月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(202年7月号〜12月号)

                                                                                                                                                                                   


2024年7月号

 

          公共性の簒奪とオルタナティヴ

 

 何せ私たちは自民党の悪政の下でずっと生きているわけです。いつも新聞などから読み取れるのは、国会会期中は次から次へと悪法が通り、一年中それに沿った行政が執行されているということです。これが資本主義という階級社会、中でも対米従属の国家独占資本主義社会・日本の現実です。しかしもちろん通常のメディアの認識は違います。それによれば、日本社会とそこに生きる人々にとってのその時々のもっともらしい課題(実は大資本の支配力強化に資する「改革」を、人々の生活と労働を改善するためと称するか、あるいは苦しいが我慢して突破しなければならないと脅して受容させるようなもの)を提示し、それに即した政策対応が企図され、それへの「抵抗勢力」の反対を押し切って政策が断行される、というストーリーが概ね描かれます。そういう課題は、短期的視野だけでなく、グローバリゼーションとか、少子高齢化社会への対応とか、中長期的な重要課題への確固たる対応としての大きな物語を伴って語られてきたわけです。特に1990年代以降の、新自由主義構造改革ではそうでした。当時の新自由主義のイデオロギー覇権は絶大であり、主なメディア上で「規制緩和」「構造改革」という錦の御旗にひれ伏さなかったのは、故内橋克人氏くらいなものでした。今日、その絶対的覇権は陰りを見せているとはいえ、実質的にその基調は変わりません。

202110月に「新しい資本主義」を掲げて岸田首相が登場したころ、「政府・財界は一見、新自由主義を否定するかのような標語を振りまいてきました。ところが水面下では、着々と新自由主義的改革を進めています」(「水面下の新自由主義(上)役員の株式報酬 急増」、「赤旗」614日付)。その急所が「大企業が役員への株式報酬を急激に増やしていることです」(同前)。そこで同記事は新自由主義の核心をこう指摘しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 新自由主義は、企業の負担になる税制・規制・社会保障制度や株主配当のない公共サービス部門を破壊し、労働者を搾取する自由を拡大して企業の税引き後利益を増大させます。その上で企業利益の株主還元を強めて株価をつり上げ、投資家の不労所得を増やそうとします。「企業は株主のもの」と主張する株主資本主義と表裏一体の、階級的な思想・政策・法制度です。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 市場現象の根底を見ており、まさに「赤旗」らしい階級的断定だと言えます。搾取強化と金融化を推進する新自由主義の核心に株主資本主義を見ることで、表面的な「新自由主義批判」の裏の実態を暴露しています。したがって、政権のスローガンや言い回しがどうであれ、企業経営という資本主義社会の内奥を捉えるならば、それに応じて展開される政策の本質を見誤ることはありません。「岸田は宏池会だから多少はマシか」というウタカタのような幻想にも無縁です。 

 対米従属下での新自由主義構造改革によって、経済・政治・外交・軍事など社会全般にわたる政策展開で、悪法づくりとその執行がアレコレひっきりなしです。対峙する側は必然的に時々の悪法と悪政へのモグラ叩きで手一杯となります。モグラ一匹一匹をしっかり見定めて、それぞれに対応しなければなりませんが、本当のところは、その生み出す土壌の抜本的入れ替え(とりあえずは政権交代。本質的にはグローバル資本主義そのものの止揚)が必要です。とはいえ、それができる段階には達していません。しかしさし当たって土壌そのものの全体を見渡すことが必要です。

 岡田知弘さんに聞く「公共の民営化路線40年の到達と[]の再建」は「公共の民営化」という一つの視角からのアプローチですが、政治経済の新自由主義的動向の総まとめになっています。そこでは、1980年代以降の政府の諸政策やスローガン――私たちはそれら一つひとつが登場してくるごとに難しい対処を強いられ続け、今さらいちいち覚えていられないという苛立ちさえ感じるのだが、普通の人々は忙しい日常の中でただやり過ごすことに精一杯だったろうか――がずらりと並べられ、それらが大きな流れの中にすべて位置づけられ、一種壮観でさえあります。その流れの基礎を抽象的に言えば、資本蓄積と階級支配ということになってしまいますが、その新自由主義的現われの重要部分としての「公共の民営化」という視角によって、諸現象の位置づけがかなりの程度カバーされています。まず「公共の民営化路線」が総括的に評価されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 総じて国家事業として明治以来存在してきた鉄道、郵便、電話・通信――国民生活を保障、維持するための、基本インフラが急速に壊されています。これは、ここ40年間のことです。ひと言で言って、公共サービスの産業化$ュ策であり、国民の公共財を簒奪し、利益があがりそうなところだけを私的な儲けの手段にしてきたといえます。

           13ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 人民の諸運動も背景にありながらケインズ主義段階の国家独占資本主義が整備してきたインフラ・社会保障などを、階級的かつ私的に簒奪するのが新自由主義段階の特徴と言えましょうか。そこには、グローバル経済での利潤追求を主戦場にする多国籍企業が国民経済との矛盾を拡大しつつも、その国民経済と行政機構を利用し尽くす姿があります。いわば階級意思・総資本として利用するのはもちろん、政府の各種審議会や官民人事交流などを通して、個別資本として「私的な儲け」にも与ります。ちょうどそれは、故安倍晋三が米日支配層の意向に応じて国家権力の専制強大化を実現したのみならず、「モリカケ桜」等々によって国政の私物化にさえ踏み込んだ、という事実と相照らす光景を見せています。

 世界的な新自由主義主流化は1979年のサッチャー英首相、1981年のレーガン米大統領の登場に象徴されます。日本でも1980年代の中曽根、90年代の橋本、2000年代の小泉の各政権による新自由主義構造改革の断行があり、2008年のリーマンショックを引きずった09年の自民党下野を経ながらも、1212月の第二次安倍政権発足により、今日の岸田政権まで「改革」が続行されています。

 論文の取り上げている膨大な諸「改革」に総体的に触れる余裕はないので、一部をピックアップします。まず2001年に発足した小泉政権は「グローバル国家」への改造を一段進化させた本格的な「構造改革」を断行しました。そのキャッチフレーズとして「構造改革なくして成長なし」「聖域なき構造改革」と並んで「自民党をぶっ潰す」が掲げられました。当時、森首相の失言などもあって、無党派層の増大と自民党政治への離反を招き、自民党政権が危機に陥ったとき、それを救う逆説的スローガンとしてこれが響き、小泉氏は想定外に自民党総裁選に勝利して首相に就任し、異常人気の小泉フィーバーさえ起こりました。それで「自民党をぶっ潰す」スローガンのマヌーバー効果ばかりに気を取られていたのですが、論文によればそこには実質的な意義があったのです。その含意は…。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

なぜ自民党を壊すのか。農協、中小企業団体、特定郵便局などが、旧来の自民党の支持母体として強い力をもち、土建国家をつくっていく財源が財政投融資であり、郵便局の貯金や簡易保険が原資となっているとみなしたからです。ここにメスを入れたのがアメリカからの市場開放要求を受けた、小泉首相と竹中平蔵氏でした。多国籍企業のトヨタ、IT企業などが新しく経団連の中枢に座り、意思決定に大きな比重を占めていきます。日本の支配構造の大きな転換期でした。            15ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 上述したように、この頃はまだ新自由主義構造改革のイデオロギー覇権は絶対的であり、メディアでは「規制緩和」「構造改革」は錦の御旗として君臨していました。当時の経済財政諮問会議では、民間4議員(経団連・経済同友会・学者2名)が「新自由主義的な極端な改革要求をだして、そこで決められたことが全省庁の予算編成の前提となり」、各方面からの陳情によって積み上げて予算編成する従来型とはまったく違うものとなりました(15ページ)。

 第二次以降の安倍政権は強権政治が突出していましたが、それはただ政治手法だけでなく、行政機構の変質そのものを伴いました。2014年に内閣人事局をつくり、「政府機関の600人以上の幹部人事を政権党が掌握し …中略… 政権与党に忖度する官僚が幹部として登用されることになりました」(19ページ)。その構造が裁判所、検察庁、警察を含めて蔓延し、三権分立の解体状態です(同前)。今回のパーティー券裏金問題でも、企業利益のための政治がまったく放置され、政治資金規正法違反でも政治家本人が処罰されない事態となっています。これに関連して「中日スポーツ」デジタル版(629日付)は「政府が28日の閣議で、検察トップの検事総長に畝本直美東京高検検事長(61)を充てる人事を決めた。女性初の総長起用にクローズアップした各社報道が目立ったが、ネット上では検察ナンバー2として自民党派閥の裏金事件を指揮した点に着目し、『露骨なごほうび人事』『巨悪を助けて出世コース これじゃ裏金議員不起訴にするよな』などと非難する声があふれた」と報じています。真偽のほどは措くとしても、そう見られても仕方ないという状況は、国政私物化の下で強権・ウソ・忖度の支配した安倍政権以降定着しています。

国と民間企業の人事交流の拡大で行政の私物化が進んでいることも問題です。企業への天下りだけでなく、逆に各省庁への「天上がり」で企業のための政策立案を行ない、情報を取得するという構造です。国から地方自治体への職員派遣も増加しており、その中には企業職員も含みます(1920ページ)。こうして「現在では、国や自治体の広範囲な事業が民間企業の市場となり、『行政の私物化』がかつてなく進行したといえます。その下で悪法が続々と立案、成立していくという立案・立法過程の構造的問題に、もっとメスを入れる必要があります」(20ページ)という指摘は、「公共の民営化」だけでなく、政治全体での国民主権の空洞化の深部をも衝くものでありきわめて重要です。見逃されている実態でもあります。

 そして岸田政権下では経済安全保障政策が推進され、経済秘密保護法が成立しました。「軍需産業を基にした好循環」(20ページ)が掲げられ、憲法平和主義は事実上打ち












捨てられています。論文は「かつての戦時経済統制の再来」(21ページ)と評しています。しかし同時に「一見、国家主義的な軍事優先で進められているように見えますが、個別の経済利権も深く関わっています」(同前)。TSMCやラピダスなどへの補助金は全体で10兆円規模と言われます。国家独占資本主義の新自由主義段階での軍事危機強調局面においても、個別資本の私益追求は確保されています。地方自治法改正で、自治体に対する国の「補充的指示権」を与えているのも「戦争できる国づくり」の一貫です(22ページ)。

 以上、「公共の民営化40年」のほんの一部を見ただけで恐縮ですが、次にオルタナティヴとしての「公」の再建に移ります。20226月の岸本聡子杉並区長当選は非常に注目されています。同年12月には、保坂世田谷区長らの呼びかけで、岸本氏も参加し「ローカル・イニシアティブ・ネットワーク」という自治体の首長連合が設立されました。その「共通の目標、理念は地方から伝統的既得権や公的セクター解体ではなく、11人の人権と尊厳を大事にした命の政治を展開していく≠ナす」(26ページ)。岸本区長がモデルにしているのが、バルセロナの前市政で、水道の再公営化から始まり、個人情報の保護や情報を主権者のものにしていく取り組みを進めてきました。ヨーロッパの他自治体とも連携し、大企業も国も恐れない「フィアレス・シティ」をつくっています。グローバルな規模での新自由主義的な民営化、市場化路線への対抗運動です(27ページ)。そうした有力な運動潮流を見ながら論文の結論が提示されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 今日は、長期にわたる公共の民営化を俯瞰してみました。現在の状況を見ると、その根源にある政治経済構造までさかのぼってメスを入れない限り、公共のあり方を根本的に変えることはできないと考えます。もう一度、公共の再定義が必要ではないでしょうか。個々のインフラ、鉄道、郵政、情報通信など各分野で運動が取り組まれ、貴重な前進もありますが、さらにもう一段、国、自治体の運営、あり方、公務労働について、大きなテーマとしてとらえ直してみる。そして、それらを国レベルで横断的につなぐとともに、政策の意思決定過程から変革する取り組みが必要ですし、自治体を中心に地域で変えていく取り組みも同時に求められていると思います。

 今や、世界的な大災害と戦争の時代に入る中で、足元から住民の命を守り、平和を守り、人間らしい暮らしを再生・維持する地域づくりが求められている時代です。そこで、国や自治体、公共を、少数の大企業や政治家の私物にするのではなく、主権者である国民、住民のものにしていく。この点に多くの住民、市民が結集する必然性があると思います。

       27ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 日本国憲法第13条は個人の尊重を謳っています。それがすべての人権の基礎と言えます。それを現代的に実現するには、諸個人がアトミックな市場運動に投機するという表象を克服して、諸個人が共同性を発揮して公共の復権を果たすことが必要だ、という理念を高く掲げるべきでしょう。生活と労働を新自由主義に絡み取られている現状を直視し、意識的にそこから脱出する活動を模索するのが課題です。

 梅原英治氏の「日本の財政民主主義を立て直す 『プライベート・ファイナンス』からの脱却佐々木憲昭氏の「財政投融資の『解体』が招いたもの 金融の自由化による『公共』の破壊もきわめて興味深く拝読しましたが、残念ながら時間切れで言及できません。

 

 

          日本左翼の自己批判

 

 畏友から借りていた本の感想を以下のようにメールしました(613日)。

 

      ○○様

 お疲れ様です。大変にお忙しいところ恐縮ですが、お借りしていた、加藤直樹氏の『ウクライナ侵略を考える 「大国」の視線を超えて(あけび書房、2024年)の感想を送ります。冗長な作文で失礼します。あまり気になさらず、もし時間がとれるようでしたら、ご笑覧ください。

 この本を読み始めたら非常に面白いので他ごとよりも優先して読了してしまいました。ウクライナ問題に限らず、左翼の一部が陥りがちなバカげた誤りを避ける認識方法を確認できました。情報や知識が限られているとしても、問題の幹の部分をはっきりとつかみ取り、枝葉だけを恣意的にあちこちつないで歪んだ認識に陥ることがないように、「健全な常識」を発揮することが肝心なようです。

 ウクライナ侵略戦争について、著者は「反侵略」の立場をきちんと据えて、何よりも当事者たるウクライナ人の声に耳を傾けています。それをしない者は、左右を問わず、大国主義や帝国の立場でウクライナを蔑視することになります。日本ではロシア研究は膨大にありますが、ウクライナ研究は片手間程度なので、どうしてもロシア大国主義の影響が知らず知らずの内に忍び込みます。それに対して、著者は2022年のロシアの侵略戦争以後のウクライナの人々の対応はもちろん、そこに至る歴史的経過の中での様々な動向を踏まえて、ウクライナ人に対する敬意を忘れず公正な判断を下し、一部日本人左翼の冷笑・蔑視を徹底的に批判しています。SNS上の妄言はもちろん、名のある多くのリベラルないし左翼の知識人たちの言説が容赦なく批判されています。

 その集大成的根拠とも言えるのが、資料として巻末近くに掲載された「パレスチナの人びとへの連帯を表明するウクライナからの書簡」です。欧米からの援助を得続けるため、イスラエル支持を表明しているゼレンスキー政権とは違って、在野のウクライナ人の立場から、パレスチナと世界に向けてきわめて正確で普遍的な見解が示されています。まさに信頼に値する人々の声であり、あらゆるシニシズムが尻尾を巻いて逃げていきそうな揺るぎない声明です。

 ウクライナでは少数派とはいえ、著者は左翼の主張を取り上げています。その理由をこう説明しています。「どこの国であっても左翼は普遍的な人間解放の視点、民衆の解放の視点からその国の状況を批判的に検証しているはずだからである。もちろんそうではないこともたくさんあるが、その場合でも、そうした建前の痕跡を言説の中に見いだすことはできる。また彼らは、ナショナリズムではなく、人びとの経済生活の現実を重視する。それが表面的でジャーナリスティックな議論から距離を取った視点を保証する。そうした理由から、ある国の状況を知るときに、その国の『左翼』の視点は補助線になる」(233234ページ)。きわめて積極的かつ抑制的でこぼすところのない行き届いた説明です。

 ウクライナの状況や各政治潮流について、ロシア寄りか、欧米寄りかという表面的で単純な政治的基準で言及されることが日本では(おそらく欧米でも)多いのですが、あくまで現地民衆の生活状況や意識をすくい取ることなしにはリアリティがありません。その意味で史的唯物論に立って経済的土台を重視する左翼の見地には優位性があります。

 ところで、旧来的常識で言えば、左翼の代表は共産党ですが、今日的にはそうではないと言わねばなりません。世界に共産党を名乗る党は多くありますが、その少なくない部分が依然としてソ連礼賛の20世紀の「マルクス・レーニン主義」型の党です。上記引用で言えば「そうではないこともたくさんあるが」に当てはまってしまう勢力です。著者はウクライナにおいては、共産党はソ連派として片付け、新左翼の「左翼反対派」、後に「社会運動」となる勢力に注目しています。自国にきちんと根を張って自分の頭で考える党でなければ意味がないので当然のことです。日本の一部左翼の中には、こういう外国の従来型左翼の紋切り型の「階級的」思考に飛びついて、ウクライナを嘲り、ロシア寄りになっている者があると思われます。ロシアのウクライナ侵略戦争を「帝国主義戦争」などと呼ぶ無見識が見受けられます。

 それに対して、日本共産党は自主独立の党であり、日本の「新左翼」と呼ばれるセクトの多くが「ニセ左翼暴力集団」であったことは事実でしょう。政治的にはそれでけっこうです。しかし理論問題としては、日本共産党が多くの理論的転換を敢行してきたことを思えば、かつての「新左翼」との理論闘争の中身を洗い直し、歴史的経過を踏まえて、どのように理論的系統を整合させるかは問われているでしょう。

 著者の問題提起の中でナショナリズムの考察は重要です。ナショナリズムと言っても、シヴィック・ナショナリズムとエスニック・ナショナリズムがあります。シヴィック・ナショナリズムを意識的に作り上げていくことが重要であり、ウクライナのように民族的に多様な顔を持つ国では固有の困難があります。そこにウクライナの混乱を見て揶揄する向きがあります。しかし著者はシヴィック・ネーションを作り上げていく試行錯誤の過程にあるウクライナの人々の歩みを評価し、「マイダン革命」をその中に位置づけています。それは必ずしも成功した「革命」ではないかもしれないが、精神的・文化的革命として、その後の民主化・自己組織化を通じた国民国家形成に資すると評価しています。ウクライナ・ナショナリズムの積極的意義をそこに見ることができます。そこには、たとえば帝国を正当化するロシア・ナショナリズムとの決定的違いがあります。

 そこで関連して、日本のナショナリズムを考えてみたいと思います(横道ではありますが)。日本はアイヌ、在日コリアン等一定の例外はありますが、大まかに言っていわゆる「単一民族」国家としてエスニック・ナショナリズムの上に国民国家を形成してきました。それは日本人民自身が政治的合意によって意識的に作り上げたシヴィック・ネーションではありません。

 私たちにそれは自然でも、世界的にはそうでない国家がたくさんあります。この無意識的な日本のエスニック・ネーションは今日では多くの問題を抱えています。今目立つのは入管法等に見る排外主義ですが、それ以前に日本世論の多数派意識としてある拝外主義=対米従属と沖縄差別が大問題です。それは意識されず、「自然な状態」としてあります(もちろんそれは自然にできたのではなく、サンフランシスコ片面講和と日米安全保障条約締結によるきわめて政治的な人工物なのですが、自然物のような所与のものとされている)。それに先の排外主義が重なっています。その一つの表れを私は「対米従属とアジア蔑視の歪んだナショナリズム」と呼んでいます。戦前の帝国のナショナリズムを引きずったまま、戦後の対米従属意識に疑問を持たない状態が日本の「自然」なのです。そこにある不合理は、沖縄差別だけではなく、経済的従属に基づく収奪への無知などです。

 日本の問題はウクライナとの関係で深刻に現れています。著者は厳しく言います。ロシア軍の撤退を求めない停戦を主張する日本の「進歩的」知識人の姿勢に接して、「日本の戦後の平和主義がウクライナの封印のために動員されたことは、私にとってショックだった」(304ページ)。「『全ての戦争は悪である』という言葉は正しい。そうした言葉は絶対に必要である。だがそれは、政治そのものを批判する原理的な地点から発せられる限りにおいてである。侵略と抵抗を等価にして侵略の責任を相対化するのであれば、最悪の政治の言葉になる」(306ページ)。「占領の容認か、抗戦の継続か。いずれを選んでも誰かの血が流れる。そこには高度な当事者性があり、第三者が『こうすべき』などと言えることではない。ましてや、このジレンマにともなう痛みを理解しようともしない傲慢な第三者に、口を出す資格はない」(308ページ)。

 以上のように、著者は日本の一部の平和主義の欺瞞を衝きます。それは侵略戦争への反省でできた憲法の精神を理解せず、絶対平和主義を不用意に振り回し、侵略と抵抗を等価にしています。以下、本題からは外れますが、そこで想起されるのが、岸田大軍拡に反対する世論をどう形成するかという問題です。

 戦争の悲惨さ一般を強調するのは必要であり普遍的に通用するのですが、それだけでは今日の軍拡の批判には不十分だと言えます。今日の世論の「共通認識」は、中国や北朝鮮の脅威が問題であって、自衛隊と米軍による日米軍事同盟の抑止力で日本の平和を守っている、というものです。

 そういう世論状況下で、どういう軍事と外交が適当か、軍事中心か外交中心か、あるいはそこで憲法の御利益があるのかないのか、という議論が行なわれている、と世間では思っているわけです。これは前提が間違っています。確かに中国や北朝鮮は専制主義国家であり、覇権主義的行動や軍事的挑発行動が目立ちます。そういう誤りが現実的根拠となって「脅威論」が煽動されうるのですが、両国が日本に侵略してくる可能性はほとんどありません。そんな動機がありませんから。日本にとっての現実的脅威は、中国あるいは北朝鮮、場合によっては両国とアメリカが戦闘状態に入り、日米軍事同盟によって日本が戦争に巻き込まれることです(今や積極的に巻き込まれようとしています)。特に今は台湾有事が心配されますが、これとて米中両国とも避けられるものなら戦争は避けたいわけです。

 そんな中で無思慮な日本の一部政治家などが「台湾有事は日本有事」などと無責任に騒いでいます。何らかの偶発的条件で戦争が勃発することはあり得ますから、こういう煽動は本当に危険です。緊張状態は軍需資本を利するだけです。中国脅威論・北朝鮮脅威論はそういう情勢のベースを形成しています。中国や北朝鮮の軍事的行動への批判は必要だが、本当の危険性は日米軍事同盟にある、米国はこれまで侵略戦争を繰り返し、今後も先制攻撃を辞さない姿勢だ、ということを知らせる必要があります。

 もっとも、そうした世論の根本的掘り起こしが難しい状況下では、とりあえず軍事と外交の一般論で外交の重要性を強調するということ自体は次善の策として必要です。少なくとも当面は日米軍事同盟の存在を前提に議論せざるを得ない状況下では、それを中心に訴えざるを得ないとは言えます。しかしその際も世論の前提はどこにあって、それは真の平和形成とはズレているということに私たちは自覚的でなければなりません。戦争の悲惨さ一般を強調し、平和の大切さを訴える、ということの意義と限度を常に意識し、さらに進んだ世論形成を探るのが平和運動の使命です。

 そうすると、「現実の日本は平和国家でも何でもない。世界第5位の軍事力を持ち、世界最強の米軍に基地を提供し、自らもジプチに軍事基地を置いている。ウクライナのような運命に陥らずに済んでいるのは、平和憲法をしっかり守っているからではない。地域大国だからである。侵略された国の民を『愚か』と言えるほど、日本人は立派ではない」(126ページ)という本書の叱責は大方妥当ではあるけれども、「地域大国だから」戦争せずに済んでいる、という言い方は舌足らずでしょう。その説明にはあまりに多言を要するのでここでは措きますが…。 

 cf 拙文「平和について考えてみる」

 

 著者は本書の最後の方で、もちろん欧米を批判しつつ、それに挑戦するロシアを擁護する中島岳志氏の「近代の超克」論も批判しています。そして竹内好やウォーラーステインなどに依拠して、欧米とロシア双方を止揚する真にグローバルな普遍主義を提唱しています。世界の多極化は欧米中心の世界秩序とは別の世界的公共性をつくる必要性を示しており(311ページ)、「米欧と非米欧を貫く普遍的普遍主義」(322ページ)を対置すべきだというのです。そうした立場をまさに見事に示したのが、侵略されたウクライナ人民がジェノサイドの最中にあるパレスチナ人民に送った、先述の「パレスチナの人びとへの連帯を表明するウクライナからの書簡」と言えます。受難の渦中にある人々が発する真実の痛切な言葉は、日本の一部「平和主義者」の傍観的で傲慢なシニシズムとは対極をなしています。

 ところで、本書であまり触れられていない問題があります。終戦ないし停戦への道です。第三者がアレコレ指図することではなく、あくまでウクライナ人民の意思が大前提ですが、何としても犠牲者を少なくするため、その展望を探ることを世界は求めています。しかしそれ以上残念ながら、私にここで述べる言葉はありません。

 もう一つ。一部左翼ではロシア擁護の文脈で語られる問題ですが、ロシアのウクライナ侵略戦争は欧米軍需資本にとっては大儲けになっています。それもあってか、「帝国主義戦争」と規定する言説があります。侵略を免罪するそういう妄言は問題外ですが、軍需資本が戦争継続の原動力になっていること自体を問題視する必要はあります。しかしこれについても、ここでこれ以上述べることはできません。

 

 *** ***  *** ***  *** ***  *** ***  *** *** 

 

 以上は思い出すままに書き出したものです。順序は逆になりますが、以下では、主に本書の初めの方にある、一部左翼の誤りを反面教師として、現実を的確に把握する認識方法の本筋、ならびに彼らの誤りの本質をまとめてみたいと思います。

 私自身はロシアのウクライナ侵略戦争やウクライナの歴史や政治などについてほとんど知識がありません。だから著者の立場や言説が正確かどうかを判断する能力もないと言うべきです。しかし著者自身も当初はウクライナについて知るところが少なく、仲間内からウクライナに対する蔑視が出てくるのに驚いてあわててにわか勉強をしたというのです。巻末の引用資料一覧の膨大さは積年の研究成果の学術書のようにさえ見えますが…。

 そういう状況であるだけに、猛勉強の成果として、著者自身の認識の正当性をかなり詳しく説明しており、それには説得力があります。まずネット上の扇情的で真偽不明な情報ではなく、専門研究者の書籍や論文にきちんと当たり(7ページ)、内容が確かなものと歪んだものとの区別がつくようになった(8ページ)ということです。その中で、ウクライナという国とそこに生きる人々への関心を培い、侵略されたウクライナの人々に対して歪んだ非難や冷笑を向ける議論への怒りを感じるようになり、それが本書執筆の動機になったというのです(13ページ)。その思想的立場が次のようにまとめられます(1314ページ)。

   1.(欧米などの二重基準とは違う)普遍的な反侵略の立場

   2.他国・他民族蔑視への嫌悪

   3.他国の人々を歴史的・政治的主体として尊重し敬意を持つべきこと

 さらには、戦後日本の平和主義の歴史的問題が指摘されます(128ページ)。

   1.侵略と抵抗という基準の不在

   2.自国認識の不在

   3.日本的進歩主義に由来する他国への蔑視 安全な大国日本の傲慢な平和主義

 ロシアのウクライナ侵略戦争という正邪明白な事象にもかかわらず、日本左翼の内部にロシア擁護論が登場する原因を著者は探っています。常識的判断力の欠如した、そうした思考の歪みの根底にある思想的問題として、――1.大国主義 2.民族蔑視 3.日本的平和主義――という三つが挙げられています(54ページ)。それらについては、以上でも触れてきました。しかし、それらはロシア擁護論を受け入れる「下地」であるとして、その「動機」としては「反米至上主義」が挙げられます(148151ページ)。その歪んだ論理は「ロシアの侵略を批判することがアメリカの他地域での侵略を免罪することのように思えて我慢ならず、アメリカを免罪しないためにロシアを免罪し、その侵略を相対化しなければならないと考えてしまうのだと」(149ページ)いうものです。

 「反米至上主義」ではない「反米」は時間的にも空間的にもその適用範囲を自覚的に区切っています。今日の世界認識では、欧米の衰退に加えて、中国・ロシア・インドなどを軸とする多極化への移行が語られています。その多極世界における軸の一つのロシアが侵略戦争を敢行したのです。世界の多極化は進歩でしょうが、侵略国家の多極化は進歩ではありません。その状況下でもアメリカを非難しロシアを擁護するのが「反米至上主義」です。したがって、それは「歴史的な現実の中で、世界の進歩に向かう方向を具体的に検証する努力の放棄であ」り、「そこには歴史性が欠如しており、現実に対する緊張感が欠如している」(151ページ)と言わねばなりません。一部左翼の漫然として弛緩した意識に基づく世界認識が厳しく的確に批判されています。

 さらには、絶対平和主義とも並べて反米至上主義の無責任な現実無視の状況が次のように描かれます。「例えば反米至上主義者にとっては、反米国家ロシアが侵略者で、抵抗するウクライナを支援しているのがアメリカであるという構図は彼らの立場の『威信』を損なうように思われるだろうし、『すべての戦争は悪であり、自衛のための戦争などというものは存在しない』と考える平和主義者は侵略に対して軍事力で抵抗しているウクライナ人の選択は認めがたいだろう。こうした動機によって、彼らは侵略された側の声に耳を傾けず、『現実無視』の姿勢を取ることになる」(155ページ)。

 で結局、反米至上主義に典型的な「左翼」においては、何らかの理念の基準から自国の権力に反対するのではなく、自国政府に反対することそれ自体が左翼の意味や意義になります。要するに単なる「反感」です。たとえば、「眼前の日本の支配者の後ろ盾となっているアメリカがウクライナを支援し、ロシアを悪と決めつけているという事実それ自体が、ウクライナ支援に反対し、ロシアの侵略を悪と考えない『根拠』なのである」(158ページ)ということになります。

 その意識の行き着く先の妄言が「はじめに」で紹介されています。「米国・NATOにそそのかされ軍備増強したらまさかの開戦。武器だけもらってロシア叩きしたら廃墟と死人の山。なんて惨めなウクライナ。戦争回避出来なかった国家の末路はこんなにも悲惨で惨めなものなのか。トマホーク押し売りされてる日本の未来かもなぁ……ということで軍拡反対。戦争反対戦争やめれ!」(5ページ)

 左翼としては日本の軍拡に反対することは当然です。ところがその前段に、ロシアの侵略を免罪し、正当防衛しているウクライナを嘲笑・蔑視する暴言がついてきています。まったく救いようがない。これでは日本の軍拡反対も左翼のよこしまな思いの結果だと、普通の人々には思われてしまいます。現実認識の努力と緊張感が欠如するところ、堕落し弛緩したシニシズムに行き着くことがよく分かります。

 そうではない本来の左翼とは何か。著者は時代によって違うと言います。たとえば今どき「国営企業と計画経済」を目指すのが左翼ではなかろうと(156ページ)。なるほど。そこで著者の定義は。<「汝の人格の中にも、また他のどの人格の中にもある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないというように、行為せよ」というカントの命題の実現を、あくまで歴史的具体的な現実の中で追求する立場>とか、<普遍的な人間性にとって何か肯定的なものを実現しようとするもの>という漠然としたものです(同前)。「しかしソ連が崩壊して30年経つ今、私たちは普遍的な理念をもって現実を捉え、そこに関わっていくことが簡単ではない時代を生きている」(157ページ)というのがこの定義の背景説明です。カントばりの不可知論のように、ここまで抽象的・観念的な定義には抵抗感があります。かと言ってより具体的に社会科学の概念で構成した定義が現在できるかというと、確かになかなか難しいと言わざるを得ません。宿題ということです。

 左翼のホンモノ・ニセモノについて考える、などということにどんな意義があるのか。世間の普通の見方によれば、左翼は偏っています。特定の立場に立つこと自体を偏っているというなら、確かにその通りです。しかし、「偏っている」という判断の中身には、事実したがって現実の捉え方が不公正であり、そこには思い込みに基づく、恣意的で不当な取捨選択がある、というニュアンスが込められているのだと思います。

 立場の如何を問わず、社会認識におけるそういうバイアスはあり得ます。まともな左翼ならばそのことに対して自覚的であり、できるだけ公正な認識に努め、慎重に結論を出します。ところがそうでない単なる「反感」左翼はそういう過程をすっ飛ばして、上記のような妄言を吹聴します。それを見た普通の人々は、案の定、左翼は偏っている、認識が歪んでいる、と「納得」してしまいます。この状況を克服することも左翼の課題です。

 ついでに言えば、自分は中立だ、脱イデオロギーだという者ほどまさに無自覚にイデオロギッシュです。空気のようにある支配者階級のイデオロギーに染まっているだけです。自然であれ、社会であれ、その認識を深めるには現象への批判が欠かせません。現状肯定意識はその典型的な障害物です。現実を前にどのような問題意識を持つのか、現実を丸ごと全部認識するのは不可能なので、どこを切り取れば本質に近づけるのか、そうした社会認識の緊張感は不可欠です。そして人々の生活と労働のあり方への関心も不可欠です。そこに中立や脱イデオロギーはあり得ません。

 最後に。著者は自分とは違う正反対の見解を持つ一部左翼の誤りをその根源にまでさかのぼって批判しています。それは直接的には他者への批判ですが、そのような者らを生み出してしまった日本左翼の内部問題として、あえて自分たちにも引きつけて考えているようにも見えます。そうであるならば、本書はまさに日本左翼の自己批判であり、それを情理を尽くして平易な言葉で語り上げているのです。そこには、一部左翼が陥った無責任なシニシズムを大いに嫌悪し、さらにはそれを克服しようとする使命感がみなぎっています。それが本書のもたらす感動の源泉であると言えます。

 以上、重複や前後錯綜や他ごとの混入などを含む、雑然とした作文になってしまいましたが、あえて荒っぽいできたてをお伝えすることとします。妄言多罪。

 

 

          自由時間論と社会主義的変革

 

 先月号の感想の中の「物象的依存性とは何か」において、学生オンラインゼミ・志位和夫日本共産党議長の講演<「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに>427日)での「物象的依存性とは資本家階級による労働者階級に対する搾取・支配関係を表現した言葉」だという主張は誤りであることを、マルクスの『経済学批判要綱』(1857-58年の経済学批判草稿)の当該部分の叙述に基づいて指摘しました。今回それを補足します。

 「物象的依存性」概念を含む人類史の三段階把握は『要綱』の中で、「V 資本にかんする章」に先立つ「U 貨幣にかんする章」に登場します。つまり論理次元として、資本=賃労働関係(搾取関係)に先立つ商品=貨幣関係の次元で議論が展開されます。商品=貨幣関係がもたらす人と人との関係性、あるいはそこにおける人間性が物象的依存性として捉えられ、その人類史的意義が自由との関係では二面的に評価され得ます。一方では、前近代の共同体社会に比べて、人格的依存関係から解放されて自由になり、他方では、人間が物象に支配される疎外関係に置かれ、平たく言えば、諸個人が制御できない市場に翻弄されることで自由が抑圧されます。

 だから「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」とは、人間の自由としては、共同体の抑圧からの解放と市場経済への従属という二面的性格を表現しています。これは論理的には資本主義的搾取の存在以前にすでに言い得ることです。マルクスは資本主義的搾取だけでなく、商品=貨幣関係そのものの止揚を目指していたので、この二面性の確認は重要です。物象的依存性を資本主義的搾取と同一視しては、物象的依存性の持つこの特殊性が分かりません。奴隷制・封建制という前近代社会と、近代資本主義社会とは、搾取社会という点では共通であり、ともに人間の自由を抑圧します。しかし共同体と市場経済という違いにおいて人間の自由のあり方は対照的です。人類史の三段階把握に登場する、人格的依存性と物象的依存性という対概念がそれを鮮やかに示しています。しかもそこで注意すべきは、前近代の共同体社会に対して市場経済社会は自由だと単純に言っているだけでなく、後者の二面性を捉えていることです。その上に改めて搾取経済としての性格を加えて考えるというのが近代資本主義社会の重層的把握と言えます。

    *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** 

 上記のオンラインゼミに続いて、625日には志位和夫氏の講演「『自由に処分できる時間』と未来社会論 マルクスの探究の足跡をたどるが開催されたので、リアルタイムで視聴しました。オンラインゼミではマルクスの言葉は平易に要約されていましたが、今回の講演では、『資本論』と経済学草稿その他の原典に即して、本格的に自由論・未来社会論が考察されました。「共産主義と自由」という大テーマへの挑戦の一つとして積極的に評価しうる企画だと思います。

 講演の初めの方で、マルクスの自由論に決定的な影響を与えた匿名パンフレットの内容が紹介され、資料5として掲載されています。――「人々がそれまで12時間労働していた所で現在6時間労働し、そしてこれが国民の富であり、これが国民の繁栄である、ということになりましょう……。富とは自由であり――休養を求める自由であり――生活を楽しむ自由であり――心を発展させるべき自由であるのです。それは自由に処分できる時間であり、それ以上のものではありません」(蛯原良一氏の翻訳による)

 私たちを含め、資本主義社会に生涯を送る人間は資本主義市場経済によって決定的に人間性を規定されているので、人間とは「剰余価値追求」、「生産のための生産、蓄積のための蓄積」に生きて、「金がすべて」であると思っています。もちろんそうでないという人もいますが、それは以上への反発以上のものではなく、同一平面の発想でしかありません。それに対してこのパンフレットの人間観・社会観は、富の本質を自由時間に求めるという点で次元が違います。あえて言えば、この後のマルクスの自由論の展開は彼の科学的経済学によってこの命題をただ敷衍したものだとさえ言えます。

 ところでこのパンフレットの著者がディルクという人物だということを、20世紀日本の経済学者・杉原四郎氏が解明しました。講演はそれを指摘していましたが、実は杉原氏の理論的貢献はそこにとどまらぬ大きなものがあることは、おそらく志位氏も了解済みでしょう。山口富男氏の「マルクスによる未来社会の探究と自由な時間=@ディルク抜粋から『資本論』へ」1(本誌5月号所収)によれば、「マルクスのディスポーザブル・タイム論については、杉原四郎氏による一連の研究がある(『経済原論T』同文舘、とくに第二章第一節「時間の経済」ほか)」(98ページ)ということです。

 講演で資料6「社会の発展は、時間の節約にかかっている」として引用されている部分(『マルクス 資本論草稿集1 1857-58年の経済学草稿』第1分冊、大月書店、1981年、162ページ)を杉原氏は引用し要約した上で、以下のように論じています(下線は刑部)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 このような見解はいわばマルクスの思想的核心であって、とくにわれわれにとって重要なことは、それが彼の価値論や剰余価値論を生み出した基盤であり、かつそれらをささえている支柱として働いているということである。労働が価値の源泉でありその尺度であるというマルクスの主張は、けっして単に商品社会に関してだけでなく、経済一般に通じるものとしてなされているのであるが、こうした主張は、人間生活にとって最も本源的な資源としての時間があるということ、労働時間がその時間の基底部分を構成するということ、そして生活時間から労働時間をさしひいたのこりの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能となること、したがって労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえないということ、このような認識をまってはじめて成立することができる。そしてこのような認識にもとづいてはじめて、労働の生産力の発展が人間の歴史をつらぬく基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望もひらけうるであろう。生産力の発展と合理的な配分とは、労働時間の節約のための二つの本質的な解決策にほかならないからである。    53ページ

杉原四郎『経済原論1―「経済学批判」序説―』(マルクス経済学全書1)

同文舘、1973年  第2章「経済本質論の展開」 第1節「時間の経済」より

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 本来なら、この著書を全部読み返すのが良いのですが、時間がないので気がついたところだけを引用しました。杉原氏は資本主義や商品経済にとどまらぬ経済一般を捉える「経済本質論」から考察し始め、その中で「時間の経済」の重要性を指摘しています。「人間生活にとって最も本源的な資源としての時間」にまず着目し、労働時間と自由時間のそれぞれの意義、ならびに労働時間短縮の重要性に説き及んでいます。マルクスの『資本論』と経済学草稿などの自由時間論についてその発想の端緒から基本的部分までを圧縮して述べています。この問題についての先駆的研究の一つと言って間違いないでしょう。

 確か志位講演でも触れられていたように思いますが、マルクスは労働時間だけでなく、生活時間全体に問題意識を持っていたと考えられます。これは今日、フェミニズム経済学が提起してきた、家事労働の経済理論への組み込みに通じる問題だと言えます。その際に、家事労働などの価値生産性をどう扱うかが問題となりますが、まずそれは措いて、家事労働・家内労働・市場労働あるいは不払い労働・支払い労働という形態を問わず、いずれも投下労働として存在するという一点から出発することが必要と思われます。

価値は「通説では市場で実現した商品を再生産するために社会的平均的に必要な抽象的労働の分量とされてい」ます(和田豊『価値の理論』第三版、桜井書店、2019年、90ページ)。通常はこの労働が投下労働とされますが、それはすでに一物一価などの市場法則を経過した加工済みの概念であり、現実の具体的な投下労働ではありません。労働価値論はその真の投下労働から出発することで現実経済を度量深く反映することができます。したがって、「共産主義と自由」=「自由時間論」の検討は、人間の生活時間に着目することで、労働価値論の深化と拡張につながります。

志位講演は、マルクスの『資本論』だけでなく経済学草稿なども検討することで、自由時間論を軸にした共産主義社会論を前進させました。それはさらに現代資本主義分析と結合させることが求められます。現代社会の中に未来社会像へのつながりをどう見いだすかが大切だからです。

空想的社会主義と科学的社会主義とを分かつものは、資本主義社会の展開の中に、社会主義に向かう変革の客観的条件と主体的条件との形成を見いだせるか否かにあります。たとえば、生産力発展による自由時間の拡張をどう実現するかが問題です。資本主義的雇用制度下では、生産力発展は失業不安に転化します。失業を避けるとしても、資本は生産力発展による潜在的自由時間の形成、その実現可能性を剰余労働時間に転化してしまいます。労働者に自由時間を与える代わりに、それを剰余労働時間とします。そのためにはムダな使用価値をも「創出」します。そこに形成されるのが「消費社会」です。こうして資本は労働時間だけでなく「自由時間」にも管理を及ぼし生活を支配します(以上について、初歩的で雑駁な問題提起に過ぎないが、拙稿「生産力発展と労働価値論」――政治経済研究所編『政経研究』第86号、20065月、所収――参照)。

 たとえば、ベーシックインカムは、資本主義的雇用制度下での(賃下げを伴う)時短による低所得化の対策として機能するかもしれません。しかし資本主義的搾取を前提に再分配でそのように「解決」することは社会主義的変革とは違い、労働者が生産の社会の主人公になる道ではありません。生産力発展による自由時間増大の可能性を実際にどう活かすのかを考えることは未来社会論とそれを切り開く社会主義的変革論の重要な要素であると思います。

マルクスのテキストに内在し、そこに学び本質をつかむこと自身は重要ですが、それを現代的にどう活かすかこそが、革命家マルクスの真意に沿うことになります。そうでなければ、訓詁学と空想的社会主義にとどまります。自由時間論を現代の労働時間短縮闘争に結びつけるのは当然ですが、社会主義的な変革像をどう組み入れていくかがさらに問われています。

 そうした理論的営為は若者のイデオロギー的獲得という課題においても重要です。新自由主義の厳しい搾取の被害者たる若者たちが社会主義支持に傾く可能性は潜在的には高まっていますが、あくまで日本社会における支配的イデオロギーは新古典派理論を基礎とする資本主義市場崇拝です。あるいは競争崇拝、「自助」強要の自己責任論です。その下で、経済社会の理性的運用は不可能であり、社会主義・共産主義の理想はユートピアに過ぎず、まったく非現実的だというのが通念です。それに対して、諸個人が日々の利害関係をかいくぐって生きていく上での卑近な処方箋は、資本主義イデオロギーに基づく「現実主義」が提供しています。ビジネス書や生き方のマニュアル本の類い、またおそらく大方のネット情報がそれであり、若者たちの周囲はそれで埋め尽くされています。そうした「空気」の中で、自由時間論に基づく共産主義社会の本来の理想だけでなく、そこに至る社会変革の中長期的展望、さらにその前に、日々の厳しい現実を生きて打開する方策を重ね合わせて正しく提示していく、もっと言えばともに闘って要求実現していくことが求められます。せっかくマルクスに触れたり、社会主義支持に向かうか、という若者たちが、「何だ、結局ナイーヴな信仰に過ぎないじゃないか」という「大人」の誤解に逆戻りしてしまわないようにするにはどうすべきか、という問題意識を常に持つべきです。

 

 

          ここでも「民主主義の形式と内実」考

 

 旧優生保護法(1948〜96年)による不妊手術の強制は憲法違反だとして国に謝罪と損害賠償を求める裁判で、73日、最高裁大法廷が判決を出します。全国各地16件の同種訴訟のうち5件について統一判断します。2019年仙台地裁と続く5地裁判決はいずれも原告請求棄却でした。「どの判決も、強制不妊手術は憲法13条(個人の尊重)などに違反すると判断しています。/ところが、『除斥期間』を理由に横並びで棄却しました。不法行為から20年過ぎて裁判を起こしたから損害賠償請求権は消滅したというのです。『国は憲法違反したけど、あんたら訴えるのが遅かった』と冷たく追い払ったのです」(「2024焦点・論点 強制不妊手術国賠訴訟 最高裁大法廷へ 兵庫訴訟弁護団長 藤原精吾さん」、「赤旗」523日付)。内容的には原告の主張を認めても、形式的に門前払いしたということです。しかし問題の内実をしっかり見る必要があります。

 「強制手術を受けた人の8割は精神障害者とされた人たちです。精神科病院に隔離され家族やまして弁護士に相談できる人なんていません。手術記録も失われ、差別的社会状況のなかで沈黙を強いられてきたのです。その人たちに向かって『遅かった』というのはあまりにも非常識です」(同前)。そうした事情を汲んだのか、222月の大阪高裁では、原告が逆転勝訴しました。それは「国の重大な人権侵害によって生じた損害賠償請求権を除斥期間で消滅させるのは『著しく正義に反する』と断定しました。地裁が『法の安定性』という法律論のみで書いた判決に対して、きわめて市民常識にかなう判断でした」(同前)。さらに藤原氏はこの訴訟の重要な意義をこう説いています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 国は自治体、医師会などに手術の推進を求めその数を競わせ、法律の手続きすら守らない場合もありました。“国の役に立つ人”かどうかで、人の価値を決め、“価値なき人”を絶やす優生思想を学校の授業で教育し、社会に根付かせました。その結果、今なお障害者の人権侵害事件が続いているのです。

 旧優生保護法は1996年に強制不妊条項を削除し母体保護法に改正されました。しかし法改正を審議した国会は、それまで犯してきた人権侵害について、何の総括も謝罪も補償もしませんでした。以後も政府は「当時は適法だった」、「損害賠償は困難だ」と言い続けてきました。今や責任の承認と優生保護法問題の解決が求められています。

 裁判を通じて、社会にはびこる優生思想と障害者差別を取り除き、障害の有無にかかわらず個人の尊厳が守られる社会をつくる大きなうねりを広げたい。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 このように見ると、被害者救済を邪魔するために「除斥期間」なるものを振り回すのがいかに不当・不正義であるかが歴然とします。人権擁護と社会進歩にとって、官僚的形式主義の打破は重要課題です。

 政治資金パーティー券・裏金問題で秘書や会計責任者だけが罪を問われ、国会議員本人はお咎めなしとなり、人々の怒りが沸騰しています。そこで、知らぬ存ぜぬを通す政治家本人も罪に問う連座制が注目されています。ところが、法哲学研究者の安藤馨氏は「犯罪の責任とそれに基づく制裁は、当該の犯罪を自由な意思によって引き起こした個人にのみ帰せられるという個人責任の原理に反する」として連座制に反対し、詳しく理論展開しています(「(憲法季評)政治資金規正法の改正提案 『連座制』がゆがめる政治的権利」、 「朝日」59日付)。内容の詳述は略しますが、政治情勢を考慮した結論は以下の通りです。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 連座制なしでは代表者の関与が立証困難であり処罰・制裁が容易に免れられてしまう、という理由で連座制導入に賛成する多くの有権者の感情は理解できるものの、それは連座制の根拠としては筋違いである。連座制導入に対し当事者たちから反対の声を上げることは、いまの政治的な状況に鑑みれば困難である。しかし、我々自身の政治的権利を守るために、連座制導入への疑念を呈しておきたい。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 結果的には自民党の汚職議員の応援になっています。民主主義下で、人権擁護の形式的普遍性を守れば、政治腐敗という実質を克服できない、というのがこの論説の帰結です。しかしそれを政治的にたたくのではなく、人権論としてこれをクリアする必要があります。「朝日」のオピニオン欄担当者によれば、安藤氏は著名な法哲学者の井上達夫東大名誉教授の弟子で、学界では非常に注目されており、「朝日」紙上に登場したのが話題になっているそうです。私はもちろん法学の素人ですが、社会変革の立場からは理論的に克服すべき高い壁と感じました。井上氏は「朝日」紙上などでしばしば見たことがあります。内容は忘れましたがその言説には違和感がありました。ウィキペディア(をどこまで信用するかが問題ではあるが)によればまあいろいろ言っています。注目したのは、「影響を受けた人物」として、カール・ポパーと碧海純一が挙げられていることです。つまり分析哲学・論理実証主義・批判的合理主義といった20世紀哲学主流の精緻な主観的観念論に深く根ざしているようです。安藤氏も強靱でしょうね。

 閑話休題。「赤旗」と「朝日」の二つの記事を並べて何が言いたいのか…。民主主義の普遍的形式は公正のため必要です。しかしその「平等な適用」のため強者が得し、弱者が損することはよくあり得ます。強弱の主要な原因としては経済力とそこから来る政治力がまず挙げられますが、上記のような障害の有無も問題です。「除斥期間」というそれ自身正当な規則も、その形式的適用で傷つく人々がいるとき、問題の内実に踏み込むことが必要です。この場合、形式的適用を修正することで、人権擁護という内実を実現して、民主主義を座礁から救ったと言えます。

 政治汚職における連座制の適用問題では、今度は人権擁護が普遍的形式として存在し、金権腐敗政治の克服という民主主義の内実を実現する阻害要因となっています。今のところ私はこの形式と内実の矛盾を止揚する論理を持ち合わせてはいません。政治上の感情的な反発ではいけませんが、その「感情」は不当なものではなく、庶民の生活からにじみ出ているものなので、嘲りではなく、尊重の対象であるべきです。それもまた民主主義の内実の一コマとして、それを包摂しうるより高次な民主主義形式が求められるべきと考えます。

 

 

          断想メモ

 

 松井芳郎さんに聞く「国際法と国際社会は武力行使をどのように規制してきたか」(『前衛』7月号所収)を読んで、国際法や武力行使の基礎知識や国際政治との実態的関係などについて学ぶことができました。たとえば、集団安全保障が軍事同盟に対して進歩的理念であることは以前から理解していましたが、ここではそれが「法的にも事実上もたいへん大きな限界があることを自覚する必要がある」(54ページ)と指摘されています。そもそもそれは「戦争によって平和を」という矛盾を内包しており、大国・強国に対しては事実上発動できない(同前)のであり、国連安保理の常任理事国の拒否権はその現実の制度化であるわけです。あるいは、国際司法裁判所(ICJ)と国際刑事裁判所(ICC)とはそれぞれどういうものかということもここで明確に分かりました(6365ページ)。その他いくらかの基礎的知識を得ました。

 ということは逆に言えば、これまで国際法や武力行使について、自分自身基本的なことも知らずにいろいろ述べてきたことになります。同様のことは他のあらゆる問題についても言えるでしょう。もちろん、無知だから、社会について発言してはならないということはあり得ません。人間の法的平等の原則によれば、知識の多寡に関わらず、すべての人々の選挙権が平等であるように、社会について考え発言することもまた平等に扱われねばなりませんから。ただし発言の平等とそれぞれの発言の正確さとは別問題です。また人権や差別の問題では、それぞれの社会の水準に応じた守るべき基準が存在すべきです。精神的暴力も武力不行使原則に準じてなくすべきものですから。もっとも、ヘイトスピーチとか陰謀論とか様々な暴論が生まれてくるのは社会的荒廃が最大のベースなので、そこに目を向けることなしには、正義だが無力な説教に終わってしまいます。

 何だか錯綜した話になってしまいました。自然科学の手堅さと社会科学のいい加減さの対比も気になります。そうすると、上記の問題は、社会科学の科学的性格と民主的性格との矛盾あるいは相乗作用をどう捉えるか、というところに関係しそうです。
 
                                 2024年6月30日





2024年8月号


          物価高、賃上げ、金融政策正常化

 

◎物価高とインフレ概念

 

 2022年のロシアのウクライナ侵略戦争によるエネルギー・食料などの供給攪乱を直接のきっかけとして、日本経済はそれまでの物価安定(or下落)から上昇に転じ、庶民生活への打撃となっています。この物価高の原因と対策をどう考えるかが問題です。まず物価高についての理論的考察を見ます。建部正義氏の「日銀の金融政策、枠組みの見直しへ 短期金利の操作を主たる政策手段に3「現在の物価高はインフレと呼べるか」では、物価高が当面続くと考えられる背景にある二つの力という、日銀の植田総裁による指摘(2023116日)を手掛かりに考察されています。

――「第一の力」とは、輸入物価上昇の価格転嫁による物価上昇圧力のことを指す。「第二の力」とは景気の改善が続くもとで、賃金と物価が相互に連関しつつ高まっていくメカニズムのことを指す。(45ページ)―― 植田総裁は第一の力はやがて減衰していくが、第二の力が続く下で、(日銀がずっと目指してきた)2%の物価安定目標が実現していくと見ているようです。

 これに対して、論文は原理的な批判を投げかけています。まず植田総裁は二つの力による物価騰貴をともにインフレーションとみなしていますが、インフレーションとは本来、貨幣・信用的現象なのでそれは誤りです。「物価騰貴じたいは、需要に対する供給の不足、独占価格の設定、輸入穀物価格やエネルギー価格の高騰などの原因によって生じうるが、これらをすべてインフレーションと呼ぶことは言葉の拡大解釈だとみなすべきである」(46ページ)とされます(なお、日銀券への信認の喪失による急激な物価騰貴はハイパー・インフレと呼ばれますが、それは検討の余地があるとも論文は言及しています)。もう一つ、マルクス価値論によれば、賃金が上昇しても利潤と賃金の分配率が変わるだけで、商品価値が上がるわけではなく、賃金上昇が物価騰貴につながるのは何らかの形の資本の独占力が働いていることになる、としています(同前)。賃金と物価の好循環(あるいは悪循環)というのは一般的に通用している通俗的見解ですが、きっぱりと原理的に否定されています。

 植田総裁の「二つの力」論に関してはこの批判の通りでしょうが、現行の物価高はインフレーションだという見解もあります。小西一雄氏の「インフレーションを考える 現在の物価論議で忘れられた論点について(本誌20235月号所収)は、物価高の要因として、エネルギー価格の高騰や円安による輸入品価格の高騰、あるいはサプライチェーンの寸断による供給制限がもっぱら言われているけれども、コロナ禍対策による財政資金の散布を原因とする古典的インフレーションという側面が忘れられている、と主張しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 コロナ不況からの回復過程が急速な物価上昇の進展をともなったのは、エネルギー価格や小麦価格の高騰などのコストプッシュ要因にとどまらず、中央銀行の事実上の国債引き受けによる巨額な、まさに兌換制下の限度をはるかに超える財政支出がもたらした需要創出の結果であった。まさにインフレーションの進展である。したがって、米欧と日本での物価高騰は一時的な現象ではなく、物価水準そのものを引き上げる、不可逆的な物価上昇なのである。コロナ禍での財政支出は全体として必要なものであったが、目的が正当であっても、その副作用としてのインフレを免れるわけにはいかないのである。

          118ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この物価高がインフレか否か、どちらが正しいか私には判然としませんが、昨今の物価高における消費の低迷を見ると、「財政支出がもたらした需要創出」というものがいかにも力弱く感じられ、インフレ的性格は少ないように思えます。それはともかくとしても、このインフレ定義の厳格化からすれば、むしろ今回の物価高以前の物価低迷をデフレと呼んでいる誤りが明白です。リフレ派が鳴り物入りで主導したアベノミクスの異常な「異次元金融緩和」よりずっと前から、状況による強弱はあれ、一貫して日銀は金融緩和政策を続けていたので、通貨不足を原因とする物価低迷はあり得ませんでした。賃金の下落を主因とする実体経済の停滞から目をそらし、場違いな金融政策一辺倒に舵を切ったのは、この用語の錯誤と一体です。

 

◎物価高と賃上げ

 

 財界でさえ2024年春闘に当たっては、賃上げを容認しているのを見れば、バブル破裂後の経済低迷の原因に関する「金融か賃金か」という長い経済論戦(大門論文、23ページ)は決着がついたと言えます。その成果に立って経済政策を提起しているのが、大門実紀史さんに聞く「国民の暮らしを守り、経済の再生へ 国民のための経済論で対峙するです。そこでは物価高は円安を中心に論じられます。アベノミクス「異次元金融緩和」は「円安・株高を誘導し、輸出大企業と富裕層(大株主)にばく大な利益をもたらしましたが、円安による物価の高騰に国民は苦しめられ、日本経済の停滞をいっそう深刻にしています」(14ページ)。円安は日米金利差・貿易赤字・日本経済の長年の停滞と弱体化、という短期・中長期的な複合要因により発生しているだけに容易には克服できません。輸入物価上昇(あるいは高止まり)はしばらく続きます。

 ところが2022年に始まった今回の物価高は23年には様相がいささか変わってきます。アベノミクスが上記のような格差・貧困の拡大を招いた、いわば政策的収奪であるのに対して、資本による労働者と消費者に対する搾取・収奪がさらに加わってきたのです。それについて、日本政策投資銀行の今年3月のリポートを紹介しながら「朝日」デジタル523日付が二つの記事「物価上昇しても賃金にほとんど回らず、大半が企業収益に GDP分析」「企業の『強欲インフレ』だった? 昨年度の物価上昇、賃上げに回らず」で提起しています。以下では、710日付「赤旗」、「すいよう特集 強欲インフレ コスト増上回る値上げ 利益急増」が手際よくまとめているので引用します。先の建部論文によれば、「強欲インフレ」という表現はどうかという見解もあるでしょうが(以下、他の引用でもインフレ用語の使用については目をつぶる)、企業の商品値上げと賃金抑制という両面がよく分かります(図は省略)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 GDP統計にはGDPデフレーターという指標があります。これは国内における物価変動分を示すもので、輸入物価の変動は反映されません。GDPデフレーターは2015年4〜6月期から221012月期まで7年にわたって、前年同期に比べ±2%以下の幅でしか増減してきませんでした。しかし、23年1〜3月期以降、急激に上昇しています(図1)。日本国内で大企業がコスト増加(輸入物価上昇)分以上に、急激に価格を引き上げたことを示します。

 

便乗値上げ

 GDPデフレーターが変動する要因は、企業収益と賃金の増減です。21年1〜3月期以降のGDPデフレーターの増減について、その要因を分析したところ、23年以降は上昇要因のほとんどが企業収益の増加によるものでした。一方、賃金はほとんど増えないどころか、減少した時期もあります。つまり事実上、もうけのための便乗値上げになっているのです。まさに「強欲インフレ」です。

 賃上げを上回る物価上昇で賃金は目減りし、実質賃金は26カ月連続で減少しています(図2)。一方で大企業は内部留保を24.6兆円も積み増し、537.6兆円もため込んでいます(図3)。物価高騰がくらしを直撃し、国民が困窮する大きな要因は、大企業の強欲にあるのです。

…中略…

 

   最賃上げて

 個別の企業でみても、トヨタ自動車は24年3月期決算で本業のもうけを示す営業利益を前期にくらべ2兆6279億円(96.4%)増やし、5兆3529億円としました。増益の主な要因は為替変動が6850億円、値上げを中心とする「営業努力」が9200億円でした。

 一方、トヨタ労働者の年間平均賃金は前期にくらべ4万4290円増えただけ。賃金総額も461454万円の増額にとどまります。また下請企業などに対する調達価格の引き上げも総額3000億円にとどまり、営業利益の増加分と比べると、みすぼらしさは否めません。トヨタは同期に内部留保の大部分を占める利益剰余金を4兆4521億円積み増して、327954億円としています。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 上記の「朝日」デジタル記事では、日本政策投資銀行の和田耕治氏が、労働分配率は長期的に低迷が続いており、分配率がコロナ禍前の19年水準に戻るには、約12%のベアが必要と試算していることを紹介しています。同記事に対して岩本菜々氏(NPO法人POSSE学生メンバー)が以下のコメントを発しています(523日)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

歴史的なインフレによる生活苦が広がるも「大企業も、中小企業も、労働者も、等しく苦しいのだからしょうがない...」そんな空気が蔓延しています。そんな中、実はインフレ下での企業収益は拡大し、労働分配率は低下し続けているのだということを、データをもとに鋭く指摘した重要な記事です。 今年の春闘では大幅賃上げが報道され、企業利益が労働者に分配される好循環が再び実現するかのようなイメージが世間に広がりましたが、実質賃金の低下は続いており、インフレに見合った水準の賃上げが達成されているとは言えません。 さらに重要なことは、賃上げの恩恵に与かれているのは、ほんの一部だということです。賃上げが達成されているという報道の根拠となっているのは、連合の統計です。ただし、連合傘下の企業で働く正社員は、日本社会のほんの一部。 連合傘下にない中小企業や、労働人口の4割を占める非正規雇用労働者に至っては、蚊帳の外に置かれています。全国16の個人加盟労組で作る「非正規春闘実行委員会」(https://hiseiki-syunto.jimdofree.com/)が実施したオンライン調査では、非正規労働者の72.5%が「今春に賃上げをされていない」と回答しました。 この数十年間、日本では多くの企業が、非正規雇用化や中小企業へのアウトソーシングを進めることで、企業業績を伸ばしてきました。その歪みは「賃上げムード」に沸くインフレ下で是正されるどころか、さらに深まっているのです。 「業績が上がったらいつか賃上げしてくれるはず」と企業の賃上げを座して待っているだけでは、自分たちの順番はいつまで経っても回ってこないことを、この記事が雄弁に物語っています。昨年からは、非正規雇用労働者が自ら労働組合に加入して勤務先の賃上げを求める取り組み「非正規春闘」も始まりました。こうした取り組みに加わり声を上げる人が増えることで、より公正な経済のあり方が見えてくるのではないでしょうか。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 さすがに社会運動家らしく、世論状況を直視し、それを変えるべく、非正規雇用労働者に焦点を当てながら、賃上げ闘争に立ち上がることの重要性を主張しています。鹿田勝一氏の「春闘史でも異例な2024春闘 高水準回答も賃金目減り、国民春闘の再構築へは「春闘69年でも24春闘のように『満額』『要求超え』回答が続出するのは異常である」(49ページ)としていますが、それは決して喜べません。連合の記者会見では「要求が低かったのではないか」と突っ込まれています。法政大学の山田久教授は「人手不足に危機感を抱く経営者主導の賃上げ」と指摘し、「組合の存在意義が問われかねない」と警鐘を鳴らしています(50ページ)。

 上記の建部論文が指摘するように、マルクス価値論によれば、賃金が上がっても商品価値そのものは不変で利潤が圧縮されるはずですが、最近の状況では、賃金上昇分どころか、それ以上に商品価格が上がっています。そこに建部氏は独占の作用を見ています。同様の観点を適用したか否かは分かりませんが、労働者・消費者を犠牲にした企業行動について、独占の弊害を説くのが、政治経済研究所 合田寛主任研究員の「独占パワー」(「赤旗」連載、7910111314日付)です。マークアップ(原価に加えられる利潤)とその原価に対する比率=マークアップ率の動きを以下のように説明しています(710日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 1980年代以来、多くの国でマークアップ率の増大傾向が検証されています。米国の経済学者ジョセフ・スティグリッツ氏の最近の研究によると、6080年にはマークアップ率はコストに対して平均で26%上回る水準を示していました。それ以降ゆっくりとコンスタントに上がり、2021年には72%に達しています。とくにコロナパンデミック以降、急激な上昇がみられます。

 マークアップの引き上げは生産、流通、小売りの各段階で起こります。天然資源採掘部門(石油やガス)や農業部門(小麦やトウモロコシ)など、経済の上流部門で起きたマークアップの引き上げは、消費者に近い下流部門ではコストの引き上げとなって波及していきます。独占企業による市場支配率が高い部門ではコストを上回る値上げが起こります。

 コロナパンデミックやロシアのウクライナ侵攻などによって、グローバルな供給ルートにボトルネック(障害)が生じました。それに便乗した値上げが、ボトルネック解消後まで続いているケースもあります。

 いま世界で進行しているインフレーションの主な要因は、需要側の超過需要ではなく、供給側のマークアップの引き上げだと考えられます。それは「売り手インフレ」あるいは、もうけを増やすために価格を引き上げることから「グリードインフレ(強欲インフレ)」とも呼ばれています。

 供給側の要因としては、利潤だけでなく賃金コストもあります。しかし、現在進行しているインフレーションについては、賃金要因よりも利潤要因が大きいことが多くの研究によって確かめられています。  

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 さらに「独占パワーが強まればマークアップが高まる一方、労働分配率が低下することは多くの実証研究によって確かめられています」として、「米国、ユーロ圏など、労働分配率が下がっている国でも実質賃金は上がっているのに対して、日本では労働分配率も実質賃金も下がっています。労働分配率の長期的な低下が実質賃金の引き下げにつながっていることを示しています」(713日付)と指摘しています。連載記事の最後には、独占パワーを抑制し、経済民主主義を図るため、「労働者代表の経営参加や巨大企業株式の公共的所有など、資本主義をのり越える、新しい社会主義への挑戦が課題となります」(714日付)と主張しています。

 こうした企業行動の一般的特徴を踏まえて、会計指標を分析すれば、日本企業と日本経済の病弊が浮かび上がってきます。小栗崇資氏の「大企業の20243月期決算 3期連続で最高益更新はそれを以下のようにまとめています(61ページ)。

○日本企業は過去最高益を出したが円安・価格転嫁・インバウンド・株高によるもので、活力は停滞傾向にある。

○株主への分配が激増し、労働者への分配が低下している。大企業自身が金融収益に依存している。

○内部留保が増加しているが、設備投資より金融投資・子会社投資に傾斜し、自社株買いの度合いも高まっている。

25年度予定の会社法改正により、自社株利用による海外でのM&Aが展開されようとしている。

――総じて、人々の生活と労働を支える国民経済の発展に資するというより、強搾取・金融化・産業空洞化など資本主義の寄生性・腐朽性増大に棹さす方向にあると言うべきです。「強欲インフレ」と非難される、商品価格引き上げと賃金抑制という企業行動は日本資本主義の病弊の一環としてあるようです。

 

◎金融政策正常化の困難性

 

 物価高・賃金抑制・格差拡大をもたらす円安・株高を誘導したアベノミクス・異次元金融緩和の転換が喫緊の課題となってきました。建部論文は、319日の日銀政策委員会・金融政策決定会合について、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」の枠組みおよびマイナス金利政策を廃止して、「普通の金融政策」へ復帰した、として賛意を表しています(3739ページ)。ただし、「普通の金融政策」に復帰したからといっても、「金融政策の正常化」が達成されたわけではない(40ページ)と警告し、日銀の債務超過と「ハイパー・インフレ」の発生の可能性を検討し、河村小百合氏の悲観論と植田日銀総裁の楽観論とを比較して前者に軍配を上げています(4045ページ)。そうすると金融政策の正常化は相当慎重に進める必要があります。日銀と日本経済のソフトランディングは果たして可能か。

 大門実紀史氏は黒田前総裁のときからこの正常化をどう進めるかについて提言してきました。今回の論文では、まず政府自身が誤りを認め反省して正常化を明確に宣言することが大前提だとしています。政府のこの姿勢があってこそ、海外投機筋の動きも牽制できるということです(18ページ)。その上で、正常化に向けた三つの留意点を提起しています(1920ページ)。――(1)金利の急上昇を起こさない (2)国内の金融機関などとの協力体制を構築する (3)投機筋(特に海外)の動きを牽制する―― 黒田総裁(当時)は「そのときがくれば考えます」という答弁(20ページ)だったそうですが、今やそのときが来ました。政府と日銀の当局者は大門氏の提案を一つの参考にして、実務者としてソフトランディング経路とその実現策を詳細に検討すべきでしょう。自民党は「責任政党」を自称してきましたが、撤回して、与党の無責任政策の後始末まで具体的に考えている野党の共産党にその称号を譲るべきだと思います。

 

 

          経済安全保障をめぐって

 

阿部太郎氏の「『経済安全保障』の背景と影響を考える」は「経済安全保障の背景と経済を中心とした社会に与える影響について論じる」(79ページ)として基本点を押さえています。経済安全保障推進法は20225月に成立しました。同年12月には安保3文書(国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画)が閣議決定(!)され、経済安全保障は国家安全保障戦略の戦略的指針として位置づけられました(同前)。経済安全保障推進法は「経済安全保障の定義規定を欠いており、秘密判断の主体や方法、秘密の範囲が不明確であり、日本の経済力・技術力を軍事力として活用することを目的とした経済分野での戦争法である」(81ページ)と断じられています。

 さらに経済秘密保護法(経済安全保障情報保護法)が20245月に成立しました。2013年に成立した特定秘密保護法と同様に何を秘密に指定するかを政府の一存で決められるだけでなく、同法よりひどくて、具体的に秘密とされる類型が別表で規定されず、どのような情報が該当するかさえ不明で、国会への報告もありません。秘密指定の適正さをチェックする独立した第三者機関も想定されていません(81ページ)。しかも政府が指定する秘密の範囲が特定秘密保護法より拡大されています――トップシークレット(機密)とシークレット(極秘)だけでなくコンフィデンシャル(秘)級も含む――(87ページ)。最近明らかになった防衛省・自衛隊における一連の不祥事のトップは特定秘密の不適切な管理58件です。これについては「本来すべきでない案件が特定秘密になっていたと考えるべきです」とか「法そのものに無理があるのではないでしょうか」と批判されています(防衛ジャーナリスト・半田滋氏、「赤旗」713日付)。ましてや特定秘密より(範囲も程度も)もっと広い経済秘密ではもっと無理と言うほかありません。この経済秘密、「重要経済安保情報」の取扱者にはセキュリティ・クリアランス(SC、適性評価)が実施され、対象は数十万人と報道され、家族や同居人も含めて、政治思想・飲酒の節度・経済状況などが調査されるということで、プライバシーの重大な侵害が懸念されます(82ページ)。

 このような無理無体の「法」が強行成立されることで実現されようとしている経済安全保障の背景として二要因が挙げられています。一つには「米中の覇権争い」の中で、SCという軍事産業連携の「共通言語」を整備し「米国の戦略に日本の技術を動員する体制」を整えることがあり、もう一つには「岸田政権が軍事による成長を志向し」(同前)、「安全保障と経済成長の好循環を実現する」(83ページ)方針を持っていることが挙げられます。

 論文はこの経済安全保障の悪影響を数々指摘しつつ、「以上のような一連の動きは、米国を盟主とする『民主主義国』が主導する国際的な軍産複合体に日本経済が組み込まれることを意味する」(86ページ)と結論づけています。この「民主主義国」概念が世論の支持調達上、一つのキーであり、また後で触れます。

 坂本雅子氏の「米国の対中国戦略と『経済安全保障』 対米従属の新段階は経済安全保障推進の上記二要因のうち、米国要因を「対米従属の新段階」(トランプ政権からバイデン政権へ)として強調しています。「日本の経済安全保障政策は、日本政府が独自に打ち出したものではなく、米国の戦略の転換に呼応して打ち出されたもの」(90ページ)であり、「20214月の菅・バイデン日米首脳会談の共同声明」で「反中国の戦略で公式に合意した」(91ページ)のを画期に、岸田政権では「米国の戦略への一体化は、一層深刻なものとな」りました(92ページ)。バイデン政権はトランプ政権の中国経済分断政策を引き継ぐだけではありません。サプライチェーンを自国中核に再編し、国内産業振興へ投資増加を図り、次世代技術の開発への資金援助など、なりふり構わぬ国家介入に及んでいます。これは「軍事・経済・技術面からの多面的な戦略であり、同盟国・パートナー国を動員し一体で進める対中国戦に向けた統合戦略」です(96ページ)。岸田軍拡と経済安全保障政策はここに組み込まれています。バイデン政権のやり方は「関税の無法な引き上げ」など「現代資本主義の基本ルールを無視したもの」(94ページ)であり、そこまで追い込まれているのは、「中国はすでに多くの先端技術分野で米国を凌駕している」(95ページ)からです。

 かつての日米貿易摩擦などから、その後の様々な日米経済関係においても、(対米従属前提かつ新自由主義構造改革支持の)日本メディアはあたかも米国の言い分に理があるかのように描いて、米国の内政干渉を後押しし、日本の対米属国化に棹さしてきました。メディアは今日では米国の対中国戦略に理があるかのように描いて、帝国主義的振る舞いを免罪・当然視しています。それは常日頃の中国脅威論で日本世論の軍拡支持を煽っている中で行なわれています。もちろん軍事でも経済でも中国の覇権主義的行動は目に余り、それへの正当な批判は欠かせません。しかし日本メディアの姿勢はそういう公正なものではなく、一面的に米国の見方(身方)から中国悪玉論で世論を偏向させ煽動しているというほかありません。そこにはまらないように気をつけて見れば、岸田政権による軍拡と経済安全保障推進の闇は、米中覇権争いでの米国の没落恐怖に根源があることが分かります。そういう偏向から抜け出し、軍事力偏重から、冷静に日本の国益を守る外交中心へ、経済もエネルギー・食料自給率向上など国民経済の自立に向かう政策への転換が求められます。

 メディア主流は人権論などでは公正な判断を示すことがあります。しかし軍事や経済では、諸個人や国民経済の視点ではなく、資本(とりわけグローバル資本)の魂の担い手として、米日支配層の意向を支持するか、せいぜいそれに流されるかにとどまります。それが世論のミスリードにつながります。阿部論文では「米国を盟主とする『民主主義国』が主導する国際的な軍産複合体」とありました。ロシアのウクライナ侵略戦争に対するバイデン政権の「民主主義対専制主義」というスローガンはメディアによって広く流布されています。これらの「民主主義」は直接的には各国内の政治的民主主義を意味していますが、その文脈においては事実上、米国を盟主とする帝国主義陣営を指しています。確かにそれらの国々は大方、内政においては民主主義的ですが、反共主義を伴っており、国際関係では帝国主義的です。旧ソ連の後継国ロシアによる侵略戦争はこの「民主主義」図式の延長線上にはまってしまい、米国を盟主とする帝国主義陣営を民主主義陣営に仮想するのを助長してしまいます。中国の専制主義と覇権主義もまたこの仮想をもっともらしく見せています。米国等の陣営のウクライナ侵略戦争とガザ虐殺戦争とに対する二重基準を批判するのは、民主主義陣営というタテマエによる仮想を前提するからですが、帝国主義陣営の行動としては何らの矛盾のない単一基準があるだけです(もっとも、それが分かった上での「二重基準批判」は仮想暴露として有効であり、この陣営に対して、国際世論の批判回避のため、しぶしぶでもタテマエを守らせる効果があり得る)。したがって、帝国主義陣営と(経済体制の「違い」を措いた政治的特徴としての)ロシア・中国等の専制主義・覇権主義体制とへの両面批判として、国際法・国連憲章遵守の単一基準を対置することが必要です。様々な問題を抱えたグローバルサウスも広く包摂するため、戦争と平和の問題では、民主主義観など価値観の違いを措いたこの単一基準擁護が大前提とされねばなりません。

ただしその先の課題として、民主主義の推進はあります。ロシア・中国等の専制主義への国際世論の反感が帝国主義陣営を利することや、グローバルサウスの一部諸国が反帝国主義的動機からロシア・中国に接近することの害悪(侵略戦争の事実上の容認など)など、社会進歩の障害を総合的に克服する上で、目前の経済的利害を超えて(それが困難なのだが)民主主義の推進が世界的・普遍的に追求されるべきです。その点で、「武器としての国際人権」(藤田早苗氏)の観点が重要です。藤田氏の同名著書(『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』、集英社新書、2022年)は階級的観点がないのが残念ですが、日本国内を含めて具体的闘争を推進する普遍性を持ち、権利闘争の当事者(それは本来すべての人々なのだが)を励ましています。ところが一部に「国際人権は帝国主義的侵略の口実」などという歪んだ「左翼」的評価も見られ、こうしたスターリン主義的偏向の克服もまた重要です。

 民主主義をめぐる国際世論獲得上の問題を縷々述べてきました。上述のように、阿部論文の「米国を盟主とする『民主主義国』が主導する国際的な軍産複合体」(86ページ)の括弧付きの「民主主義国」表現がそれに関連します。他に、坂本論文では、バイデン政権が「気候変動対策」や「技術革新」などを掲げるため、日米両国世論に好感され、トランプ政権より「民主的」という先入観を持たれている(94ページ)という指摘があります。坂本論文の最後には、日米4人の閣僚による「経済版2+2」の新設で、米国による日本の軍事・経済両面への政策介入が可能になったことに対してこう述べられます。「日本国民は、密室での『日米合意』をほとんど知らされることもなく、目かくしされたままで米国の戦略にどこまで唯々諾々と従わされていくのだろうか」(103ページ)。支配層とメディアによって、「民主主義」を隠れ蓑に対米従属世論が系統的に形成されてきた到達点がここに示されています。その克服は容易ではないですが、私見の基本的観点は上述したとおりです。

 長谷川旬氏の「半導体産業の現場から 『経済安保』の焦点は現場の視点からの平易な解説です。現代資本主義における先端技術の代表格である半導体産業では「ムーアの法則」として表現される急速な生産力発展が実現されてきました。その内容を詳述した上で、「アメリカの製造業の衰退が半導体産業に顕著である」(107ページ)ことと「経済的合理性からは中国を『デカップリング』はできない状況まできてい」る(109ページ)ことが指摘されています。日本については「経済安保」による巨額の公的資金投入に対して、対米従属的かつ中国敵視の歪んだ目的と、そこから来る「経済政策というより公安警察案件」というきわめて異常な性格が批判されています(大川原化工機冤罪事件がその象徴。107108ページ)。「中国の対外政策や人権状況は批判されるべきものがありますが、対決一辺倒は危険で、経済的には失うものしかない」のであり、日本と違って「韓国や台湾は中国とは独自の判断で対応しているように見えます」(109ページ)。

論文は資本間競争による強力な生産力発展をきちんと押さえ、国際関係を捉えつつ、それらを相対化する社会的視点を打ち出しています。半導体産業の発展に必要な二つの課題です。一つは、水と電力の大量消費が「半導体産業の持続可能性について議論する時期にきている」(111ページ)ということです。もう一つは長時間過密労働です(同前)。結論は以下の通りです。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 半導体産業が持続していくためには人と環境を大事にすることが大前提で、環境や労働の規制は他の産業以上に必要です。産業は人と社会のためにという原点からすれば、「経済安保」が進める産業の軍事化、国策化は健全な経済発展の方向と真逆のものです。その原点にたって、職場に差別と分断をもたらし広範な労働者の抑圧につながる「経済安保」に反対し、社会に貢献する産業を目指して発信していきたいと思います。

    同前

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これは当たり前のことにも見えますが、競争圧力下にある個別資本の観点、あるいは世界的視野を持つにしてもグローバル資本の観点――それらが世の「常識」なのだが――では決して持ち得ない人間社会の理性的観点です。裏返せばそれを採用し得ない資本主義の「常識」は環境と労働の破壊へ暴走するほかありません。

 学問の自由の立場から、日本の学術研究体制の変質に抗して、経済安全保障推進法と経済秘密保護法に反対する先頭に立った井原聡氏の「科学・技術のゆくえと経済安保」も重要な問題提起に満ちています。詳しい内容は措きますが、大きく問題を捉えると、「人類共有の知識や真理を生み出す研究活動が国家の安全保障と緊張関係にあることを越えて、今や、軍事利用なのか平和利用なのか、どちらが打ち勝つのか、厳しい現実がある」(113ページ)と喝破されています。その中で、従来「学問の自由」と言えばもっぱら大学人が中心であったのに対して、研究者の6割を占める企業内研究者の重要性――その立場と困難性を指摘しているのが注目されます。

「経済安保」の追求では「特許非公開」や「機微情報による研究発表の禁止や研究交流の遮断」などによる学術研究体制の歪みが予想されます(120ページ)。その反撃の構えがこう強調されます。「この国の科学・技術のゆくえを『いつか来た道』に迷い込ませないためにも、『学問の自由』を大学人、アカデミアの問題としてとらえるだけではなく、人類の福祉、各種の格差社会の克服の先を夢見るためにも、軍事研究阻止、戦争をする国づくり反対の一環として広範な市民と連帯する運動の展開が求められているといえる」(120121ページ)。安倍政権以降特に、激しい右傾化とともに反知性主義とシニシズムが跋扈しており、先の都知事選挙を見てもそれが全開で、没政策論争的状況でした(メディアの責任も大きいが)。ただ、敗れた蓮舫陣営で「ひとり街宣」が広がったことは草の根民主主義の萌芽として重要であり、「学問の自由」を普通の生活者に結びつけることも決して諦められません。

 経済安全保障は経済に対する政治介入の拡大という性格を持っています。それに対して森原康仁氏の「『エコノミック・ステイトクラフト』とは何か 『分断』時代の世界経済は政治と経済の原理的関係も含めて考察しています。まずは近年の米中ロの自国中心主義・地政学的発想や米中対立、ロシアのウクライナ侵略戦争などが政治のみならず世界経済の分断傾向を招いていることを見ています。それに対して「グローバリゼーションが完全に逆回転しているという評価はできないと考えるものの …中略… そうした評価を簡単に否定することもまたできない」として「問題は、直接的には政治的合理性の次元から生じていると考えられる」(125ページ)と押さえています。そこでエコノミック・ステイトクラフト(ES)概念に注目し、その意味を<軍事力によらず経済力によって直接「ターゲットの行動・思想の変容」をもたらそうとする、外に向かっての国家の行動>としています(126ページ)。具体的に言うと、ESは西側主要国の外交・安全保障当局が用いている概念であり、「米国がESを使って構成しようとしている現実は、中国やロシアのような米国主導の国際秩序に挑戦する諸国を念頭に置きつつ、軍事力や狭義の外交的手段のみならず経済的手段を用いて、かれらにたいして優位に立つ米国およびその同盟諸国の姿である。ありていに言えば、米国主導の国際秩序の維持がその念頭に置かれている」(127128ページ)ということになります。

 もっとも、資本主義下での経済と政治の関係について、ごく一般的に言えば「国民国家の成立以降、資本蓄積は一貫して国家によって総括されてきた」(128ページ)のだから、今になってES概念が持ち出されてきた根拠は、1990年代以降のポスト冷戦期の経験から

別に示す必要があります。一つには、「リーマンショックやパンデミックによって金融政策一辺倒のマクロ政策運営の限界が意識されたこと」や「中国やロシアの現状変更をともなう対外政策の推進」などによって、「経済政策と安全保障政策の結びつき」が強く意識されるようになり、「資源配分における市場の役割の過剰一般化に対する反省」がされ、「政府による経済過程への積極的介入を正当化しようとする指導層の意図」が生じてきたことです(128129ページ)。もう一つは、「ポスト冷戦期の米国一極集中の下で浸透したナイーブな想定が相対化され」たことです(129ページ)。「ナイーブな想定」とは、米国主導のリベラルな国際秩序(LIO)が国際秩序形成の唯一の選択肢となる、ということです(同前)。そこで中国がLIOを受容していると見られていましたが変化が生じました。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

中国は、おおむね習近平政権に移行する前まではLIOの内側での「体制内改革」を志向していたが、習近平政権の中国は新たな国際秩序構築にむけたとりくみを明確に強化するようになっている。この背景には、中国や新興国、途上国に有利なパワーバランスが生じているにもかかわらず、既存の国際システムの改革が容易に実現しないという体制内改革の限界にかんする認識があるとされる。

 ようするに、中国が米国主導の国際秩序へのコミットメントを明確にしない以上、軍事産業基盤の国外依存を無限定に容認するわけにはいかなくなるし、中国との技術力の格差も国家安全保障の観点からより厳しくコントロールされる必要が――相対的優位ではなく絶対的優位を維持する必要が――出てくるのである。   129ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 以上を受けて「ES言説は、ポスト冷戦期における市場至上主義的な政策運営や米国主導の国際秩序の限界が意識されたものと評価できるが、その論理はパワーポリティクスに彩られている」(同前)と評価・批判されます。これに対して、気候変動や感染症などの地球物理学的・生態学的危機に対処するにはグローバル協調が必要で、パワーポリティクスにはなじまず、外交努力が必要であり、それが本来の意味での安全保障にも資すると批判的に総括されます(130ページ)。

 最後の批判は妥当ですが、現状認識として、LIOとか中国の姿勢の取り扱いは問題なしとしません。リベラルな国際秩序(LIO)というのは米国等の自称であって、その内実は新自由主義(ネオリベ)的(グローバリゼーションの)国際秩序(NLIOとでも言うか)ではないでしょうか。格差・貧困の拡大と環境破壊を必然的に内包するシステムであって、そこにあるのはグローバル資本にとっての自由であり、人々の自由ではありません。そこでパワーポリティクスが支配するのは当然です。

 いわゆるLIOに挑戦する中国についても、挑戦の理由が、新興国・途上国の発展にふさわしい国際秩序が形成されていない、ということだとされており、確かにそういう客観的状況はあるでしょう。しかし果たして中国がそれにふさわしい新たな国際秩序の構想や展望を持っているのかは疑わしいと言わねばなりません。米国と覇権を争う位置に来た中国は、新自由主義的グローバリゼーションの勝ち組として台頭してきたのであって、現状の延長であれば、民主的な新国際秩序を築くより、単に米国に替わる覇権国となる可能性が高いと言わねばなりません。専制主義・覇権主義の現体制の近未来はそうなるほかなく、それは世界の人々を全く魅了するものではありません。同胞とされる台湾住民の多数からさえも国家統一を望まれず、当面現状維持のほか、道がない状況です。かと言って、合意なき武力統一の追求はいわば世界を舞台にしたレイプであり、内政不干渉原則で合理化されず、民主的世界のリーダーたり得ないことは明らかです。「一つの中国」原則は反帝国主義の正義であり、世界が尊重すべきですが、それを平和的に実現できなければ世界から尊敬されません。そうできない理由を反省する必要があります。また中国はグローバルサウスとの連携を探っており、本来ならばそれが従来の帝国主義的秩序に替わる方向に行くことが期待されますが、双方共に問題を抱え予断を許しません。

 何だかあれもダメこれもダメになってしまいました。しかし、国際政治の実権を握る核保有大国による世界支配体制が諸悪の根源にあることを思えば、途上国や国際NGOなどが推進力となって核兵器禁止条約を成立させ、その影響力が増しつつあり、核兵器の使用を抑止する現実的力となっていることに希望の萌芽があります。帝国主義・覇権主義の支配に対して、帝国主義の上塗りではない真の民主主義を世界中で育てていくことが必要です。経済安全保障政策に抗する日本での闘いはその一環です。

 

 

          差別と資本主義、リベラルと左翼

 

◎冷笑に抗するエンターテインメントの社会認識

 

 NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」が大評判です。「朝ドラ史上最高傑作」という声さえ聞こえてきます。私も毎朝夢中になって見ています。ジェンダー平等が中心的テーマですが、それにとどまらず様々な弱者の権利の擁護、というよりもすべての人々の生き方、そこにある普遍的な人権問題が見事に表現されています。毎回15分間が濃密な展開で、一度としてだれることがありません。

 朝ドラの王道的テーマは、反戦平和、民主主義、女性の自立(この言葉自体、男の上から目線ではあるが)です。それがエンターテインメントとして説得力を持って広い人々に受容されていく。故に朝ドラは戦後民主主義のインフラだと思っています。その典型的ストーリーは、おてんば少女が自分の道に目覚めてそれを切り開くべく奮闘し、やがて良き伴侶を得て大成していく、というものでしょうか。ところが「虎に翼」では、幼少期はカットして、子役時代なしで始めからヒロイン役に伊藤沙莉が登場し、目を見張る名演技でてんこ盛りのストーリー展開を闊達にこなしています。

 朝ドラのヒロインの多くは男中心社会で辛酸を嘗めながらも負けずに成長していくのですが、「虎に翼」はそれだけでなく、男中心社会そのものを変革することがテーマとなっており、これは始めてのことではないでしょうか。憲法第13条や14条を正面から押し出し、個人が尊重される平等な社会への変革を訴えています。小選挙区制によるオール保守政治体制成立以降、世論上もシニシズムが増大し、熱い語りが敬遠される中で、エンターテインメント・ドラマにおいて異例の「変革・正論推し」と言えます。それについて作者の吉田恵里香氏はこう語っています(「『スンッ』より『はて?』で世界を開け 『虎に翼』作者インタビュー」 聞き手 高橋純子編集委員、「朝日」デジタル53日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 「エンターテインメントと社会性は両立すると思っています。というより、切っても切れないものです。どんな作品も作り手の思想がのるもので、思想がないようにみえるものは『思想がない』という思想です」

 「私より少し前の世代くらいから始まった『暑苦しいのは恥ずかしい』『頑張りすぎちゃって、ムキになっちゃってダサい』みたいな考えが、私にはどうも合わないんです。その考えの方がダサいと思ってしまう」

 「でも実際に生きづらい人たちや当事者が声を上げたり一生懸命前に出たりすると、時に矢面に立ち、攻撃を受けてしまう。だから私はエンターテインメントが代わりに声をあげて、攻撃をかわす盾になれたらいいなと思っています。一人で立ち上がるのはしんどい。作中の『異物』たちが、そっと背中を押して、味方でいられたらうれしいです」

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 出演者もまた作者と心を合わせています。「これまでタブー視されていた部分を、この番組ではライトにやっている。冒険してるし、たたかってるし楽しんでる。すごいな、と。端役の人たちにも一人ひとりにドラマをつくって問題提起をさせて…。昔の人はこうだったけど、今はどうだろう?と、若い人がいろいろ考えてくれたらいいですよね」(「連続テレビ小説『虎に翼』に出演 俳優 田口浩正さん」、「赤旗」日曜版721日付)。やみくもに社会的主張を通そうというのではなく、時代の空気を読み込んでしかもそれを巧みに乗り越える(止揚する)、そこにエンターテインメントの本質と役割があるというわけです。エンターテインメントのこの役割というのは、市民と野党の共闘の最前線に立つ政治学者の次の問題意識に応えたものだと言えます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 しかし、一方でいまの社会では、人の怒りを笑うというネオリベ的な冷笑が特徴になっています。冷笑によって怒りを無力化しようとしてきている。若い人たちはとくにそれにさらされているわけです。私たちぐらい厚かましくなっていると、所詮そういう連中がいると開き直れるところがありますが、若い人はなかなかそれが難しい。だから彼らの不正義に対する怒りを笑う風潮からどう彼らを守ることができるのかは、中高年の一つの責任なのだろうと感じています。

 直接、彼らとつながるということでなくても、不正義に対する怒りを大切にできる社会を、私たちがどうやってつくるのか、それは直接若者にかかわることではなく、ある意味間接的なことかもしれませんが、そこに頭を悩ませる方が、はるかに大事なのかもしれません。つまり彼らがちゃんと自分たちで判断して動けるような場をつくる。その手伝いにかかわるというよりは、彼らの外側からの邪魔と対決することによって、そうした場づくりに貢献することができないのか。私もきれいな答えがあるわけではないのですけれど、そのことが大事なのかなと思います。

 中野晃一さん(上智大学教授)に聞く「迷走する自公の悪政からどう脱却をはかるか――あらためて市民と野党の共闘の意義を問いかける(『前衛』8月号所収)、41ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ところで、ドラマは何よりも人間を繊細に描くことで社会をも描くことができるのであり、「虎に翼」も例外ではありません。神は細部に宿る。台詞一つひとつも聞き逃せません。そこにも作者の並々ならぬ力量を感じ取れます。そこで想起されるのが以下の言葉です。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

人権というのは、条文や条件ではなくて、人間の生きる喜びまで到達したときに、はじめて確立するのだろうと思うんです。

              …中略…

異質なものがあっていいのだということ、そこに人権を考える基本がある。異質のものが虐げられているならば、それを感じる心、それと一緒に生きていく気持ち、その人が浮かびあがることは、自分にとってもとても楽なことなんだという考え方。そういうものが一人一人にあって人間ですよ。

    小山内美江子,黒沢惟昭「金八先生と語る人権教育」

(『世界』199911月号所収、58ページ)

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これは明らかに社会科学的認識ですが、それを十全に表現できるのはむしろ文学作品であったり、ドラマであったりするわけです。ただし拙文の以下では、ドラマそのものではなく、それをきっかけに誠に雑駁に社会的観点で問題を提起するのにとどまることをあらかじめお断りします。

 

◎差別・平等と資本主義

 

 「虎に翼」では、憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」がメインテーマです。素人論議になりますが、これは「法の下の平等」を保障していますが、政治的・経済的・社会的関係における実質的平等を保障するものではなく、そこでの不平等には言及されていません。貧困や経済格差はここでは視野外でしょう(別に第25条では扱われますが)。たとえば男女差別の問題では、賃金の間接差別をどう扱うかが焦点となります。ここには法の下の平等と実質的平等との地続きの関係が反映しています。両者の境界線を引くのは簡単ではありません。賃金であれば、格差・貧困問題も関係してきます。女性差別は貧困問題と不可分です。すると、差別の解消を深掘りしていけば、資本主義搾取制度の止揚という課題が視野に入ってきます。

 もちろん日本国憲法は資本主義制度を前提にしており、その第14条をテーマにした「虎に翼」も同じ限界を持っていると言えます。もっとも、そこでは格差・貧困問題など人々の様々な苦難も扱われているのでそう簡単に割り切って断言はできませんが…。作者の立場は知りません。普通に見ればいわゆるリベラルかな、と思いますが、もし左翼であるならば、NHK朝ドラという場の意義と限度を踏まえて、表現できるギリギリの線まで追求しているのかもしれません。

 差別の克服、法の下の平等さらには実質的平等、という課題はブルジョア民主主義そのもののもつ矛盾から考えることが必要です。独立・自由・平等は商品=貨幣関係の全面化の下で、資本主義社会における普遍的イデオロギーとして成立しました。これは「法の下の平等」次元での成果であり、そうした歴史的出自を超えて将来にわたって生きる普遍性を持っています。社会主義社会はそれを継承することが絶対に必要です。20世紀のロシア革命や中国革命などによって形成された社会主義社会がそれを踏み外してしまったことが、今日までに至る世界史の進歩に重大な錯綜を生み、深い影を落としています。その原理的意味は深く考察されねばなりません。

この普遍的イデオロギーは単純商品生産表象から生じるものであり、現実の資本主義経済は資本=賃労働関係という搾取関係に基づいています。ここに実質的不平等の根拠がありますが、それは商品=貨幣関係という表層に同化してしまって、見えません(領有法則の転回)。見えるのは「労働市場での自由・平等な雇用関係」とか「労働の正当な対価としての賃金」という仮象です。もちろん現実の労資関係において労働者が不利になるとか、貧困・格差の拡大という現象は誰にも認められます。しかしその根源に資本主義的搾取関係を看取することは普通できません。その認識の枠内では、そうした不都合をどうするのかをめぐって、開き直って容認する(たとえば「格差こそ資本主義の活力である」言説)か、再分配などの「政策的配慮」を施すか、両者間のグラデーションの様々な立場があり得ます。それが新自由主義時代の保守とリベラルの対立の根拠でしょう。左翼は保守支配の下では、眼前の現実に対するリベラル寄りの改良的政策を支持しつつ、その先の資本主義搾取制度の廃絶を目指すことになります。この諸対抗の中で一つの基軸を形成するのが新自由主義の基礎にある新古典派理論です。その「家計と企業がアトミックに行動する市場経済」というモデルは資本主義経済を単純商品生産表象に落とし込んでしまった無搾取の理念型と言えます。競争と自由市場を崇拝するのは商品=貨幣関係が全面化した資本主義時代の人間観と社会観(ブルジョア・イデオロギー)なのですが、それを「科学」的な脱イデオロギーの普遍的理念と捉えて無矛盾なモデルを形成した新古典派理論はその強固さ故にアカデミズムを支配し、現実政策にも強い影響力を持っています。そこに現実と理論との齟齬がしばしば指摘され、それは必要なことですが、さらには原理的誤りが追及されるべきです。

 閑話休題。「差別の克服」と「法の下の平等」そのものはブルジョア民主主義の課題ですが、資本主義社会においては、その実質的不平等が足を引っ張っています。搾取と階級支配においては、様々な差別を分断支配に利用することが有効だからです。そこでリベラルな人権論・民主主義論が差別と分断の論理を批判しますが、その正当性は、格差と貧困が拡大し生活困難と不平等感・不公正感が人々の念頭を支配しているところでは偽善のように映り、届きにくくなります。根本的には資本主義搾取関係がもたらす実質的不平等を克服することなしには、従来からのブルジョア民主主義の課題も達成し得ないのが、新自由主義グローバリゼーション下での実情です。

 したがって、一見すると差別の克服は啓蒙的な精神論のようであり、ドラマなどで取り上げる場合に心の持ちように焦点が当てられがちです(それ自身の重要性は否定しない)が、経済的実体の変革と不可分の課題です。そこでは資本主義的搾取の特性が考慮されねばなりません。前近代の搾取関係と違って商品=貨幣関係の物神性を抱える近代資本主義の搾取関係は、物象が人間を支配するという疎外を伴います。各経済主体が市場で主体的に自由な行動を選択するというアトミックな資本主義経済像は、確かに現象をそのままなぞっている分もっともらしく見えますが、本質的には転倒しています。個別資本は資本間競争の促迫で市場行動を外的に強制されるのであり、それによって総資本は恐慌・産業循環という資本主義の内的法則を貫徹することになります。労働者も資本家も諸個人はその中で一コマとして費消されます。真の意味で独立・自由・平等な諸個人はこのような疎外された経済体制を止揚して、彼らが社会の主人公となることで始めて実現できます。

 このように、資本主義搾取制度が物象的依存性を通して貫徹されるということは、資本主義下での差別の廃止が、自覚した諸個人の行動だけで達成されるというものではないことを示しています。搾取制度がある以上、実質的平等が不可能なのは当然としても、形式的平等(法の下の平等)の実現さえ容易ではありません。そこでは人権や民主主義に対する深い自覚だけでなく、不平等感と不公正感をもたらす実質的不平等な社会のあり方を是正する努力が不可欠です。

 

◎差別・分断を生む社会とその変革

 

 たとえば、本誌コラム「ヨーロッパからの警告」には「ドイツのハンス・ベックラー財団が最近、EU(欧州連合)加盟10カ国の労働者を対象に実施した調査の結果、労働条件や賃金に不満を持ちながら、自分の仕事に関する発言権をほとんど持たない労働者は、民主主義に対して否定的な態度をとる傾向が高く、『移民』に関する右翼的な言説の影響を受けやすいことが判明した」(121ページ)とあります。

 欧米では移民に対する公然とした差別が政治を動かす大問題となっており、上記はその背景を説明しています。今日の社会的「分断」の主要な原因として、新自由主義による搾取強化、格差と貧困の拡大の下で、そこから目をそらすべく、人種・職業・宗教等々の「いつわりの対決」が持ち出されるということがあります。これは(人民内部の矛盾としてある)差異を差別に転化して、何らかのスケープゴートを仕立て上げバッシングするという、分断のないところに分断を持ち込む「作法」です。ここでは、生活困難と不公平感の真の原因を暴露し、新自由主義政策によって作りだされた現実を是正する展望に説得力を持たせることが求められます。

 したがって、「分断ではなく団結を」というよくあるスローガンは誤りであり、(体制内)リベラルの偽善です。支配層と被支配層との間には客観的に分断があります。かつて「ウォール街を占拠せよ」運動は「1%対99%」というスローガンでその対決点を表しました。団結によって克服すべきなのは、偽りの対決点としての人民内部の「分断」であり、支配層と被支配層との間に客観的にある分断は、社会変革によって克服すべきです。そこに「団結」を持ち出すのは分断の原因を不問にし、問題解決を不可能にします。新自由主義政策を残したままで、人権や民主主義を説くのは、問題の根源にある経済実体を看過させて、精神論に解消する姿勢です。問題の根源が残る以上、問題そのものがいつまで経っても再生産されます。これがリベラルの偽善です。

 この新自由主義の問題を延長して、資本主義一般に伸ばすと、そもそも保守政治とは何かということに突き当たります。それは資本主義搾取制度を守ることであり、資本蓄積の促進とそこに必然的に生じる格差・貧困拡大への手当(開発政策・社会保障)との組み合わせです(矛盾の拡大と対策。ただし今日ではこの対策・手当そのものが「民間活力導入」によって矛盾拡大の一環となっている)。その組み合わせのあり方でのグラデーションが保守内の差異・対立を形成し、教条主義的強行派と現実主義的良識派などに分かれます。かつて新自由主義構造改革全盛期には前者が「改革派」、後者が「守旧派」と呼ばれました。当時のメディアはおしなべて「改革派」推しで、ブルジョア教条主義の宣伝機関に堕していました。

 資本蓄積の促進に伴う、矛盾の拡大と対策という文脈は、保守政治のマッチポンプ的性格を表現しています。資本主義的矛盾の拡大で苦しむ人々を開発政策や社会保障政策によって「救う」ことで、保守支配への支持を調達するという「好循環」を形成しています。これは「安全保障」政策にも言えます。憲法の平和主義から逸脱して、始めから仮想敵国を持つサンフランシスコ体制・日米軍事同盟は平和への脅威を自から作りだしており、それへの「対策」として軍事政策を展開することで、日本人民の「安心」を調達し、日米安保条約と自衛隊への支持を維持しています。マッチポンプそのものです。

 先日のフランス国民議会選挙(小選挙区制2回投票制)では、人種差別との闘争が重要なテーマとなりました。そこには興味深い日仏間の共通課題と差異が認められます。第2回投票で、与党マクロン派と左派政党「新人民戦線」との選挙協力によって、人種差別を公然と掲げる極右政党「国民連合(RN)」が首位に立つのをかろうじて防ぎましたが、50以上の議席増を許しました。フランス左派の経済学者は以下のように分析しています(「フランス 極右台頭の背景に新自由主義 左翼は地域根付く活動を 経済学者 ステファノ・パロンバリニさんに聞く」、「赤旗」722日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 投票率は全体で67%でしたが、労働者層は55%と約半数は棄権しています。RNに入れる人は投票に行く人のうち約2割。彼らはひどく低所得ではなく、中産階級より下に位置しています。庶民ですが一軒家を保有し、平均所得はサービス業などの従業員より高い人々です。

 フランスでは40年にわたりネオリベラル(新自由主義)思想が席巻し、会社は階級闘争の舞台ではなく「成長・発展」の場となりました。会社は競争力をつけるべきだという人が増え、今の生活水準からさらに落ちることを心配しています。

 RNは「今の社会は変えられないが、厳しい状況下の庶民のあなたを守る」と訴えます。フランスの構造的な人種差別を利用して庶民を分断し、移民や郊外のアラブ・アフリカ系、イスラム教徒にツケを払わせるというのです。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここで指摘される、RNへの支持状況(支持者の階層と支持理由)は、日本の一部研究者による「維新の会」のそれと共通性があります。ただし日仏の労働運動の力量差を反映した違いも鮮明です。日本では新自由主義以前からそもそも会社とは階級闘争の舞台ではなく「成長・発展」の場でした。フランスでも新自由主義思想の覇権確立後は「遅ればせながら」日本と同じになってしまいました。日本では新自由主義登場後の格差・貧困拡大を背景に、生活保護バッシングとか公務員バッシングなど各種のスケープゴート戦術による分断支配が横行していますが、欧米ではもっとあからさまな人種差別が政治動向を席捲する勢いを持っています。利用しやすい「構造的な人種差別」がすでに存在していたことが日本以上に深刻な事態のベースにあるようです。さらにパロンバリニ氏は人種差別の深化とその背景に警告を発しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 人種差別は昔からあります。新しいのは、ボロレ(RN支持の極右大富豪)が支配するメディアが差別発言を公然と流すようになった影響で、差別が「普通の意見」になってしまったことです。

 かつては差別的な人でも公衆の面前でそれを口にすることはありませんでした。今は、言いたいことを言ってもいいと開き直るようになりました。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 日本でも安倍晋三という右翼が首相になることによって、歴史修正主義が市民権を得て、街角でもネット上はさらにいっそう、差別とヘイトが横行するようになってしまいました。メディアの権力追随も顕著です。こうして日仏ともに、それぞれの歴史的文化的背景の違いがありながらも、新自由主義と保守反動右翼との野合が進んでいることは共通しています。新自由主義のもたらす厳しい生存競争と生活困難が、従来から存在し生活に深く浸透している遅れた社会意識への逃避(それが安寧だと感じる)を促迫しているという状況でしょうか。そこからどう抜け出すか。パロンバリニ氏はこう言います。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 どうすれば左翼に引きつけられるのか。最低賃金引き上げや税制改革をよしとするには、不平等をなくしてより公平な社会を目指すという世界観を持っていなければいけません。

…中略…

 左翼がお祭りや集会、デモなどの活動をしている地域では得票できることが分かっています。そうでないと人々が政治に触れるのはネオリベラル思想を流布するテレビぐらいしかなくなるので、引きつけるのがとても難しい。

 かつて工業地帯にフランス共産党の党員がたくさんいましたが、彼らはそこで暮らす人々に活発に働きかけていました。地域全体に根を張って活動することが大切です。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 拙文では、差別を生み出す社会構造、特に経済的土台の変革を重視していきましたが、ここでは「不平等をなくしてより公平な社会を目指すという世界観」の必要性が強調されています。フランス革命以来のシヴィック・ステイト、理念の共和国の伝統、それを体現する草の根の活動が社会変革の核心だということでしょう。この世界観を実現する具体的な政策的展望の重要性を付け加えておきたいと思います。

 

◎リベラルと左翼

 

 差別に立ち向かうドラマ「虎に翼」を振り出しに、議論が拡散してしまいました。言いたいことの中心は、現代で言えば、差別の土台には資本主義という搾取制度があるのではないか、その前提下でも差別をなくす努力は必要だし意味もあるが、本格的になくそうとすれば資本主義そのものを止揚するのが必要条件ではないか(十分条件とまでは言えないが)、だから憲法の保障する「法の下の平等」はきわめて重要だし、それが実現されていない現状ではその実現のための努力は不可欠だが、それでもまだ差別の克服には足りないのではないか、資本主義そのものを止揚する必要があるのではないか、ということです。

 したがってさらには、資本主義社会での人権や民主主義の啓蒙は大切だが、その上さらに、経済的土台を含めた社会構造そのものの社会主義的変革が必要ではないか、ということが付け加わります。単純化して言えば、前者がリベラルの立場であり、後者が左翼の立場と言うことになります。もちろんリベラル派も多くは資本主義社会を批判的に考察していますが、それ以上に社会主義的変革への懐疑を持っています。そこには20世紀社会主義体制の失敗という現実的根拠があります。左翼はそれに答える義務があり、未だに残るスターリン主義的偏向を克服する必要があり、その点でリベラルの懐疑的視点に学ぶべきことがあるでしょう。たとえば、1970年代の話になりますが、日本共産党がソヴィエト型の立法と執行の合体という、ロシア革命以来の社会主義国家像を放棄して、ブルジョア民主主義の三権分立の継承へ転換したことは、政治権力論でのリベラル化とも言えます。ところが世界を見渡せば、未だにソ連崇拝のシーラカンスのような共産党が多くあるし、日本でも20世紀のマルクス・レーニン主義の見地から今日の共産党を批判するような立場もあります。

 政治経済権力とイデオロギーにおける新自由主義による覇権下で、世界的に強大な保守支配が君臨する中で、対抗勢力が「リベラル・左派」と一括して呼ばれます。それは「多勢に無勢」的状況の表出であり、共闘の必要性も示しています。しかしリベラルと左翼は別物であって、共闘し学び合いつつも左翼が自己刷新しつつアイデンティティーを確立することが求められます。

 

 蛇足ながら、「虎に翼」について最後に。様々な差別を取り上げる中で、朝鮮人差別も登場しています。私たちにとっては当たり前の民主的常識に基づく扱いになっていますが、歴史修正主義者が支配する政府・自民党や右翼勢力、その影響下にある多くの人々にとって我慢ならない内容となっているでしょう。この優れたドラマに対する妨害が予想されます。NHKは多くの優れた番組を制作していますが、残念ながら毎日のニュースは公共放送から逸脱した政府広報と化しています。その体質からは、制作番組の自主性を守れるかが大いに憂慮されます。

幸いにして「虎に翼」はエンターテインメントとして非常に成功し、視聴者の支持も大きいと思われます。不当な妨害を跳ね返す力がここにあるでしょう。民主主義の底力が実現しています。作者・出演者そして朝ドラ制作スタッフに敬意を込めてエールを送ります。すべて杞憂に終われば幸いです。

                                 2024年7月30日




2024年9月号

          アベノミクスのコーポレート・ガバナンス改革

 

 アベノミクスと言えば、異次元金融緩和が中心政策ですが、「日本を世界一企業が活躍できる国にする」というスローガンを掲げていたことも見逃せません。そのため規制緩和などによって労働市場・資本市場をより流動化する成長戦略を採るとともに、企業経営については、アメリカ型の「株主主権コーポレート・ガバナンス改革」を推進しました(20136月、「日本再興戦略」…1212月に発足した第二次安倍政権が示したアベノミクスの全体像…より)。つまり悪名高い株主資本主義の道を強力に広げたのです。この点を重点的に分析したのが、國島弘行氏の「株価高騰と株主(投資ファンド)主権型のコーポレート・ガバナンス 企業評価基準を考えるです。

 202110月に誕生した岸田政権は、世論における新自由主義批判の高まりを受けて、「新しい資本主義」を唱え、株主資本主義を批判しましたが、「国内外投資ファンドの反撃による株価続落・『岸田ショック』で迎えられ」(108ページ)、株主資本主義の規制から強化へと変質しました。財界等支配層から新自由主義批判がしばしばアドバルーンのように打ち上げられますが、見せかけに過ぎず、新自由主義政策は貫徹されてきました。岸田流「新しい資本主義」の顛末もその一環です。そこには、新自由主義の核心にある株主資本主義の動かしがたい重みがあります。

 したがって、國島論文はアベノミクスのコーポレート・ガバナンス改革そのものの分析に先立って、株式市場における所有権力構造の変容――投資ファンドの台頭=ファンド資本主義への移行、「持ち合い株」解体――とそれを推進する米国政府の要求(199596年の「対日年次改革要望書」等)に従った日本政府の諸施策を列記しています。「不動産と雇用の流動化」要求に合わせて、日経連「新時代の『日本的経営』」(1995年)の発表、労働者派遣法の改悪(19992004年)、「金融ビッグバン」(19962001年)、「純粋持株会社」解禁(1997年)、M&Aを急拡大させる「会計ビッグバン」(1990年代から2000年代)等々の「改革」が矢継ぎ早に強行されました(110112ページ)。

 以上に続いて、アベノミクスのコーポレート・ガバナンス改革が「成長戦略の最重要課題」として断行されます。それは「狭義では株主、とくに投資ファンドの立場から企業経営者への監督を強めようとするもの」(112ページ)です。広義ではインベストメント・チェーン(投資連鎖)改革であり、その内容としていくつか挙げられています。

第一に「年金基金・投資信託・保険・大学・独立行政法人・日銀等の国民資金を、国内外の投資顧問会社が運用する投資ファンドへ委託し、グローバルなリスクマネーへ投機的に運用すべき」(113ページ)とされます。第二に「投資ファンドが株価上昇のための短期的な『攻め』の経営を企業経営者に強制すべき」(114ページ)とされます。第三に、「株主主権」絶対化が強調され、自由な敵対的買収を可能にすることが求められ、短期的利益追求を経営者に行なわせるため「株価連動型経営者報酬、とりわけ自社株報酬の拡大」などが求められました(同前)。これらのコーポレート・ガバナンス改革は、「解雇を自由にし、労働条件を引き下げるための『雇用システムの雇用維持型から労働移動型への大転換』」とセットになっており(同前)、残業代ゼロの高度プロフェッショナル制度、偽装正社員である多様な正社員の普及、不当解雇の金銭解決制度などの搾取強化策と一体となっています。

 論文はさらに、投資ファンドが注目し、「本来経営指標で使われるべきものでない」(115ページ)ROE(自己資本利益率)や、東京証券取引所が企業の評価基準として強調し、黒字リストラを推進するPBR(株価純資産倍率)などの指標が重視されることによる効果を詳しく考察した後に、以下のようにまとめています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 投資ファンドのための企業の「稼ぐ力」を強くする「攻め」のコーポレート・ガバナンスは、ROEPBR上昇政策によって、労働者や下請け企業から搾り取った内部留保を取り崩させ、配当や自社株買いによる株主還元を強化させ、さらなる事業整理と人員整理・実質賃金引下げによる人件費削減、下請・取引先・子会社の整理・単価引下げを強め、短期的利益追求と株価上昇をもたらしている。その結果、長期的な視野での日本企業と経済の発展を阻害し、実質賃金の長期低下、日本企業の品質不正・不良・隠蔽、製品・市場・事業等の開発能力の極端な低下、企業不祥事の続発を生み出している。 

            122ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 企業の「稼ぐ力」という言葉は支配層の好む「啓蒙的」用語で、賃上げ議論に際しても、その前提として強調されます。それ自身、トリクルダウン論的な転倒した(そして破綻した)発想なのですが、ここではそれは措きます。賃上げ議論では、当然のことながらこの「稼ぐ力」は付加価値(価値生産物、V+M:賃金と剰余価値の合計)を増大させる力を指すはずです。ところが上記引用では、企業の「稼ぐ力」はVを犠牲にしてMを増大させる力を意味しています。

何かにつけ多用される「稼ぐ力」という用語はこのダブルミーニングを利用して、実は後者の意味であるにもかかわらず、前者の意味であるかのような錯覚を演出するマジックワードとして利用されています。だから賃上げ議論でも、「V+Mの増大によってVを増やす」はずが、いつの間にか「Mの増大が第一に必要だ」とミスリードされ、実のところ「Vを削ってMを増やす」という実態を隠す方便にされます。雇用や設備投資を拡大するのでなく、コストカットで短期的利益追求に走る姿を粉飾する用語が<企業の「稼ぐ力」>です。それが一国資本主義(国民経済)的には縮小再生産を意味する、つまり長期不況、「失われた30年」に帰結することは自明です。

 労働価値論的には、労働者の生み出した価値(V+M)を資本と労働とでいかに分配するか(階級闘争を通して)という問題が、ブルジョア的意識上では、資本主義企業の所有する価値(V+M)の幾分かを労働者に分け与える問題として現れます。前者ではVの確保が第一であり、後者ではMの確保が第一であり先決されます。したがって、ブルジョア的所有関係における<企業の「稼ぐ力」>論では、(V+M)増大をあくまでM増大に従属させることが自然な意識とされます。

 もっとも、(V+M)増大によってM増大を主としつつもV増大も図る(拡大路線)か、(V+M)増大は事実上諦めて、VMの相反関係により、V削減とM増大を図る(縮小路線)かは、資本蓄積のあり方によります。それは一国資本主義と世界資本主義の歴史性に関わる大問題であり、ごく単純化すれば、初期には拡大路線が優位で、成熟期(あるいは危機期)には縮小路線が優位になる、ということになりますが、それ以上はここでは措きます。現代日本資本主義は縮小路線のコストカット型経済による「失われた30年」に陥っていますが、そこでの経済政策の意義、是正の可能性を資本主義の歴史性との関係でどう捉えるかも重要な問題です。

 閑話休題。上記引用の最後に「日本企業の品質不正・不良・隠蔽、製品・市場・事業等の開発能力の極端な低下、企業不祥事の続発」に言及されています。深刻な問題です。731日、日本を代表するメーカー・トヨタ自動車は新車の型式認証の不正で国土交通省から是正命令を受けました。ところが豊田章男会長はまともに反省せず、「赤旗」827日付はこう厳しく批判しています。「一連の不正と経営陣の発言から見えてくるものは、豊田氏をはじめとする経営陣の順法意識の欠如、認証制度に対する無理解と軽視、法律よりも自らの判断を上位に置くおごり、現場に任せきりの無責任体制、上に物が言えない企業体質などです。経営陣は、これら根深い問題にどう向き合うのかが厳しく問われます」。

資本主義市場経済の原理として、剰余価値の追求を目的とするにしても、本来の関係としては、(手段として)優れた使用価値を生産することで、価値・剰余価値を実現する、ということがあります。ところが剰余価値追求の自己目的化だけが暴走すると使用価値生産を棄損することになります。アベノミクスのコーポレート・ガバナンス改革はこの暴走のテコとなっています。実体経済から遊離した剰余価値追求としての金融化が進行する中で、その影響下でものづくりそのものの劣化さえ生じているということです。商品の二面性としての使用価値と価値を見ると、使用価値生産と価値生産は一体ですが、両者が質的・量的に相乗関係にあるか相反関係にあるかもまた資本主義生産の歴史性に関わることを指摘だけしておきます。たとえば、トヨタ自動車の今回の不正は、相反関係の局面が少なくとも今ここに実在することを示しています。

 以上、國島論文からアベノミクスのコーポレート・ガバナンス改革の問題点を学びました。以下ではアベノミクスの看板政策である異次元金融緩和との関連を考えてみます。その政策による好循環(物価上昇→賃金上昇)なるものの虚妄性はもはや明らかです。日銀による国債の大量買い入れなどによっても、マネタリーベースが増えるだけでマネーストック(旧マネーサプライ)は増えませんでした(外生的貨幣供給論の誤りの実証)。物価は下落ないし停滞し、実質賃金は下がり続けました。

2022年からは物価上昇に転じましたが、それは異次元金融緩和政策のおかげではなく、ロシアのウクライナ侵略戦争による供給網の攪乱と円安による輸入物価上昇が原因でした(円安は低金利政策の効果とも言えるが、日本経済そのものの実力沈下の意味が大きい)。日銀の市場への資金供給による需要喚起で物価上昇し、生産が刺激され、雇用拡大し、賃金上昇した、というふうにはなっていません。官製春闘でそれなりの賃上げを実現しても物価上昇に追いついていません。しかも23年の物価上昇は、できるはずの賃上げ幅を抑制した上での企業利益の上乗せの結果であり、俗に「強欲インフレ」と言われています。

 ここにアベノミクスのコーポレート・ガバナンス改革を重ね合わせると、株主資本主義の短期的利益追求のため、コストカットの主要部分としての人件費削減(雇用の劣化と賃下げ)を推進しつつ、異次元金融緩和政策による名目賃金上昇で賃下げを相殺しようとした、ということになります。ところがそもそも異次元金融緩和は機能せず、コーポレート・ガバナンス改革による賃下げだけが実現したのです。

 したがって、アベノミクスは賃上げを中心とする実体経済の問題を回避して、異次元金融緩和による好循環(物価上昇→賃金上昇)を実現するという幻想を信じたから間違っていた、というだけでなく、そもそも実体経済に対する成長戦略においてもコーポレート・ガバナンス改革による賃下げを進める、という根本的間違いを犯していたということになります。これは、新自由主義が実体経済における搾取強化と金融化との合体という性格を持つことに照応しています。

 國島論文は企業経営のあり方を中心に論じていますが、公的資金を含む国民資金が投資ファンドに委託されて、グローバルなリスクマネーへ投機的に運用されることも問題にしています(113ページ)。この点では、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が株価高騰で2023年度に45兆円の運用益を上げたことが話題です。しかし、その後の株価乱高下の問題を措いても、ばく大な運用益をもって朗報とは言い難いのです。佐々木憲昭氏はこう論じています(「年金運用益45兆円のワナ GPIF、株主至上主義を加速、「赤旗」717日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ---- 

源泉は労働者からの搾取 

 GPIFは大企業との対話を通じて、配当金などで株主に利益を還元するよう求めてきました。巨額の運用益の源泉は、企業が労働者から搾取した剰余価値だということが最大の問題です。

 株主還元に拍車をかけたのは第2次安倍晋三政権です。機関投資家と企業との対話や、株主を意識した企業統治を強調し、GPIFの資産のうち株式で運用する割合を20%から50%に高めました。

 GPIFは運用を委託しているファンドや資産管理会社に3年間で1079億円も手数料を支払っています。しかも、支払い先の55%、597億円は外資です。国民の共有財産である年金積立金を市場運用し、外資が巨額の利益を手にしているのです。

 日経平均株価が過去最高を更新するなど株価上昇が話題になる一方で、実質賃金も年金支給水準も下がり続けています。富裕層はますます豊かに、国民の多くはますます貧しくなっています。

 GPIFの運用は株主至上主義、利益至上主義の方向へ大企業の経営を駆り立てる役割を果たしています。

 今こそ、この仕組みを抜本的に見直すことが必要です。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここにも搾取強化と金融化、その要としての株主資本主義が現れています。私たちの生活と労働を破壊する新自由主義への批判における重要論点としての株主資本主義に注目することが必要です。

 

 

          中小企業と地域経済の復権

 

 山本篤民氏の「『ゾンビ企業』論と中小企業支援批判を考える」は「ゾンビ企業」の定義から始まって、「ゾンビ企業」論の変遷をたどり、今日では主に中小企業支援批判として展開していることを見ています。そして反論を提起しています。「中小企業を生産性といった観点からのみ評価するのではなく、地域で雇用の場を提供したり、地域の経済や文化の担い手となっていたりすることなどを多角的に捉えて評価すべきである」(130ページ)。

 中小企業の低生産性を問題にする際に、その一つの原因として大企業による収奪を考慮すべきと思いますが、ここでいう地域経済における多面的価値も非常に重要な視点です。以下ではかなり横道にも寄りながら、地域経済について考えてみます。

 日本近代文学を彩る大河ロマンとして、たとえば幕末維新期を描いた島崎藤村『夜明け前』があります。193544年(昭和10年代)の戦時期を描いた野上弥生子(18851985)『迷路』(岩波文庫)も傑作です。社会派エンターテインメントの巨匠・山本薩夫監督(19101983)が晩年にその映画化を企図しましたが亡くなり実現しませんでした。『戦争と人間』三部作に続く名作になっていただろうに、と悔やまれます。

 『迷路』は左翼運動に身を投じて挫折した青年を主人公に、上流社会の虚妄をも描写し、時代と社会を重層的に構成しています。教養深い野上弥生子の批判的リアリズムを体現した大作と言えるでしょう。彼女は宮本百合子と深い交友関係を持っていたことからすれば、左翼への理解があったことは確かです。『真知子』(1928 - 1930年)→『若い息子』(1932年)→『迷路』(1948年)という作品系列をたどると、若者の運動に対する懐疑から理解へと進んでいったことが見て取れます。もっとも、『迷路』の文庫版「あとがき」(1958年)によれば、作品に特定のモデルはないが、「左翼的思想のシュトルム・ウント・ドラングにまきこまれた若い世代の一群が、ことごとくそれだといってよい」とした後に、「当時の学生運動は唯物史観にもとづきながら、本質的には一種精神主義的なものだとする考え方を私はいまも変えていない」と、自己の立場を規定しています。『迷路』にはエンゲルスの『エルフルト綱領批判』をめぐって主人公と友人が議論するシーンがあり、筆者の並々ならぬ知識に驚かされますが、それをも踏まえて「同伴者」作家と言われる位置を確認したいと思います。

野上弥生子は夫も息子たちも大学教授であり、上流社会の一員として保守的人士との交流もあったでしょう。晩年には京都学派の哲学者・田邊元と恋愛関係にあったとも言われます。私が学生時代に聴いた一般教養の国文学の人気講義で、漱石研究者のある助教授がこう語っていました。――野上弥生子に会いに行ったら、「あなた、右なの左なの」と聞かれて、「左」と答えたら、「そうなの。でもね、佐藤さん(佐藤栄作首相)も大変なのよ」と言われた。要するにあの人は何でも知ってるんだね。――最後のひと言は融通無碍の立場への皮肉なんだろうな、と聴講していた私は思いました。

 失敬。余談が過ぎました。以下では、「朝日」デジタル・アナザーノート811日付の「町はかくして守られた、大分・臼杵にみる『待ち残し』の妙」の中身を紹介して、地域経済について若干書きます。『迷路』の舞台の一つに大分県臼杵(うすき)市(作品上は「由木」)があり、弥生子はそこのフンドーキン醤油の創業家に生まれています。彼女が地方ブルジョア出身者として、深く広い教養を身につけていたことが以下の「物語」、その登場人物たちと共鳴しているように思えてなりません。

同記事によれば、臼杵市で50年余り前、セメント工場建設を阻止する激しい反公害闘争があり、漁民たちに当時の革新勢力と地元企業が「保革共闘」を組んで勝利します。埋め立てられようとしていた海は守られました。

 闘争のリーダーの一人がフンドーキン醤油の当時の副社長(後に社長)です。地場産業の老舗企業を背負いながらも進歩的で、防腐剤無添加の「純生」という味噌を発売し大ヒットさせています。反公害のセンスでしょうか。その息子の現社長は、東京・成城にあった野上弥生子の洋館を臼杵に移し、そこで暮らしています。妻がブーム以前から古民家再

生に取り組んでいた影響です。

 城下町だった臼杵は、門構えの立派な武家屋敷や整然と軒を連ねる町屋が残り、レトロな風情があります。反公害闘争の別のリーダーは後に市長を務め、「町づくりは待ち残し」と語っています。「目先の開発や短期的な収益を追い求めず、先人たちが守ってきた魅力を次世代の人たちに残してゆく」。市長として、一方で民間企業並みのバランスシート(貸借対照表)を作り、財政再建に取り組みつつ、他方では、様々な利害を調整する行政の長としての困難を乗り越えて、その思想を施策に反映させました。大企業の誘致に頼るのではなく、「やせ我慢をして町を守ってきたんです」と苦笑していました。

この元市長、今は林業家として森を守っています。スギやヒノキを密集して植えて皆伐するというやり方でなく、少しずつ間伐し空間を残すと、草木や広葉樹が生え、結果的に森の多様性が維持できます。収穫を焦らず、ここでも「待って残す」。こうして山と森を守っています。当記事を読むと、地方都市の成熟した魅力と地に足の付いた生業(なりわい)が実感され、それらを守る努力の尊さに打たれます。

 「朝日」813日 付の「(多事奏論)小豆不作・くず掘る人手… 和菓子支える世界、守るには」は、和菓子の文化的価値とそれを守り続ける難しさを書いています。「生菓子は、あんを使う生地で四季の風物を造形し、名前をつける。その多様な表現に、歴史的、芸術的価値を認めた」ということで、国の登録無形文化財となっています。文化庁・食文化部門の文化財調査官は「おいしさや技術だけではない。古典文学や地域の名勝もお菓子で味わえる。他の文化財にひけをとりません」と評しています。そうした中で、原料の小豆から製品を詰める箱まで、「和菓子の繊細さが、さまざまな仕事と人のつながりで、成り立ってきた」からこそ、逆に自然環境悪化や後継者難など問題が連なっています。記事は「お菓子を支える世界を、丸ごと守る手だてはないだろうか」と問います。先の文化財調査官は、その大切さを知らせることだとして、「農家さん、地域の方々、若い世代や子どもたち、それぞれに和菓子との接点を見つけていただくことでしょうか」と答えています。

 両記事からは、各地の自然と人々のつながる生活文化に根ざした地域経済の重要性が浮かび上がってきます。ここに日本の国民経済再生のキーポイントがあるように思います。このところの急速な円安は、経済のみならず日本そのものの凋落を象徴しています。「失われた30年」。反転・復活は、デジタル化やましてや金融化ではなく、諸個人の生活と労働をまともなものにすることから出発すべきではないでしょうか。

 その条件の一つは、まともな社会保障の確立です。井上英夫・金沢大学名誉教授は「人権としての社会保障」を唱え、次のように説明しています(2024焦点・論点 やまゆり園事件8年が問うもの 金沢大学名誉教授 井上英夫さん」、「赤旗」725日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 労働現場では「おまえのかわりはいくらでもいるぞ」と言われることがありますが、憲法では「個人の尊厳」が保障されています。それは、一人ひとりが価値において平等であり、誰も取って代われない、かけがえのない存在だということです。

 日本では国連の条約等に出てくるindependenceを「自立」と訳して、自助努力や家族で助け合うことを根強く教育されてきました。independenceは、そのまま読めば「独立」です。この意味は、自分で頑張るだけではなく全ての法的なサービスや支援を受けながら自己決定に基づく生活を送るということです。  

 そして、ケアを日本では「介護」と訳していますが、本来の意味はもっとずっと広い。尊厳や独立の保持に必要な医療、長期ケア、所得、文化、学習などが十分保障される、これらをひっくるめてケアです。

 「人権としての社会保障」とは、人間の尊厳の理念、自己決定、平等の原理を貫徹する制度でなければならないということです。

 障害福祉制度については、身体、知的、精神など障害種別ごとに等級を定めることをやめるべきです。障害のある人一人ひとりの固有のニーズに合った形で、そのニーズを満たす支援を提供すればいいのです。「障害者」とまとめて見るのではなく、一人の人間として見て、自己決定を保障していけば差別はなくなる。これが人権としての社会保障の基本になります。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 社会保障というものを単に制度的・経済的保障という見やすい次元だけで捉えるのでなく、「個人の尊厳」に基づく人権保障という次元で深く捉えることで、内容的にも、一人ひとりの固有のニーズに合った形での支援提供にまで視野を広げることが求められます。したがって、井上氏は、「人権としての社会保障」を実現する社会をつくるために、私たち一人ひとりに求められる取り組みとして、人権の歴史を学び周りの人に伝えてほしい、と要望しています。

 確かにそのような理念を立て、「人権としての社会保障」にふさわしい社会像を追求することは必要不可欠です。ただしそこでも依然として、それを実現し支える経済的土台は何かという問題はついて回ります。経済成長のおこぼれを「人権を軽視した社会保障」にあてがう、という貧相な関係ではないにしても、というか、ないのならばいっそう、「人権としての社会保障」を支えるにふさわしい人間的な経済像を追求する必要があります。

社会保障充実を求める人々の要求を、自民党政権が「却下」する根拠は――グローバル競争に負ければ元も子もない。低賃金・低福祉に耐えて勝ち抜け。企業に負担をかけるな――ということです。もちろんそんなホンネは言いませんよ。しかしやっていることを見れば明らかです。石原慎太郎や橋下徹は、日本の福祉は贅沢だと言い、財政緊縮派の経済学者・ジャーナリストも同様の認識です。戦時スローガン、「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」を現代のグローバル競争でも相変わらず叫んでいる人たちがいる、ということです。これは。

 小泉構造改革は「痛みに耐えよ」と露骨だったけれども、アベノミクスはオブラートに包んでいました。しかしやったのは消費税引き上げ・社会保障抑制と公的資金を投入した株価引き上げであり、格差と貧困を拡大しました。自民党政権では、社会保障はあくまで、グローバル競争に勝って、企業利潤を大いに上げ、めざましい経済成長を実現したおこぼれに過ぎません。したがって、企業利潤を上げたけれど、「失われた30年」で経済成長に失敗した小泉構造改革やアベノミクスでは社会保障削減は当然なのです。

 しかし日本国憲法の原理は違います。人間裁判と呼ばれた朝日訴訟で東京地裁判決(1960年)は、憲法25条の「健康で文化的な生活」は、国民の権利であり、国は国民に具体的に保障する義務があり、それは予算の有無によって決められるのではなく、むしろこれを指導支配しなければならない、としました。例によって最高裁の認識は違いますが…。

 はっきり言うと、資本主義企業が経済的価値の処分権を握り、政府の経済政策も支配している下では、憲法25条は実現できない、と私は思います(社会主義的変革が前提となる)。しかしそれでは身も蓋もなく、近い将来を見通せないので、現状からいくらかでも理想に近づける目を持って、「人権としての社会保障」実現にふさわしい経済像を考えてみましょう。

 現状でグローバル競争をなくすことはできません。しかし今のようにグローバル競争にどっぷりつかって、国内経済が振り回され貧弱化している状況は是正できます。エネルギーと食料の自給率が極端に低く、その輸入のために自動車産業などに頼って外貨を稼ぐことが至上命題となっています。またAIとか先端技術での遅れも指摘されています。確かにグローバル競争に耐えうる産業育成の必要性は否定しませんが、それしか目に入らないのは間違いです。

 グローバル競争に振り回されず、内需に支えられる豊かな国民経済の形成が一番の課題です。農林水産業を振興し、再生可能エネルギー普及に本腰を入れることで、食料とエネルギーの自給率を上げ、それに合わせた形で地域経済を復活させることが必要です。地域の農林水産業や中小企業・自営業者の生み出したお金が(飼料・石油代金などで)海外に流出したり、大企業やチェーン店の進出によりお金が地域内で循環せず、本部のある東京に一極集中する現状があります。そうではなく、臼杵市や和菓子の記事にあるように、地域それぞれの伝統・文化・生活の実情にふさわしい産業を復活させ、地域内でお金を回すことにより、そうした地域経済の連合としての豊かな内需に支えられた国民経済が建設されます。

 したがって、グローバル競争偏重の視点(1を克服して、生活と労働のまともなあり方から出発する視点(2に移行する必要があります。

 

視点(1世界経済→国民経済→地域経済→職場・企業→諸個人の生活と労働

※グローバル資本が支配する世界経済のあり方が国民経済以下を支配し、諸個人の生活と労働がグローバル資本の論理に規定されてしまう。

 

視点(2諸個人の生活と労働→職場・企業→地域経済→国民経済→世界経済

※諸個人の生活と労働のまともなあり方を基に、職場・企業から上を改善する。世界平和の基礎ともなる。

 

 グローバル資本に偏重した経済政策から、バランスある国民経済を推進する政策に変革するのは政府の役割ですが、地域経済の復活では、自治体とともに地域の農林漁業者や中小企業の働きがキーとなります。その際に中小企業研究者の吉田敬一氏は、文化型産業(衣食住などの生活必需品産業)と文明型産業(自動車・家電などの近代的機械工業)とを区別し、地域経済では前者が中心となるべきと指摘しています。吉田氏は文化型産業の特長と意義を以下のように示しています。

・地域特性に基礎をおいて地域コミュニティとともに発展する

・人間や地域社会の個性的な文化度を表現する

・地域内の経済連関性が高まり、雇用と所得が安定する

・グローバリゼーション下、先進国で育成すべき個性的な生活文化を継承・発展させる地域経済集積  持続可能な形で存在意義を持つ地域の形成

 

 実はこれらは空想ではなく、今日でもドイツ・フランス・イタリアなどではグローバリゼーションから相対的に自立した地域経済があり、そこから世界的ブランドも生まれています。適正な経済政策の下で、日本文化が独自の地域経済を発展させることは夢ではありません。

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』は、いわば19世紀のグローバリゼーションを背景に、資本主義の文明化作用を社会進歩の推進力として描きました。もちろんそれが伝統文化のみならず、労働者・人民の生活をも無慈悲に破壊することを通じて、彼らが資本主義の墓掘り人として登場することも描いています。現代資本主義の生産力発展のあり方もまた労働者・人民の生活と労働を豊かにしつつ破壊もしています。そうした中で、資本の暴走を民主的に規制し、文明型産業と文化型産業、あるいは伝統産業と先端産業、グローバル・ナショナル・ローカルといった様々な構成のバランスをとる経済政策が求められます。支配層やメディアでは、AIなどの先端技術ばかりが注目され、利潤第一主義の下で自然と人間生活の破壊も構わず暴走を許すことになります。それに対して、地域経済と文化型産業を強調することは国民経済形成のバランサーとしての意義があります。生活の質的豊かさの視点から出発すれば間違いないと言えるでしょう。

参考論文:吉田敬一「亡国の日本型グローバリゼーションと地域経済・中小企業危機打開の基本的観点」(『前衛』20195月号所収)

私製要約ノート(刑部): http://bunkashobou.sakura.ne.jp/yoshidakeiichi1.html

 

 

          戦争の論理の克服

 

 朝ドラ「虎に翼」で、主題歌の流れるバックに、番組の出演者に続いて、制作スタッフ名などが紹介されていました。確かその中に、資料提供者として大久保賢一氏の名を見かけたように思います。おそらくドラマが取り上げている原爆裁判に関連しているのだろうと推測しています。 

 「日本反核法律家協会会長」という肩書きで大久保賢一氏が登場して、森原公敏氏の『ガザ、ウクライナ… 戦争の論理と平和の条件』(新日本出版社、2024年)の書評を書いています。「本書にみる著者の問題関心は、戦争当事者はどのような論理で武力行使をするのかという解明と、戦争を抑止するための軍事力強化という議論(抑止論)に対する批判と、『対立を戦争にしない』という軍事力によらない戦争の抑止である。私はこの問題関心に共感している」(99ページ)。評者のこの簡潔で適切な問題整理は、本書を読み進めるだけでなく、およそ戦争と平和について考える枠組みを押さえています。

本書ではアメリカ帝国主義(という表現は使ってないかもしれないが)の実態がよく分かります。評者も「米国の安全保障戦略―関与と介入の論理の変遷が分かりやすく紹介されている。現在も、米国は世界をリードする大国であり、国力は比類がないし、国益のためならば武力の行使をためらわないとしていることが論証されている。米国の軍事力依存と覇権主義の体質は変わっていないことがよくわかる」(98ページ)としています。本書の第2章「ロシアのウクライナ侵略と欧州安全保障体制」を読むと、ヨーロッパにおいて様々な安全保障の可能性が追求されてきたことが分かります。ただし結果的にそれらは実らず、今日、ロシアのウクライナ侵略戦争に至っているわけですが…。意外だったのは、冷戦期から存在する欧州安全保障協力会議(CSCE)、ならびにそれが1994年に発展してできた欧州安全保障協力機構(OSCE)を舞台としてずっと外交交渉が続いてきたことです。CSCEとかOSCEは形骸化した存在だったろうと思い込んでいたので、想像以上に実質的な役割を担っていたことを知り、なおいっそう今日の事態の残念さが増します。そうなったのには、ロシアの覇権主義とともに、軍事的抑止力信仰でNATOという軍事同盟に固執したアメリカの帝国主義的本質がわざわいとなったのだろうと思います。複雑な外交に取り組んだとしても、軍事の論理が優越していた…。

 本書は少し前に読み、忘れてしまったところも多いのですが、今後、戦争と平和を考える際には繰り返し読み直していきたいと思います。ここでは、最後にあるチャールズ・カプチャン『敵はいかにして友人となるか 安定的平和の基礎』2010年)という研究への言及が興味深いので若干触れます。

 同研究では、<*1815年から1848年までの「ヨーロッパ協調」、*1949年の発足から1963年までの欧州共同体、*1967年の創設から現在までのASEAN>という「三つの安全保障共同体の成功例」を検証し次のように総括しています。「安全保障共同体は、安定した平和のより進化した形であり、当事国は平和的関係に対する相互の期待を超えて、相互作用の指針となる一連のルールと規範に合意する。 …中略… 加盟国は、相容れない個別アイデンティティを持つのではなく、共有されたアイデンティティを抱くようになる。このような理由から、安全保障共同体は、和解よりも進んだ、あるいは『厚みのある』国際社会の形態なのである」(234ページ)。

 さらに「実用的」には、13世紀以来の歴史的事例に示される「敵が友人となる」最初の段階を次のように総括しています(同前)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 和解は一方からの調整で始まる。すなわち、複数の脅威に直面する国家は、戦略的自制を働かせ、敵対国に譲歩して、自国の不安要因の一つを取り除こうとする。このような譲歩は和平の申し出であり、敵対とは対照的な無害の意思を示そうとする先制行動である。

敵対国と関係を持つことは、宥和(appeasement)ではない。外交である。長年の対立関係は、孤立や封じ込めではなく、交渉と相互調整によって終結する。適切な状況と巧みな外交の下で、敵は友人になることができる。

 ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 今まさに、対米従属下の日本で、「反撃能力」の名の下に敵国攻撃能力という先制攻撃準備が粛々と行なわれているとき、それがもたらす安全保障のディレンマとは真逆を行く提起がここにはあります。「敵対とは対照的な無害の意思を示そうとする先制行動」。「先制攻撃」ではありません。安全保障の(ディレンマではなく)相互促進をもたらす先制行動としての「一方からの調整」。軍事同盟からは出てこない発想に基づき、平和憲法にふさわしい先制行動のできる日本でありたいものです。

 カプチャンの研究ではこの行動提起に先立って、平和構築の考え方を示しています。まずASEANの実績を踏まえて、民主主義国家同士でなければ平和構築はできない、という主張を否定し、「非民主主義国家が国際的安定のための信頼できる貢献者になりうる」(233ページ)としています。その他に、「商業的相互依存が平和を促進する上で補助的な役割しか果たさない」とか、「貿易や投資ではなく、巧みな外交こそが、敵を平和への道へと導くために必要な重要な要素なのである」(同前)と主張しています。

 確かに平和構築にとって、外交が決定的であり、政治学的研究がそれを押し出すのは当然です。先入観を排して、外交交渉を微細に追究することがその研究の必要条件でしょう。しかし経済交流や文化交流など、物質的あるいは生活感情的な要素が平和構築には必要であり、それらが隠れた地道な土台として支えた上で、頂点にある外交力が目に見えた決定打となる、という関係にあるように思います。土台がしっかりしていれば外交交渉にかかる負荷が下がり、土台がぐらついていれば外交交渉にアクロバティックな期待さえ抱かざるを得なくなります。そんな局面ではもう「終わっている」かもしれない。今日本政府がやっている、内外にむけての「仮想敵顕在化政策」みたいなものと軍拡は自らをそこに追い込む方策です。経済の密接な関係と多角的な文化交流が客観的に存在する中で、それをどう活かすかが発想の第一であるべきで、それに逆行する政治的・イデオロギー的な敵対姿勢をあえて煽動することは亡国の行為に他なりません。そういう意味でも、平和構築の全体構造を見据えた大きな視点で考えていくことが求められます。

 蛇足ながら、軍事的抑止力信仰はどこから来るのか、その源流の一つを考えてみます。日本国内で戦争準備にいそしむ急先鋒は、軍需資本や右派の歪んだナショナリズム勢力でしょうが、支配層主流にもっと影響力を持っているのはアメリカの政府と支配層でしょう。アメリカは銃社会です。それは世界的にも少数派でしょうが、そこに生きる人々の発想が軍事力信仰になるのは自然でしょう。

イスラエルはもっと軍事力信仰が強いのではないでしょうか。在日イスラエル人のダニー・ネフセタイ氏によれば、カフェで隣にライフル銃を持った軍人がいたら日本人は怖がるけれども、イスラエル人は逆に安心するのだそうです。戦争とテロがいつ起こるか、というイスラエル社会では、いざとなればその軍人が私たちの命を救ってくれると思うのです。イスラエルでは死にランク付があり、最下位は自死で、トップランクは戦死です。長年戦争が続くと「国を守るための名誉の戦死」となってしまいます。「これがどう考えても狂った現実だと気づくのは外から母国を見つめるからです」(随想「ライフル銃で安心?」、「全国商工新聞」826日付)。

 イスラエル社会では対外的恐怖が支配しているのですが、アメリカ社会ではそれ自身の病理により、余りに多くの人命が日常的に銃の犠牲になっています。いずれにしても「狂った現実」が所与であり、そこに生きる人々の発想を規定しています。軍事的抑止力信仰そのものは世界的に普通の発想であるとしても、世界最強の軍事国家において、それが社会的日常意識として特に強烈に存在し、その政策を決定的に支配していることが世界平和の重大な障害物になっていることを銘記すべきです。日本が対米従属下にあって唯々諾々とその軍事政策に従っていることも「狂った現実」の一環です。「平和を望むなら戦争の準備をせよ」という「気の利いた」古い格言を持ち出す「狂った現実」を克服して、「平和を望むなら平和の準備をする」ごく当たり前の発想――平和憲法の精神――に立ち戻るべきです。世界中で、人々の命を奪う兵器に使う莫大な費用を福祉の向上に向けるならばどれだけまともな社会づくりに貢献できるか。この余りに当然のことが軍事的抑止力信仰によって阻止されている痛みを改めて感じることが必要です。

 もちろん各国内と国際社会とでは次元が違います。各国内での銃規制の問題がそのまま世界平和に直結するわけではありません。しかし人々とその代表者である為政者とが日常生活上で武器使用に否定的であるか肯定的であるかは、世界的な平和意識と各国の安全保障政策とに重大な影響を与えます。ロシアのウクライナ侵略戦争を奇貨として、岸田政権が戦争の危機を煽動し、それによって世論の一定の支持を得て軍拡が進む日本の現実は平和世論の脆弱性を感じさせます。しかし平和憲法下でつくられてきた非軍事的意識の根強さはアメリカやイスラエルの状況を見れば明らかです。世界に「狂った現実」があること、それに従う形で軍拡が進んでいることを日本人が十分認識するならば、軍事同盟ではない平和のオルタナティヴを選択する下地となるでしょう。

 

 

          断想メモ

 

 松原由美氏の「シリーズ・現代のグローバル企業分析 第12回 ファイザー、ロッシュ、武田薬品」は公共性と市場メカニズムという視点に照らして、一般産業と違った医療と製薬業の特殊性、またその中でのアメリカの特異性を浮き彫りにしています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 米国を除く先進国においては、人の生命に関わる医療に対し、一般財のように市場メカニズムに任せず、強制的に人々から資金を徴収し、ニーズに応じて必要な医療が提供されるよう再分配を行う。          132ページ

 

米国ではマネジドケアという、需要側と供給側双方に働きかけて医療費を抑制する民間保険が主流であるが、民間の保険会社による供給側へのコスト抑制と、国が独占的な力を発揮するコスト抑制では、どちらが強力、効果的かは明白であろう。いいかえると、民間にとっては規制がないほど、市場に重きをおくほど、利益をあげるうえで都合がよい。この意味で、米国では製薬企業も、民間保険会社も、病院協会も、自由市場を重視し、死守することに懸命である。         142143ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 自由市場とはいえ、製薬業は社会性、公益性が高いので、多様な規制がある制度ビジネスということになります(133ページ)。そこで製薬企業は薬価高騰の批判をかわし、自由市場を守り、規制法を阻止するなど政策に影響を与えるロビー活動にばく大な費用を投じています。自由市場と政治とは反対物のように見えながら、ここではこのように一体であり、しかも政治と言っても言論・思想・理屈ではなくカネである、という異様な世界です。そこでの「自由」とは誰のための何なのかが問われます。

 米国の特殊性を理解した上で、武田薬品の地域別売上高を見ると、米国が5割で「日本は1割に過ぎず、自由価格で薬価が高い、世界最大の医薬品市場である米国に依存する経営であることがわか」ります(137ページ)。初めて知る驚愕の事実です。公共性を尻目に資本の論理が国境を越えて強烈に貫徹しています。

 コロナ禍対策で「大きな政府」が復活しました。新自由主義の登場以来、政府の大きさをめぐる議論があったので、その文脈で問題とされましたが、そもそもパンデミックのような非常事態において、資本主義市場は無力であり、国家権力(この場合、財政力と行動規制力)が出てくるしかないという問題です。ただしもちろん国家権力の暴走は阻止しなければなりません。政府の民主的性格が問われます。その上で、平時・非常時を問わず、公共性を守るべく、資本への民主的規制が貫徹されねばなりません。
                                 2024年8月31日






2024年10月号

          人手不足と持続不可能な働き方

 

 人手不足が日本経済の深刻な問題として喧伝されるようになってから久しい。表面的に見ると、少子高齢化などの人口要因にその原因を求めがちになり、労働力市場で売り手である労働者にとって有利に働き、買い手である企業に不利になるように思いがちになりそうです。そうすると、一方で解決策として外国人労働者を拡大し、他方でもっぱら企業の困難性に目を向ける、ということになってしまいそうです。これらは第一に、労働力市場の状況を具体的に見ずに漠然と捉えており、第二に労働力市場ばかり見て労働現場の状況を見ていないという偏向に陥っていると言えます。実際には、人手不足は一定の業種と中小企業に偏っており、それらの現場では低賃金かつ労働条件劣悪です。したがって、当該労働者の苦境を打開し、働くに値するディーセントな労働現場をつくることが出発点となるべきです。そこを改善せず、外国人労働力を導入したり、「稼ぐ力」をつけよと企業の尻をたたいたり「支援」を考えても、労働力の定着には至らず、人手不足の解決にはならないことを見据えるべきでしょう。

 伍賀一道氏の「持続不可能な働き方の拡大と『人手不足社会』日本」は人手不足の原因として少子化・人口減少だけでなく、持続不可能な働き方があることを指摘しています。人口減少が人手不足に直結するわけではなく、有業者比率の上昇によって労働力を補うことが可能です。就業構造基本調査(「就調」)によれば、有業者総数は2012年の6442万人に対して22年には6706万人と264万人増えています(表118ページ)。その内容を見ると、男性有業者が主力の2564歳で大きく減らし、65歳以上である程度補って、男性全体でやや減らしている(有業者数としてはその程度だが、労働力の質の低下による悪影響は大きいだろう)のに対して、女性有業者は全年齢層で増やしています(同前)。若年人口が減る中でも、学生バイトによって有業者が増えています(だが学業がおろそかに……、2021ページ)。もっとも、これらの増加原因としていずれも貧困化の影響によるところが大きいのが問題です。

次に人手不足の職業別の現状を示すため、有効求人倍率が高い職業を見ます(2023年、厚労省「一般職業紹介状況」より)。介護サービス職:3.78倍、飲食物調理:2.90倍、社会福祉の専門職:2.85倍、自動車運転の職業:2.59倍、保健師・助産師・看護師:2.02倍、商品販売の職業:1.96倍(17ページ)。これらの高倍率を見ても(労働力の流動化など)市場で調整するという発想があるとすれば、ほとんどビョーキ(市場崇拝・新自由主義構造改革病)であり、それぞれの職業における労働現場に問題ありと直視すべきです。また2564歳の男性ブルーカラー職の激減も深刻です(19ページ)。

そこで論文は、人手不足の背景として、人口減少に加えて以上の領域における「持続不可能な働き方の広がり」(21ページ)を指摘しています。まずブルーカラー職・サービス職の低賃金が問題とされます。その原因として、非正規雇用に依拠する低賃金産業の存在が挙げられ、その典型が外食チェーン業です。その「罪状」が次のように告発されます。バブル破裂後の30年にわたる長期低迷の中で、「デフレ経済をビジネスチャンスとするかのように低価格の商品やサービスを提供する産業が隆盛した。 …中略… 地域に根づいていた小規模の飲食店を押しのけるように隆盛した外食チェーン産業は、持続不可能な働き方・働かせ方を日本社会に広げ、今日の人手不足社会誕生の背景の一つとなったのである」(22ページ)。

今日では多くの人々にとって、外食チェーン店は安価で手軽な消費生活に不可欠とされています。その要求は低賃金と長時間労働による生活内容の縮小状態が生み出したものであり、その生活者のニーズに応える外食チェーン店経営においても、低賃金と悪質な労働条件を必須とします。消費する側とサービス提供する側とのこのように相互促進的な悪循環、それを回し続ける必須条件が「持続不可能な働き方」です。こうして見てくると、外食チェーン産業などの「低価格の商品やサービスを提供する産業が隆盛した」ことが「安い日本」や「コストカット型経済」の重要な原因であるとともに「人手不足社会」をももたらしたと言えます。「持続不可能な働き方」は本来なくなるはずであるにもかかわらず持続しているのは、労資関係が労働者にとって劣悪で、ひたすら労働者が我慢して働いているからです。その限りで「持続不可能性」は潜在化しています。とはいえ「持続不可能な働き方」の業種では労働者の退出を補う新規採用が困難になり(有効求人倍率の異常な高さ!)、「人手不足」という形で「持続不可能性」が顕在化してしまったのでしょう。

以上から、経済成長による旺盛な労働力需要によって人手不足となるのとは対照的に、経済停滞の下で低価格・低賃金を基盤とする「持続不可能な働き方」を重要な一因として人手不足となったのが、今日の日本の「人手不足社会」の特徴と言えそうです。従来型の人手不足であれば、活発な経済活動とそこにおける一定の労働条件改善を期待させる一面の明るさがあったはずなのが、今日ではひたすら暗いイメージしか伴わない原因がここにあります。したがって、上記のごとく「持続不可能な働き方」が回す悪循環が支配するような「人手不足社会」は、一方では社会そのものとしての「持続不可能性」(たとえばトラック運転手の不足による物流の困難、医師不足による命と健康の危機など)につながり、さらに他方では労働者生活の困難を通して少子化そして人口減少へと導きます。その人口減少は人手不足の一因となり、人手不足の激化は労働強化につながります。するとここにまた<人口減少→人手不足→持続不可能な働き方→人口減少→…… >という新たな悪循環が生じます。

こうして「安い日本」「コストカット型経済」「人手不足社会」という「失われた30年」(とその到達点)を象徴する言葉たちが「持続不可能な働き方」をキーワードとして結びつくこととなります。であるならば、日本経済反転攻勢の起点は「持続可能な働き方」、その発展型としてのディーセントワークとなりそうです。しかしおそらく新自由主義構造改革の立場からは、生産力主義的に、労働強化(搾取強化)を伴ったデジタル化による経済成長と人手不足解消といった正反対の戦略が提起されそうですが、経済とは資本物神のため(生産のための生産、蓄積のための蓄積)ではなく、人間生活のためにあるという正気を取り戻すことが必要です。

 蛇足ながら、「デフレ経済をビジネスチャンスとする」外食チェーン産業に代表される低価格・低賃金産業から想起されるのは貧困ビジネスです。社会運動家の湯浅誠氏がいわば論壇デビューした論稿「『生活困窮フリーター』たちの生活保護」(『世界』200612月号所収)、および同氏の「格差ではなく貧困の議論を」上下(『賃金と社会保障』No.1428-1429 200610月下旬号、11月上旬号)で、貧困ビジネスという言葉を知り衝撃を受けました。貧困ビジネスには、消費者金融、派遣・請負業、賃貸借外入居契約、保証人ビジネス、フリーター向け飯場、住所不定者向け無料定額宿泊所などがあり、ビジネスチャンスという名の搾取領域は貧困層相手にも及んでいることが分かります。新自由主義グローバリゼーション下における格差・貧困拡大の最底辺層に対してさえ、嗅覚鋭い資本の貪欲さは発揮され、乾いた雑巾を絞るように搾取と収奪の限りが尽くされるわけです。であるならば、最底辺層でなくとも、「失われた30年」で労働者階級と勤労人民階層全体の生活水準が低下する中では、そこに対して「低価格の商品やサービスを提供する産業が隆盛」するのは当然であり、それは貧困ビジネスほど露骨ではなくとも、それに準ずるビジネスと言わねばなりません。その広がりは人々の生活の貧困化を社会的に固定し低位標準化し、労働力の価値を下押しすることで、賃金下落の土台を形成したと言えます。一般論としては、生産力発展で商品価値が下がるのに応じて労働力の価値も下がることはありえ、その場合には生活水準が下がること=貧困化はありません。しかし、「失われた30年」の日本資本主義においては、賃金下落が先行した貧困化に応じて、商品・サービス価格が下落したので、貧困と不況の下降スパイラルが生じました。その究極の姿を体現したのが貧困ビジネスであるのに対して、スタンダードとなったのが外食チェーン産業に代表される低価格・低賃金産業(=「非正規雇用に依存する低賃金産業」、伍賀論文、22ページ)と言えるでしょう。

 今日の物価上昇は、「物価と賃金の好循環」としての「デフレ脱却」などでは決してありません。バブル破裂後の長期経済停滞期における貨幣賃金の剥奪的下落によって実質賃金が低下した流れそのものは克服されていません。経団連と連合の満額回答春闘とはいっても、実際にはもっと上げられたはずだと言われ、2023年の物価上昇分は賃金上昇には少ししか回らず、もっぱら利潤増に帰結しており、「強欲インフレ」と揶揄される始末です。控えめな賃上げは物価上昇に飲み込まれており、一時的に実質賃金が上昇してもそれが定着することはないでしょう。「物価上昇→賃金上昇」の「好循環」による「デフレ脱却」というのは、トリクルダウン的かつ金融優位の発想であり、今日では破綻が明白です。視点を実体経済と労働現場に据え、低価格・低賃金産業などによる持続不可能な働き方を克服して、ディーセントワークに変え、生活の豊かさが国民経済の発展を支える好循環を実現するボトムアップ方式に転換すべきでしょう。

 閑話休題。伍賀論文に戻ります。人手不足をもたらす「持続不可能な働き方」の背景として、非正規雇用に依存する低賃金産業が上記のように指摘されたのに続いて、建設業やトラック運送業における多重下請構造も賃金と労働条件を引き下げるテコの役割を果たしていると問題視されます。

 建設業では、元請業者と下請業者とが「社会的分業関係だけではなく、支配・被支配の性格を帯びて」おり、「受注量変動のリスクを下請業者の活用で分散するとともに、コスト圧縮を図ってき」ました(23ページ)。多重下請では末端の労働者の賃金は削り取られます。また末端には個人事業主(一人親方)が多く、「労働者保護法制の適用を受けない」(同前)という問題もあります。ひょっとすると当事者にはこういう状況が宿命のように受容されているかもしれませんが、別の視点を交えて変革を志向することが必要です。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 西欧のように、産業別労働協定によって賃金が規制されていない日本では多重下請構造は労働者の労働条件を引き下げる重石となっている。元請によって工期の厳守を迫られ、長時間労働が広がるなか、労働災害の発生率は建設業で際立って高い。建設業の人手不足を改革するにはこうした多重下請構造にメスをいれ、賃金・報酬の確保をはじめ、持続可能な働き方を実現することが不可欠である。     23ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 トラック運送業では90年代以降の規制緩和政策による参入業者増で、過当競争による運賃の引き下げが急速に進みました(同前)。「ドライバーの確保、定着のためには、賃金引き上げが不可欠であるが、それは上位の業者から支払われる下請代金の引き上げなしには実現できない。しかし、取引を断られることをおそれて、価格交渉すらできない業者が少なくない」(24ページ)。ここにも厳しい状況があります。

 他に、「政策的に作り出された持続不可能な働き方」(同前)として、教員と介護労働者が取り上げられています。教員は業務量が多すぎて長時間労働が当たり前になっている上に、労働基準法の適用外で「定額働かせ放題」となっています(同前)。介護労働者は専門性が正当に評価されず低賃金である上に、介護保険制度の改悪でサービスが短時間化され利用者にきちんと向き合えない状況にされています。さらに、介護予算削減で訪問介護の基本報酬が引き下げられ、事業所が休止・廃止に追い込まれる事態です(25ページ)。

 論文の結論では、まず政策的に作り出された人手不足に対しては当然のことながら、政策転換が求められます。たとえば介護保険制度の先輩・ドイツでは介護職を魅力ある職業とする措置が採られ、賃金水準と資格制度が充実しています。低賃金産業に対しては、「最低賃金の抜本的引上げがカギと」(26ページ)なります。対する構えは「最賃引き上げが困難な事情にこだわっていては人手不足を打開できない」(同前)ということです。社会保険料・労働保険料の使用者負担の軽減など中小企業支援策を講じたり、下請企業が取引先に対してコスト増を価格転嫁できる体制をつくることなどが提起されています。最賃引き上げなどでの労働組合の役割も重要です(同前)。

表面的には、人手不足というのは、人を適当に配置して生産・サービス提供を滞りなく実施すればいい、という問題に見えます。しかし「持続不可能な働き方」という視点を導入すれば、そこには大企業中心体制と政策の歪みがもたらす、労働者・自営業者・中小企業の厳しい実態があります。固着した厳しい状況に諦めひたすら耐え続けるところから脱すべく、当事者が声を上げ、さらには政策をも動かすことが必要です。社会運動の不断の推進とともに、政治変革に向けて有権者の心をつかむことが求められます。

小山道雄氏の「保育現場の『人手不足』とミニマム・スタンダード」は労働現場の厳しさと政策の誤りが人手不足を招いている典型例に切り込んだ明快な論稿です。子育て支援が喧伝され、「子どもたちにもう一人保育士を」という的確なスローガンを打ち出した運動が注目されたこともあって、岸田内閣の「異次元の少子化対策」では保育士の75年ぶりの配置基準改善を謳いました。しかし「経過措置」だけで本格実施は見送られています。人手不足の中で配置基準を引上げると現場が混乱するという言い訳です。それに対して、「『人手不足』の原因を明らかにして解決しようとするのか、『人手不足』を口実に職員配置基準などの規制をゆるめたり実施を遅らせたりすることを許すのかが問われている」(41ページ)という反論は実に急所を突いています。

 2021年、保育士の従事者が66万人に対して登録者は173万人です。現場の保育士は足りないけれども「世の中には有資格者はたくさんおり、かつ、いつでも従事できるよう登録している」わけです(同前)。しかも登録者の多くは条件が合えば就業したいと考えています。そこで、「全産業平均より低いとされる賃金水準を改善し、保育士をはじめ職員を増員することが改善の課題です」(42ページ)。

 ネックとなっている低賃金は「政府が保育に要する人件費を敵視し『公立ではなく民間に』、『正規ではなく非正規に』、『認可保育所より認可外が低コスト』と、政策的に人件費の低い方に誘導してきた結果」です(同前)。つまり「規制緩和の徹底による競争条件の整備、新規参入の促進」(同前)という新自由主義構造改革の政策発想の結果として、低賃金と不安定雇用が進み、選ばれない職場となってしまったのです。したがって、「有資格者から、就くべき職業として選択されるよう公的な予算の拡充と必要な規制の強化こそが必要です」(43ページ)というのが解決策としての正当な考え方です。保育の職場においても、賃金と配置基準を引上げることを通じてディーセントワークを実現すべきです。「国の予算に合わせて生存権の具体化である『最低基準』を加減してしまうのか、生存権としての『最低基準』が予算を支配するのかが問われています」(44ページ)という大原則は「人間裁判」朝日訴訟の東京地裁判決(1960年)と響き合います。同判決によれば、<憲法25条の「健康で文化的な生活」は、国民の権利であり、国は国民に具体的に保障する義務があり、それは予算の有無によって決められるのではなく、むしろこれを指導支配しなければならない>とされます。これは確定判決とはなりませんでしたが、運動の偉大な成果として、その後の生活保護費引上げなどに影響を与えました。敗れてもなお闘いに意義はあることを銘記したいと思います。私たちはこのような確固とした見地に立ち、それを広め、「一律に規制するのはおかしい」、「現場が柔軟な働き方を求めている」(同前)という新自由主義一流の「お為ごかし」を大衆的に見破って前進したいものです。

 

 

          下請重層構造下の労働力市場

 

 伍賀論文では、人手不足をもたらす持続不可能な働き方の原因の一つとして、多重下請構造が指摘されました。それに関連して参考にしたいのが、「中小企業労働者を軸に労働市場を再構成して、概観」(32ページ)し、「下請重層構造下の重層的取引市場と表裏をなす」「労働と資本の錯綜した労働市場の階層構造」(33ページ)を分析した永山利和氏の「日本の労働市場と中小企業の人手不足*竭閨vです。この濃密な論文は表面的でなく概念的に分析しているので、何度も読み込んで理解する必要があり、私としてはとてもそのレベルには達していないのですが、その重要性に鑑み、分かる範囲で触れます。

 従来、少数派である大企業労働者に焦点を当てた研究が多いのですが、当論文では多数派である中小企業労働者を中心に分析しています。そこで第1節「日本の労働市場の構造と動態」では、総人口と労働力人口に始まって、自営業者と家族従業者をも含めた「広義の労働市場」(31ページ)やフリーランス(同前)も視野に入れています。2022年の「就業構造基本調査」(「就調」)によれば、有業者6706万人のうち雇用者が6077.2万人(90.6%)であり、日本は「文字通り賃労働者社会である」と言えます。また無業者4313.5万人を見ると、782.7万人(18.1%)の就業希望者がいることが注目されます(29ページ)。2023年の「労働力調査」(「労調」)によれば、499人以下規模の中小企業雇用者は3515万人以上で、非農林業雇用者の64.2%を占めます。500人以上規模でも中堅・中小企業はあるので、大企業の雇用者比率は3分の1未満でしょう(同前)。

 さらに2022年の「就調」により、17年から22年までの「多面的労働移動を整理し …中略… 労働市場の中核である雇用者を正規と非正規雇用とに分け、これら雇用者に自営業者層や無業者との流出入関係を拡大労働市場≠ニ見て、その周辺関係を示し」ています(30ページ)。それによれば、企業間労働移動の中で正規と非正規の上下移動を見ると、上向移動よりも下向移動が多く、強い雇用劣化圧力を示しています。自営業者と家族従業者は減っていますが、正規・非正規とも雇用者から自営業者への転出が逆よりも多くなっています。これについては、「狭義の労働市場の周辺にある自営業者と家族従業者とに連担する広義の労働市場があり、そこでは雇用者と自営業者とが交流し、その不安定、不確実な動態の需給調整機能を担う」(31ページ)と評価されています。それに併せて無業者の中の就業希望者も労働力市場から分断されておらず、実質的失業者・半失業者として就労予備軍の潜在を示すとされます。このように相対的過剰人口の今日的あり方が示されます。

 日本では雇用者・労働者と自営業者との法的区分・定義が不明である上に、近年いずれでもない「フリーランス」が「創出」されました。そういう状況で、「雇用者と事業者が入り混じり、外注・下請取引市場に組込まれ、法適用(ないし除外)による種々の法的紛争を起こしている。各種の法規定、適用に不公平、権利行使手続きの煩雑さ等、権利行使等にも穴が生まれている」と批判されます(同前)。

 社会変革の立場からは、大企業の中小企業や労働者に対する支配がしばしば批判されますが、それを漠然としたものにとどめず、その構造の客観的把握を伴ったものとせねばなりません。論文第2節「中小企業労働市場の特徴」は労働力市場の圧巻の分析であり、大企業による中小企業支配とその下での中小企業労働者の受ける強搾取・受難を漠然と現象的に見るのではなく、下請重層構造とそこでの労資関係の交錯を通して概念的に整理しています。

 そこでは9点にわたる指摘があり(3233ページ)、前半の4点は中小企業に限らず、大企業も含めた労働者と企業との関係に関わります。事業主と雇用者とが自立的に雇用・労働契約を締結するというタテマエですが、その内容は曖昧であり、契約事項の社会的通用性がない(社会的にキャリアを通用させる意識に乏しい)といった指摘は、日本では当たり前に思われ実施されている慣行です。しかし(行間から読み取って言えば)欧米では違うということでしょう。(さらに勝手に敷衍すれば)この慣行は企業別労働組合と親和的な日本のメンバーシップ型雇用に特有であり、産業別労働組合と親和的な欧米のジョブ型雇用では、労働(職務)内容が明確で社会的通用性があります。この日本的曖昧さは、(この後で見る)下請重層構造に関わる諸問題やそこから生じる法と現実の矛盾をうやむやにやり過ごすことに「貢献」していると言えるでしょう。

 大企業の中小企業支配に関わる下請重層構造下の労働力市場の問題を指摘しているのは後半の5点です。それぞれが重要な現象を扱っていますがここでは省略して、節の後の方に登場する、この構造の全体についての総括部分を引用します。憲法を頂点とする雇用・労働法規の整備と(それにもかかわらずの)実効性の欠如、ならびに最近のトピックとして、「政労使」一体で合意した賃上げが実現しないことを受けて次のように展開されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 以上のように、総じて労働市場機能に改善が見られないし、外注・下請関係は、上位企業発注の事業契約を介し、実質的に発注者統括下の部分℃幕ニ企業群となり、中小企業労働者はそれを実行する部分(事業実施)の就労者・雇用者≠ノなっている。この関係で外注・下請労働者は、実質的に上位企業の間接雇用者≠ノなり、それが事業(者間)契約関係からは対等な契約関係での中小企業雇用者になる。この事業(者間)関係下で間接雇用℃メである中小企業労働者が直接雇用主である中小企業の雇用・労働(中小企業労使関係)に置換される。多くの中小企業の事業者間契約条件が雇用・労働関係にも色濃く投影されていたとしても、中小企業雇用・労働契約は自主的契約の就労条件≠ニ見なされている。特異な労働市場である。   3334ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 これに続けて「事業(者)市場との重なる労働市場構造」(34ページ)における価格形成の歪みが指摘されます。受注単価が「一物一価」に収斂しないのに対応して、「同一職種で階層ごとの価格差、多段階・複数価格を生」み、「縦型の上位企業からの指値市場だから、単価は社会的市場価格ではなく、賃金も社会的価格形成機能が及び難い市場」となります。そこではジェンダー、雇用形態(正規・非正規、等)、年齢・職能、国籍、等々での差別への修正根拠を見いだせず、底辺へ沈む価格が形成されます(同前)。

資本主義下での企業内分業と社会的分業とは概念的に明確に区別されます。企業内分業は、資本の専制支配によって形成される分業で、あらかじめ単一の計画下にあります。それに対して、社会的分業は、独立・自由・平等な市場を通して形成される分業で、競争を通した利害調節で事後的に社会全体の経済秩序が形成されます。日本資本主義における下請重層構造は、乱暴に単純化して言えば、内実としての企業内分業を社会的分業の形式を通じて実現しているようです。大企業による下請重層構造の利用理由として、景気循環の調整弁の機能がまず挙げられ(不況下では下請に犠牲を転嫁する)、次いで受注単価や賃金での多段階・複数価格という格差付があるでしょう。社会的市場の自由競争の論理からすれば、「上位企業からの指値市場」はまったく不当ですが、下請重層構造の内実からすれば、「指値市場」とは、企業内分業における費用指定としての「価格決定」ということです。上位企業の「実感」としては、タテマエとしての「市場の公正性」より、ホンネとしての「資源最適配分」による利潤追求が優先され、それは力関係において可能です。

 日本国憲法第27条を頂点とする雇用・労働法規の法体系は公正労働規範として整備されていますが、以上のような下請重層構造における労働関係の歪みなど(大企業内部における過重労働等々の問題もある)の現実を前に、「基本法制の多くに適用除外が定められ」「法規に柔構造≠ェ備わ」っています(33ページ)。法と現実の矛盾、法の屈服状態を克服するため、多くの裁判闘争が闘われており、それは貴重ですが、現実そのものを改善する労働者の闘争とそれを実現する政策が必要です。差別による「沈む価格≠ェ可能な市場こそは政策により修正可能である。これが国策の中核に据えられるべき政策課題である」(34ページ)と言えます(*補注)

 中小企業労働者にとってみれば、実質的には上位企業の「間接雇用者」となっているが、その関係が法的には中小企業の直接雇用に置換される、という中で彼らに矛盾が集中しています。そこでは市場の公正の観点から、上位企業による下請企業への収奪を規制することが求められます。その際に、「間接雇用」状態という実態を指摘して、大企業の社会的責任の観点で公正取引をより一層推進し、中小企業が直接雇用の責任を全うできるようにすることが必要と思われます。

 第3節「中小企業における人手不足≠フ現れ」では、第一に「人口の絶対数の動向が雇用の過不足を生む構図には見えない。人口中の雇用者に対する需給変動が景気・産業動向に相関してきたのである」(34ページ)と指摘されます。伍賀論文でも触れられているように、人口減だけから今日の人手不足を説明することはできず、経済動向が第一に捉えられねばなりません。第二に中小企業雇用は大企業雇用に比べて変動が小さく、雇用の安定の下支えになっています。第三に21世紀に入るとリーマンショックやコロナショックによる過剰向きの変動を経過しつつも、全体として過剰基調から不足基調に動いています。第四に「設備の過不足は均衡状態にあるのに雇用不足が進行する」(35ページ)と指摘されます。労働者の対応として、過剰就業者と過少就業者とが広く分布し、「就労の規則性、安定性の低下傾向が見え」ます。トラック労働者については、過酷な労働条件を見れば人手不足とは過労死回避行動と言うべきだと指摘されます(36ページ)。

4節「中小企業における人手不足¢ナ開の方途」では、「過剰と不足とが共存する労働市場の不均衡を改善するのに、不足分野に過剰分野から雇用者を移動させる需給調整策とするのは安易な政策である」として、労働力市場や労働基準の規制緩和に対しては批判的です(36ページ)。市場主義や搾取強化の方向ではなく、労働内容に踏み込んでいます。経費削減のための労働・業務の取引単位の部分化・細分化によって、生活維持が不可能な雇用・労働および業務単位にまで分割されています。その中で就労時間・日数の過剰と過少の両極化が生じており、残業規制による雇用配分が必要となっています。こうして「正常雇用になる標準生活維持が可能な就労体制に再編すべき」(37ページ)とされます。その他に、日本では事業参入が容易で事業運営に関する社会的規制が限定的であることが正常な雇用・労働関係確立の妨げになっている問題も指摘されます。また中小企業の賃上げが大企業を上回るという研究もあり、その役割に鑑み、中小企業の賃上げ・雇用確保のために公正な取引市場改革が打ち出され、新自由主義的規制緩和政策の弊害是正が主張されます。当然のことながら、政府やメディアからは新自由主義的な「労働改革」の声しか聞こえてこないので、それが「国民的常識」となっています。その状況とかみ合って対峙するオルタナティヴを掲げて、労働者・中小企業のための雇用・労働関係の捉え方の基本と改革方向を広めることが重要です。

 

     *補注 法と現実の矛盾

 朝ドラ「虎に翼」の中心的なテーマは、憲法第14条の平等規定と現実の矛盾です。もっとも、「14条が規定しているのは法的平等であって、現実的平等ではないのではないか」という議論はありえます。しかしドラマは現実的平等をも追求しているのだから、憲法14条がそれを規定しているかどうかの問題は措くとしても、法的平等と現実的平等との関係、ならびに現実的平等をどう実現するのかという問題が存在することは確かです。

 現実的平等を実現するためには、平等でなく、差別がある現実が存在する理由を解き明かすべく現実の構造そのものに分け入ることが必要となります。上述の労働問題ならば何よりもまず労働現場に立ち入ることから始め、それを資本主義経済の構造と動態の中に位置づける必要があります。ドラマが憲法の条文を正面から掲げて現実に切り込んでいったことを最大限評価しつつ、それを単なる啓蒙の問題にとどめることなく、現実そのものの把握とそこから来る具体的変革の展望につなげることが社会科学の課題です。

「虎に翼」が日本国憲法の潜在力を最大限引き出したことはまさに画期的でした。おそらくこれまで誰もなしえなかったことだと思います。吉田恵里香脚本の諸課題の構成力と周到な台詞回しなど驚くばかりでした。エンターテインメントの力で、人々の生活意識の次元において人権・民主主義を捉えました。このドラマが圧倒的共感を勝ち得たことは日本人民が社会進歩へ向かう要求と底力を深部において持っていることを示しました。

ところが表層を見ると、直近の現実の政治過程と世論は逆流となっています。先の自民党総裁選挙では石破茂氏、立憲民主党の党首選挙では野田佳彦氏が勝利しました。いずれも世論調査の支持率が高かった候補者です。これにより、軍事オタクでタカ派の首相と、自民党に近い保守路線の野党第一党党首がそろったことになります。自民党総裁選がメディア・ジャックすることによって、「現実的」政局報道の洪水中で、政治の真の争点はかすんでしまい、変革の展望を持っていない世論は保守的現実への追随に流されました。社会変革の立場からは、反転攻勢の起点をどこに定めるかが問われます。もちろん裏金問題を始めとして、自民党政治は政策的には「行き詰まっている」のが客観的情勢ですが、主観的情勢としては、常日頃より保守的現実への追随という枠をはめられ、変革の想像力を奪われている世論をどう動かすかは難問です。

 「虎に翼」に戻ると、917日放送分で、山田よね弁護士は尊属殺人事件の被告について語っています。被告は、性暴力を含め長年の被害の後に命の危機さえ感じるにいたり、加害者である父親を殺しています。

 「おぞましく人の所業とは思えない事件だが、決して珍しい話じゃない。ありふれた悲劇だ。あいつは今でも男の大声に体がすくむ。部屋を暗くして眠れない。金ができたら、その大半を自分を捨てた母親に送る。無理やり産まされた実の子を世話してもらうために……。私は、救いようがない世の中を少しだけでもマシにしたい。だから、心を痛める暇はない。それだけです」

 この「救いようがない世の中を少しだけでもマシにしたい」という台詞は、おそらく今日でも、社会運動などの最前線で、人々の苦難を真正面に受け止めて闘っている活動家たちの恐ろしいまでの実感でしょう。そこには何としても目の前の現実を少しでも前に進めたいという一念・願いとともに、政権交代などの根本的打開に対する諦念とが入り交じっているように思えてなりません。たとえば1960年代や70年代前半などには、当面する闘いと根本的な社会変革の展望とが直結して感じられました。しかし今日では長い新自由主義覇権の下で、体制護持・保守化の泥沼の中で徒労感がつのる毎日でもあります。

もちろん、にもかかわらず「虎に翼」のメッセージは明確です。声を上げることは無意味ではない、たとえ今勝てなくても、闘いの記憶と記録は残り、後から来る者たちによって継承され、やがて実現していく、と。それがドラマの主張のリフレインであり、927日最終回でもヒロイン佐田寅子は最高裁長官を定年退職した桂場等一郎にこう語りかけます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 桂場「私は今でも、ご婦人が法律を学ぶことも、職にすることも反対だ。法を知れば知るほど、ご婦人たちはこの社会が不平等で、いびつでおかしいことに傷つき、苦しむ。そんな社会に異を唱えて、何か動いたとしても社会は動かないし、変わらん」

 寅子「でも、今変わらなくても、その声がいつか何かを変えるかもしれない」

 桂場「君はあれだけ、石を穿つことのできない雨垂れは嫌だと、腹を立ててきただろ」

 寅子「未来の人たちのために、自ら雨垂れを選ぶことは、苦ではありません。むしろ至極光栄です」

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この後、桂場は潔く自説を撤回します。寅子もまたかつて恩師・穂高重親に食ってかかったのとは逆に、上記のように自ら進んで「雨垂れ」を選ぶと言い切ります。私たちも「石を穿つ」ことを目指してアレコレ考える日々が続きます。
                                 2024年9月30日





2024年11月号

          バイデン政権の「脱新自由主義」を考える

 

 河音琢郎・平野健氏の「アメリカ資本主義の現段階 新自由主義からの転換は現バイデン政権の経済政策の検討を中心に、オバマ・トランプ・バイデンの16年間を概観することで、転変するアメリカ政治を経済的土台から照射して簡潔に捉えることを可能にした論考だと言えます。論文の始めに、現時点での評価として「過去40年以上続いてきた新自由主義の矛盾の深化」の下で「民衆の政治的影響力の高まり」に迫られて「いよいよ新自由主義からの脱却を打ち出すところまで来た」(29ページ)と総括的に言われます。

 論文ではオバマ政権以降の16年間以前についてまず語られます。1981年からレーガン政権により教科書通りの新自由主義政策が本格的に開始されますが、その帰結として双子の赤字(財政と経常収支)という惨憺たる事態に陥ります(30ページ)。そこで1990年代のクリントン政権はまず国際競争力強化を図りますがうまくいかず、政策転換して製造業支援を国内産業保護から多国籍企業支援に切り替えます。そこで経常収支の赤字は無視し、流出したドルをアメリカ金融市場に環流させ、証券市場にバブルを起こすことを目指します。ここに(基軸通貨ドルを持つ)アメリカ資本主義に適合的な新自由主義の「グローバル蓄積構造」が成立します。それはグローバリゼーション下で、製造業・金融業・IT産業の「蓄積構造が整合的に組み合わされたもの」です。中国はアメリカの「グローバル蓄積構造」の「一大要素として組み込まれることで高度経済成長と技術力の高度化を実現」しました(3031ページ)。

 こうして確立したアメリカの「グローバル蓄積構造」はバブル破裂による構造崩壊にまでは至っていない(筆者らはそこに見られる株価の堅牢性について研究課題として重視している)けれどもほころびを見せ始めています。2000年代に始まる対テロ戦争(アフガニスタン=イラク戦争)の同年代後半での泥沼化、2008年のリーマン・ショックを契機とする世界金融恐慌、コロナ・パンデミック(2020年〜)、中国の離反、国内左右ポピュリズム運動の勃興(2016年大統領選挙でトランプ勝利、バーニー・サンダース健闘など…)などによって「グローバル蓄積構造」は大きく揺さぶられてきました(31ページ)。

 このほころびに対して、オバマ政権・トランプ政権の対応は「試行錯誤」とされ、続くバイデン政権が両政権の経済政策を一部継承発展させてきました。オバマに発するリベラルな税財政政策(「大きな政府」政策)とトランプに発する対中新冷戦をにらんだ外交・通商政策とは先端技術産業分野での産業政策でつながっており、それらをさらに総合的・体系的に展開したバイデンはトリクルダウン経済学(新自由主義政策)からの離脱と表明しています(3233ページ)。

 現在闘われている大統領選挙――ハリス(バイデン政権の副大統領)VSトランプ――の性格を見る上で、トランプ政権とバイデン政権との税財政政策の違いを捉えることが重要です。トランプ政権のそれは「トリクルダウンの想定に依拠した典型的な新自由主義的な税制改革」(35ページ)であり、富裕層・大企業への大幅減税を中心としています。ところが白人労働者階級を支持基盤とするトランプは伝統的な共和党の社会保障削減政策を採らないので、財政運営のシナリオが描けません。支出削減メニューとして連邦経費の削減を挙げますがまったく取るに足らない規模でしかありません(日本維新の会の「身を切る改革」を想起させるバカバカしさ。搾取階級・支配層なりの政策整合性を持ち得ないトリックスターの奇態)。

 それに対して「バイデン政権は左派ポピュリズムの要求をほぼ丸呑みした大胆な大きな政府への転換を打ち出した」(36ページ)とされ、大統領候補のハリスも「大企業、富裕層課税の路線」を含むバイデン政権の政策を継承しさらに促進する姿勢です(同前)。「以上の検討を踏まえると、新自由主義政策、グローバル蓄積構造からの抜本的転換を志向しているのは、バイデンとその後継者であるハリス陣営にあり、トランプ陣営の政策体系は、新自由主義の延命かせいぜいその焼き直しを志向するものとの評価が妥当だろう」(37ページ)とされます。

 ところで、11月の大統領選挙の帰趨はきわめて微妙であり、たとえハリスが当選し、上下両院選挙でも民主党が勝利したとしても「財界・業界・企業との利害調整、同盟国とのすり合わせ、財政赤字と国債問題への対処が必要とな」ります(38ページ)。それは妥当な指摘ではありますが、それ以前の問題として、「1995年以来の『グローバル蓄積構造』、さらには1980年以来の新自由主義からも脱却しようと宣言している」(同前)というバイデン政権への評価がどの程度妥当かという検討課題があります。その意味では、論文末に「バイデノミクスが経済的整合性よりも国家安全保障の論理を優先させて組み立てられていることが、どのような結果をもたらすのかも注目される」(同前)とあり、そこでの「経済的整合性」や「国家安全保障の論理」の中身を吟味する必要があります。

 一般論としては、「経済的整合性」をめぐっては、グローバル資本に代表される支配層寄りか、労働者階級・人民寄りか二つの立場の対決があります。通念としては前者が暗黙の前提とされますが、「史上最も労働組合寄りの大統領」とバイデンが自称し、左派ポピュリズムの要求を丸呑みしていることからすれば、バイデン政権と今日の民主党は後者の立場に近いと言えます。その意味では確かに「新自由主義的なグローバル蓄積構造」からの脱却を目指していると言えます。ただし、労働者階級寄りという意味では、資本の搾取強化としての新自由主義への一定の規制を利かせているとは言えますが、アメリカ型新自由主義としての「グローバル蓄積構造」からの脱却がどこまで言えるかは微妙です。それを構成する三つの産業部門<対外直接投資とグローバル・サプライチェーンの展開(製造業のグローバリゼーション)、家計の貯蓄と海外資金をアメリカ証券市場に投入してのバブル誘発(金融業)、これらの事業活動の技術的基盤を提供し、資本蓄積を効率化・高度化するもの(IT産業)>(3031ページ)は不変であり、これらはあくまでグローバル資本主導で新自由主義的に「資本蓄積が整合的に組み合わされたもの」(30ページ)だと思われるからです。あくまで一般論としては、製造業・金融業・IT産業が資本への民主的規制の下で「整合的に組み合わされ」ることはあり得るでしょうが、眼前において現実的ではありません。

さらに問題はその「経済的整合性」よりも優先される「国家安全保障の論理」にあります。その中心は要するに中国への新冷戦的対応であり、それは左右を問わぬ「国民的一致点」と見られます。確かに中国の専制主義と覇権主義は問題です(これについては後述)が、米中関係について言えばアメリカの経済政策はそれ以上に問題ありです。自国企業の利益も犠牲にしつつ、アメリカの技術的・経済的一国覇権を維持せんとして中国叩き、中国包囲網づくりに狂奔する姿は異常というほかありません。斜陽の帝国による新興国バッシングの様相です。河音・平野論文も米国半導体業界やEU・韓国の反発に触れています(3435ページ)。

ロシアのウクライナ侵略戦争に際して、バイデン政権は「民主主義対専制主義」というスローガンを打ち出しました(従来からある特定イデオロギー押し付け路線の適用に過ぎませんが…)。それに対して、日本では同スローガンは空気のように受容されています。なぜなら、経済的整合性と言えば支配層寄りの現実追随主義の秩序しか思い浮かばない日本では、同様に、(イデオロギーにかかわらず)「国際法・国連憲章遵守の一点での一致による団結」という別のまともなスローガンを(「赤旗」以外は)対置することもないからです。確かに中国とロシアの(覇権主義とセットの)専制主義の弊害があまりにも明白なので、バイデン流のスローガンは正義を掲げる「錦の御旗」のように映ります。しかしガザでのジェノサイドにもかかわらずイスラエルを支持し続けるアメリカの姿勢は「民主主義対専制主義」スローガンに基づくものであり、そこには「国際法・国連憲章遵守の一点での一致」の観点はありません。(ともに国際法違反の受難者である)ウクライナとパレスチナとに対する姿勢が異なる二重基準という批判が欧米諸国に対してよく向けられます。しかし、元々そこでは「国際法・国連憲章遵守」よりも「民主主義対専制主義」スローガンの方が優先される(前者はせいぜいタテマエでしかない)のだから、それに沿った「一貫性」があると言うべきでしょう。専制主義に反対するのは、言葉面で言えば、民主主義を促進するということですが、実際には、民主主義的発展が不十分であることを理由として、新興国・発展途上国を抑え込む帝国主義的意図があるようです。

 ここで、「バイデノミクスが経済的整合性よりも国家安全保障の論理を優先させて組み立てられている」という命題に戻ります。その中心が対中新冷戦であり、それを合理化するスローガン=「民主主義対専制主義」が、ロシアのウクライナ侵略戦争反対の正義のスローガンに転用されています。その問題性は先述しました。おそらくここでの命題の趣旨は国家安全保障の論理の優先が経済を歪める、ということであり、対中新冷戦の経済政策にそれが集中的に現れています。以上を総合すれば、対中新冷戦の経済政策は中国の専制主義と覇権主義に対抗するという形を取りつつも、新興国や発展途上国を抑え込むというアメリカ自身の一国覇権主義=帝国主義政策の一環だと言えます。その本質から来る経済の歪みを剔抉し、さらにはオルタナティヴとしての民主的な国際経済秩序を提起する必要があります。

 ところで、アメリカの「国家安全保障の論理」については、国際政治を評論するよりも、日本人なら本来身にしみて分かっているはずです。実際には骨の髄からの対米従属意識が「自然」なので気がつかないのですが…。バイデン政権言いなりの岸田政権が安保3文書の閣議決定できわめて危険な大軍拡に乗り出し、米軍との一体化を進め、南西諸島の軍事要塞化を推進し、前のめりに中国包囲網の先陣を切りました。さらに「今日のウクライナは明日の東アジア」とか「台湾有事は日本有事」などと戦争準備を煽ってきました。その一方で、沖縄における米兵の性犯罪は日米両国政府によって隠蔽されながら、地位協定の改定を問題にするどころか、外務省は対応に問題なしと開き直っています。こうした日本の過剰な対米従属そのものがまず問題なのですが、アメリカでは民主党・共和党を問わずこの状態を当たり前と思っているというか、そもそも大方無知・無関心でさえあります。その中でアメリカ政府による日本支配は意のままに進みます。つまり日米関係とはむき出しのアメリカ帝国主義による支配従属関係であり、今日ではアメリカの中国包囲網づくりの中で日本の平和が危機にさらされています。こうした現状を支えているのはアメリカでは超党派であり、日本では政府とそれに従うメディアによる対米従属の世論形成です(*注)

 ひるがえって今回の大統領選挙を見るなら、米国民にとっては経済的にも政治的民主主義の面でも、トランプではなくハリスが勝つのがいいことはわかりきっています。しかし日本人にとってはハリスの方が多少はましかもしれないが、大方変わらないこともはっきりしています。民主党政権であろうと共和党政権であろうと、アメリカ帝国主義が従属国・日本を扱う政策に本質的に違いはありません。

 バイデノミクスにおいて、「経済的整合性」よりも優先される「国家安全保障の論理」の一端がここにまざまざと示されています。すると「新自由主義からの脱却」という文脈においてこれをどう評価すべきでしょうか。様々な見方や疑問があり得ます。――新自由主義と帝国主義とはいかなる関係にあるのか。国家安全保障の論理による経済の歪みとは新自由主義的性格ではないのか。あるいは国内の政治経済と外交・国際関係とは別次元(国内での新自由主義脱却は他国への帝国主義的抑圧とは別問題)と割り切って区別すべきか。そうすると、新自由主義的帝国主義から抜けるとケインズ主義的帝国主義に移行するだけのことなのか。――

 いささか問題提起が抽象的になったかもしれません。そこで、地に足をつける意味で、問題全体には届きませんが、最後に日米関係にかかわる小さなエピソード(しかし意義は重大)を紹介します。「赤旗」1025日付は以下のように報じています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設をめぐり、米下院議員が政府監査院(GAO)に対し、再検証を求める書簡を提出していたことが分かりました。

 提出したのは下院軍事委員会所属のジェームズ・モイラン議員(共和党、グアム選出)です。6月27日付の書簡は、沖縄県の玉城デニー知事が辺野古新基地の技術的な懸念を示し、大浦湾に広がる軟弱地盤の改良工事に関する設計変更申請を不承認にしたことに言及。日本政府が今年1月10日、大浦湾の埋め立て工事に着手したものの、デニー知事が提起した問題は対応されていないとしています。

 新基地の「維持費は米国の納税者が負担することになる。米国の戦略目標に影響を与えかねない懸念は最小限にとどめるべきだ」と指摘。GAOに対し、(1)工事の進ちょく状況(2)今年1月以降に直面した課題(3)軟弱地盤改良工事の詳細な説明(4)改良工事が将来の米軍の活動に与える影響(5)軟弱地盤が不同沈下を引き起こし、米国が負担する維持費の増加の可能性(6)建設予定地付近にある二つの活断層の評価(7)工事の遅れや予算超過に関する評価―を盛り込んだ報告書の作成を求めています。

 辺野古新基地を巡っては、米下院軍事委員会・即応力小委員会が2020年6月、軟弱地盤や活断層への懸念を示し、米国防総省に報告書の提出を求めていました。

 デニー知事は就任以来、訪米を重ねて新基地が技術的・政治的に不可能だと訴えてきました。こうした活動が着実に影響を与えているといえます。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 アメリカ連邦議会は自国の利益を守るためにまともに問題を検討していることが分かります。日本の国会では共産党などが責任追及していますが、本土のジャーナリズムは大方無視しています。あろうことか、日本の裁判所は上記のような問題の本質的内容を顧みることなく、政府の意向に沿った形式論で沖縄県の主張を棄却しています。もちろん米議会のやっていることは支配従属的日米関係の枠内における自国の利益追求に過ぎませんが、それでも民主主義な議論を尽くそうとしています。日本の体制内では議論さえない門前払いが習慣化しており、従属国の卑屈さが極まっています。これは帝国主義的支配と民主主義との関係を考える一助となり、基地建設という莫大な財政支出を通じて経済のあり方にも関係する大問題です。それに真剣に取り組んでいるか否か。日本の支配層の無責任さは限りありません。そう言うとひたすら悲観的ですが、デニー知事の訪米活動は米日支配体制の隙間を突いた地道な努力であり、そこには、諦めない変革志向のもたらす知恵が息づいています。

(*注)

自民党総裁選において石破茂氏はアジア版NATOを目玉政策に掲げていましたが、首相就任後は封印しました。メディアとアメリカから批判されたからです。もちろん我々は軍事同盟反対の見地からその危険性を指摘しましたが、支配層は今日の対米従属体制を少しでも変えることを許さない見地から石破氏の政策を葬り去ったのです。

 

 

          ロシアの侵略戦争を支える中国人民元の行方

 

 20222月にロシアのウクライナ侵略戦争が始まったとき、ロシアに対する諸国による経済制裁とロシア国内での反戦世論・諸活動によって侵略が終わることを願い、またその可能性も少なくはないと思っていました。しかし経済制裁というものはたいていうまくいかない、という言説が幅を利かせ、実際そうなったようですし、反戦活動も始めは活発に見えましたがやがて抑え込まれてしまいました。不明を恥じるばかりです。もっとも、ロシアの侵略そのものが直前まで予想されることは少なかったし、逆に侵略が始まればウクライナはひとたまりもなく、首都キーウもたちまち陥落して傀儡政権ができるだろうと大方言われていました。しかし意外に頑強に持ちこたえるウクライナを見て、欧米諸国の軍事支援もあり、多少の希望が出てくるかと構えていると、やはり軍事大国ロシアの力が勝り、その占領地域がじわじわ増えるという逆境にウクライナはあります。こう見てくると、総じて専門家筋の見方というのも当てにはならないわけで、素人としては何を持って確実な見識と捉えるべきか迷うばかりです。

 そこで、確実な見識の重要部分として、経済的客観情勢をしっかり捉えることが必要です。経済制裁の効果が少ないように見える原因として重要なのは中国によるロシア支援でしょう。他にも重要な原因があるのかどうかは分かりませんが、ドルの国際決済から閉め出されたロシアが貿易を成り立たせているのは中国のおかげであり、欧米の経済制裁をしのぐ上で不可欠であることだけは確かです。奥田宏司氏の「ウクライナ侵攻後のロシアの貿易決済、中国の『一帯一路』 ドル体制への影響は、ウクライナ侵略戦争後、中国の銀行がロシアの貿易決済を助けている仕組みを明らかにした上で、「『一帯一路』の進展によって、ドル体制の後退、人民元の国際化が進むのかについて検討を加えたい」(130ページ)と課題設定しています。

論文では、貿易・為替・金融について詳しく展開されていますが、残念ながら十分に理解する能力がないので、大雑把に諸結論部分を参考にします。それによればまず、ロシアの銀行は侵略戦争開始後、西側諸国の経済制裁によってドルでの貿易決済が困難になりました。「それを代行するかのように、中国の銀行がロシアの貿易決済に重要な役割を果たすようになってくる。それは、侵攻後間もない時点での中露の国家間の協議と合意によるものと思われ」ます(130131ページ)。要するに「中国の銀行への依存なくしてはロシアの貿易決済は成り立たず、中国の銀行がロシアの戦争継続を可能にしていると言え」ます(136ページ)。その中でドル体制もユーロ体制も揺らいでいるわけではありません。今後、EUや日本はエネルギーなどでのロシア依存を低下させると思われるので、ロシアはドル体制とユーロ体制から離脱し、ますます中国に依存し「人民元圏」に入っていく見通しです。しかし人民元の国際決済がロシアとの関係では成立しているのに対して、対発展途上国では困難であることなどから、発展途上国が「人民元圏」に入ることは難しいとされます(後述)。したがって、ロシアの侵略戦争によってドル体制が動揺したり、人民元が国際通貨に成長することは考えられず、逆に中国の方も閉鎖的な「人民元圏」にとどまっていることはできないとされます(同前)。

 論文の最後では、中国の融資が途上国を西側諸国から切り離す役割を果たしていることは認めつつも、それをドル建と人民元建とに分けて考察しこう結論づけています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 しかし、中国からのドル建融資は、先に見たようにドルの「転変」となるだけで、対米ファイナンスを減少させるものとはならず、ドル体制を「乗り越えるもの」にはなり得ない。また、人民元建融資も被融資国は中国以外の諸国との取引にはほとんど利用できず、返済は中国への輸出、資源、施設等の売却によってしかできない。

 したがって、人民元建融資によっても人民元は国際通貨にはなり得ない。返済は、被融資国の国民からの反発も予想される。デフォルトの発生、中国の途上国融資の今後の債務問題化が危惧されるところである。         144ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 以上から、ロシアのウクライナ侵略戦争以降の中国の役割をある程度規定できます。一方では、ロシアの侵略戦争を支える不可欠の存在となっています。まさに世界進歩の逆流たることは明らかです。他方では、新興国・発展途上国を代表する大国でありながら、それら諸国の発展に貢献する点では十分な役割を果たしていないとも言えます。人民元の国際化を進めて、新自由主義グローバリゼーションを担うドル体制を乗り越える見通しもありません。結局、中国がアメリカに対峙しているとは言っても、自国都合の覇権主義国同士の対抗であって、新興国・発展途上国の勃興を背景とした新たな民主的国際秩序を形成しようとする志向は中国には見られない、と私には感じられます。

 論文では人民元の国際化の困難性について次のように説明されています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

…前略… 中国当局は、今日でも外国の銀行(「一国二制度」の香港等の銀行も含む)が中国本土内の銀行に一覧払口座を保有することを認めていない。したがって、人民元建の国際取引は、先進諸国通貨はもちろん途上国の多くの通貨のようには国際決済ができない。

そこで、中国当局はいくつかの国、地域における中国の銀行の現地法人あるいは海外支店を「クリアリング銀行」に認定して、中国・国内銀行を利用した人民元決済に「代行」させる方針を採用している。            132133ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 上記の「一覧払」とは、支払期日を指定できる手形と異なり、小切手については呈示を受けた銀行は直ちに振出人の口座から支払うので、小切手の所持人は現金化したいタイミングで現金化することができる、という状態を示しています(ネット検索による語義)。ロシアはクリアリング銀行を設定して人民元の国際決済を実施していますが、途上国の多くはそれが難しく、「人民元圏」に入れないので、人民元は国際通貨にはなり得ない、ということになります。

 そこで問題となるのは通貨の国際化のあり方です。1970年代初めのニクソンショック以降、IMF固定レート制が徐々に崩壊して変動相場制に移行し、為替投機が一般化したことが資本主義のカジノ化の画期となりました。使い勝手の良い基軸通貨ドルがカジノ資本主義を担い、その後の新自由主義グローバリゼーションを牽引することになります。

 ここから先が私などにはよく分からないところです。確かに国際決済が不自由な人民元の国際化が難しいのは分かりますが、とは言っても、使い勝手が良いドルを中心にした国際決済体制が実現しているのは新自由主義グローバリゼーション=カジノ資本主義化ではないのか、という問題があります。国際通貨のあり方について、現状の国際化の条件を無批判に前提していいのか。新自由主義へのオルタナティヴとしての新たな国際金融秩序をどう作るのかという課題があるように思えます。知識不足で雑駁な印象的感想に過ぎませんが…。

 

 

          中国・ロシアと世界の社会進歩勢力

 

 以下は政治向きの話をします。ロシアはソ連の後継国ですが、もはやいかなる意味でも社会主義ではなく、現在は、まさかと思われた21世紀におけるヨーロッパでの侵略戦争を敢行しています。しっかりした製造業を欠くなど、まともな再生産構造を持たない資本主義経済体制の上に、政治的には国内は専制主義、対外的には覇権主義国家です。中国は社会主義を自称していますが、本来の社会主義とはまったく異なり、政治的実態はやはり専制主義と覇権主義であり、経済体制は様々に評価されています。

日本の社会進歩の運動は、旧ソ連・中国時代から様々な意味で両国にずっと邪魔され続けてきました。今また象徴的事例が発生しています。1011日、日本被団協がノーベル平和賞を授賞しました。ここでノーベル平和賞そのものへの評価は措きます。かつて佐藤栄作元首相に授賞するなど問題は多々あるでしょうが、今年のサプライズ授賞はいい意味で期待を裏切る快挙であり、核兵器使用への危機感と核兵器廃絶の固い意志を世界に断固として示しました。この授賞の驚きと意義については、「朝日」デジタル1023日付「記者レター 駒木明義と読むロシアから見える世界」が生き生きと伝えています。発表の瞬間、「朝日」の論説委員たちは歓声と悲鳴を上げました。「悲鳴」というのは、まったく予想外の受賞のため、素材となる材料がまったく準備されていない状態で、翌日朝刊原稿の締め切りが危ぶまれたからです。

 この受賞に対して、唯一、核兵器を使用したアメリカ帝国主義の大統領バイデンと元大統領オバマは祝意を示しました。原爆投下責任と核兵器禁止条約には触れないのだから、偽善のそしりを免れないとはいえ、とにかく平和の世界世論に押された祝意表明であることは重要です。世界の指導者としての最低限の良識は示したと言えましょう。ロシアはどうか。前記記事で駒木明義氏が明らかにしています。この授賞がロシア、プーチンによる核兵器威嚇への警告の意味をも持っていることは明白です。それに対して1016日、ロシア外務省のザハロワ報道官は、口を極めて日本被団協の受賞をののしりました。「ここ数十年というもの、ノーベル委員会は、西側諸国に占領されている。そうした国々は、自分たちの利己的な政治目的のためだけに、恥ずかしげもなく委員会を利用している」。

 ロシアでは「日本では原爆を投下したのが米国だという事実を公然と口にすることができない」という俗説が広く信じられている、ということも同記事は紹介しています。専制主義国家の愚かさ極まれり。核兵器廃絶、平和構築の意思とはほど遠い世界がここにあります。では中国はどうか。「朝日」1017日付はこう報じています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 中国が1964年に初めて核実験に成功してから、16日で60年。中国内では当時開発に携わった技術者らの成果を賛美する報道が相次ぐ。中国政府は核廃絶を求める立場を崩していないものの、近年は核弾頭や運搬手段を急速に増強しているとみられている。

 「今日に至るまで、あのキノコ雲は夢に現れ、目覚めた彼の目尻にはいつも涙が浮かんでいる――それは喜びの涙だ」

 共産主義青年団の機関紙・中国青年報は、60年前の核実験に携わった技術者の記憶をたどる記事を14日付の1面に掲載した。中国は新疆ウイグル自治区の実験場でのこの核実験に成功し、米ソ英仏に続いて5番目に核保有国に。記事は技術者の証言を元に、「中国の運命を決定づけた瞬間」までの歩みを紹介した。

 他の中国メディアも、16日に合わせて「英雄」たちをたたえる記事を相次ぎ伝えた。一方で、核軍縮をめぐる世界の現状に触れたり、核兵器の恐ろしさを伝えたりする報道はほぼみられない。

 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が11日にノーベル平和賞に決定したこともほとんど報じられていない。中国外務省の毛寧副報道局長は14日の定例会見で直接の論評を避けた。

 ただ、毛氏は「中国は一貫して、核兵器の全面禁止と完全廃絶、核のない世界の実現は全人類の共通の利益だと考えている」とも述べた。中国政府は核実験初成功の際の声明でも、敵対していた米国を念頭に「中国の核兵器開発は、核保有国の核独占を打破し、核兵器を廃絶するためのものだ」と主張した。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 この数日前の日本被団協のノーベル平和賞受賞はほとんど無視され、60年前の自国の核実験成功が賛美されるという驚くべき状況です。それでもかろうじて核兵器廃絶のタテマエだけは残っているようです。あらゆる問題において、中国はアメリカとの覇権主義競争に明け暮れる現実主義が支配する中で、自称社会主義らしい美しい理念が形骸化されながらも首の皮一枚残っているのが最後の救いでしょうか。

 もちろんロシアや中国がこういう状況だからと言って、毎日間断なくメディアを通じて人々に中国脅威論が煽られ、アメリカの中国包囲網づくりの最先端で軍事同盟強化・戦争準備に狂奔する日本政府のあり方が正当化されることはあり得ません。しかしロシアのウクライナ侵略戦争とそれへの中国の実質的協力によって、両国が世界平和に敵対していることは明らかであり、その是正についての説得力ある言動が求められており、特に世界の左翼勢力にはその点での理論的アイデンティティが問われています。

 ユーラシア大陸の東西それぞれでアメリカ帝国主義を頭目とする軍事同盟が強化されている今、その絶好の口実とされている中国とロシアの行動に対する当面の外交のあり方を現実主義的に構築するとともに、それぞれの専制主義・覇権主義に対する現状分析と理論的研究を深めることが必要です。もちろん両国の変革は両国人民の使命なのですが、日本を含む発達した資本主義諸国の社会進歩への悪影響が甚大なので、私たちにとっては、社会変革の失敗の経験という反面教師の意味を含めた分析対象ではあります。もっとも、そういう言い方は傲岸不遜であるかもしれません。私たちと同時代を生きる両国の人々の営みへの敬意を込めて、そうした学問的営為が行なわれるのは当然の前提です。

 中国とロシアの現状を考えれば、グローバルサウスという言葉が喧伝される中でも、それを批判的に吟味しながら見ていく必要があります。1023日、BRICS首脳会議がロシア中部カザンで行なわれ、西側諸国による制裁がもたらす悪影響に「深い懸念」を示す成果文書「カザン宣言」が採択されました。プーチンは西側諸国が対ロ制裁を科す中、グローバルサウスを取り込んで孤立回避を図りたい考えです。ただし中ロはBRICSの拡大で一致しましたが、インドは慎重であり、BRICSの反米化には反対しています(「赤旗」1025日付)。

 同首脳会議に合わせて、中印両首脳の正式会談も実施されました。中印関係は2020年に国境地帯で両軍が衝突し20人以上の死者が出たことで悪化していましたが、国境問題で両国高官が対話を重ね、1022日に国境問題の解決策で合意したと発表しました。「両首脳は、国境問題の解決で重要な進展があったことを高く評価。国境問題に関する対話メカニズムの役割を発揮させ、国境地域の平和と安定を共に守り、公平で合理的な解決策を模索することで合意しました。/中国メディアによると、20年の衝突以降、中印は31回の外交対話、21回の軍事対話を行い、協議による問題解決を進めてきました」(同前)。

これらの記事からは、グローバルサウスをめぐる交渉において、中国とロシアの覇権主義が発動されたり抑制されたりする様子が分かります。世界進歩の原動力として、発展途上国、そしてNPONGOなどの市民社会アクターなどが挙げられますが、それらが自動的に進歩勢力であるわけではなく、アメリカ帝国主義や中国・ロシアの覇権主義との関係で、自立して平和構築の独自の役割を果たすことができるか否かが問われます。

 

 

20241027日総選挙結果の雑感

 

 1027日の衆議院選挙で、自公与党は過半数を割りました。2012年末総選挙での自公両党の勝利による第二次安倍政権発足以来、初めての激変です。長く続いてきた自民党1強体制に本格的なひびが入ったことは画期的です。

 この事態をもたらした最大の功労者が共産党機関紙「赤旗」であり、同紙による裏金問題の暴露にあることは、立場を問わず衆目の一致するところです。ところが自公与党の大幅後退の穴埋めは立憲民主党(以下「立民」)と国民民主党(以下「国民」)の躍進にとどまり、共産党は10から82議席後退し、れいわ新選組が3から9議席へ3倍加したのとは明暗を分けました。共産党の敗北の原因として党の自力の後退が挙げられます。確かにそれは見やすい部分ですが、その他に世論の保守化を直視する必要があります(目を背けてはならない)。その観点からすれば、自公与党の大敗によって新しい政治プロセスが始まった、という見方については、新議席配置の下で今後の政治展開の新たな可能性を見るという意味では妥当ですが、民意が新たな段階に入ることで変革の基盤が広がるような状況になった、とは決して言えないと思います。

自民党敗北と「立民」「国民」躍進の原因としては、「赤旗」による裏金暴露が自民党を敗北させたことが第一の功労ですが、率直に言って、「立民」「国民」が共産党と共闘しなかったことが功を奏したことも同時に見る必要があります。おそらく自民党に愛想を尽かした保守票が、保守化した野党に安心して流れたということが考えられます。共産党のような根本的変革にはとてもついて行けない層です。そういう意味では、「立民」野田党首が共産党と政権を共にしないと宣言したことは結果論としては、選挙勝利に貢献する「好判断」だったと言えます。ただしそれは「赤旗」が裏金問題で自民党を徹底的に批判し支持層を流動化させたという、今回の特殊状況下だけで通用することであり、その前提がなければ「立民」が鳴かず飛ばずであったことは明白です。つまり今回の総選挙における与野党獲得議席の激変は、基本的には民意の進化ではなく、肥大化してきた保守層の内部での流動化に過ぎないと見るべきではないかと思います。底流には物価高による生活苦があるとはいえ、政治変革の展望を知り得ない中では保守化の殻を破るまでには至りません。

 したがって、共産党の前進のためには、組織的な量・質ともの強化だけでなく、民意の保守化の原因と構造の解明とそれに基づく対策、民意を変える方途の探求を欠くわけにはいきません。そうしなければ支持拡大ましてや党勢拡大にはつながらないと構えるべきでしょう。そこで、今多くの人々が抱いている政治意識を表明したと思われる「朝日」投書(1014日付、神奈川県の66歳、契約社員の男性)を紹介します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

(声)立憲の公約、期待もあるが不安も

 立憲民主党が衆院選の公約を発表した。「政権交代こそ、最大の政治改革。」がキャッチフレーズというが、肝心の内容が希薄だと感じる。

 高等教育の無償化、児童手当の増額、低所得者の年金上乗せ給付などと出費がかさむ施策を盛り込んでいるが原資はどう確保するのだろう。防衛費も、そのための増税は行わないとするが防衛費自体を増やさないとは言っていない。米軍普天間飛行場の辺野古移設工事は中止し、基地のあり方などについて米国に再交渉を求めるという。移設先を「最低でも県外」と宣言し、混乱を招いたかつての民主党政権を思い出してしまう。実現可能と思える公約は、紙の保険証の存続くらいだろうか。

 有権者は、自民党派閥の裏金事件に目をつぶっても生活の安定を取るか、混乱覚悟で政治不信を払拭(ふっしょく)するかの選択を迫られている。国民の多くが自民党の対応に納得していないとしても、その不満が直接野党の票にはならない。公約に実現性を認めて初めて投票行動につながるのだ。

 二大政党制を目指すなら、立憲民主党を育てる意識も必要なのだろう。だが、生活はどうなるのか。期待と不安が入り交じっている。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 「朝日」への投稿者ですから、平均的な人より政治をよく見ていることがここからも分かりますが、残念ながら共産党の政策は始めから眼中にありません。まあそれは当然のことでしょう。経済でも安全保障についても、通常のメディアに触れておれば順当にこの程度だと思える保守的立場がしっかりしていて、「有権者は、自民党派閥の裏金事件に目をつぶっても生活の安定を取るか、混乱覚悟で政治不信を払拭(ふっしょく)するかの選択を迫られている」と「的確に」述べています。――自民党政権でこそ政治が安定し、そのおかげで生活が安定する。さもなくば混乱に陥る。――牢固としたこの生活=政治意識が生まれるメカニズムを解明して、そこに届く政治変革の言葉をどう紡いでいくかをしっかり考える必要があります。

 2015年における戦争法反対闘争の盛り上がりを受けての野党共闘の成立と今年に入ってのその明確な破綻(「立民」の保守化が原因。地域事情に応じての存続はあるが)が政治意識の保守化・変革化に影響を与えていることを見ることも必要です。右翼の首相を戴くこととなった、2012年末総選挙での第二次安倍政権発足以降、民意の保守化・右傾化も進んだように見えます。それをベースとしつつも、2015年以降、野党共闘による政権交代の可能性がいくらか見えてくると、自民党政治に代わる政治のあり方への期待があり、支持獲得の上での共産党と「立民」との相乗作用がいくらかあり得ました。そこでは民意の保守化が潜在化させられ、それを上回る変革の政治的勢いがほの見えかけました。ところが、「立民」の保守化が進行し、共闘への消極姿勢が徐々に高まり、ついに今年、共闘の破綻が明らかになることで、そうした勢いはまったく消失し、民意の保守化が再度ますます顕在化することで、共産党をはじき出す力学が完成しました。政権交代という、政治変革の展望につながる目標を野党共闘は掲げたので、それは保守化を突き崩す一つのきっかけとなりうるものでしたが、それを喪失したことは保守化の濁流の増量を意味すると言わねばなりません。

一方で、多くの日本人は忍耐強く、悪政に耐えて日々をやり過ごすことに長けています。政治はハナから諦めています。他方で、最近は物価高が襲いかかり生活困難が増しています。「諦めと忍耐」VS「生活苦」。この対抗関係において、保守化と変革の展望がせめぎ合っています。野党共闘は力関係を後者有利に運ぶ一つの要因であったということが、今となっては分かります。共闘破綻と保守化の中での「立民」「国民」の躍進という反面教師を得たことで。もちろん、悪政はそれを克服する運動を呼び起こささざるを得ない、という変革への究極の根拠を忘れるわけにはいきませんが。

 左派的民意において、共産党が退潮しれいわ新選組に抜かれたということも大問題です。山本太郎氏は「裏金」選挙ではいけない、30年来の不況が最大の争点だと言っていました。これは基本的に正しい認識です。金権腐敗政治の一掃というのはマイナスをゼロに戻すというだけのことであり、本来の政治の任務は政策展開によってプラスを生み出すことです。ただしより正確に言えば、問題の本質は不況ではなく貧困拡大と格差構造の固定化であり、不況という景気循環の問題ではありません。これは選挙における宿痾的問題点です。自民党は財政を中心とした経済政策の実権を掌握している与党のアドバンテージを活かして、経済構造の問題を景気循環にすり替え、一時的な実利をちらつかせることで選挙を乗り切ってきました。ポピュリストのれいわもいわば本能的にそれを踏襲しているのかもしれません。ただし本質を外していても身近な訴求力という点では「正解」と言わねばなりません(もちろん景気対策が不要だというのではない)。

 共産党は労働者階級・人民の立場での経済的整合性を実現しうる経済政策体系を追求している唯一の党です。経済政策の財源も示しています。この百貨店的な共産党に対して、れいわは専門店的に消費税廃止と給付金支給の一点突破政策に徹したように見えます。百貨店は分かりにくく、専門店は分かりやすかったのでしょうか。財源に無責任なポピュリズムの勝利とも言えます。「国民」も「手取りを増やす」の一点突破で成功しました。ここからの教訓として、真の学力と試験対策用の学力とは違うように、政策全体はいいとしても、選挙対策用の売り込みをうまくやることが必要だ、と言えます。しかし今のところ、その程度にとどめます。残念ながら私にはそれ以上のアイデアはありません。

 以上は主に経済政策の問題ですが、安全保障政策はそれ以上に難しいと言えます。戦後平和勢力は戦争体験という運動上の「貯金」を食い潰してきて、今日では、世論の圧倒的多数が日米安保条約と自衛隊を支持するという状況下で、オルタナティヴを提起して理解を得ることが非常に難しくなっています。もちろん共産党は原則的且つ現実的な政策を時々の情勢に即して常に提供していますが、上記の世論状況下で、毎日メディアが中国脅威論を煽っており、岸田政権の大軍拡の強行に対して大きな反対世論が起こってきませんでした。

 歴史問題と現代の戦争の危機との違いを考えることも重要です。その点で参考になるのが、在日ドイツ人のマライ・メントライン氏の発言です。日本とは違って政治教育がしっかり行なわれ、政治について自分の頭で考え行動参加も当たり前のドイツでも極右が伸張しています。その現状について以下のように鋭く指摘しています(「松恋の本はあなたを待ってます(2) ゲスト 著述家・翻訳家 マライ・メントラインさん 今回の推し本『14歳、ぼくらの疾走―マイクとチック』 ヴォルフガング・ヘルンドルフ著 木本栄訳(ドイツ)、ホスト・杉江松恋」、「赤旗」1028日付)。 

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 マライ 今の極右や右派ポピュリストはナチスじゃないんですよ。その危険性を見抜く授業をしなければいけないのであって、ヒトラーさえ戻って来なければ大丈夫というのではダメです。もちろんナチスの犯罪は教えなきゃいけない。でも今の課題はそれとは違う。教育の中身が時代にマッチせず、教条化、形骸化している面があります。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 日本について言えば、アジアに侵略したあげくにアメリカと戦争に至った過去とは違って、今日ではアメリカとの軍事同盟が戦争の危機を招く状況にあります。ところがそれを、アメリカに守ってもらって日本の平和があると圧倒的多数が信じ(*補注)、毎日毎日、メディアがそれを前提にしてすべての軍事・外交・安全保障政策を報じています。この状況では、過去の戦争の教訓を正しく伝えること自身は大切だけれども、単にその延長線上に、現在も併せて一般的に戦争と平和を論じても全く不十分です。それがどれだけ意識されているか危惧しています。

 経済政策と安全保障政策について触れましたが、もちろん政治課題は非常にたくさんあります。気候危機などすぐに思い浮かびますが、ざっくりと人権問題という多様で大きな分野もあります。平和・安全保障については憲法の形骸化など(明文改憲を許していない意義は大きいとはいえ)、後退の連続というほかありませんが、人権問題では、いまだ「世界に冠たる」人権後進国にとどまっているとはいえ、それでも日本社会なりには歴史的に前進してきました。朝ドラ「虎に翼」が社会現象にまでなったことはその証左です。社会進歩の勢力も近年漸く憲法第13条を諸運動の中心に掲げるようになりました。このように様々な政治課題ごとに凸凹があり、その全体像をにらんで、どう訴えていけば効果的か思案のしどころです。

 取り留めもない話になり、実証性のない思いつきレベルの話に終始しましたが、今回の総選挙の一端でも捉える一助となれば幸いです。

 

     *補注 「アメリカに守ってもらって日本の平和がある」認識問題

 アメリカに守ってもらって平和、という通念は無批判的現状認識としては当たっています。日本はサンフランシスコ単独講和と同時に日米安保条約を締結し、仮想敵国を持つ軍事同盟の道を進むと決しました。周辺国とは敵対していきます。そうなれば必然的に支配国アメリカの意のままに再軍備し、軍事・外交を従属国としてコントロールされ、それが平和を守ることになります。その上で法的・政策的に既成事実の積み重ねが形成され、その体系が一定の整合性を持ち、そこから外れることは整合性を破壊する非現実的な政策だと指弾されます。これは最上段のボタンを掛け違え、それに従って順々にボタンをかけていく状態であり、途中ではこのかけ方が正しいと錯覚しています。最下段では間違いが分かり、異論が発せられますが、上から途中までの現実に慣れている向きには逆にそれが間違った雑音にしか聞こえません。これが本土と沖縄の関係です。

 この道は同時に侵略戦争を始めとするアメリカの方針に従うことですから、戦争に巻き込まれる危険を背負うことになります(事実、ベトナムやイラクなどへの侵略に加担しました)。この誤った道を正すのは原理的には簡単です。軍事同盟を脱して周辺国との敵対を解消し善隣友好関係を結ぶことです。ただし既成事実の膨大な積み重ねが、経済・政治・イデオロギーの全体を規定していますから、現実的には脱出はなかなか困難です。しかしそうした展望を持ち、時々の現実に即した打開の政策を具体的に提起することが必要です。それは価値判断・政策判断の問題です。

 以上をまとめると、「アメリカに守ってもらっている」現状をありのままに認識し、同時にその意味を考え、別の現実を選ぶ価値判断(政策判断)を持つことが必要です。現状認識と価値判断・政策判断との区別。それが、民意を理解し同時にそれを変える上で不可欠の姿勢だと思います。詳しくは拙文「平和について考えてみる」参照。

 

 

          断想メモ

 

 最近、牧野広義氏の「マルクスの思想と恐慌論――不破哲三氏の所説の検討(関西唯物論研究会編『唯物論と現代69 2024.6』所収)という論文の存在を知り拝読しました。マルクスの恐慌観についての不破説の誤りを批判しています。論文は新版『資本論』における、不破説に基づく監修者注への批判にもなっています。労働者教育協会副会長の牧野氏によるこの論考は、科学的社会主義の研究と学習運動における政治的歪みを正す意義を持ちうると思います。

                                 2024年10月31日




2024年12月号

          日本経済の改革をめぐる緒論点

 

 大特集「日本経済 改革への提言」では、村上研一氏の「外需依存経済の歪み・産業衰退と日本経済」(以下、村上「産業」論文)、小畑雅子氏の「雇用、最賃、ジェンダーでの労働改革」(小畑「労働」論文)、藤田実氏の「AIICT技術と日本産業 競争力の衰退と企業の対応(藤田「デジタル」論文)、小栗崇資氏の「利潤第一主義から社会的役割を果たす企業へ」(小栗「経営」論文)、友寄英隆氏の「人口減少社会と日本経済の変革」(友寄「人口」論文)の後に、上記5氏による誌上討論「日本経済の再生へ 民主的な改革を考える」(「誌上討論」)が配され、さらに他の筆者らによる「人権」「財政」「金融」「社会保障」「教育」「国土・地域」「農業」「環境」の各論も追加されて、総合的な現状分析と改革提言になっています。

村上「産業」論文では、1970年代以降、機械・金属輸出で得た外貨によって食料・エネルギー・資源の輸入を可能にする外需依存的産業構造が定着しましたが、2000年代以降、機械・金属貿易黒字が減少し、食料・エネルギー・資源の貿易赤字が賄えない、という危険な状況が指摘されています(16ページ)。輸出拡大を実現した国際競争力は労働者と系列・下請企業に対する強い支配力に基づくコストダウンから生じています。つまり外需依存経済を可能としたのは賃金抑制であり、それは「国内供給力に対する消費需要・内需の抑制」(17ページ)を伴うことによって1990年代以降の長期不況につながります。そうした内需停滞だけでなく、国内産業の供給力の衰退も明瞭となりました。それは「新自由主義的改革に伴う株主優先・短期的利益志向の企業経営への変貌と、経済活動のグローバル化に伴う生産拠点の海外移転・産業空洞化の帰結として捉えることができ」ます(19ページ)。

 需要と供給両面での衰退が明らかである以上、労働条件の改善や所得再分配によって内需拡大を図るだけでなく、食料・エネルギーなどの輸入依存の資材・物資を含めて、国内供給力の再建が必要だ、というのが論文の強調点です。その際に、国内産業の供給力衰退の原因が株主資本主義的経営による短期的利益志向にあるのだから、「意思決定における株主=私的所有の専制を抑制し、従業員や顧客、地域社会など様々な関係者が経営に参画できるような生産主体への変革が不可欠であると」(20ページ、下線は刑部)指摘されます。

 階級闘争の一大焦点としての選挙戦においては、何よりも物価高などによる生活困難が重視され、その打開に向けて、まず賃上げや社会保障の充実、といった分配と再分配に目がとまります。人々の生活実感と切実な要求からすれば、それが当然のファースト着眼点であり、経済政策の訴えの中心点として押し出されます。しかしそれだけでは需要面に一面化され、供給面の再建が抜けます。そこでまず国民経済の再生産と貿易のあり方から見て、国内産業の供給力再建の必要性を説き、さらにはそれを実現すべき生産主体の形成と変革にまで言及して、暗に資本主義そのものへの批判と体制変革まで進んでいるのが村上氏の論点提起であろうと思います。

 

 小畑「労働」論文では、低賃金構造の原因として、雇用の流動化政策に次いで、ジェンダー格差を取り上げています。そこでは男女賃金格差の原因が三つ指摘されています。一つは「男性稼ぎ主モデル」の立場から、女性労働を「家計補助的」として低賃金を押しつけるものです。二つ目は、ケア労働に対して、家事労働的な仕事だから低賃金でいいという考え方です。三つ目に間接差別の問題があります。厚労省令では間接差別として三つの措置を限定列挙しています。しかし現実には「見えない差別、見えにくい差別」が「あらゆる場で無数にあ」るので、三つの措置に限定することなく明確に禁止し、間接差別の有無を争う裁判では立証責任を使用者側とする法改正が必要と主張されます(25ページ)。この点では、総合職が社宅制度を利用できるのに一般職ではできないことが男女間の間接差別に当たることを東京地裁判決が認めています(今年513日)。三つの措置以外での間接差別を認める画期的判決を勝ち取った運動の意義は大きく、さらには法改正に結びつける契機とすることが求められます(28ページ)。

 そうした低賃金構造に対して「すべての労働者の賃金にかかわる、社会的な仕組みを改革していくことが求められている」ので、全労連は社会的賃金闘争を推進しています。それは「最低賃金、公務員賃金、公契約、ケア労働者の賃金の抜本的改善をもとめるたたかい」(26ページ)です。ケア労働者の低賃金の多くの部分は、「家事労働的だから」というジェンダー差別から来ており、それとともに「家計補助労働」論が合わさって、(女性労働者の中での比率が高い)非正規雇用労働者の低賃金へと連動しています。最低賃金の引き上げはそこに直接関係しますが、少なくない正規雇用労働者も最賃水準近傍で働いているので大いに影響があります。また公契約条例で自治体発注事業の労賃を底上げすることは地域経済の活性化につながります(26ページ、「誌上討論」65ページ)。労働組合の組織率低下が賃金と労働条件の切り下げに直結しているだけに、ナショナルセンターが主導する社会的賃金闘争が目に見える成果をあげ、労働運動復権につながることを期待します。

 

藤田「デジタル」論文によれば、ICTAI技術での日本企業の競争力衰退が顕著です。ICT産業のハードでは、米中韓台の独占あるいは寡占状態であり、ソフト・サービスではGAFAM支配が確立し、日本企業の入り込む余地がありません。AI産業でもOpen AI・マイクロソフト・エヌビディアなどの圧倒的な市場支配下にあり同様です。さらに生成AIの利用増大に伴って、日本でアマゾンなどの「データセンターの増設によってクラウドサービスの独占が強化されるということは、あらたなビジネス創出の源泉となる国内のデータ収集もアメリカ企業に握られることになる、ということを意味している」(32ページ)と指摘されます。

 それに対して「日本企業はアメリカ企業が開発した技術基盤の上で、日本に対応したサービス展開を進めようとして」おり、この状況は「国際収支面ではいわゆるデジタル赤字を拡大させることにな」ります(33ページ)。日本はEUのようなデータ主権を持たず、日米デジタル貿易協定は自由貿易を推進しており、それは取りも直さず日米の競争力格差の下でのアメリカのデジタル植民地化をもたらします。「デジタル赤字を縮小するためには、日本発のAI技術やそれを組込んだ画期的なデジタルサービスや製品・装置を開発し、輸出を増大させる必要があ」りますが、「現在の日本企業の開発力では絶望的」とされます(33ページと37ページの注4)。この状況では「AI産業ばかりでなく、日本の経済それ自体も衰退し続けるという傾向からは逃れられないだろう」(37ページ)と結ばれています。この最後の警告は、再生産構造の中で(ないしは産業連関を通じることで)、AI産業の衰退が他産業も含めて連鎖していくという意味か、それとも単に、AI産業の衰退から類推して他産業も同様のことが起こるだろうという意味か、が気になるところではあります。

 

小栗「経営」論文は「利潤原理を転換し社会的役割を果たすように企業の変革を進めていけるかどうかが、日本経済の改革(さらには資本主義の改革)にとって問われている」ので「そのための理論的視点を示したうえで具体的な企業の改革の課題について問題提起し」ています(38ページ)。理論的視点について詳しくは、小栗氏の「株式会社とは何か マルクスの『所有と機能の分離論』から(本誌201612月号所収)に展開されています。それに対して、拙文・本誌201612月号の感想「企業の社会的責任と社会変革」で、丸山惠也氏の「企業の不正事件を告発し、企業の社会的責任を問う」と併せて検討しています。

 今回の論文については、理論的検討(上記拙文参照)は措いて雑駁な政治的印象になってしまって恐縮ですが、ひたすら漸進的改革が主張され、「生産手段の社会化」という言葉が意識的に避けられ、「資本主義経済の改革」(38ページ)という言葉も資本主義の枠内の「改革」であり、社会主義的変革には言及しないということが特徴的です(「利潤原理を転換する」という資本主義にとっては致命的な問題を扱うにもかかわらず)。これは2016年論文にある、通説の所有論への批判がベースにあると思われます。今回の論文からは、「協同組合企業と株式会社」という「資本主義が生み出すこの過渡的形態は、貨幣資本(株主)の所有の力に服するのではなく、機能資本の担い手(経営管理者)とその下での労働者が社会的役割を果たすことによって顕在化し、私的な富から社会的な富への転換を推し進めるものとなる」(40ページ)というエッセンスを読み取ることができます。

 もちろん「株式会社が社会的役割を果たすようになる」には「資本主義への批判が高まり様々な抵抗や運動が起きることによってである」(同前)という断り書きが添えられています。と同時に「その場合、資本が批判に直面して延命のために経営を改変することなども伴うことになる」(同前)と、あえて資本主義の可塑性(それは強靱性も意味するだろう)にも言及している点が印象的です。

 私が科学的社会主義を学び始めた1970年代にはまだ影響力の大きかった20世紀のマルクス・レーニン主義(スターリン主義と言うべきかもしれないが)の革命論においては、政治革命が重視され、革命過程における断絶が強調され、国有化をテコとした上からの急進的な経済変革がイメージされていたと言えます。それは強力革命のみならず、議会制民主主義を通じた革命においても同様でした。下からの地道で広範な社会変革は事実上軽視されていました。その「成果」がソ連・東欧や中国などの社会主義社会であり、それを今日私たちが政治面でも経済面でも反面教師として扱わざるを得ない以上、その革命論もまた採用し得ないことは明らかです。したがって国家の指令に基づいて経済社会のあり方を急激に変えるのではなく、それを(草の根の生活と労働を含む)下から徐々に確実かつ実質的に変革するようなオルタナティヴの一つとして、株式会社のなし崩し的改革という道は検討に値するでしょう。ただし2016年の上記拙文でも言及したように、一方では、株主資本主義という資本所有に基づく支配が今日なお圧倒的現実としてあり、他方では、機能資本とは、決して社会的使用価値を生み出すという歴史貫通的な機能だけでなく、資本の自己増殖のための機能としても捉える必要があることは留意すべきです。そこでは資本間競争に促迫される搾取強化の衝動が不断に働くことを見逃すことができません。その競争のあり方を上からと下からの民主的規制で調整することが課題となります。それに対して、通説的所有論の視角に基づく「生産手段の社会化」が「一気解決」となる、という見方が否定できないとも言えます。しかしその際は経済社会の実質的民主化の道から外れる危険性が高くなります。いずれにせよ理論と歴史的経験を参照しつつ、目前の実践に臨むしかないと言うべきでしょうか。

 小栗「経営」論文では、周回遅れの日本資本主義と対照的に、EUでの先進的な実践が様々に紹介されています。もちろんそれら一つひとつは私たちが真剣に学ぶべき経験であり、たとえば「SDGsは民衆のアヘン」などと言って門前払いするのは適切ではありません。ただしそれらはあくまで資本主義の枠内の改革であって、社会主義的変革を志向してはいません。将来的に、社会主義志向勢力がそれを継承することは可能ですが、現状では(社会民主主義派などの)体制内改革勢力が新自由主義との綱引きをあたかも永遠のごとくに行なっています。

 それに対して、中南米では20世紀末のベネズエラ革命から今日まで、一部に社会主義的変革を志向する勢力を含めて全域で一進一退の政権攻防を繰り広げています。その前史として1950年代からのキューバ革命を挙げる必要があります。これは始まりはともかくとしても、成り行き上、社会主義強力革命となり、土地所有関係の変革を含めて、生産手段の社会化が敢行され、ソ連型社会主義社会が形成されました。そこには容易に政治的・経済的にソ連型社会主義の欠陥を指摘できるし(暗い部分)、今日に至るまで諸困難の激動の中で存在していますが、対米自立を含めてラテンアメリカの独自性による存在感を持ち、非同盟中立運動の中心的アクターとなってきました(明るい部分)。こうして革命後の社会・キューバは21世紀まで生き残り、中南米の変革に主に精神的影響力を持っていると思われます。

 1999年には、資本主義を超える21世紀の新しい社会主義を標榜するチャベスがベネズエラ大統領に就任し、以後、中南米では中道左派の「ピンクタイド」と「21世紀の新しい社会主義派」が対米従属の新自由主義勢力との対決を続け、政権を争っています。各国で議会制民主主義制度によって政権を取っても、キューバのように土地所有変革を断行できるわけではないし、アメリカの影響力も強いだろうから、反革命の拠点は残り、紆余曲折は避けられないでしょう。一方で一部の左派政権の独裁化や他方で新自由主義に対するピンクタイドの妥協的姿勢も問題とされます。しかし中南米においては、資本主義を超える社会主義的変革を目指す勢力が現実に政権を争う一角に存在している、ということが独自の緊張感をもたらしていることでしょう。この状況下で所有論の視角が持つ意味を注意深く見ていく必要があります。

 資本主義はそもそも企業社会であり、特に日本社会は資本の法則が過剰貫徹することを思えば、小栗「経営」論文が企業改革を日本経済の改革の中心と捉えて、その理論的視角と具体的な企業改革の課題とを提示したことはまったく正鵠を得ています。もとよりその論文は社会主義的変革をテーマにしたものではないのだから、拙文の以上の記述は的外れのそしりを免れないかもしれません。将来にわたっても資本主義の改革という体制内にとどまる立場も社会主義的変革を志向する立場も、当面する資本主義の改革では一致できます。しかし私たちが直面している社会的諸問題の多くは本質的には資本主義の矛盾から生じています。それに対する当面の改善策と根本的解決策とを併せ持つことは社会主義的変革を志向する立場から出てきます。当面の改善策は資本主義の不安定性・暴力性に晒され続けることを意識して、その改善策をどう位置づけ提起しさらに活かし伸ばしながら、根本的解決策につなげていくかを捉えていくことが必要です。そういう先々の視点を持つことが当面の改善策提起の安定的理解に資するのであり、それは資本主義の本質的矛盾を常に意識し社会主義的変革を志向する立場から可能になると思われます。こう言うといささか思弁的に過ぎますが…。

 

本誌10月号で人手不足が取り上げられました。その際に総括的論文を含むとはいえ、主に現場密着型の考察が中心となりました。それに対して本号の友寄「人口」論文はまず人口問題と労働力政策の基本概念を説明しています。一つ目に「生産年齢人口と労働力人口との区別と連関」(46ページ)、次いで「マクロ的な労働力人口」と「ミクロ的な個々の企業レベル」「セミ・マクロ的な各産業部門レベル」での人手不足(47ページ)が示されます。人手不足とは一般的には、ミクロ、セミ・マクロでの相対的人手不足を指します。中には人手過剰もあるので、ミクロやセミ・マクロの人手不足を単純合計したものよりマクロの人手不足は少なくなることが指摘されます(同前)。何よりも現実から出発するという意味では現場密着型の考察が大切ですが、それを前提にしつつも、一般論として全体を見渡すことも必要であり、その意味で基本概念の獲得は重要です。

 その説明に次いで、絶対枠としての「人口減のもとで、労働力人口を維持する政策が採られてきた」「三つの柱」が明らかにされます(48ページ)。――1.高齢者と女性の就業率の引き上げ 2.労働法制の規制緩和による非正規雇用の増加 3.外国人労働者のなし崩しの導入・拡大――

 そうした「努力」にもかかわらず、2019年をピークに労働力人口そのものが減少に転じています(同前)。それに対して「再生産論の視点」から「産業部門ごとの相対的人手不足の実態を分析して、労働力需給バランス表を作成して長期的な視点で労働力計画を立てること」(同前)が必要ですが、自公政権はその視点を欠いています。また新自由主義路線による労働条件の切り下げにより、エッセンシャルワーカーの人手不足が深刻になっています(49ページ)。さらに「少子化対策」と「女性活躍政策」が失敗している根底には、「男女の性的役割分業による家族モデル」を前提としたシカゴ学派のゲーリー・ベッカー流の人口理論の誤りがあると指摘されます(同前)。

 労働力人口が減少しても労働生産性の上昇である程度カバーできますが、政府の労働生産性の認識が間違っているので、労働者個人の問題に責任転嫁されていることが以下のように厳しく指摘されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

労働生産性は各産業部門で質的に異なっており、ケインズ経済学の所得分析による単純な「集計」概念では解明できない。 …中略… 一国経済の労働生産性を比較するには、産業部門ごとに異なる労働生産性の実体を分析し、産業ごとに異なる問題点を解明して、再生産構造全体の改革を進める必要がある。

 再生産論の視点を欠いた経済分析から帰結される政策は、生産性を向上させるためには個々の労働者の「働き方改革」が必要だという労働政策に帰着する。再生産構造を変革する産業政策を欠いたまま、労働者の尻を叩いて生産性を上げよということになる。

           50ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

友寄「人口」論文において「再生産論の視点」は「日本経済の生産・流通・消費の全過程を価値視点と使用価値視点の両面から捉える再生産構造の解明」(46ページ)と規定されています。この「価値視点と使用価値視点の両面」を意識すると、政府の「労働生産性」概念に対する上記の批判と一致するかどうかは分かりませんが、次のように考えられます(関連した緒論点については拙文「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」参照)。

 まず通常、「労働生産性」といわれるものは付加価値生産性であって、物的労働生産性ではありません。「これはあくまでも貨幣単位によって示されるので、物的な生産性ではない。単位労働時間当りの所得を示すから、不等価交換の尺度としての意味をもつ。しかし、資本家的な立場からはこれが生産性として理解される」(『大月経済学辞典』、松田和久氏による「労働生産性の測定」から)。価値量と使用価値量を俊別し、本来の労働生産性とは単位労働時間当たりの使用価値の生産量であるとすれば、同じ使用価値については労働生産性の国際比較が可能ですが、様々な使用価値を含む国民経済全体どうしでのその国際比較は不可能だといわねばなりません。

 そこで通常の付加価値生産性ではなく、本来の物的労働生産性の国民経済的な指数を作るとすれば次のようになります。「異なった諸使用価値を生み出す具体的有用諸労働の物的生産性上昇率を国民経済的に一つの指数にすることは原理的に不可能です。そこで各具体的有用労働ごとの物的生産性上昇率を出し(それは時間当り各生産物量の増加として測定できる)、国民経済における各生産物の価値量の割合をウェイトにして加重平均することにより、近似的に求めることになると思われます」(拙文「ゼロ成長の国民所得論―国民所得と労働価値論―」、 5ページ)。これで国民経済次元での近似的な「労働生産性指数」を一応作ることができるので、国民経済的な生産性の変化を見ることが可能です。それでも国際比較は不可能ですが、マクドナルドのハンバーガーを用いた購買力平価に倣えば、何か世界共通的な生産物を軸にして各国民経済の労働生産性比較をするのも可能かもしれません(それでどれほど意味があるか…)。あるいは基準年を決めて、各国の労働生産性変動を比較することは可能でしょう。

 もっとも、友寄「人口」論文からの上記引用は、労働生産性分析におけるケインズ経済学的な「集計」概念の無効性を指摘し、産業部門ごとの問題点の摘出と、それに基づく再生産構造全体の改革を提起しているのだから、無理やり「集計」概念の対案を用意する必要はないかもしれません。「価値視点と使用価値視点の両面」を探るとこうなるのではないかということから、再生産論の視点について考えてみた、ということではありますが…。

 さらに言えば、論文の「再生産構造全体の改革」とか「再生産構造を変革する産業政策」という問題意識からすればこうなるでしょう。――(通俗的な生産性概念である付加価値生産性を導出する)所得分析による単純な「集計」概念による「労働生産性」の国際比較での日本の劣位を振りかざして、そこからいきなり個々の労働者の生産性の低さに短絡して責任転嫁するのは筋違いである。産業部門ごとの生産過程そのものに分け入ることで(付加価値生産性では流通=実現問題が入り込む)、労働生産性の実体をつかみ、併せて各産業部門が国民経済の中に占める割合や相互の絡み合いを把握して、変革の指針を示す産業政策が求められる。――

 次いで別の論点として、「日本経済の生産・流通・消費の全過程を価値視点と使用価値視点の両面から捉える再生産構造の解明」の中でも「生産・流通・消費の全過程」に焦点を当てるならば、消費過程での労働力の再生産(労働者本人と家族の生活維持)を含めて、ジェンダー視点でケア労働などを解明するフェミニズム経済学に学ぶことが重要でしょう。市場内のペイドワークだけでなく、全社会的な投下労働を掌に乗せることで、再生産概念の拡張のみならず、労働価値論の深化にも資すると思われます。

 本誌特集を含め、ジェンダー問題の目前の諸課題への取り組みが強調されます。それは当然ですが、より高い視野から社会全体の再生産を眺望することで、具体的諸課題のそれぞれの社会的位置づけも明らかになります。たとえば、「家庭部門や地域コミュニティ、公共部門、民間部門の4つの経済主体のそれぞれが社会の再生産を担う割合と、各部門で再生産に従事する男女の割合も、消費や投資といった経済活動量と長期にわたる生産性の向上に影響する」(長田華子・金井郁・古沢希代子編『フェミニスト経済学――経済社会をジェンダーでとらえる、有斐閣、2023年、141ページ)と言われます。続いて、――ケア産業を充実させることは、持続的な経済成長をもたらす鍵である。アンペイド・ケアワークを4つの経済主体で、また男女間でより平等に分かちあおうとする経済では、社会の再生産に必要な能力を認め、女性の社会進出や賃金上昇を後押しする。男女ともに生産・再生産活動のバランスをとりやすくすることで、社会の再生産と経済成長が互いに強化しあう――と指摘されます(同前)。こうしてすべての格差・不平等をジェンダー視点を含む再生産論から見直し是正することができます。同書では、ウェルビーイングを「暮らしぶりの良さ」と定義しています(3ページ)。再生産論の拡張はGDP中心からウェルビーイング中心の経済システムへの転換を提起していると言えます。

 

 5氏による「誌上討論」は多岐にわたる論点が登場しますが、ここでは2点に絞って見ます。1点。55ページの図1「構造的賃金抑制に基づく経済循環の定置」において「失われた30年」の悪循環構造が総体的に図式化されています。そこでは、賃金抑制を基軸として、家計消費停滞、少子化・人口減少、物価停滞、設備投資停滞、イノベーション停滞、等々がマクロ経済・企業経営・労働者の3層に分けて因果系列の中で図示されています。それはいわば「定常経済」であるとして、本来資本主義とは両立し得ないその状況を成立させる政策要因を以下のように指摘しており、「失われた30年」の総括的把握として理解されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

…前略…この30年、賃金停滞と経済停滞の悪循環の持続で「定常経済」みたいな状況になっていた。「定常経済」でも経済が成立したのは、財政が下支えしたからですが、それが可能だったのは、低金利のもとで国債を発行し、日銀がそれを購入するという実質的な「財政ファイナンス」が可能だったからです。また、低賃金の非正規労働者の活用で、人件費コストを下げることができたからです。ただ現在は、物価が上がり、マイナス金利も解除されて、新たな局面に入ったという感じです。   5556ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 つまり「定常経済」という異常状態は財政・金融政策の不正常さに支えられて始めて「持続可能」だったのであり、企業経営においては非正規雇用の利用による低賃金=コストカットが最大の要因だと言えます。これに続いて企業経営については、売上高が伸びない中で、賃金抑制とともに、金融化に乗じた戦略も問題です。金融収益を伸ばすことで本業の営業利益よりも経常利益が増え、資産構造としても、投資有価証券が有形固定資産を逆転するという異常事態です。売上原価率と資本回転率は過去最低で、資本の効率は落ちています。手厚い株主配当と膨大な内部留保形成が顕著です(5657ページ)。それらを受けて、「いうまでもなく労働者の力が価値の源泉です」(57ページ)という経済の原点を確認する言葉が、改めて現状の異常さを対照的に浮き彫りにしています。

 「定常経済」というと、ジョン・スチュアート・ミルの未来予想や近年かまびすしい「脱成長コミュニズム」を想起させます。それらの是非は措くとして、逆に経済成長至上主義であるはずの新自由主義支配層による株主資本主義的経営や雇用の不安定化政策が、まったく意に反する「定常経済」に帰結し、さらには財政・金融政策を最大限に歪めてフル稼働させるに至っているのはきわめて皮肉であり、歴史的破綻というほかありません。もっとも、これは日本病というべきかもしれませんが、「失われた30年」で例外的な低成長と言われた日本に限らず、先進資本主義諸国や中国などにも停滞経済は伝染しつつあるように見え、資本主義の新自由主義段階のグローバルな普遍的病理となるかもしれません。

 2点。とはいえ冷笑しているわけにはいきません。日本経済の立て直しに賃上げ、大軍拡停止=社会保障充実など分配と再分配の正常化は当然ですが、それだけでは需要側は補強できても供給側が倒れたままです。したがって「国内の産業基盤をしっかり構築しなければいけない」し、「具体的には、日本農業が切り捨てられ、輸出産業だけを伸ばしてきた産業構造を変えるということ」と「そのためには、公的な支援を行って食料や自然エネルギーの生産、地産地消の地域経済圏を作ることが必要だろうと思います」(64ページ)。

 ここまではその難しさを措くとしても、やり遂げるべき課題であることは誰でも一致できるでしょう。問題はICTAIなどの先端産業でグローバル競争からまったく落伍している状況をどう捉えるべきか、ということです。「誌上討論」でこもごも語られているのは…

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 「世界的に進行した機械工業の生産技術の変化に日本産業が後れをとった」。「機械工業が急激にデジタル化していく生産力の発展への対応に後れをとった」60ページ)

 90年代後半から半導体の作り方が完全自動化工場に移っていきます。半導体で一番不良品が出るのは人間なわけです。 …中略… しかし日本は、熟練技能者のカンとコツに頼っていたため、システムと技能者、技能者とエンジニアとの間で、システムが十分機能しなかった」61ページ)

 「日本企業はIT分野では勝てません」64ページ)。

 「デジタル化を産業として見ると日本産業の復活は苦しいだろう」。「日本のデータがアメリカ企業の収益になる、アメリカのデジタル植民地になる」66ページ)。

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 以上、総じて景気のいい話は皆無です。拡張された再生産論の視角からしても、生産過程のみならず、生活(消費)過程でもデジタル化が今後の共通の発展基盤となることは明らかなので、日本産業が先端産業をどう復活させるのかが問われます。

あるいはその世界的最重要戦線ではあえて二戦級に退き、日本の自然や伝統文化・感性などを活かした独自の道を切り開いて、つつましくも内実豊かな生活を成り立たせる産業のあり方を模索する、という方向もありかもしれません。余りに漠とした話ではありますが…。197080年代あたり、戦後かつて後発新興国であった日本の製造業が世界最先端を席捲していたころ、老いた西欧諸国は伝統産業を活かした地域経済圏を保持して、一定水準の生活を守り、同時にそのブランド力は今に至るも世界に通用しています。

 とはいえ、それがほら話で終わらないためには、現在の日本資本主義の再生産構造を冷静に分析して可能な変革の方向を見いだすことが必要となります。というか、それ以前に様々な産業の具体的あり方をしっかり見定めて、振興の方針を誤らないようにすることが求められます。たとえば、「観光立国」が喧伝されていますが、福井一喜・流通経済大准教授は「観光立国という考え方そのものには異論はありません」としながらも「しかし、現状では観光にあまりにも重責を負わせすぎていると思います。観光が経済成長や地方再生の切り札で、すべての地域が潤えるかのような言説は幻想です」と警告しています(「『観光立国』は地方再生の切り札になれない 経済地理学者の警告」、聞き手・田玉恵美、「朝日」デジタル1113日付)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 「もちろんうまくいくところもあるでしょう。でも、概して成功しているのは東京などの大都市ばかりです。観光で稼げと地域に無理な競争をさせ、疲弊させているのは統計上も明らかなんです」

 …中略…

 「観光労働の厳しさ、あるいは空しさは若い人たちを中心に知られつつあり、観光業界の人手不足は悪化しています。外国人労働者の奪い合いも始まっており、観光そのものの持続可能性も疑わしくなりつつあるように思います」

 ――やり方しだいで働き手の境遇を変えることもできるのではないですか。

 「それは難しいと思います。観光産業は接客サービスなど人間にしかできない仕事を中心に成り立っているため、生産性を上げにくく、賃金も上がりにくいという構造的宿命を抱えているからです。観光産業にはそもそも、稼ぎにくいという特性があります。とりわけ地方の中小規模の観光産業では、人口減少で地域の労働力自体が足りていないので、仮に賃金を上げても人手が集まるとは期待しにくいようです。けっして日本の観光産業のレベルが低いわけではなく、そもそも改善しようにも難しいのです。…後略…」

 「観光産業のこうした特性は、業界では常識です。にもかかわらず、政策やまちづくりを考える局面になるとこうした常識がスルーされ、努力しだいで観光でも稼げるはずだ、雇用を増やせるはずだという議論をしている。ごく基本的な経済原理を冷静に見つめる視点が欠けているように感じられます」

 …中略…

 「地域の価値というのはとても多様で、同じものさしでは測れないという現実に目を向けるべきだと思います。観光に向いている地域もあれば、そうでない地域もあるのです。にもかかわらず、観光で稼げと地方をあおり、『成功例』をさかんに持ち上げ、補助金や知名度を得るために地域間の競争を激化させる。うまくいかないのは努力不足だとばかりに烙印(らくいん)を押す。この風潮を深く憂えています」

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 労働現場の実態にまで切り込んで、深くうならざるを得ない論説です。「誌上討論」の問題提起を受けながらも、日本経済の産業展望として「うまい話はない」で終わりそうな残念な状況ですが、地に足をつけてしっかり目を開いて現実を把握するところから始めるしかないようです。

 日本経済をめぐるアレコレの論題に目移りしながら、尻切れトンボみたいな議論で終わり失礼いたしました。

 

 

          新自由主義を捉える

 

 『前衛』12月号「求められる新自由主義からの転換」と言う特集を組み、二宮元氏の「変容する新自由主義――米中対立と新自由主義の新たな局面児美川孝一郎氏の「学校・公教育はどのように変えられてきたのか」黒澤幸一さん(全労連事務局長)に聞く「低賃金・雇用破壊とのたたかいと労働組合の役割」3論文が掲載されています。

 コロナ禍対策やバイデン政権の経済政策などの国家の経済介入強化をもって、最近、新自由主義からの転換を指摘する向きが出てきていますが、違和感がありました。そうした動きを市場原理主義とか「小さな政府」からの脱却と見るのがその根拠でしょうが、そもそもそれらは新自由主義の現象面を捉えたものであり、そのまま本質と見るのは違うと考えてきました。新自由主義の本質はいわば資本原理主義・利潤追求至上主義とも言うべき搾取と金融化の強化に求めるべきで、そのために国家や経済政策を利用するのは手段であり、新自由主義からの転換とは言えないと捉えるべきでしょう。二宮論文によれば、新自由主義の終焉論が出てくるのは、今に始まったことではなくすでに「二つの画期」(104ページ)があり、それに応じて性格を変容させて生き長らえてきた、ということです。

 まず1990年代に入るころから格差と貧困の拡大に対する批判が起こってきて、90年代の後半にはイギリス労働党のブレア政権に代表される「第三の道」路線がEUを席捲し、新自由主義から社会民主主義への移行か、と思われましたが、二宮氏によれば、それは新自由主義の修正継続路線でした。なぜなら、「インフレ抑制を基調とする経済財政運営や法人税・所得税の減税、労働市場の規制緩和といった新自由主義の主要な政策は維持されるか強化され、さらには失業時の給付と引き換えに就労の義務を強化するワークフェア改革、医療や教育の分野への市場原理の導入など新自由主義改革がよりいっそう推進されたから」です(105106ページ)。グローバル経済の相対的安定期には税収増加を伴ってこれがそれなりに機能しました。しかし一方で規制緩和による企業のグローバル展開の促進と生産力増大、他方で雇用破壊・賃金抑制・社会保障削減が進むことにより、生産と消費の矛盾は拡大し経済停滞を生じさせました(106ページ)。これを糊塗したのが金融市場の拡大であり、「金融市場は、社会的格差の拡大によって生まれる上層の余剰資金を債務というかたちで社会へと『擬似的に再分配』する役割を果たし」ました(106107ページ)。債務によって消費購買力を一時的に維持し矛盾を先送りしたのです。

 しかしこの路線も2008年のリーマンショックを契機とした世界金融恐慌によって破綻し、ケインズ主義的な積極財政の救済策で対応しましたが、その後始末として緊縮財政が実施されました。新自由主義批判とそれへの対応の第二の画期です。二宮氏は厳しく批判します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 強調しておきたいのは、緊縮策が単なる債務削減のための方策にとどまらない政治的な意味合いをもっていたことである。端的に言えば、緊縮策の目的は、経済危機の原因を政府の「放漫財政」の責任に帰すことで、本来取り組まれるべき金融市場にたいする規制の強化や新自由主義のもとで進んだ格差の是正といった課題から目をそらさせようとするところにあった。そうすることで、金融危機の後一時的に新自由主義から逸脱しかけた政治の流れを再び新自由主義へと引き戻そうとしたのである。     107ページ

 

金融危機後の財政赤字と債務の増大をもたらした主たる要因は、危機への対応策として実行された財政出動と銀行救済のための大量の公的資金の投入であり、その意味で、各国の債務危機は新自由主義型経済の破綻の産物である。それにもかかわらず、緊縮策は、教育や医療、年金にたいする公共支出の削減という形でその破綻のコストを民衆に支払わせ、危機を招いた原因であるグローバル資本主義の経済構造を温存しようとしたのである。

          108ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 ここには社会保障削減を狙って喧伝される「バラマキ批判」の本質が剔抉されています。何もかも一緒くたにバラマキと称することで諸矛盾の原因と結果を混同し(させ)、原因隠蔽と責任転嫁の緊縮政策を正当化し、社会保障削減など所得の「逆再分配政策」を強行します。「第三の道」を称する社会民主主義路線は新自由主義の変容による温存であり、格差と貧困の拡大の根本にメスを入れません。それは右翼ポピュリズムの温床となり、人権・民主主義の破壊に道を開きます。それに対して「良識派」としてただ現状を無力に嘆くのは「リベラルの偽善」です。分断を嘆いて寛容を説くこと自体はけっこうだけれども、格差・貧困拡大の根源に手をつけずにそうすることは偽善のそしりを免れません。「寛容」の先が人民内部だけでなく、新自由主義支配層にも向いているからです。

 もちろん人権・民主主義破壊の右翼ポピュリズムとは妥協なく闘う必要があり、それに取り込まれてしまっている人々の立ち直りをも含めて、広範な立場の人々との共闘が必要です。しかしその際にもこの「偽善」について節度をもって指摘していくべきでしょう。問題の根源に手をつけない限りは、右翼ポピュリストだけでなく、ニセ改革を打ち出して人々の目先をくらますアレコレの保守政治家が続々と輩出して、ますます矛盾を深めるだけ、という現状はまったく改善されません。

 二宮論文は続けて、バイデン政権の経済政策を2020年代の新自由主義(からの転換ではなく)の変容として捉え、その背景として「@反緊縮左翼と排外主義的右翼の台頭、A大国間(特に米中間)の覇権争いの激化、B気候変動対策の競争的市場化」(108ページ)を挙げています。この三つ目については「脱炭素ビジネスが資本蓄積のための市場としてとらえられるようになってきた」(110ページ)中で、「自国のグローバル資本の競争力強化を目的としてきた新自由主義型の競争国家が二〇二〇年代に衣装を変えて再登場しているととらえることができる」(111ページ)と指摘しています。

 新自由主義型の競争国家については、児美川論文がこう説明しています。――新自由主義は当初の「ロールバック型(国家は退却して、すべてを市場に任せる)」から、1990年代以降は「ロールアウト型(国家は積極的に市場に関与することで、経済成長に戦略的な役割を果たす)」に移行した――(116ページ)。この変化についてさらに説明されます。「どこの国も、グローバル経済競争のなかで自国の新自由主義経済を勝たせたいという思惑があり、国が肩入れをし始めます。すると、新自由主義は、国は警察と国防以外からは撤退するという形ではなく、経済成長のためのインフラ整備や人材育成に積極的にかかわってくるようになります。それが『ロールアウト』型です」(124ページ)。

 このロールアウト型については、久保田貢氏が市民動員の観点から言及しています。安全の自己責任化をテコに、防犯について、市民が警察権力を内在化させていく監視社会が生み出されたことを指摘し、以下のように展開されます。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 国のやるべきことを切り崩し、市民の自己責任とされる。これは新自由主義の特質である。特に、削減することで、「小さな政府」をつくり、国民の諸権利がないがしろにされる現象をロールバック新自由主義という。しかし、社会を維持しつつ、新自由主義をすすめるためには、市民の新たな動員をはからねばならない。「安全は自分たちで」、「ボランティアで助けあいを」。この動員をロールアウト新自由主義という。

           「革新・愛知の会」3541110日付

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 児美川論文でも、新自由主義の内面化が問題とされ、社会については傍観し、自分事についてはひたすら自己責任を受容することがその基礎となります。その打破には社会科学的認識が必要ですが、それを「大上段に振りかざしてもダメです」(129ページ)。就活問題など自分事に関わることを通じて「おかしさ」に気づき、声を上げるトレーニングが大事ではないか、と結ばれます。新自由主義というものを社会全体と諸個人の内面の両方から捉えていくことが必要です。

 二宮論文に戻ります。論文の最後に、今日の米中対立とかつての米ソ冷戦との根本的違いに言及されます。冷戦期の米ソは経済体制の違う(したがって舞台を違える)相容れない存在でした。ところが今日の米中はそうではなく、それどころか、アメリカの主導する新自由主義グローバリゼーションの中で中国は台頭し米中対立に至っているわけです。つまり「一つの舞台の上で展開されている覇権争いで」す(113ページ)。その上で、「中国は、アメリカが途上国や東欧諸国に押しつけた新自由主義的な『ショック療法』を回避することによって経済大国化の道を進むことに成功したという事実」(同前)に注目すれば、アメリカの推進するのと違う道での中国の発展モデルの「成功」そのものが、アメリカ主導の新自由主義グローバリゼーションの矛盾を表している、と言えます(114ページ)。これはきわめて秀逸な論点提示であり、発展途上国への影響力などを含めて、中国の存在感の大きさを的確に説明しています。ただし中国の発展モデルが「新自由主義型」とは別のものであったのか(たとえば、デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』は「中国的特色のある」新自由主義と言っている)、政治上の専制主義が、アメリカの「民主主義VS専制主義」というスローガンとの対決においてどう作用するのか、といった問題点を発しているように思います。

 黒澤論文は、「新自由主義の対抗軸はたたかう労働組合」(139ページ)として、労働者・市民が当事者意識を持つため、「対話と学びあい」を労働運動の文化にするぐらいに広げていく、としています(140ページ)。そこで紹介されている「劣悪な環境に置かれた被抑圧者は、その環境に順応して怒りを覚えなくなる」(同前)というパウロ・フレイレの分析はまさに日本人の多くに当てはまります。自己責任論の克服はこの状態の直視から始まり、分断された諸個人が対話に踏み出すような運動の活性化が求められます。

 

 

          自衛隊違憲・安保条約廃棄の立場からの平和論

 

 被支配層に対するイデオロギー支配を保持しながら、強大な保守支配層が強権政治で暴走するとき、様々な反対者としては、立場の違いを措いて当面の一致点での共闘を優先します。小栗「経営」論文に言及する中では、様々な立場が一致する限られた諸課題への共同の取り組みにおいても、社会主義の立場であってこそ、資本主義の枠内での改革について的確に追求できる、ということを述べました。平和・安全保障の問題でも、安保条約廃棄と自衛隊違憲論の立場でこそ、当面する集団的自衛権反対などの闘争でも正確に闘えると思います。そういう狙いで、201718年に数人の学習会で詳細なレジュメを作って討議しました。(*注)そのテキストが渡辺治・福祉国家構想研究会編『日米安保と戦争法に代わる選択肢 憲法を実現する平和の構想(大月書店、2016年)です。これは戦争法反対闘争における安保条約・自衛隊肯定派との共闘を踏まえつつ、今後の闘いを一層深めるために、立場の違う共闘相手への同志的批判も含めて、平和のオルタナティヴの提起を追求しています。同書の執筆者の一人でもある小沢隆一氏の「集団的自衛権閣議決定から一〇年、いま憲法の平和主義を問う」(上・下)、(『前衛』1112月号所収)は情勢分析の思考的枠組みまで踏み込んで憲法の平和主義を深く追求しています。

(*注)名古屋北法律事務所友の会「暮らしと法律を結ぶホウネット」の平和構想学習会(第1回:201785日〜第6回:2018618日)のレジュメ集渡辺治・福祉国家構想研究会編『日米安保と戦争法に代わる選択肢 憲法を実現する平和の構想(大月書店、2016年)を読む」

『前衛』11月号所収の同論文(上)では、201471日閣議決定による集団的自衛権「限定」容認について、そこに至る経緯とその憲法解釈の無理筋ぶりが指摘されます。その前の予備的考察において、集団的自衛権の概念と憲法九条の解釈が提起されます。後者については、「二項で一切の戦力の不保持を定めた結果、一項だけでは必ずしも判然としない『武力による自衛』も含めて、あらゆる武力の行使を放棄したものである」(61ページ)としています。

 このよく見られる九条の解釈とは違って、集団的自衛権の概念については、政府や一般に通用しているものとは違った見解を提起しています。まず「ある国が攻撃を受けることによって自国の死活の利益が侵害されたと判断する国がこの死活の利益を守るために武力を用いる権利」(58ページ)という理解が示されますが、その解釈を広くとっています。「軍事同盟は、この集団的自衛権を根拠にして結ばれると言えますから、軍事同盟で結ばれた国家間の関係は、『集団的自衛権』の最も端的な形態ということになります」(同前)。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 それゆえ、「集団的自衛権の行使」とは、その全体像を余さずとらえようとした場合、平時も含め他国と軍事同盟関係を形成することと言えるでしょう。それに比べて、「集団的自衛権の行使」を有事における「武力の行使」のみに限定するのは狭すぎる理解です。「集団的自衛権の行使」を、それを全面的にとらえる「軍事同盟関係の形成」という意味で理解すると、そこには共同での武力行使だけでなく、後方支援はもちろんのこと(実は「後方支援」は「武力行使」の一部として理解されることがあります)、基地の提供も含む広い概念ということになります。      同前

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 確かに、集団的自衛権を有事における武力行使に限定する狭い解釈ではなく、「こんにちにおける軍事同盟そのものの是非を問う必要があるとの観点」(60ページ)から、集団的自衛権の全体像を捉えるべく広い解釈を採用することは理解できます。ただし一般的には政府の狭い解釈が通用し、集団的自衛権に基づいて有事に武力行使することの是非がもっぱら問われているので、小沢論文においてもそこに焦点を合わせた議論が展開されています。

 以上の予備的考察から、論文(下)(『前衛』12月号所収)では、「九条をめぐる法と政治をどう見るか」と「九条改憲と壊憲への反対運動の準拠点」について展開されます。その始めに、憲法と政治(平和・安全保障)についての論文としては異例に、哲学的考察が用意されます。「制限と限界(当為)の弁証法」という視点の提示です。まるまる引用します。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

・事物はそれに固有の質=限界を持ち、これを超えてしまうと、そのものではなくなる。

・事物はそれに固有な質を保持した状態において、無矛盾な存在ではなく、それを維持しようとする力とそれを超えようとする力(当為)がせめぎあい、それらのバランスが(とりあえず)保たれている状態(均衡状態)において存立する。

・何がそれに固有の質=限界であるかは、どのような動きがその限界を超えようとするのか、またそれはなぜ超えようとするのかを探求することで明らかとなる。

・事物に固有な質や均衡状態は、そこに働く諸力(憲法の場合、それを守る力と破る力)の作用の帰結である。          71ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 もちろんここからすぐに想起されるのは、生産力と生産関係との矛盾、土台と上部構造の規定関係と相互作用といった、人類史の発展法則を解明した史的唯物論の基本命題です。論文では続けて、ヘーゲル『大論理学』から「存在そのものが自身で制限の超越を企て、その超克を成し遂げる」というより端的な言葉が引用され、「憲法九条を踏み破ろうとしている安保条約とそれに基づく体制になぞらえると、よく理解できる」(同前)とされ、まさに論文のそれから後の展開はひたすらその具体化だと言ってもいいくらいです。

 蛇足ながら、先の小栗「経営」論文で直接扱っているわけではありませんが、株式会社を一つの過渡的形態とする資本と労働とのせめぎあいは、資本主義(という質=限界)を超克する社会主義を生み出す人類史の衝動とでも言うべきものであり、この「制限と限界(当為)の弁証法」で理解できるように思われます。もっとも、史的唯物論の基本法則とその一部である資本主義から社会主義への移行における「制限と限界(当為)の弁証法」は進歩・発展を描き出していますが、「憲法九条をめぐる法と政治」におけるそれは反動的方向への衝動だという意味では正反対です。にもかかわらず「制限と限界(当為)の弁証法」は非常に良く当てはまり、そこから逆に前進的方向への教訓を得ることさえできます。

 改憲策動と壊憲の歴史は実体としては、米日支配層と日本人民との闘争史であり、それを直接反映する安保条約(体制と政治)と憲法九条(を守る人民運動)との矛盾を介して、法的には牽強付会かつアクロバティックな法解釈とそれへの対抗史と言えます。最後の法解釈次元がきらびやかな対決に見えるかもしれませんが、米日支配層と日本人民との闘争における「制限と限界(当為)の弁証法」が深部にあって全過程を規定していると言えます(*注)

 その詳しい過程は省きますが、「制限と限界(当為)の弁証法」を適用した論文見出しによって大まかにたどることができます。時期的には前後に重なる部分がありますが、「憲法九条をめぐる法と政治」の大きな流れとしては以下のようにまとめられます。

a憲法制定から1950年代:「制限としての非武装平和主義の憲法九条 それを限界として乗り越えようとする安保条約・自衛隊」(72ページ)

b60年安保闘争・新安保条約体制以降、冷戦終結頃まで:「制限としての『専守防衛』の自衛隊 その限界を乗り越えようとする集団的自衛権行使、自衛隊海外派兵、日米共同作戦態勢の構築」(73ページ)

c1970年代末以降、冷戦終結を経て現在まで:「制限(均衡点)としての三つのガイドラインと防衛関連諸法制 それらによる九条の実質改憲とその限界を乗り越えようとする九条の明文改憲」(74ページ)

 以上見るように、憲法九条をめぐる法と政治の動向では、憲法制定時から今日までの闘争史の中で、「制限」と「均衡状態」が代替わりしていきます。それは遺憾ながら、支配層の意向の着実な実現ならびに人民のじりじりした後退の過程と言えます。しかし「制限と限界(当為)の弁証法」の視点で論文はそこから教訓を引き出しています。

 ----  ----  ----  ----  ┬┬  ----  ----  ----  ----  

 まとめると、「歴史は一足飛びには進まない」とも言われるように、戦後日本における憲法九条を守る人民のたたかいは、政府と改憲勢力による九条破壊を残念ながら現在にいたるまで許してきてしまっているものの、九条の明文改憲はなお阻止し続けているし、時代ごとの憲法九条破壊のたくらみに対して、時には大きな反対運動を組織して立ち向かい、それに一定の制限や限界をかけたり、破壊のペースを遅らせたりしてきたのであって、九条を守るたたかいは、決して無駄ではなかったということ、それどころか、たたかえばたたかうだけ成果があげられるということであり、それは今後のたたかいに引き継がれていくべき貴重な教訓であるということです。     76ページ

  ----  ----  ----  ----  ┴┴  ----  ----  ----  ----  

 続いて論文は「制限と限界(当為)の弁証法」の諸形態を問題にし、「法と法」から「法と政治」へ、具体的には、法と条約の改定をめぐるガチンコ勝負から閣議決定を多用するフェイントへという手法の違いに言及していますが、詳細は省きます。

 次いで「九条改憲と壊憲への反対運動の準拠点」について、まず安保条約・自衛隊に関する立場の違いを反映した、「非武装」と「専守防衛」の二つの平和主義の「協力・共同」を取り上げています。2014年の集団的自衛権閣議決定から2015年の戦争法制定に至る安倍政権の暴走への反対闘争における「協力・共同」は大きな役割を果たしましたが、その後は今日に至るまで共闘破壊の逆流が見られます。

論文はその「底流」を人民の意識に求めています。「戦後長きにわたって形成されてきた日米安保体制が、『米の集団的自衛権+日本の個別自衛権』の体制として説明されてきたことで、『安保体制下の専守防衛』に信頼を寄せる意識や、『憲法も安保も』という感覚が醸成されてきたことが大きく関係していると考えます。そこから、『安保条約・駐留米軍の抑止力』への信頼が生じ、その呪縛から抜け出せないでいるのが、現在の状況ではないでしょうか」(81ページ)と指摘されます。中国や北朝鮮の脅威、ロシアのウクライナ侵略戦争もあって、「安保条約・駐留米軍の抑止力」への信用(信仰)が強化されています。運動の前進にとってその打破こそが求められるにもかかわらず、この信仰が強い理由について、論文は「今に続く東アジアの軍事的対立の起源である朝鮮戦争と、そのインパクトの解明が、それを解くカギだと考えています」(82ページ)と主張されます。確かに朝鮮戦争によって、それまで国論を二分していた、全面講和か単独講和かについて世論が後者に傾き、同戦争中の1951年にサンフランシスコ単独講和と日米安保条約が結ばれたことがその後の日本の行く末を決定しました。なお今日、北朝鮮が核兵器開発を続け、かたくなで奇矯な政治・軍事行動をとる淵源として、朝鮮戦争での無差別爆撃による徹底的な破壊の恐怖体験を指摘し、日本人がそれへの加担を忘却していることを批判する見解があります(林博史氏の『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』、高文研、2023年)。

しかし1970年代あたりまで、安保条約についての賛否の世論は二分した状況で、安保破棄が革新政党の存在理由で(公明党さえ同調していた)、今日のように安保条約・自衛隊への圧倒的支持があるのとは違った一時代があったことは別に考慮すべき問題ではあります。ただし今日的には、安保条約の締結と在日米軍への抑止力信仰は直結しており、まさに最初のボタンの掛け違えに準じて「正しく」整合的に掛けていった結末として今日の惨状があります。しかしその掛け違えの末端を見られる沖縄の人々を除けば、順調に掛かっているボタンに要らぬ文句を言うな、とばかりに、対米従属下で戦争に巻き込まれる危機という惨状を理解し得ない状況が支配的です。

 それに対して論文では、日米安保体制が核軍事同盟である点と、米軍駐留・軍事同盟への抑止力信仰にもかかわらず、核抑止力への批判は強い点とに着目して、ここに世論を変える「手がかり」(85ページ)を見ています。被団協のノーベル平和賞受賞を一つのテコに、核兵器禁止条約推進を一層推し進め、外交による平和を追求しているASEANの道を鏡として東北アジアにも及ぼす方向を指し示し、そうした総合力を持って、日米軍事同盟の抑止力信仰を変えていく努力が求められます。

(*注)米日支配層と日本人民との対決を反映した憲法観・平和観の対決について、清末愛砂さんに聞く「日本の軍事主義を問う憲法の平和的生存権――東アジアの平和を築く方向(『前衛』12月号所収)がその一端を提示しています。

 日本国憲法は「平和の問題と人権が密接不可分にガチッと結びついているところに大きな意義がある」(60ページ)と清末氏は主張し、九条のみならず前文に平和的生存権が明記されていることを重視しています。そこでは、「恐怖」と「欠乏」から解放される生活が平和の一つの状態とされ、しかも状態にとどめるだけでなく権利性を付与しています。

 ところが日本の政治状況では、「政府が言う『安全保障』とはまさに『軍事に基づく平和』にほかなりません。『人権に基づく平和』という概念がまったく理解されていない」(62ページ)と厳しく批判されます。そうした無理解の上に立つ軍事主義は「いかに人権を踏みにじるか、実際にそれが突き進んだところで、人の命を奪ったり、人を傷つけたりすることになるところまで見て」おらず、「あくまで『敵』という感覚でしか見ないで、自分たちは『敵』にやられるかもしれないから『自衛』なのだという発想でしかない」(同前)ということになります。

これはまさにイスラエルの発想です。在日イスラエル人で元空軍兵士のダニー・ネフセタイ氏は最近の日本は、「戦争する国」イスラエルとそっくりだと言います。――北朝鮮や中国など、近隣諸国の人たちを見下し、脅威を煽る…。それは、「周りの国はすべて敵」だと考えるイスラエルの国防意識とそっくりです。でも、こちらが軍事力を増強すれば、向こうも増強するし、きりがないのです。武力で平和は築けないし、抑止力にもなりません―― 清末氏によれば、このような発想には人権の視点が欠落していることが付け加えられると思います。「安全保障」という言葉を使うとき、政府・支配層と同じ意味ではないかと自省する必要がありそうです。いや、二つの「安全保障」を意識的に使い分けることが必要だと言うべきでしょう。
                                 2024年11月30日



                 月刊『経済』の感想・目次に戻る

MENUに戻る