以下は201719日「革新・守山の会」新春交流会での発言準備草稿です。

 トランプがアメリカの大統領になって、ポピュリズム――大衆迎合ということが話題になっています。いろいろな批判がありますが、ポピュリズムとポピュリズム批判を両方とも乗り越えて、本当の意味で憲法・人権・民主主義が生きる社会をつくっていくことが必要だと考えています。

トランプを支持する橋下徹は今回の選挙について「負けたのは、知識層だ」と言って、大衆迎合が必要なのだとも言っています。トランプや橋下を批判する側は大衆迎合はダメだと言っているのですが、問題を「知識層VS大衆」という次元で捉える点では同じです。両方とも間違っています。

新自由主義構造改革の下で、格差と貧困が拡大し社会的閉塞感が蔓延しています。そういう中、絶望感を抱く低所得層や転落の不安におびえる中間層がとにかく既成の政治家ではダメだということで、これまでの政治といっしょに人権や民主主義を破壊するような威勢のいい発言をするポピュリストに期待しています。それに対してメディアなどでは上から目線で説教していますが、火に油を注ぐだけです。

問題の根本は経済政策の誤りにあるのですから、大企業中心の新自由主義をきっぱりやめて、膨大な内部留保を吐き出させ、庶民の懐を温める政策に転換することが必要です。それと併せて人権や民主主義を守り発展させる必要性を説くべきです。

 たとえば消費税増税反対というのはポピュリズムでしょうか。メディアや知識人の多くはそう言っています。しかしこの反対論はきちんと財源などの対案を示しているのですから、大衆迎合という意味でのポピュリズムではありません。そこでこれをカッコつきの「ポピュリズム」と呼びましょう。経済問題にかかわるので経済「ポピュリズム」カッコつきと言います。

 これに対して性差別・人種差別とかいろいろなバッシングの類は本当のポピュリズムであり、政治ポピュリズムと呼びます。これはカッコつきではありません。

 ところが世の中では両方をごっちゃにして、ポピュリズム批判をやっています。これに対して経済「ポピュリズム」カッコつきについては、私たちの正当な要求だと堂々と主張し、政治ポピュリズムについてはきちんと批判することが必要です。

 憲法・人権・民主主義というのは、より良い社会をつくるための人類の長い闘いの到達点としての知恵です。しかしたとえば男中心社会に生きてきた男たちの中にはホンネでは男女平等に反対で、ポピュリストがそれを代弁してくれると拍手を送る輩もいます。こういう調子で、人権なんてのは窮屈だ、学校が教えるタテマエで現実に合わない偽善だ、という感覚が結構あるのでしょう。

 こういう遅れた意識に対する一番の特効薬は、自分たちの身近な要求を実現するために憲法・人権・民主主義を積極的に活用する体験を積むことです。たとえば保育所の待機児童が大問題になっています。以前は諦めていたママたちが団結して声を上げることで、遅ればせながら行政も重い腰を上げ始めています。自分たちの要求を実現する方法が分かっていれば、ポピュリストにだまされることもなくなります。人権や民主主義に八つ当たりするのでなく、逆にそれを十分に活用することで生活や労働を改善できるという経験をどれだけ作り出していけるかが勝負です。

 こういうのは実に地道な活動であり、私たちは普段から色々と取り組んでいます。一つひとつを見ているだけではそれが政治変革につながるかどうかは分かりにくいのですが、その積み重ねが人々の中に民主的な変革主体を作り出し、政権にとってはボディーブローのように効いてくるはずです。

 その成功例が、昨年春に行われたロンドンの市長選挙です。ヨーロッパでは移民問題が焦点になり、排外主義的な右派ポピュリストの人気が高まっているときでした。そんなときに労働党はパキスタン系イスラム教徒で人権派弁護士のサディク・カーン候補を立てました。それに対して保守党はこれ幸いと、人種や宗教に対する差別感情やテロへの恐怖を煽る選挙戦術を取りました。しかしカーン候補が見事に圧勝しました。保守党内からもそういう選挙戦術への疑問が出る状況となり、ロンドン市民は良識を発揮したのです。そこで教訓的なのが、労働党側が住宅問題など生活密着課題への取り組みを重視したことです。ロンドンの街中では住宅価格も家賃もべらぼうに高くて、たとえば消防士の多くが通勤に2時間もかかるようなところに住んでいて、大災害が起こったらどうするのか、というようなことが深刻な問題となっていました。こうした問題に応える政策を打ち出すことで、保守党のポピュリズムによる争点ずらしを打ち破って勝利したのです。

 今、わが国では野党共闘による勝利の方程式が追求されています。私はこれまで述べてきた中にこそ深い意味での勝利の方程式があると思います。学校でいい成績を取るためには、試験の少し前から試験対策としての勉強をします。それは絶対に必要です。しかし普段から基本的なことを勉強しておくことも大切で、そっちの方が本当の意味での勉強です。今、野党共闘で「大義の旗」を立て「本気の共闘」に取り組むことが追求されています。これは選挙に勝つための勝利の方程式であり、絶対に必要です。しかし普段から様々な要求実現運動に取り組み、ポピュリストにだまされない魂の据わった民主主義社会をつくることが社会変革のための勝利の方程式なのです。トランプや橋下に限らず安倍もまたポピュリストです。いつも平気でうそをつき、選挙はいつもだまし討ちで、何としても憲法を変えて戦後の民主主義をなくしてしまおうとしています。これを打ち破るには選挙に勝つしかないのですが、そのためには不断の努力で、深いところから社会を変えることが必要なのです。結局、釈迦に説法のような話になってしまいましたが、以上で終わります。



以下は『経済』2017年1月号の感想の一部です。 


          米国大統領選挙の本質

 高田太久吉氏の「アメリカ社会に何が起きているのか 2016年大統領選挙を通して見る政治変革の可能性」は、副題にあるように、トランプの勝利・クリントンの敗北・サンダースの健闘を通して政治変革の可能性を探るものです。それは「ポピュリズムの勝利を嘆く」というマスコミなどの主流的見解とは一線を画するのみならず、トランプ勝利の必然性を訳知り顔に後付けするだけで、変革の可能性に言及しえない見解ともまったく違います。高田氏は予備選と本選を概観することで、まず民主・共和両党における支持者の党指導部への反乱を指摘し、次いで両党を離れた無党派層が最大勢力まで増大し、本選の帰趨を左右する状況に至ったことを指摘しています。つまり大統領選の基本構図は有権者と政治との「断絶」にあったのです。「それは、政治資金の見返りに企業・富裕層に政治を売り渡している二大政党と、長引く不況のもとで、自らの境遇を改善する展望を持てず、政治に見捨てられていると感じている多数派有権者との間の深い断絶であり、前者に対する後者の失望と怒りで」す(95ページ)。

 もちろん高田氏は「有権者が下した判断が果たして賢明であったか否かは、トランプ候補のこれまでの行動や言説に照らして、疑問としなければならない」(96ページ)としているのですが、上記の見解に従って、クリントン候補にはもっと明確に峻烈な批判が下されます。

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 あれこれの政策ではなく、米国政治の根本的な転換が最大の争点になった今回の大統領選挙では、民主党本流を自負し、有権者に深い失望を残して任期を終えるオバマ政権の「正統な」後継者として出馬したクリントン候補は、言ってみれば、すでに終わった場面の演技者が次の場面に間違って登場したようなもので、はじめから場違いな候補者だったのである。                    96ページ

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 民主党の予備選時に、本選でトランプに勝てるのはクリントンではなくサンダースだという世論調査結果が出たことがあります。まさか米国で自称「民主的社会主義者」がそこまで強いとはにわかには信じられず、本選に出るべきなのはクリントンが順当だろうと私は思っていたのですが、今となっては不明を恥じるばかりです。「あれこれの政策ではなく、米国政治の根本的な転換が最大の争点になった」という大統領選挙の基本性格を見損なっていたのです。新自由主義グローバリゼーション下、格差と貧困が極端に進行し、富裕層への富の集中とその政治支配が異常に強化される中で、米国でも資本主義批判が高まり、対蹠的に青年層を中心に社会主義への拒否感が急速に減少しているというのです(98100ページ)。

 社会主義とはいっても、サンダースのそれは「欧州型福祉国家」(101ページ)であるので「真の改革を妨げる障害」(同前)だという見方もあります。しかし高田氏は、サンダースは不平等と金権支配を改革する先進的な解決方途を提示し、深刻な政治不信を自らへの支持に変えることで、大統領選挙の常識を覆した、として高く評価しています(同前)。またサンダースは民主党の政策に自己の主張を反映させ、第三党の設立ではなく民主党を変えることで米国の政治変革の展望を開いたし、彼の善戦は金権選挙が支配の万能の梃子ではないことを示しました(102ページ)。

 以上のような高田氏の見解は、今回の大統領選挙の本質を「ポピュリズムVS反ポピュリズムの闘いでの前者の勝利」と見るようなミスリードを許さず、「あれこれの政策ではなく、米国政治の根本的な転換が最大の争点になった」という基本性格を捉え、そこに「政治変革の可能性」を看取した点において卓見であると思います。

 

          ポピュリズムVSポピュリズム批判

 とはいえ、ポピュリズムの扱いそのものは重要であり、軽視できません。問題はそれを体制護持的に捉えるのか、政治変革の可能性において捉えるのか、にあります。体制護持的ポピュリズム批判(体制護持的に、ポピュリズムを批判すること。「体制護持的なポピュリズム」を批判すること、ではない。どちらの意味もありえるが、ここでは前者の意味で使う)がマスコミなどの主流であるときに、そうではない捉え方があることを示す必要があります。

 橋下徹氏はポピュリストとして著名であり、「既得権益」層・知的エリート層への強力な攻撃で勇名をはせています。米国大統領選挙については「負けたのは、知識層だ」としてインタビューに答えています(「朝日」グローブ188号 124日付)。

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 有権者が政治家のきれいごとにおかしいと思い始めてきたんですよ。口ばかりで本気で課題解決をしない政治に。米国で言えばワシントン、英国で言えばウェストミンスターの中だけで通用するプロトコル(儀礼)できれいごとを言っても、それは明日のメシを満足に食べられる連中だから。ポピュリズムという言葉で自分たちと異なる価値観の政治を批判するのは間違っています。それは自分の考え以外は間違いだと言っているだけ。民主政治の本質は大衆迎合です。重要なのは、社会の課題を解決する力。エリート・専制政治の方が大衆迎合よりもよほど危険なことは歴史が証明しています。今回の選挙の敗北者は、メディアを含めた知識層ですよ。

 …中略…

 明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして、お互いに立派だ、かっこいい、頭がいいということを見せ合っているのが、過度にポリティカル・コレクトネスを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治エスタブリッシュメントの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題が分かるはずがない。政治なんて、もっとドロドロしたものなんです。僕はポピュリズムというものは課題解決のための手段だと思っています。メディアの仕事は、下品な発言の言葉尻を批判することではなくて、政治家のメッセージの核を見つけて分析し、有権者にしっかりと情報提供することですよ。

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 確かに支配層の政治家はきれいごとばかりを言って、課題が分かっていない、という批判は当たっています。そこで「政治家・メディア・知識人の政治エスタブリッシュメント」を非難して溜飲を下げるというのは「大衆」の気分に沿う発言だと言えるでしょう。

ところで課題とは何でしょうか。新自由主義下における格差と貧困の拡大を解決することが最大の課題でしょう。これに対して「課題が分かっている」らしい安倍政権は「働き方改革」「労働時間短縮」「同一労働同一賃金」「女性の輝く社会」などともっともらしい政策スローガンを並べて、実際にはそれに逆行する非正規労働の拡大の強行、労働基準法改悪の方針などを打ち出しています。まさに詐欺的な「政治の技術」です(アベが技術と言ったら詐術と思え)。労働問題に限らず、安倍政権の主要政策に同調して居丈高に野党を攻撃しているのが、橋下氏が実質的な領袖として君臨する維新の会です。

 「上品な」世襲政治家が中心の安倍自民党などではできない重要な役割を橋下氏は担っているのです。下世話な言葉で大衆に近づいて、「みなさんの困難の根源はあなたの気持ちを理解できない上品で知的な政治家・メディア・知識人の存在そのものにあるのです」と声高に言えば、新自由主義グローバリゼーションに乗る支配層を免罪できます。

 大衆と知識層とには確かに違いがあるし、対立する場合もあるでしょう。しかしそれは社会の主要な対立軸ではありません。大衆にも知識層にもそれぞれ左右の様々な立場があります。その左右の立場こそが問題です。日本でいえば、米帝国主義とそれに従属する独占資本によって構成される支配層とそれ以外の労働者階級を中心とする人民との間に基本的対立軸があります。それを隠して、大衆と知識層との間に対立を煽れば問題の本質が看過されます。橋下氏の場合はそれどころか大衆に支配層の思想を吹き込むという役割を果たしています。支配の直接的な代理人としての安倍自民党の他に、そのファンクラブを組織して敵対者を蹴散らしてくれる橋下氏のようなトリックスターがいることは、支配層にとってなんとありがたいことでしょうか。トランプの勝利を「負けたのは、知識層だ」と端的に打ち出せるこの才能こそ支配層の至宝であり、彼はまさに体制護持的なポピュリストです。維新の会が安倍政権の「補完勢力」だというのは、単に一応野党でありながら政策的に与党に同調している、ということだけではなく、このような独自の役割あってこそなのです。

 政治エスタブリッシュメントとしての政治家・メディア・知識人もまたポピュリズムの本質について、「大衆VS知識層」という線で捉えるという点では、橋下氏と同じです。橋下氏が大衆の立場、政治エスタブリッシュメントが知識層の立場に立つことから正反対のように見えます。しかし社会の基本的対立軸を見失っている(あるいは隠している)こと、そして何より支配層の立場にあることが共通です。主要メディアの主張は体制護持的な立場からのポピュリズム批判であるのに対して、橋下氏は「体制護持的なポピュリズム」の扇動者なのです。

 ポピュリズムについて考える場合、たとえば経済問題において「消費税増税反対」というのはポピュリズムか、あるいはそれをポピュリズムだと批判するのはどういう立場なのか、という問題があります。ここでは議論を省きますが、消費税増税反対は人民にとってはまったく正当な要求であり、この要求を批判するのは支配層の立場から行なわれています。ポピュリズムを、大衆に迎合することで結果的に大衆に不利益をもたらすものとするなら、消費税増税反対はポピュリズムの主張ではありません。しかしとにかく大衆に迎合するように見えることから、あえてそれをポピュリズムと呼ぶなら、そのような呼び方に同調しない意味でカッコ付きで「ポピュリズム」と表記することにします。本当はポピュリズムではないけれどもそのように見える、ということです。経済問題に関する事柄なので経済「ポピュリズム」と表現します。もっとも、「大衆迎合」と(正当に)「大衆の要求を実現すること」との区別が難しい場合はあります。しかし消費税増税反対については後者であることははっきりしており、これを大衆迎合と呼ぶのは人々の生活そのものを尊重しない立場であり、その根源は人間ならぬ資本の立場です。

 それに対して、性差別・人種差別の類は明確に反人権・反民主主義の政治ポピュリズムです。カギカッコはつけません。これへの批判は正当であり喫緊の課題です。政治ポピュリズムを見ると、それは大衆迎合という言葉が意味するような大衆に合わせるがごとき受動的姿勢ではなく、大衆の遅れた潜在意識の部分を刺激して顕在化させるようなきわめて能動的姿勢を取ります。人類が長年にわたって、民主主義社会を形成するのに必要な人権意識を育んできたのに対して、そこに必要なある一定の自己抑制に伴う窮屈さを厭うホンネを引き出して、タテマエへの反乱の爽快さを刺激し、それを発現した大衆に合わせる、というのがポピュリストと大衆との関係構造と思われます。ポピュリストは素のままの大衆に迎合するのではなく、自分が迎合したいような大衆を作り出す挑発を巧みにしたうえで、その大衆に迎合するのです。ホンネ引き出しの客観的条件はたとえば社会閉塞状況であり、主体的条件はたとえば人権教育の不足にあるでしょう。

 だから大衆というのは一方では社会進歩の流れの中にあって偉大な力を発揮しますが、他方では一定の悪い客観的・主体的条件の下では反動的役割を果たします。ポピュリズムを考える際には後者の方ばかりが目立ってしまいますが、前者の側面も忘れてはいけません。

 社会変革と人々の要求実現という文脈を合わせて考える中で、ポピュリズムとそれへの批判というものを、以上のように<経済「ポピュリズム」とそれへの批判>、<政治ポピュリズムとそれへの批判>に分ける必要性を感じました。そこで図式化して次のような一つの表をつくりました(ポピュリズムの分析については拙文「ハシズムにおける経済・政治・教育」参照)。

 

     ポピュリズム認識のための試論的表1

                           政治

経済
 

X政治ポピュリズム

(反人権・反民主主義)
 Y人権派からの政治ポピュリズム批判
A人々の経済要求(場合によっては経済ポピュリズム)   A+X人々の意識の現状  A+Y人々の意識の変革方向
 B支配層からの経済「ポピュリズム」批判  B+X支配層による新自由主義的独裁  B+Y体制内リベラリズム


 タテ方向には、「人々の経済要求」と「それへの支配層からの批判」を上下に重ねました。ヨコ方向には「政治ポピュリズム」と「それへの人権派からの批判」を左右に並べました。経済と政治のタテ・ヨコ両方向の交点に4つの立場が描けます。

 

1)人々は正当な経済要求を持ちつつ、政治ポピュリズムに流されやすい状況にありますA+X

2)私たちは経済要求実現に努めながら政治ポピュリズムを克服するような働きかけが必要ですA+Y

3)橋下徹氏の言動(ハシズム)に典型的に現れているように、反人権・反民主主義のバッシングで人気を博し、それをテコに人々の経済要求は「甘え」として切り捨てる(多くの人々がそれで「納得」する)ことで支配層の期待に応える立場がありますB+X。これは新自由主義的独裁といえます。ハシズムは新自由主義ファシズムと規定することができます(これについては拙文「大阪での新自由主義ファシズムの勝利」参照、「『経済』201512月号の感想」所収)。

4)たとえば消費税増税の必要性を説教しながら(経済「ポピュリズム」批判)、反人権反民主主義のポピュリズムに反対する立場もあります。このような「良識的」姿勢は体制内リベラル派ということができますB+Y

 

 トランプの勝利など最近の政治ポピュリズムの隆盛ぶりを見ると、「既成政治」への憤懣が頂点に達していることが分かります。そこでは体制内リベラリズムB+Yの危険な役割が浮かび上がってきます。消費税増税のような「痛み」を伴う施策が必要だという「良識」は、そういう政策が現実に人々の生活を破壊し経済の停滞を招く中では、人々の怒りの炎の対象となります。同時に唱えられる・人権や民主主義の立場からのポピュリズム批判も火に油を注ぐ結果となり、政治ポピュリズムはますます燃え上がるでしょう。明日のメシの心配がない知識層のPC(ポリティカル・コレクトネス、政治的正しさ)によるきれいごとは偽善だ、という上記の橋下劇場に絶好の舞台を提供することになります。新自由主義グローバリゼーション下におけるグローバル資本の行動とそれに追随する各国政府の経済政策という問題の根源が隠され、「大衆VS知識層」という誤った対立軸に誘導されるのです。高田太久吉氏の先の論稿から考えれば、日本の体制内リベラリストはクリントンの敗北を深刻に受け止める必要があります。政治ポピュリズム批判は経済の真の転換とセットでなければなりません。

 米国大統領選挙を上の表にあえて当てはめてみると、トランプに投票した人々はA+Xに近く、経済の根本的変革を望みながらも、政治的ポピュリズムに囚われるかその問題を軽視していたのでしょう。クリントンの政策はB+Yに近く、政治的ポピュリズムの危機に強く反対しつつも、経済の根本的変革を打ち出さなかったと言えましょう。トランプ政権の実現によってどうなるでしょうか。あれほど批判していたウォール街の代表を経済閣僚に迎えるのですから、支持者の期待した経済の根本的変革が達成されるとは到底言えず、政治的ポピュリズムに依存した支持構造を維持するだろうことも考え合わせれば、最悪のB+Xに落ち着く公算が大でしょう。トランプに期待した人々の経済の変革要求と、クリントンに期待した人々の政治的民主主義を擁護する姿勢との結合A+Yに米国の未来を託することが今回の大統領選挙に見る希望の萌芽と言えます。

 今日のポピュリズムは、新自由主義グローバリゼーション下における格差と貧困の蔓延による社会的閉塞状況を経済的土台として発生し、その真の原因が隠蔽される下で、ポピュリストの扇動によって人権と民主主義がスケープゴートとされ、それらを否定する政治ポピュリズムとして展開します。それを克服するには、新自由主義的経済政策の転換と人権・民主主義の真の定着を同時に追求する必要があります。その意味では、草の根からの要求実現運動がきわめて重要です。その運動は経済政策の転換をはっきりと意識し、粘り強い運動で身近な要求から一歩一歩実現していく民主的政治プロセスの経験を重ねていくことで、無思慮と短絡を深いところから克服していけます。人権と民主主義に基づいて、生活と労働を改善していける道筋が見通せるなら、人々が政治ポピュリズムに囚われることはなくなります。

 以上はポピュリズム認識への第一次接近と言えます。そこで図式的発想ですが、<経済「ポピュリズム」と政治ポピュリズム>があるなら、<経済ポピュリズムと政治「ポピュリズム」>もあるだろうと思い、第二次接近の表をつくってみました。

 たとえば消費税増税反対はポピュリズムではないのですが、そのように見える(というか、見えさせられている)という意味でそれを経済「ポピュリズム」と表現しました。それに対して本当の経済ポピュリズムも存在します。たとえば先述の安倍政権のように、実際にはグローバル資本優先で人民犠牲の経済政策を推進しているにもかかわらず、スローガンとしては生活と労働重視の政策を打ち出しているかのように見せる厚かましい詐術です。このスローガンは連日メディアに流されますから、中身が正反対でも言葉面で雰囲気だけは醸し出すことができるのです。仮にメディア上の記事や放送の内容としては、幾分かでも政策の正体が分かるようなものになっていたとしても、そこまで詳しく捉える人は少ないから、見出しとつかみさえ都合よいように飾れば政権の思うつぼなのです。またトランプの「政策」のように、労働者の不満を煽りそれに寄り添うように見せながら、実のところ、大企業減税や金融規制緩和のような新自由主義政策を貫徹する詐術もあります。

 このような経済政策上の詐術は質的に言って明確な経済ポピュリズムですが、微妙なものもあります。経済は質、つまり根本的な政策姿勢の問題だけでなく、量的な問題もあります。たとえば憲法25条の生存権の実現を掲げて社会保障の充実を図るのは正当な要求であり、それを重視するのは経済政策の質として正当ですが、現在何を優先しどこまで実現するのかという量的問題があります。そこで経済政策のバランスを崩すような過剰な要求実現を約束すれば経済ポピュリズムという非難を受けることになります。この点で経済におけるポピュリズムと「ポピュリズム」との区別には難しい問題もあります。しかし両者が存在することは意識しておく必要があります。

 先に反人権・反民主主義攻撃を政治ポピュリズムと規定しました。そこで政治「ポピュリズム」というものもあるのではないかと考えてみました。メディアなどでポピュリズムと非難されながら実はそうでないものです。そこで思い浮かんだのが、国会等議会が民意を反映しないことに抗議する集会・デモのような直接行動です。これに対して代議制民主主義・間接民主主義を破壊するポピュリズムであるという主張が一部に存在します。しかし日本(だけに限らないが)の民主主義の形式化・空洞化は深刻であり、それへの抗議は民主主義を破壊するどころか、それを実質化する必要不可欠な行動です。日本の議会制民主主義はまず小選挙区制などの非民主的な選挙制度によってあらかじめ民意を排除する制度となっています。それによって得られた虚構の多数派が議会を支配して内閣を構成しています。そのことへ多少なりとも配慮があるなら、政策決定と議会での審議とに際しては世論に十分に耳を傾けるべきです。ところが多数議席さえあれば、どんなに批判が多かろうと何をやってもいいというのが、安倍政権の姿勢であり、あえて独裁を正当化する橋下徹氏の主張です。両者の仲の良さは特筆に値し、日本の民主主義政治の深刻な危機を招いています。ごく一般論としても、間接民主主義・代議制民主主義は直接民主主義・民衆の直接行動によって補完される必要があるのですが、今日的状況ではそれをいくら強調しても足りません。民衆の政治的直接行動をポピュリズムと批判するのは誤りであるけれども、そのような外観を呈することから、それを政治「ポピュリズム」と表現します。

 というふうに、経済とは違って政治とポピュリズムの関係についてはクリアに割り切れると思ったのですが、やはり微妙な問題はありました。直接民主主義の代表的な形態である「国民投票」をどう考えるかです。これこそまさに一歩間違えば民主主義の自殺行為につながります。ヒトラーがこれを多用していました。近年ではたとえば名古屋市の河村市長が住民投票で議会を解散させました。支配層の直接的代表者でもはぐれもののポピュリストでもこれで独裁制に道を開く可能性があります。「国民投票」は究極のポピュリズムとなりうるのです。

 石田勇治氏はヒトラーについて「投票テーマは政府が決めていた。いわば『上からの』国民投票です。国民が賛成するであろうテーマを選び、十分な情報を与えず投票させた。狙いは、国民に支持された指導者だという印象を内外に広めること。国民投票が独裁の正当化に使われたのです」(「朝日」1010日付)と指摘しています。さらに石田氏はドイツからの教訓として4つのポイントを挙げています(同前)。

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 (1)有権者の求める「下からの国民投票」か、行政主導の「上からの国民投票」か(2)投票前に徹底した情報開示が行われるか(3)有権者に十分な検討時間と自由な発言空間が与えられるか(4)民意を反映する投票方式になっているか。

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 橋場弦氏によれば、古代アテネの直接民主制では「アテネ市民は日常的に密な政治参加をすることで、政治に熟達してい」たのに対して「現代は間接的な代表民主制が前提で、実質的な政治参加の機会が何年かに一度の投票しかない。市民の政治関与が薄い」という問題点があります。橋場氏は古代ギリシャから学んで「学習機会を増やすこと」を勧め、日本の現状に即して「政治に参加する機会を、日常生活の中に埋め込むことです。学校のPTAや生徒会、マンションの自治会……。身体性を伴った政治参加の場が『民主政の学校』になるはずです」(同前)と指摘します。

 以上を敷衍すれば、間接民主主義・代議制民主主義を補完すべき直接民主主義・民衆の直接行動は諸刃の剣であって、取り扱いを誤れば最悪の場合、独裁に道を開きますが、逆に慎重さの埋め込まれた制度化と日常的政治参加による学習機会の増加とを実現すれば民主主義の実質化・豊富化に資することになります。

 ここまで考えて、人々の直接行動など直接民主主義をポピュリズムと呼ぶのに対して、そうではないのであえてカッコ付きで政治「ポピュリズム」と表現します。ただしそれが本物のポピュリズムに転化する可能性はあると留保しつつ。こうして第一次接近での<経済「ポピュリズム」と政治ポピュリズム>に新たに<経済ポピュリズムと政治「ポピュリズム」>を加えて第二次接近の表を提出します。

 

     ポピュリズム認識のための試論的表2

             政治
 経済
 X)政治「ポピュリズム」(民主主義の深化) X*)政治ポピュリズム(反人権・反民主主義)  Y)政治「ポピュリズム」批判(民主主義の深化の拒否)   Y*)政治ポピュリズム批判(反人権・反民主主義の批判)
A)経済「ポピュリズム」(人々の経済要求)   A+X)人々の意識の変革方向2  A+X*)人々の意識の現状  A+Y  A+Y*)人々の意識の変革方向1
 A*)経済ポピュリズム  A*+X)トランプ的状況の一面  A*+X*)安倍・トランプ的状況の真相  A*+Y)安倍的状況の一面  A*+Y*
 B)経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)  B+X)体制内リベラル2  B+X*)支配層による新自由主義的独裁(ハシズム等)  B+Y)体制内リベラル3  B+Y*)体制内リベラル1
 B*)経済ポピュリズム批判  B*+X)人々の意識の変革方向4  B*+X*  B*+Y  B*+Y*)人々の意識の変革方向3


 先の表1では、タテ・ヨコそれぞれ2項目なので、交差させれば2×24つの場に区分されるのに対して、表2では4×416の場に区分されます。表14つの場はそれぞれ一定の立場ないし傾向を表現しているのに対して、表216の場では、一つの立場ないし傾向がいくつかの場によって角度を変えて表現されたり、一つの立場ないし傾向の中のいくらかの差異がいくつかの場に分けて表現されたりします。新たな基本的項目としての政治「ポピュリズム」については、間接民主主義を直接民主主義で補完して民主主義の内容的充実を図るという意味で、民主主義の深化という補助表現を採用しました。したがって政治「ポピュリズム」批判は民主主義の深化の拒否ということになります。

 表2をマトリクス(行列)として見れば、人々の要求実現・社会変革の視点からの評価として、A)(B*)行および(X)(Y*)列は正、(A*)(B)行および(X*)(Y)列は負となります。――なお16場のおのおのは(行+列)の記号で表現され、その内容を言葉で説明してありますが、あまり意味のないと思われる場については記号のみ表記してあります。――したがって全16場の四隅に(正+正)が、中央の4場に(負+負)が並びます。

 (正+正)の4場は社会進歩の立場から「人々の意識の変革方向」という一つのものをそれぞれの角度から表しています。中でも(A+Y*)すなわち経済「ポピュリズム」(人々の経済要求)と政治ポピュリズム批判(反人権・反民主主義の批判)とを合わせた「人々の意識の変革方向1」が基本性格を表しています。その他(A+X)(B*+Y*)(B*+X)すなわち「人々の意識の変革方向2」「同3」「同4」を合わせて見れば、政治「ポピュリズム」(民主主義の深化)と経済ポピュリズム批判をも含めて表現しています。

 A*)行にはアベノミクスやトランプなどの経済ポピュリズムの諸相が並んでいます。核心は(A*+X*)すなわち経済ポピュリズムと政治ポピュリズム(反人権・反民主主義)との合作であり、日米両政権の最悪ぶりを表しています。その左隣の(A*+X)はトランプが体制批判の直接民主主義的要素を振りかざして登場してきたことを勘案して「トランプ的状況の一面」としましたが、もちろん本当の意味で民主主義の深化になっているわけではありません。(A*+Y)は、民主主義の深化を一切拒否して多数議席があれば何でもできるという安倍政権の性格を示しています。

 安倍・トランプの核心を示すA*+X*)のすぐ下の(B+X*)は経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)と政治ポピュリズム(反人権・反民主主義)との結合であり、いわば新自由主義的独裁と言え、ハシズムがその典型です。しかし安倍・トランプの本質もこれであり、その表面を経済ポピュリズムで粉飾しているにすぎません。このハシズムに代表される(B+X*)を含む(B)行は、経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)であり、体制派の核心を表しています。

政治ポピュリズムと結合した(B+X*)はこの行ならびに全体でも最悪の場ですが、その他はそれぞれに「良識面(づら)」をして並んでいるものの、必ずしも社会変革にとって良好とは言い難い場です。それらは一括して体制内リベラルと呼び、その諸側面ないしは差異ある立場を3つに表しています。(B+Y*)の「体制内リベラル1」は経済「ポピュリズム」批判(人々の経済要求の拒否)と政治ポピュリズム批判(反人権・反民主主義の批判)とを結合しており、その生真面目さにもかかわらず、今日的状況下では危険な役割に陥りやすいことは、1におけるB+Yで説明したとおりです。

 B+X)「体制内リベラル2」は経済「ポピュリズム」批判と政治「ポピュリズム」(民主主義の深化)とを合わせており、「体制内リベラル1」の別側面ないしはニュアンスの違う傾向を表しています。(B+Y)「体制内リベラル3」は民主主義の深化に反対する点でより体制派色の強い傾向であり、「同1」「同2」より保守的で、ポピュリストをより挑発するという意味では危険性が高いと言えます。

 以上、こまごまと<ポピュリズムVSポピュリズム批判>の諸相を見てきました。何だかオタクじみてきたので、改めてこういう議論の意義を述べます。世上では、ポピュリズムとその批判が極めて大ざっぱに行なわれており、ポピュリズムの進撃が一方では無思慮で短絡的な拍手を持って、他方では上から目線の嘆きを持って迎えられています。しかし肝心なのは、ポピュリズムと一括して言われているものの内容を様々に分析的に捉え、人々の要求実現と社会変革という視点からそれらを組み立て直してみることです。今回の米国大統領選挙の表面的なバカバカしさや危険性の底にも、前掲・高田太久吉論文は政治変革の可能性を看取したのですが、その観点はポピュリズム評価にも生かすことができるのです。

 以上の議論はわずかな思いつきからの暴走的展開の様相を呈しており、足下を見るとポピュリズムの発生や展開構造についての検討がもっと必要でしょう。新自由主義グローバリゼーションが人々の生活と労働を破壊し、格差と貧困、社会的閉塞感や混乱の中で世論の反乱がおこっているという点ではおおかた異論がないところでしょう。拙文では、そうした経済的土台において、人々の正当な要求と共にポピュリズムも発生し、政治的・イデオロギー的に展開していくと見てきました。しかしそうした世論の変化が主にどの階層を中心に生じているのか、あるいはそうした変化は経済状況の直接的反映なのか、それ以外の社会的・文化的・イデオロギー的要素がむしろ中心的役割を果たしているのか、ということも問題です。

 新自由主義の被害がまず集中するのは、低所得層ですが、トランプ・橋下といったポピュリストの支持者はむしろ下層よりも中層や上層に多いという見方があります(たとえば小熊英二「朝日」論壇時評、1124日付と1222日付、渡部恒雄「朝日」耕論、1117日付)。これについて井手英策氏は「中の下層」が問題だとしています(「あすを探る 財政・経済」「中の下の反乱、食い止めよ」、「朝日」1222日付)。

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 格差の拡大、所得減に苦しみながらも、自分は「下流ではない、中流だ」と信じる意識。そしてこの「中の下層」がいま、低所得層への反発を鋭く強めながら、内外で政治のキャスティングボートを握りつつある。

 …中略…

 日本では、非正規雇用の割合が4割を超え、平均所得以下の人たちが6割を占める。格差是正を訴えるリベラルの戦略は一見正しく映る。だが、多くの低所得層が「自分は下流ではない」と認識していたらどうか。生活不安に怯(おび)えているのに政治的に取り残された中の下層は、格差是正の訴えを聞けば聞くほど、低所得層への反発を強めるのではないか。

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 これは分断とバッシングの原因をそれなりに捉えています。小熊英二氏も同様の認識を示しつつ、そうした経済的社会的構造変化がもたらすイデオロギーや人権意識にこそポピュリズムの問題があると見ています(「朝日」1222日付)。

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 先月も言及したが、大阪市長だった橋下徹の支持者は、むしろ管理職や正社員が多い。低所得の非正規労働者に橋下支持が多いというのは俗説にすぎない。

 米大統領選でも、トランプ票は中以上の所得層に多い。つまり低所得層(米国ならマイノリティー、西欧なら移民、日本なら「非正規」が多い部分)は右派ポピュリズムの攻撃対象であって、支持者は少ない。支持者は、低所得層の増大に危機感を抱く中間層に多いのだ。

 では、何が中間層を右派ポピュリズムに走らせるのか。それは、旧来の生活様式を維持できなくなる恐怖である。それが「昔ながらの自国のアイデンティティー」を防衛する志向をもたらすのだ。

 …中略…

 日本でも社会の変化とともに、右派的な傾向が生まれている。だが日本では、移民や中絶の問題は大きくない。その代わりに、歴史認識や夫婦別姓の問題が、「古き良き生活」と結びついた国家アイデンティティーの象徴となっている。

 …中略…

統計上は「中の上」の収入でも、「昭和の生活」を維持するのは苦しいのだ。

 …中略…

今の日本は「昭和の社会構造」を維持するために疲れ切っているのだ。

 …中略…

 過去への愛着は理解できる。だが人権侵害が指摘される制度を使ってまで「日本の風景」を維持するべきだろうか。同じく、人間を破壊する長時間労働で「昭和の社会」を維持するべきだろうか。それは他者と自分自身の人権を侵害し、差別と憎悪の連鎖を招きかねない。

 右派ポピュリズムの支持者は誰か。それは古い様式に固執し、その維持のためには人権など二の次と考える人である。他者と自分の人権を尊重し、変化を受け入れること。それによってこそ、健全な社会と健全な経済が創られるはずだ。

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 吉田徹氏も「反グローバリズムは必ずしも、経済や雇用環境だけを基準とするものではない」として、イギリスのEU離脱の国民投票において「残留派と離脱派を分け隔てたのは『社会的リベラリズム』に対する態度であ」り、米大統領選挙でクリントン支持とトランプ支持を「隔て分けるのは社会的グローバリズム・文化的リベラリズムを支持するか否かにある」と指摘しています(「『グローバリズムの敗者』はなぜ生まれ続けるのか」、『世界』1月号所収63ページ)。吉田氏は戦後世界の資本主義の展開を跡付けつつ「現下にみられるのは資本主義と民主主義の相克において、資本主義の論理が生活世界を侵食し尽くしている光景だ」(62ページ)という妥当な認識を示しています。そしてその矛盾の一つの焦点として「没落しつつある中間層」を取り出して、「中間層によって民主主義が支えられてきたのであれば、中間層の没落はそのままデモクラシーの後退を意味するだろう。…中略…『没落する中間層』に代わることのできる『新しい中間層』の台頭、そのために必要な戦後の社会契約の更新が待たれている」と結論づけています。残念ながら竜頭蛇尾な印象を免れません。「リベラルな文化に反感を持つ権威主義的価値観を持つ高齢者層と、経済的保護を求める労働者層という、異質ではあるが『グローバリズムの敗者』という点で共通する階層間連合が完成しつつある。その背景には、支持基盤と階層間連合の組み替えをした保革既成政党の変容があった」(65ページ)という指摘も認識のあり方が分断的であり、新自由主義グローバリゼーションへの民主的規制を含む経済改革によって包括的に解決しようという方向を予め退ける姿勢に見えます。

 以上の諸論者は、新自由主義グローバリゼーション下の社会構造の変動とそこでの中間層の問題などに対するそれぞれの鋭い認識を示しながらも、解決策としては必ずしも十分な説得力を持つようには見えません。社会構造と生活基盤の危機的変動をそれなりに捉えながらも、焦点を文化・イデオロギー・人権意識に持ってくることで経済そのもの変革が後景に退くように思えます。リベラル派の認識としては、グローバリズムへの反乱が反人権・反民主主義の声を含むことで、そこに意識が集中してしまっているのでしょうか。その中に人民の正当な要求が含まれており、経済の変革でそれを解決するという基本的方向をもっと前面に提起する必要があります。中間層も低所得層も含む問題解決を追求しなければなりません。

 ということで、秀逸な諸論稿の検討を通じても、単純粗雑で頑迷かもしれない拙文の趣旨を基本的には維持しようと考えています。

 ところでやはりリベラル派の経済学者である伊東光晴氏の「問題は英国ではなくEUだ 大衆は政治に変化を求めている」(『世界』1月号所収)を読むと、拙表で「体制内リベラル派」とした傾向には当てはまらないことがよく分かります。伊東氏はクリントンの大統領選挙での「変革拒否」(132ページ)を批判し、英国労働者をしかりつけるようなことはせず、EU離脱を非難する経済学者の論稿(日本のメディアでは支配的見解)を冷静に批判しています。もちろん私にこの問題についての定見はないので、何がいいか悪いかを言える立場ではありませんが…。伊東氏のこの論稿では、経済理論への幅広い理解と各国制度の基本的知識、現状分析のつかみどころ、等々、教えられるところが多くあります。たとえば移民問題を通して各国の福祉制度の違いが鮮やかに説明されているし、西ドイツの戦後の「新自由主義」(今日の新自由主義とは違うだろう)「社会的市場経済」といった基本的理論・概念も簡潔に説明されています。ポピュリズムの検討で読んだ論文ですが、理論・歴史・制度知識・現状分析などが一体となった理解が経済学には不可欠だということを改めて感じさせるもので、明快さの中に碩学の存在感が感じられました。

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