月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2024年1月号〜6月号)

                                                                                                                                                                                   


2024年1月号

 2023年は内外情勢のあまりの激動に様々な思いが渦巻いています。本号の論文の中から触発される問題について気がつくまま述べてみます。まとまりが付きませんが、これも本年の記録としてなら無意味でもない、ということでご容赦ください。

 

          岸田軍拡の異次元の危機と世界情勢認識の基準

               ――中野晃一論文をめぐって

 

 

     1)岸田軍拡の異次元の危機

 

 中野晃一さんに聞く「世界の戦火を止めるために 憲法九条による『安心供与』の政治、今こそは談話形態による論文とも言うべきもので、豊富な問題提起を含みます。まず私がその白眉と思うのは、岸田軍拡の法的矛盾とその恐るべき帰結を解き明かし、現状の危機の性格に形を与えて警鐘を鳴らしたことです。抑止力論一般は安全保障のジレンマに陥ります。しかし安倍壊憲=軍拡を引き継ぎ増幅させた岸田大軍拡は、そうした抑止力論一般を超えて異次元の安全保障のジレンマを引き寄せます。その仕組みが以下のように導き出されます。

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 重大なのは、岸田首相が「従来の我が国の平和主義はいささかも変わりません」と言いながら、軍事化路線に踏み出すということを、憲法、法制度の例外をつくって、どんどん進めていることです。「裏口入学」のようなやり方を繰り返し、実際には憲法の中身が失われている。 

  …中略…

 この憲法を変えずに「例外」を広げるということで、軍事化に何の箍もはめることができない問題が生まれているわけです。そこで何が起こるかと言ったら、いつ何時、戦争になるか、誰も分からないという状況を作ってしまっていることです。つまり、日本はどういう事態になったら戦争が始まるかが、憲法や法律の表面上では分からなくなっているのです。本来、日本は戦争をしない国のままなのに、戦争を始めることの判断が、政府によって極めて恣意的に、場当たり的に行われることにされてしまっている。大変恐ろしいことに、岸田首相自身も、いつどうなったら日本が戦争することになるか分かってないのです。政府も分からないので、国民も分からないという混迷に陥っています。そこはアメリカも分からないという、異次元の恐ろしさが生まれています。  2122ページ

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 したがって、「抑止というのは、こういう場合に戦争になる、どこの一線を越えたら戦争になるかを示すことで、脅して未然に戦争を防ぐという発想」(22ページ、それでも相互の軍拡=安全保障のジレンマは免れないだろうが…)なのですが、そもそもその「一線」が分かりません。安保三文書によって、軍拡と敵国攻撃能力の確保は明らかなので、その仮想敵国からすれば、日本がいつ戦争する気になるか分からない以上、闇雲に軍拡で対抗するという状況を招きます。こうして安全保障のジレンマが異次元に膨らみ、抑止力による状況の制御など飛んでいって、「結果として、日本の安全保障体制は、大国間の衝突に委ねる状況になってしまいます」(同前)。自らそういう状況を作っておいて、台湾有事を喧伝している日本の支配層の無責任さは度外れたものです。そのような危機醸成の岸田軍拡と対照することで、近隣諸国への憲法9条による安心供与の路線こそが、過去・現在・未

来とも日本の現実的な安全保障の原則と政策であることが明らかとなります。

 解釈改憲の特殊な危険性を強調するこうした議論は、そうした状況でもまだ9条の規範力が生きていることを重視する、渡辺治氏らの議論とは対立するようにも見えます。しかし、解釈改憲と9条の規範力とが対立的に共存(=矛盾)している、それぞれの側面を表現していると理解できます。またこのような主に法的な分析は経済や軍事の分析によって補完される必要があります。

 

     2)冷戦下における資本主義・社会主義の体制対決

 

 次いでやや小さな二つの論点に触れます。一つは冷戦時代の状況認識と当時の現存社会主義体制への評価で、もう一つは安倍政権への欧米諸国の評価です。

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ライバルと見なされていた共産主義、社会主義国がなくなり、西側諸国では何の気遣いもなしに、富や権力の偏在が加速し、その傾向は小選挙区制度をとる諸国で顕著でした。その結果、自由や民主主義を標榜する政治体制の国にも、その形骸化が進みます。強者は富の集中の自由を欲しいままにし、弱者はそのトリクルダウンを待っても、どんどん不自由になり、貧困、失業が広がります。「CEO〔最高経営責任者〕モデル」とでも言うような、営利企業のように国家を運営しても構わないという言説、政治の新自由主義化が各国で見られてきました。       16ページ

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 これは新自由主義グローバリゼーションの状況説明です。市場原理主義などという現象論ではなく、資本主義的搾取強化という本質が捉えられています。そこには、冷戦期に社会主義体制が存在していたことが、資本主義の暴走を一定防いでいた、という認識が前提として示されています。それは立場の如何を問わず、常識的認識として定着していますが、日本共産党の世界情勢認識ではおそらくかたくなにそれに触れられないように見えます。ソ連などは社会主義ではなかったという認識があるためでしょう。

その体制認識の是非はここでは措きますが、確かにソ連共産党は巨悪であり、その崩壊に「諸手を挙げて賛成」し、それによって世界の人民の様々な闘争によい影響があったという同党の認識は支持します。今でも世界中に共産党を名乗る旧ソ連派の党が多くあり、ロシアのウクライナ侵略戦争に対して、あれこれの「階級的観点」なるものを誤って持ち出して、侵略戦争そのものへの的確な批判をしていない状況を見ると、上記認識の正しさは実感されます。しかし冷戦期の資本主義と社会主義との体制対抗と、それが資本主義国に与えた状況を正しく認識するには、足りない部分があります。 

 20世紀のソ連、中国、東欧諸国などが、たとえ正道を踏み外した「社会主義」体制であっても、国家権力として存在しているものが、資本主義批判勢力として社会主義のスローガンを掲げていることは重大でした。資本主義諸国の労働者階級にもオルタナティヴとしての体制があり得るという考えを抱かせ続けたことは、資本主義諸国の支配層にとっても侮りがたいものがあり、階級的妥協の一要素となったはずです。こうした側面を見ないようにすることは資本主義認識においてリアリティを欠きます。

 1976年末総選挙で、共産党が綱領確定後の196070年代の躍進過程で初めて大敗を喫しました。それに対して全面的な総括が加えられましたが、その中で特に印象的なのは「社会主義のマイナスイメージ」という認識が打ち出されたことです。当時、うすうす気づいていたことがはっきり表現されたという感じでした。ソ連や中国の諸問題が社会主義のマイナスイメージとして、日本共産党の選挙結果に悪影響を与えたのです。戦後しばらく、日本社会では資本主義対社会主義の体制対抗認識が盛んで、両者が拮抗していましたが、世論的にはだんだん資本主義優位に推移していたようです。70年代後半にはそれがはっきりしてきたのでしょう。

 ソ連・中国等には自由と民主主義がないことに加えて、経済停滞も問題とされました。東欧諸国がそれぞれに経済改革の試行錯誤にはまっていった背景の一つに、NEIs(新興工業国・地域、韓国・香港・台湾や東南アジア諸国)が資本主義的開発によって経済成長を達成して注目され、社会主義体制の劣位が意識され、その打開策が模索されたということがあります。したがって、すでに1989年の東欧諸国の社会主義政権のドミノ倒しでの崩壊、1991年のソ連邦崩壊に先立つ、1980年代あたりではそのような体制間の力関係が形成され、社会主義の魅力が世界的に色あせてきたと言えます。新自由主義が隆盛へと起動する時期がそこに重なっています。

 逆に言えば、第二次大戦後、ソ連・東欧・中国等にまだ勢いがあった時代、あるいはその後もそれら諸国の実態があまり定かに認識されず、まだ人々に幻想があった時代には、「社会主義体制」の存在は資本主義諸国の支配層にとって、「自由な」強搾取体制に対する抑制要因であったということです。

 以上の議論に対して、そもそもソ連等は社会主義とは無縁なのだから無意味な議論だ、という開き直りにリアリティがあるでしょうか。ソ連等の実際の体制認識の問題を措くとしても、少なくともそれが社会主義体制と思われていた時代に、資本主義体制にどのような影響をなしえたかはそれ自身重大な問題です。もっとも、社会主義体制というものが(少なくともまともな形では)存立していない現在、今さら冷戦時代に関する状況認識を正しても仕方ないという気はしますが…。それでもこの人類史上の重要な経験をどう位置づけるかを考えることは今後の社会主義の展望に資する課題であると思います。格差と貧困、環境問題などで資本主義の危機が言われる現代の社会主義論においても改めて考察すべき課題だと思います。

 なお当然のことながら、社会進歩は主に外国からの影響で行なわれるものではなく、当事者人民自身の事業です。国際関係や外国の事績をどう活かすかは変革主体の自主性によります。その立場からも、20世紀の社会主義体制の位置づけと現代から見た意義とを捉え直すことは必要と思われます。

 

     3)安倍政権「高評価」の意味

 

 「小さな論点」の第一があまりに長話になってしまいました。次いで残りの第二です。右翼的で独裁的な安倍政権を蛇蝎のごとく嫌ってきた日本の民主勢力の死角を中野氏が明らかにしています。私などはまったく気づいてこなかったのですが、「G7など西側政権からは、安倍政権以降の日本の急速な軍事化、同盟強化路線は諸手を挙げて歓迎されています。 …中略… 日本は、長い『一国平和主義』の怠惰な眠りから覚めて、自由主義を守るために、アメリカ任せにせず、応分の負担を果たすようになった、そのため安倍首相はリーダーシップを発揮したと見られているのです」(18ページ)。自由や民主主義を明らかに信じていないトランプ大統領に取り入って日米同盟を守り、「インド太平洋の平和繁栄と中国封じ込め政策を、先立って進めてきたのが安倍氏で」あったので、「アメリカの政策関係者からの評価が高かった」(同前)というわけです。体制内のジャーナリストや評論家などがやけに安倍晋三を高く評価するのを、馬鹿じゃないかとしか思っていなかったのですが、これで得心がいきました。

 まず西側先進国というのは、確かに自由や民主主義の国かもしれないが、同時に軍事同盟に結ばれた帝国主義陣営なのだという初歩的な認識を改めて確認すべきだったのです。安倍政権への高評価は前者ではなく後者の側面でこそされたのです。さらに次に認識すべきことは、主流メディアやそこに登場するジャーナリスト・評論家・テレビタレント等の大方は対米従属を内面化しているので、「西側先進国」と同様に安倍政権を見ているということです。もちろん自由や民主主義の観点から安倍政権に批判的な人も登場しますが、それでも大方、安保条約支持ですから、批判が弱々しいわけです。したがって、メディアは決して忖度しているのではなく、自らの信念と使命感に基づいて発言し行動しています。そうして世論が形成されます。岸田軍拡はそれで支持されています。単に安全保障環境の不安を煽っただけでなく、「西側先進国」共通の強固な世界情勢認識が基底にあると言うべきでしょう。しかし、そんな状況に安住しているということは、客観的に見れば恥ずべき「二等国」扱いをされているということも中野氏は指摘しています。

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 西側の国々も、自分たちは民主主義の国だと言いながら、他国を専制主義的に支配してきた、独裁政権を支援してきたわけですから、まったくのダブルスタンダードに変わりはない。日本に体面のいい独裁政権ができたところで、もともと対等に見ていないということだと思います。       19ページ

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     4)「先進民主主義国」のバイアス

 

 以上の「小さな論点」の第二の安倍政権評価の内容を受けつつ、後論にも関わらせて、中野論文について最後に大きな論点を見ることにしましょう。イスラエルによるガザ虐殺について、欧米諸国のイスラエル支持には驚かされますが、その背景を中野氏はこう説明します。「イスラエルは自由と民主主義の国であり、そこにテロ行為を働いたのはハマス、パレスチナ人だという理解が前提になっているのです」。あるいは「自分たちこそが文明国で、イスラエルが欧米の文明に一番近い、アラブ、イスラム諸国は、残虐で野蛮だという発想がある」(15ページ)。ここには帝国主義・植民地主義的人種差別があると言うべきでしょう。

 そこから言えるのは、ロシアのウクライナ侵略戦争とイスラエルのガザ虐殺とにおいて、

ロシア批判とイスラエル擁護の欧米に対して、二重基準だ、という批判は現象的には当たっていても、本質的には当たっていない、ということです。「侵略戦争反対とか国際法遵守」という基準をロシアには適用し、イスラエルには適用しないという意味では確かに二重基準です。しかしこれはタテマエを文字通りに受け止めた現象論に過ぎません。実はホンネとして、「欧米の先進民主主義に対する野蛮な途上国からの攻撃は許さない」という一貫した基準があります。

 欧米諸国は自国内では、人権・民主主義を一定尊重しながら、植民地・従属国など途上国地域ではどんなに残虐行為をしてきたか、その帝国主義への反省がありません。近年では途上国からの批判が強いので、歴史的遺産の返還など様々な問題でいくらか譲歩しています。しかし、イスラエルの今回の蛮行を前にしても糾弾しない「先進資本主義国」の姿勢を見ると、反省や譲歩がまだホンモノでないと言うべきでしょう(*注)

 ウクライナ侵略戦争に対するバイデンの対抗スローガン「民主主義対専制主義」はまさにむき出しのホンネであり、これが唯一の基準です。自由や民主主義を武力によって守るというイデオロギーで、中野氏は「リベラル帝国主義」と呼んでいます(16ページ)。したがって、侵略戦争反対とか国際法遵守というのはとってつけたタテマエに過ぎません。だからこそ、「侵略戦争反対と国際法遵守」という誰もが支持できる基準に統一すべきで、「民主主義対専制主義」という特定のイデオロギーを持ち込んではならない、という当たり前の正論が通らないのです。国際社会が先刻ご承知のように、アメリカ帝国主義は侵略戦争に明け暮れて、そんなタテマエを守ってきませんでした。ただし、欧米各国政府はそうであっても、各国人民の内部には様々な意見があり、そのうちの心ある運動が政府を動かす可能性を否定してはいけません。

 日本では、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」というのが自民党政府の常套句ですが、こんなもの文字通りに理解することはできません。日米関係の実態を見るだけでその欺瞞性は明白です。日本でオスプレイが墜落しようが、日本政府は何もできず、アメリカ軍の意のまま。件の常套句の真意は、<「先進資本主義国」主導の軍事同盟に基づいて、発展途上国や敵対国に対抗する帝国主義的秩序>と言い換えるべきでしょう。侵略を欲しいままにしてきた国とひたすらそれに従う国に「法の支配」を口にする資格はありません。「自由で開かれた国際秩序」とは米軍とグローバル資本にとってのそれです。

 日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)の特別首脳会議(1217日)の共同声明は「民主主義や法の支配、人権尊重の原則を堅持する世界を目指す」と宣言しています(「赤旗」1218日付)。中国を批判したつもりでしょうが、たとえば、沖縄辺野古新基地問題で沖縄県民の意思を無視して建設強行しているのを見れば、日本政府こそ、民主主義・法の支配・人権尊重に反しているのは明白です。

 

(*注)

「朝日」1222日付によれば、121113日のイスラエルの世論調査で、「軍事計画を立てる際に、どの程度ガザの人たちの苦しみを考慮するべきか」との設問に対し、ユダヤ系では「ほとんど考えるべきではない」「あまり考えるべきではない」の答えが合わせて81%を占めました。欧米諸国から先進国の仲間と見なされているイスラエルで、国際社会からジェノサイドと非難されるガザ戦争についてこの世論状況です。ハマスの奇襲テロがあったとはいえ、イスラエルではパレスチナ人を人間扱いしない言説が多く聞かれることからも明らかなように、人種的偏見があると言うべきでしょうし、戦時下ではまともな判断力がなくなるという事例でもあります。

アメリカでも9.11テロ後のアフガニスタンへの報復戦争、そしてイラク侵略戦争へも熱狂的な国民的支持が沸騰しました。21世紀の民主主義的「先進国」でも、(国民の圧倒的多数が洗脳状態であった)かつての軍国主義日本と変わらない世論状況です。ナチスのゲーリングの以下の警句に耳を傾けるべきでしょう。

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 もちろん、普通の人々は戦争を望まない……しかし、政策を決定するのは最終的にはその国の指導者であるのだから、民主政治であろうが、ファシスト独裁であろうが、議会制であろうが、共産主義独裁であろうが、国民を戦争に引きずり込むのは常にきわめて単純だ……そして簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国家を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国家についても等しく有効だ。

 「国家秘密警察ゲシュタポを創設し、経済計画四カ年計画の全権として軍備拡張を強行したナチスの軍人ヘルマン・ゲーリングに対して、独房でインタビューを行ったアメリカ人のグスタフ・ギルバートの記録である『ニュルンベルク日記』の中の言葉」

  山室信一「『崩憲』への危うい道 軽々な言動によって骨抜きにされる日本国憲法」

    (『世界』201310月号所収) 51ページ

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5)国内民主主義と国際関係

 

 以上では、発達した資本主義諸国(先進民主主義諸国)と発展途上諸国とにおいて、それぞれのまた両者間の民主主義のあり方が問われていると言えます。またロシア革命・中国革命がプロレタリア革命として、ブルジョア民主主義の形式性に挑戦して、民主主義の実質化を掲げたことにも注目する必要があります。もちろんそれは実際には、形式的なブルジョア民主主義を超えて実質民主主義を実現するどころか、逆にブルジョア民主主義以前の非民主主義的な前近代的抑圧体制に帰結してしまったのですが、その問題意識だけは今後に活かすことができます。そこで国内民主主義のあり方と国際関係の民主主義のあり方、ならびに民主主義における形式性と実質性という二つの視点をまとめたのが下図です。

 

 

 

国内

国際関係

先進資本主義国

民主主義(形式民主主義)

 

非民主主義――帝国主義

新植民地主義、経済支配

発展途上国

非民主主義(実質民主主義志向だが未成立) 

民主主義――民族自決、独立、平等  

 

 先進資本主義国は国内ではおおむね民主主義的ですが、国際関係においては途上国に対して抑圧的です。そこでは民主主義は多分に形式的で、実質性に欠けます。発展途上国では国内は非民主主義的ですが、国際関係においては民主主義的関係を求めています。そこでは実質民主主義が志向されます。民主主義を求める諸国人民の闘いは、各国内において民主主義形式を向上させ、その実質化を目指し、国際関係においても民主主義的関係の形式を実現しさらにその実質化を求めています。

 もちろん以上はまったく単純化されており、現実は非常に複雑ですが、一つの思考基準の整理として無意味ではなかろうと思っています。さらには拙文「『民主主義における形式と内実』考」の中の「国内民主主義と国際関係」を参照してください。

 

 

「グローバル・サウス」言説のうさんくささ

 

 以上では主に「先進民主主義国」の偽善性を中心に見てきました。その点では対抗概念としての「グローバル・サウス」に注目する必要があります。しかしそこにも問題点があります。斎藤幸平氏が『人新世の「資本論」』で地球環境危機の被害者として採り上げたことなどから、グローバル・サウスという言葉が人口に膾炙するようになり、体制側さえも普通に使用するようになりました。関連して、深草亜悠美氏の「気候危機とグローバル・サウス」の結論は以下の通りです。

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 気候変動の原因である人為的な温室効果ガスの排出の責任は各国や各人に平等にあるのではなく、気候危機による影響は平等に全ての人々に降りかかるわけでもない。むしろ、ほとんど温室効果ガスを排出していない人々こそ大きな影響を被っている。そして、そんな不平等の根底には、環境や人権を顧みない開発モデル、採掘主義、搾取、人種差別が蔓延している。気候危機から脱出するために化石燃料の利用をやめることは重要だ。決して簡単なことではないが、もっと踏み込んで危機をもたらしてきた社会構造そのものを変化させていくことに取り組んでいく必要がある。      60ページ

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 これは確かに気候危機におけるグローバル・サウスの受難と先進資本主義諸国の責任を主張しています。であれば、たとえば岸田首相のような人物がグローバル・サウスなどと抵抗感なく口にするのはおかしいはずです。深草氏が「途上国VS先進国」という単純な図式以上に踏み込んで、「環境や人権を顧みない開発モデル、採掘主義、搾取、人種差別」などの「危機をもたらしてきた社会構造そのもの」を告発していることからすればなおさらです。それはともかく、ここでは被害者としてのグローバル・サウスが強調され、私としてはそれに異存ないことを確認しておきます。

 さらなる問題提起を見ます。井出文紀氏は「メディアがいうようにグローバル・サウスを途上国、新興国を指す言葉として使ってよいのかという問題があります。途上国のなかでも、資本と権限を握る層がいる一方で、経済発展の恩恵にまったくあずかれていない人々がおり、その格差は拡大しています。同様に、先進国の国内においても格差と分断が深刻化しています」(所康弘・長田華子・井出文紀・山中達也各氏による誌上シンポジウム「グローバル資本主義を問う ラテンアメリカ、アジア、中東・アフリカの実情から5051ページ)と指摘しています。したがって、「世界中で、放逐され、不可視化されている人々が現れている」ので「従来の国民国家という枠組みを超えた形でとらえていかなければならない」とも主張されます。

グローバル・サウスという言葉を使う体制側の問題意識は、途上国を国民国家次元で、グローバル資本主義秩序の中の帝国主義陣営にどう取り込むかということですから、深草氏の言う「危機をもたらしてきた社会構造そのもの」には手をつけないということに注意する必要があります。ただし国民国家視点と井出氏のような階級視点とは機械的に区別できるわけではないので単純ではありません。地球環境危機において、途上国人民は被害者ですが、途上国の支配層や政府がどの程度人民の立場に立つのかは様々でしょう。グローバル資本に追随する政府があり得るし、そうでなくても自国民に対して抑圧的な政府もあります。おそらく人民の民主的立場からグローバル資本に抵抗する政府は少数でしょう。

途上国の状況についてはたとえば、「アフリカ西部や中部では近年、軍が力ずくで権力を取る事例が後を絶たない。20年以降、マリ、ギニア、ブルキナファソ、ニジェール、ガボン、スーダンで計8回のクーデターが発生した。多くがサハラ砂漠南部のサヘル地域で、旧仏領という背景がある」(「(世界発2023)アフリカ、クーデターのうねり 20年代だけで8件、新たな「脱植民地化」か」、「朝日」1116日付)と言われます。これらにテレビニュースで接したときの私の第一感は、「またクーデターで軍部独裁か。困ったものだ」というものでしたが、「脱植民地化」という意味も捉えねばなりません東京外国語大の武内進一・現代アフリカ地域研究センター長は「旧仏領は、政治的に独立しても、実態は植民地時代の状況を引きずってきた。それが徐々に『アフリカ化』している。クーデターも、フランスとの関係を断ち切っていく流れの中の一つとみれば、『脱植民地化』の過程が、新たな局面に入ったと言える」と説明しています(同前)。さらに「赤旗」927日付は、マリ・ブルキナファソ・ニジェールのクーデターの経済的背景と軍事情勢について、次のように指摘しています(「仏軍のニジェール撤退 “富の収奪”に国民の不満 アフリカ諸国『脱植民地化のうめき』」)。

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 これらの国の国民は、フランスに富を奪われていると不満を募らせています。例えば、ニジェールに豊富なウランの鉱山事業は、フランス政府が筆頭株主の原子力企業オラノ社(旧アレバ社)が独占。同社からニジェールへの利益還元率はわずか12%(14年以前は5・5%)にすぎません。

 さらに、西アフリカ諸国は、植民地時代からの共通通貨CFAフランでフランスに従属させられてきました。この通貨は実勢より高くユーロに固定されており、フランス製品への依存と国内産業の発達の阻害要因と批判されています。さらに、各国の外貨準備高の半額をフランスの中央銀行に預けることが義務づけられてきました。

 この地域は、フランスが主導した2011年のリビアへの軍事介入によるカダフィ政権崩壊の影響にも苦しめられました。大量の兵士と武器の流入で、治安が悪化。さらに、地球温暖化による飢饉(ききん)や砂漠化、コロナ危機に乗じてイスラム武装勢力が勢力を拡大しています。

 これらの国の軍部は、植民地時代から駐留する仏軍では治安が守れないと主張し、クーデターを起こしました。15カ国で構成する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)による資格停止や、欧米からの援助停止を受けてもクーデターが繰り返されるのは、軍事面でロシア、経済面で中国から支援を受けられるという思惑があります。

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つまり新自由主義グローバリゼーション下でも継続されてきた新植民地主義的収奪と帝国主義的軍事介入、それに「反テロ戦争」による被害といった「先進資本主義国」のもたらす災厄を回避するのに、中国やロシアという「専制主義国家」の支援を期待するという構図が見て取れます。それは自国内の非民主的体制と親和的だということが無関係ではないし、さらには中ロの覇権主義にも目をつぶることにつながるでしょう。ここに「脱植民地化」の光と影があります。確かに20世紀以降を通じて、植民地・従属国の独立がもたらした世界平和や民主主義的国際関係への貢献は重要であり、社会進歩上の意義は非常に大きいと言えます。しかし、それは手放しで評価しうるものではない点に留意すべきです。 

たとえば、「赤旗」1224日付の書評欄は、別府正一郎氏の『ウクライナ侵攻とグローバル・サウス』(集英社新書)を「ウクライナの現地ルポと、ロシアを非難する国連総会決議に棄権したグローバル・サウスの国の人々の苦しい胸中を載せた一冊」と紹介しています。同書で、ウガンダの大学教授は、同国の国連総会での棄権は「倫理的に問題」だが、侵攻に反対しても「国民の食卓に食べ物を運んでくるわけではない」と述べています。このような「苦しい胸中」を理解した上で、的確な評価と対応が求められます。もちろんASEANのように、現実主義的で積極的な貢献をなす地域もあるということを念頭に置きつつも、「グローバル・サウス」言説の前に無批判に拝跪するような風潮には距離を置くことが必要です。たとえば、ロシアのウクライナ侵略戦争に対して曖昧な立場だったり、経済制裁に協力しないグローバル・サウス諸国があるからといって、ロシアの犯罪性が少しでも減るわけではなく、侵略戦争・国際法違反への厳しい断罪は変わらず貫徹されねばなりません。もちろん帝国主義陣営による途上国取り込みのためのへつらい言葉としての「グローバル・サウス」言説は論外です。

 

 

          ハマスのテロ、沖縄の非暴力闘争

 

平井文子氏の「イスラエルの領土拡大プロセスとしての『新ガザ戦争』について、基本的趣旨に異論はないし、「今後の展望をイスラエル右派の夢である『大イスラエル主義』という視点から歴史的に捉えてみたい」(25ページ)という内容で、「新ガザ戦争」の意味がいっそう明らかになっており、PLOやオスロ合意の問題点についても認識を深めることができます。

ただハマスの武力抵抗をどう見るかについては考えるべき問題があります。

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 歴史的タームで見れば、ハマスの奇襲攻撃は、基本的にはイスラエルの抑圧に対するパレスチナ側のレジスタンス、民族解放闘争の一局面と見ることができる。たとえその戦術の一部に不適切な面があったかもしれないにしてもだ。  25ページ

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 この前段の部分は正にその通りですが、後段の部分についてはどうか。罪のない民間人を殺す作戦はいかなる意味でも正当化できないのではないかと思います。ただし国際社会がイスラエルの暴虐を長年放置し、無関心が高まる中で、たとえ非人道的攻撃を用いてでも事態を打開したいという動機は理解できないでもありません。そうすると、いかなる場合も非暴力を貫け、という言説が傍観者のキレイゴトと聞こえます。

 そこで想起されるのが、辺野古新基地建設反対などの沖縄の人々の非暴力闘争です。もちろん私はそれを断固支持します。しかし、一片の道理もない米日政府のゴリ押しとそれに完全に従属した司法の体たらく、保守病にかかった本土の人々の無関心の下で、正義はまったく実現していません。まさにパレスチナ的状況です。だからといって暴力闘争に展望があるわけではありません。それを敢行しても、悪政・権力の暴走に対して無気力な世論が、抵抗者に対しては不釣り合いに凶暴な悪罵で答えるのが目に見えています。ストライキさえ、迷惑視を恐れて封印されている状況ですから。三権分立・司法の独立が形骸化し、ブルジョア階級の権力支配のイチジクの葉に堕している今、事態の打開には、保守的な本土の誤った世論(無関心を含む)を変え、まともな政権交代を実現するほかありません。非暴力闘争の貫徹という主張は傍観者のキレイゴトに過ぎない、という謗りを免れるためには、そうするほかないでしょう。

 繰り返し言うならば、ハマスのテロ行為への批判は避けられません。しかし、ただ非暴力が正しいと言うだけでは、世界の様々な現場における抑圧への無理解と放任への免罪符に堕する可能性があると言わねばなりません。沖縄における米日政府・権力の暴虐が放任されている現状への痛みを日本本土の人々がどれだけ共有しうるか、社会変革を目指す勢力がそこに向けてどれだけ有効な闘争をなしうるかを考えることが、ガザでのハマスの問題を考える際に必ず同時に想起されるべき課題だと思います。

 

 

          グローバル資本主義の展開と発展途上国の変革

 

 所康弘・長田華子・井出文紀・山中達也各氏による誌上シンポジウム「グローバル資本主義を問う ラテンアメリカ、アジア、中東・アフリカの実情からでは、4人の研究者がそれぞれの専門領域である、中南米、南アジア、東アジア(東南アジアを含む)、中東・アフリカの現状分析を通して、経済成長と格差拡大など、グローバル資本主義の実像に迫り、変革の課題と展望を考察しています。

 討議の土台となった研究対象の国と地域は、それぞれの地理的・歴史的状況に応じて個性的な発展過程と現状の到達点を示しているので、それに即した感想を述べるべきでしょうが、能力的・時間的にここではもっと大雑把な感想にまとめざるを得ません。検討対象の国・地域の大方の傾向として、第二次大戦後、保護貿易や輸入代替的工業化政策を基調としていたものが、1970年代あたりを転機に80年代以降本格的に、外資導入による輸出指向型産業政策へ転換し、新自由主義グローバリゼーションに突入する(あるいは巻き込まれる)ことになります。そこでは明暗が分かれ、発展途上諸国AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)では先輩格の中南米が挫折し、アジア諸国(NIEsから起動し南アジアへ)はその波に乗り、アフリカが続きつつあります。

 ここで世界史上の資本主義近代化のコースを見ると、典型的には、ブルジョア革命を経たイギリス・フランス(アメリカも加えるか)が下からの資本主義化を成し遂げ、それに促迫され対抗して、ドイツ・ロシア・日本等が上からの資本主義化を実現しました。第二次大戦後の発展途上国は、まずアメリカを中心とするブレトンウッズ体制による資本主義世界体制下で、上からの資本主義化を課題とします。ただしその際、冷戦期にはソ連中心の「社会主義世界体制」が曲がりなりにもあって、インド・バングラデシュ(33ページ)や一部のアフリカ諸国など一定の影響を受けた国があることも忘れてはなりません。したがって、1980年代以降に新自由主義グローバリゼーションが世界を席捲するより前には、開発独裁・癒着腐敗体制等を伴ったりもしますが、それぞれのやり方で国民経済のバランスを曲がりなりにも確保していたことが、当シンポジウムでの、中南米とアジアの事例紹介で見て取れます。

ところが、新自由主義グローバリゼーション下では、急速な資本蓄積=搾取強化に従来路線が追いつけず、発展途上国は路線転換し、「上からの新自由主義化」を進めて、急速な経済成長に成功した国と失敗した国に分かれます。成功した国でも格差拡大と国民経済のアンバランスが問題となり、21世紀の世界金融危機やコロナパンデミックで貧困層に困難が集中しただけでなく、改めて国民経済のバランスが問い直される事態となっています。チュニジアについてはこう言われます。 

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 こうした世界的な危機のなかで、チュニジアの経常収支を均衡させ、社会経済の安定をはかるためには、国内の穀物生産効率を高め、生産量を増大させる必要があります。それは、これまで幾度となく行なわれたIMFの融資や新自由主義的な介入を避ける手段になり得ます。在外および沿岸部富裕層不在地主の土地を適切に売却、分配し、地場の環境に適した農業を振興するほかありません。それにはICTを駆使した生産・水資源管理、節水潅漑設備の拡充、国際協力の拡大が不可欠となってくるでしょう。

      51ページ

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食料自給の強化は日本にも共通する事柄ですが、新自由主義的な介入で混乱した国民経済のバランスを、ICTなど最先端の生産力を駆使することも含めて回復することが課題として提起されています。もっとも、チュニジアの場合は純粋な新自由主義体制が成立しているわけではありません。そこにあるのは、新自由主義と縁故資本主義の「ハイブリッド」体制(37ページ)であり、「新旧の既得権益者たちが資本蓄積の手段として採用したのが」「恣意的な規制とそれに守られた市場というやり方」(41ページ)により、それが経済成長にもつながらずに閉塞状態に陥り、人民の不満が爆発しています。しかし、新自由主義グローバリゼーション下、バングラデシュで輸出向け縫製産業の躍進により貧困の減少などに成功した例でも、大問題が生じています。成功の原動力の一つとして、ジェンダー差別や「工場のガバナンス不全」による安価で劣悪な労働条件が挙げられ、2013年にはラナ・プラザの崩落事故を招き(46ページ)、2020年のコロナパンデミックでは女性労働者の解雇(43ページ)など矛盾が爆発しています。したがって、新自由主義体制の浸透度の如何にかかわらず、今日の時点で労働者・人民の生存権の保障を含む国民経済のバランスの回復が重要な課題として挙げられます。

 次にグローバル資本主義=新自由主義グローバリゼーションの変革の展望を考えます。社会進歩の観点において、先進資本主義国とは別に、新興国と発展途上国で対照されるのがASEAN(東南アジア諸国連合)と中南米の左派勢力です。新自由主義グローバリゼーションの勝ち組のASEANは外交による平和の課題で世界でも最先端の貢献をして注目されますが、社会主義的変革に関しては話題の外になります。素人目には、各国の経済構造と階級対立などが分析課題として残ります。対して、中南米は新自由主義グローバリゼーションの負け組で、矛盾が激化したため、左派の様々な勢力の存在感が強く、政権につくこともあります。しかし変革の歩みは各国ごとに紆余曲折を経て定まっていません。

 そこで中南米諸国の社会経済構造とそこにおける変革対象がまず問題であり、それをふまえて左派内の諸勢力の性格が分析されねばなりません。シンポジウムでは所康弘氏が詳しく論じています。私としてはここで前者の課題について触れる能力はあまりないので、主に後者について言及します。日常的な報道のレベルでは、中南米の様々な左派勢力内の異同について分析されることは少ないので、変革課題を踏まえて所氏がその点について説明しているのが非常に参考になりました。

 所氏によれば、中南米では三つの勢力があります。第一は特権階級・寡頭支配層らによる新自由主義国家構築の勢力(45ページ)、第二は中道左派(同前)、第三は新自由主義国家に対して多様な要求を突き付ける自律的な、かつ無数の草の根的な社会運動や抵抗運動、非暴力蜂起を行なう勢力(48ページ)です。

 第二の中道左派が今世紀の中南米において変革の波の中心を担っていることもあり、詳しく解説されます。その際に三大勢力から漏れた旧勢力を見る必要があります。それは1960年代まで展開された「社会主義」革命路線(3839ページ)であり、土地改革や国有化などを志向した「古典的左派」の潮流(41ページ)です。シンポジウムでは触れられていませんが、中南米でその路線で唯一革命を成功させたのがキューバでしょう。それはソ連型の20世紀社会主義体制につながるものであり、ソ連・東欧社会主義体制の崩壊後も生き残っています。その評価は様々だと思います。自由や民主主義がなく、経済も停滞しているという点では、ソ連型の弱点を引き継いでいますが、生き残っているのは、ソ連のものまねに留まらない、キューバ人民の生活と労働に根ざした何かを持っているためでしょう。社会主義的政策によって社会的厚生においては、他の中南米諸国より優位にあったという事情があるし、またアメリカ帝国主義への頑強な抵抗勢力としての存在感は重いものがあります。したがって、20世紀末のベネズエラ革命以来、新自由主義に抗して中南米で様々な性格の左派が伸張する過程では、潮流の如何に関わらず、キューバやカストロは精神的支援者の性格を持っていたように思います。

 とはいえもはや中南米諸国では「古典的左派」の勢力は弱く、中道左派が中心となっています。それは共産主義(=レッド)までいかない左傾化のピンク・タイドと呼ばれています(39ページ)。ピンク・タイドの政権運営のからくりとその限界について以下のように説明されます。

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 その基本的なメカニズムは、2000年代半ば以降、中国や新興国の資源需要の激増とそれに伴う資源価格の高騰による資源ブームという外的要因に乗じて、資源採掘とその輸出を経済成長のエンジンにすえるものでした。資源輸出で得た利益の一部を貧困層向けの各種予算に集中的にあてたのです。        39ページ

 

 ラテンアメリカではピンク・タイドへの政権交代と政策転換のおかげで、2000年代半ば以降、貧富格差は改善し、ブラジルなどでは現金給付政策の効果もあって「新中間層」の増大という成果も出ました。ところが、ピンク・タイドのポジションは土地改革や公有化などを志向した「古典的左派」の潮流に位置するものではなく、外資系多国籍資源採掘企業に依存し、外資主導型の資源開発モデルの熱狂的な促進者であり、支援者に留まりました。

 ピンク・タイドは、レント収入の本国への送金を抑制したり、私有財産権の一部を規制したり、監督当局による監視を強化したりするなど、「新自由主義国家」ほど資本や富裕層に従属的ではなかったものの、結局、多国籍資源メジャーや外資系企業の活動を優先し、グローバル資本家階級と利害調整を図ったのです。その一方で、国内の資源埋蔵地域のコミュニティや先住民村落に対しては敵対的で、攻撃的な姿勢をとりました。

        4142ページ

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 やがて状況の変化により、こうした性格を持つピンク・タイドは凋落していきます。

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 ラテンアメリカのピンク・タイドは2010年代半ば以降になると状況が一変し、世界金融危機、資源ブームの終焉によって輸出収益源と財源不足に陥り、再分配政策は限界に達しました。その一方で、政権運営や人事に関わる汚職も顕在化し、特権的な恩恵を受けることのできたアクターとできなかったアクター間の矛盾や市民社会の分裂も深刻化し、最終的には左右両派からの挟撃にあう形で急速に大衆的支持を失っていきました。

      45ページ

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 やはり国有化路線はともかくとしても、土地改革の貫徹を含む古典的左派の路線は社会変革のキーポイントを押さえていたと言えます。しかし、社会変革を考える上での痛切な問題点として、現実に政権運営を担う上で、ピンク・タイドが新自由主義国家のドラスティックな転換に関心を持たなかったということは重大です。その理由を考えることは、社会変革にとって一定の普遍的意義を持ちます。所氏は以下の4点を指摘しています(4546ページ)。

1)新自由主義国家の強固な法的・制度的枠組みが依然として強力に機能している。

2)債務返済や利払いのため新自由主義推進派の国際諸機構(世界銀行、IMF、米州開発銀行、OECD)と妥協せざるを得ない。

3)グローバル・サプライチェーンに組み込まれているので多国籍企業や外国市場に依存せざるを得ない。 

4USMCA(米国・カナダ・メキシコ協定)やCAFTA(中米自由貿易協定)などを締結済みで劇的な方針転換は困難である。

 日本や発達した資本主義諸国ではいくらか違いがあるとはいえ、これらはいずれも深刻な難題として参考にすべきです。社会の根本的変革が現実的にいかに進行しうるか、そのハードルとしてしっかり意識し、政権運営の局面ごとに具体的に処理していくことが求められます。

 古典的左派はほとんどなく、ピンク・タイドも限界を抱えている中で、ポスト新自由主義を進めるために、ピンク・タイドと協力しつつも、さらに新しい勢力の台頭が期待されます。所氏はその第三勢力を以下のように描いています。

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長期的プロセスを要する社会変革にむけて、次代の主体の形成のために自律的な草の根運動や非暴力的民衆蜂起に対する国際的連帯の重要性を喚起し、ローカルの次元で「下」からの運動を支え、住民参加型の地方自治の運動や社会的連帯経済運動の推進などを進めることが非常に重要だと思います。さらに地域ブロックの米州ボリーバル同盟(ALBA)やラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)などの戦略的同盟を深化させ、ラテンアメリカ全域を包含するようなリージョナルな制度的枠組みの試みも追求していかなければならないといえます。           49ページ

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 新自由主義グローバリゼーション下において、既存の左翼が凋落し、このような第三の潮流が勃興することについて、デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義 その歴史的展開と現在(渡辺治監訳、作品社、2007年、原著は2005年刊)は、新自由主義的資本蓄積様式の特殊性、「拡大再生産にもとづく蓄積」から「略奪による蓄積」への変化などから説明しています。詳しい内容は忘れてしまったので、また確認しておこうと思います。

 第三の潮流について思い出すことがあります。何年か前にある経済学者の講演を聞き、そこで何かの質問への回答の中で次のように述べられました。――アナーキーな潮流がいろいろ出てきているが、やはりきちんとした「前衛」がしっかりしてなければいけない。―― 昨今はマルクス主義研究者でも、個別課題に沈潜して、全体的な変革課題に正面から発言することは避けられる感がある中で、その講演にはやや例外的な熱気を感じたものです。「前衛」発言には、良くも悪くも実にオールド・ボルシェヴィキ的センスだと感じましたが、率直な問題提起ではあります。

 「略奪による蓄積」による様々な被害者たちがそれぞれの切実な利害に基づいて、個別分散的に抵抗している状況が第三の潮流出現の必然性というところでしょうか。所氏がそうした運動の連帯、国境を越えたリージョナルな・あるいは国際的な連帯を提起しているのは、運動の分散性が弱点と意識されているからでしょう。しかしそうした連帯の構築においては、(新自由主義によって破壊された)人々の生存権保障を伴う国民経済の再建が中心に位置づけられ、その体系的政策展開が必要となるように思います。その担い手を「前衛」と表現するかどうかは別として、下からの草の根的な運動の持つ切実性と地に足の付いた着実さを基盤としうる中央でのリーダーシップは不可欠でしょう。

 なお、当シンポジウムの中では傍流の問題ですが、チュニジアの労働生産性の産業別比較に言及されています。農業・漁業部門の労働生産性は低く、銀行や保険、通信、ITCなどは高く、建設業や小売、卸売といった産業は平均以下という具合です(41ページ)。これは経済統計の付加価値生産性に基づいていると思われます。チュニジアに限らず、どこの国民経済においても、こうした比較を労働価値論の立場からどう考えるかが問題です。付加価値生産性の差をストレートに労働生産性ないし労働の複雑度の差としてだけ見ていいのか。不等労働量交換による収奪関係をそこに読み込むことも必要ではないかと思われます。

 

 

          現状維持、改良、変革 その理念

 

 中南米の左派の苦闘を見ると、社会の根本的変革の難しさが浮かび上がってきますが、それは世界共通の普遍的問題でしょう。そこでまったく立場は違いますが、一つの参考になる記事が、「(インタビュー)自由な台湾、蔡政権の先へ 蔡英文・台湾総統の元最側近、姚人多さん」(「朝日」1220日付)です。政権を担う者が、人々の支持を確保しつつ、対外関係に破綻をきたさず、漸進的な変革を安定的に遂行するにはどうすべきかについての慎重な心構えを姚氏が語っているように思います。もちろん保守的立場からの発言であり、語られた事実についてもすべて鵜呑みにするわけにはいきませんが、政権運営の技術あるいは機微の理解に資する発言として耳を傾ける価値があります。

 記事内容に立ち入る前に前提的問題について書きます。中台関係については、「一つの中国」が堅持されるべきと思います。それは中国にとって、19世紀以来の欧米日の帝国主義的侵略からの脱却の決算に位置する問題であり、譲れないでしょう。本来なら、中国が民主化され、台湾住民の合意に基づいて中台統一が実現されるべきですが、それは現実的見通しが立ちません。もちろん武力統一は問題外だし、台湾独立も適切ではありません。したがって、今のところ現状維持で行くしかないでしょう。

 「一つの中国」原則の下で、台湾は今でも国交を持つ国が世界中で極めて少数ですが、かつての孤立状態とは違って、今日では大きな存在感を示しています。それは一つには製造業の中核に位置する半導体生産で高い世界シェアを誇っていることにより、もう一つは先進的な民主主義社会として世界から尊敬されていることによります。こうした点では、日本は大きく後れをとっています。思えば、戦後の東アジアで日本は唯一の民主主義国のつもりでいたのですが、かつて独裁国(地域)であった韓国と台湾に民主主義の水準で今では大きく水をあけられました。(人民の闘いがあるとはいえ、政権の水準では)アメリカ占領軍から与えられた民主主義に甘んじてきた日本と、人民の意思で独裁政権から民主主義政権への移行を勝ち取った韓国・台湾との差です。

 日本の伝統的親台派は反共右翼ですが、いい加減こういう恥ずかしい勢力にはお引き取り願って、台湾の民主主義に学ぼうという若い人たちに変わってもらいたいと思います。台湾の中でも、中台関係については、台湾独立を綱領で掲げる現与党・民進党と中国との関係を重視する野党・国民党とでは、後者がよいと思えますが、民主主義政策では前者が優れています。たとえば原発について民進党は反対ですが、国民党は支持しています。

 インタビュー記事では、まず蔡英文総統が対中関係で慎重な姿勢を貫いたことが称えられます。なんといっても台湾にとってこれは最重要かつ難しい課題です。小さくて、中国との関係を自ら左右できる力がない「台湾の悲哀」を蔡総統は自覚し、中国を過度に刺激しない方針を徹底し、両岸の「現状維持」を中国に求めました。民進党綱領の台湾独立を脇に置いて。そうして対中関係のきわどい安定を維持しつつ民主化を進めました。アジア初の同性婚の法制化に踏み切った背景はこう語られます。

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 「台湾社会は、人々の対中姿勢によって分断されています。蔡氏はこれを危険な状態だと考え、対中イデオロギーの違いを強調するのではなく、民進党のリベラルな理念を訴えて、若者ら無党派層の支持を拡大しようとしました」

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 ただし法制化の過程では民進党支持者内の保守層から反発があって、蔡総統には躊躇もありました。そこで姚氏は「同性婚を認めることで、台湾はより安全になる」と法制化の決断を促しました。その意味は次の通りであり、民主主義と外交における見事な価値=政策判断だと思います。

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 「台湾は自由と民主主義の価値観を尊重しており、権威主義の中国とは違うと世界に示すべきだという趣旨です。その結果、国際社会で台湾をいとおしみ、守らねばならないと考える世論が強まり、台湾の行使している主権がより安全になると考えました」

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 以上、もちろん社会主義的変革とはまったく次元の違う話ではありますが、難しくなかなか変えがたい現実にどう向き合って、破綻をきたさず慎重に現状に鍵穴を開けるか、その政治姿勢・技術には見習うべき点があるように思います。

 

 

          企業団体献金と「政治改革」幻想

 

 自民党派閥のパーティー券問題で蜂の巣をつついたような騒ぎになっています。細かいことはいくらでも言えるでしょうが、私が今大きく言いたいのは、メディアなどのミスリードによって問題の本質がまったく隠されているということです。政治資金の透明化が最大の問題で、そのために政治資金規正法を改正するとか、自民党の派閥をなくすことが必要とか、様々に言われています。しかし、最大の問題は、企業団体献金の禁止であり、その一環として政治資金パーティーを禁止することです。これがまったく課題に上ってきません。政治資金の透明化などというのはやって当たり前で、それだけでは、政治腐敗と反民主的な政治の一掃には全然近づけません。「裏金」が問題にされていますが、「表金」ならいいということではありません。それは企業による政治買収が合法化されているということに過ぎず、「表金」も非合法化すべきです。

 自民党の体たらくを見て、「政治は私たちとは関係ない汚いもの」と人々が思うことが最大の懸念材料です。そうではなく――企業団体献金という政治買収によって非民主的で人々の利益に反する政治が続いているので、政治が腐敗しているだけでなく、私たちの生活が苦しくなっている、だから企業団体献金を禁止することによって政治を私たちに取り戻そう――世間一般がそう思わなければなりません。「政治と金」問題の本質は、「政治をきれいにしよう」に留まらず、企業に買収されて形骸化した民主主義を実質化することにあります。

 「朝日」社説、1221日付「自民2派閥捜索 様子見排し自浄作用を」は「国民の負託を受けた政治家は、捜査の行方をただ見守るのではなく、進んで実態を明らかにし、抜本的な再発防止策を講じるなど、自浄能力を発揮すべきだ」という毒にも薬にもならない一般論を言うだけで本質に切り込んでいません。それどころか、「受け身で、対応が後手に回る首相や党執行部の姿勢をただす声が、内部からほとんど上がらないのは深刻だ。かつて、リクルート事件で政治不信が極まった際には、党内の若手から改革を求める声が湧き起こり、その後の政治改革へとつながった」などと言い出す始末です。かの「政治改革」とは、政治買収の問題を解決すべきところを、(民意を歪める)小選挙区制導入にねじ曲げ、その後の保守独裁の基盤を築いたものでした。この社説には政治的良識がまったくありません。あの「政治改革」熱病時期に、社内で「守旧派」呼ばわりされても小選挙区制断固反対を貫いた真のジャーナリスト・石川真澄氏の遺志を継ぐ者は「朝日」にはいないのだろうか。「朝日」編集委員の高橋純子氏は、安倍政権と妥協なく闘い続けた人らしく、さすがに上記社説よりはもう少し気の利いたコラムで、自民党政権に退場を言い渡しています(「(多事奏論)政治とカネ 主権者のみなさん、この混沌は好機」1223日付)。しかし、企業団体献金=政治買収の問題には迫っていません。

大方支配層の視点に立ってしまっている主流メディアの中で、TBS系「報道特集」は調査報道を駆使する数少ない批判的ジャーナリズムのテレビニュース番組です。1223日は特集2題で、自民党派閥パーティー券問題と沖縄辺野古新基地建設問題を採り上げていました。後者については、日米安保体制批判には至らないという限界はありながらも、民主主義と地方自治とを擁護する視点で、沖縄県の立場から政府と司法を批判しており、見応えがありました。しかし、前者については、派閥政治や政治改革という観点に囚われていて、大企業・財界による政治買収の問題という本質的視点がありません。希有にまともなテレビニュース番組でさえこれでは、今回もまたメディアによる世論のミスリードによって腐敗政治の根源が放置されるのが目に見えます。これでまたリクルート事件当時の「政治改革」並にお茶を濁して終わりでは、政治的ニヒリズム・シニシズムの一層の蔓延を招くだけでしょう。保守・リベラルを問わず、「安保条約・小選挙区制・消費税」の3点セット(「あんしょうしょう」と私は呼ぶ)を不動の前提にしている主流メディアの限界があらわです。ただし、「朝日」1226日付の「(交論)政治とカネの問題 上脇博之さん、白鳥浩さん」は、主流メディアと同意見の白鳥氏だけでなく、「赤旗」と同意見の上脇氏も登場させています。両論併記という限界内ではありますが、かつての「政治改革」の失敗を断じ、「企業団体献金はもちろん政党交付金もやめる。憲法の立場で抜本的に改革するしかありません」という正論を掲載させたのは、「赤旗」と上脇氏の奮闘が、主流メディアも無視し得ない力を発揮した結果です。

 昼のニュースバラエティ番組に至ってはまったく保守的で、ある番組では、事態を改善して自民党に何とか立ち直ってもらいたい、というスタンスでした。高橋純子氏ほどの見識はありません。始めから野党は頼りにならんと言って、政権交代を世論の視野から外したのはメディアの報道姿勢による部分が大きいのだから、泥船の自民党に今さら期待せざるを得ないのは自業自得というほかありません。メディアは、社会保障の充実などという要求に対しては、「バラマキだ、無責任財政だ」と戒めるのが使命だと思っています。つまり大企業・財界のための政治ではなく人々のための政治が必要だという観点がありません。メディアにとってはそれが「自然体」であり、それを脱する想像力が欠如しています。したがって、パーティー券問題に際して、「自民党政治を終わらせよう」というスローガンを日本共産党が提起しているのは時宜にかなって問題の核心を突いているのです。なお、1227日に開かれた「自民党政治を終わらせよう緊急集会」における共産党の小池書記局長の基調報告はこの問題の概要と本質と対策を簡潔明瞭に語っており(「赤旗」1228日付)、時間がないというに人もぜひお勧めです。

 政府・支配層・メディアによって、「政権担当能力があるのは自民党だけ」と思い込まされてきた世論を突き崩すことが喫緊の課題です。「赤旗」1220日付の「きょうの潮流」は、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏が、「救国内閣」の組閣案をSNSで発信しているのを紹介しています。そこでの田村智子首相ほかの具体案については、様々な意見があるでしょうが、同記事の強調点は、「山崎さんは、実現可能か否かではなく、こういう方向性の内閣ができたら、日本の社会は、自分たちのくらしはどう変わるだろう、とイメージしてもらうのが目的とも。そして社会は人が変えられるものだと」いうこと。これまで意図的に抑え込まれてきた想像力をいかに喚起するかが、社会変革への知恵の絞りどころです。

 

 

          断想メモ

 

 カール・ポパーと言えば、著名なマルクス批判家で、反共主義者にも利用されますが、学問的にも重視される存在で、岩波文庫にも収載される古典を物しています。残念ながら読んだことがありません。そこでこのたび、田代忠利氏の論説「カール・ポパー『開かれた社会とその敵』 社会発展の法則性と人間の能動性を対立させる議論」(「赤旗」1212日付)を拝読しました。

 田代氏はポパーによるマルクスの恣意的な引用を批判しつつ、見出しの通りに「社会発展の法則性と人間の能動性を対立させる議論」を中心的な批判対象としています。確かにそれが問題の核心なのでしょうが、それでは「社会発展の法則性」と「人間の能動性」との関係をどう理解すべきかの積極論があまり展開されていません。

わずかに「社会主義が必然とは、いずれは到達するという意味です。『陣痛の短縮・緩和』とは、人間が歴史の発展法則に沿って社会に働きかければ、変革が短期間で円滑に進むことの比喩です」と説明されています。これだと歴史上の時間の長短の問題だということになりそうです。不勉強な私に答えはありませんが、両者には必然的なもっと深い関係があるのではないでしょうか。  
                                 2023年12月31日






2024年2月号


          「失われた30年」の現状と打開策

 

黒澤幸一・大門実紀史・竹信三恵子・真嶋良孝・吉田敬一各氏による誌上討論「日本経済――『失われた30年』の転換を考える」はきわめて多くの課題を扱っていますが、以下では私の気づいたいくつかの事柄だけに触れます。

 

☆低賃金

 「失われた30年」の核心にあるのは、日本経済最大の負の遺産として「世界的に見て例外的に賃金が上がらない国」となったことです。まず国内の労資関係から、次いで国際比較を見ましょう(1417ページ)。実質賃金は1997年がピークで、それを100とすると2020年は88.9です。2023年春闘を見ると、物価上昇が3.6%に対して、賃上げは3.2%で下回っています。実質賃金は14年間で29.4万円減です。それに対して大企業の内部留保は14年間で1.8倍です。労働分配率は55%で49年ぶりの低さです。

 実質賃金指数の国際比較(1997年=100)では、2020年、日本の88.9に対して、韓国157.3、スウェーデン141.5、フランス131.8、イギリス130.3、ドイツ123.9、アメリカ122.7であり、まさに日本の例外的低位が際立っています。最低賃金を見ても日本は低額で地域格差があり、中小企業支援が貧弱です。米英仏独加豪はもとより韓国より低い(2023年)。

「失われた30年」という経済低迷の核心にあるこの世界的低賃金について誌上討論では次のように言及されます。「経済的に大変だった時も、他国は実質賃金を上げているのに、日本はその度に下げ続けています。他国は、経済が厳しいときこそ労働者に分配する政策をとるが、日本は我慢をさせる。ここに大きな違いがあると思います」(15ページ)。これは経済政策の問題に重点がある見方です。

あるいは韓国人と思われる呉学殊氏(労働政策研究・研修機構)が評していることがこう紹介されます。「日本では労働者の側が労働争議を避け、納得のいく回答がなくても、交渉を収めてしまう傾向が強く、このことが努力しない企業をつくり、日本経済を冷え込ませている原因になっている」(16ページ)。韓国などではもっと闘っているのでしょう。日本の労働者側の諦めを問題視しています。「誌上討論」では、連合などの労使協調路線が批判され、闘う労組が強調されます。それは当然ですが、そういう現状をもたらしているものを考えることも必要です。

以上のように、世界的に例外的な低賃金をもたらしたものは、まず日本資本主義の強搾取とそれを支える経済政策であり、それとともに労働者側の闘争力の弱さが表裏一体にあります。まさに日本労働者階級の世界的不名誉と言わねばなりません。それには、企業別組合というような明確な弱点だけでなく、日本社会の歴史的文化的文脈から来る、苦難をみんなの忍耐でやり過ごし、諸個人の自由や発達を後回しにするとともに、社会変革を視野の外に置く国民性のようなものが関係しているようにも思えます。そういうことはまかり間違うと観念的な日本人論に陥るので要警戒ですが、資本からの攻撃の他にも様々な社会的要因を分析すべきでしょう。

 

☆ジェンダーと社会保障

 世界的な低賃金は世界的なジェンダー後進国状況とも関係します。非正規労働者の7割は女性であり、低賃金でセーフティーネットのない状況に置かれています。それを作りだしているのが「ゾンビ型家制度」です(24ページ)。戦前の家制度がなくなったタテマエの下でも、世帯主の家族扶養義務が残され、「夫の下で女性の無償労働を使い倒し社会保障制度を抑え込む『家』の仕組を生き延びさせてきた」(同前)のでそう呼ばれます。女性のパートは家計補助なので低賃金でいいという社会意識化がずっと残っています。それで高度成長期には低賃金女性労働を量産して企業を成長させ、社会保障を抑え込みました。新自由主義期には、女性の劣悪労働に男性も巻き込まれ、低賃金とセーフティーネットなし労働が拡大しました。女性の収入がないと家計が持たないくらい男性の賃金が落ち込む一方で、女性就業率が上がっても低賃金で自立できず、それが男性や正社員の賃金も下げるという悪循環に陥っています。その打開には、ジェンダー平等で賃金を上げ、セーフティーネットプラス保育園やケア労働に重点的にお金を投入して、男女ともに安心して働けるようにすべきであり、社会保障に重点的にお金入れないと日本経済は浮上しないし賃金も上がらないという関係にあります(2526ページ)。

非正規雇用の7割を占める女性の待遇改善で賃金全体の底上げを図ることが重要であり、「誌上討論」の次の視点がそれに向けての急所を突いています。「女性は圧倒的に中小企業が多いのです。女性の地位向上というと大企業のキラキラの人が出てくるのですが、実態とかなり違っていて、中小企業と公務が、女性労働にとってはものすごく重要な鍵です」(32ページ)。「ケア労働は女性が多いので、正規公務員にするとジェンダー平等に繋がっていく。そして、そこが充実していけば、女性が外に出て働きやすくなる」(33ページ)。

 

☆中小企業問題

 低賃金構造において、中小企業問題が重要です。まず中小企業がおかれた現状ですが、「誌上討論」では「失われた30年」問題で一番大きいのは日本型グローバリゼーションだと指摘されます。アメリカは双方向のグローバル化ですが、日本は価値を生み出す産業が海外に出て行くだけで日本に入ってこず、利潤を日本に持ってきて企業は潤うが、GDPは増えないという構造です(21ページ)。

 そうした中で、1999年中小企業基本法では、グローバリゼーション下で国は国内の生産基盤ではなくベンチャー企業に重点を置き、普通の中小企業は地方自治体に任せることになっています。しかし地方自治体も財源がなく放置され中小企業の苦境は続いています。特に問題なのは、「価格転嫁ができない日本独特の下請け構造」であり、「企業間取引の対等原則ができていないということです」(20ページ)。したがって「中小企業に賃上げをやれとか、生産性が低いという前に公正な取引関係を実現する必要があると言えます」(2122ページ)。そこで国は「パートナーシップ構築宣言」に力を入れ、守らない企業を公正取引委員会が公表し、注意喚起文書を送っていますが、事態は変わりません。理由は、下請二法(下請代金支払遅延法と下請企業振興法)が独占禁止法のような規制法でなく、「注意勧告」や「社名公表」が精一杯だという現状にあります。規制法への強化が求められます(22ページ)。

 労働運動の立場では、賃金を上げて労働者の生活支えるのが経済の出発点ということになり、「中小企業、零細企業が厳しい事態に置かれているとしても、必要な賃金を払うことを大前提に経済を考えていく」ことになります(30ページ)。中小企業でも労使間対立は当然ありますが、どう対処するかが問題です。個別資本次元での問題はそれぞれに解決すべき点が多々あるでしょうが、それとともに国民経済次元での政策対応が問題です。それに対して一つには、「一番いいのは消費税をなくして購買力高めていく」あるいは「大企業に対しては特別減税をやっている」から「中小企業への期間をかぎって補助を出してくれという政策要求は、国民と共闘できる課題だと」指摘されます(同前)。それについては、「売り上げが先か賃金が先かという矛盾の解決として」、最賃引き上げと中小企業支援とをセットにすると提起され、それは米仏で実施済みと指摘されています(31ページ)。

 日本共産党の政策では、中小企業支援の財源として、大企業の内部留保への課税が打ち出されています。これはいわば死蔵となっている内部留保の有効活用です。国民経済的観点からはそう言えます。ところが、個々の企業にとっては、競争上不利になる可能性があるので、内部留保を活用できない事情があります。そこで全体に網をかける政策が必要だと企業の幹部が語っているそうです(同前)。ここには資本主義への規制として、国家権力を用いる意義が示されています。

また企業規模別労働分配率では、大企業よりも中小企業が高いという貢献を考慮すれば、原材料とエネルギー価格が高騰しているとき、中小企業への何らかの財政支援が必要です。その中で、中小企業と労働者とのウィンウィン関係を築き、価格転嫁をきちんと認めるようなルールある市場経済を形成する必要性が提起されています(同前)。

 

☆農業問題

 農業では、1961年旧農業基本法以来の「失われた60年」と言われています。今日では、食料自給率は38%で、しかも農業機械や原油の輸入依存を考慮すれば実際は10%程度だともされます(18ページ)。

1961年の旧農業基本法は60年の改定日米安保条約と貿易・為替自由化政策の受け皿法であり、「選択的拡大」政策をとっています。麦・飼料穀物・大豆(アメリカの戦略品目)を生産放棄し、拡大品目の畜産もアメリカ産の輸入飼料穀物依存となっています。1999年の現行農業基本法は1995WTO協定の受け皿法です。選択的拡大品目であった牛肉・オレンジがWTO協定では輸入自由化され、ミニマムアクセス米の輸入も押しつけられました。21世紀に入るとTPP、日米・日欧FTARCEPなど巨大FTAによる究極の自由化の嵐が吹き荒れました。曲がりなりにも旧農業基本法では、農業従事者が他階層と均衡した生活をすることを可能にするという規定の下に、食管制度(米・麦)、加工原料乳、砂糖などの価格保障制度が作られました。しかし、現行農業基本法下では、価格は市場原理に任せる新自由主義政策で、食管制度廃止や価格保障制度の改悪が強行されました。

その結果、平均的稲作経営の1戸当たり農業所得は2020年で18万円、これは時給181円であり、21年には農業所得1万円、時給10円まで下落し、22年も同様です。惨憺たる状況ですが、岸田政権は自給率向上には後ろ向きで、食料の有事立法検討に熱中しています。その前提にある2012年の「緊急事態食料安全保障指針」では、終戦直後並みの貧窮メニューを提示しています(1820ページ)。いったい何をやっているのか! 平和外交の下で安心して日々食べられるのを保障するのが政府の役割ではないのか。

 一方で、貧困が拡大する日本では、食料を買えない消費者が多く存在し、FAO(世界食糧機関)の2019年から20年の世界飢餓マップで日本は始めて「飢餓国」とされました(「誌上討論」でも驚きを持って受け止められています)。他方では、肥料・飼料輸入依存の下でその価格高騰が農業経営を圧迫しています。「食べられない消費者、作れない農家」となっています。さらには、農産物輸入額が約10兆円で、経常収支黒字と同水準であり、世界的な農産物価格高騰・円安・気候危機で輸入困難に陥る可能性があります(2829ページ)。  

その他にも、コロナ禍やロシアのウクライナ侵略戦争による混乱は食料自給率の向上の切実さを感じさせました。そこでたとえば輸入の飼料用トウモロコシを国産の飼料用米に代替することが可能と言われています。ところが、財務省と農水省は飼料用米増産を打ち止め、水田を潰して畑地化してしまいました。これで農水予算を110億円節約(23年度予算)したのです。それに対して、ミニマムアクセス米の赤字は22年度で前年比200億円増の674億円です。これは、アメリカ米価格が国産の1.3倍で売れないので飼料用にダンピング販売する際の赤字補填額です。23年度では赤字1000億円を超えます。世界有数の半導体企業にはぽんと4兆円出し、これは農水省予算(2.27兆円)の1.8倍です(3637ページ)。対米従属下の新自由主義政策の帰結がこれです。日本政府が食料安全保障を真面目に考えているとは思えません。

 こうした政策的錯誤の基礎にあるのは、日本農業の潜在力と可能性を見損なっている姿勢ではないでしょうか。私たち消費者も、国産農産物は質的に良くても高価格なので市場全体の需要を満たせない、という視点でしか見ていないようです。そこには人々の低賃金・低所得の問題がありますが、農業生産力への見方の偏りもあります。「誌上討論」の以下の指摘がきわめて重要です。

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 農業を続けられないという農民も多いのですが、自給率向上の決め手は、豊かな生産力を持つ日本の農地、特に水田の力を生かすことです。アジア・モンスーン地帯に位置し、旺盛な生産力を持つ日本の農地の人口扶養力は、1ヘクタール当たり9人で、ヨーロッパ諸国の24倍、アメリカの10倍強です。また、米は麦の24倍の人口扶養力を持ちます。こういう力を生かす政策に転換すれば、食料自給率を引き上げ、「失われた60年」から転換することは十分可能だと思います。           20ページ

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 これは「食の安全保障」の観点ではきわめてベーシックに重要です。それだけでなく、農業生産のあり方全体にかかわる見方として活かしていくべきでしょう。それに関して「誌上討論」の中では、具体的には飼料米に触れられるくらいで、いっそうの政策的展開を知りたいところですが、まずは通念の虚を突くこの発想が大切だと思います(*注)

 

   ☆「失われた30年」の政治責任と転換の方向

 新自由主義の失敗がようやく通念になりつつあり、日本経済の長期停滞の原因が賃金低迷にあることが今では各党の共通認識となっています。しかしそこに至る前史はというと、まず象徴的なのは、1995年日経連「新時代の『日本的経営』」であり、それに添った政策展開で非正規労働を拡大し、低賃金構造を作りました。企業のダンピング競争で「価格破壊」「ユニクロ現象」が喧伝され、賃金下落と物価下落の悪循環となりました。小泉・竹中構造改革による非正規労働拡大、社会保障自然増カットはそれを増長しました。

 ところが「デフレ不況」の原因は金融政策だという認識に基づき、2012年に政権復帰した安倍自公政権は翌年から異次元金融緩和を中核とするアベノミクスを強行しました。それはダイレクトに大企業富裕層優遇・株価つり上げなどに突き進み、貧困と格差を拡大しました。今日までの異次元金融緩和の10年で、儲かったのは大企業と大株主(富裕層)だけで、経済全体は劣化しました。それを自公政権も否定できず、今日の経済問題の核心が賃金低迷にあることが共通認識となるに至りました。

 他国を見れば、アメリカでは消費を重視し、政治の責任で最賃を上げてきました。ヨーロッパでは、新自由主義で賃下げ圧力がありますが、産業別労組の力で賃上げを実現してきました。韓国では政治主導の賃上げが追求されました。いずれも新自由主義への対抗によって賃金を上げてきたと言えます。対照的に、日本の例外的低賃金は新自由主義政策の促進がもたらしたものです。その政策のリクツは「労働分配率をまず下げることが大事」(成長から分配へ)とか「国民負担率が高まると経済が停滞する」(だから社会保障削減と富裕層減税)ということであり、それが破綻しました。

 そこで対策として、成長から分配ではなく、分配から成長で好循環を作るという方針です。共産党の「経済再生プラン」は賃金・社会保障費負担・税金という3つのコストカットに対応して、<○賃上げと非正規ワーカーの待遇改善 ○消費税減税・社会保障拡充・教育費負担軽減 ○気候危機打開・食料とエネルギー自給率向上>を提起しています(2628ページ)。

 「誌上討論」では政策転換の視点をいくつか提起しています。その中で公共部門の重視とローカル経済循環の再生に触れます。「官から民へ」のスローガンに象徴される、新自由主義の市場化政策が誤りだったのであり、「この30年で間違ったことは、公共部門と市場部門とをちゃんと切り分けて、役割がそれぞれ違っていて、それがお互いに相補うということを失ったことですね」(34ページ)と指摘されています。社会保障は雇用・賃金・消費を生み、GDPの約1/4を占める大きな経済なのですが、日本の社会保障支出のGDP比は低く、社会保障を削減でなく充実することが求められます。これは「小さな政府」が喧伝されたころには問題外視されてきましたが、今「失われた30年」の経験を通してようやく見直されてきました。すでに触れましたが、ジェンダー問題の解決で、低賃金構造を打破する上でも社会保障拡充は欠かせません。公共を取り戻すためには、資本や市場への民主的規制も必要です。

 ところが厚労省「新しい働き方研究会」の報告書(2023.10.20)は、「これだけ働き方が多様化して、いろんな働き方があるのに、一律で規制をする労働基準法は古い。だから、労働基準法そのものを変えてしまおう。労働時間は18時間と決まっているけど、会社の労使合意で決めればよいではないか」と主張しています(39ページ)。この期に及んで何をか言わんやです。ギグワーカーやフリーランスについて、世界的には労働者性を認め権利を守る動きがある(同前)というのに、日本では逆に労基法を変えて既存の労働者についても労働条件の悪化を強要しようというのです。新自由主義の破綻が大衆的にも認められる状況下でも、絶対に譲らず固執するのはまさに資本の魂というほかありません。これが政府文書に登場するのが日本の現実であり、1980年代あたりから、「資本の法則の過剰貫徹」と特徴付けられるこの社会の特質は永遠に不滅なのかと思ってしまいます(イヤそんなことはありえないが)。

 グローバル競争を取り仕切るのは、生産力の最先端を担うグローバル資本と言われる大企業ですが、地域に根づいている中小企業・自営業・農家などこそが、私たちの生活に密着してそれを成り立たせる中心にあります。「誌上討論」では、ローカル経済循環の再構築が主張されます。ここでヨーロッパと日本の違いが重要です。日本では、本来ローカル循環に任せるべき産業部門を大企業が握ってしまいました。衣食住型産業の「文化型産業」には地域特性がありますが、自動車・家電などの「文明型産業」は地域を選びません。ヨーロッパでは衣食住をローカル循環で回し、地域特性を活かして維持し、「記憶を重ねるまちづくり」が行なわれ、個性豊かな国際文化観光都市が生まれています。日本では逆に「記憶を消し去るまちづくり」となり、地方が崩壊しています。地域密着型の人間の生活を支える産業(ローカル循環の担い手)分野に社会的規制をかけて、グローバル資本の無秩序な侵入を防止して、地域文化を守る必要があります(3637ページ)。

 「誌上討論」では「社会保障は経済、公共は経済」だが、「この30年で進められたのは、社会保障や公共のビジネス化・市場化です。 …中略… そういうなかで、失われた公共を取り戻すことが大事ですね」(40ページ)と問題提起され、次のように結論づけられています。

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ローカル経済循環の衣食住の産業の担い手は中小企業や農家です。年金、医療、介護、福祉の充実も地域経済の好循環をもたらします。公共交通の存続も、それこそローカル循環には欠かせません。そして、地方自治体と公務労働の役割が決定的に重要です。本日の議論から地域を守り、公共を取り戻すこと、そのうえで市場と相補う関係をつくっていくこと、これが大事だと思います。       40ページ

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 多岐にわたる諸問題が衣食住と地域生活の視点でまとめられるということが、資本の暴走する新自由主義グローバリゼーションへの人間的オルタナティヴとして必須であろうと思います。日本経済の「失われた30年」(農業は60年)を克服するベースとなる視点がここにあります。

 以上、「誌上討論」の一部を取り出した、精度の悪い要約のような作文となってしまったのは遺憾とするところですが、「失われた30年」をめぐって多面的に学べました。

 

(*注)日本農業の豊かな生産力を活かす視点:労働価値論から

 大量生産による安価な農産物を良しとする基準から、日本農業は生産性が低いという通念が支配的な中で、ここでは、日本の米作農地の人口扶養力が優位だと指摘されています。それは以前におそらく「赤旗」で読んだことがあると思いますが、私のみならず多くの人々が虚を突かれたのではないでしょうか。しかしそれは「通常の経済観」が転倒しているからです。地に足のついた現物を忘れて価格世界に漂流しているということです。

 市場経済において生産物は商品となり、使用価値と価値という二面性を持ちます。(資本主義)市場経済では、価値視点が優位です。だから農産物など安い外国産を買えばいい、となります。ところがたとえば、コロナ禍やロシアのウクライナ侵略戦争で現物確保が困難になると、使用価値視点の必要性が顕在化します。食料の安全保障では価値視点は二の次にならざるをえません。

 市場価格を基準に利潤追求を第一とする観点で経済を見るのは、資本主義では当然です。しかしそれは経済の本質を見損なったブルジョア経済学の観点です。市場価格は確かに現に存在するものであり、それを通して大方の経済現象は現れますが、それはあくまで表層であり、その深層で実物と労働が動いているのをつかむことが必要です。資本主義市場経済を本質的に捉えるためには、価値論の重層性に立つ必要があります。それは例えば次のようにまとめられます。ある国民経済(あるいは世界経済でもよい)の全体はそれぞれの抽象度に応じてこう表現されます。

1)生産物とサービスの実物的体系(使用価値体系)

2)労働体系

3)価値=剰余価値体系

4)生産価格=平均利潤体系

5)市場価格=利潤体系

 通念では、1)と5)とが後者優位の下で渾然一体に把握されています。234)に現れる労働や階級を抜きにして。経済統計で主につかむのは5)です。3)と4)は直接にはつかめないし、1)と2)も分析の中心にはあまりなりません。それはともかく何かの経済対象を見るのにそういう重層性を意識することは必要です。もっぱら5)だけに頼るのでなく、別の視点があることを忘れないように。米作農地の人口扶養力という見方は5)による混在から離れた1)の独自視点を活かした現実分析の方法だと言えます。

 

 

          社会変革の捉え方

 

 本誌20241月号所収の所康弘・長田華子・井出文紀・山中達也各氏による誌上シンポジウム「グローバル資本主義を問う ラテンアメリカ、アジア、中東・アフリカの実情からの中で、所氏が中南米の社会変革にかかわる三つの勢力として、<11960年代まで展開された「社会主義」革命路線に立って、土地改革や国有化などを志向した「古典的左派」の潮流、2)中道左派:共産主義(=レッド)までいかない左傾化のピンク・タイド、3)新自由主義国家に対して多様な要求を突き付ける自律的な、かつ無数の草の根的な社会運動や抵抗運動、非暴力蜂起を行なう勢力>を挙げています。今日では古典的左派は凋落しており、ピンク・タイドが政権を現実に争う勢力として存在しています。3)の勢力は今後に可能性を残しています。所氏はピンク・タイドを中心に論じ、その存在条件と限界を指摘していました。そこで先月の感想の拙文でもピンク・タイドについてアレコレ書きました。古典的左派のような土地改革の徹底など、根底的な社会変革にまで手が届かず、グローバル資本との妥協の中で汚職などもあり、人々の支持を失う傾向があります。中南米の中でも各国それぞれで紆余曲折しているので断定的なことは言えませんが、明確な社会変革に向かいうるか微妙なところです。

 20世紀のマルクス・レーニン主義は、政治革命を中心にした上からの革命論であったように思います。強力革命ではもちろんのこと、議会制民主主義を通じた革命でも権力獲得による政治革命が中心であり、それをあいまいにすることが厳しく批判されました(「構造改革論」批判――今日では死語で、別の意味になってしまった「構造改革」)。そこで下からの社会のあり方そのものの粘り強い変革は軽視されがちだったと思われます。従って今日では逆に、資本主義の枠内でも、社会主義的変革の過程においても、地道な社会変革の漸進的なあり方が重視されると言えます。その方が地に足のついた変革であるとは言えます。しかし上記の中南米のピンク・タイドの例に見るように、それで根底的な社会変革のキーポイントを外す可能性もあり得ます。この「上からVS下から」「政治VS社会」「断絶性VS漸進性」といった対立ないしは両にらみ状態をどうこなすかという問題があるように思えます。そんなことはあまり観念的・抽象的に言っても仕方なく、変革過程上、具体的に対処するほかないという気もしますが…。

 小栗崇資氏の「SDGsの危機と資本主義の変革」は表題について果敢に挑んだ論考と言えます。そこで、せっかく積極論が展開されているのに、以下では、中心を外れたところでの斜めの雑駁な感想になってしまって恐縮ですが、若干記します。

SDGsは国連で決定され、その内容は論文にもあるように、なかなか画期的ですが、新自由主義勢力も含めた妥協の産物でもあります。それが文字通りに実現されるのか、社会主義的変革とはどういう関係にあるのかは気になります。論文ではひたすらに漸進的改革が説かれているようであり、それは確かに現実的努力ではありますが、それで社会変革に至るのかは見通せません。政治権力とか階級闘争という言葉はいっさい出てきません。それへの偏重がマルクス・レーニン主義の悪しき革命観であることは明らかですが、さりとてそれをスルーしていいのか、どう見ているのか。社会主義とは関係ない勢力も合わせて、ともに当面する深刻な課題に挑むのが国連のSDGsなのだから、そういう段階で政治革命が問題となり得ないことは明らかですが、そこで有意味な変革に至りうるのか、あるいはそれが可能だとして、その先はどう展望しているのか、というようなことが気になります。そのように漠然とではなく、もっと具体的に考えるべきなのでしょうが、とっかかりがよく分かりません。論文の143144ページに関連した叙述がありますが、抽象的なものに留まっています。

 次に別の話題に移ります。「疎外」の定義として「主体である自己が生み出したもの(客体)が自己と対立する疎遠な存在となり、今度は生み出されたものが主体となって生み出したものを支配することをいう」(146ページ)とあります。非常にわかりやすい定義です。それに基づいて、図5「自然と社会の階層的構造」が掲げられています(140ページ)。そこでは疎外の展開によって<自然→共同社会→商品社会→資本社会>というきれいな図式が構成されています。たとえばその中で<共同社会→商品社会>についてこう説明されます。「人間は共同体の段階から生産力の向上とともに商品の生産・交換を行うようになり、やがて商品市場を生み出す」(141ページ)。あとは商品社会における疎外のあり方が説明されます(疎外という言葉は使ってないけれども)。

 商品社会の成立条件について、教科書的には「社会的分業と私的所有の矛盾」から説明されます(もっと厳密で包括的な説明は、和田豊氏の『価値の理論』の第一章、第四節「貨幣=価格形態の必然性」の「商品形態の必然性」項にあります)。ここではそれが抜けています。生産の社会的あり方によって、商品生産は必然化し、商品の価値性格が生じるということこそが核心です。それを欠くと、何だか疎外の自己展開によって自然から資本社会にまで至る発展が行なわれるかのような印象が形成されます。ここでマルクスの周知の言葉を引用します。

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 もちろん、叙述の仕方は、形式としては、研究の仕方と区別されなければならない。研究は、素材を詳細にわがものとし、素材のさまざまな発展諸形態を分析し、それらの発展諸形態の内的紐帯をさぐり出さなければならない。この仕事を仕上げてのちに、はじめて、現実の運動をそれにふさわしく叙述することができる。これが成功して、素材の生命が観念的に反映されれば、まるである先験的な″\成とかかわりあっているかのように、思われるかもしれない。 

   『資本論』第1巻 あとがき(第二版への)

 新版『資本論』第1分冊 32ページ  Werke S.27

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 マルクスのヘーゲル風な文体は観念的な印象を持たれるかもしれないので、彼は誤解なきようにと断っているのです。マルクスに学ぶものは、文体をまねるのでなく、分析内容をわかりやすく表現することに注力すべきと考えます。問題の図5「自然と社会の階層的構造」が特に観念的に見えるということではありませんが、世には、矛盾の自己展開による発展なるものを図式化して何か分かった気になっている向きが散見されるようです。図式の全体的うつくしさより部分部分をゴツゴツとでも分析的に説明することを優先すべきと思います。

 どうも雑駁な繰り言ばかりになってしまいました。妄言多罪。

                                 2024年1月31日




2024年3月号

          「失われた30年」と人権後進国・日本

 

◎日本資本主義の凋落

 

 223日付「朝日」の1面には、22日の取引について「東証 史上最高値 終値39098円 バブル超え」という大見出しが踊りました。しかしこれで豊かさを実感している庶民はいないでしょう。「失われた30年」から脱却した実感もなく、貧富の格差拡大がいっそう感じられるだけです(*注)。その1週間前の216日「朝日」の1面大見出しは「日本GDP 4位に転落 円安響きドイツ下回る」です。ドイツが好調だというわけではなく、長年に渡る日本独り負けの結果というほかありません。2010年に中国に抜かれて3位に転落した当時はいずれインドに抜かれると言われました。それも近いだろうけれども、その前に、1968年に追い越したドイツ(当時、西独)にここで抜き返されるとは、2010年当時は思いもよらぬことで、日本経済の全面的な不調ぶりを象徴しています。「新興大国に抜かれるのは仕方ない」どころか、それだけでなく、追い越したつもりの中規模先進国からも抜き返され、経済大国の地位そのものから落伍しようとしています。

 

(*注)「朝日」228日付「株高の裏、家計にしわ寄せ? 1月の消費者物価、2.0%上昇」はこう指摘しています。

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 野村総合研究所の木内登英(たかひで)氏は「実質賃金が下がったことが、株高の一因になっている」とみる。

 どういうことか。企業は物価上昇ほどには賃金を上げておらず、人件費にどのくらい払っているかを示す「労働分配率」は低下。その結果、企業収益が大きくなり、株価の上昇につながった面があるという。

 木内氏は「株高の裏で、個人の所得が犠牲になっている構図がある」と話す。

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 要するに、労働者を犠牲にした搾取率の上昇によって株価が上がったということ。

 

 と言っても経済成長至上主義の立場(「生産のための生産、蓄積のための蓄積」、それがブルジョア社会の通念であるが)で悲観するのは誤りであり、日本の国民経済の身の丈を正視して、庶民の生活と労働がまともにできるような質的変革を追求することが課題です。『資本論』第1部の資本蓄積論によれば、資本蓄積に伴って貧富の格差拡大が進行します。しかし日本資本主義の現状は、経済成長の停滞下で格差拡大しており、「正常な」搾取とは次元を異にします。株価のバブル超えとGDP成長の不調との共存は、実体経済の停滞と金融化の進行ならびにそれを助長する奇形した経済政策の結果であり、資本主義の寄生性・腐朽性の現れ、さらにはそれを是正するのでなくそこで利潤追求する支配層の堕落した本性の現れと言うほかありません。

 今日、民主勢力の経済政策のスローガンとして「優しく強い経済」が打ち出されるのは、「冷たく弱い経済」が「失われた30年」をもたらしたという認識からでしょう。支配層の意図としては、「冷たく強い経済」を目指していたと思います。それを象徴するのが小泉純一郎元首相の「痛みに耐えよ」というご託宣です。そういう新自由主義構造改革タカ派としての小泉=竹中路線の行き詰まりが民主党への政権交代に帰結しますが、その失敗後、自公政権への復帰を果たした安倍晋三内閣はアベノミクスを喧伝しました。その中核である異次元の金融緩和は、いわば新自由主義構造改革ハト派路線であり、低金利と円安誘導という麻薬注入で日本資本主義の延命・再興を図りました。しかしそれは、構造改革タカ派からは「改革」の不徹底を非難され、サプライサイドの強化に失敗し、しかも労働規制緩和や社会保障削減の構造改革は堅持してきたので低賃金・低福祉で生活の萎縮が内需縮小につながり、需給両面から日本経済の没落に帰結しました(私は構造改革によるサプライサイドの強化には反対)。 

 現政権の岸田文雄首相は、軍事的タカ派・強面・強権政治の安倍・菅政権からのイメージチェンジを図ろうとしました。そこで、「聞く力」の他に「新しい資本主義」なんてスローガンもありましたが、今ではどれもまったく実質がないのが明白で、笑い話の水準になっています(軍拡では安倍凌駕)。しかし、「失われた30年」という病理を「コストカット型経済」と診断したのは誠に的確というほかありません。ところがコストカットの主体(正体)、つまり経済停滞の主犯(正体)が明確でないので、大企業の行動と政府の経済政策が明るい方向に転換されることは期待できません。それどころか所得倍増(宏池会の伝統芸?)ならぬ資産所得倍増などという金融化・カジノ資本主義路線を「世界」(=アメリカ、ウォール街)に喧伝する始末ですから、名診断は無意味化されています。これでは「冷たく強い経済」さえ実現せず、「冷たく弱い経済」がますます悪化するだけです。

 岸田政権は裏金問題で窮地に陥っており、自民党支持率さえ地を這うような状況です。ところが野党支持が伸びず、政権交代の機運は「未だし」です。正しく自民党に責任を負わせるべきなのに、政治不信一般に解消され、シニシズムが覆っています。安倍政権があれだけ強権のみならず金権腐敗と国政私物化を欲しいままにしながらも、憲政史上最長を記録したのは異常というほかないのですが、現状ではその枠内で世論が彷徨する惰性が続いているということです。それを打破するには、政治変革の展望を分かりやすく示し、支持を獲得するのが第一ですが、同時に保守一択で諦観やシニシズムが漂いがちな日本社会のあり方、日本人の心性などを考察することも必要と思います。観念論に陥ることを警戒しながらも…。

 

     ◎世界の中の人権後進国・日本

 

 賃金低迷を主因とし、社会保障削減で追い打ちをかけられ、人々の生活が萎縮する中で、国民経済が恒常的な「内需縮小病」に陥り、先進資本主義国でも例外的な「失われた30年」が日本では継続してきました。逆に、賃上げと社会保障充実で生活を豊かにして、消費拡大を起動力に経済全体の発展を追求する「優しく強い経済」へと転換すべきところです。ところが、政治でも経済でも変えることなく、悪政や生活困難に耐え、何とか日々をやり過ごす習性を多くの人々が身につけているのが日本社会です。波風立ててまで旧弊を変えることが忌避されがちです。日々精一杯で、変えるエネルギーもなければ、変えるのはリスクとしか思えない、と。

 このように人々の忍耐を中心とする日本社会のあり方からは、諸個人の「生」の縮小が普遍化します。それは対資本ならびに対国家において典型的に顕現し、法イデオロギー的には「人権後進国・日本」と表現されます。それはつまり、ただでさえ脆弱な諸個人が労働組合などの自主的組織に団結することもなく(「なく」というのが言い過ぎなら「少なく」)、裸で自己責任において、強大な資本と国家とに対峙させられる状況を表わしていると言えます。

人権後進国の状況は国際比較においてはっきりするので、たとえばジェンダー・ギャップ指数、世界125位(世界経済フォーラム、2023年)などが有名です。また外国人の取り扱い方を見ることも、グローバルスタンダードを離れた内向き具合を浮き彫りにする上で役に立ちます。もっとも、グローバルスタンダードが何かにつけけっこうだというわけではありません。その中にはカジノ資本主義を推進する事実上のアメリカンスタンダード(ネオリベスタンダード)も含まれています。しかし国連を中心とした人権基準の問題では日本の民主勢力にとって有意義です。外国人の問題は日本人にとってあまり関係ないと思われがちですが、それは日本国内の人権状況の悪さが拡大して反映されていると見れば、十分に意味があります。たとえば、恋愛禁止で、妊娠したら帰国させられるという外国人技能実習生の実態は、妊娠・出産・子育てが社会的に困難な日本人の状況が基盤にあります。

 したがって、まずたとえば、過度に競争的な日本の教育が2004年に「国連子どもの権利委員会」から批判されているように、国内の人権状況そのものへの国際批判に耳を傾けることが有用です。「国内の人権状況」には、外国人に対する取り扱い方も含まれ、多くは対日本人よりもひどいのでそれをみることがさらに重要です。そうした世界からの批判に対して、とにかく日本の現状を擁護し、ヒステリックに反応する内向きかつ右寄り世論が多いのですが、まさに自分で自分の首を絞め、自国の人権状況を害するものです。国際人権の観点から藤田早苗氏はインタビューにこう答えています「朝日」デジタル17日付、下線は刑部)。

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 ――日本の人権状況について、国連の人権機関や専門家から繰り返し、懸念が表明されたり、勧告が出されたりしてきました。

 「驚くのは、日本政府は勧告にまったく耳を傾けようとしないことです。2021年に国会提出を断念した出入国管理法(入管法)改正案に対し、国連人権理事会の3人の特別報告者などが国際人権基準に照らした問題点を指摘したところ、当時の上川陽子法相が『一方的な見解で、抗議せざるを得ない』と反発しました。『クリティカル・フレンド』(批判もする友人)である特別報告者の勧告を無視して、国際社会で信頼と評価を得るのは難しいでしょう」     

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 保守政界の実力者・麻生太郎自民党副総裁の覚えめでたい上川陽子現外相の人権感覚がまさに現自公政権でのその水準にピタリと一致していることがよく分かります。クリティカル・フレンドに呼応する日本人を「反日」呼ばわりする世論を変えねばなりません。人権擁護こそ、国境を越え、社会進歩の普遍性を体現するものです。ということで、日本の社会進歩を目指す勢力は、人権の現場をまず「入管の闇」に見るべきでしょう。

 

     ◎「入管の闇」:歪んだ「国家主権」と安上がり外国人労働

 

 仁比聡平氏(日本共産党参議院議員・弁護士)の「『入管の闇』を暴く 人権後進国打破へ、国会の役割は「我が国の入管難民行政による人権侵害がいかに構造的で底深いかを」(34ページ)、国会質疑をハイライトに含みつつ、全面的に明らかにしています。本来なら、その全体を紹介したいところですが、印象的な場面など一部に触れるにとどめます。論文は、名古屋出入国在留管理局で起こったスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんのあまりにむごい収容死問題(3439ページ)に始まり、難民申請に対して書面審査のみで大量案件の迅速処理を特別に担う「臨時班」=予断に満ちた「送還ありきのベルトコンベヤー」の存在(43ページ)、安倍政権の「送還ノルマ」設定(46ページ)など、まさに人を人として見ない人権無視で噴飯物の入管難民行政の実態を明らかにしています。これらを「粛々と」実施する人間たちは何者なのか。恐るべき行政が生み出す漆黒の心の闇に戦慄を覚えます。この現状を打破すべく、世論と運動の力は、国会で政府案に対抗する一括審議を実現しました。

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 野党対案は、入管が退去強制令書を出したら全てを収容対象にする全件収容主義をやめ、原則収容せず収容の必要性、合理性は裁判所の司法判断(令状)を要することとし、裁判所が収容を認めた場合も最大6ヶ月を上限にします。また難民認定行政は出入国管理行政から切り離し、独立した難民保護委員会を創設して行うことにします。

     39ページ

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 野党案の提出によって、国会審議の中で政府案の本質が暴露されました。収容の決定について、政府案では裁判所の令状も要らないのですが、その理由を仁比氏が尋ねたのに対して、西山卓爾出入国在留管理庁次長は「気色ばみ、語気を荒げて、こう言い放った」そうです。

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 「国家にとって好ましくない外国人の在留を禁止し強制的に国外に退去させること、すなわち送還のことをお話ししている。送還は、出入国在留管理という国家の主権に関わる問題として本質的に行政権に分類される作用であり、我が国では、これを確実に実現するための手段である収容を含め一連の退去強制手続きは、事前に裁判所の許可を要することなく行政機関の判断でできることとされている」。

 「国家にとって好ましくない外国人」――権力むき出しの凶暴な答弁に抑えきれない怒号に包まれました。委員長の制止もかまわず強弁し続ける姿に与党議員たちも眉をひそめ、下を向きました。      40ページ

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 法廷ドラマをも上回る、国会審議の迫真の名場面です。ここでまず問題とされるべきは、国会の国政監視機能や司法の権限を軽視して、行政権の独走を当然視していることです。そしてその根拠として「国家の主権」を持ち出していることが次の問題です。それは何か。おそらく件の官僚は「国家の主権」について、「毅然」と「使命感」を持って述べたつもりでしょう。ならば聞こう。沖縄を始めとする米軍基地周辺で米兵による殺人などの凶悪犯罪が行なわれても、日本国家が裁けないことが多々あるのはどういうことか。米空軍機が日本の上空を国内法無視で我が物顔に飛び回っているのは何故か。国家主権はどこにあるのか。それと併せて次の指摘に注目したいと思います。

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 今も入管がしがみつくこの底深い外国人差別と排外主義の源流には、戦前の植民地支配のもと朝鮮や台湾、中国の人々を苛烈に取り締まり弾圧した内務省官僚と特高警察が、日本国憲法の成立にもかかわらず、引き続き外国人管理に携わり排斥をすすめた歴史があります。          40ページ

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 これらから言えるのは、入管難民行政の掲げる国家主権の背景にあるのは、対米従属とアジア蔑視という対極的に歪んだものの接合したナショナリズムではないかということです。国家主権とは何よりもまず対外的なものであり、外国に従属しないことのはずですが、少なくとも対米関係は例外とされ、それを違和感なく受容し内面化したエリート官僚は無恥にして「誇り高く」国家主権を高唱できます。それに対して「送還」をいう場合には、国家主権は外国人諸個人に対峙するものとして、個人を抑圧する国家権力の概念とすることができましょう。基本的人権の見地からは、諸個人の人権こそが法の目的であり、国家主権もまたそれを実現する一つの手段である(たとえば、日本政府が国家主権を発動して米軍基地を撤去し、周辺住民を事故・治安への不安、騒音被害などから解放すること)ように思いますが、そのような抽象的な一般論は少なくともこの場合通用しません。そこでは、対米従属とアジア蔑視の歪んだナショナリズムに基礎づけられた国家主権が、支配層の階級的利害にふさわしい概念であることが明白です。それは軍隊を始めとするアメリカ国家に対しては発動されず、外国人個人に対しては人権無視の抑圧手段として作用します。

 さらに考えるべき点は、外国人労働力の使い捨て政策です。「財界は、安価で都合よく働く単純労働力として外国人受け入れ拡大を求め、これに応えて政府はいびつな在留管理政策を重ねてきました。人間として当然の家族帯同や永住を認めず、差別的低賃金と不当待遇、転籍の自由を認めない奴隷的労働で、ブローカーの食いものにされる深刻な人権侵害が後を絶ちません」(46ページ)。その一方で、東京オリンピック・パラリンピックまでの送還忌避者大幅削減のため、安倍政権が送還ノルマを設定していました(同前)。いいように安く使って都合が悪くなれば放逐する。まさに資本と国家の都合に合わせて外国人を使い捨てするのが日本の「国家主権」の階級的本質です。

 ここで想起されるのが、ジェンダー差別の二つの要因です。一つは、明治期に確立した前近代的な家父長制の残滓であり、もう一つは、新自由主義的労働力管理による低賃金など悪質な労働条件への重石としての利用です。入管難民行政を一つの要とする日本の外国人政策が外国人差別と排外主義を抱えている、その一方には、源流として、戦前の植民地支配のもと朝鮮や台湾、中国の人々を苛烈に取り締まり弾圧した内務省官僚と特高警察が日本国憲法下でも引き続き外国人管理に携わってきた歴史があります。他方では、上記の安上がりの労働力政策が新自由主義下で大いに追求され、そこで外国人労働力の利用が必至であるという事情があります。

安倍政権を典型として、20世紀末以降の日本の保守政権は保守反動と新自由主義という本来矛盾する両者の野合政権という性格を持っています。これはある程度普遍的現象でもあります。現代のグローバル資本主義を主導するイデオロギーは新自由主義ですが、それは共同性・安定性を強力に破壊し多くの社会的矛盾を引き起こします。各国・地域の保守反動派はそれへの抵抗勢力として強固に存在します。家族・宗教・近隣社会・国家への帰順等々…。そこで自らは社会的矛盾を解決できない新自由主義は矛盾の本質的原因を隠蔽しスケープゴートとして外国人等々を利用します。要するに矛盾を糊塗するのに保守反動思想を利用しようとします。もちろんその「利用」は必ずしもうまくいくとは限りませんが、真の社会変革勢力が社会的支持を確立し得ない現状では、両者の対立的共存(矛盾)が不安と混乱の中で続きます。それこそが、グローバル資本主義が保守反動を(敵対しつつ)抱え込んだ新自由主義的現実と言えます。

 そうした中で諸個人の基本的人権は対資本と対国家において脆弱な状態に置かれているので、階級的団結をもって対抗する必要があります。ただでさえ脆弱な諸個人が、日本においてはバラバラにひたすら肩を狭めて耐えており、資本と国家が大手を振っています。その団結と闘いの武器として基本的人権を活かす必要があり、そうすることで生活が豊かになり、経済発展に繋がる――人権などの法イデオロギーをそういう文脈で理解すべきではないかと思います。

 

     ◎国際人権法の発展

 

 仁比論文が闘いの現場をヴィヴィッドに描き出したのに対して、阿部浩己さんに聞く「国際人権法の発展、日本の入管制度をどう改革するか」は、法務省の難民審査参与員の経験に基づく実践的な知見を踏まえながらも、国際人権法の発展という理論問題を中心に論じています。その論旨の中心をあえて一言にすればこうなります。「20世紀の国際法は、国家中心主義をベースにして」(16ページ)いるのに対して、20世紀末から21世紀にかけて大きく変容し、「国家利益中心の国際法秩序ではなく、人間を中心とした秩序に作り変えていくという大きな転換が図られたのです」(17ページ)。この点については、仁比論文でも阿部氏の指摘として紹介されています(41ページ)。

 早くから国際法の大転換の軸となったのが1951年に作られた難民条約です。迫害の恐れのある者はその地に送り返されてはならない、という難民法の原則は、国家主権による国境管理権限が大幅に認められる20世紀型国際法下ではあくまで例外でしたが(1718ページ)……

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 この国際法の状況に対して、外国人も人間であり、保障の対象であるという国際人権法は変化を迫ります。例えば、日本では外国人が在留資格を失えば収容は当たり前だという考え方がありますが、国際人権法の原則は人間は自由であり、収容はあくまで例外でなければいけない、それは国境管理においても同様だということです。ですから国がもし外国人を収容するのであれば、収容を例外的に必要とする理由をきちんと示さなければいけない。在留資格がないという形式的事情だけでは正当な理由とは認められません。まず理由を明確に示し、それに基づいて収容できるかどうかは、裁判により判断されなければなりません。日本の入管庁の一方的な手続きによって収容している実態は許されず、本来、第三者たる裁判所のチェックが必要です。そして収容は無期限であってはいけない、極力、短期間でなければいけないというルールが、20世紀の終わり以後、作られてきました。

     18ページ  (下線は刑部)

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 長い引用になってしまいましたが、上記は先に引用した仁比論文39ページにある「野党対案」の中身と重なり、その基本原則・核となる精神がそこにはっきりと示されています。それに対して、いまだに出入国在留管理庁のホームページに書かれている基本的な認識は「その国にとって好ましくない外国人の入国・在留を認めないことは、それぞれの国の主権の問題であり、国際法上の確立した原則として、諸外国でも行われている」というものです。これが政府案の精神であり、また先述の西山卓爾出入国在留管理庁次長の国会答弁の暴言(仁比論文、40ページ)にピタリと一致しています。彼の認識としては、職務に忠実に誇り高く「国家主権」の何たるかを教示してやったということでしょうが、政府の公式見解そのものが20世紀型の時代遅れなのです。そういう行政の決定的遅れに対して、立法府の野党議員が21世紀の国際法認識を示して対決した、というのが入管法に関する上述の国会審議の本質だと言えましょう。

 しかし問題は行政だけではありません。「日本の入国管理行政が変わらない最大の理由は、裁判所、司法機関が、旧態依然のままだということです。行政の不作為を改める裁判所の役割が、日本では全くと言っていいほど機能してこなかったし、裁判所を動かす市民社会の力もとても弱かったと思います」(19ページ)と厳しく指摘されます。

さらにはその原因についても言及されます。法曹界エリートとしての裁判官は20世紀国際法の「極めてナショナリスティックな判断が当然と考える司法教育を徹底して受けて」おり、「今日の国際人権法など国際法的な関心も薄いですし、入管問題は国が自由に判断できるという20世紀の思考で停止しています。/本来、司法、立法、行政の三権が独立して機能しなければならないのに、日本では、入管の問題は、行政府のみで自由に判断していいと裁判官が考えているのです。人権保障に対して、裁判所が機能してこなかったわけです」(20ページ)。ここには、民主主義をタテマエとする先進的な資本主義社会において、行政権の優位を通して、あるいは体制を護持するエリート層の育成のあり方を通して、ブルジョアジーの権力が貫徹する秘密の一端が示唆されているように思います。

 阿部氏は難民審査参与員の経験に照らして実践的に提言もしているのでごく簡単に触れます。日本は極端に難民認定が少ないのですが、そこには認定手続きそのものの難しさがあります。認定する側の「訓練が不十分で、日本の文化を基準にして、相手の行動を判断するという形になってしま」うという問題があります(22ページ)。「日本の利益にならない外国人を排除するという入管庁の性格」の下では、「難民認定を判断する人が悪意を持っているからではなく、きちんと訓練もされない、調査能力も持たないまま、出入国在留管理庁という国家機関の中で審査をすると、そういう結果になってしまうのです」(同前)。

したがって、根本的には入管制度そのものの変革が必要ですが、現状においても担い手がきちんと任務に当たれるようなトレーニングを施すことでかなりの改善が可能だと指摘されています(25ページ)。

 阿部氏は最後に国際法と平和に言及しています。難民が生まれる大きな原因として、戦争や国内紛争があります。だから難民を保護することは平和への貢献ですが、「さらには、そもそも難民を生み出すような状況をなくすこと」(26ページ)が大切です。そこからは次のことが言えます。「差別や貧困なども、戦争と同じく、暴力なのです。そうした暴力のない状態こそが平和ということです。それを国際法に入れ込む取り組みは、いっそう重要になっています」(同前)。その取り組みは「人間が地球上のどこにいても、等しく尊厳を保障される社会を、一緒に作っていこうということ」(同前)であり、国際人権法の考え方を中心に据えた国際法の発展とそれに基づく各国の行動が求められます。私にはまだその具体的イメージは鮮明ではありませんが、ここで言われていることは、去る217日に亡くなったヨハン・ガルトゥング氏の「積極的平和」に基づくものでしょう。

残念ながら日本では、安倍晋三元首相が正反対の意味で「積極的平和主義」を喧伝してきました(上野千鶴子氏がそれに対して最大限怒っている。「安倍政治の罪と罰 ツケを払うのは誰か?、『世界』3月号所収、91ページ)。それは、平和について、核兵器を始めとする軍事的抑止力と軍事同盟への信仰が世論上優位なこの国の状況を反映し促進もしています。もちろんそれは一朝一夕にできあがったものではなく、憲法平和主義を敵視する米日支配層の長年に渡るたゆまぬ意識的努力(イデオロギー教化とともに軍事化の既成事実化を含む)の結果です。そんな中で、私たちには、構造的暴力のない積極的平和の意義を喚起することがとりわけ重要です。抑止力による「平和」でなく、外交による真の平和を、さらにそれをも超える積極的平和を求めたい。平和的生存権も積極的平和もその内容が日本国憲法に明記されています。解釈壊憲が続く中でも憲法条文は守ってきました。空洞化されても、反撃の拠点として、実現すべき目標としてそれは変わらず輝いています。阿部氏の議論は、そこに国際人権法に基礎づけられた国際法の発展という見地からの「積極的平和」概念を補強する意義があるのかもしれません。

 

     ◎ビジネスと人権

 

 基本的人権はまずブルジョア革命期に「個人対国家」という視角で確立してきましたが、資本主義の発展によって、「個人対資本」という視角も重要になってきました。それに関係して、小川隆太郎さん(ヒューマンライツ・ナウ事務局長/弁護士)に聞く「企業の人権リスクに法的整備を 国連『ビジネスと人権』調査で企業アンケート実施は現実的な基本点を教えてくれます。特に新自由主義グローバリゼーション下では、国際人権基準の尊重が重要となり、三つの柱があります(61ページ)。――(1)国家の人権保護義務、(2)企業の人権尊重責任、(3)人権侵害への救済へのアクセス――

 そうした国際的取り組みに対して、日本の遅れは顕著です。国連人権理事会から二つの制度的な欠陥を指摘されています(63ページ)。――(1)政府から独立した国家人権機関(国内人権機関)がない、(2)「包括的差別禁止条約」が制定されていない―― 確かにこれまで、人権や差別などに関するメディアの報道などでこの2点はよく登場してきましたが、改めて国連人権理事会からの指摘という角度から見ると、その深刻さ(世界の中での日本の人権的低位)が際だって感じられます。

 ただでさえ日本の人権水準は低いのですが、資本の法則が過剰貫徹する日本社会においては「ビジネスと人権」視点ではなおさらひどいことが予想されます。気鋭の思想家・重田園江氏は、国連「ビジネスと人権」作業部会が日本での12日間の調査を終え、2023年8月4日に日本記者クラブで会見したことを受けて論説を書いています(政治季評:国連「ビジネスと人権」部会がえぐった日本 問題の背景に社会構造と無関心、「朝日」20231116日付)。重田氏によれば、この部会の声明の特徴は、ビジネスをめぐる人権侵害を個別の企業や人間関係上のトラブルではなく、日本の社会構造の問題として取り上げていることです。論説はそこから具体的問題を様々に取り上げ紹介した上で、「私たちの生活は文化や政治より、経済活動にずっと多く振り向けられている。だからこそ、誰もが人権問題の加害者にも被害者にもなりうる。/この問題がそれほど注目されてこなかったのは、部会が示した労働現場での暴力や被害に対し、加害者だけでなく周囲や社会も無関心だったからにほかならない。今後は、身近でありふれた、かつ逃れがたい問題として、ビジネスと人権を捉えなければならない」と結んでいます。しかし論説の始めでは、日本記者クラブでの先の会見において「記者からの質問はジャニーズ一色で、とても調査の全体像を受け止めたものではなかった」と厳しく指摘されます。日本の人権状況ならびに、それを報じ世論形成の中心にあるメディア状況、双方の劣悪さが際立っています。

 しかし小川論文を見ると、そうした中でヒューマンライツ・ナウの企業アンケートが非常に興味深い結果となっています。人権デュー・ディリジェンス(人権DD)とは「すべての人権への負の影響を特定し、防止・軽減の取り組み、その対処、救済手続き、そして説明・情報開示までの一連の行為、プロセスを含むもの」(61ページ)です。202312月のヒューマンライツ・ナウの企業アンケートでは、回答の多くが人権DDの制定を支持するというのです。回答企業の多くがグローバル展開しており、EU市場への参入では人権DDへの対応が避けられないというのが背景にあるようです。法制化賛成の理由としてたとえば以下のものがあります(65ページ)。――「サプライ・チェーン上の各企業との円滑な協調、短期に企業間の意識レベルを合わせるために法制化は有効」(味の素)、「人権DDが義務化されることで、(各社内での)対応コストが公平に負担され、企業間において公正な競争条件が生まれる」(ファスト・リテイリング)―― 日本企業独特の理由づけとして、法制化によって担当部署と上層部などの企業内の足並みをそろえるのを促進できるという期待もあるようです(同前)。

 いずれにせよ、競争条件整備の中で各企業が公正・平等に強制されるようになったり、企業内の統制に役立ったりなど、企業行動のあり方をうまく利用して誘導し、人権実現への現実的展望を切り開く可能性がここには垣間見られます。重田氏が指摘するように、「身近でありふれた、かつ逃れがたい問題として、ビジネスと人権を捉え」ることは極めて重要です。人権概念として「個人対国家」だけでなく「個人対資本」を忘れないことが社会変革にとって肝要です。諸個人が萎縮せずに自由に発達できること、そのために社会的障害を克服すること――その視点で日本資本主義社会の特質を捉えるのが重要課題です。

 粗雑な類推に過ぎませんがこう思います。アジアへの侵略戦争に乗り出して破滅した戦前日本資本主義の基礎には、半封建的土地所有制度での強搾取による貧困が形成する狭隘な国内市場がありました。それを打破せんとした日本帝国主義は冒険的軍国主義へ「進化」しました。その教訓は、豊かな生活に支えられた内需主導の国民経済こそが平和の基礎だということです。しかるに今日を見ると、「失われた30年」の基礎には、人権後進国における萎縮した諸個人があり、忍耐と諦観の中での生活の貧困化と展望のない閉塞感があります。そこに政治腐敗のもたらすシニシズムが蔓延し、「かつてない安全保障環境の危機」が日々煽られ、そこに現出する際限ない軍拡が軍事経済的発展へと「進化」しようとしています。防衛省が安保3文書に基づく大軍拡を推進するため設置した「防衛力の抜本的強化に関する有識者会議」では、202327年度の5年間で約43兆円の軍事費(防衛省予算)のさらなる増額の可能性が喧伝されています。しかもそれだけでなく、「防衛力の抜本的強化と経済成長の好循環」をいかに生み出すかという危険なテーマが提出されるに至っています(「赤旗」225日付)。この亡国の道を阻止するのは、人権と平和の観点に立って諸個人の自由な発達と豊かな生活とを実現する社会変革の運動に他なりません。

 

 

  補遺 国際法の存立基盤

 

 松尾陽氏(名古屋大学教授。法哲学)は国際法や憲法の抱える困難性をこう指摘しつつ、「ペンは剣よりも強し」の観点を押し出しています。

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 制裁メカニズムを中心に法を把握しようとすれば、国際法や憲法は法とは呼び難くなる。国際法や憲法は、権力者の活動を抑制しようとする側面が強い。しかし、制裁メカニズムは、通常、権力側の内部にある。国際法や憲法は、まさに違法な行為をしている権力者に対して自己抑制を要求するという困難な課題を抱えている。

 しかし、もっぱら制裁メカニズムに着目して法を捉えるのは不十分である。憲法や国際法が発展してきたのは、国際であれ国内であれ、時には自己を犠牲にしながらも、人びとが基本的権利の実現に向けて行動してきたからである。そのような発展を捉えるためには、制裁メカニズムとは別に、人びとがどのような理念にもとづいて行動してきたかという側面に目を向けなければならない。

「(憲法季評)ガザの人道危機を前に 平和への思いが、法に力を与える」

(「朝日」215日付)

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 ここで思い出されるのが、25歳のマルクスの名言です。後にマルクスとエンゲルスは平和革命、多数者革命を追求しますが、青年時代の社会変革のイメージは、フランス革命のような強力革命でした。大方の国々において議会制民主主義がまだ未熟なのでそうなります。

 しかしその中でも、唯物論への移行とともに、社会変革の主体として労働者階級を認識する、という理論的飛躍をマルクスは成し遂げつつありました。そこでの理論の特別の役割、そしてそれにふさわしい理論のあり方とは何かまで、次のように考えていました。

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 批判の武器は確かに武器の批判にとってかわることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒さねばならぬが、しかし理論といえども、衆人を掴むやいなや、物質的な力となる。理論はそれが人に即して論証するやいなや、衆人を掴むことができるのであり、そしてそれはラディカルになるやいなや、人に即しての論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根元においてとらえることである。人間にとっての根元は、しかし人間自身である。

  カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序論』(真下信一訳、国民文庫版341342ページ)

 カール・マルクス、アーノルト・ルーゲ共同編集『独仏年誌』(18443月パリで発行)所収

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 このいささか古風な翻訳を行なった、唯物論哲学者の真下信一氏は、青年マルクスの理論的開眼に接する感動をこう語っています。

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 一つの自然的生命の生まれ出る場に立ち合うことがそうであるのに、ましてや全人類史的な重みをもつ一つの精神的生命の花開く場に居合わすことの何という目ざましく、あざやかなよろこびであることか! 私はヘーゲルの「精神の現象学」とそれへつながる彼の青年期の諸論文にかかわるときと、マルクスの「ドイツ・イデオロギー」と直接にそれへみちびくこの「独仏年誌」所収論文、つぎの「経済学・哲学手稿」等々の初期の諸労作にたずさわるときとに、とりわけ、しみじみとそのようなよろこびにひたる想いがするのである。

   197084日 真下信一 (同文庫、あとがき363364ページ)

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 閑話休題。「理論は衆人を掴めば物質的な力となる」。現代の資本主義社会では、マルクスの志向した方向とは逆にそれが現れています。トランプや橋下徹などの言動に人気が集まり、欧州でも右翼的排外主義が隆盛で、民主主義の危機が語られる状況です。資本主義の危機が人々の生活と労働に苦しみをもたらすとき、その根源に目を向けないように、排外主義や様々な差別主義へと感情が動員されます。ラディカルな変革の展望を(当面の改良策とともに)対置することが必要です。

 たとえば核兵器禁止条約の発効に見られるように、世界諸国と圧倒的多数の人々の願いが国際法上に結実し、核兵器使用への抑止力として働いています。ロシアやイスラエルが核兵器を使わないよう、国際世論をさらに高めることが求められます。松尾陽氏の問題提起に対する回答の一部がそこにあります。

 

 

          民主主義の探究ならびに法の抽象性の意義と限度

 

 資本主義国家は資本家階級の権力に基づき、その支配を貫徹する機構ですが、先進諸国においては、それとは一見矛盾する民主主義制度を伴っています。そこでは多数者たる被搾取人民も参加する普通選挙を通じて、搾取階級が実質支配する政府の正統性が確立されています。その政府の政策は階級的本質からして、人民の利益に反するものが多いので、様々な議論と闘争が絶えませんが、支配層は基本的には体制を護持することに成功しています。統治への同意がイデオロギー支配によって調達されていることが、そこでは大きな役割を果たしています。それだけでなく一見中立的な法や民主主義制度の存在が支配の正統性の重要な基盤です。したがって、資本主義社会においては、支配の実質とその形式的正統性との矛盾が潜在的に常在し、ときに顕在化します。俗に言えばホンネとタテマエの相克が常にあり、ときに激化します。

 とはいえ、そうした矛盾や相克はそれ自体として議論される(Aことは少なく、多くはあくまで法や民主主義制度をいかに遵守し活かすかという次元で議論されます(B。それは悪く言えばタテマエ論争の様相を呈し、核心に迫れない隔靴掻痒感を免れませんが、それもまた重要ではあります。以下ではまず(B)のあり方について眺めて、その後で、(A)について経済理論の見地から考えてみたいと思います。(B)は主に法と制度に基づいて議論することになり、根拠に基づいた議論がしやすいのですが、(A)は広範な現実の中から論者の視点に基づいてテーマを選び取って主張を展開することになり(その視点と選択が本質を衝いているかどうかが問題ですが、それは措く)、共通の基盤で議論することは難しく、価値観のぶつかり合いになりがちでしょう。だから(B)の議論の方が多くなり、そこには堅実性があるのですが、問題の核心に迫ったとは言いきれない場合が多いです。そこで、普通避けられる(A)についても独断と偏見に陥らないようにアプローチすることは必要だろうと思います。

 ほとんど永遠の保守政権の下で、悪法が量産される日々を私たちは生きていますが、その中をかいくぐって、労働者・人民の諸運動が改良の政策を実現させる成果を上げることもあります。ただそこで注意すべきは、よい法律を作ったらそれでOKとは必ずしも言えないということです。三権分立とはいっても、実質的には行政権の優位が常態であり、よい法律も実施過程で骨抜きにされ、政権の「やってる感」演出に利用されかねません。そこで、行政における政策の実現過程を知ることは多くの諸運動にとって非常に有益だと思います。

 格差・貧困の拡大が深刻化する中で、「子どもの貧困」に的を絞った運動が功を奏したことなどもあって、こども基本法が施行され、こども家庭庁が設置されました。それを支配層から見た「少子化対策」の文脈に回収されるのではなく、子どもの権利保障を主眼とする政策展開につながるよう声を上げていくことが必要です(子どもの権利保障がまずあって、結果として少子化対策につながるのが本来の順序)。こども施策の総合的推進を目的とする「こども大綱」の策定を、こども基本法は政府に義務づけており、その作業が進んでいます。中嶋哲彦氏の「『こども政策』をどう充実させるか――子どもの権利影響事前評価とこども大綱策定の民主的統制(『前衛』20241月号所収)は「こども政策」の充実について、「こども大綱」策定のプロセスとそこでの民主的統制などを論じています。その考察は、様々な分野の諸運動体にとっても、行政における政策実現過程一般を見渡す一つの見本としての意義を持っているように思います。

 中嶋論文は、こども大綱の策定過程を詳細に説明するとともに、政府の行政計画(「大綱」「基本計画」等)策定・実施の形式一般を以下のようにまとめています(98ページ)。

1.国会が法律で国として取り組むべき基本政策をその基本理念とともに定め

2.政府にその実施を義務づけ

  3.政策実施前にあらかじめ政策大綱を立てさせる

4.政策実施期間終了後には事後評価を実施しその結果を次期大綱に反映させる

そしてこのように、国として取り組むべき基本政策を国会で定めることは、行政機関に対する民主的統制手段の一つである、と評価しています。しかし、各大綱・基本計画にどのような達成目標や施策を書き込むかについては政府に大幅な裁量が与えられていると注意喚起しています(99ページ)。さらに、大綱策定の形式と内実についてはこう説明しています。――政府は有識者からなる審議会を設置し、専門的知見や国民の考えを反映する。審議会の審議と答申に基づいて大綱を策定する。しかし、諮問事項を設定するのは政府なので審議の大枠や内容を方向づけることが可能であり、審議会事務局主導で進められ、審議が形骸化することがよくある―― したがって、「民主的統制が適切に機能しなければ、大綱の策定・実施を軸とする大綱行政(計画行政)は議会制民主主義を骨抜きにする仕組みとして機能してしまう」(99ページ)と警告しています。行政に対する民主的統制の仕組みを現実に活かすか形骸化させるかは重大問題であり、諸運動体はその仕組みを理解し、その中での力点の置き方を工夫することが求められます。

以上は、法と民主主義制度を遵守し活かす立場で考察されています。ところが、法や民主主義制度の形式性・抽象性・普遍性・公正性などは必要なものでありながら、それは諸刃の剣でもあります。たとえば汚職疑惑を突き付けられた政府筋・国会議員等の常套句として、「捜査中につきコメントは控えさていただく」というのがあります。本来これは、権力者が介入して捜査を妨害することを避けるという意味のはずです。ならば自ら疑惑について正直に答えるのがその趣旨に添うはずですが、逆に自らのコメントが捜査妨害になるという形式的リクツを振りかざしてだんまりを決め込む口実にしています。

 以下では、法の意義、その抽象性の積極的意義、そして法に含まれる矛盾について書いていきます。それは民主主義の実質化を考える上で重要な点であろうと思います。私は法の知識がほとんどない上に、法の矛盾に関する経済理論的考察の箇所では、引用ばかり過剰で恐縮ですが、思考途上の学習メモとしてご寛恕願います。そんな叙述に意味があるのかどうかが問題ではありますが……。

 人間諸関係が、自由・平等・独立な市民相互の関係として現れるのが市民社会です。そこでは主観的な個人的考えを排して、一定の客観的基準を定めてみながそれに服することとします。

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 こうして市民的社会関係は、強い立場にある人間が、自分の個人勝手な意思や感情によって、弱い立場にある人を一方的に支配する、という関係をやめて、支配者の意思や感情を制限する客観的基準を設け、当事者が、支配者を被支配者をも、ともに拘束するその基準=共通のルールに服する、ということからはじまる。この意味で、客観的基準の定立と自由とは不可分である。

 渡辺洋三『法というものの考え方』(岩波新書、1959年)26ページ

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 法の精神とはこういうものなのでしょう。渡辺氏は日本の世間的常識に対置して市民社会と法を説いています。次はさらに法の抽象性の積極的意義に関する言説を見ます。

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 人は「ありそうなこと」を想定しながら、ルールを作る。例えば、高校の校則で通学ルールを決める際、バイクや自転車の可否・条件については定めるが、ヘリコプターや戦車については言及すらしないだろう。

 しかし、法は制定者が考えてもいなかった「ウルトラマンに対する、あるべき法的処理の仕方」を導き出すことができる。それは、法が、抽象的な法概念に基づいて作られているからだ。

 近代法は、あらゆる人をあらゆる状況で公平に扱うことを目標とした。その結果、制定者が想定する事例を離れて、数学にも似た、抽象概念が登場することになった。

 『おとな六法』には、その特徴が見事に表れている。岡野氏は、身近な事例や面白い架空の事例を処理するために、さりげなく抽象的な法概念を駆使する。

 私はこの本を読んで、架空の極端な事例でこそ、法概念の理解の深さが問われるのを実感した。ウルトラマンは「人」で、ゾンビは「死体」なのか。簡単には答えが出そうにない。

読者の皆さんにも、事例の楽しさだけでなく、法概念を取り扱う面白さも感じて頂きたい。

 木村草太氏(憲法学者、東京都立大教授)による書評

『おとな六法』 岡野武志・アトム法律事務所〈著〉

「朝日」2024127

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 ここで木村氏は、法概念の抽象性が持つ普遍性・汎用性を称揚しています。さらにそれが生まれ出る舞台を「近代法は、あらゆる人をあらゆる状況で公平に扱うことを目標とした。その結果、制定者が想定する事例を離れて、数学にも似た、抽象概念が登場することになった」と描き出しています。ところで、「あらゆる人をあらゆる状況で公平に扱うこと」は「普遍的な正義」の観点から発するように見え、近代法をそういうものとして扱うことがおそらく通念なのでしょう。しかし、マルクス主義の立場からは経済的土台の歴史的発展を基礎として捉えられます。

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 近代市民法原理は、発生的には、商品所有者の意志関係の法的抽象として成立するが、その抽象性のゆえに、自立的な諸人格による自由・平等な社会形成の原理的基準の重要な側面を表現しえている〔=ブルジョア民主主義〕。ルソーの『社会契約』説が人民主権論の古典として評価されるのも、この点にかかわるといえる。資本主義の世界的危機の今日の局面=社会主義への移行の局面では、人類的遺産としての近代市民法原理のこの積極的側面の展開は、労働基本法・生存権〔=人間的労働と人間的生存の権利〕の確立とともに、もっとも重要な政治的課題を構成するといえる。それは、市民法的諸関係さえもちえない後進社会主義とは段階的に区別された、現代社会主義の規定的政治的側面といえよう。

大島雄一「経済学と国家論――その方法論的基準――」『現代資本主義の構造分析』所収、204205ページ、大月書店、1991年、初出:『現代と思想』第38号、青木書店、197911

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 法概念の抽象性の積極的意義とその成立根拠とについては以上のようですが、マルクス主義の立場からは、その限度も明らかにされます。『資本論』第1部第7篇の資本蓄積論にある「領有法則の転回」の分析は市民法原理による資本関係把握の虚構性を論理的に証明したものといえます。その到達点からは次のように見えます。

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商品交換の形式は、資本関係〔=搾取関係〕の内実を、「賃金=労働」の等価表象〔=いわゆる「労働の価値」〕のもとに隠蔽し、物神的=虚構的に映しだす(T・八四二)。この物神性=虚構的表象は、同時に、経済的関係の「法的表象」(T・八四七)でもある。市民法は、この「法的表象」にもとづいて、資本関係を自由な人格の平等な契約関係と把握することになる。ここに、近代市民法と資本主義的現実との本来的な矛盾があるといえる。搾取に抵抗する労働者の闘争〔=原生的な階級闘争〕は、資本主義的生産の現実そのものから生ずる。だが、物神的=虚構的な市民「法的表象」の世界では、この労働者の闘争は、本来的に、「法」外性=「非合法」性をもつことになる。ここでは、「法治国家」=「市民国家」は、まさに「市民国家」の規定においてこの労働者の「非合法」な闘争を抑圧し、まさに「市民国家」なるがゆえに、「政治的国家」=「階級国家」としてあらわれることになる。「法治国家」の二面性〔「市民国家」=「階級国家」〕は、右の法と現実の矛盾を媒介として成立する。だから、国家の必然性〔の端緒規定〕は、資本関係のもとではじめて問題としうる。交換過程=商品流通のレベルでは、国家の可能性〔の端緒規定〕を問題としうるにすぎない。          同前 182ページ 

 注:大島論文では、『資本論』からの引用は、長谷部訳、青木書店版の巻数と邦訳ページのみ記載    たとえば(T・八四二)  

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「近代市民法と資本主義的現実との本来的な矛盾」によって労働者階級の闘争が文字通りに非合法であったのが、市民法原理が純粋に貫徹した19世紀のイギリスです。「取引の自由」の適用によって、1820年代には、団結権も争議権も認められておらず、団結権の承認は1871年の「労働組合法」によって、争議権の承認は1875年の「共謀罪・財産保護法」によって始めて実現されます(同前、209ページ)。「生存権の資本主義的表現である団結権・争議権の承認は、無矛盾な市民法の体系に異質の要因をもちこむこと」(同前)になり、「資本主義法としての労働法は、市民法とこの異質要因との妥協の産物といえ」ます(210ページ)。

 現代においてはこのような法的妥協が成立しているとはいえ、資本主義的搾取が労働者の生存権を脅かしていることは変わりません。そこでは「取引の自由」などの資本の自由と労働者の団結権・争議権とが厳しく対立しています。新自由主義政策の貫徹とそれへの抵抗をめぐる「社会の利益」=公共性の争奪戦はその今日的形態です。資本蓄積における成長政策と福祉政策の意味の解明を含め、この階級闘争の本質は以下のように描き出されています。

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 「法治国家」のもとでは、資本家階級の階級的支配は、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成をとおして貫徹する。ここでは「社会の利益」は、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる。したがって国家は、資本蓄積の諸障害の克服と蓄積の諸矛盾の緩和を意図した諸政策を追求することによって、「社会の利益」を代表する「中立的権威」=「一般的利害」の担い手の衣装をまとうことができる。これが、客観的に「資本の自由」の優先的保障となることは、あきらかであろう。

 「社会の利益」と「資本の自由」との右の関連は、資本主義国家に一般的なものであり、今日の国家においても基本的に変わりない。成長政策も福祉政策も、いずれにせよ、資本蓄積の促進とその諸矛盾の緩和という一体的な国家目的の追求のそれぞれの側面を表現するにすぎず、それらをつうじて、「資本の自由」の優先的保障がたえず追求されていくものである。

 今日の特徴は、この国家目的の追求そのものが「国家の危機」をもたらしていることである。いうまでもなく、それは資本主義そのものの危機の「反射」である。ここで問題となることは、国家の階級性と公共性との対立でも、特殊利害と一般利害との対立でもない。それ自体が階級的利害の集約的表現である公共性=一般利害の概念の対立である。ここでは、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成か、「人民の自由」=「人間的労働への要求」を原理とする国民経済の統一的再編成かが、たえず問われているのである。

       同前 196197ページ

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 この大島論文が書かれた1979年はサッチャー英首相が登場し、新自由主義が支配的イデオロギーを担うべく登場し始めた時期です。ケインズ主義時代の階級的妥協を排し、資本から労働への攻撃強化へ路線転換される中で、「資本の自由」原理主義がいかにして公共性をまとうのかを、経済理論の次元で見た国家論を通して解明しようとしています。近代市民法原理の抽象性故の普遍性は未来社会にも引き継がれるべき積極的側面を持ちます。しかし同時にその抽象性故の普遍性は近代市民法と資本主義的現実との本来的な矛盾を隠蔽します。資本主義社会の通念ではこの矛盾は看過され、ひたすら市民法原理の普遍性だけで議論されます。そこに主要な民主主義論の形式的タテマエ性を招く原因があります。資本主義社会においては、公的領域である流通過程(市場)にふさわしい議論がそこにはあります。しかし資本主義社会の深部の力として作用するのは、私的領域である直接的生産過程(生産現場)であり、そこでの階級関係(搾取関係)です。資本主義社会でのタテマエとホンネの矛盾はここに根源を持ちます。

公的領域では、自由・平等・独立そして公正性が何よりも重要ですが、それは民主主義の必要条件ではあっても、十分条件ではありません。私的領域における不平等・専制支配・階級性の克服が課題として残っています。それらを民主主義論としてどうまとめるのか。公正性の社会的形態を担うのが公共性であるとすれば、それと階級性とはどう対峙するのか。上記引用文によれば、公共性一般と階級性一般とが対立するのでなく、ある階級性を体現した公共性と別の階級性を体現した公共性とが対立するのです。それぞれの階級性を基盤とする二つの公共性の対決という見方の中に、資本主義社会の公私両領域を踏まえて、民主主義の形式性と内実とを包含する捉え方のヒントがありはしないかと思えます。

 

 

          断想メモ

 

 「朝日」に随時掲載される重田園江氏の「政治季評」を毎回読んでいますが、222日付の「(政治季評)自衛隊の災害派遣と国防 命を守り奪う、近代国家の象徴」には驚きました。そこではまず災害派遣業務によって、特に1995年の阪神淡路大震災以降、自衛隊への支持が高まり、かつてあったような拒否反応がなくなってきたことを肯定的に書いています。確かに今日「自衛隊は大規模災害において必要不可欠な存在との認識」には私も同意します。それは客観的にそうだからですが、本来その使命は軍隊ではなく災害救助隊が担うべきものであることを忘れてはならないと思います。

 それよりも問題なのは、「昨今の国際情勢の中で国防という役割も強く期待されている」という無批判な認識です。私が1970年代に自衛隊を批判する論点として教えられたのは、違憲・対米従属・国民弾圧という軍隊としての性格です。それ故自衛隊はいずれなくさなければならない。それは今日に至るもまったく通用する認識だと思います。

例えば現在、日本の平和にとっての現実的な脅威は、台湾有事による米中戦争に日本が巻き込まれ国土が焦土と化する可能性です。アメリカの中国包囲網戦略に盲従して、空前の軍拡を進める日本政府の姿勢はその危険性へと突進しています。この危機を防ぐのは外交努力以外ありません。軍事は有害無力です。軍隊による国防という抽象的な一般論に従って、しかも日米安全保障条約と自衛隊によってそれを担うという発想が今日の通念ではありますが、具体的に考えればそれは非常に危険です。

「『生と死をめぐる権力と政治』の最前線に立つ自衛官と自衛隊のこれまでとこれからについて、また国家が人々の生と死をどのように管理し利用してきたかについて、いま一度考えるべきだろう」というのが重田氏の趣旨であるようです。確かにそういう問題はありえます。しかし「国防」に関する抽象的な一般論と日米安全保障条約と自衛隊についての通念を前提にして、それを考えようというのならまったくミスリーディングです。先に挙げた自衛隊の性格を考えるような具体的思考を抜きに、国家や人々の生と死を考えることはできません。この人でさえ、誤った通念に無批判的に従っている、というイデオロギー状況の重さを感じざるを得ません。
                                2024年2月29日







2024年4月号

          独占資本と国家の癒着
        →政治腐敗と人々の苦難

 

     ◎裏金問題と自民党政治の本質

 

 自民党派閥の政治資金パーティーによる裏金問題への世論の怒りは強いですが、それが一直線に政治変革に結びつくわけではなく、政治不信一般に流れ、シニシズムが蔓延しそうな状況があります。メディアによる世論形成上の最大の問題点として、「政治とカネ」問題の核心が企業・団体献金にあり、その禁止が本質的解決策である、ということが一向に示されないことが挙げられます。事実を詳細に伝えること自体は大切であり、すべての前提ではありますが、枝葉末節にこだわって太い幹が見えない状況です。というか、本質を隠しているとさえ思えます。今日のテレビ界では希有な批判的ジャーナリズムの調査報道番組であるTBS系の「報道特集」でさえも、この本質を打ち出す姿勢までは至っていないように見えます。政府広報と化した「公共放送」NHKのニュース番組の他にも、民放や商業紙などのメディアもまた大企業体制そのものをスポンサーとしている以上、それへの忖度で、企業・団体献金禁止を打ち出せないのでしょうか。さらに言えば、人々の中で、この裏金問題が自分たち庶民の世界とは無縁であり、遠い政治の世界の汚いエピソードに過ぎないという受け止めがおそらく広がっているだろうことが憂慮されます。政治の金権腐敗は政官財癒着と不可分の現象であり、そこに必然的にある大企業本位の経済政策によってこそ、人々の生活と労働の困難がもたらされている――この太い関係を世論の中核に据えることができるかどうかが政治変革の成否を左右します。

 問題を端的に示しましょう。これまでの裏金作りの経緯やその使途を全面的に明らかにし、今後政治資金を全面的に透明化することは当然です。しかしじゃあ表金ならいいのかということです。合法的な企業・団体献金自体が問題ではないのか。それを禁止し、非合法化することこそが求められます。参政権を持つのは自然人だけであり、法人などは持ちません。政治への資金面での参加は諸個人の思想信条に基づく自発的な適正額によるべきです。企業・団体がその経済力を使って過大に献金し、政治を事実上支配することは、憲法の国民主権原理に反します(*注)。しかし日本の政治においてはそれが常態化しており、まさに資本家階級の権力という資本主義国家の本質が露呈しています。人々の生活と労働の苦難の根源がここにあります。それを打破するには権力構造を根本的に変革すべきだ、という認識への接近の重要な糸口が眼前にあるのです。それが裏金問題追及の意義だと言えます。

(*注)

財界・大企業の企業献金などを通じた実質的な政治支配を国民主権原理への背馳と捉えうるのかということは問題ではあります。おそらく通常はそこまでは捉えられないということでしょう。しかし憲法原理の進歩的解釈をそこまで前進させることは可能ではないでしょうか。たとえば、憲法第24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とあり、もともとは異性婚を想定していたことは明らかです。しかしその中心的趣旨は、戦前の家父長制秩序を否定し、個人の尊重に基づいて、婚姻が当事者の合意だけで成立することです。異性婚という形態が24条の本質なのではありません。したがって、性意識の変化した今日では24条に基づいて同性婚を認める司法判断が出されています。

そこから類推するとこうなります。諸個人が真に社会の主人公になることが国民主権原理の本旨であるならば、それは君主制や独裁制・専制政治などを克服するのみならず、本来的には資本主義を超え社会主義によって始めて実現されるというべきでしょう。資本という疎外体が人間を搾取し支配する社会で諸個人が社会の主人公であることはできませんから。法学知識のない者の暴論かもしれませんが…。

 

     ◎政官財癒着の実態

 

 企業献金の中でも、対米従属と財界・大企業本位の政治との焦点にあるのが、なんといっても三菱重工を始めとする軍事企業のものです。岸田政権の未曾有の大軍拡で圧倒的に脚光を浴びています。しかしそれ以外にも財界・大企業と政府の一体化において、膨大な財政資金が様々な大企業に流し込まれていることについて、ここ数年で急増した経産省の基金の問題からアプローチしたのが、中平智之・薄木正治氏の「〔検証〕桁違いの大企業補助金 岸田政権の財界・大企業支援の現状です。

 論文では、「基金とは、独立行政法人、公益法人などが国から交付された補助金等を原資に、特定の事業のためにほかの財産と分けて管理している公的資金であ」り(90ページ)、「近年の基金への積み増しは、前代未聞の桁違いの規模である」(91ページ)と指摘されます。補正予算で基金に巨額が投じられることの政治的問題点として、財政規律・財政民主主義・事業内容の緊要性・運用状況の透明性が疑問視されています(同前)。確かにこれらは財政の公正性を保障する民主的ルールであり、そこからの逸脱は重大問題です。しかしいわばそうした形式民主主義(それ自身大切ではあるが)にとどまらず、中身としては「それら以上に本質的な問題は、巨額の基金事業の多くが、経産省の大企業補助金の原資となっている点」(同前)に求められます。その原資たる経産省の「科学技術関係予算」は2015年度5658億円(当初予算と補正予算等の合計額)だったのが、22年度には34820億円と急膨張しています(同前)。それが名だたる大企業に巨額の補助金として投入されているのですが、「各基金からの大企業等への支出は始まったばかりであ」り、「今後いよいよ、桁違いの大企業補助金の問題が表面化する」(92ページ)と警告されています。

 次いで、各種基金の中でも、半導体基金、グリーンイノベーション基金、廃炉・汚染水・処理水対策基金、ガソリン等補助金基金について具体的にその内容と問題点が分析されています。それに先立って以下のように、大企業・財界の要求と符合する経済政策の問題点が総括的に批判されます。

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 しかし投資減税や、設備投資や研究開発への補助金で競争を活性化させる方向の行き詰まりは、橋本、小渕、小泉、安倍の各政権で繰り返された構造改革、規制緩和、金融緩和政策や財政政策が、大企業の内部留保を蓄積させただけで、賃金は上がらず、国内投資を一向に拡大させなかったことで既に明らかになっている。より根本的には、まず大企業の成長ありきでその後に国民や中小企業に分配があるというトリクルダウンの考え方の破綻が、この間の事態によって明らかである。そのことに反省もなく同じ過ちを繰り返そうというのが岸田政権の経済政策であり、破綻した新自由主義の「成長戦略」への固執である。近年の大規模な基金造成と大企業補助金はその象徴と言わなければならない。

                  94ページ

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 そしてもちろん、企業献金の見返りに与えられる巨額の補助金は政官財の癒着を象徴するものです。2022年における自民党(国民政治協会)への献金・寄付額(105ページ)と同年の経産省からの補助金支出総額(93ページ、表1)をまとめると次のようになります(献金額→補助金額)。

富士通(1800万円→1363060万円)、日本電気(1800万円→1078414万円)

キャノン(4000万円→399700万円)、NTTグループ(1750万円→45592万円)

デンソー(1080万円→87億円2950万円)、三菱重工(3300万円→371289万円)

日本製鉄(2700万円→599320万円)、川崎重工(300万円→74600万円)

 

 庶民にとっては手の届かない毎年何千万円という支出も、何十億円以上もの補助金ゲットを考えれば安いものだということでしょう。これなら株主から背信行為として責任追及される心配のない「見返り」を立派に得る費用(いや投資か?)と言えますが、見返りを得る以上は事実上の賄賂でもあります。

経産省からの補助金支出総額の内、多くが基金からの支出となっていますが、三菱重工については、補助金34億円余の内、基金からの支出は4300万円にとどまります。しかし日本一の軍事企業として、2021年度の防衛省からの受注は4591億円に上ります。また「防衛省・自衛隊」から「天下り」を1622年の合計で22人受け入れ、242月に発足した「防衛力の抜本的強化に関する有識者会議」に宮永俊一会長が参加しています。これはまさに軍産学複合体の癒着の舞台装置であり、「安全保障と経済成長の好循環の実現」を掲げています。成長が実現できるなら、軍事でも構わないという世論を創り出す思想装置にほかなりません。軍事に財政も人的資源も取り込まれ、変質してしまいます(「赤旗」228日付)。

 経産省の基金とは別の話になりますが、政策減税も重大な問題です。日本共産党の小池晃書記局長が321日の参院財政金融委員会で追及しています(「赤旗」322日付)。

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 研究開発減税の22年度分の実績総額7636億円のうち、減税額が最も大きい企業は約802億円です。小池氏は「1社で減税額の1割以上を占める企業はトヨタ自動車以外にあり得ない。この現状でいいのか」と追及。鈴木財務相は「対象企業の分布の是非ではなく、政策効果で見極める」と強弁しました。

 小池氏は、自民党へのトヨタの献金額は6億1520万円(13〜22年)に上り、同時期の研究開発減税の総額は8700億円だと指摘。「開発減税は企業献金の最悪のキックバック(還付)と言われても仕方ない」と批判し、企業・団体献金の全面禁止を求めました。

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 中平・薄木論文に戻ると、個別企業の他に業界団体の献金も政官財の癒着の温床となっています。2022年の献金・寄付額は、日本自動車工業会7800万円、日本電機工業会7700万円、日本鉄鋼連盟6000万円です(105ページ)。経産省の基金設置法人・全国石油協会は全国石油商業組合連合会(全石連)によってつくられた一般社団法人ですが、全石連の政治部門の全国石油政治連盟は毎年、自民党(国民政治協会)に政治献金し、22年の額は100万円です。石油元売り大手の大企業を中心とする業界団体・石油連盟も5000万円献金しています。「国の補助金を受け、それを分配する基金の当事者企業が、政権与党に政治献金するのは」、「基金をつくり、監督・指導する立場の経産省との関係を含め、公正さを欠く不透明な政官財の癒着構造と言わざるを得ない」(同前)と指摘されます。

 以上のように、政治献金、補助金・減税、天下り・天上がりなどの「人事交流」、政府の審議会への参加などを通した癒着構造が縦横に張り巡らされています。こうした癒着構造を背景にたとえば気候危機対策について、岸田政権のグリーントランスフォーメーション(GX)政策が、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が示す科学的な対策と「パリ協定」に整合しない対策が多数含まれると国際的に批判が高まっています(99ページ)。製鉄・電力・自動車などの上位8企業や経団連他の業界団体の意見がGX政策立案に当たって大きな影響力を持っているためです。これについては後の佐々木論文で詳しく紹介されています。

 経産省の各種基金はもっともらしい名目をつけて存在し、大企業へ莫大な補助金を投じています。それらは公共利益実現のため経済に政策的に介入するというタテマエになっていますが、その実態は自民党への企業献金を背景にして、個別企業ないし業界の利益を最大限図るものとなっています。法人減税とともに多額の補助金は、企業献金へのキックバック(還付)というべきであり、その裏に、消費増税、社会保障の削減と負担増などを伴っています。政治資金パーティー券による裏金作りに代表される金権腐敗政治はその醜悪さに目を奪われるばかりですが、それによる大企業中心政治が人々の生活と労働を困難に陥れていることこそが最も本質的な問題と言わねばなりません。

 様々な政策の中でも気候危機対策(と原発政策)に絞って、財界・大企業中心政治の仕組みを解明したのが佐々木憲昭氏の「日本の気候危機対策はなぜ進まないのか」です。周知のように、日本は国際環境NGOから「化石賞」をたびたび拝領する体たらくであり、気候危機対策に背を向け、石炭火力と原発に依存して再生可能エネルギーへの転換が遅れています。日本での気候危機対策のカギは明確です。日本のCO2排出量、約11.5億トン(2020年度)の内、電力などエネルギー転換部門40.4%、産業部門24.3%、運輸部門17.0%であり、その合計81.7%で排出規制を強めればいいのです(110111ページ)。ところがまさにそのキー部門を牛耳る日本経団連を始めとする業界団体と一部の巨大企業が立ち塞がっています。

 その妨害勢力の影響力を明らかにしたのが、先の中平・薄木論文でも紹介された「インフルエンスマップ」(*注)です。そのレポートは、日本のGX政策は「科学的根拠に基づく政策と矛盾」しており、「石炭、LNG、水素・アンモニア混焼発電への依存は、IPCCが推奨する1.5℃の経路と矛盾し、長期的な世界の排出量目標にリスクをもたらす」と指摘しています(110ページ)。そうなる原因は明らかです。産業界の政策関与に関するデータポイントの81%が九つの業界団体と八つの企業に由来します――つまりGX政策立案までに出された意見の8割以上が製鉄など一部の企業と業界団体からのもので、しかも経団連が15%を占めているからです。気候変動政策への取り組みへの評価が低い団体ほど政策関与度の高い傾向があり、関与度上位35団体の内、20団体がパリ協定に添った気候政策への「妨害者」と見なされています。個別企業でも、地球温暖化ガスを大量に排出している企業ほどGX政策に大きな影響力を行使しています(同前)。その中でも経団連は化石燃料の効率的活用と原発の最大限活用を主張し、温暖化ガス排出抑制目標とデータ開示を敵視し、再生可能エネルギー導入には否定的です(111114ページ)。まさに利潤第一主義の権化として気候変動政策の妨害勢力となっています。

 こうした財界・大企業の要求を抑えることなしに気候変動政策を正すことはできませんが、政官財の癒着構造がそれを阻んでいます。まず経済財政諮問会議を始めとする政策決定組織に財界代表が参加していることが挙げられます。さらには、「天上がり」によって「財界から送り込まれた人たちが法律案をつくっている」とか、「天下り」によって大企業が「その見返りにさまざまな優遇措置を受ける」こともあります(115ページ)。「天下り」には一頃批判が集中し、規制されたという印象を私などは持っていましたが、佐々木論文によれば、逆に原則自由になり大手を振ってまかり通っています(115116ページ)。そしてなんといっても、政治献金が決定的です。温室効果ガス排出企業上位50位までのうち11社が201822年の5年間で128761万円、業界団体は同年間で127620万円、したがって、合計256381万円が自民党への企業献金となっています(116118ページ)。原発関連企業は、福島原発事故の2011年から22年までの12年間で717600万円をも自民党へ政治献金しています。この間、政府の原発再稼働・新増設への動きが活発になりました(118ページ)。

 以上のように見てくると、企業献金を中心とした政官財の癒着構造こそが財界・大企業本位の政治の原因であるといういわば当たり前のことが再確認されました。いろいろなことを見渡して難しく考えるよりも、この構造を打破すべく政権交代に向けて世論を変えていくことこそが最重要です。政治資金パーティー券問題に代表される底なしの金権政治腐敗、老醜とお気楽セクハラなど、自民党政治の目を覆う体たらくは政官財の癒着構造の不可分の外皮であり、世論がそれを見破るのを助け、有権者の意識と投票行動をドラスティックに変えることが求められます。

(*注)

 企業や業界団体の気候変動政策への取り組みに関するデータを分析する英国系の独立系シンクタンク。企業・団体が気候政策にどの程度関与しているか、またその立場がどの程度支持的か反対的かを示すマッピング(図で示すこと)を行っている。これによって各企業や業界団体の気候変動政策への影響力を評価し、その結果を公開している。       (121ページ)

 

     ◎現代資本主義像

 

 中平・薄木論文と佐々木論文を読むと、階級支配の視点から日本の政治経済を分析することの重要性が浮かび上がってきます。外交・軍事の視点を入れればそこに対米従属性が不可欠の問題点として加わります。さらに20世紀末の1980年代以降くらいからは、政策やイデオロギーから企業行動などに至るまで、新自由主義の覇権が確立したことも重要です。すると、現代日本社会は対米従属的国家独占資本主義の新自由主義段階とでも規定できそうです。

現在、人類史が資本主義から社会主義への移行期にあると見るならば、眼前の日本社会を、人間の自由を阻害する旧体制(アンシャンレジーム)の現段階と捉えることもできます。1970年代まではその前段階のケインズ主義段階と言えますが、旧体制たる点では同様です。すべての現代日本人は旧体制下での生活しか経験していません。老年層は(人権状況は劣悪だが、搾取はややましだった)その前段階から生きてきましたが、少青壮年層にとっては、(人権状況が若干前進しつつも、搾取がより苛烈になった)その現段階の実感しかないと言えます。旧体制の全期間はサンフランシスコ体制下にあるとも言えますから、長い対米従属下でそれがあたかも永遠の自然であるという錯覚も定着しています。沖縄などに典型的な属国的理不尽についても、知らないか、知っていても当たり前と感じるか、そうでなくても変えられないと諦めるかのいずれかが大勢となっています。ましてや資本主義的搾取は当然であり、拝金主義にすっかり染まるか、そうでなくてもやむを得ないと思っています。そもそも資本主義システムは、「私は前近代の階級社会とは違って、原則として搾取など存在しない」という顔をしている「市場経済」なのだから、そこでは自己責任で競争に励むしかなく、貧困化は負けた自分が悪いと「納得」させられています。

 ずっと旧体制に生きてきた人間は、そこに不満・不自由を感じながらも、他の体制を想像できず、逆にこの体制が壊れることを恐れ、ただでさえ不安な生活がさらにひどくなるだろうと想像します。それは封建社会に生きる人間が身分制度の窮屈さにうんざりしながらも社会変革を望まないのと同じであり、旧体制へのいやいやながらの「安住」と言うことができます。ところが1789年のフランス人は、自らの境遇を「アンシャンレジーム」と規定してそれを打倒すべく革命に立ち上がったわけですが、なぜそれが可能だったかを歴史に尋ねることは意義あることです。自分が生きている社会を絶対視せず、弊害を抱えた旧体制として相対化する視点をどうやって持つことができたのか…。

とはいえそれはすぐには難しいので、現代日本で人々が旧体制に固執する原因をアレコレ考えてみます。まず、当面する生活と労働の苦難の根本的原因が分からず、体制とメディアが流布する、問題の本質外しによってニセの原因を信じるということが挙げられます。たとえば、外国人・生活保護受給者・公務員等々の「既得権益」なるものをでっち上げ、任意のスケープゴートをバッシングして鬱憤を晴らし、排外主義と(ミソジニーなどの)ジェンダーバイアスへ逃避するという事態です(もっとも、こういうのはメディアなどに出てくるから目立つけれども、実際にはもっと何か地味な保守的心理が中心かもしれない)。そうなると当然、苦難を打開する当面の政治・経済政策が分からず、対米従属と財界・大企業本位を打開する道をそもそも知らないか、知っていても単なる理想で現実的にはうまくいかないと諦めることになります。

そういう日本社会に内在的な問題の外枠として、社会主義・共産主義へのマイナスイメージが挙げられます。旧体制の打破=革命後の社会の一例として、ソ連・中国などの「共産主義」社会が挙げられるのですが、それは対内的には人間抑圧のグロテスクな社会であり、対外的には覇権主義国家です。それが嫌われるのは当然ですが、マルクス以来の共産主義像そのものも道連れにされています。このように共産主義への錯誤が強固に成立していることは、新体制へ転換する想像力をあらかじめ封じ込め、旧体制の残存力を高めることに帰結します。

 こうして、生活に身近なところでも、地理的・思想的に遠いところでも、旧体制の固定化要因が勝るという重層的構造があり、今日に至っています。本来人民の立ち上がりによって打倒されるべき旧体制が残存している結果として、裏金自民党に象徴されるいっそうの政治腐敗を伴って、搾取強化と寄生性・腐朽性の深化とが進行します。

そもそも史的唯物論の社会発展法則の意義は、人類がそれを認識し実践することで、できるだけ犠牲少なく社会発展を実現することです。旧体制としての資本主義の残存はそれを裏切っています。レーニン『帝国主義論』は帝国主義を資本主義発展の最高段階と規定し、もはやそれは社会主義へ移行するほかないとしていますが、今日このテーゼは顧みられません。事実としてそれから100年以上も資本主義は続いているのだから、そういう扱いも当然に見えます。しかしそれは資本主義が進歩的意義を持って存在してきたということを意味しません。

 20世紀初め、植民地支配が地球上で飽和化し、帝国主義戦争による植民地再分割闘争=第一次大戦によって多大の犠牲が払われました。もはや資本主義は人類史を去るべき段階に来たということです。事実としてロシア革命によって社会主義を目指す政権が誕生しました。しかし残念ながらこの革命後の社会は失敗し人類史上から退場する結果となります。

 人類史的には旧体制と化した資本主義はなおも地球の大勢を支配しました。しかし資本主義発展のもたらしたものは何だったかを問うべきです。資本は人間とその社会が生んだ疎外体です。人間とその社会を支配する資本の自己増殖運動は、格差と貧困を無限に拡大し、核兵器を開発・使用し、地球規模で環境破壊しています。この資本主義発展によって、発達した資本主義諸国が20世紀現存社会主義体制との生産力競争に勝利したことは、スターリン主義体制を正当化するための資本主義没落論の誤りを証明しました。しかし同時に資本主義発展が人類的危機を生じさせそれを克服できないことは、人類史発展における資本主義弁護論が成立しないことを示しています。ここにこそ、資本主義から社会主義への移行期における旧体制としての資本主義残存の意味があります。この残存によって、金融化を代表とする資本主義の寄生性・腐朽性は爛熟するばかりです。人類の犠牲を少なくし、社会発展法則を貫徹するためにはこの旧体制を早く克服する必要があります。確かに利潤追求は最高のインセンティヴとして生産力発展を促しますが、必ず負の作用を伴います。あらゆる資本主義美化論を排し、その旧体制的本質を暴露し、人間的自由の真の実現を掲げることが必要です。

 労働者・人民の階級闘争や様々な社会運動による、資本主義体制下での民主的規制・部分的改良は、一定の資本主義的矛盾を緩和することで、現体制の延命に作用することはあり得ます。しかしそうした成果を否定的に見るのではなく、根本的変革に結び付ける展望を明らかにする中で、それら改革の諸経験を変革主体形成に結び付ける好循環を実現すべきでしょう。

 ところで始めに、現代日本社会を対米従属的国家独占資本主義の新自由主義段階と規定しましたが、国家独占資本主義などという言葉は死語と見る向きもあるでしょう。企業献金を中心として政官財の癒着構造を問題にする中で、そうした現象を表す用語として国家独占資本主義に言及しました。ただしその本質としては、雑駁ですが次のように考えます。

 第一次大戦とロシア革命を直接のきっかけとする資本主義の全般的危機への対応として、兌換制から不換性への移行によって管理通貨制度を採用し、資本主義の基底としての商品=貨幣関係を人為的に管理し、「恐慌をインフレで買い取る」体制として財政・金融政策などを整備する。――ここで全般的危機論への批判が想起されます。その問題意識として、万年危機論の克服や資本主義分析のリアリティの確保ということは理解できますが、他方で、資本主義から社会主義への歴史的移行期という人類史的展望が後景に退き、ソ連・東欧などの誤った社会主義政権による「共産主義」マイナスイメージも含めて、左翼勢力などにおける資本主義美化論の横行に道を開く傾向がある点で要注意と思います。ただし日本共産党が未来社会論として社会主義・共産主義論を強調している点は、もっぱら入門的議論が中心であるとはいえ、積極面であると評価しています。

 国家独占資本主義タームの忌避の背景には、資本主義体制の主流のケインズ主義から新自由主義への移行があると思います。そこには「小さな政府」神話や「競争の強化」幻想があり、新自由主義の本質を見誤っています。新自由主義はまず何より労働の規制緩和や労組への攻撃などを中心に搾取強化があり、自由競争の美化は弱小資本の淘汰など巨大資本の利益になる限りであり、独占資本体制の利益のためには国有化さえあります。また新自由主義グローバリゼーションの展開という現実から、従来の国家独占資本主義論の視点が主に一国資本主義的限界にあったということも考慮すべきでしょう。したがって、グローバリゼーションの理論的把握に対応しつつ、国家の役割や資本主義的搾取強化を見据えて、新自由主義の見損ないや資本主義美化論を克服すべく、国家独占資本主義論をヴァージョンアップしていくことが必要かと思います。

 

 

          為替相場の名目的変動と実質的変動

 

松本朗氏の「50年ぶりの円安とその要因を考える」は今日の経済現象が経済理論に照らして本質的に解明されており、いつもながら希少な論稿と感じられます。現状分析上の諸結論については大いに賛同します。以下では、分析用具としての理論・用語の一部について考察してみます。

 実質為替相場について、127ページに、次のように算定式が掲げてあります。

  実質為替相場=名目為替相場×(日本の物価指数/アメリカの物価指数)

 135136ページの脚注(1)にその丁寧な解説があります。それによれば、まず実質為替相場は国際間の実体的な経済取引に起因する外貨の需給関係によって変動し、今日では国際間の貸し借りも実質的な為替相場変動要因であるとされます。それに対して名目為替相場は通貨の相対的価値の変化によっておこる為替相場の変動であり、具体的には二国間の物価変動の差を反映するとされます。

 実際の為替相場はこの実質的・名目的の二要因によって変動するので、古典的にはその総合的性格を踏まえて「算定為替相場」と呼ばれてきました。「しかし、今日では表面的に表れている(統計的に捉えられる)為替相場という意味で名目為替相場と呼んでいる。そのため、名目という言葉の意味をよく吟味しながら問題を考える必要がある」(136ページ)とあります。今日の用語では、名目為替相場と言っても、名目的要因だけで変動する為替相場ではないということになります。用語使用の如何で現象的把握に留まるか、本質まで洞察しうるかが分かれる場合があることを思えば、これは極めて重要な指摘です(*注)

 それに続いて、具体的な数値例を用いて検討されます。起点において、1ドル=100円として、物価が日本で10%下がり、アメリカで10%上がった場合、円のドルに対する購買力に変化がないのは、100×(0.91.1)≒82円 であるとされます。ところが実際の為替相場(名目為替相場)が1ドル=110円であったならば、円の実質為替相場は上記の算定式に従って、110×(0.91.1)=90円 となります。これは名目為替相場の110円を円とドルの物価指数比で除したものなので、名目為替相場から名目的変動要因を除いて実質的変動要因だけが反映された数値だと言えます。82円と90円との差は実質的変動によって生じたと言えます。それに対して、82円と110円との差は実質的要因と名目的要因との合わさった変動によって生じていると言えます。

 そこで、1001108290という数値の意味と関係を図式化してみました。

 

     *** *** *** *** ***  ┬┬  *** *** ***  *** *** 

 

     起点               現時点

 

         名目的変動と実質的変動

現実値⇒   100         →        110

 

      ↓ ……… ×(0.91.1) ……… ↓

             名目的変動を除く 

 

理論値⇒   82         →         90

              実質的変動

 

     *** *** *** *** ***  ┴┴  *** *** ***  *** *** 

 

 上図で、100110は直接統計上に表れるので「現実値」と称します。8290は、100110を「円とドルの物価指数比」で加工しているので「理論値」とします(説明上、名目値という表現が名目的変動と紛らわしいのでそうします)。ここでは、名目的変動は円高に、実質的変動は円安に作用し、後者の方が強いので結果的には円安となります。上図の「→」は通時的変化を「↓」は共時的変換を表します。

 まず起点の100に対して名目的変動だけが作用すれば82になるはずですが、それは理論上の変換にとどまり、実際には名目的変動と実質的変動との合力で110となります。合力とは言っても、方向が逆で絶対値は「実質的変動>名目的変動」なので、大きさは「実質的変動−名目的変動」(正の値)となります。

 次に、4つの値のうち、最も円高の82と最も円安の110との関係を、「8290110」の順に見ます。8290は名目的変動を除いた理論値なので、「8290」は実質的変動による変化であり、円安となっています。「90110」は現実の変動ではなく、理論値から現実値への逆転換です(通常の用語では、実質値から名目値への逆転換、実質化ならぬ逆実質化=名目化)。そこでは上記の「円とドルの物価指数比」の逆数を使うので、円高ではなく円安に作用します。これはいわば(逆)名目的変動です。したがって、名目的変動だけを表現した理論値82は、実質的変動と(逆)名目的変動を通して現実値110となると言えます。

 なお、100から82への理論的変換は、円とドルの一定期間での物価上昇率格差による変動を反映しているので、実際のところは通時的変化なのですが、それが現実値に表れないので、近似的に共時的変換と見なします。

(*注)

 用語への注意ということでは、拙文「『経済』20104月号の感想」の中の「経済理論における実質賃金率への疑問」において、「賃金率」という言葉の扱い方について、以下の疑問を書きました。

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 次に賃金率です。「率」というのは通常、何らかの割合を表わします。たとえば利潤率は投下資本に対する利潤の割合です。ところが賃金率の「率」は違います。賃金率とは単位労働時間当たりの賃金を表わし、何かに対する割合ではありません。「実質賃金率と利潤率」と並べると、字面からは<**VS**率>となっていかにも同一平面上で対抗しているかのような錯覚が生じますが、「ある単位量」と「ある割合」という次元の違う数量が直接的に対抗関係にあるはずはないでしょう。

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 以下は蛇足かもしれませんが、付随する問題を若干提起します。算定為替相場(今日の用語では名目為替相場)は名目的要因と実質的要因とによって変動します。このうち、名目的要因は「具体的には、二国間の物価変動の差(インフレ率の差)を反映して変動する」(135ページ)とされます。ここで物価上昇とインフレーションとを区別すれば、前者は実質的要因と名目的要因とによって変動し、後者はもっぱら名目的要因によって変動します。したがって、通俗的には<物価上昇率=インフレ率>ですが、本来両者は概念的に区別されるべきです(実際には、この意味でのインフレ率を測定することは困難でしょうが)。

 物価指数は通常、もっぱら名目的変動要因を反映したものと解されますが、実際には名目的・実質的の両要因による変動を反映しています。ならば、名目為替相場を二国間の物価指数の比で除して、実質為替相場を算定するといっても、物価指数そのものが実質的変動を反映しているのだから、この割り算によって名目的変動だけを排除することは本当のところできないと言えます。

 物価変動の実質的要因としては、諸商品に対する需給変動の他に、生産力の変動があります。前者は短期的には重要ですが、相殺的に働くこともあり、長期的には意義が少ないと言えます。それに対して後者は短期的には意義が少ないかもしれませんが、長期的には不可逆的に物価下落要因として働きます。したがって、5年・10年あるいはそれ以上の経済変動を見る場合には重要です。もっとも、実質為替相場の算定に際して、そうした物価指数の厳密な見方が実際のところどれほど意味があるのか、という点で、以上の議論は一蹴されるかもしれませんが…。

 インフレ率や物価指数については、川上則道氏の『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』(新日本出版社、2004年)の第3章「経済成長と価値」(この章は川上氏と私との手紙のやりとりを編集したもの)と拙稿「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』第86号、20065月、所収)で考察しております。

                                2024年3月31日




2024年5月号

          利潤第一主義とのたたかいと社会変革

 

 世間ではずっと賃金が上がらないことに不満が鬱積し、政府や財界でさえそれをようやく経済停滞の原因として問題視し、賃上げを重大イシューと認識するに至っています。しかし問題の捉え方はその程度であり、労働者の深刻な客観状況や自己認識のあり方は看過されています。当然です。それは社会変革の見地に立たなければ見えてきません。一方で支配体制維持の立場からは、賃金抑制という至上命題の枠内で、そこに生じる「生産と消費の矛盾」を適当な水準にいかに抑え込むかという量的バランスに目が向くばかりでしょう。他方で被搾取者としての労働者の立場からは、自身の生活と労働の状況を改善すべく、資本主義社会をどう変革するかまでが(本来は)視野に入ってくるはずです。そこで、支配層の平板な現状認識とは鮮やかな対象をなすのが、江口健志氏(労働者教育協会常任理事)の「利潤第一主義とのたたかいと社会変革」の冒頭叙述であり、簡潔にして多面的に要点を押さえています。

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 この約30年、賃金が上がらなくなった日本社会。だが事態はもっと深刻である。非正規雇用が労働者の4割を占め、しかも自活型非正規が増大している。低処遇の正規労働者も増えた。労働者の貧困は深まっている。そこにこの間の物価高騰が重なる。さらに正規労働者の過重労働も重大である。こうした労働と生活の問題に加え、労働者が自己責任論を内面化させられ、孤立化、「無力化」させられている現実が横たわっている。

           67ページ

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 この約30年の経済停滞の第一の原因たる賃金低下(そういう実体経済の問題を誤認ないし隠蔽し、金融問題にすり替えて強行されたのがリフレ派によるアベノミクス「異次元の金融緩和」)について、非正規雇用の拡大が最大の要因として認められますが、正規労働者も重大な問題を抱えており、その低処遇と過重労働を含めて、労働者階級全体として「貧困」が深まっています。その客観状況に対する労働者の主観=自己責任論の内面化が変革主体形成の重大な阻害要因となっています。自己責任論は一方で、「貧困」の原因としての資本主義の本質を不可視化し、他方で個人責任化=孤立化によって労働者の連帯を削ぐことで「無力化」を実感させます。このように変革主体形成を阻害することは、資本主義というものが、人類史の一段階としての存在理由を果たして自己変革する=社会主義に移行することを阻止し、旧体制としての資本主義下で人類社会がずるずる腐敗し続け立ち枯れ、最悪の場合自滅に至る過程の一環であるとも言えます。グローバルな環境問題がその典型的現れの一つです。冷戦期には核戦争による自滅も語られましたが…。

そこで想起されるのが、『共産党宣言』の始めにある、階級闘争は「いつでも全社会の革命的改造におわるか、さもなければ、あいあらそう階級のともだおれにおわった」(国民文庫版、1952年、27ページ)という言葉です。ここでの「階級のともだおれ」が何を指しているかは知りませんが、現代では資本主義を生きながらえさせることが人類存続の危機につながり、仮にそれに直結しないとしても、金融化によってますます寄生性・腐朽性を深めることになります。それは緩慢な自壊過程です。革命か自滅か。人類史を救う労働者階級の変革主体形成の意義は誠に大きいと言えます。

 閑話休題。いささか脱線気味なので論文に戻ります。上記の「自活型非正規」という規定は、かつて主婦パートが非正規雇用の典型であった頃をそのまま引きずる「家計補助労働」論の破綻を見据えた表現だと言えます。従来からあった非自活的な家計補助的低賃金が今日そのまま自活型非正規労働者に適用され、先進資本主義諸国では例外的に低い最低賃金しかない日本の現状を規定しています。ここには労働力の価値とは何かという問題があります。そこで考えたいこととして一つには、この非正規差別に関係するジェンダーとケア労働の視点(*補注1と、二つ目には、差別是正の「同一労働同一賃金」原則と「生活給」原理との関係という問題(*補注2があります。この2点については後述します。

 江口論文の視点を見ると――<1>新自由主義を収奪的資本主義と規定し(68ページ)、<2>マルクスによる資本主義の一般法則の分析が同時に労働運動による社会変革論ともなっているとし(同前)、<3>搾取論の前段としての労働過程論と社会的有用労働論が重要であるとしている(7173ページ)こと――を挙げることができます。この<1>→<2>→<3>は眼前の現象から本質への下向を示しているので、論理的には逆に上向的に見ようと思います。

ここで<3>は<2>を支える視点となっています。『資本論』第1部第5章「労働過程と価値増殖過程」では歴史貫通的視点から労働過程の本源的性格を捉え、それが資本主義的価値増殖過程の中で疎外された労働に転化せざるを得ない基礎が明らかにされます。その上で、協業論(『資本論』第1部)・機械制大業論(同前)・株式会社論(同第3部)において、「資本による労働の支配と労働過程を取り戻す営み、両者の対抗・せめぎあいという視点でマルクスは現場をとらえ」、「資本主義生産の進行のなかに、労働疎外を乗り越える展望とその客観的基盤の形成をしめしているの」です(72ページ)。

つまり労働の歴史貫通的・本源的性格をまず捉えることで、その資本主義的疎外の本質を暴露します。したがって、労働運動は「資本の本性を社会的に規制する力」(70ページ)を発揮することで、資本主義的に疎外された労働をその本源的性格に多少なりとも近づけることができます。ここでは「資本の本性」を正確に分析して捉えることなしに規制の方策を知ることができません。その自覚に立って、労働力商品を集団的に売ることで、個々の労働者の労働力販売競争を制限し(68ページ)、その販売基準として「生計費原則」を確立し(69ページ)、賃金闘争では「労資の力関係」(70ページ)が決定的であり、その闘争の延長線上に標準労働日や最低賃金制などの社会的規制(同前)があり、さらにそれらを社会権(同前)という法制にまで高め、その拡充へと向かいます。

 労働の本源的性格の析出から出発して、資本の本性の分析と労働運動によるその規制というのが上記の視点<3>→<2>ということになります。ところが資本の力が強く、労働者階級による規制力が弱体化させられたところに、現状として<1>新自由主義=収奪的資本主義が跋扈します。資本の本性が解放されればこうなります。――「個別資本によるあくなき剰余価値の追求は、労働者の生命の破壊さえいとわない。あらゆる制限を突破するのが利潤第一主義の衝動である。現代日本の非正規労働者の低賃金、長時間過密労働の実態、それが少子化に、社会そのものの崩壊に導いている現実が、そのことを何より雄弁に物語る」(同前)。これは資本の本性の延長線上に新自由主義日本の現実を位置づけています。さらに言えば、新自由主義を「市場原理主義」とか「小さな政府」といった流通面や自由競争崇拝の側面で捉えるのは、現象的・表面的であり、ブルジョア・イデオロギーへの追随です。まずは生産過程に着目して、賃金を「労働力の再生産費を大きく下回る水準に切り下げ」(68ページ)るような超強搾取の収奪的資本主義と捉え、次いで以下のように政治権力支配を核心として捉えることが必要です。

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 新自由主義は、大企業のあくなき利潤追求のため、その障害となる規制、社会権を撤廃する攻撃であり、福祉国家解体の反動攻勢である。具体的には財界大企業による労働者の賃金切り下げ、非正規の増大であり、国家は政策的にそれをバックアップした。労働者派遣法とその改悪、雇用保険の縮小、労働時間規制緩和などがその典型である。それまで積み上げられてきた生存権、社会権の体系を破壊する攻撃が長期間にわたって続いている。新自由主義とは利潤第一主義のむき出しの展開である。     74ページ

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 新自由主義を何よりも資本の本性の顕現、さらにはその暴走と捉えることで、上記のように政治・法といった上部構造もがっちり押さえたむき出しの資本主義像を描くことができます。第二次大戦後の世界資本主義の相対的安定期=高度経済成長期には、労働者階級へ一定譲歩しても資本主義体制を維持する余裕がありました。しかし高度成長の破綻後には、資本の本性のままに労働者階級への攻撃を激化することでしか、剰余価値を十分に獲得することが叶わない状態に追い込まれました。それが収奪的資本主義であり、政治・法・イデオロギーもそれにふさわしく強権的に再編されます。ここに新自由主義の本質があると言えましょう。

 労働者自身の生存を維持し、その労働能力を向上させ、かつその後継者を育成するのを労働力の再生産というならば、労働力の価値とは労働力の再生産費です。労働力の再生産を可能にする水準の賃金が支払われるのが「正常な」資本主義的搾取の条件です。ところが収奪的資本主義においては、労働力の価値以下の賃金が普通に見られ、その必然的帰結として、少子化が進行し、社会そのものの存続可能性が危ぶまれています。日本社会の危機は新自由主義がもたらしたと言え、おそらくそれは新自由主義グローバリゼーションが作りだす世界資本主義の惨状の先駆けでしょう。

 私たちの喫緊の課題はこの収奪的資本主義をとりあえず少なくとも「正常な搾取」にまで戻すことです。その方策の原理にあるのは本源的労働の復権に向けて、資本の本性を規制することです。したがって「正常な搾取」の回復は当面の目標で(それが大変なんだが)、あえて言えば通過点であって、そこにとどまるものではなく、必然的に資本主義そのものの止揚まで進まなければなりません。

資本の本性を一定規制して形成された戦後資本主義社会が危機を迎えて、その打開策として、再び資本の本性を野放しにして収奪的資本主義=新自由主義的社会を作りだした結果が人間社会そのものの危機に至ったのです。そこで本源的労働の高次復活の立場から、新自由主義への暴走(人類史への反動)と対蹠的な社会主義への疾走(人類史上の前進)を想像し、その前段として当面の課題を具体化することが求められます。そんなことを言っても、目の前の貧困者への支援など、様々な社会問題への対処に日々忙殺されている人々にとっては、大風呂敷の空言にしか聞こえないかもしれません。しかし、各人の労働のあり方を起点とした人類史への想像力に基づく確信が、心折れるような新自由主義的現実に立ち向かう意欲を高め、当面する具体的課題の歴史的意義づけに結び付けられるならば、と願っております。

 

 

(*補注1ジェンダーとケア労働の視点

 

 新自由主義=収奪的資本主義に横行する「労働力の価値以下の賃金」を成立させる一つの重要な要因として、ジェンダーバイアスによるケア労働の軽視があります。日本社会のジェンダー格差は世界最大水準にあり、これを克服することはあらゆる社会問題に関係し、賃金上昇と適正化にとっても不可欠です。ところが日本の強固なジェンダーバイアスそのものは周知のことでありながら、まるで日本社会の宿命のように捉えられているかのようで、その克服に向かう「空気」より、事なかれ主義的「空気」が優勢であるように現状では見受けられます。何かにつけ、正しいことを言って波風立てるより、黙っている方が楽ならそれで行く、多少の不条理や不便は我慢してやり過ごすというのが、この社会の生態というものです。たとえば世論調査では、選択的夫婦別姓の支持は多く、主な政党でも自民党以外は支持しています。自民党内でも反対派はむしろ少数なのですが、強固な保守反動層に配慮して頑迷な一部議員が主導権を握っています(彼らの反動的な国家観と一体化した強固な家族観はかの党内の軟弱なリベラル感など蹴散らしているのだろう)。それが自民党にとっての大きな失点にはならないという緩い世論状況が、社会進歩の困難な日本の「空気」と言えます。

しかし、姉歯曉氏の「ジェンダー平等と現代社会」から読み取れるのは、ジェンダー格差は社会の宿命ではなく、その克服は政治的決断によって大きく進むものだということです。北欧諸国がジェンダー平等で、日本のジェンダー格差が大きいという対照性は伝統や文化の差異に基づく固定的現実ではありません。男女間賃金格差を見ると、今日、アイスランドは9.1%ですが、1975年には25%あり、今日の日本の21.3%より大きかったのです(5253ページ)。アイスランドでは首相を始め閣僚の半数は女性、国会の総議席63の内30議席は女性ですが、1975年当時は3名でした(51ページ)。このめざましい進歩への転機となったのは、19751024日の「女性の休日」ストライキです。「女性たちが、台所から、保育所から、学校から、そして商店や工場から消えたことで全ての機能が完全にストップし、男たちはこの日初めて子どものおむつを替え、台所に入り、会社に子ども連れで出勤することを強いられた。女性たちのストライキは、女性たちの担うものがいかにおおきなものであるかを社会に、男たちに認識させたのである」(同前、これはもうそのまま引用するほかない)。

 もちろん「ローマは一日にしてはならず」。そこにはアイスランドのフェミニストたちの長年の運動が前提としてあり、それは今も粘り強く続いています。しかし決め手をどう打つかは決定的に重要であり、長年の宿命のように見えるものでも、打ち所によっては瓦解のきっかけとなる一例と言えます。私のようなセンスのない者には、そこから日本への教訓をどう引き出すかはよく分かりませんが、ジェンダーギャップの惰性を打ち破る運動が今、堰を切るようなうねりを見せているようではあります。ミソジニー的な心ない反動もまた極めて厳しいのですが、気持ちいいほどまっすぐなジェンダー視点を掲げた朝ドラ「虎に翼」が好評なのは日本社会の不可逆的変化を表しているかもしれません。

 男女間賃金格差の問題に戻ります。教育においてSTEM(自然科学・技術・工学・数学)領域に男性が多く女性が少ないことを姉歯氏は強調しています。この教育における領域分けが労働市場での領域分断につながります。そこで、子育てに関わって女性がいったん職場離脱し、パートタイマーとして再就職する「M字型就労」を念頭にこう言われます。

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 こうして子育て途上で、もしくは一段落したのちに残されているのは家事・育児・介護に関わるスキルを活かせる雇用先かもしれないが、そこは家庭で誰でも日常的に行っている私的労働の延長線上にある労働と評価され、資格を取得しているものでさえ低賃金で働くことになる。現在慢性的な人手不足とその原因ともなっている低賃金構造を抱える介護職では労働者の7割を女性が占めている。こうした女性が多い職場は総じてケア労働が多く、ここからも女性の領域、STEMに関わる労働は男性の領域といった社会構造的なバイアスが再生産される。       5354ページ   下線は刑部

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 このようなケア労働の低賃金による人手不足を一要因として、子育て・介護という公的領域が不備となります。男女間賃金格差が大きく、家庭責任が女性偏重であるという今日の状況下では、この不備によって女性が正規労働から離脱することになり、ケア労働以外の女性労働も以下のように厳しくなります。

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 育児や介護から解放されキャリアを続けていくことが難しい介護現場以外の女性労働者もまた、正規雇用から外れ非正規のパートタイマーとして低賃金不安定雇用の労働市場へと吸収されていく。女性の就業率が年々上昇する一方で、正規雇用比率が「2529歳」をピークに下落していく理由はここにある。女性労働者が置かれている低賃金不安定雇用は差別と一体化して進められていく。低賃金がその労働の社会における重要性とは全く関係のないところで押し付けられているものであるにも関わらず、この労働は評価するに値しないものとみなされ、この労働を担う女性労働者に対する評価を低めるという構図が出来上がる。          54ページ   下線は刑部

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 このケア労働への低評価は国家財政にも貫かれます。産業基盤インフラなどの物的インフラは「投資」として評価され、保育園・学校・医療の社会インフラは「経費」として削減対象とされます(52ページ)。あるいは別様の表現として、IMFの要求を挙げることができます。STEMに関わる雇用は「投資」領域として促進が推奨され、ケア労働は構造調整で民営化し、労働者削減・賃金引き下げという経費削減が推奨されます(54ページ)。

 この主に女性が担ってきたケア労働への低評価が男女間賃金格差の主要な原因であり、女性労働者の多くが非正規であることがそこに連動して、正規と非正規との賃金格差につながります。それを克服するための「期待される闘い」が「STEMに偏る領域への過大な評価と対人的・社会的インフラを支える労働者への過小評価を糾弾し、『生産性』すなわち剰余価値生産の大きさを基準とするイデオロギーの存在との間で繰り広げられる」(55ページ)とされます。そこで、ケア労働など「対人的・社会的インフラを支える労働」への過小評価を克服する「資本主義的価値観へのアンチテーゼ」として、「資本がいうところの生産性と無縁な人間の生命や成長に関する労働の社会的な価値(経済的価値とはまったく異なることに注意すべきである)を認めさせる闘い」(56ページ)が主張されます。

 ここで気になるのは、「経済的価値とはまったく異なる労働の社会的価値」という提起です。この社会的価値とは経済的基準では決められない価値でしょうか。そうではなくて、剰余価値生産の大きさを基準とする経済的価値ではなく、別の基準を持つ経済的価値を対置するのが適当ではないかと思います。

 経済的価値の問題として、ケア労働の低評価を考えるならば、その原点は家庭内での私的労働としての家事労働(ここでは仮に「私的家内家事労働」と称します)が無償であるということです。多くの場合、女性(労働者の妻や母など)がそれを担い、個人的消費を成立させるための労働が現実に投下されています。それが個々の家庭にとって必須だということは社会全体にとっても必須でありながら、無償とされてきました。しかし、労働力の価値の規定には(妻や母などの私的家内家事労働の担い手を含めた)労働者家族を養う費用が入っているということは、実は無償ではなく賃金に含まれているとは言えます。とはいえ、もともと「無償」感がありますから、すでにその評価は低いというべきで、本来ならば当労働の担い手にふさわしい費用がもっと高額に算定されるべきでしょう。この家族賃金の考え方と実際の水準を指して「労働者家父長制賃金」とでも呼びましょう。

 しかし、もちろん今日では、「労働者家父長制賃金」はかなり解体しています。「家父長」以外の家族が就労し、私的家内家事労働のかなりの部分が市場労働と公務労働とに外部委託されています。外部委託の部分は労働力の価値に実際には加算されねばなりません*注)。とはいえ残余の部分もまだ多くあります。「労働力の価値」は分割され、家族員の賃金の合計で生活費を賄いつつ、私的家内家事労働を家族で担っています。

 ここで社会全体に目を移し、家事労働の観点から社会的総労働を見ます。個人的消費過程を成り立たせるには家事労働が不可欠です。それは外部委託された部分と家内労働として残された部分とから成りますが、他の市場労働や公務労働と並んで、社会全体の投下労働の一部を形成しています。通常、私的家内家事労働についてはそういう認識がありませんが、これは厳然たる事実です。経済理論・労働価値論はこのような社会的総労働の全体をたなごころに乗せる必要があります。

労働価値論の重層的構成によれば、生産物とサービスの集積によって、私たちの生活と社会が成り立っています。資本主義経済において直接それを動かす指標は「市場価格・利潤」範疇ですが、それは表層であり、その底には、労働の集積があり、その上に順番に「価値=剰余価値」範疇、「生産価格=平均利潤」範疇があります。日常生活の宗教の体系である俗流経済学では、生産物とサービスの集積を「市場価格・利潤」範疇と直結させるので、認識的に中抜きになり、労働と搾取を含む生産関係とが欠落します。この重層的構成の土台部分に生産労働と消費労働(個人的消費過程の労働)の全体を含ませる必要があります。

 家事労働やサービス労働の価値生産性の有無については措きます。仮にそれが不生産的労働ならば、生産的労働部門が生み出した価値から分配されることになります。生産的か不生産的かにかかわらず、社会的に必要な投下労働に対して、その担い手の生活費を保障する賃金が何らかの形で確保される必要があります。

 無償と見なされてきた私的家内家事労働をも、社会全体にとって不可欠な投下労働の一部であるという事実に着目することがまず必要です。この家事労働への評価を起点に、ケア労働全般の低評価を克服する経済理論を提起する必要があると思います。

 残念ながら、生産的労働論やフェミニズムの家事労働論などについて勉強していないので、的外れな議論になっているかもしれません。妄言多罪。

(*注)「実際には」というのは、原理的には加算される必要はないということです。何故なら、「労働者家父長制賃金」にすでに私的家内家事労働の担い手の生活費分が十分に含まれているなら、それを外部委託費に回せばいいからです。外部委託すれば費用が増すという問題がありますが、それよりもやはり実際には私的家内家事労働は無償と見なすことで賃金の家族扶養部分を抑えていたから「実際には」賃金を上げざるを得ないのです。

 

 

(*補注2「同一労働同一賃金」原則と「生活給」原理との関係

 

 江口論文では、「生計費原則の賃金闘争」(ページ)という原理的解明が行なわれていますが、具体的な賃金闘争では、「同一労働同一賃金」がよく問題とされます。正規・非正規の格差があまりに拡大したことを背景に、かつては安倍首相さえもが「同一労働同一賃金」で非正規を一掃する、と豪語したことがありました。それで「同一労働同一賃金ガイドライン」が決められましたが、それは「キャリアコースの違い、配置転換や転勤の有無などによる格差を認めて」おり、アベノミクスの「同一労働同一賃金は全面的な原則の実現を目指すものでは」なく、「財界が許与する範囲にとどまってい」ます(「検証 アベノミクス 労働 桜美林大学教授 藤田実さん 働かせ方の自由を拡大」、「赤旗」2022726日付)。あるいは、政府のいう「同一労働同一賃金」は、待遇格差の中心である基本給や退職金についての差別を是認しており、ILOなどが提起する「職務」に基づく同一価値労働同一賃金から大きくかけ離れた名ばかりのものです(「岸田政権の経済・財政運営をよむ(4)“労働者保護”が欠如」、「赤旗」2022610日付)。そういう不十分さの指摘だけでなく、もっと悪質な狙いがあるという読みもあります。

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 安倍「同一労働同一賃金」は、その美名に反して、正社員を解体し、労働法の保護の及ばない「多様で柔軟な働き方」の雇用社会を作り出すことに奉仕するものである。いま、安倍政権と財界は、一握りの無限定正社員以外は、多様な社員という名のすべて非正規労働者の雇用社会を作り出そうとしている。さらには、労働法の保護のまったく及ばない「請負委託型の非雇用型の働き方」を拡大しようとしている。

 いま、安倍政権の雇用破壊に反対し、貧困と格差をなくし、非正規労働者の処遇を改善する真の「同一労働同一賃金」の実現のため、共同の力を合わせる時である。

 鷲見賢一郎弁護士の「正社員解体を促進し、格差を固定化する安倍『同一労働同一賃金』に反対し、格差を打破する『同一労働同一賃金』の実現を!!」(『月刊全労連』201710月号所収)

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 安倍政権以来の「同一労働同一賃金」は不十分であるか、さらには危険でさえある(正規ではなく非正規への低位平準化)という指摘の先には、真の「同一労働同一賃金」(逆方向の平準化)を求めるという運動の方針が見えます。

 それに対して、「同一労働同一賃金」原則の意義と限度を、「生活給」原理との関係から明らかにしたのが宮川彰氏の「特集 賃金は『生活給』原理か、『同一労働同一賃金』原則か――『新しい資本主義』の“賃金と物価の好循環”によせて――」(月刊『生活と健康』202311月号所収)です。ここには『資本論』の賃金論の原則的見地がよく生きています。

 そもそも「同一労働同一賃金」原則が前提する、「労働の価格」=「賃金」概念それ自体が搾取関係を覆い隠します。たとえば1日の「労働の価格」4000円は、賃金率(時間給)500円に1日の労働時間8をかけて求められます。結果的にそれは1日の労働力の価値4000円に等しいのですが、労働者が8000円(1000円×8)を生み出したとしても、そのうち「労働の価格」=「賃金」としては半分しか支払われていません。4000円の不払い労働=搾取が成立します。にもかかわらず賃金率500円の8時間労働に対して4000円が支払われたということで、すべての労働が支払い労働であるかのような外観が生じます。その秘密は賃金率の計算式にあります。労働者が生み出す日価値8000円ではなく、労働力の日価値4000円を1日の労働時間8で割って算出するので、賃金率は500円にしかなりません。

 そこで、さらに低い賃金率が設定されている場合、1日の労働力の価値に満たない分を埋め合わせるために長時間労働への衝動が起きます。こうして、搾取が背景にありながら隠されている「賃金」制度の下では、低賃金長時間労働という悪魔のサイクルが起動します。宮川氏は「『同一労働同一賃金』の原則が行われたとしても、悪魔のサイクル≠フ起動を止めることも、搾取の事実や賃金概念によるその隠蔽作用をなくすこともできないのです」(67ページ)と指摘しています。

 アベノミクスなどでのインチキではなく、本来の「同一労働同一賃金」原則は男女差別や非正規差別などを克服するための「人権理念と格差是正の動機付けに支えられた」「公正基準」(7ページ)という積極的意義を持ちます。しかし同時にそれは市場の「一物一価」公正ルールの実現とも言えます。そこでは、「資本主義的搾取は価値法則に立脚しますが、『同一労働同一賃金』こそは、価値法則(『一物一価』の等価交換)のますますの充実を意味し、ほかならぬ搾取の土壌づくりの整備・増進を促すことになる」(同前)ことを忘れてはなりません。前に引用した鷲見賢一郎弁護士の警告がそれに該当します。したがって、賃上げ・最低賃金要求などの基底にあり、搾取そのものと対決する「生活給」原理こそが賃金闘争の中心に据えられる必要があります。真の「同一労働同一賃金」原則そのものは、日本資本主義の野蛮な差別的強搾取を是正する意義は持ちながらも、それだけでは搾取隠蔽作用から免れないという点を銘記する必要があります。

 

 

          平和・安全保障の構想をめぐって

 

417日に日本共産党の志位和夫議長が講演し「東アジアの平和構築への提言――ASEANと協力して」と題する外交提言を発表しました。与野党政界関係者や20カ国を超える駐日大使・外交官なども参加し、現実政治に影響を与える同党の政策活動の一環として注目され、あのNHKニュースでも取り上げられました(!!)。

その内容については、ゲストスピーカーの小林節氏の以下の感想にまったく同感です。

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 みなさんご存じの通り、地球上で“戦争だらけ”。戦争が悪いことはみんながわかっているが、どうやって止めるか。訳がわからない状態になっている。志位議長の話を聞いて、非常に希望を感じました。(提言は)精密な組み立てです。実証的で、理論的で、理想的です。志位議長の緻密な議論で謎が解けたような気がします。

 実際の(提言の)展開の方法として、各国の政府がそうならないといけない。そうさせるために各国の市民運動が必要。その提案ももっともです。  「赤旗」419日付

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 講演では、同党のこれまでの野党外交や平和・外交政策の提言などを大きくまとめ、日中関係や朝鮮半島問題などを含む東北アジアの諸問題については、あらたな内容も提起されました。以下では、「軍事的抑止力と外交の関係」ならびに「日米安全保障条約を破棄するという目標とその現時点での存在を前提にした当面の政策との関係」について考えてみます。

 私たちはよく「軍事的抑止力一辺倒ではいけない」と言います。これは裏を返せば、「現状においては」安全保障上、抑止力の存在と有効性を完全否定はせず、一定は認めているということです。しかし今回の志位氏の提言も含めて、平和勢力の政策・提言においては、軍事的抑止力については言及せず、もっぱら外交努力などを強調することが多いです。これは政権や保守派・好戦勢力などがもっぱら軍事的抑止力のみに頼った政策なので、それへの対抗としてそうなっているのだと思いますが、一般世論からは、平和派は軍事のことを知らないか無視している「お花畑」だと思われてしまいます。

 もちろん平和勢力・安保条約反対派の中にも軍事に関する調査・研究をしている人々はいるし、政権派や保守勢力などの軍事研究を参考資料として分析することも可能です。しかし安全保障政策の中で、それらを軍事情勢の判断に利用することはよくあっても、平和外交政策を積極的に展開する前提として、「抑止力と外交の関係」の理論的解明がなされることはあまりないように思います。もちろん私にそれに言及するような能力はありませんが、ここでは安保条約支持の保守的現実主義に立つように思われる藤原帰一氏のコラムを参考に中国問題に即して見てみます。

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 では、同盟と抑止力強化は実際に中国の武力行使を抑えるだろうか。

 軍事的圧力を加えても中国の行動が変わる可能性は少ない。中国政府は関税引き上げや貿易規制に対しては敏感に反応し、対応策も示してきたが、軍事戦略については外から圧力を加えられても変化が乏しかった。米国とその同盟国とが一体となって中国に対抗することが既に想定されているからだ。

 攻撃された場合に反撃を加える力を拡大したところで、相手が攻撃を回避する保証はない。防衛協力と同盟強化は武力行使の阻止ではなく、戦争に勝つこと、例えば台湾に中国が武力行使を行ったときにそれを退けることにおいてこそ意味がある。

 では、必要のない戦争を避けることはできるのか。ここには、中国との緊張が拡大したとき、武力行使の可能性を引き下げる外交の機会はどこに求められるのか、またその外交の主体はどの国か、という問題がある。

 抑止と外交は二者択一ではない。対外政策では軍事的圧力による攻撃の予防も外交によって戦争のリスクを引き下げることもともに必要だ。軍事的圧力に頼る対外政策だけでは国際危機における緊張の緩和を期待できない。

 さらに、米国は同盟国との連携によって中国に圧力を加えつつ米中の協議によって危機を打開する余地を常に残してきた。だが、岸田政権には中国との外交を模索した跡が見られない。

 日米同盟は米国の戦争に日本が巻き込まれる懸念と、米国が日本防衛から離れる懸念の間を揺れ動いてきたが、いま進んでいるのは日本が対中抑止の先頭に立ちながら外交による緊張緩和の可能性は求めない状況である。

藤原帰一「(時事小言)防衛協力・同盟拡大頼みの日本 外交なき抑止の限界」

  (「朝日」夕、417日付)

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 これを読む場合、注意すべきことがあります。ここでは、あくまで現状の軍事・外交情勢が前提で、その捉え方と対処方が述べられており、現状をどう変えるべきかということには触れられていません。また日本はあたかも攻撃される側であって攻撃する側ではない、自分は善で相手が悪であるという、立場の如何にかかわらず共有されがちな独善的前提もあるように見受けられます。

 そういう限界(と思われるもの)はありながらも、「抑止と外交は二者択一ではない」という観点で、今話題の「反撃能力」拡大が対中関係では抑止力としては役立たず、戦争には役立つ、とてきぱきと述べています。その上で、「武力行使の可能性を引き下げる外交の機会」を問題にし、米中間には協議があるにもかかわらず、「岸田政権には中国との外交を模索した跡が見られない」と批判しています。この状況について、歴代保守政権の軍事と外交の流れの中に今日の岸田政権のやり方を置いています。「日米同盟は米国の戦争に日本が巻き込まれる懸念と、米国が日本防衛から離れる懸念の間を揺れ動いてきたが、いま進んでいるのは日本が対中抑止の先頭に立ちながら外交による緊張緩和の可能性は求めない状況である」。

 藤原氏の判断がどれほど妥当かははっきりとは言えませんが、「抑止と外交」を両方踏まえて日中関係を論じている点が重要です(ここでは具体的問題を論じていますが、「抑止と外交」についての一般的関係を理論的に考察することも可能でしょう)。私たちも安全保障を検討する場合、そういう両にらみを打ち出すことで世論への説得力を増すことができます。とはいえこのような保守的現実主義とは違う観点が当然あります。私たちはあくまで外交が優位であるという認識を持ち、将来的には、平和に至る手段として軍事的抑止力はなくすという目標を持っています。ただしその際も、現状認識としては軍事的抑止力の要素を勘案します。それは現に存在するけれどもその現状は容認しない。あるいは同じことだが、それを容認はしないけれども、現に存在することは認める(「平和派」に対しては後者を強調的に勧めたい)。つまり現状認識と価値判断とを区別し双方を配慮して議論を展開する必要があります。たとえば今回の「東アジアの平和構築への提言」でも事実上そういう認識で提起されていると思われます。現状での東アジアにおける米軍の存在を前提に議論が展開されていますので。しかし受け取る側の印象としては、軍事は無視して外交についてしか言っていない、ということになりがちでしょう。したがって、平和構築の提言においては、「抑止と外交」を踏まえているということを明記すべきと考えます。

 「東アジアの平和構築への提言」は日米軍事同盟の存在を前提にして展開されています。日本共産党は日米軍事同盟反対であっても、当面の平和外交政策として、現状の枠内でできることを提起することはこれまでも繰り返し行なわれてきました。その大切さと同時に日米軍事同盟に反対する者の独自の役割も強調すべきです。田村智子共産党委員長が今回の志位講演での提言についてこう語っています(「赤旗」421日付)。「20カ国を超えて外交官が参加した。日米安保条約のもとでもできる日本の平和外交を具体的に提案したもの。日本の平和、アジアの平和のためにいま必要なことであり、立場の違いを超えて保守の人とも対話をしていきたい」。「同時に、在日米軍は日本を守るものではなく、アジアや中東地域への出撃拠点だと指摘し、この危険性を国民に知らせていく日本共産党独自の役割を語りました」。

 今回の提言は、ASEANの理念と実績という現存在を参考にしつつ、平和外交のあり方について諸問題に渡って具体的に考え抜かれています。理想と現実を双方踏まえ、現実の中に理念を貫く姿勢があることで現実的有効性と同時に変革性が高いと言えます。そういう評価を前提にした上で、あえて言えば、それは日米軍事同盟を破棄し自衛隊を解消するという平和構築の長期的視点から見ると、きわめて切実であってもあくまで当面の弥縫策であるとも言えます。そういう短期と中長期の視点という複合的立場からすると、たとえば現政府に対して「専守防衛」を堅持せよ、という当面の要求は当然ですが、それを自分たちの先々の目標のように勘違いする向きがあることは要注意です。

 それに日米軍事同盟が存在する枠内でできることを、未来につながるものとして考える姿勢は、その存在を否定する立場からこそ出てくるということも重要です。軍事同盟は永遠という姿勢は、外交に対して軍事的抑止力を優先する発想から出てくるので、外交のできる範囲を広げる想像力=構想力をもって、当面の情勢を打開する、という政策的対応策が出てきません。また情勢の捉え方での決定的違いとして、日米軍事同盟批判の観点があるからこそ在日米軍の役割を正しく認識できることが挙げられます。「アメリカに守ってもらっている」という支配的な通俗的観念から出発するのでは、――米軍の軍事行動に巻き込まれることによって日本人の生命と国土が蹂躙される危険性があり、それこそが現実的危機である。集団的自衛権を容認する下ではその危機が倍加している。たとえば「台湾有事」――ということが捉えられません。

そもそも「アメリカに守ってもらっている」という状況になっているのは、日米軍事同盟という選択肢を始めに選んだからで、そこに生じる「安全保障環境の悪化」を打開するために同盟を強化し、軍拡を推進しているのですが、それは支配層によるマッチポンプ政策と言えます。それは経済政策でも同様です。人々の生活苦は財界・大企業本位の経済政策が原因ですが、それを「打開」するために様々な業界利権や「地域開発」などが張り巡らされ、選挙ともなれば絶大な効果を発揮します。ポンプで消火に励む政治家を見る前に、だれがマッチを擦ったのかを問う必要があります。

以上の観点を前提に、世論をどう変えるか(内容と手段・方法)の視点で世論を見るべきです。特に平和安全保障の分野では。ロシアのウクライナ侵略戦争を奇貨として「今日のウクライナは明日の東アジア」と煽動される中で軍拡が当然のこととされています。毎日、メディアが一面的に危機を煽る中で、ますます支配層のイデオロギーに従属している世論の前提が固定化しています。――安全保障環境が危ない=中国・北朝鮮・ロシアは仮想敵国。アメリカが守ってくれる。日米軍事同盟と自衛隊による抑止力が重要。平和はそれで守られる――ここには自国の「抑止力強化」が周辺国をますます軍拡競争に追いやるという「安全保障のジレンマ」に対する危惧が欠如し、アメリカの属国であることが平和にとって現実的危険だという認識がありません。根本的には軍事同盟反対の立場を広げる努力とともに、それが難しくても「台湾有事」などの日米軍事同盟の現実的危機を具体的に訴えて、リアリズムに基づく平和外交の政策と思想を広げることが求められます。また平和・安全保障の議論そのものとは相対的に区別されますが、軍事化推進による人権・自由・民主主義の侵害という問題もきわめて重要であり、経済秘密保護法などの危険性をどう世論に訴えるかも課題として大きいと言えます。

 その意味では、護憲派の論客として有名な憲法学者の青井未帆氏が、平和と人権を表裏一体と理解し、両者の不可分性を強調する「人権+平和」構想を提起しているのは時宜にかなっています(「(あすを探る 憲法)安保政策、国会での熟議を」、「朝日」425日付)。ただしそこでの現状認識は、自衛隊と日米軍事同盟の存在そのものは追認し、近年でのその危険な拡大・暴走を立憲主義で抑制しようという発想はあるけれども、両者の存在そのものを批判するという立場ではないように見えます(断定はできませんが)。これは、当面する課題では一致できる議論ですが、日米軍事同盟そのものがもたらす危険性という現状認識がないとすれば、ひ弱い議論であり、世論を本格的にリードできるものではありません。強い基盤の上に「人権+平和」構想を再構築すべきでしょう。

 

 

         国家権力と司法

 

後藤秀典氏の「裁判所と巨大法律事務所との関係深化を暴く 第二弾 『国に責任はない』最高裁判決以降6連敗の避難者訴訟によれば、福島第一原発事故損害賠償請求訴訟で、2022617日の最高裁判決が「国に責任はない」とする以前には、4つの内3つで「責任あり」だったのが、「6.17最高裁判決」以降は6つ連続で「責任なし」の地裁・高裁判決が続いています。裁判官たちはまったく思考停止で、大方結論ありきの最高裁判決のコピペばかりとなっています。コピペ判決といえば、生活保護裁判でも国を擁護する同様のことがありましたが、こちらはその後変わってきています。ただしこちらは最高裁判決が出て、下級審が右に倣えしたというわけではありません。後藤論文によれば、原発損害訴訟では、最高裁自身が判決を改めなければ流れは変わらないと原告弁護士は見ています。ここで弁護士出身の最高裁判事を見ると、もともと巨大法律事務所所属で原発利益共同体の関係者や企業法務に携わるものが多いということが特徴的です。

 もちろんここにあるのは、最高裁の下級審への支配ということだけではなく、国への訴えは事実上許さないという裁判所の姿勢です。憲法53条の定める国会召集要求に安倍内閣が長期間応じなかったことが違憲かどうかに関わる、野党議員の訴えについて、2023912日、最高裁は個々の議員に賠償請求権はないとして憲法判断に踏み込まずに、訴えを退けました。内容に踏み込まず形式論で却下したというほかありません。

 2023914日、森友学園問題で、財務省による公文書の不開示決定を追認する判決を、大阪地裁が言い渡しました。原告の赤木雅子さんが、法廷で倒れこむほどひどい判決です。国は、任意提出された文書の存否を明らかにすると「将来発生しうる同種の事件の捜査に支障を及ぼす」と主張し、それをそのまま認めたのです。これもまた時の首相への忖度で公文書を改ざんするという、権力犯罪の内実には決して踏み込まず、形式論の屁理屈でガードしたものです。

 そして決定版はこれです。辺野古新基地建設に関わって、軟弱地盤の発覚に伴って防衛省が申請した設計変更を承認するよう国が沖縄県に「是正指示」を出したのは違法だと県が訴えた訴訟で、最高裁第一小法廷(岡正晶裁判長)は20239月4日、県の上告を棄却する判決を言い渡しました。ここでも沖縄県が工事不承認の理由とした様々な内容を審査せず、「行政庁の裁決は関係行政庁を拘束する」といった形式論によって門前払いしました。

 それより前の検察の問題ですが、安倍晋三元首相の後援会が「桜を見る会」の前日に開いた夕食会の費用を安倍氏側が補填した問題で、検察審査会の「不起訴不当」の議決を受け再捜査した東京地検特捜部は20211228日、公職選挙法違反と政治資金規正法違反の疑いで告発された安倍氏を再び不起訴処分(嫌疑不十分と公訴時効)としました。

 それから、国家権力そのものの問題ではありませんが、差別発言等で有名な札付きの右翼、自民党の杉田水脈議員を岡野八代氏らが訴えた「フェミ科研費裁判」において地裁で原告全面敗訴という信じがたい結果となりました。「こうした判決の背景には、長年続いてきた、政府による歴史認識や歴史教育に対する強い政治的介入があり」、「この30年間、日本政府の歴史修正主義が社会に根をはる中で、司法、裁判官たちの歴史認識さえ、取り込まれている状況」だと岡野氏は見ています。

 以上のような司法の体たらくに接して以前、本誌感想に以下のように書きました。

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 長く続いた安倍・菅政権の腐敗堕落と無能ぶりにはもう飽き飽きしました。その下で、有能なはずの高級官僚たちが政権への忖度で文書改ざんを始めとして、何でもアリの悪事に手を染めてきました。検察も裁判所も上記のような体たらくです。権力は頭から腐り始め、足元までどろどろに融解していくのでしょうか。怖いのはそれに対するメディアの忖度を始めとして、自主規制が世間を覆い、政権批判に対する「反日」呼ばわりが事実上市民権を獲得していることです。「非国民」言説の復活です。NHKニュースや各メディアは、中国・ロシアを始めとする権威主義政権による民主主義破壊をまるで他人事のように報じていますが、自国における国政私物化への批判の役割を事実上放棄している自らの姿勢への反省が全くないことには驚くばかりです。   (20221月号)

 

 以上を見て、簡単に言えば、これがブルジョア民主主義の実態だということです。民主主義には形式と内容があります。本来、形式は公平性・公正性を保証し、民主主義の普遍性を確保するためにあります。しかしそれが内容の検討に踏み込むのを妨げるガードに利用されているのです。それを可能にしているのは、階級的な経済支配を土台とする政治支配であり、イデオロギー支配がそれを補佐しています。残念ながら、「司法の独立」というタテマエを掲げながら、それを体現すべき裁判官の多くが権力側のイデオローグにとどまる限り不当判決はやみません。被支配層の人々の利益よりも、現体制秩序の護持を優先しようという心性はエリート層の多くに共有されているでしょう。それを揺るがすものは何か。司法の独立も元来は、絶対王政・封建制支配に対するブルジョア階級の闘争で獲得されたものです。しかしそれ自身は歴史貫通的な普遍性を持ちうるのであり、それを実現するのは労働者階級を中心とする現代の人民の闘争と言わねばなりません。(202311月号)

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                                2024年4月30日





2024年6月号

          東京都政をめぐる対決点

 620日告示、77日投開票で東京都知事選が行なわれます。それはもちろん一地方選挙にとどまらぬ大きな影響を日本政治全体に与えます。その具体的問題はここでは措きますが、資本の論理と人間の論理との対決が鋭く典型的に現れる自治体首長選挙であることは確かでしょう。その最もくっきりした現場が都市再開発と言えます。遠藤哲人氏の「東京の再開発――追われる住民、壊される環境はそれを活写しています。美濃部革新都政(196779)とそれ以降の一定の時期については、「かつての東京都の再開発行政には、建物が巨大過ぎるなどの批判も耳にするが、住民の生活再建という点では、住民運動の要望に対応しながら東京都が努力したことは歴史的な事実である」(91ページ)と評価されます。しかし石原都政(19992012)を転機に「流れが大きく変わった」(同前)ようです。そこで、今大問題の神宮外苑再開発などに直面している住民たちの生活破壊の具体例がいくつか紹介され、以下のようにまとめられます。

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住民は不動産業ではないから、処分するために住宅を持っているわけではない。まわりの方々とのコミュニティを維持し、通いなれたお店や病院などが近くにあるから暮らしをたてることができた。高齢になればますます「地域に根ざした暮らし」は貴重である。

 ところが市街地再開発事業は、土地と古い建物を手放させて、それと同じ程度の金額の床、真新しいビル床を渡す「等価交換」の原則だ。ゼニカネですべて評価し「真新しいマンションの床だからいいでしょう」と住民に迫ってくるのだ。しかし部屋が半分になっては住み続けることができない。真新しい高級マンションになって租税公課・維持管理費が莫大なものとなれば、なおのことである。       89ページ

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 市場経済の「等価交換」原則はまさにゼニカネですべて評価することだから、それによって生活実態がどうなるかは関知しません。価値と使用価値とは別物だということです。しかも百歩譲って生活者当人にとっては「等価交換」だとしても、規制緩和などで行政に支援された資本にとっては、再開発利潤が創出される仕組みです。論理の中身は違いますが、等価交換の流通を経由して、剰余価値を生み出す「貨幣の資本への転化」(『資本論』第1部第2篇)を見る思いです。資本主義経済の表層と本質との違いは、論理の抽象次元と歴史的経過とを超えかつ総合して、都市再開発という現代の政治経済にも貫徹されています。ここでは、資本の美辞麗句・政策スローガンの深層にある生活犠牲の利潤第一主義を暴露するのが政治経済学の任務と言えます。

論文では、「2016年事業化の中央区オリンピック晴海選手村再開発」=「オリンピックを口実に都有地をデベロッパーに格安で提供した再開発」の経過が紹介されています(もっとも、小池知事の笑顔とともに「526日に五輪選手村跡地で街開き 東京・晴海、整備完了」という類いのまったく無批判なテレビニュースが放映された。この先の都知事選報道が思いやられる)。都有地「投げ売り」をめぐって住民訴訟が起こされましたが、この327日、最高裁によって棄却されました。それについて以下のように厳しく断罪されます。

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 都議会にもかけずに違法に都有地を手放し、都市再開発法の規定を悪用してデベロッパー事業用地として譲渡したところに、今日の東京都の再開発行政の崩壊が象徴的に示されている。デベロッパーのためのツール、事業用地の地上げツール、都議会、裁判所をも欺くツールとしての市街地再開発事業というのが今日の東京都の再開発行政の姿だといってよい。             92ページ

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 さらには「東京都など行政は、もはやデベロッパーの言いなりで、事実上、都市計画は解体状態だといってよい」(93ページ)と結論づけられます。都市再開発で「住む生活空間まで削ってどうしてデベロッパーに協力しなければならないのか。納得できず呻吟する日々が続く」(88ページ)住民たち。そこにあるのは、住民の生活(or生業)の論理(W-G-W)とデベロッパーの再開発=利潤追求の論理(G-W-G)との相克という本質であり、住民の呻吟の原因は、後者が前者を飲み込んでしまうところにあります。しかしそれは「等価交換」原則というヴェールに覆い隠され、あたかも「公正な」経済活動とそれを促進する行政=「映える街づくり」という現象をまとっています。この現象に隠された本質は、資本主義的搾取をベースに成立する政治経済の対立構図――「諸個人の基本的人権の確立」VS「資本の本性=搾取・資本蓄積の追求」――に発展していきます。それは自治体行政の様々な分野に貫徹していきます。

 東京都政を捉える主軸の一つたる都市再開発の論理を踏まえつつ、教育・住宅・財政を採り上げて縦横に論じたのが、山本由美・佐藤宏和・野中郁江各氏の誌上座談会「東京都政に何が起きているか 教育・住宅・財政面からの提案です。たとえば教育行政を見るにも、「規制緩和(「公園まちづくり制度」、「再開発等促進区を定める地区計画」、「市街地再開発」など)を梃子とした巨大再開発、それに伴う環境破壊が小池都政の大きな特徴となっています」とまず押さえた上で、「その動向の中で、東京都の多くの自治体で『公共施設等総合管理計画』を背景とする学校統廃合が進められました」(73ページ)と指摘されます。その帰結は、「公共サービスの民営化」、PFI事業の導入により、「小中一貫校」、図書館、プール等の共用化による面積削減などです(同前)。その意味するところは、「教育論、子どもの教育権を無視し、国民の学習する権利を侵害し、住民自治を破壊するような公共施設再編が進められています」(74ページ)ということです。

 東京都の住宅事情を見ると、2008年から18年への変化として、公営住宅と給与住宅(社員・職員住宅)が減り、世帯増加の受け皿は持ち家よりも民営借家となっています。したがって、借家全体としては家賃が上がっており、アフォーダビリティ(住宅費負担)の悪化が想定されます(76ページ)。その原因はあくまで「公的ストックの抑制の政策が、求められる住居保障を妨げていること」(同前)にあります。

 ここで注意すべきは、所得制限や高齢者への「優先入居」によって、現役世代が割を食っている、という意識が生じることです。問題の根本は「諸階層・諸集団にとって住宅ニーズがあるにもかかわらず、公的ストックの抑制方針を採用している矛盾」(同前)にあります。そうした中で、世代間・階層間の分断を「運動の側が強く意識すべきではないか」(同前)という強調点はきわめて重要です。さらには、公営住宅の入居対象として、同性のパートナーシップを認めるような、ニーズの多様性に応じた制度づくりが始まっており、肯定的な変化ですが、それをも、「特定のマイノリティ優遇」として非難する動きも生じえます(同前)。これらは被支配層人民内部において、様々な状況の違いが生み出す意識のすれ違いを制度的分断に「進化」させ固定化し、特定の人々に「罪」を着せて問題の本質を隠蔽するものであり、支配層によるおなじみの分断支配のスケープゴート戦術です(もっとも、必ずしも作為的イデオロギー操作とばかりは言えず、支配層イデオローグ自身が信じ込んでいる場合もある)。居住保障とその侵害という根本的視点から、政府と自治体の責任を追及し、分断支配を許さない世論づくりが必要です。

 住宅政策に絡んでは、オリンピックを口実とした、路上生活者の排除や都営住宅の撤去による立ち退きは再開発が目的と言われています(77ページ)。新国立競技場建替えの際の都市計画による高さ制限の緩和は、デベロッパーにしてみれば、「高層化によって土地面積あたりの収益性が高まるから」であり、「住民ではなく民間事業者のためであり、五輪ではなく再開発のための立退きであった」ということです(同前)。また都内のタワーマンションの建設では、総事業費の20%以上を税金で賄っています。国土交通省による補助金が、住民減少を防ぐという名目で自治体に交付される仕組みになっているからです(同前)。まさに規制緩和と補助金、二本立てによる資本のための錬金術。新自由主義期の国家独占資本主義の特徴と言えましょうか…。都市計画とそれに伴う社会的規制は、資本の論理の純粋貫徹から人々の生活を守るために整備されてきたものです。しかし新自由主義イデオロギー全盛期のメディアでは、それを緩和することが正義、というのが錦の御旗としてまかり通っていました。特権的補助金もこっそり交付され…。以上の住宅政策を眺めると、学校統廃合などの教育政策を含めて都政の狙いはこう読み解けます。

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 こうした再開発政策と住宅市場の動向から考えるに、公的借家を政策的に抑制しつつ、その建て替え・集約化に伴って生じた公有地を種地として、ディベロッパーなど民間事業者のために供するという構図が見えてきます。山本さんの報告の、公有地利用、公共施設集約化のための学校統廃合の動きと同じです。これによって、第一に、住民の立ち退きやコミュニティ維持の困難が生じていますし、第二に、安価な家賃ストックの喪失が生じています。総じて、住民の利益と民間事業者の利益とが対立させられている事態であると思います。       77ページ

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 住民犠牲で資本利益優先の都政運営は財政にも貫かれています。東京都は莫大なため込みを行なっており、「233月末で金融資産が5520億円に上っています」(78ページ)。金融資産は順調に増えてきたのですが、さすがにオリンピック準備とコロナ対策を合わせて1820年度あたりでは5907億円減りました。と言っても、支出自体はずっと多いのですが、税収によってかなりカバーできているのでこれで収まっており、21年度以降は復調し、22年度末の金融資産総額は過去最高の17年度の水準に迫っています。したがって、臨時支出に備えるにしても、1兆円もあれば十分で、5兆円超の金融資産の多くの部分は都民のために活用できるはずです(7879ページ)。

 それにしても、この莫大なため込みができるからくりは何か。東京都は高い税収にもかかわらず人件費を抑制し続け、歳入に占める人件費割合が10年度25%に対して、21年度には15%まで下がっています。都債も減っているので公債費も減っています。つまり都の職員を減らしてため込みを進めてきたのです(79ページ)。85ページの表2によれば、2022年度の都職員定数は170,657人で、1979年度の220,333人から約5万人減らされ、77.5%になっています。それで行政はどうなったか。

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東京都では民営化や民間委託、区市町村への事業の移管などにより東京都が担うべき行政範囲が縮小されました。都庁の行政職員を減らし、身分が不安的な会計年度任用職員を増やしてきたのです。人を減らすことは、行政の現場が空洞化することではないでしょうか。金融資産が増えることは、都政が空洞化していることの結果であるのです。                

84ページ

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 金言です。あたかも実体経済の空洞化(資本過剰)が金融化を導くように、行政の空洞化が金融資産のため込みに帰結しています。デベロッパー資本の利益に奉仕する小池都政は資本主義の矛盾と添い寝し、行政の空洞化を主導して、住民犠牲をいとわない逆立ち行政を強行しています。その異常さは「日本の常識」の惰性から離れて、世界の良識から見るとはっきりします。今最も話題となっている神宮外苑再開発についてこう指摘されます。

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ユネスコの諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)が再開発中止を求める文化遺産危機警告を出し、その国際学術委員会文化的景観委員長は、世界の主要都市で公園の土地を再開発に回すことは「聞いたことがない。全員がショックを受けた」と述べています。

日本共産党東京都委員会「自民党政治に審判を下し、みんなの希望がかなう東京へ、力をあわせましょう!―都政を都民の手にとりもどす 都知事選・都議補選へのアピール 2024523 より 「赤旗」527日付

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 この世界的に見て異常な政策の本質は以下の通りです。

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 このように小池都政が、世界からみてもきわめて異常な再開発を、都民無視で強行しようとする背景には、開発事業者の大企業主導で「稼ぐ東京」をつくろうという狙いがあります。

 東京中のあちこちで貴重な緑や住民の暮らしを壊し、超富裕層しか住めない高層ビルや超大型イベント会場を都心に集中させ、CO2を増やしヒートアイランド現象も起こす――そんなことをこれ以上進める必要が、どこにあるのでしょうか。「国際競争力強化」のための羽田空港増便・都心上空低空飛行の新ルート、陥没事故を起こしながら巨額の事業費で強行されている東京外かく環状道路建設、「防災」口実の大型道路建設強行、温室効果ガス半減目標への消極姿勢などとともに、ごく一部の大企業・開発事業者の利益を最優先にする「財界ファースト」そのものです。   同前

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 しかし「世間の常識」においては、たとえば、先述のオリンピック晴海選手村再開発に関するテレビニュースを見たら――いろいろな施設ができて跡地の有効利用でよかったね、知事もにこやかな顔だね――という程度のノーテンキな印象だけしか残らないでしょう。客観的には現職知事応援報道になっています(というか、メディア関係者の多くが何も分かっていないのだろう)。神宮外苑再開発問題では、都市整備や環境破壊などの視点から大問題になっています。それを入り口に、政治経済の対立構図――「諸個人の基本的人権の確立」VS「資本の本性=搾取・資本蓄積の追求」――の理解へと導くべく、分かりやすい語り方が求められます。国政と都政に関わる生活上の諸困難と諸要求から出発し、人権保障の観点を打ち出して(要求の正当性の裏打ち)、政治変革の見取り図を示す闘いを実現せねばなりません。

 527日、立憲民主党の蓮舫参院議員が市民と野党の共闘に推されて都知事選に立候補を表明しました。小池百合子都政打倒! 自民党政治ノー!

 

 

          物象的依存性とは何か

 学生オンラインゼミ・志位和夫日本共産党議長の講演<「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに>が民主青年同盟主催で427日に実施され、「赤旗」紙上に51214161820日と5回に分けて連載されました。これは「人間の自由」を基軸に、共産党や社会主義・共産主義への誤ったイメージを是正するきわめて積極的意義を持った企画です。それは前提として、講義内容に関わって間違いを一つ指摘します。講演は学生などからの疑問に答える形で行なわれました。その第32問への回答の中に以下の説明があります。

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 Q32 人間の豊かな個性と資本主義、社会主義の関係についてお話しください。 

資本主義のもとで広がった「人間の個性」が、未来社会で豊かに開花する

 

 中山 それでは、最後の五つ目の要素です。「人間の豊かな個性」と資本主義の関係、人間の個性が未来社会でどうなるのかについて話してください。

 志位 マルクスは『資本論草稿』のなかで、「人間の個性の発展」という角度から人類史を3段階に概括する、すごい考察をしているんです。

 第1段階は、マルクスが「人格的な依存諸関係」と呼んだ社会です。原始共同体から奴隷制、封建制までの社会です。 …中略…

 第2段階は、マルクスが「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」と呼んだ段階です。これは資本主義社会のことです。資本主義は、「人間の個性」という点で、それまでの社会のあり方を大きく変えるんです。資本主義のもとでは、資本家と労働者は、法律的、形式的には平等になるでしょう。だから、そういうもとで初めて、独立した人格や、豊かな個性が、社会的規模で現実のものになります。「人間の個性」という点でも、資本主義は、未来社会の重要な条件をつくりだす歴史的な意義をもつことになる。マルクスはそういう捉え方をするんです。

 ただ同時に、ここでも強調したいのは、マルクスは「物象的依存性」という言葉で表現していますが、資本主義のもとでは、資本家と労働者は、形式的には平等になりますが、労働者は、実質的には資本家による搾取と支配のもとに置かれています。そのことは「人間の個性」の発展という点でもいろいろな制約をつくりだします。 (下線は刑部)

 人間が人間を搾取するということは、人間のなかに支配・被支配の関係をつくります。つまり本当の意味での平等とはいえない関係をつくりだす。これがさまざまな差別をつくる根っこになり、「人間の個性」という点でも制約をつくりだします。

…中略…

 志位 マルクスは『資本論草稿』で、第3段階を、「自由な個性」の段階と呼び、社会主義・共産主義において、それが実現すると言っています。個人の自由な発展を最大の特徴とする社会、自由な意思で結合した生産者たちが共同で生産手段をもち、生産を意識的計画的な管理のもとにおく社会でこそ、本当の意味で「自由な個性」が実現する。これがマルクスがのべた展望でした。

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 Q32への回答のテーマは、「人間の豊かな個性」と資本主義の関係という問題ですから、個性の制約要因としての搾取に対して批判的に言及すること自体は当然とも言えます。しかし「物象的依存性」は資本家階級による労働者階級に対する搾取・支配関係を表現した言葉ではありません。これでは「物象」とは何かが分かりません。

 ここでは、まずマルクスによる人類史の三段階把握が『資本論草稿』にあることが指摘されています。この『資本論草稿』は詳しく言えば『1857-58年の経済学草稿』であり、その中の『経済学批判要綱』(以下『要綱』)の「U 貨幣にかんする章」の〔貨幣の成立と本質〕に当該部分があります。『要綱』では、「U 貨幣にかんする章」の後に「V 資本にかんする章」が続きます。したがって、人類史の三段階把握が登場するのは、資本主義的生産関係を捨象して、商品=貨幣関係の中で貨幣を研究する論理次元です。資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開する構造になっており、経済理論で搾取を解明するのは後者を分析する段階で行なわれます。原始共同体は搾取のない共同体です。奴隷制や封建制などの前近代の搾取経済では共同体を土台として、それぞれの搾取関係が展開されます。人類史の三段階把握は、搾取の有無やそのあり方を解明する以前の論理段階で、共同体と市場経済(商品=貨幣関係)の歴史的移行を考察し、<前近代の共同体→市場経済→未来の共同体>として大きく人類史を俯瞰しています。共同体においては、経済を通じた人間同士の社会関係がはっきり分かるのに対して、市場経済においては人と人との関係が物と物との関係として表れるので、経済における人間同士の社会関係が直接には分かりません。人々はバラバラに独立して見えますが、結果的には商品=貨幣関係を通じて社会的につながっています。そこで、市場経済の特徴は「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」と言えます。それでは、『要綱』の叙述の中に物象的依存性とは何かを見ましょう。

 まず人類史の三段階把握を見ます(『マルクス 資本論草稿集1 1857-58年の経済学草稿』1分冊、大月書店、1981年、138ページ、ドイツ語部分は省略)。

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人格的な依存諸関係(最初はまったく自然生的)は最初の社会諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性は狭小な範囲においてしか、また孤立した地点においてしか展開されないのである。物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的諸欲求、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす。それゆえ家父長的な状態も、古代の状態(同じく封建的な状態)も、商業、奢侈、貨幣、交換価値の発展とともに衰退するが、同様にまた、これらのものと歩みを同じくして近代社会が成長してくるのである。

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 商品=貨幣関係による近代社会の生産力発展が「一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的諸欲求、普遍的諸力能」を形成し、それによる「諸個人の普遍的な発展」が「第三の段階」に引き継がれ、「諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性」を実現します。この生産力発展は実際には利潤第一主義の資本主義がもたらすものですが、ここでは狭小な共同体の解体と市場経済の全面的発展の次元で捉えられています。余談ながら、「諸個人の社会的力能」「自由な個体性」などの表現に見られる、個人と社会全体の発展とを不可分に捉える見地は、『共産党宣言』の共産主義社会像=「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」にも通底しています。あえて言えば、17歳のマルクスが職業選択に関して、「歴史は、世の中全体のために働きそれによって自分自身を完成して行く人を、偉大な人物と名づけるのである」(岩波新書、大内兵衛『マルクス・エンゲルス小伝』、11ページ)と言った問題意識から一貫しているのかもしれません。

 閑話休題。先の引用部分はきわめて有名ですが、物象的依存性が何かについて、詳しくはその直前に書かれています。さらにその前にはバラバラな諸個人が交換価値を通して社会的関連を形成する商品=貨幣関係の内実が書かれています。まずそこを見ます。

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 相互にたいし無関心な諸個人の相互的で全面的な依存性が、彼らの社会的連関を形成する。この社会的連関は交換価値というかたちで表現されているが、各個人にとっては、彼自身の活動または彼の生産物はその交換価値というかたちで初めて各個人のための活動または生産物となるのである。各個人は一つの一般的な生産物を――つまり交換価値を、すなわち対自的に孤立化され、個体化されたそれを、貨幣を生産しなければならない。他方では、各個人が他の諸個人の活動のうえに、または社会的富のうえにおよぼす力は、諸交換価値の、つまり貨幣の所有者としての彼のうちにある。彼は彼の社会的力を、彼の社会との連関と同じように、彼のポケットのなかにたずさえている。活動――その個別的な現象形態がどうであろうと――と、活動の生産物――その特殊的な性状がどんなものであろうと――とが、交換価値であり、すなわちすべての個体性、独自性が否定され、消しさられている一つの一般的なものである。     同前 136137ページ

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 このように、市場経済において、諸個人の全面的な依存関係は交換価値において表現されます。彼らの活動とその生産物が交換価値を持つことによって、彼らの社会的力が個別なものではなく一般的な通用性を獲得します。そのような社会関係においては、諸個人の持つ社会的力や諸個人の相互的関係は直接現われることなく、逆に彼らを支配する外的力として現われます。交換価値を通じる諸生産物の一般的交換――物象と物象との社会的関係――が人間同士の社会的関係を表現し支配することが以下のように力説されます。

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 活動の社会的性格は、生産物の社会的形態と同じように、生産への個人の参加分と同じように、ここでは諸個人に対立して疎遠なもの、物象的なものとして現われる。それは、諸個人の相互的な関係行為としてではなく、諸個人に依存することなく存立し、無関心的な諸個人の相互的衝突から生じるような諸関係のもとへ諸個人を服属させることとして現われる。各個々の個人にとって生活条件になってしまっているところの、諸活動と諸生産物との一般的な交換、それらの相互的な連関は、彼ら自身には疎遠で、彼らから独立したものとして、つまり一つの物象として現われる。交換価値においては、人格と人格との社会的関連は物象と物象との一つの社会的関係行為に転化しており、人格的な力能は物象的な力能に転化している。社会的な力を交換手段がもつことが少なければ少ないほど、つまり交換手段がいまだに直接的な労働生産物の性質や交換者の直接的必要とかかわりあいがあればあるほど、諸個人を結びつける共同団体――家父長的関係、古代の共同団体、封建制度、ギルド制度――の力は、まだそれだけ大きいにちがいない。 …中略… 各個人は社会的な力を一つの物象の形態でもっている。この社会的な力を物象から奪いとってみよ。そうすると諸君は、それを諸人格のうえに立つ諸人格にあたえざるをえない。

          同前 137138ページ   (下線太字は刑部) 

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 市場経済においては、本来諸個人が持っている社会的な力を物象が持ち、逆に諸個人を支配しています。この倒立関係を再転倒して正立させるべく、マルクスは「この社会的な力を物象から奪いとってみよ」と言います。市場経済が唯一のものではなく、それとは違った性格の共同体もあったのだ、という事象を提示することで、市場経済の表象に埋没することなく、経済理論としての分析力(抽象力・想像力)を喚起しているのでしょう。こうして商品=貨幣関係の中で疎外された意識を幻惑から解き放ち、客観的に生産関係を捉える正気を取り戻した上で、その直後に、初めに引用した人類史の三段階把握を開陳しています。

 補説すると、『要綱』のその叙述だけから、マルクスが人類史の三段階把握を、共同体と市場経済との継起を主軸とする形で構想していた、とまでは断言できないかもしれません。しかし市場経済の疎外的構造の中で、物象が人間を支配してしまう、という自由の制約がここで述べられていることは確かです。以上のように、物象的依存性は搾取概念とは独立に商品=貨幣関係の論理から説明されます。実はこの問題について2020314日の志位和夫委員長(当時)による改定綱領学習講座においても今回の講演と同様の認識が示され、当該部分は、「改定綱領が開いた『新たな視野』〈4〉」(「赤旗」2020412日付)にあります。当時私は訂正すべき一点としてメールし、だいぶ後に担当者から丁寧な回答をいただきましたが、周辺説明が大方で、肝心の問題点についてはかみ合った回答になっていませんでした。今回の講演テーマからすれば、物象的依存性の捉え方自体は主要内容ではありません。しかしその誤りは経済理論の基本への無理解を示すものとなっており、放置せず必ず是正すべきです。

 

 

          企業・団体献金の禁止

 623日が今通常国会の会期末です。最大の争点は、自民党派閥の政治資金パーティー券収益のキックバック等の裏金問題を徹底解明することと政治資金規正法を改正することです。自民党には問題当事者として徹底解明する気はまったく感じられず、その上、何の実効性もない政治資金規正法改正案をアリバイ的に提出して、ただじっと事態をやり過ごす姿勢しか見えません。問題は多々ありますが、以下では、政治資金規正法の改正、特に企業・団体献金の禁止について述べます。

 金権腐敗政治の問題は裏金だけでなく、表金の企業・団体献金にもあります。本来、政治献金は個人の参政権に基づく浄財であるべきですが、企業が経済力にまかせて事実上、政治買収していることが重大です。その結果、法人減税と併せた消費増税、巨大企業への政策減税と補助金などによって、憲法の国民主権は形骸化し、実質的には財界主権となっています。したがって、政治資金規正法改正に当たっては、資金の透明化は当然であり、問題の焦点は企業・団体献金の禁止にこそあります。裏金問題さえ解明せず、政治資金規正法改正にやる気があるとは思えない自民党に期待することはもちろんできません。野党はそれぞれ政治資金規正法改正案を提出していますが、企業・団体献金禁止では一致しています。その点で一切妥協してはなりません。

「民主主義は話し合いと妥協」という一般論の「良識」はこの際は妥当しません。自民党は企業・団体献金は死守しようとするでしょう。ただでさえどうしようもないゆるゆるの「改正案」を与野党協議に持ち出してくるのだから、「のりしろ」ならぬ「譲りしろ」が広大にあります。そこで、いくつか野党の言い分を通して、「大幅譲歩」したんだから、企業・団体献金とか政策活動費(もっともらしい名前だが実態は、使途不明前提のつかみ金)の存在は許してくれ、とでも言うのでしょう。しかし妥協というものは、時と場合により、してもいいものと悪いものとがあります。今回、企業・団体献金の禁止は譲ってはならないものです。これはもともとリクルート事件の際の「政治改革」からの宿題案件であり、当時、抜け道を作って骨抜きにされたものを本来の趣旨に立ち返って本当に実現すべきです。それが今回の真の政治改革です。ずるずるとニセの「政治改革」を繰り返すことはもう許されません。

 裏金問題発覚当初、メディア報道はもっぱら政治資金の透明性に集中し、企業・団体献金禁止問題を事実上無視してきました。しかし野党がそろって主張するようになって、ようやく採り上げつつあります。共産党はもともと企業・団体献金をもらっていませんが、そうでない他の野党がどこまで本気かが問題です。政治資金規正法改正の協議過程で、自民党の「改正案」に妥協して微温的な内容で手を打つことが危惧されます。すでに531日時点で、維新の会の馬場代表が自民党案に賛成すると表明しました。まったく問題外です。第二自民党を自認するだけのことはある。これで同日の「朝日」デジタル版は自民党再修正案について「今国会での成立が確実」と報じています。一応記者のコメントで、パーティー券購入者名の公表基準だけに矮小化された、と批判していますが、企業・団体献金問題の特別の重要さという認識はないようです。

メディアなどがよく持ち出してくる上記の「民主主義は話し合いと妥協」という腑抜けの一般論が、こうした具体的局面では自民党への免罪以外の意味を持たないことがはっきりしました。真の政治改革を望むならば、自公与党に(企業団体献金廃止を含む)野党案を否決させて、解散総選挙に持ち込んで最大の争点化し政権交代で決着するほかありません。万が一、今後何かの曲折で自民党案が否決されるような事態があれば、例によって「与野党どっちもどっち論」のメディアが、法改正が実現しなかった=「対決政治の不毛」などと喧伝するでしょう。そういうメディアは、筋書き通りに自民党案が成立するなら、「政治改革」の第一歩などと報じるかもしれません。しかしおそらく世論はそれでは何も変わらないことを見抜くでしょう。そういう「動かぬ事態」を政治不信一般ではなく、自民党の責任に正しく結びつけ、来るべき総選挙で政権交代を実現できるようすることが唯一の解決策です。

特にアベ政治以降、政権によってすでに民主主義は散々蹂躙されてきました。アベ政治を継承している岸田政権の存続でその状況は変わっていません。もはや自公政権にまともな民主主義的政治運営はまったく期待できません。民主主義の再生にとって、腑抜けの一般論を乗り越えて、政権交代による政治刷新だけが解決策であり、それは同時に、金権腐敗政治の打破と真の国民主権確立への第一歩と言わねばなりません。それ故、安易な妥協を拒否して、企業・団体献金の禁止を実現すべく、維新の会の予想された脱落(思ったより早かったが)を超えて、他の野党が本気で腹をくくっていくかを注視しています。

 

 

          「民主主義対専制主義」スローガンの意味

 イスラエルのガザ地区でのジェノサイドが止まりません。すでにICC(国際刑事裁判所)の主任検察官が520日に、ハマスの指導者らと併せて、イスラエルのネタニヤフ首相やガラント国防相らに逮捕状を請求しています(きわめて公正な姿勢)が、524日には、ICJ(国際司法裁判所)がイスラエルに対して、ガザ南部ラファでの軍事攻撃の即時停止を命じる暫定措置を出しました。この期に及んでも、アメリカ政府はイスラエルへの軍事援助を止めません。同国内学生の厳しい抗議行動を始め、世界中で反戦世論が広がっているにもかかわらず。

 ここに来て、「民主主義対専制主義」というバイデン政権のスローガンの意味がいっそうはっきりしてきました。おそらくこれは反共主義の意味合いで、冷戦期からずっと言われてきたものでしょうが、特にロシアのウクライナ侵略戦争以後喧伝されてきました。このスローガンは西側世界では共有され、日本でも政府はもちろん、メディアなどでも広く受け入れられています。対米従属の政府と世論状況においてはそれが「自然」であり、毎日人々に広く流布し続けられ、具体的な「脅威論」と相まって、周辺の専制主義国家を仮想敵国とする意識を助長しています。

 ウクライナ侵略戦争時点では、それはいくらかのもっともらしさがあり、「朝日」などの体制内リベラルのメディアでは支持する知識人の論説などがよく出ていました。ロシアの侵略は専制主義に由来するものだ、日本人は民主主義を守るために戦う覚悟があるのか、等々…。それに対して、たとえば「赤旗」などは、問題はあくまで侵略戦争にあり、侵略に反対し、国際法・国連憲章を守れの一点で世界が団結すべきで、特定のイデオロギーを持ち込むことは、世界の反戦世論を拡大すべき時に、分断を持ち込み幅を狭めるものだと批判しました。まったく妥当な批判です。

 ところがイスラエルがガザで戦時国際法を無視した虐殺や飢餓攻勢を含む虐待を行なっても、アメリカは公然とイスラエル政府を支持して軍事援助を続け、さすがに世界世論に多少は配慮してラファへの全面侵攻だけは止めるように言うだけで、基本姿勢はまったく変わりません。その根底にあるのが「民主主義対専制主義」スローガンに込められたイデオロギーです。今世紀に入って、BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動に象徴されるように、人種差別や植民地支配への批判はいっそう確固たるものとなっています。ところが相変わらず、グローバルサウスなど、専制主義がありがちな遅れた人たちや地域に対しては先進諸国に対するのとは違う仕打ちをしてもいい、というセンスが「西側先進国」では支配的なようです。さすがにタテマエとしてはそういう政治的言説をあからさまには言えませんが、センスは隠しようがない。202310月、ハマスのテロ攻撃という不法な残虐行為がきっかけとはいえ、以下の記事のようなイスラエル国内の非人道的意識状況があり、これがガザ地区へのジェノサイドが続行できる世論的背景だと言えます(「赤旗」20231029日付)。かつての軍国主義日本における「暴志膺懲」「鬼畜米英」を想起させます。もっとも、今日の日本世論のイスラエル化を心配する声もありますが…。

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 国連の人種差別撤廃委員会は27日、ハマスによる10月7日の民間人への無差別攻撃・拉致が起きて以来、イスラエルでのパレスチナ人に対するヘイトスピーチが急増しているとして、イスラエルに厳しい対応を求める声明を発表しました。

 声明は、「パレスチナ人に対する人種差別的ヘイトスピーチと人間性抹殺が急増」しており、その中に「政府高官、政治家、議員、公人」によるものが含まれていることに「重大な憂慮」を表明しました。

 とくにガラント国防相が9日にパレスチナ人を「人間の顔をした動物」(ヒューマン・アニマル)とのべたことに具体的に言及。「ジェノサイド(集団殺害)的行動を扇動しかねない言葉」と指摘しました。

 声明は、イスラエルに対し、人種差別撤廃条約の完全な順守を求め、政治家や公人が表明した人種差別的ヘイトスピーチを断固として非難し、調査と処罰を行うよう求めています。

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 このように国連は批判し対処を求めているし、イスラエル国内にも批判的少数者はいるでしょう。しかし「西側先進国」の指導者らは、おそらく眉をひそめて見せつつも、いまだに米独のように軍事支援を続ける国があります。そこには人種差別意識とそれに基づく「民主主義対専制主義」イデオロギーがあるはずです。それが国際法や国連憲章を遵守するタテマエの上位にあるのです。

 ここに来て、件のスローガンはもはや「特定のイデオロギーによって、反戦世論に分断を持ち込む」という程度の生やさしい問題ではなく、侵略やジェノサイドをも正当化するホンネの原動力となっていると言わねばなりません。国際法遵守を適用するところと適用しないところがある、という二重基準の問題ではなく、「人種差別的民主主義優越論」とでもいうべき隠された確固たる一つの基準があって、それを一貫して適用しているというのが実態であり本質です。その論理においては、侵略戦争のロシアを批判し、占領地支配とジェノサイドのイスラエルを擁護することに何の矛盾があろうか。各国の行為を一つの基準によって批判し分けているのではなく、各国の政治のあり方そのものによって、あらかじめ批判すべき対象国は決まっている、ということを私たちは見せられているのです。

この姿勢を打ち破るためには、二重基準はダメだ、というレベルにとどまらず、国際法遵守の意義を徹底し、「民主主義対専制主義」スローガンの欺瞞そのものを暴露することが必要です。そもそも第二次世界大戦後の国連体制の下でも、アメリカ政府は世界中で侵略戦争を続けて何の反省もありません。21世紀初頭のイラク侵略後も、世界秩序の中でのうのうと旧態依然として居座っています。それができるのは世界最大の軍事大国だからですが、それだけでなく民主主義国家という看板による国際的信用のおかげです。中国やロシアのような専制主義国家でないことは確かにアメリカの優越性ですが、国内が民主主義的であることは侵略戦争を何ら正当化しないという当たり前の事実を決して忘れてはなりません。「民主主義対専制主義」スローガンの恥知らずを告発することが必要です。

                                2024年5月31日




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