属するペンス副大統領の「対中国政策」という演説を「米中新冷戦」だとする指摘を紹介しながら(19ページ)、以下のように述べています。
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とくに、中国のハイテク技術のキャッチアップに対して、アメリカは危機意識を高めています。巨額の国家投資と「中国製造2025」のような国家政策によって半導体をはじめとするハイテク産業のコア部分の国産化を進め、IoT(Internet of Things)化する14億人の中国市場を中国ハイテク企業が席巻すれば、収穫逓増がきわめて強く働くため、アメリカのハイテク企業は淘汰されてしまいかねません。このことが経済面だけでなく、ロボティクスやAI(人工知能)など先端技術の導入やサイバー戦略を強化するアメリカの軍事構想にとっても脅威となっているのです。中国の脅威≠てこに新たな軍産複合体をつくろうという動きが急速に進みつつあります。 20・21ページ
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次いですでにオバマ政権において、国防総省とシリコンバレーとの連携が強化されていることが指摘され、「こうしたアメリカの新たな軍事戦略と一体となっているのが、トランプ政権の対中通商政策のもう一つの特徴だと言えます」(21ページ)と結ばれています。
河音琢郎氏の「トランプ政権の減税政策 大規模税制改革のねらいと影響」は、2017年にトランプ政権が成立させた減税・雇用法(TCJA)について、レーガン政権の1986年税制改革以来の大規模な税制改革だと評価して、企業課税と国際課税の側面に絞り、1986年改革以来のアメリカ税法の諸課題に照らして検討しています。ところが一般には「TCJAが、税制改革と呼べるようなものではなく単なる減税だと評価され」(62ページ)、実態としてはそれで間違いではありません。富豪の大統領が大企業に極端な減税をしてやった、という意味では、これもただトランプの特異な性格に帰せられそうな問題ですが、河音氏はあくまでアメリカ支配層の戦略的文脈の中に位置づけて分析しています。
河音論文によれば、アメリカは法人実在説に立脚し、全世界所得課税の原則に立ってきましたが、「多様なパススルー事業体の台頭と多国籍企業の所得や資産の海外への留保行動により、アメリカの法人税は浸食され、低迷を続けてき」ました(59・60ページ)。「TCJAの最大の眼目は、こうした諸課題への対応であった」(60ページ)というのです。そしてTCJAの内容を詳しく説明して、次のようにまとめています。
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以上のような内容をもつTCJAの最大の特徴は、法人税率の大幅引き下げ、アメリカ企業の海外留保所得に対する課税権の放棄、無体財産から派生する所得に対する軽課措置、という大胆な企業減税にある。TCJAの推進者の描く税制改革の作用は、上記のような大幅企業減税によってアメリカ企業の競争力を高めるとともに、多国籍企業の海外収益とその収益源である無体財産の国内回帰をはかり、国内投資を活性化させ、アメリカ経済の成長を促す、というものである。 61ページ
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しかしTCJAは大幅な財政赤字を前提にしていることがまず大問題ですが、そうまでしてもアメリカへの所得還流と国内投資の促進につながりそうもありません。確かにTCJAによって海外子会社からの留保所得の国内還流は進んでいますが、その「大半が、雇用拡大、賃上げ、投資に振り向けられたのではなく、自社株買いに向かった」のでした(64ページ)。「株主重視の経営、株価至上主義といった株式資本主義」(64・65ページ)の下ではそうなってしまいます。そこでTCJAへの本質的批判が以下のように展開されます。
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TCJAは、そもそも多国籍企業の国際的な税務戦略を規制するのではなく、その行動の自由を前提とした上で、彼らの所得と所得源泉のアメリカへの回帰を誘導しようというものである。こうしたTCJAの制度設計では、グローバルな立地戦略を採るアメリカ多国籍企業の行動様式の主導性を前提としている点で、立法者の想定通りには進まないだろうとの批判もある(Lynch(2017))。 65ページ
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このようにトランプ政権に対する批判において、大統領個人の特異性にばかり注目するのでなく、税制改革において、支配層の利益実現に資する政権の本質に切り込むことで、ここでは株式資本主義やグローバル資本主義への批判と関連させることができます。ならば税制にとどまらず、アメリカ経済と世界経済の全体像を捉えることからアプローチすれば、トランプ政権批判をより普遍的な現代資本主義認識につなげることも可能でしょう。
先の座談会に返れば、「既存の秩序を否定するトランプ大統領の登場は、ある意味でこれからの経済秩序のあり方を議論するチャンスでもあります」(32ページ)。どのように議論するかと言えば、トランプ登場を促した人々の怒りとその原因を捉えることから始めるべきでしょう。そもそも「トランプ政権を生み出したものは、資本蓄積のために国内経済を長期停滞に陥らせ、人々を貧困化の深化に追い込んでいくアメリカ資本主義の構造であり、オバマ政権をもってしても変えられなかった、アメリカの権力構造に対する人々の怒り」です(17ページ)。そして新自由主義化したアメリカ経済の「型」について「アメリカを中心としたグローバルな構造」として以下のように捉えられます。
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@実体経済と産業面では多国籍企業の海外生産と海外下請け、A金融経済面ではドルの大量流出と還流という二層のグローバル構造を持っています。この二層の構造は、アメリカ国内経済としては、@貧困化と景気抑制の傾向と、Aバブルによる景気浮揚の傾向という、相反する二層構造になって現われます。 17ページ
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座談会の報告ではこの基準にもとづいて、1990年代から今日までのアメリカ経済の動態をそれぞれの時期ごとに分析し、大ざっぱに言えば「1990年代には実体経済の力強い成長があった上で、ITバブルがそれを引き伸ばしたのに対し、2000年代は実体経済が著しく停滞的であったのに住宅バブルが好景気を作り出したという違いがあります」(17ページ)。2009年から今日までの景気拡大は次のように診断されます(*補注)。
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@製造業における労働分配率の低下が生産が停滞的でも利潤伸長を可能にし、個人所得の成長率を歴史的に押し下げる、Aハイテク産業を軸とした株価高騰が資産効果を刺激して個人消費主導の景気回復(とくに14年以降)をもたらす、という冒頭に述べたアメリカ経済の二層のグローバル構造を一層強めたものになっています。 18ページ
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もちろんトランプ政権はこうした基本構造に手を付ける気はなく、アメリカの世界覇権の維持が最優先課題です。したがって経済の長期停滞と格差・貧困の拡大から来る人々の怒りが収まることはなく、政権への失望に変わっていくでしょう。最近の株価下落を見ると、こうした科学的分析に基づく予測――「小手先の経済政策で景況感を煽って、株高を誘導しながら政権を維持してきているところがありますから、崩れ始めるともろいと思います」(26ページ)――が当たってきているようです。すると「19年以降、経済が減速していくと、これまで政権を支持していた人たちが幻滅していく。その時に人種差別やジェンダーフリー・バッシング、反移民などをたきつけて、差別主義や排外主義を全面的に出して問題の矛先をそらしながら分断を強めて、権力の維持をはかろうとする危険性がありますね」(同前)ということになります。それに対してサンダース旋風に示されたような問題の真の解決に向けた動きがどこまで出てくるかがカギでしょう。その際に特にアメリカにおいては、社会保障の充実を妨げる膨大な軍事費の問題があります。アメリカでの軍事費削減は大きな抵抗を呼ぶということです。「アメリカが世界一の帝国であるなかで、国民が自分たちの生活を守るための選択と転換をどう行っていくかという課題」(28ページ)があるのです。そこには、世界の中で、中国などに代表される反人権的支配を抑止する「民主主義の帝国」として君臨するアメリカが「力による平和」のために軍拡を進める、という論理をどう克服していくかという課題もあります(同前)。
上記のアメリカ経済の「型」分析にもあるように、経済停滞を招き、格差と貧困を拡大する新自由主義グローバリゼーションの下で、トランプ政権による軍拡と世界覇権維持政策、そこでの米中経済戦争が繰り広げられています。その打開にはアメリカ国内では、民主的社会主義者を自称するサンダース派のオルタナティヴが期待されますが、世界的にはどのような方向性があるかについて座談会が提起しています。かつて格差を広げたワシントン・コンセンサスに代わって、比較的、経済成長と所得の公正な配分に成功しているアジア・コンセンサスというものを考えられないかというのです(32ページ)。さらにそれに加えて壮大に「非核・非軍事という、20世紀までの歴史を乗りこえる価値観を共有することが大事になり」、「それを前提として平和で安全な経済活動を保障」し、「軍事力を裏付けにした覇権を前提とする世界ではなくて、非軍事の世界をつくっていくという展望を示していかなければならない」(同前)と語られます。これは眼前の米中覇権争いに対するアンチテーゼです。「アメリカと中国が対抗しあっても、軍事拡大による経済資源の莫大な浪費をともない、世界全体にとっての経済的な利益はないでしょう。それならば、覇権国を必要としない世界を展望していくべき時代の始まりが今だということです」(同前)。もちろんそれは困難な課題ではありますが、根底にそういう画期的な心づもりを持つことによって、社会変革を目指す勢力が挫折しそうになったり、混迷に陥ったりする岐路を乗り切る力を与える羅針盤になると思います。
そうした展望の中での日本の役割が問題となります。対米従属を脱して東アジアで「平和でバランスのよい国際関係の秩序を維持する」(33ページ)のに貢献しなければなりません。その際に歴史問題の解決が重要です。ちょうど同ページの下段にコラム「過酷労働の記憶と韓国最高裁判決」が配されています。戦時の朝鮮人徴用工の問題では「人権蹂躙の過酷労働に従事させられた人々に、まずお詫びすることが先決」(同前)です。安倍政権は人権問題という本質を隠して日韓の国家対立にすり替え、排外主義を煽っています。「戦争する国づくり」に邁進する政権らしい対応です。この問題一つだけをとっても、この政権を打倒する以外に日本がアジアでまともにお付き合いしていく未来がないことは明白です。徴用工問題については後述します。
(*補注)景気拡大の内実
座談会では、今日のアメリカ経済には経済成長力が不足しており、株価を引き上げることで何とか景気拡大を続けている状況だと指摘されます。つまり極めて脆弱な景気回復であり、特に低失業率の影で雇用の劣化が進んでいるのが昨今の景気回復の内実です。
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失業率(=失業者/労働参加者)は落ちていて、雇用は拡大して絶好調だという新聞論調が多いのですが、実は労働参加率(=労働参加者/労働可能人口)が低下していて就業率(=就業者数/労働可能人口)は07年水準を回復していません。しかも雇用がどこで増えているのかというと、以前よりも低賃金で劣悪な労働条件なところで回復する傾向が持続しています。 25ページ
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こういう新聞論調は極めて問題ですが、テレビニュースなどでも、失業率や物価指数などを見て「適温経済」などと呼んでいるのを聞くと唖然とします。格差と貧困を拡大する資本主義経済の現実を美化するメディアの姿勢も景気回復の内実と同様に劣化しています。そんな中で例外として、外国人労働者導入問題に関連させて、安倍政権が喧伝する「人手不足」に疑問を投げかけるようなデータを示した下記の「朝日」12月4日付記事が興味深い内容となっています。トランプ政権と同様に、アベノミクスも完全失業率の低さと有効求人倍率の高さを誇って経済好調を演出しています。世論調査ではそんな実感はない、というのが大勢ですが、ともかくも株高ともう一つ、雇用改善が政権のセールスポイントですから、それさえも嘘くさいものだということを解明するのは重要です。
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例えば、総務省の労働力調査から10月の25〜54歳の男性の就業者数を計算すると、2270万人になる。この年齢の人口数で計算した就業率は93・41%だ。20年前の97年10月の就業率は94・94%で、1・53ポイント落ちている。
ここから推測できるのは、職に就けていない25〜54歳の男性が相当いるということだ。仮に就業率が20年前並みに改善したとすると、約40万人が職に就くことになる。
高原正之・大正大客員教授は、賃上げや労働環境の改善など企業側の採用努力が欠けている可能性を指摘。「97年の金融危機以来、一部の経営者は低賃金で労働者が雇えるのが当たり前という異常な感覚に陥った。政府はそういう『低賃金依存症』の経営者と距離を置くべきだ」と話す。
…中略…
政府が受け入れを見込む34万5千人は、労働力人口と比べるとまだわずかだ。しかし、安価な労働力を確保しやすくしてしまうと、長期的には新設備の導入や技術革新で人手不足を乗り切ろうとする企業の努力を阻害するとの指摘もある。
BNPパリバ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは「副作用も大きい金融緩和政策を採ってきたのは、インフレと賃金上昇を目指したためだった。このタイミングで、高賃金ではない外国人労働者の受け入れを拡大することは、その効果を相殺させるようなもので、政策の整合性が取れない」と疑問を投げかける。
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ご覧のように、先の座談会におけるトランプ政権下での雇用劣化への批判とおおむね重なる内容です。失業率とか有効求人倍率といった指標を一人歩きさせず、雇用を質的に観察する目を持って、ここでのようにたとえば就業率といった指標を補ってみるという工夫が必要です。これは統計数値を表面的に撫でて終わるのでなく、現実に切り込む活用法となっています。それには統計に対する知識と経済の質的観察に長けた現状分析の洞察力との双方が必要となるのでしょう。
アベノミクスの異次元金融緩和とリフレ派
合田寛氏の「緊縮政策と福祉国家の危機 英国の先例が示唆するもの」は、英国を中心に欧米の緊縮政策を具体的に紹介し、その考え方とそれへの批判を総括的に提示しています。さらに福祉国家の理念と存立条件を明らかにすることで、表題たる「緊縮政策と福祉国家の危機」についての行き届いた考察となっており、実践的・政策的に非常に有意義な論稿だと思います。
ただし論稿の多くの部分が欧米の様々な論者の議論の紹介にあてられており、筆者自身の立場は必ずしも明確ではないところがあるように思います。たとえば、新自由主義と対決し、資本主義と福祉国家の共存を目指すのは社会民主主義者の立場です。それは共産主義者も当面の目標としては共通するところがありますが、将来の目標の違いだけでなく、新自由主義構造改革(したがって緊縮政策も)をもたらした現代資本主義の性格・根本矛盾についての捉え方にも違いがあるでしょう。新自由主義とケインズ主義とは単なる政策選択の問題ではなく、新自由主義政策は現代のグローバル資本主義の矛盾がもたらしたある意味必然的路線です。その克服にはグローバル資本への規制によって、実体経済での搾取強化と金融における肥大化・カジノ化とに対抗しなければなりません。その辺への切り込みがなければ、欧州社民主義の主流が陥った緊縮政策への妥協とその必然的結果としての支持喪失を免れないという気がします。
もう一つ気になるのは、「緊縮論者は国債に対する市場による評価を絶対視する。国債は金融市場や格付け機関によって評価され、返済能力などの要因によって価格変動するが、自国通貨でかつ低利で発行されている国債が、返済不能となる可能性は極めて少ない。市場の評価を絶対視するあまり、『信認の幻想』(クルーグマン)にとらわれてはならない」(78ページ)という緊縮路線批判の言説です。確かに緊縮派批判としてはある程度妥当するように思えますが、だからと言ってリフレ派のように財政赤字は気に掛けずに、たとえば黒田日銀のような量的質的金融緩和政策を支持するのであれば疑問とされます。いずれにせよ、上記2点について合田論文の立場は私にははっきりとしないので、これ以上の言及は止めて以下ではリフレ派の問題について述べます。
最近ある読書会で野口旭氏の『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書、2018)を読む機会がありました。これはリフレ派の野口氏がアベノミクスを礼賛した本であり、国家財政の債務危機については、クルーグマンなどと同様に心配ないと一蹴しています。その問題については勉強不足で確たることは言えませんが、異次元の量的質的金融緩和政策の性格については理解するところがありました。「黒田バズーカ」に始まる日銀の異次元金融緩和について、世上では、マネタリストの政策かニューケインジアンの政策かという見方の違いがあります。たとえば建部正義氏はマネタリストの政策であるとしています(「マネタリズムと日銀の『量的・質的金融緩和』政策」、『前衛』2018年12月号所収)。この見方に対して、左派の一部には、それはニューケインジアンの政策であり、少なくともアベノミクスの「第一の矢」たる異次元金融緩和は支持すべきだという言説があります。彼らによれば、それこそが欧米左派と共通する認識であり、アベノミクスを全否定する日本の多くの左派は間違っている、ということになります。確かにクルーグマンやスティグリッツがアベノミクスの「第一の矢」を支持しています。
この読書会の報告者が事前にメールでニューケインジアンの主張を整理して教えてくれた(野口旭氏の他の著作から学んだようです)ので、議論の構図はだいたい理解できました。それによれば、非伝統的金融政策としての量的緩和を承認したのが、オールドケインジアンに対するニューケインジアンの特徴だというのです。元来ケインジアンは財政政策を中心とし、金融政策には従属的地位を与えてきたのですが、財政赤字拡大と低金利の時代となって、財政出動と金利調整が難しくなる中で、量的緩和という打開策があったというわけです。それは建部氏の前述の論文によればまさにマネタリストの政策です。ならば、ニューケインジアンとはマネタリストに屈服したケインジアンということになります。
ところで、日銀の量的緩和によってマネタリーベースは大幅に増加しましたが、マネーストックは小幅に拡大しただけです。そこで実体経済は低迷を脱出できず、緩和マネーは株や土地などに向かい、格差と貧困が拡大しています。建部氏によれば、現代日本のリフレ派は、フリードマンの元祖マネタリズムの上に、期待に働きかけるという主観的な政策を新たに展開していますが、効果としては不発に終わっているというのが衆目の一致するところでしょう。こうして客観的側面からも主観的手法の点でも、アベノミクスの「第一の矢」異次元金融緩和は明白な経済失政であり、それは理論的には貨幣数量説・外生的貨幣供給論の間違いの証明だということでしょう。マネタリストとニューケインジアンの政策は破綻していると私は思います。
アベノミクスを礼賛する野口氏は、安倍首相とまったく同じく、失業率低下・有効求人倍率上昇を喧伝する一方で、実質賃金と消費支出の低下には触れません。雇用が改善されたというのですが、非正規雇用の拡大・定着にはまったく無批判で、ひたすら景気回復にともなう完全雇用の実現による賃金上昇の可能性だけに目を向けています。これは1995年の日経連の雇用ポートフォリオ政策を事実上擁護し、搾取強化を聖域化するという意味を持ちます。つまり生産過程(搾取の現場)を隠して流通過程(労働市場)だけを問題としているのです。そして誠に正直に言っています。「企業にとっての賃金とは基本的にはコストにすぎないのだから、切り下げることが可能ならできるだけ切り下げたいと考えるのは、企業が利潤追求を旨とする限り当然のことである」(163・164ページ)。さらにブラック企業などの所業を含めて搾取強化について、「要はすべて利潤確保のための賃金コスト切り下げの試みであって、その意味で資本主義の本質に根ざすものであった」(164ページ)と「喝破」しています。まったく何の偽善をも含まないブルジョア経済学者のホンネの吐露であり、「気持ちいい」啖呵です。「確かにそれは資本主義の真の姿だ。だったら資本主義は止めだ」と私なら答えます。
とはいえ残念ながら諸般の事情でそれをすぐには実現できません。であっても、問題の本質が資本の本性にあることは明白なのだから、資本(特にグローバル資本)への民主的規制が当面する課題です。特に非正規雇用の規制や労働時間短縮などは喫緊の課題です。搾取の現場にメスを入れることを抜きに、景気回復にともなう企業業績向上による労働条件の改善やせいぜい良くても再分配政策による格差と貧困の緩和だけに問題を限定することは、政権与党の裁量に大きく依存することになり、政治変革から目をそらすことになりかねません。たしかにその時々にできることとできないことがあり、できることが限られるのが現実ですが、常に資本主義そのものに対する根本的批判の観点を抜きにはわずかな改良も実現できません。あるいは、「大衆による資本主義批判」がもたらす緊張感――それが欠如していることが、支配層に多大な余裕を与え、人々の生存権を脅かすような政策を平気で連打してくる、という事態を深刻に捉える必要があります。「平気で」というのはやや言い過ぎでしょうが、それでも資本主義への信認が揺るぎないと思えば、人々に犠牲を与える政策であっても政権は強行することに踏み切れます。「資本主義の枠内での民主的変革」という課題は、「資本主義批判そのものは難しいからとりあえずそれは措いといて」という文脈で提起されているのは確かでしょう。しかし日々苦しみをもたらす経済情勢と政府の政策の根源に資本主義体制があるという理解を広げることは重要です。たとえ社会主義への支持までには至らなくとも、自分の生活と労働の改善にとって資本主義の弊害を減らすことが必要だという意識が眼前の改良を進める一助となります。そういう意味では、「資本主義の枠内での民主的変革」という課題は、資本主義批判の高揚という課題を不可分に伴い、それはやがて資本主義の克服の課題につながっていきます。
閑話休題。野口氏の著書に戻れば、そもそも日本経済の最大の問題がデフレであるという観点がまったくの間違いです。バブル崩壊後の日本経済はデフレではなく、問題の本質は実体経済にあり、金融政策が中心ではない、ということをかつて私はさんざんに言ってきました(たとえば「文化書房ホームページ」の「店主の雑文」の「物価下落をどう見るか」 http://www2.odn.ne.jp/~bunka/bukka.htm)が、それはここでは措きます。野口氏の議論で唯一評価できるのは消費増税に反対しているところです。そういう意味では、リフレ派は、ストレートに人民に犠牲を転嫁するタカ派の新自由主義構造改革派に比べればハト派かもしれません。しかし彼らはグローバル資本による搾取強化による経済停滞という根本矛盾を隠蔽して、資本への民主的規制を回避する弥縫策を推進していると言えます。
今では日銀がリフレ派に乗っ取られた形ですが、かつて野にあるリフレ派と日銀エコノミスト(今日では旧日銀エコノミストというべきか)とが論争を繰り広げており、今では攻守所を変えて、白川前日銀総裁が現日銀批判の著書を出したりしています。そこで、左派も含めて単純化した表を作ってみました。
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量的質的金融緩和政策 |
消費増税など緊縮政策 |
グローバル資本主義体制 |
旧日銀エコノミスト |
× |
○ |
○ |
リフレ派 |
○ |
× |
○ |
左派 |
× |
× |
× |
旧日銀エコノミストは消費増税などに賛成しており、だいたい新自由主義構造改革派と言えましょう。リフレ派は新自由主義の一派のマネタリストからニューケインジアンまで含み、一部には左派と重なる部分もあります。だから上の表のリフレ派の○と×は平均的多数派と思われる傾向であって、実際には多様でしょう。左派はグローバル資本主義体制そのものに反対する立場から、緊縮政策と量的質的金融緩和政策に反対し、賃上げと社会保障充実等による国民経済の発展を提起しています。
グローバル資本主義の体制原理である新自由主義は実体経済における搾取強化と金融化とを両輪としています。搾取強化は内需を冷え込ませ、投資を停滞させることで、過剰貨幣資本を創出し、金融化を推し進めます。それは現代資本主義の停滞と腐朽を必然にします。搾取強化と金融化の双方と上記の三つの立場との関係を図式的に言うと以下のようになります。左派は搾取強化と金融化の双方に反対し、旧日銀エコノミストとリフレ派は双方を温存するのですが、相対的に言えば、前者が金融化にやや批判的で搾取強化をより推進し、後者が金融化には宥和的で搾取強化にはやや批判的だと言えるかもしれません。メディアなどで問題とされるのは、旧日銀エコノミストとリフレ派との論争だけですので、左派の立場があることをアピールする必要があります。
徴用工問題と憲法の原理
10月30日、韓国大法院(最高裁)は、日本がアジア・太平洋地域を侵略した太平洋戦争中に、「徴用工として日本で強制的に働かされた」として、韓国人4人が新日鉄住金に損害賠償を求めた裁判で、賠償を命じる判決を言い渡しました。また11月29日には、広島と名古屋の三菱重工業の軍需工場で働かされた韓国人の元徴用工や元女子勤労挺身隊員らの裁判でも同様の判決が出されました。
これらに対して安倍首相・河野外相ら日本政府は、元徴用工の個人賠償請求権は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決している」とした上で、判決は「国際法に照らしてあり得ない判断」であり、「毅然として対応していく」と述べています。日本のほとんどのメディアはこれに無批判に追随し、判決とそれを尊重するとした韓国政府とを非難し、韓国バッシングの大合唱となっています。
日本政府批判がはばかられるようなこんな雰囲気の中でこそ、「間違いは間違い」とはっきり指摘し、正しい方向を指し示すことが、この国の未来を誤らせないために、日本人の幸せのために絶対必要です。この問題に関する発言ではありませんが、医療経済学者の二木立氏は二つの言葉を紹介しています(ネット通信による「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻173号)」2018年12月1日)。一つは暉峻創三(映画評論家)氏の言葉です。……「[マイケル・ムーア監督の最新作「華氏119」の]背後にあるのは、『今からでも遅すぎはしない』という思いだ。自らの生まれ育った土地、国を最後まで見捨てまいとするその気持ちが、国境を超えて人びとを感動させる力になっている」(「朝日新聞」2018年11月2日夕刊、映画評「華氏119 トランプ体制斬るムーア節」)。……ムーア監督の強烈なアメリカの現実批判は愛国心的使命感に基づいており、だからこそ国境を超えて普遍的に支持される、ということでしょう。次いで鶴見俊輔氏の言葉です。……「日本の国について、その困ったところをはっきり見る。そのことをはっきり書いてゆく。日本の国だからすべてよいという考え方をとらない。しかし、日本と日本人を自分の所属とすることを続ける」(『思い出袋』岩波新書、2010年、158ページ)。……自国批判を「自虐」としか見ない偏狭さは愛国心のように見えますが、その感情的無反省によって国の針路を誤らせます。逆に自国を正しく批判できる冷静さこそが自国を発展させ、同時に国境を超えた共感をも呼ぶことで平和を増進させます。安倍政権は正反対に、誤った自国の立場に固執し、見当違いに他国を批判することで紛争の種を作り、せっかく進み始めた東アジアの平和の気運に水を差しています。犯罪的というべきでしょう。
徴用工問題の本質は人権問題であって、国家対立ではありません。安倍政権はこれをすり替えています。このすり替えを見抜くことから出発しなければなりません。日韓請求権協定によっても、個人の請求権は消滅せず、というのが日韓双方の政府・最高裁のこれまでの一致点です。国家間の請求権と個人の請求権とをきちんと区別し、その他に立場の違いがあっても最低限この一致点から出発して「被害者の名誉と尊厳を回復するための具体的措置を日韓両国で話し合って見いだしていくという態度が大事ではないでしょうか」(「しんぶん赤旗」11月2日付)という共産党・志位委員長の見解がきわめて理性的かつ現実的です。
こういう問題の基本構造を踏まえた上で、徴用工問題と憲法との関係を考えてみます。近代憲法は国家権力を規制し個人の人権を守るために存在しています。日本国憲法はそれに加えて、過去の国家が犯した侵略戦争の誤りを反省し、交戦権と戦力を放棄するという徹底した平和主義に立っています。これも国家権力への強力な規制です。ただし現代憲法においては、さらに社会権が規定され、これは自由権とは逆に、国家が個人を援助するために積極的役割を果たすことを予定しています。したがって、個人の人権を伸長させるためには、自由権的には国家介入をできるだけ抑制し、社会権的には国家の積極的施策が要請されます。以下の行論では自由権と平和主義を主に念頭に置きます。
徴用工問題では、日本国家が戦時徴用によって朝鮮人の人権を蹂躙したことに対する補償が争われています。そこで日本政府は被告企業に対して、原告と交渉するな、という圧力をかけているらしい。企業の論理にすれば、適当なところで手打ちにして、現地での経済活動をスムーズに行ないたい、という希望があるでしょうが、それを政府が許さないのです。日本国家の沽券にかけてもということでしょう。それによって元徴用工の人々の人権が蹂躙されたままで救済されない状況が続きます。まさに国家権力の抑制による人権保障、という近代憲法の想定するあるべき姿の正反対の方向になっています。立憲主義を破壊して、特定秘密保護法・共謀罪法・戦争法など一連の人権弾圧法規を強行成立させてきた安倍政権らしい振る舞いと言えます。自国民の人権破壊に狂奔する政府が他国民の人権に配慮するわけがない、という事態です。
そうして政府は日韓対立を煽っています。これではせっかく2018年に朝鮮半島非核化に向けて動き出したのに、それに大きく水を差すことになります。もっとも、安倍政権にしてみれば、いつまでも北朝鮮の脅威を言い立てて、軍拡に邁進する方が政権維持にとって有利だという肚があるのかもしれませんが…。結局、元徴用工の人権蹂躙を続ける、という憲法原理への背馳が、もう一つの日本国憲法の重要な原理である徹底した平和主義をも害する事態となっています。
安倍暴走というのは、憲法と法律をも無視して敢行されてきました。辺野古における暴力的無法がその典型です。菅官房長官はことあるごとに「日本は法治国家だ」とうそぶいていますが、実際には「国家権力の暴走=無法の放置国家」という他ありません。人権と平和のために国家権力を抑制するのが日本国憲法の最高の精神です。そこには、かつて人々の基本的人権を抑圧する中で、政府の誤りによって侵略戦争に至ったことへの痛切な反省がこめられています。安倍改憲とはその形がどうであれ、要するにこの根本精神をなくしてしまいたい、という狙いを秘めているとしか言いようがありません。安倍政権がこれまでやってきたことは、国内で法的にも、政治的・社会的にも人権抑圧の体制をこしらえつつ、対外的には北朝鮮・中国・韓国などへのバッシングを煽る、ということであり、これはまさに戦争に向かう体制構築と雰囲気醸成の仕業に他なりません。
基本的人権は歴史的・地理的に普遍的なものです。正確に言えば、普遍的に完成するべく、歴史的にも地理的にも努力されてきたし今日もまた努力が続けられている、ということです。この普遍性の観点から注目されるのは、徴用工問題が出てきたのと同じ時期に、国会で入管法改定案が審議されていたということです。残念ながら中身のない議論をわずかばかり経ただけで例によって強行成立させられました。しかし審議の中には目を見張るものがありました。12月5日の参議院法務委員会で行なわれた高谷幸参考人の意見陳述は現行の技能実習制度の本質を衝き日本社会の問題点を暴くことで、人権の普遍性に迫る内容でした。
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先日、実習生は恋愛も妊娠も禁止され、妊娠が分かった時点で中絶か帰国を迫られるという報道がありました。なぜ、このようなことが起こるのか。それは、技能実習制度は、技能実習生を可能な限り労働力としてしか存在しないようにするものだからです。人間である技能実習生を労働力としてしか存在しないようにするには、家族との生活、恋愛、妊娠という労働を離れた生活の部分を制限するしかありません。つまり、この制度を維持するには労働力が人間として暮らす局面を最大限制限する他ないのです。定住・永住の阻止もこの延長上にあります。定住・永住を認めない、人間として生きることを制約しようとすることこそさまざまな人権侵害を引き起こしています。
同時に、この発想は教育や出産、子育てをコストとしてみる発想に根ざしています。私は、この発想は外国人の問題に限らず、出産や子育て、教育に十分な公的支援がされていないという日本社会全体の問題と地続きだと感じています。その意味では外国人技能実習制度、そして、今回の特定技能1号の創設は、人が生まれ、育つことを大事にしない、この国の姿勢が象徴的にあらわれています。そうした社会で誰が安心して幸せに暮らすことができるでしょうか。 「しんぶん赤旗」12月6日付
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この法案審議の中で、外国人技能実習生の悲惨な実態が暴露されました。現代の日本でこんなひどいことがまかり通っていることが広く社会に衝撃を与えました。それはかつての戦時徴用工の問題が反省されずに捨て置かれ、日本社会自身の中でも日本人・外国人を問わず様々な人権侵害が続いてきたことの一つの結果なのでしょう。高谷氏の指摘するように、外国人技能実習制度の本質的姿勢は人間を単に労働力と見て、生活を切り捨てることです。だから人権侵害が起こるのですが、それは日本社会に広くある、教育や出産、子育てをコストとして見る発想と同じです。つまり外国人実習生への人権侵害は、人が生まれ育つことを大事にしないこの国と社会の姿勢が極端に現れたものであり、日本人の人権がすでに侵害されている延長線上にあるのです。それへの私たちの回答は、日本人・外国人を問わない普遍的人権の確立です。
人権の普遍性の前に立ちふさがるのがナショナリズムです。先に、マイケル・ムーアと鶴見俊輔の批判的愛国心ともいえるものについて触れました。自国の問題をきちんと見つめ、反省すべき点は反省して変革の志を貫くことは、自国をより良くすることだから真の愛国心と言えます。しかもそのような公正な姿勢は、国境を超えて共感を得ることができます。このような国境を超える普遍性はまさに何よりも平和に資するものです。そういう正しい姿勢を「自虐史観」と揶揄する者の立場は「自慰史観」とでも呼ぶべきものであり、一見愛国心の発露のようでありながら、自国を退嬰的に自己満足させるだけで、国境を超えればまったく通用しない独りよがりであり、平和を危うくするものです。
先月、明治以降、「脱亜入欧」の国家戦略が国民意識を形成し、「アジア諸国を対等・平等のものと考えず、近隣諸国を自分より下に見る目というのは、知らず知らずのうちに現代においてもすりこまれているように感じ」られるという、山田朗氏の言葉を紹介しました(「しんぶん赤旗」11月29日付)。このような現代日本人の姿勢こそ、人権の普遍性の前に立ちふさがるナショナリズムの第一の問題です。近現代の日本とアジアの歴史を学び、真摯な反省に基づいて周辺諸国との対等平等の関係を心の底から築き上げてこそ、アジアでの人権尊重にあふれた平和的関係を作っていくことができます。
逆にナショナリズムの不当な欠如として自覚しなければならないのが対米従属の問題です。沖縄だけでなく日本全国で在日米軍基地の被害が多発しています。もちろんそれだけでなく、戦後日本の歩みは政治経済の全般にわたってアメリカの不当な支配に属してきたのですが、そのことは多くの人々に意識されていません。日米安全保障条約が不動の前提と思われ、アメリカの侵略戦争への加担の問題や政治経済上での自立的発展が阻害されてきたことが問題とされずに来ました。対米従属とアジア蔑視という対極的なナショナリズムの異常性を克服することが、日本に普遍的人権と真の平和を定着させるカギです。
2018年12月31日
2019年2月号
「国庫の赤字」をどう見るか
日本の政府債務総額がGDPの2倍を超えることはもはやよく知られた事実となっています。それに対してどれほど深刻に受け止め、あるいはどのように対処すべきかについて様々な意見が交わされています。最も流布しているのが、「借りたものは返すのが当たり前」ということから、家計の赤字になぞらえて実感を演出し、社会保障削減などの緊縮の必要性を説く立場でしょう。これが支配層の主流です。民主勢力の中では、それへの反発として財政赤字をそれほど深刻に受け止める必要はないという言説もよくありますが、やはりそれは深刻であり、支配層とは別のやり方で財政再建すべきだ、という意見もあります。そこで財政の深刻さをどれほどに評価するのか、それが重大な経済危機を招くのか否か、というのが最も分かりやすい論点であり、また難しい問題でもあるので、そこに議論が集中しています。
しかし財政危機の問題を別の角度からも見る必要があるのではないでしょうか。そもそも「借りたものは返すのが当たり前」という観点から、家計の赤字になぞらえて国家財政を見ることは分かりやすいようでいて問題の本質を隠蔽しているのではないか。そういう通俗的見方は、商品=貨幣関係の次元で身辺を見渡したものであり、政府債務問題は国民経済的規模における階級対立の次元で見るべきではないか、と考えてみる必要がありそうです。
ところで、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との重層的構造を本質的に解明したのが『資本論』第1部第7篇の資本蓄積論における「領有法則の転回」論です。その論理が財政論に直接つながるわけではありませんが、そこに参考になる叙述があります。「商品生産では、売り手と買い手とが互いに独立して相対しているにすぎない。 …中略… /したがって、商品生産またはそれに属する経過は商品生産独自の経済的諸法則に従って判断されるべきであるからには、われわれは各々の交換行為を、それ自体として、すなわちそれに先行する交換行為ならびにそれに後続する交換行為とのいっさいの連関を離れて、考察しなければならない。そして、売買は個々の個人のあいだでのみ行なわれるのであるから、全体としての社会的階級間の諸関連を売買のうちに探求することは許されない」(『資本論』新日本新書版第4分冊、1005・1006ページ)。前出のように、貸借の倫理や家計赤字の観点で国家財政を考えるのはこの論理次元に規定された見方です。しかし「われわれが資本主義的生産を絶え間ない更新の流れのなかで考察し、個々の資本家と個々の労働者の代わりに全体に、すなわち資本家階級およびそれに相対する労働者階級に注目すれば、事態はまったく異なった趣を示す」(同前、1005ページ)ことになります。
今日の日本資本主義における格差と貧困の構造の中で、膨大な国債の集積は、一方で大手金融機関の資本蓄積のテコとなり、他方で大衆課税をますます強いることで、格差を広げリスクを高めています。国債をもっぱら国家債務としてだけ理解していてはこういう階級的全体像が見えなくなります。それを解明したのが、山田博文氏の「官製バブルが拡大する格差とリスク 出口なき異次元金融緩和の結果と弊害」(…以下「山田A」)と「財政ファイナンス・日銀トレードと国際ビジネス――国家と中央銀行を利用した金融独占資本の資本蓄積――」(政治経済研究所編『政経研究』No.111 2018.12 、所収、…以下「山田B」)です。山田氏は「マルクスが指摘しているように、『国家が負債に陥ることは』、大口のマネーを運用する投資家にとって、『彼らの到富の主源泉』になっている」(「山田A」、61ページ)とか、「マルクスは、国債について、もっぱら国家債務として理解するのではなく、過剰な貨幣資本の利殖の対象として、投機業者や国家の債権者に国債ビジネスの機会を提供し、国家のピンチはビジネスチャンスであり、国家のリスクはリターンをもたらす、と認識していた」(「山田B」、121ページ)と指摘しています。その観点から国債について以下のような分析視角を提起しています。
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国債発行残高に関する従来の分析は、政府債務や確定利付債権の保有問題として検討される傾向が強かった。だが、このような分析視角では、国債の発行や保有の局面に限定され、国債の発行・売買・償還・保有などの全局面において、国債が金融商品として機能していることが看過される。世界の大手金融機関・投資家は、各国政府の発行する国債の全局面を網羅する資本蓄積を展開し、世界の国債市場を通じて莫大な収益を実現している。その対極で各国国民は国家の債権者に貢納するための重税に苦しめられている。
「山田B」、120ページ
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この山田氏の観点によって以下の全体像が浮かび上がってきます。高度な格差と貧困を抱えた日本資本主義がその構造の下で国債ビジネスを活発化させ、一方に、ごく少数の内外の巨大金融機関に独占的な国債関係収益をもたらし、他方に、国家財政の悪化による社会保障の切り下げや庶民増税など人々に苦難をもたらし、よって格差・貧困をいっそう増大させ、あげくの果てに国家と中央銀行に異次元のリスクを抱えさせることで、気まぐれなグローバルマネーの動向によって国民経済が破綻する危険性を招きよせています。
アベノミクス第一の矢の狙いは、民間金融機関保有の国債を日銀が大規模に買い入れて市場に資金を供給し、2%の物価上昇を伴う経済活性化を実現することでした。しかし実際には日銀に国債が積み上がる一方で、民間銀行に来た大量の日銀マネーは実体経済の活性化ではなく再び国債投資に回りました。これで国債の市中消化が容易になりました。すると政府は無制限に国債が発行できるようになりました。これは(法律の禁じる)国債の日銀引き受けではないけれども、日銀信用に依存して財政資金が調達される新しい財政ファイナンスのやり方であり、民間銀行を介した間接的な日銀引受とでもいうべきものです。これでGDPの2倍の国家債務が積み上がっていきます。
大手金融機関は国債を政府から安く買って、日銀に高く買ってもらうことで売買収益を得、逆に日銀は売買損失をこうむります。「額面以上の高値で国債を日銀に売却できた民間金融機関は、国債の売買取引という合法的なやり方で、日銀から国債売却益という『隠れた補助金』を供給してもらってきたことになる」(「山田B」、128ページ)のです。大手金融機関はこの日銀トレードで安定的な国債売却益を得るだけでなく、2008年からは日銀当座預金に0.1%の金利が設定されたのでそれでも儲けます。マイナス金利が話題になりましたが、0.1%金利が2082億円に対して、マイナス0.1%金利は193憶円に過ぎないので、差引1889億円の収益となります(2018年9月現在での日銀当座預金残高から。「山田A」、63ページ)。
ここで「借りたものは返すのが当たり前」という言葉を想起しましょう。貸借関係と言っても所得流通においてと資本流通においてとでは中身が違います。労働者・自営業者などは生活に必要な所得の一部を削って返済に回しますが、資本主義企業は投資して利潤の一部から返済に回せば済みます。これは質的違いなので理解に頭を使うことを要します。しかし日銀トレードとか、当座預金への付利(!?)はあからさまな大手金融機関の優遇で、個人や一般企業では考えられないリスクフリーな儲けであり、違いが一目瞭然です。
「株価連動内閣」のアベノミクスでは、実体経済がまったく停滞しているのに、株価が2倍になっています。当初これは、異次元金融緩和政策そのものがグローバル投資マネーを呼び込んだ効果ですが、2015年からは海外投資家は売り越しに転じます。それに対して日銀とGPIFの公的資金を株式市場に投入して、人為的な株式需要を作り出し株価バブルを維持しました(「山田A」、64・65ページ)。これもあからさまな大企業と富裕層優遇策であり、その結果、日銀のバランスシートはリスキーになり、年金積立金は人々の財産なのに高リスク運用で説明責任もないという状況です。
こうして異次元金融緩和は、新たな財政ファイナンスによって財政危機を糊塗し、日銀トレードと付利さらには株価の官製バブルによって大企業・富裕層優遇を徹底し、格差と貧困の日本資本主義を増長させてきました。しかしその内在的矛盾が限界を画そうとしています。日銀の買い支えで、国債価格が上がり、国債金利が下がったことは、政府にとっては国債利払費の軽減となりましが、投資家にとっては国債の旨みが減少し、国債ビジネスの限界となり、民間金融機関は日銀に高値で売却して売買差益を確保しながら国債保有額を激減させています。こうして国債市場は品不足、取引低迷、日銀トレードの利ザヤ縮小となり、異常な金融緩和政策の限界が表面化しています(「山田B」、123・127ページ)。
このように事態の全体像は「国家と中央銀行を利用した内外の金融独占資本の資本蓄積」(「山田B」、120ページ)というべきものであり、日本資本主義の格差と貧困をさらに拡大させるだけでなく、国家財政と中央銀行に前例のないリスクを負わせることになっています。異常な金融緩和政策によって、日銀やGPIFが「株式や国債を保有すると、いつ発生するのかわからない価格変動リスクや信用リスクという『時限爆弾』を抱えることにな」ります(「山田A」、70ページ)。なぜなら、株式や国債の「価格は、実体経済や金融市場の動向、国庫の資金繰り状況などだけでなく、国際情勢など予測不能な要因によって変動する」(同前)からです。株式や国債の売買の主役は「逃げ足の速い海外投資家」であり、そこは「超高速のコンピュータ売買」により「価格が乱高下する市場に変容している」のです。「時限爆弾」がさく裂すればどうなるか。またその歴史的意義は如何に。
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日銀は異次元金融緩和を担い国債を大規模に買い入れてきたので、すでに戦後の国債発行残高の4割を超える470兆円(18年11月)ほどの国債を保有している。国債価格の下落(=金利上昇)は、日銀に巨額の損失を発生させ、日銀信用を毀損し、急激な円安・物価高をもたらし、国民生活を破壊する。とくにカロリーベースで6割を輸入に依存する食料の価格上昇は深刻である。日銀の国庫納付金の減額はそれだけ国民の財政負担を増大させる。また国債金利の上昇は国債利払い費を増大させ、財政を圧迫し、国民の財政負担を増大させる。財務省試算では、1%の金利上昇は、2020年度の国債利払い負担を3兆7000億円ほど増大させる。
株価が下落すればGPIFが金融資産として保有する株式の資産価値は減価し、GPIFは損失を抱え込む。年金積立金を株式相場に任せると、国民の老後の生活費が株式市場の泡となってなくなることを意味する。 「山田A」、70ページ
現在のように日銀が発行残高の4割台の国債を保有する事態は歴史的に未経験であり、今後、日本の中央銀行と「円」はどうなるのか、予断を許さない時代が到来している。
「山田B」、130ページ
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こうした警告に対しては、リフレ派などが「狼少年」呼ばわりして経済危機の可能性を否定しています。その辺の議論はほとんど読んだことがないので今後の課題として、ここでは、山田氏が明らかにした、金融商品として機能する国債の累積が「国家と中央銀行を利用した内外の金融独占資本の資本蓄積」に活用されているという事実を前提に、諸論者の立場の関係を見てみます。
国債累積による経済危機の可能性を重視する立場の多くは、タカ派の新自由主義構造改革派であり、消費増税など、人々の生活犠牲を推進して、グローバル資本の支配体制の秩序を守ろうとしています。それに対して、そうした危機の可能性は低いと見て、消費増税などに反対してそれなりに人々の生活に配慮するのがリフレ派などであり、新自由主義構造改革には批判的なハト派と言えましょう。しかしそれは内外の金融独占資本が国債ビジネスによる資本蓄積を推し進めること――国家と中央銀行に寄生して格差と貧困を助長する政策――に無批判であるし、経済危機の可能性について真剣に考えているのかは疑問とされます。やはりタカ派とは違った道で、大資本・富裕層への課税強化や軍事費・巨大公共事業を削って社会保障を充実させるような形での財政再建によって経済危機の可能性を塞ぎつつ、金融独占資本の寄生的資本蓄積をなくす方向が追求されるべきだと思います。以上は周知の議論を再確認する凡庸な結論に過ぎませんが、現状分析と経済政策論においては、政府債務累積下での経済危機の可能性などを勉強しつつ、今後とも深めていくべき最重要なテーマです。
日本経済の全体像を把握する
上記との関連でいえば、政府財政が大幅赤字であることを中心論点の一つとして日本資本主義の国民経済を分析した川上則道氏の「『経済財政白書』の早合点――日本経済の需給関係と部門間バランス分析」(『前衛』2月号所収)が、財政再建を含めた国民経済の構造転換の方向性を簡潔に示して注目されますし、国民経済を捉える基本的観点を啓蒙した論文としても優れているように思います。
川上論文では、『白書』の新たなアベノミクス弁護論として、「GDPギャップ縮小への対応論」(120ページ)が取り上げられ簡潔に批判されているのが重要です。論文では「国民経済計算論による部門間バランス分析の基礎知識」が解説され、その理解を基に『白書』の議論が批判されています。統計的にはGDPギャップ(需要不足)が縮小してプラスへと変化しているのは事実ですが、それを基に日本経済は供給不足に陥っていると『白書』が主張しているのは誤りだというのです。なぜなら政府財政の大幅赤字によって需要が拡大されているのがその変化の原因であり、「政府部門の赤字による需要嵩上げを除いて考えれば、日本経済全体の需給関係は供給力に比べて需要がなお下回ってい」るからです(126ページ)。『白書』が現実を逆さまに描いて供給力不足を強調するのは、サプライサイド経済学的な幻想を現実の経済政策に押し付けたいがためではないでしょうか。そこにあるのは、川上氏の要約によれば、「GDPギャップ縮小への対応には生産性の引き上げが必要であるが、それを『働き方改革』と『第4次産業革命』という『イノベーション』で達成しなければならないという議論です」(120ページ)。そこに見るように、日本経済の困難を生産力主義的に搾取強化で打開しよう、というおよそ的外れで有害な政策を正当化するのが『白書』の狙いではないでしょうか。こうした支配層の定番的発想を根底から批判する意味で、「GDPギャップ縮小=供給力不足」論への批判は重要であり、機敏な対応だと思います。
ところで、『白書』批判、という論文の第一テーマを支えているのは、国民経済を部門間バランスの歪みの形成と健全化の方向という観点から見る構造的視点と、それを戦後日本資本主義の歩みの中に概観する歴史的視点との総合でしょう。そこに見出される「部門間バランスの構造転換」を捉えるのに、「今日の経済情勢の根本をどう把握するかという理論問題」が提起され(128ページ)、それに関わる以下の三要因が指摘されています。「@資本主義生産方式に特有な矛盾(生産と消費との矛盾)、A戦後高度経済成長の破綻、B政府が通貨発行権を獲得していること(管理通貨制度)」(128・129ページ)。残念ながら私はこの三つが特に選び出された根拠をうまく説明することはできないのですが、常日頃留意している諸点であり、論文の中で、これらによって構造的・歴史的に経済情勢の全体像が的確かつ簡潔に把握されているのに接して、その分析力を実感しました(*注)。部門間バランス構造の健全化への方向性という経済政策論にもこの観点が貫かれています。時間がないので内容の詳しい紹介は省きますが、こうして論文は、日本経済についての構造的・歴史的視点を踏まえた現状分析の方法と経済政策の指針とを基礎的に解明しており、初心者から研究者に至るまで広く読まれることを期待します。
(*注)「生産と消費との矛盾」が第一に取り上げられることで、部門間バランスの見方が資本主義分析として的確になると思われます。政府統計で企業部門・家計部門と分類されるとき、「企業」と「家計」とが、新古典派モデルのように原子論的市場のアクターとして捉えられるのか、資本家階級と労働者階級との近似的表現形態として資本主義経済の矛盾の担い手として捉えられるのか、という立場の違いがあるように思います。後者の立場を踏まえて政府統計を活用することが大切ではないでしょうか。
ところで細かい論点になるかもしれませんが、「生産と消費との矛盾」に関連して、「過剰生産」をどう捉えるかが問題です。この矛盾が高度経済成長期にはかなり緩和され、その終了後には「再び激しく発現するようになりました」(130ページ)ということの意味は何でしょうか。これを静的・没階級的・没資本主義的に捉えれば、――高度経済成長期を通じて「戦後型の諸産業が創設・形成される過程」が「おおむね終了し」(同前)、戦後の誰もが貧しい状況から、人々の生活水準が一定の段階に達し、いわば日本社会が成熟期に入って商品への需要が停滞し、これ以降は生産が過剰になるようになった――となります。これは今日の経済停滞の原因が絶対的過剰生産にあると捉えています。そもそも生産が人々の必要を超えるようになった、ということです。
単に使用価値の生産と消費という面から見れば(もちろん資本主義経済はそういう側面を持っている)、この成熟社会論は当たっているところがありますが、資本主義的生産関係を直視すれば別の面が大きくあらわれてきます。「『生産と消費との矛盾』という場合、消費が抑制されるのは、労働者に分配される所得(賃金)が低く抑えられているからであり、人々の消費要求が満たされているからではありません。生産された所得がそれを必要とする人々に分配されないことに問題があるのです」(同前)。つまり「生産と消費との矛盾」による過剰生産は絶対的過剰生産ではなく、上記のような資本主義的生産関係に規定された相対的過剰生産なのです。
没階級的見方の大まかな現象的妥当性と階級的見方の鋭利な告発的迫力は相反するものであり、前者は現象論で後者は本質論であるようにも見えますが、両者を統合することでより説得力を持った経済観が生まれるように思います。
戦後の経済発展の中で、かつての社会全体を覆う貧困状態は改善され、豊富な消費財に囲まれたそれなりの生活水準が一般化しました。そこに至る発展過程に生じた社会全体の旺盛な需要はもはや期待できないという意味では確かに成熟社会の段階に入ったということはできます。しかし今日では社会的平均よりも大幅に低い生活水準に甘んじる人々が多く存在しているし、平均かそれ以上の生活水準にある人々も、厳しい労働条件下にあり、それにふさわしい所得や生活水準を得ているとは言い難い状況です。
そう考えると今日の過剰生産と経済停滞は成熟化と貧困化の複合から生じ、そこには絶対的過剰生産と相対的過剰生産が共存しており、そこに今日的な「生産と消費との矛盾」の構造があるようです。
成熟社会化によって低成長となれば、歴史貫通的見方では、少ない成長の成果を全成員で分かち合い、余裕を持って生活の質を高めるような生産と消費のあり方が追求されてもいいと考えられます。しかし資本主義下では少ない付加価値(価値生産物、V+M)の中で剰余価値(M)を増やすために、賃金(可変資本、V)を削る衝動が働きます。リストラや不安定雇用の増大など、搾取強化=搾取率(剰余価値率)の向上が追求されます。高度経済成長終了後の発達した資本主義諸国における新自由主義の跋扈の本質とはそういうものでしょう。
ここで賃金下落を防ぐためには二つの道があります。一つは成熟社会化に逆行して高成長率を目指す道です。付加価値全体を増やせば、搾取率を向上させても賃金の下落を防げます。そのための高成長というわけです。『経済財政白書』など支配層の立場であり、成長至上主義・生産力主義です。もう一つは成熟社会化を承認して、低成長下でも搾取率を下げる道です。生産関係視点の重視です。前者の道は人々の生活と労働を破壊し「生産と消費との矛盾」を激化させて今日の経済停滞を継続します。後者の道こそが、人々の生活と労働に余裕と真の豊かさをもたらし、「生産と消費との矛盾」を緩和して経済の安定的発展を実現します。両者は結局、資本主義を純化し徹底して進むのか、資本主義を止揚する方向を目指すのかという根本姿勢の違いへと導かれるでしょう。
以上のように生産関係視点が重要ということですが、川上論文からは、新たな生産力のあり方への提起が読み取れます。それは「時代が求める新産業・新業種を育成する」ということです(133ページ)。高度経済成長を含めた戦後日本資本主義がもたらした様々な歪みや諸問題に対して、「さらに進歩してきている科学技術をも生かして、これらの諸問題を解決できる新産業・新業種を政策的に育成し、そのことも一つのテコにして経済成長をはかること」としてたとえば「再生可能エネルギーを生産する産業を育成し」たり、「地域内循環を重視し域内市場向け諸産業の育成をはかり、歪んだ国土利用の転換を進めるなどなど」(同前)が指摘されています。生産関係の改善にふさわしいこうした新たな生産力のあり方もまた重要です。
最後にまた「生産と消費との矛盾」の捉え方に戻ります。まず資本主義経済の駆動力として「生産のための生産」に突進していく資本間競争のあり方を解明するのが中心となるべきでしょうが、委縮していく消費の構造を捉えることも重要です。経済発展を背景に、消費生活が多様化・高度化する一方で、搾取強化と社会保障切り捨てなどの中で労働と生活が破壊され、家計の硬直化が進み、自由な消費生活が後退していく構造を捉えることが必要です。そこで、家計消費の低迷の構造を丁寧に分析した金澤誠一氏の「家計消費は低迷したまま その要因は何か」(『経済』2月号所収)に学ぶ点が多いと思いますが、時間切れでその指摘だけで終わります。
2019年1月31日
2019年3月号
「最賃1500円」と日本資本主義
中澤秀一・柳恵美子・森田進・蓑輪明子の四氏による座談会「『最賃1500円』で暮らせる賃金・雇用をつくる」は最低賃金の引き上げという課題を中心に、多岐にわたる問題を豊富なデータを基に論じており、その切り口から今日の日本資本主義の国民経済像に迫っているとも言えます。この座談会の全体はとても私の手におえるものではないので、重要なテーマのいくつかは措いて、私の視点からそのコンセプトを整理すると次のようになります。
――まず最低賃金そのものの低さと地域格差を描き出し、次いでその低さ・格差の不当性に関して、労働運動は労働者の意識をどう獲得するかが問題であり、そのためには個々の労働者の生活展望を開くように問題提示されるべきだ。その際、最賃の地域格差を問題にすれば、地域経済論に結びつき、その全体的低さを問題にすれば国民経済論に関連する。そうして、労働者の最賃引き上げ要求そのものの正当性を明らかにするだけでなく、それが国民(地域)経済の発展に資することをも明らかにして、労働者要求の国民(地域)経済的正当性を確固たるものにすることが有効である。さらに、労働者要求の実現のためには、反貧困を始めとする市民運動などとの連携が重要である。――
この文脈を見ると、労働者要求の正当性が労働者諸個人の生活展望を開き、かつ国民(地域)経済発展の展望を開く、という形になります。これは私が言ってきた「下から視角」(個人の生活と労働→職場・企業→地域経済→国民経済→世界経済)に準じて整理したものです(矢印は規定する方向を示す)。現実を支配している新自由主義グローバリゼーション下では逆の「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場・企業→個人の生活と労働)が現実を規定しており、イデオロギー的にも支配的です。したがって、民主的諸運動とその掲げる政策の戦略としては、世界経済を支配しているグローバル資本への民主的規制を通じて矢印「→」の力を弱め、同時に「個人の生活と労働」の力を強めて矢印の向きを逆転する方向に持っていく、という形になります。なおこの両視角について詳しくは、「『経済』2013年11月号の感想」の「『上から視角』VS『下から視角』」(http://www2.odn.ne.jp/~bunka /keizai13c.html 文化書房ホームページ→店主の雑文→月刊『経済』の感想→2013年11〜12月号)を参照してください。
座談会では、最賃そのものの低さと地域格差とが議論されていますが、特に後者の存在がクリアであり、その不当性もくっきりと表われています。17ページの表「最低生計費調査(ひとり暮らしの若者モデル)の結果一覧」に各地の最低生計費が載っていますが、さほど地域差がありません。生活費はそう変わらないのに同じ労働で最賃の地域格差があります。それを典型的に表しているのが、「チェーン店は同じ仕事内容で、売っている値段も同じで、労働者の賃金だけが最賃に張り付いているという現象」(19ページ)であり、そこに「最賃の格差が地方の賃金相場を歪めている問題」(19ページ)が生じています。
労働内容と消費内容とが全国一律の場合、賃金格差の不当性が特に目立って認められます。コープ商品は全国一律同じ値段だということを利用して、生協労連は「具体的に朝ごはんに時給額で何が食べられるか調べてみました」(21ページ)。すると地域によって食べられる品数が違うのです。たとえば神奈川のパート(時給983円)は7品目であるのに対して、鹿児島(時給761円)では4品目でしかないことが分かりました(21・22ページ)。これなどは、賃金の地域格差の存在とその不当性を分かりやすくアピールする見事な工夫です。
また、24ページの図2「医療・福祉業の所定内賃金と地域別最低賃金の関係(2017年度)」からは、両者の明確な相関関係が見て取れ、「最賃の低さが看護師・介護職の賃金と連動し」(24ページ)、地域格差が歴然としています。したがってこう結論づけられます。
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医療も介護も診療報酬、介護報酬が病院、施設の収入の圧倒的部分を占め、全国一律の公定価格で決められます。なのに、全国でこれだけの賃金に格差があるのはおかしいのではないか。やはり、医療・介護業の賃金引き上げを拒んでいるのは、この賃金格差だということを示しています。 24ページ
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収入が全国一律の公定価格の下でも、地域最賃が低いところではそれが重石となって賃金が抑えられており、それは他地域へも影響するだろう――つまり最賃の地域格差が賃金引き上げを阻害している、という構図が浮かび上がってきます。ここから、最賃を全国一律にすることが格差是正と賃金上昇にとって必要であることが分かります。
最賃そのものの全体的低さをどう表現しその不当性をどう明らかにするかが次の問題です。その際に、既存の統計数値をあれこれいじってみる、ということではなく、実際の生活体験から生計費を算出するのが「非常に内容が具体的で分かりやすい」(17ページ)と言えます。各地の労組が「生活賃金シミュレーション」(23ページ)とか「最賃・生活体験」(24ページ)などに取り組んでいますが、「最賃1500円」を掲げる根拠を示す目的で行なわれた「マーケット・バスケット方式」の「最低生計費試算調査」の集計結果の一部が先述の表「最低生計費調査(ひとり暮らしの若者モデル)の結果一覧」です(17ページ)。これは「生活に必要な物資やサービスを一個ずつ積み上げていって、生計費を算出するやり方」(17ページ)によっています。その結論は、「月150時間労働で、時給1500円は必要」となりますが、現実の2018年の最賃はたとえば、さいたま市(Aランク)898円、福島市(Cランク)772円という具合でまったく足りません。最低賃金法9条では、労働者の生計費が最賃決定の3要素の一つとされていますが、実際の最賃を決める仕組みとしては、中央と地方の最低賃金審議会で、中央が目安額を出してそれを地方が議論して決定する方式において、労働者の生計費が最賃の決定要素に入っていないのが実情です(18ページ)。
ここにはまさに、労働者の生活から出発する「下から視角」とそれを無視する「上から視角」との対立とギャップがあります。日本の最賃は「近年やや改善がなされたものの2000年代前半までは先進国のなかでは目を見張る低水準でした」(桜井啓太氏の「最賃と生活保護の両方の底上げこそ、貧困脱出のカギ」、39ページ)。その原因は、90年代までは「最低賃金自体が生活賃金としての役割をほとんど果たしていなかったという背景があり」、「主婦パートや学生を主な対象とした家計補助的な賃金とみなされてい」たからです(同前)。しかし90年代以降の「拡大した非正規・パートタイム労働者にとって、時給賃金は家計補助のためではなく、生計維持のための賃金」であり「これまでのように低くては食べていけないわけです」(同前)。
これは実際に働き生活していく労働者の立場から見てその不当性を指摘しています(「下から視角」)。それを資本主義企業の側から見ると(「上から視角」)、従来、家計補助のため働く労働者に払っていた賃金水準で、生計維持のため働く労働者を雇う、という賃金切り下げ=搾取強化を実現したことになります。この状況で最賃審議会が労働者の生計費を最賃の決定要素に入れていないのは、まさに一方的な「上から視角」に立って搾取強化に与していることになります。近年ようやく格差・貧困批判の高まりもあって、最賃が若干上がってきたとはいえ、最賃の決定方式を抜本的に見直して、労働者の生計費を決定要素に入れることが必要です。
先述のように、先進国で例外的に低い最賃という、国際比較における量的格差の背景には、国内での(生計維持と家計補助という)二層の賃金という質的格差があります。生計費を賄えない従来の低位の家計補助賃金が最賃を規定することは誤りです(もっとも、家計補助賃金そのものの時給が低くても良いということではない。それが家計補助たるのは時給が低いからではなく労働時間が少ないからという理由でなければいけないでしょう)。それに対応して考慮すれば、最賃の大幅引き上げという量的課題の背景には、最賃決定方式の見直しという質的課題があるというべきでしょう。生計費を最賃の決定要素に入れることは、時給を相当に抑えられた従来の家計補助賃金の低位性からの脱却と連動しています。
そうした最賃の質的見直しによる大幅引き上げがなければ、多くの労働者の生活が維持不可能という状況が続き、それは社会の持続性の危機に深化していきます。すでに出生率の慢性的低下による少子化にそれは現れています。したがって最賃引き上げという労働者の階級闘争は社会全体の利益に一致しています。
以上、最賃の地域格差と全体的水準そのものの低さ、及びそれらの不当性について見てきました。次にそれを労働者意識に定着させ、最賃引き上げ要求を実現していく道を、その困難性も含めて明らかにしていくことが必要です。
先の座談会の討論において、「自分たちの賃金の低さを自覚化することが第一歩だ」とか「まず低いと思えないところから低いと思う」(36ページ)という課題が提起されています。これについて看護師の労働に関しては次のように言われています。
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看護師の賃金問題と関連し、非常な長時間労働の問題があります。夜勤や残業がかなり多く、夜勤を月8回やれば、残業代と合わせて10万円近い手当てが出ますので、20代看護師でも税込30万円ほどになります。すると看護師たちは「最低賃金よりもっと高くもらっている」という意識になりますし、世間も「看護師はけっこう賃金がいい」という見方になりがちです。それは自分の身を削って、長時間の夜勤や残業をした上での金額であり、基本給では全産業平均より低い実態が隠されてしまい、運動上の困難をつくっています。
25ページ
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現象的な賃金の「高さ」が、夜勤や長時間労働によって、基本給の低さを覆い隠して成立している状況がここに示されています。とりあえず労働者自身も世間も賃金が高いと思っても、そこには働き方の過酷さやそれに見合わない賃金の低さといった「無理」が客観的にあるし、そのことは意識の奥では本人にも世間にも自覚されているはずです。そうでなければ深刻な人手不足はあり得ません。
座談会では、もっと賃金水準が低く、時間外労働が常態化・標準化し、その不払いが横行し、やはり人手不足が深刻な保育労働の実態が報告されています。それに対して「残業も夜勤もしないで、働き続ける基準を職種に応じてきちんとつくることが非常に大切だと思います。仕事に見合った水準の賃金が8時間ふつうに働けば確保できる――そうすれば、人手不足も解消に向かうはずです」(31ページ)と提起されます。これは公共サービス労働全般あるいは労働全般にさえ当てはまる原則ですが、医療・介護・保育などの労働に即して言えば、賃金の「低さは職能的な差別であり、女性差別である」(36ページ)という気づきから出発すべきことが強調されています。ここにはジェンダー視点を交えつつ、様々な分野の職能を確立して労働者の生活と労働の尊厳を保ちうる賃金を要求することの大切さが示されています。その問題として座談会では、業種別・職種別最賃の設定の必要性が提起されています。それはきわめて重要ですがここでは措きます。
先述のように、朝食に食べられる品数の違い、という形で時給の地域格差を見事に提示した生協労連では、「最賃1500円」を社会保障の充実と併せて提起しています。
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最近、掲げているのは、「年収270万円で自立して暮らせる社会」の実現です。最低賃金、時給1500円でフルタイムで働けば、何とか年収は270万円。それだけでは自立して暮らせないので、それとともに社会保障を充実させ、保育や高校教育までの無償化、医療・介護制度の充実、家賃の安い公営住宅の建設とかを組み合わせて、「時給1500円で暮らせる社会」をめざそうということです。労働組合は、最賃とともに社会保障の充実をセットで求める必要があると、今提起しているところです。 22ページ
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上記のように、個々の労働者が自立して暮らせる社会像を提起し、要求の正当性の身近で確かなイメージを喚起しています。それは、「最賃1500円」要求を労働者のものとするための有効な工夫であるのみならず、社会の制度的変革を組み合わせることで、諸個人の生活改善がリアルになる方途を指し示していることが重要です。そこでは、個人と社会のつながりにおいて、端的な要求の含意が拡大されています。
次に、「最賃1500円」要求を実現するために、座談会では、市民運動・自治体・中小企業の経営者・医療機関や保育園などの公共サービス機関の使用者などとの共同が提起され、その際、日本に比べて進んでいる韓国の運動の経験がしばしば参照されています。
「支払能力」論を克服して中小企業を最賃運動に引き込むことが必要ですが、そのためにはしっかりした中小企業支援が必要です。韓国では人件費支援に9800億円(5年間)、社会保険料の減免に3000億円が使われているのに対して、日本の中小企業への最賃関連支援は87億円(13〜15年の3年間)しかありません。ここを抜本的に変えるため、労働組合も中小企業支援を(それが持つ地域経済振興の意義と併せて)追求すべきことが次のように強調されています。
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そして中小企業の賃金支払いも雇用も安定すれば、地域経済もつくりかえることができます。この点は、公契約条例や中小企業振興基本条例の制定とも結びつけて、労働組合も自らの課題として取りくむ認識が大事だと思います。 33ページ
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地域における市民運動との連携の課題では、反貧困・防貧の観点で最賃運動での連携が可能であり、最賃が上がれば年金も上がるという点では、年金者組合と共同できます。他にも社会保障と最賃の関連からすれば、福祉関係団体との結びつきを強めることが必要ですし、最賃審議会への影響という点で各地方弁護士会との連携も重要です(34ページ)。前掲の桜井論文は、最賃が生活保護水準を下回るという逆転現象を詳細に検討しています。その下で、ワーキングプアと生活保護利用者との対立を煽る生活保護バッシング(「保護費を最賃より下げよ」)が横行する情勢に対して、生活保護の引き下げではなく、「最賃の大幅引き上げ」と「生活保護水準の回復(正常化)」によってこそ真に矛盾は解消されることを提起し、貧困運動と労働運動との強力な連携を主張しています(48ページ)。
座談会では、韓国の「最低賃金連帯」が労組のナショナルセンターだけでなく幅広い団体が参加して共闘し、最賃引き上げの国民的合意を形成し、文在寅政権に実施させていることが報告されています(34ページ)。また、とかく政治に無関心とか保守的などと言われる若者たちへのアプローチにも触れられています。「最賃があがると君たちのバイトの時給もあがるよ」と語りかけると署名に応じてくれるなど、「最賃引き上げの話題は、若い人たちにはとても身近になっていると思います」(35ページ)とあるように、運動の構えによっては、切実な要求を掘り起こしていく可能性は大きく開かれています。
先に中小企業の経営者を巻き込むことに触れましたが、医療・介護・保育などの公共サービス労働の使用者との共同も重要です。たとえば医療機関では、人件費が高いという悩みがありますが、正当な人件費を払えるよう診療報酬を引き上げることが必要です。保育では人手不足が深刻で、労働実態を知り対策を打たなければならないと考える経営者が多く、自治体担当課も同様に考える人が多い、と言われています(37ページ)。最賃を引き上げてまともな労働を実現することが、公共サービス機関では使用者にも共通の要求になり得るようです。
以上のように、最賃の引き上げは労働者の切実な要求へと確立しうるし、様々な共同を通じて実現していく展望も開けているようです。最後に改めて、最賃要求が格差・貧困問題の解決に資する意義と、地域経済・国民経済をまともにしながら振興していく意義について考えてみたいと思います。
これまで述べてきたように、最賃の地域格差と全体的な低さそのものへの批判から「最低賃金は全国一律かつ暮らせる水準にする」ことが必要であり、それは以下のように格差・貧困問題を解決するための鍵を握っています(19ページ)。
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もちろん救貧対策としての生活保護なり、最近さかんになっている「子ども食堂」などの地域での取り組みも大事ですが、防貧対策としてそもそも貧困状態に陥らないために、あるいは地域経済を活性化するために、最低賃金を引き上げることが重要だと思います。正規雇用でも非正規雇用でも、まともな賃金になれば、暮らしが底上げされて、地域の経済にも良質な雇用が創出され、都市部に人が流れることもなくなります。そういう地域循環型経済が再生されるのではないかということで、最低賃金が上がることが地域経済にとって非常にプラスになるということが、今回の調査結果からいえることです。
19ページ
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格差と貧困という資本主義経済あるいは新自由主義政策のもたらす結果への対策として、子ども食堂や学習支援のような活動、あるいは所得再分配政策がとりあえず実効性を発揮します。しかし格差と貧困そのものを減らしていくために、新自由主義政策に対抗し、資本主義的生産過程そのものに介入して最賃を引き上げ、その効果として地域経済の活性化を図ることが必要です。地域循環型経済の再生は内需循環型国民経済の再生につながるものです。「全国一律かつ暮らせる水準にする」最低賃金は、地域格差を是正し全体を底上げすることで、地域経済と国民経済をまともにしていく基盤を提供します。
「下から視角」からすれば、諸個人の生活と労働を切り縮めるのでなく伸ばしてこそ、地域経済も国民経済もひいては世界経済も発展します。これはまったく何の衒いもない当たり前のまっすぐな理屈であり、歴史貫通的観点から導かれます。しかし資本主義なかでも新自由主義の「上から視角」からすれば、諸個人の生活と労働を切り縮めてこそ、地域経済・国民経済・世界経済の発展が実現できます。この転倒は資本主義が搾取経済であるという本性から生じます。人間に対する搾取によって資本が自己増殖するという経済的土台が、政治を始めとする社会全体を規定し、イデオロギーも支配しています。
1980年代あたり、「日本経済上出来論」が跋扈していたころ、個の未確立という前近代的弱点の故に逆に、個人への配慮をそれなりにしなければならない欧米資本主義社会に比べて日本資本主義社会は発展した――プレモダンであるが故にポストモダンでありうる――といった言説があったように思います。これに対する批判的日本社会論として「資本の法則の過剰貫徹」ということが言われました。前近代性という特殊社会論ではなく(あるいはそれ故に)普遍的な資本の法則が過剰に貫徹した社会として、そのアンティ・ヒューマニズムと資本蓄積の「成功」とを統一的に説明したのです。
「不幸自慢・我慢比べ」が横行しそこから脱落する者にはバッシングが加えられる、という被支配層の分断が覆っている日本社会の空気は、特殊な前近代性を背景にしつつも、普遍的な資本の法則の過剰貫徹に強固な基盤があるのだから、労働現場からこそ打開していかねばなりません。みんなで我慢して苦しみをやり過ごし、そこから外れるものはバッシングされる、というのは大災害時などは有効な姿勢かもしれませんが、平時には諸個人を切り縮めてひいては社会全体の伸びやかさを奪い発展させないものです。みんなが無理して生活を見失う経済(不幸比べ)から、みんなが余裕を持って生活を楽しめる経済へ転換すべきです。それは日本資本主義が陥っていた一種の飢餓輸出型経済から、内需循環型経済への転換です。座談会での以下の提言は日本資本主義社会の質を問うた金言です。
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労働者は時間外労働や低賃金を我慢するのではなく、きちんと正当な賃金水準や残業なしで働ける財源や人員配置を要求して、国や自治体に財源を保障させる。これまで日本ではどこの業界でも低価格競争や長時間労働でようやく業界が成り立ってきたわけですが、それは誤っていることを、堂々と要求して、経営も日本の経済も健全化しなければならない。そのために行動することは労働者としての社会的責任ではないでしょうか。
37ページ
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ここで想起されるのが、日本の労働者階級に対する労働生産性が低いという攻撃です。確かに国際比較統計では日本の労働生産性は先進国で最低水準です。働き過ぎと言われる日本人がなぜそんな統計上の結果になっているのか。この大逆説を真に受けてもっと働こうと決意し、高プロ・裁量労働制など「定額働かせ放題」の財界戦略にはまるようでは日本人はますます不幸になり、その社会進歩はあり得ません。
ここで比較されている労働生産性は物的労働生産性ではなく、付加価値生産性です。単位時間に生産される使用価値量ではなく付加価値量が比較されています(実際の統計上では単位時間ではなく労働者一人あたりか)。したがってそこには生産過程だけでなく価値実現過程の問題を含むのだから、労働者だけに責任を転嫁することがそもそも間違いなのです。
価値実現過程について考えると、欧州と日本とでは、内需循環型市場をもつ地域経済が確立しているか、それが不十分で地域経済がグローバル競争に直接さらされるか、という違いがあります。前者では投下労働が地域内でしっかり価値実現できますが、後者ではそれが不十分になり、対外的なダンピング状態になります。投下労働と実現価値との乖離がどのくらい生じるかが「労働生産性」という名の付加価値生産性に影響します。
バブル崩壊後、日本資本主義は世界でも例外的に「デフレスパイラル」に陥ったと言われます。しかしそれは通貨の問題ではなく実体経済が疲弊し縮小しているのだから、むしろ上記のグローバル経済と地域経済との関係からして、「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと思います。だから「労働生産性」問題の解決は、ますます過剰労働にのめり込むのではなく、人々の賃金・所得を上げて地域内・国内の経済循環を確立して、内需循環型地域=国民経済を再生することにあります。これは思いつき的仮説に過ぎませんが、詳しくは拙文「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」(http://www2.odn.ne.jp/~bunka /nihonnoroudouseisansei.html 文化書房ホームページ→店主の雑文→同拙文)を参照してください。
経済における個人と全体、名目と実質
日本共産党の志位和夫委員長は2月12日に衆院予算委員会において、消費税増税をめぐる経済情勢にテーマを絞って、細かい諸論点まで論理を詰め切り、安倍政権が消費増税できるとする情勢上の根拠を完全撃破しました。「しんぶん赤旗」2月14日付にその論戦の全容が収録されています。これを読むと、政府の政策に対する批判の徹底ぶりは野党としての追及姿勢の神髄を示しており、国会史上に残る記念碑的な質疑だったように思います。以下では多くの論点の中から、支配層の代表者としての安倍首相の経済観の問題、及び経済統計における名目値と実質値との関係について考えてみたいと思います。
安倍首相は実質賃金の下落や家計消費の落ち込みを否定できないので、名目賃金の上昇、雇用の増加・有効求人倍率の上昇、GDPベースの個人消費や総雇用者所得の増加、そして「デフレ」脱却を言い立てて経済情勢が改善したと主張します。実質賃金と名目賃金の問題は後述するとして、他の問題は個人(生活と労働)と全体(国民経済)の見方に関係しています。実質賃金とか家計消費というのは個人や世帯の指標であり、この悪化は否定できないのですが、だからと言って首相はアベノミクスが失敗したとは口が裂けても言えません。そこでまず、世帯ベースでは下がっているが、GDPベースの個人消費は増加傾向にある、と主張しようとしましたが、志位氏が内閣府のデータを示して、それも水面下にあることを明らかにし、首相も認めざるを得なくなりました。それがだめならというのか次に、雇用が増えているとか有効求人倍率が上がっている、というように自己に有利そうなデータを持ち出してきます。
ところがこれも傷を深めるだけでした。384万人の雇用増と言っても、そのうち340万人は高齢者(266万人)と学生・高校生(74万人)です。年金が足りずに働かざるを得ない高齢者と、勉強時間を削って働いている学生・高校生が圧倒的部分を占めているのです。志位氏のこの指摘に対して、首相は「収入を増やしたいから働こうと思ったって、普通なかなかですね、65歳を超えてすぐに仕事というのはなかなかなかったんだけれども、これは今まさに仕事があるという状況を私たちがつくりだすことができたということではないでしょうか」と言い放っています。その心は「大変でも働けるだけ感謝しろ。そういう良い状況を政府がつくってやったぞ」とでもいうところでしょう。志位氏は「政治がやるべきことは、低すぎる年金の底上げをはかることであり、高すぎる学費を抜本的に引き下げることではないですか。消費税を10%に増税することは、生活に苦しむ高齢者、学生、女性、多くの人々に追い打ちをかけることであり、絶対やってはならないことではないですか」と諭しています。首相は自分にとって都合がよさそうな経済指標の表面をなでて、政府の景気対策がうまくいっていると自慢するだけで、人々の生活にとってそのデータが意味するところ、その内実を考えてみることはありません。今、統計偽装が問題となっていますが、正しい統計であっても、どこを見るか活用するかによってその意義は大いに違ってきます。経済統計を見るときに、人々の生活と労働にとってどういう意味があるかという問題意識から出発すれば、志位氏のように生活や労働の困難を多くの統計の中から探し出し見出すことができます。しかし首相のように政策の自慢話のネタとしてしか利用しない姿勢では、経済運営をよくして民生安定のために活用することは不可能です。
この論戦の中には出てきませんが、有効求人倍率が上がり、一部の業種では人手不足が深刻になっていることに対しても、政府の景気対策の成果として首相らは誇っているようですが、働く人々の立場から見ればまったく本質を外しています。有効求人倍率が上がり、人手不足になっているのは、求人数が急増しているのに対して、求職者数が微減しているという状況(前掲座談会、27ページ)だからです。労働条件の悪さが求職者の掘り起こしを妨げています。座談会にもあるように、長時間・過酷労働ではなく「仕事に見合った水準の賃金が8時間ふつうに働けば確保できる――そうすれば、人手不足も解消に向かうはずです」(座談会、31ページ)。
座談会では保育労働を例に考えていますが、「朝日」2018年12月4日付記事は男性青壮年労働者について、就業率の低下を指摘し、そこに企業の責任を見て、安易に「人手不足」を言うことに以下のように警鐘を鳴らしています。
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例えば、総務省の労働力調査から10月の25〜54歳の男性の就業者数を計算すると、2270万人になる。この年齢の人口数で計算した就業率は93・41%だ。20年前の97年10月の就業率は94・94%で、1・53ポイント落ちている。
ここから推測できるのは、職に就けていない25〜54歳の男性が相当いるということだ。仮に就業率が20年前並みに改善したとすると、約40万人が職に就くことになる。
高原正之・大正大客員教授は、賃上げや労働環境の改善など企業側の採用努力が欠けている可能性を指摘。「97年の金融危機以来、一部の経営者は低賃金で労働者が雇えるのが当たり前という異常な感覚に陥った。政府はそういう『低賃金依存症』の経営者と距離を置くべきだ」と話す。
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要するに首相は「上から視角」に立って、人々の生活と労働が見えず、国民経済についての表面的な経済指標の改善だけ見て、景気回復や「所得環境の着実な改善」を自慢しています。これについて「しんぶん赤旗」2月19日付の「経済アングル・増税と『個人の尊厳』」は、次のように指摘しています。
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労働者1人当たりの賃金や1世帯当たりの家計消費が減ったとしても、国全体の賃金総額や消費支出は増えているのだから、景気は順調であり、消費税増税は可能だ、という議論です。平たく言えば、「国全体の経済はうまくいっているのだから、個人の賃金や消費の目減りは我慢しろ」ということになるのでしょう。
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同記事は、現行憲法13条の幸福追求権・個人の尊重を引き、対して、自民党改憲案が13条の「個人」を「人」に置き換え、「公益及び公の秩序」の名で人権を抑圧できる仕組みに改変していることを想起しています。そこに「一人ひとりの生身の人間の生活を顧みない安倍首相の冷酷な姿勢の根源を見る思いです」と結んでいます。国会での経済論戦のベースには、憲法観や人権感覚の対抗があり、私流にいえば「上から視角」と「下から視角」の対決があります。
次に首相の「デフレ脱却」自慢と名目賃金と実質賃金の関係について考えます。まず大前提として、バブル崩壊後の一時期、物価が下落しましたが、これを捉えてデフレと呼ぶのは間違いだということを指摘しておきます。一部のマルクス経済学者を除いて、多くのマルクス経済学者や共産党も含めてデフレと言っていますが、理論的には誤りです。私自身は物価下落と言い、行論上その用語を使用せざるを得ないときは「デフレ」と表記しています。これを単なる定義の違いであって、デフレは単なる貨幣的現象ではない、として使っている用語だからかまわないという向きもあるでしょう。しかし「本来の定義である貨幣的現象としてのデフレ」と、「政府統計上の定義である継続的な物価下落を原因を問わずにデフレと呼んでいる」のとが、実際のところ混同され、あるいはダブルミーニングを意識的に利用してご都合主義的に使われている状況ですから、科学的認識としては峻別すべきです。状況により程度の差はあっても日銀はずっと金融緩和基調であり、急激な金融引き締めなどは行なっていないのだから、本来のデフレは起こりようがありません。賃金の下落を始めとする実体経済の問題を隠蔽して、金融政策の問題にすり替えるリフレ派などの「デフレ」用語悪用の根を断つ必要があります。
首相の「デフレ脱却」自慢は要するに、物価がかつては下落していたが、今は多少なりとも上がっているからアベノミクスの異次元金融緩和が成功して景気が良くなった証拠だ、ということでしょう。しかしもともと日本経済の問題は賃金下落を始めとする実体経済の沈滞であり、その結果の一つが物価下落でした。「2%物価上昇目標」などというまったく的外れな政策のおかげで、人々にとっては、物価の多少の上昇にも追いつかない名目賃金の上げ幅なので実質賃金が下がり、おまけに社会保障削減で追い打ちを掛けられている状況です。「2%」が達成できないのがどうだ、という問題ではなく、そもそも目標設定そのものが問題外なのです。戦後最長の好景気期間となり、何と名付けようか、などと馬鹿なことを言っている場合ではなく、景気回復は実感できない、という人々の声の方が圧倒的に正しい経済診断です。異次元金融緩和で「デフレ脱却」などというのは人々の生活と労働の視点からすればまったく無意味で何の自慢にもなりません。自己満足的金融政策の裏で、賃金下落の原因である非正規雇用の増加は放置して、その上、安価な外国人労働力の導入を増やすなど実体経済の劣化に拍車がかけられています。
名目賃金と実質賃金との関係については、先述の国会質疑の中で志位氏が「私は、名目だけで見てはいけない。実質を見なくちゃいけないと何度も言っている。国民の暮らしに心を寄せるなら、名目でなくて実質で見るのは当たり前じゃないですか。それを調べてもいない。それはもうどうでもいい。これは国民の暮らしに関心を持っていないと言わざるを得ません」と政府を批判しているところに尽きます。賃金の購買力は実質賃金によって決まるのだから当然です。この質疑の中での首相の名目賃金擁護論は以下のようなものです。
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一般の方々が仕事をして給料をもらいます。明細に書いてあるのが、これはまさに名目賃金であります。ここから、これをいわば、物価で割り戻したのがですね、実質になっていくということであります。
そこでですね、これ、実質、高いのはなぜか。デフレだからなんです。高いのを自慢しているのは、デフレ自慢をしているようなものでありましてね、当時は名目GDPのほうが実質GDPより低いという、名実逆転という異常な経済状況なんですよ。これはまさにデフレスパイラルに入っていくということでしょうね。
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これは「デフレ脱却」自慢と表裏一体の議論で、志位氏の実質賃金重視論から見れば間違いは一目瞭然であり、余計な尾ひれをつけてもっともらしく見せているだけです。どのような状況であろうとも賃金の購買力を測るのは実質賃金であり名目賃金ではありませんから。ただしこの「デフレ」状況論には検討してみるべき点があります。余計な尾ひれでもっともらしく見えるのにもわけがありそうです。
ところで、物価が下がっていた当時には「より実感に合う名目値」という言い方がよくされました。物価が多少なりとも上がっている今は実質値の方が実感に合うとされます。この一貫性の欠如は単なる思い違いでしょうか。物価下落時には、名目値<実質値、物価上昇時には、名目値>実質値 となるので、どちらも低い方を選んでいる、という意味では一貫性があります。そこには「自分の賃金は低いから高くしてほしい」という願望が現れているのでしょうか。そういう意味で一貫性があると言ってもいいのでしょうか。あるいは、物価下落時に「お前の実際の賃金(名目賃金)は低いけど、物価(指数)で割った実質賃金は本当は高いぞ」と言われてもむなしいからそんなことは信じられないからでしょうか。いずれにせよこの「実感」には論理一貫性がないように見えます。感覚だからそんなものでしょうか?
私はこの実感には根拠があると思います。不換制による管理通貨制度は恐慌をインフレで買い取るものであり、不換通貨の減価、つまり物価上昇が常態です。今日のように目立ったインフレがない状況でも、それが基調にあります。通貨不足による通貨の増価がデフレを起こすという状況はまずありません。今日「デフレ」と言われているのは、低賃金などによる個人消費の不振から発する物価下落です。つまり今日の物価上昇の主要な原因は通貨の減価であり、名目的変動です。それに対して物価下落の主要な原因は実体経済の不振から発する需要不足による商品価格の下落であり、実質的変動です。
ここで、名目値を物価指数で除して実質値にすることを実質値化と呼びましょう(普通はデフレートすると言うのでしょうが、上がる場合も下がる場合もあるので中立的に実質値化と呼びたい)。すると物価上昇期の実質値化は名目的変動をなくすことであり、物価下落期の実質値化は実質的変動をなくすことになります。名目的変動をなくすことは経済の実体に迫ることになりますが、逆に実質的変動をなくすことは実体から目をそらすことになります。前者では、通貨が過剰で価格が水ぶくれ状態のとき、水抜きをして本来の姿を見ようというのです。後者では、需要不足で価格が下がっているときに、きちんと需要があったらどんな価格になるかを見るということになります。それは現実の停滞振りを糊塗する結果になります。好意的に言えば、本来あるべき価格水準を示すといってもいいかもしれません。しかし現実は名目値が示す停滞状況にある。
そういう意味では、首相が、「デフレ」期に低い名目賃金を物価指数で割り戻して高い実質賃金を出すことに異議を唱え、「デフレ自慢」だと揶揄したことには一定の意味があります。ただしその時点での通貨の購買力を見るのが実質値であることはどのような経済状況であっても変わりません。生活を支える視点からすればそうなります。しかし景況判断の視点からは、物価下落を伴う不況期に、低い名目値よりも高い実質値を採用するのでは、低迷する現実から目をそらして現実を美化することになります。不況期には、生活者の視点でも、現状をありのままに見るには実質値でいい(賃金は低いけど何とか安い物は買える)ですが、生活の現状を改善する志向を持つためには、低迷状況をきちんと表現する名目値で判断することが必要になります。
ということで、物価下落期には名目値が、物価上昇期には実質値が実感に合う、という首尾一貫しない事情には、それぞれなりの理由があるといえます。そのポイントは物価上昇期と物価下落期とでは実質値化の意味が違うということです。この点、普通に名目値をデフレートして実質値にするという場合に、物価上昇期でも下落期でも実質値がただ対称的に上がるか下がるかするだけで意味内容に差はない、と思い込んでいるからこの謎は解けないのです。物価が上がるのと下がるのとは、同じ要因の反対方向への変化、そういう意味で対称的変化なのではなく、違う要因の変化、非対称的変化なのです。名目値と実質値との関係については、実質値化の要である物価指数の性格を理解することが肝心です。その説明を始めとして、詳しくは拙文「名目値と実質値」(http://www2.odn.ne.jp/~bunka /meimokuchi/htm 文化書房ホームページ→店主の雑文→拙文 )を参照してください。
2019年2月28日
2019年4月号
自然災害と原発災害への視点
近年、日本では台風・豪雨・地震などによる大きな災害が続発しています。地球温暖化による異常気象が原因ではないかとか、日本列島が地震の活動期に入ったなどとも言われます。かつての高度経済成長期は自然環境的にはむしろ幸運だったのであり、これからは相応の備えや心構えが必要だ、という言説も聞かれます。自然災害の多発に対しては、当然のことながら、まず自然の脅威が強調され、直接的にそれへの諸個人の備えが説かれることが多くなります。新自由主義下の自己責任論の横行はそういった論調を増長しています。しかし社会科学の立場からは、自然現象が人間に災害をもたらすとき、必ず社会のあり方を介して発現することに留意されます。特集「大規模化する自然災害 防災の国づくり」ではそうした指摘が見られます。二見伸吾氏は水害に対して避難ばかりが強調される風潮に対して、「避難も確かに重要ですが、その前に避難しなくてもよい状況をつくることができなかったのか、その検証が必要です」(「広島・府中市からの豪雨災害・防災レポート」、113ページ)と述べています。さらに河川工学の専門家の「水害は異常な自然現象が誘因となって発生する社会現象」であるという言葉を引いて、「土地利用や開発状況、そして治山や河川改修が適切に行われているかといった人々の行為が深くかかわっているのです」と指摘しています(同前)。
中村八郎氏も次のように述べています(「深刻化する土砂災害の対策をどうするか 『土砂災害防止法』の問題点」)。
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このような自然現象が引き金(誘因)となって発生する災害に対し、近年「予見できない(異常な)自然現象であり、災害の発生はやむを得ない」として、生活条件の多様な住民に画一的な緊急避難を強いる論調が政府をはじめ一部の研究者やメディアの間で強まっています。こうした論調は、災害による被害への対策を、住民避難の面のみ(死傷者)に限定して、災害への備えのまずさや安全への配慮不足といった諸々の被害要因を覆い隠す点で、大きな問題をはらんでいます。 120ページ
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覆い隠された被害要因として根本的にはこう指摘されます。「今日の土砂災害危険の背景には、都市と人間社会の活動が自然環境系まで拡大して自然を過度に改変したこと、また山林等の保全管理を怠ってきた積年の都市政策や森林政策、そして国土管理政策の失敗による構造的な問題があるといえます」(123ページ)。結論的には、土砂崩落の危険性を軽減するために、後背山林等を安定化させるなどの真の発生源対策が重要であり、その観点から見れば、昨今の防災対策の歪みと自己責任論の横行は以下のように批判されます。
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おわりに、近年、行政防災は土砂災害に限らず、住民避難重視の傾向にありますが、住民の生活基盤を捨象して生命のみを守ろうとする避難対策の行き着く先は自己責任です。たとえ助かっても長期に及ぶ仮設住宅生活を強いられ、苦難の生活回復が避けられないことは、多くの被災者が避難生活中に災害関連死している事実が物語っています。このような歪んだ対策は決して望まれる防災ではなく、災害から生活総体として国民を守るための真の防災対策への転換が今日不可避になっています。 132ページ
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このように自然災害と人間(社会と政策のあり方を含む)との関係を捉えた上で、災害復興における諸個人と社会(コミュニティ、政策と行政のあり方を含む)との関係を考えることが必要です。津久井進氏と鈴木浩氏の対談「日本の防災体制、復興庁廃止後の課題」はそれについて、理念問題から行政の実態まで縦横に語り合っていると私は思います。対談では自然災害よりも福島の原発被害からの復興のあり方が主に考察されていますが、そこでの議論は自然災害からの復興にも共通する部分が少なくないようです。
対談がまず注目しているのが「福島県復興ビジョン」(2011年8月)が基本理念の第一に「原子力に依存しない、安全・安心で持続的に発展可能な社会づくり」を掲げていることです(101ページ)。周知のように、安倍政権の原発重視政策がネックになって、全国的にはこの理念は実現するどころか逆行している状況です。それを受けてか、津久井氏は「法律も制定から何年後かに見直しをしますけれど、震災ではそれがなぜ行われないのか。原発の輸出もストップし、原発政策の誤りが明らかで、一般市民も危うさを感じているのに、それが反映されない。日本の民主主義システムの目詰まり感が半端ないですね」(同前)と嘆いています。それを受けて鈴木氏が、理念・個人・行政のあり方などについて対談の基調となる包括的発言を行なっています。
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日本の教育が、個人の社会的価値観(基本的人権、民主主義、地方自治、生活の質など)や倫理観を育むものになっていないのが大きな問題ではないでしょうか。ドイツでは、福島原発災害直後、「安全なエネルギーの供給に関する倫理委員会」ができて、原発廃炉の方針を提案し、政府はこの方針を決定しました。原発問題を「倫理」問題として提起したのです。
私はあらためて、福島復興ビジョンの「原子力に依存しない社会」という理念に立ち戻らない限り、深刻な原発災害を克服しようという政策は生まれてこないと思います。
復興に向けて、地域の合意形成が言われ続けていますが、それは結局、役所の出した結論に支持を高めることしか意味しません。地域に様々な意見が、同時に存在することを認めないのです。長期的・広域的な原発災害からの復興過程では、避難し続けている被災者は、「帰還すべきか」、「避難先での生活を続けるか」、「どうしていいかわからない」などさまざまな思いの中で悩んでいます。帰還したからといって生活再建の見通しが立っているわけではありません。それに見合って、被災者の状況に合わせて選択可能な複線型の復興シナリオを描くべきですが、現状ではそれを合意形成と言わないようです。
101・102ページ
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何と言っても個人の尊厳が第一に来る、つまり個人の生活再建への見通しが優先されるような「被災者の状況に合わせて選択可能な複線型の復興シナリオ」が「地域の合意形成」として追求されるべきですが、実際にはそれは「役所の出した結論に支持を高めること」に帰着しています。この現実の根源に「日本の教育」があるというのです。たとえば宮城県雄勝町では、町役場で作った高台移転計画に地域協議会で9割の賛成がありながら、実際には多くの住民が町を離れました。その裏には「賛成したのに離別した人々の本音は、反対だけど他に迷惑がかかると思い反対しなかった」(103ページ)という事情があります。このようなことは日本社会ではそこここに見られます。個人の利益や意見を率直に言うことがはばかられる状況の中で、我慢するか、あとでこっそりと本音に基づく行動に出るというものです。
ただし注意すべきは、同等な人々の間で気を遣い合って個人を抑える、というよくある状況が、行政や企業などの政治・経済上の権力に対して個人を抑える、という行動に転用されてしまう、そういう構造転換がしばしばあることです。両者は本来的には非連続で区別すべきですが、往々にして連続的に理解され、人々のつつましやかな共同意識が権力支配や惨事便乗型開発に利用されることになります。日本人は、大災害においても共同性を保つような理性的行動を失わず、しばしば世界から称賛されてきたのですが、残念ながらその美質が、個人生活を犠牲にした開発利益優先策に帰結する要因として悪く転用されてきました。
このような日本的状況は、ドイツが福島原発災害を契機に原発問題を「倫理」問題として捉え、原発廃炉の方針を政府が決定したのとは対照的です。それを克服するため、根本的には「個人の社会的価値観(基本的人権、民主主義、地方自治、生活の質など)や倫理観」の確立が必要だというのが、鈴木氏の言説からは導かれるように思います。それらの核心にあるのが、個人の尊重でしょう。したがって先述のように、復興過程に即してそれを展開するなら、たとえば「被災者の状況に合わせて選択可能な複線型の復興シナリオ」を描く、という形になります。もっと言えば、原発被災者のような深刻な状況では、元の居住地に戻るか戻らないか二者択一を選ぶのが極めて難しい。そこで津久井氏は「被災者には葛藤する権利がある」(104ページ)と大胆に提起しています。「自己決定ばかり、強調されますが、自ら決定することと同時に、決定しない権利も尊重されなくてはならない。葛藤すること自体に意味があ」り、「その葛藤のために、必要な情報、選択肢は与えられるべきですが、その判断をするまでに時間をかけることも、同時に保障されなくてはいけません」(同前)。
さらには被災者の「生活の質」を確保するため、日弁連では「災害ケースマネジメント」という提案をしています(110ページ)。家族内でも考えは様々なのに世帯単位の賠償になっているのは不都合であり、「被災状況を個々に聞き取り、一人ひとりに応じた支援計画を立てて、継続的に支援するという手法」(111ページ)を国に提言したというのです。それはいかにも無理に見えるけれども、介護保険では個々のニーズに合ったケアプランを立てているのだから、大震災に際して被災者個別に救済計画を書くことは可能だというのです(同前)。
以上のような提起は、先述のような日本社会の現状からすれば相当に次元が違う高度な要求であり、悪く言えば内在的でなく現実性が弱いとも評せます。しかし現実の推移にただ身をゆだねて現状に埋没するのではなく、想像(創造)力を働かせて、悪化する社会現実を打破する必要があるときには、目の覚めるような提起が求められます。
歴史を振り返れば、日本国憲法が制定されたとき、人々が戦争はもうこりごりだと心から思い、実際に武装解除されていたという意味では9条はリアリティを持っていました。しかし人権規定は当時の社会的現実をはるかに超える進歩的な内容であり、外在的なものだったけれども、人々は9条の平和主義も基本的人権の諸条項も歓迎し受け入れました。焼け跡の厳しい現実において、きっと理想主義は輝いて見えたのでしょう。悲惨な戦争をもたらした古い現実はリセットすべきと考えられたのでしょう。まさに「惨事便乗型の社会進歩」がもたらされたと言えます。自然災害だろうと金融恐慌だろうと、何かにつけ惨事便乗型の新自由主義改革が問題となる昨今ですが、ピンチをチャンスにする逆・惨事便乗型改革もあり得るということです。
しかしそうした制定にまつわる現実的脆弱性を衝いて、「憲法を現実に合わせる」べく、保守政権は一貫して改憲策動を追求してきました(情勢による強弱があるとはいえ)。それに対して社会進歩の勢力が頑強に護憲に努め、様々な解釈改憲や社会保障の悪化(それもまた憲法の要請からの後退)などを許しつつも、憲法条文には一言も手を付けさせないできました。その上で、憲法を現実に活かそうという運動を続けてきました。タテマエに過ぎない、現実に合わないと攻撃されつつも、理想主義や進歩的人権規定は少なくとも現実の悪化への歯止めとして機能し、未来への希望をつないできました。ならば、今また多くの自然災害や原発災害の復興に際して、それに依拠し、上記のような思い切った提起をすることには意義があると思います。
閑話休題。以上のように理念として個人の尊厳を確立することが第一ですが、個人の生活再生は一人でできるわけではなく、それを実現する場としてのコミュニティ(個人を抑圧するコミュニティではなく)の再生が次に問題となります。復興において、生活の質(QOL)を問い「コミュニティの補償」(110ページ)までも視野に入れて、「地域社会の再構築の原点」(109ページ)を踏まえることで始めて、ハコモノ主義とか事業・予算消化主義としての「復興」路線を克服することができます。
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復興計画策定の現場で痛感したのですが、事業ありきになってしまった問題がありました。被災者、住民が何を根拠にして、自分たちの生活や地域社会を再建できるか、その拠り所となる基準がなかなか見いだせないのです。それは災害復興の時だけではなくて、普段、自分たちの地域社会におけるコミュニティ、教育、福祉、雇用とか、あらゆる面で、これだけの質を確保したいという基準がないからです。
…中略…
浪江町や富岡町など原発被災地からの避難者の話を聞くと、いかに地域コミュニティのつながりが深かったかが理解できます。毎年の山菜取りや、年中行事など、高齢になればなるほど、その重要性が実感されるのです。
福島の原発災害の損害賠償訴訟をみていて、精神的賠償、財物賠償があって、個人の問題にすべて解消されてしまった。本来コミュニティの質も問われるべきです。でも、賠償過程で、生活の質の一部分だけを取り出してきたといえるでしょう。コミュニティや、それをとりまく環境の質、これをそれぞれ、丁寧にとらえないといけないと思います。
108・109ページ
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このように地域社会の再構築には、コミュニティの質を問いながら、その経済的裏付けとして「コミュニティの補償」が必要であることを鈴木氏は提起しています。それに対して津久井氏は「財物被害は、失われた家の経済的価値で鑑定されるのですが、コミュニティの価値、利益を図る基準は、まだ法的には熟していません」(110ページ)と現状を報告しつつ、「コミュニティの価値を自治体なり、個々の住民の権利ではなくて、地区が直接、東電に賠償請求できるようにすべきだと思います」(同前)と本来のあるべき姿を答えています。さらにその根拠と方向性として、「被害の実態は、個人の私益ではなく、その地域、共同体が被った被害ですから、地域そのものに賠償すべきです。函館で、大間原発の差し止めの裁判をしていますが、失われた価値は、共同体の持続可能性が失われたことへの対価です。現在は、個人への賠償スキームしかないので、やむなく裁判で争っていますが、本来は、自治体が自ら、東電に請求することを検討すべきではないでしょうか」(同前)と述べています。
また対談では行政固有の問題も取り上げられています。復興庁が各省庁の職員を寄せ集めて成立し、彼らが本庁(所属官庁)との関係を残したままだったこともあり、各省庁が予算を取り合い、復興予算が流用されたことに対して、「惨事便乗型、省庁主義の政治的暴力」(106ページ)と、厳しく告発しています。したがって、2021年3月に廃止される予定の復興庁に代わって、専門性・継続性・独立性・国際性をもった防災庁の設立を提起しています(107・108ページ)。
以上のように、政権と資本が主導する上からの経済開発中心の「惨事便乗型復興」(ハコモノ主義あるいは事業・予算消化主義を特徴とする)に対抗して、「一人ひとりの生活、生きがい、コミュニティの復興を支援するものに変革」(津久井氏、112ページ)するために「生活・地域コミュニティを大事にして、住民参加、民主主義を土台にした再構築が求められると思います」(鈴木氏、同)。さらに私なりに言えば、東日本大震災と福島原発災害そしてその他の自然災害は、次のことを課題として提起しています。自然と人間(社会)、あるいは個人・コミュニティ・行政・政権の関係を問いながら、現実に進行している惨事便乗型復興の新自由主義イデオロギーに対抗して、個人の尊厳から出発する理念を打ち立て、下からの復興路線を具体化し実践していくこと。その際に、資本主義批判の視点が重要だと思います。
「しんぶん赤旗」3月27日付によれば、地震学者の島崎邦彦氏は政府の地震調査研究推進本部(地震本部)で長期評価部会長を務め、2002年に「長期評価」をまとめました。それは、三陸沖北部から房総沖にかけての範囲でM8クラスの地震津波が30年で20%程度の確率で発生すると予測していました。しかし、政府と東電は長期評価の結論を骨抜きにしたり、発表の時期を遅らせたり、津波対策を葬ったりしました。それは要するに福島原発に多大の防災費用がかかるのを避ける対策引き伸ばし作戦です。真面目な自然科学者としての島崎氏は「でも当時、私は相手の正体を知らなかったから、なぜごちゃごちゃいってくるのかわからなかった」と述懐します。そして2012年から2年間、原子力規制委員会の委員長代理を務めた経験から、こう言います。
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表面ではきれいごとを言っていますが、原発を推進している人は安全意識が低い。全部とはいいませんが、原発が危険だという意識がない。 …中略… 結局、工事になるべくお金をかけずに審査を通したい。最終的に会社の経費を減らしたいのが彼らの使命であって、安全性なんてどこにもない。
…中略… 東電は地震学の専門家が集まる国の機関で決めたことを尊重すべきです。自分たちが資金を提供している学会を使って時間延ばしやごまかしをしようとしただけです。
…中略…
(3.11の教訓は)自然はごまかさないということ。何の駆け引きもしないし、1厘たりともまけてくれない。そういう自然があると学ばなくてはいけません。
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これは誠実な自然科学者が苦い社会科学的認識に至った?末であり、なお自然科学者としての矜持をもって世に警告しているのです。原発推進勢力にとって「安全性なんてどこにもない」のは資本主義の利潤原理の結果であり、まさに資本への民主的規制が求められています。復興においては、個人の尊厳を出発点とする人権や民主主義に基づく理念に沿った生活再建と地域再構築の具体的プロセスを設計・実践しなければなりません。そこで人権や民主主義の対抗物としての資本の論理をいかに規制していくかが大問題であり、それを欠くと、人権や民主主義の理念が机上の空論に留まり、偽善に転化してしまいます。
こうした関係は、今世界中で問題になっているヘイトや差別・分断のイデオロギーの跋扈と共通する構造です。人権・民主主義への攻撃に対して、ただイデオロギー的に反撃するだけでなく、妄論が生まれる現実的基盤の解消が必要です。妄論が跋扈するところまで至らなくても、諦めやシニシズムが蔓延する状況を許してしまうと、社会的停滞と閉塞感の中で危険な火種がくすぶり続けることになります。現状では、たとえば原発推進勢力が強大なままであるように、資本への規制どころか、新自由主義の惨事便乗型改革が主流です。当面それを阻止することが、現代における人権と民主主義を救い、実質化する道の重要な構成部分となっています。
見かけ上の対称性の罠
今年は統一地方選挙と参議院選挙があり、消費税の増税の是非が選挙の焦点に上がってきました。これまでメディアでは、10月に消費税率を上げるのが既定路線として報道され、依然としてその基調は変わりませんが、反対世論が大きくなり、消費増税が選挙の争点になっていることは報道せざる得ない状況になりつつあるようです。
そんな中で、「しんぶん赤旗」3月19日付の「経済アングル」に面白い指摘があります。政府による消費税率引き上げ「対策」の多くが富裕層に有利な政策であり、かえって不公平を広げてしまいます。そこで同記事の指摘の第一は、それは「政府の発想に問題がある」というのです。政府は消費増税による経済への影響をもっぱら「駆け込み需要と反動減」によるものとしているのだそうです。つまりそれは、消費増税が家計から購買力を奪う、あるいは逆進性により増税は低所得層への打撃が大きく不公平が拡大する、というより本質的な点を見ていないということでしょう。
そう言われれば、最近そしてこれから食料品の値上げが相次ぐという異常事態の理由が納得できます。これは、「消費税増税に伴う商品価格設定のガイドライン(指針、昨年11月28日公表)」によって政府が一斉値上げを誘導した「成果」です。そもそも食料品の軽減税率などと、ただ税率据え置きに過ぎないものをエラそうにそう呼んだのだから、増税になっても食料品は値上げされない、という「政策効果」があるべきなのです。なのに増税の前に食料品を値上げ「させて」いたら、「軽減税率」なるものはまったく無意味です。それは頭に来るけど、ここでの問題は別にあります。なぜ増税前に値上げを誘導するのか。共産党の山下芳生参議院議員の質問に対して「安倍首相は、欧米では駆け込み需要と消費の落ち込みを防ぐため、企業が自主的に増税前に引き上げた価格を増税後も維持していると述べ『わが国もそういう対応をとっている』と言明しました」(「しんぶん赤旗」3月21日付)。なるほど、政府は「駆け込み需要と反動減」を平準化さえすればいいんだ。増税とは別であっても、食料品を値上げすれば「家計の購買力を奪って、不公平を拡大する」という消費増税のより本質的な欠陥と同じ効果を生むのに、それでもいいんだ。ここには、諸個人の消費生活への影響はどうでもよくて、経済全体の波風が多少なりとも収まれば結構という、(この間の国会答弁に顕著に表れている)安倍首相を始めとする政府・財界、要するに支配層の経済観がよ〜くうかがえます。
ここでさらに、「しんぶん赤旗」3月19日付「経済アングル」の第二の指摘(こっちの方こそ本当に面白い)を紹介しましょう。
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「駆け込み・反動減」というと、同じ人が増税前に買い急ぎをして、増税後は買い控えるというイメージです。実際には、「増税前に買い急ぐ人」と「増税後に買い控える人」は、別人です。
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簡単に言えば、前者は高所得層で、後者は低所得層です。金持ちは買い急ぐだけの金を持っているからそうするわけですが、増税後は多少は買うのを控えるだろうけどすぐに元に戻るでしょう。しかし貧乏人はそもそも買い急ぐための金を持っていないし、増税されたらさらなる節約をず〜っと続けざるを得ません。2014年の5%から8%への増税の影響が今でも続いるのは当然です。実質所得は下がっているのだから。結局、個人消費のあり方をきちんと見つめず、経済全体を、それも自分たち高所得層の感覚で何となく見ているだけだから、政府の「経済対策」なるものは的外れで、結局、経済全体も停滞から脱出できないのです。「ぼおーと生きてんじゃないよ」。確かに「同じ人が増税前に買い急ぎをして、増税後は買い控えるというイメージ」なら、価格を平準化さえすれば、駆け込み需要と反動減は均すことができるように見えます。ところが「同じ人」ではなかった。言われてみれば、「コロンブスの卵」です。
こういう迂闊な認識はどこにでもありそうです。私が書き散らしているものの多くもそうじゃないかと恐れます。実際には違うものがそれぞれに動いているところを、同じものが反対方向に動いただけだと錯覚する。何だかそこには均整感が生じます。見かけ上の対称性が浮かんでくるのです。それは型の美しさに囚われて内実を見損なっているのです。あるいは、強烈なリズムの反復の中にメロディの違いが埋没する、とでも言いましょうか。
ここで私が思い浮かべるのは、先月「経済における個人と全体、名目と実質」と題して書いた中の「名目と実質」に関連する「インフレ」と「デフレ」という用語の問題です。バブル崩壊後の日本経済における物価下落をデフレと呼んではならない、というのが拙論です。その際に、デフレの二つの定義の混同ないしは意図的な誤用を批判しました。ここでは、見かけ上の対称性がもたらす罠として批判したいと思います。高度経済成長期などのインフレと、バブル崩壊後の物価下落は大まかに言えば、前者が主に名目的変動で、後者が主に実質的変動であり、内実が非常に異なります。だから両者を単に物価が上がるか下がるかという表面的次元から対称性において捉えて、前者をインフレ、後者をデフレと呼ぶのは間違いです。この対称性の錯覚から、バブル崩壊後の物価下落をデフレとして名目的変動として捉えて、異次元の金融緩和によって打開できる、という政策的大間違いが起こりました。何ごとも、型の均整ぶりに囚われて、中身の違いを見落とすことがないように気を付けることが必要です。
今月は「災害復興」と「消費増税」の二つのテーマだけについて、乏しい内容を書きました。本当は他にもいくつか書くべきあるいは書きたいテーマはあるのですが、果たせなくて残念です。
2019年3月31日
2019年5月号
平和・民主主義・暮らしの全域にわたって、政権・支配層による攻撃が絶え間なく続き、それに対して人民の側が防衛闘争を繰り広げる、という状況があります。攻守の関係を逆転したいところですが、大勢としてはそうはいかず、しかしながらたとえばジェンダーをめぐる意識状況などに見るように、部分的にはわずかに前進している、という微妙な錯綜した関係があります。今日、主に支配層が攻撃しているということは、逆に言えば、高度経済成長期・ケインズ主義政策の時代には、それなりの階級的妥協があり、人々の所得の上昇と社会保障制度の整備が一定進んだ、という到達点を築いたからこそ、それをめがけて非妥協的な新自由主義政策による破壊活動が全面化している、とも言えます。以上が、1970・80年代くらいから今日までの状況だと感じられます。
安倍政権下の政治もまたその延長線上にありますが、従来の保守政権下よりはるかにむき出しの強権的な闘争として激烈になっています。それは現代資本主義の経済停滞の深さを反映し、その打開策としての新自由主義が過激化している状況です。また、それに伴う格差・貧困の拡大に代表される社会不安・閉塞感を糊塗すべく、アジア蔑視のナショナリズムなど、保守反動イデオロギーによる補完が強化されてもいます。
しかしながらそういう政治状況は前振りであって、ここで問題にしたいのは、≪この激烈な闘争を人民の側から闘う場合に、あくまで民主主義形式を踏まえて公正かつ普遍的に、俗に言えば(ジェンダーバイアスを伴う表現ではあるが)紳士的に実行することから、隔靴掻痒感、あるいは偽善感とかタテマエ感という違和感みたいなものが生じるが、それをどうにか理解し飼いならすために、闘争の全容をどう捉えるか≫ということです。
もう少し説明するとこういうことです。≪アベはウソツキ平気で、権力も私物化し、キタナイことこの上なく(*注)、しかもそれを合法的手続きに則っているかのごとくに強弁している(たとえば辺野古新基地建設における政権の振る舞いは、政治的・道義的・法的にも異常という他ないが、菅官房長官の常套句は「我が国は法治国家である」。…?! 無法放置国家だろう!)が、それに対して我々が民主主義的なキレイな言葉だけで対峙しているのはいかにも不公平で不利であるし、核心を外しているようにも思えて欲求不満が溜る≫といった憤懣が沸き起こっているように思います。この権力対決の非対称的な構造自体を変えることは難しいけれども、支配層と人民のそれぞれのよって立つ基盤と、両者が闘う舞台のあり方を全体的に見渡し理解すること、簡単に言えば、ホンネとタテマエの構造を捉えることで、「キレイな闘い」に邁進することの意義に迫ることができるのではないか、と考えています。
(*注)歴代政権をはるかに上回る安倍政権の不良ぶりは、日々情報を追いかけるだけで大変で整理もできずにウンザリした印象が残るばかりですが、その罪状を必要に応じていつでも引き出せるように用意しておくべきでしょう。石崎学氏の「議院内閣制から診た安倍内閣」(『前衛』5月号所収)は「安倍政権が、日本国憲法が採用した議院内閣制の趣旨を軽視ないし愚弄し、もって日本における国民主権原理に基づく統治の根幹部分を破壊しつつある」(50ページ)という視点から、その悪行の全体像を手際よくまとめており、簡潔な備忘録としても恰好な論文です。
私は政治学の知識がないので、経済の原理から直結して政治状況を読もうという単純な発想になってしまいますが、拙文「安倍暴走を資本主義社会の原理までさかのぼって捉える」(「『経済』2018年4月号の感想」/2018年3月31日/より)で、アベとの闘い(それだけでなく資本主義支配層一般との闘いにもある程度当てはまるが)における隔靴掻痒感の原因としての「ホンネとタテマエの構造」にそれなりに迫ってみました。
それによれば、資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開しており、前者から政治的民主主義と市民法が成立し、後者の搾取関係による資本蓄積の進展が政治における資本家階級の権力の経済的基盤となり、その支配に対する労働者階級の闘争の反映として社会法が成立します。したがって発達した資本主義社会は民主主義の政治と資本家階級の権力という二重構造を持ち、その本質は民主主義的階級支配社会という矛盾した規定を与えられます。
ただし資本主義経済は前近代の搾取社会とは違って、独自の「領有法則の転回」を介して搾取関係は市場経済の等価交換の外皮に包まれ同化されることで隠されます。よってその社会の公認のブルジョア・イデオロギーでは資本主義経済は単層の市場経済であり、搾取の存在は否定されます。その政治イデオロギー的反映として、資本主義社会は単なる民主主義社会であり、階級支配社会ではない、という政治社会像が成立します。これが資本主義社会における表面上のキレイなタテマエであり、本質から来る他面である階級支配の側面は、隠微なホンネとしてのみ意識されます。
たとえば、今日の新自由主義構造改革による社会保障削減攻撃は、まさにこの階級支配から生じていることは明らかです。しかし「民主主義社会」においては、それは「少子高齢化社会への対応」とか「財政赤字の削減」とか「持続可能な社会保障制度の確立」とかの全社会的利益に沿った必要な政策だとされます。人民の闘いは、そうした政府・支配層の言説が大企業や富裕層向け政策の弁護論に過ぎず、民主主義社会のタテマエに反していることを明らかにすることを重要な局面として含みます。そうして見ると、資本主義社会における階級闘争――経済闘争・政治闘争・イデオロギー闘争――は多くの場合、そのタテマエとホンネの矛盾から出発していると言えます。つまり、支配層は「資本主義社会は(階級支配ではなく)単なる民主主義社会である」というイデオロギーに則って、その統治手法として、階級支配としてのホンネを隠して民主主義的タテマエを前面に押し出してきます。もちろんそのホンネとタテマエは激しく矛盾しているので、必ずほころびが暴露されます。労働者階級を始めとする人民は、むしろブルジョア・イデオロギーを逆手にとり、その矛盾を指摘してホンネを白日にさらし、タテマエの実現を迫ることができます。資本主義社会は実際には少数者による階級支配社会であるにもかかわらず、あくまで「人民の人民による人民のための政治」を実行している社会であるというフィクションをまとっています。このフィクションを見かけ(タテマエ)どおりのホンモノに変えてしまえ、というのが人民の運動の要求であり目標です。だからホンネの暴露の場面では階級的に厳しく露骨にやる必要がありますが、民主主義の実質化の追求においては、上品に普遍的・公正にやる必要があります。
資本主義下の民主主義=ブルジョア民主主義の実体暴露と変革という二重の過程を進めるうえで、「民主主義の形式と内実」という見方が有効なように思います。民主主義における形式は、たとえば普通選挙権のように、構成員の公正・公平を保障する普遍性を持った制度であり、民主主義の実質は、デモクラシーの語源である「人民の支配、民衆の権力」の実現です。日本国憲法下の日本政治を例に考えてみると、憲法は国民主権を謳っていますが、一貫して日本政治の実質は対米従属の独占資本に握られており、内実としての国民主権は実現していません。しかしあまりに問題が多いとはいえ、曲がりなりにも普通選挙権や議会制民主主義は存在しており、形式的・制度的には国民主権が整い、実質的な民主主義を実現する可能性は残されています。そのように考えると、発達した資本主義社会は「民主主義的階級支配社会」である、という命題は、「民主主義形式を具えた階級支配社会」である、と言い換えることができます。民主主義形式の存在が民主主義実質の実現にとってテコとなり得る、ということが大切です。
以下では、形式民主主義と実質民主主義について考えてみます。ここでは、前者は単に「形式の整備された民主主義」という意味であり、それ以上でも以下でもなく、「形骸化された民主主義」という否定的意味では使いません。後者は、内実の確保された民主主義であり、「人民の権力」の実現した状態です。もっとも、そこには「民主主義(人民権力)の暴走の可能性」という問題があり、それ自身十分な検討を要するのですが、とりあえず立憲主義による制御を前提とするということで、それ以上の議論は措きます。
両者の関係は一般論的には、ドーナッツ型の二重円であり、内円に実質民主主義があり、外円に形式民主主義があります。学校の数学で習う初歩的な集合論や論理学を思い出すと、「政治体制Aは実質民主主義である」を命題pとし、「政治体制Aは形式民主主義である」を命題qとすれば、p→q(政治体制Aが実質民主主義ならば形式民主主義である)は成立しますが、逆は必ずしも真ならずで、q→p(政治体制Aが形式民主主義ならば実質民主主義である)は不成立です。<p→q>において pはqに対する十分条件であり、qは pに対する必要条件であると言われます。このあたり、p(内円)に「犬である」、q(外円)に「動物である」を置くとよく分かります。したがって、政治体制Aが実質民主主義であるならば、それはもう十分に形式民主主義であり、Aが形式民主主義であることは実質民主主義であるための必要な前提となります。
ところで、現実世界には実質民主主義をきちんと実現している国はありません。つまり先の二重円の内円は空洞であり、それはまさにドーナッツ型モデルと言えます。このドーナッツは、形式民主主義から実質民主主義を引いた部分になるので、発達した資本主義諸国の民主主義体制・ブルジョア民主主義だと言えます。
もちろんブルジョア民主主義は実質民主主義ではない、というのは単純化であり、現実には労働権の導入や社会保障制度の一定の整備など実質民主主義の要素を部分的に備えています。それは労働者階級の従来の闘争の成果として確立してきたものであり、今日では先述のようにそれをめぐって新自由主義からの攻撃があり、そこに階級闘争の焦点があります。この状況は人民の生活と労働を不安定にし、その真の原因をつかめず、変革への展望が持てないところでは、的外れにも様々なスケープゴートを見出して分断・バッシングが起こります。もともと脆弱な実質民主主義がさらに破壊され社会不安が増大している場面で、新自由主義政策への批判抜きで、人権や民主主義の諸制度を擁護する、つまり形式民主主義を主張すると、民主主義そのものへの不信や偽善視が爆発します。そうした状況では新自由主義批判をしてさえも、理解されず分断・バッシングにかき消される恐れがあります。そこに現れるのが、右派ポピュリズムの跋扈と体制内リベラルの不振であり、たとえばトランプ米大統領の登場やマクロン仏大統領の人気凋落であり、この状況に対応できるかどうかで左派の動向も左右されます。
逆にたとえば20世紀の旧社会主義体制では、ブルジョア民主主義批判というタテマエの下で、形式民主主義を具えずに実質民主主義が「追求」されました。しかしそれは一定の社会保障などはあっても前近代的抑圧型社会に転落しました。先述のように民主主義政治にとって形式民主主義は必要条件であり、それを欠くところに実質民主主義が存在するわけはありません。20世紀のロシアや中国などにおいて、革命の過程では参加型の実質民主主義が実現したわずかな時期がありましたが(たとえばアグネス・スメドレー『偉大なる道』に見られる中国革命期の解放区の状況)、やがて体制確立に向かう中で、自由権を始めとする基本的人権や議会制民主主義などの形式民主主義が破壊され、革命当初に目指された、人民が社会の主人公になる実質民主主義は喪失しました。
その体制確立後に、発達した資本主義諸国に対して行なわれたブルジョア民主主義批判は、確かにそこでの実質民主主義の不在については当てはまり、その偽善性を衝いてはいます。しかしその批判は何より、形式民主主義さえ具えず、したがってブルジョア民主主義以前に過ぎない自己の状態への批判を許さない中での「攻撃的防御」であり、最大限好意的に見て、帝国主義諸国との闘争という意味はあったにせよ、民主主義論としては正当性のない破れかぶれの議論に終わっていました。
単純化して図式的に言えば、発達した資本主義体制は形式民主主義を具えていますが、実質民主主義を欠いています。20世紀社会主義体制は資本主義体制批判として、実質民主主義志向ではありましたが実現せず、形式民主主義さえも捨てて、ブルジョア民主主義以前の状態で終焉しました。翻って安倍政権下の日本政治を見れば、資本主義体制下に部分的に存在する実質民主主義への攻撃が厳しいのはもちろんとして、資本主義体制が少なくともタテマエとして掲げる形式民主主義さえもハデに蹂躙しています。特定秘密保護法・共謀罪法・戦争法の制定などを筆頭に、メディアへの陰に陽にの弾圧、公文書の隠蔽と改ざん、統計偽装、国政・行政機構の私物化など悪行に枚挙がなく、さすがに体制側メディアの多くも批判しています。それさえ擁護するウルトラ体制側メディアがあることが日本の現状のすさまじさではありますが…。
以上みてきたのは――(1)新自由主義グローバリゼーション下での格差・貧困の拡大下で、脆弱な実質民主主義がさらに後退する中で、形式民主主義の重要性のみを説くことが逆に民主主義への不信を広げること、(2)20世紀社会主義体制は実質民主主義を志向はしたが結局果たせず、形式民主主義さえも満たせないブルジョア民主主義以前の体制として崩壊したこと、(3)安倍政権は実質民主主義の破壊を強めるだけでなく、形式民主主義さえも従来の保守政権とは異次元の激しさで攻撃していること――です。形式民主主義と実質民主主義とをともに発展させることが重要であり、資本主義体制下では、形式民主主義への攻撃には断固反撃し、それを足掛かりに階級支配の内実を少しでも侵食しつつ、実質民主主義の拡大に努めることが必要です。ところがそれどころではなく、憲法無視・立憲主義破壊の安倍政権が君臨する日本政治の現状では、形式民主主義の後退阻止が喫緊の課題であり、それには立場を超えた共感に基づく広範な共闘が可能になります。
以上、散漫にあれこれ書きましたが、日本を含む発達した資本主義社会において民主主義が議論される場合の問題点を以下にまとめてみます。
(a)資本主義社会で民主主義について議論されるのは主に形式についてであり、内実については少ないと言えます。階級支配下では、内実は常に削られる傾向があります。それへの抵抗として形式には、被支配層の武器としての意義があります。民主主義について形式の危機がもっぱら語られ、実質への言及が少ない場合(たとえば現安倍政権下)、これはすでに実質が相当に破壊され、その破壊をさらに増進するために形式そのものの爆破が進んでいるということを意味します。
(b)資本主義社会は階級支配社会であり、実質民主主義を完全に実現するのは不可能です。ただしそこでも民主主義の形式を改善するとともに実質化に努力することは当然です。
(c)資本主義社会における諸困難の主要な原因は、少数の支配者が自己の利益のために多数の被支配者を犠牲にすることであり、それは消費増税などで一目瞭然です。これは主に民主主義の内実に関する問題であり、その形式だけを問題にしても解決しません。
(d)資本主義社会における支配的イデオロギーは上記(b) (c)を踏まえず、社会一般に生じるあつれきを民主主義形式において解決する、という次元でしか問題を見ません。それはどのような社会にも通用する抽象的な思考様式ですが、それだけに資本主義社会独自の問題の本質を見損なうことになります。そういう思考様式の中では「民主主義の混迷」という議論がよく出てきます。なぜなら、多くの諸困難の根底にある階級問題を看過し、体制維持を暗黙の前提に、社会や政治一般次元で考えるので「解決」を見失ってしまうからです。
(e)体制側によるポピュリズム批判の意味を考えてみます。右派ポピュリズムが人権や民主主義ルールを無視することへの批判は、民主主義形式を破壊から守る姿勢としてそれ自身は正当ですが、格差・貧困を進める新自由主義政策・緊縮政策の擁護と同時に行なわれれば、民主主義への不信と反発を強め、右派ポピュリズムを増長させます。
左派「ポピュリズム」批判は、たとえば消費増税反対を無責任として批判するように、支配層の利益を擁護することであり、民主主義の実質化を求めることへの批判です。それは諸矛盾への批判を民主主義そのものあるいは経済秩序の破壊として描き出すことで、あくまで階級支配の護持を狙うものです。
国内民主主義と国際関係
民主主義を国際関係に延長して考えると、国内民主主義と国際民主主義との関係、特にそれが先進国と発展途上国との関係に絡めて問題となります。それらを単純化して20世紀に発する対抗の原型を表示すると次のようになります。
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国内 |
国際関係 |
先進資本主義国 |
民主主義(形式民主主義) |
非民主主義――帝国主義 新植民地主義、経済支配 |
発展途上国 |
非民主主義(実質民主主義志向だが未成立) |
民主主義――民族自決、独立、平等 |
20世紀には、発展途上国内での民主化が一定進み、国際関係でも植民地が独立し、民族自決権が確立しました。その延長線上に、21世紀の社会進歩の方向として、上表の4枠そろって民主化へ前進することが望まれます。しかし新自由主義グローバリゼーション下、グローバル資本が世界経済を実質的に支配する中で、底辺への競争などにより、資本=賃労働関係が労働者階級にとって悪化し、各国の実質民主主義が後退し、それは形式民主主義にも悪影響を与えます。国際関係もグローバル資本を中心とする支配=従属関係が強いので、必ずしも民主化が一路進むとは言えません。とはいえ、グローバリゼーション下、長期的に見れば、「先進資本主義国」と「新興国及び発展途上国」との世界に占めるGDP比率は後者が優位になりつつあります。そうした経済的土台での着実な変化だけでなく、国際政治においても進歩の動きがあります。国連での核兵器禁止条約の議決に見られるように、先進資本主義国や中国・ロシアなどの大国による力の支配から、発展途上国や小国を中心とする道理と法の支配に基づく方向への動きも勢いを増しています。こうした複雑な対抗関係の中でジグザグした動きを伴いながら、各国国内と国際関係においても形式民主主義と実質民主主義とを相携えて前進させる人民の運動が社会進歩のカギです。
民主主義の「国内・国際」「先進国・途上国」対抗の以上の視点から、たとえば「台湾独立」論について、考えてみます。外面的・図式的考察に過ぎませんが、次のようになります。中国にとって、帝国主義時代の遺産である台湾問題の解決は「一つの中国」の実現しかありえません。しかし共産党独裁の中国は台湾住民に歓迎されません。理想としては、中国国内が民主化され、台湾住民が「一つの中国」を望むという方向に進めば、「国内・国際」「先進国・途上国」対抗が一挙に解決します。それに対して、「一つの中国」の実現に反する「台湾独立」は国内民主主義を優先して、帝国主義時代の傷を残すことになり、「国際」関係の側面で「先進国・途上国」対抗での先進国優位構造に屈することになります。現状では、中台の密接な経済関係と(背後に米国を含む)政治的軍事的関係との中で、民主化としての台湾独立を選ぶわけにはいかず、かといって、「一つの中国」を何らかの形で実質化する方向に舵を切るわけにもいかず、という現状維持に留まっているように思います。やはり中国の民主化が問題の全面的解決をもたらすはずですが、その実現はかなり難しい。台湾問題の大枠はそう捉えられるように思われますが…。
同様の視点から日韓関係を見るとどうなるでしょうか。韓国の経済発展と民主化によって、戦後しばらくの<先進国VS途上国>型から今日では<先進国VS先進国>型へ基本的には移行しました。移行の画期をいつにおくかは分かりませんが…。しかし徴用工問題などで明らかなように、植民地支配問題の清算が済んでいないので、未だに<先進国VS途上国>対抗を部分的に引きずっていると言えます。日韓関係には国際関係民主化の課題が残っているということです。この対抗で、もちろん「先進国」は日本であり、「途上国」は韓国なのですが、それはあくまで「日帝時代」の地位であり、帝国主義・植民地支配の問題なのですから、日本は先進国だと威張るわけにはいかず、どう反省するかという立場に置かれています。ところが今日の日本では歴史教育が正しく行なわれていないこともあって、未だに反省どころかアジア蔑視イデオロギーを含む反動的ナショナリズムが優勢であり、徴用工問題に典型的に現れているように、政府が先頭に立ち、メディアが扇動して韓国バッシングが吹き荒れる状況です。
日韓関係という国際関係の民主化における日本の異常さは、国内民主主義にも当然影を落としています。日韓関係が全体としては<先進国VS途上国>型から<先進国VS先進国>型へ移行したのは、韓国が途上国から脱して先進国に仲間入りしたからですが、社会進歩の観点から見て、つまり国内民主化の程度においてはっきりと日韓が逆転しています。 言うまでもなく、日本は明確に戦後最悪で、新自由主義+保守反動の性格を具えた安倍政権を長らく戴いているのに対して、韓国は反動的な朴政権を民衆の力で打倒して進歩的な文在寅政権を登場させました。もちろん文在寅政権にもいろいろ問題はあろうけれども、安倍政権とは比較の対象ではありえません。日本では週刊誌を先頭にメディアで韓国・文在寅バッシングが横行しているような救いがたい状況で、歴史に無反省な歪んだナショナリズムがいかに悪政を助け自国の社会進歩を妨げて人民の幸福追求を阻害しているかが絵に描いたように見えます。実質民主主義を食いつぶしている安倍政権はブルジョア社会のタテマエさえ投げ捨てて形式民主主義をも破壊しています。内政と国際関係における民主主義は国により区別すべきこともあるとして、上の表を掲げたのですが、日韓両国の現状を見る限りは、良い国は内政・外交併せて前向きに努力しているが、悪い国はどっちもどうしようもない、という身もふたもない単純な状況であり、自国を愛する日本人として誠に恥ずかしい限りです。
ベネズエラ問題
以上、民主主義の形式と内実、国内民主主義と国際関係についてあれこれ見てきました。今日のベネズエラの困難な状況も「民主主義における形式と内実の統一」「20世紀社会主義体制の瓦解」「国内と国際関係の対抗関係」「先進国と途上国」といった諸問題の焦点にあるといえます。ベネズエラの混乱について取り上げた論文や、関連する事柄を扱った論文として最近読んだのは、伊高浩昭氏の「ベネズエラで何が起きているか」(『世界』4月号所収)、太田昌国氏の「独裁と権威主義をどう批判するか」(同前)、神保太郎氏の「メディア批評」(『世界』5月号所収)、松島良尚氏の「ベネズエラ問題をどう見るか――党声明『弾圧やめ人権と民主主義の回復を』にてらして」(『前衛』5月号所収)、所康弘氏の「新自由主義と『略奪による蓄積』 中米の事例を中心に」(『経済』5月号所収)です。このうち伊高論文と松島論文はベネズエラ問題を正面からテーマとして取り上げ、前者はベネズエラのニコラス・マドゥロ政権を基本的に擁護し、米国などの策動を糾弾しています。後者は同政権の正統性を認めず全面的に批判しています。太田氏と神保氏はそれぞれ論文の一部でベネズエラ問題に触れ、前者はマドゥロ政権に批判的で後者は擁護的です。所論文は新自由主義グローバリゼーション下で進む本源的蓄積を、メキシコなど主に中米の事例を通じて解明したものですが、中南米左派政権が抱える経済問題について重要な指摘があり、ベネズエラ問題とも一定の関連があります。
まず政治問題としてマドゥロ政権をどう見るかが問われます。これは端的に言って、松島氏のマドゥロ批判に説得力があります。それに対して、伊高氏や神保氏は米国のベネズエラ政権敵視にこそ根本問題があるとしています。たとえば米国の「人道支援」が介入の口実づくりに過ぎないとして、日本のメディアでは報道されない事実に触れています。援助物資にベネズエラ治安部隊が火をつけた、という世界的報道があっても、実はそれが「人道支援」トラック側からの自作自演であった、というようなことです。それは米国の目を通してしか世界を見られない日本のメディア状況への批判としては正当な姿勢ですが、今日のベネズエラ問題の深刻な全体像からすれば部分的問題です。
松島氏は「なにより重要なのは、国民の困窮の現実とその主要な原因をリアルにとらえることにある」(68ページ)として、国民の体重が減っていたり、感染症が蔓延するなど深刻な事態を活写し、その原因として「最大の要因は、マドゥロ政権が国民生活を省みないで債務返済を最優先にしてきたことだ」(71ページ)と指摘しています。そのため「必需品や通常の経済活動に必要な中間財などの輸入が激減する過程」が「現在も続いている」(70ページ)のです。この事態が発生したのが米国による経済制裁の前であり、チャベス政権の後期からマドゥロ政権に至る経済失政によるものであることも明らかにしています。そうして「二〇一五年の国会議員選挙で国民の困窮と強権政治への反発を背景に野党が圧勝して以降、政府による民主主義の蹂躙が激しさを増してきた」中で「マドゥロ政権の正統性が根本から問われる段階を迎えてい」ます(64ページ)。
かつてチャベス政権は「21世紀型社会主義」理論に基づき、「複数政党制自由選挙、参加型民主主義、脱資源開発経済」(伊高論文、37ページ)を掲げました。それは拙文の観点からは、ブルジョア民主主義を超える実質民主主義の実現を目指す目標であったと思います。貧困対策に成果を上げるだけでなく、人々が実質的に参加し政治の主人公になる社会主義社会を志向したのでしょう。しかし経済失政によりその土台が壊され民衆の反発を招いて、実質民主主義の実現どころかその前提である形式民主主義さえも強権的に破壊するに至りました。市民の政治的自由と生存権に関わる人権問題が深刻化し、それはもはや国際問題としての性格を持つに至っています。他国の政権とはいえ、日本共産党の声明が「政権の変質」を断定するのもやむを得ないところです。もちろん米国などの帝国主義的策動があるにせよ、だからといってもはやこの政権の正統性を認めるわけにはいかないでしょう。日本共産党の原則とこの問題への対応について、松島氏は次のように言明しています。
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日本共産党は多数者革命を原則とし、いったん政権に就いても国民の審判で敗北すれば下野し、政権交代を受け入れる方針を明確にしている。革命の経緯は国によってさまざまであり、この方針を他国に押し付けることはできないし、しない。しかし、外国のことであっても、民主的な選挙をしていたベネズエラのような国で、手段を選ばず国民を抑え込んで権力に居座るというやり方を容認することはできない。日本共産党は、「国際連帯」についても、問題があれば真摯に検討し、対応を訂正する誠実さが必要だと認識している。「革命を死守するために左翼は連帯すべき」という単純な態度はとらない。国際連帯には大義が求められ、当然、責任も伴う。 77ページ
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松島氏はベネズエラと米国との対抗など、事態の階級的分析はおそらくあえて意識的に行なっていません。それ抜きで、上記にあるような国際連帯上の責任を果たすという政治課題に関して、必要十分な解明ができるのだから触れる必要はないという判断があるのでしょう。それは正当です。しかし左派政権の変質という事態を前に、今後の前進を展望するなら、グローバル資本や米国政権の動向ならびに、それに対抗する運動について経済と政治にわたる階級的分析は避けられないでしょう。
拙文「『経済』2017年6月号の感想」(2017年5月30日)に以下の引用をしました(新藤道弘氏の「ベネズエラの現状、熾烈な左右の激突」、『経済科学通信』2017.3 No.142 所収、「2016年10月31日記」と注記あり)。
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対決の中身を良く見ると、表面的な政治上の対決は上辺のもので、対決の本質は、広範な国民の利益のために反新自由主義政策を維持するのか、それとも多国籍企業、寡頭制の一部富裕資本主義勢力のために新自由主義政策を復活させるか、また、ベネズエラに新自由主義を押し付けてくる米国政府・金融資本に抗して国民主権を守るのか、あるいは米国政府・金融資本と連携して国民主権を放棄し新自由主義を復活させるかにあることが分かります。それゆえかってない熾烈な戦い、階級闘争となっているのです。
8ページ
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新藤氏はここではマドゥロ政権擁護の立場で書いていますが、もはやそれが成立しないことは明らかでしょう。しかし「対決の本質」は依然として当てはまるように思います。そういう左翼的観点ではないけれども、米国内でも政権とは違う立場から、たとえばバーニー・サンダース米上院議員は、一方でマドゥロ政権側の暴力的弾圧を非難しつつ、他方では、グアイド暫定大統領を承認した米政府のやり方を「体制変更やクーデター支援」として批判し、米国には中南米諸国に不適切に干渉した長い歴史があり、それを繰り返してはならない、とコメントしています(「しんぶん赤旗」2019年1月27日付)。
チャベス政権やマドゥロ政権の変質は、ソ連などの20世紀社会主義の変質をほうふつとさせるところがあります。太田昌国氏は、キューバのカストロ政権が1968年のソ連のチェコ侵略を支持したことによる幻滅を以下のように語っていますが、当初の高い志とわずかな良い実績に続く挫折・後退に際してもなお持ちこたえる精神として傾聴に値します。
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歴史を通観する者が実感するように、歴史の中で起きる良いことは多くの場合きわめて短い期間しか続かない。新しい事態に敵対する者たちによる妨害もあれば、主体の側の過誤や挫折や後退も常に起こり得る。にもかかわらず、その良い経験は、時間をかけて起こるかもしれない次の新しい出来事に決定的な影響を及ぼさずにはおかない。受け継がれてゆくこの<精神のリレー>に対する信頼感によって、私たちは否定的な現実を前にしても、辛うじて持ち堪えていけるのだと言える。 前掲太田論文 82ページ
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受け継がれてゆく<精神のリレー>は革命のロマンであり、それを活かすには、今日では新自由主義グローバリゼーションの現実を経済学の力で分析することが不可欠の前提となります。時間が足りないので、前掲の所康弘論文から、21世紀に入る前後、チャベス政権に始まる中南米の「左派」「中道左派」政権の「新たな採掘主義」という問題点についてだけ紹介します。
所氏は、『資本論』の本源的蓄積論に依拠しつつ、今日では新自由主義国家による(「拡大再生産による蓄積」でない)「略奪による蓄積」が資本主義の支配的蓄積様式になった(新自由主義の反動性!)というデーヴィット・ハーヴェイの議論に基づいて、現代のグローバル資本による再版「本源的蓄積」を論じています(*注)。それはトランプがナショナリズムを扇動するのに利用している中南米の移民問題の根本的原因であるという意味では、政治問題の社会科学的分析として(移民が押し寄せてくるのは彼らが悪いのではなくて、もともとはグローバル資本と米国政府の政策のせいだろう!)重要であり、またそれに隣接する問題としての「新たな採掘主義」が中南米の「左派」「中道左派」政権の陥穽につながるものとして注視される必要があります。
(*注)『資本論』にある本来の本源的蓄積がもっぱら前近代的共同体の解体によるものであるのに対して、現代の再版「本源的蓄積」は「何世代にもわたる階級闘争を通じて勝ち取られたさまざまな形態の共有財産(公的年金、有給休暇、教育と医療に対する権利など)を縮小ないし廃止すること」(所論文、82ページ)をも含むという意味では、新自由主義の反動的性格を反映しています。
「新たな採掘主義」によって、中南米の「左派」「中道左派」政権は、天然資源分野での一部国有化など、国家管理の強化や外資規制の導入などを実施し、利益の一部を貧困層のための社会開発予算に充当するなどしています。しかし生産に関する重要な決定権を支配しているグローバル資本への従属からは抜けられず、最終的には資本の利潤追求を優先させざるを得ず、自然環境と生存権が破壊され、コミュニティや土地が奪われることになります。たとえば左派政権ボリビアのモラレス大統領は先住民出身ですが、その「開発主義路線は、開発対象とされた地域の先住民族集団との対立・矛盾を激化させてい」ます(太田論文、88ページ)。
まともな社会変革のためには、形式民主主義をしっかり守っていくことが必要であり、それを起点に実質民主主義を充実させていくことが可能になります。この好循環は、民生を安定させる経済発展を土台とし、それによる民衆の支持から発するわけですが、今日ではグローバル資本の支配が世界中でそこに立ちはだかっています。中南米では「左派」「中道左派」政権の「新たな採掘主義」という屈折した形態で現れています。それは政権を変質に導く可能性を秘めていると言えましょう。現象形態は違えど、世界中で同様な困難はあるでしょう。対抗策を簡単に言うことはもちろんできません。たとえばチャベス政権の初心にあった「21世紀型社会主義」理論に基づく「複数政党制自由選挙、参加型民主主義、脱資源開発経済」という原則は「受け継がれてゆく<精神のリレー>」の一つとして参考になるものかもしれません。
2019年4月30日
2019年6月号
グローバル資本主義を支配するデジタル資本
経済の現状分析では、世界経済全体をリードする最先端の生産力を担うものと、人々の生活と労働に密着した地域経済活動を担うものとの双方を捉える必要があります。前者の中心はグローバル資本であり、後者の中心は地域にある中小企業などでしょう。もっとも、前者も従来から大量生産・大量消費の量産品の提供を通じて、あるいは今日的にはGAFAのようにネットを通じて、人々の生活スタイルとその変革に密着しています。とはいえ、それは主にグローバル資本が消費者を支配する一方的関係であり、それに対して後者は人々が生活と労働、生産活動と消費活動の全体を通じて、中小企業などとともに地域経済を双方向的につくり上げていく関係です。グローバル資本が世界の資本主義をリードし、人々の生活のあり方を規定している以上、それ抜きには資本主義経済の変革方向あるいは社会主義的変革の可能性を語ることはできません。また人々が主体的に関わり、生活と労働を通して身近な地域を変革していくことを経験し実感することが社会変革にとっては不可欠であり、それは中小企業を中心とする地域経済を捉えること抜きには成立しません。そうした全体像を捉えつつ、主に後者の新たな発展方向を示した秀逸な論稿が吉田敬一氏の『亡国の日本型グローバリゼーションと地域経済・中小企業危機打開の基本的観点』(『前衛』2019年5月号所収)です。それに対して、前者を本格的に解明したのが本誌の総特集「多国籍企業・グローバル企業と日本経済」です。
総特集冒頭の小栗崇資・夏目啓二・小阪隆秀・田村八十一の四氏による座談会「多国籍企業の展開をどう見るか」は、GAFAを始めとする今日の資本主義の最先端の生産力や資本蓄積のあり方を分析し、それを資本主義的生産関係の中に捉える、ということで、本誌ならではの全面的分析となっています。本来ならこの座談会の議論と特集の諸論稿を併せて体系的に「多国籍企業・グローバル企業と日本経済」を学びたいところですが、そこまでは難しいので、以下では二つの論点に言及します。
○デジタル経済と労働価値論
価値論・剰余価値論の視点から、GAFAのようなデジタル資本が獲得している価値の実体・源泉をどう捉えるかがまず重要な問題です。座談会において、「価値創造はどこで起きているかというと、モノ造りの現場ではなくなってきているという感じがしています。人間の知識とか知恵、感性が価値を創造する段階に来ているということです」(40ページ)とか、「社会が発展していくと、労働時間によって価値を生みだすという側面だけでなく、人間の知性が価値を生みだすようになる」(41ページ)とか「知的な労働が価値を生み出すようになり、人間が生産力の中心になるということではないでしょうか。人間そのものが価値創造の源泉になるような局面になってきたのではないかと思います。例えば、プラットフォームが新たな価値を生み出す場になっている」(同前)とか言われます。これははなはだ混乱した議論で、知的労働が価値を生み出すというのなら何ら労働価値論と矛盾しないのですが、ここで言いたいことはおそらくそうではなく、労働ではなく、知識・知恵・感性あるいは人間なるものが直接価値を生み出すというあいまいな話で、それが「プラットフォームが新たな価値を生み出す」という結論につながっていくのだろうと思います。これは商品の使用価値と価値とを区別するということから逸脱して、使用価値そのものが価値であるという観点に陥っていると言わねばなりません。生産の結果である使用価値が良いものであり、効用があるのだからそれそのものが価値であり、生産過程においても労働の役割は小さそうで、知識や知恵が直接そういう使用価値づくりに大きく貢献しているのだから、労働が価値の源泉ではなくなりつつあるのではないか…。そういう現象論が形成されるのは、以下のような事情によるものでしょう。
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今日では企業にとって付加価値の圧倒的部分は、製造部面ではなく、開発部面で生み出されています。バリューチェーンでいうと、企画・開発・設計(上流)、製造(中流)、そして販売・マーケティング・サービス(下流)として、人間が笑う(スマイルする)ときに口の両端(上流と下流)が上がる(利益率が上昇する)という、いわゆる「スマイルカーブ」の両端のところに競争優位形成の重点が置かれているということです。
27・28ページ
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製造の現場労働が獲得する付加価値が少ないということから、労働ではなく、知識その他のものが価値を生み出すように見えるわけですが、果たしてそれは正しいのか。またマルクスの『経済学批判要綱』における(生産力の高度な発展によって)「労働時間は富の尺度であることをやめざるをえない」(座談会の40ページに引用)という周知の叙述もこの議論の根拠とされます。これは都留重人氏が好んで引用され、多くの論者も言及するところであり、どう考えるか難しく、私は端的に間違っていると言ってもいいように思いますが、「価値の尺度」ではなく「富の尺度」と言っている点に留意して解釈すると違った見方ができるかもしれません。
使用価値が存在することは価値が存在するための必要条件であるため、そこからしばしば使用価値そのものが価値であるかのような錯覚が生じます。しかし使用価値は価値ではありません。考え方として重要なのは、(1)価値とは何かということをはっきりさせた上で、(2)デジタル資本が多くの価値を獲得し、経済的支配力を拡大している仕組みを解明することでしょう。現象的にはデジタル資本が多大な価値を生産しているように見えますが、果たしてそうかという問題意識で考察したいのです。つまり単層に見える現象を(1)と(2)の二層として次元の相違を意識して考えようというのです。(1)は商品=貨幣関係論次元における価値実体論であり、(2)は資本間競争の次元における支配・従属関係の問題です。もっとも、そうすると搾取の現場である資本主義的生産過程の考察が抜けてしまいますが、そういう課題があると意識しつつここでは措きます。
『資本論』では、冒頭のいわゆる蒸留法によって労働価値論は論定されていますが、それが不十分な論証であるため、価値実体があいまいになり、上記のような使用価値と価値とを混同するような議論が横行しているように思います。使用価値と価値とが違うことは生産性の上昇によって使用価値量が増えても価値量は増えないことにはっきり表れます。杉原四郎氏は、価値の実体を労働に求める根拠を「マルクスの経済本質論」に置いています。その『経済原論1――「経済学批判」序説――』(同文舘、1973年、これはまさに名著であり、今日注目されている未来社会論との関係でも、その歴史貫通的視点としての「マルクスの経済本質論」の観点から読み返されるべきだと思います)では以下のように言われます。
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労働が価値の源泉でありその尺度であるというマルクスの主張は、けっして単純に商品生産社会に関してだけでなく、経済一般に通ずるものとしてなされているのであるが、こうした主張は、人間生活にとって最も本源的な資源として時間があるということ、労働時間がその時間の基底部分を構成するということ、そして生活時間から労働時間をさしひいたのこりの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能となること、したがって労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえないということ、このような認識をまってはじめて成立することができる。そしてこのような認識にもとづいてはじめて、労働の生産力の発展が人間の歴史をつらぬく基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望もひらけうるであろう。生産力の発展と合理的な時間配分とは、労働時間の節約のための二つの本質的な解決策にほかならないからである。 53ページ
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さらに杉原氏は、大熊信行氏の『社会思想家としてのラスキンとモリス』(1927年)における議論を以下のように肯定的に要約しています。
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その所論の要点は、労働が費用であるのは労働が苦痛であるからではなく、労働の提供そのものが費用であるからであること、なぜ労働の提供そのものが費用であるかというに、それは労働が分量上有限な時間の割合であることにもとづくということであり、このように解することによってはじめて、労働それ自体が快楽であれ苦行であれ、それにかかわらず費用と考えうることによって、労働を正当に価値論の根底にすえることができるとともに、労働以外の生活活動と労働との均衡を問題にしうる展望がひらかれるということであった(同書2第三「労働快楽説の経済純理への干渉」、八九―一一〇ページ参照)。…刑部注:「89〜110ページ」ということ。
54ページ
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商品は使用価値と価値の二重性を持ちますが、杉原氏によれば、歴史貫通的な富も使用価値と費用価値の二重性を持ちます。費用価値というのは、上記のように、生活する前提として、人間が有限な時間の一定部分を労働に割かざるを得ない、ということから、「労働は、人間が生きてゆくために支払わなくてはならない本質的な費用であ」る(8ページ)という意味で名付けられています。これはもちろんマルクスの用語ではありませんが、杉原氏は「超歴史的な価値の内容乃至実体を歴史的な価値の形式乃至形態から明確に区別するために前者を費用価値とよぶことにした」(106ページ)のです。そうすると「富は、人間にとって、消費の対象としては、できるだけ多いことがのぞまれる使用価値が問題となり、生産の成果としては、できるだけ少ないことがのぞまれる費用価値が問題とな」ります(8ページ)。この歴史貫通的規定は資本主義をも貫きますが、自己増殖する価値としての資本は下りのエスカレーターを駆け上るがごとくに価値(歴史貫通的な費用価値の商品経済的形態)の獲得に努めます。生産性の上昇によって商品の個別価値が下がるなら生産量を増やし、また搾取を強化して労働者の取り分の価値である賃金を下げ、資本の取り分の価値である剰余価値を増やします。したがって歴史貫通的には「できるだけ少ないことがのぞまれる費用価値」であっても、資本主義的には価値の増大が期待されます。このことは経済理論にも反映され、たとえばグローバル資本のような最先端の企業が世界的に経済支配力を高めている現実に対して、彼らの獲得する膨大な利潤について、当該企業における労働の裏付けがないように見えるならば、労働以外のところから価値が生み出されている、と考えることになるのでしょう。
あくまで価値の源泉が労働であると考えるならば、プラットフォームを通じて、あるいは「スマイルカーブ」への支配を通じて、デジタル資本が価値収奪をしているということになります。その基本的観点は長い引用になりますが、座談会では以下のように議論されています。まずプラットフォームによる価値収奪について。
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小阪 モノを造り出すことが価値創造の基本だというのはその通りです。ただしデジタル化とネットワーク化のもとで、価値のあるいいモノを造っても、それに値する価値が自分のところに入ってこない可能性がある。モノ造りの企業が、他の企業が主導するネットワークの中に吸収された場合、価値が移転してしまう関係が生まれてきます。
夏目 その通りだと思います。ただ、アップル、グーグル、フェイスブック、アマゾンにしても、彼らは価値を創造しているという考え方と、価値を収奪しているという考え方があります。しかし、モノを生産して生み出される価値はそのまま実現されるのでなくて、ネットワークを通じて実現される、価値が移る、これがいまおこっている現象だと思います。それは価値創造だという考え方もあれば、価値を移転・収奪する仕組みを作ったけれど、価値そのものはモノ造りからうまれると考える考え方もあります。
では、プラットフォーマーが登場してきたなかで、自動車を造ってうまれる価値は自動車会社で実現されるかというと、ネットワークの中で実現されます。商品販売にしても、本来は小売業者のところに販売の利益が落ちるはずなのにアマゾンによってネット上で商品が販売されると、小売業者のところだけでは価値は実現されないことになります。
40ページ
夏目 プラットフォームで価値が生まれるか否かという議論は、経営学で以前からあった議論とも関係します。マネジメントは企業にとって必要な機能ですが、価値を生み出すか生み出さないか、という議論につながります。二通りの理解があっていいとは思います。しかし、私はGAFAが、プラットフォームを通して個人情報を「無償」で取得し、利活用している、と見る立場です。プラットフォーマーは個々人のデータを集めることで、データを集積すればするほどAIの精度も上がりますし、その結果、新しい製品やサービスの開発に役だち、顧客の囲い込みもすすみます。個人情報を集積することが、経済的価値や富を生み出すのです。それが「データ独占」とか「データ資本主義」と言われるものです。
41ページ
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次いで「スマイルカーブ」を通した価値収奪の仕組みは次のようです。
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アップルのiPhoneの中の部品で3割くらいは日本企業の高度な部品が使われていると言われています。問題は、それらの部品がアップルの独占するデザインの中に組み込まれているということです。日本の企業は高度な技術を持っているのだけれども、アップルからの言い値で買いたたかれるような力関係(支配関係)の中に置かれているに等しい。製品の製造過程あるいはバリューチェーンの中の核心をアップルが押さえており、そのバリューチェーンに組み込まれている他の企業は「あなたの方はこの周辺を担う特定の部分で部品生産と組立の仕事をしてください」と、互いに切り離されて位置づけられている。
47・48ページ
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この支配関係の中身を詳しく見ていく必要はありますが、価値収奪の関係であることは確かでしょう。以上の議論を踏まえれば、デジタル資本主義の強大な利潤と経済支配力の多くの部分が価値収奪に基づくことが明らかであり、GAFAなどに対する民主的規制の一つの根拠となります。労働価値論の基本を踏まえることは、現状認識にも変革の方向性にとっても大切なことではないでしょうか。
○アマゾンとデジタル経済と消費社会
ICTに疎い私は、ネット通販のアマゾンがなぜグーグル・アップル・フェイスブックと並んでデジタル資本主義を代表する企業なのか、分かりませんでした。上記の座談会の他、小信田八郎氏の「インターネット通販大手のアマゾンとアリババ」と佐々木保幸氏の「アマゾンにみる流通分野の新展開と『反アマゾン法』」によって、アマゾンの事業の概要を知り、ネット通販やマーケットプレイスだけでなく、クラウドサービスをも営み、世界一の市場シェアの地位にあることが分かりました。アマゾンはまさに「世界最大のネット通販企業と、世界最大のクラウドサービス企業との連携を企業内で実現している」(小信田論文、115ページ)のであり、最先端の生産力構造を持った企業としてグローバル経済に君臨していると言えます。
「しんぶん赤旗」の連載「資本主義の病巣 君臨するアマゾン」(2018年7月29日〜8月18日)では、アマゾンの物流センターにおける奴隷労働ともいえるひどい搾取の現場が活写され衝撃的でした。これはいわば生産関係視点による告発であり、的確にアマゾンの暗部を捉えていますが、それは一面であり、本特集の諸論考にあるように、生産力視点をも交えて、その強さの秘密を知っていくことが併せて重要です。そうした総合的考察を端的に示すのが佐々木論文の以下の叙述です。
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アマゾン等のインターネット小売業は、このような通信販売業の革新性を発展させた一方で、プラットフォーマーとして無店舗形態でショッピング・センターを形成したといえよう。アマゾン等は、現代のICT(情報技術通信)等の著しい発展を基礎に、非正規労働や低賃金・長時間労働が蔓延し、資本主義の矛盾が激化している状況下で急激に成長している。今日の消費者は少しでも低価格で、しかも時間節約的な消費をいっそう志向するようになっている。そのような経済的背景のもとで、現代的通信販売業とプラットフォーマーとしての二面性を有するアマゾン等のインターネット小売業は急速に成長し、大規模商業資本として発展するのみならず、流通部門における自由競争を制限する独占的商業資本(商業独占)としての地位を築くようになった。 121ページ
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労働者が非正規労働や低賃金・長時間労働にあえぐ中で、彼が消費者としては、低価格・時間節約志向になるという経済的背景の下で、アマゾンは通信販売業企業とプラットフォーマーという二面性において急成長し、グローバルな独占的商業資本となったというのです。ここに見られるのは、高度経済成長期に形成された消費社会が、低成長期の格差・貧困の拡大状況とともにデジタル経済下で変容を遂げて、人々を新自由主義グローバリゼーションの支配下に置く役割を果たしている模様です。
ここでまず見ておきたいのは、アマゾンが巧みに物流支配を強める一方で、その影響で日本においては2016年にヤマト運輸のサービス残業問題が発覚し、今日に至る物流危機を招いているということです。石井まこと氏は書評において、首藤若菜氏の『物流危機は終わらない――暮しを支える労働のゆくえ』(岩波新書、2018年)を激賞し、「これまでの労使関係研究において十分に分析されてきたとは言い難い需要側それも消費者の影響について」(152ページ)という新論点を首藤氏が生み出したことを高く評価しています。そして「私たちは労働者なのに、消費者になると途端に労働者の苦労は無関心になり、使用者寄りになってしまわないだろうか」(153ページ)と問題提起しています。
確かに日本においては消費者の優位の行き過ぎがよく言われます。流通や小売りで働く人たちの労組UAゼンセンによる、悪質なクレームをめぐる5万人のアンケートによると、「お前はバカか」「死ね、やめろ」「私の会社だったらクビだ」など聞くに堪えぬ暴言があり、客を待たせるなと怒り出し、説教が3時間続いた例などが報告されています。「客としては王様のように振る舞うが、サービスや商品を提供する側に回ると、下僕のようにさせられる。日本社会を大きな目で見れば、消費者である私が労働者である私を追い詰めてはいないか」(「天声人語」、「朝日」2017年11月21日付)という指摘はもっともです。これは単に消費者が悪いということではなく、労働者と消費者の相互関係の中に生じていることであり、しかもそれは一人ひとりの人間が立場を変えながら悪循環が続いている状況です。それは結局、資本主義の強搾取下にある消費社会の問題ということです。
日本社会におけるこのような消費者と労働者の関係の悪循環の中で、労働者は追い詰められ、苛立ちを高進させます。これは主に小売・サービス業での問題ですが、製造業においても企業と需要家との関係で同様の問題はあります。さらに企業間競争で労働者は追い詰められます。近年相次いで発覚した日本の製造業の不正に絡んで、『経済』2018年1月号所収コラム「ゴールなきマラソン競争」は、第一にコストダウン競争で現場と技術陣が命を削っていること、第二に日本企業の体質として技術者を大切にしない風潮を指摘しています(72ページ)。
ここには、資本主義一般の問題として、人間ではなく資本が主人公であり、資本間競争の至上命令の前に労働者が疲弊していく姿とともに、日本社会の独自性としての歪んだ消費者優位の構造がない交ぜになって、労働者を苛んでいる様子がうかがえます。もっとも、歪んだ消費者優位の構造もまた資本間競争の一形態であると考えれば、それは日本資本主義における資本の論理の過剰貫徹の問題だとも言えますが…。つまり本質的には労働者と消費者とが対立しているのではないということです。消費者が労働者への要求を際限もなく強めることは、そこに自己の利益を増大させる目的があるのですが、それはあくまで資本間競争を前提しており、消費者優位に見えても、実際には資本が消費者を支配していると言えます。
GAFAの個人情報支配を見れば、資本は生産過程・流通過程だけでなく、消費過程つまり人々の生活そのものも支配しています。金融が実体経済を振り回すという転倒現象がよく言われますが、同様にデジタル経済がリアル経済を振り回す転倒現象の象徴が、ネット通販の興隆における物流危機の爆発でしょう。経済停滞化においても消費社会は残り、そこでデジタル経済が消費欲望を刺激し、過剰消費化を煽っています。消費者優位と見えるのはあくまでGAFAなどの掌の上で踊っているにすぎず、利潤追求の一局面であると言えましょう。
新たな使用価値を創出し、雇用を創出することで、資本主義は生き残ってきたのであり、それは人々の生活を豊かにしたと一般に評価されます。しかし未来社会論の視点から言えば、それは労働時間を短縮する機会を奪い、自由時間の少ない余裕のない生活をもたらしました(拙文「雇用創出による資本主義延命の歴史的意味」/「『経済』2018年12月号の感想」所収/参照)。デジタル経済化は本来は労働時間を短縮して自由時間の増大をもたらすものですが、GAFAなどデジタル資本の支配下では、搾取強化と生活の貧困化に帰結します。それを克服するには、たとえば労働者と消費者との対立という仮象を取り払って、首藤氏の言うように、他者の労働への無関心をなくし社会的連帯を強めることであり、デジタル資本へのグローバルな民主的規制を実現することです。
以上、時間不足で、誠に残念ながら、本総特集の重要なテーマからすれば枝葉の問題二つにしか触れられませんでした。しかも引用ばかりで考察が足りない。しかし自分が疎いが極めて大切な分野を勉強できたのは収穫でした。
2019年5月31日
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