これは基礎経済科学研究所の研究大会分科会での報告レジュメと報告原稿です(2004.9.12 名城大学)

    <報告レジュメ>                              

    生産力発展と労働価値論

        川上則道著『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』

         第3章「経済成長と価値」をめぐって

 

1.問題提起

   労働価値論の立場からは投下総労働量が同じならば総価値量も不変のはずである

  しかし労働力人口・労働時間が停滞していてもGDPは増大している

  ならば価値論的には政府統計の国民所得及び経済成長は何を表わしているのか

  またそこで労働価値論はどういう意義を持っているのか

 

  政府統計の実質国民所得=名目国民所得/物価指数

   通常これによってデフレートができて国民所得価値(V+M)を得る

     と考えられるが、実は物価指数ではデフレートできない

   なぜなら物価指数は一物一価原理の時系列への適用であり、

     価値が指数の基準年に固定化されその後の変化(生産性↑→価値↓)

     が捨象されているから

  そこで

      物価指数=1+物価上昇率

      インフレ指数=1+インフレ率

      物的労働生産性指数=1+物的労働生産性上昇率  (以下、単に生産性指数)

                      とすれば

      物価指数=インフレ指数/生産性指数 

      政府統計の実質国民所得=名目国民所得/物価指数

                            =名目国民所得/(インフレ指数/生産性指数)

                            =(名目国民所得/インフレ指数)×生産性指数

                            =価値表示の実質国民所得×生産性指数

                            =年間国民総投下労働量×生産性指数 

 

  政府統計の実質国民所得は投下労働量が不変でも生産性の上昇によって増大する

  それは価値・使用価値の両義的概念だが、

  国民所得と経済成長を(価値的にではなく)物量的に表現する

 

 

2.川上則道氏による批判

  労働価値論の観点からも政府統計の国民所得は価値である  

  労働生産性が上昇する場合、過去の生産物の売れ残りが減価するのと同様に

    過去の労働の生み出した価値も減価する(基準は現在である)

  これを過去から現在に向かって見れば、労働生産性の上昇とともに

    価値形成力が上昇することになる

  価値概念についてはこれを労働量だけでなくと

    労働量と生産物とが一体化したものとして捉えるべきで

    一物一価原理は時系列にも適用される

 

 

3.和田豊氏(『価値の理論』)による総括

  労働価値の異時比較の一般的方法の提示

  労働価値概念の共時性と通時性

  可変的タイムスパン

    労働価値期間(労働価値規定の前提となる期間)は分析の必要に応じて

    自由に選択可能

  「入れ子型」「個別価値型」「単純な異時比較型」

  年々の労働生産性の上昇を把握するためなら「単純な異時比較型」が基本

 

 

4.価値論(価値・使用価値の二重分析)の意義

  使用価値量の増大を価値量の増大として表現したいのは、

  経済分析での有効性を確保するためだが、

  それは物量分析への一元化となり、擬似価値論である

  それによって抜け落ちるものがある

 

 (1)経済本質論(杉原四郎氏)、未来社会論の観点から

      生産力発展→費用価値↓→自由時間↑

        しかし実際には、ガンバレばガンバルほど自由時間↓

      この現状に対する価値論次元での批判意識

      cf 生産的労働論

 

 (2)現状分析との関連で(「デフレ」論をめぐって)     

     政府統計はもともと価値なし価格論だが擬似価値論はそれに同調

     インフレ・デフレの定義(政府統計) 

        一定期間以上にわたる物価の継続的上昇(下落)

        物価指数は一物一価原理の時系列への適用

        価値的でなく物量的定義

     投下労働を捉えなければ再生産を捉えられない

        物価下落の価値論的分析

          *名目的下落(デフレ)

          *実質的下落 #価値そのものの下落(生産性上昇)

                 #価値以下への価格の下落(需給ギャップ) 

        日本経済の「デフレ」とは何か

        価値論なし経済学による「デフレ」論と経済政策の暴走

        売り上げ不振・企業倒産・自殺・出生率低下

        日本資本主義における国民経済的再生産の困難

          それを価値論次元からも捉える必要がある

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基礎研研究大会分科会報告原稿(2004.9.12 名城大学)

 

    生産力発展と労働価値論

        川上則道著『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』

         第3章「経済成長と価値」をめぐって

 

はじめに

 ご紹介いただきました刑部です。私は一介の古本屋にすぎませんので、まったくの勉強不足で先行研究を踏まえず、この報告も穴だらけだと思いますが、独自の問題意識だけでも受け止めていただき、いろいろとご教示くだされば幸いかと思います。

 この報告は、今年刊行された、川上則道氏の『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』の第3章「経済成長と価値」に関するものです。この論文は、川上氏と私との手紙での討論を川上氏が編集して『経済』2000年5月号に発表したものです。

 政府統計における国民所得は労働価値論においては価値なのか使用価値なのか、という私の疑問から出発して、生産力発展を背景とした異時点間の価値をどう理解するかという価値論の根本問題に議論は発展しました。

 一見スコラ的に感じられるこうした問題は、一方では経済社会と労働の本質的あり方、その未来像にかかわるものであり、他方では物価下落をともなう深刻な不況に陥った日本経済の現状認識と対策にかかわるものだと思われます。

 

 

1.問題提起

 

 労働価値論の立場からは投下総労働量が同じならば総価値量も不変のはずですが、近年のように労働力人口・労働時間が停滞していても少しずつでもGDPは増大しています。この場合、同一労働量は同一価値量を作り出すという労働価値論の原則が誤っていると考えるか、GDPは価値を表わしていないと考えるかどちらかになります。

 実は『経済』2000年5月号に論文が発表された後に、たまたま『経済理論学会年報第8集』(1971)を見ましたら、山田喜志夫氏の「『経済成長』について」という報告があり、それに対して大島雄一氏が次のような意味の疑問を出しています。

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 付加価値統計を見ると、昭和30年で製造業一人一ヶ月当たりで3万円ぐらいが、42・3年になると15万円くらいになっており、物価の上昇を差し引いた以上に上がっている。経済原論では生産性上昇の場合、一労働時間が生み出す価値は完全に同じだと説明しているが、現実の統計と合わない。生産性が上昇した場合は旧労働に対して複雑労働化して作用する。

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 大島氏は労働価値論の教科書的説明に疑問を呈して一定の修正を加えています。しかし問題は政府統計は価値を表現していないということです。物価の上昇を差し引いただけでは価値は出てきません。この点、一般に誤解があり、逆にそれをクリアすることが問題のカギだといえます。

 物価指数はきわめて重要な統計指標ですが、「一物一価原理の時系列への適用」というその性格がしばしば見過ごされています。一物一価原理は同じ使用価値は同じ価値を持つということであり、労働価値論の観点からは投下労働量が違っていても同じ使用価値ならば同じ価値とみなされるということです。労働価値論の価値実体論では、同一労働量は同一価値量を作り出すという基本的命題(論理 A)に、一物一価という補助的命題(論理 B)が組み合わされています。共時的(クロスセクション、横断的)分析において、競争関係にある諸生産物には論理 Bが適用されます。この場合、生産性格差にかかわらず適用され、格差をめぐる競争が生産力発展を促すことが解明されます。通時的(タイムシリーズ、時系列的)分析においては、時間が異なり競争関係にない諸生産物に論理 Bは適用されません。ここでは競争の結果としての生産力発展により、生産物1単位当りの投下労働量が減り、従って価値量が減少することが時系列的に確認されます(論理 A)。このように労働価値論においては相矛盾する2つの論理が巧みに組み合わされて、労働生産性をめぐる<格差→競争→発展>の構造が解明されています。

 物価指数はこの一物一価原理を時系列に適用します。具体例で説明します。

 過去において1労働時間かかって生産された使用価値が100円で売られ、現在では30分で生産され150円で売られており、これが社会的平均を表わしているとすると、現在の物価指数は1.5となります。ところで物価は通貨価値の減価=インフレに比例しますが、生産性の上昇に反比例します。後者はしばしば見過ごされます。例では価値は1/2につまり生産性は2倍になっており、通貨価値は1/3つまりインフレは3倍になっており、3÷2=1.5が物価指数です。ここで物価指数は、かつて100円で売られていた使用価値が今では1.5倍の150円で売られているということだけを反映しており、価値がどう変化したかにはかかわりません。一物一価原理を時系列に適用すると、過去も現在も同じ使用価値=価値の商品が今ではかつての1.5倍で売られている、通貨価値が1/1.5つまり2/3になった、と映ります。実際には通貨価値は1/3になっていますが。

 この例では現在の名目国民所得を過去との比較のためにデフレートするには物価指数の1.5で割ったのではだめでインフレ指数の3で割らねばなりません(インフレが進み、生産性が上昇している場合には、物価上昇以上にインフレは進んでいる)。こうすれば労働価値論上の国民所得価値(V+M)の比較ができます。

 ところで物価指数の1.5で割ったものは政府統計上の実質国民所得ですが価値論的にはこれはどういう意味を持っているのかが次の問題です。 

 

      物価指数=1+物価上昇率

      インフレ指数=1+インフレ率

      物的労働生産性指数=1+物的労働生産性上昇率 (以下単に生産性指数)

                      とすれば

 

      物価指数=インフレ指数/生産性指数 

      政府統計の実質国民所得=名目国民所得/物価指数

                            =名目国民所得/(インフレ指数/生産性指数)

                            =(名目国民所得/インフレ指数)×生産性指数

                            =価値表示の実質国民所得×生産性指数

                            =年間国民総投下労働量×生産性指数 

 

 政府統計の実質国民所得(以下では単に「実質国民所得」とする)は価値表示の実質国民所得(以下では単に「国民所得価値」とする)に生産性指数を乗じたものであり、いわば「偏倚した価値」としての性格を持ちます。ここで実質国民所得は価値とも使用価値ともいえない両義的概念です。偏倚した「価値」とはいっても生産性の上昇に応じて増大するという意味では使用価値的です。では使用価値なのかといえば、そもそも異なった諸使用価値量を集計することは不可能であり、価値量に還元するしかありません。その点では価値的です。

  実質国民所得のこの両義性は以下のように解釈できます。…まず価値概念によって諸使

用価値を一つの集計量(国民所得価値)にします。次いでこの国民的諸使用価値の総品目

セットをあたかも一つの使用価値に擬制します。この一つの使用価値と見做された国民総

生産物量(中間生産物は除く)が生産性の上昇に応じて増大します。…実質国民所得はこ

のように迂回した形で国民所得と経済成長を(価値的にではなく)物量的に表現するもの

です。

 以上のように、同一労働量は同一価値量を作り出すという労働価値論の基本原則を堅持しつつ、政府統計の概念について価値論的解釈を与えることができます。

 

 

2.川上則道氏による批判

 

 川上氏は労働価値論の観点からも政府統計の国民所得は価値であるとされます。そうなると先の大島雄一氏の議論と似たように、同一労働量は同一価値量を作り出すという労働価値論の基本原則を修正して、生産性の上昇に応じて労働の価値形成力が増大していく、という論理になります。

 それは次のように導き出されます。労働生産性が上昇する場合、過去の生産物の売れ残りが減価するのと同様に、過去の労働の生み出した価値も減価します(基準は現在である)が、これを過去から現在に向かって見れば、労働生産性の上昇とともに価値形成力が上昇することになります。

  前述のように、労働価値論の価値実体論は、同一労働量は同一価値量を作り出すという先の論理 Aと一物一価原理という論理 Bとの統一によって形成されます。刑部がA優位の論理構造をとったのに対して、川上氏はB優位の構造を採用したといえます。

 川上氏はこの論理を補強するために、労働量と生産物の一体化を強調し、労働量だけを価値に結び付けるのでなく、この一体化したものとして価値概念を把握する必要があることを主張します。この一体化を行うのは現在の生産(労働)です。

 これは結局、歴史的に存在する(した)様々な投下労働量を持った諸生産物の価値を、同じ使用価値であるということで、現在の生産性水準に応じて同じ価値に統一することです。こうして一物一価原理は時系列へも適用されます。

 

 

3.和田豊氏(『価値の理論』)による総括

 

 川上氏と刑部とが対極的な論理展開を見せる中で、和田豊氏は、労働価値の異時比較の一般的方法を提示します。

  刑部が一物一価原理を現実の競争関係のある共時的構造の中に限定し、過去の生産物の減価を否定するのに対して、川上氏は一物一価原理を通時的分析にも適用して、現在の基準で過去を減価させます。和田氏は労働価値期間(労働価値規定の前提となる期間)は分析の必要に応じて自由に選択可能である(可変的タイムスパン)として、両者の議論をより一般化して止揚します。

 可変的タイムスパンの下では労働価値の異時比較の方法として三つが可能です。

  [1]入れ子型:相対的に長期の労働価値の中で短期の労働価値が規定される

  [2]個別価値型:市場価値論を異時点間に適用する

  [3]単純な異時比較型:離れた期間の労働価値をそのままで比較する 

 和田氏によれば、刑部の議論は、一物一価原理の実在的根拠を問題とする限りでは本質的問題はないが、それを極度にタイトに捉えているため価値概念の応用可能性を狭めている、とされます。他方、川上氏の議論は価値概念の通時性を共時性に一方的に解消してしまった点が誤りとされます。両者の論争点についていえば、年々の労働生産性の上昇を把握するためには、減価の議論を放棄した「単純な異時比較型」が基本型であり、刑部の方に基本的な正当性がある、とされます。

 

 

4.価値論(価値・使用価値の二重分析)の意義

 

 ジョーン・ロビンソンは次のように労働価値論を根本的に批判しています。

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 生産力や、国民所得の成長というのは、財の産出量の流れと理解されている。そこで注目しなければならないものは、まさに、一人一時間当りの物質的産出量の変化である。ところが、価値表示においては、一時間は、あくまでも一時間である。一定の労働時間は、年々、同じ価値しか生産しない。しかし問題はそこにあるのではない。われわれの知りたいのは、一定の労働時間がどれだけの物質を生産しているかということである。

        『経済学の考え方』71ページ(岩波書店 1966)

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 こういう批判にあわてて、生産性の上昇による使用価値量の増大を価値量の増大として表現したいのは、経済分析での有効性を確保するためでしょう。しかし先のように労働価値論的意味づけを明らかにして、政府統計の国民所得などを実物的指標として分析すれば良いのであって、価値論を変更する必要はありません。一物一価原理を時系列に適用して、使用価値量の増大を価値量の増大とするのは、価値量を物量に解消する擬似価値論です。それはせっかくの価値・使用価値の二重分析という労働価値論の特性を放棄して物量分析に一元化し見失うものが出てきます。それについて経済本質論という歴史貫通的観点と現状分析の観点の両面から述べてみます。

 

 (1)経済本質論(杉原四郎著『経済原論1-「経済学批判」序説』)、未来社会論の観点から

 

 杉原四郎氏は資本主義把握に先だって、歴史貫通的な経済本質論を解明します。そこでは富は使用価値と費用価値という二重性格を持ちますが、それは労働の二重性格(具体的有用的労働と抽象的人間的労働)に由来します。人間は生活に必要な経済財を調達するために、有限でかつ色々に使用可能な時間とエネルギーの一定部分を労働として支出せねばなりません。つまり労働は人間が生きていくために支払わなくてはならない本質的な費用であるので、抽象的人間的労働が作り出す価値をあえて費用価値と呼びます。富を消費する人間としては、使用価値のできるだけの質的量的な向上がのぞまれ、富を生産する人間としては、費用価値のできるだけの量的節約がのぞまれ、両方を解決するために生産力の発展を軸とする富の拡大再生産が求められます。

 人間生活にとって最も本質的な資源として時間があり、労働時間がその時間の基底的部分を構成し、生活時間から労働時間をさしひいた残りの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能になるので、労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえません。そしてこの認識に基づくことで、労働生産力の発展が人間の歴史を貫く基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望も開けます。生産力の発展と合理的な時間配分とは、労働時間の節約のための二つの本質的な解決策です。

 以上の杉原氏の主張では、使用価値と費用価値とについて、前者の増大と後者の減少という逆の動きが期待され、それを同時に実現するのが労働生産力の発展であることが指摘されています。生産性の上昇によって生産物一単位あたりの費用価値は減少し、消費される使用価値量の増大を上回って生産性が上昇するなら、労働時間が節約され自由時間を増やす可能性が生まれます(これは逆に、ムダな使用価値量の追及によって生産性上昇の効果が労働時間短縮につながらない可能性をも示唆している)。ここでは当然大前提として、一定時間の労働投下はあくまで一定の費用価値であって生産性のいかんにかかわらず費用価値は変化しないことが重要です。また費用価値としての労働時間は、生活時間から自由時間を奪う時間であるので、その物理的時間の長さが問題であって、その時間内での生産性は問題ではありません。

 使用価値の増大と費用価値の減少、そのための生産力の発展と合理的な労働時間配分という人類史の基本方向は、資本主義経済ではどのように貫かれるのでしょうか。大まかにいえば市場メカニズムと恐慌=産業循環によりますが、その際、問題なのは資本の運動の推進動機は価値増殖だということです。これは人類史の法則に逆行します。しかし価値増殖の方法として特別剰余価値の取得をめぐる競争が展開されて生産性が上昇し、結果的に商品価値の減少が実現されます。そしてまた減少した価値を新たな出発点として価値増殖に邁進する、というのが、下りのエスカレーターを登るような矛盾に満ちた資本の運動原理です。生産性上昇下で投下労働総量が一定ならば、同一労働量は同一価値量を作り出すという原則からは、使用価値総量は増大しても価値総量は不変となります。ところがその際に生産性上昇とともに労働の価値形成力が増大するとみなせば、使用価値総量だけでなく、価値総量も増大することになります。生産力発展の下での使用価値量と価値量との平行的増大というこの見方(価値論の物量分析への一面化)からは、生産力発展が価値増殖に直結することになります。これは一方では上記の資本の矛盾に満ちた運動を捉えられない表面的な見方であるし、他方では資本の運動をも貫く人類史の法則を看過することになります。逆に同一労働量は同一価値量を作り出すという原則の見地から、費用価値の減少という人類史の課題を資本主義分析の中にも折り込むことから生まれる批判意識こそが重要なのです。

 資本主義が人類史の一時代として存在理由の弁明を許されるのは、この時間論の観点からは、そのたぐい稀な生産力発展によって自由時間の飛躍的増大の可能性を作り出すという点にあります。しかし「資本の傾向はつねに、一方では自由に処分できる時間を創造することであり、他方ではそれを剰余労働に転化することである」(『経済学批判要綱』)ので、資本の本性からは労働時間は短縮されず、潜在的自由時間は搾取の対象に転化してしまいます。資本は常に剰余価値の担い手たる使用価値を追い求め、それを人々の生活に押し付けます。人々は自分の自由時間に自分で工夫し自身の生活を組み立てるのではなく、資本の提供する商品に生活を埋もれさせるという消費社会のスタイルに漬かります(手間ひまかけずに金かける)。そういう「豊かな消費生活」を支えるために生産者としては過剰労働が強制されます。グローバリゼーションの中で24時間眠らない都市があたかも当り前で、それをしなければ大競争から脱落するという強迫観念があります。しかし病院とか警察などが24時間可動体制をとるのは必要なことですが、工場や商店が24時間開いているのは、人間生活の必要からでなく、資本の価値増殖の必要に過ぎません。資本が人々の自由時間を盗んで労働時間に転化して価値増殖を強行しているのに対して、実は費用価値の縮小=自由時間の拡大こそが人類史的法則であり、そのためには生産力の向上だけでなく、やみくもな使用価値の増大を控えることをも訴えることが必要なのです。今日のグローバリゼーション・「構造改革」とは、資本の価値増殖に合わせた形での生産力拡大、労働時間増大=自由時間の縮小=生活の希薄化(全生活時間の資本への従属)のいっそうの追及であり、そこでの新商品の開発とは価値増殖の担い手としての使用価値の発見であり、そうである以上は物量の追及は人々の生活時間の剥奪に他なりません。それに対して人間的生活時間の充実=自由時間の拡大=労働時間短縮を目的とした生産力のあり方と使用価値のコントロールの立場で対抗することが必要です。24時間社会を許さないグローバルな闘いが求められます。それは資本の価値増殖活動に一定の規制を加えて生産力増大の成果を人間生活に還元させることです。

 やみくもな使用価値の増大を問題としましたが、今日ではサービスの肥大化が重大です。もちろん福祉・医療・教育などいっそう充実すべきサービスもありますが、風俗営業など社会の腐朽化を反映したようなサービスもあります。生産的労働論争でサービス労働の価値生産性を主張する立場は、サービス業の増大を反映していますし、情報化社会ではほとんどの種類の労働の価値生産性を認めるような議論も登場しています。あらゆる部面で資本の価値増殖活動が支配している現状からすれば、これらの議論には説得力があるように見えます。しかし物的生産部門の生産性が向上して少ない投下労働量で全社会を支えることができるようになったのに対して、余剰資本が他の部門に向かった結果がこの現状であり、費用価値の減少の追及という経済本質論の見地からは、新しく登場してくる労働をすべて価値生産的とするのには問題があります。もちろんこれは思想的な意味での価値判断とは違って経済の客観的構造に関することですが、価値増殖の立場からはすべての使用価値・サービスは同一平面上の価値として増殖していくように見え、経済本質論の立場からは、すべての使用価値・サービスの中でも物的生産物の価値が減少していくのがまず基本であり、その他の派生したものの価値についてはそれぞれに位置付けられることになります。人間生活の未来を自覚的に切り開いていくためには、価値増殖一色に目が眩んだ価値論ではなく、経済の重層的構造を反映した価値論が適合的だといえます。

 

 

 (2)現状分析との関連で(「デフレ」論をめぐって)

 

 これまでの経済本質論では、価値は大きいほうがいいという通念に反して小さいほうがいいという逆説を語ってきましたが、ここからはでは今日の「デフレ(通俗的意味の)」「コスト削減(リストラ・賃下げを中心とする)」というのは価値が小さくなることだからいいのか、というとそうではないという話をします。一貫しないようですが、価値論のある経済学からそれは解明され、価値論のない経済学では混迷が深まるのです。

 実はここでいう「デフレ」「コスト削減」というのはおおむね価格が下がるだけで価値は下がりません。価値と価格を区別しない、というか、そもそも価値概念を形而上学として否定し価格の伸縮性を絶対視して物量分析に一元化した経済学にとっては、それはどうでもいい、思いつきもしないことですが、科学的な現状分析にとっては重要です。大ざっぱな言い方ですが、量的水準の観点から価値と価格を区別すると、価格は日常的に変動するものですが、価値はその変動の平均的中心にあるものです。商品経済における価値と価格に対応するのは資本主義経済においては生産価格と市場価格ですが、話を簡単にするために、長期的平均値と短期的変動値として価値と価格という言葉で代表させます。

 一定の生産力と生活水準に対応した社会的再生産を保障する商品価格の水準を価値は表現しています。今日の「デフレ」「コスト削減」といわれるものは、商品価値や労働力価値以下への商品価格や賃金の下落が単に循環的なものでなく構造的に定着した状態です。高水準の企業倒産、出生率の低下が継続しているのは日本の国民経済の再生産が困難に陥っている証拠です。したがって我々の価値論の観点からすれば、営業と生活を守る商品価格と賃金を回復することが経済政策の本筋です。リストラを推進する「構造改革」がそれに反することは明確ですが、インフレ政策による名目価格の上昇も解決策にはなりません。残された道は、生活・雇用不安を取り除いて、GDPの6割を占める個人消費を活性化させ実体経済における需給ギャップを解消することです。

 初めに問題意識と結論のようなものを粗雑かつ短絡的に述べてしまいましたが、以下ではそうした政策的課題の前段としての理論的問題に触れます。

 政府統計におけるデフレの定義は、一定期間以上にわたる物価の継続的低下です。この定義は物価下落の原因として通貨側か商品側かを問わない漠然としたものですので、後述のように政策的混乱を誘発する、ないしは政策的詐術を隠蔽します。また前述のように物価指数は一物一価原理の時系列への適用ですから、この定義で問題になっているのは通貨の支配する価値量ではなく、使用価値量です。これでは労働力を含めた商品の価値を分析することはできず、物量分析への一元化の下で価格変動を扱うだけで再生産の問題が視野から落ちます。

 それでは物価下落の労働価値論的分析をしてみましょう。まず問題になるのは名目的下落か実質的下落か、換言すれば通貨側の問題か商品側の問題かということです。名目的下落は通貨量の収縮=通貨の増価によって商品価格が下落すること、つまりデフレであり、実質的下落は商品価格そのものの下落であって、デフレではありません。さらに後者は二つに分かれ、生産性上昇などによる商品価値そのものの下落にともなう価格の下落と、需給ギャップによる商品価値以下への価格の下落があります。

 日本経済の現状は政府統計の定義によっては「デフレ」とされていますが、日銀は潤沢な通貨供給を継続しており、通貨不足ではなく、本来の通貨論的なデフレの定義には当てはまりません。内実を問わない物価下落の現象だけによる政府統計の定義によって現状をデフレとまず認定し、途中から意識的にか無意識的にか本来の通貨論的定義に切り替えて、デフレは通貨的現象なのだから日銀のインフレ政策で相殺しよう、という暴論があります。デフレ定義の曖昧さによって実体経済の問題が金融問題にすり替えられているといえましょう。

 今日の物価下落の主な原因は、1.需要不足、2.生産性の上昇、3.輸入品の低価格でしょう。このうち1では商品価値以下への価格の下落が起こり、予定した価格が実現できないので再生産が困難となります。2は商品価値そのものの下落にともなう価格の下落であり、一応コスト低下に見合った価格低下といえますが、今日ではリストラ・サービス残業・不安定雇用の増加などの人件費削減による効率化が重要な部分を占めており、生活困難・需要不足の原因となっています。3も2と同様に商品価値そのものの下落であり、原材料や生活用品などの価格低下が物価・賃金に反映した限りでは再生産・生活維持の困難は惹起しませんが、国内競合産業への打撃による不況圧力となります。

 現象論的価格論による通俗的「デフレ」論では物価が下がるのがいいとか悪いとかいわれるだけで、生活や再生産の困難の観点(これは価値論を踏まえることで生まれる)から物価下落の内容を分析的に見直すことがありません。そこで不況対策として、一方では「構造改革」「リストラ」の立場から物価下落は仕方ないのでもっと賃下げして利潤を増やせとか、他方ではインフレ政策で一気に解決できるかの如きメクソハナクソの妄論が徘徊し、実体経済のどこを改善すべきかということにならないのです。物価下落をともなう大不況の日本経済の現状を考えるにも価値論の意義は誠に大きいと言わねばなりません。

 本報告では現状分析とのかかわりでの価値論について若干触れましたが、もう少し詳しくは報告資料の中にある三つの拙文、『世界』編集部宛(2003.10.9)『経済』編集部宛(2003.6.17)『前衛』編集部宛(2002.4.24)を参照してください。

 

 

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