月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2025年1月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2025年1月号

          ウクライナ侵略戦争とガザのジェノサイド

 

     1)対ロシア問題

 

 ウクライナとガザの惨状は世界中の人々の心を痛めているのみならず、最悪の場合、世界戦争を招きかねないものとして危惧されています。それについて、森原公敏・平井文子・本田浩邦・宮前忠夫4氏による誌上討論「ウクライナ/ガザ 二つの戦争と平和への模索」(以下、誌上討論)と栗田禎子氏の「イスラエルのガザ攻撃と中東情勢」(栗田論文)の本誌2論文に坂口明氏の「戦火の中東とアメリカ・イスラエルの『特別な関係』」(『前衛』20251月号所収、坂口論文)を合せて学んでみたいと思います。そこには戦争と平和をめぐって、理念の堅持と現実的対処の追求という難しい課題が横たわっています。

 いずれの論文もヨーロッパと中東の戦禍を受け止める日本の世論と進むべき進路(針路)にまで言及しています。支配層の一端をなす日本の主流メディアでは、「日米同盟」絶対視を前提に中国(と北朝鮮)脅威論のシャワーが毎日間断なく流され、自国と東アジアをめぐる日本世論は圧倒的にその影響下にあります。「中国・台湾に関する報道を毎日見ていますと、結局『中国脅威論』です。アメリカの軍艦や日本の自衛艦が台湾海峡を通過して、挑発しているように見えます。こちらの挑発に関してはあまり報道しないけれど、中国側の動きはかなりセンセーショナルに報道します。宣伝と教育で日本国民の考えや世論がつくられていくことがこわいです。これはイスラエルでやられていることと同じです」(誌上討論、3839ページ)という具合です。在日イスラエル人のダニー・ネフセタイ氏もいつも同様に指摘しています。それに対して誌上討論は正反対の立場を対置しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

中東と世界での米国の影響力は、経済はさておき、軍事分野での米国の圧倒的優位がもたらすものです。米国主導の「国際秩序」に対抗するもっとも確実な道は、平和と安全保障における軍事力の価値、位置付けを低下させることです。米国の軍事力への依存の仕組みに代わる、紛争を武力紛争にさせない確実な平和と安全保障の仕組みを、地域的規模であっても作り出すことです。         37ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 こういう発想は私たちにとっては当たり前ですが、支配層と主流メディアには一切ありません。米国主導の国際秩序しか彼らの念頭にはないので、それを括弧付きの「国際秩序」と表現し、ましてやそれに「対抗する」何か別のものがあるなどということは考えだにしません。対抗するのは中国やロシアが軍事的にするのであって、軍事力の価値そのものに対抗するという発想はありません。もちろん日本国憲法からはそういう発想が当たり前に出てきますが、憲法を否定したり、「尊重」しているつもりでも分かっていなければ、日米軍事同盟の存在が優先され、それこそが「現実」なので、馬鹿の一つ覚えに「安全保障環境の悪化」を(周辺国のみならず自国もまたそれを作り出している一員であり、一因であることに思い及ばず)唱えて軍事的抑止力信仰で臨み、事態をさらに悪化させることになります。政府の姿勢やメディア報道においては、憲法理念や外交はせいぜい添え物で登場するのが関の山です。

 いささか多言(過言?)を要しましたが、私たちの発想の当然さと特殊さを再確認した次第です。そこでロシアのウクライナ侵略戦争をどう見るかです。それ以前の経緯については様々な見方があり得ますが、2022224日に始まる全面的軍事侵攻そのものが国際法違反のロシアの侵略戦争であり、ウクライナ側が正当な防衛戦争を戦っていることは言うまでもありません。したがってかつての軍国主義日本と同様に、ロシアが軍事的に敗れ、プーチンが戦犯として裁かれ、まともな政権に交代すれば、国際法の正義が守られすっきりしますが残念ながら現実はそうはいきません。当初予想されたロシアの電撃的勝利によるウクライナの屈服でもなく、ウクライナの反撃の成功でもなく、ロシアの軍事的優位状況とはいえ、大枠としては膠着的な戦況下で、だらだらと戦争が継続し一方で人命が失われ、他方で軍需資本が利益を上げています。一日も早い停戦が求められますが、ロシアの武力による領土拡張の無法を許してはいけません。

 誌上討論では「この戦争が戦場で決着することはなく、交渉による停戦・和平の道しかないことはウクライナを含む世界の軍事専門家の共通認識です」とまず指摘されています。その上で、ロシアの武力による領土取得を認めない国連総会決議が厳守されるべきことを確認しつつ、「停戦と国連決議の実現の間に時間差があろう」とする現実的見通しに言及しています(20ページ、下線は刑部)。

 そこで「この国連決議を実現するうえでの国際社会の対応」(同前)が問題となります。対ロシアの経済制裁が西側諸国に限られる背景として、米国の「民主主義対専制主義」論に基づく、イスラエルのガザ虐殺への国際法基準の「不適用」が挙げられます。これに対してロシアへの「適用」と対比して二重基準と一般に言われますが、米国としては「民主主義対専制主義」論による一貫した対応に過ぎません。侵略戦争を繰り返してきた米国はホンネで国際法を遵守する気はないと見るべきでしょう。国際法より「国益」が勝る。「アメリカ・ファースト」は決してトランプの専売特許ではなく、米国の帝国主義的伝統と言えます。それが発展途上国を含む世界世論の反発を招き、侵略戦争反対への国際社会の団結を削ぎ、ロシアを利しています。「ロシアのような軍事大国の一方的行動を阻止する道は、国連憲章にもとづく国際社会の結束の方向しかありません」(同前)。この原則はアメリカや中国などに対しても当てはまります(将来の不測の出来事に向け、要確認)。

 ところが現実には、2022年のウクライナ侵略戦争に至る過程でもそれ以降でも、ロシアとNATOの双方から軍事対軍事の安全保障論が強化され、「欧州安全保障強力機構(OSCEを中心とした『紛争の平和的解決』を掲げた新たな欧州安全保障体制の試みの破綻」(同前、太字は刑部)となっています。現状は「安全保障のジレンマ」(21ページ)が全開です。それに対して厳しい現実を打開する原則がこう示されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 ウクライナでの和平の展望は困難なままですが、いずれにせよロシアは今後も欧州に存在し続けます。軍事力中心の抑止論でロシアの侵略は防げなかった以上、ロシアを含む包摂的な組織で「紛争の平和的解決」を軍事に優先させる方向に進むことなしに、新たな戦争を防止することはできません。    21ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これは、「侵略国家ロシアの存在」という事実を冷静に直視し、その上で平和原則を再構築せざるを得ないという苦渋の選択でしょう。その前に、ウクライナでの和平の現実的展望をどう探るかについては、先の「停戦と国連決議の実現の間に時間差がある」という観点が以下のように敷衍されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 停戦が合意されるためには、「領土問題は今後の交渉で定める」という合意ができるかどうかだと思います。深刻な人的・物的被害が続いている中では一刻も早い停戦を求めるのは当然のことです。ただ、アメリカやNATOが軍事支援を止めれば戦争は終わるという論について言えば、第1の条件――武力による領土拡張は認められないという80年前に国連が作られた時の大原則――の放棄につながってはなりません。停戦と国連決議の実現の間には時間差があるかもしれませんが、この原則を曖昧にしてはならない。  31ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 「停戦と国連決議の実現との間における時間差」は現実策と理念との質的落差が物理的時間という量的差に反映されたものだと言えますが、ともかくも現状では隔絶している理念と現実との間に何とか橋を架ける試みのコストだと評価できます。とはいえ、その端緒である「領土問題は今後の交渉で定める」という停戦合意でさえも、軍事的優位を主張しているロシアに飲ませることは至難の業と見えます。その実現には、アメリカ・西側諸国がイスラエルに対する、いわゆる「二重基準」を改めることで、ウクライナ侵略戦争に関する国連決議への本気の支持を確立し、国際法に基づく国際社会の団結を固め、侵略者ロシアを真に孤立させ、戦争継続を困難とすることが必要となります。

 「朝日」社説1224日付は、国連決議・国際法に触れず、軍事的抑止力の観点からの情勢論議が中心であるという点で、その基本的立場は支持できません。しかし具体策の次元では最後に「ロシアに直接、戦闘停止の働きかけを強めることも重要だ。中国、インド、トルコなど、ロシアに影響力を持つ国々を巻き込んだ努力がいっそう求められる」としていることは妥当です。これら諸国はロシアの侵略を表立って支持はしていないものの、経済面などで事実上支えています(たとえばロシアに対する金融封鎖は中国の銀行によって抜け穴が作られている)。それを逆手に取ることも含めて、国連決議の側に立たせる努力が求められます。アメリカが異常な中国敵視政策を改め、中国が「敵の敵は味方」ということでロシアに与するような現状を打開すべきでしょう。しかしトランプではバイデンよりもいっそう無理か…。

 軍事中心ではなく外交中心という観点からすれば、ヨーロッパの安全保障の将来においてOSCEが重要です。もっとも、現状ではロシアの侵略の予防にも解決にも役立っていません。そもそも存在感がありません。しかしアメリカもロシアもOSCEを今後とも必要とし、実際に会議は行なわれているそうです。ロシアを含めたヨーロッパの安全保障のこの先の仕組みにおいてOSCEの位置付けは重要ですが、「政府間の交渉の前に、研究者・市民レベルの本格的な議論がないと先に進まない」(31ページ)と評されています。ウクライナ侵略戦争の停戦という喫緊の課題の前ではいかにも迂遠な議論ですが、そうした展望を持つことが現状の打開にもいくらか資すると思います。

 以上、冒頭に掲げた「理念の堅持と現実的対処の追求という難しい課題」に照らすと、前者についてはいくらか見えてきますが、後者についてはまだまだです。この間隙をメディアにあふれる軍事評論などで埋めていてはろくなことにならないでしょうが、現状分析と政策判断のために広範な資料を集める必要性からすれば、それらも含めてどう評価し使うかは重要課題です。

 

     2)対イスラエル問題

 

 ガザの惨状はウクライナを上回るように見えます。まさにジェノサイドです。それに対して、202310月にハマスが非人道的なテロを行なったことに対するイスラエルの過剰防衛である、といった衡量的比較の問題ではなく、根底にイスラエルとパレスチナとの質的違いとしての植民地支配があるということを理解することが肝要なようです。誌上討論ではこう触れられています。そこでは、「そもそもパレスチナ問題発生の大元はヨーロッパにあ」り、「ユダヤ人問題をヨーロッパの中で解決できず、結果的にユダヤ人をパレスチナに追い出した」ことがまず指摘され、建国以後、「イスラエルが国連決議で承認された領域を超えて武力的に国土を拡大し続けてきた」ことで「パレスチナ問題がこじれている」という認識が示され、それはイスラエルによる植民地主義ではないかとも言われています(35ページ)。

より本格的には栗田論文を参照すべきでしょう(*注1。従来からイスラエルとパレスチナの関係は先進資本主義国と発展途上国との関係の縮図のように私は感じてきましたが、栗田論文ではイスラエル国家とそれを支えるシオニズムの本質が解明されることで、その直感に明確な歴史的理論的根拠を与えられました。ずばり以下のように指摘されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 イスラエルは、植民地主義がアジア・アフリカに拡大する過程で中東の一角に作り出された入植者国家である。欧米からの移民によって作られた人工国家であるため本来的に植民地主義的性格を持ち、それゆえ人種差別的体質も帯びている。入植者は「原住民」への差別・迫害・排除を正当化するために自らの「人種的優位性」を主張するものだからである。イスラエルの現状とかつての南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)体制との共通性を指摘する声は多い。現在のガザにおける「ジェノサイド」も決して偶然の産物ではなく、イスラエルの入植者国家としての体質に由来すると言うことができよう。

   42ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 パレスチナに入植者国家を建設し始めたのは、第一次大戦後のイギリス帝国主義の都合(スエズ運河の防衛上、「基地国家」を置く必要がある、など)であり、そこに植民地主義と人種主義的性格を持ったシオニズムが利用されました(4243ページ)。第二次大戦後に建国されたイスラエルはパトロンをイギリスからアメリカに代え、冷戦期に中東において西側の経済・政治・軍事的利益を守る役割を担い、たとえば(スエズ運河国有化など自立的動きをした)エジプトのナセル政権を叩くべく第二次・第三次中東戦争に参戦しています(43ページ)。

 建国以来、たびたびの戦争によって支配領域を拡大し続けるという「国際法上は許されないはずのこのような行為が黙認・放置され続けてきた背景」にはこの役割があり、「現在、中東唯一の『事実上の核保有国』となっているにもかかわらず、それが国際的に黙認され、査察・制裁の対象にも一切なっていないという事態も、同様の理由によるものと考えられ」ます(同前)。

 まさにその延長線上に今日のガザの惨状があります。「子どもや女性を含むコミュニティー全体を根絶やしにしつつあるかのような攻撃に関し」国連特別委はジェノサイドとしています(41ページ)。そこで行なわれていることは「紛争」や「戦争」ではありません。ガザとヨルダン川西岸は、累次の国連決議に反した国際法違反のイスラエルの占領地であり、「今起きているのは占領者が占領下の民衆を弾圧・殺戮している、という事態にほかな」りません(同前)。したがって、自衛権は国家同士の紛争下に生じるものなので、イスラエルのガザ攻撃は自衛とは言えません。そう言えば先日、私がうっかりガザに関して戦争という言葉を使ったとき、活動家から戦争ではない、と注意されました。さらに敷衍すれば、「占領者が占領下の住民を弾圧することを自衛とは呼ばない」(同前)し、「占領や植民地支配下に置かれた人々のレジスタンス、民族解放闘争の権利を認めている」(42ページ)ことにも注意する必要があります。ただし202310月のハマスの攻撃そのものに関しては、坂口論文は解放運動ではなくテロ・犯罪行為と見なしています(75ページ)。誌上討論ではそれについて「民族解放闘争の一局面ではあったのですが、『一般人』を殺害したことはハマス側の大きな過ちでした」(23ページ)という中間的評価を下しています。

 その辺の評価はともかくも、アメリカやG7がイスラエルのジェノサイドを「自衛権」の名の下に擁護し、軍事支援を続けているのは、先進資本主義諸国の中東支配に役立つ植民地主義国家を断固として支えるという姿勢の「賜」です。そこでは、イスラエルを中心とする「新中東」秩序が目指されています。さらには、現在イスラエルが中東で展開している無法な戦争は、アフガニスタンやイラクなど、アメリカが中東で行なってきた戦争のミニチュア版という性格がある、と栗田論文は指摘しています。つまり、テロリストや「ならず者国家」相手に国際法や国際人道法を守る必要はないという口実を掲げて、国際法と国連を無視した戦争を強行しているというわけです(44ページ)。アメリカ帝国主義の行為がしばしば民主主義の名の下に美化されている(*注2のと同様に、イスラエルの国際法違反の占領や核兵器の開発保有が黙認され、その延長線上にガザのジェノサイドさえ軍事支援を受けるということがまかり通っているわけです。それらもまた、パレスチナへのユダヤ人の入植活動に端を発し、イスラエル建国とその後の占領地拡大に一貫する植民地主義的性格の中で理解すべきことでしょう。

 このように欧米の植民地主義に由来し支援されてきたイスラエルの無法が中東地域での諸問題の根源にありますが、その張本人たちは事態を逆さまに描きます。資本主義経済においては、搾取の不可視性と商品・資本の物神性の故に、労働者・人民の諸困難を自己責任に転嫁することが容易であり、それを意識的に理論化・体系化するブルジョア社会科学が整備され、諸現象を巧みに構成して支配層の御用を果たしています(もちろんその研究者自身は「脱イデオロギー的」に学問的真理を追究していると大方思っているが)。経済的カテゴリーは措くとしても、諸現象の意識的(恣意的)構成という点では、中東の政治・軍事に関する認識にも共通するものがあります。イスラエルは「『イラン=主敵』論を喧伝することで、ガザ危機の本質から世界の目をそらそうとしていると考えられる」(48ページ)と栗田論文は指摘しています。それについて誌上討論では「イスラエルによるガザ攻撃は、あくまでイランによる『イスラム帝国主義』に対する対応にすぎず、紛争の原因はあくまでイランにあるというのです」(25ページ)と、アメリカのメディアなどの認識を紹介しています。

ガザでのジェノサイドに限らず、ヨルダン川西岸・レバノン・イラン・イエメンそしてアサド独裁政権がもろくも崩壊したシリアにまで、イスラエルは戦線を果てしなく拡大しています。それは「イランによるイスラム帝国主義」への対応かのように見えますが、けっしてそうではなく、逆にイスラエルを中心とする「新中東秩序」を創出する計画に支えられているという見方があり、栗田論文ではネタニヤフ首相の言説からその意図を察しています(48ページ)。

 ガザでのジェノサイドの異様さは想像を絶するものがありますが、坂口論文はその原因をネタニヤフ政権に加わっている極右勢力の「決定的計画」(2017年)に見ています。それはパレスチナとイスラエルの二国家共存を目指した1993年のオスロ合意を否定する、パレスチナ抹殺論・民族浄化論に基づくパレスチナ人根絶計画です。202310月のハマスのテロを奇貨としてかねてからの計画を実行しようというのです(7273ページ)。それによれば、今後のアラブ人の処遇として、イスラエル内での人種隔離か、追放か、(抵抗者は)抹殺という三択が強制されます(73ページ)。また「決定的計画」は国際法上の根拠を一切考慮しませんが、イスラエル政府の公式方針として具体化しつつある、と坂口論文は見ています(7374ページ)。ハマス一掃を掲げる瓦礫化攻撃は、「ガザ『再開発』のための住民追い出しと更地化の措置となる」(74ページ)というわけです。もっとも、ハマスも対蹠的なイスラエル抹殺論を抱えていますが、そもそもハマスもレバノンのヒズボラもイスラエルの無法な占領拡大政策への対抗勢力として生まれてきた点が忘れられてはなりません。

 坂口論文は、バイデン政権がきわめて能動的にイスラエルに軍事関与している実態を見た上で(7880ページ)、両国の特別な関係を構成する歴史的・民族的・宗教的・軍事外交的要因を検討しています(8082ページ)。もちろん、だからそうなのだ、という観照にとどまらず「米イスラエル主軸のブロック強化という一連の紛争への軍事一辺倒の対応は、非国家主体を含む対抗ブロックの形成と軍事紛争の泥沼化を招くだけだ。それは米軍需産業の目先の利益にはかなうかもしれないが、米国の根本的利益をも脅かすことになる」(82ページ)と批判しています。

 その上で、パレスチナとイスラエルの「二国家解決」の実現困難性を直視して、ムアシェル元ヨルダン外相による現実的解決策を紹介しています。それによれば、アラブ諸国がイニシアティヴを取り、パレスチナ領でのイスラエルの入植地建設の終結など、両者の人権と平等の尊重をまず目指し、その後、「二国家解決」「一国家解決」「連邦制」といった最終的解決策の合意を追求する、という段階的提案となっています(8283ページ)。

 ここでも「理念の堅持と現実的対処の追求という難しい課題」に照らすと、後者の難しさが際立ちます。ただしウクライナ戦争の場合は、軍事大国ロシア自体の覇権主義による侵略戦争が問題の焦点にあるのに対して、ガザ攻撃においては、イスラエル自体の体質化した植民地主義に由来する暴虐もさることながら、それを可能にしてきたアメリカの軍事援助が実質的により問題であるように思います。イスラエルそのものへの働きかけだけでなく、イスラエル擁護に見られる、アメリカ帝国主義の国際法違反を包囲し孤立化させ軍事支援を断つことが追求されるべきでしょう。坂口論文によれば、アメリカは、1967年には占領地からのイスラエルの撤退を求めた安保理決議に賛成しているし、1982年にはイスラエルのレバノン侵攻に際してクラスター爆弾が民間人に使用されたのを理由に、F16戦闘機の供与を一時停止しています(77ページ)。今日のガザのジェノサイドはそれらよりはるかにひどい事態ですから、国際世論によりアメリカに軍事支援中止を求めることは喫緊の課題です。しかしトランプのカムバックではかなり困難ではありますが…。

 

(*注1栗田氏も呼びかけ人となっている中東研究者有志アピール賛同署名を紹介します。  https://x.gd/mergaza3rd

 

(*注2「アメリカでは『リーヒー法』というのがあって、国際法に違反するような武器、人道に反するような使い方をしている相手には売ってはいけないことになっています」(誌上討論、36ページ)。アメリカではおそらく人民の運動を反映してこうした民主的法律が存在するのでしょうが、現にガザのジェノサイドでは全く守られていません。先進資本主義諸国には共通する性格でしょうが、特にアメリカにおいては、民主主義と帝国主義との二面性という矛盾が顕著です。その矛盾の上に、実際には帝国主義的侵略を繰り返しているにもかかわらず、あたかも世界の民主主義のリーダーであるかの仮面によってカムフラージュされています。敗戦でアメリカから民主主義を教えてもらった日本では、メディアなど公共空間の言説では「アメリカ=世界の民主主義の模範」が支配的であり、これは発展途上諸国から見れば大変な偽善と映ることでしょう。それについて考えるには、先進資本主義諸国と発展途上諸国それぞれにおける内政と国際関係とでの民主主義のあり方を比較検討する視座がいつも必要とされます。

 

     3)欧州・中東の教訓と日本・東アジア

 

 アメリカの軍事援助に支えられたイスラエルの暴虐に対して、栗田論文では、「国際社会全体では停戦を求める声が高まり、さらにガザ危機の本質やその背景にある要因を見抜いて、問題の根本的解決を探ろうとする動きが勢いを増してきた」(4445ページ)として、国連総会や安保理の諸決議、国際司法裁判所(ICJ)のジェノサイド防止命令と入植地撤去・占領終了の「勧告的意見」などが紹介されています(45ページ)。この一連の動きでは、植民地支配などに苦しんできた、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の役割が重要であり、さらに先進資本主義諸国でも市民の間から戦争反対・パレスチナ人の民族自決権実現などを求める運動も起こっています(同前)。これらは新自由主義下での貧困・格差拡大と戦争がつながっているという認識が深まる中で、人種・ジェンダー等の平等を求める運動が植民地主義反対と連動(ブラック・ライヴズ・マター)し、その延長線上にガザ反戦があるとも指摘されています(46ページ)。

 そうした中で日本人は対米従属の政府を戴いていますが、国連決議においては必ずしもアメリカ追随一色ではありません。アメリカに反して、停戦決議に賛成することもあります。その背景には、従来からの石油外交だけでなく、平和憲法に基づく国内の運動があります。その意味では、現在進行している「戦争国家化」を阻むこととガザ反戦とはつながっています。さらには、ジェノサイドを繰り返しているイスラエルの閣僚から核兵器使用発言が飛び出していることからすれば、「ガザでのジェノサイドに抗議することと、核兵器の存在を許さない運動とはつながっており、この意味でも、被爆国日本の市民である私たちにはガザ反戦運動のために国際的にも果たし得る重要な役割があると考えられる」(47ページ)と指摘されています。まさに日本被団協がノーベル平和賞を受賞したこととピタリ重なります。

 ガザの事態からは、そうした日本の反核反戦運動の意義だけでなく、東アジアで日本の置かれた状況への教訓も汲むことができます。ダニー・ネフセタイ氏によれば、日本の世論がイスラエル化しているのですが、むしろそれを反面教師とすべき事情を坂口論文は語っています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 イスラエルは独自の核戦力を持ち、ミサイル防衛網を備え、シェルターを整備し、米国と緊密な軍事同盟関係にある。石破首相が総選挙時に述べたような日本に必要な「抑止力」を、ほぼ有している。しかしハマスやヒズボラなどの非国家主体を含む外敵からの攻撃を防げない。約二〇万人が避難を強いられ、国民はミサイルやロケット砲による攻撃に脅えている。「抑止」が破綻すれば、あとはなりふり構わぬ侵攻と殺人を続けるしかないことを、イスラエルの現状は示している。         83ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここでイスラエルのPLO攻撃やレバノン占領、オスロ合意によるパレスチナ暫定自治に対する空洞化策動、それらに対する抵抗勢力としてヒズボラとハマスが誕生する過程を振り返りこう続けます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 イスラエル敵視・憎悪の種を自分でまき続ける限り、どれほど軍事力を強化してもイスラエルの安全は確保されない。今、ハマスやヒズボラを「殲滅」しても、自らの権利を奪われ、存在を否定されたパレスチナ人、アラブ人から、新たな抵抗の動きが生まれることは必至だ。核を含む強大な軍事力で身を固め、他民族の領土を占領、併合するのではなく、国際法を守り、紛争は話し合いで解決して、平和的に共存していく以外、イスラエルの安全確保の道はない。これは日本や北東アジアにも通用する教訓だ。

         8384ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 以上のように、今自公政権が多くの野党も巻き込んで進めようとしている「戦争国家作り」が、軍事対軍事の悪循環を招く、ということがイスラエルという実例を通して鮮やかに示されています。イスラエルを反面教師として、抑止力信仰を捨て、国際法に基づく話し合いによる平和確保の道を進む以外に、日本が東アジアで生きていくことはできません。

 しかしヨーロッパにおいては、そうした国際法に基づく集団安全保障機構であるOSCEがロシアのウクライナ侵略戦争を防げなかったことが問題となります。その疑問に対しては誌上討論では「米国はソ連崩壊後も一貫して、NATOを中核とする欧州規模の安全保障体制を追求してきました」(38ページ)と指摘されています。ロシアもまたソ連時代にワルシャワ条約機構が解体したにもかかわらず、平和外交路線ではなく、周辺国に対する覇権主義的行動に終始してきました。そうしたヨーロッパの状況に対して「東アジアの場合、日米、米韓など二国間の軍事同盟はあるものの、現在ではアメリカと地域全体を結びつける軍事同盟が存在しないことが、新しい可能性となるのではないでしょうか」(同前)と回答されています。そうしてみると石破首相のアジア版NATO構想は正反対の危険な発想に基づくと言えます(米日支配層の意向にも沿っていないようだが…)。もはや言い古された感もありますが、日本のある東アジアでは東南アジアでのASEANの実績に学んで、それをさらに東アジア全体、インド太平洋、さらには周辺大国も巻き込んで世界平和に結びつける活動がもっとも現実的な平和構築の道と言えるでしょう。

      *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

 蛇足ながら、誌上討論で気になった点を述べます。一般論で言えば、保守的政府あるいは反動的政府でさえ、人民の利益になる政策を実施する場合はあります。ブルジョア社会科学理論においても諸現象理解に資する、あるいは本質を洞察する場合はあります。かと言って、いつも公平・公正を気にかけて「敵ながらあっぱれ」と評価していると足をすくわれる場合もあります。

誌上討論の中で、まず「ウクライナ支援を止めて、戦争を止めさせるだけでも、トランプになったほうがいいと思って、トランプ支持という人が『左翼』の中にも意外といますが、そう簡単にいくかどうかは分かりません」(36ページ)とあります。この評価はまあそうかと思うと同時に、一部「左翼」の無責任さが気になります。

 次いでアメリカの国際政治学者ジョン・ミアシャイマーが、アメリカ主導のリベラルな国際秩序の限界を深く考察していると評され、彼の次の言葉が「鋭い意見だ」と賛同されます。「アメリカは、体制転換によって地球上に民主主義を強引に広め続けようとする誘惑を抑えるべきである。アメリカは、中国やロシアと『力の均衡』を図りつつ、諸外国への介入をつづける能力はもはやない。世界を作り変えたいという誘惑は常に存在する。しかし、その誘惑に抗うべきである」(37ページ)。

 これは、アメリカに自制を求める限りでは支持できます。しかし「民主主義を広め続ける」というのはアメリカの自己申告で、「西側世界」で通用している言葉に過ぎません。たとえばやや違いますが、ブッシュ大統領は発展途上国やイスラム世界に「自由を教えてやる」と称してイラク侵略戦争を敢行し合理化しました。しかしこの自由は人間の自由ではなくて、資本の自由であると言うべきでしょう(彼の主観はともかくとして)。アメリカの自由や民主主義は大方そういう偽善を伴っています。

 さらにミアシャイマーについては加藤直樹氏が厳しく批判しています(『ウクライナ侵略を考える 「大国」の視線を超えて、あけび書房、2024年、7479ページ)。ミアシャイマーはNATOの東方拡大がロシアを刺激したのだから、ウクライナ危機の主な原因はアメリカにあるとしていますが、その心は――ロシアは彼らの「地域覇権」の外では脅威ではないのだから、ウクライナはロシアの好きにさせてやれ。あまり構うな。アメリカの主敵は中国だ。西太平洋で「地域覇権」を確立しようとする中国の思惑を阻止することに集中しろ(78ページ)。――これは「アメリカの覇権国としての利益を最大化する立場からはそうだろうという話」であって、左翼が歓迎できる内容ではありません(同前)。その議論で主体として扱われているのは米中ロの3カ国だけであり、ウクライナが問題外だけではなく、日独なども準・主権国家に過ぎないとされています。国際政治学の中で攻撃的リアリズムの流れに属するミアシャイマーが相手にするのは、米中ロの三国志の世界であり、むき出しの大国主義です。それは「大国が好きに振る舞う世界を否定する立場からは、対決すべき相手ではあっても共感や賛美の対象ではあり得ないはずなのである」(79ページ)というのが加藤氏の評価です。

 残念ながら私はミアシャイマーを読んでいるわけではないので、これは人の議論の受け売りに過ぎません。しかし、ウクライナ侵略戦争に際して、日本の一部左翼に、ウクライナ叩き・ロシア擁護があることに心を痛めた加藤氏が、その歪んだシニシズム・大国主義を徹底的に批判した同書は信頼できると感じたので紹介しました。

 誌上討論からもう一点。自公与党が敗れた総選挙結果をもって、石破首相の「核共有論」や「アジア版NATO論」に対して国民の批判が込められている、と評されています(39ページ)。私たちの中ではこの手の世論解釈がよくされますが、それが妥当かどうかは実際にその項目について世論調査でもしないと分かりません。往々にして、リアルでない希望的観測の場合があります。もしそうであれば、単なる気休めだけでなく、世論を変えるという課題を見逃す結果になることに注意すべきです。

 

 

          インフレの現状分析と理論

 

 松本朗氏の「アメリカのインフレとFRBの金利政策」はアメリカの物価動向を貯蓄率と政策金利の動向と併せて見ながら、FRBが政策金利を微妙に調整する模様を分析しています。その際に特に「インフレ進行下の景気減速要因という点に着目し」ています(51ページ)。貯蓄率を考慮するのは、貯蓄が流動性として解放(貯蓄率の減少)されて物価上昇する(インフレの進行)模様を見るためです(49ページ)。

 論文は「インフレとは何かを考えて」います(51ページ)。主流派経済理論を含めて通俗的には物価上昇=インフレとされるのでそもそもそういう理論的課題が出てきませんが、ここでは、通貨の減価による「全般的な物価上昇をインフレーションと」言い、「実体経済の拡大(経済成長など実質的な総需要が総供給を上回る事態)に伴う物価上昇とは異なる」(同前)とされ、同じ物価上昇でも、貨幣的要因によるものと実体経済的要因によるものとを区別しています(☆補注)

 現在のアメリカの物価上昇については、「価格面から見れば、経済の活性化(景気浮揚)に伴う物価上昇のようにみえる。しかしながら、貨幣的(マネタリー)な要因から起こる名目的物価上昇(本来的な意味でのインフレ)の側面が強い。マネタリーな、名目的な要因によるものであるとすれば、インフレによる物価上昇は負の影響を家計に与え、消費購買力を所得階層の低い方から奪い取っていく」(56ページ)と捉えられています。

 これは結論部分ですが、その前に、インフレによる物価上昇波及のタイムラグが指摘され、「インフレの伝播過程で物価に対する賃金上昇の遅れから、所得の再分配が行われる」とされ、「インフレの波及過程における所得の再分配と家計の貧困化が存在する」(51ページ)とされます。それに加えて、「賃金が低くなればなるほど可処分所得が低くなり、直接生活にかかわる物価上昇の影響をもろに受けるから」「賃金上昇の遅れは、賃金の低い階層ほど深刻な影響を受けるだろう」(同前)とされ、インフレ波及過程における所得格差がもたらす悪影響にも言及されています。これが上記結論につながっています。

 論文はさらにアメリカの所得階層別あるいはそれと関わる産業別にインフレの影響を分析し、全産業では個人所得の上昇が物価上昇に追いついているとしても、低所得層や低賃金の産業部門では追いついていないことを明らかにしています。そこから低所得層の生活困難だけにとどまらず、「インフレ波及過程の遅効性からくる個人消費の低迷が景気を失速させる危険性をはらんでいる状態」(56ページ)として、国民経済への悪影響を見ています。こうして、「インフレの負の側面」としての「末端の個人消費の冷え込みから起こる経済の縮小がじわじわと進む」ことを捉えて、「アメリカ経済の強さ」を主張するメディアやアナリストを批判しています(53ページ)。

 論文は最後に、ウクライナや中東の戦争への軍需によってアメリカの景気浮揚やインフレがあるという不健全さも併せて指摘することで、上記も含めて、アメリカ経済の強さを称揚する風潮を牽制しています。このように、アメリカ経済の現状分析においてインフレや物価上昇の科学的把握を前提とすることで、表面的かつ楽観的な理解を超えて、人民の利益を見据えつつ、経済のまっとうな発展に資する議論を展開できます。

      *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

 蛇足ながら、現状分析と科学的理論の結合ということで想起するのは、科学的社会主義の学問的影響力の後退という問題です。以下は、雑駁な印象による粗い議論に過ぎませんが、私の思想形成期の1970年代を思うと今昔の感がある、という実感から出発します。

 科学的社会主義の立場の研究者が割と漫然と構えてきたのに対して、支配層の立場の研究者が危機感を持って取り組んできたのかもしれません(もちろん階級社会における批判者側の様々なハンディは前提にありますが)。両者の対決は、理論と現状分析とにおいてそれぞれ行なわれますが、社会的影響力の次元では、現状分析の説得力がものをいうでしょう。諸現象をどううまく説明できるかということです。経済学では、資本主義の新しい現象が様々生じるごとにその説明力が問われます。

 政治のことを思えば、そもそも資本主義の階級支配の下で、支配層は被支配層を搾取・支配しており、客観的には利害関係は明白です。被支配層には不利益な社会。しかしそれを感じさせず、支配体制への同意が被支配層人民の利益になると思い込ませる(あるいは不満はあっても変革は不可能だと諦めさせる)術策を支配層は様々に講じて、実際、各種選挙では(選挙制度の問題などいろいろあるにせよ)勝って支配を維持しています。

 そこには分かりやすくは、時々に応じた実利のバラマキのようなこともありますが、一応民主社会においては、イデオロギー支配が中心となるでしょう。直接大衆に訴えるということではなくても、ブルジョア社会科学の弁護論による支配の下支えは重要な意義を持つでしょう。その際、支配層にとって有利なのは、資本主義そのものが持つ搾取の不可視性とそれによる領有法則の転回、商品・資本の物神性によって、人々が正しい社会認識を持ち得ず、資本主義社会の本質を見逃して、貧困・格差を始めとする社会問題を自己責任論に押し込めることが容易だという点です。そこに日常意識の宗教の体系としてのブルジョア社会科学が成立します。後はそれに乗っかって、諸現象を精緻に記述・構成することが科学的認識と思われます。諸現象の表面にべったり密着していることが説明力の高さとして見えてきます。本質を探るなどというのは、観念論・形而上学として非難されます。そこでの人間観・社会観は無自覚に資本主義的なものが前提され、それが歴史貫通的に通用するものと観念されます。「強欲」は人間の宿命ではありませんが、それによって資本主義の諸矛盾が「理解」されます。本来逆に資本主義の原理によって人間の強欲が理解されねばならないのですが…。

 マルクス『資本論』は資本主義の本質を解明し、さらにそれがどう仮象となって現れるか、そのメカニズムを解明しました。現代資本主義の新奇な諸現象の解明もマルクスの方法によるべきですが、それは容易ではなく、しばしばそれが踏まえられず、現象に追随するだけに終わったり、逆に本質を棒読みするだけで、現象の解明につながらない場合もあります。いずれにせよ現代資本主義の解明に成功せず、現象の説明力でブルジョア社会科学を克服できず、表面的には後れを取るように見える、ということになりがちと思えます。理論と現状分析の解離を克服して、双方の創造的結合をどう実現するかが課題です。

 

(☆補注)

両者の区別については、山田喜志夫氏の『現代インフレーション論 恐慌・金・物価(大月書店、1977年)の第八章「価格諸形態とインフレーション」の一「労働生産物たる商品の価格」の1「価値と価格――好況騰貴とインフレーション」から学びました。そこでは、好況による物価上昇とインフレーションとが比較されています。長い引用で恐縮ですが、資料的意味で重要と考えるので掲載します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 好況による物価上昇は、商品の需要が供給を上回ることを原因として生じ、ここで商品の価格は価値――価値通りの価格――以上に騰貴する。例えば、価格標準を一円=金一グラムとし、A商品の価値通りの価格を二〇〇円としよう。A商品の価値を表現する近量は二00グラムである。いま、A商品に対する需要が増大すると、例えば価格は四〇〇円に騰貴し、この価格を金量で表現すれば四〇〇グラムである。この市場価格の二〇〇円から四〇〇円への上昇が好況による価格の価値以上への騰貴にほかならない。この価格上昇は、金量で表示すれば二〇〇グラムから四〇〇グラムへの増大、すなわち金量そのものの増大という意味で実質的騰貴である。

 他方、インフレーションの場合はどうか。同じくA商品について検討しよう。いま、不換通貨の流通量が流通必要金量を上回って、通貨の減価(代表金量の低下)が生じ、価格標準が一円=金一グラムから一円=金〇・五グラムに事実上低落したとする。例のA商品はいぜんとして二〇〇円である。とすれば、このA商品の価格は価値を下回っていることになる。何故なら、金やA商品の価値の変化はないと前提しているのだから、A商品の価値を表現する金量は従来通り二〇〇グラムである。つまりA商品の価値通りの価格(金量)は金二〇〇グラムに相当するはずである。ところが、通貨の減価が生じ価格標準が一円=金〇・五グラムに切り下げられている現在、A商品の価格が二〇〇円だというのは、金量表示では一〇〇グラムだということである。すなわち、新たなる価格標準の下では、A商品の価格二〇〇円(金表示で一〇〇グラム)は、いまや価値(金量表示で二〇〇グラム)以下なのである。

 いまや価値以下となったA商品の価格は、価値へ向かって回復運動をとらざるを得ない。A商品の価値は新しく評価しなおされることとなる。新しい価格標準の下では、A商品の価値通りの価格は四〇〇円である。A商品の価値通りの金量は二〇〇グラムであって、この金量の貨幣名はいまや四〇〇円だからである。こうして、A商品においては二〇〇円から四〇〇円へと価格が上昇する。この価格上昇がインフレーションであるが、これは価格の価値からの乖離の運動ではなく、価格の価値へ向かっての運動なのである。このインフレーションによる価格上昇が名目的騰貴と呼ばれるのは、A商品の価値は金量表示で二〇〇グラムであることに変りはないのだが、この同量の金二〇〇グラムの貨幣名が二〇〇円から四〇〇円へと変化するからである。

 この二〇〇円から四〇〇円への価格上昇は、具体的には需給関係を介しておこなわれる。つまり流通界に過剰に投入された不換通貨による追加需要が波及し、A商品に対する需要が増大することを通してA商品の価格が騰貴していく。A商品を販売する個別資本家の意識においては、需要増大にともなって価格が上昇していく点で、好況による価格上昇もインフレーションもまったく差異はなく両者が同一視されるのは当然のことである。不換通貨の減価は、個別資本家の意識の外で社会的に客観的過程として進行するのである。

 過剰な不換通貨が流通過程に吸収されるには一定の期間を要するから、インフレーションによる物価上昇は、各商品について均等に生ずるのではなく、需給関係の差異に応じて不均等に生ずる。価値以下に下落している価格が価値に向っていく均衡化運動のテンポは商品相互間において不均一である。二〇〇円のA商品が二〇〇円のままであれば価値以下であるからA商品の販売者は損失を受けるし、三〇〇円に騰貴してもまだ損失をこうむっていることになる。いち早く四〇〇円に上昇すれば損失はまぬがれる。一般に、過剰な不換通貨が最初に投下された部門の商品価格がまず上昇する。つまり、資本蓄積のために過剰信用が優先的に供与された個別資本(第三章参照)の支出対象となる商品の価格が最初に上昇し、他の商品の価格の上昇はこれに追随していく。通常もっとも価格上昇のテンポが遅れるのは労働力商品である。労働力商品の価格は、当初は価値通りであるとしても、インフレーションを通じて価値以下に切り下げられていくのである。こうして、価値へ向っての価格上昇のテンポの差を介して損失の負担競争が生じ、個別資本間および労資間における価値の再分配が競争を通じておこなわれる。

 好況による物価上昇とインフレーションとは、両者とも需給関係を介して生ずる市場価格の上昇である点では同一であり、現象的には同一である。しかし、前者は価格の価値からの乖離の運動であり、価格の価値を上回る運動であり、したがって一時的であってやがて反転運動が生ずる。後者は価格の価値への一致の運動であり、したがって固定的なのである。           181183ページ 下線は刑部

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 上記により、商品価格の高騰において、その原因が好況とインフレとで、現象的にはいずれも需給関係を介する点で区別がつきませんが、両者においてその内容がまったく違うことが分かります。好況においては、価格の価値に対する上方乖離が生じ、インフレでは価格が価値へと一致する運動が起こります。ここから、バブル破裂後の長期停滞「失われた30年」における物価下落について考えると、そこでは実体経済の停滞を反映して、商品価格の価値以下への下落が起こり、それは労働力商品の価格=賃金についても同様でした。にもかかわらず上記と違って反転運動が起こらず、価格の価値以下への乖離が継続しました。おそらくそれは、労働法制の規制緩和による雇用形態の劣化をテコとする賃金下落が強烈に作用し続けたからではないかと思われます。物価下落によっても相殺されない実質賃金の低下(物価下落よりも強力な名目賃金下落)が作用し続け、当然それは(アベノミクス以前から続いた)日銀の強力な金融緩和によって解決することはできず、実体経済の停滞を克服できなかったのです。経団連主導の搾取強化策の帰結でしょう。

 この実体経済の問題を看過したか、意識的に無視したか、いずれにせよ、的外れな量的・質的異次元金融緩和を鳴り物入りで導入したアベノミクスが破綻したのは当然でした。価値は再生産を保障する価格水準を示すものであり、過度の搾取強化をテコとして、価値以下の商品価格と労働力の価値以下の賃金が横行する経済においては、大企業の内部留保増大を尻目に、特に小経営の営業が立ちゆかなくなり、労働者の生活も困難となります。これが日本資本主義没落の重要な原因の一つであり、社会的閉塞状況がもたらす様々な社会病理の淵源と言えます。間違った経済政策の根底には、物価変動について、貨幣的要因と実体経済的要因を区別しない俗論があります。

 なおこの引用文には、松本論文にある、インフレの波及過程における価格上昇の不均等性とそれによる労働者の不利益が指摘されています。

 

 

          ジャーナリズムと公正性、および周辺の諸問題

2024129日付の赤旗編集局宛メールを一部修正しました)


 

 「『赤旗』の視点に反響 韓国の戒厳令、米国の金融覇権」(「赤旗」党活動欄、127日付)には深く共感しました。同紙の経済欄にはしばしばマルクス経済学者の連載が載り、俗論にはない本質的・批判的視点が提供され、これは他紙ではあり得ません。

 韓国の戒厳令をめぐっては、この記事で紹介された「韓国でのたたかいから我々は何を学べるか、常に自分たち日本での問題に引き付けてものごとを考えることが重要だと思います」という読者の言葉が核心を突いています。韓国の人々と国会議員の勇敢で適切な闘いが「大統領のクーデター」を見事に阻止しました。軍事独裁政権を倒して築き上げてきた韓国の民主主義の底力に感動が止まりません。同様の事態が生じたとき、日本人ははたして的確に対峙できるのかが問われます。それに関連して言えば、「赤旗」以外の主要メディアすべてがかつて韓国バッシングの側だったことが想起されます。

 日本軍慰安婦や徴用工の問題は本来被害者諸個人の人権から論じるべきところを、「日韓関係において解決済みの問題を韓国は蒸し返すな」という筋違いかつそれ自身誤った観点でバッシングが横行しました。本質的には人権問題という次元において、日韓両国それぞれの反動的支配層と人民との間に対決点があるのに、日本VS韓国の国益の対立であるかのように、政府の宣伝とメディア報道で歪んだナショナリズムが煽動されました。もちろんここには、日本支配層の侵略戦争と植民地支配への無反省という問題が絡んでいます。したがって、対米従属とアジア蔑視という二重に歪んだナショナリズムから自由な「赤旗」以外では、韓国と朝鮮半島に関係した問題で正確な報道姿勢は期待できません。

 尹錫悦政権については、親日的で良かったのにこれからどうなってしまうんだろう、という視点がメディアでは目立ちます。石破首相もそういう立場です。もちろん一般論として言えば、日韓両国の関係が良好であることは必要ですが、尹政権の「親日」は日本側の無反省にすり寄ったものであり、韓国内で納得が得られるわけがありません。人権を重視する日本人民の立場からもよくありません。ひたすら日米・米韓の軍事同盟を軸とした日米韓3カ国関係を第一としつつ、韓国バッシングの流れに棹さしてきた一般メディアでは、今回の問題について、韓国の民主主義を中心に捉え、その関係で日本の民主主義のあり方を問うという姿勢はまったく期待できません。「赤旗」の独壇場となるほかないと見ます。

      *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

 民主主義の問題については、特にアメリカ大統領選挙と兵庫県知事選挙の結果に強い危機感を抱きました。後者では、N党の立花というとてもまともとは言えない「政治家」によるSNS上の煽動によって、県議会で不信任された斎藤知事が大逆転で再選されるという衝撃的な結果となりました。そこには様々な問題がありますが、目立つものを一つ挙げると――SNS時代のジャーナリズムの役割というか存在意義が問われる――これです。

 「石井彰のテレビ考現学」(「赤旗」125日付)では、「ネット情報だけに振り回されず、その真偽を取材してデマを見極め、多くの人に伝えて気づきの機会を増やしていかなければなりません。いまこそテレビは変わらなければならないのです」とか、「事実確認(ウラ取り)をしないSNSとの明確な違いを、はっきりテレビで見せつけてほしい」と指摘されています。

 とはいえ、真実を探求する難しさについて、Tansa(*注)辻麻梨子氏がこう書いています(「探査報道最前線 真実はどこにあるのか」、「全国商工新聞」129日付)。「一体、真実はどこにあるのか。捜査機関や議会は迅速に調査すべきだ。 …中略… そのためには、コツコツと事実を集める必要がある。あらゆる人に話を聞かねばならないが、誰もがすぐに話すとは限らない。膨大な資料を精査するのは時間がかかり、手間がかかる。 …中略… 事実をつかむのは難しい。事実を積み重ね、真実だと断言するのはもっと大変だ。だからこそ突発的な情報は情報源が信用できるかを確認し、すぐに100%は信用しない。真実は集める情報の種類や見方によっても変わる。誰にとっても共通する、完全な真実などないのかもしれない。ただ、だからこそTansaは取材を尽くす。集めた事実を正確に書き記し、力の弱いもの、苦しめられるものの側から見た真実を伝えていく」

(*注)現状に風穴をあけるニュースを届ける報道機関。広告費は受け取らず、寄付や助成金で運営する(同記事より)。

 ここには、事実の把握による真実探求の難しさの他に、その過程において立場の問題が絡むことが示唆されています。それについて、125日にネット配信された「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻245号)」の「私の好きな名言・警句の紹介(その239)−最近知った名言・警句」から引用します。

  ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

○ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール(アメリカのジャーナリズム専門家)「不偏不党や中立性はジャーナリズムの根本原則ではない」、「ジャーナリストが重点を置き続けなければならないのは、魂と心のこの独立性であり、中立性ではなく真の独立性である」(澤康臣訳『ジャーナリストの条件 時代を超える10の原則』新潮社,20244月(原著第42021,同初版2001,254,258頁。 「ジャーナリストが任務を果たすための10か条」の解説。この10か条には、日本で強調される「中立」「公平」はない)。二木コメント−このスタンスは、私が医療政策研究で30年以上遵守している次のスタンスに通じると感じました。

○M・I・ローマー(アメリカの医療政策研究の泰斗)「医療制度のような社会現象の分析は常に研究者の視点に影響される。私は、得られる諸事実がすべてしかも誠実に示されている限り、その解釈が特定の社会的又は倫理的価値判断に基づいている場合にも、これを『偏っている』とみなすべきだとは考えない」( National Health System of the World Volume 1. Oxford University Press, 1990,p.ix.『医療経済・政策学の視点と研究方法』勁草書房,2006,74頁で引用)。

○上野千鶴子(日本のフェミニズム研究・実践の草分け)「設立趣旨にはこんなことを書いた。/『上野千鶴子基金は公平・公正・中立などをめざしません。学歴や所属、性別や国籍も問いません』/この部分がネットでバズった。『公平・公正・中立』とはしばしば、強者や既得権益を持った側に立つことを意味するからだ」(『マイナーノートで』NHK出版,2024,196-197頁)。二木コメント−上野さんのスタンスも、コバッチ&ローゼンスティール、ローマーのそれに通じると思い、大いに共感しました。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 メディア論・ジャーナリズム論の知見はないので、以下は素人の思いつきの域を出ませんが、若干考えてみます。上記引用の最後、「『公平・公正・中立』とはしばしば、強者や既得権益を持った側に立つことを意味する」という命題こそ人民的ジャーナリズムが握って離せない警句でしょう。誠実に事実把握を重ねても、確かにそれは必須だが、それだけでは体制側にはまることがありうる、というわけです。かと言って、「中立」はともかく「公平・公正」そのものは必要であり、それを弱者の視点・体制批判の立場とどう両立させるかが問題です。

 純粋の客観性は通常ありえないとしても、できるだけそれを重視した「公平・公正」なくしてまともな判断はあり得ません。それを前提に私はこう思います。そうした「公平・公正」は立場の如何にかかわらず成立しうる、と。国家論において、公共性と階級性との対立と統一(=矛盾)ということが一般的に言われます。しかし、公共性一般と階級性一般とが対立するのではなく、公共性Aと公共性Bとが対立し、それぞれの基礎に階級性Aと階級性Bがある、という考え方があります。現実の政治闘争は二つの公共性間の闘いという形を取って、本質的には底にある階級的利害がぶつかり合うことになります。

 そこから類推すれば、ジャーナリズムにおける「公平・公正」も二つの立場がそれぞれに成立すると言えます。であるにしても、「『公平・公正・中立』とはしばしば、強者や既得権益を持った側に立つことを意味する」という状況が優勢であるのは何故か、という問題があります。いささか強引な考えかもしれませんが、そうなるのは資本主義の本質と関連しているのではないか、というのが私の予感です。『資本論』第1部第7篇の資本蓄積論における「領有法則の転回」にヒントがあるように思えます。

 資本主義は商品=貨幣関係の全面化を土台に資本=賃労働関係(搾取関係)が展開します。資本主義は搾取関係でありながら、奴隷制・封建制といった前近代の搾取関係とは違って被搾取階級にとって搾取が見えません。資本と労働との関係が賃金形態を通して、独立・自由・平等の等価交換関係としての商品=貨幣関係として現象し、搾取が隠されてしまうからです。商品=貨幣関係では自己労働に基づく所有が原則であり、資本=賃労働関係では他人労働の搾取が原則ですが、資本主義経済では、他人労働の搾取が貫徹されるにもかかわらず、それが自己労働に基づく所有に見えてしまいます。

 そこから類推すれば、資本主義社会における公正性はそれ自身正当なものであるにしても、しばしば階級性を隠蔽しています。安倍政権は顕著な強権政治を特徴としていたので、「アベ政治を許さない」というスローガンでの闘いが広がりました。それはとりもなおさず公正性を取り戻す闘いであり、絶対必要なものでした。ただし公正性が確保されればそれで良いということではありません。公正性の陰に隠された階級支配を打破することが次の課題としてあります。たとえば旧優生保護法をめぐる裁判闘争では、「除斥期間」をめぐって、その形式的公正性の故にそれを採用するのか、その内実に踏み込んで不公正と断ずるのかが問われ、裁判を重ねるにつれて、前者から後者へと移行していき、ついに202473日、最高裁大法廷が旧優生保護法を違憲とする原告勝訴の判決を下しました。ここまで追い込んで始めて実を取ったと言えます。 → 参照:拙文「ここでも『民主主義の形式と内実』考」(「月刊『経済』の感想 2024年7〜12月号」の中の7月号感想より)

なお、ジャーナリズムにおける「公平・公正」と「弱者の視点・体制批判の立場」との関係という問題は、より一般的には、資本主義社会における公正性と階級性(階級支配)との関係として考えられます。公正性の破壊を許さず、しかしさらにその先、公正性に隠された階級性を見逃さず、という二重の視点が必要と考えます。それについてはもっとしっかり詰めていきたいと思います。

 また「公正性と階級性」の問題は「民主主義の形式と内実」に関連しているように思います。拙文「『民主主義における形式と内実』考」でそれをアレコレ考えました。

      *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** 

 いささか蛇足ながら、「公正性と階級性」問題の一つの応用として、衆議院の解散権を取り上げます。法哲学者の安藤馨・一橋大学教授が「朝日」1114日付に<(憲法季評)解散権の「濫用」?「裏公認料」問題? 健全な民主主義へ、健全な報道を>という論説を載せています。

 衆議院の解散権については、内閣不信任決議案の可決という憲法69条の定める場合に限られる、と私は考えています。したがって戦後の解散総選挙のほとんどは憲法違反です。もちろん内閣不信任以外でも有権者の信を問うべき状況はあり得ますが、その際には吉田内閣時代に実施されたように、与党も含めて不信任案を形式的に議決して解散すれば済みます。悪しき形式主義ではありますが、与野党合意で信を問うことが重要で、現状のように、与党が一方的に有利となるように、内閣が恣意的な解散権を持つよりははるかにマシと考えます。

 しかしそれは憲法学説上まったくの少数意見らしく、この論説で安藤氏は石破首相の「立場」として紹介するだけで、まともな学説としては触れていません。アレコレ検討して、安藤氏は内閣の解散権を制約する必要はないと結論しています。どういう状況であれ、有権者がまっとうに判断すればいいだけのことだ、というわけです。その際にまっとうな判断を助けるジャーナリズムの「正しい情報の提示によって、適切な事実確認をもたらす」役割を指摘しています。

 これは形式論としては成立しています。しかし実態はどうでしょうか。たとえば、与党は財政を握っているので、時々の状況に応じて有権者の目先の利益を刺激することが可能です。常にその「最善の」時期を見計らっています(もっとも、岸田前首相は減税を振りかざしながらも、解散を逸機してしまいましたが…)。それを防ぐことなしに公正な選挙結果は期待できません。内閣の恣意的な解散権には制約を課すべきです。

 安藤氏は今回の総選挙において、「裏金」報道という情動的ラベル貼りによって有権者の誤解を招いたと断じています。「健全な民主政は健全に機能するジャーナリズムをなお必要とする」のだが、その反例として「事実に基づかない感情的反発などの情動に働きかけようと笛を吹く活動家」とか、「党員の鼓舞を任とする政党機関紙がジャーナリズムに属しない」などと述べています。これが暗に「赤旗」を揶揄していることは自明です。安藤氏の議論は公正性をまとった階級支配奉仕の一例であろうと思います。このような攻撃を粉砕すべく、「赤旗」などが人民的ジャーナリズムとしてますます発展することを期待します。

 
                                 2024年12月31日






2025年2月号

          付加価値生産性と中小企業淘汰論

 

1)失われた30年、日本資本主義の蓄積構造

 

 柴田努・鳥畑与一・柳恵美子・松丸和夫四氏による誌上座談会「日本経済が直面する〈危機〉の構造と対抗」は多岐にわたる問題を提起し豊かに議論しており、それらをさらに総合的に膨らませることができるなら大変に良いのですが、私としては一部の問題を採り上げるにとどめざるを得ません。

 誌上座談会では、まず日本経済が直面する危機の構造の基本が明らかにされています(1619ページ)。第1の柱として「企業のグローバル展開による世界最適地生産」が挙げられ、それが一方では大企業の稼ぎ方の国内から海外へのシフトをもたらし、他方では国内での低賃金圧力として作用します。それを具体化するのが第2の柱としての「労働法制の規制緩和による労働コストの削減」です。第3の柱は「企業法制の規制緩和とコーポレート・ガバナンス改革」です。これは資本の集中を促進し、「M&A増加と株価重視経営、ROE(自己資本利益率)重視経営、そして資本所有者への利益還元の経路」(19ページ)につながります。

 こうして実体経済としての国民経済が空洞化し、グローバル金融資本に翻弄されるような資本蓄積構造が確立し、それが人々の生活と労働の困難の根本的原因となっています。誌上座談会では、それを分析するのに、剰余価値の生産と実現、ならびに剰余価値の資本への転化という視点を確認して、資本の価値増殖の条件と搾取関係とが捉えられ(同前)、次のように総括されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 以上、みたように、大企業の資本蓄積構造は、2000年代以降、景気拡大期にも賃金は上がらない一方で、純利益もM&Aも増え、配当・自社株買いも増えるという構造へと変容しました。そして、2020年以降は、この構造がより強まって、貿易収支の赤字基調と、第一次所得収支黒字の拡大、とくに海外での利益留保=再投資の増大、国内投資の伸び悩み、賃金の低下をもたらしています。     20ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように人民的に見てまったく歪んだ日本資本主義の蓄積構造に対して、歪みを是正しない支配層が2013年から打ち出した対策がアベノミクスの「異次元の金融緩和」という未曾有の「実験」です。長年の経済停滞と物価下落をデフレと見なして、2%のインフレ・ターゲットという「対策」を打ちました。誌上座談会ではその観点が次のように問題視されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

一つ確認しておきたいのは、なぜインフレが景気拡大をもたらすかという推進側の主張は、企業の実質的な債務負担や賃金コストが下落し、収益が高まるがゆえに投資が増大し、雇用増加による賃金総量が増えることで需要が喚起されるという論理だったことです。労働者の実質賃金が上がって、景気も上向くという理屈ではなかったことです。

21ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 つまりあくまで資本の論理の貫徹であり、生活の論理から来るものではありません。これはブルジョア経済学の基本性格とも共通しています。同時にそれは新自由主義グローバリゼーション下における、上述の日本資本主義の蓄積構造においては、実体経済軽視につながります。内需の縮小した実体経済に対して投資するより、金融的運用に向かうか、内部留保の積み上げに向かってしまうでしょう。実際、アベノミクスの「景気拡大をもたらす」というもくろみは不発に終わりました。「この『異次元の金融緩和』という『実験』が示したものは、これほど異常な金融緩和でも効果がでないほど、日本の実体経済の衰退が進んでいるという現実です」(20ページ)。というか、バブル破裂後、先進資本主義諸国でも例外的に異常な停滞が続く実体経済に対して、異次元の金融緩和という異常な実験を施す(=毒をもって毒を制す、以下では「毒毒政策」)という発想自体がおかしいのであり、問題の中心である実体経済そのものに対して、(これもまた先進資本主義諸国としては例外的な賃金下落を是正すべく)賃上げを中心に、家計を温める政策を施すという正攻法が取られるべきでした。毒毒政策では金融政策の効果で実体経済が立ち直る(二つの毒が打ち消し合う)どころか、実体経済も金融もともに相乗的に異常化した(毒々しくなった)だけでした。

 実体経済に活用されない、この緩和マネーは国内大手銀行のみならず米系ファンドなどのキャリートレードの資金源となってしまいました。それは政策的帰結でもあります。「政府は、日本経済の空洞を埋めるものとして外国投資に期待をかけ、外国資本にとって魅力的な『儲かる日本づくり』を掲げてきました。それに向けて、中小企業の淘汰政策である新陳代謝活性化政策と同時に、資産運用立国として家計金融資産の『貯蓄から投資へ』の誘導政策を強化しようとしています」(同前)。

 

2)付加価値生産性と中小企業淘汰論

 

 このように実体経済の停滞と金融化が相乗的に進む中で、地域経済の衰退が地域金融機関とともに中小企業の危機へと向かっています。それに併せて、最近では物価上昇の下で賃上げが重大課題とされる中で、中小企業の賃上げの困難性がネックとされ、その淘汰が声高に言われる状況になっています。果たして中小企業淘汰政策でいいのかが問われます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 いま金融政策の正常化が必要ですが、政府が進める方向は逆効果です。例えば生産性の低い中小企業を『ゾンビ企業』として淘汰する新陳代謝論が高まっています。しかし、この生産性は付加価値、つまり収益力で測ったものであり、正当な価格設定ができない中小企業は低生産性部門となってしまいます。

 中小零細企業は、外国投資家の儲けのために存在しているわけではなく、生業を支え、持続的な経済循環を地方経済につくる役割を果たしています。そこに正当な評価をして公的な支援が行われるべきです。    23ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように、〈*1〉地域経済における中小企業の本来の役割と、〈*2〉それを困難にしている下請け構造などの収奪関係(→「正当な価格設定ができない」)に着目して反論がなされています(上記引用での叙述順序は〈*2〉→〈*1〉)。〈*2〉については、他誌で価値論の観点から以下のような反論もあります。

「生産性には『物的労働生産性』と『付加価値労働生産性』という概念があり、中小企業が大企業との価格決定取引において不利な条件をのまなければならないような場合には、『物的労働生産性』が高くても、『付加価値労働生産性』は低く測定されてしまうのである。したがって、中小企業は生産性が低いとは必ずしもいえないのである」(齊藤壽彦氏の「日本銀行の『異次元金融緩和』11年の評価―『長短金利操作付き量的・質的金融緩和を中心として―(政治経済研究所発行『政経研究』第123号/20241227日/所収、32ページ。もっとも、この指摘については注で、本誌座談会参加者・松丸和夫氏の論文が参照されている)。 (→ 他に、拙文「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」参照)

 本誌の誌上座談会に戻れば、中小企業で賃金が上がらないのは、付加価値生産性が低いからなので、賃上げのためにはまず生産性を高めよ、という議論にこう反論されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 私はこれに対して強く批判をしています。マルクス経済学の常識では、剰余価値の生産・分配・実現は、市場価格以前の段階で行われます。しかし、付加価値とはその後の段階、市場価格を通じて説明されるものです。たとえば、世界の付加価値生産のトップ国の常連は、アイスランド、ルクセンブルクという小さな国です。これらの国民1人当たり付加価値生産性がなぜ高いかと言えば、金融・保険業が活発だからです。日本も全部、金融保険業にしたら付加価値生産でトップになれるかもしれない。ところが本来、経済というのは、経済的に量られる儲け、収益の量だけで見るのではなくて、国民、地域にとって必要な財、サービスをどのように生産し、提供できるかが基本なのです。そこを見ないと、地域経済も、国民経済も衰退していくことになる。      28ページ → 以下「引用A

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----

 ここでは、中小企業の「低生産性」問題そのもの(上記の〈*2〉)よりも、付加価値に現れる(というかむしろ隠される)国民経済や地域経済のあり方を通して、再生産構造の中での中小企業の役割を評価するという点(上記の〈*1〉)に重点があります(あえて原理的に言えば、価値視点だけでなく使用価値視点が必要ということ)。もっとも、付加価値生産性の高低がかなりの程度、産業別に規定される、という趣旨からすれば、問題〈*2〉が問題〈*1〉に規定されるということが言えます。

「引用A」をさらに敷衍すれば、「付加価値とは何か」と「客観的存在のあり方とそれに対する認識との関係」(経済理論の対象と認識方法)という二つの問題があるように思います。そこでまず付加価値の定義を引用します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 付加価値 〔英〕value added  生産過程において新たに創造された価値で、マルクス経済学の価値生産物に対応する。本質的には生きた労働によって創造された価値(旧価値に付加された新価値)であるが、現象的には生産物価値額から原材料価額を控除した残額として現れる。いま、固定資本の移転価値(減価償却額)をCf、原材料価値をCv、生産物価値をXとすると、純付加価値Nnと粗付加価値Ngは、それぞれ、  

n=X―(Cf+Cv)、    g=X―Cv=Nn+Cf 

と定義される。ともに、生産物価値から原材料=中間生産物の価値を控除した統計概念である。個別企業の純(粗)付加価値を産業別に集計したものが産業別純(粗)生産、国民経済規模で集計したものが国民純(総)生産である。純付加価値は利子・地代等を含んだ利潤と賃金に分解する。ここから近代経済学では、資本・土地・労働などの生産要素にたいする報酬(要素費用)の合計を付加価値とする現象的把握にとどまっている。そして、この把握を商業やサービス業などの非生産的分野にまで適用し、生産的分野の付加価値と同列にとらえている。付加価値税の対象となるのはこうした現象面でとらえられる付加価値である。 →国内総生産;国民総生産       (盛田常夫)

   『大月 経済学辞典』1979年) 801ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 したがって、付加価値は必ずしも「市場価格を通じて説明されるもの」とは限らず、本質的には、マルクス経済学の価値生産物(V+M、可変資本と剰余価値)として価値=剰余価値の次元で、つまり「市場価格以前の段階で」捉えることができます。とはいえ、「現象的には生産物価値額から原材料価額を控除した残額として現れる」のであり、つまり通常は市場価格次元で具体的な統計概念として取り扱われます。

この現象的把握においては、生産的分野も非生産的分野も同列に扱われるので、「引用A」にある「金融・保険業」も登場します。金融・保険業の「付加価値」の源泉は生産的分野の剰余価値から分配されるものです。にもかかわらず、他産業より「付加価値」生産性が高い理由を、不勉強にして私は知りません(その解明は金融化――金融が実体経済に奉仕するのでなく、逆にそれ自身が肥大化して実体経済を振り回す事態――が生じる理由に通ずるだろう)。しかし少なくとも「付加価値生産性の高い」金融・保険業は「国民、地域にとって必要な財、サービスをどのように生産し、提供できるか」という経済の第一の課題にとっては直接役立つものではなく、むしろものづくりやサービス提供など他産業の「付加価値生産性の低い」中小企業こそがその主役だということははっきりしています。「引用A」は実体経済としての国民経済や地域経済のあり方が第一であり、付加価値生産性の高低は二義的意義しか持たないと主張しているようです。あるいは齊藤論文のように、中小企業は「付加価値労働生産性」は低くても「物的労働生産性」は高いということも言えます。

 とはいえ、付加価値生産性が低いこと自体は賃上げの阻害要因となります。したがって、大企業などとの取引関係の改善によって、コスト上昇分の価格転嫁を容易にするなど、付加価値生産性を高めることは必要です。あるいは大企業の過大な内部留保に課税し、そこから助成して、中小企業が負担する社会保険料を軽減する、といった賃上げ促進政策を取ることも有効でしょう。前者は生産過程、後者は再分配過程での改良ですが、いずれも大企業の強搾取・強蓄積構造にメスを入れるものです。それが国民経済・地域経済の再生に資すると言えます。逆に、中小企業を付加価値生産性の低い「ゾンビ企業」として切り捨てることは、大企業支配と金融化という歪みを正さず、実体経済の衰退に拍車をかけ、人々の生活と労働をますます危機に追いやります。「ゾンビ企業」論の有害なイデオロギー性がここにあります。表面的な「付加価値生産性」を絶対視するのでなく、付加価値の本質規定からその現象形態までを把握することで、「付加価値生産性の低い中小企業」という見方の一面性を克服して、実体経済におけるその大切な役割への敬意を確認し、それを実現することが必要です。

 

3)資本主義認識の根本的視点

 

 「引用A」を中心に、まず「付加価値」にまつわる問題を見てきましたが、次に「客観的存在のあり方とそれに対する認識との関係」(経済理論の対象と認識方法)に触れます。「引用A」に「マルクス経済学の常識では、剰余価値の生産・分配・実現は、市場価格以前の段階で行われます。しかし、付加価値とはその後の段階、市場価格を通じて説明されるものです」とあります。「行われる」は存在で、「説明される」は認識なので、両者は次元が不相応のように見えます。実際には資本の運動は市場価格を指標として行なわれます。しかし資本主義の本質はまず価値・剰余価値の段階(論理の抽象段階)で認識されます。労働と諸使用価値が適正に配分されて社会的再生産が成立するかについて、市場価格を指標とする資本の運動がそれをどう満たし、またときにどう暴走するかの基準を提供するのが、価値・剰余価値の論理段階です。それは、搾取を通して資本主義国民経済が成立する条件を明らかにするフレームワークであり、それを前提にして現象的動態を把握し評価することが必要です。こうして「存在」は本質と現象を含めて「認識」され得ます。

 恐慌論の問題意識を通して、以上の「認識」過程に基づく経済理論体系を整理すると、その二大区分が次のように総括されます。――資本の運動の長期平均的理想状態を現わす資本一般の論理次元(価値・剰余価値の次元ならびに生産価格・平均利潤の次元を含む)と競争論(競争=産業循環)の論理次元(市場価格タームで動態が現象的に解明される)。

 資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開します。前者では「静かな均衡化」としての価格メカニズムが作用し、後者では恐慌=産業循環の「暴力的均衡化」が作用します。価格メカニズムは恐慌=産業循環において「暴力的均衡化」のメカニズムの中に包摂されます(参照:松岡寛爾氏の「静かな均衡化と暴力的均衡化―競争論における試論―」、同氏『景気変動と資本主義』大月書店/1993年/所収、1965年初出論文)が、ブルジョア経済学においては資本主義に対する(搾取概念否定の)「単純商品生産」表象(市場経済)の下で絶対化されます(市場競争崇拝)。上記の理論体系との関連で言えば、静かな均衡化と暴力的均衡化とはともにまず資本一般の論理次元で捉えられますが、その具体的展開は競争論の次元で、恐慌を含む産業循環過程として捉えられます(恐慌=産業循環論)。

 以上は、資本主義を捉える大枠であり、格差・貧困拡大など、私たちを苦しめる根本問題の根底にあるものに迫る大前提と言えます。そこに成立する理論体系には資本主義の持つ物神性が本質を隠すメカニズムの解明が含まれますが、それは商品=貨幣関係の次元から出発して捉えることが必要です。そもそも商品生産における価格形態というもの自体が、経済の深部の力を不可視化し、もっぱら流通の表層に注目させるように作用します。それもまた商品生産が全面化した資本主義経済の仕組みそのものから発します。

本来人々は、生産過程における所得によって生活するのが当然です。しかし、低賃金・低所得でそれが不可能となっているのに、あたかも自然の成り行きかのようにして、その不足分を補うとして、政府が先導(煽動)している「貯蓄から投資へ」のかけ声は人々をどこに導くのでしょうか。資本主義の寄生性・腐朽性の最前線であり、同時にその転倒的把握を誘発する現象としての金融化を考える第一の起点は価格形態にあり、それを、商品=貨幣関係を全面化した資本主義的生産のあり方からつかむことが必要です。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 マルクス主義の価格理論の特徴は、価格にたいする労働価値論的基礎づけと価格関係を商品生産に立脚する社会の直接的現象形態とみる現象論的価格認識にあるといえる。

 マルクス主義の見地からいえば、価格関係とは、社会存立の永遠の条件たる物的再生産のなかでの、人間の社会的歴史的諸関係が諸生産物の交換関係のうちに反射され投影された虚像にほかならない。資本制社会の発展の「深部の諸力」をなすのは、前者すなわち物的再生産においての諸労働の社会的関係であり、後者すなわち価格関係はその表皮、泡沫をなすにすぎないといえる。価格理論の労働価値論的基礎づけは、こうした観点から価値法則の価格支配の諸側面を上向的にあきらかにするものとしてあたえられるのである。しかし他方では、商品生産社会、とりわけ資本制社会では「流通は商品所有者たちの一切の相互的連関の総和」(『資本論』第一巻一七三頁)をなしており、その内部の社会的諸関連はすべて商品流通=価格関係のうちにあぶりだされてくる。だから価格分析は、価格関係のうちに投影され集約されてくる生産諸関係を下向的にあきらかにするものでなくてはならないといえる。

      大島雄一『増補版 価格と資本の理論』(未来社、1974年)序

       ※下線は刑部 ここでの「価値法則」は歴史貫通的法則とされている

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 金融化に現出している、実体経済と金融との転倒した関係をつきつめれば、価格という形態そのものに淵源があるわけです。実像と虚像。その転倒。もちろん商品生産経済・資本主義経済においては、実体たる人々の社会的関係は価格形態を媒介に結ばれざるを得ません。そこに必然的に生じる転倒的関係に対して、私たちができるのは批判的認識の発揮です。「失われた30年」の実体経済停滞と金融化の進展の下で、「貯蓄から投資へ」スローガンに踊らされるのではなく、「価格関係のうちに投影され集約されてくる生産諸関係を下向的にあきらかに」して、「諸労働の社会的関係」をまともに再構築し、さらには変革することです。

 「異次元の金融緩和」で「デフレ」を克服することが経済停滞から脱却する道だという政策は、まさに価格形態の虚像性の延長線上にあります。「経済のための生活(資本のための労働)」という資本主義経済の性格に規定されて、カネのあり方から実体経済を見るという「自然な」見方が支配的ですが、発想を逆転させる必要があります。「生活のための経済」という歴史貫通的観点によって、実体経済からカネのあり方を見なければなりません。

3)のスピンオフ 現象の実在性と虚偽性

 以下では、現象の実在性と虚偽性について考えます。現象とその数値化は確かに実在し、私たちはそれに依拠して現実を認識し始めるほかないのですが、それは同時に虚偽性も含みます。誰でもそれを知っていることを示す言葉が、たとえば「名目賃金」とか「名目GDP」です。月給20万円の人が1ヶ月に食べる米5sの価格が2400円から3600円にやがて4000円になれば、賃金の実額20万円は米消費額の83.3倍から55.6倍にそして50倍へと目減りしてしまいます。20万円は確かに実在し不変であるにもかかわらずその購買力は減少してしまいます。賃金の存在意義はその消費購買力によって生活を支えることにあるのだから、購買力の目減りは存在意義の部分的否定につながります。ここには月給20万円の実在性と虚偽性の矛盾(対立物の共存あるいは統一)があります。

金兌換の停止に基づく管理通貨制度はいわばインフレで恐慌を買い取る体制であり、そこでは過剰発行による通貨の減価が通常のことなのだから、価格(市場価格)は常に
実在性と虚偽性の矛盾を背負っており、それを人は名目価格と呼びます。商品価格に限らずこの実在性と虚偽性の矛盾を示すものを名目値と呼び、たとえば名目GDPなどという用語を使用します。「名目」とは実在性と虚偽性の矛盾のうち、虚偽性に重点を置いた表現です。ところで、名目賃金は貨幣賃金と同じものを指しますが、貨幣賃金は実在性と虚偽性の矛盾のうち、実在性に重点を置いた表現だと言えます。ちなみに実質賃金は、名目賃金を物価指数で除することによって、名目賃金の持つ実在値をあえて修正して、その虚偽性を克服しようとするものです。そこには非実在性と非虚偽性の矛盾が新たに生じます。

言葉遊びのように見えるかもしれませんが、あえてさらに説明します。上記から言えるのは、「名目」と「実質」は相互に裏表の矛盾を抱えているということです。本来、「実在性」は「非虚偽性」と素直に両立し、「虚偽性」は「非実在性」と素直に両立します。そこに矛盾性はありません。ところが「名目」と「実質」では、この四者がクロスした関係性にあり、「名目」は「実在性」と「虚偽性」の矛盾を抱え、「実質」は「非実在性」と「非虚偽性」の矛盾を抱えています。

賃金やGDPにつけられた「名目」と「実質」のこのような屈曲した関係の原因は管理通貨制度による通貨の減価にあります。通貨減価という「運動」を捉えるにはゼノンの如くパラドクシカルな表現をせざるを得ないということか…。無用に観念的になりかねないのでこの辺で止めておきましょう。

 問題を始めに戻すと「現象の実在性と虚偽性」です。その一例として名目価格と実質価格を挙げてアレコレ考えました。そこに出た矛盾性などがさらに敷衍できるかどうかは措きます。この場合の虚偽性は量的意味ですが、価格形態そのものの虚偽性は質的意味を持ちます。経済の実像とは物的再生産における諸労働の社会的関係ですが、市場経済においてはそれが価格関係という虚像に反映されざるを得ない、というのが虚実の質的関係です。  

市場経済(とその全面化した資本主義経済)ではこの反映関係は転倒します。価格関係が諸労働の社会的関係を規定することになります。その典型として、産業循環の恐慌局面における諸商品価格の暴落と生産停止が挙げられます。価格関係の暴走によって諸労働の社会的関係が破壊されるのです。ただし資本主義経済においては、この短期的局面における大不均衡の勃発が、産業循環過程全体における長期平均的均衡を繰り返し保障することになります。現実には市場価格の不断の変動が、資本の短期的運動のみならず産業循環過程全体をも形成していくという意味では、価格形態の実在性が確かにあります。

しかし市場価格はまったく任意に変動するというわけではありません。産業循環過程を通して、結果的には、当該時点での生産力と生産関係に照応する、諸労働の社会的関係に規定された長期平均的価格(価値)が形成されるように変動します。この「深部の力」を知り、経済の実像をそこに意識するならば、価格形態の実在性の他に「表皮・泡沫」としての虚偽性を同時に見ることができます。

ここでもまた説明が一面化してしまいましたが、現象の実在性と虚偽性について一般的に考えてみます。統計数値などのように現象は確かに実在するのですが、それが分析対象の本質にどれほど迫っているかはケースバイケースです。現象の実在性そのものは尊重しつつ、そこに本質認識を妨げる虚偽性が同時に存在していないか、を常に問い直す姿勢が求められます。

 以上、誌上座談会を読みながら、現状分析そのものへの感想というよりも、脱線して、あらぬ方向への理論的詮索に終わってしまい、意味不明と思われるかもしれませんが、ご寛恕願います。他に、ジェンダー論も重要ですが、触れられず残念でした。

 

 <追伸> 誌上座談会の一論点に触れます。「強欲資本主義」とか「もの言う株主」とかがよく批判されます。もちろんそれらは当たっている側面はありましょうが、問題の矮小化に陥る可能性なしとしません。誌上座談会の中では、日本資本主義の蓄積構造の全体像から捉える必要性が主張されています。「日本企業が外国人株主に屈して、株主配分を重視していると言うよりは、私は、配当・自社株買いを増加させている企業行動は、経済の構造と大企業の要求から出た規制緩和によって、必然的に生じているとみています」(30ページ)。あるいは、「『株主重視経営』というのは、株主と経営者の利害対立という形がその本質にあるわけではありません。『株主価値』(shareholder value)という概念は、階級闘争の一形態として、資本が労働者の要求を徹底して抑え込むという形で、80年代以降、使われてきたものです」(35ページ)と言われます。

 後者の引用に関連して、株式会社を基礎とした社会主義的変革論が想起されます。そこでは所有資本家と機能資本家との違いが強調され(*注)、前者の退場と後者の実質的な労働者化というコースから社会主義的変革が発想されているようです。それは検討に値する構想だと思います。しかしその際に、機能資本家はあくまで資本の運動(労働者を搾取して価値増殖する)の担い手であることが希釈され、あたかも歴史貫通的な業務をこなす幹部職員としてイメージされているのではないか、という危惧があります。と言うか、「もちろんそんなノーテンキなことは考えていない」という返答が来そうです。しかし、自己責任論が猛威を振るい、多くの人々の価値意識に貫徹している日本社会においては、「自己増殖する価値」としての資本(その対極に人権なき人民たちがいる)が相当に深く浸透しており、変革の困難性が思いやられます(などと言ってないで具体的に闘うべきか)。

(*注)新自由主義下のグローバル競争の激化を受け、現代資本主義の特徴として、独占よりも競争を強調する見解をかつて見ました。しかし今日では、GAFAMなどのデジタル・グローバル資本が圧倒的な独占力を示し、大量の株式所有を背景にした機関投資家などの力がグローバル資本主義を支配しています。「所有と経営の分離」論や「経営者支配」論の想定した機能資本家優位は過去のものとなり、所有資本家優位の構造が確立しています(参照:合田寛氏の「巨大企業と独占パワーの支配―いかに統御し、対抗力を構築すべきか―」、『前衛』20252月号所収、180ページ)。

 

 

          異次元金融緩和の検証

 

 前出の齊藤壽彦氏の「日本銀行の『異次元金融緩和』11年の評価―『長短金利操作付き量的・質的金融緩和を中心として―(政治経済研究所発行『政経研究』第123号/20241227日/所収)は以下のテーマを掲げています。 

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 「異次元金融緩和」(の評価 刑部)を行うためには「異次元金融緩和」を伝統的金融政策、非伝統的金融政策、異次元金融緩和へと変遷した日本の金融政策の歴史の中に位置づけ、何が変わったのかを明らかにしなければならない。また「異次元金融緩和」の内容はきわめて多様であり、「量的・質的金融緩和」、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」、「長短金利操作付き金融緩和」へと変化しているから、この政策の過程を明らかにする必要がある。本論文においては「異次元金融緩和」の史的考察を行いたい。

 「異次元金融緩和」を評価するためには日本の金融政策の事実を追うだけでなく、これを金融理論に基づいて整理する必要がある。

 「異次元金融緩和」は金融の側面を考察するだけでは理解できない。低賃金を含む日本の経済構造と関係づけてこれを考察しなければならない。

 本論文においてはこのような観点から「異次元金融緩和」の背景、内容、効果、限界、副作用を解明したい。      10ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 上記のように、「異次元金融緩和」の前史を基本的に押さえ、次いで「異次元金融緩和」それ自身の変遷を丹念に細かく検討し、それを日本の経済構造の中に位置づけて解明し、読者に詳しく伝えているのが本論文です。私のような金融(論)の素人にとっても、繰り返し読み込むことで、金融政策の基本とアベノミクスの中核に位置した「異次元金融緩和」の本質に迫ることができる力作であり、教科書ともなっています(ただし誤字などが散見され、校正の不備がうかがえ、残念)。

 時間もないので、残念ながら若干だけ触れることにします。そもそもアベノミクス「異次元金融緩和」の2%物価安定目標への固執は政治的に(あるいは「市場」からも)押し付けられたものです。前提として、「200010月には日銀は『物価安定』の定義を特定の数値で示すことは困難であり、適当ではないとしていた」とか、「2008年に日本銀行総裁に就任した白川方明はインフレ目標の導入に明確に反対した」(16ページ)とあります。ところが2009年発足の民主党政権で1%物価安定目標を、2012年末発足の安倍自公政権とは2%目標を白川総裁は結ばされ、20133月に黒田東彦総裁、有名なリフレ派経済学者の岩田規久男副総裁が代わって就任し、「異次元金融緩和」に没入していきます。

 物価上昇の内容を見ないで上昇率目標を設定すること自体が無意味だというのが私の見解です。経済停滞による物価低迷をデフレと呼ぶこと自体が誤りであり、デフレだから金融緩和だ、という誤りの上塗りの上に「2%物価安定目標」があるのだから話になりません。さすがに20234月に退任した黒田総裁も2%目標を達成したとは言えませんでした。数字上は達成したけれども、ロシアのウクライナ侵略戦争に関わるサプライチェーンの寸断あるいは資源・エネルギーの供給不安などによる(円安も加勢した)輸入物価上昇が中心的な原因なのだから、「失われた30年」の経済停滞を克服するような物価上昇ではないことを認めざるを得なかったのです。もっとも、23年以降は、GDPデフレータに反映される国内物価上昇に移行しますが、これもまた賃上げを抑制した利潤上昇の「強欲インフレ」と呼ばれるような体たらくで、「物価安定目標」達成の名にはそぐわない内容です。

 論文は「量的・質的金融緩和」への批判を端的にまとめています(19ページ)。――(1)ベースマネーの増加は物価上昇や景気と結びつかない、(21990年代以降のデフレの原因は通貨膨張抑制ではなく賃金の低下による消費減退である、(3)「量的・質的金融緩和」は財政信認・国債信用、日本銀行の信認の低下を招く、(4)「量的・質的金融緩和」の効果と言われる株高、円安は実体経済の好転をもたらさない、(5)「量的・質的金融緩和」が「インフレ期待」をもたらすことが理論的、実証的に明らかにされていない――

 (5)に関連して論文が特に重点的に扱っているのが、黒田総裁の「インフレ期待形成」政策です。「黒田総裁は、総裁就任以前から、中央銀行総裁がコミットすれば期待形成は変化するはずと主張していた。黒田総裁はデフレ脱却について、インフレ期待形成を極めて重視し、マネタリーベース増加についても、『期待への働きかけ』以外の直接的な金融緩和効果は主張されていなかった」(19ページ)。この姿勢については観念論として簡単に斬り捨てる向きもあります。大筋としてはそれでよかろうと思いますが、論文はあえてきわめて丁寧に「インフレ期待形成」とその細かな政策手法を検討し、その一部については肯定的に評価しつつも、全体としては否定しています。

 「インフレ期待形成」政策の内容は省きますが、それで実際に生活者を動かせるのかについては、賃金や日用生活用品価格との関係がきわめて重要です。日銀のアンケートで「家計は異次元金融緩和に関心を持たなかった」(21ページ)という結果が出ていることと併せて下記を参照してください。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

賃金と物価の好循環を図るという政策については、「インフレ期待」が高まれば経済はよくなるとはいえないという次のような批判があったことを指摘しておく。賃金と物価が同じペースで上昇する場合には、名目賃金上昇率から物価上昇率を引いた実質賃金上昇率は増加しない。名目賃金が増加しても物価上昇によって実質賃金が増えなければ個人消費は増加しない。インフレ期待が高まっても実質賃金が増える見通しが立たなければ消費は増加しないのである。企業にとっても物価が上昇するという期待があっても、金利が上昇するということが予想されれば実質金利が低下するという見通しが立たず、設備投資は促進されない。       30ページ

 

 また、中央銀行の人々に対する物価上昇期待への働きかけによる物価の引き上げは、中央銀行に対する人々の信頼、信認を前提とする。生活を重視し、中央銀行のことを十分に認識していない生活者にとっては、物価上昇を実感しない限り、このような働きかけが十分な効果を発揮することは困難である。企業関係者はともかく、働く者にとっては物価の抑制を望むとさえいえよう。 …中略… 生活者が物価上昇を予測するようになるのは2022年春以降のことであるが、この背景には、当時、輸入品の価格上昇がすでに始まっていたという事実がある。金融政策によって消費者の物価上昇期待に働きかけて物価引上げを実現することは困難であり、その効果はほとんどなかったといえるのではないか。

       3233ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 以上、言われていることはいわば当たり前であり、上記アンケート結果と併せれば、日銀が上から目線で複雑に考えた諸政策も、地道な生活現場から遠く的外れであったというほかありません。で、結論が下されます。「本論文では、人々の期待(予測)に働きかける金融政策を立ち入って考察し、それが日本経済の低賃金構造のもとで大きな限界をもつものであったことを明らかにした」(36ページ)。「デフレ」という勘違いの正体の中心は低賃金による実体経済の停滞ということです。

 異次元金融緩和は効果がなかったというのみならず、弊害が重大でした。「通貨価値の維持、適切な金融政策の遂行のため、財務の健全性を確保することは重要である。/異次元金融緩和は日銀の巨額の国債保有と日本銀行当座預金の膨張を通じて、日本銀行財務の健全性の悪化という大きな副作用を生じさせたのである」(36ページ)。日銀の債務超過と「ハイパー・インフレ」を回避しなければなりません。金融政策の正常化を相当慎重に進め、日銀と日本経済のソフトランディングをどう果たすかが課題です。

 大門実紀史さんに聞く「国民の暮らしを守り、経済の再生へ 国民のための経済論で対峙する(本誌20248月号所収)は、まず政府自身が誤りを認め反省して正常化を明確に宣言することが大前提だとしています。政府のこの姿勢があってこそ、海外投機筋の動きも牽制できるということです(18ページ)。その上で、正常化に向けた三つの留意点を提起しています(1920ページ)。――(1)金利の急上昇を起こさない (2)国内の金融機関などとの協力体制を構築する (3)投機筋(特に海外)の動きを牽制する―― 

政府と日銀の当局者はこのような提案を一つの参考にして、実務者としてソフトランディング経路とその実現策を詳細に検討すべきでしょう。その際に、市場への働きかけの点で、上記のインフレ期待形成のための事細かな諸政策のどれかが役立てば幸いというところです。

 

 

          階級闘争の諸相

 厚い壁を克服する手がかりを求めて

 

1)裁判闘争

 

 一般的に資本主義社会では、搾取に基づく階級支配によって労働者・人民は生活と労働に苦難を抱え、それに対してときに人々は抵抗に立ち上がります。そうした闘いの成果として、資本に対する様々な規制や社会保障制度などが勝ち取られてきましたが、20世紀の最後の四半世紀くらいからは、そういう成果を破壊する新自由主義が政治経済とイデオロギーにおいて覇権を握り、再びむき出しの資本主義が人々を襲うようになりました。

日本では元々戦後一貫して対米従属と財界・大企業支配が続く下で、戦前から残存してきた社会的後進性と時々の最新の搾取方法との双方が政治経済上の支配に活用され(モダンの欠落したプレモダンと似非ポストモダンの共存。もちろん憲法=モダンに依拠した支配への抵抗もあるが…。ポストモダン=フューチャーは未定形)、新自由主義がそれを増強してきました。ヨーロッパでも新自由主義の攻撃により、福祉国家の後退などが起こっていますが、その中でも今なお持ちこたえているその水準と比べると、日本の社会的後進性は際立っており、「ルールなき資本主義」と呼ばれています。

 その中で人々の生活と労働を守り発展させるため、社会そのものと社会意識を変革する闘いは特別の困難性を抱えています。その闘いはむしろ敗北が一般的でありながらも(マルクスも労働者階級の闘いの敗北がむしろ常態であることを語っていた)、少なくても勝利の手がかりを求めて、様々な分野・場面で知恵と力を絞って工夫し粘り強く続けられています。愛知の社会保障運動のリーダーの一人で、社会保障の学習会でもご指導いただいた故・西村秀一氏は「社会保障運動はゼロか100かではなく、運動しただけの手応えがある」ということをよく語っておられました。世論喚起から行政への働きかけ、あるいは訴訟にまで様々な運動があり、ときどきの勝ち負けもまちまちでありながら、少しずつでも社会を動かしていきます。昨年の新聞記事などの中に、諸問題のありかと闘いの様相、併せてそこでの社会観を探っていきたいと思います。それらを総合して理論化するところにはほど遠いので、まとまりは欠きますが、まずは多様な現実から学ぶために。

 家事労働者過労死裁判が行なわれ、家事労働へ労働基準法を適用できるかが問題となってきました。7日間通しで個人宅に泊まり込んで働いた後に急死した60代女性Aさんについて、2022929日に出された東京地裁判決は労災と認めませんでした。「家事使用人」は労基法の適用外だからです。控訴審に向けて支援者はこう語っていました(ネット上でのNPO法人 POSSEの署名訴え、2024714日付より)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

元々この裁判は法律の壁が立ちはだかっていて、法廷の中だけで普通に闘ったとしても勝てる見込みがあまり見えませんでした。指宿弁護士は裁判を引き受ける時に「勝てる見込みは3%」とAさんの遺族に話していました。しかし、遺族と共に様々な取り組みを行った結果、世間の反応も大きくなり、国もそれを無視できなくなってきたことで法改正の可能性が見えてきました。今日も多くの方々が支援に駆けつけてくれました。皆で良い判決を勝ち取りましょう。 

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 そして高裁では逆転勝訴し(2024919日)その判決が確定しました。亡くなった女性が訪問介護ヘルパーを兼ねていたことから、家事もそれと一体の業務と判断して労基法を適用したのです。ただし家事使用人へ労基法を適用するという解釈までは踏み込んでいません。高裁判決以前の627日、すでに厚生労働省は家事代行などを担う労働者を保護するため「労働基準法を適用する方向で具体的施策を検討すべきだ」との考え方を示していました(東京新聞、2024628日付)。さらにこの判決を受けて、厚労省は家事使用人にも労基法を適用する法改正の調整を進めています。 

 本件は経済理論にも問題を提起しています。経済理論上、市場外の労働はおおむね無視されてきましたが、フェミニズム経済学が家事労働に焦点を当ててきました。労働価値論の観点から、それを理論上どう位置づけるかが課題となります。私は家事労働の価値形成性の問題をとりあえず措いて、それが市場内外を問わず、社会的投下労働の一環として現に存在している、という事実からまず出発することが必要と考えます。これは労働価値論発展の枢要点の一つと言えます。

 以上のように、「家事使用人の過労死」という現実が突き付ける問題点がいくつかあります。法廷の中と外の闘い、法解釈と法改正の関係、様々な労働の経済理論上の取り扱いなど。当事者の切実な要求とまともに向き合うところに運動と理論の発展があり、ひいては社会変革への道が開かれます。

 法律の壁を乗り越えたという点では、障害者の人権に関わる旧優生保護法強制不妊訴訟が記念碑的到達点を築きました。そこでは、除斥期間という「時の壁」の前に各地の裁判で原告敗訴が続きましたが、202473日、最高裁大法廷はついに同法を違憲とし、国の損害賠償責任を認めました。闘いの中心にあって「弁護士は、見捨てられた権利に法という光をあて、被害を救済できる」と言う新里宏二弁護士はインタビューを受けてこう述べています(「原点は救えなかった命 優生訴訟・新里弁護士がつなぐ法創造のバトン」、「朝日」2024713日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 権利は、恩恵的に与えられるものではなく、勝ち取っていかなければならない面がある。言葉で言うのは簡単ですが、虐げられた人たちが声を上げることは、現実にはとても難しい。

…中略…

 踏みつけられた人の権利なんて『時の壁』で終わり、というのが国の主張でした。そうではない。法は、少数者の権利を守るものです。目の前の被害を救済するために、どう解釈・運用すべきか。法は、私たちに知恵を絞るよう求めているのです。

…中略…

 今回の判決は、「創造の担い手」たちの営みが蓄積した結果といえます。担い手とは裁判官だけでなく、原告や代理人、支援者や世論、報道したメディアを含めたみんなのこと。共感と連帯の輪を広げることが、差別のない社会、すべての人が個人として尊重される憲法秩序をつくる一助となる判決を、引き出す結果につながったのです。

…中略…

 実は、最初は政治解決を考えたのです。原告の女性から2013年に相談を受けたのですが、「時の壁」に加えて、当初は強制不妊手術を受けたという証拠がなかったからです。ただ、こんなひどい人権侵害が放置されていいはずがない。日本弁護士連合会に人権救済を申し立て、その結果を受けて政治を動かし、救済の仕組みを作れないかと考えました。しかし、肝心の与党が動かず、裁判での闘いを決断したのです。

 各地で裁判を起こした当初は、気の毒だけど『時の壁』があるのでどうしようもない、と負けが続きました。しかし次第に、被害の事実が少しずつ裁判官を動かしていった。勝訴判決が生まれるようになり、最後に最高裁での全面勝訴を勝ち取ることができました。

…中略…

自分はスーパースターでもなんでもなく、普通のおっさんです。一介の弁護士だけど、みんなで力を合わせれば、できることがある。力を合わせて、過去の判例がひどければ変える。法律がひどければ違憲判決をもらう。法改正につなげる。そうやって、被害に見合った救済を考えていけばいいのです。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この記事、全部紹介したいくらいです。その中では、以前に多重債務の問題と保育所の日照問題でも法律の壁を乗り越える闘いをした経験が語られています。それらが今回の案件にも生きているとして、「『法律にこう書いてあるから』と、決してあきらめてはいけない。現実を見て、被害救済のために何とかする。それが弁護士の役割だという発想」を強調しています。まず現実があり、政治があり、法がある。法にも憲法・法律・判例がある。法には解釈と改正がある。新里弁護士はそれらすべてを掌上に乗せ、何より眼前の課題に人間として向き合い、その上にプロフェッショナルとして最大限できる尽力によって確たる結果まで出したのです。 

裁判闘争の意義については、生存権を争った「人間裁判」朝日訴訟が重要です。その東京地裁判決(1960年)によれば、<憲法25条の「健康で文化的な生活」は、国民の権利であり、国は国民に具体的に保障する義務があり、それは予算の有無によって決められるのではなく、むしろこれを指導支配しなければならない>とされます。これは確定判決とはなりませんでしたが、運動の偉大な成果として、その後の生活保護費引上げなどに影響を与えました。敗訴でもなお闘いに意義はあることを銘記したいと思います。

 2024年の朝ドラ「虎に翼」で話題になった原爆裁判も同様の意義を持ちます。ドラマに原爆裁判の資料を提供した大久保賢一法律事務所のブログによれば、東京地裁判決は国家賠償を認めず原告敗訴でしたが、原爆投下の違法性を認め、被爆者援護での「政治の貧困」を指摘して、その後の国内外の政治と法に大きな影響を与えました。敗訴でも社会変革に重要な意義をもった運動と言えます。 

 以下は蛇足かもしれませんが…。「虎に翼」では原爆裁判に続いて尊属殺人事件も扱いました。917日放送分で、山田よね弁護士は被告について語っています。被告は、性暴力を含め長年の被害の後に命の危機さえ感じるにいたり、性加害者である父親を絞殺しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 おぞましく人の所業とは思えない事件だが、決して珍しい話じゃない。ありふれた悲劇だ。あいつは今でも男の大声に体がすくむ。部屋を暗くして眠れない。金ができたら、その大半を自分を捨てた母親に送る。無理やり産まされた実の子を世話してもらうために……。私は、救いようがない世の中を少しだけでもマシにしたい。だから、心を痛める暇はない。それだけです。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この「救いようがない世の中を少しだけでもマシにしたい」という台詞は、おそらく今日でも、社会運動などの最前線で、人々の苦難を真正面に受け止めて闘っている活動家たちの恐ろしいまでの実感でしょう。そこには何としても目の前の現実を少しでも前に進めたいという一念・願いとともに、政権交代などの根本的打開に対する諦念とが入り交じっているように思えてなりません。たとえば1960年代や70年代前半などには、当面する闘いと根本的な社会変革の展望とが直結して感じられました。しかし今日では長い新自由主義覇権の下で、体制護持・保守化の泥沼の中で徒労感がつのる毎日でもあります。

 もちろん、にもかかわらず「虎に翼」のメッセージは明確です。声を上げることは無意味ではない、たとえ今勝てなくても、闘いの記憶と記録は残り、後から来る者たちによって継承され、やがて実現していく、と。それがドラマの主張のリフレインであり、927日最終回でもヒロイン佐田寅子は最高裁長官を定年退職した桂場等一郎にこう語りかけます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 桂場「私は今でも、ご婦人が法律を学ぶことも、職にすることも反対だ。法を知れば知るほど、ご婦人たちはこの社会が不平等で、いびつでおかしいことに傷つき、苦しむ。そんな社会に異を唱えて、何か動いたとしても社会は動かないし、変わらん」

 寅子「でも、今変わらなくても、その声がいつか何かを変えるかもしれない」

 桂場「君はあれだけ、石を穿つことのできない雨垂れは嫌だと、腹を立ててきただろ」

 寅子「未来の人たちのために、自ら雨垂れを選ぶことは、苦ではありません。むしろ至極光栄です」

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この後、桂場は潔く自説を撤回します。寅子もまたかつて恩師・穂高重親に食ってかかったのとは逆に、上記のように自ら進んで「雨垂れ」を選ぶと言い切ります。私たちも「石を穿つ」ことを目指してアレコレ考える日々が続きます。

 

2)社会運動

 

 もちろん裁判だけが闘いではありません。愛知の保育士たちのユニークな運動が現実に政治を動かしています。伊藤舞虹記者の「石破首相にも訴えた『もう1人保育士を!』 国に届いた草の根運動」(「朝日」デジタル、2024108日)は迫真のレポートです。 愛知では公立・民間の違いを超え、保護者も含めた保育運動が地道に積み重ねられてきました。それを地盤として、保護者との対話の中から、保育士の配置基準が知られていない現状を打破すべく生まれたのが、保育労働者と父母にともに響く素敵なスローガン「子どもたちにもう1人保育士を!」です。保育士たちはイラスト・マンガを駆使し、SNSでも発信し、自治体行政やメディアにも声を届け、やがて全国へ運動は広がり、ついに保育士の配置基準の見直しへと政府を動かしつつあります。社会福祉法人熱田福祉会の平松知子理事長は「みんなでおもしろがることが、大きなうねりにつながっていった」、あるいは「山が動いた。『子どもたちのために』という一点突破の訴えが、利害を超えて多くの人に共感してもらえた」と話しています。

 自民党議員にも堂々と訴えています。首相になる前の石破茂氏への働きかけは…

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

今や首相となった石破茂氏とも今年(2024年)2月に面会。議員会館に緊急避難用の抱っこひもを持ち込み、災害発生時に何人もの子どもを連れて逃げる難しさを実演しながら訴えた。

 「実際に0歳児3人を抱っこしてみたが、体が圧迫されて息苦しさを感じた」「大きな地震が起きたら、本当に子どもたちを守って避難できるのかと思う」。保育士たちが次々に不安を訴えると、石破氏は「私は防衛族だし、戦車も戦闘機もこれじゃ足りんと思ってるけれど、でもそれが(予算の)優先順位の最上位なのか。他にもやることあるんじゃないのと思ったりする」と理解を示した。1948年以降、45歳児の基準が一度も見直されなかったことについても「この国はどこかがおかしい」と述べたという。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 しかしようやく保育士の配置基準に光が当たるようになったという段階です。改善はまだまだ。闘いは続く。教育学者の本田由紀氏は同記事へのコメントで、運動への大きな評価とともに課題を語っています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

声を上げなければ、ひどい状況も無視され放置される。特に、「おんな子ども」に関する事柄について、高齢男性が多くを占めるこの国の政治はきわめて鈍感だ。それをこじあけたこの運動を、心から尊敬する。 運動を通じて保育士配置基準はやや改善したが、まだ世界的な標準には大きく後れをとっている。保育だけでなく、小中高校の1学級あたり児童生徒数の上限も国際的にみて非常に多いため、きめ細かい指導ができず教育格差の一因にもなっている。 鈍感な政治家らが無視を決め込んでいる間に、この国は人々のくらしや命に関わる問題が山積するようになっている。 もう一度言う。声を上げなければ問題は無視され放置される。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 

3)まともな社会観を求めて

 

 以上のような、現実の厚い壁に挑む闘いの心意気と成果に学びつつ、どんな社会を目指すのかということでは、生活に密着したセンスが大切です。解散総選挙を前にした、2024109日、「朝日」投書欄の丹羽淳氏の「同じ目線で考え悩む政治家こそ」は「学力優秀で競争を勝ち抜いた政治家」では「物価高に苦しむ私たちの暮らしが理解できるだろうか」と問いかけています。そして「私たちと同じ目線で考え、一緒に悩み、解決策を模索する政治家こそ理想ではないか」としています。さらに「『困っているから助けてやろう』ではなく、『困っている人を減らすにはどういう社会にすればよいか』という発想が必要だ」という平易で的確な社会観を提起しています。

 2024109日の石破首相との党首討論で、共産党の田村智子委員長はわずかな持ち時間を、「裏金問題」や首相の政治姿勢ではなく、「社会のあり方」に費やし、生活実感を込めて語っています(「赤旗」20241010日付)。具体的には賃上げと労働時間短縮問題を討議していますが、田村氏は冒頭、「総理と日本の社会のあり方について議論をしたいと思います」と宣言しています。この討論について報道では、最低賃金の大幅引き上げをめぐって、中小企業への直接支援をするか否かに、主に焦点が当てられました。もちろんそれも大切ですが、私が注目したのは「社会のあり方」についての田村氏の以下の発言です。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 実際に過労死、メンタル疾患、いまも深刻な社会問題となっています。博報堂の若者調査で、一番欲しいものランキングの第1位が「お金」、2位「時間」、3位「自由」と若い人たちが「自分の時間を大切にしたい」、「自由な時間が欲しい」―この思いを強めていることの表れだと思います。これはわがままでもないし、封じ込めなければならない思いでもありません。当然の要求です。

 もう一つ、私自身の実感もあります。子育て中、定時で帰ってもやることが多すぎる。頑張りすぎないと、仕事と家事育児は両立ができない。この頑張りすぎることを勲章にするようにしていては、後が続かない。社会が発展しない。私の実感です。ジェンダー平等社会をつくる上でも、労働時間を短くすることが急がれています。ただ働いて、食べて寝るだけの、そういう毎日は人間らしい生活と言えるのだろうか。学びたいこと、やりたいことに向き合える。家族との時間を大切にできる。社会とのつながりを築いて、さまざまな社会活動に取り組む。そのためには自由な時間が必要です。

    下線は刑部 

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 別に共産党が「共産主義と自由」キャンペーンをしているから注目したというわけではありません。共産主義のそもそも論は非常に大事だし、そこでも現代日本の人々の切実な要求としても自由時間問題が提起されています。ただそれを一般論的に済ませるのでなく、自分自身の生活感(観)を込めて、政治経済課題とも密接不可分のものとして、どんな相手にも(首相から隣人まで)語れるかが問われます。その際に、「我慢」や「頑張り」に問題を解消させないように釘を刺すセンスが必要です。無理なく「実感」に向き合えるように。

 資本主義というのは、人間でなく資本が主人公であるがために、人間が搾取され使い捨てられていきます。資本主義社会に生きる人々の無理と苦難の多くはそこから来ます。だから生活実感に素直に向き合うことが資本主義を止揚し、資本による人間疎外を克服するカギとなります。

 有田哲文記者による「(日曜に想う)福沢諭吉が陥った、偏見の罠」(「朝日」2024915日付)も非常に興味深いコラムです。 福沢の「学問のすすめ」は平等の書ではない、というのです。「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』の後に『と言えり』が続いている。『と言われているが、現実はそうではない』というのが福沢の論旨だ。平等な社会を築くために学ぶのではなく、人の上に立つために学ぶ。そのための学問の勧めでした」。

 しかもよく問題視される「脱亜論」には西洋の優生学の影響があるとか。そう言えば…。テレビの常連教授、歴史学者・磯田道史氏は心底うれしそうに学問の楽しさを語り、歴史家としても、常々「武力より言葉が大事」と言っていて、それなりに好感度ありました。しかし、Eテレ「NHKアカデミア」(2024911日)で「AIで申し訳ないけど格差は広がる。勉強するのはチャリンチャリンとカネが貯まることだと思うべきだ」というようなことを言っていました。これでは、要するに「平等な社会を築くためではなく、人の上に立つために学ぶ」ということになります。まさに資本主義的に疎外された人間性。一歩間違えば優生思想につながります。「『困っているから助けてやろう』ではなく、『困っている人を減らすにはどういう社会にすればよいか』という発想」とは正反対になります。学識とともに良識も磨いているかに見える人であっても、資本主義による人間疎外から自由になることはなかなか困難だということです。

 以上、散漫な叙述かもしれません。「階級闘争の諸相」という題名を付けたのも違和感があるかもしれません。必ずしも労働者階級とか特定の階級の闘いだけでなく、普遍的人権をめぐる闘争、市民運動なども扱っていますから。しかし私としては、様々な闘いにおいても階級性を重視したいという思いがあります。

 資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開する基本構造を持っています。前者から独立・自由・平等の人間=社会関係が生じ、後者から階級支配が生じます。ブルジョア民主主義は前者による1階と後者による2階とからなる二階建て構造となっており、それによって支配の実質が隠蔽されています(それは資本主義的搾取そのものの特殊性からも来る)。1階部分は未来社会に向かってさらに発展させていくべきであるのに対して、2階部分は止揚すべきです。現状では2階からの圧迫が1階を歪めており、人民はそれとの闘いに明け暮れる状況ですが、その過程自身は未来社会を準備するものでもあります。

 そうした社会構造に規定されて、社会や政治の見方として、市民的視点と階級的視点とがあります。もちろん両者は矛盾するのではなく相乗的に発展させるべきものです。資本主義という階級社会における公正性(公共性)と階級性との矛盾に対して、両視点を駆使して分析し止揚する方向を見出すことが求められます。民主主義の形式と内実の矛盾に対しても同様です。

 科学的社会主義の立場からは、あらゆる政治経済社会問題に対して、階級的視点を基軸に市民的視点を包摂することが求められます。しかし現実には、新自由主義覇権下の保守支配体制に対抗する上で、幅広い共闘を可能にする市民的視点の共有が優先されます。それは当然ですが、そこで左翼勢力が自身の持っている階級的視点を忘れることへの警戒が必要です。

 人権・民主主義を強調するのは当然ですが、それを私たちは階級社会で行なっていることへの自覚が必要です。歴史貫通的な社会一般の中ではない。資本主義的搾取による生活・労働破壊で人々がどういう状況に置かれているかがまず思い浮かべられねばなりません。それを根本的に変えること抜きに人権・民主主義の発展はないにもかかわらず、一般論としての人権・民主主義の強調だけで終わっておれば偽善のそしりを免れません。以上、漠然とした言い方であり、いつも言ってることのようでもありますが、あらゆる問題に貫きたい観点です。

                                 2024年1月31日





2025年3月号

          暮らしと平和を捉える

 

 昨年の総選挙で自公与党が過半数割れとなり、政治を変えるチャンスなのですが、日本維新の会(「維新」)と国民民主党(「国民」)はそれぞれのワンイシュー(教育無償化と103万円の壁)を与党に売り込んで予算案に賛成する勢いです。もともと自民と同根の(というか、より右寄りで危険な)「維新」はこれまでも自公与党を助けまくっていたし、「国民」はかの「対決より解決」スローガンよろしく「ゆ党」路線まっしぐらなので、それぞれに首尾一貫していることは認められます。つまり両党とも政治を根本的に変える気がないのははっきりしています。それぞれの一手柄では人々の生活困難は基本的に改善されず、平和への脅威も除かれません。自民党政治に取り込まれて、危なげな少数与党の国会運営に助け船を出すだけです。なによりも予算案の最大の問題点である大軍拡に積極的に賛同していることで問題外と言うほかありません(と書いた数日後、225日に「維新」はさっそく予算案賛成を表明しました。医療費削減要請という「手柄」を誇らしげに携えて。支配層子飼いのトリックスターぶりに、アホらしくて特に付け加えることもない)。

 毎月始めに駅頭で「草の根憲法運動」の街宣をしていて、「人権・民主主義」と並んで「暮らしと平和」が中心的テーマとなります。言い古された言葉を使えば「大砲よりバター」ですが、「どうせお金を使うなら、ムダでなく良いことへ」とは若干ニュアンスが違います。「大砲」はとにかくダメだというところから出発します。と言ってももちろん、すぐに軍事費をなくせ、というような非現実的なことではなくて、原理的にはこうだ、という話です。

そもそも人間のやることでもっとも愚かなのは戦争であり、政治上の愚は戦争に備えて軍隊を強化することであり、経済上の愚は同様の目的で武器を製造することです。それがなければ財政的に社会保障に使える、という以前に、それ自身が愚なのです。軍事化を呼び水にするような経済は病気なのだから、経済安全保障などと言って軍事経済化によって経済成長を実現しようというのは外道です。そして政治のやるべきことは戦争をしないように外交で問題を解決することです。それをせずに軍拡で安全保障、などというのはすでに政治任務放棄の悪い後始末です(いや、始末どころか「新しい戦前」だが)。したがってそもそも軍拡は政治失格であり、軍事費を減らして社会保障を充実して民生安定を図るのが政治の王道というか、当たり前の原則です。日本国憲法の道に立ち戻るのか、踏み外し続けるのかが厳しく問われます。ここまで確認したところで、軍事に費やす膨大な費用を社会保障などに回せば何ができるかを具体的に提起する段階となります。こうして、経済の成果から繰り入れられる財政収入というものを、人殺しと社会破壊に使うのか、人を活かし社会発展のために使うかのという自明の選択をクリアに打ち出せます。そこに立ちふさがるのが各種脅威論と軍事的抑止力信仰であり、その克服が大切なのは、隠す雲を打ち払うことでこの自明の選択を浮き上がらせ、正気を取り戻すことができるからです。

ところが、世の財政論では、社会保障については財源をうるさく言うのに、軍拡はすんなり通すというのが、共産党以外の主な政党の共通政策であり、メディアも同様です。まったく逆立ちしており、正気を失っています。ロシアのウクライナ侵略戦争を奇貨として、自公政権が大軍拡を正当化し、大方の政党が同調し、世論を動員するという事態がずっと続いています。

だから上記のような当たり前のことからわざわざ言葉を尽くして説き起こす――そこから始めなければなりません。そもそも大軍拡は異常事態なんだという意識喚起が必要です。217日の衆議院予算委員会で、軍事費の突出ぶりを正した志位和夫共産党議長の質問に対して、石破茂首相は「軍拡という意識を持ったことは一度もない」と平然と答えました! それを受けて志位氏が「異常な予算を異常といえないあなたが異常だ」と叱責したのは当然ですが、メディアは石破発言を問題にしていないようです。政府とメディアが軍拡世論を日本社会の空気とすべく共闘していると言わねばなりません。日米同盟絶対視の病理は相当に深刻です。

そこで私たちの街頭宣伝では、平和の正気を取り戻すべく、原則論や情勢論をアレコレ語ります。その中で、説得力を高めるには、日米軍事同盟=対米従属下での中国包囲網づくりによる軍拡への批判だけでなく、平和のオルタナティヴを対置することが必要です。中でもASEANの実績とそれを基にした、東アジアとインド太平洋の平和構想が重要です。その際に、世界の多くの地域で軍拡が行なわれているときに、ASEANは違っていることを指摘した西口清勝氏の「ASEANが選択する『平和の共同体』への途とAOIP(インド太平洋構想) SIPRIのデータを用いたアプローチは非常に注目すべき論考です。

これまでも、日本共産党などがASEANの実績と方針に注目し、日本を含む東アジア全体にそれを広める平和の展望を指し示してきました。その際に、東南アジア地域で、ベトナム戦争を終わらせ、カンボジアの内戦を解決して以降、様々な紛争事項はあっても、戦火を交えずにきた事実がASEANの平和実績として動かぬ「論より証拠」だと言えます。それに重ねて、ウクライナ侵略戦争やガザのジェノサイド、その他の紛争・戦火を背景とする世界的な軍拡競争と軍事費増大の趨勢の中で、逆にASEANが軍事費抑制でも実績を残していることは、「暮らしと平和」への教訓としても大いに注目されます。

西口論文によれば、ASEANは経済成長を続け、2023年は前年度比で4.1%成長の3.8兆ドルとなり、世界のGDP総額の3.6%を占めます。しかし同年、ASEANの軍事費の世界に占める割合は2.0%に過ぎません。10年間(201423年)の軍事費増加率は名目値で24%ですが、実質値では横ばいです。しかも23年度は前年度比で4.0%減と1.6%減となっています(136ページ、前者が名目値で後者が実質値であろうか)。

 「普通の国」は経済発展に応じて軍備増強していくとよく言われます。戦後20世紀の日本の場合は、一方に非武装を謳う憲法の要請があり、他方に「宗主国」アメリカによる軍備増強圧力があって、時々で振り幅があり、その軍拡模様への評価は微妙なので措きます。しかし第二次安倍政権以降の日本と今日のASEANとはともに「普通の国」のコースから外れているという意味では「共通」します。ASEANは上記のようにその経済成長からすれば「軍事費を増加する財源がない訳ではないのに、軍拡への途ではなく平和への途が選択されているので」す(同前)。対して今日の日本はバブル破裂後、先進国でも例外的な経済停滞からすれば「軍事費を増加する財源がないはずなのに、平和への途ではなく軍拡への途が選択されているので」す(上記のパロディ)。ASEANは「普通のコース」を外れて上等の途を行き、日本も外れているが下等の途を無理に暴走しています。軍事費との関係だけを見れば、経済的には前者は余裕があり、後者は破綻に向かっています。

 ASEANの選択の理由はTAC(東南アジア友好協力条約、1976年採択)からAOIPASEANインド太平洋構想、2019年採択)に至る一貫した理念にあります。「東南アジア地域において、武力の行使によらず友好と協力に基づく平和的手段によって解決する『平和の共同体』を構築」し「かつそれを東南アジア地域内外に拡大していくこと」がそれです(136137ページ)。この理念によって「ASEAN諸国間では脅威の認識が極めて低いあるいはほとんどないことがASEAN域内で軍拡競争(arms race)が起こらない原因であ」り、安全保障のジレンマがないのです(137ページ)。

 TACを具体化した機構・EAS(東アジアサミット、2005年〜)は「ASEANの中心性」を確立しました。それによって東アジアからインド太平洋へと「平和の共同体」を拡大してきましたが、2010年代に入ると米中対立という厳しい試練に直面しました。米中両国の覇権主義的・ブロック形成的対応に抗して、どちらにも与しない中立・独立の立場を鮮明にして、AOIPを提起しました(138ページ)。それに対して、ASEAN十カ国内の世論調査は「米中対立が激化する中でそれに巻き込まれることなく、中立で独立した立場を採るというAOIPの核心となる理念がASEAN諸国の人々によって圧倒的かつ安定的に支持されていることを明確に示してい」ます(139ページ)。

 ASEAN諸国内の世論のみならず、インド太平洋諸国もASEANの主導するAOIPEASを多国間主義の機構として支持しています。米中の少数国間主義や二国間主義では諸国の不信と対立を招いているので、両国も地域協力のためにはASEANの途に乗らざるを得ません。

EASは米中を含む関係する諸国を結集できるだけの外交力を持っており、かつそれに代わるものがないという大きな優位性があり、何よりも『平和の共同体』を構築するという正統性がある」(同前)というわけです。ASEANの理念は決して「お花畑」ではなく平和実現への現実的力を獲得しています。理念も大衆をつかめば物質的力になる、というマルクスの言葉(『ヘーゲル法哲学批判序論』)は国際社会においても通用します。

 ところが東(北)アジアでは軍事費が急増しており、「その主たる原因は中国の台頭と近隣諸国・地域の反応の連鎖に求めることが出来る」(141ページ)とされます。「経済大国」となった中国の習近平政権が「軍事大国」化を目指し、この10年間(201423年)の軍事費増加率は60%です。同年間で日本31%、韓国34%、台湾56%です。まさに軍拡の悪循環=安全保障のジレンマに陥っています(同前)。これだけ見ると日本は低いのですが、202212月閣議決定の「安保3文書」に基づく岸田大軍拡の「初期的成果」として、225.4兆円に対して258.7兆円ですから、わずか3年で3.3兆円増、61%増です(日本共産党の2025年度政府予算案の抜本的組み替え提言、214日、「赤旗」215日付)。正気の沙汰ではありません。中国のGDPは日本の約4.5倍もあります(差はますます開くだろう)から、軍拡競争の悪循環に陥ることはかつての日米開戦にも匹敵する自殺行為と言うほかありません。もちろん、単独ではなく「日米同盟」だから大丈夫だ、という反論が聞こえてきます。いや、それこそ危ない。アメリカは日本を対中包囲網の最前線に置いて、いざ有事となれば、沖縄・南西諸島のみならず日本列島全体を捨て駒にもできるだろう。つまり1941年対米英開戦の無責任と非合理に代わって、21世紀の今日では、日米軍事同盟という拡大抑止による「合理的な安心材料」が、日本を安全保障のジレンマに基づく軍拡の悪循環に引き込んでいるのです。「赤信号、アメリカと渡れば恐くない」。首相が先頭に立ち「日本は軍拡などしていない」とうそぶき、メディアも同調して世論を馴らしている状況は赤信号そのものです。肝心なのは、あちらもこちらも赤信号かその点滅の中にあって、青信号の照り輝く領域を見つけ、そこに連帯し広げていくことなのです。

 中国が経済大国から軍事大国へ「普通のコース」を進んでいるのに対して、日本は「普通のコース」より下等の途(身の丈を超えた軍拡)ではなく、ASEANに学んで上等の途(大砲よりバター)を選択すべきです。覇権主義の米中両国であっても、東南アジア地域のみならずインド太平洋から世界に向かって影響力を及ぼしつつある「ASEANの途」を尊重せざるを得ません。かつてより衰退したとはいえ、経済大国の一角を担う日本が正統性のある途を選択するならば、その存在感は国際社会で一目置かれるでしょう。東北アジアにおいて、アメリカ側に立って対中包囲網の最前線を担って大軍拡に邁進するのではなく、両国との密接な経済関係にふさわしく、米中対立を緩和する方向での独自の働きかけをすべきです。すでに貿易では日中関係は日米関係を凌駕しています。平和と経済的利益の双方を考えても日本の自主性発揮こそが求められます。東南アジアのASEANに負けず、東北アジアの日本が地域の平和構築に向かって、米中両国の覇権主義をいさめ、敵対ではなく共存共栄の途をともに進むことを促すべきです。日本はこれまでずっとアメリカの従属国として見られ、自からもそれ以外を想像することを禁じてきた(というか、そもそもそういう自由な発想がない)せいで、日本は国際政治での精神的権威を失っています。それでいいのか。憲法はそうではないと言っています。

日本では民主勢力が憲法を護りその内容を実現すべく奮闘してきましたが、恥ずべきことに政府・支配層は憲法を敵視し、解釈改憲によるその空洞化とともに明文改憲を一貫して追求してきました。その間にASEANが日本国憲法の精神にも通じる平和の途を歩んできました。憲法前文にはこうあります。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここには平和的生存権は生存権保障の上に実現できることも謳われています。私たちは憲法の「暮らしと平和」をASEANから逆輸入しなければなりません。日本は明治維新による近代化以降、一貫してアジア一を自負し(脱亜という意識さえあったが)、それ故の大失敗・敗戦も経験し、21世紀の今、明らかにアジア一から脱落し閉塞感に包まれています。しかし軍事や経済でアジア一でなくとも、「暮らしと平和」の質と理念で敬意を払われる立場にはなり得ます。そのための一つの方策が、かつて日本がその経済発展をリードした東南アジア諸国がASEANを通して追求している「平和の共同体」に学ぶことです。「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という戦後日本の出発点の決意は今、謙虚な学びを経て実現することができるのです。

 

 

          経済理論・現状分析・政策

 

 佐々木憲昭氏の「追悼 工藤晃さんを偲ぶ」は「半世紀を超える偉大な師匠」(114ページ)への痛切な哀悼です。私自身は高校生時代に工藤氏と上田耕一郎氏との共著『民主連合政府で日本はこうなる』(新日本出版社、1974年)を読み、反共知識人への具体的で的確な反論と積極論の提示に深く感心しました。日本共産党が資本主義や政府の経済政策への根本的批判にとどまらず、当面の具体的改良策を含めて、現実整合性のあるオルタナティヴを提示するという一貫した姿勢を作り上げる上で、工藤氏の貢献は絶大だったのだろうと想像されます。おそらくそこには、地質学を専攻した自然科学研究者として、希望的観測や大言壮語などの観念性を排して、緻密に事実に基づくことから出発する姿勢があったのではないでしょうか。社会科学研究ではそのあたりがあいまいになる場合がまま見られますから。

 工藤氏が中心となってまとめた『日本経済への提言』(1977年)と『新・日本経済への提言』(1994年)に関して、佐々木氏は工藤氏の言葉を引いて以下のようにその特徴を指摘しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

1「民主的計画化」という新しい理論的、政策的提示をした。(2)計量的方法によって国民経済の総合的バランス、拡大・発展の速度、政策の効果の量的側面を示した。(3)日本経済の民主的再建にとって重要な、すべての分野の政策を全体の関連のうちに示した。(4)国民的運動との実践的関連を追求しながら政策を示した。

          115ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 まさに原則的・総合的でありながら柔軟かつ創造的に実践性をつらぬく方法がまとめられています。国民経済の質と量の両面を掌握した現状分析と政策展開の要点が提示されています。ここには現実変革に責任を持つ科学的社会主義の理論とそれを体現した党の科学性の真骨頂があると言えます。さらに、理論家としての工藤氏のポートレートも実に印象的かつ教訓的です。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 地質学でも経済学でも、丹念に事実を積み上げ分析するタイプの研究者で、「調査なくして発言なし」をいつも強調しておられました。素材を詳細にわがものとする(マルクス)ため、体験、観察、統計資料の整理などを大いにやり、資本主義の新しい諸問題に取り組むこと。その場合、抽象と分析の方法に大いに熟達しなければならない、と述べておられました。       同前

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 「素材を詳細にわがものとする(マルクス)」で念頭にあるであろう『資本論』第1部、第2版後記の有名な一節を自分の勉強と戒めのため以下に引用します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 もちろん、叙述の仕方は、形式としては、研究の仕方と区別されなければならない。研究は、素材を詳細にわがものとし、素材のさまざまな発展諸形態を分析し、それらの発展諸形態の内的紐帯をさぐり出さなければならない。この仕事を仕上げてのちに、はじめて、現実の運動をそれにふさわしく叙述することができる。これが成功して、素材の生命が観念的に反映されれば、まるである先験的な″\成とかかわりあっているかのように、思われるかもしれない。     新版『資本論』1 32ページ (Werke S.27

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 研究せず思いつきで「叙述」している身としては耳が痛い、というほかありません。拙文は実際に「先験的構成」になってしまっているものばかりかもしれませんが…。もちろんマルクスは膨大な生きた資料を読み込んだ研究の上で、『資本論』を叙述したわけです。工藤氏と佐々木氏や後継者の皆さんもまた「体験、観察、統計資料の整理などを大いにやり、資本主義の新しい諸問題に取り組」んで政策提言に至っているわけです。私としてはせめてそれらと様々な統計・資料などに多く接して「研究」のまねごとにでも近づきたいと思うばかりです。

 

 

          日本経済への一視点

 

 研究の大切さに触れた直後に、思いつきの「叙述」を披露するのはまったくどうかとは思いますが、一般の人々に日本経済への問題意識を平易に語ったつもりの拙文を以下に綴ります。

 物価上昇でみんな大変ですが、欧米の物価高は日本以上に深刻で、あのトランプが大統領になれたのも物価高による人々の生活苦が最大の原因でしょう。世界的には「安い日本」が定評です。おかげで世界中から千客万来のインバウンド消費で、内需の不振をカバーして日本経済はかろうじて息をついているという体たらくです。

 「失われた30年」で日本経済が凋落したということが共通認識になっています。GDPでドイツに抜かれ、もうじきインドにも抜かれるようです。一人当たりGDPでは、韓国・台湾にも抜かれました。もはや先進国ではないという嘆きも聞かれます。日本経済の問題として、かつて自動車産業と並んでリードしていた電機産業の凋落が象徴的です。そうしたリーディング産業や先端技術産業の位置付け・再構築が大問題ですが、ここでは宿題としておきます。以下では、地域経済の空洞化と再建、その周辺について若干考えます。

 日本経済の問題でまず目に付くのは、莫大な内部留保を抱えた大企業や富裕層と貧困にあえぐ多くの低所得層との格差であり、とりあえず分配と再分配を通した格差是正が喫緊の課題です。したがって、政治や財政においてはそれが大争点となっています。それは当然ですが、その先の課題として、分配・再分配の原資を生み出す産業のあり方をどうするかがあります。

 今でこそ「安い日本」ですが、1990年代くらいには、日本は物価が高すぎるので規制緩和・構造改革で物価を下げなければいけない、と声高に主張されていたのを覚えていますか。「生計費でみた1987年の東京の物価水準はニューヨークに比べて35%、ハンブルクに比べて22%高いという結果になっている」白川一郎経済企画庁調査局審議官)『内外価格差 もうひとつの物価問題、中公新書、1994年刊>。これは今では信じられないような数値ですが、当時、財界・大企業は日本の「高賃金」を含む「高コスト構造」こそが経済成長の最大の障害だと喧伝していました。1995年には日経連が有名な「新時代の日本的経営」を発表して、非正規雇用拡大の号砲が鳴りました(「経済企画庁」も「日経連」も今はないが…。中央官庁と財界自身が率先した「構造改革」がまさに日本社会を傾けた)。

 政府・財界の思い通りの「達成」が現在の「安い日本」というわけです。構造改革の大成功のはずが大失敗となりました。バブル破裂後の「失われた30年」で日本経済はデフレに陥り「安い日本」へ一直線です(デフレという言葉は本当は間違いで、物価下落と言うべき。理由は省略。しかし以下では世間に合せつつ、抵抗して括弧つきの「デフレ」と表記)。

 「失われた30年」でも大企業は莫大な内部留保を蓄積していますが、中小企業と地域経済は苦難を迎え、地域に暮らす労働者・自営業者・農漁民などの生活苦と労働苦は増しています。コロナ禍対策の財政支出をベースに、ロシアのウクライナ侵略戦争によるサプライチェーンの寸断とエネルギー供給の混乱とを直接のきっかけとして、2022年あたりからついに日本経済も長年の「デフレ」から物価高に転じました(断じてアベノミクスの成功ではない)。そこでも中小企業はコスト増を価格転嫁できない、という長年の宿痾(しゅくあ)から脱せません。ここには「失われた30年」「安い日本」の一つの重要な要素があると思います。直接的には、下請関係の問題(親企業による収奪)ですが、それだけでなく日本経済全体の持つ問題を探ってみます。せっかく良いものを作ってもその価値が実現しない状況がどう生まれているのか。

 まず労働規制緩和による不安定雇用の増大で、低賃金が一般化し、内需不足がひどくなりました。さらに食料・エネルギー自給率が低いので、大量に輸入した食料・エネルギー代金が海外流出します。国内で生産された経済価値が海外流出するということです。以上の2点は日本全国共通ですが、もう一つ、東京一極集中で地方での経済活動の成果が東京本社に吸い上げられるという問題があります。この三重苦によって、地域経済は内需不足に陥り、カネが域外に流出します。こうして地域内経済循環が形成されません。イタリア・フランス・ドイツなどでは、伝統的な地場産業を中心とする地域経済が健在であり、中小企業が生き残っています。

 高度経済成長期とそれ以降の一時期、日本では輸出を中心とした経済循環が地域でも一定成り立っていました。しかし20世紀末以降、新自由主義グローバリゼーションによる「底辺への競争」による低価格・低賃金の押し付け、企業の海外進出による国内産業の空洞化によって、地域内経済循環は破壊されてきました。

その再建のためには、まず中小企業への支援を含めて、全国一律の最低賃金を制度化しその大幅引上げを実現することです。春闘では大企業・中小企業を問わず、労働組合が大幅賃上げのため奮闘しなければなりません。農産物の価格保障、農家の所得補償を含めて日本農業を再建し食料自給率を上げ、地域での再生可能エネルギーの生産を振興し脱炭素のエネルギー自給率を上げることも必要です。そうした地域経済の底上げが東京一極集中の是正につながればいいですが、不十分ならば、各地域での経済活動が納税地域に反映するような税制改革によって東京への集中を是正するような措置が必要かもしれません。大企業の雇用と地域経済への責任を明確化し、安易な転出を規制することも必要です。

 もちろん日本経済の問題点は多岐にわたりますが、ここでは地域での経済活動の成果がきちんと価値実現する環境を作ること、地域内経済循環の再建に必要なことを中心に考えました。「失われた30年」「安い日本」を是正し、普通の生活者がまともに暮らし働いていける当たり前の日本経済を実現しましょう。統計的裏付けがないと経済論としてはあまり意義がありませんが、とりあえずは発想のレベルで…。

 

 

          選別主義のもたらす生活・社会・民主主義の危機

 

 高林秀明氏の「能登半島地震・熊本地震後の実態が求めるもの 災害時代こそ普遍主義の社会政策をは経済統計の分析どころか、被災地への支援活動という実践をさえ踏まえた論考です。現地での聞き取り調査の記録もあり、迫真のルポとしての性格をも持ち、その上で災害対策と復興に対する政府・自治体の重大な不作為と責任を告発し、今後に向けて災害時代の社会理念を提起しています。

 1995年の阪神淡路大震災は多くの人々にとって災害時代の幕開けとして記憶されていると思います。その後、東日本大震災を始めとして大地震や豪雨が頻発し重大な被害を経験し早30年が過ぎました。論文は「災害時の社会問題は平時の社会のあり方を反映している」という基本的観点をもって、「この30年は社会保障に対する国家責任が後退した時期と重なる。災害の度に多くの直接死・関連死を生み、被災者の生活再建よりも惨事便乗的な大型開発に邁進する社会は、平時から市場原理主義に基づく経済政策を優先し不平等と格差を容認する社会でもある…中略…」(74ページ)と総括しています。同様のことはコロナパンデミックにおいて、家庭と仕事の困難が特に女性の肩にのしかかってきたときにも言われました。女性は非正規雇用が多く、コロナ禍に際して解雇の憂き目に遭いました。家庭責任も女性に偏ることで問題が山積しました。たとえば当時、安倍首相が取り巻きの進言に従って、小中高の一斉休校を強行しました。その際の子どもたちの行き場への想像力をまったく欠いた為政者=男たちのジェンダーバイアスが露呈されました。平時の構えの誤りが有事に際して困難を増長したのです。

 2024年元日の能登半島地震については、地震の規模と被害についての石川県の想定が関係機関のそれよりも甘かったことが共通して指摘されてきましたが、それを受けて論文は「生命よりも開発を優先する政治行政が被害想定を歪め、被害の拡大を招いた可能性がある」(75ページ)と、政治の根本姿勢を厳しく指弾しています。

 論文が紙幅をさいているのは、2016年の熊本地震後における被災者の受診抑制と制度の問題です。被災住民の声が具体的に紹介され痛々しい限りです。論文はそこからの教訓をまとめています。「被災者の医療費の窓口負担等の免除措置が被災者を支えてい」ますが「この制度が打ち切られて状況は一変し、経済的事情から受診を控える被災者が大量に生まれ」ました(78ページ)。そして被災者の受診抑制が社会的・制度的な仕組みによって規定されているとして、「家計は、雇用条件・年金水準、膨らむ社会的固定支出、高い税金・社会保障負担、追加的な住宅費によって、やりくりが困難な状態に陥っている」(81ページ)と指摘しています。さらに「実際には被災前から経済的理由での受診控えがあり、被災後の家計状況からさらに受診抑制が行われているのである」(同前)とされ、「私たちはこの問題を平時から誰もが安心して医療・介護等を受けられる社会保障の実現という国民共通の課題へと押し上げていきたい」(83ページ)と結論づけています。

 日本の社会政策は選別主義に貫かれており、災害救助法の基本原則でも、広く被災者を救助するというよりも「むしろ『必要を超えて救助を行う必要はない』という部分に力点が置かれている」(84ページ)始末です。それに対して論文の結論は「社会政策と災害制度を差別主義から普遍主義へと転換することが必要である」(85ページ)ということですが、それは人々の社会的つながりのあり方、民主主義の質をも規定するものとして、以下のように鋭い政治的洞察が展開されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 普遍主義と選別主義は、社会保障だけの違いではなく、他の制度や他の社会的要因と関係している。高い水準の社会保障を備える政府は、透明な税制や監査の仕組みを整備し、選挙・議会制度を改善するなど、主権者である国民からの信頼を得ることを重視している(…中略…)。実際に、国民の政府や議会に対する信頼度は高い。それに対して、給付の対象・水準が制限的で国民に対して自助・自己責任の規範を求める選別主義は、国民に税と社会保険料の負担(社会保障制度)を連帯と安心の証しというより、他者のための自らの犠牲と思わせる。それにより、他者への信頼より不信が強まり、政府と国会に対する信頼の醸成を難しくする(…中略…)。 …中略… このような社会では、人々の自尊や他者尊重が育ちにくく、生活面でも精神面でも自己防衛的になり、連帯的行動やボランティア活動などは先細ってしまう。私たちには平時にも災害時にも自尊と相互承認、それを育む社会的基礎が必要である(…中略…)。       85ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 北欧諸国の選挙投票率の高さに比べて、日本のその低さが問題となり、しばしば小手先の「対策」がアレコレ言われるのですが、まさにここにその本質的問題が洞察されています。それは政治への信頼如何です。格差と貧困が拡大し、社会病理が様々問題となる中で、アメリカでトランプ大統領の再登場や欧州での右翼政党の勢力拡大・政権参加など民主主義の危機が叫ばれています。日本でも維新の会や右翼的諸派の台頭はこうした文脈で理解できる部分が大きいでしょう。それらを解決する一つのカギとして、選別主義から決別し普遍主義を選択することが挙げられます。それは自己責任論=社会保障削減路線を克服して連帯社会を築くことです。選別主義というのは自己責任論の政策的具体化と言えそうですから、それとの決別は自己責任論克服の具体化と言えるでしょう。

 

 

          民主主義の危機をめぐって

 

 近年、専制主義の台頭と民主主義の危機とが喧伝されています。その際に言われる民主主義とはもっぱら公正性を保障する形式的側面であり、人民の権力(デモクラシー)という内実が含意されることは少ないようです。というかむしろそれに関しては、多数の人々の意思の結果としてヒトラー政権が誕生した、というように独裁の元になるというネガティヴな側面がもっぱら言われます。真の意味で人民が主人公になる民主社会というものが本来あるはずですが、なぜかそれは眼中にないようです(理想論、お花畑だと思っているのか)。それもあって民主主義論といえばおおむね形式論になるのかもしれません。と言うよりも、資本主義社会とは搾取に基づく階級支配社会であるという認識を抜きに、一般論的に政治と社会を認識しているということが問題としてあります。たとえば選挙で多数を制した保守政党が政府を作ることをもって民主主義であると見なしても、経済と社会において一部の資本家階級が実権を握り、被支配人民層が生活苦にあえいでいる状態では、人々が権力を実質的に握っているとは言えません。それは「国民主権」の形骸化であり、民主主義の内実を伴わない形式民主主義に過ぎません。そうした理解の起点は資本主義的搾取を否定した資本主義社会観にあります。前近代の搾取と違って資本主義的搾取は見えないのでそれは一般的社会認識として成立しています(これはある社会の支配的イデオロギーは支配階級のイデオロギーである、ということの特殊資本主義的形態です)。そこに、形式論に偏重する民主主義理解の真の原因があると思います。

 しかし一般的社会認識の枠内でも社会的諸矛盾を何らかの形で反映することはあり、民主主義論においても、内実の側からの形式批判はあります。たとえばジャーナリズム論の常識においては、ジャーナリズムの立ち位置は政府と市民との中間ではなく、あくまで市民の立場であり、権力監視がその役割だと言われます。「中立」ではなく特定の立場たることがむしろ推奨されています。また上野千鶴子氏は「『公平・公正・中立』とはしばしば、強者や既得権益を持った側に立つことを意味する」とまで言っています(『マイナーノートで』NHK出版、2024年、ネット配信の「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター」通巻245号、2024125日から孫引き)。これらは正しいと思えますが、だからと言って民主主義形式としての公正性を無視していい、ということではないでしょう。公正性を確保してなお権力側に立ってしまうことがあり得る、というかそれが多い、という警句だと言えます。民主主義形式の貫徹は民主主義実現の必要条件であり、それ自身非常に重要ですが、十分条件ではありません。形式が良ければ民主主義だとは言えず、内実も兼ね備えていなければなりません。

 それをどう実現するかを考えるのは私にとっては今後の課題ですが、ここではまずその前段くらいの問題を考えます。昨年のアメリカ大統領選挙と兵庫県知事選挙はどちらも民主主義の危機を体現していました。SNSなどネットの問題は両者に共通しており、民主主義を尊重したまともな選挙結果にならなかったという点も同様です。兵庫県知事選挙については、内部告発を県知事が握りつぶすという事態に対して、公益通報者保護の問題が、(類似事件が他にも複数あったことが重なり)クローズアップされました。今どき珍しく気骨のあるテレビ番組、TBS系の「報道特集」ではそれこそが問題の中心点として捉えられていました。それも確かに重要ですが、他に選挙戦における政策争点がそれ以前の論点としてあります。公益通報者保護は政治や社会のあり方の公正性にかかわる民主主義形式の問題に属しますが、選挙における政策論争は民主主義の内実に関わります。その問題意識では、アメリカ大統領選挙についても結局、二大政党制の限界が露呈したと言えます。物価高などによる生活困難に無策のバイデン民主党政権への失望がトランプ共和党への期待にならざるを得ない、というのはまさに「究極の選択」であり、民主主義のあり方の次元とは別にブルジョア二大政党制の限界そのものにも目を向ける必要があります。しかしそういう見識は見えてきません。

二大政党制については、民主主義の理想であるかのように見る見解もありますが(敗戦で、民主主義をアメリカに「教えて」もらった日本では根強い見方)、その本質は資本主義体制の護持であり、失敗した政権党の下野による政権交代で体制そのものは守ることを目的とします。人々の不満を体制内に囲い込む装置です。不満に対しては時々の似非「改革」でガス抜き的に対応します。社会進歩に資する本当の民主主義であれば、二大政党制などはとうに卒業して、新たな変革志向の様々な政党が切磋琢磨する多党制民主主義に移行すべきです。

 20241117日の兵庫県知事選挙では共産党は大沢芳清候補を推薦し、齊藤元彦知事の他、稲村和美元尼崎市長や清水貴之前維新参院議員などの保守陣営の候補者が出ました。立花孝志候補の諸問題や齊藤陣営の公選法違反問題などについてはここでは触れません。選挙戦のあり方について「赤旗」1122日付はこう主張しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 斎藤県政を含め、長く続いた日本共産党を除くオール与党の下で、兵庫県では▽住宅や学校の上に高速道路を走らせる播磨臨海地域道路建設計画など大型公共事業優先▽高校・病院の統廃合▽県職員の6割リモートワーク構想などの「行革」―ほか、住民福祉をないがしろにする政治が続いてきました。

 しかし稲村・清水両陣営は、斎藤県政の下で予算に賛成し県民不在の政治をしてきた自民党の支援を受け、県政の中身を批判できませんでした。稲村氏は「行財政改革」を掲げ、病院統廃合は必要だとし、県立大学無償化の見直しで自民党の一部と一致したといいます。清水氏は「三宮再開発、ウォーターフロント開発をやる」と巨大開発推進を主張しました。

 その結果、財政力が全国5位にもかかわらず福祉や教育が全国最低クラスという県政のゆがみをどうただすかが正面からの争点にならず、政策論議のない選挙戦になりました。

 メディアも県政の中身に切り込まないなかで、もっぱらパワハラ問題が焦点化され、“斎藤氏かそれ以外の候補か”が争点として押し出されました。そのなかで、「既得権益と一人で闘う斎藤氏」という構図が斎藤陣営によってつくられ、県民の支持を得ることになりました。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 アメリカのブルジョア二大政党制とは違って、日本には国会にも地方議会にも革新政党がありますが、実際の選挙争点ではオール保守体制の如くであり、メディア報道もその枠内が当たり前と思っています。人々にとってはいつも真の選択肢は目隠しされ「究極の選択」を事実上強要され、その結果当然のことながら悪政が続く下で政治不信が増長するという悪魔のサイクルに完全にはまっています。人々は悪政に嫌気がさしながらも、維新の会とか齊藤知事とか石丸某とか保守「改革派」に望みをつなぐことになります。客観的には立花某とかのばかばかしいパフォーマンスもそうした目くらましの一環です。1990年代以降、新自由主義構造改革の覇権下で繰り返される「改革」言説はいい加減見破られてもよさそうなものですが、人々が様々な不満を抱える以上、その心のひだのどこかに巧みに取り入れば、手を変え品を変え籠絡できるということなのでしょう。そうとしか言い様がないか…。それが真の社会変革を遠ざける。

 兵庫県知事選挙については、民主主義形式の問題は派手に取り上げられながらも、政策の内実について顧みられることは少なかったと言えます。民主主義の病理、専制政治への傾斜を防ぐには、政治不信の克服が必要であり、そのためにはまず身近な政治で改善できるという体験が何よりでしょう。東京都杉並区などの例をたまに見ますが、そうした地道な取り組みが出発点でしょうか。様々な要求運動こそが民主主義の学校なのですが、残念ながら日本社会は普通の人々が多数参加することを阻む要因に事欠きません。

 民主主義についての一般的社会認識の枠内での論説として、「(論壇時評)権力を支えるもの 構造変えねば、次の『独裁者』が 政治学者・宇野重規」(「朝日」227日付)、「(憲法季評)手続き軽視の態度、生まれる分断 『お茶の間の正義』社会の昏さ 安藤馨」(「朝日」213日付)、「(月刊安心新聞plus)『欧』と『米』、自由民主主義にヒビ 怒り充満、格差是正が急務 神里達博」(「朝日」219日付)に注目しました。いずれも本来慎重な検討に値する内容ですが、時間がないので急いで飛ばしていきます。

 宇野氏は渡辺恒雄氏やフジテレビの問題を見て、問題を生んだ組織風土に言及してこう言います。「こうしてみると、『独裁者』をめぐる問題は、特定の個人だけでなく、それを可能にする構造にあることがわかる。なぜ個人の『尊厳』を損なう状態が、そのままになっているのか。それを許したのは誰か。このことを問わない限り、『独裁者』の時代は終わらない」。

いろいろな個別の事件と人物を通してもそこにある構造こそ問題にすべきというのはその通りです。ただしここで言う構造は社会構造とか政治構造などだろうと思いますが、民主主義の危機については、経済構造こそ問題とすべきではないかと思います。それについては神里氏が最後に触れています。また宇野氏は分断と不信こそが「独裁者」を創り出すとして、「自分に好都合なら暴力の発動を歓迎する手続き軽視が法の支配と民主政を毀損(きそん)すると強調している」安藤氏の上記論説を推奨しています。ここでの「分断」言説については後述するとして、安藤氏の論説を見てみます。

 民主的手続きの公正性を重視する立場から、証拠や手続きを軽視する「お茶の間の正義」を批判するのは正当です。しかしそこから右も左も同様に断罪する仕方は作為的です。たとえば韓国の尹錫悦大統領の「自己クーデター」を批判するだけでなく、野党党首もまた司法手続きを潜脱しようとしたと非難して、右も左も同様だという「印象操作」に無理やり持って行っています。罪の大きさはまったく違うはずなのに。ここには現実の実態(実体)を軽視した形式優位の思考、さらに言えば「右も左も同じ」という始めからある結論に持って行く狙いが見えます。

 また安藤氏は、滋賀医科大学生らによる強制性交事件を巡って大阪高裁が逆転無罪判決を下したことについて、担当した裁判長の罷免(ひめん)を要求する署名や抗議デモが行われたことについて、適正な手続きを軽視するものとして批判しています。この問題については、宇野氏の論説と同一紙面で砂原庸介氏が「民主制の中で培われてきた手続きを軽視し、自分に好都合なら暴力/ルール違反でも歓迎することは、合意を困難にし、分断を激しくする可能性がある。他方で、理解不能でも『手続き』をただありがたく受け入れるべきだという態度への反発も強い。適切な距離感を考えること自体、難しくなっている」と批評しています(論壇委員が選ぶ今月の3点」、「朝日」227日付)。

 それらと違って太田啓子弁護士は高裁判決と検察を批判しています。「司法含む日本社会全体で、性的同意とはどういうものかについての理解が欠けています。それを踏まえて検察は隙なく立証する努力が必要です」。「結論がどうあれ、今回の高裁判決には裁判官の性的同意への無理解が表われており、これに衝撃を受けた市民が多かったと思います。性的同意についてのゆがんだ見方がまかり通れば、被害者は救済されず、二次加害も続きます。世論喚起が必要」だ(「赤旗」228日付)。

 同事件と裁判について私はよく知らないので、断定的なことは言えませんが、上記の男性二人と女性一人の見解を見る限り、男性たちは手続き論、形式論を言い、女性は問題の内実に踏み込んでいると言えます。おそらく偶然ではなくジェンダーの差がそこにはあると思います。民主主義の手続き的正義にとどまっていると見落とすものが大きいということを警戒すべきでしょう。

 付け加えれば、証拠・手続き・法の支配などを重視するだけなら社会変革はできません。「中立」ではなく権力から独立し、被害者の生活視点を貫くことで、たとえば旧優生保護法の「時の壁」を超える創造的裁判闘争が成就しました。安藤氏の論説は、現実の矛盾から発生する人々の要求から離れて、形式的正当性だけを追求することが現状維持・体制擁護に帰結する一例と言えます。一見して「正義」「公正」と映る「高説」を現実に照らして検証することが大切です。

 神里氏の論説は自由主義・民主主義・自由民主主義の基本的理解に資するという点で私のような素人にとって有益ですが、それは措きます。最後に自由民主主義の危機に際して、広がる格差是正のため、「富の再分配」を急ぐべきではないか、と結論づけているのは、とりあえずそうだと思います。しかしそもそもこの危機の根源には資本主義的搾取があるという認識がないのが問題です。根源に手をつけず、必然的に出てくる矛盾を前にしても、弥縫策を続けるだけでは、不満を抱く人々の非行に対して人権・民主主義の説教を続けるリベラルの偽善に陥るだけではないかと思います。

 宇野氏と安藤氏は分断を批判しています。分断批判はメディアでは今や通俗的正義となっています。もちろんそこには正しい部分もありますが、誤りも含まれているように思います。たとえば、2020年大統領選挙で当時敗れたトランプ支持者が暴動を起こしました。また昨年末、韓国では尹錫悦大統領の逮捕に支持者が暴動を起こしました。これらに対してメディアでは常套句の如くに「分断が深まっている」と報じていました。しかしこれらは分断とは関係ありません。右派系支持者が常軌を逸しているというだけのことです。分断などと言えば、左派もまとめて悪いという印象操作になります。それはとにかく中道が良いという偏った立場から来ています。おそらく左翼でもなくリベラルくらいのアメリカの識者が以下のように分断批判を批判しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 ――分断や分極について、当然のものと考えるべきだと主張されています。

 「分断や対立は民主主義のそもそもの特性です。米国では識者も市民も『団結しよう』とよく言いますが、民主主義は全員の団結を目的とした制度ではない。違った意見を持ち、異なる考えや利益のために争うことはまったく正当で、分断自体は問題ではありません」

 「問題は相手方を非正当化することです。分極化というと、民主、共和両党が過激化している、との印象を与えますが、本当に過激化し、反民主的になっているのは共和党です。前回大統領選の結果を否定する共和党右派は、民主党のリベラル左派とは決定的に違います。分極化という言葉は中立的で社会科学的に聞こえますが、現実を部分的に捉えているだけです」

(インタビュー)トランプ氏「健在」の意味 政治学者、ヤン=ヴェルナー・ミュラーさん               「朝日」20241023日 付

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 そもそも階級支配社会には客観的に分断があります。支配階級は意識的に被支配階級内に分断をつくって支配に利用します。そういう分断に反対し、本来そこに分断がないことを主張することはいいですが、支配層と被支配層との間の分断を見逃してはいけません。以下では分断と括弧つきの「分断」を次のように区別して使います。

 ※分断:支配層と被支配層との間に客観的に存在するもの

   「分断」:被支配層内部にある様々な差異を使って、支配層が故意に作り出したもの

 トランプ大統領再登場により、日本でも差別正当化言説が横行しそうです。問題は様々な属性での「多数派」VS「少数派」ではなく、政治経済上の「支配層」VS「被支配層」です。支配層と被支配層の間には分断があります。本来、分断のない被支配層内部で争うのは「分断」支配の思うつぼです。誤った差別言説を正すのは、分断の助長ではなく、「分断」を克服して被支配層内での団結を強めることです。「分断」への批判に遠慮して、差別批判を控えるのは政治的誤りです。分断と「分断」を区別せず一緒くたに批判すべきではありません。「分断」批判によって被支配層の団結を促し、分断の存在をあぶり出す必要があります。

 もっと考えるべきことはいくらでもありますが、いったんここで最後のエピソードとします。アベ政治以降、数の暴力・強権政治が横行し、国会の行政監視機能は著しく低下しました。もとより、日本国憲法の国民主権原理は、戦後日本においてずっと、対米従属と財界・大企業奉仕の政治によって形骸化されてきました。民主主義の内実をそなえた国民主権は実現してきませんでした。しかしアベ政治は、憲法に基づく野党の国会再開要求を平然と無視するなど、憲法無視の姿勢が顕著であり、民主主義形式そのものも蹂躙してきました。確かにロシアや中国のような専制主義国家と比べれば、日本はいろいろ問題はあるにしても曲がりなりにも民主主義形式を備えてきたのですが、それさえ強権政治によって脅かされてきました。民主主義の内実がないところでは、必然的に民主主義形式もまた浸食されるということです。

 したがってまずそこでの闘いが行なわれてきました。国会に悪法案が提出される度にまともな審議を求めてきました。実際にはなかなか実現しないのですが…。市民生活の次元でも、思想信条の自由が尊重され、差別を許さないことは、民主主義形式の問題なのですが、実際には体制擁護の警察権力が特定の立場を弾圧しています。こうして、民主主義の形式と内実の問題は、(資本主義社会を含む)階級社会における公共性と階級支配、あるいは公正性と階級性の問題とリンクしていると言えます。

 その典型例として大垣警察市民監視事件があります。『前衛』20253月号が関連する以下の3論文を掲載しています。

山田秀樹(弁護士)「公安警察による市民監視は違法! 個人情報の抹消を命ずる――大垣警察市民監視違憲訴訟・名古屋高裁判決の報告

船田伸子(元原告)「市民運動のみなさんの代表≠ニしての裁判に」

緒方靖夫(共産党副委員長、電話盗聴事件裁判元原告)「大垣事件勝利判決の意義と自己情報コントロール権――『一億総監視社会化』に抗して

 山田論文は公正性をめぐる法廷闘争を解明しています。緒方論文はまさに階級支配の実態としての警察権力の強権と腐敗を実体験に基づいてまざまざと活写しています。民主主義を護り発展させるということは、もっぱら一般社会的ルールを表象していては間に合わないのであり、階級支配権力の実態暴露を不可欠とします。


                                 2024年2月28日





2025年4月号

          自民党政権の本質

 

 2024年総選挙で自公与党が過半数割れし、野党の協力なくして法案も予算も通せなくなりました。安倍政権以降顕著になった数の暴力=強権政治はもはや不可能であり、ごく一部の部分的改良――「103万円の壁」などの問題を「のむかどうか」が政治の焦点であるかのような「偽りの対決構図」をつくって、日本維新の会や国民民主党を取り込む「延命戦略」に、自民党は取り組んできました。しかしその破綻を象徴する二つの出来事が起こりました。一つは高額療養費の上限引上げ「凍結」であり、もう一つは石破首相の商品券配布問題です(「全都党と後援会の決起集会 志位議長の訴え」、「赤旗」320日付)。

 この二つは憲法の「国民主権」原理の形骸化とそれと表裏一体の政治腐敗とを象徴する事象であり、もっと根本的には資本家階級の支配機構としての国家権力の姿を露呈したものだと言えます。ガンや重病患者の経済的命綱である高額療養費制度への攻撃は、軍拡と大企業支援に注力する一方で、困難に陥っている人々は切り捨てるという、血も涙もない所業です。露骨な階級支配のあり方そのものと言うほかありません。日頃保守的で悪政にも我慢強い世論でさえ、反発を見せているのもそのせいでしょう(世論を動かして改悪「凍結」を実現した具体的過程については、「赤旗」331日付がまさに変革の立場からレポートしている)。

商品券配布問題については、以下のホンネを聞きましょう。同様のことが自民党の長年の慣行であることは多くの関係者が証言しています。それで石破首相と周辺はこう思っているようです(「朝日」デジタル322日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 国会答弁で法律上の問題はないと繰り返す一方、道義的な責任には「世の中の感覚と乖離(かいり)した部分が大きかった」などと陳謝する石破氏。ただ、首相周辺からは「商品券を配ったことが何が問題なんだ」「くだらない話だ」という本音も聞こえてくる。

 その言葉の裏には、過去の自民政権も同じことをやってやり過ごしてきたのに、なぜ石破氏だけが責められなければいけないのかという憤りが見え隠れする。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 法的問題がないどころか、政治資金規正法違反であることは多くの人が指摘していますが、それは措きます。同記事へのコメントで、中北浩爾氏はこのホンネを肯定し、「決して安倍派や石破総理が驕り高ぶって金権政治を始めたというわけではありません」とし、昔は良かったものが「1990年代から2000年代初頭にかけて政官業で不祥事が相次ぎ、コンプライアンスが重視されるようにな」ってダメになったと認識しています。その結論はこうです。「自民党は持ち前の良さは継承しつつも、時代に合わせて古い体質をアップデートしていかなければ、政界の中心の座を維持できないでしょう。ガバナンスの立て直しと世代交代が急務です」。いかにも自民党と同じ穴の狢の保守派政治学者らしい甘々の「諫言」です。問題は自民党のガバナンスや世代交代か。もっと本質的問題があるだろう。

 新人議員に商品券を一人10万円ずつ15人に配り、懇親会の料金も負担すれば合計150万円以上になりますが、それをポンとポケットマネーで出したと石破首相は言っています。確かに大企業各社がそれぞれ毎年何千万円も自民党に出す政治献金から見れば、一度の懇親会での200万円未満程度の支出は日常茶飯事であり、「何が問題なんだ」「くだらない話だ」ということなんでしょう。もちろんそれは「世の中の感覚と乖離」していますが、そこには庶民との感覚的違いという主観的量的差にとどまらず、支配者と被支配者との隔絶という客観的質的差があります。まるで世界が違う。しかも「政治に金がかかる」と言っても、政策宣伝費とかのまともな支出ではなく、「潤滑油」という名の汚れてムダな支出なのです。共産党などのように被支配者の立場からの正当な政治資金とはまったく別物です。

さらにそこには政治制度的隔絶差があります。石破首相の商品券の原資として内閣官房機密費が疑われており、石破氏は明確に否定することができません。故野中広務元官房長官が首相に毎月1000万円を渡していたと証言しています。そういう「慣例」がずっと続いてきたことは十分に考えられます。100万円単位の商品券支出が連綿と続いてきた経済的基盤としては極めて有力ですから。したがってたとえポケットマネーと言っても、カネに色はついていないのだから、結局は官房機密費で補填したと見るのが妥当でしょう。つまり企業・団体献金という民間資金に頼るだけでなく、政権党は官房機密費という公的資金の私的流用さえしています。たとえば2024109日に衆議院解散し27日に総選挙投開票でしたが、8日から31日までの24日間に官房機密費中の「政策推進費」9200万円が使い切られています。1日平均383万円です(「赤旗」202516日付)。公的資金を自民党の選挙に私的流用したことが強く疑われます。官房機密費を正当化する根拠としては、外交機密など一応もっともらしい説明があるのですが、そういうタテマエとは別に、実際には与党内の「懇親会」あるいは野党相手の「国会対策」など様々な政治的「潤滑油」として、さらには自民党などの選挙資金に流用されてきたことは「公然の秘密」となっています。もっとも、そういう後ろ暗い闇金の他に政党助成金という税金出自の表金が堂々と使われています。様々な思想信条を持つ国民に対して一人当たり年間250円、政党カンパを強制するという憲法違反の代物です。しかも企業・団体献金を廃止する代わりに政党助成金を導入するという名目でしたが、それは打ち捨てられ二重取りになっています。自民党は大企業からの民間資金を得てその階級的利害を代表するのみならず、政権党たることを最大限利用して表街道と裏街道とを問わず公的資金に寄生しているのです。「潤滑油」と称される使途は要するに飲み食いと賄賂です。

以上のように見てくると、自民党の「政治文化」なるものは、「資本家階級の権力」の一つの存在形態であり、それが人民無視と政治腐敗となることは必然と言え、自民党内のガバナンスとか世代交代で解決する問題ではありません。「世の中の感覚との乖離」は階級的権力支配そのものがもたらしており、単なる主観的問題でないのはもちろん、お得意の小手先「改革」でどうにかなる問題でもありません。

そういう文脈からすれば、安倍自公政権以降、石破首相が党内野党として人々の期待を集め、自民党総裁選挙においても、あたかも「国民本位」の政策を訴えながら、首相となって手のひら返ししたことは何の不思議もありません。2024年の自民党総裁選挙までの石破氏の過去の発言と現在の石破政権の姿勢とは以下のようにまったく違っています。各項目について<過去→現在>の形で示します(「赤旗」316日付「石破首相の言行不一致 政治とカネ・税制・原発政策 問われる政治家の資質」の表を参照)。

*税制 法人税減税の意義に否定的で、消費税の逆進性を問題視

 →  法人税増税については後退、消費税減税は拒否

*原発 原発ゼロに近づける努力する → 原発を最大限活用する

  *学術会議会員任命問題 任命拒否について十分説明つくすべき

    → 任命拒否を正当化

  *日米地位協定 見直しに着手する → 安保条約と一体なので改定の議論は難しい

  *選択的夫婦別姓 性を選べぬつらい思いや不利益解消を → 導入反対派に妥協

 要するに、現在は自民党の従前からの政策に同化しており、かつての党内野党的な批判的姿勢は転換されています。何のことはない、石破首相は対米従属と大企業・財界本位という階級支配の本質そのままに現在は徹しており、過去に見せていた多少なりとも人民寄りの姿勢は霧散したということです。こういう軌跡は自民党政治家にありがちなパターンです。対米従属で大企業・財界奉仕の自民党政治は戦後日本資本主義国家の本質を体現しており、人民の利害と正反対です。にもかかわらず世論の一定の支持を確保して政権を維持することが自民党にとっての至上命題であり、ともかくもそれをやり遂げてきました。選挙に勝ちさえすればいいのだから、まず小選挙区制の採用など選挙制度を自分たちに有利に変え、その他にも手段は多様にあります。たとえば政権党ならではの目先の(たとえば一時的ないしそれぞれの地域的な)利益誘導です。そういう「客観的」方法の他に、イデオロギー支配もあります。教育・メディア支配を通じて、反共主義を徹底し、保守的政策の優位を信じ込ませる、あるいはたとえ保守政策支持を渋る層にも他の選択肢はないと思い込ませる、などの方法があります。憲政史上最長の安倍政権は「この道しかない」と称して、政策が支持されないにもかかわらず、「他の内閣より良さそうだから」という理由でずっと存続してきました。社会学的考察ではもっといろいろな要素があり得るでしょうが、ここでは措きます。

 要するに、日本資本主義国家とその番頭たる自民党は、政策的反人民性と人民からの支持確保という本質的な絶対矛盾をまず抱えているわけです。その「克服」の一方法として、上記の他に、党内野党的に人民的政策を主張して世論の支持を集めて政権に就いた後に、なし崩し的に自民党本来の政策を粛々と実行する、というパターンがあります。石破首相を見ていると、それを「確信犯的」に(ここでは本来の意味――宗教的あるいは思想的政治的確信に基づく犯行――と違って、今日通俗的に使用されている意味――悪いと分かっているがあえて敢行する犯行――で言っている)演じているというよりも、自身の思いとしては人民的政策中のいくつかをそれなりに支持しているけれども、保守政権の立場としてはそれを封じるほかない、という振る舞いのように感じられます。上記の絶対矛盾を一政治家が抱える様相がそこにはありますが、長年の商品券配布に疑問を感じてこなかったという心性に、所詮は支配層政治家以外の何者でもないという本質が露呈されています。あえて言いますが、そうした断定・レッテル貼りは必要です。人々の生活とそこから来る感情と、支配層の政策との乖離は必然であり、政治家の姿勢の揺れをもって、「白黒二元論は誤り」「グレーゾーンがある」などと言って反人民的立場の断定を避けることは誤りです。そうした議論傾向はいかにも中庸穏当で良識的な「大人の」姿勢として賛美されがちです。確かに何事も簡単に割り切れるわけではないので、単細胞的議論を避けることは必要です。しかしそうした傾向は、場合によっては明確なことをあえて曖昧にしてしまって、結果的に現実を美化したり、解決策を不可視にしたりする可能性があることに気をつけるべきです(*注)

 以上、最近の自民党の「延命戦略」の破綻を象徴する二つの出来事<高額療養費の上限引上げ「凍結」と石破首相の商品券配布問題>を題材に、主に後者を中心として、自民党政治の階級支配的本質と政治腐敗現象について執拗に言及してきました。高額療養費問題の本質も階級支配にあり、それは社会保障削減政策を象徴するものとして今回クローズアップされました。次に高額療養費問題をとっかかりに社会保障の理念と現状、そこから見えてくる日本資本主義のあり方、政策と国家権力などにアプローチしていきたいと思います。

 

(*注)ただし断定することの正当性を強調し過ぎると、現実を変えるために様々なところでそのとっかかりを見つけるべく努力することの妨げになることがあり得ます。一般的には、原則の確立と現実対応の柔軟性とを両立させることが必要です。「人気商売」として、世論を気にする支配層政治家の示す揺れにつけ込むことができなければなりません。たとえば「政策」と「政局」について、もちろん原則的には、政局に左右されるのではなく、政策の正しさを優先すべきです。しかし局面によっては、「政策」より「政局」を重視すべきという場合もあります。たとえば、与党内で政局含みの騒動がしばしば見られます。それに対して、政策を貫けとしたり顔で主張する向きがありますが、それは間違っています。そういうときは、そもそも支配層の「正しい」政策が不人気なので与党内に反乱が起こり、「政局」化しているのです。この「政局」は、野党から見たら誤った政策を引っ込めさせるチャンスです。政策論のガチンコ勝負だけでなく、相手の動揺につけ込むナンパな「政局」対応も時として必要です。それが政策変更につながれば上々ですが。

 支配層と被支配層との対決という構図についても異論はあり得ます。たとえば医療経済学研究者の二木立氏は、医療政策について両極対立の間に、厚生労働省(官僚)の独自性を強調します。彼らはもちろん人民的立場ではないけれども、支配層主流の新自由主義構造改革の立場にも立たず、いわば独自のプロフェッショナリズムの論理で動いていると見ているようです。「三つの立場」論とでも言いましょうか。これは公共性と階級性との関係を考える際に考慮すべき論点を提供しているようにも思います。

 以上のように「断定の正当性」に対していくらかの留保をつけることが必要です。しかし現実の複雑性と問題解決の困難性をアプリオリに前提して「達観」しているようでは単なる傍観につながります。格差と貧困の新自由主義的現実が次々と醜悪な矛盾を生み出しているとき、それを断つべく、漠然とした一般的社会論ではなく、搾取と階級支配の資本主義社会論の次元からアプローチすることが必須であると考えます。したがって、この「注」では留保点をアレコレ並べましたが、基本的には本文での「断定の正当性」の見地を維持します。

 

 

          社会保障の理念と実際の展開

 

 高額療養費問題は政権にしてみれば、社会保障削減政策の一環として、いつものように粛々と進める予定だったでしょうが、世論の思わぬ反発に遭っていったん挫折しています(「凍結」…断念・撤回ではないので油断禁物)。当事者の声も聴かずに強行とは何事か、という批判に石破首相など一応謝ってはいますが、もともとそんなしおらしい方法を採る気などハナからなかったのではないかと思います。「制度の持続可能性」という万能の言葉を操れば、制度の削減で被害を受ける当事者の都合など無視できる、というのが「統治者の心性」として強固にあると思われます。高級官僚やメディア上層部の体制エリート的使命感(「無知な大衆に大所高所から社会全体にとって正しいことを教えてやらなければならない」という体制擁護の信念)によっても支えられ、世論を緊縮政策に馴致させるべく注力されてきました。それらが緊縮政策を推進する自民党政権と支配層の惰性であり、その権化が軍拡と強権のアベ政治でしたが、少数与党への転落下では、そうした民の生活への無関心・不感症という惰性はやすやすとは許されません。高額療養費制度の改悪は高齢者や重病患者など一部の人々に累が及ぶだけだから多くの人々の無関心で簡単に通るだろう、という思惑は打ち砕かれました。高額療養費制度を利用するのは最も困難に直面している人々であり、しかも誰もが同様の境遇に陥る可能性があります。「他人事ではない」。そこで世論は同情・共感という正常な機能を発揮したと思われます。支配層は世代間対立を始めとした様々な世論分断を煽ってきた成果を過信したり、あるいは人々の諦めと我慢がここでも相変わらず続くものと誤認した結果、とんだしっぺ返しに遭ったと言えます。

 長友薫輝氏の「『全世代型社会保障改革』と公的医療保険 国保、後期高齢者医療制度の動向によれば、高額療養費制度の自己負担限度額の見直しで、給付減5330億円が見込まれ、うち患者負担増が3060億円、受診抑制による医療費削減効果が2270億円です(43ページ)。後期高齢者医療については、窓口2割負担導入によって医療給付費が2190億円減少し(2025年度)、そのうち「受診控え」効果は1050億円とされます(39ページ)。受診抑制は患者の命を奪う危険性を伴います。両方ともあえてそれを想定した制度改悪であり、重病患者や高齢者の人権と尊厳を侵害する政策と言わねばなりません。後期高齢者医療の改悪は世代分断論を駆使して煽られ、それと高額療養費の改悪も含めて「財源をもとめる範囲を狭め、国民の負担増と給付削減でやりくりさせようとする共助的・保険主義的財政論」(同前)である点に注意しなければなりません。メディアでは財源についてのこのような「視野狭窄」が普通であり、大企業・富裕層に応分の負担を求めることはなく、世論をミスリードしています(たとえば「朝日」330日付社説「高額療養費 難事こそ誠実に挑め」…似非良識的美文)。軍拡と企業献金とへの批判の欠如と併せて体制擁護姿勢は深く染みついています。

 他に、長友論文は国保の困難性の増大傾向を中心に医療保険問題を検討しています。「全世代型社会保障改革は労働力確保を主眼とする政策展開である」(同前)ことから、被用者保険の適用拡大(それ自身は妥当だが)が進められ、「国保の被保険者数の減少が顕著となって」います(40ページ)。国保に残るのは、被用者保険の適用拡大枠から外れた低所得労働者と無業者や前期高齢者です。被保険者数が減って、しかも負担能力の低い人々ばかりの構成になるので、医療給付費が増えないにもかかわらず、一人ひとりにとって国保料が高くなり、耐えがたい加重負担となることは目に見えています。

 2018年度から国保の都道府県単位化が行なわれました。市町村以上の強いガバナンスを期待されてのことです。これで都道府県が医療供給体制と併せて国保の財政運営にも責任を持つことによって「公的医療費抑制に取り組むことができる環境が整えられ」ました(42ページ)。さらに、生活保護費の約半分を占める医療扶助費を国保(および後期高齢者医療制度)に移管するという案が毎年「骨太の方針」に掲載されています(41ページ)。都道府県によるさらなるガバナンス強化によって「いっそうの公的医療費抑制を図る目的」(同前)がそこにはあります(もっとも、都道府県政が住民本位であればそのガバナンス強化は医療費抑制ではなく、医療内容充実に向かうはずですが、今さらそれを言っても仕方ないか… いや、いずれにせよ市町村が本来果たすべき住民に近いきめ細かな行政にはならないか)。

 そうすると被用者保険と国保との違いがより鮮明になり、公的医療保険の二極化が進み、国保は低所得者および生活保護利用者の医療を担う存在となります。今日の医療扶助でジェネリック利用が原則化されているように、国保も劣等処遇化が危惧されます(42ページ)。ところがさらに財政制度等審議会財政制度分科会の「建議」(20241129日)では、後期高齢者医療も財政運営主体を広域連合から都道府県へ移管することによるガバナンス強化の検討が指示されています(同前)。

 以上のように、保険料や窓口負担などの自己負担増と公的医療費抑制を推進する体制が整備されていきます。まさに階級的支配強化がその実質的内容と言えます。その効果は(弱い立場の人々を中心として)一人ひとりの命と健康の危機として現れます。それは人権問題として普遍的に表現されますが、同時に階級支配の本質的展開として特殊的に捉える必要もあります。すると、長友論文の始めに提起されている「国際的な高齢者人権保障条約の制定」を普遍的かつ特殊的に捉えることができます。人権保障というのは一見すると普遍的表現のみが目立ちますが、当論文全体を見渡せば両面的把握の必要性が明白です。

医療に劣らず介護も危機的な状況にあります。「厳しい人材不足が続き、介護事業者の倒産件数も過去最多を更新している。介護保険制度は利用者や家族の忍耐と、介護労働者の優しい気持ちや使命感に支えられて、かろうじて成り立ってい」ます(黒岡有子氏の「介護事業の存続、発展は国の責任 介護の社会化を55ページ)。黒岡論文は介護現場の状況を踏まえて、社会保障の理念を基に、介護保険制度の根本的問題点とその改善の課題と展望を述べています。いささか端折って紹介します。

 介護保険制度の目的は「高齢者医療費をはじめとする社会保障費の削減と、市場化を進める社会保障構造改革にあり、公的責任を縮小させるもの」でした(56ページ)。同制度は社会保障構造改革の尖兵であり、その肝は公的責任を支える「措置制度」から個人と事業者との「契約方式」への変更です。これは一見すると個人の自由選択の拡大と映り、実際に、画期的と肯定的に評価する市民主義者もいました(どういうものか忘れたがかつて『世界』にそう主張する論文があった)。しかしその結果、事業所が利用者を選べるようになり、「本人の経済状況や要介護度、身寄りの有無によって契約を結べない人が生じることとな」りました(同前)。つまり「自己決定による自由な契約」は「実際には経済的格差がサービス利用の格差に直結して」おり、「苦しめられているのは身寄りのない人、低所得の人、社会保障を最も必要とする人である」(59ページ)わけです。

さらには「介護保険制度そのものが給付を抑制するために設計されて」おり(56ページ)、「『制度の持続可能性の確保』の名の下に、制度改定の度に給付抑制と利用者負担増が進められ」(5657ページ)た点にこの制度の本質が如実に表れています。その詳細については省きますが、制度改悪の背景として新自由主義的改革=社会保障費の抑制、規制緩和、市場化・営利化があります(57ページ)。

 論文は介護保険制度の改善課題を提起するにあたって、「介護の社会化」「公的責任に基づく人権としての介護保障」をこう描いています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 人生における様々な困難を個人の責任に解消するのではなく、社会の責任において人間らしい生活水準を保障し、生活の安定を図る仕組みが真の社会保障の姿である。

 私たちは、社会保障を受けることは国民の権利であること、国は、すべての国民に健康で文化的な人間の尊厳に値する生活を保障する義務があることを、はっきりさせることが必要である。

 誰もが、この国に生まれてよかったと思えるような社会を実現するために、社会保障を向上・増進させることが、政治の最優先課題であり、国の財政はその目的に沿って運営されなければならない。そして介護保険は、それを具体化する制度でなければならない。

         61ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

このような制度改革には「私たち国民が立ち上がり連帯することが必要」(63ページ)であり、そこには人権意識の高揚が前提となります。しかし資本主義市場経済と新自由主義構造改革が生み出す意識が障害となります。――介護サービスは商品、利用者は顧客という感覚、高齢期の社会保障費を削減するための「終末期医療の見直し」「尊厳死の法制化」推奨、いのちの価値を年齢や生産性で測る差別や偏見、自己責任論―― これらを克服する自覚的な努力を論文は提起しています(同前)。私としてはここでも人権を普遍的かつ階級的に捉えるべきと考えます。

 唐鎌直義氏の「高齢社会を支える社会保障へ 社会保障抑制策の問題点と課題は社会保障政策について国際比較も含めて国民経済次元で検討しています。分析対象時期は201320年の安倍政権時代を中心に、前後含めて全体としては201122年(11年間隔)に渡ります。この時期で注意すべきは、コロナ禍対策による一時的な支出増があり、それは政策姿勢そのものの改善ではないということです。

 政府の全世代型社会保障改革とは、高齢者優遇という世代分断論を前提にしています。そこで本当に「優遇」なのかが問題です。高齢者関連社会保障給付費は72兆円余(2011年)から84兆円余(2022年)へ確かに11年間で16.6%増えています。しかし同時期の65歳以上人口は21.8%増えています。したがって社会保障給付費増が老齢人口増に見合わないわけで、優遇とは逆にこの緊縮財政が今日の高齢者の経済的苦境の原因だと結論づけられています(2021ページ)。普通の高齢者一人ひとりにとっては納得の分析ではないでしょうか。同時に、世代分断論に乗せられている人には「問題はそこではない」と気づいてもらうきっかけになる事実です。

 高齢者に限らず、社会保障の低水準を感じている多くの人々にとって、社会保障の充実は当然の要求です。そのためには国民負担率を上げる(=税・社会保険料を引上げていく)べきだ、つまり「社会保障の水準を決めているのは国民の判断であるという理解」(24ページ)が振りまかれています。論文ではそれを吟味するのに西欧諸国と比較されています。その際にまず社会保障財源が明らかにされます。それは税(一般政府拠出)と社会保険料拠出<事業主負担(企業負担)と被保険者負担(労働者負担)>であり、要するに下線付の三つの財源から構成されます。ただしここで気になるのは、医療費の窓口負担分は含まれていないのかという点です。日本では3割負担などが多いのですが、西欧諸国では無料か低額と聞いているので、日本の負担状況が過小評価される可能性があります。それは措いて、論文によれば、西欧諸国と比べると「日本は事業主拠出があまりにも低く、被保険者拠出があまりに高い」(25ページ)とされます。つまり企業負担が軽く労働者負担が重いということです。したがって、「国民負担率を上げて社会保障充実」論のゴマカシの批判としては「国民負担率が高いか低いかを論じる前に、誰がどう負担しているかを検討すべきだ」(同前)という反問が要です。そこをつかめば、「全世代での支え合い」を偽善的に振りまき「後期高齢者の負担増」をもくろむ全世代型社会保障改革において企業負担への言及がない(26ページ)、というタネ明かしがすぐできます。

 ところが前出の「朝日」330日付社説「高額療養費 難事こそ誠実に挑め」では国民医療費の財源として、保険料・税・患者の自己負担の三つだけだ、とすることで保険料における企業負担と労働者負担の区別を不可視にしています。税金の集め方の中身も問題ですが不問です。その上で先の自公与党と維新の会の「国民医療費の総額を年4兆円削減し、現役世代1人あたりの社会保険料を年6万円引き下げる」という合意について「一見、明快な主張だ」と肯定的に扱っています。そこで、医療費削減のため市販薬の使用拡大を主張する維新の政策について、高齢者の負担増になるという批判がありうる、という留意点を付しつつこう「きれいに」まとめています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 マクロの数字合わせは、ミクロに落とし込み、社会的合意を得て初めて成立する。万人が満足する解決策を紡ぐのは難事だが、与野党を問わず政治家が、その課題に誠実に挑む姿を見せてこそ、社会の連帯感は維持されるはずだ。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここでマクロとは国民医療費とか国家財政などを指し、ミクロとは諸個人の生活を指します。結局この美文の含意は――諸個人が我慢するという社会的合意を得ることを社会的連帯と称し、それが「難事」に対する「解決策」であって、与野党政治家はそれに向けて誠実に挑め――ということになります。意識的にか無意識的にか、企業負担と労働者負担という階級的視点を欠落させ、ミクロとマクロ=個人と国家との抽象的な漠然とした関係に落とし込み、解決策を見えなくして「難事」を作り上げるような課題設定が見られます。もっとも、それはあらゆる問題に対するブルジョア社会科学の共通した方法でしょう。

 論文は最後に社会保障の貧困を土壌とする平和の危機を警告します。「富の偏在は、追い詰められた生活困窮者の不満を背景として、戦争への引き金になる」。そこで、「戦争への傾斜を食い止めるのは国民の間に広く共有されている反戦の良識、今ある日常生活の大切さではないかと考える。そのためには、そうした庶民を最後まで守り抜く国家への脱皮が必要不可欠となる」(26ページ)。日本国憲法前文にある、平和的生存権を基礎づける生存権保障の観点が想起されます。

 論文の始めに戻ると、ビルトイン・スタビライザーが問題とされています。景気の平準化・安定化をもたらす役割について、「今では専ら中央銀行の金利政策だけがその機能を果たすと考えられているようだが」(17ページ)、社会保障もそうであるとされます。私は1970年代に中学校や高校で財政もまたそうであると習いました。その後のケインズ政策の破綻とマネタリズム・新自由主義の覇権確立で「金利政策だけ」という認識になったのでしょう。それはともかく、資本原理主義としての新自由主義を徹底すれば、経済の活力は景気循環の荒波を超えて、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す資本の運動にあります。企業倒産や解雇もその一要素であり、「失業の恐怖」というムチは労働者に低賃金過重労働を強いて甘受させるインセンティブとなります。逆に景気変動の平準化や労働者の生活安定を「不自然に(作為的に)」作り出すのは経済活力の妨げになります。「社会保障費を基本的に『冗費』と見なす日本政府」(18ページ)の発想はまさにそこにあります。社会保障に敵対的な日本資本主義については、節を変えて問題にしたいと思います。

 

 

          新自由主義のグローバル展開と日本資本主義

 

 東京労働者学習協会主催の講座「現代日本経済の成長と衰退、ゆくえ」(講師:村上研一中央大学教授2025112日第1回開始)を私はDVD受講しています。316日の第2回「『経済大国』化はいかに達成されたのか?」はオンライン受講しました。以下は主催者に送った感想を若干修正したものです。

 初めてZOOMでリアルタイム参加し、活発な質疑応答も含め、学びに満ちた講義全体を堪能し、大いに政治経済学の威力を感じました。今回の講義は、日本経済の歩みを通して、政治と経済、理論と現状分析、資本主義の生産現場と国民経済・グローバル経済との関係、といった大枠を捉える内容となっていました。

 講義では、ブレトンウッズ体制・IMF固定レート制の形成と崩壊が語られる中で、冷戦構造・ニクソンショック・オイルショック・米中接近・ベトナム戦争終結等々の政治経済上の事柄に触れられ、統一的に理解できました。同時に貨幣論として、かつての金本位制と戦争の関係、今日の経済分析における内生的貨幣供給論の観点などにも分かりやすく言及されました。質疑応答の中では金廃貨論が批判され、ドル支配の政治的要因が強調され、昨今のBRICS台頭などにおいてドル支配が揺らぐ中での金の復権の可能性にも触れられました。現状分析において正確な理論の重要性が感じられました。

 日本経済が高度経済成長後の安定成長期に、輸出依存型成長・減量経営・リーン生産方式などによって経済大国化を果たしたことが強調されました。そこで欧米との違いを探るのに、生産過程へ内在して具体的に分析されました。その中で私としては、良くも悪くも日本の生産・労働のフレクシビリティに注目しました。関連して、質疑応答の中で村上氏が問題提起されたのが、経営権が確立してしまう中で、日本の労組が生産点で闘わないという問題です。これはおそらく労資協調の潮流にとどまらず、階級的潮流にも当てはまる問題ではないかと思います。それについては熊沢誠氏の『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫、1993年)が深く解明した名著だと思っています。 → 拙文・読書ノート


 質疑応答において、村上氏は新自由主義登場の背景として、197080年代における欧米資本主義の行き詰まりと日本資本主義による突破を指摘されました。私としては以下のように考えます。196070年代以降、労働現場の停滞を伴う欧米資本主義の頽廃による社会的危機が深刻化し、その利潤率低下に着目して資本主義打倒に結びつける「新左翼」的発想(グリン=サトクリフ・テーゼ)が登場するに至ります。その状況をにらんで欧米支配層が目を付けたのがジャパン・アズ・No.1ということでしょうか。労組が弱く資本の支配力が強く、資本の法則が過剰貫徹する日本資本主義を参考として、資本の専制強化と人民の犠牲によって経済の「健全性」を回復する――それが危機打開への新自由主義的「回答」である、と。そこでの経済観――労働者の生活に配慮して、景気の平準化・安定化へと経済へ政府が介入することは資本主義の活力を奪う。政府の経済介入を排し、労組を弱体化させ社会保障を削減することで、利潤追求・資本間競争・搾取強化の道を純粋に歩むことができ、そこにこそ経済の活力がある。企業社会でもともと労組が弱く、人々が生活困難に対して忍耐強く、自己責任論が支配的で、社会保障要求が高くない日本社会はその理想に近い――

 そうするとこうなります。通常サッチャーとレーガンの英米政権が新自由主義の初の本格的な登場とされ(前史として、1973年のチリのクーデター後に軍事独裁政権下でシカゴボーイズが実施した新自由主義の実験はあるが)、その世界的影響下に日本の新自由主義構造改革も位置づけられます。しかし新自由主義が本格的に世界展開するに至る一つの原因として、日本資本主義の生産現場の「成功」を捉えるならば、新自由主義を単なる外来思想とは言えません。197080年代の欧米資本主義の頽廃に際して、当時の経済の健全性の再建をめぐる対決点として、資本の専制強化の方向か人民の生活向上・労働改善の方向かが問われたのだと思います。現実の決着は新自由主義的「回答」の強行でした。「新左翼」的「対案」はそもそも対決点から外れていたのでしょう。

 今日、資本の専制強化の下において対決点はどうなっているでしょうか。グローバリゼーション下の底辺への競争による労働側の弱体化と搾取強化、金融化による資本主義の寄生性・腐朽性の極大化という状況を前に、経済の健全性の回復における人民的路線の具体化が求められているように思います。講義における日米対比の中で、技術開発における民間企業と国家の関係に触れられていたことからすれば、株主資本主義を克服して人民的路線を実現する上では、資本主義市場経済における政府の適切な役割が重要であると思われます。それは潜在的には社会主義指向ということになります。

 最後に。質疑応答において、「日本の生産性は本当に低いのか」という質問に対して、労働生産性の科学的定義が説明されました。この問題について、私は前々から日本の支配階級による労働者階級への攻撃ではないかと思ってきました。理論的には『資本論』の冒頭における商品の二要因の観点(使用価値と価値の峻別)を貫徹すべきということです。村上氏の説明でも、世に言う「労働生産性」とは付加価値生産性のことであり、それでは需要の側面が入ってしまい、純粋な生産過程の問題から外れる、とされました。なお、雑駁ではありますが問題意識を散発的に述べた拙文として、「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」があります。   


                                 2024年3月31日



                 月刊『経済』の感想・目次に戻る

MENUに戻る