月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(202年月7号~月号)。 |
2021年7月号
SDGsをめぐるせめぎ合い
特集「SDGsが問うもの 変革への課題を考える」には以下の論稿が並んでいます。
*真嶋麻子氏の「SDGsとは何か 変革のビジョンと課題」
*小栗崇資氏の「企業・経済の変革とSDGs」
*長田華子氏の「グローバル・サプライチェーンとディーセント・ワーク 『誰一人取り残さない』持続可能な社会の実現に向けて」
*関根佳恵氏の「食料危機の打開と持続可能な農林漁業への転換」
*上園昌武氏の「環境危機とSDGs 大量生産・消費・廃棄社会の転換」
*太田和宏氏の「SDGsと開発イデオロギー 途上国の視点から」
また特集外ですが関連する論稿として二つがあります。
*申惠丰さんに聞く「『ビジネスと人権』をめぐる国際社会の展開 国際人権の視点から」
*中野瑞彦氏の「日本経済を読み解くキーワード(13) ESG投資」
多くの論稿が斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)に言及しています。そこではSDGsは「大衆のアヘン」とまで批判されています。斎藤氏は脱経済成長コミュニズムを掲げて、資本主義の克服を直接的課題に設定しているので、資本主義を前提にしたSDGsに対してそのように評価します。斎藤氏の最も重視する環境問題についてSDGsは役立たず、むしろ解決を遠ざけ、危機から目を背けさせるだけだというわけです。それに対して本誌特集の諸論稿はすべて社会主義的変革を明示的な課題とはしていないので、SDGsの全否定ではなく何らかの形での肯定を含んでいます。もちろん論者によって、その肯定の側面と否定の側面との割合は様々であり、比較するとたとえば真嶋氏や小栗氏はより肯定的であり、太田氏はより否定的であると言えます。
SDGsを提起した「我々の世界を変革する:持続可能な開発のため2030 アジェンダ」をざっと読んだ印象は美辞麗句の羅列です。文字通りに受け止めれば、良いことが書いてある、理想だ、実現すればいい、となりますが、その通り行くわけがなかろうという気がします。
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このようにSDGsは社会的課題に対し、企業活動や市場原理を通じて取り組む姿勢を明瞭に打ち出している。それは1980年代以降の新自由主義路線に沿うものでもあると同時に、不況の深刻化した世界経済を再生させる起爆剤として、諸課題への取り組みが位置づけられたことを意味する。小さな政府、行政の縮小を世界規模で追求してきたため、財政的にも技術的にも民間に依存せざるをえない構造が浸透してきた結果でもある。
太田論文、73ページ
SDGsは諸問題の是正を掲げながらも、その根本原因やそれらを引き起こす構造的背景、行動の責任主体については明確にせず、それぞれの自主性と倫理的動機に任せるものとなっている。言説闘争の過程で、不平等問題はじめ従来になかった様々な分野の課題を項目化することで一定の成果をみつつも、一方では既得権益や既存の構造問題には切り込まず、様々な主体に良心的行動を期待するものとして定式化されたといえる。
同、76ページ
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ナイーヴにSDGsの文言だけを信じることができず、新自由主義路線で世界が動いてきたことを思えば、以上は当然の批判です。そもそもSDGsの17目標の最初に掲げられた貧困の根絶が資本主義でできるわけがないということからすれば、その臆面もない偽善性について、斎藤氏がコミュニズムを前面に出して全否定するのも分からなくはないという気がします。また「疑義や批判はSDGsではなくSDGsウォッシュにたいしてこそ向けられなければならない。特に日本においては、政府の施策や経団連の方針が歪んだSDGs像を作り出しており、このままでは日本のSDGsはSDGsウォッシュへと変質していく危険がある」(小栗論文、39ページ)という、斎藤氏らへの一見正当な批判にしても、疑問があります。SDGsウォッシュというのはSDGsの本質の一端が顕現したものであり、日本政府や経団連の方針はその典型例であり、それを批判するのは当然にしても、SDGsそのものへの批判の必要性もまた依然として残るのではないでしょうか。悪霊(例)を退治するだけでなく、それを生み出す基も検討することが必要です。
小栗論文でも、平和の目標17に核兵器廃絶が示されず、エネルギーの目標7で原発に触れられていないことが批判され、SDGsが妥協の産物であることが指摘されています(31ページ)。特に目標17においては、核抑止力と軍事同盟の枠内の「平和」しか語れないSDGsの空疎性が際立っており、軍拡に無批判で、軍縮によってアジェンダ実現の財源を生み出すという当たり前の主張ができないことがもっと批判されるべきです。
しかし斎藤氏のような全否定にも問題があります。『人新世の「資本論」』へのネット上の書評に、「共産主義やマルクス主義が、今でもFxxkよりも禁忌な言葉である場所が存在するこの世界で、著者のいう『脱成長コミュニズム』という統一的な旗の下に万国の市民が結集できると思うのはあまりに夢想的なのではないか」とか「グローバル資本主義に抗うために、コミュニズムの旗を掲げるのとSDGsが骨抜きされないように監視しながら本来の意図に沿って推進するのと、どちらがより現実的な選択かは言うまでもないだろう」という現実主義的な批判があります。この言い方はSDGsを肯定的に評価し過ぎているように見えますが、斎藤氏の主張が政治的・イデオロギー的にはかなり非現実的であるという点は当たっているように思えます。
斎藤氏は、再分配や財政出動による経済成長のような政策転換路線を批判し、もう一歩進んで社会システムそのものを転換すべきだとして、コモンに注目して生産の場における変革の可能性を追求しています。そのために国家の力を前提にしながらも、生産のコモン化として、協同組合や「<市民>営化」を例に挙げています。それらを実現する政治的民主主義としてミュニシパリズム(国境を超えた革新自治体のネットワーク)や国政レベルでの「市民議会」など直接民主主義的要素を加えた実践を紹介しています。さらに3.5%の人々が非暴力で本気で立ち上がると社会が大きく変わる、という政治学者の説にも言及しています。
デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義 その歴史的展開と現在』(渡辺治監訳、作品社、2007年)の第7章「自由の展望」は新自由主義時代における多種多様な抵抗運動を分析しています。ケインズ主義時代の「拡大再生産にもとづく蓄積」下では、労働者階級の賃金闘争などが運動の中心であり統一的性格を持っていましたが、新自由主義時代の「略奪による蓄積」下では地理的不均等発展もあり、略奪の様々なあり方に対して対抗運動の主体もやり方もバラバラな性格を持ち混沌としています。斎藤氏が見ている今日の変革の様々な諸運動もそのようなものでしょう。それらはそれぞれ略奪への抵抗として確固たる存在感がありますが、獲得目標もイデオロギー的立場も様々であり、そこに「脱経済成長コミュニズム」を統一の旗とすることは不可能でしょう。3.5%の立ち上がりを契機に社会全体の変革を、というよりも上記の書評の言うように、曲がりなりにも世界全体の変革目標であるSDGsを足掛かりに、広範な勢力が漸進的に進む方が、現実的だと言えます。
脱経済成長コミュニズムについて全面的に支持できるかどうかは措きますが、それが環境問題を基軸にした変革思想として魅力的であり、マルクス主義の一つの発展形態として検討に値するものであることは確かでしょう。ただしそれはまだ現実的変革戦略としては熟しておらず、新自由主義的現実の中からその矛盾の発展として主体的・客観的条件を捉えているようには見えません。現状では、一部の先進分子に頼る空想的啓蒙主義の段階に属しているように見えます(「我々はこれまで資本主義下で悪行を積んできた。今後はあの人たちを見習ってコミュニズム目指して善行を重ねよう」と言っているかのよう)。それでは下手をすると「科学から空想への社会主義の後退」となってしまいます。対して、日本政府や経団連のSDGsウォッシュに典型的に見られるように、グローバル資本やその番頭たるブルジョア政権にとって、SDGsは資本主義のもたらす深刻な諸問題への取り組みを偽装する「大衆のアヘン」になりうるものであり、それが喧伝されるのはマヌーバー的啓蒙主義の所作とでも言えましょう。
先に、貧困の根絶などという資本主義で不可能なことを掲げるSDGsの欺瞞性と言いましたが、逆に言えば、それをあえて掲げさせるに至ったことは世界人民の闘争の成果とも言えます。それは一つの深刻な矛盾であり、その矛盾を後退的に「解決」するのか、前進的に解決するのが問われます。公約通りやってもらいましょう、できない、ましてやジャマする勢力は退場してもらいましょう、と私たちは啖呵切ればいいのです。
SDGsは国連で策定された、国際社会の一致点です。悪く言えば妥協の産物です。だから一方ではグローバル資本・新自由主義の許容する範囲内だと言えるし、他方では「オープン作業部会では、女性、子どもと若者、先住民、NGO、地方自治体、産業界、労働者・労働組合、科学者、農業従事者、コミュニティ、ボランティアと財団、移民とその家族、高齢者と障がい者といった多様な利害関係者が発言したこともまた、SDGs交渉の特色であった」(真嶋論文、18ページ)というように、人民の諸運動を反映してもいます。
SDGsは17の目標集です。目標は目指すべきものであり、確定したものです。ならば目標集も同じはずですが、そこには総花性と相互矛盾の可能性とが見られます(真嶋論文、22ページ)。それはSDGsそのものが確固たる目標集ではなく、矛盾の塊であることを示唆しています。むしろ矛盾であること自体にSDGsの本質があり、一方ではそれ自身を超えて発展する可能性を秘めているし、他方では逆に人類的退行を隠すイチジクの葉として作用する可能性もあります。SDGsの17目標などの文言そのものは尊重しつつも、それを美化も排撃も棚上げもせず、その制定過程における闘争、制定された文言に現れている矛盾、その今後の利用をめぐる対決方向、つまり過去・現在・未来に渡るSDGs自身の矛盾の自己運動として捉えることが必要でしょう。そういう言い方が悪しきヘーゲル主義だとすれば、資本主義から社会主義への世界史的転換過程における、グローバル資本と労働者階級を始めとする人民との闘争過程の一表現として、SDGsの矛盾を捉えることができます。関根論文はSDGsの両義性・根本的矛盾・過渡的性格を以下のように表現しています。
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確かに、各国や企業、市民団体、農民団体、個人等の主体がSDGsの個別の目標に部分的に取り組むだけでは、持続可能な社会への転換は達成できないだろう。
しかし、持続可能な未来社会を展望するためには、SDGsの達成を通過点として、既存の価値体系(パラダイム)をのり越える必要がある。SDGsへの取り組みは、結果として新自由主義だけでなく、不可避的に資本主義そのものを変革する可能性がある。SDGsはそのためのツールの一つであり、また絶えず変化する「闘争の場」でもある。
53ページ
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日本政府と経団連に典型的に見られるように、グローバル資本・新自由主義勢力はSDGsをSDGsウォッシュにして、諸課題への取り組みを偽装するマヌーバー的啓蒙主義の道具にします。本来、資本主義的生産関係そのものの止揚、ないしは少なくともそれへの規制なくして、貧困の根絶を始めとするSDGsの文言を実現することはできませんが、生産関係に手を付けず、デジタル化などの生産力発展によってSociety5.0とかのバラ色の未来が実現できるかのように装う生産力主義がそこにはあります。
本誌特集の諸論考は、直接的課題として社会主義を明示していなくても、社会主義的生産関係への変革の立場からSDGsをめぐる対抗を見ているだろうと思います。今日せっかく世界合意として存在しているSDGsを全否定するのでなく(マヌーバー的啓蒙主義に空想的啓蒙主義を対置するのでなく)、それを一つの重要な足掛かりとして社会主義的変革の展望を描けるかが問題です。その中心的課題は、眼前の(新自由主義的)資本主義経済の現実を全体として捉え、その中に主体的・客観的変革諸条件を見出していくことでしょう。ただしその前に迂遠ですが、社会主義的変革像の転換を振り返ってみたいと思います。
社会主義革命のイメージとして圧倒的なものは何と言ってもロシア革命でしょう。それは強力革命での権力奪取による上からの政治的社会的変革です。それに対して、20世紀の発達した資本主義諸国では強力革命ではなく、議会制民主主義を前提に、普通選挙による多数者革命の路線となりました。ただし権力奪取による上からの政治的変革という発想は共通であったように思います。
ロシア革命によって成立したソ連邦は変質の末、崩壊し、発達した資本主義諸国では一部に一時的な選挙勝利の経験はあったものの、社会主義を目指す政権の成立は実現できませんでした。ソ連は生産手段の国有化などをテコに資本主義経済の解体はしたものの、それに代わる人民が(政治的にも経済的にも)主人公となった民主的な社会主義社会を建設することには失敗しました。発達した資本主義諸国では、資本主義経済の強靭さと支配層の巧みな政治支配の壁の前に、人民の中に社会主義的変革支持の多数派を形成することに失敗しました。いずれでも市場経済の生命力の強さと上からの社会変革路線の誤りとが明らかとなり、市場経済を通じた、下からの社会変革の漸進的積み重ねによる社会主義的変革が残された道とされたように思います。いわゆるマルクス・レーニン主義においては、政治革命による権力奪取が決定的とされました。確かにそれは極めて重要であり、生産手段の社会化にとっても画期となりますが、社会変革の長い過程という視角から見ると、権力奪取の前と後にも共通して、下からの社会変革の積み重ねこそが生産関係の実質的な変革に重要であり、そこに変革主体形成も並行して実現していくと言えます。問題はそれが実現可能かということであり、人類史の最前線を切り開く未知の領域にどう挑むかということです。
ここにSDGsをめぐる対抗と社会主義的変革のあり方をめぐる反省とが重なります。SDGsをめぐって、客観的には1%対99%の対立があり、コミュニストの立場からは、後者を社会主義的変革に導くことが求められます。社会主義的変革のあり方への反省からは、市場経済を通じた下からの社会変革が政治革命による権力奪取の前後を通じて求められます。この漸進的な社会主義的変革像の中にSDGsの実現を位置づけることが可能となるでしょう(真嶋論文や小栗論文が言うように、SDGsに包括性や抜本的社会変革性を認めるならば)。
ロシア革命型路線(ないしは強力革命ではなくても、上からの生産手段の急速な社会化の路線)を採らなければ、資本主義経済を一気に解体することはできず、政治的にはブルジョア的旧支配層の解体もできず、人民の中に依然として資本主義イデオロギーが支配的に残存するでしょう。そうした困難の中で市場経済を通じた社会主義的変革をどう実現するのか。政治とイデオロギーの問題は重大ですが、とりあえずここでは措きます。資本主義経済を一気に解体せず、漸次的に社会主義経済に移行するとすれば、資本主義経済の支配的形態である資本主義企業、中でも株式会社を変えていくという道が現実的です。それは可能か、その理論的根拠は何か…。そこでSDGsと社会変革を考える前に、株式会社と社会主義的変革との関係を考えます。
それを正面から論じたのが、本誌2016年12月号所収の小栗崇資氏の「株式会社とは何か マルクスの『所有と機能の分離論』から」です(以下では、本号の「小栗論文」と区別して「2016小栗論文」とする。なおそれについては、同号所収の丸山惠也氏の「企業の不正事件を告発し、企業の社会的責任を問う」と併せて拙文「『経済』2016年12月号の感想」でかなりしつこく検討したが、今回はさらっと流す)。
小栗氏の株式会社本質論によれば、株式会社において株主は生産から分離して外部にあり、生産は機能資本家たる管理人(経営者)に担われますが、それも労働者に代わられます。こうして「所有と機能の分離」(2016小栗論文、80ページ)が行なわれ、「私的所有の内実が失われ否定され」(同前、81ページ)ます。すると「最高に発展した資本の形態である株式会社は、社会的生産を担う存在となっており(生産の社会化)、そこで働く生産者(労働者)たちは社会的労働の担い手となっている(労働の社会化)。 …中略… そこに企業の社会性・社会的責任を問う可能性と客観的根拠があるといわねばならない」(同前、81・82ページ)というように、企業の社会的責任が深く捉えられます。ちなみに今日、企業の社会的責任という場合、社会的再生産における責任だけでなく、企業内においてもディーセント・ワークを実現するという責任も含んでいます。やみくもな強搾取は認められません。社会的責任と言っても、そこには企業外との関係だけでなく企業内での責任も含みます。つまり企業そのものが私的なものではなく社会的なものだということです。そこでのキー概念は以下のように、私的所有の内実の空洞化から民主的管理への移行ということかもしれません。
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かつての社会主義論のように、私的所有制度を否定し、それを国有や社会主義的所有等の所有形態を変えることが課題となるのではない。株式会社を社会的・公共的存在として機能させることが脱資本主義への通過点となるのであり、そのための管理が重要となる。管理とは、経営管理や企業統治のあり方にとどまらず、株式会社をめぐる国内外の法や会計等による株式会社の民主的規制とそのための制度構築の全般を含む。市民社会がこの社会的生産体を民主的に管理し、株式会社の社会的機能を発揮させることが資本主義の自己否定性のたどり着かざるをえない究極の課題となる。
こうした株式会社の構造分析に立てば、「株式会社は誰のものか」の答えは株主のものでも経営者のものでもなく、人間が長い矛盾の過程をへて構築しようとしている「社会的・公共的なもの」であるということができよう。 同前、82ページ
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資本家の「所有に基づく支配」が株式会社の基礎をなすという通説的観点からは「私的所有を否定することが資本主義の変革となる」(同前、83ページ)わけです。しかし小栗氏の見方では、マルクスによれば株式会社において私的所有自体が「所有と機能の分離」の中で変容し自己否定されるので、その見地からは「株式会社における社会的生産を実体化(私的所有を社会的所有に転換)させることが変革の課題となる。その転換は生産者(労働者)たちの管理によって可能となる」(同前)ということになります。したがって「会社は資本であり敵」と見るような従来の運動の見方(同前、85ページ)は捨てられるべきであり、「資本主義の資本性を抑えて眠り込ませ、脱資本主義へと押し進めることが変革とな」り「政治的転換を基軸としつつ、様々な規制の強化、法・制度の改革、労働運動や市民社会の運動などの広範で長期にわたるトータルな展開となるであろう」(同前)という漸進的改革が主張されます。通念から見れば大胆な問題提起だと言えます。
小栗氏の株式会社本質論は、「所有と機能の分離」論から発しているという意味では、資本主義の現状から出発しています。しかしその裏にある問題意識としては、社会主義的変革の立場から、つまり未来から照射して、資本主義経済における株式会社の本質を理論的に抽象し、そこに社会主義につなげる可能性を抽出したものだとも言えます。そこにはおのずと理論的抽象の持つ意義と限度があります。新自由主義下の現実の株式会社は資本主義的私的所有の暴力に満ちています。金融化の下での驚くべき格差拡大は所有関係によるものです。所有と機能の分離は理論的抽象が想定するようにきれいに進んでいるわけではありませんし、機能と言ってもそれは歴史貫通的意味での使用価値の体系の社会的再生産だけを担うものではなく、剰余価値追求の機能を含むと考えられます。しかしそれらはひとまず措いて、次の課題に進みましょう。――今日、企業の社会的責任を担い、将来は社会主義経済の主体となるような株式会社が実現するかどうか、その一つの試金石として、SDGsを真に実現する方向に向かうかどうか――。これは株式会社が剰余価値追求という資本原理を縮小しつつ克服するところまで進めるかという一見不可能な課題を意味しています。
その難問はもはや抽象的思考で解決されるものではなく、具体的課題に即して考えたほうがよいでしょう。そこでSDGsへの取り組みが参照されます。たとえばEU人権デューデリジェンス法案「企業におけるデューデリジェンスと説明責任」が2021年中にはEU法(指令)として制定される段階に入っています。「EU法の制定後に各国での法制化が義務づけられることになれば、企業における人権の遵守は企業の自発性に依拠する段階から一挙に強制的な適用へと進むことになる。国連での国際条約化にも重要な影響を与え、SDGs実現への大きな支えとなると考えられ」ます(小栗論文、33ページ)。この法案は人権だけでなく環境のデューデリジェンスも企業に義務付けており、EUでは「企業正義」と「環境正義」を一体化して推進する局面に入りつつあります(同前)。
また非財務報告についてのEU指令(2014年)では、「環境、社会、授業員、人権尊重、腐敗防止に関する情報、および取締役会の多様性に関する情報の開示」(同前)を企業に要請しています。「こうしたESG情報の開示は、企業の環境、社会、ガバナンスに対する姿勢を市場・社会に示すものであり、開示によって姿勢の転換を企業に促す効果があるとされてい」ます(同34ページ)。
小栗論文は、EUの先進的取り組みも参考に、SDGsへの企業の取り組みをこう示しています(同37・38ページ)。――「SDGs推進の基盤となる法・規制」を土台として、企業は自社に即したSDGsの目標・ターゲットを設定することが求められ、その上でSDGsの企業戦略化に取り組む――。
SDGsを基軸とした社会進歩の戦略の実現性について判断する知見を私は持ち合わせていませんが、たとえば長野論文が明らかにしたグローバル・サプライチェーンにおける女性労働の過酷な現実一つとっても、どのような実効性ある規制が可能か、大変に難しいものがあります。そうした厳しい現実を睨みながら、一つのありうる戦略として注視していきたいと思います。
なお、資本への規制に関連して、経済と人権・法の関係を考えることが重要です。「インド出身の経済学者アマルティア・センによる、倫理的要求が法的権利になるプロセスの分析」によれば、「そこには認知の道、社会運動の道、立法化の道という三つの道があるという。立法化の道は、文字通り人権を法制化することで、司法がその強制力によって『人権の砦(とりで)』の役を果たすと見」ます(斎藤文男『多数決は民主主義のルールか?』/花伝社、2021年/に対する保阪正康氏の書評、「朝日」6月19日付)。人々の倫理的要求がどのようにして、資本を規制する法的・政治的効力を発揮するか、「経済権力」をいかに民主的コントロールに服させることができるか。そこには漸進的な社会主義的変革の一つのカギがあるようです。
以上、SDGsについて内在的検討まで進めず、外面的評価に留まってしまいましたが、今後とも注目し再考していきたいと思います。
2021年6月30日
2021年8月号
デフレ定義再考
佐々木憲昭氏の「安倍・菅政権に振り回された日本銀行 『リフレ派』が破壊した金融政策」はアベノミクスの中心政策である異次元金融緩和の誤りを、(金融に固執するのでなく)実体経済の実態を暴くことによって分かりやすく解明し、リフレ派理論の虚妄ぶりをあぶりだしています。
リフレ派は、「デフレ」(持続的な物価下落)を貨幣的現象として、経済の実態と切り離し「日銀が大規模な金融緩和をやらない」ことがその原因だと主張します(100ページ)。しかし日銀がいくらマネタリ-ベースを増やしても、企業や家計に資金需要がないので、銀行から先に資金は流れず、マネーストックは増えません。麻生財務大臣でさえ「最終需要が増えない限り金融緩和しても効果がない」と国会答弁しています(2014年4月23日、102ページ)。そして「最終消費需要が低迷している基本的な理由は、家計を支える賃金が上がらないからです。 …中略… 家計中心の需要が伸びないので設備投資が増えない、そのため内部留保だけが異様に膨らんできました」(同前)というのが経済実態です。
以上のように、日銀がいくらマネタリ-ベースを増やしても、企業や家計に資金需要がないので、銀行から先に資金は流れず、マネーストックは増えないという客観的状況からわかるように、「デフレ」と称される経済停滞の原因は、金融ではなく実体経済にあります。ところがあくまで日銀の政策に「デフレ」の原因を押し付けたいリフレ派は「インフレ期待」という主観的要因を持ち出してきます。日銀がインフレ目標を決めて金融緩和の確固たる姿勢を示せば、人々は物価上昇の前に買い急ぎ、「その結果、景気がよくなり物価が全般的に上昇すると」(103ページ)いうわけです。
しかし日銀が物価上昇目標2%を掲げてもまったく実現しなかったというのが現実です。そもそも人々は物価上昇は困ったことだと考えており、かえって財布のひもを固くするだけで、「人々が消費を増やすかどうかは、収入が増えるかどうかにかかって」おり、リフレ派の「インフレ期待」による消費増の想定は「机上の空論」に過ぎません(105ページ)。ここでも経済停滞の原因は、金融ではなく実体経済にあることが分かります。
この後、論文は野放図な金融緩和と財政ファイナンスの危険性と日銀の独立性の必要性とを訴えています。これらについては、金融のリフレ派だけでなく財政のMMTにもかかわる論点であり、いっそうの展開が求められます。
ところで私が問題にしたいのは、大方のマルクス経済学者も含めて、デフレの定義を「持続的な物価下落」としていることです。そういう用語の誤りに、リフレ派の跳梁を許す一つの余地が生じています。佐々木論文ではまず「デフレーションとは、基本的には、銀行券の収縮によって生ずる貨幣価値の増価にともなって名目的物価が全般的に低下することをいいます」(100ページ)という正確な定義が述べられています。ところが2001年の「月例経済報告」で政府はデフレの定義を「持続的な物価下落」と統一しました(同前)という叙述以降はこの定義に代えてしまっています。
物価変動には貨幣的要因による名目的変動と実体経済的要因による実質的変動があります。後者については、対外要因を捨象すれば、個別商品について、「商品に対する需給変動による価格変動」と「生産性の変化(通常は上昇)から来る価値変動(通常は価値低下)に起因する価格変動(通常は価格低下)」とがあります。それらの全商品の名目的・実質的価格変動の反映の平均が物価変動となります。このように多様な要因による物価変動の結果として貨幣の購買力は変化しますが、そこに、貨幣的要因(不換通貨の流通量が必要流通量に対して多すぎたり、少なすぎたりして生ずる通貨価値の増減)によってすべての物価変動が起こるかのような錯覚が生じます。リフレ派の主張があたかも妥当かのように見える理由がそこにあります。そうすると、上記のような経済実態に対する当たり前の認識を看過して、次のように実体経済と金融とが転倒した認識に至ります。
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当時は一般物価の持続的な下落をデフレと呼び、そのデフレの最大の原因は供給に比べて需要が弱いことにあるという認識が主流でした。つまり「不況が原因でデフレが発生する」と考えられていたのです。
ところがリフレ派は、そのような考えとは違って「デフレは貨幣的現象」だといい、経済の実態と切り離し「日銀が大規模な金融緩和をやらないからデフレになる」と主張しました。この理屈により、デフレを克服するすべての責任を日銀に押しつけることができました。 100ページ
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「デフレ」用語について言えば、政府の定義「持続的な物価下落」(下落の原因を問わない定義)に反して、リフレ派は貨幣的要因とする本来の定義に戻っています。皮肉にも用語としてはそれが正しい。しかし経済実態としては、今日の物価下落の原因は貨幣的要因ではなく、実体経済の需要不足にあります。だから政府のいい加減な定義の方が現状分析には合います。この矛盾の解消には、今日の物価下落は本来の定義によるデフレではないことをはっきりさせるほかありません。一方でデフレを本来の定義に戻し、他方で今日の物価下落はデフレではないことを明確にして、それをデフレとは呼ばないことが正確な問題解決方法です。
したがってリフレ派の妄言の理論的克服には、物価変動の諸要因を分析的に見て、貨幣価値の変動は様々な物価変動要因の中の一つに過ぎないことを明らかにすること、とりわけまず名目的変動と実質的変動とを区別することが必要です。それによって「デフレ」対策も全く違ってきます。
そこで参考になるのが、「インフレ期における好況による物価上昇」と「インフレーション」(通貨の減価による物価上昇)とを比較検討した山田喜志夫氏の論考です(『現代インフレーション論 恐慌・金・物価』大月書店、1977年)(☆補注)。それをヒントに、「不況(需要不足による物価低下)」と「デフレ(通貨量の収縮による物価低下)」とを比較検討してみましょう。もちろん、松方デフレとかドッジラインなど、実際のデフレは不況を伴いますが、ここでは単純化して理念的に対比することを目的とします。
投下労働時間10時間の商品の価格変動(1割減)とその意味合いは以下のようになります。
○不況の場合
10労働時間:20,000円(価値通りの価格)
↓ 需要不足
10労働時間: 18,000円(価値を下回る価格)
○
デフレの場合
10労働時間:20,000円(価値通りの価格)
↓ 通貨量不足=通貨価値上昇
10労働時間: 18,000円(価値通りの価格)
ここでどちらも商品への需給関係を通して価格が下落しますが、その意味するところは
全く違います。価値通りの価格とは再生産可能な価格であり安定的です。しかし価値を下
回る価格は再生産不可能な不安定な価格であり、需要の回復によってただちに克服される
べきものです。今日の日本経済と国民生活の萎縮した状況はまさにこの状態です。
この不況状態で中央銀行が物価下落を止めるためのインフレ政策を実施するとどうな
るでしょうか。
上の不況の場合におけるインフレ政策
10労働時間: 18,000円(価値を下回る価格)
↓
インフレ政策
通貨量過多(20,000÷18,000=10/9≒1.11倍) →
通貨価値下落(18,00÷20,000=0.9倍)
↓
10労働時間:20,000円(価格の回復。ただし価値を下回る価格)
*ここで価値通りの価格とは22,222円
(≒20,000円÷0.9 あるいは 20,000円×10/9)
→通貨量を増やしても価値は逃げ水となり追い付けない
このように単に物価を回復するだけの政策では再生産の萎縮は解決されません。やは
り実体経済そのものへのてこいれが必要なのです。もちろん実際には金融緩和によって実
体経済が活性化するという間接的効果はありえますが、過剰な通貨の投入による物価上昇
そのものは不況の克服ではなく、再生産の萎縮の固定化でしかありえません。
賃金の下落を主要因とする不況に対してはそれへの手当てが必要です。それを放置して、物価下落という現象(結果)にのみ囚われて、物価を上昇させるために異常な金融緩和を実施するというのでは、上記のように不況の克服にならないだけでなく、実体経済の歪みを放置した上に、金融の歪みを上塗りするという二重に誤った政策になってしまいます。特に金融化の進んだ今日では、コロナ禍対策としての金融緩和によって、実体経済の停滞は一部を除いて改善されず(K字型回復)、資産家・大企業の金融資産価格の上昇がその最大の「成果」であり、実体経済の活性化ではなく、格差拡大へと向かっています。
「持続的な物価下落」というデフレの無概念的な定義では、物価変動をもたらす実体経済と金融との区別があいまいになり、金融緩和によって物価上昇さえさせれば景気回復するという錯覚を惹起しやすくなります。物価変動はあくまで一つの結果(現象)であり、問題は、人々にとって生活と営業を持続可能とする(縮小再生産に陥らない)実体経済とそれに奉仕する金融とのあり方を構築することです。物価指数という量だけを見るのでなく、それをもたらす経済の質を分析することが必要であり、そのためには政府統計のようなデフレの無概念的定義ではなく、本来の定義に戻し、デフレ以外の要因による物価変動をきちんと位置づける必要があります。
なお以上の議論では、実体経済と金融経済との関係が重要ですが、漠然と前提されるにとどまっていました。それについて、飯田和人氏の「現代経済における『流通の水路』の存在と機能――資金循環分析へのマルクス経済学的アプローチ――」(『政経研究』No.116、2021.06 所収)は以下のように理論的に指摘しています。
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発達した資本主義経済は、基本的に実体経済と金融経済から構成されている。実体経済では、産業資本や商業資本が新しい価値(=価値生産物もしくは純生産物)を不断に産出し、その価値の一部は蓄蔵貨幣として実体経済から金融経済に移動し――その内部に様々な金融資産の形態で集積されて――過去の蓄積された価値という形をとる。実体経済と金融経済を行き来する貨幣の出入口は「流通の水路」と呼ばれる。
この「流通の水路」を境に、資本主義経済は「生きた労働」が新しい価値を生み出す実体経済と、いわば「死んだ労働」である過去に蓄積された価値が集積される金融経済とに区分されるのである。 41ページ
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さらに飯田氏はこうした抽象的・理論的議論にとどまらず、それを国民経済計算体系の構成要素である資金循環統計の中から析出しており、現状分析とのつながりをつけています。今後、実体経済と金融経済との総合的分析に際しては振り返るべき視点でしょう。
(☆補注)
資料的価値があると思うので、以下長くなりますが、山田喜志夫氏が好況による物価上昇とインフレーションとを比較検討した部分を引用します。
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山田喜志夫『現代インフレーション論 恐慌・金・物価』(大月書店、1977年)より
180~183ページ
以上、価値と価格について一般的に考察したが、インフレ―ション概念の明確化のために、好況による物価上昇とインフレーションとを比較考察しよう。両者はいずれも需給関係を通して市場価格の騰貴として現われ、現象的にはまったく同一であるから、両者の相違点を解明することが重要なのである。以下、商品そのものの価値の変化は捨象して議論を進めよう。
好況による物価上昇は、商品の需要が供給を上回ることを原因として生じ、ここで商品の価格は価値――価値通りの価格――以上に騰貴する。例えば、価格標準を一円=金一グラムとし、A商品の価値通りの価格を二〇〇円としよう。A商品の価値を表現する金量は二00グラムである。いま、A商品に対する需要が増大すると、例えば価格は四〇〇円に騰貴し、この価格を金量で表現すれば四〇〇グラムである。この市場価格の二〇〇円から四〇〇円への上昇が好況による価格の価値以上への騰貴にほかならない。この価格上昇は、金量で表示すれば二〇〇グラムから四〇〇グラムへの増大、すなわち金量そのものの増大という意味で実質的騰貴である。
他方、インフレーションの場合はどうか。同じくA商品について検討しよう。いま、不換通貨の流通量が流通必要金量を上回って、通貨の減価(代表金量の低下)が生じ、価格標準が一円=金一グラムから一円=金〇・五グラムに事実上低落したとする。例のA商品はいぜんとして二〇〇円である。とすれば、このA商品の価格は価値を下回っていることになる。何故なら、金やA商品の価値の変化はないと前提しているのだから、A商品の価値を表現する金量は従来通り二〇〇グラムである。つまりA商品の価値通りの価格(金量)は金二〇〇グラムに相当するはずである。ところが、通貨の減価が生じ価格標準が一円=金〇・五グラムに切り下げられている現在、A商品の価格が二〇〇円だというのは、金量表示では一〇〇グラムだということである。すなわち、新たなる価格標準の下では、A商品の価格二〇〇円(金表示で一〇〇グラム)は、いまや価値(金量表示で二〇〇グラム)以下なのである。
いまや価値以下となったA商品の価格は、価値へ向かって回復運動をとらざるを得ない。A商品の価値は新しく評価しなおされることとなる。新しい価格標準の下では、A商品の価値通りの価格は四〇〇円である。A商品の価値通りの金量は二〇〇グラムであって、この金量の貨幣名はいまや四〇〇円だからである。こうして、A商品においては二〇〇円から四〇〇円へと価格が上昇する。この価格上昇がインフレーションであるが、これは価格の価値からの乖離の運動ではなく、価格の価値へ向かっての運動なのである。このインフレーションによる価格上昇が名目的騰貴と呼ばれるのは、A商品の価値は金量表示で二〇〇グラムであることに変りはないのだが、この同量の金二〇〇グラムの貨幣名が二〇〇円から四〇〇円へと変化するからである。
この二〇〇円から四〇〇円への価格上昇は、具体的には需給関係を介しておこなわれる。つまり流通界に過剰に投入された不換通貨による追加需要が波及し、A商品に対する需要が増大することを通してA商品の価格が騰貴していく。A商品を販売する個別資本家の意識においては、需要増大にともなって価格が上昇していく点で、好況による価格上昇もインフレーションもまったく差異はなく両者が同一視されるのは当然のことである。不換通貨の減価は、個別資本家の意識の外で社会的に客観的過程として進行するのである。
過剰な不換通貨が流通過程に吸収されるには一定の期間を要するから、インフレーションによる物価上昇は、各商品について均等に生ずるのではなく、需給関係の差異に応じて不均等に生ずる。価値以下に下落している価格が価値に向っていく均衡化運動のテンポは商品相互間において不均一である。二〇〇円のA商品が二〇〇円のままであれば価値以下であるからA商品の販売者は損失を受けるし、三〇〇円に騰貴してもまだ損失をこうむっていることになる。いち早く四〇〇円に上昇すれば損失はまぬがれる。一般に、過剰な不換通貨が最初に投下された部門の商品価格がまず上昇する。つまり、資本蓄積のために過剰信用が優先的に供与された個別資本(第三章参照)の支出対象となる商品の価格が最初に上昇し、他の商品の価格の上昇はこれに追随していく。通常もっとも価格上昇のテンポが遅れるのは労働力商品である。労働力商品の価格は、当初は価値通りであるとしても、インフレーションを通じて価値以下に切り下げられていくのである。こうして、価値へ向っての価格上昇のテンポの差を介して損失の負担競争が生じ、個別資本間および労資間における価値の再分配が競争を通じておこなわれる。
好況による物価上昇とインフレーションとは、両者とも需給関係を介して生ずる市場価格の上昇である点では同一であり、現象的には同一である。しかし、前者は価格の価値からの乖離の運動であり、価格の価値を上回る運動であり、したがって一時的であってやがて反転運動が生ずる。後者は価格の価値への一致の運動であり、したがって固定的なのである。
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山田氏は、好況による物価上昇とインフレーションとが、いずれも需給関係を通して市場価格の騰貴として現われ、現象的にはまったく同一であるにもかかわず、前者は価値と価格の乖離の運動であり、後者がその一致の運動であるという本質的違いを剔抉しています。この本質的違いは、価格騰貴が一過性か固定的かという現象的違いとして現れます。このように山田氏は現象的同一性の中に本質的違いを摘出し、さらにその違いの現象的発現まで解明しています。今日の「デフレ論」にも明らかなように、俗流的立場では、現象的同一性から一歩も外に出られません。経済理論における科学と非科学との対照が鮮明です。
さらに、この非科学性を規定するのは、個別資本家の意識の理論への無反省な反映であることも次のように指摘されています。「A商品を販売する個別資本家の意識においては、需要増大にともなって価格が上昇していく点で、好況による価格上昇もインフレーションもまったく差異はなく両者が同一視されるのは当然のことである。不換通貨の減価は、個別資本家の意識の外で社会的に客観的過程として進行するのである」(上記引用中、182ページから)。
本質の洞察はそれを基にして、現象の展開的解明につながります。不換通貨の過剰投入による商品価格の高騰の不均等な波及過程が描かれることで、本質の解明と現象の説明という理論の科学性が一応の完結を見ます。
およそ現状分析では、まず第一に現実へ内在し、眼前の現象を的確に説明することが求められます。しかしそれは表面的現象への追随では正確に果たされず、事態の本質の解明を前提とします。デフレを「持続的な物価下落」と無概念的に定義することは、物価下落の内実を捉えずに、ただ物価を上げればいい、それには金融緩和だ、じゃぶじゃぶの通貨投入だ、という政策に帰結し、実体経済の変革という本当の課題を看過させます。自然科学では、基礎と応用とがともに重要だと喧伝されますが、社会科学・経済学でも基礎としての理論がしっかりしていないことが、応用たる政策の失敗に直結します。
最後に、山田氏からの引用の結論部分について、「好況」を「不況」に、「インフレ」を「デフレ」に言い換えて文意が通るように調整すると以下のようになります。
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不況による物価下落とデフレーションとは、両者とも需給関係を介して生ずる市場価格の下落である点では同一であり、現象的には同一である。しかし、前者は価格の価値からの乖離の運動であり、価格の価値を下回る運動であり、したがって一時的であってやがて反転運動が生ずる。後者は価格の価値への一致の運動であり、したがって固定的なのである。
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新自由主義下で深刻なのは次のことです。労資の階級的力関係が資本優位に固定化しているため、不況による物価下落という局面で、労働力の価格(賃金)がその価値を下回っても、一時的でなく反転運動が生じないで固定的に維持され、それが原因となって物価が下落するという悪循環が生じます。強搾取が、資本主義経済の土台をなす市場経済の価値法則を破壊するところまで進んでいるのです。
このように、不況による物価下落とデフレとを区別することによって、今日の事態の深刻さはよりクリアになります。今日の物価下落は通貨量の過少が原因ではなく、したがって「価格の価値への一致の運動」としてのデフレではなく、「価格の価値を下回る運動」としての不況による物価下落であり、固定化させてはなりません。にもかかわらず、賃金の低下を重石として物価下落が続いて固定化しているのです。市場の需給関係で物価が変動するという現象次元だけから「持続的な物価下落」という無概念的なデフレの定義で済ませていると、この異常さを認識することができません。山田氏の論考に学ぶべきところは大きいと思います。
悪政の守護神としての「愛国心」
VS 人権・民主主義の普遍性
以下では表題に関わる話題をいくつか思いつくままに並べてみます。
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松原みきの「真夜中のドア~stay with me」、1979年リアルタイムに好きだったこの曲が昨年、世界の多くの国々のヒットチャートで1位になりました。ただ残念なことに彼女は2004年に44歳で早世しています。
ここ数年、日本のシティ・ポップが世界の注目を集めています。たとえばネット上に次のような解説があります。「近年、アジアやヨーロッパ、アメリカ西海岸を中心に盛り上がりを見せてきた日本のシティ・ポップ。70年代や80年代に海外に憧れ、都会的なライフスタイルを求めた若者たちの生活や趣味を背景としてさまざまな名曲が生まれた。山下達郎、竹内まりや、大貫妙子、角松敏生といったアーティストたちの名前やダンサブルな楽曲がいまや世界の音楽ファンの共通言語として語られるようになっている」。
すでに竹内まりやの「プラスティック・ラブ」などが世界的にヒットしていたようです。今やネット上で、世界中の人たちが世界中の音楽を聴けるので、もともとすぐれた音楽が知られるようになって、ヒットしているのは当然なのかもしれません。
それよりちょっと前になりますが、2011年にリリースされた「1969」は由紀さおりとピンク・マルティーニ(米国のジャズ・オーケストラ)のアルバムです。「ブルー・ライト・ヨコハマ」「いいじゃないの幸せならば」など、1969年にヒットした日本の歌謡曲をカバーし米国でもヒットしました。歌謡曲全盛の1960年代、そしてシティ・ポップの70・80年代。どちらも日本のいい歌が世界で認められるのはとてもうれしいことです。
「真夜中のドア」は、インドネシアのレイニッチ(Rainych)がカバーしたのがきっかけで原曲も大ヒットになりました。「インドネシアで世界的な人気を誇る女性ユーチューバー」レイニッチについてネット上の解説(昨年)は以下の通りです。
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イスラム系としてヒジャブをつけた彼女が美しい歌声で歌う英米のヒットやJ-POPを歌う動画は多くの人を魅了し、現在130万人近い登録者数を誇る。そのRainychが流暢な日本語で歌った「真夜中のドア~stay with me」が10月末にアップされるやいなや、まずはインドネシアが起点となり、その後、原曲である松原みきヴァージョンが世界中に発見されていった。
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レイニッチの声はちょっとAIのヴォ―カロイドみたいだけれど、日本語が話せないのに発音は完璧です。30歳近いけれど、美少女のよう。ちょっと芳根京子に似てるかな? イスラム圏でも愛される日本文化。平和憲法も世界中に輸出したい。そのためにはしっかり守って活かしていくことが大切です。
こんなノーテンキな話を書いたのは、二つ示したいことがあるからです。一つは、私も日本の歌が世界でヒットするのを喜ぶような素朴な愛国心を持っていること、もう一つは、ネットによるグローバル化で、歌に国境がなくなり、良いものが認められる可能性が増えてきたことです。歌における国と世界はいわば特殊性と普遍性であり、世界的ヒットは両者の統一です。何か日本の歌が特別に優越であり、特殊性が普遍性を圧倒したというわけではなく、特殊性が普遍性の中に位置を見いだし、普遍性から認められたということでしょう。
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日本とアフガニスタンで尊敬される故中村哲氏は日本をずいぶん意識していたらしい。宮田律氏の『武器ではなく 命の水をおくりたい 中村哲医師の生き方』(平凡社)への高尾賢一郎氏(中東調査会研究員)の書評はこう説きます(「しんぶん赤旗」7月18日付)。
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「独立不羈(他から影響されずに行動すること)の日本」をはじめ、中村氏の行動理念にはしばしば「日本」が登場する。アフガニスタンの人々も彼の姿から「日本」を感じ、敬意を寄せてきたとのエピソードが本書では多く紹介される。ただしその「日本」を中村氏が再発見されるべき、つまり現実には失われつつあるものと見ていたことは重要だ。
著者はそれを、人々が協力する社会、憲法9条に基づいた不戦の精神、土地に根ざして自然と触れあう環境など、様々な観点から紹介する。中村氏を通して日本と日本人が評価される一方、それらが一種のバーチャル(仮想)な存在であることが示唆されるのは皮肉な話である。
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愛国心と言ってもどんな国を愛するのかが問われます。独立不羈どころか対米従属であり、憲法を蔑ろにする政治がずっと続けられてきた日本の現実は中村氏から見れば愛すべき対象ではないでしょう。愛すべき日本は失われてしまった。しかし中村氏は自らあるべき日本を体現していました。だからアフガニスタンでは日本と日本人への美しい誤解が生じてしまいました。私たちは現実を美しい誤解に近づけるよう変革の努力を続けるべきです。時の政権を美化するような愛国心ではなく、愛されるに値する国を建設する愛国心、それが本物です。
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本物とは違う「愛国者」たちの正体が見える事件がありました。2017年12月7日、沖縄県宜野湾市の緑ヶ丘保育園に米軍ヘリから部品が落下しました。この事件では米軍が落下を認めていないこともあり、こともあろうに園に対して、「自作自演」とかの心無いバッシングが行なわれました。人民の正当な抗議をあえて攻撃するのは強固な体制擁護派でしょう。被害当事者より米軍の言うことを信じる「愛国者」たちと思われます。
米軍機が規定の飛行コースを外れて今も園の上空を飛んでいるのに、日本政府はまったく放任状態です。園児の母親たちの要請にも、言を左右に取り合いません。韓国バッシングなど、アジアには傲慢な政府と右派世論は、米国には全く卑屈です。この奇妙な「愛国心」の横行を許していることは、本土の私たちの恥です。日本の歪んだナショナリズムは対米従属とアジア蔑視を特徴とします。それは国を愛するというものではなく、戦後日本資本主義の体制ならびに悪政をほしいままにしている時の政権を支持するというものです。
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もちろん愛国心は否定されるべきものではありませんが、それは人権・民主主義といった普遍性に包摂されるものでなければなりません。私の愛国心は天皇制とは無縁ですが、世間ではそれは例外的であり、それどころか、安倍長期政権以来、跋扈している愛国心は極めて右翼的なものです。かつて右翼と言えば、街宣車で騒音のように軍歌を鳴らして走っていく鼻つまみ者に過ぎず、大方相手にされませんでした。ところが昨今ではネトウヨやヘイトスピーチなどが当たり前の存在となり、事実上、市民権を得ています。歴史修正主義者が政権を握り、ヘイトスピーチに断固たる拒否姿勢を示すどころか、影ながら共感している状況が世論に影響を与えていることでしょう。アメリカでは大統領がトランプからバイデンに代わり、人種差別へは毅然とした姿勢を示しています。差別や右翼思想の根は社会のあり方にある以上、その克服は簡単ではありませんが、政権トップの姿勢が極めて重要な要素であることは確かです。
6月12日、香港民主化運動の「女神」周庭氏が「刑期」を終えて釈放されました。香港の運動について流暢な日本語で発信を続け、日本でもアイドル的人気があります(こういう言い方はジェンダーバイアスにまみれて低俗だと非難されるかもしれませんが…)。今後、国安法違反容疑でも聴取される可能性があるので、さらなる訴追を避けるためにも沈黙しなければならない状況です。痛ましい限り。
暗いニュースを背に、景気づけにとネットで「香港に栄光あれ」を聴きました。日本語版も聴いたら、中国語で日本人への感謝のコメントが多く寄せられていました。その画像には集会の模様が映っていたのですが、日の丸が林立しており、いっぺんに興ざめとなりました。日の丸は中国やアジア諸国では侵略戦争の象徴であり、香港・中国の民主化運動への連帯にはまったくふさわしくありません。おそらく右翼の集会なのでしょうが、人権・民主主義の観点ではなく、アジア蔑視や中国脅威論の観点から行なわれているものでしょう。
これからも、中国の反民主主義的な専制支配と対外的覇権主義からの蛮行・妄動が繰り返されるでしょうが、それへの批判は人権・民主主義・平和の観点で行われるべきであり、アジア蔑視・中国脅威論・日米軍事同盟=軍事的抑止力の観点は排されねばなりません。昨今では中国と日本は東アジアにおける軍拡競争を担っており、それは米中覇権「新冷戦」とリンクしています。この危険な状況を打破するには、日本が対米従属から脱して、日本国憲法の平和と民主主義を実現する路線に転換することが求められます。そのためには世論の転換と政権交代が必要です。憲法の平和主義はそれなりに人々の「情」に定着していますが、それ以上に日米軍事同盟に基づく軍事的抑止力論が「理」として受容されています。「情」を活かして、ニセの「理」ではなく本物の「理」と併せて情理兼ね備えた新たな平和像を築く必要があります(その一つの試みとして拙文「平和について考えてみる」)。
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アジア蔑視のナショナリズムが実利においても現実的にいかに不都合なものかの好例があります。2年前、韓国の徴用工判決に対して韓国政府への報復として、日本政府が半導体素材の韓国への輸出規制を強めた背景は以下のようです(「朝日」7月4日付)。
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日本企業への影響を最小限に抑え、国際的な批判をかわしつつ、韓国に強い痛みを感じさせる措置はないか――。当時の安倍官邸からの無理難題に各省庁とも頭を悩ませた。
「採用」されたのは韓国の心臓部にあたる半導体素材に手を突っ込む荒療治。だが外務省や経済産業省からは慎重論が出た。
実務者らが最も心配したのは、日本の関係企業にかなりの損害が出る恐れに加え、当該企業から訴えられかねないことだった。
それでも安倍官邸の指示は「いいからやれ」だったという。少なくとも現時点で官僚らの懸念は半分は的中し、輸出量は激減した。
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これに対して、韓国企業側は政府の支援で国産化を進め実害はなく、「裁判で確定した賠償金とは比較にならない巨額の損失を、まったく無関係の日本企業に出させ」た結果となりました。「ある日本政府関係者は『結果として愚策の極み』とまで言い切る。/しかし、何も変わる気配はない。『愚策の極み』はきょうから3年目に入る」(同前)と同記事は切り捨てています。
安倍一族の「愛国心」はネトウヨと同水準の低劣なうっぷん晴らしに過ぎず、その策動の帰結はまさに喜劇的としか言いようがないのですが、それを権力者としていただく人民にとっては悲劇です。
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五輪は商業主義に毒されているとともに、政権の浮揚とか国威を発揚する舞台としてもずっと機能してきました。そこでは「愛国心」が最大限利用され、人権が蔑ろにされます。特に今回の「東京2020」はパンデミックの中で強行開催されるわけですから、すべての人々の生存権が脅威にさらされます。さらに大会関係者の人権への不見識による辞任劇が相次いで、人権軽視社会・日本の実態が世界に知られてしまいました。ジェンダー、障害者、ナチス等々、差別と偏見に浸かっていたり、問題の重大さを理解していなかったり。こういう人々が大会関係者になれるというのは、これまでの日本社会の後進性の表れですが、それが発覚すれば決して許されないところまで日本社会が来たとは言えます。
人権小国日本では、外圧を人権擁護に利用せざるを得ないことがよくあります。たとえば「子どもの権利条約」には子どもの意見表明権があり、従来の日本社会になじみのない概念ですが、それも追い風にして、人権無視の校則がようやく問題にされ始めています。しかし大勢としては「死刑制度の継続に、夫婦同姓の強制、LGBTへの差別に、外国人の長期収容問題……。国連や国際社会から何度見直せと言われても全く変わろうとしない。その鈍感さこそが、私には不思議です」(斎藤美奈子氏の発言、「朝日」7月21日付)という状況です。
ところが外圧をより利用しているのは、対米従属の日本の支配層です。今回の五輪についても、官僚の根回しでG7サミットにおける支持を取り付けたようです。安全保障政策では米国のシンクタンクに日本政府が資金提供して、「知日派」に集団的自衛権行使とか辺野古新基地建設への支持を表明させています。シンクタンク「新外交イニシアティブ」〈ND〉代表の猿田佐世氏はこう言っています(同前)。
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市民が作る外圧も、日本政府製の外圧も、どちらも政策を実現する一つの手法です。しかし、前者は権利実現のために個々人が行った表現活動の結果であるのに対し、後者は国家権力が多額の税金を使って行うものです。その外圧の生じる過程に日本政府が関わっていることは、一般の人はほとんど知りません。これは到底、民主的手法とは言えません。外圧が生まれた背景を知らなければ、その外圧をどう捉えるべきか、国民は適切に判断できないでしょう。
海外の情報を広く取り入れる姿勢は重要ですが、「なぜ今」「誰によって」その情報が届いたのか、その背景を吟味することが必要です。大切なのは、どの国の声であろうと、それを取り入れるべきか否かは、日本の私たちが自分の頭で考え、判断すべきことだということです。
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先述の斎藤氏も「何かが一見『外圧』に見えるのは、単に、ある問題の所在が国内で可視化されていなかったせいかもしれない」として「内にある声を可視化して、共有していくこと。『内圧』や『民圧』をきちんと社会に反映させる作業から始めていけばいいのだと思います」(同前)と結んでいます。人権の内外格差の問題は、人権の実現を具体的に工夫する際には重要でしょうが、大本にあるのは人権・民主主義の普遍性であって、それを基準として内外にかかわらず、自分たちの頭で考え実践するしかないでしょう。
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名古屋出入国在留管理局に収容中に死去したスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさん(当時33)は食事もできないほど衰弱していたのに点滴などの処置はほどこされず3月に死亡しました。にもかかわらず法務省・入管側は真相を明らかにしようとしません。この事件は社会に衝撃を与え、入管法改定案を廃案とする大きな要因となりました。残念ながら日本では、外国人の人権の軽視がはなはだしいのですが、これは日本人の人権問題とも当然つながっています。たとえば外国人技能実習生は恋愛も妊娠も禁止され、妊娠が分かった時点で中絶か帰国を迫られます。それは人間を単に労働力と見て、生活者と見ていないからです。だから様々な人権侵害が起こるのですが、それは日本社会に広くある、教育や出産、子育てをコストとして見る発想と同じです。つまり外国人技能実習生への人権侵害は、人が生まれ育つことを大事にしないこの国と社会の姿勢が極端に現れたものであり、日本人の人権がすでに侵害され、パワハラ・セクハラ・マタハラなどが横行していることの延長線上にあるのです。それへの私たちの回答は、日本人・外国人を問わない普遍的人権の確立です。それを指し示しているのが日本国憲法です。
ユネスコの世界遺産委員会は7月22日、長崎県の端島炭坑(軍艦島)などからなる世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」について、朝鮮半島などから連行され労働を強いられた人々についての日本の説明が不十分だとして、「強い遺憾を示す」とする決議を全会一致で採択しましたが、日本政府は無反省で決議に従わない方針です(「朝日デジタル」7月22日付)。ここにも外国人の人権を軽視する日本の姿が露わです。それは日本社会の人権水準の反映ではありますが、歴史修正主義者の政権という政治独自の問題もあります。
ここで考えるべきは、人権・民主主義の普遍性の確認だけでなく、日本の人権軽視は侵略戦争と植民地支配への無反省と関係あるということの特別の重要性です。上記の日本政府が半導体素材の韓国への輸出規制を強めた「愚策の極み」とも関係します。そこには植民地支配者意識の残った韓国蔑視があるというべきでしょう。それで馬鹿げた政策にも手を染めてしまう。ここに外国人、特に周辺諸国人を蔑視し人権を軽視する根があります。そしてさらに上記のような日本社会にある人権軽視とも相乗作用で、世界に冠たる人権小国を形づくっています。そこにおいて五輪にも動員されている「愛国心」が人権蹂躙を始めとする日本社会と政治の諸問題から目をそらして、その現実を抜きにひたすら日本を称える役割を果たしています。まさにそれは悪政の守護神として働いています。
これまで「愛国心」について、「対米従属意識とアジア蔑視との結合した歪んだナショナリズム」として捉えてきましたが、同時に「現政権=悪政の守護神」という重要な役割を担っていることも認識する必要があります。その上で、新自由主義グローバリゼーションの下でそれがいかに生まれ拡大していくかも考えるべき課題です。
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日本人であろうと外国人であろうと、人権の主体として、あるいは生活者として等々、各人をその全体像として捉える努力が大切です。吉田純子氏の「本当の芸術の力 命の意味を豊かに継ぐもの」(「朝日」7月17日付)によれば、ピアニスト・作曲家の高橋悠治氏は12歳で自死した少年の詩に曲を付けています。その友人の詩人・平田俊子氏は、バス停のベンチで殺された64歳のホームレスの女性の詩をつづっています。その芸術の人間的意味がこう述べられます。
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「自殺した少年」や「気の毒な路上生活者」としてではなく、かけがえのない無二の存在として、彼らが生きた証しを心のどこかにひっかけて生きてゆく。高橋さんは音楽によって。平田さんは言葉によって。
本当の芸術とは、こうした人間性を礎に培われるものなのだと思う。国の力の象徴として発信するものでも、苦しみを紛れさせて連帯を強いるものでもなく、記憶の風化に抗(あらが)い、思考を促し、ひとつひとつの命の意味を豊かに継承するものなのだと。
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これと関連するのは、一人ひとりの全体像を捉える努力です。美学者の伊藤亜紗氏によれば、「重要なのは、ひとりの人間の中にある多様性」であり、「まるごとのあなた」を理解することです。「例えば目が見えないからといって、いつも視覚障害者としてだけ扱われたらつらいだろう」(「朝日」夕刊2019年10月9日付)。作家の平野啓一郎氏も「自分」は「個人」というより「分人」(複数の人格の集合体)だと言います。だから多様性への理解とは、「みんな違う」というだけでなく、相手を多面的に捉えて、「どんな人に対しても自分との共通点と差異を見出していくこと」(伊藤氏)なのです。お互いの適切な距離感と共感とによって「個人の尊重」が実現されます。
外国人と日本人、障害者と健常者、というようなそれぞれ一面的な対比による人間像ではなく、全面的な把握によって一人ひとりを捉えようとする努力が、吉田氏の言う「かけがえのない無二の存在」の認識につながり、それが人権の普遍性の基礎となります。そこでは「愛国心」的人間観の卑小さが鮮明になります。
政治を諦めないねばり
映画「パンケーキを毒見する」に対する北小路隆志氏の評論は秀逸です(「政治の戯画化が利するのは」、「朝日」夕刊、7月30日付)。まず「戯画化」の本質を見事に表現しています。「戯画化は強大な権威や厳密な論理性を相手にする際、それを軽やかに噛(か)み砕き、笑いの種にする風刺の精神で転覆的な作用を担い得る」。なるほど。ところが「菅義偉その人が政治を戯画化する張本人であり、権威や論理性を欠いた存在である以上、その戦略は空転を余儀なくされる。現政権は笑うに笑えない対象なのだ」。そこでどう対抗するのか。
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政治の戯画化が政治への無関心の広がりに資することに気づかされる。不毛な論戦や言説を通じて僕らを呆(あき)れさせ、票を投じる気力を萎(な)えさせることが現政権の戦略ならざる戦略であるとすれば、呆れてばかりもいられない。生真面目に投票率を上げること。それが僕らにとって急務である。
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鋭い政権認識の割には平凡な行動提起ですが、当方にも機知に富む名案はありません。世論の反対を押し切って五輪が強行されています。反対している人々に諦めが漂う中、武田砂鉄氏はこう喝破します(「しんぶん赤旗」7月20日付)。
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やるべきでないものを強引にやろうとしているのだから、いつになっても「止めろ」と言えばいいし、始まっても終わっても「止めるべきだ」「止めるべきだった」と言えばいい。
どうせやるのだから、何を言っても無駄だよ、と言う人がいる。そうやって、言っても無駄、と引き下げる行為こそ無駄だと思う。
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そこで、7月2日に五輪中止署名を始めた上野千鶴子氏がその意義を語っています(「朝日デジタル」7月3日付)。「今さら何をいっても」という無力感が広がっているのに対してこう切り返します。
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学習性無力感ですね。それは、経験によって覆すことができますよね。
私たちは何度かその経験をしました。検察庁法改正案、入管法改正案などは、反対運動で押し戻しました。その成功体験の波及効果が起きています。
この署名活動で五輪開催を止められるかどうかは未知数です。
でも、市民の間にくすぶっているマグマみたいなモヤモヤ感に、出口を与えることができます。そのモヤモヤ感を見える化することが大事です。近く必ずくる総選挙にも影響を与えるでしょう。
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素晴らしい変革の気概と実績に基づく展望です。この問題に限らず、「情勢を主体的かつ前進的に捉えて行動するとはどういうことか」を考える参考になります。
日本の政治で無力感が支配しやすい状況には、もともと政治が身近でなく、キタナイものとさえ思われている社会意識が根底にあるように思います。それに対して北欧は政治意識が高く投票率が高くなっています。政治風土はどう違うのでしょうか。
たとえばノルウェーでは「国民の4割が何らかの団体に所属しており、政党の党員になることもごく『ふつう』だと言う。大半の政党は熱意があれば12歳から入党でき、10~20代のうちは青年部に属し、母党からも独立して独自の政策を掲げ活動する。10代から政治に関わっているため、30代は既に十分なキャリアを積んでいる。政治参加といえば選挙での投票くらいで、投票率も大変低い日本から見ると、政治の風景の豊かさ、カラフルさはうらやましい限りだ」(朝の風「北欧の豊かな政治風景」、「しんぶん赤旗」7月13日付)ということです。日本にいるのでは思いもよらない世界があるということです。自分たちの社会をどうやって変えていけるのかは分かりませんが、こんなものだ、と思考停止していてはいけないということだけは確かです。
2021年7月31日
2021年9月号
安保条約廃棄派の役割
2015年、戦争法の強行成立直後、戦争法反対闘争をともに闘ってきた市民の「野党は共闘」の声に応えて、日本共産党は画期的な野党共闘への転換を表明しました。この共闘の1丁目1番地の政策が戦争法廃止と立憲主義の擁護です。今日ではコロナ禍対策が人々の関心の中心であり、その緊急対策とともに医療・社会保障の充実を強くアピールする野党共闘によって政権交代が求められています。政権共闘の合意が未だにできていないことは決定的な遅れなのですが、8月22日の横浜市長選挙で無名の野党共闘候補・山中竹春氏が勝利し、菅政権に強烈な打撃を与えたことで、この機会を逃すのか、野党の歴史的責任が問われる事態となっています。
何と言ってもこれは「コロナ敗戦」の中で情勢の急進展が鮮明になったということなのですが、とはいえ共闘の原点である戦争法廃止という平和・安全保障政策が依然として政権交代の要であることに変わりはありません。野党共闘においては、様々な立場の政党・市民諸組織が一致できる政策に基づいて、それぞれにリスペクトしながら共闘します。その中では、ややもすると独自の政策を掲げること自体を躊躇するような傾向があり得ます。しかし政策的一致点に基づいて共闘することと、並行して政党などが独自の政策を掲げることとは矛盾するどころか相乗作用があることを、志位和夫氏は明らかにしています(「日本共産党創立99周年記念講演会(8月4日)」から、「しんぶん赤旗」8月6日付)。
志位氏は「異常なアメリカ言いなり」をただす「二重のとりくみ」を提起しています。まずその「一つは、日米安保条約に対する賛成、反対の違いを超えて、緊急の課題で広く協力していくことであります」。緊急課題には「憲法違反の安保法制を廃止する、辺野古新基地建設は中止する、日米地位協定を抜本的に見直す」などがあります。すでにこのように重要な一致点があります。
ただそれにとどまらず、第二に「日米安保条約を廃棄して、本当の独立国といえる日本をつくる、アメリカとの関係は対等・平等の日米友好条約を結ぶ――私たちの綱領の日本改革の根本目標が、国民多数の合意となるように、党としての独自の努力をつくすこと」も必要です。そしてこの第二の課題は第一の一致点を貫くうえでも重要であることを志位氏は以下のように力説します。
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ここで私が、強調したいのは、こうした日米安保条約廃棄の流れを強めることは、緊急の課題での共同を前に進めるうえでも、一番の力になるということです。
さきほどのべた緊急の課題のどれをとっても、それを本気で実行しようとすれば、日米安保条約の現状を絶対だという勢力、この現状には指一本触れさせないという勢力からの激しい妨害や抵抗に出合うでしょう。たとえば辺野古新基地一つとっても、それを中止しようとすれば、「そんなことをすれば日米安保体制が弱まる」という攻撃が起こるでしょう。現に民主党政権の時に、そういう激しい抵抗が起こりました。そういう時に、「日米安保条約は、日本の平和にとって有害無益であって、日米安保条約を廃棄した独立・中立の日本にこそ未来がある」と堂々と主張する流れを強くすることこそ、緊急の課題での共同を前に進めるうえでも一番の力となるのではないでしょうか。
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渡辺治氏の「菅政権を終わらせ、新段階に入った改憲策動に終止符を」はこの「二重のとりくみ」を意識的に実践してきた研究者の最近の論文です。渡辺氏は、菅政権の三つの悪政(歴代自民党政権が追求し、安倍=菅政権が徹底・加速してきたもの)として、<(1)雇用と医療・社会保障を破壊し続ける新自由主義政治、(2)アメリカに加担する「戦争する国」づくり、(3)「官邸主導」の強権政治・民主主義破壊>を挙げています。当論文では(2)に焦点を当てて、悪政の転換には政権交代による他ないことを解明しています(12・13ページ)。
戦後の単独講和によって成立した、日本の対米従属体制においては、一方で日本国憲法に、他方で日米安全保障条約に基づく相矛盾する二つの法体系が共存し、政治的には、米日支配層はあくまで日米軍事同盟を主軸に、この矛盾を改憲によって解消しようとしてきました。しかし人民の抵抗にあって果たせずに今日まで至っています。そうした経過の中で、多数派世論は現状追認的であり、憲法も安保も支持することで、現実の矛盾をそのまま抱えこみ、時々の情勢によって揺れ動くことになります。差別と貧困を根絶して戦争の原因をなくすような積極的平和主義、ならびに話し合い・外交による紛争解決努力という憲法の道と、軍事的抑止力による「平和」という日米安保条約(軍事同盟)の道とが対決し続けてきました。
昨今では、米中対立の激化を受けて、メディアの大勢が安保条約支持である中で、中国脅威が煽られ、世論が軍事的抑止力をより支持する方向に傾いています。一方で、中国が内政において人権・民主主義の抑圧を重ね、対外的には覇権主義を強める中で、他方では、安保条約支持のフィルターを通せば、あたかもアメリカが自由・民主主義・平和の擁護者であるかのように映ります。
そうした情勢下、バイデン・菅による4月16日の日米共同声明に52年ぶりに台湾条項が登場したことが注目されました。渡辺氏は以下のような各種世論調査を紹介しています(24ページ)。
○日米首脳会談を評価50%、評価しない32%
○日本が台湾海峡の安定に関与することに賛成74%、反対13%
○日米連携で中国に対抗することを評価70%、評価しない19%
○台湾をめぐる米中対立で、日本の集団的自衛権行使を評価47%、評価しない41%
これらについて渡辺氏は、「憲法9条を変える方がよい30%、変えない方がよい61%」という調査結果を対置して、「国民が武力でことを解決する志向を強めたことを意味するののでない」(同前)と主張しています。しかし外交・話し合いでことを解決するという憲法への支持が多分に一般的・情緒的次元にとどまり、情勢の具体的展開の中では現実的には軍事的抑止力を支持するという傾向が強まっている、ということをこれらの世論調査は示しているのではないでしょうか。非常に危険であり、こういう世論的土壌があると、何らかのちょっとした軍事的衝突に際しても、全面戦争を含む軍事的選択に向け世論が沸騰してしまう可能性があります。
もちろん渡辺氏は、菅政権の日米軍事同盟強化=改憲路線の危険性を具体的に指摘しています。たとえば今回の日米共同声明の台湾条項が52年前と違って、2015年の戦争法成立を受け、「台湾に対する米軍の作戦行動を自衛隊が支援するという約束をも意味する」(19ページ)ということを明らかにしています。台湾をめぐって日本が米中戦争に巻き込まれる危険性を指摘し、軍事同盟強化や軍拡の愚かさを示しています。ところが、中国の侵攻を防ぐには、軍事同盟強化での中国包囲網による抑止力強化が必要だという認識が「世間の常識」ではあります。こういうのを信じこまされている人は、相手は狼で自分は羊であると思い込んでいます。ところが、相手から見たら逆であり、自分自身が相手の脅威になっている、という客観的には当然のことへの想像力が欠如しています。信じさせている側の一部は自分もそれを信じ込んでいますが、他の一部は双方が見えていて、たとえば利潤追求の軍需資本や他国の脅威を政局的に利用する政治家たちは意識的に中国脅威論を煽っています。それらの中のどのような位置であろうとも、抑止力信仰(とその利用)の結果は「日米軍事同盟強化と対中軍事力強化は、中国の対抗措置と、中国の軍事力強化を招いている。止めどない軍拡競争と軍事衝突の危険性の増大を招く以外にない」(25ページ)ということになります。
世論の抑止力信仰(それは好戦化につながる)を克服するには、当面の軍拡競争の危険性を指摘するだけでなく、この先も日米軍事同盟の道に平和の展望はなく、憲法の道にこそそれがあることを示す粘り強い努力が必要です。それには、戦後の単独講和と日米安保条約締結という最初のボタンの掛け違えに問題があるということから説き起こす必要があります。世論調査が長期的に示すのは、確かに人々は軍事同盟と軍拡への警戒心は持っていても、徐々に進む軍事同盟強化の既成事実化は容認・受容してきたということです。最初の間違いを見抜けず認めてしまえば、それを継承する政策展開は「整合的」であり、そこから外れるのは非現実的で危険である、ということになります。最上段で掛け違えたボタンにしたがって掛けていく分にはその間違いに気が付かず、気が付いた者が直そうとすると、かえって違う穴に掛けようとしているかのように見えるわけです。そこで間違いの指摘に構わず、粛々と掛け続けていくと最下段で間違いが明白になりますが、それでも正しいと言い張っています。
この最下段に当たる沖縄県民の声が一切無視され、まったく物理的にさえ非現実的な辺野古新基地建設が強行されているのは、元をたどれば単独講和と安保条約締結にあります。本土の人々は、ボタンの掛け違えの途中にあって、多くがその間違いに気づいていません。そうして沖縄の犠牲で「日米安保条約による平和」を享受してきたというのがブルジョア・マスコミの評価ですが、そのようなニセの「平和」によって日本は米帝国主義の侵略戦争の拠点として加害の一端を担ってきました。15年戦争での日本人の加害責任がよく言われますが、戦後もそれがなくなったとはいえません。この「平和」によって、日本人自身も戦争の脅威から逃れられず、今日では軍拡の道を歩み、唯一の被爆国でありながらその政府がアメリカに従って核兵器禁止条約に敵対するという体たらくになっています。ひとたび日米軍事同盟を認めてしまえば、こうした一連の政策展開こそが「整合的」であり、それを批判するのは「非現実的」に見えます。すると、戦争法廃止・辺野古新基地建設反対・地位協定の抜本見直しという、人々の生活から出てくる、安保条約廃棄しなくても可能な、地に足の付いた当たり前の平和要求さえ「非現実的」と言って大人ぶるという精神的転倒が生じます。戦争法に代表される、日米軍事同盟の異常な強化と軍拡路線という、いわゆる専守防衛・軽武装路線を超える対米過剰適応は新自由主義路線の一環ではありますが、安保条約支持の保守良識派・リベラル派でさえも容認しがたいレベルに達しています。そうした中で、安倍=菅政治に保守リベラル派なども反旗を翻していますが、安保体制の枠内で悪政路線に反対するのは腰砕けになる可能性が大きいわけです。上記の志位氏の講演も辺野古新基地建設に異論を提起した民主党・鳩山政権の失敗を引き合いに出しています。そういったとき、安保条約反対派という存在こそが、安保条約の枠内での当面の課題においても後には引かない理論的根拠と力を提供できます。なぜなら、全面講和・中立・非武装という戦後体制の出発点でのオルタナティヴを掲げたことに発して、今日に至るまで安保条約廃棄とその先の展望を含めた将来像を一貫して、また時々の情勢に配慮して提起し続けてきた実績があるからです。それは世論を味方にする上でも重要な貢献を期待できます。人々の強力な支援があってこそ政権は真の変革を実行できるのであり、新しい政治への確信を空気のように醸成できることが決定的に重要です。志位氏の「二重のとりくみ」の第二の取り組みの方の大切さがここにあります。
閑話休題。何だか脱線しました。渡辺論文に戻ります。米中対決、日中軍拡競争という悪循環の中で、「日米軍事同盟強化による対中抑止力の向上」というのが、政府とメディアのふりまく「世間の常識」です。切り返すにはその危険性だけでなく、平和の展望を語らねばなりません。渡辺氏はまず現状を米ソ冷戦期と比較しています。米中・日中の経済関係や市民交流は冷戦期と比べればはるかに深まっており、「米中の覇権主義競争を軍事衝突にエスカレートさせない条件が形成されている。しかし問題は、経済的連携や市民の交流は自動的に戦争の回避を保障するものではないことだ。そのためには東北アジアの平和構築の枠組みをつくる当事国市民と政府の自覚的取組みが不可欠で」す(25ページ)。その点ではむしろ冷戦期の方が米ソ両国間に複数の条約が存在したのに対して、「現在米中の間には有効な核軍縮、通常兵器軍縮条約が締結されていない」(同前)と指摘されています。経済を中心とする平和にとって良い客観的条件とそれに対する政治的主体的条件の遅れが洞察され、このずれを是正すべきことに今日の課題が提起されています。そこで日本の役割が以下のように主張されます。
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日本はまず憲法を改正せず堅持することを宣言し、台湾も含めた東北アジアの国家・地域間の紛争の武力によらない解決のルールづくりを提唱すべきである。日本一国では力が不足である。韓国、さらには内部に様々な対立があるがASEANにも呼びかけ、さらにG7加入のヨーロッパ諸国の一部にも声をかけるべきであろう。それと同時に、それら諸国と連携して核兵器、通常軍備軍縮の条約作りにも踏み出さねばならない。こうしたイニシアティブは急ぐ必要がある。同時に日本は、アメリカの戦争体制への全面的加担を決めた安保法制を廃止し、核兵器禁止条約を批准することで、武力によらない国際秩序作りの先頭に立たねばならない。 25ページ
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北朝鮮危機に対応した6ヵ国協議を発展させて、ASEANに倣った東北アジアの平和機構にする、という日本共産党の提言も併せて思い出されます。もちろん自公政権はこれらに逆行しています。しかし安倍=菅政権の9年近くは、渡辺論文紹介の始めに言及した「三つの悪政」の強行だけでなく、それに対抗する市民と立憲野党の共闘が結成され、改憲を阻止し続けた時代でもあります。それを伸ばして政権交代を実現し、「三つの悪政」を根本的に転換するためにも、こうした平和の展望を人々の間に広め、軍事的抑止力論を克服することが求められます。
もっとも、渡辺氏はこの論文では、当面する課題として現情勢の打開のため、市民と野党の共闘の一致点の枠内ですべきことを論じています。ただしその際も安保条約廃棄派として、自公政権の日米軍事同盟強化=改憲路線に問題の本質を見ています。したがって、「今度の選挙を、改憲と軍事同盟強化の道にNOを突きつけ、日本の進路を憲法の求める方向に転轍する機会にしなければならない」(26ページ)と締めくくることで、オルタナティヴの本質的性格を打ち出していいます。
このような確固たる姿勢が示せるのは、安保条約廃棄の展望を堅持していることから来ていると思います。渡辺氏らの編集による著書では、市民と野党の共闘の立場は前提としつつ、共闘相手である安保条約容認の「リベラル派」などへの批判も遠慮なく展開し、先々まで見通した展望をも含めて理論展開しています。そういうバックボーンがあってこそ当面の課題にも自信を持って対処できるのでしょう。なお、私は2017年から翌年まで知人らとその著書の学習会をしてレジュメ集を公開し、著者らからも好評を得ています(「渡辺治・福祉国家構想研究会編『日米安保と戦争法に代わる選択肢』(大月書店、2016年)を読む 平和構想学習会レジュメ集」)。
「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」とは何か
素人集団ですが、知人らと未来研究会と称した読書会をしており、今は斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020)を採り上げています。先日、私は「第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」を報告するためにレジュメを作ったのですが、読んでいて、「希少性」の論理一本やりなのに違和感がありました。そこには用語のあいまいさもあり、希少性で何でも説明できるように見えますが、それによって個々の論理が不鮮明になり、大ざっぱに統一されて分かった気になり、かえって資本主義の本質を見逃しているように見えます。
斎藤氏が言及しているわけではありませんが、すぐに思い出されたのが、ライオネル・ロビンズの有名な経済学の定義です。――「経済学は人間行動を研究する学問である。その際、人間行動を、諸目的と代替的用途をもつ希少な諸手段のあいだの関係として捉える」――これは一見すると、どこにでも適用できる経済学の抽象的な定義のようですが、事実上、商品生産における独立した競争的な人間行動を想定しています。実際には斎藤氏が指摘するように、希少性のないものもあります。ところがコモンを共同利用する共同体のあり方とそこでの行動様式は眼中にない定義になっています。資本主義的生産関係(搾取関係)もありません。だからこれはどのような対象にも適応されえる経済学一般の定義のように見えて、実は資本主義経済を市場経済に一面化した経済像を対象にした経済学の定義と言わねばなりません。
それとは違って、たとえばエンゲルスの定義(『反デューリング論』)は「経済学は、最も広い意味では、人間社会における物質的な生活資料の生産と交換とを支配する諸法則についての科学である。経済学は、本質上一つの歴史的科学である。それは、歴史的な素材、すなわち、たえず変化してゆく素材を取り扱う」というものです。あるいは、マルクス経済学では、経済学はモノとモノ、人とモノの関係を扱うように見えて、実は人と人の関係を扱う学問である、という生産関係を強調した定義もよく聞かれます。ロビンズの定義が一面的な市場経済像――資本主義を予定調和的に美化するもの――に基づくものであるとすれば、同様に希少性の概念を中軸とする理論展開ではその資本主義批判は本質を外すだろうと思います。
『人新世の「資本論」』の「第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」という意表を突くタイトルで、筆者は「資本主義=潤沢、社会主義・共産主義=欠乏」という世間一般のイメージを逆転させようとしているのでしょう。その狙いは了とします。人々のイデオロギー転換においては重要なターゲットです。しかし「資本主義VSコミュニズム」を語るのに、「希少性」概念を中心に置くことで、問題が「市場VS共同体」次元だけに解消し、「搾取VS非搾取」次元が欠落しています。欠乏や潤沢を語るには何よりも「搾取VS非搾取」を問題とすべきです。
斎藤氏は希少性と価値(価格)について次のように述べています。「なんらかの方法で、人工的に希少性を作り出すことができれば、市場はなんにでも価格をつけることができるようになる」(250ページ)。「土地でも水でも、本源的蓄積の前と後を比べてみればわかるように、『使用価値』(有用性)は変わらない。コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての『価値』を増やすのである」(251ページ)。しかし希少性が価値(価格)をつけたり、希少性の増大が価値(価格)を大きくしたりするのではありません。確かに使用価値があふれ出ていれば価値(価格)はつかないので、希少性がなければそれがつかないとは言えますが、希少性があるからと言ってそれがつくわけではありません。たとえば、封建的共同体の自給自足経済で、農民がわらじをつくる場合、それは希少ですが価値(価格)はつきません。希少性は価値(価格)形成の必要条件ですが十分条件ではないのです。商品生産(社会的分業と生産手段の私的所有)の成立によって始めてそれはつきます。また希少性の増大が商品の価値(価格)を増やすというのは、労働価値論から外れた需要・供給論です。供給が過少で需要が過大となり、価格が高騰するというのは、一部の希少な商品には当てはまっても、普通の大量生産の商品には当たりません。ここには、市場価格の不断の変動の次元と長期平均的な価値水準の次元との区別がはっきりしていないという問題もあります。
こうした誤った理論的前提の下で、斎藤氏は使用価値の希少性の違いで欠乏と潤沢を語っています。「市場:希少性高い:欠乏」VS「共同体:希少性少ない:潤沢」という図式です。ここには「欠乏」「希少性」「潤沢さ」という用語の多義性・あいまいさがあります。たとえば、太陽光・風力は生産手段としても消費手段としても確かに素材的に潤沢ですが、土地はそうではありません。そこで言うコミュニズム下での潤沢さとは、社会的所有による共同管理、一定の規範の下で誰にでも開かれ使用が自由であるという状態を指します。この潤沢さとは比喩的表現に過ぎません。それを素材的潤沢さと錯覚させています。同様に通常の使用価値はどれもが素材的に潤沢であるわけではありません。労働者の消費手段について、斎藤氏はこう言います。「コモンズを失った人々は、商品世界に投げ込まれる。そこで、直面するのは、『貨幣の希少性』である。世の中には商品が溢れている。けれども、貨幣がなければ、私たちはなにも買うことができない。貨幣があればなんでも手に入れられるが、貨幣を手に入れる方法は非常に限られており、常に欠乏状態である。だから、生きるために、私たちは貨幣を必死で追い求める」(252ページ)。ここでは「貨幣の希少性」なる言葉を振り回すことで、あたかも労働者の苦難は市場経済の問題であるかのように語られています。労働者にとって貨幣が「希少」なのは、賃金が少ないからであり、まさに資本主義的搾取が原因です。場違いなところで希少性概念にこだわることで、資本=賃労働関係の問題を商品=貨幣関係の問題に解消して、搾取を隠蔽するブルジョア経済理論と同様の誤りに陥っています。労働者にとっての「貨幣の希少性」つまり資本主義下での希少性なるものは強搾取による低賃金が原因であり、対して、コミュニズム下でのその潤沢さなるものは搾取から解放された状態を指します。したがって、問題の核心は使用価値の希少性ではなく搾取の有無と捉えるべきです。
こうして見ると、斎藤氏のいう「希少性」の意味するのは、私的排他的所有による有償性であり、同じく「潤沢さ」の意味するのは、社会的所有、民主的共同管理、構成員にとっての自由な使用権に基づく無償性ということになります。ここでのキー概念は、「希少性VS潤沢さ」ではなく生産手段の所有形態であり、その社会化の推進が前進への回答です。確かに資本主義下で消費主義的に歪められた「欠乏と潤沢さ」の本当の意味を考えることは大切です。しかし希少性概念を基軸に、それを無理に拡張することで問題の本質が不鮮明になっています。「コミュニズムの潤沢さ」とは、使用価値の希少性の少なさなどではなく、生産手段の社会的所有と非搾取によって説明されるべきです。これはごく常識的な話です。それを場違いな「欠乏」「希少性」「潤沢さ」という言葉で潤色することで論理が不鮮明になっています。この第6章では「希少性」概念を駆使して何でも説明できるがごとくの勢いなのですが、以上のように基本的な部分が間違っています。何かにつけ奇をてらわず、まず基本理論を確認することが大切だと思います。なお、中谷武神戸大学名誉教授もこの「希少性」論を批判しています(政治経済研究所編『政経研究時報』No.24-1(2021.8))。
2021年8月31日
2021年10月号
社会一般と資本主義との対比から労働を捉える
近年、自由時間論などを中心とした未来社会論が喧伝されるのは、もちろん社会変革の展望の一環として求められているからです。しかしそれだけでなく、私たちの生きている資本主義社会を相対化して見る一つの基準を与えるという意義も大きいと思われます。
「自分はどう生きるべきか、どう生きたらいいか」と問う場合、通常は「資本主義社会では」という前提で考えています。無自覚に。それは「剰余価値と資本蓄積を追求する資本の運動に適合するには」という前提で考えているということになります。しかしまずはそのような前提=限定を取っ払って、無限定に始めの自問を捉え直し、その上で資本主義社会では…と考えるべきではないかと思います。
資本主義による選別で多くの可能性があらかじめ排除されています。「生きづらい人」は敗者と思われていますが、別の社会であればうまく生きていけるかもしれません。資本主義社会は生きていける人間の幅をきわめて狭めています。しかしそこからはみ出た人が社会を発展させる潜在力を持っている可能性は否定できません。
資本主義社会はこうだからこう働いてこう生きる、という発想そのものが資本主義的に疎外され転倒しています。確かに今生きるに際して現実的にはそう考えねばなりません。しかしその前にそもそも人間が生きて働くとはどういうことかを問い、多様な働き方・生き方が可能となるような社会がありうるという想像力を具えていることが必要です。
どのような人も生きられる多様な豊かな社会を基準として想定し、資本主義市場経済を土台とする資本主義社会はそれを充たさないから止揚されねばならない、と考えること――そういう視点が前提にあって始めて資本主義市場経済・資本主義社会を正しく分析できます。普通は、それは偏った考えであり、資本主義を正しく分析できないと見られます。しかし、ある対象しかないという考えの方が、それを相対化できず、客観的に分析できません。資本主義的疎外で転倒した発想に占拠された頭脳では、資本主義を客観的に分析することはできません。
そこで、本源的なあるいは歴史貫通的な社会のあり方とその特殊資本主義的形態との関係を考えつつ(→☆補注)、前者を捉える観点を踏まえて、資本主義経済における矛盾の集中点とも言えるフリーランスの労働について考えてみます。フリーランスは労働者と自営業者との境界的労働を担っているので、資本主義市場経済とは何かを考える格好の対象だと言えます。杉村和美氏の「フリーランスの働き方と保護の課題」は、フリーランスの実態を「①発注者との力関係に差がある(交渉力や情報格差など)、②収入が不安定、③セーフティネットがない、というものだ」とし、「自分の裁量で事業を営む『自営業者』というよりも『他人(発注者)の利益のために』『他人の指示の下で』働き報酬を受け取る、限りなく『雇用労働者』に近い存在である。だが、日本の法制度は雇用/非雇用の2分法で成り立っており、雇用労働者は労働法等で守られているが、ひとたび『非雇用』となると無権利・無保護状態に突き落とされる」と指摘しています(39ページ)。
ここにあるフリーランスの実態3点は、自営業者にかなり重なります。自分の裁量で事業を営む自営業者の場合、①と②はある程度軽くすることもあり得ますが、③は同様です。多くの零細自営業者では①と②もフリーランスと変わりません。資本主義市場経済に生きる人間は市場競争と搾取にさらされます。労働者は搾取され、自営業者は競争の脅威に向き合わされます。資本主義的搾取において、資本間競争下で個別資本は労働者の生存権を否認せざるを得ません。それに対して、労働者階級の闘争は搾取を規制し、労働権を認めさせ、社会保障を勝ち取ってきました。資本主義体制が労働者の生存を前提にしている以上、総資本としてはそれに一定の妥協をしてきました。ところが「改革」と称して、この労働者の「既得権益」を掘り崩してきたのが新自由主義です。
市場経済で競争を繰り広げる自営業者は労働者のように団結して制度を勝ち取ってこなかったので、そうした「既得権益」がもともとありません。資本は労働者の一定部分を形式的な自営業者にして、無権利状態に置くことで、労働時間規制も社会保障負担も免れ、実質的に搾取強化できます。フリーランスとはそういうものを多く含みます。本来の自営業者にしても、形式的には搾取されていないとはいえ、取引上の力関係により収奪を余儀なくされます。フリーランスの搾取と自営業者の収奪との間に明確な境界線を引くのは実質的には困難です。
これまで資本主義市場経済が課す「無理」を、多くの人々が何とか引き受けてギリギリで頑張ってきました。しかしコロナ禍で頑張りの緊張の糸が切れてきました。杉村氏はメディア関係フリーランスへの聞き取り調査に基づいてこう指摘します。
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調査では、「フリーランスも入れる社会保険や雇用保険が欲しい」という回答が複数あった。フリーランスはこれまで、仕事や収入(生活費)の確保も、リスクマネジメントも、出産や育児、病気などのライフリスクに関しても、自己責任で対処してきた。フリーランスもそれが当たり前だと思ってきた。だが、今回のコロナ禍で、自己責任でこの苦境を乗り切るには限界があることに、自身も社会も気づき始めたのではないだろうか。
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この調査では、出版関係・映像関係・音楽関係・俳優・アナウンサー等々からの出産・育児と仕事との両立についての「困ったこと、欲しい(欲しかった)支援」についての生々しい悲痛な声が記されています。これらはやや特殊な仕事で、「好きでやってんでしょ。フリーランスの困難は初めからわかってたよね」とでも言われてきた立場かも知れません。しかしだからと言ってその困難が見過ごされていいわけがありません。こういう仕事は社会に潤いを与え、真に豊かにするうえで不可欠です。誰もが安心して生きられるように、様々な働き方があっても、安定した生活ができるにはどうしたらいいか、というふうに問題を立てるべきです。これまで私自身の感覚としても、様々な働き方があることは当然わかっていましたが、そこでも生活のあり方をどうするかに想像が至らず、個人任せの考えでした。これは社会全体の損失になります。資本の短期的利益追求は、出産・育児のような個人の幸せと社会全体の利益、双方を考えていません。資本主義市場経済は豊かな多様な社会のあり方を保証できないということです。それとは対照的に、そこにビルトインされていながらも、異質の原理からなる社会保障の普遍性が明らかになったということも言えます。今後とも、資本主義社会における資本主義原理と社会保障原理との矛盾は社会発展の原動力となります。
フリーランスの働き方について、日本での施策はなかなか進んでいません。そこで外国の例を見るといろいろな考え方・やり方があります。基本的には、これまで労働者が獲得してきた権利を、フリーランスにも何らかの形で一定程度与えるということでしょう。「ドイツやイギリスでは、労働者と自営業者の間に中間的なカテゴリーを設け、労働法・社会保障法の一部を適用する方式」を取っています。「フランスでは、2分法を維持しつつも、立法措置により労働法の適用範囲を拡大し雇用類似就業者の保護を行ってい」ます。アメリカでは「個人請負とされている就業者を雇用労働者の区分に戻す」というやり方です(46ページ)。フリーランスについて、労働者(性)を拡大して、自営業者(性)を縮小するという方向性であり、妥当でしょうが、なお残る自営業者性での公正取引の確保も必要となります。
杉村氏が画期的と評価するのが韓国の「全国民雇用保険制度」で、「雇用労働者だけでなく、全就業者に雇用保険制度を適用するという」のです。さらに「雇用保険の適用拡大に合わせて、母性保護給付の対象も広げ」ます(同前)。フリーランスの保護のあり方というのは、原理的には資本主義市場経済の下での人々の困難性を端的に衝きつけた問題であり、その解決方向として、韓国のように労働者・自営業者を問わない全人民的保障は注目すべき政策です。それは「雇用・非雇用にかかわらす、誰もが安心して働ける社会、安心して休める社会にしていきたい」(48ページ)という願いに適う方向性であり、様々な働き方によって、多様で豊かな社会を形成していく保障となるものです。それは、諸個人の自由な発達が社会全体の発展につながるものでもあり、資本主義社会を止揚する方向性を持っています。
☆補注 人間社会の普遍的な原点と資本主義社会の特殊性
資本主義社会で生涯をすごす人々は、それを唯一の社会形態と見誤ります。そのことは他の社会形態を経験していないことから来るだけでなく、資本主義経済の仕組みそのものからも来ます。前近代の階級社会とは違って、商品生産・資本主義的生産の物神性(と領有法則の転回)は搾取を隠蔽し、その社会のあり方を自然なもの・永遠のものと錯誤させます。通俗的なテレビ番組によく見られるように、歴史上に様々な社会があることを知っていても、それを「ビジネス」の観点で語ったりして、その評価基準が資本主義的であることが多い。こうした没歴史的社会観では、未来社会と言っても資本主義社会しか考えられません。
それが社会変革への想像力を奪っています。根本的な社会主義的変革だけではなく、資本主義の枠内での変革に対しても強力な反対要因となります。たとえば格差・貧困は資本主義そのものが原因で起こっている以上、資本主義への規制が必要ですが、それに対しては常に「資本主義的活力を奪うことに反対する」支配層の立場からのイデオロギー的反撃が生じ、それが人々の社会意識に影響を与えて、ささやかな改良でさえなかなか実現しません。それを押して獲得した小さな成果でさえ、常に「既得権益を打破する改革」(人民の利益を強奪する政策を「改革」=社会進歩の政策と偽装する常套句)に押し返される恐れがあります。それを突破するには、資本主義的現実のあまりのひどさとともに、資本主義そのものに対する懐疑の高まりが必要です。前者の客観的要因の激化に合わせて、後者の主観的要因を高めるよう準備することが求められます。
一般的には、確かにどのような社会であれ、個人のわがまま勝手がそのまま許されることはありません。何らかの協調性がなければ社会の中で人は生きていけません。しかしそういう超一般論で、眼前の「生きづらさ」を説明することはできません。この社会はあまりに多くの人々の可能性を奪っているのではないか。利潤追求が至上命令という経済のあり方が人々の生き方を規定している社会――それは「資本主義社会のわがまま勝手」が人々を押しつぶしているということではないか。もちろん、資本が人間を疎外していることだけから、すべての説明がつくわけではありませんが、それを外しては空虚な精神論に終わってしまいます。
社会の土台となっている経済のあり方を歴史的にどう認識するかがまず大切です。資本主義経済ならびにその土台となっている商品経済も経済一般のあり方を前提として成立しています。以下でははなはだ不十分ではありますが、<(1)歴史貫通的に共通する経済の内容がそれぞれの歴史段階においていかなる形態で実現されていくか、(2)そのことを理解しない理論において、特殊資本主義的形態がいかに歴史貫通的内容と誤認されるか、両者を正確に認識する経済理論の体系はいかにあるべきか、(3)労働の本源的あり方の観点から資本主義的労働をどう捉えるか>について、諸論稿を紹介していきます。
有名な「マルクスのクーゲルマンへの手紙(1868年7月11日付)」は労働価値論の根拠を示し、生産物の交換価値とは何かを明らかにしています。
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どの国民も、もし一年とは言わず数週間でも労働をやめれば、死んでしまうであろう、ということは子供でもわかることです。また、いろいろな欲望量に対応する諸生産物の量が社会的総労働のいろいろな量的に規定された量を必要とするということも、やはり子供でもわかることです。このような、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではなくて、ただその現象様式を変えうるだけだ、ということは自明です。自然法則はけっして廃棄されるうるものではありません。歴史的に違ういろいろな状態のもとで変化しうるものは、ただ、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのです。
マルクス=エンゲルス『資本論書簡(2) 1867年-1882年』
(国民文庫、162・163ページ)
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これは特殊資本主義的経済そのものではなく、資本主義経済をも含む商品経済一般の説明ですが、それは資本主義把握に不可欠なものです。ここでは、「生産物の交換価値」とは何かが明らかにされています。それは「一定の割合での社会的労働の分割の必要」という経済の歴史貫通的内容が「社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態」つまり商品経済において実現される形態だというのです。
ここには、歴史貫通的な内容と特殊商品経済的形態との区別と連関が示されています。しかし商品経済の下で生き、この区別と連関の自覚がないところでは、生産物が交換価値を持つことはまったく「自然」だと思われ、社会的労働の分割はそのようにのみ行なわれると思い込まれています。つまり特殊商品生産的形態が歴史貫通的な内容に接合し、両者が混同され、前者が歴史貫通的なものとして把握(誤認)されることになります。
以下の論述は経済理論の体系をテーマにしていますが、上記の認識を問題にしている点が重要です。
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『資本論』が商品からはじまることから、マルクス経済学の出発点ないし下向の限界は商品でなくてはならず、それ以上に、たとえば労働、財貨等々に下向すると、ブルジョア経済学のように、生産関係の歴史的性格をみのがすことになる、とするのが通念をなしている――(補注)参照――。
しかしこれには根拠がない。第一に、労働・財貨から出発することは、『資本論』以後とくにソ連でのマルクス経済学で事実上なされてきたことである。日本でもまた、大方の標準的教科書が序論という形で、マルクスが『経済学批判』で省略した「一般的序説」を説いており、労働過程が事実上出発点をなしているのである。生産一般・労働・財貨等々から出発するのは、この慣行を理論的に整理したものにすぎない。
第二に、ブルジョア経済学が生産関係の歴史的性格を看過するのは、労働・財貨にまで下向しそこから出発するからではなく、たとえば財貨と商品を、労働生産物とその商品形態を区別しないことから結果するのである。もともと下向とは、混沌たる表象から諸範疇を分離・識別し、それらの存立の社会的条件を確定することに他ならない。だから、ブルジョア経済学の弁護論的性格は、財貨にまで下向せずに商品から出発すること、つまり財貨と商品をその差別と同一の諸側面において規定しえないことから発するのである。たとえば標準的教科書としてのヒックスの「経済学入門」The Social Framework,1952,
(酒井正三郎訳『経済の社会的構造』)をみよ。そこでは、分業一般と生産手段の私有制が区別されずに商品交換が説かれており、分業一般のもとでの労働生産物と生産手段の私有のもとでのその商品形態とがまったく識別されていない。
大島雄一『価格と資本の理論』増補版(未来社、1974年) 28・29ページ
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このようにブルジョア経済学は経済一般まで下向できず、それが何かを知らず、商品経済を経済一般と誤認し、そこから上向することになります。そこには商品経済を相対化する視点が成立しません。もっとも、マルクスにとっては商品経済の止揚は前提だったでしょうが、ソ連・東欧等の20世紀社会主義における種々の経済改革の失敗とその体制的瓦解を経験した今日では(この一連の経過を真剣に検討し、それを反面教師として役立てようとする努力を欠き、ただあれらはもともと社会主義とは無縁であった、とする姿勢ははなはだ理論的に不誠実だと感じる)、商品経済一般の止揚が可能かどうかは問題ではあります。しかしそれでも、商品経済への一定の規制なくして社会主義的変革(資本主義的搾取の廃絶)が不可能なのは当然であり、その意味で商品経済を歴史的に相対化する認識は不可欠です。
ここで商品経済の歴史的認識を問題にするのは、資本主義経済のそれにつながるからです。資本主義経済の土台をなす商品経済が相対化できれば、当然、前者も相対化されます。もちろん前者独自の歴史的認識による相対化という課題は残りますが。いずれにせよ、まとめて資本主義市場経済の相対化は、未来社会への想像力、社会変革の可能性の開拓にとって不可欠の前提です。資本主義市場経済の枠内でしか生きられないという限定を取っ払えば、多様な人間性の開花に合わせた社会変革という発想に移行することができます。
蛇足ながら、上記引用に従って、経済理論の体系について言えば、商品から始めるよりも、生産一般・労働・財貨から始める方が生産関係の歴史的性格を明確化できます。商品生産とは何かということを生産一般との関係から概念的に説明することは理論体系の最初に置かれるべきでしょう。
次に資本主義的労働の捉え方を問題とします。『資本論』では第1部第3篇第5章「労働過程と価値増殖過程」が該当しますが、本誌本号では観光学の問題意識から、山田良治さんに聞く「日本の観光 コロナ・パンデミック下で問われるもの」で以下のように主張されています。
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しかし、ドラッカーの期待にもかかわらず、現代社会が資本主義社会であるという点は今のところ不変です。人間社会の普遍的な原点は対自的な合目的的関係運動としての労働であり、この延長上に資本主義社会の原点は賃労働、すなわち資本の運動に包摂された労働です。したがって、資本主義社会を対象とする社会科学の基本的視座は、この観点から諸現象を認識するということに帰着します。
観光学に話を戻せば、拘束され管理された賃労働との関係において、観光を含む自由な余暇活動を認識することこそが、社会科学としての観光学の核心をなすことになります。余暇・観光を行う主体である市民は、同時に賃労働者です。その生命活動は、矛盾を孕む両者の統一として存在しています。観光諸現象を、こうした観点から解明することが、今こそ必要な時代と言えます。 144・145ページ
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まず「人間社会の普遍的な原点」として「対自的な合目的的関係運動としての労働」が、次いで「資本主義社会の原点」として「賃労働、すなわち資本の運動に包摂された労働」が捉えられ、併せて「矛盾を孕む両者の統一」が看取されています。現状分析ではしばしば「人間社会の普遍的な原点」が忘れられるので、それを現状批判の起点として堅持することが大切です。観光は「自由時間の拡大」という未来社会の核心に関わる活動なので、その視点から現状批判につながる認識が発生しやすいと言えます。
最低賃金1500円を実現できる日本経済のあり方
最低賃金1500円を実現するために、どのような運動を作っていくか、日本経済をどう変革すべきか、あるいは逆に、それを実現することで日本経済にどのような発展の展望が開けるか、といったテーマについて多彩に論じたのが、中澤秀一・大内裕和・柳恵美子・山縣宏寿・佐久間英俊・梶哲宏の各氏による誌上シンポジウム「『全国一律・最低賃金1500円』で日本経済の再建を 最低賃金を国政の焦点に」です。そこでの多岐にわたるテーマの中で以下では、低賃金を生む日本経済の構造とそれを是正する方向性について若干考えてみます。その際に多くの要因の中でも、グローバリゼーション下での搾取・収奪の強化を伴う低価格競争の構造に焦点を当てて見ていきます。
日本の平均賃金は未だに1997年水準を回復できていません(75ページ)。このような賃金の低迷は少なくとも先進国では例外的と言えます。低賃金の中でも流通・サービス業が際立っており、全体の重石となっています。その原因として、非正規比率が高く、女性労働者が多いことがまず挙げられ、他に(1)家事労働や流通労働に対する社会的な偏見、見下し、(2)零細自営業者が多く存在すること、(3)独占資本・大手企業の収奪の横行などが考えられます(同前)。
このような低賃金構造をもたらした1990年代以降の日本経済・市場の変化を見る必要があります。90年代以降の長期不況下、財界は多国籍企業化を推進し、内需中心型企業も海外に目を向けていきます。低賃金による海外生産の低価格品が日本へ逆輸入され、低価格競争の条件がつくり出されました。こうして市場構造が大きく変換し、低価格競争に乗った独占資本による蓄積が強化されました(同前)。
1980年代までは建値制度が機能し、メーカーが商品流通でチャネル・リーダーを演じ、安定価格で自社製品を優先販売してもらっていましたが、90年代以降はそれが崩壊し、激しい低価格競争が展開され、それでも利潤をあげられるよう、搾取・収奪が強化されます。この収奪とは、商品の不等価交換による超過利潤の獲得です。力の強い企業は弱い企業や消費者に対して有利な形で取引を行なってそれを実現します。たとえば大手外食チェーン店は、大量取引に伴うメーカーからのリベートを利用してメニューを低価格化し、地域の中小業者を淘汰します。独占資本による「隠れた価格譲歩」を用いた収奪の構造がここにあります。消費者との関係では 大手メーカーによる消費者収奪として、(1)商品価格の吊り上げ、(2)商品の品質低下、(3)商品数量の削減、という三つの形態があります(75・76ページ)。
また製造業を下請けに組み込んだ独占的商業資本による市場支配が進んでいます。中央卸売市場が機能を縮小し、零細な生産者の価格保障が崩され、中小卸売業者・小売業者も立ち行かなくなっています(76・77ページ)。
以上のようなグローバリゼーション下での低価格競争を利用した搾取・収奪の構造を是正するため、<(1)賃上げによって内需拡大し、景気回復する、(2)中小零細事業者の社会的役割を再評価し重視する、(3)公正な取引を実現する>ことが求められます(77・78ページ)。
そのような是正が最低賃金の大幅な引上げを可能にし、またそれを起点に経済の好循環を実現していきます。それは公正な価格決定と付加価値配分の問題として以下のようにまとめられています。
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日本の中小企業は、まともな賃金と、技術・開発力に見合った取引単価が保障されていないということです。その原因は、中小企業への付加価値配分がされていないという問題です。 …中略… 中小企業と労働者がつくり出した価値が、不公正な取引関係の下で親企業に移り、大企業のふところに入っている …中略… 。
適正な最低賃金、働く人が普通に生活できる賃金の支払いを可能にする経済関係は、結局、適正な価格を保障する問題とつながっています。これを、どう是正していくか。当座は、最低賃金の大幅引き上げといった所得保障としてスタートします。そのための財政支援、直接の賃金保障制度も必要ですが、基本的には、公正な価格決定が可能となる社会的な仕組みがカギとなります。 79・80ページ
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まさに以上が問題の本質ですが、現実の厳しさの中で現象的には逆立ちして捉えられてしまっています。その事情は次のように指摘されています。
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ただ中小企業のところは、不公正な取引に置かれて、28円引上げ分も出す元手がないという声が出されています。本来なら、人間が働き続け、生活できる賃金水準をベースにして、それで成り立つ商品価格、取引の公正な価格を設定していくべきです。そこの収益構造や、経営の考え方がひっくり返ってしまっています。 83ページ
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ところで、「賃金上昇分を価格に転嫁していける制度をつくる」(91ページ)という発言を、マルクスの『賃金・価格・利潤』との整合性でどう考えるか、という問題が生じます。「賃上げは物価上昇を引き起こすので結局無駄だ」、つまり賃上げで実質賃金は上がらない、という主張に反駁するために、マルクスは、賃上げは商品価格を引き上げることにはならず、利潤を引き下げるだけだ、と説いています。価値タームで表現すれば、W=C+V+M
の内、Vが上がってもその分、Mが下がる、つまり付加価値(V+M)の内部構成が変わるだけで、W(=C+V+M)は変わらないとしています。賃上げによる各種商品への需給変動を経過して、供給側も変化し、結局価値通りの交換が貫徹し、商品価格が引き上げられるのではなく、付加価値(V+M)の内部構成の変化、この場合は搾取率の低下に帰結するというのです。
これについては、今日の日本経済で、大企業などからの不等価交換による収奪によって、中小企業などの取引上の弱者にとって、商品価格そのものが価値以下になっていると考えるべきでしょう。C+V+M のそれぞれの要素が過少であり、Wが価値以下になっています。搾取は付加価値(V+M)の内部構成の問題ですが、収奪はW(=C+V+M)の全体が不当に低く抑えられている状態です。資本=賃労働関係である以上、中小企業でもVとMの対抗関係はありますが、日本資本主義経済全体で見れば特に付加価値(V+M)が収奪されているところを奪還することがより重要です。中小企業にとっては、VもMも過少なのだから、Vを上げるのにMから取るよりも、Vの上昇分をW(=C+V+M)の上昇に転嫁することが必要です。したがって、「賃金上昇分を価格に転嫁する」とは、不等価交換を正して、価値通りの交換を実現することです。その価値移転は大企業が中小企業から収奪した価値を返還するという意味を持ちます(注)。
それを「誌上シンポ」では次のように示しています。「社会的に富は生み出されているのですが、大企業の内部留保に積み上がっています。問題は富の分配です。 …中略… /この社会では、労働を通じて必要な富が分配のメカニズムがかなりの程度、歪んでしまっています。そこを是正していくことが大事です」(89ページ)。――内部留保の一部は不等価交換による収奪から来ています――。それを受けて「そういう視点でいえば、最低賃金は賃金政策ではありますが、同時に所得再分配政策であるのです。最賃の引上げを通じて、所得が高い層から低い層へ移転するように分配する機能がある。 …中略… その理解が弱いので、最低賃金を28円上げるにも、企業の自助努力でやることだという受け止めが大きい。最低賃金というのは、低所得層へお金を回すための政策なのだと、そういう理解をもっと広げるべきだと思います」(同前)と指摘されています。
ここで、所得再分配政策とは、富者から貧者への恵みではないということが重要です。労働者階級と資本家階級との関係では、もともと経済的価値を生み出した労働者階級が搾取されているのをいくらか是正するという意味があります。大企業と中小企業との関係では収奪関係のいくらかの是正となります。
(注)商品価格を価値以下から価値通りにする(価格を上げる)場合、企業間取引では実質賃金を下げませんが、消費手段の場合には実質賃金を下げる効果があります。その際には、内部留保を取り崩すなどして名目賃金を上げ、実質賃下げを避ける必要があります。
☆補注 低価格をめぐる言説
1990年代以降、グローバリゼーション下の低価格競争を利用したタカ派の新自由主義構造改革路線が全盛となり、「価格破壊」が喧伝され、小泉純一郎氏は「自民党をぶっ壊す」というフレーズで人気をさらって政権を奪取し、実際やったことは、人々の生活と労働をぶっ壊すことでした。社会保障に大ナタを振るい、「痛みに耐えよ」とまで言ったのですが、それがメディアで無批判に流され続けました。もっとも、体制擁護のメディアのホンネと合致したのだから当然ではありますが(それが証拠に、今日までの安倍=菅政権でも負けないほどのことをしていますがメディアは問題にしません)。
2009年にはさすがにこの路線が破綻し、民主党へ政権交代しました。しかし原因は措きますが、一部の成果はありながらも、大失敗に終わり、2012年末の総選挙で自公政権が復活し、第2次安倍晋三政権誕生となり、以後、菅政権を含めて2021年現在まで異例の暗黒強権政治が続いています。
鳴り物入りのアベノミクスが2013年以降実施されました。その看板は異次元の金融緩和です。日銀総裁の首をすげ替えてまで強行されました。もっとも、NHK会長も内閣法制局長官もお気に入りにすげ替え、イデオロギー(世論)と法を支配し(「法による支配」の逆転)、戦争法制定など、対米従属の新自由主義かつ保守反動路線を強権的に貫徹したのがこの政権の独自性です。普通の保守政権のように、せめてもの上品さを装う程のことさえせず、問答無用で「粛々と突破」です。
アベノミクス・異次元の金融緩和は新自由主義路線を根本的に変えるわけではありませんが、タカ派の構造改革路線を一定、軌道修正する弥縫策と言えましょう。端的な違い・その象徴は、「価格破壊」から「物価上昇目標2%」へのスローガン変更です。しかしグローバリゼーション下の低価格競争・賃金破壊という基盤はそのままなので、貨幣数量説に基づく外生的貨幣供給論とか「インフレ期待」への期待という主観的政策といった、理論的誤りを持ち出すまでもなく、その失敗は約束されていました。なお、アベノミクス・異次元金融緩和については、ニューケインジアンの政策だという見方がありますが、ニューケインジアンそのものがマネタリストに屈服したケインジアンではないか、と思います。
日本の新自由主義路線における、「タカ派構造改革」期と「アベノミクス」期における言説を検討しましょう。前者については、その支持者ではなく、対抗言説を唱えた内橋克人氏を見ます。9月1日に亡くなった内橋氏は「歴代自民党政権の新自由主義にもとづく弱肉強食の市場原理至上主義を告発し続けてきた気骨の経済評論家で」あり、「小泉純一郎首相の『構造改革』以来、安倍晋三・菅義偉政権まで、市場原理主義にもとづく『公共の企業化』によって医療・社会保障を無残なまでに切り捨て国民の命を危機にさらしてきた問題への厳しい批判者であるだけでなく、新自由主義と決別した新しい社会の姿を示してき」ました(「しんぶん赤旗」9月15日付)。
特筆すべきは、「タカ派構造改革」期において、規制緩和万能論を錦の御旗とする新自由主義路線が、メディアを完全制覇する中で、テレビ・新聞などで、御用学者や空虚なコメンテーターたちに囲まれながらも、孤塁を守り、反対の論陣を張り果敢に健闘されていたことです。当時、『世界』に連載された、新自由主義に対抗する学者たちとの対談を私は食い入るように読んでいました。単に批判だけでなく、岩波新書『共生の大地』などに代表される、新自由主義に代わる対案を世界中の実践から紹介されたことも忘れられません。
金子勝氏は内橋氏を以下のように称えています(「闘う主張、現場の声支えに 経済評論家・内橋克人さんを悼む」、「朝日」9月8日付)。
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理論が正しくて、現実が間違っていることはない。
内橋克人の仕事を貫いている精神だと、私は思う。1990年代、バブルが崩壊し、日本経済が行き詰まり出した時、大胆な規制緩和政策が声高に叫ばれた。規制緩和で市場原理を働かせれば、物価が下がって消費者の実質所得が上昇し、新しい産業が生まれるとわかりやすく説明された。この「新自由主義」のドグマはメディアも当然なこととして受け入れていった。
これに対して、内橋は95年に『規制緩和という悪夢』でアメリカの航空業界の実情を見ながら、安全性をも軽視する規制緩和の問題点を鋭く告発した。そして、規制緩和を主張した経済学者たちに敢然と立ち向かった。その後の格差拡大を含めて、結果は内橋の主張通りになった。当時、私はそれを見ながら、セーフティーネット論を組み立てていった。
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このように、大胆な規制緩和政策で市場原理を働かせて物価を下げ、消費者の実質所得を上昇させる、という新自由主義のパラダイスを世間が夢想していた中で、内橋氏は格差拡大などの問題点を指摘し、現実はその通りになりました。低価格競争の背景と問題点は上記「誌上シンポ」である程度解明されています。しかし「タカ派構造改革」期に「価格破壊」が喧伝され、世論を塗りつぶしていたことを忘れてはなりません。支配層は都合のいいイデオロギーを流布し、人心を操ります。しかしそこには必ずそれを見抜く真実の言論があることもまた忘れてはなりません。
「アベノミクス」期の低価格を語る言説としては、東京大学大学院教授・渡辺努氏の「(インタビュー)値上げ嫌いこそ元凶」(「朝日」9月8日付)を最近見ました。驚いたことに、同記事では「日本の物価研究の第一人者、渡辺努さんは、わずかな値上げすら受け入れない私たちの心理こそが『主犯』とみる」そうです。「要は『気も持ちよう』」とまで言っています。社会科学は人間の行動に関連した科学なので、すべては「気の持ちよう」にしてしまうこともできます。しかしそれで科学と言えるだろうか。
前掲の山田良治さんに聞く「日本の観光 コロナ・パンデミック下で問われるもの」では、
「多くの観光学の文献では、現象形態の描写と諸現象をめぐる直接的な因果関係の分析にとどまっているように見えることです。総じて、枝葉はあっても幹がないという印象です。/これは実は、観光学にとどまらず、既存の人文社会科学の諸分野にも程度の差はあれ該当することでしょう」(144ページ)と言われています。現象間の因果関係にとどまらず、そこに通底する本質を解明するのが科学だということでしょう。物価が動かないのは「気の持ちよう」では何も解明しておらず、社会に関する科学とは言えません。上記「誌上シンポ」では、低価格を新自由主義グローバリゼーション下での現象として、経済構造の変動の中で解明しようとしており、対照的です。
また渡辺氏はリフレ派と同じく、ただ物価を上げればいいと主張しています。しかし物価変動は様々な要因によるのであり、私たちとしては、労働者・人民の生活と労働ならびに営業に有利なように価格変動が起こることが重要です。労働力の価値以下の賃金や価値以下の商品価格を是正することで、生活と営業の正常な再生産を可能にし、それを前提とした健全な地域経済・国民経済が再建されることが求められています。実体経済を活性化できない異次元金融緩和は、カネ余りを促進し、株などの金融資産価格の高騰に資するばかりで、格差・貧困の拡大を助長するだけです。
以上、特集「コロナ禍と不安定雇用」に関連して、もっぱら理論的に興味のおもむくままに書いてしまいました。切実なテーマにもかかわらず、運動的・政策的に役に立たないことにはご寛恕を願うばかりです。
資本主義市場経済下でのコモンの可能性
斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が話題をさらっています。同書では、資本主義への対抗としてコモンが挙げられています。それは将来のコミュニズムの主役であるとともに、資本主義下でも変革の基地として位置づけられています。その議論に賛同するか否かは措きますが、眼前の問題として、資本主義下でのコモン、あるいは資本主義市場経済下における「市場VS共同体」のあり方を採り上げてみたいと思います。
2019年の朝ドラ「なつぞら」では、ヒロインの義理の祖父は腕自慢の酪農家です。開拓農民として出発し、一人で酪農の道を切り開いてきました。彼が農協には不満を持っていたけれどもやがて団結していく場面が出てきました。これは斎藤氏流に言えばコモンをテーマにしています。清水池義治氏の「日本酪農における新自由主義的改革 北海道酪農への影響から」は新自由主義改革に対抗する酪農家と農協の課題を描いています。清水氏は「農業政策は新自由主義の暴力性が如実に現れやすい分野のひとつである。なぜなら、農家や農政の合理的な選択の結果として、市場競争を抑制する制度・慣習が農業には多いからである。合理的な選択をひっくり返して、市場競争を促進するためには、国家による強制しかない」(135ページ)と指摘しています。
その「合理的な選択」の一つが酪農における指定団体制度であり、政府の新自由主義改革によって廃止されながらも、農協連合会による事業は実態として生き残りながら、困難を抱えているという微妙な状況があるようです。指定団体制度では、農協のみが指定団体であり、企業はなれません。農協は酪農家からの生乳出荷を原則拒否できず、全量販売に努める義務があります。農協の共同販売(共販)は「出荷量に応じた分配と負担」を行ない、乳業メーカーからの販売代金、販売コストを全酪農家で均等に分け合います。それについて「本来なら有利な条件で販売できる酪農家がその利益を他の酪農家と分かち合い、低い販売コストで販売できる酪農家がそうではない酪農家のコストも負担する。酪農家同士が販売面で競争するのではなく、互いに助け合うことで全体としてより有利な販売を目指すのが共販の意義である」(131ページ)と説明されています。
2018年の畜産経営安定法の改正による指定団体制度の廃止以降、一部酪農家による農協事業への「いいとこどり」を防ぐペナルティが導入されました。こういった一連の事態が、共販を支えてきた酪農家間の信頼関係の変質を招きかねない状況となっています。
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…前略… 農協共販はその高い市場シェアによってメリットが得られる事業である。よって、共販加盟者は、共販に加入する自分以外の農家も継続して共販に加入し続けるという前提に立脚している。もし、そうでなければ共販への信頼や期待は低下し、農協外出荷の方が利益を得られる農家を中心に実際に離脱者が相次ぐ。指定団体制度は、共販に対する酪農家の信頼や期待を制度的に担保する効果もあったと言える。
しかしながら、指定団体制度の廃止と、農協事業のフリーライドに繋がることもある「二股出荷」の制度的解禁は、これまで疑うことのなかった他の共販加入者に対する酪農家の信頼や期待を損なったのは確かであろう。「いいとこどり」を行う酪農家に厳格なペナルティを課す取引ルールの導入は、その証左である。
本来、農協共販は、協同組合としての性格と市場環境の変化に迅速に対応する必要から、共販加入者が同意すれば柔軟な対応ができる点が強みである。だが、厳格なペナルティを伴うルール策定は共販組織を硬直化させ、酪農家の一部には共販事業の権威主義化と受け止められる恐れがあり、共販の求心力だけではなく、遠心力としても作用するかもしれない。 134ページ
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このように新自由主義攻撃の下で誠に悩ましい事態になっています。労働組合にしても、労働者間競争を抑制し、抜け駆けを防いで、労働者全体の利益を守るものです。「農家や農政の合理的な選択の結果として、市場競争を抑制する制度・慣習」を守るには、個々人の実利をそれなりに尊重しつつ、信頼関係を高めていく運動が必要となります。個別分断の市場化攻撃のイデオロギーとの闘いもどこでも重要な課題です。斎藤幸平氏は資本主義への対抗原理ならびに実践の場として、コモンを高らかに宣言しました。その意義は認めますが、資本主義市場経済下でそれを維持し、運動体として高めていくには、普段の様々な事業の地道な継続とイデオロギー闘争、そして新自由主義政策との対決・阻止が求められるでしょう。
北欧の豊かな政治風景
9月26日のドイツの総選挙の結果が出て、社民党が第一党になりましたが、大敗したキリスト教民主・社会同盟とは僅差で、緑の党や自由民主党などを含めた連立交渉でどうにでも転び、国政の行方は予断を許さない状況です。
その前、9月12・13日に行なわれたノルウェーの総選挙では、保守党率いる中道右派の与党連合が大敗し、第1党となった中道左派・労働党が社会主義左翼党、中央党との連立協議に入るものとみられます(以下、「しんぶん赤旗」9月15日付による)。今回の総選挙は地元メディアから、「気候変動選挙」と呼ばれました。ノルウェーは、電力の95%を水力で賄い、新車販売の約70%が電気自動車(EV)という環境先進国である一方、西欧最大の産油国でもあります。それで、気候変動への危機感が高まる中、石油開発からの転換と社会福祉の充実を訴えた社会主義左翼党や、石油開発の即時停止を訴えた環境政党・緑の党に勢いが与えられる一方、労働党は、環境と雇用の双方に配慮するとし、石油採掘停止には踏み込みませんでした。今後、石油開発の継続か中止かをめぐる議論が注目を集めます。
また北大西洋条約機構(NATO)加盟国で、米国の「核の傘」に頼るノルウェーが、核兵器禁止条約にどのような態度を取るのかも注目です。労働党は公約で「NATO全体での署名の働きかけ」に言及したものの、ストーレ党首は「ノルウェー単独で署名できる条約ではない」との立場です。
一方、国内では、条約参加を支持する世論が圧倒的多数です。中道右派の自由党から、中央党、緑の党まで幅広い政党が署名に賛同しています。人権団体「ノルウェーゲン・ピープルズ・エイド(NPA)」のヘンリエッテ・ベシュリン代表は「労働党が政権を取れば、目標に向かって動かざるを得ない。他のNATO諸国と対話を開始することを期待している」と話しました。
気候変動や核兵器禁止条約が争点になって政権交代するなんて、このようなノルウェーの総選挙を見ると、日本との落差に愕然とします。特に安倍政権以降は、悪政がほしいままにされ、人々の生活と労働はどんどん悪化し、国政の私物化や政治汚職が横行しています。にもかかわらず、政治変革を求める世論はまだまだ弱く、政治不信や諦め・無関心が広がり、選挙はいつも低投票率に沈んでいます。日常会話で政治に触れることは事実上タブーになっています。この差に納得する記事がありました(「しんぶん赤旗」7月13日付)。
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ノルウェー在住のジャーナリスト、あぶみあさき氏の『北欧の幸せな社会のつくり方』(かもがわ出版)によると、同国では国民の4割が何らかの団体に所属しており、政党の党員になることもごく「ふつう」だと言う。大半の政党は熱意があれば12歳から入党でき、10~20代のうちは青年部に属し、母党からも独立して独自の政策を掲げ活動する。10代から政治に関わっているため、30代は既に十分なキャリアを積んでいる。政治参加といえば選挙での投票くらいで、投票率も大変低い日本から見ると、政治の風景の豊かさ、カラフルさはうらやましい限りだ。
北欧諸国は、いずれも比例代表制をとっている。考えてみれば、1人しか当選しない小選挙区制は究極の「多様性の否定」だ。政治教育の自由、子どもや若者の発言権の保障、選挙制度の改革―このあたりを皮切りに、日本の民主主義をぜひ深化させたいものだ。
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大学の学費がバカ高いのは日本の常識でも、世界の非常識だということが、ようやく知られるようになっています。日本の非政治的環境、その空気を読むことも世界の非常識だということ、少なくとも北欧には別世界があり、子どものころから政治に参加するのが当たり前だということを知らせることもぜひすべきでしょう。そうした広い裾野と日常的政治常識があってこそ、空虚なイメージ戦略でなく、質の高い政策論議を中心にした選挙戦が実現し、政治が良くなっていきます。
2021年9月29日
2021年11月号
日本産業・経済の停滞と衰退をめぐって
☆現状分析の様々な視点
最近、日本の金融市場が株式、円、債券の「トリプル安」に見舞われることがありました。また中国恒大集団が国内総生産(GDP)の2%にあたる約2兆元(約35兆円)もの負債を抱え、債務返済をめぐって経営破綻となるか否か、連日スリリングな展開となっています。中国では他にも経営危機に直面する不動産開発大手があり、世界経済への影響が懸念されます。世界的にはコロナ禍からの経済の立ち直りの中で原油の需要に供給が追い付かず原油高になったり、それとサプライチェーンの混乱の影響とによって欧米では物価高となっています。経済というのはいつも不安定なことが多いのでしょうが、最近の状況はいささかざわつきが大きいように見えます。
それらがリーマンショックのような経済危機に結びつくのかどうか、専門家でも判断が簡単ではないでしょう。もちろん素人にとってそのような難しい問題の判断は無理でも、経済の現状への理解を何とか深めたいとは思います。できれば政府統計などに直接あたって、日本と世界の広い現実の中から(それなりにあればの話だけれども)自分の経済感覚を加味して、問題意識をクリアにし対象を絞って、現状分析の確かな手法に則って眼前の経済を捉えられれば……。しかし能力的に到底かなわないので、手近な雑誌論文と新聞記事などを頼りにほんの少しだけ現実理解に接近できれば幸い、というところです。その場合、当然ながら当該論文や記事によって、視野と問題意識が限定されたり、立場や分析手法に影響されることになります。そこでそれらに完全に飲み込まれてしまわないように、自分なりに現実経済理解の基準や課題を意識しておくことが必要かと思われます。およそそんなことは、現状分析の能力のない者が抱くには不遜な姿勢だとも言えますが、オリジナリティとかアイデンティティへのこだわりは何とも捨てがたい性(さが)で仕方ありません。
「特集 日本の産業 復活の課題」の「特集にあたって」は、「コロナ禍が明らかにした日本の産業のあり様」(16ページ)から書き起こしていますが、総括的な巻頭論文である村上研一氏の「停滞・衰退する日本の産業・経済 日本の産業構造はどうなっているのか」は、「1990年代半ばから2019年までの産業別GDP(名目ベース)の推移」を見ることから始めて「日本経済の停滞と産業競争力低下の実態」(17ページ)を分析しています。コロナ禍で露呈した問題点はバブル破裂の1990年代以降の「失われた30年」に発している部分が多いと言えます。
日本の産業や経済の復活を問題にするに際して、そもそも経済とは何なのかという原点から発想する必要があります。「生きる、働く、暮らす、それを統合するのが人間の営みであり経済なんです」という内橋克人氏の言葉を掲げ、国谷裕子氏は「いったい経済学は誰のためにあるのか、人間を主語にした経済学を求めて活動をしてこられた内橋さんが私たちに投げかけた『人が人らしく生きられる社会』とは、どういうものだったのか」と問うています(「人が人らしく生きていける社会を 内橋克人さんが伝えてきた言葉」、『世界』11月号所収、23ページ)。内橋氏は規制緩和万能論が社会を荒廃させ、特に労働規制緩和で非正規労働が蔓延し、労働の尊厳が破壊されることを厳しく批判しました。こうした批判を惹起させたものは、人間ではなく資本が主語となった資本主義経済の(経済一般に対する)転倒的性格です。
いささか脱線しますが、内橋氏はかねてより、「FEC自給圏」構想を提唱し、市場原理に委ねてはならない三つ、Food(食料・農業)、Energy(エネルギー=再生可能エネルギー)、Care(介護・コミュニティ)を挙げていました。これを見た当初、食料とエネルギーは分かるけど、ケアが同格で並んでいるのが今一つよく分からないと感じました。しかしコロナ禍を経た今となっては、フェミニズムの視点からケアの重要性をしっかり教えられ、内橋氏の先見性がよく分かりました。経済理論はケアをマイナー視するのでなく、それを市場の内外を通して、経済社会を成立させる不可欠の要素として組み込まなければなりません。同様に、憲法25条2節に「社会福祉、社会保障及び公衆衛生」と並列されているのを見た当初は、前二者と後者が同格なのに若干の違和感がありました。コロナ禍を経てそれも解消し、25条の先進性がますます輝いて見えます。
閑話休題。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)では、世界を救う処方箋としての「脱成長コミュニズム」の第一の柱として「使用価値経済への転換」が主張されています(300ページ)。資本主義は使用価値でなく価値を生産目的としますが、それを逆転するというのです。歴史貫通的には経済の目的は価値ではなく使用価値の生産です。商品生産においてはそれが逆転・転倒し、資本主義的商品生産では単なる価値ではなく剰余価値が取って代わります。価値の追求は生業の枠内にとどまりますが、剰余価値の追求は際限がなく、人間と環境の破壊まで突き進みます。もちろんこの「転倒・倒立」は生産力発展にとっては歴史的必然という意義はあります。しかしもはやこの生産力発展は資本主義的生産関係とは矛盾する段階に達しました。「転倒・倒立」は正され、きちんと足で立つ「使用価値経済」への転換(=復帰)が求められます。生産力発展はそれに服さねばなりません。眼前の資本主義経済は当然その転換以前にあるわけですが、それを見る経済学の視点は「転倒・倒立」を克服する転換を見据えた正立状態でなければなりません。
しかし支配的経済学とその影響下にあるメディアの視点は、対象たる資本主義経済と同じく「転倒・倒立」しています。日本経済は「失われた30年」で他国と比べてGDPと賃金が低迷しています。その原因として、「朝日」10月20日付「日本経済の現在値」はいろいろ検討して結局のところ、「企業の稼ぐ力を高める成長戦略の失敗」を挙げています。賃金についても「生産性の向上や労使関係のあり方」が問題とされ、労使関係のあり方では労組の弱体化に言及され、その限りでは搾取の問題に触れているとも言えます。しかし生産性の向上が先に来ます。このようにGDPと賃金の低迷への解決策として、全体としては「世界で一番企業が活動しやすい国」をスローガンとしたアベノミクスと同様の認識であり、資本の利潤追求が優先されます。
同前記事の10月23日付では、2019年の「老後2000万円問題」に象徴される老後不安と雇用不安とによって、家計が苦しい中でも貯蓄が増えている実態が報告されています。貯蓄偏重は消費不振によって経済成長の足かせになります。老後などの生活不安について、同記事では「仮に月5万円不足するなら、それなりの生活をして支出を減らせばいい。大切なことは、どんな生活がしたいか考え、一人ひとりが必要な貯蓄額を知り、適切に備えることです」という、ファイナンシャルプランナーによる個人責任の精神論を展開しています。またアベノミクスによる株高で企業収益が増えてもトリクルダウンは起こらなかったということを指摘しつつも、「昨年に国民に一律に配られた給付金10万円の多くが貯蓄にまわったという調査結果もあり、財布のひもは簡単には緩まない。経済成長に期待が持てる政策を具体的に示さなければ、分配を消費につなげるのは難しいと言える」という言い方で、結局、分配よりも経済成長先行論、つまり企業中心主義に陥っています。
同日「朝日」の「データからみる家計の変化」は、非正規雇用の増大を背景に「共働きが増えているにもかかわらず、1世帯あたりの平均所得金額は、90年代半ばをピークに漸減し、近年はほぼ横ばいで推移している」と指摘しています。個人の賃金が1997年を頂点に下落しそれ以後回復していないとよく言われますが、世帯内での働き手の増加にもかかわらず、1世帯あたりの平均所得金額も伸びていないのです。それに連動して「日本の消費の伸び悩みは明らか」であり「00~19年の実質個人消費の年平均成長率は、G7の中でイタリアに次いで2番目に低かった」ということです。その要因として「社会保険料の負担増のために働き手の手取り収入が増えていない」ことが挙げられ、「消費が増えなければ企業は利益をあげられず、働き手の給与も上がらない。少子化を食い止めること、そして社会保障の費用をいかに抑えていくかが、今後の課題だ」と展開しています。こともあろうに社会保障削減論に踏み込んでいます。手取り収入が増えない最大の原因は賃金そのものが低いことであるのに、ことさらに社会保険料を強調するのは恣意的です。もちろん社会保険料負担が過大なのは問題であり軽減されるべきですが、そこから「社会保障の費用をいかに抑えていくか」というふうに社会保障そのものの抑制と読めるようなすり替えが行なわれています。
そして最後にはやはりファイナンシャルプランナーの「収入に合わせて自分の生活をデザインすることが大切」という自己責任論で締めています。確かにさしあたって資本主義下で個人が生き延びるためには、そうでもしないといけませんが、そこにとどまっていては経済学(経世済民の学)の意味はありません。資本主義経済の姿に合わせて「転倒・倒立」した経済学から脱することが必要です。表面的に現象をなぞるだけだと、それが現実とぴったりし、説明力の高い現実主義(リアリズム)だと勘違いされます。しかし経済の深部の力は何かを考え、人々の生活と労働・そこにおける必要性から出発する使用価値視点に転換し、剰余価値視点の経済成長偏重主義を克服することが求められます。
今回の総選挙では「成長と分配」が争点となっています。共産党は成長戦略の一つとして気候危機打開の取り組みを挙げています(「しんぶん赤旗」10月29日付)。それによれば、CO2削減目標を実現するための社会システムの大改革「そのものが、新しい雇用を創出し、地域経済を活性化し、新たな技術の開発など持続可能な成長の大きな可能性を持っています」。たとえば「未来のためのエネルギー転換研究グループ」による30年までの投資額と創出雇用についての試算では、「民間から151兆円、財政支出51兆円を投じることで、年間254万人の雇用を生み出すことができます。その結果、日本のGDP(国内総生産)は累計205兆円押し上げられる」ということです。
さらに同記事によれば、「大企業の目先の利益拡大と株主利益の最大化をめざす新自由主義によって、企業は省エネや再生可能エネルギーのような中長期的な投資より、短期の利益確保に追われ、金融投機やリストラによるコスト削減にはしりました」。その結果、大企業の内部留保の増大と対極的に賃金が低下し、「個人消費の低迷を背景にGDPはほとんど成長していません」。したがって「政治を変えて、貧困や格差をただし、国民の暮らしと権利を守るルールある経済社会をめざすなかでこそ、成長は可能になります」。
この解説記事では、「共産党の成長戦略」の柱は、(1)気候危機打開の取り組みでの地域経済の活性化などと(2)格差・貧困の是正による個人消費の拡大ということになります。もちろんそれらは必要不可欠なものですが、大企業が中心的に担ってきたリーディング産業の復活もまた残された重大な課題です。保守政権のような大企業奉仕(強搾取・資本蓄積第一主義)ではなく、人々の生活と労働の発展を出発点として、国民経済のバランスある発展の中にどう位置づけるかという観点を堅持しつつ、その課題を果たさねばなりません。それは資本の論理に沿わない部分が多くなりますが、規制と誘導を通じて資本を制御し、人々の生活と労働を守るのが民主的経済政策の要諦です。
日本経済の停滞・衰退というのは私たちが日々実感していることではありますが、特に国際比較で問題となります。日本の地盤沈下は顕著です。資本主義は常に世界資本主義として存在してきましたが、今日のグローバリゼーション下ではさらにいっそう国際関係・国際競争力が問題とされます。その際に、日本の産業の復活とか国際競争力の問題が直接的には資本主義企業の力の強さという形で現れ、人々の生活と労働がどうなるかという問題との関連が忘れられることに注意する必要があります。グローバル資本の利益と人民の利益との無自覚な同一視による国益論の陥穽もあります。
一国内での資本と人民との利害関係が国際関係においてどのように一致したり乖離したりするかをきちんと捉える必要があります。政治上で分かりやすい例が、日本を覆う「韓国バッシング」の問題です。そこでは、細かい点では日韓両国にそれぞれに問題があるのでしょうが、基本的構図は明確です。日本の支配層が植民地支配を反省しておらず、従軍慰安婦や徴用工の問題で必要な補償を怠って開き直っている点が最大の問題です。日本の民衆の多数派は支配層のイデオロギーの影響下にあるので、「韓国バッシング」が世論を覆ってしまいます。それは一見すると「日本VS韓国」の国益の対立のように見えますが、実際には両国それぞれの歴史認識における進歩派と反動派の対決です。植民地支配とその被害者との根本的対立の中で、<植民地支配に無反省な日本の支配層ならびにそれに宥和的な韓国の「親日」派>VS<それに批判的な両国の進歩派>というのが真の対立図式です。日本のメディアは一貫して韓国の「親日」派に好意的で、進歩派を敵視しています。それは日韓の国益の対立の反映のように見えて、実は両国内での進歩と反動の対立の中で反動派に与していることを意味しています。なお、言うまでもなく韓国で親日派と言えば、一般的な意味ではなく、かつての日帝の植民地支配の協力者の系譜を引く勢力という意味です。軍事独裁政権の大統領であった朴正煕がその典型です。
このように国際的な政治対決図式の一つの「日韓対立」における、現象と本質との典型的な対照に比べれば、経済の国際関係はそう単純ではないでしょう。たとえばエネルギーや食料の自国の自給率を上げる政策は、「自由貿易」至上主義の支配層にとっては都合が悪くても、その国の人民の利益には合うし、経済的安全保障にもかないます。しかしエネルギーや食料を輸出してきた相手国の人民の利益を害することになりますから、確かにここには国家間・諸国人民間の利害対立があります。進歩と反動あるいは支配階級と被支配階級との対決で何でも割り切るわけにはいきません。とはいえ、国益対立の現象は非常に見やすいのでそれにとらわれ過ぎる傾向があることを意識して経済の国際関係を見ることは必要です。
☆日本経済の衰退と克服の方向性
本誌「特集 日本の産業 復活の課題」(上)は、成長戦略に関する上記の「赤旗」解説記事が触れていなかったリーディング産業の復活の問題を主に扱っています。それはややもすると個別企業の技術や経営戦略の問題が中心になりがちですが、本特集はそうではなく、生活と労働の視点を位置づけた上で、戦後日本経済の成長経路と経済政策のあり方と併せて考えています。日本経済の衰退は、人々が日々実感している生活と労働の苦しさとともに解明されねばなりません。そうすることで始めて、倒立した経済学の処方箋としての搾取強化や社会保障切り捨てとは違った道の探究が始まります。
「戦後日本経済は重化学工業の生産力・競争力を強化し、工業製品輸出で得られる外貨によって食料・資源・エネルギーを海外調達してき」ました(前掲村上論文、26ページ)。こうした「内需よりも外需を重視する輸出依存的成長では、雇用・賃金が内需を支える役割が軽視される一方、コストとして競争力を阻害する要因と捉えられ、賃金抑制と非正規雇用拡大が進められ」ました(27ページ)。
2020年の品目別物価指数では、食料・交通・被服及び履物・家事雑貨・電気の上昇が顕著であり、国内供給力の衰退による「輸入品および輸入原燃料への依存度の高さが円安を通じて物価上昇につながったものと捉えられ」ます(21ページ)。ここにはアベノミクスの異次元金融緩和による円安が影響しています。円安による物価上昇が生活を直撃するこうした構造の前提として、輸入消費財の浸透があります。それは「実質所得の減退に直面した消費者が、より安価な輸入品の購買を選考した結果でもあり、国内生産力の衰退を招いているものと捉えられ」ます(23ページ)。このような<消費者の所得減少、消費財の安価な輸入品依存、国内生産力の衰退>という悪循環に人々が封じ込まれる中では、円安による物価上昇が大きな生活破壊力を持ってしまうのです。コロナ禍でマスクなど衛生用品の不足と価格高騰が激化しましたが、それはコロナ禍で顕在化しただけで、それが原因なのではありません。もともとのこうした日本経済の体質から来る問題です。
この悪循環は「失われた30年」の中から形成されてきました。「輸出依存的成長」の「成功」と破綻は以下のように捉えられます。
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従来の日本では、円安が輸出数量増大と国内生産・雇用の拡大につながったが、10年代には輸出産業の空洞化・競争力低下によって輸出数量は伸びず、製造業雇用も停滞した。雇用増は医療・福祉領域、とりわけ介護や保育分野が中心だが、介護報酬や保育報酬の抑制によって低賃金が放置され、他方で15年の労働者派遣法改定に象徴される非正規雇用の割合は約4割に達し、低所得層が拡大した。こうして、円安に伴う物価上昇に対して実収入の伸びが遅れ、実質所得の減退が進んだものと把握できる。 21・22ページ
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以上のような状況で「円安と労働コスト削減、企業負担軽減を進めた」アベノミクスは「実質所得の低下による内需の停滞、そして産業衰退を招く『自国窮乏化政策』に他ならなかったと評価」されます(27ページ)。為替ダンピングや低価格製品で輸出ドライヴをかけて稼ぐのを「近隣窮乏化政策」と言いますが、円安による輸入物価上昇を通じた海外への所得流出が円安のもたらす輸出拡大効果を上回ってしまう「自国窮乏化政策」とは言い得て妙であり(28ページ)、アベノミクスの陥穽を衝いています。
村上論文の対案は以下のようです。
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…前略…コロナ禍と環境問題によって経済活動のグローバル化の限界が認識され、また米中対立によってグローバルサプライチェーンが動揺する中で、これまで輸入を前提としていた産業―具体的には農林水産業やエネルギー産業など―の国内での再構築とともに、所得再分配による内需の拡大、地域社会や環境保全に資する地域を軸とした経済循環への転換が求められているものと思われる。 27ページ
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これは消費社会への反省に立って、安物でなくホンモノ指向の製品を享受する地域生活文化を再建することに繋がります。それには一定の所得を確保することが必要です。それを支えるのが新たな地域経済です。消費社会は「文明型産業」を土台とする「グローバル循環」によって形成され、世界を席巻しています。その主体はグローバル資本です。それに対して、地域密着型中小企業や自営業者などが、「文化型産業」を土台とする「ローカル循環」を農林水産業や地産地消のエネルギー産業などとともに形成していくことが、これからの豊かな生活と経済のあり方の目標となるでしょう(参照:吉田敬一氏の「亡国の日本型グローバリゼーションと地域経済・中小企業危機打開の基本的観点」、『前衛』2019年5月号所収)。ただし村上論文では、リーディング産業の衰退の状況が描かれていますが、その復活については課題として残されています。
リーディング産業については本特集の各論の諸論考がそれぞれに扱っています。ただしそれらが資本の立場とは違って一貫しているかと言えば、なかなか読み取り難いものもあるように思いますし、そうでなくても低迷と衰退からの脱出の人民的方向性をはっきりと示せているわけではないという感じもあります。
以上では、日本経済の低迷と衰退の原因として、需要側では低所得とそれによる消費の減退が挙げられました。一見するとそれと矛盾する消費社会的現象が不可分のものとしてあることが流通産業の分析からわかります。ネット通販がその舞台ですが、その前に独占的商業資本の展開の典型として「ウォルマート化現象」を見ます。「世界最大の小売企業ウォルマートが進出してきた地域では、既存の小売業や納入業者も価格を引き下げざるを得なくなり、全体的な低価格競争が引き起こされ、それは必然的に低賃金に至る。それが地域全体の経済力の低下につながり、地域社会が劣化していく」というわけです(佐々木保幸氏の「日本の流通産業と『ネット通販』」、79ページ)。吉田論文を参照した上記の地域経済への言及はまさにこれと正反対の経済像を想定したものです。競争者の市場からの駆逐は小売業の多様性の喪失に至ります。この悪循環を断ち切る力は市場外から、小売業者や消費者による社会運動、そして公共政策としての流通政策とされます(同前)。
このウォルマートをも脅かすのが「アマゾン・エフェクト」です。「アマゾンの事業モデルは情報通信技術を利用し、現代的な装いを凝らした通信販売業であり、かつプラットフォーマーとしてはショッピングセンターの発展形態で」す(78・79ページ)。「薄利多売の販売方法を徹底的に推し進めて市場侵攻を図って」(78ページ)、「他企業の吸収合併も積極的に行い、資本の集積と集中を進めて、大規模商業資本となり、さらに市場競争を制限する独占的な商業資本としての地位を築いたので」す(79ページ)。
ここで注目したいのは、危機の先鋭化する現代資本主義下での経済的・社会的変化(新自由主義政策下での消費社会化の深化)がアマゾンの基本的事業モデルと合致したということです。雇用の非正規化が進み、低賃金・長時間労働が蔓延する下で「消費者は生活防衛を第一に考えざるを得なくなり、また購買時間にも敏感になった。アマゾンや楽天が提供する低価格商品や宅配サービスの利便性が消費者のニーズに合致したのである」(78ページ)と評されます。まさにアマゾン型事業モデルは広い意味での一種の貧困ビジネスと捉えるべきであり、生活と労働を貧困化する(労働条件悪化と生活の空洞化=消費社会化)現代資本主義に適合しています。
佐々木氏は「流通過程における多様な小売業の存在は、市場原理にまかせては維持できない」として、「一般中小書店の持続性を確保するため、書籍文化を守るという文化的観点」に立つフランスの通称「反アマゾン法」を紹介し、「資本主義の矛盾が極めて先鋭化している今日、経済活動と社会的規範あるいは社会のあり方を不可分に捉えて、公的政策として対応していく方向が、ネット通販という小売部門の領域でも求められているといえよう」(83ページ)と結論づけています。その上に、上記のような消費社会化を克服すべく、ローカル循環を実現した地域経済の形成によって地域生活文化を再建することが必要ではないかと思います。
☆「脱成長」について
さらに残された問題としては、そもそも経済成長をどう捉えるかということがあります。以上では日本経済の停滞と衰退を前にして、経済成長は必要であるという前提で議論していますが、その否定論が最近では一定の地歩を築いています。斎藤幸平氏は気候危機などの環境制約から脱成長が不可避であるとして次のように主張します。
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そのために、コミュニズムは生産の目的を大転換する。生産の目的を商品としての「価値」の増大ではなく、「使用価値」にして、生産を社会的な計画のもとに置くのだ。別の表現を用いれば、GDPの増大を目指すのではなく、人々の基本的ニーズを満たすことを重視するのである。これこそ、「脱成長」の基本的立場にほかならない(第三章参照)。
その際、生産力を限りなく上げて、人々が欲するならいくらでも生産しようとする消費主義の過ちを、晩年のマルクスならはっきりと批判しただろう。現在のような消費主義とは手を切って、人々の繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に、自己抑制していく。これが「人新世」において必要なコミュニズムなのだ。
前掲『人新世の「資本論」』、302ページ
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これは消費社会化の克服という上記の問題意識とはいくらか重なる部分があるように思います。「自己抑制」という言葉は抵抗感を惹起するかもしれませんが、消費主義の歪みを是正するという意味では積極的に受け止められるでしょう。しかし「脱成長」が「日本経済の低迷」と重なると、その克服による生活向上という当面する政策的課題との関係ではどうなのかという疑問は生じます。もちろんコミュニズムと結びつけられた「脱成長」(それが可能な経済像かどうかはここでは措く)は新自由主義のもたらした今日の日本経済低迷とは区別すべきものですが、私たちの現時点での出発点は後者であり その克服が喫緊の課題です。
これに対して、脱炭素の対策では雇用拡大と経済成長をもたらすとしているのが、「気候危機を打開する日本共産党の2030戦略」(2021年9月1日発表)です。すでに紹介したように、この戦略では新たな投資と雇用を創造することでGDPを押し上げます。気候危機という環境制約による脱成長ではなく、逆にそれへの対応で経済成長を実現できるとしています。この政策の打ち出しの問題意識が次のように掲げられています。「脱炭素化、省エネルギーと再生可能エネルギーの推進は、生活水準の悪化や耐乏生活を強いるものでも、経済の悪化や停滞をもたらすものでもありません。それどころか、新しい雇用を創出し、地域経済を活性化し、新たな技術の開発など持続可能な成長の大きな可能性を持っています」。
ここにある「生活水準の悪化や耐乏生活を強いるもの」は単に選挙政策としては人気がないから出せないということではないと思います。それはすでに新自由主義が強いてきた「経済の悪化や停滞」の帰結としてあるものなので、否定されるべきであり、環境制約に適合した新たな生活の豊かさを創造していくオルタナティヴ的な経済像の追求という課題設定であると言えます。斎藤氏が経済成長を否定している理由は、何よりも気候危機という環境制約であり、その上にグローバル・サウスを犠牲にした帝国的生活様式への反省です。であるならば、気候危機対策と消費主義的生活様式の見直しとの上に成立する新たな豊かな生活とそれに適合的な経済像のあり方の追求は必ずしも経済成長と両立不可能とは言えないでしょう。共産党の前掲「2030戦略」はそうした課題追求の一環として評価できるように思います。
すでに保守リベラルあるいは現実主義の立場から寺島実郎氏が「脱成長」への疑問を呈しています(「脳力のレッスン 特別編 日本経済・産業再生への道筋(中)――『脱成長』という視界から新たな産業論へ」、『世界』11月号所収)。「すでに日本経済は、『脱成長』の先行モデルといえる現実をもがいている」とか「豊かさと自由を求める暮しを『帝国的生活様式』とし」ているのは「ここに生きていること自体が原罪であるかのような論理に帰結し」、「『革命』(市民蜂起)か『宗教』(自戒、隠遁)になるであろう」(103ページ)などと批判しています。社会主義とか資本規制に対する批判も述べられています(102ページ)。そこにはいかにも保守的偏見が含まれているとはいえ、それらは通念的疑問であり答えるべきものです。その一部に対する私の回答は上記のとおりです。
金子勝氏もやはり「脱成長」を言うと日本経済の停滞と重なってしまうという問題点を指摘しつつ、「分配と成長」について論じています(「日本経済が抱える問題どうみる」、「しんぶん赤旗」9月28日付)。
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「新自由主義」「市場原理主義」からの脱却は所得の再分配だけいっていればいいかというとそうではありません。新しい科学と新しい産業についてしっかりしたビジョン・戦略を持つことが必要です。
北欧諸国の今の在り方をみると、やっぱり教育や技術開発にすごくお金を注いでいます。そして、成長戦略ももっています。雇用も賃金も獲得しながら再分配もやっています。成長と所得の再分配とか、成長と環境というのは二者択一ではありませんよ。両方を追求する必要があります。
資本主義が悪いから「脱成長」といってしまうと、今の経済衰退のままでいいことになってしまう。
今までの安易な財政金融依存型ではなく投資主導で新しい経済をつくっていくことが必要です。
「成長」という言葉に抵抗感がある人もいます。だったら、「雇用をつくる」と言えばいい。環境と雇用をつくる。生きていくための生業(なりわい)をつくっていかなければなりません。
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これは現実的な政策論としてバランスが取れていると思います。どうしても政府批判派は分配偏重の印象を与える議論になりがちですが、生産の側の民主的刷新も併せて打ち出すことが必要です。
以上のように私は斎藤氏の「脱成長」論にすっかり同調するわけではありませんが、その問題意識は尊重すべきであると考えます。小西一雄氏は「成長信仰」との決別を唱え、発展途上国については、従来の先進資本主義諸国とは違う、格差是正を伴った成長のあり方(「気候正義」ならぬ「成長正義」)を追求すべきであり、先進資本主義諸国についてはさらに厳しく以下のように指摘しています。
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これら諸国で「さらに成長を」と叫ぶことは、三重に間違っている。第一に、それら諸国ではそもそも資本主義的成長それ自体が困難な段階に達しつつあることである。第二に、それにもかかわらず成長政策を進めようとすると、それはかえって国民生活を悪化させることになるということである。第三に、「成長信仰」は現在の生産力水準でも十分に達成できる諸課題を覆い隠すことになるということである。実質GDPが伸びても人々の「平均的な生活」が豊かにならなかったという事実は、こうしたことの端的な現われである。
ここで問題としているのは、「先進国」はマイナス成長でもよいとか、ゼロ成長が望ましいというような議論ではない。経済成長を第一義として経済を語り政策を立てる時代は終わったのだということであり、経済活動と経済政策のパラダイム転換が必要だということである。そのパラダイム転換の要が「利潤原理の相対化」である。
『資本主義の成熟と終焉 いま私たちはどこにいるのか』(桜井書店、2020年)
32ページ
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これは「資本主義の成熟と終焉」という小西氏の段階認識に基づく議論であり妥当と思われます。関連して私なりに次のようなことを思います。恐慌の究極の原因は、労働者階級の狭隘な消費限界に対する過剰生産=相対的過剰生産にあります。それに対して経済政策による(再)分配の是正によって資本主義は生き延びてきました。しかしそれがしっかりとは機能していないことによって、新自由主義下での格差と貧困の拡大が見られます。もうちょっとうまくやれ、というのが今どきの常識的雰囲気でしょう(立場を超えて噴出する新自由主義批判)。しかし今日の資本主義は全体が、とは言いませんが重要な分野で絶対的過剰生産(例えば鉄鋼)に陥っており、(再)分配の是正だけでは解決できず、むしろ計画的生産による労働時間短縮の客観的条件が成熟してきたとも言えます。「脱成長コミュニズム」論が登場する背景にある「資本主義の成熟と終焉」を精査することが必要です。「脱成長コミュニズム」論は単なる経済思想であって、経済政策に裏打ちされず、社会変革の運動に十分に通じていないアバウトな議論だと言って単に捨て去るのではなく、様々な現状分析の深化と総合による資本主義の歴史認識の形成と併せて考察されるのを待っているように思えます。
遺憾ながら問題意識がまだ漠然としていてクリアでないところで徒然なるままに書いてしまいました。妄言多罪。
統計調査と現状認識と政策
『前衛』11月号所収の蓑輪明子さん(名城大学准教授)に聞く「コロナ禍のケアの現状は何を問いかけているのか――女性・非正規にも及ぶ対策は緊急」は、独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)とNHKによる「新型コロナウイルスと雇用・暮らしに関するNHK・JILPT共同調査」ならびに首都圏青年ユニオンが行なったインターネットアンケート「コロナ禍での子育て・働き方アンケート」(2021年6月10日~6月17日)に基づいて、現状認識を示し、日本と世界における政策的対応の違いを明らかにし、政策的提言にまで及んでいます。
注目したのは、調査結果を活用し現状認識を深めるにあたっての現場への理解の重要性です。たとえばコロナ禍でシフト制労働者の問題が顕在化しました。事業主都合による休業に対する補償が問題になる中で、シフト制労働者については休業補償の対象とならないとされました。もともと「シフト制労働は事業主が一方的にシフトカットして雇用調整できるしくみでもあり、労働者は容易に失業、半失業状態におかれてしまいます」(89ページ)。だから以前からあった問題がコロナ禍で顕在化したということです。それでも労組の奮闘で休業補償を勝ち取っているという報道もあるようですが、多くのところで無補償がまかり通る現実は、制度そのものだけでなく、平時からの運用実態にも原因があります。その現場の機微とでもいうべきものを蓑輪氏は聞き取って活写しています。
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平時にもシフト制労働者が学校行事や子どもの風邪などで休むときにはシフトを入れない、入らないという形で「休暇」をとるために、やはり無給になっている。子どもの関係でシフトに入れない日が多く続くと、「この人は使いにくい」と希望のシフトに入れてもらえなくなるので、相当に気を遣って休んで、経営者の顔色をうかがっているということも聞きました。ですから、コロナ禍でもいつもと同じように、シフト制労働者はシフトを入れない形で「休暇」をとり、無給となっているのだろうと思われます。 91ページ
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障害児の親など特別の困難を抱えた労働者の事情についても当事者の立場になって描写しています。
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なお、障がいを持つ子どもなど、ケアをより必要とする子どもの親たちには、非正規雇用が多いことも忘れてはなりません。 …中略… フルタイムで働こうにも子どもの世話のために休みや時短をとる必要もあり、企業から嫌がられたり、自ら希望してパートタイムとして働いていたりするからです。しかし、非正規雇用の人たちはコロナ禍で雇用と所得を奪われています。よりケアの基盤を大事にしなければいけない人ほど、コロナ禍で雇用と所得から排除され、ますますケアの基盤は奪われているという問題があるのです。
親の中には困窮するのは自分たちの頑張りが足りないからだと思っている方もおられるようですが、生活困窮は本人の責任ではなく、政策の欠陥にほかなりません。
93ページ
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様々な問題を全体的・客観的に明らかにするには統計数値などが必要です。ただそれだけでは実感に迫った解明にはなりません。現場・当事者の実情に踏み込むことで統計数値などにも血が通うというものです。上記のように労働と生活の実態をはっきりと見せることで、自己責任論への反論も説得力を増します。
「朝日」10月28日付の山口慎太郎東大教授(労働経済学)の「科学的根拠で政策の判断を」という評論記事はコロナ禍対策の問題かと思ったら、氏の専門の最低賃金の研究についてでした。今年のノーベル経済学賞の「研究では、米国で最低賃金が引き上げられたにもかかわらず、雇用が減らなかったことを明らかにした。これを根拠に、日本でも最低賃金の引き上げを行うべきだとする主張も多い」。しかし日本では最低賃金が上がると雇用が減ることが、「自然実験」の手法を用いた二つの研究で明らかになっている、というのです。
日本でそうなる理由を山口氏は「デフレ」と「中小企業保護政策」の二条件であると推測しています。消費者の抵抗で賃上げに相当する価格を引き上げられない、賃上げに耐えられない中小企業が淘汰されない――そういう企業は最賃が上がったら雇用を減らす、というわけでしょう。したがって、二条件を変えるか、最賃引上げではなく「給付付き税額控除など別の再分配強化策を推し進めるなりするほうが格差縮小や貧困削減に有効だろう」と主張しています。
それが「科学的根拠に基づく政策形成」である、と。その上で「研究は、時に期待と大きく異なる事実を突き付ける。正しいと思う政策に、期待したような効果が見られないことが示されると、抵抗感や拒否感を抱くだろう。しかし、研究が示す事実を前に意見を変える覚悟があることこそが、私たちの社会をより良くするうえで真に必要なのだ」と啖呵を切っています。これで研究者の良心を示したつもりだろうが果たして妥当だろうか、と問いたい。
労働者にとって賃金は死活問題です。最賃はその社会的最低基準であり、その影響力は多大です。ならば最賃引上げと雇用量との統計的関係から直ちに引上げに否定的になることは正しいだろうか。部分的な再分配政策でお茶を濁すだけでいいのか。問題は「自然実験」の結果への追従ではなく、人間らしい生き方を保障する政策判断ではないでしょうか。「デフレ」は消費者のせいでしょうか。中小企業の低生産性は大企業からの収奪が大きな原因ではないでしょうか。そうした中では、社会保険料負担の軽減(米韓仏などで実施)や適正な単価や納入価格の保障、過度な競争の規制、「公契約法」「公契約条例」などの中小企業支援策を実現して、最賃引き上げに向かうべきではないでしょうか(「しんぶん赤旗」10月29日付)。
大資本とそれに支えられた政府が形成している資本主義市場経済における「自然」を全く所与のものとするのは、現象をうまく説明しているように見えて、人間にとってまともな経済社会に近づこうという意志を最初から排除しているのではなかろうか。何よりも生活と労働の現場で苦闘している人々の現実から出発することなしに経済学はあり得ないのではないだろうか。
「朝日デジタル」ではこの記事に対して、小熊英二氏がコメントしています。小熊氏によれば、賃金・物価・失業率・経済成長率の低い「低位安定」か、それらの高い「先進国の苦悩」か、日本はどちらを選ぶか岐路にあるというのです。なかなか俯瞰した日本社会観として興味深いのですが、やはり中小企業の非効率と保護政策が問題だ、という点を無批判に前提しています。労働者と中小企業の苦難には、搾取と収奪という資本主義の原理があるということを踏まえた理論展開が求められます。
いつもそうですが、今月は特に大急ぎで雑駁な作文になってしまいました。残念。
2021年10月31日
2021年12月号
社会変革の課題としての公共性の転換
(1)「国家の二重性」と「二つの公共性の対決」
10月31日の総選挙に対して、立憲民主党や共産党などの野党は市民連合との政策合意に基づく「限定的な」政権共闘で臨み、政権交代を目指しました。しかし野党共闘は一定の成果を上げたものの、自民党が議席を減らしながら単独で絶対安定多数を確保することを許しました。さらに、自公与党に加えて、補完勢力の「維新の会」を加えれば、衆議院の2/3超となり、国民民主党を巻き込んで改憲策動が活発化しています。由々しき事態です。
今回の選挙に限ったことではありませんが、次のことが言えます。客観的には、「1%対99%」(「ウォール街を占拠せよ」運動のスローガン)という根本的な利害対立があり、被支配階級(階層)が自身の立場を把握して投票すれば、支配秩序を打ち破る選挙結果=政権交代となるはずですが、実際にはなかなか実現しません。特に戦後日本の総選挙=政権選択選挙では一度も実現していません。その原因については、たとえば教育とメディアなどを通じたイデオロギー支配がすぐ浮かびます。世界的に見ても劣悪なジェンダーギャップに象徴される日本社会にしみ込んだ後進性、地域的・業界的利害の錯綜などを利用した利益誘導、等々いろいろ考えられます。しかしここでは原因究明の即効性はないけれども、原理的に大切な経済の側面からアプローチしてみます。
資本主義社会は本質的には「資本家階級の権力」の下にある階級社会ですが、あくまでタテマエとしては、独立・自由・平等な諸個人が形成する民主社会です(社会構造として形式と内容を併せて「民主的階級社会」という形容矛盾で呼ぼうか)。大部分の人々は被支配階級(階層)に属し、搾取と収奪により、多かれ少なかれ生活と労働の上で困難を抱えています。一方で、もちろんたいていの人々は、そういう社会のあり方の実質を感じ取っていますが、他方で、自由・平等な社会というタテマエはそれでも一応尊重されています。一部の人々はしばしばそれを使って生活と労働の改善、場合によっては社会の根本的変革に立ち上がってもいます。しかしそういう人々においても、資本主義社会を本質的に階級社会として捉えている人は少数派でしょう。学校の社会科ではそんなふうに習いませんから。あくまで自由・平等な民主社会の原則に反する様々な事象に反発して行動を起こしています(しょせん階級社会だからこんなもんだ、と始めから諦めるよりは健全ですが)。それは商品生産関係から生じた意識形態の抽象化がその出自を超えて、未来にまでわたって、自立的な諸人格による自由・平等な社会形成の原理的基準となりうることを示しています。ただしそれが資本主義社会において階級支配下での歪曲を被っていることが自覚されるならば、より運動は前進するでしょう。
資本主義社会のこうしたタテマエと実質は、商品=貨幣関係の上に展開する資本=賃労働関係(搾取関係)という資本主義経済の構造に対応しています。前近代の搾取社会とは違って、資本主義社会では、領有法則の転回によって搾取は隠蔽され、普通の人々には意識されません。しかしそれでも日々の生活と労働の苦難からそれを見破ったり、少数ながら科学的な社会科学を学んで理解する人もいます。支配層としては、そうした目覚めを防ぐために、階級支配の大枠を壊さない程度に「公共性」に配慮して一定の妥協をすることもあり、被支配層はそれをより多く勝ち取るために闘います。すると支配層はそうした反抗をできるだけ抑制し、逆に支配力を高めるようアレコレ術策を凝らします。この支配構造が続く限り、この作用と反作用は延々と続きます。ここには一般的に言うと、資本主義国家における階級支配機能と公共的機能との対立があると言えます。そのもっとも大きな現われの一つが、「福祉国家」をめぐる拡充と解体の対抗でしょう。新自由主義期には後者の方が強く、反「福祉国家」は独裁政治への傾向を伴います。
そうした状況を背景に、相澤與一氏は「『資本論』における諸概念の二重性を参考にして、各キー概念に二面性を措定し、専制独裁政治に反転=変質させる仕組みに迫ろうする」方法で、経済理論の視点から国家論を展開しています(「現代国家の専制独裁化と『福祉国家』の解体に抗して」、129ぺ-ジ)。そこでは、『資本論』を始めとしたマルクスの経済学的な資本主義分析の中から、たとえば「労働力の再生産と階級闘争」などの諸契機を通じてブルジョア国家の成立を理論的に導出しています。結論的には、「ブルジョワ国家は資本家階級のヘゲモニーのもとで他の諸階級をも包摂する『ブルジョワ社会の総括』権力といわれるものです」(131ページ)とされます。そこでどのように「包摂」し、社会を「総括」するかが問題となり、国家の二面性・二重機能が以下のように指摘されます。
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国家は、共同社会=コミュニティによってそれ自身の必要をまかなうために生み出されながら、社会を疎外し社会を支配する権力になるのです。しかし、それでも国家は、その形成母体をなす共同社会の必要にもこたえなければなりません。これは、国家の本質に内在する矛盾です。 133ページ
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こうした一般的規定から進んで、今日の国家独占資本主義をも考慮してこう続けられます。「独占資本主義化はまた、労働者階級の規模と彼らの闘う力を強大にするので、彼らを支配し動員するための治安統制と社会政策の機構を強大にしなければなりません」などということから「資本主義国家は、政治的支配のための専制的傾向を基本としつつも、それと矛盾する民主化=『福祉国家』化の圧力をも受け続けることになるのです」。しかしまた「現代国家は民主化される傾向とともに、それを上回って専制独裁化する危険も大きく、この二者対抗的な傾向が国家の本性と現代化の両面に由来する」ので「国家権力の専制独裁化に対しての不断の警戒とたたかいが必要である」ということになります(137ページ)。
相澤氏の議論は、資本主義国家における階級支配機能と公共的機能との対立という通説的な見方に基づくものと言えます。それに対して、やや角度の違う所説があります。
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いわゆる国家の「二重機能」、すなわち、「階級支配機能」と「公共的機能」との関連は、国家論の一論点といえる。通例は、この「二重機能」は並列的にみてはならず、国家は、「階級的機能」をはたすかぎりでのみ、「公共的機能」を担うものとされる(たとえば、藤田勇『法と経済の一般理論』一九七四年、日本評論社、一一七ページ、田口富久治、前掲書、一九七ページ、島津秀典、前掲論文、など)(*刑部注)。
しかしこの観点は、階級支配機能と公共的機能を抽象的に対立させている点で問題といえる。国民経済の客観的必要=「自然科学的に正確に確認しうる諸変革」は、それぞれの国の歴史具体的な資本蓄積の構造と段階に規定されて、つねに国民的課題としてあらわれる。諸階級がこの課題をめぐる「衝突を意識し、……決着をつける」階級闘争を媒介して、国家は、〔支配階級の利害の方向で〕国民経済的課題を解決する。だから国家はとりわけ危機において「社会の利益」=公共的機能の担い手としてあらわれるのである。
階級支配機能と公共的機能とは、国家の二重の機能であって、相互に対立する二つの機能ではない。対立するのは、それぞれの国の資本主義の特殊的構成によって規定され、それぞれ特定の段階において解決を迫ってくる国民経済的課題にたいする、それ自身が階級的利害の集約である二つの公共性の概念である。資本主義の発展期では、この二つの概念の対立は、ブルジョア的発展の「二つの道」としてあらわれる〔この点については、レーニンの「ステパノフへの手紙」(一九〇九年、全集一六巻)が重要である〕。その崩壊期=一般的危機の段階では、歴史的世界的に規定された蓄積構造の貫徹か、「国民的生産」の蓄積軌道へのその根本的転換かが、客観的には、資本主義的蓄積か、その否定ないし社会主義的蓄積〔の方向〕かが、対立するのである。
大島雄一「経済学と国家論――その方法論的基準――」、同『現代資本主義の構造分析』所収、200・201ページ、大月書店、1991年、初出:『現代と思想』第38号、青木書店、1979年11月
(*刑部注)
田口富久治、前掲書 →『マルクス主義国家論の新展開』(1979年、青木書店)
島津秀典、前掲論文→「国家論の課題と経済学の方法」(『現代と思想』34号、1978年)
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ここで大島氏は、通説的な「国家の二重性論」について、その抽象性の故に批判しています。そこで言われている階級支配機能と公共的機能との抽象的対立ではなく、それぞれの国の歴史具体的な資本蓄積の構造と段階に規定された「それ自身が階級的利害の集約である二つの公共性の概念」の対立として把握すべきことを主張しています。しかし通説を否定する必要はなく、それを抽象度の高い次元では有効とし、より現実的な分析においては、「二つの公共性の概念」の対立として把握すればいいと思います。相澤氏の主張するように、階級支配機能と公共的機能とは根本的には矛盾します。しかしそれを現状分析に適用する場合には、「それ自身が階級的利害の集約である二つの公共性の概念」の対立として捉えたほうが良かろうと思います。なぜなら、そのほうが、実際に被支配階級の構成員の多くが、支配階級の押し出す公共性に絡め取られしまう現実をよりよく説明できるし、それを克服するために、被支配階級がオルタナティヴとしての公共性を打ち出すべきだという戦略の必要性も理解できるからです。
「それ自身が階級的利害の集約である二つの公共性の概念」の対立というのを図式化すれば、<「公共性A」VS「公共性B」>となります。これは資本主義支配の枠内での違った階層による路線対立を表現する場合もありえますが(たとえば上記引用のブルジョア的発展の「二つの道」)、典型的には<「支配階級の公共性」VS「被支配階級の公共性」>として現れるので、以下の議論ではそれを想定します。
国家の階級支配機能と公共的機能との対立という見方と、「それ自身が階級的利害の集約である二つの公共性の概念」の対立という見方との差異は、結局は「支配階級が打ち出す公共性」を認めるか否かにあります。そんなものは虚偽であって認められないという点に徹すれば、階級国家においては階級支配機能と公共的機能との対立を絶対的なものと捉えることになります。対して、その存在を認めるならば、社会の多数派である被支配階級の公共性(その方が真の公共性だと言えるが)だけでなく、少数派として支配する支配階級の公共性も存在し、両者が対立するという構図になります。究極的には、支配階級の公共性は否定すべきでしょうが、現実にはそれが支配的イデオロギーの下で社会を動かすように機能しています。だからたとえばカッコつきの公共性ということでもいいので、その存在を認めることが現実の分析には有効でしょう。
大島氏は以下のように議論を敷衍してもいます。
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「法治国家」のもとでは、資本家階級の階級的支配は、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成をとおして貫徹する。ここでは「社会の利益」は、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる。したがって国家は、資本蓄積の諸障害の克服と蓄積の諸矛盾の緩和を意図した諸政策を追求することによって、「社会の利益」を代表する「中立的権威」=「一般的利害」の担い手の衣装をまとうことができる。これが、客観的に「資本の自由」の優先的保障となることは、あきらかであろう。
「社会の利益」と「資本の自由」との右の関連は、資本主義国家に一般的なものであり、今日の国家においても基本的に変わりない。成長政策も福祉政策も、いずれにせよ、資本蓄積の促進とその諸矛盾の緩和という一体的な国家目的の追求のそれぞれの側面を表現するにすぎず、それらをつうじて、「資本の自由」の優先的保障がたえず追求されていくものである。
今日の特徴は、この国家目的の追求そのものが「国家の危機」をもたらしていることである。いうまでもなく、それは資本主義そのものの危機の「反射」である。ここで問題となることは、国家の階級性と公共性との対立でも、特殊利害と一般利害との対立でもない。それ自体が階級的利害の集約的表現である公共性=一般利害の概念の対立である。ここでは、「資本の自由」を原理とする国民経済の統一的編成か、「人民の自由」=「人間的労働への要求」を原理とする国民経済の統一的再編成かが、たえず問われているのである。
同前、196・197ページ
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先述のように、2021年10月31日の総選挙で野党共闘は政権選択を掲げて闘いましたが果たせませんでした。今日、激しい反共攻撃とともに野党共闘への非難が激化している下では、断固として野党共闘の一定の実績を確認し、その理念・展望を守り抜き、いっそうの共闘発展を目指す必要があります。
以上をあくまで前提にした上で以下を言います。とはいえ、政権選択という次元からはほど遠い選挙結果に終わったことも事実であり、岩盤保守層はもとより、無党派層の少なくない部分からも野党共闘は始めから視野の外に置かれていたと言わねばなりません。その原因は多角的に考える必要がありますが、ベースにあるのは、生活向上という「社会の利益」=公共的機能を担うのは、何と言っても現実に政治・経済的権力を握っている政府・与党にあるという現状追随の意識でしょう。日本の世論において特徴的なのは、とりわけ安全保障政策に関して顕著ですが、始めは(たとえば日米軍事同盟強化に資するような)「危ない改革」への批判が多くても、それを強行し既成事実化してしまえば、追認し支持が多くなっていくという傾向です。始めはやむなしの支持でも、やがて何となく普通になってしまいます。困難があっても日々何とかやり過ごしていこうという営みの繰り返しにおいては、既成事実への適応が現実的であり、その意識の延長線上には政府与党への依存が「空気」となるでしょう。
経済的実利についてはなおさら、現に行政権力を握っている者に追従する方がとりあえずいくらかでも要求実現できるという意識になります。本来は公共的役割を担い、それなりの理論・政策を持っているはずの医師会や農協が自民党一党支持に固まっているのはその典型例です。政権はそこに取り入ります。こうした現実を変えたいならば、その政策の本質を経済理論によって剔抉することが必要条件となります。岸田政権がアベノミクスから引き継いだスローガン「成長と分配の好循環」とは「資本蓄積の促進とその諸矛盾の緩和という一体的な国家目的の追求のそれぞれの側面を表現する」成長政策と福祉政策を指しています。それは、「社会の利益」を代表する「中立的権威」=「一般的利害」の担い手の衣装をまとっていますが、本質的にはその「社会の利益」とは、社会的総資本の再生産=蓄積の運動をとおしての諸階級の生活の向上のうちにみいだされる、というものであり、今日的表現では「トリクルダウン理論」となります。
自公政権のトリクルダウンの経済政策がもたらしたものは、格差と貧困、そしてそれに起因する経済停滞です。対して、野党連合政権が目指すのは、ボトムアップのより平等な豊かさによる経済発展です。ここにはまさに、それ自体が階級的利害の集約的表現である公共性=一般利害の概念の対立があります。前者は「資本の自由」を原理とする公共性に基づく国民経済の統一的編成であり、後者は「人民の自由」=「人間的労働への要求」を原理とする公共性に基づく国民経済の統一的再編成です。前者から後者への転換は、大島論文の含意としては資本主義から社会主義への移行でしょうが、そのように大きな歴史的転換に限らず、今日的文脈では、自公政権から野党政権への移行も同方向の短いベクトルとして評価できます。
もとより、自公側の「公共性」は政府として現に存在するのに対して、野党側の「公共性」は政府としては未だ存在していない(人々の要求実現の諸運動や協同組合などの民主的経営などにその芽があるとはいえ)というハンデがあります。しかし前者がもたらしている惨状はたとえばコロナ禍対策などにおいてはっきり露呈しています。ここに弱点があります。それを的確に厳しく批判するとともに、こちら側の「公共性」に基づく政策を分かりやすく対置していくならば、このハンデは乗り越えられます。しかし実際の先の総選挙においては、野党第一党の立憲民主党などにおいて、共闘への及び腰から、選挙への取り組みが遅れ、せっかくできた共通政策をきちんと押し出すことが不十分なままに終わったため、<現存VS未存>という野党にとっての抽象的ハンデのままに放置されてしまい、選挙の雰囲気を変えられなかったというべきでしょう。このように「二つの公共性の対決」という形で理解することで、自公政権への支持が多い理由と、対決する野党のあるべき姿勢とが多少なりともはっきりするように思います。
(2)今日の日本資本主義の蓄積構造と人民的公共性の中身
「二つの公共性の対決」において、今の日本で労働者階級を中心とする人民の側の公共性をどう捉えるか、という問題が次にあります。とてもそれにしっかりとは答えらまれせんので簡単に触れるだけにします。それは二つの側面から考える必要があります。まず一面としては、前記引用にあるように「国民経済の客観的必要=『自然科学的に正確に確認しうる諸変革』は、それぞれの国の歴史具体的な資本蓄積の構造と段階に規定されて、つねに国民的課題としてあらわれ」ます。この国民的課題が私たちの目指すべき公共性の中身であるとすれば、それは眼前の日本資本主義の蓄積の構造と段階に規定されることになるので、この「構造と段階」を具体的に解明する必要があります。他面では、「社会の利益」としての「諸階級の生活の向上」に公共性を求めるならば、たとえば生産力発展あるいは経済成長というものはそこでどう位置づけられるか、あるいはその他の要素を考えるべきではないか、など公共性を構成する「生活の向上」の中身の捉え方が問題です。
まず「一面」の方の今日の日本資本主義の蓄積の構造と段階ですが、私のごときにその十分な姿は分からないので、そのほんの一端を田村八十一氏の「法人企業統計にみる日本の産業とその特質」における企業分析に尋ねてみます。そこでまず目に付くのは、生産力発展と利潤追求との矛盾です。特に大企業の製造業を中心に、減価償却費や人件費などの固定費を分社化した子会社や下請企業に負担させる、固定費の流動費化(61ページ)が実施され、「日本の産業はほぼ2000年代に入って売り上げが上がらなくとも利益を上げる構造に転換して」います(60ページ)。
次いで空洞化と金融化が進展しています。総資本回転率が低下して1を切り、1年間の売上高で総資本を回収できない状況となっており、その一因は、国内企業が海外の関係会社に投資して資産が増加しても、国内の売上高が上述のように伸びないことにあります(62ページ)。また営業利益よりも経常利益が上回るようになっており、金融収益の上昇を表しています。海外関係会社などからの受取配当金の増加と低金利政策による支払利息の減少などがそこに影響しています(同前)。国民経済の生産力構造を産業の資本構成の変化に見ると、グローバル化によって、製造業の資本構成比が低下し、7割強が非製造業に占められています(62・63ページ)。
このように日本の資本蓄積構造ははなはだ不健全で、生活向上に資する国民経済の内需循環的発展になっておらず、それに反する空洞化・金融化・リストラ型の利潤追求が拡大しています。さらに先月号の感想に書いたように、<消費者の所得減少、消費財の安価な輸入品依存、国内生産力の衰退>という悪循環があり、そこには国際競争力の低下も重なります。
以上は「資本の自由」を原理とする支配層の「公共性」のもたらした惨状であり、それに対抗する人民的「公共性」に根ざした国民的生産とも言うべき経済像の一つの型が以下のように提唱されています。
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新自由主義は短期的収益性の追求、つまり「今、儲かる」分野を重視する、いわば既得権維持の考えです。中長期的な課題は視野に入りません。その結果が日本産業の国際競争力の喪失、供給力の衰退です。今、国内市場では輸入品が増加し、貿易赤字になっています。再分配の強化は否定しませんが、「生産力・成長から分配への転換」という考えだけでは、日本産業の競争力・供給力低下という問題が見過ごされる心配があります。国内供給力が衰退する中、野放図な金融緩和と財政赤字の下で再分配を強化すると、輸入インフレを招く懸念もあります。
生産力については産業実態に即した研究が必要で、例えば医療分野は今日、生産力発展が最重要な分野です。社会的必要に応えられる生産力・供給力を確保するためには、生産過程を価値増殖過程から切り離すこと、つまり収益性原理を超えた社会的・人類的課題という原理に基づいて、生産力を計画的に守り、再建していくことが重要です。
村上研一・久山昇・谷江武士・藤田実・小林哲也・佐々木保幸・細川孝・中島康隆・田村八十一・歌川学の各氏によるオンライン研究会「日本産業の課題を考える 5つの問いかけ」から村上氏の発言。 35ページ
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以上まったく不十分ですが、日本資本主義の蓄積構造に対応し、それを変革する「公共性」に基づく経済像の一端を本誌特集「日本の産業 復活の課題」(下)に見出して紹介しました。
次に、公共性問題の「他面」として、「社会の利益」としての「生活の向上」に公共性を求めるならば、たとえば生産力発展あるいは経済成長というものはそこでどう位置づけられるか、あるいはその他の要素を考えるべきではないか、というような問題があります。それについて、企業活動の「評価軸」という観点からの立言が以下のようにありますが、そのまま公共性のあり方に転用することもできると思います。
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「評価軸」ということですが、生産性を人類史の視点から捉えれば、物的生産性のように、本来、少ない労働時間の投入で多くの産出を得ることができる社会、人類にとって自由な時間が増大する社会に発展していくということだと考えます。これは、M&Aなどで人減らしをして資本が「生産性」を上げるという視点とは異なります。
また、収益性ではなく、マルクスが述べた新価値に類似した付加価値概念などを使って、今日、たとえば国連を中心にSDGsの指標を提唱する動きもあります。企業とNGOのせめぎあいというような方向性が出てきています。そこでは、環境、社会、地域、労働や人権などへの貢献が代替的な評価軸になるのではないかと思います。
前掲オンライン研究会から田村氏の発言 33ページ
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関連して、「脱成長」とか生産力の発展を止めるといった最近の問題提起について、そこには「資本の生産力」と「労働の生産力」あるいは「経済成長」と「生産力」、それぞれの混同があると指摘されます(友寄英隆氏の〔研究ノート〕「『人新世』と唯物史観――マルクスとエンゲルスは、地質学をどのように研究したか」(下)、90ページ)。友寄氏は、「『資本の生産力』を本来の『労働の生産力』の姿に取り戻し、人間と自然の正常な物質代謝を回復させることこそが人類社会にとっての今日的課題というべきである」(同前)とされます。また「経済成長」とは資本主義的蓄積による拡大再生産のことであり、搾取強化による経済拡大のことなので「労働の生産力」とは区別すべきとします。その上で、人類の本史においては現代社会の「資本の生産力」の水準よりもはるかに高度な「労働の生産力」が必要となるとしています(同前)。名指しはしていませんが、これらは斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』への批判となっています。理論的難点としてはその通りだろうと思いますが、斎藤氏の趣旨として、「脱成長」の含意として、無駄な使用価値を自己抑制するという消費主義批判とセットの労働時間短縮をコミュニズムの本質的特徴と考える点が重要であり、それをどう生かすかという視点が大切です。これも人民的公共性の一部として取り込むことが必要です。
以上、これもまったく端緒的なものに過ぎませんが、公共性の「中身」として、生産力(生産性)のあり方やその他の要素を含めていくらか言及しました。
総選挙での野党共闘敗退の結果
前述のように、野党共闘の方針そのものは間違っていないし、これからもさらにヴァージョンアップして続けることは当然です。それへの攻撃が激しい中で断固擁護する必要があります。そのことは前提にした上で、世論動向なども含めて現実をきちんと見る必要があります。
立憲民主党の代表選挙がまだおこなわれている中でこれを書いています。そこでの野党共闘についての議論はひどいものです。共産党との政権共闘に関わる閣外協力について、4候補とも見直すと言っています。一応リベラル派と目される逢坂誠二元政調会長が、「政権選択選挙という現実感があったか。国民はそうは思ってなかった」と指摘。共産との政権枠組みに合意した判断は「国民感覚から相当ずれていた」と振り返った、というのです(「朝日」11月23日付)。事実としてその認識は当たっているでしょう。しかしそれは立憲民主党が政権共闘の意味を積極的に打ち出さなかった、その及び腰の姿勢によってもたらされた部分が大きいと言うべきです。天に唾する発言であり、自党の責任への無反省があります。
同党の都道府県幹部の認識もひどいものです。「朝日」が11月23~26日にかけて行なったアンケートからの記事は以下の通りです(同11月29日付)。
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衆院選で議席を減らした要因(複数回答可)を聞いたところ、枝野氏と共産党の志位和夫委員長が結んだ「限定的な閣外からの協力」の合意を挙げたのが21都県で最も多く、「国会対応で『批判ばかり』と映った」が19都県で続いた。
とくに、共産と結んだ「閣外協力」の合意の扱いについては「破棄」が12県、「修正」が28都府県。「維持」は2県だった。「衆院選限りのもので、ゼロベースで対応すべきだ」(鳥取)などと見直し派が全体の85%に上っている。
衆院選で共産などと行った野党候補の一本化については、「ある程度」を含めて「効果があった」と30都府県が回答、「あまりなかった」「なかった」の計3県を大きく上回っている。
それでも一本化の前提となった「限定的な閣外からの協力」の合意について見直しを求める意見が相次ぐのは、「日本語として国民に伝わらない」(宮城)というわかりにくさがある。
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一方で事実に押されて、共闘の効果はあったと認めるものの、他方で共産党と組んだから票が逃げた、という旧態然の主張です。野党共闘で政権奪取という局面にそぐわない受動的な認識で漫然と選挙に臨んだことが見て取れます。政権共闘に及び腰だからそういう結果になったのです。逆にもっと積極的に有権者に野党政権の政策と展望を指し示すべきだったのです。孫崎享氏は、選挙の最後の1週間で流れが大きく動く可能性があったことを指摘してこう続けています(「しんぶん赤旗」11月24日)。
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その中で、なぜ野党が風を起こせなかったか。それは、せっかくの野党の間で合意した共通政策を前面に出して、たたかわなかったことにあると思います。特に立憲民主党はそうでした。野党共闘の大義と共通政策を、十分に説明していたら、国民は「それはわれわれの望むものではないか」――自民党の政策と野党共闘が提言する政策を比べれば「野党側の政策合意は自民党よりも良い」とみんなに分かるものだったと思います。
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時間がない中でそれほどうまくいったか、という問題はありますが、考えるベクトルはそうでなければなりません。「共産党と政権共闘はやりたくないけど、票は欲しいから候補者は下ろしてくれ」というのが立憲民主党の大方のホンネのようです。野党共闘するのなら、本気で政権奪取の姿勢を有権者に見せなければなりません。そうでなければ、人々の政権依存、与党頼み、野党嫌いがだらだら続いている現状を打破できません。立憲民主党はこの体たらくですが、目を覚ますように働きかけ続けるほかないのでしょうか。おそらくこの時点では共産党は隠忍自重で、言いたいことも我慢でしょうが、野党共闘に尽力した心ある人々は孫崎氏と同じ方向で、立憲民主党にもっと怒っていることでしょう。
孫崎氏のような野党共闘の支持者だけでなく、保守的な政治学者も現実的見通しを次のように語っています(「政権交代の『芽』はあるか 政治学者・野中尚人さんに聞く」、「朝日」11月17日付)。
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「野党の比較第1党は12年以降、主に今の立憲民主党に連なる流れが担ってきた。衆院で第3党になった維新や国民民主よりも立憲民主と共産を合わせた勢力のほうが依然として大きく、数年単位でみれば共産を排除しない形で中道から左派まで幅広く連携する方向に収斂(しゅうれん)していくのではないか」
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この記事によると、野中氏は、「政権交代推進」論の立場から、いわゆる「政治改革」の小選挙区制導入を支持し、「外交と安全保障での基本を継続しながら」などと語っているので普通の保守派に属すると言えます。保守的現実主義の立場から、上記の見通しを提出し、その前提として、野中氏は「次の政権交代を10段階とすれば6まで来ている」と楽観的な見方を示し、「無党派層が動けば確実に政権交代が起きる。複数の野党が選挙協力を目指す戦略じたいは間違っていない」と語っています。それと比べると立憲民主党の志の低さは覆いようがありません。「共産党と組むと票が逃げる」という卑近な次元で、連合などの支持団体のご機嫌をうかがっている狭い習性を抜け出せないようでは話になりません。共通政策を高らかに掲げて、無党派層を含めた、政治意識のダイナミックな変動を生み出して選挙に勝つ、という構えに転換することなしには、政権交代どころか多少の前進さえ無理でしょう。
共産党が中央委員会総会を開いて総選挙を総括しています(11月27・28日)。選挙の敗北にうなだれないように、「政治対決の弁証法」を持ち出して、野党共闘を中心にこの総選挙の意義を全体状況の中で歴史的に解き明かしています。しかし特徴的なのは、世論状況やそれを生み出す人々の置かれた社会・政治状況の分析がないことです。社会と歴史をつくっているのは、人民自身ではないのか。これでは「政治対決の弁証法」とはいっても主権者不在で政党などだけの空中戦の総括ではないのか、と言わざるを得ません
もちろん私に世論動向やその原因としての社会状況、人々の生活状況などを分析する能力はありません。ほんの少しわかることだけでも指摘し、その上で問題意識を提起して終わります。
選挙前の10月21日付「朝日」世論調査では、この4年間の自公政権について、<よかった:35%、よくなかった:43%>ですが、政権選択として自民中心か、立憲中心かという設問に対しては、<自民党中心:46%、立憲民主党中心:22%>となっています。コロナ禍への無策の記憶が鮮明だったりして、人々は自公政権には批判的なのですが、それでも政権交代は求めていないのが多数派です。
選挙後の11月8日付「朝日」世論調査では、衆院選で自民が過半数を大きく超える議席を獲得したことは…<よかった:47%、よくなかった:34%>で、自民が過半数を大きく超える議席を獲得したのは…<自公連立政権が評価されたから:19%、野党に期待できないから:65%>となっています。自民党や自公政権に期待するわけではないけれども、それでも野党よりはいいから消去法的に自民党の「勝利」(議席は減らしたが、単独で絶対安定多数を確保した)を「よかった」としています。野党共闘などについては、以下のごとく。
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衆院選では立憲や共産など野党5党が候補者の一本化を進めた。来夏の参院選で一本化を「進めるべきだ」は27%にとどまり、「そうは思わない」が51%だった。「進めるべきだ」は立憲支持層では47%と高めだったが、無党派層では21%と低かった。立憲と共産が安全保障政策などで主張の異なるまま、選挙協力することには「問題だ」が54%、「そうは思わない」31%。立憲支持層では58%が「問題だ」と答えたのに対し、共産支持層は「そうは思わない」が「問題だ」より多かった。
岸田文雄首相の経済政策に「期待できる」は41%、「期待できない」も41%だった。岸田政権の下で憲法改正をすることには「賛成」40%、「反対」36%だった。昨年1月に安倍政権下での憲法改正の賛否を聞いた時には賛成が32%で、反対50%の方が多かった。
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この世論調査の姿勢が、野党共闘に否定的な誘導尋問になっている点を割り引く必要はありますが、選挙結果を受けて過半数が共闘の継続に反対し、1/4程度しか賛成しないという状況です。基本政策の違う政党が選挙で共闘することは私たちにとっては当たり前ですが、世間では理解されていません。それは野合であり、何か卑怯なことをやっているかのように見られているのでしょう。これが大きなネックになっています。段階的な社会変革=さしあたり一致する点で共闘し、違いは留保し、あくまで広範な支持を得て一歩ずつ前進する、という統一戦線の考え方を広めることが重要です。メディアはその程度の理解はあるはずですが、おそらく意識的に無視し、人々の無理解を増長すべく、「野合」の印象操作をしているのではないでしょうか。逆に言えばそれをのり越えるほどの宣伝が必要だということです。
共産党や野党共闘の支持者たちは、共闘は効果的であったことを示すように努めており、それは当然ですが、人々の意識に影響を与えるのは、あくまで議席の獲得状況という選挙結果である、という冷厳な事実を心得る必要があります。結果よりも過程を見ろ、という「正論」はここでは、今後の政治状況に与える選挙結果の影響力を見誤らせます。「勝てば官軍」なのです。
たとえば上記のように岸田政権の経済政策に「期待できる」が「期待できない」と並んでいます。安倍・菅政権の政策の不人気からすれば、選挙結果による期待上昇効果が現われています。さらに深刻なのが、改憲への支持が不支持を上回っていることです。安倍政権期には逆でした。自公に維新を加え、国民民主も巻き込んだ改憲策動にますます拍車がかかることでしょう。なお、維新の問題は重要ですが、ここでは措きます。共産党の中央委員会総会の委員長報告でも触れられていないのはどうしてか、という思いはあります。
人々は自公政権に不満を持ち、政策は支持しないが、政権交代は望まず、あくまで自民党中心政権の継続を望み、野党不信(その結果、野党不振)で、政治が変わることへの想像力が働かない――おおよそ第二次安倍政権以降ずっと続くこの状況を直視し深刻に考え、打開の方向を探る必要があります。そういう課題設定さえされていないのではないでしょうか。以下では、節を変えて、人権とかナショナリズムの問題という限られた角度からその問題に接近してみます。もっと多面的な角度からの議論が出てくることを期待しながら。
日本の人権と政治状況
『ダーウィン事変』という漫画があるそうです。「人間とチンパンジーとの雑種への差別」という虚構による思考実験を試みたものです(「しんぶん赤旗」11月13日付)。その記事中に「人間と同等の権利を与えてやるべきなのに、それができていない」、「差別とたたかうときに、人間の感情だけを相手にしていてはダメなのだ」とあります。
差別と偏見にまみれた日常意識を超える「人権」と「法的保障」の大切さを強調しているということでしょう。然り、同感。ただし世間には、正義へのシニシズム(冷笑主義)とか変革への諦観(アキラメ)とかがあり、「意識高い系」という揶揄(やゆ)や、PC(political correctness、政治的妥当性)批判などが立ちはだかっています。
遅れた感情を栄養源とする「トランプ」や「維新の会」が繁茂する現実があり、何よりも「無理が通れば道理が引っ込む」を地で行った、第二次安倍以降の自公政権の選挙での不敗(腐敗にもかからわず)ぶりにそれは現われています。そういう「感情」を生み出す現実をしっかり理解し、そこから変えていくことが必要です。もちろん言うは易し…ではありますが。
辛淑玉(しんすご)氏が在日外国人の受ける差別とそれによる苦労を具体的に描いた上で、次のように喝破しています(「日本的平等のカラクリ」、『世界』11月号所収、150ページ)。
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多様性の実現は確かに重要だが、それだけで平等な社会が実現できるわけではないことを私たちは心に刻んでおかなければならない。社会的経済的平等は、人権擁護を基本原理とする透徹した政策理念と、十分に吟味された具体的な社会政策、経済政策があって初めて実現できる。それを忘れて多様性を叫んでいるだけでは進歩はない。
…中略…
天皇制は、平等を考えようとする者を思考停止に追い込む装置として、今も見事に機能している。
天皇制の根本には、特定の血筋に連なる人間たちを、それだけで無条件に尊いとする観念がある。そして、皇族以外の日本人すべてを、「家」を単位に仮想的な天皇家の分家とみなし、天皇家からの距離に従って序列化する。
…中略…
日本人と同じになろうがなるまいが、天皇制を是とする観念がこの社会を覆っている限り、私のような在日も、移住労働者たちも、そして実は日本人の大半も、人間としての真の平等を享受することはできないのだ。
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私たちの中でも「多様性」や「天皇制」について、あやふやな認識に流れているのではなかろうか、と反省させられます。多様性の強調だけにとどまれば、差別と分断、搾取強化を狙う新自由主義の餌食になるだけです。天皇制についても、こういう突きつめた認識をストレートに人々の間に持ち込むことは易しくはないけれども、まずは自身で心しておくべきことと思われます。
辛氏はまず基本原理としての人権を掲げつつ、その実現の社会的基盤を指摘しています。眼前には経済や社会の現実があり、それを変える政策理念と具体的政策を具えて始めて人権を実現することができます。日本人と外国人もそのプロセスの前には平等であり、在日外国人の差別された現実は、日本人とその社会の人権後進的状況の延長線上にあります。
たとえば、外国人技能実習生が恋愛を禁止され、妊娠したら帰国させられるというひどい人権侵害は、彼らを人間でなく単なる労働力としか見ていない結果です。それは日本の職場にあるセクハラ・マタハラ・パワハラが極端に現れたものです。人間らしい生活をおくり、子どもを産み育てることが軽視される現実とその思想が空気としてある、この社会のあり方の反映です。
外国人のひどい現実を放置すれば、その状況は日本人にも重石となり、逆に多少なりとも改善する努力は日本社会自身の見直しにつながるでしょう。
作家の深沢潮氏の言葉も差別と人権を多面的に考えるヒントを与えます。
「私は在日コリアンだし、日本の社会からは、よそ者に見られたりするけれど、沖縄の人には私も本土の人でしかない。立場が変わるとマイノリティの位置づけも変わる、流動的なんだと感じました。どういう立場でものを見るかで変わっていく。これは文学の普遍的なテーマではないかと思うようになりました」(「しんぶん赤旗」日曜版11月14日付)。
同じ一人の人間であっても多数派・少数派、差別・被差別が立場によって変わるという事実は、差別と人権を固定的に捉えるのでなく、状況に応じて捉える必要性を提起しています。と同時に、さらに考えるべきは次のことです。「日本人 VS 外国人」、「本土人 VS 沖縄人」という関係は、「多数派 VS 少数派、差別 VS 被差別」という対抗関係を確かに含んでいますが、それらは「支配層 VS 被支配層」というより大きな対抗関係(1% VS 99%)の中では、後者の内部での矛盾であり、本来は連帯して支配層ないし支配構造そのものに立ち向かうべきだということです。
支配構造として眼前にあるのは新自由主義体制であり、もっと言えば資本主義的搾取そのものです。対抗する武器は人権の普遍性を掲げた被支配層の連帯です。
いけない。話が大風呂敷に暴走しているので(ちゃんと中身あるか?)、この辺でいったん切り替えます。
外国人の人権に関連して、ヘイトスピーチとか韓国バッシングが起きる背景を考えます。私がいつも情けなく思い起こすのが、「日本の歪んだナショナリズム=対米従属下でのアジア蔑視」です。
単純化して言うと、ナショナリズムには良いものと悪いものがあります。前者は植民地・従属国で民族自決を求めるものであり、後者は帝国主義・覇権主義・大国主義から他民族を抑圧・蔑視するものです。日本は対米従属下にあるにもかかわらず、あるべき対米自立の良いナショナリズムがなく、人々の意識としては自発的従属状態にあります。沖縄を始めとして各地にある在日米軍基地は深刻な被害をもたらしていますが、沖縄以外で選挙の争点にはなりません。食料とエネルギーの従属も深刻ですが、さほどの危機感もありません。経済政策は米国からの内政干渉を許しています。
日本の悪いナショナリズムとして、アジア蔑視があります。それは近代の植民地支配・侵略戦争への無反省から発し、子どもたちはその歴史を正しく教えられることはなく、逆に「自虐史観」批判なる名目による誤った自慰的・独善的な愛国心が跋扈しています。そういう愛国心の言う「国益」とは国家権力の利益であって、そこに生活する人々の利益ではありません。
アジア諸国に対して「何回謝ればいいんだ」という気分が濃厚ですが、「1回でいいんだ。ただしフリでなく本気で」と言い返される始末です。日本政府による形式的な謝罪は繰り返されても、その舌の根も乾かないうちに、保守政治家による無反省な妄言がホンネとして漏れる状況が続いています。これでは信用しろという方が無理です。日本軍「慰安婦」や徴用工の問題では、メディアによる韓国バッシングが日本社会の空気を形成しています。
そういうイデオロギーを生み出す政治的基盤として日米安保条約=日米軍事同盟があります。戦後長らく、日本がアジアのナンバーワンとして君臨し、そういう「国民的意識」を形成してきたのは、対米従属下での経済上のアジア進出がベースにあります。戦前への無反省と併せて、歪んだナショナリズムがそこに形成されたと言えましょう。中国に追い抜かれた現状でも時代錯誤の「誇り」に固執していることが、日本の自立と民主化を阻んでいます。
いつのころからか、日米安保体制がメディアでは「日米同盟」という言葉で常套句として登場し、あたかもそれが「正義」で「自然」であり、すべての政治的認識の出発点として絶対視されています。メディアの大半はそうなっています。それが憲法の平和主義に基づく外交の実現という想像力を奪い、軍事的抑止力優先思考を広く浸透させています。
岸田政権もまた「安全保障環境の厳しさ」を強調し、対米従属下で軍拡と改憲を目指していますが、そこでつぶされるのは「平和主義」だけでなく「国民主権」や「基本的人権の尊重」も含まれます。歪んだナショナリズムを背景に、外国人の人権が軽視されている現状は、「炭鉱のカナリア」としての先駆け的な警告として受け止めるべきであり、日本人の人権もよりいっそう侵害されつつあり、反撃を要することは確かです。
しかし先の総選挙でも、有権者多数派の「野党嫌悪=与党病」「政権依存」傾向がはっきりしています。私は50年以上にわたって日本の政治をリアルタイムで見てきましたが、第二次安倍政権以降について言えば、これほど人々が政府の悪政を甘受していることはありませんでした。その理由は様々に考える必要があり、単純ではありませんが、「歪んだナショナリズム」の定着と増大がその一つのベースとしてあるように思えます。「国益」の名の下に、支配層の利益を人々の利益と勘違いさせ、現政権批判自体が悪であるかのような空気を蔓延させる役割を、それは果たしています。
総選挙の得票状況の詳しい分析そのものは必要です。しかしそれよりも、議席の厳しい右方シフトによる新勢力図という現実が今後の人々の政治判断の基準になる、ということが銘記されねばなりません。今後、野党共闘への非難がますます強まるでしょう。それに対して、共闘は効果があった、野合ではなく未来がある、などと反論することは当然です。しかしそれだけにとどまるのでなく、強固な「野党忌避」を生み出すイデオロギー状況とそれを生み出す現実そのものを解明し、対策を講じる、という課題を設定さえできなければ、この社会と政治を変えることはできません。
とりとめのない話になり、失礼いたしました。先進的な活動をしている人々からすれば、以上はあまりに悲観的・傍観者的に映るだろうと思います。「希望の芽」についてご教示願えれば幸いです。
社会変革と歴史への想像力
前節「日本の人権と政治状況」を読んだ在日コリアンの弁護士から「仮に旧植民地出身者は日本国民と同等に憲法の人権を享受できていたら、今日在日コリアンをめぐる差別の状況はまったく違っていたと思います」という指摘をいただきました。前節では、日本人、外国人、あるいはそのほかの様々な立場を問わず、人権の普遍性が大切だという点を強調しました。それで、それぞれの立場に応じて、状況やその克服のやり方も違うという点には触れていません。それが不足だったなと思っていたところへ、虚をつく指摘でした。在日コリアンの場合は、日本の敗戦による解放の可能性とその喪失という特殊事情があります。それに対してこの指摘のような想像力が大切であり、それは「最初のボタンの掛け違え」を気づかせるものです。
さらに大きな話としては、全面講和か、単独講和かという戦後日本の行く末を決める岐路がありました。歴史的事実としては、サンフランシスコ条約による単独講和で、どさくさにまぎれて、ついでに日米安保条約を押し付けられ、それには日本側では吉田茂首相がただ一人署名するという仕儀となりました。憲法と矛盾する安保体制の成立で、中立でなく冷戦の一方の側に縛りつけられ、今日に至る対米従属が続いています。
「歴史にイフは禁物」と言われ、歴史には法則と必然性があるとも言われます。それはそうですが、それを過度に厳格に適用すると、現実にあった歴史だけが唯一のものであり、その他の可能性を否定し去ることになり、ひいては現状を無批判に肯定することになりかねません。歴史の法則や必然性には一定の幅があるはずであり、現実には歴史上、いくつかの選択肢がありえます。どれを選びとるかは、それに直面した人々に課せられた特権です。その結果責任はみんなでとらねばなりませんが(先の総選挙が思い起こされます)。
可能性としてはあっても、実現しなかったものを想像することは、単なる夢想ではなく、現状批判の立脚点となります。未来を創造する起点ともなります。単独講和と安保体制という「最初のボタンの掛け違え」に対して、全面講和と独立・民主・平和・中立の日本という可能性を想像し対置することは、単に批判の立脚点を提供するだけではありません。そのあり得た可能性を条文に体現している憲法が現に存在しています。今、改めて「最初のボタンの掛け違え」に気づき、現代の新たな条件の下で再出発するに際して、現憲法の意義と未来に持ちうる可能性はとても大きなものがあるというべきでしょう。
2021年11月30日
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