月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2020年1月号~6月号)

                                                                                                                                                                                   


2020年1月号

          欧州情勢と英国EU離脱問題 その分析視角

 1212日のイギリス総選挙でジョンソン首相率いる保守党が大勝し、コービン党首の労働党は大敗しました。2016年の国民投票でEU離脱が決まった後も混乱が続いていることに嫌気がさした英国民が「早く離脱を片づけよ」という意思を表明した形です。森本治氏の「欧州はどこに向かうか 政治の不安定化と経済の行方はこの選挙よりも前の論文であり、ドイツの欧州支配とか南欧諸国の諸問題を含み、「極右政党の動きに注意を払う」(29ページ)という重点の置き方が特徴的ではありますが、イギリスのEU離脱問題も一つの焦点として扱っています。それに対して、伊藤寿庸氏の記事「19年英総選挙 EU離脱の選択」上中下(「しんぶん赤旗」12161718日付……以下、H 上中下)と同「英総選挙 保守党勝利」「混乱に嫌気 EU離脱へ」(同紙・日曜版1222日付……以下、N)は英総選挙の結果をテーマとして詳しく分析しています。このように両氏の論文と記事はテーマが違うし、選挙の前後という時点の違いもあり、比較すること自体にやや無理があるとも言えますが、分析の立場が対照的なように見えるので、それについて、イギリスのEU離脱問題と総選挙結果とを軸に考えてみたいと思います。

 ごく単純化すれば、森本氏は「上から視角」であり、伊藤氏は「下から視角」だということになります。これもごく一般論として言えば、「国民経済の安定的発展を国際関係の中で実現すること」と「諸個人の生活と労働の安定的発展を実現すること」との関係をどう捉えるか――両者は協調するか対立するか、対立するのならどちらを立てるのか――その視角の違いが問題となります。とはいえ、それは一般論の次元であり、両者の今日の関係は歴史具体的には新自由主義グローバリゼーションの中で展開しています。そこでは両者は対立し、前者が後者を規定しています。

私が「上から視角」というのは、<世界経済(グローバル資本が中心)→国民経済→地域経済(中小企業が中心)→職場・企業→諸個人の生活と労働>というように、グローバル資本が上から諸個人までを規定する現在の関係を肯定・推進する立場です。そのようなグローバル資本による支配関係としての現状を変えるべく、矢印を逆方向にして、諸個人の立場で下から民主的規制を積み上げる、というのがオルタナティヴ=「下から視角」の立場です。その変革の行き着く先は、諸個人の自由な発展が世界経済の自由な発展と矛盾しない共同社会です。

 森本氏は「国際的な努力のもとに、内戦の終結、発展途上国での環境に配慮した経済成長が不可欠である。EU諸国においても、経済・賃金格差の縮小や庶民の生活水準の向上がはかられなければならない」(40ページ)とまとめているから、究極的立場としては、決して「上から視角」ではなく「下から視角」です。しかしそれは結論として現状を否定する理解(あるいは志向)であって、現状そのものを把握するために、まずは肯定的理解を経過する必要があります。「上から視角」の立場であるかのように現状を捉えるわけです(あるいは「上から視角」が貫徹している現状をありのまま捉える)。そこで気を付けるべきは、ミイラ取りがミイラになって現状追認に絡め取られることですが、とにかくまず現実に飛び込まねばなりません。

 森本論文では、ドイツの独り勝ちによる欧州支配がまずおさえられています。ところが米中貿易摩擦の影響でそのドイツ経済が後退しています。そのことと、中東諸国での内戦などによる大量の難民が欧州に押し寄せてきたこととが重要事実として認識されています。かつて侵略によって難民を生み出した反省に立って、第二次大戦の戦争責任・戦後責任を果たさんとドイツが主導して欧州で難民を受け入れ、その流入が増え続けたことで、欧州諸国では難民排斥が強まり、EUを非難する極右政党が台頭してきました。それらが今日の情勢理解の基本とされます。

 その前に2000年代初頭に欧米で資産バブルが発生した直接的契機として、1999年のユーロ導入が指摘されます。

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 …略… ユーロ導入には、財政赤字の大幅削減などきびしい条件をクリアしなければならなかったので、南欧諸国も抜本的な財政構造改革を断行した。おかげで、ユーロを導入すると南欧諸国ではインフレが鎮静化し、長期金利が劇的に低下した。

 ドイツも参加するユーロなので、南欧諸国でも金利が劇的に低下したことで旺盛な借り入れ需要が発生した。その大量の調達資金が、建設・不動産業などに流入して資産バブルが発生した。

 ギリシャなどは、金利が下がるとともに、ユーロ建て国債の信用度が高まり、いくらでも発行することができた。この大量の調達資金が公務員の増加や、賃金の引き上げなどに使われバブル景気がもたらされた。         29ページ

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 これは新自由主義グローバリゼーション下での諸現象の関連(主に財政と金融)を描いています。上記引用(40ページ)の提言にあるような、平和と格差=貧困是正とを起点とする下からの経済発展ではなく、緊縮政策を起点とし、貨幣資本のグローバル展開が主導するバブル景気がその性格です。もちろん現実はそのようなものとして進行しました。

 2008年、リーマンショックによる世界金融危機で資産バブルが崩壊し、欧州債務危機が発生しました。そこでギリシャなどの重債務国をドイツが金融支援し、引き換えに緊縮政策による健全財政を強制しました。資産バブル時にドイツ企業は大儲けしたのに、「いざバブルが崩壊すると緊縮財政を押し付けるのかとの怨嗟の声がヨーロッパ中にみちあふれたが、資金を出すドイツに逆らえなかった。ユーロから離脱しようものなら、自国通貨が暴落し、ハイパー・インフレにみまわれるのは必定だったからで」す(30ページ)。これも現経済体制下での諸現象の連関――弱小国にとっては実に切ない――をそのまま描いています。

 論文は、ドイツについて「もちろん、健全財政の構築というのは、歴史的にはきわめて正しい政策である」(同前)という一般論をまず確認しています。ところが2010年代の中東の内戦による難民の大量流入に対して、ドイツが受け入れを欧州諸国に要請したことで、緊縮財政への反発と併せて、反ドイツの風潮が高まりました。「難民に仕事が奪われるというのは正確でない」など、論文は難民排斥の主張を退けていますが、それに便乗して極右勢力が台頭してきたことを指摘しています。このあたり、ドイツの経済的・政治的な考え方や行動について原理的に首肯しつつ、ドイツの独り勝ちの状況下で行われたことで欧州諸国やその人々の反発を招いた危うさを問題にしているように思います。ただしその原理的正しさや欧州の政治・経済的状況というものを、現経済体制下において捉えているのか、多少なりともオルタナティヴに引き付けて捉えようとしているのかはよくわからないところがあります。一歩間違えると、支配者ドイツのグローバル資本の立場に同化する危険性があります。

 米中貿易戦争による輸出減退によってドイツの景気が後退する中で、欧州の本格的な景気後退を食い止めるため、ドイツの財政出動が期待されます。しかしドイツは耳を傾けないので、ECBは金融緩和政策を断行しています(40ページ)。これに対して論文は、「ドイツは、健全経済の大前提は、健全財政であるという歴史的に正しい信念を堅持している」(同前)としつつ、ECBがさらなる金融緩和に踏み込むことを批判しています。それに続けて結論として、先に引用したオルタナティヴの政策を提示しています(同前)。そういう理論的つながりだと、健全財政という正しい原則から、オルタナティヴの政策へ、という美しい流れのように見えます。しかしグローバリゼーション下の欧州で独り勝ちドイツが他国に緊縮政策を強要しながらの健全財政原則の提示である点に、「上から視角」の傾向がありはしないか、という疑問が生じます。ECBによるさらなる金融緩和が間違いなら、当面の策としてはドイツに財政出動を求めることは正当ではないか、という議論もありえるでしょう。

 その他、欧州各国の状況が現在の政治・経済体制下での連関<緊縮財政・難民流入→極右政党伸長>に沿って描かれますが、オーストリアでの緑の党の躍進に、環境保護の重要性への支持が拡大していることが指摘されています。ポルトガルでの中道左派・社会党が総選挙で政権を維持したことについて「賃金や年金を引き上げるとともに、公共投資の見直しなどで財政再建を進めたことが国民に支持されたのであろう」(38ページ)と評価されており、新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴの可能性として注目されます。しかし欧州の大勢はそうではありません。

 イギリスのEUからの離脱問題では、EUに加盟しながらユーロを導入していないなど、イギリス独自の立場が歴史的背景や国民感情などから説明されています。その上で、今日の人々の不満として――自国の政治が大陸諸国の政治家やEU官僚によって支配されている、東欧などから低賃金労働者が流入し仕事が奪われている――などを挙げています。しかし逆に「EUに加盟しているおかげで、ロンドン金融センターが興隆するとともに、自動車会社をはじめとする外国企業がイギリスに進出し、イギリスは多くの雇用を確保することができた」(33ページ)ことが指摘されています。このようにEU加盟のデメリットの方はあくまで「不満」として、メリットの方は客観的事実として描かれています。北アイルランドについては、EU離脱でアイルランドとの国境に税関が設置されることで紛争が再燃する可能性があり、それが国民には知らされていなかったことが指摘されています。

かくして2016年の国民投票では、人々の不満につけこみ、事実が十分認識されない下で「ウソの主張がまかり通ることに」なり(同前)、離脱派が勝利しました。20197月には「ウソをついて国民をミスリードしたジョンソン氏が首相に就任し」ました(34ページ)。離脱問題に関するこうした叙述は、おおむね日本の通常マスコミで見るものと同様で、イギリスのEU離脱が経済の混乱を持ち込むとして批判されています。そうした主張がまずグローバル資本の立場と一致することは明らかですが、それが労働者・人民の利害とも一致するのかについては詳しく展開されているわけではありません。この辺は「上から視角」的であると言えます。

それに対して、伊藤氏の記事ははっきりとした「下から視角」に立っています。森本論文では、通常のマスコミと同様にデマゴーグとして扱われていたボリス・ジョンソン現首相について、その政策の評価は別としても、勝利の立役者として扱っています。

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 保守系タイムズ紙は、「(圧勝を)幸運と見るのは間違いだ。意図的に練り上げられた、ジョンソン(首相)のチームの戦略の正しさの証明だ」と指摘。EU離脱の完遂、公共サービスへの支出増、犯罪への厳しい姿勢、愛国主義―。「これはすべてロンドンのEU残留派に無視され、見下されることにうんざりしていた人々に明確なメッセージを送ることを狙った政策だった」と書きました。

 国民投票でEU離脱キャンペーンの指揮をとり、ジョンソン首相の側近に登用されたドミニク・カミングス氏は、同紙に「議員やマスコミは、ロンドンで彼らが交わしている会話が、現実から百万マイルも離れていることを悟るべきだ」と語っています。

 カミングス氏は、旧炭鉱地域のイングランド北部ダラムで生まれ育った人物。同氏によれば、イングランド北部、中部の労働者階級は、長年あらゆる政党に見捨てられてきた、といいます。

 …中略… 

 同氏がタイムズ紙に語った分析はこうです。

 この地域では、1980年代に衰退した産業に代わる新産業の振興など、経済構造の不均衡を正す政策は行われてこなかった。労働党のブレア政権下の好景気の時は、ロンドンや南部でつくられた富が、税金を使って再配分され、この地域の低賃金労働を補填(ほてん)できたが、欧州金融危機と緊縮政策で事態は変わった―。

 「この不満をブリュッセル(EU)に向け、何か良いものを約束する」―この戦略で、国民投票ではEU離脱派が勝利。しかし議会の紛糾で離脱が実現せず、離脱に投票した人が「再び無視され、裏切られたと感じている」。「離脱」キャンペーンの顔だったジョンソン氏の選挙戦略は、この認識の上に立てられました。

     H・上 1216日付    太字・下線は刑部

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 記事では「離脱」が正しい政策かどうかには触れられていませんが、少なくとも批判されていません。離脱政策があいまいだったことが労働党の敗北の原因であることははっきり書かれています。「党内のEU残留派による突き上げが生み出したあいまいな政策が、党の自滅を招きました」とか「離脱支持の労働党支持者は『党に裏切られた』と失望を深めました。介護や教育の無料化、公共サービスの公有化などの先鋭化した政策も、支持離れを止められませんでした」( H・中 1217日付)と指摘しています。

 この記事は、離脱に期待する人々の置かれた状況とそこから来る意識を捉えており、それに沿ったジョンソン保守党の選挙戦略の正しさも捉えています。このようなリアリズムがわが国の選挙分析でも必要です。革新勢力や野党の側では、政策の正しさが強調されるものの(それはもちろん最重要だが)、人々の状況と意識への対応が足りず、安倍長期政権を許しているという問題があります。

 労働党の敗北については、上記のように離脱政策があいまいなのが一番問題ですが、離脱問題と「反緊縮」政策との関連が錯綜していたことも弱点です。有権者の意識を考えれば、選挙戦では、離脱問題が最大の焦点でしたが、緊縮政策も大問題でした。労働党では両政策について地域ごとに訴えが違うという混乱が起こりました。

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 残留派の多いロンドンでは「EU残留」を前面に訴え、「2度目の国民投票」が唯一の望みだと考えた「残留」支持票を集めました。

   …中略… 

 離脱支持の多いイングランド北部では、EU問題に触れず、国民保健サービス(HNS)を守れなどと「反緊縮」を訴えました。しかしEU問題で「裏切られた」と感じた支持者をつなぎ留められませんでした。

 選挙結果を受けてコービン党首は、来年早々の辞任を発表。同氏はオブザーバー紙15日付への寄稿で▽反緊縮、企業の横暴や不平等への批判、気候対策では論戦に勝ったが、議席増に結びつけられなかった▽意欲的な政策と、それを支えた社会変革の運動は決して消え去ることはない――と、たたかいの継続を呼びかけました。

 18歳から44歳までの得票では労働党が保守党を大きく上回りました。特に1824歳では57%が労働党支持(保守党19%)です。

    N 1222日付

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 コービン党首の言うように、破れたとはいえ、反緊縮闘争の継続と若者の支持拡大という点で今後、労働党と社会変革の大義に展望があると言えます。しかし今回は、EU残留問題での混乱で、保守党にうまく立ち回られ、左派コービン党首の登場による革新的政策実現の機会を逃したことはかえすがえすも残念です。様々なハプニングをさばいて「歴史としての現在」を捉え実践することのむずかしさを感じます。後世の人々はこのドタバタを喜劇と捉えるか悲劇と捉えるか…。

 スコットランドでは、独立とEU残留を訴えたスコットランド独立党が圧勝しました。北アイルランドでは、EU加盟国アイルランドとの統一を求める民族派がイギリス残留派を上回りしました(同前記事)。これらは保守党政権にとって深刻な問題ですが、ここでは措きます。そこで、二大争点であるEU離脱と緊縮政策との関連で、支持層の区分を以下のように図式化してみました。

 

 

 反緊縮政策

  緊縮政策

EU離脱

イングランド北部労働者等

伝統的富裕層(?)

EU残留

若者

グローバル資本、支配層

 

 おそらく支配層はEU残留派でしょうから、今回のジョンソン保守党の勝利は必ずしも彼らの意に沿うものではなく、「下からの反乱」の側面を持っています。<EU残留+緊縮政策>の支配層に対して、正反対の位置<EU離脱+反緊縮政策>の労働者たちが、従来の労働党支持から大挙して保守党支持に変わったのが選挙の帰趨を決しました。もちろん保守党はこのように労働者の意識に依拠して選挙に勝ったのですが、本気で労働者階級の利益を実現するとは思えないし、支配層との利害調整にも努めるだろうから、今後の展開は大いなる矛盾を生むと考えられます。

伊藤氏の記事は「下から視角」だと言いましたが、この場合、必ずしもそれが適切に適用されているかどうかは分かりません。従来、労働党を支持していた労働者などが今回、EU離脱を支持して保守党に投票したので、それを頭から否定するのでなく、まず彼らの状況と言い分をきちんと捉える必要がある、という意味では「下から視角」に徹する必要があり、記事はそれを果たしています。ただしEU離脱政策そのものの適否がはっきりしないのでは「やはり彼らは騙されたのだ」というべきか、「彼らの利益を正しく反映する結果になった」というべきか不明です。

私としては不勉強でよく分かりませんが、上の表の左下に位置する若者たちと同じく、EUに残留し、反緊縮政策を支持するのが労働者の利益になるように思います。それが教養あるエリートの選択ではなく、庶民の利益になるということを説得力を持って示すことが必要だったのでしょう。しかしEU離脱が既定方針となり、国民投票後の錯綜した情勢の中で、離脱問題は早く片付けろ、というイライラ感が支配し、離脱支持の気分が世を覆う中ではそれは難しかったのでしょうが…。そういう意味で、改めて振り返ると、「H・上 1216日付」からの引用で太字・下線で強調したEU離脱の完遂、公共サービスへの支出増、犯罪への厳しい姿勢、愛国主義という保守党の政策は絶妙であったと言えます。ナショナリズムをくすぐりつつ、治安への安心感を抱き込んで、緊縮政策を緩和し(=公共サービスへの支出増)、それらをEU離脱の完遂に結びつけています。労働党は、反緊縮政策の徹底だけで闘えるなら勝てたかもしれませんが、EU離脱問題がより大きな争点になって、あいまいな政策しか出せなかったことが致命的でした。

こうした複雑な問題状況を前に、森本氏ははっきりしたEU残留支持の立場から議論を展開し、伊藤氏はその立場がはっきりとは分からないものの、EU離脱支持が総選挙の過程と結果を支配したことを生き生きと描き出していました。拙文では両者の内容に関連して、経済の分析視角と有権者の意識状況についてあれこれ触れました。拙文はもとより大変な限界を抱えています。本来なら、政治と経済の一定の現状分析に基づいて、EU離脱そのものの当否に対する結論を出した上で、それを前提に、離脱をめぐる民意の動向を評価せねばなりません。一般論として換言すれば、客観的情勢を分析し、それに基づいて政策を確定した後に、主観的要素として主権者のイデオロギー状況を把握し、対策を練る、という順序になります(もっとも、イデオロギー状況も勘案して政策に反映させる必要がある場合もあろうが)。拙文では、前段の政策方針がはっきりしない中で、経済分析の視角を問題にし、人々の政治意識を図式化したので、軟弱な地盤の上で、外面的・形式的考察を構築したようなカッコウになりました。したがって、EU離脱問題そのものへの内在が決定的に足りないという致命的弱点があります。それでも主客両面での分析方法について、若干の問題提起になっておれば幸いなのですが…。

以上では、欧州統合の過去から現在への推移の概観を前提として、EU離脱を最大争点としたイギリス総選挙の錯綜した状況を問題にしてきました。選挙の過程と結果の分析は密着した生々しさを必要とし、そこに魅力があるでしょうが、それは近視眼的になる恐れがあります。そこで、未来に向かう長いパースペクティヴをもって選挙過程を観察した一文を紹介します。

ブレイディみかこ氏の(欧州季評)「英保守党、脱緊縮の総選挙 暗黒の2010年代の終焉」(「朝日」1212日付)は、総選挙投票直前、労働党苦戦が伝えられる中で書かれています。だからあらかじめ予防線を張って、保守党の経済政策が労働党化した(財政支出の拡大や最賃の引き上げなどを公約した)という事実を指摘することで、保守党の勝利=労働党の敗北への負け惜しみの材料を提供した、と言えなくもありません。しかしそれは近視眼的見方であり、大きく見れば、保守党が大勝したこの総選挙においても、資本主義=新自由主義体制の危機が進行していることが示されていることを、この評論記事は明らかにしています。

2008年、リーマンショックによる世界金融危機に続いて、2010年に政権についた保守党の緊縮政策がイギリス社会を荒廃のどん底に落とし込んだことで、「資本主義リアリズム」と「緊縮リアリズム」というそれぞれ一世を風靡したブルジョア・イデオロギーが終焉したことをブレイディ氏は告げます。

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 思えば、10年前に「資本主義リアリズム」(=資本主義無双。代替するシステムなど想像できないという感覚の蔓延)が金融危機と不況で崩壊したからこそ、「いや、実は資本主義もけっこうダメで、大失敗するから、その場合の回復策にはこの道しかない」と言い聞かされて始まったのが「緊縮リアリズム」だったのだ。「財政再建無双、代替策などあり得ない」という緊縮リアリズムの感覚が支配した10年代は、英政府が人々のための財政支出を切りまくり、子どもの3人に1人を貧困に落とし、平均寿命の伸びを止め、ホームレスの数を75%増にし、「英国の緊縮政策は人権問題」として国連の調査さえ入った10年だった。どんな温厚な庶民でもこれには怒る。なんという暗黒の時代だったのか。

 二大政党のマニフェストを見て、英誌ニュー・ステイツマンは「資本主義リアリズムは終わるのか?」の見出しを社説に掲げた。が、そんなものはもう終わっていた。10年代の終焉(しゅうえん)とともにようやく終わろうとしているのは「緊縮リアリズム」である。

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これは、EU離脱問題に揺れるイギリスの政治と経済を体制論的視点から大きく総括した論考であり、保守党の大勝という否定的な現象の中にも、「資本主義リアリズム」と「緊縮リアリズム」の終焉という重要な肯定的な本質を洞察しています。

とはいえ現実政治は小事の積み重ねであり、勝った保守党は、今回の選挙政策と支配層の新自由主義政策との違いを調整して、労働者階級を苦しめる政策を実行してくると見るのが妥当でしょう。歴史の大道を実現するには、眼前の小事におけるゴマカシ・ツマズキをうまく処理して、支配層の狡知に負けないまっすぐな知恵を発揮する他ありません。ブレグジットにブレイディ氏の大局的洞察を重ね合わせれば、「資本主義リアリズム」と「緊縮リアリズム」の終焉という大道において、反緊縮政策が花開くべきところを、EU離脱問題という躓きの石に邪魔され、曲折の道に迷い込んだ、とでも言えましょうか。とはいえ、労働党への若者の支持率が高いという希望の種などをまいて、労働者階級を始めとするイギリス人民は、EU離脱がもたらすだろう混乱の土壌の上に、人権を実現する反緊縮政策を開花させるべく闘いを続けるでしょう。戦後最悪の安倍政権の狡知に負け続けてきた日本人民はそこから何を学ぶことができるでしょうか。

 

<補注・人間と社会を捉える姿勢>

 ブレグジットを主導してきたジョンソン英首相やトランプ米大統領などに代表される右派ポピュリスト=デマゴーグが世界中で繁殖し、差別と分断の助長、人権侵害、民主主義破壊が蔓延しています。彼らがなぜ支持されるかを解明するのは簡単ではありませんが、とにかく存在するものを合理的に理解することが必要です。新自由主義グローバリゼーションによる格差と貧困の拡大、それによる社会の破壊がベースにあり、そこで人権・民主主義が無力のように、偽善のように見えることが大きな要素としてあるでしょう。だからある意味、順当な反応としてニヒリズムやシニシズムが広がっています。それに対して経済的土台の変革が必要ですが、それがすぐできるわけではありません。そういう中で社会問題に対して人権と民主主義による当面の解決を探る必要があり、人間と社会をどう捉えるかが問われます。

 ここで人間理解として究極的な例を見ます。昨年6月に新幹線で3人の男女を殺傷した23歳の青年に無期懲役の判決が下り(1218日)、直後に被告が法廷に響き渡る大声で万歳三唱するという「事件」が起こりました。こんなふうにおよそ理解不能に思える「異常な人間」をそれでも理解しようとしたのが、折出健二・愛教大名誉教授です。折出氏は「異常に見えるが、他者不信から孤独感に陥り、自己を世間から遮断させて初めて自分を守れるという自己防衛が支えになっているということが分かる」と分析しています(中日新聞、1217日付=判決前の記事。以前より「刑務所に入りたい」とか、異常な言動が目立っていた)。折出氏はあいち民研(あいち県民教育研究所)メーリングリストあてのメール添付文書で被告を理解する前提としてこう述べています(1217日)。 

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人が社会的に自立して行くには、三つの軸が関わっています。

1つは、人間関係軸で、他者に出会い認められ見守られること、2つめが、社会参加軸で、小さなことからでも一緒につくったり計画したり活動したりする参加の行為があること、3つめに、将来展望軸で、自分の目標を持ちそれに向かう自分(自分らしさ)を確かめられること、です。

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 この事件の被告はきわめて特殊な例ですが、上記は社会的自立の普遍的原理でしょう。これが欠けると人は社会的に不適合となります。表面的には理解が難しいと思える人を前にしても、人間と社会の関係という視点から何とか捉えていく努力が必要なのだと思います。この考察に対して私は次のリプライを送りました(1217日)。

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 貴重な論考をありがとうございます。私たちは通常、「異常な人間」への理解を安易に断念してしまいますが(余裕がなくて、そうでもしないと世間から落後するか?)、あくまで個人と社会との関係の中で分析し理解することを追求するのが社会科学の任務であろうと思います。あらゆる人に対して例外なく人間的に接し、あらゆる人が人間的に生きられる社会をつくり上げていくため、どのように深く人間を理解すべきか。それを考えさせられました。

 次元が違いますが、右派ポピュリズムに多くの人々が囚われていく現状に対しても、上から目線ではなく、その生活の現実とそこから来る心情・社会意識をどこまで捉えうるかが問われています。人権や民主主義を原則的に主張することが、「ポリティカル・コレクトネス」とか言われて揶揄される状況は確かに嘆かわしいのですが、それを有力な空気にしている現実そのものを捉えないと、多くの人々をつかめない「空回り」に終わってしまいます。もどかしい繰り言ですが…。

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 これに対する折出氏の返信(1218日)には「矛盾や葛藤を抱えながらも『生きている』その存在と変容の可能性を探るのが教育学なのでそこは失わないようにと心がけています」とあり、上記拙文の「ポリティカル・コレクトネス」以下の文言に対して、「刑部さんの言われるとおりで、世論の持つ二面性ないしは屈折した期待感などを読みひらく丁寧な作業が要るのでしょう」という深い言葉をいただきました。飛び交うぞんざいな言葉たちに対して大人げなく反応するのでなく、「世論の持つ二面性ないしは屈折した期待感などを読みひらく丁寧な作業」こそが求められています。

 もう一つ参考に新聞記事を紹介します。

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(1995年から8年間のフランス。ナショナリズムとグローバリズムのはざま、緊縮財政・社会保障後退・雇用制度動揺の中、極右が台頭する)

 そんな中、ひきつけられたのが指導教授、エティエンヌ・バリバールの姿勢だったという。思想界をリードしていた一人であるこの哲学者は、情緒的に極右を難じることはなかった。極右の支持者がどのような人々で何を求めているのか、一つ一つ事実を検証した。移民と同じ境遇の社会的に追いつめられた人々がナショナリズムに走っているという分析は、彼の支持者であった左派を中心とした人々から「極右に甘い」と猛烈なバッシングを受けた。「もともと左翼の人々は観念的。自分が見たいように物事を見る傾向があるが、バリバールはどんなにバッシングを受けても、周囲の論調に迎合することはありませんでした。そんな彼の背中を見て、『知識人とはこうあるべきなんだ』と感銘をうけましたね」

   大嶋辰男「逆風満帆 哲学者 萱野稔人(中) 『一発逆転』のフランス留学」

      「朝日」 be on Saturday 20121110日付

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 「もともと左翼の人々は観念的。自分が見たいように物事を見る傾向がある」という萱野氏の断言は心すべきところでしょう。「変革の立場」と「希望的観測」がしばしば混同されて、思い通りにいかないとき、あてが外れた現実を直視せず、それを合理的に把握することを放棄して、「おかしなもの」を無視することがないか、反省することが必要です。

 

 

          中村哲氏追悼

 今年(2019年)はローマ教皇フランシスコが来日し、広島・長崎を訪れ、核兵器廃絶の力強いメッセージを発しました。特に核抑止力論を明確に否定し、核兵器に固執する勢力を批判したことは画期的でした。宗教は状況に応じて善悪様々な役割を果たしますが、フランシスコ教皇は最善の良心を発揮し、世界に大きな影響を与えています。

 124日にアフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲氏はクリスチャンでしたが、その座右の銘「一隅(いちぐう)を照らす」は天台宗=比叡山延暦寺の開祖・最澄の言葉です。彼は、戦乱の続くアフガニスタンでまさに日本国憲法の平和主義を体現する復興活動に挺身し、志半ばで倒れました。その活動は世界を照らしました。私たちはそんなに偉大なことはできないけれども、この地域で日本で一隅を照らし、中村さんの精神を受け継ぎたいものです。神仏を信じる者も信じない者も。

 アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文氏は、「我々より先に無名の先駆者がたくさんいる。それは脈々と続いている。だから小さくても大きくても、いいと思ったことをまっすぐ続けること」という中村氏の言葉を紹介し、「活動の場は違っても、彼の意思を引き継ぐ人間のひとりでありたい」と決意を語っています(「朝日」電子版、1211日付)。引き継ぐべき「活動の場」や「意思」は人それぞれに違います。私は中村氏を日本国憲法に基づく国際貢献の最も美しい実践者として深く尊敬していたので、自ら所属する「暮らしと法律を結ぶホウネット」の「草の根憲法運動」に取り組みたいと思っています。 

ここで憲法前文から引用します。

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 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 

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 一方で多くの人々から愛されるとともに、他方で右派や「現実主義者」から嘲笑されるこの理念を、中村さんはその身を持って体現したと思います。そしてあえて言います。ひどい現実の前にたおれました。

 私たちはどう捉えるのか。しょせん、理念より現実に隷従するしかないのか。中村氏は志半ばでたおれたとはいえ、この理念を一歩一歩確実に実現しつつありました。私たちもその置かれた場所でそれなりのやり方で、彼の遺志を継いでいけるのではないか。

 憲法は未完なのだと思います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるようにはまだなっていない。だから善意でも殺されることがある。でも始めから諦めないで、信頼に値する世界を率先して作っていけ、と憲法は言っているのでしょう。その道を行くのか、冷笑し改憲するのか。憲法を完成させる道を中村氏はかなりのところまで行きました。たとえたいしたことはできなくても、同じ志を進みたいと願うばかりです。

 ここまで書いて私の言いたいことは伝えましたが、中村氏の偉業をもっときちんと書き残しておきたいと思います。くどくはなりますが、それを西谷修氏の追悼文から引用させていただきます(「しんぶん赤旗」1215日付)。

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 その中で(戦乱が続く中で…刑部)中村さんは、現地をまったく知らずに「テロとの戦争」と称して空爆を繰り返す「文明国」を批判し、この地を住めなくして人びとを難民キャンプに追いやり、生きるために麻薬栽培に手を染めたり、雇われて銃をもったりさせるのではなく、人びとが生きる場をもてる最低限の条件を整えなければならないと考えた。干上がって荒れた土地を灌漑できれば耕地が生まれ、人びとはそこで作物を育て、収穫して生きてゆくことができる。それを通して人びとが生きる喜びを感じ、自分で成し遂げるという満足感も得られれば、人びとは武器を持ったり殺し合ったりしようとはしないだろうと。

   …中略… 

 彼こそは「平和の戦士」である。ただしけっして武器をとらない。説得し、分からせ、互いを殺し破壊し合うのではなく、ともに生きる基盤を作るための作業に向かわせる。その闘いは、戦争と、戦争を解決手段とするあらゆる趨勢(すうせい)に対する闘いである。

   …中略… 

 2001年冬、米軍のアフガニスタン空爆が始まって一時帰国していた中村さんは国会に参考人として呼ばれた。そのとき自衛隊の派遣について問われた中村さんは、言下に「百害あって一利なし」と答えた。すると自民党席から「売国奴」というヤジが飛んだ。自衛隊の派兵を拒否する中村さんは、日本政府周辺からはこのような扱いを受けてきたし、その死を踏み台にするかのように、新たな中東派兵も決められている。だが、世界中から称賛される中村さんの功績は、戦争に抗(あらが)って人びとを生きさせるための努力にこそあった。

 その意味では、誰が中村さんを殺したのかは大した問題ではない。この極端に格差のある「文明化した世界」のなかで、戦争をしたがる、戦争にしたがるあらゆる勢力が、中村さんを地上から押し退(の)けたのである。中村さんは銃弾に散ったが、その肖像はいまある航空会社の旅客機の尾翼に描かれてアフガンの天に舞っている。

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 安倍政権は中村氏に対して、死後慌てて感謝状を贈りました。しかし日本政府は彼の事業の妨害者であり、本当に彼に感謝するのであれば、自衛隊の海外派兵をきっぱり断念して、世界に9条平和主義の日本ブランドを再建すべきなのです。
                                 2019年12月31日





2020年2月号

          日本経済分析とオルタナティヴ提示の観点

 日本経済を見る視点として、まず第一に置かれるべきは、人々の生活と労働の疲弊であり、それを改善することをすべての出発点とすべきでしょう。そこで、資本家階級と労働者階級との端緒的対決点である直接的生産過程における搾取のあり方を見て、次いで収奪の構造(それは経済内的には流通過程や資本系列関係に存在し、政治次元に上向して政策過程にも存在する)を明らかにし、対抗的な資本規制や所得再分配を打ち出すことが必要です。その上でさらに苦難の根源である新自由主義グローバリゼーションに代わる地域経済・国民経済のあり方、分配の改善にとどまらぬ生産のあり方そのものの変革まで視野に入れるべきでしょう。

 そのように問題の全体像を大ざっぱに捉えてみると、特集「2020年の日本経済をどうみるか」において、芝田英昭・牧野冨夫・工藤昌宏・山田博文の4氏による座談会「2020年―日本経済の展望」はその全体像に迫っていますが、生産のあり方のオルタナティヴを提示するという最後の点では不足しています。それに対して、小松善雄氏の「東京オリンピックで景気はどうなるか 1964年東京オリンピックと対比しては、元通産官僚でウルトラ新自由主義者の岸博幸氏の議論を紹介しています。小松氏は岸氏の社会保障削減の暴言を批判しつつも、野党の政策に対する「分配ばかりで成長がない」という指摘については肯定しています(55ページ)。

 体制側からのこういう議論は昔から一貫してあり、さらなる搾取強化を狙いつつ、分配では譲歩しない、という根本姿勢をまずは批判する必要があります。しかし安倍政権に代わる野党連合政権実現が俎上に上る今日の情勢下では、オルタナティヴとしての経済政策・産業政策を提示することも併せて必要です。その際に新自由主義グローバリゼーション下でそれに対抗しつつ成立しうると同時に、人民にとって変革的意義を持つ政策であることが求められます。小松氏はアマルティア・センの議論を参照して、格差的ではなく普遍的な教育重視と「国家機能と市場経済の相互補完的な組み合わせ」というかつての「日本の発展モデル」(56ページ)の再構成・批判的継承を提唱しています。センは「諸個人の潜在能力をそれ自体として伸ばし生かす人間的発展」という観点で日本の発展モデルを評価しており、日本の反体制派としては思いもよらない賛辞ですが、少なくとも、人間と社会に破壊的に作用する今日の新自由主義政策よりずっと良いとは言えます。

 前記座談会では、山田氏が「1980年代までの日本は『総中流社会』と言われ」、「将来にむかって自分の所得水準とライフスタイルをイメージすることができました」(41ページ)と指摘して次のように続けます・

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  …略… 明日に希望が持てるような社会にするためには、かつて実体験した「総中流社会」日本の良い所を継承し、より高次元のレベルで再現していく取り組みが求められているのだと思います。こんな取り組みなら、立場や考え方の違いを超えて、すぐに着手できるはずです。かつて、そうだったのですから。      41ページ  

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 こうした一見守旧派的というか復古的でさえある提案がそろって出てくるのを見ると、日本で保守化が相当程度進んで、革新勢力が追い詰められ、「世間」に向かって説得力ある議論をしようとすると「古き良き時代」に依拠せざるを得なくなったか、というマイナスの感慨に囚われます。今だ前方に向かってイメージを喚起する段階に至っていないということなのでしょう。

確かに国民経済の変革にとっては、今よりましであった、かつての「国民的記憶」を喚起することに効果的意味はあります。しかし、それと同時に現今の新自由主義グローバリゼーション下で、いかに抵抗し成立しうる国民経済像・地域経済像をつくり上げていくか、が問われ、具体的な回答が模索されねばなりません。思えばかつて今よりもっと新自由主義構造改革とそのイデオロギーが一世を風靡していたころ、ブルジョアマスコミで孤軍奮闘していた内橋克人氏は名著『共生の大地』を書いて、新自由主義構造改革に対抗するあちこちでの先駆的な取り組みを紹介し、その中に未来の萌芽を見ていました。今では、たとえば中小企業や地域経済の分野で、吉田敬一氏が「地域資源を活かした持続可能なローカル循環型地域経済再生」といったものを提唱しています。

さらには、AIなどに代表される最先端の生産力分野で日本経済が遅れをとっており、こうした技術開発や経済発展を搾取強化ではなく生活に役立つ方向にどう展開していくかも、難しいが重要な課題です。支配層は、4次産業革命によるSociety5.0の実現でバラ色の生活が来るかのような幻想を打ち出しています。しかし実際のところそれは、人々の生活と労働を破壊する雇用劣化などの搾取強化が中心であって、グローバル競争下で「欲しがりません、勝つまでは」ということで、犠牲と我慢がこれまでの延長線上にある、というのが現実的見通しでしょう。それへの当面の対策としては、座談会にあるように政治変革による経済政策の転換、それによる再分配の強化などが直接的には不可避ですが、生産のあり方そのもの、搾取の現場にどう鍬入れをするかがその先の課題としてあります。

座談会が搾取と収奪の全体像に迫っているのに対して、小越洋之助氏の「賃金闘争の意義と課題 国民経済改善に向けて何が必要かは主に搾取の次元に切り込むとともに、最低賃金の問題や社会保障水準などをも取り扱うことで、収奪の次元も扱っています。この論文はそのタイトルとサブタイトルに文字通りに挑んだものであり、賃金闘争を基軸とする国民経済論を提起した手堅い基本的論考として、その全体を注意深く学びたく思います。しかしここでは、生産・分配・再分配、あるいは経済次元と政治(政策)次元といった連関に正しく問題意識を据えた部分に注目します。

 そうした連関に立ち入る前に、分析上必要な区別に言及します。賃金闘争は、生産された付加価値(価値生産物)の中で、賃金と剰余価値との分配をめぐる労働者階級と資本家階級との闘争です。この分配闘争は各生産点での力関係を起点に全産業的、あるいは国民経済的に争われます(グローバリゼーション下では世界的な「底辺への競争」の圧力を受けるが)。それは生産過程に密着した闘争であり、分配関係とは生産関係の一つの現象形態である、という経済学の基本命題が想起されます。それに対して、やはり労働者・人民の生活に重大な影響を与えるものではあっても、課税方法や社会保障制度のあり方は財政を通じた所得再分配の問題です。賃金が主に経済内的問題であるのに対して、税や社会保障は主に政治次元に足を踏み入れた問題です。賃金も税・社会保障も分配問題として一括される傾向がありますが、前者が本来の分配の問題であるのに対して、後者は再分配の問題です。経済上の分配によって確定した所得に対して、政治的行為としての再分配が加えられるという関係があります。

 そうすると最低賃金闘争は基本的には分配の問題でありながら、全国的に政治的決定が行なわれるという意味では(事前的な)再分配の要素もあるように思います。論文では「08年以降から最賃引上げ率が春闘賃上げ率を上回る事例が広がり、16年以降は絶えず春闘賃上げ率を上回るという状況が生まれて」おり、それは「最賃引き上げ運動によるプラスの側面と組織労働者の春闘の低迷というマイナス面を表示している」(62ページ)と指摘されています。これを経済と政治、分配と再分配との関係という視点で見ると、「経済内的に労働運動が弱体化していること」と、「それを補うべく政治的運動の強化により、国民経済的観点で広く世論に訴えることが一定成功しているということ」とのコントラストが見出されます。長引く経済停滞と人々の生活の苦境とが世論上の圧力となって、しぶしぶでわずかながらでも政府が最賃引き上げに動かざるを得なくなった、ということでしょう。労働組合の停滞に対して起死回生の策がなかなか見出されない状況下で、政治的視野を広げて突破口を探っていくことが重要です。ここまで「分配と再分配」などの概念区分に触れましたが、以下では、生産・分配・再分配、あるいは経済次元と政治(政策)次元といった連関をまとめていきます。

野党の経済政策にあるのは「分配」だけで「成長」(生産)がない、という前述の非難には「分配するにもその原資を生産することが先決だろう。労働者への分配を増やすことは、成長(生産)の果実を無駄に消費することであり、新投資の削減を通して成長(生産)の妨げになる」という含意があると思われます(内部留保を増やすばかりで成長に寄与していない現今の大資本にそう言う資格はないと思うが、それはここでは措く)。それに対して、これも前述のように労働者・人民本位の新たな生産のあり方を提示するのは根本的反撃です。しかしそこまで進む前段階として、現状の大資本本位の政治経済体制における生産の枠組みの中であっても、「分配」と「成長」(生産)を切り離すのでなく、その連関をつかんで、現状のような低賃金が原因となった経済停滞から脱却するために、賃上げによる適正な分配の復活がもたらす経済の好循環を描くことが重要です。小越論文はそれに関わります。論文は賃金と国民経済を軸に全体の連関を追求しています。そこに、搾取と収奪を直視し、それとオルタナティヴ提示を統一する視点を構築することができます。論文の問題意識は以下のように提示されます。

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 …略… 資本の側から新技術革新にかこつけて雇用不安、契約労働、低賃金化の動きがあり、これが労働者に将来不安を呼び起こしている。その主要因には賃金が上がらないことがある。

 賃金水準の継続的な低下の問題は社会保障水準にも影響を与えている。社会保障の財源は労働者の労働である。賃金水準は生活保護や公的年金の水準とも関連している。国民経済全体としても、賃金を上げなければ、消費の停滞を招き、日本経済の「好循環」は得られない。本稿では以上の問題意識から、賃金闘争の現状とその意義を再確認し、また国民経済にとってその課題を検討したいと思う。     58ページ

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 付加価値(国民経済的には≒GDP)を生み出し経済を支えるのは労働者の労働であり、しかもそれは社会保障の財源でもあり、賃金を上げることが経済の好循環の肝となります。この問題意識に呼応する形で、最低賃金の大幅引き上げと全国一律制の実現、それを実現する条件としての中小企業支援(社会保険の事業主負担の減免・消費税5%への引き下げ・助成金の拡充・下請け取引の適正化)が提起され(6768ページ)、以下のようにその国民経済的意義だけでなく、それに関連した政界での有望な動きにも言及されます。

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なお、19年に出来た自民党「最低賃金一元化議運」はこのような地域の実態に通暁しているメンバーもいるから一律最賃を提案し、発足したのであろう。そうであれば、政界の中でこの課題に理解を深め、これまでの発想や政策に固執しない大胆で抜本的な改革を行う必要がある。内需を拡大し、労働者や国民の消費購買力を増やし、地域経済、国民所得を増やす政策は賃上げであり、最低賃金の引上げであり、次に述べる国民的最低限(ナショナル・ミニマム)を体現する全国一律最賃制の確立である。社会保障給付は労働の果実の再分配と見れば、賃金、最低賃金を増やすことなしに再分配の原資は増えない。

     68ページ

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 論文は生活困窮の問題を、労働者だけでなく、自営業者なども含めて問題にし、貧困にさせない普遍的な「防貧」策の重要性を説き、その基盤的概念として「労働のナショナル・ミニマム」(国民的最低限)保障を提起しています。その最低保障を実現するものとして、生計費基準で成立した全国一律最賃が想定されています。さらに「日本では社会保障はこれまで、労働のミニマムと切り離されて、独自の領域を作り出してきた」(69ページ)ことが批判され、全国一律最賃を国民的最低限保障水準とし、それと連動させて生活保護や年金の充実改善を図ることが主張されます。――全国一律最賃制の確立は、労働のミニマムとして、そして社会保障における「生活のミニマム保障」の前提、あるいはその基準と関連させることが、今日必要とされるのではないだろうか(同前)。(*注)――それらを支えるべきなのが賃金闘争の活発化です。

(*注)たとえば、年金での「生活のミニマム保障」としての「暮らせる年金」を目指しつつも、その前提として「減らない年金」を実現するための詳細な検討を行なった労作として、垣内亮氏の「『減らない年金』はどうすれば実現できるか――マクロ経済スライド廃止の展望を考える(『前衛』201912月号所収)があります。

こうして経済学的には、生産・分配・再分配、あるいは経済次元と政治(政策)次元といった連関が総括され、人々の生活と労働の改善という不動の前提を握って離さずに、賃金闘争を基軸に、真の社会保障の実現を目指し、それらをテコに国民経済を再生させていく道が開かれると思います。以上、労働経済学や財政学に疎いので、見当違いの誤りがあるでしょうが、私なりに問題を概観し整理してみました。

 なお、四氏による座談会は多岐にわたる豊富な内容で、さらに読み込んでみたかったのですが時間がなく残念です。その中で一つだけ出すならば、「労働力不足」で「売り手市場」であるにもかかわらず賃金が上がらない理由を、牧野氏が明快に説明していることに目が留まりました。「賃金決定の主たる要因は三つあり、二つが賃下げモードになっているからです」と切り出され、次のように続きます(27ページ)。

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 その二つとはまず労資の力関係であり、労働組合がおとなしすぎ劣勢です。もう一つは労働者の生計費=労働力の価値です。実質賃金の低下が続いているため労働者が生活費を切り詰め、切り詰め型生活パターンが常態となり、結果「労働力の価値」を低下させています。一国の賃金水準は、①労働力の価値(標準的な生計費)を基礎に、②労働市場における労働力の需給関係、および③労資の力関係で決まるため、いま②だけは労働側に有利でも、①と③は労働側にマイナスに作用し、その結果、賃金が上がらないという事態が続いています。結局、労働組合の闘争力をいかに高め、人間らしい生活に対する労働者の権利意識をいかに高めるか、これが課題です。

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 ここから得られる教訓は、市場の需給ですべてが決まる、という現象論的な見方を克服して、その底に本質的関係を洞察する目が必要、ということだと思います。そうすることで牧野氏は上記のような実践的課題を提起できています。

 ところで座談会で工藤氏は国民経済について次のように述べています。

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 需要と供給のバランスを示す需給ギャップは、1946月期はプラス1.04%と、11四半期連続でプラスです。これは需要が供給を上回っていることを意味し、通常は物価上昇となりますが、実際にはそうなっていません。       19ページ

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 需給ギャップとは現実の実質GDPと潜在GDPとを比較したもので、後者は企業の生産設備や労働力、技術力をフル稼働したばあいのGDPを推計したものです。その推計が問題で、実際のフル稼働よりも少なく見積もられており、したがって供給力は過小評価されているという指摘もあります。そうすると、需給ギャップがプラスで超過需要になっているというのは本当か、という問題はあります。その問題は措いて、需給ギャップ・プラスが本当だとすると、なぜ物価はたいして上昇しないかが疑問とされます。

ところで、ここでは物価上昇はどういう問題意識で扱われているのでしょうか。一般論を言えば、物価上昇は様々な要因で生じるものですが、ここでは物価変動が景気変動を象徴するものとして、好況と不況の一つの指標としてクローズアップされていると思われます。つまり物価上昇は好況の表現あるいは兆しを意味するものとして扱われています。事実、物価上昇が見られない下で、不況感は横溢しています。格差と貧困が当たり前のようになっている現在、国民経済的にも需要が潜在的な供給力を上回っているようにはとても見えません。上記、牧野氏の指摘されるように、労働力の価値の低下と労資関係での労働側の劣勢が賃金の低迷をもたらしており、低賃金が国民経済停滞の元凶であることは広範な合意があります(安倍政権でさえ賃上げを主張している)。「生産と消費の矛盾」という概念を認めるか否かにかかわらず、国民経済的な需要不足が多くの実感に一致するところだと思うのですが、そうすると政府統計などに現れた「需給ギャップ・プラス」(需要超過)とは何かが問題となります。これは統計の問題か、経済の本質を探る見方の問題か…。

 

 

          マルクス恐慌論の捉え方

不破哲三氏の「エンゲルス書簡から 『資本論』続巻の編集過程を探索する」(一)(『前衛』2月号所収)は、『資本論』第2部第1草稿の「最初の部分で、資本主義的生産のなかで恐慌が循環的に起こる仕組みをはじめて発見したこと」について、「第二部の最初の準備草稿という役割をこえた、重要な理論的意義がありました」と評価しています(145ページ)。これによって、第3部第3篇での「恐慌の必然性の論証の失敗」を乗り越えて、恐慌=革命論を克服し、労働者階級の革命的成長に視野を置いた新しい「必然的没落」の理論に進んだとされます(146147ページ)。それはまた、従来の「資本一般」構想を克服し、「賃労働、土地所有を含めた資本主義経済の全体を研究対象とする、『資本論』の新しい構想に道をひらく転換点ともなったのでした」(147ページ)。そして第2部第1草稿で発見された「恐慌の運動論」を本格的に展開するのは『資本論』第2部、資本の流通過程の中だ、とマルクスは考えていた、というのが不破氏の見解です。

不破氏はこれを『資本論』草稿の検討を通して、マルクス自身の理論的発展として描いています。したがって不破氏の見解を評価するには、マルクスの叙述をたどる必要がありますが、その前に私の恐慌論理解を提示して検討の観点を表明したいと思います。

まずプラン問題については、日本のマルクス経済学の通説である「資本一般」説(プラン不変説)を採ります。もちろん経済学批判プランから『資本論』体系には一定の変化がありますが、そこにおいても「資本一般」という考え方は、その内容を拡張しつつも堅持されています。特に重要なのは「資本一般」と「競争」との次元の相違です。『資本論』は基本的には「資本一般」の体系であり、資本主義経済を理想的平均的な長期の構造において捉えるものです。ここで恐慌論は恐慌の可能性と根拠を明らかにします(必然性の論定についは諸説あり)。そのより具体的な次元として固有の競争論の領域に産業循環論が成立し、恐慌は産業循環の一局面として理解されます。この競争=産業循環論の次元で、需要と供給のときどきの乖離・変動、つまり価値(生産価格)と価格の不一致という短期具体的な運動が市場価格のカテゴリーによって現象的に描かれます。「恐慌の運動論」というものがあるならば、それはこういう次元で言われるものでしょう。「資本一般」と「競争=産業循環」という二重の次元の理論体系によって、資本主義経済と恐慌は本質から現象へと段階的に解明されます。その全体を通して恐慌論は「恐慌=産業循環論」として追究されます。そのもっとも具体的な姿は、経済学批判プランにおける最終項目の「世界市場と恐慌」に属します。マルクス経済学全体と恐慌論はともに商品=貨幣関係の分析に始まり、「世界市場と恐慌」に完結するという意味では、同等の体系性を持つと言えます。

不破氏は第2部第1草稿における「流通過程の短縮」の発見を通した「恐慌の運動論」の解明がマルクスにとって恐慌論確立の決定打となったとしています。もちろんそれは恐慌論における重要な要素であることは確かですが、「流通過程の短縮」は需給の弾力性を形成して、潜在的に恐慌を準備する場を提供するものであっても、恐慌の推進力ではありません。好況過程における超過需要の形成と市場価格の高騰、そして恐慌での突然の崩落等々、産業循環の全体像を、市場価格の諸カテゴリー(価格・賃金・利子率・為替率等)によって、その現象を具体的に解明するのが恐慌=産業循環論の課題です。そういう課題の大きさを考えると、「流通過程の短縮」という一発見をもって「恐慌の運動論」が解明され、マルクス恐慌論が確立したと主張することは難しいと思います。

ある恐慌論研究者から以下のような見解をいただいています。

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「流通過程の短縮」については、マルクス自身の論理において重要であったかどうかともかく、恐慌の発生過程を説く論理において重要かどうか、という観点から考えると,重要ではないと考えています。直感的に考えてみます。これは,商業の存在を意味しているのですから,つまり,生産された缶ビールが,直接,消費者に販売されるのではなく,まずは,スーパーが買い取り,そして,消費者に販売される,ということです。スーパーが流通に入ることが恐慌の発生過程にとって重要なポイントになるとはとても思えないです。

ただし,不破さんも強調されているように,なぜ不均衡が潜在化するのか,という論理は恐慌論において不可欠です。拙論では,個別資本にとっては均衡化の過程が,社会的総資本とっては不均衡となる,よって,その過程では社会的総資本にとっての不均衡が潜在的に累積する,という論理の組み立てを行ったつもりです。

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 恐慌論の体系性はマルクス経済学全体の体系性に相応すると私は考えますので、『資本論』の特定の部分で恐慌論が総括されるということ自体に反対ですが、不破氏の考えを見ましょう。「第三篇のおそらく後半部分を、恐慌論の本格的展開の舞台とするというのが、マルクスの構想だったのでした」(148149ページ)。第三篇とはもちろん第2部第3篇「社会的総資本の再生産と流通」を指します。

 不破氏は恐慌論の組み立てとして、恐慌の可能性・恐慌の根拠・恐慌の運動論を指摘しています。その典拠として、「可能性」について第1部の貨幣論から示しているのは当然ですが、「根拠」について第3部第5篇「利子生み資本」から取っている(147ページ)のは奇異です。まず考えられるのは第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」を避けているということです。この第15章に恐慌に関説した有名な個所がありますが、そもそもこの章は削除すべきだというのが不破氏の主張だからそれを避けたと思われます。それよりもおかしいのは、不破氏が第2部第3篇に置くとしている「運動論」よりも後に「根拠」が来るということです。恐慌論の組み立て順序として可能性・根拠・運動論となるべきであり、根拠が運動の後に来るのでは理論体系になっていません。「根拠」は第1部で剰余価値論と資本蓄積論によって与えられています。まあこの注意書きの中では、そうした体系性とはかかわりなく、「可能性」と「根拠」について当てはまる箇所をただ示したということだけかもしれませんが…。

 第2部第1草稿に始めて「流通過程の短縮」が登場するということですが、そもそも第1草稿ではなく第2草稿を中心として現行第2部が作られているということの意味を考えることが必要です。エンゲルスの第2部序文に「第二草稿が基礎にされなければならない」というマルクスの「明言」が書かれています(新日本新書版⑤、9ページ)。それと、不破氏が第1草稿について「第二部の最初の準備草稿という役割をこえた、重要な理論的意義がありました」(145ページ)と述べていることを考え合わせましょう。つまり第1草稿に述べられた「流通過程の短縮」による「恐慌の運動論」の形成は「第二部の最初の準備草稿という役割をこえ」ているからこそ、第2部は第1草稿ではなく、第2草稿を基礎とされたと言えます。つまり「恐慌の運動論」は第2部の主たるテーマではないと考えられます。

 不破氏は「運動論」が述べられている個所として、第2部第1草稿の他に、第3部第4篇の商業資本論と第2部第1篇の第2章「生産資本の循環」を指摘しています。商業資本論は「流通過程の短縮」についてはむしろ本場であり、こちらこそ「運動論」の本格的展開の場と考えるのが普通に思えますが、不破氏はマルクスの指示に基づいてあえて第2部第3篇を本格的展開の場としています。第2部第1篇第2章での叙述はその場で論ずべきというよりは、後の展開のためのメモとでも言うべきものです。

 第2部第3篇が「運動論」の本格的展開の場と考えられる根拠として不破氏が挙げているのは、第2部第2篇第16章「可変資本の回転」の中にある恐慌論についての「スケッチ的な覚え書き」(148ページ)です。有名ないわゆる注32です。しかしそこでいわれているのは、「生産と消費の矛盾」であって、「流通過程の短縮」に基づく「恐慌の運動論」ではありません。したがってこれは「運動論」を第2部第3篇で展開する根拠とはなりません。

 つまり「運動論」はあちこちにメモ的に散在していますが、定着すべき場は決まっていません。考えられるのは、マルクスはまだ「運動論」を十分に練れているとは思えずにどの場所でどう展開するかについては未定だったということです。少なくとも言えるのは、資本の運動の基準となる利潤論や利子論が第3部で解明される以前に「恐慌の運動論」が展開されることはあり得ないので、第2部第3篇での展開はないということです。注32が指示しているのは、「社会的総資本の再生産と流通」論において「生産と消費の矛盾」が展開されるということです。それは従来の恐慌論において、第1部の貨幣論における「恐慌の可能性」が第1部の剰余価値論・資本蓄積論における「恐慌の根拠」に基礎づけられて、第2部第3篇において「発展した可能性」となる、とされており、そういう位置づけでよいのではないかと思います。

 第2部第1草稿や第3部第4篇などにある「恐慌の運動論」のシミュレーションはまだラフなスケッチに過ぎず、さらに産業循環の具体的解明に市場価格カテゴリーによる展開が必要となります。もっとも、それは後の恐慌論の展開によるものだから、創始者マルクスにそこまで望むのは見当違いであり、マルクス自身はそれによって恐慌論をある程度完成させたと自己評価した可能性はあります。しかしその当否は別として、不破氏の評価する「恐慌の運動論」の完成(1865年の「理論的大転換」)をもって、一挙に恐慌=革命論の克服に至ったということは無理があるでしょう。それ以前の第3部第3篇の叙述などからも恐慌=革命論とは違った趣の内容は見られます。不破氏が恐慌=革命論の典型として紹介している185011月の文章(146ページに引用)はまさに政治的性急さから来る恐慌=革命論を語っていますが、第3部第3篇など同ページにあるそれ以外の経済学研究の部分は必ずしもそうした恐慌=革命論を表明しているものではありません。それは経済学的本質分析に基づく資本主義批判であり、そこでは当然恐慌への言及を含みます。両者を混同してはなりません。

 不破氏は次のように言います。「その直後に起こった、まったく予想外の角度からの恐慌発生の仕組みの発見です。マルクスの驚きと喜びがいかに大きかったか、それはおそらく、私たちのどんな推測をも超えるものであったことは、間違いないところでしょう」(146ページ)。「その直後」とは、不破氏の見方によれば、1864年執筆の第3部第3篇で「恐慌の必然性の証明に成功しな」かった(同前)直後を指します。それについて言えば、すでに拙文「『経済』201710月号の感想」において詳述したように、第3篇を構成する全3章(第131415章)をよく読む限り、それはそもそも恐慌=革命論につなげて恐慌の必然性を証明しようとしたとは考えられません。不破氏の論文には上記のような情緒的叙述が時々見られます。それは読者の共感を得る効果が高いでしょうが、内容的に実質を見ると憶測を述べたにすぎず、それ自身に理論的説得力はありません。

 「1865年大転換説」から導かれる一つの系論として、第3部第3篇の一部を削除すべきという議論がありますが、これなどは『資本論』の価値を損なう典型です。学問を本当に大切だと思うのならば、新版『資本論』のコンセプトを見直して、不確かな「1865年大転換説」を外さねばなりません。
                                 2020年1月31日






2020年3月号

          公務労働とAI活用

 先月は、停滞する日本経済をどう見て、どう立ち直らせるか、という課題について考えました。そこで分配と再分配の改善の他に生産のあり方を変えることも提起しました。その際に、中小企業を中心とする地域経済の再生と、大企業が中心となる先端技術産業の振興とを併せて追求すべきことを主張しました。後者については、「AIなどに代表される最先端の生産力分野で日本経済が遅れをとっており、こうした技術開発や経済発展を搾取強化ではなく生活に役立つ方向にどう展開していくかも、難しいが重要な課題です」などときわめて一般的な言い回しに終わっていました。

AIなどの先端技術は大企業の生産活動だけでなく、今後は個人の消費生活にもかかわってくるし、自治体労働にもすでに導入されようとしています。黒田兼一氏の「『スマート自治体』構想と公務労働」は労働問題の視点から、その一端に具体的に迫っています。それは、グローバル競争を闘う大企業などのあり方といった、日本経済の再建に大きくかかわるテーマからすれば小さな問題ですが、AIなどを身近に理解する上で、取っ掛かりとして具体的イメージを喚起するのに役立ちます。

 論文に言及する前に、そもそもAIと人間やその社会との関係はどういうものなのかについていくつかの見解を紹介しておきたいと思います。論文中にも新井紀子氏などから引用されていますが、さらに「朝日」記事を参考にします。40年以上前に文系の学生だった素人としては、新聞から一般教養として学ぶ程度であり、正しくまとめる力がないので長い引用となり恐縮ですが、とにかく並べます。

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神里達博「テクノロジーが覆う社会 専門知よりも『何が大切か』」124日付)より

 たとえば、今回の感染症の拡大の可能性や、対処レベルの決定、また特定の活断層についての分析といった専門的な判断が、一般市民の将来のリスクを左右することになりうるのだ。

 ゆえに、現代は一見中立的に見える専門家も、それ自体、実は広い意味での「政治的な」色彩を帯びていると考えなくてはならない。

 このことは、見方を変えれば、二つの例(*刑部注)はいずれも、「価値」の問題と不可分である、ということでもある。つまり、私たちがどんなことを大切に考え、いかなる社会を生きたいのかという観点がなければ、科学や技術についても、それをどのように活用し、あるいは場合によっては制限するのか、方向性や基準が定まらないのである。

 ところで、このような「価値」の議論は、伝統的に、倫理や歴史、政治や経済など、いわゆる人文社会系の知を援用しつつ進められてきた。

 *刑部注:「新型コロナウイルス感染症をめぐる偏見」と「四国電力・伊方原発3号機の運転差し止め仮処分決定」

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伊藤亜紗「AIのバイアス問題 人間を『機械』にする罠」 (115日付)より

 周知の通り、AIは膨大なデータを学習することによって、判断を下すことができるようになる。人間は現実の世界の中で学ぶが、AIにとっては与えられたデータがすべてだ。データに偏りがあれば、偏った判断を下すAIになってしまう。結果として、人間の社会に含まれる偏見が、写し鏡のように、AIに移行してしまうことがある。

   …中略… 

そもそも私たちは、有限個の特徴の束によって記述し尽くせるような存在ではないはずだ。現実とそれについての記述はイコールではない。生きているということは、パラメータに還元できない、その人だけの世界を持っているということだ。そのことを忘れて現実と記述を同一視してしまうと、多様性を目指していたはずが、人間をステレオタイプに固定してしまうことになる。

   …中略… 

パソコンしかり、スマホしかり、新しいテクノロジーが登場すると、人間はむしろ自分の方をそれに合わせて作り変えてしまう傾向がある。AIそのものを否定するつもりはない。だがそこに潜むバイアスに、私たちは十分注意する必要がある。なぜならその本当の意味は、AIが人間を機械のようなものだと見下し、そして実際に人間が機械のようになっていくことにあるのだから。

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山極寿一(科学季評)「ねずみも細菌も 『小さきもの』遊ばせて吉」213日付)より

 AIと自然は違う。AIはこれまでの経験値と情報から期待値を出して、それを選択肢として伝える。しかし、自然はこれまでとは違うことをするし、これまで存在しなかったものを作り出す。だから、自然の振る舞いは確実に予測できないし、自然と付き合う暮らしは常に個人の直観による判断を必要とする。その個別の経験が個性を作るのだ。

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(新井紀子のメディア私評)AIで失われる仕事 「格差どう修正」、深まらぬ議論

20181017日付、より

 「神の見えざる手」が奇跡的に2世紀以上「うまく動いた」のは、実は労働が希少だったためである。

    …中略… 

 しかし、デジタライゼーションによって労働の多くが不要になるとき「神の見えざる手」は機能不全を起こす。どのメディアもAIによってなくなる仕事・残る仕事の特集は組んだが、一握りの資本家や投資家が世界の大半の富を握り、何十%もの人々が労働市場から締め出される歪(ゆが)んだ資本主義をどう修正すべきかを模索する議論は、なかなか深まっているように見えない。

     *

 そういう中で、急速に注目を集めているのが「ベーシックインカム(BI)」だ。就労や資産の有無を問わず政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要な額の現金を定期支給するというアイデアだ。AIやロボットが働くのだから、人間は遊んで暮らせばよい、という話として喧伝(けんでん)されている。しかし、財源はどうするのか。グーグルやフェイスブックといったグローバル企業からいかに税を徴収しうるのか。AIやロボットが完全には代替できないと考えられている介護や原発廃炉作業は誰が担うのか。

 意外にも、BI賛同者の中に超富裕層の名前が結構見つかる。IT長者が、「シンギュラリティー」(AIが人類の知能を超える技術的特異点)というはやり言葉を喧伝するのは、AIやビッグデータによる格差の拡大から目をそらす狙いではないかとの、数学者キャシー・オニールによる洞察(本紙GLOBE10月号)はなかなか鋭かった。BIに賛成してみせるのも、格差に苦しむ人々の怒りの矛先をかわすのが真の狙いなのかもしれない。

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(インタビュー)AIのわな 数学者・データサイエンティスト、キャシー・オニールさん2019117日付)より

 ――数学やコンピューターの素人には、AIがどう動いているかとても理解できないのですが。

 「考え方はシンプルです。成功に導くパターンをデータ分析によって探すのがAIです。ここで大事になるのは、その『成功』を誰が定義するかです」

 「夕食に何をつくるかを例に考えてみましょう。私にとっての成功は、息子が野菜をたくさん食べることですが、息子にとっての成功は、大好物の甘いチョコクリームをたくさん食べることです。しかしキッチンにおける権力は私が握っていて『何をもって成功とするか』を決めます。誰が、AIのアルゴリズム(数式)を支配しているかが問題なのです」

       …中略… 

 ――日本でも「自己責任論」という言葉が広がっています。

 「米国では、個人の消費行動や居住地域などから、病気になる可能性を予測して、リスク・スコアという形で示すことが可能になっています。これを医師が患者の治療に活用するならよいのですが、社会統治の手段として使われるようになったらどうでしょう。たとえば糖尿病になるかどうかは自分ではコントロールできない要因が多々あるのに、『あなたの恥ずべき選択の結果です』と自己責任にするために利用されかねません。その方が支配者側にとって都合がよいからです」

 ――「恥ずべき」ですか。

 「そうした人を生み出すのは社会の恥という側面もあるはずですが、個人の恥へと転嫁してしまうのです。肥満や薬物中毒者に対して、社会はこれまでも『恥ずべきもの』というスティグマ(烙印〈らくいん〉)を押してきました。企業は、肥満の人が感じている恥の感情をテコにダイエット商品などを売り込んできました。老化に悩む人にはスキンケア商品や美容整形を、お金に困っている人には高金利のローンを紹介するといった具合です。AIは、このプロセスを自動化しています」

 ――どういうことですか。

 「『恥』がもたらした過去の行動を、AIが『この人は将来的にも価値がない』と判断し、さらに悪い事態を招くのです。本人が気づかない形で、デジタル上で『恥ずべき過去』のプロファイルがまとめられていきます。就職や融資で不利な扱いを受けることも起きるでしょう。なぜだかわからないけれどうまくいかない、ということが続くと、次第に『自分はだめな人間だ』と思ってしまいます」

       …中略… 

 「AIに英知はありません。『何が正しいのか』は、AIが決して触れられない領域なのです」

 ――価値判断ができない、ということですね。

 「良い社会かどうかが、経済成長しているかで決まるならば、AIのアルゴリズムは効率優先になります。でも、一番恵まれない人が幸せに生きられるかどうかという視点で、定義すべきだという考え方もあるでしょう。それは本来政治が判断すべきことです。AIが恵まれない人を助けるために使われるのか、あるいは自己責任を問い排除するための道具になるのか。AIが使われるプロセスの全体と目的を見る必要があります」

 ――AIを信奉する企業や人を説得できるでしょうか。

 「データを使う側は、『AIはデータから答えを導き出しているので客観的です』というでしょう。ですがAIをつくるのは人間であり、その価値観が反映されます。人間であれば、責任を問うことができますが、AIは単なるプログラムのコードです。私たちは数学におじけづいたりシステムを妄信したりすることなく、権利を主張して疑問を突きつけていかねばなりません」

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 以上、たくさん並べたので論点も多いのですが、その中からいくつか拾ってみます。AIが予想外に早く、囲碁・将棋において人間の第一人者たちを破るに至った、ということに象徴されるように、AIの万能感と人間の卑小感が世を覆っています。だからまずそれを絶対視せず相対化し批判して、「人間の主体性」と「社会的コントロールの可能性と必要性」とを確認することが必要です。

 それにはAIの限界を見極めることから始めねばなりません。現実そのものは大変に豊饒であり、不断に変化するので、それに比べれば、まず人間による認識そのものに限界があるのですが、AIの場合はもっと狭いことが上記の論者によって指摘されています。ちなみに人間自身も豊饒な現実の一部であり、その認識は簡単ではないのに、AIによって安易に選別され、たとえば就活学生の振り落としに利用され大問題となりました(就職情報サイト・リクナビの事件)。伊藤氏は「現実とそれについての記述はイコールではない。 …中略… そのことを忘れて現実と記述を同一視してしまうと、多様性を目指していたはずが、人間をステレオタイプに固定してしまうことになる」と指摘し、「人間は現実の世界の中で学ぶが、AIにとっては与えられたデータがすべてだ。データに偏りがあれば、偏った判断を下すAIになってしまう。結果として、人間の社会に含まれる偏見が、写し鏡のように、AIに移行してしまうことがある」と喝破しています。山極氏も「AIと自然は違う。AIはこれまでの経験値と情報から期待値を出して、それを選択肢として伝える。しかし、自然はこれまでとは違うことをするし、これまで存在しなかったものを作り出す」と、自然=現実の豊饒さ・変化に対するAIの認識の限界を指摘しています。

 この限界あるAIに対して、人間のコントロールを確保することが求められますが、伊藤氏の指摘によれば、逆にむしろ「新しいテクノロジーが登場すると、人間はむしろ自分の方をそれに合わせて作り変えてしまう傾向があ」ります。これについては、後述のように、黒田論文で自治体の公務労働でのAI利用の際に問題となります。そのような転倒を許さず、人間が目的を設定し、価値判断を下さねばなりません。オニール氏は、キッチンにおける、息子に対する母親の権力という巧みな比喩で、目的設定の意味を説明し、現実の政治過程に即しては、「AIが恵まれない人を助けるために使われるのか、あるいは自己責任を問い排除するための道具になるのか。AIが使われるプロセスの全体と目的を見る必要があります」として、価値判断とそれに基づく目的設定の重大な意義を力説しています。神里氏は「私たちがどんなことを大切に考え、いかなる社会を生きたいのかという観点がなければ、科学や技術についても、それをどのように活用し、あるいは場合によっては制限するのか、方向性や基準が定まらない」と一般的に総括しています。一見すると理系の専門知が最も重要に思えるけれども、「何が大切か」という価値判断こそが重要なのです。  

 その他に、オニール氏はAIが自己責任論に利用される危険性を指摘し、新井氏はAIがもたらす雇用不安を、歪んだ資本主義の問題とし、ベーシックインカムを富裕層による貧困層の怒りをそらす策略と捉えたり、なかなか階級的に見ています。いずれにせよ、AIそのものが社会を変えるのではなく、人間とその社会が主体性を発揮して、的確な価値判断と目的設定の下にAIを置くことができるかが問われます。その十全な成功のためには、資本が主人公の社会(資本主義社会)を人間が主人公の社会(社会主義社会)に変えることが必要でしょう(後でマルクス『経済学批判要綱』を見る)。

 前振りばかりが長くて、黒田論文をきちんと読む時間が少なくなってしまいました。黒田氏は、(1)AIは情報処理技術で、ソフトウェアであり、(2)AI自身はデータを分類・整理しているにすぎず、判断基準は人間が作り、(3)AIは労働を奪うのではなく高度な道具であるとまとめています(7475ページ)。この観点から具体的活用例を見ます。

 川崎市では、(1)AIを職員の仕事の補完として位置づけ、業務量の多い職員の仕事のツールとして使えば、市民サービスの向上と業務改善に寄与するとして、(2)「ベテラン職員のノウハウを蓄積すること」、「分野を横断する情報提供して、業務を関連づけること」、「問い合わせ内容を蓄積して新たな知見を得ること」を実験目的に掲げ、「AIを通して職員の技能を蓄積し、市民との関わりの重要性を認識している」と紹介されています(78ページ)。

 さいたま市では「保育施設入所マッチングの実証実験」により、約8000人の入所希望児童を約300の施設に振り分ける作業をAIにさせ、従来2030人が3日間、延べ約1050時間かけていたものがわずか数秒でできました。担当者は、担当職員の心身の負担軽減が大きい一方で、保護者への説明などAIで完結しない業務は職員がしなければならないと語っています(79ページ)。

 二つの実験から、自治体がAIを導入する際に示唆されるものが見えてきます。「AIは自治体職員の仕事を奪うのでもなければパートナーでもない。ツールなのである。AIは担当職員のツールとして使えば、職員の過酷な労働実態の解消に繋がっていく可能性がある。AIがそのように使われてこそ市民サービスの向上に繋がるはずである」(79ページ)。その際にAIだけで仕事が完結して、従来の業務で培ってきた知識や地域・住民とのつながりを失ってはならない、という担当者の声を紹介しながら、「職員と職員の関係性、部署と部署の関係性、何よりも職員と市民の『繋がり』と『対話』の質が上がるようにAIをツールとして使うこと」が重要だとされます(同前)。

以上の理念的検討と使用実験例から、AIの導入について、論文は、労働量の軽減・労働時間の削減に使われるべきで、人減らしに使われてはならないとし、そうして過剰な労働実態を解消することで、職員と市民の対話とつながりが強化される、としています(81ページ)。

 AIと人間社会の関係について、「朝日」記事の諸論者の見解と黒田論文にある理念・自治体での使用実験とから、あくまで人間が主体となって価値判断を下し利用目的を設定する姿が浮かび上がり、社会のあり方もそれを後押しするように変わる必要があります。ところが総務省の「スマート自治体」構想では、AI活用によって、行政サービスの効率化とともに職員の半減化が目指されています。これは経団連の経済成長戦略Society5.0の自治体版であり、論文は「微に入り細に入り、きわめて『技術的・専門的』な方策が書かれてはいるが、どこを見ても地方自治体が果たすべき役割や地方公務員とは何かについての考慮が希薄である。というよりも欠落している」(76ページ)と酷評しています。「スマート自治体」構想では、窓口業務が単なる実務として浅薄に捉えられており、市民の抱える問題点を発見して必要な行政支援につないでいくというような「住民の基本的人権を守る防波堤」(同前)とする観点がありません。したがって仕事の「標準化」についても、市民や職員の意見を踏まえるよりも「システムを標準化してから、それに業務プロセスを合わせる方が効果的である」として「いわば機械にヒトを合わせるという転倒した提言」(77ページ)となっています。先述の伊藤氏の言う「新しいテクノロジーが登場すると、人間はむしろ自分の方をそれに合わせて作り変えてしまう傾向」があるという危惧がぴたりと当てはまります。

 こうした事態は、労働主体と労働手段との転倒であり、マルクスの『経済学批判要綱』はそれを、資本主義的生産関係下における労働に対する資本の支配の完成した貫徹形態として原理的に解明しています。

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つまりここでは、特定の労働様式が労働者から機械の形態にある資本へ直接に移転されて現われるのであって、この移し換えによって労働者自身の労働能力は無価値になる。ここから機械装置にたいする労働者の闘争が生じるのである。生きた労働者の活動であったものが、機械の活動となる。こうして労働者にたいして、資本による労働の取得が、生きた労働を自分のうちに吸収するものとしての資本が、荒々しく官能的に〔grobsinnlich〕――「胸に恋でも抱いているかのように」――立ち向かうのである。

    『資本論草稿集②』、488ページ      下線は刑部

 

 資本の概念のうちにある、対象化された労働による生きた労働の取得――それ自体として存在する価値による価値増殖的な力〔Kraft〕または活動の取得――は、機械装置に立脚する生産では、生産過程そのものの性格として――それの素材的諸要素およびそれの素材的運動からも――措定されているのである。

   同前、476ページ

 

 労働手段の機械装置への発展は、資本にとって偶然的なものではなく、伝統的に受け継がれた労働手段を、資本に適合するように変形されたものとして、歴史的に変革することである。知識の蓄積と熟練の蓄積、つまり社会的頭脳の一般的生産諸力の蓄積は、このように、労働に対立して資本のなかに吸収され、だからまた資本の属性として、さらに明確には、本来的な生産手段として生産過程にはいるかぎりでの固定資本の属性として現われる。だから機械装置は、固定資本の最も妥当な形態として現われるのであり、また固定資本は、資本が自己自身への連関において考察されるかぎりでは、資本一般Capital überhauptの最も妥当な形態として現われるのである。

     同前、477ページ

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 19世紀のマルクスが機械について語っていることは、資本主義的生産関係下では21世紀のAIにも基本的に妥当するように思います。諸論者が、AIに対する人間の主体性を強調しているのは、逆に資本主義的生産の下において、人間がAIに従属させられようとしているからこそです。「スマート自治体」における「システムを標準化してから、それに業務プロセスを合わせる方が効果的である」という発想は、まさにその典型です。この事態の本質は、労働過程が資本主義的生産においては価値増殖過程に包摂されている、ということを見抜くことによって始めて解明されます。

そうすれば以下のように、素材と形態とをはっきり区別する歴史貫通的視点によって、機械における素材と形態の融合という現象の特殊資本主義的意味を明らかにし、翻って「最も適当かつ最良の社会的生産関係」としての未来社会で機械が充用される可能性を示唆することができます。こうして、事実上、資本主義を永遠のシステムと見なすことで、資本主義社会の歴史的意義を理解できず、それとは違う未来社会は思いもよらない俗流的観点との違いが鮮明になっています。今日、AIに対する人間の主体性を確保する視点もここにあると言えるでしょう。

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資本が、機械装置やその他の固定資本の素材的定在諸形態、たとえば鉄道等々(この点にはのちに論及するであろう)においてはじめて、生産過程の内部にある使用価値としての、自己の妥当な姿態を自己に与えるとしても、このことはけっして、この使用価値――機械装置それ自体――が資本であることを、あるいは、機械装置の機械装置としての存立がそれの資本としての存立と同一であることを意味しないのであって、それは、もしも金がもはや貨幣でなくなったなら、それは金としてのそれの使用価値をもつことをやめる、というわけではないのと同じである。機械装置は、それが資本であることをやめたとしても、それの使用価値を失うわけではない。機械装置が固定資本の使用価値の最も適当な形態であるということからは、資本という社会的関係のもとへの包摂が機械装置の充用のための最も適当かつ最良の社会的生産関係だ、という結論はけっして出てこないのである。

    同前、481ページ

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 資本主義は人間を従属させてまでAIを活用しますが、それはAIの活用にとって唯一の形態ではなく、ましてや最もふさわしい形態ではなく、社会主義的未来にこそ本来生きて来ると言えます。黒田論文は公務労働を対象としており、それは資本の現場とは一定の距離があり、地域住民の人権の実現という憲法的価値を少なくともタテマエとしては抱えています。ただし「スマート自治体」構想に見るように経団連の政策の一環として、資本の論理が貫徹されようとしています。民間企業においては資本の論理の貫徹はより明確ですが、それに対抗して、労働者・消費者・地域社会など様々なステークホルダーの利益を尊重し、人間が主体となって一定の価値判断に基づいて適切な目的を設定し、それに沿ってAIを道具として使いこなすことが求められます。未来社会論は、人間と資本、労働主体と労働手段、そこにある転倒関係への批判に立ちます。それは、今日の資本主義社会に直接適用されるものではないにしても、正立した社会像を示すことによって、転倒した社会像の下での熱狂を煽る支配層に対抗して、人々の中に覚めた視線を提供し、資本への民主的規制の世論を喚起します。未来から現代への照射がそこにあります。未来社会論を学ぶことはそれを捉える意味を持っています。

 論文そのものにあまり内在せず、よそからの引用ばかりで失礼しました。妄言多罪。

 

 

          現代資本主義の本質を捉える

 熊野剛雄氏の『やさしい日本と世界の経済の話』への紺井博則氏の書評が興味深い論点を提供しています。熊野氏が著書において強調する資本主義の特質として、周期的な過剰生産(恐慌)への資本主義的対応のまとめが引用されています。

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 労働者の不満を労働者保護立法や資本の行動の規制などの、多少の譲歩によってなだめ、あるいはごまかすことと、色々な新しい産業を作り出し、新しい商品やサービスによって人間の欲望を刺激し、中にはあってもなくてもよいもの、時としては有害なものまでも作り出し、強引に需要を創出して恐慌を回避しようとする。 (44ページ)

 → 熊野著書のページ     本誌書評の110111ページに引用

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 熊野氏は「産業の発展が同時に空洞化を生む」という認識を持っています。そこからは、IT・AI・5Gといった資本主義経済の新しい動向は「真の意味での人類の発展と言えるかどうか分からないもので、空洞化の隙間を埋めようとしているのに過ぎないようにも思われる」(熊野著書8990ページ)と批判的に見られます(書評111ページ)。こうした視点からは、資本主義の最も重要な時期区分は、重化学工業の発展がもたらす現実資本の生産過剰が桎梏となって「新しい産業」を生み出さざるをえない転換点を指すことになります(同前)。「金融化」も同様に捉えられます。巨額の資本を必要とする重化学工業の設備投資が減り、過剰生産能力が常態化し現実資本の蓄積が停滞し、大きな設備投資があまり要らないサービス業の比重が大きくなり、資金需要が縮小して貨幣資本が過剰になり、その運用先を求めていろいろな問題を引き起こすのが21世紀の金融化問題だとされます(同前)。

 あくまで書評による紹介を介してですが、今日の資本主義の停滞と諸矛盾を捉えるに際して、ここには「生産と消費の矛盾」という観点はあまり見られず(*注)、資本主義的生産力発展のあり方からくる必然的展開という観点が中心であるように思われます。この二つの観点をいささか図式化すると次のようになります。

(*注)「新しい商品やサービスによって人間の欲望を刺激し、 …中略… 強引に需要を創出し」とあるので、ある意味で「生産と消費の矛盾」について触れているとは言えますが、それは搾取による「労働者階級の狭隘な消費限界」というような階級的観点ではなく、一般的観点からの需給の不一致とその作為的「解決」を述べており、それは本来的な「生産と消費の矛盾」とは区別されます。

1)資本主義的生産関係での「生産と消費の矛盾」が生む相対的過剰生産=構造的矛盾

解決策:分配の是正

2)圧倒的な資本主義的生産力発展による絶対的過剰生産=歴史的発展の矛盾

解決策:需要と供給の調整 生産力発展と人間的生活の消費のあり方の調整

 (2)は(1)と比べると生産力発展の歴史貫通的意味合いが強く、経済停滞を生じさせる過剰生産も、「労働者階級の狭隘な消費制限」から来る相対的過剰というよりも、そもそもその時点での経済規模に対して絶対的な過剰と捉えられているように思います。しかし資本間競争のため、生産力を人間社会の観点から制御できないという意味においては資本主義的生産関係の問題ではあります。

 資本主義の全面的批判には、(1)と(2)の両観点が必要だと思いますが、以下では(2)から派生する観点を基に考えてみます。生産力発展が生産過剰を生み出し、その解決として需要を創出するため新しい商品・サービス・産業まで生み出すということは資本主義の延命策ですが、それが雇用創出でもあるという限りでは労働者階級にとって当面の朗報だということになります。しかしそれは未来社会論の視点からは、自由時間を喪失させ、労働時間を増やすことです。新たな商品やサービスを得るために休みを仕事に変えるということでしか、生活が成り立たない(生活を維持できる賃金を得られない)という自転車操業的生活スタイルを労働者は強いられているのです。それが当たり前になっているのが現代の労働(者)ですが、生産力発展を人間的発達に役立てるという観点に立つならば、新商品・新サービスへの欲求を適当なところで制御して、労働時間を短縮すべきです。たとえばコンビニでの深夜の購買欲求を抑えて、24時間営業を野放しにしないことです。しかしそれは資本主義的生産に規制を加えること抜きにはわずかでさえ実現しませんし、それを全面的に実現するためには資本主義的生産様式の止揚しかありません。

マルクスは資本主義的生産力発展の本質を洞察して、『経済学批判要綱』において「資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである」(『資本論草稿集②』、494ページ)と喝破しています。それとは逆に、生産力発展の成果としての自由時間を確保し、剰余労働への転化を阻止するのが未来社会の本質的姿です。そのためには必要な使用価値を適切に制限することが求められます。現代資本主義において熊野氏が、強引に需要を創出するための「あってもなくてもよいもの、時としては有害なもの」の存在を指摘し、IT・AI・5Gなどについて「真の意味での人類の発展と言えるかどうか分からないもの」と疑問視するのは、資本によって疎外された生活を脱し、本来の人間的社会を実現する道を確保する姿勢だと言えます。ただしIT・AI・5Gなどについては「真の意味での人類の発展と言える」可能性はあるかもしれません。なお、使用価値の制御と自由時間の確保という論点については、拙稿「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』第86号、20065月、所収)参照。

友寄英隆氏の「21世紀資本主義の研究のために――科学的社会主義の理論的課題(『季論21』第47号・2020冬号、所収)は、今日の日本における科学的社会主義の理論的研究の立ち遅れ、という切実な現状認識を踏まえて、実に広範で多彩な課題に言及されており、その問題意識に強く共感します。本来ならば直接講演を聞き、いろいろとご教示願えればと思うほどです。できれば全体に触れたいのですが、時間と能力の関係でごく一部に留めます。

社会変革を目指す勢力の中でも特に1989年以降、東欧とソ連の社会主義政権の崩壊に伴って、資本主義の強靭さを強調し、その存続を前提にした「現実主義」が幅を利かせ、事実上の資本主義美化論が席巻している状況が続いているように思います。その下で、格差・貧困の広がりや環境問題の深刻さという資本主義の病が明白に拡大しているにもかかわらず、それを体制の問題として正面から議論し、社会主義への移行を提起することがはばかられるような知的状況が少なくとも日本には依然として支配的になっています。当面する課題への改良に取り組み、具体的に政策提起することが最優先されることは当然ですが、その際にも、眼前の問題の多くが資本主義体制そのものから生じており、時代は社会主義への移行を客観的には要請しているという認識に裏打ちされていることが必要だと思います。

その点で友寄氏が、現代資本主義を何よりも「移行期の資本主義」と規定していることは重要です。しかし現実には「強固な国家機構やイデオロギー装置によって頑強に守られてい」(193ページ)る資本主義体制は簡単にはなくなりません。そこで「21世紀の資本主義は、移行期を迎えながら、社会変革の主体形成が立ち遅れているという、体制移行期に特有な独特の歴史的な時代に入ってきている」(同前)という時代認識が表明されます。社会変革についてのこういう客観的条件の成熟と主体的条件の未成熟という対比的認識はなじみがあり、非常に分かりやすいようですが、両者を機械的に切り離すのでなく関連をどう捉えるかは難しいところがあります。

結論を先取りして言えば、友寄氏は「生産力の発展―劣化する生産関係―欺瞞的イデオロギーの関係を総体的にとらえることが必要でしょう」(196ページ)と提起しています。生産力発展によって、資本主義的生産関係が解決不可能な問題を抱える「劣化する資本主義」となっても、その現状に巧みに応じて糊塗する欺瞞的イデオロギーが人々の意識を旧社会としての資本主義社会に押しとどめています。上記の「関係を総体的にとらえること」をさらに詳細に追求するなら、変革の客観的条件と主体的条件の乖離の原因に迫り、解決の糸口に立つことができるかもしれません。しかし客観的条件と主体的条件の二分法をまず提起する分かりやすさは、変革の全体像をつかむうえで最も良いやり方なのか否かは分かりません。変革の課題に向け、その障害物を含めた様々な社会関係と社会意識の絡み合った糸を解きほぐしていく方法は多様に探求されるべきではないか。未だ漠とした問題意識に過ぎませんがそう感じています。

現代資本主義の分析と直接的には関係ないのですが、「客観的条件と主体的条件の二分法」への違和感の原因は、マルクスの経済理論と革命論との関係についての近年の不破哲三氏の議論にあります。マルクスがエンゲルスとともに若いころ、恐慌=革命論に立ち、それが革命運動の経験や経済学研究の進展もあって、労働者の変革主体形成による革命論に変化していったということは大筋としては認められるように思います。ただしこの相前後する二つの立場を内容上、機械的に切り離したり、時間上、特定の時期に切断することが適当か、あるいは恐慌と革命の関係自体も簡単に切り離すことが適当かという問題があります。恐慌・労働者(意識)・革命の三者の関係をよく考えてみる必要があります。単純に「恐慌=革命」図式から「労働者(意識)=革命」図式に転換したというのではなく、三者それぞれの関係をよく見た上で総合すべきでしょう。恐慌は単に産業循環の一局面に過ぎないというのではなく、資本主義的生産にとっては危機的局面であり、労働者意識に重要な影響を与えるということを、革命との関係でどう考えるかなどは重要な考察要素です。それは今日でも経済情勢の展開と労働者意識、その変革主体形成への正負様々な影響を考えるという形でつながっている問題です。残念ながらここで述べていることは思弁的考察に過ぎないので、マルクスの経済学草稿などを研究した不破氏の議論への批判たりえませんが、その結論の明快過ぎる単純さには容易に同意しがたいものがあります。

 閑話休題。友寄氏は、「資本主義の矛盾が激化して、限界がきているのだけれども、それでもなお資本主義が延命している状態、いろいろな矛盾を解決できないまま延命しつつある現状を『劣化する資本主義』と規定してい」ます(194ページ)。これは資本主義美化論への批判として重要です。現代社会の諸矛盾を「資本主義が未だ生き残っているからこんなことが起こっている」と体制論的に見ることによって、資本主義の存続を暗黙の前提にした議論が諸矛盾の打開策を提起できていない現状を浮かび上がらせます。

欺瞞的なイデオロギーの代表として論文では新自由主義が挙げられています。それは現代の生産力発展を基盤とした生産・流通・消費の大きな変化に対応して、次のような特徴を持っています。「労働者の『自己裁量権』の拡大、市民の『自己決定権』の尊重などを前面に掲げながら、あたかも資本主義の新たな発展段階に対応した『個人の自由の拡大』をめざす進歩的なイデオロギーであるかのような『幻想』をともなっています」(195ページ)。友寄氏はこれについて未来社会の「真の自由の王国」の欺瞞的な先取りとしての性格を指摘し、先述のSociety5.0のユートピア性を想起しています。

 この欺瞞的な自由論について、特に今日の生産力段階に対応した見方というのではありませんが、資本主義一般に共通する見方として以下のように捉えることもできるように思います。まず自由と言ってもここでは経済的自由を扱います。次に問題は自由の主体は何かということです。普通に考えればそれは人間に決まっていますが、資本主義経済においては必ずしもそうではありません。そこで自由は、「人間(個人)の自由」、「市場の自由」、「資本の自由」の三層に分かれます。三層あっても人々にはあくまですべて人間(個人)の自由として意識される中で三つの自由は混同されています。「市場の自由」と「資本の自由」が「人間(個人)の自由」と矛盾しないならそれでもあまり問題ないでしょうが、現実にはそうではありません。本来、自由を拡大する目的は人間(個人)の自由を拡大することですが、資本主義経済において支配的に主体となっているのは資本であり、それが市場と人間(個人)の自由を規定しています。

資本の自由の核心は搾取の自由です。搾取強化のため労働規制を緩和し社会保障を削減します。それを諸個人の自由な生き方の実現と見せかけます。現代資本主義は自由競争段階ではないので、独占的グローバル資本の市場支配を許すという形で市場の自由を侵害します。市場の自由と人間(個人)の自由とは協調することも対立することもありますが、いずれにせよ資本の自由の優先下に置かれます。新自由主義は資本の自由の最大限の実現であり、それが三層の自由を統括することで、実際には人間(個人)の自由を侵害することが多いのですが、それをあたかも人間(個人)の自由の実現かのように見せかけるところに新自由主義のイデオロギーとしての本領があります。かつてブッシュ大統領がイラク戦争を始めるに際して、イスラム圏・途上国の人々に自由を教える、と唱えていました。これなどまさに石油利権の自由、中東における帝国主義的支配の自由などを中心とする資本の自由の拡大のために、それを人間(個人)の自由と錯覚させて、自由をスローガン・免罪符にして侵略戦争を敢行したのでした。

『資本論』の読み方として、1862年以前の草稿類のすべてを「資本論草稿」と見なすべきではないという友寄氏の指摘は重要です。これは『資本論』だけに解消されない、経済学批判プランの独自の意義につながります。恐慌論を意識して、その体系上の特徴を捉えれば、(1)商品に始まり「世界市場と恐慌」に終わる全体の形と、(2)「資本一般」と「競争」との次元を区別した理論展開が注目され、これは『資本論』の枠だけに留まらない発展的な体系だと言えます。いわゆるプラン問題での「資本一般」説(プラン不変説)の意義がここにあります。もちろん友寄氏は、草稿類の中にある「広義の経済学」など、より豊富な内容を指摘しているので私の問題意識はその一部分に過ぎませんが…。

細かいことですが、通常、『資本論』、『経済学批判要綱』、『185758年草稿』と表記されるように思います。友寄氏の表記では、『資本論』、「185758年の経済学批判草稿」(以下「要綱」と略記)です。刊行された著書には『』を付け、草稿や単発論文には「」を付けるとすると、それを守った表記であり、185758年の草稿が『資本論』ではなく、『経済学批判』の草稿であることも示されています。

 友寄氏が「要綱」の価値規定の特徴に触れているのには瞠目しました。『資本論』では価値規定が貫徹する論理が一貫して探究されているが、「要綱」では貫徹と同時に自己矛盾についても論及している(204ページ)という極めて簡潔明瞭な特徴付けが行なわれています。この両者の対比には気づいていなかったし、価値規定が自己矛盾をはらんでいる、という表現もしていませんでしたが、実は私も前掲拙稿「生産力発展と労働価値論」において、事実上、同様なことを書いていました。

 拙稿は、川上則道氏と私との討論を川上氏が編集した『経済』20005月号の論文「〔討論〕国民所得は価値か使用価値か」(後に川上氏の『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』/新日本出版社、2004年/の第3章「経済成長と価値――討論『国民所得は価値か使用価値か』――」として収録)における自説の補強として書いたものです。この「討論」は、異時点間の価値の比較について、「生産性上昇に応じて労働の価値形成力も上昇する」とする見解と、「あくまで同一労働量は同一価値量を作り出す」とする見解との間で行なわれ、私見は後者です。私見では、使用価値の増大と費用価値の節約という逆方向への運動と、生産力発展による両者の統一、という杉原四郎氏の歴史貫通的視点を参考にしています。この運動と両者の統一は資本主義にも当てはまりますが、資本は価値増殖を目的とするためきわめて矛盾した過程を通してそれが貫徹されます。「生産性上昇に応じて労働の価値形成力も上昇する」とすると、費用価値減少の意義が見過ごされ、それを通して労働時間短縮=自由時間拡大を実現するという人類史的課題を価値論に取り入れることができなくなります。拙稿では、資本の運動の矛盾した過程とその意義を以下のように描きました。

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 使用価値の増大と費用価値の減少、そのための生産力の発展と合理的な労働時間配分という人類史の基本方向は、資本主義経済ではどのように貫かれるのであろうか。大まかにいえば市場メカニズムと恐慌=産業循環によるが、その際、問題なのは資本の運動の推進動機は価値増殖だということである。これは人類史の法則に逆行する。しかし価値増殖の方法として特別剰余価値の取得をめぐる競争が展開されて生産性が上昇し、結果的に商品価値の減少が実現される。そしてまた減少した価値を新たな出発点として価値増殖に邁進する、というのが、下りのエスカレーターを登るような矛盾に満ちた資本の運動原理である。生産性上昇下で投下労働総量が一定ならば、同一労働量は同一価値量を作り出すという原則からは、総使用価値量は増大しても総価値量は不変である。ところがその際に生産性上昇とともに労働の価値形成力が増大するとみなせば、総使用価値量だけでなく、総価値量も増大することになる。生産力発展の下での使用価値量と価値量との平行的増大というこの見方(価値論の物量分析への一面化)からは、生産力発展が価値増殖に直結することになる。これは一方では上記の資本の矛盾に満ちた運動を捉えられない表面的な見方であるし、他方では資本の運動をも貫く人類史の法則を看過することになるのである。逆に同一労働量は同一価値量を作り出すという原則の見地から、費用価値の減少という人類史の課題を資本主義分析の中にも折り込むことから生まれる批判意識こそが重要なのである。

     74ページ

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 なお、拙稿で参照した杉原四郎氏の『経済原論1「経済学批判」序説』(マルクス経済学全書1、同文舘、1973年)はあまり知られていないかもしれませんが、名著だと思います。「要綱」や『資本論』第3部などに展開された、自由時間の増大を中心とする未来社会論についても十分に論じられており、このテーマでは必読ではないでしょうか。

 また「要綱」にある、高度な生産力発展の下で労働価値論を否定するかに見える周知の命題について、友寄氏は「価値規定のはらむ自己矛盾がもたらす必然的結果の指摘であり、未来社会を展望する先見的な洞察として理解されねばならない」(204ページ)としています。これは件の命題が労働価値論を否定するものではなく、労働時間が富の尺度であること、また交換価値が使用価値の尺度であることを止めるような社会がやってくることを予見したのだ、という理解ではないかと思います。この未来社会の経済システムでは、価値に代わって使用価値が直接的に社会的再生産の基準となるということかもしれません。それが可能かどうかは別問題として。それはともかく、この命題の解釈は難しいと思いますし、それに関する諸研究を私は読んでいませんが、自分勝手に、ない頭をひねって、労働価値論否定ではない捉え方を示しました。『経済』20198月号の感想の中で、「『185758年草稿』での労働価値論「否定」について」と題して。

 友寄氏の「21世紀の未来社会論の課題」(206ページ)についての提言も興味深いものがあります。近年喧伝される未来社会論への不満として私がはっきり感じていたのは、未来社会の原理として生産手段の社会化を一般的に言うだけで、資本主義市場経済擁護の常識との対決を経ていない議論だという点です。ブルジョア社会科学の魂(*注)は市場崇拝だろうと私は思っています。特にソ連・東欧の社会主義政権の崩壊当時など(今もだいたいそうだが)は、「理性は市場に負けた」、「経済を人間が制御できるなどというのは思い上がりだ」と言ったシニシズムが支配的であり、それはまさに人々を支配するイデオロギーなのですが、学問的にはそういう言説の裏付けとして新古典派理論があると言えましょう。もちろん一般向けに未来社会論を語るときに、そんな学問的対決に触れるのは全く非現実的ですが、少なくとも市場崇拝という常識が支配的イデオロギーであるところで、それをまったくスルーして、生産手段の社会化による未来社会論を提起するだけでどれほどの説得力があるのかという問題があります。

(*注)ブルジョア社会科学の魂として、表われているものは「市場崇拝」であり、隠れているものは「搾取の否定」だろうと思います。後者の方が本質的ですが、「領有法則の転回」によって、ブルジョア社会の一般常識として、資本主義経済に搾取はありません。だからブルジョア社会科学は搾取の否定をわざわざ声高に言う必要がなく(「邪悪な」マルクス経済学と対決する場合はその限りではないが)、その常識に自らも浸かって搾取がないと思い込み、それ故、資本主義経済を市場経済と同一視し、神聖な市場メカニズムの解明に没入することで資本主義を全面的に把握できると考えているのではなかろうか…。

 近年の未来社会論へのもう一つの不満は、古典の規定だけに依拠して、現代の生産力水準に呼応した分析がないことです。実は何かもやもやしているだけで、そのことをはっきりとは自覚していなかったのですが、友寄氏の議論に教えられて明確になりました。

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 21世紀の未来社会論にとっては、繰り返しになりますが、現代の生産力の発展についての具体的な研究が不可欠です。マルクスの生きた時代の生産力水準を前提にした未来社会論では、19世紀にも通用する、20世紀にも通用する、21世紀にも通用するという、いわば「未来社会の公式」を確認するだけになってしまうでしょう。とりわけ21世紀を生きていく若い人にとっては、現代の生産力水準を土台とした未来社会の展望が求められているのです。        207ページ

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 以上、まったく散漫にあれこれ触れただけで失礼いたしました。「古典研究それ自体が誤りかねない危うさ」(211ページ)を含めて「理論的立ち遅れ」(同前)を自覚して自己満足を排し、現代資本主義の実証分析とブルジョア・イデオロギーとの対決を推進し、そのために「革新的理論陣営の内部での建設的な討論、論争」によって「理論の創造的な発展」(同前)を図ることは喫緊の課題だと思います。

 

 

          『資本論』第3部第3篇の問題

不破哲三氏の「エンゲルス書簡から 『資本論』続巻の編集過程を探索する」(二)(『前衛』3月号所収)は、1868430日付のマルクスによるエンゲルス宛の手紙を引用して、そこで「恐慌=革命」論に触れていないにもかかわらず、エンゲルスがそのニュアンスを読み取れずに、現行『資本論』第3部第3篇の論述全体を残したのは「残念な経過」だったとしています(225226ページ)。しかしそもそも第3部第3篇の叙述は「恐慌=革命」論を語っているものではないし、この手紙も「君が利潤率の展開方法を知っておくということは、好都合だ。だから君のためにごく一般的な形で道筋を述べておこう」(国民文庫『資本論書簡(2)』、136ページ)というテーマで書かれており、そこで恐慌に触れないのは当然です。だから現行『資本論』第3部第3篇で、「恐慌=革命」論ではない形で、恐慌に触れているのは何ら間違いではなく、ここでのエンゲルスの編集を批判することは正しくありません。

 先日、名古屋市内で、ある著名な若手研究者が講演しました。終了後、新版『資本論』についてどう思うか尋ねたところ、「あれは不破版だ」と即答され、「1865年大転換説」について、「それは個人論文で言うべきことで、『資本論』に加えることではない」と述べられました。ひょっとしてこの問題に無関心かもしれないと心配していましたが、きちんと読んで的確に把握されているのだと思いました。優秀な研究者の良心がどのへんにあるかが一つはっきりしました。

 

 

定石(*注)と新手

○「新手一生」 升田幸三(将棋実力制第四代名人)

○「思い込みを捨て、思いつきを拾う」  小林幸子(歌手)

○「無知な者ほどたくさん『発見』する」 詠み人知らず

○「立場の正しさに寄り掛かった生き方はしたくない」 稲沢潤子(民主主義文学会元会長)  

○「右だろうと左だろうとわが人生に悔いはない」 石原裕次郎の「白鳥の唄」となった「わが人生に悔いなし」(作詞:なかにし礼、作曲:加藤登紀子)より

 

(*注)囲碁では「定石」、将棋では「定跡」で、一般論に転用する場合は「定石」。

 

 升田・小林の言、意気に感じて私たちも独創的でありたい。升田幸三は「ヒゲの先生」とか呼ばれて、豪放磊落な言動と風貌で人気がありました。政治信条は保守反動的ですが棋風は革新的でした。「新手一生」は彼の代名詞とも言える言葉であり、日本将棋連盟は優れた新戦法や新手を指した棋士(アマも可)に対して毎年「升田幸三賞」を贈っています。

小林幸子の発言は確か「しんぶん赤旗」日曜版のインタビューにあったように思います。新しいアイデアは既成観念を捨てるところから始まるということでしょうか。ただし新たな思いつきが、次第に次の思い込みになってしまう危険性にも気を付けるべきでしょう。初めに捨てた思い込みの方が正しかったということもありえます。そんなことばかり言っていると、思いつきが寄ってこなくなりますが…。

大学の先生が学生に論文を指導するとき、必ずそのテーマに関する先行研究をきちんとフォローするように言います。最初から全部自分で考えていては極めて不効率だし、自分で発見したと思い込んでいても、実は先人がすでに見つけていたということはよくあるからです――無知な者ほどたくさん「発見」してしまう――。何ごとに対するにもその道の到達点を確かめることが先決です。ただし、ただ先人の業績を習い覚えるだけだと、その意味を十分に理解できないこともあります。だから一から自分で考えてみて、それを先行研究と突き合わせてみると十分に納得できるので、そうするのが最も良いかもしれません。もっとも、素人にそこまで要求するのは酷です。

プロの研究者の論文ではまず問題意識を述べてから、必ず先行研究を検討して自説をその文脈の中に位置づけます。先行研究の検討だけで相当に力を要するので、問題意識の提示や自説の展開の方はむしろ埋没してしまいがちになり、素人目には結局何が言いたいのか分かりにくいことはよくあります。だからいっそのこと、先行研究の検討の叙述はすっ飛ばして、自説だけ書くというのも、一般向けの論文ではあっていいのかもしれません。その方が先行研究の検討ばかりに労力を取られ過ぎることを防ぎ、自由闊達な問題意識の交流と議論の活発化に資することになり、学問の普及・民主化に役立つということはあり得るでしょう。だからそういう簡便なスタイルの利点は認めますが、その場合、新説が先行研究の検討を経たものなのか、そうでないのかは分かりません。新説が単なる思いつきであってもかまわないのかもしれませんが、通説とどう対峙して形成されたのかが分かることは大切だと思います。

思い込みを捨て、思いつきを拾って、新説を提示したとしましょう。その際、通説の意味をどこまで把握した上で、その不都合な点を克服する成果となっているかが重要なポイントとなります。通説の意味が十分に理解されないままに、新たな思いつきが提示され、学説として改善というより改悪になることはままあります。そうでなければいいのですが…。

何ごとにおいても独創的であるのは大切です。ただし素人将棋などで言えば、定跡にすでにあるのを知らずに、新手を発見したつもりになるのは恥ずかしいし、定跡をただ暗記するだけでその意味を知らず、代わりにダメな新手を発見するのも同様です。プロ棋士であれば、ダメな新手を振り回せばそのうちに負けるので結果は実に明快です(というか、おそらく実戦に出す前に検討会などで消えていくのだろうが…。今時なら、コンピュータが検討してくれるのかもしれない)。ところが社会科学の研究などでは、結果が簡単に出ないことが多く、権威主義などもあったりして、そう明快ではありません。権威者を批判すると、その周辺にいる「立場の正しさに寄り掛かった」者たちが逆襲して来たりします。だからダメな新説がなかなか淘汰されないことがあります。

定石(定跡)と新手<基礎と独創性、通説と新説>はどちらも大切です。残り続けてやがて新たな定石となるような新手は、おそらく定石の意味を知りぬいた上での創意工夫によって得られるものでしょう。定石であれ新手であれ、いずれにせよ肝心なのは自分の頭で考え抜くことです。恥ずかしいのは、予断・立場・権威に寄り掛かって、そうしないことです。安易な「正解」はないと覚悟して、悔いのない人生のため、どのように真理追究の努力を傾けるかがいつも問われます。

 

 

          集団同調圧力と権威主義の源泉

 長尾ゆり氏の随想「ジェンダー平等へ」によれば、20191217日、世界経済フォーラムがジェンダーギャップ指数を発表し、日本は153ヵ国中、121位です(6ページ)。したがって相当な人権後進国なのですが、問題はそれが実感として受け止めにくいことです。日本は世界第3位の経済大国であり、あまりに問題が多いとはいえ、主権在民の憲法の下で議会制民主主義が運営されています。なるほど、民主主義や人権の領域において、発達した資本主義諸国の中では後進的かもしれないが、少なくとも中国やロシアのような専制体制と比べればすっとましだろうし、発展途上諸国よりもきっと進んでいるだろう。世界に冠たる先進国なのだから。なのに121位か?!――そんな気分ではないでしょうか。

 ジェンダーギャップという特定の問題だから、他は違うんじゃないか、という気休めもあり得るかもしれません。他分野の順位は知りません。しかしジェンダーギャップは一つの問題に過ぎないというより、すべての人々の意識に浸透し、社会動向を底辺から支えるセンスであり、したがって社会の発展度を測る最重要な指標と言っても過言ではないでしょう。著名な「空想的社会主義者」フーリエは「ある一つの社会における婦人解放の程度はその社会の一般的解放の自然的尺度である」(エンゲルス『空想から科学へ』42ページ、岩波文庫、第51刷、1979年)と喝破しています。ジェンダーギャップによって代表される日本社会の後進性は、その変革を目指す民主勢力をも規定すると自戒すべきではないでしょうか。とりわけ集団同調圧力と権威主義は入りこみ易いものです。

 「振り返れば、1990年からの30年(これは、全労連女性部30年の歩みと重なる)、新自由主義経済政策と戦前回帰の『バックラッシュ』という二つの攻撃に抗して声を上げ続けた30年でした」(67ページ)と、先の随想で長尾氏は慨嘆しています。同様の観点から、志位和夫氏は中野晃一氏との今年の「新春対談」で、日本のジェンダーギャップ指数121位について、二つ問題を指摘し敷衍しています(「しんぶん赤旗」11日付)

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 一つは、財界の無分別で、節度のない利潤第一主義です。建前の上では「男女平等」というが、実際にはもうけのためには、ジェンダー差別を平気で押し付けている。女性には「安上がりの労働力」と「家族的責任」を一方的に押し付ける。男性には「企業戦士たれ」と長時間労働と単身赴任を押し付ける。女性にも男性にもジェンダー差別を押し付け、最大の富を吸い上げる。日本は、「ルールなき資本主義」の国と言われますが、こうしたルールのなさはジェンダーの問題にいちばん集中的にあらわれているのではないかと思います。

 …中略… 

 もう一つは、明治期につくられた男尊女卑、個人の国家への従属――この政治思想がある。明治期になって、絶対主義的天皇制を頂点とする国家体制の末端に「家族」が位置付けられて、その中で男尊女卑、個人の国家への従属が末端まで国家によって強権的に押し付けられた。教育勅語、刑法・民法、すべてあの時代に徹底的にジェンダー差別――女性は「大和撫子(なでしこ)たれ」と、男は「勇猛果敢に戦え」と、こういう価値観がつくられた。戦後も戦前的な価値観を持った勢力が政権を担ってきたわけですが、安倍政権というのはその中でも一番悪い流れをくんでいる。戦前の日本を「美しい国」として逆行をはかる。「女は子どもを3人産め」などと平気で言う勢力がいまだにいる。財界の無分別と節度のなさ、明治時代の戦前的な価値観をいまだにもって押し付ける勢力、この二つを変えていくたたかいじゃないかと思います。

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 長尾氏の「二つの攻撃」と志位氏の「二つの問題」は、安倍政権が新自由主義と保守反動との野合という性格を持っていることに対応した指摘だと言えます。もちろんそれは安倍政権に限ったことではなく、今日の日本の政治経済の本質に根ざしているのですが、安倍政権においてはそれが典型的に現れています。

さらに経済理論と史的唯物論の観点から考えてみましょう。注意すべきは、人権・民主主義の分野での社会進歩について考える際に、多くの場合、前近代的か近代的かという対立軸だけに注目しがちだということです。  

前近代を封建社会によって代表させるならば、前近代から近代への移行は次のように二層に把握することができます。社会的分業形態の次元では人格的依存関係に基づく共同体から(人格的独立性と)物象的依存関係に基づく市場経済への移行であり、搾取形態の次元では封建的搾取から資本主義的搾取への移行です。この二層性は『資本論』では、商品=貨幣関係次元と資本=賃労働関係次元という抽象度の違いからなる理論体系として表現されています。封建社会から資本主義社会への移行はこの全体性において捉えるべきですが、実際にはもっぱら前者の意味で捉えられ、後者の側面が看過されることが多いように思います。確かに資本主義的搾取は現象的には見えない仕組みなので(「領有法則の転回」)、封建制から資本主義への移行に際しても、あたかも搾取がなくなったかのように錯覚され、前近代的共同体の崩壊に伴う、人格的独立、自由・平等な諸個人の生成を経て、人権・民主主義の確立だけに目が向けられます。

 人権・民主主義の確立という問題意識からすれば、前近代的共同体が解体され、商品経済関係が一般化するという経済的土台に照応して、人権・民主主義というイデオロギーが確立していくのだから、商品=貨幣関係次元に焦点が当たるのは当然であり、前近代から近代への移行が主にその次元で捉えられるのも無理ありません。しかし搾取形態もまた移行するというか、むしろ形態は違えど、搾取の存在は継続されるという連続性の側面にも注目する必要があります。人権と民主主義が多分にタテマエに留まり、実質化が深まらないのは、資本=賃労働関係という資本主義的搾取関係、つまり支配=従属関係が貫徹しているためです。前者だけを見て後者を看過するのはいわば近代主義的アプローチであり、それを階級的アプローチで補完して始めて、資本主義社会における人権・民主主義の状況を全体的に把握できます。前近代から近代への移行を市場経済の生成という次元だけでなく、搾取形態の移行という次元でも捉えることで、人権と民主主義を真に実現する課題が、資本主義社会の形成で終わるのではなく、その社会での問題としても見えてきます。つまりその課題は、単に近代化を進めるという歴史的性格を持つ(通時性の問題)だけでなく、資本主義的搾取に規制を加えるという構造的性格をも持つ(共時性の問題)ことが分かります。

 で、私が言いたいのは、ジェンダー平等に限らず、人権と民主主義を真に実現する課題では、単に近代化だけでなく、資本主義的搾取への規制、さらにはその廃絶が必要になるということです。この点について最近では、人権と民主主義は、資本主義の枠内でもかなりの程度実現していく方向性が主張されるようになっています。それは正しいと思いますし、今日の様々な運動の励ましにもなるでしょう。と同時にやはりより一層のその実現を目指すには、搾取の廃絶を見据える必要があると言えます。志位氏は「ジェンダー平等は資本主義のもとでも最大限探求されるべき課題であり、エンゲルスの予想を超えて、資本主義のもとでも大きな前進もつくられつつあります」と強調しつつ、同時に、「より根本的には、未来社会(社会主義・共産主義社会)――真に自由で平等な人間関係からなる社会、あらゆる権力的関係がなくなる社会においてこそ、ジェンダー平等が全面的に保障されるという展望をもつことが大切ではないでしょうか」と語っています(「しんぶん赤旗」217日付、15日の講座「船橋社会科学ゼミナール」=略称・Cゼミでの発言)

 先述のように、ジェンダーの問題は社会進歩のメルクマールであり、そこに示された日本社会の圧倒的な後進性は多くの領域にも共通するものと思われます。比較的一般的なものとしては、「集団同調圧力」とそれが跋扈する場所に存在する「権威主義」を指摘することができ、日本において、その病理は保守的社会のみならず、社会変革を目指す組織にもしばしば浸透しています。当然のことながら、社会変革を目指す組織は、多様性や個人の尊重を声高に主張し保守的社会を批判します。ところが自らの組織内において集団同調圧力と権威主義が支配的である場合がしばしば見られます。この矛盾を直視せず、それを何か、神聖な団結や戦闘的先進性の表れなどと錯覚してしまうことがあります。そうではなく、それは日本社会の後進性に規定された現象だと自覚することが必要です。

 人権・民主主義における日本社会の後進性は、一般に思われているように、単に近代化の遅れによる個の未確立によるだけでなく、「ルールなき資本主義」と言われる強搾取にもよります。生産過程における資本の専制支配が社会全体を規定しており、集団同調圧力や権威主義の源泉として、社会の隅々にまで影響を及ぼしていると考えるべきでしょう。そういう中で大小左右さまざまな集団・組織において人権侵害や民主主義破壊が起こっています。

 もちろん諸組織はそれぞれ独自の目的と規約を持っているので、その内部での自由や民主主義のあり方は社会一般とは区別されます。しかしその組織が真に発展しようとするなら、目的実現のために規約の枠内で自由闊達な議論が必要となります。ところが現実には様々な口実をつけて枠を不当に狭め議論が制限される傾向がしばしば見られます。こういう組織は自己満足が優勢になり、自己改革の可能性が減少します。そういうことが社会変革を目指す組織において起こっているなら、自らが反対物としての資本主義的搾取の原理に絡み取られていることになります。したがって、それは単なる前近代性の表れではなく、資本主義社会の原理に根ざしているものでもあるので、両面に注目して問題の深刻さを自省する必要があります。

 

 

          「分断を許すな」は正しいスローガンか

米大統領選がスタートし、民主党の予備選挙では、中道派のブティジェッジが、サンダースなど左派は分断を助長し、中道派は団結を促すと主張しています。こうした「中道派=団結、右派・左派=分断」という漠然としたイメージは正しいでしょうか。あるいは中道派による「全国民の団結」というイメージはそもそも社会問題を解決するのでしょうか。

分断そのものは客観的に存在します。問題はどこに線を引くかです。実際には、それは1%対99%という形であり、左派はそれを認めます。右派ポピュリストはこの99%の内部に分断を持ち込んで、1%の問題を隠して彼らを利するのです。ネタはいくつでもあります。アメリカであれば人種が大きな問題でしょうが、主に日本の場合を考えて挙げていってもどんどん出てきます。男と女、日本人と外人、日本と韓国、若者と老人、中間層と低所得層、労働者と農民・自営業者、公務員と民間労働者、労働者の中の正規と非正規、貧困層の中での生活保護受給者と非受給者、etc… 

どれをとってもケンカしている場合じゃない、お互い団結して、一部の支配層、その番頭に過ぎない政府と対決しようという問題です。「分断を許すな」というスローガンは、そうした団結を促進する場合は正しいのですが、左派は分断を助長する、などという文脈で言われるならまったく間違っています。それは分断が1%対99%という形で客観的に存在することを否定して現状を美化し、分断をなくすのでなく、ないことにします。表面的な離合集散に目を奪われるよりも、自分たちの抱える社会問題の原因を見つめ、それを克服するにはどうすればよいかを考えれば、(99%内での)団結と(1%との)対決が見えてくるはずです。真の「分断の克服」は支配=被支配の構造そのものをなくすことであり、そこをあいまいに、分断一般に反対しても、分断を生み出す社会はそのままです。
                                 2020年2月29日





2020年4月号

          地域経済と適正な賃金・商品価格の実現

 日本経済の現状を捉え対策を考える場合、国民経済次元でまず目に付くのは、格差と貧困の拡大・賃金の低下・個人消費の低迷・投資の停滞・内部留保の積み上がりなどであり、それらを解決するどころか助長する大企業本位の経済政策です。そうした格差拡大による経済停滞を打破するには、現行の経済政策から逆転して、税と社会保障を中心とする再分配政策を正常化することが第一であり、いわばそれが即効性の期待される対症療法です。本来はそれを契機に(相対的な)根治療法として、新自由主義グローバリゼーションから相対的に自立的な内需循環的な国民経済にふさわしい生産のあり方を構築する労働政策や産業政策にまで進む必要があります。しかしそれは民主的な政府によって実現する課題であって、すぐには見えにくいとは言えます。それに対して東京など以外では、地域経済の疲弊が身近に厳しく実感され、再分配政策の必要性だけでなく、生産からの立て直しも喫緊の課題として見えやすいと言えます。特集「地域から日本経済を立て直す」は総合的に地域経済の問題に取り組んでいますが、そうした問題意識で読んでみたいと思います。

 いささか横道にそれますが、生産のあり方を考察するに際して、価値の生産と実現が問題となります。それは労働価値論のテーマです。労働価値論に関連して、未来社会論と現状分析とで、一見対照的な理論展開があります。未来社会論では、生産力発展によって労働時間が短縮し自由時間が拡大することが論じられます。ここでは投下労働時間が短縮するので、生産物の価値が低下します。この価値低下は悲しむべきことではなく、自由時間を生み出す基であり社会進歩の象徴と言えます。それは歴史貫通的法則の未来社会での実現形態です。

資本主義経済の現状分析においては、逆に商品価格の低下・賃金の低下が俗に「デフレ」として問題にされ、経済停滞の元凶とされます。資本主義的生産もまた特別剰余価値をめぐる競争を推進力とする生産力発展を通して商品価値を低下させるという形で、歴史貫通的法則を担います。しかしそれは価値増殖を目的とする(特別剰余価値の獲得はその目的に沿うが一時的であり、その消滅の後、価値低下に帰結する)ので、価値低下を前提としつつ、単価の低下を生産量の増大で補い凌駕するか、新たな商品開発による価値創出を目指すというように、下りのエスカレーターを駆け上るような運動を続けます。ただしそこでは、一方にインフレによる名目価格の上昇によって本質を隠す現象があり、他方に独占価格の設定によって、価値低下の法則に逆行する動きがあります(それは世界史的には社会主義への移行期における旧体制としての資本主義の反動性の現われ)。

 しかし、一方で未来社会論が価値低下を肯定し、他方で資本主義の現状分析が商品価格低下を元凶とする経済停滞を問題視するという「対照性」は見かけ上のものです。上記のように生産力発展による生産物価値の低下という歴史貫通的法則は資本主義的生産にも貫き、商品価値の低下そのものは問題ではありません。問題は価値と価格(*注)の乖離にあります。資本主義において強搾取への衝動から、労働力の価値以下への賃金の低下が起こりやすく、それを起点に商品価格の価値以下への低下が起こります。こうして労働力の再生産と営業の継続が困難になります。新自由主義グローバリゼーションにおける「底辺への競争」は特にそれを推進します。

(*注)ここで言う「価値」と「価格」という用語は量的側面に注目して使用しています。市場の需給変動に応じて変化する価格に対して、その平均に成立するのが価値であり、それは再生産を保障する水準にあると想定されます。資本主義経済においては、ここで言う「価格」は市場価格であり、「価値」は生産価格となりますが、再生産を保障する平均的水準とそこからの乖離という関係を端的に示すために「価値と価格」と表現しています。もっとも、ここでは価値からの価格の一方的下方乖離が問題とされるので、価値の本来持つ平均的性格が損なわれますが…。価格の一方的下方乖離は長期停滞経済の結果であり原因でもあります。長期停滞資本主義においては、産業循環の好不況の波そのものが全体として低位に推移し、その市場価格変動の平均をとっても、再生産を保障する価値(生産価格)の水準を下回るということであろうかと思います。

 したがって少なくとも労働力の価値水準にふさわしい賃金を確保し、それによる内需振興によって、商品価格を価値水準に維持し、営業の継続を可能にすることが必要です。こうして労働力を含む生産資本の再生産を正常化するために、それを破壊している新自由主義グローバリゼーションに抗して、ローカル循環とナショナル循環を再生することが目標となります。現代資本主義の経済停滞を克服する一環として、地域経済の生産を立て直す視点をここに置きたいと思います。その視点の中心は、価値の実現条件を整えることで再生産を支えるということです。

 その背後にある問題意識を一般的に言えば「市場メカニズムは再生産を担えるか」ということです。たとえば農業は今日の資本主義下では自立的に存在できない状況であり、これについて、農業に問題があるので保護してやらなければならない(保護するのもやむを得ない)というのが大方の認識であり、それは容易に保護無用論に転化します。しかしむしろ農業の存立を保証できない市場のあり方が問題であり、いわゆる市場の失敗の重大な例であると見るべきではないでしょうか。資本主義市場に合わせた大規模農業よりも家族農業を中心に世界の農業を考えることが主流になりつつある状況はそれを示唆しています。このように、「市場メカニズムは再生産を担えるか」という問題を一般論として考察する意味は確かにありますが、それはここでは措いて、「新自由主義の強搾取がもたらす長期停滞資本主義下で市場メカニズムは再生産を担えるか」という限定した問題設定に仕切り直します。今日の地域経済の疲弊はそれに対する否定的回答を客観的に表現しているわけで、新自由主義下の資本主義市場経済の失敗をどのように転換し、市場機能を補正していくかが課題となります。

 地域経済において、価値に対する価格の下方乖離を是正するには、再生産構造を再生することが必要です。それについて、岡田知弘・吉田敬一・関耕平の3氏による座談会「地域経済の再生を考える 『自治体戦略2040構想』との対決軸(以下「座談会」)の始めに以下のように具体的に提起されています。

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 私はこの間、「持続可能性の危機」と言っていますが、地域での再生産が行われるには、地域経済の担い手が必要です。経済主体が維持され、雇用が維持され、所得を生みだし、地域社会や国土が維持される。地域内再投資力が維持され、地域内の経済循環が維持されるわけですが、その担い手が大幅に減ってきています。      15ページ

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 この経済主体として、生業としての中小零細業者と、それに近い性格を持つ中小企業が挙げられ、大企業は利潤極大化を第一とする限りではふさわしくありません。加瀬和俊氏の「新漁業法下の沿岸漁業 変化の予測と課題は、漁業権配分問題にかかわって、そのことを示しつつ、地元経営体の日常的な相互依存関係を活写して、地域経済の再生産のあり方を次のように鮮やかにイメージしています。

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 全国の漁村地域で生活している人々は、限られた就業機会を可能な限り有効に活用しながら職業生活を営んでいる。この場合に重要なのは、地域内の有力な産業を核にしながら産業間の結びつきを強く維持することである。利潤極大化の目標に縛られている企業は、最も安く購入できるところから資材を購入し、最も高く売れるところに製品を販売するという単純な戦略をとり、労働力は外国人や派遣労働者を調達するので、その経済活動が地元経済を潤す度合いは非常に限られている。それに対して、日常的な相互依存関係の中で生きている地元の経営体は、地域内の漁業者から餌を購入し、地域内の食堂に水産物を提供し、機械の故障は地元の整備工場に依頼するという形で日常的に企業間の仕事の関連を付けている。そこにおいては、一つの企業の経費は他の企業の売上であり、雇用者に支払う賃金は彼らの所得となって地元の購買力を形成している。所得機会の限られている地方においては、個別経営の利益だけではなく、地域経済の拡大に資する地域政策的観点が特に重視されなければならないだろうし、それは新法による漁業権配分に際しても生かされる必要があるはずである。            69ページ

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 グローバル循環から相対的に自立したローカル循環はこのような「日常的な相互依存関係」の中で、価格の下方乖離を防いで価値を維持することで、人々の生活と営業を確保しています。地域経済の再生産を確立できるような市場のあり方がこうして形成されているのです。

 しかし地域経済の主体である中小企業が困難を抱えていることが、ローカル循環形成のネックになっています。「座談会」で驚きの事例が報告されています。島根大学と松江生協病院との共同調査によれば、患者の医療費(自己負担)滞納の発生頻度を見ると、「協会けんぽ」が国保や後期高齢者の3倍あるというのです(19ページ)。これは「中小零細企業が多い地方都市において地域経済の疲弊が進行し、中小企業で働く現役世代の労働条件の悪化と生活困窮が深刻化しているということで」す(同前)。その原因として「日本の中小企業の製造業の場合などでは、大企業の下請が多くて、単価を決定する力がない」(21ページ)ことが指摘されています。ここでは「社会保障制度の維持困難さと中小企業の基盤のほころびが、メダルの裏表の関係で進んでい」ます(22ページ)。

 ローカル循環の形成にとって地域金融システムの確立が重要であり、その中核を担う地方銀行(地銀)の役割が大きいのですが、地域の中小企業と同様、不振にあえいでいるのが実態です。齊藤正氏の「地銀はどこへ向かうのか 地銀経営の現況と今後のあり方については地銀の「稼ぐ力」の低下の現状と回復への模索を分析しています。その模索は、金融庁や株主からのプレッシャーに応えるべく個々の機関の「生き残り策」として打ち出されています。しかし問題の根本は地域経済の疲弊、「地域切り捨て」策にあるとして以下のように主張されます。

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 しかし、今日の地域経済の疲弊を招いているのは、「資本の論理」が専一的に支配する「グローバル循環」に適合するよう「ナショナル循環」や「ローカル循環」を組み替えてきた結果である。そしてそれが、地域金融システムの持続可能性を脅かしていることに鑑みると、地域金融システムの中心的な担い手としての地銀に求められる「持続可能なビジネスモデルの構築」とは、これまでのような工場誘致、観光客誘致、特産品開発などの外需依存型経済から脱却し、「地域自立型」ローカル循環の再生、今風の表現を借りるならば、地域のSDGs(持続可能な開発目標)に沿ったものかどうか、という視点から追求される必要がある。                 84ページ

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 そうした「地域自立型」ローカル循環を形成する自助努力として「地産地消」が喧伝されます。そこで問題は、「『地産』で価値を生み出しても、価値を実現する『地商』がない」(24ページ)ということです。「地産」しても、大手資本が買い取って全国販売し、お金は東京へ行ってしまい、地域内経済循環ができずにいるわけです。そうすると「地産」と「地消」の間に「地商」が要ります。「だからまず、小さな自治体のなかでやれるところからやっていく、当面の課題は、成長はしなくても持続できる循環をつくっていく、それが大事だと思います」(同前)ということで、全国的にも有名な島根県海士町が「地産地」課を新設して、役場職員が都市に直接出向いて販売網を開拓していることが紹介されています。

 ただし先述したように、私たちが直面しているのは、「市場メカニズムは再生産を担えるか」という一般論ではなく、「新自由主義の強搾取がもたらす長期停滞資本主義下で市場メカニズムは再生産を担えるか」という問題であり、「新自由主義の強搾取」に加担している政府の経済政策という敵もあります。新自由主義の強搾取と経済政策を与件として受容し続けるか変革するかという選択に私たちは直面しており、それを決するのはどのような生活を望むのかということです。

 たとえば、加瀬論文の上記引用部分が描いているような、漁村における相互依存関係に基づく地域経済のあり方に対して、次のような批判がありうるでしょう。――地域にこもって競争によらず、いわば談合に基づいて高い価格を維持しているようなものであり、高コスト構造の温存による退嬰的な地域経済である。利潤原理に基づいて、広く世界に目を向け、低コストを追求し廉価な商品を作るのが経済の進歩である。――そうであれば、何も選択するまでもなく、新自由主義グローバリゼーションを無規制なままに放置すれば、「自然に」そうなります。私たちの生活はそれでいいのかというのが問題です。――廉価な商品に囲まれた無機質でゆとりのない生活、しかもだんだん苦しくなっていく。――それは正常な生活の再生産だとは言えないと思いますが、新自由主義下ではそれがそういうものとして通用しているのが現実だから、それはそれとして低価格を前提としつつも再生産可能な価値が維持されている状態だ、と言えなくもありません。…「だんだん苦しくなるけれども我慢すれば生きていける」。

 しかし価値を維持する(労働力の価値に見合う賃金と商品価値に見合う商品価格を維持する)と言っても、どういう地域社会の中で維持するかが問題であり、地域生活のあり方が問題です。「座談会」では、生活を支える視点から、地域社会を構成する三つの機能が指摘されています(37ページ)。――(1)経済的機能 (2)福祉・教育機能 (3)環境保全・地域生活文化機能―― 地域社会の経済的機能を担う中心である地場産業は地域の福祉・教育そして環境・生活文化に根差したものです。それは「文化型産業」であり、「文明型産業」との対比イメージが37ページの「表4」にまとめられています。それによると、「製品の機能の特性」について、文化型産業では「人間的生活の維持と質的充実」であり、文明型産業では「人間の手足・五感の機能向上」です。「社会生活の機能」について、文化型産業では「自然環境・コミュニティの持続性」であり、文明型産業では「生活空間の快適性・利便性の向上」です。「産業の存在意義」について、文化型産業では「幸せな社会の基盤(GNH向上)」であり、文明型産業では「豊かな社会の基盤(GNP向上)」です。そうして浮かび上がる文化型産業の特性を基に生活文化と街づくりが語られます。

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 文化型産業を担うのは、地域密着型中小企業であり、農林漁業です。そして、成長指向より成熟指向です。個別ニーズに対応し、対面販売で、小ロット生産です。こうした生産スタイルは生活文化に基づいているので自然に個性的なまちづくりになります。

 生活文化型産業の再生を図ることは、文化的で個性的な街づくりをすることであり、地域資源を活かした地域内経済循環の実現、地域の歴史と記憶を積み重ねるまちづくりをめざします。            38ページ

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 これがローカル循環に基づく価値の生産と実現の舞台です。そこでは、グローバル循環に基づく文明型産業を中心とする、低廉な商品に囲まれた生活・無個性な街づくりとは、労働力の価値・商品の価値の水準が違います。人間的な生活と社会の視点からすれば、新自由主義グローバリゼーションのもたらす「底辺への競争」による生活そのもののダンピングとでもいうような状況は、やはり経済社会の正常な再生産からの逸脱であり、価格(賃金と商品価格)の価値(労働力の価値と商品価値)以下への乖離と見なすべきでしょう。

新自由主義の強搾取がもたらす長期停滞資本主義下で市場メカニズムが再生産を担えないとするならば、地域の自助努力だけでなく国民的政策展開が必要となります。「地方圏においては地域の中小企業や自営業者を支えるなど、公共部門による資金・経済の果たす役割が大きい」ので「自治体にたいして財政展望を国の責任で示すこと、つまり財政調整と財源保障機能の拡充の方向性を国が明確に示すことが不可欠です」。それによって「地域内再投資の主体、あるいはローカル循環の形成者としての地方自治体・地方財政の先進事例が、次々と登場してくることを可能にするのです」(39ページ)。  

このような「地域間格差是正機能の再建、再分配の強化」に「向けた国民的合意を取り付け」(40ページ)ることが必要となります。その障害となるのが、地域格差是正を掲げながらも、公共事業偏重で歪んだ利益誘導による汚職にまみれた従来の「開発主義国家」のマイナスイメージです。その考え方や実態は批判されるべきですが、地域格差是正そのものは妥当な目標なので、「座談会」は開発主義国家の「組み換え」戦略を提起しています。

 その第一は――「地域資源の国民的利用」を目的とすることです。耕作放棄地等、未利活用状態に置かれ、維持すらも困難になっている農山村の「地域資源」、それは本来、再生可能エネルギーや食糧の生産という形で、国民全体で利用・享受すべきものです。その実現のためにも農山村に対する人材・資金の再分配が必要となります(同前)。―― 

第二に「基礎的社会サービスの充実による人権保障」という理念が掲げられ、第三に、「公共事業に偏らない、多様な主体に対応した多様な資金チャンネル」が必要です(同前)。

 この戦略への「国民的合意」を取り付けるには、「田舎」に対する想像力(同前)も必要ですが、上記のような「地域資源の国民的利用」のもたらす展望を分かりやすく説明して、実利を理解してもらうことがより重要でしょう。より進んでは、農業は非効率で稼げないので補助してやっている――だから大規模化するとか、ITを活用するとかの経営努力に徹せよ、さもなくば補助はうちきりだ――という類の見方を改める必要があります。そもそも産業間で所得格差があるのは不等労働量交換の結果であり、そのような市場の失敗による不公正を是正するために再分配政策が求められている、という合意形成を目指すべきでしょう。社会保障を通じた再分配政策が、消費生活などにおける格差是正を目指しているのに対して、この場合は公正な生産基盤を構築することが目的です。再分配政策のそういう意義にも注目すべきです。

 上述の「開発主義国家」の弊害に関連して、無駄な公共事業が、不透明な利権や汚職とともに大問題になり削減されました。その際に、行政の透明化や予算から不要不急の支出の排除などが一定進んだことはいいのですが、新自由主義イデオロギーに基づき、とにかく予算のスリム化が自己目的化され、無駄な公共事業の削減だけでなく、必要な事業も低コストが一面的に追求されるような逆の弊害が生まれ、地域経済の疲弊の一因となっています。そこにあるのは、新自由主義の強搾取がもたらす長期停滞資本主義であり、地域経済においてそれに対抗するには、市場任せにするのでなく、行政がリーダーシップを発揮することが必要です。各地で制定が進んでいる公契約条例はその有力な手段です。

永山利和さんに聞く「広がる公契約条例 地域の運動のポイントは?は世田谷区の公契約条例の経験を詳しく紹介しています。条例の狙いは次のように実に簡潔・的確に書かれています。

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 条例は前文で「事業者が置かれた厳しい経営環境の実態」や「不安定な雇用によって低賃金労働者が出現する」という現状に対して、「事業者の経営環境が改善され、適正な賃金の支払いなど労働者の労働条件が守られ、また、公共事業の品質が確保され、もって区民の福祉が増進されることを目指し」、制定された主旨、経緯を示しています。

         94ページ

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 「適正な賃金」「事業者の経営環境」「公共事業の品質」の三つを確保することは、地域経済を振興し行政の役割を果たす上での核心に当たります。世田谷区の経験が素晴らしいのは、行政主導で条文を形骸化させるのでなく、地域の労働組合が積極的に参加して運営の民主化を実現し「実際の条例の効果を発揮」(95ページ)させていることです。

市場を放置しておけば、強い者が無理を押し通し、弱い者が不利益をこうむることになりますが、以下のように、公契約条例を通じてそこに介入することで公正さを確保しつつ、公共事業の質確保にも行政の責任を果たすことが可能になります。

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 各産業には、一般に産業法の規制がありますが、実際には請負の業種や労働者は、非常に声が出しくい。多くの問題が改善されない状況があるわけです。そこで公契約条例の仕組みを通じて、異業種間、使用者・労働者間で、話し合う場を持つことが可能になり、かつ必要だと考えています。

 従来の公共事業ですと、行政は、元請と下請間などの「民・民契約」に口を出さない、つまりマーケット(市場)に介入しない、一種違法・不法の黙認が当然視されてきました。しかし、一旦、手抜き工事など不良工事などが出てきて初めて、行政側が不問にしていた発注者責任、事業者の受注者側の発注者責任が問われる事態になっています。この点も、「公共工事品質確保法」とともに公契約条例では、建設委託案件の企画・設計から、入札、施工、管理・運営という全工程、業務委託の一連案件を、行政が責任を果たすテーブルに乗り、行政行為の民主化・透明化につなげていくことも期待されます。

   9697ページ

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 そして何よりも公契約条例では、「区との契約業務に従事する労働者の適正な労働条件の確保」(97ページ)が重要です。世田谷区の条例をめぐっては、労働報酬下限額の設定について、憲法や最賃との関係で反対論が出されたのに反論し、初年度の2015年に労働報酬委員会・部会の答申金額が尊重されずに低額で出発したことに対して、翌年から働きかけを強めて引上げを実現する、といった粘り強い闘いが展開されました(9798ページ)。こうして2020年からは時給1130円を実現しました。この下限額は区が採用している非常勤職員にも適用されるので、「公契約の下限額が職員全体の賃金底上げ機能も果たし」「官製ワーキングプアをなくすという当初の課題実現にもつながるもの」(98ページ)となっています。この1130円というのは労働組合運動が要求している1500円をも見据える段階に接近できたということであり、こうした実績は下記のように、賃上げの世論形成に向けて重要な貢献となっています。

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 これは、公契約委員の労働者側・使用側・有識者も含めた三者でも合意になっているのですが、適正な作業にはそれにふさわしい賃金を支払うこと、そうでなければ、労働者の労働意欲が発揮されないということです。労働力不足だと言われるけれど、労働者の絶対数が足りないわけではなく、労働条件が悪いために、人が集まらない状態が「不足」の主たる内容です。良質な労働力を確保することは、効率上も、作業の質確保の点からも、行政のサービス向上につながります。したがって「適正な賃上げ」はすべきだというコンセンサスはつくられています。           99ページ

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 以上のように、公契約条例を通じて、事業者の経営環境を改善し、賃金を上げることで地域経済のローカル循環を好転させ、自治体財政も潤すことができます。

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 おおよその推計ですが、労働報酬単価の下限設定の引上げによって、区の予算上、予算経費の上乗せは、年間34億円の支出増となると見られます。それに対して、雇用効果、地域で賃金が増えることを通じて、所得乗数効果も勘案すると、それが生み出す波及効果は、おおよそ15億円程度となるでしょう。この経済効果は、区の財政、予算規模から考えても大きいのではないかと思います。

 これは最終的には地域の消費の拡大、それが地域内循環で回ることで、結果として税収アップにもつながります。それを数字で示せるようにして、さらに検証や、研究も必要ですし、それを通じて、行政活動の透明化、経済活動の民主化への基礎をつくることになるかと考えます。       100ページ

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 公契約条例のもたらすこのような経済効果は、価値論の観点からは次のように評価できます。賃金を下げ、それによる内需不振が招く長期停滞に帰結する新自由主義政策からの脱却を通して、労働力の価値水準にふさわしい賃金を確保し、商品価格を価値水準に維持して営業の継続を可能にしています。それは、価値の実現条件を整えることで再生産を支えており、そこに地域経済の生産を立て直す視点があります。

 

 

          アベパラドクス再考

 安倍政権は明らかに戦後最悪であり、その主要政策も支持されていないのに、高い内閣支持率を維持し続け長期政権となり、昨年ついに憲政史上最長を記録しました。私はこの奇妙な現象をアベパラドクスと呼んで、その原因について模索し何度かあれこれ書いてきました。もちろん安倍内閣打倒を叫びながらですが、いっこうに実現しないので、最近は書くことをやめてしまい、何を書いたかも大方忘れるような体たらくです。ところが最近この問題についての興味深い論考に接したので久しぶりに言及します。

 二宮厚美氏の「安倍政権のもとでの政治的貧困の諸帰結」(『前衛』20204月号所収)は私が言うところのアベパラドクスについて、一定の解明の論理を組み立てています。それをきちんと紹介し評価する余裕がないので、面白いところにだけ触れます。

 安倍政権は支持されているとは言っても「他の内閣よりよさそうだから」という消極的支持に過ぎない、ということはさんざん言われてきました。二宮氏はそれについて「(現実的ではない)仮想的・想像的な相対比較、消去法による支持にすぎない」とか「『他よりもマシのようだ』といった仮想的期待感によるものでしかなかった」(54ページ)と表現し、いかにも現実的根拠のない仮想に過ぎないことを強調しています。

 また二宮氏は「政治的貧困」という概念を提起しています。それは「民主主義的政治の水準が低下すること、したがって、民主政治を構成する諸権利、ルール、規範、国民参加、国民的意識、社会諸運動の水準・成熟度が貧困化することをさ」します。そして「政治的貧困」の水準を決めるキー概念は「正義(感)」にあるとされます。「いかに悪質な政権であっても、正義感に貧しい社会では、それにトドメをさすことにはならない」というのが「政治的貧困」の帰結です(57ページ)。

 さらに二宮氏は正義感を含む包括的な「コミュニケーション的理性」として、「①客観的真理を見抜く理性、②規範的正当性を判断する理性、③人間的誠実性を尊重・理解・表現できる理性」を提起しています(60ページ)。そしてアベ政治が悪政を推し進めながら、「まさにその同じ過程においてコミュニケーション的理性の発揮を妨げる壁、障害、要因をつくりだしてしまう」(61ページ)とされます。それ故、安倍政権は失敗・失政を犯しながら、同時に支持率の高止まりを実現しています。これがアベパラドクスの秘密だというわけです。なかなか弁証法的です。

 それを指摘した上で、世論を政治的貧困に落とし込む三つのワナ・回路を解明しています。その第二のワナは「経済的貧困」が「政治的貧困」を生む土壌になる、というよく言われることです。暮らしが大変で政治的無関心になるということです。第三のワナは格差と貧困の拡大の下で、人々の間に分断・競争の関係がつくられ、ポリティカル・コレクトネスを嘲笑するシニシズムが生まれるということです。トランプや橋下徹のように、「下品なホンネ」を振りかざす政治家の人気が例に挙げられます。これもしばしば指摘されます。

 それらの前に語られる第一のワナの解明がなかなか鮮やかです。

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 第一は、安倍政権が暗礁に乗り上げ、政策上は、袋小路、行き詰まり、八方ふさがりの状態にいたりながら、あたかも道連れ心中に誘うかのように、国民・世論を迷路に追い込んでいることです。迷路に無理矢理引きずりこまれた国民にとっては、すでに座礁している「アベ政治」から脱出し、別の航路を見つけ出すのは非常に困難にみえてきます。 

…中略… 安倍政権は明らかに八方ふさがりの状態に陥っていますが、その閉塞状態からの脱出が難関・難題であるだけに、国民にとっては、逆に、代替策に期待し、方向転換することがそれだけ難しく見えてくるわけです。こうした状況下では、コミュニケーション的理性の発揮は当然鈍くならざるをえません。    6162ページ

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 アベ政治は戦後最低・最悪であるのみならず、明らかに客観的には行き詰まっているにもかかわらず支持率が高い、という矛盾について、これはある程度の説得力を持って説明しています。世論は、安倍政権の政策的行き詰まりという「迷路に無理矢理引きずりこまれ」、脱出できなくなっているというのです。混迷の中での方向喪失です。しかし従来であれば、世論はそんな政権を見捨てるのが普通だったのですが、なぜそうならないのか。

 一つには、世論は民主党政権の失敗に懲りて、安倍内閣を「他の内閣よりよさそう」と仮想してしまっており、安倍政権もそれを最大限に活用し、ことあるごとに「悪夢の民主党政権」と言い立てているからでしょう。二つには、アベノミクスの悪政で生活が困難になり、それが政治的転換を躊躇させる保守性につながっていると見られます。困難の原因は本当は安倍悪政にあるのですが、政権を変えれば不安定化してもっと生活に悪影響が出ると恐れているのでしょう。

 もちろん市民と野党の共闘は、13項目の政策合意に示されるように、民主党政権をはるかに乗り越えた希望の持てる政治展望を持っています。政権の混迷の中で、引きずりこまれて同様に方向喪失に陥った世論に、それをどう理解してもらうのか。二宮氏は「社会主義思想の息吹を活性化する必要がある」という「個人的な感想」(65ページ)をもらしており、私も個人的には同感であり、アメリカの若者たちが社会主義に期待している、という遠くの希望にも接していますが、眼前の情勢をどう動かすかでは名案はないと感じてしまいます。ともあれ、アベパラドクスの解明に迫った二宮氏の論考には刺激を受けました。
                                 2020年3月31日




2020年5月号

          個人的所有の再建の意味

 『資本論』第1部第24章第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」は、資本主義を「否定の否定」によって止揚した未来社会が個人的所有を再建する、という有名な命題を以下のように提出しています。

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 資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する。

    新日本新書版『資本論』第4分冊、1306ページ

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これについて、エンゲルスは、生産手段はすべての人間の共同所有になり、生活手段は各人の個人的所有となる、と解釈しており、通説とされてきました。それに対して、個人的所有の再建とは、生産手段についても言われているという異説も有力です。鶴田満彦氏の「21世紀に生きる古典 マルクス『資本論』」齊藤彰一氏の「貧困・格差の拡大と未来への展望」は両方とも、異説の立場と思われる大谷禎之介氏の『マルクスのアソシエーション論 未来社会は資本主義のなかに見えている(桜井書店、2011年)を参照しています。鶴田論文は明確に異説を採用しています。齊藤論文の見方は微妙なところがありますが、通説の枠にとらわれずに「個人の自由」を基軸にして考察しています。私は大谷氏の著作は未読なので、別のわずかな知見でコメントしたいと思います。

 鶴田氏は「否定の否定」による個人的所有の再建を次のように解説しています。

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 独立生産者などから生産手段を奪った資本家が、大規模協業のもとでは労働者をはじめとする生産者とともに生産手段を事実上共同占有しているのであるが、これを基礎として再建される個人的所有は、もちろん、生産手段の私的所有ではない。労働者をはじめとする生産者が、それぞれ個人として、生産手段も消費手段も作ることができる生産手段の単なる占有者から名実ともに正規の所有者に転化することを「否定の否定」と言っているのである。

 未来社会において労働者をはじめとする生産者が、諸個人として生産手段および消費手段を個人的に所有できる基礎となっているのは、資本主義時代における土地ならびに生産手段の事実上の共同占有である。未来社会の成員は、資本主義時代に多くの労働者が住宅ローンなどで債務奴隷化しているのに対し、消費手段に関してより完全な個人的所有者であるが、生産手段の個人的所有者として、さまざまなチャンネルを通じて生産手段の利用と処分に関する決定権をもつことができなければならない。旧ソ連のようにすべての生産手段は人民的所有のもとにあると謳われながら、実際には一部のノーメンクラツーラ(高級官僚層)が決定権を独占しているのは、未来社会としての社会主義のあり方ではない。

     2930ページ

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 ここでは、未来社会において、消費手段のみならず生産手段についても、労働者など生産者が個人的に所有するとされ、その内容として「さまざまなチャンネルを通じて生産手段の利用と処分に関する決定権をもつこと」が指摘されています。この「生産手段の個人的所有」について、一方では、旧ソ連の形骸化された偽善的な「人民的所有」と対比することでその実質的意義が補強されています。他方では、すでに資本主義において資本家と労働者が事実上、生産手段を共同占有しており、「否定の否定」を介して、労働者が生産手段の単なる占有者から名実ともに正規の所有者に転化する(だけだ)、ということを指摘することによって、「生産手段の個人的所有」への転化の現実性を強調しています。資本主義時代にすでに内実は整っていた(=占有)のが、「否定の否定」を通して形式的にも正規の所有になる――実在的基盤はあるのだから、別物を造り出すような無理な「革命」ではない――という説得の論理かと思います。資本主義時代における生産手段の占有の意義を強調するのは、大谷禎之介氏の見解なのかもしれません。氏の前掲書のサブタイトル「未来社会は資本主義のなかに見えている」からそのように推察されます。

 齊藤氏は未来社会を「自由な個人の連合体」(106ページ)あるいは「人間の全人格的な個性の発展が可能になる社会」(107ページ)と規定した上で、「未来社会における人間の在り方、人間の労働の在り方、人間同士のふるまいの在り方について …中略… つまり未来社会において人間は、社会はどのように変化するのかという問題」(108ページ)を提起し、「一言でいえば、ひとかどの『個人』たちが自由に考え、主張し、議論し、労働するという世の中になります」(同前)と答えています。

 「世間の常識」によれば、個人の自由とはまさに資本主義に特有のものであり、社会主義はその敵対物ですが、齊藤氏はまさにそれが逆であることを示します。「ブルジョア社会における個人の自由は、資本主義の生み出す法則やイデオロギーに束縛されています。資本家にさえ自由はないのです」(108ページ)。資本家は資本の増殖要求に従わされ、労働者はその影響でリストラや無理な働き方を強いられるので、「私的所有のもとでは、資本家も労働者も自由ではありません。 …中略… 資本主義の鉄の法則から自由であるということにはなりません。私有財産は人間の自由な意思でコントロールしうるものではないのです」(109ページ)。それに対して未来社会では「資本主義の諸法則の束縛から解放された、自由な『個人』が誕生し、個人の諸能力の全面的発展が実現する」(同前)として、次のような社会像が描かれます。

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 未来社会ではこうした自由な個人たちが、同等の権利のもとで議論しあい、生産手段の使用の方法、労働のありかた、生産物の配分の仕方などを決定します。社会の運営が自由な諸個人の議論によって決定されてゆく時代となります。このように社会化された生産手段などを諸個人たちが自由な議論によってコントロールすることになります。これはまさしく民主主義の完成したかたちといえます。     110ページ

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 この叙述からは、未来社会において生産手段についても個人的所有が確立するというニュアンスが感じられます。それはともかく、一方で、資本主義社会の自由の実像を暴き、他方で、ソ連や中国から想像される社会主義社会像の誤りを克服する上で、このように、資本主義の法則から解放された自由な諸個人が運営する未来社会像を提供することは、マルクスの本意に沿うことであり、現代資本主義下に生きる人々にオルタナティヴを語る本道でもあります。

 『資本論』第1部第24章第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」においては、そうした自由な諸個人を生み出す「個人的所有の再建」が、所有の歴史的展開の考察に基づいて描かれます。齊藤氏はマルクスの個人的所有再建テーゼを次のように解説しています。

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 「私的所有」は当初、資本主義が本格的に始動する以前からありました。それは自作農や、熟練労働者がボスとして経営する小工場などの所有形態でした。それらの人々の収入の額は、「自己労働」の量によって規定されていたのです。これは牧歌的な時代です。しかし資本主義の発展は、それら小経営を駆逐し、新しい形態の私的所有を社会に押し付けました。それが「資本主義的な私的所有」です。この私的所有は、他人の労働つまり労働者の剰余労働を基礎として成り立つ所有です。そして資本主義が労働者階級によって打倒され、新しい社会が生まれると、そこに「個人的所有」が生まれるというのです。

 ここで重要なのは、「私的所有」と「個人的所有」との違いです。つまり資本主義のもとでは生産手段が私的に所有されているが、未来社会では生産手段が社会化されることになります。そして生活手段が個人的所有として保証されます。つまり生活手段はあくまで個人のものであり、それに社会が干渉することはありません。

    108109ページ

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 「私的所有」と「個人的所有」との違いが重要だ、と齊藤氏は的確に指摘していますが、ここで両者は正しく区別されているでしょうか。上記からは「私的所有」は資本主義以前の小経営にもあるが、「個人的所有」は未来社会に生まれる、というように読めます。そしてここでは前述とは違って、未来社会においては生産手段の社会化の上に生活手段の個人的所有が保証される、という通説的な社会像が描かれています。

しかしマルクスは、資本主義によって否定される小経営にすでに「個人的な私的所有」を見ています。「個人的な私的所有」は「資本主義的な私的所有」によって否定されますが、労働者階級による革命によって、「資本主義的な私的所有」が再否定され「生産手段の社会化に基づく個人的所有」が再建されます。個人的所有とは、労働主体が生産手段に対してその所有者として結合した本源的所有です。「否定の否定」とは、この本源的所有としての個人的所有の「解体と再生」として読むことができる――マルクスの個人的所有再建テーゼは、通説とは違ってこのように生産手段を主軸に解釈することで、十全に読み込んだと言えるのではないでしょうか。この説は福島裕之氏『本源的所有の解体と再生―資本論に社会発展の論理を読む―』(三省堂オンデマンド、2018年)によります。以下、そこから学んだ私なりの理解で「私的所有」と「個人的所有」との違いを説明します。

 マルクスの個人的所有再建テーゼから二語を並べると問題点がよく分かります。

  ○資本主義的な私的所有

  ○個人的な私的所有

 二語に共通な「私的所有」は「社会的所有」の対立概念であり、ここに一つの所有規定があります。次いで「資本主義的」と「個人的」という対立概念ももう一つの所有規定をなしています。このように、私的所有が二つに分かれるし、所有規定そのものも二重になります。それらを福島氏は以下のように明晰に整理しています。

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 ここでは所有は、「資本主義的」または「個人的」という規定と「私的」という規定との二重の規定を受けている。前者は所有主体が非労働者(資本主義的等々)であるか労働者(個人的)であるかに対応した規定である。後者の「私的」所有とは資本論で述べられているように商品交換という歴史的に特定された分業形態における商品交換主体としての所有を意味している。

 商品交換は人類社会の唯一の分業形態ではなく、歴史的に限定された分業形態である。それ以前には共同体的分業が存在し、さらに将来には社会的協働的分業が存在しうる。従って所有の二重の規定は、一方は所有主体が労働者であるか非労働者であるか、非労働者であればどのような剰余取得形態に基づいているかを示す規定であり、他方はその所有がどのような分業形態に基づく所有であるかを示している。    前掲書、9ページ

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『資本論』の理論体系に即せば、「私的所有VS社会的所有」は商品=貨幣関係次元に対応し、「個人的所有VS資本主義的(奴隷制的・封建制的等々…)所有」は資本=賃労働関係次元に対応することになります。一般的に言えば、前者は社会的分業形態のあり方による対抗概念であり、後者は剰余取得形態による対抗概念と言えます。

 小経営の基礎としての個人的私的所有は、商品生産という場を背景に、労働主体と客体的労働諸条件とが結合し、自己労働に基づく所有を実現しており、市場経済における本源的所有の展開形態です。それに対して、未来社会での個人的社会的所有は、社会的協働分業による一種の共同体経済において生産手段の共有を実現し(社会的所有)、剰余取得形態としては搾取をなくしています(個人的所有)。これは未来の共同体における本源的所有の展開形態です。したがって、個人的所有再建テーゼの「否定の否定」の論理は、本源的所有の「解体と再生」として理解されます。

 以上は拙文「『経済』201910月号の感想」からの抜粋であり、詳しくは拙文を参照してください。ただしその中で、やや強引な図式化を行ない、前近代の搾取社会についても原始共同体と同じく、土地の共同体的所有という観点から、「生産手段の社会的所有」に区分している点などは再考すべきかもしれません。 

 

 

          コロナ禍と資本主義の限界

 

1)コロナパンデミック恐慌の性格

 COVID-19のパンデミックはグローバル経済を直撃しています。20世紀の初め191820年のスペイン風邪と1929年の世界大恐慌から約百年を経た21世紀の2020年、両者を合わせたようなコロナパンデミック恐慌が人類を襲っています。それを理解するには、ウイルスやそのもたらす病理などにかかわる自然科学の知識、医療・公衆衛生・社会保障・教育への見方、グローバル経済の現状分析と資本主義の本質論、危機に対処する国民経済分析・経済政策論、緊急事態における人権など法と政治への見方、偏見の蔓延・分断の助長などに関連するイデオロギー問題、芸術・文化の危機論…等々、際限もない知的キャパシティが要求されます。そこでとりあえずネットまでは手を伸ばさないのですが、目につく新聞・雑誌だけでも膨大な情報・論説にあふれています。それを前に浅学菲才の頭の中はまったくまとまりがつかなくなっているので、思いつくままあれこれ触れることにします。

 まず本誌、英吉利氏の「コロナショックの激震に揺れる世界経済」は本年3月のニューヨーク市場での株価大暴落から説き起こしています。もともと株価はバブルであり、「低金利と金融緩和の中で、世界の債務が急増していたことにも注意する必要がある」(17ページ)として、金融市場の急速な収縮や資金繰りに窮して債務返済ができなくなる恐れにも言及しています。

 さらに世界経済は金融面だけでなく実体経済でもサプライチェーンへの打撃で、「停滞と分断が広がる可能性もある」(同前)とされます。日本経済については、すでに消費税増税の影響で、20191012月期に実質GDPが年率換算でマイナス7.1%の大幅落ち込みになっており、コロナショックはダブルパンチとなっています。

 これに対して、欧米諸国などでは都市封鎖なども行なわれ、自由と人権の一時的な大幅制限が現実のものとなっています。日本でも47日に緊急事態宣言が出され、欧米よりはマイルドなやり方ではありますが、似た状況になっています。それに対して英氏は、過激な新自由主義改革である「惨事便乗型資本主義」(ナオミ・クライン)を警戒し、「権力濫用型の対応ではなく、専門家や現場の判断に真摯に耳を傾け、英知を結集して、難局に当たるという姿勢が求められている」(同前)と結んでいます。

コロナ禍をめぐる安倍政権下の政治状況では、世論をはさんで、まさにそういう二つの道が対決しています。ただしそこでは社会的危機を克服するという結果を出すためには、政府と人民の一致した対応が求められます。政府批判の側でもそれは十分に意識しなければなりません。しかしそれは徹底した民主的討議を経て最大限、納得のいく結論を得て、人々の自主的協力を組織していくことであり、「国難に際して政府批判するな」というような、こういう時期にありがちな議論は有害無益です。

その点では、島田雅彦氏がコロナ禍をめぐるこの間の動きを的確に要約して政府批判の必要性を説いているのが注目されます(「しんぶん赤旗」426日付)。島田氏は「挙国一致」の必要性を認めながらも、その場合、政府に従うということばかりではなく、むしろ野党の意見に従うことを勧めています。さらに安倍政権の「対策の遅れの原因は、緊急対策より、自分たちの利権のことを考えるからではないか」と事態の核心を衝いたうえで、「危機のときに文句を言うな、という意見を聞きますが、おかしなことにたいして異議申し立てをしなければ、指をくわえて危機が深刻化するのを見ているだけになります。国会での野党の存在意義は主にそこにあります。ネット上で不平、不満を発信するのも政権への圧力として有効です」と喝破しています。

 閑話休題。ウイルス感染そのものは、経済と社会にとって外在的なものであり、自然科学の対象です。しかしその影響・被害のあり方は明らかに階層的格差を伴うし、災厄への対処方法と復旧の道筋をつける方途はまさに政治の問題であり、それはそれぞれの国の資本主義経済や社会保障制度のあり方などによって規定されます。コロナ禍は社会科学の総合力を試していると言えます。

 経済においては実体経済と金融との関係が問われます。それも含めて、21世紀初めの新自由主義グローバリゼーション下に発生したコロナパンデミック恐慌(私はそう呼びたい)の性格をどう捉えるかが一大問題です。

この社会危機をもたらす根底的矛盾は次のようなものです。ワクチンと抗ウイルス剤がない段階で感染を止めるためには人々の交流を断つ必要があり、それを実行すると生活を支える経済活動が不可能になります。完全には両立不可能な両者を前に、どう折り合いをつけて、社会の存立を図りながら、感染の収束に持っていくか、という綱渡りが求められるのです。この矛盾は今日ではグローバルに展開しています。パンデミックが急速に拡大したのはグローバリゼーションによります。したがってパンデミックを収束させるにはグローバリゼーションを収縮させねばなりません。ここには「グローバリゼーションがパンデミックを拡大し、パンデミックへの対抗がグローバリゼーションを突き崩すという構図」があります(藤原帰一氏の「時事小言・パンデミックと経済危機 先進国に打撃、想定外」「朝日」夕刊、318日付)。藤原氏はさらに「ムニューシン米財務長官はテレビの取材に対して新型コロナウイルスの経済に与える影響は短期的なものだとして景気後退を招く可能性を否定したが、賛成できない。問題はウイルスの流行だけでなく、金融緩和に頼る市場の脆弱性にあるからだ。仮にウイルス感染拡大の阻止に成功したとしても、金融緩和によって世界経済を再生することは難しいだろう」とも指摘しています。これは、自然と社会の関係について、社会を基軸にした理解を示した上で、経済の病理を見逃さない卓見だと思います。

 先の根底的矛盾についてより詳しく展開したのが、津田大介氏の「朝日」326日付の論壇時評です。

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 医療者がイベントの中止や自宅待機を国民に求めるのはエビデンスに基づいた“正しい”判断だ。しかし、このまま自粛が続けば経済が悪化して人が死ぬと経済学者が指摘するのも同様に“正しい”判断なのである。異なる“正しさ”が衝突する場合、そのバランスを取って決断できるのは「政治」以外にはない。 …中略… 政治思想史家の将基面貴巳(しょうぎめんたかし)は「パンデミックに対抗できているのは(グローバル企業などではなく)国家だけだという点が決定的に重要」と指摘したが、コロナ禍はグローバル化や人の国際移動が避けられない現代における国民国家の新たな役割を考えさせるきっかけになりうるのではないか。欧州ではすでにそのような議論が始まっているそうだ。

   下線は刑部

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 完璧な解決はあり得ない根底的矛盾への調整的対応は政治による他ないことを津田氏は指摘し、さらに将棋面氏の洞察力ある発言を引用して、グローバル資本主義の限界と国家の役割に焦点を当てたことは卓見だと思います。資本主義の限界については後に言及する予定です。

 『世界』5月号も充実した特集「コロナショック・ドクトリン」で多くの興味深い論稿を掲載していますが、時間不足で言及できません。コロナパンデミック恐慌(以下は一般的な名称に従って「コロナ恐慌」と記す)の「際だった特徴」として、山田博文氏は以下のように三点を挙げています(「しんぶん赤旗」428日付)。

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 第一に、コロナ恐慌は、従来の一般的な経済恐慌、つまり利益を求める過剰生産と賃金削減による過小消費という資本主義固有のメカニズムから発生する恐慌と異なり、各国政府が発動したロックダウン(都市封鎖)や緊急事態宣言による権力的・人為的な価値破壊で発生した経済恐慌といえます。

 …中略… 

 第二に、コロナ恐慌は、現代のようなグローバル資本主義経済の問題点とその変革を迫っています。

 現代経済は、最大限の利益と最小限の費用を地球的規模で追求する米日独仏英などの巨大企業(多国籍企業・グローバル企業)中心で営まれる経済です。 …中略… 

 それぞれの国や民族や地域に根差した暮らしの経済がグローバル企業の力で押しつぶされ、国境を越え、地球的規模で利益を追求する巨大資本が世界を支配したことのリスクが、大きな犠牲をともなって表面化しました。

 …中略… 

 第三に、コロナ恐慌は、経済成長と利益を最優先し、公的な医療制度や社会保障を軽視ないし敵視する現代の新自由主義的資本主義国の危険性と惨状を表面化させました。

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 第三点の典型としてアメリカの惨状が挙げられています。山田氏の指摘で最も重要なのは第一点です。社会外・経済外由来のコロナ禍に対処する必要から発した「権力的・人為的な価値破壊」を原因とし、結果として先述の根底的矛盾を社会内・経済内に抱えてしまいました。これは従来の経済内的原因による恐慌とはかなり違い、政治的調整によっておっかなびっくり徐々に解決していく他ありません(従来の恐慌であっても国家介入は不可欠であったが、それ以上の役割が必要となる)。

それを難しくしているのが、第二点の新自由主義グローバリゼーションによる国民経済と地域経済の破壊であり、第三点の医療・社会保障の削減です。これはそもそも資本主義とは、人々の生活からでなく、資本の利潤追求から出発し、その一種である新自由主義グローバリゼーションも「上から視角」(グローバル経済→国民経済→地域経済→企業・職場→個人の生活と労働)に貫かれていることの反映です(人々の生活から出発する「下から視角」であれば、規定方向を示す矢印の向きが逆になる)。人々の生活の復旧・再建をもって、コロナ禍からの脱出とするならば、もともとそれを破壊してきた資本主義体制なかんずく新自由主義グローバリゼーションが脱出の足を引っ張るのは当然と言えます。だからそのような脱出目標をそもそも持たずに、惨事便乗型資本主義の過激な新自由主義改革に捻じ曲げられる可能性への警戒を怠るわけにはいきません。交流断絶の対応策としてオンラインばかりが強調される中で、経団連の経済成長戦略Society5.0が強行される可能性があります。ICTやAIの活用自体は必要ですが、雇用破壊などを伴う形での「社会改革」は防がねばなりません。

 

2)医療・社会保障の問題と経済対策

 工藤昌宏氏は日本経済について、コロナ恐慌以前に消費税増税の影響など、アベノミクスによる経済停滞を問題とし、停滞の主因として個人消費の持続的落ち込みを挙げています(「しんぶん赤旗」4789日付)。そこには社会保障の切り捨て・不安定雇用の拡大・貧困問題の深刻化などがあり、山田氏の上記の第三点の医療・社会保障の削減の指摘と共通します。

 充実した医療・社会保障こそがコロナ恐慌のような非常時に人々の生活と社会を守るということが痛感されます。イタリアやアメリカでは医療崩壊が起こっています。日本も瀬戸際にあります。欧州では、何とか踏みとどまっているドイツと比べて、イタリアの医療体制の貧弱さが問題とされています。EUの緊縮政策の影響が出ているのです。日本集中治療医学会の41日の理事長声明によれば、ICU(集中治療室)の人口10万人あたりのベッド数がドイツの2930床に対し、イタリアは12床程度と差があります。ところが日本はベッド数がイタリアの半分以下の5床程度です(「しんぶん赤旗」47日付「主張」)。

 医療崩壊の最中にあるニューヨーク州のクオモ知事は、会見で病床やICU不足の理由をきかれて「われわれの医療システムは基本、民間だからだ。必要以上の設備投資はしないし、高額なICUベッドは臨時用として設置しない。これは米国のどの州も同じだ。今回の事態で、(われわれは)どうすることもできない」と答えています(「しんぶん赤旗」48日付)。まさに資本主義的「合理性」「効率」の本質を告白しています。

 日本の医療現場では、もともと慢性的な人員不足や過重労働があります。そこに襲いかかってきたコロナ禍に対して、マスク・防護服・消毒液が足りない中でも、医療労働者たちは昼夜を分かたず奮闘しています。政府はさっさと財政支援の方針を決めるべきです。日本医労連委員長の森田しのぶ氏から現場の声を聞きましょう(「しんぶん赤旗」416日付)。

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 私は京都の日赤病院で結核病棟に勤務したことがありますが、感染症対応は日ごろから研修と経験を積んでいないとできません。余裕ある病床と人員体制の確保こそ必要だということが浮き彫りになっています。医療提供体制の縮小再編や公立・公的病院の統廃合、医師・看護師の人員抑制などを根本から改めるよう強く求めます。

 安全・安心に働き続けられる医療職場を確立することが、国民の命を守り、感染拡大を防止する力だと訴えて、人員体制の確保や長時間夜勤の削減などを求めてきました。

 医療・社会保障の切り捨てに反対し、医療・介護・福祉労働者の処遇改善と、だれもが安心してかかれる医療社会保障の充実を求める運動を進めてきました。その力をいまこそ発揮したい。

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 この現場の厳しさを作り出してきたのは、長年にわたる医療・社会保障削減政策です。安倍政権ではそれが軍拡と表裏一体に追求されてきたことを次のように告発すべきでしょう(「しんぶん赤旗」326日付)。

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 「行革」の名で公務員や社会保障予算を削り、結核患者の減少を理由に“感染症の時代は終わった”として保健所の体制を弱めてきた歴代自民党政権。専門家会議をして「そもそもクラスター(患者集団)対策を指揮できる専門家が少ない」「帰国者接触者相談センターへの対応を含めて保健所における労務負担が過重になっている」と人手不足を指摘せざるを得ない状況を生みだしています。

 この1年間だけを見ても▽子どもの命を預かる学童の職員配置基準を緩和し無資格者1人でも可能に▽学校の教員にさらなる長時間労働をもたらす変形労働時間制を導入▽全国の公立・公的病院を名指しして再編・統合を迫る―など公的なセーフティーネットを次々弱めてきました。

 2015年に、海外での武力行使に道を開き集団的自衛権行使を可能にする安保法制=戦争法を強行した際、安倍首相は「備えあれば憂いなし」と繰り返しました。国民の命を守る「備え」を壊してきたのはいったい誰なのか。

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 医療崩壊の問題で、欧州ではイタリアとドイツがよく対照されますが、インドでは全土で感染拡大が進む中で左翼が与党のケララ州での感染抑制が話題になっています。これについて「結局重要なのは、強固な公的医療と草の根の民主主義の文化だ。これが地域に働きかけ、厳密に接触者を追跡し、多くの人を隔離するのに役に立った。共産主義者の政府は日々、豊富な情報を提供した」という専門家の声が紹介されています(「しんぶん赤旗」422日付)。米紙ワシントン・ポストも「ケララ州は共産主義者が1950年代からたびたび政権を担い、計30年以上権力を握り、公教育と医療に投資してきた。ケララはインドで最も高い識字率と優良な公的医療を持つ」と強調しています(同前)。

ここで重要なのは次のことです。よく中国やベトナム(たとえば「朝日」電子版428日付「いまだ死者ゼロの国 隔離を強制、厳しすぎだと思ったが」)の感染抑制の成果について、「共産主義」の強権国家だからできる、という言い方が多いのですが、ケララ州については「高い識字率と優良な公的医療」や「草の根の民主主義の文化」や情報公開が指摘されることです。ブルジョア・ジャーナリズムもそれを「共産主義者の政府」と結び付けて認めざるを得ない点が興味深いところです。

 日本での医療・社会保障切り捨てという悪しき到達点が現状の厳しさの原因であることを確認した上で、では当面の対策はどうすればいいか。包括的提案として、日本共産党が416日に発表した「感染爆発、医療崩壊を止める緊急提案 外出自粛・休業要請と一体の補償、検査体制強化と医療現場への本格的財政支援を――新型コロナ対策補正予算案への提起「しんぶん赤旗」417日付が注目されます。そこでは、外出自粛・休業要請には補償を原則とすること、医療崩壊を止めるため、検査体制を抜本的に強化し、医療現場へ本格的に財政支援することなどが提起されています。前記の島田雅彦氏が評価するように、「自分たちの利権のことを考え」「官邸の密室内で決まっている感じ」の安倍政権の対策とは違って「合理的で必要な案」になっています。

 ただその中で、一人一律10万円給付という提案について言うと、これが野党の共同提案でもあり、政府が従前の政策を撤回してこれに乗ってくる結果となりました。生活と営業の困難性がかなり広がっていること、スピードを重視すれば選別無しの一律給付がいいことなどを考慮すると、技術的には適切な政策と言えるかもしれません。しかし必要もない対象者にもばらまかれるという意味では問題があります。

そこで考え方としては、小野善康大阪大学名誉教授の「所得減の事業に集中補償を」という提案が注目されます(「朝日」429日付)。まず気づくべき点は「現在の経済危機はお金がなくて支出が減ったのではない。感染の蔓延(まんえん)を防ぐために無理に抑えたからだ」ということです(これは前記の山田博文氏によるコロナ恐慌の性格把握に通じる)。不要不急産業は窮地にあるけれども、生活必需品産業の従事者は支出を減らした分お金がたまるのだから、それを補償に回す仕組みを作ればいいのです。具体的には次のようになります。

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 IMF(国際通貨基金)によると、今回の感染症の日本経済への影響は、今年の実質GDP(国内総生産)が約6%減、つまり30兆円減になる。これは人々が30兆円分使わないからだ。代わりに政府が不要不急産業の補償に回せば、金の回りは平時と同じだ。また、補償を受ける人も不要不急品の需要を減らすから、補償も6%抑え、それを最前線で戦っている医療従事者の支援に使うべきだ。この額は1.8兆円になる。

  …中略… 

 したがって、政府は全国民への一様なばらまきや、不要不急産業への中途半端な支払い猶予や融資ではなく、所得補償を直ちに行うべきだ。財源には、利益や所得に応じて集められた東日本大震災の復興税が参考になる。それにより支出と所得の減少が均等化される。安心して休業できるから、感染の終息を早めるとともに円滑な経済回復も可能になる。

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 そういう政策実現の技術的問題がどうなのかということはありますが、傾聴に値する提案です。

 

3)資本主義批判の視点

先述のように、津田大介氏は「パンデミックに対抗できているのは(グローバル企業などではなく)国家だけだという点が決定的に重要」という将基面貴巳氏の指摘を紹介しています。これについて、グローバリゼーションの進行に対するナショナリズム的反動という捉え方が普通かもしれませんが、むしろ資本主義市場経済の破綻を意味していると私は捉えます。そこで迂遠になりますが、資本主義批判の視点をまず提供したいと思います。

 資本主義社会は前近代の搾取社会と比べると、ヨコの生産関係(*注)において、全面的な商品生産を土台にしているという点で異なっていますが、タテの生産関係において、搾取関係が存在するという点では共通性があります。ただし搾取が現象的には見えないので、被搾取者が(搾取者も)それを意識しないという点で、搾取が明白な前近代の搾取社会とは区別されます。

(*注) 生産関係を捉えるに際して、(1)社会的分業のあり方として、「共同体か市場か」が問題となり、(2)生産手段の所有関係を基にして、生産過程が「搾取か非搾取か」、搾取であれば「どのような形態の搾取か」が問題となります。比喩的に(1)をヨコの生産関係、(2)をタテの生産関係と呼びたいと思います。『資本論』では(1)が「商品=貨幣」関係の論理次元で、(2)が「資本=賃労働」関係の論理次元で捉えられますが、前近代から未来社会まで歴史貫通的に両方の生産関係を重ねて捉えることで、史的唯物論を豊かに構築していくことができると思います。

 資本主義的搾取・従属関係が商品生産における独立・平等な関係として現象する「領有法則の転回」がブルジョア・イデオロギーを規定しています。その結果、ブルジョア社会科学は資本主義における搾取を否定し、資本主義経済を市場経済と同一視します。商品=貨幣関係を土台としつつ、その上に資本=賃労働関係が展開する重層的な資本主義経済を、単層の市場経済として描き、市場メカニズムの全能性を「証明」するのが、ブルジョア社会科学のバイブルである新古典派理論の存在意義だろうと思います。したがってブルジョア社会科学の魂は、その表面において「市場(競争)崇拝」を高く掲げ、その裏面においては「搾取の否定」を暗黙の前提に抱えています(マルクス主義批判の際には公然と搾取を否定する)。

 新自由主義とは、情報化・金融化が全面化した現代のグローバル資本主義において、19世紀に始まる新古典派理論を新たに展開した現代ブルジョア経済学諸潮流の総称だと言えます。それは「市場原理主義」を看板に掲げつつ、資本の魂である搾取強化に邁進し、それがもたらす「生産と消費の矛盾」激化による実体経済の不振の上に、貨幣資本の過剰を「打開」する金融化を全開させます。金融化は資本主義の寄生性・腐朽性を究極まで推進します。

 新自由主義は、それまでの労働運動などの成果である資本への民主的規制を排して搾取強化を図るので、資本蓄積の法則が貫徹し、必然的に貧困と格差を拡大します。ここで、現代資本主義の最大の問題とされる貧困・格差の拡大を、資本=賃労働関係次元における搾取強化から捉えることが肝要です。通俗的には、市場経済における競争の激化を原因と捉えます。すると、そこに諸個人の能力や努力の違いが持ち出されて、自己責任論に流し込まれる傾向が生じます。そういう中で、新自由主義の本質を「市場原理主義」と捉えて、もっぱら競争激化を批判するのでは問題の核心を外しています。「資本主義経済=市場経済」という間違った現象論的把握が「支配的イデオロギー=世間の常識」となっていることへの意識的批判が必要です。

 以上では、資本主義経済を商品=貨幣関係と資本=賃労働関係の重層性において捉え、特に後者を資本主義のアイデンティティと見なし、搾取経済として資本主義を把握することの重要性を指摘しました。次いで、資本主義の土台である市場経済(*注)の問題に触れます。                  

(*注)ただしこの資本主義市場経済は、単純商品生産を表象した商品=貨幣関係に解消するわけにはいきません。単純商品生産の表象が経済理論の始めに来るのは、資本主義経済の本質を概念的・段階的に理解する必要からです。現実の資本主義市場経済は、労働力市場や金融市場など、資本=賃労働関係を前提にした市場を含みますし、そもそも商品にしても、資本主義経済においては多くの部分が商品資本として流通しています。しかし、ともかくそれらの市場流通は、生産過程外にあって、「諸物象」の社会的関係としての物象的依存関係の場という、「経済学批判要綱」(185758年草稿)における人類史の第二段階の特性を持っています。

 コロナ恐慌において、弱者・貧困層が圧倒的な被害をこうむるということは、搾取・資本蓄積の問題ですが、国家の強力な介入がなければなすすべがないという状況は、資本主義市場経済の破綻という性格の問題です。

 「自粛要請には補償を」というスローガンは商品流通の論理を超えています。その実現には膨大な財政支出が必要となり、その財源は富裕層・大企業に求められますが、当面はつなぎの国債でやるしかありません(331日放送のBSフジ「プライムニュース」での志位委員長の発言。「しんぶん赤旗」42日付(*注)。グローバル資本がいかに強大な政治的・経済的権力を持っていても、資本主義市場そのものは危機解決能力がなく、徴税権を持ち、通貨と国債を発行できる国家だけが、恐慌に対処するための有効な力を持っています。それはリフレ派やMMTなどの野放図な財政金融政策を支持するということではありませんが、当面の大出血を止める緊急措置は必要です。

(*注)共産党の緊急提案に関連して、財源問題での読者の質問に対する回答は以下のごとく(「しんぶん赤旗」425)。下線は刑部。

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 たしかに、今の政府の借金は1000兆円前後で、国内総生産(GDP)の2倍の規模にまで増えています。これを野放図に増やすことには賛成できません。ですから、日本共産党は、社会保障の拡充や消費税の減税を提案した際には、そのための財源案を提示するようにしてきました。

 しかし、社会保障や減税のように期間が限定されておらず恒久的に続くものと、災害や感染症被害のように巨額の対策費用がかかるとしても期間が限定されたものとでは、財源の考え方も違ってきます。社会保障や減税の場合は、その年に必要な費用を基本的にその年の財源でまかなう必要がありますが、災害や感染症の対策費用は、とりあえず借金でまかなっておいて、今後ある程度長期間かけて返済していくという方法が合理的だからです。

 仮に、「財源がないから」という理由でコロナ対策の費用を出し渋ったり、「財源確保の方策を固めてから」といって対策を遅らせたりすれば、感染が拡大・長期化して、国民の命が脅かされるだけでなく、経済もますます疲弊し、財政危機がいっそう深刻化することになってしまいます。

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 さらに言えば、コロナ恐慌は資本主義的な生産力発展のあり方への反省を要求しています。先述のように、日米欧での社会危機は医療・社会保障の切り捨てに重大な問題がありますが、資本主義的生産力発展はそれを維持する基盤を十分に提供しているにもかかわらず、それをしないところに問題の元凶があります。それが資本主義の選択なのです。

 新井紀子氏は、一方で、今コロナ対策で大活躍する研究者たちが、「したい仕事」とはいえ、これまで安い給料で過酷な研究に従事してきたことを称えつつ、他方で、国の膨大な研究開発予算が科学振興とは名ばかりの産業振興予算であることを指弾し、以下のように事態の本質を射抜いています(「朝日」410日付)。

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 今回の危機は、普段多くの人々が忘れていた国立の大学と研究機関の存在意義を改めて示した。私たちは危機の時に専門家に頼らざるを得ない。「なんでそんなことのために危険を冒すの?」と思うようなことに熱中し、人生を賭す人々がいてくれるからこそ、万が一の危機を乗り越えることができるのだ。これは理系に特有のことでもない。世界で紛争が起きた時、少数民族が迫害された時、日本の対応を決める上で、その分野の研究者の存在は不可欠だ。だが、紛争も迫害も、中期目標で予想できることではない。

     *

 グローバル化する世界だからこそ、予測不能な未来に備えて国家はリスクヘッジのために、不思議な「研究者集団」を税金で確保しておく必要がある。国家の体力は、平時の状況では測れない。危機に対応するための余裕を平時に維持できるか否かが問題なのである。平時を基準にした最適化ばかり求める財務省主計局の考え方の、本質的な誤りについて指摘する報道を、ほとんど見かけないのは残念である。

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 「平時を基準にした最適化ばかり求める財務省主計局の考え方」とは、新古典派理論による資本主義的効率に偏した考え方ということでしょう。生産力発展では、まず何よりも万人が十分に食べることができて、安定した生活ができることが第一の目的とされるべきでしょう。資本主義的生産力発展は潜在的にはすでにそれを達成しています。ただし分配が歪んでいるので現実化していませんが。

 第一の目的を達成したら、次いで個々人の発達を促進し、様々なリスクに備えるという課題に取り組むことになります。そこでは一見するとムダと思えるものを抱える余裕が要求されます。しかし資本主義はその余力がありながらも、そうすることに耐えられません。利潤第一主義は目先の効率を優先します。同じく時間と労力を使うとすれば、リスクに備えるため人間社会に必要なコストを負担することよりも、些末な利便性を作り出して儲けの元にすることが選択されます。それを抑制するのは資本への民主的規制であり、規制主体は労働運動や市民運動などもありますが、政治の力、国家権力が最大のものでしょう。そこで規制されるものは、搾取の主体としての資本であり、野放図な資本主義市場経済です。

 コロナ恐慌への対処では、まず何よりも人々の苦難を軽減し、地域経済・国民経済の再建を果たす具体的な政策提起と実践において真価が問われます。その中でも、市場を土台とする搾取経済としての資本主義の本質が、眼前の社会危機の根源にあることが常に意識されるべきでしょう。重層的な資本主義批判が必要です。

 

4)資本主義における平時と非常時の弁証法

 新井氏が提起した平時と非常時の関係を考えてみましょう。資本主義は非常時に対応できない――その意味を問うのです。渡辺雅之氏は「差別の本質は、命の重さを人によって変えることです。ヘイトスピーチは、対象になった人の心や体を壊すだけではなく、社会そのものを破壊するものです」と語っています(「しんぶん赤旗」411日付)。端的に言って、差別は社会を破壊するということです。ところが資本主義とはそもそも差別をインセンティヴとして作動する経済体制ではないか。

 渡辺氏はヘイトスピーチに関わって、「命の重さを人によって変える」という差別の本質を語っていますが、むしろその典型は、2016726日に起こった神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」での殺人事件に見られます。施設の元職員、植松聖・現死刑囚は意思疎通の出来ない重度障害者を社会や家族のお荷物(コスト)として、人間としての価値を認めず殺害しました。この行為にはナチスの影響が認められるとともに、新自由主義の効率第一主義も影を落としており、多くの人々が自身の問題として「内なる差別」を受け止めたと思います。

 普通に考えれば、「命の重さを人によって変える」ことは許されませんが、許される場合があります。トリアージの現場です。トリアージという言葉は、今日では、たとえば全国保険医団体連合会の住江憲勇会長が「PCR検査による患者トリアージ(識別)こそ医療崩壊を防ぐことにつながる」(「しんぶん赤旗」428日付)と発言しているように、ずいぶんマイルドで一般的な意味でも使われるようです。

しかしウィキペディアによれば、本来それは、救急事故現場において、患者の治療順位、救急搬送の順位、搬送先施設の決定などにおいて用いられるものです。また医療体制・設備を考慮しつつ、傷病者の重症度と緊急度によって分別し、治療や搬送先の順位を決定することであり、助かる見込みのない患者あるいは軽傷の患者よりも、処置を施すことで命を救える患者を優先するというものです。したがってトリアージは言わば、「小の虫を殺して大の虫を助ける」発想であり、「全ての患者を救う」という医療の原則から見れば例外中の例外です。そのため、大地震や航空機・鉄道事故、テロリズムなどにより、大量負傷者が発生し、医療のキャパシティが足りない、すなわち「医療を施すことが出来ない患者が必ず発生してしまう」ことが明らかな極限状況でのみ是認されるべきものです。

 しかし災害の規模が対応側のキャパシティを超過しているか否かを一切考慮せず、ただ単純に「災害医療とはすなわちトリアージを行うこと」「重傷者は見捨てるのがトリアージ」「トリアージ=見殺し」だとする認識も蔓延している、とウィキペディアの記述は警告しています。

 本来のトリアージはまさに非常時中の非常時にのみ許されるものですが、資本主義が資本間・労働者間に強要する弱肉強食の競争はトリアージのマイルドな日常化ではないのか。それはまさに差別を日常化し、人々を緊張感の中に置き、余裕を奪います。このいわば平時の非常時化によって、本来の非常時に向けて平時に備えることができなくなっています。本来、平時には非常時に備える余裕があるはずなのですが、「余裕」は「ムダ」と読み替えるのが資本主義の本性です。「ムダ」は競争に負ける原因です。こうして資本主義において平時はもはや非常時であるのだから、区別されるべき非常時はもはやなくなっており、非常時への備えという概念も放逐されます。しかし本当の非常時はいつかやってきて、備えの欠如が露呈されます。そこに「想定外」というかの3.11以来ポピュラーな言葉が浮かび上がってきます。医療や社会保障はこうして切り捨てられ、その欠落が非常時に始めて重く意識されるのです。

 いや、医療や社会保障は資本主義市場経済の私的原理とは区別され、社会全体を見渡す公的な原理で運営されてきたのではないか。確かにそうであったのですが、様々な民営化やコスト原理の強化などによって公的性格が浸食され続けてきたのが、はや半世紀近くになる新自由主義構造改革の歴史です。

そこで個別私的なものと社会全体との関係が問題になります。その焦点に浮かび上がるのが、大資本のかかえる膨大な内部留保です。もしこれが社会全体のものであれば、コロナショックのような非常時に社会全体の備えとして活用できます。しかし資本主義の私企業体制ではそれは不可能です。内部留保を作り出す源泉は労働者の投下労働なのですが…。以上に見る「平時と非常時」ならびに「個別と社会全体」の関係を、歴史貫通的な社会一般の公的原理と資本主義の私的原理に分けて図式化して表にするとこうなります。

 

 

平時

非常時

個別

社会全体

社会一般

非常時への備えの時期

備えを活用

社会のために備える

備えを活用

資本主義社会

効率化、ゆとりなし

備え無し

個別資本:内部留保の蓄積

備え無し

 

 私たちの生活の今日の豊かさは、資本主義の利潤原理・競争原理を媒介することで効率的に形成されました。生産力発展の強烈なインセンティヴがそこにあったからです。しかし資本主義というのは、資本とか市場とか人間が形成したものが逆に人間を支配するという疎外を生む転倒した社会です。その転倒性は上の表に見るように、社会一般の原理との異質性に表現されています。資本主義の弊害がそのような原理による生産力発展の利益を上回り始めています。資本主義は歴史的役割をもはや終えているのです。利潤原理・競争原理を媒介にしない公的原理による安定的な社会をいかにつくり上げていくか、それを労働者・市民一人ひとりの能動性の発露とどう結び付けていくか、コロナパンデミック恐慌の惨状はその課題を突き付けているように思います。

 

(補遺)芸術活動自粛による損失への補償

 「自粛による損失には補償を」という大原則の非常に大切な適用例として、音楽・演劇などの公演中止の問題があります。芸術を「不要」とまでは言わないまでも「不急」だろうという意識は一般的でしょう。すると補償への無理解が多くみられます。ロック・ミュージシャンの後藤正文氏はこう言っています(「朝日」422日付)。

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 自粛によって生じた損失の補償をライブハウスや音楽関係者へ行うように政府に嘆願する運動に参加したところ、「困っているのはお前たちだけではない」という反響が多くあった。

 その通りだと思う。

 しかし、自分ごととして窮状を訴えることを遠慮しなければならない社会は息苦しい。困窮者への支援を「限られたパイを奪い合う」イメージで受け止めるならば、困っている人たち同士が責め合って、互いに足を引っ張ることになってしまう。それは避けたい。

 様々な場所から、それぞれに補償や援助を求める声をあげてほしい。その声によって、行政や僕たち市民も、どのような人たちが、どのように困っているのかを知ることができる。

   …中略… 

 せめて厳しい言葉で別の市民をたたくのではなく、お互いの肩を優しくたたき合い、励まし合って、支え合うように暮らしたい。

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 後藤氏は社会の分断から連帯へという普遍的文脈で論じており、これもまたロック魂の発露だという気がします。それは素晴らしい発言ですが、公演中止への補償問題を芸術への敬意という文脈でとらえることにも十分に意義があります。

 演奏会中止に替わる「無観客」公演の無料動画配信が実施されるようになりました。そこで「朝日」のクラシック記事の第一人者、吉田純子編集委員は、「プロの渾身の演奏を無料で見られる現状に、鈍感になってはいけない」(「朝日」夕刊、316日付)として、一つのエピソードを語っています。東日本大震災の1週間後のある公演に際して、脅迫めいた電話で「こんな時に金をとるな」とチャリティを強要されたことを想起して、担当のマネージャーは涙ながらに次のように声を振り絞ったそうです。「僕は演奏家たちの人生を預かっている。彼らにタダ同然で演奏しろだなんて、なぜそんなひどいことを言わせようとするのか。つらい」。

この脅迫発言には、偏頗な正義感に潜む、金や経済に対する歪んだ意識がうかがえます。かつてホリエモンが「金で買えないものはない」と言ったとき、一部に「金はキタナイ」という機械的反発がありました。これは、マネーゲーム、資本主義のカジノ化への正当な反感が度を越して、人々の生活を支える経済活動そのものへの敬意を見失ってしまったものです。市場経済という枠の中では、金の支払いは、社会を支える労働への対価として欠かせぬものです。それは人間同士の共同性を物象的に代替しています。その限りで金は尊重されるべきです。確かに資本主義下では、しばしば貨幣資本が暴走して人々の生活と労働を破壊し、特に金融化の進む現代資本主義ではそれが顕著ですが、そこはしっかり区別すべきです。それを人々に伝える点で経済学の任務は大きい。

 閑話休題。吉田氏は演奏の対価の正当性について、芸術への敬意に託して語っています。「芸術家とは、時代や地域を超え、人間の本質を伝える創造行為に殉じている人たちのことである。 …中略… チケット代は、芸術を未来へと橋渡しする営みへの敬意の証しでもある」。この営みが中止させられたとき、その未来を閉ざさないために補償することは、政府の文化政策の任務として実施されねばなりません。

 426日の記事では、吉田氏は星野源「うちで踊ろう」(それへの安倍首相の便乗動画が炎上したことで話題になった)を分析し激賞して、そこに「連なる」メッセージを読み込んでいます。

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 星野さんが望んだのは、不安を言語化できずに閉じこもっている人たちに、音楽と、その双子ともいえる踊りを通じ、連なっているという実感を持ってもらうことだったのではないか。創造の世界に殉じる喜びと葛藤の振幅によって培われる、他者の苦しみを繊細に察し、表現する力への畏(おそ)れを、これを機に多くの政治家の方々が胸に刻んでくれるよう、切に願う。       下線は刑部

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 芸術家を深く理解する吉田氏は、芸術創造による人間的陶冶が他者理解を通じて人々の連帯に資することを指摘しています。そこに、危機に陥った社会を救う力を見ているのではないでしょうか。傲慢な政治家たちがそれを畏れるという形で理解し心底から納得して、芸術活動の損失への補償を実施することが求められます。
                                 2020年4月30日




2020年6月号

          中小企業の生産性問題

 日本の労働生産性が低いことが以前より問題とされ、資本家階級の労働者階級に対する攻撃材料にされてきました。「いつまでも職場に残ってだらだら働いている」といった俗耳に入る議論を伴いながら。日本の労働者は非常によく生産的に働いているに違いないと思う左翼愛国主義者としては、反論すべく、ない知恵を絞りました。そこでまず統計上の労働生産性とは物的労働生産性ではなく付加価値生産性であり、そこには実現問題を含む以上、生産過程での労働者にだけ「低生産性」の責任を負わせるのは誤りだと主張しました。次いで、日本はヨーロッパと比べると地域経済における内需の循環が不十分で、グローバル市場の影響を受けやすく、低価格になり付加価値生産性が低くなっているのではないか、と推測しました。それは膨大な投下労働の一部が価値実現されずに「サービス残業」状態となっていると言え、いわばグローバル市場に向けた国民経済全体のダンピングであり、一種の飢餓輸出体制であり、「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済ではないか、その解決には投下労働が地域経済内できちんと実現する内需主導型経済への変革が求められるのではないか、と考えました(実証性のない仮説に過ぎませんが)。そうした内容を2007年から16年にかけて何回か、本誌感想として送っています(文化書房ホームページ「日本の労働生産性の見方に関するメモ集」

 以上は、労働生産性の国際比較と労資対立を問題意識にしていますが、大企業と中小企業の生産性格差、それに伴う中小企業攻撃に焦点を合わせたのが、松丸和夫氏の「中小企業の『生産性革命』と公正取引実現 デービッド・アトキンソンの主張によせてです。松丸氏も世上における「生産性」概念の混乱を指摘しています。   

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  …前略… 重要なことは、労働生産性は、財やサービスの生産時点ではなく、その販売=価値実現の時点でようやく確定するということである。

 政府の『中小企業白書』やシンクタンクの分析で使用される「生産性」の捉え方には、このような視点が欠落しているばかりでなく、物的生産性と付加価値生産性が混濁したまま、「日本の生産性は低い」といった議論が大手を振っている問題点を指摘しておきたい。

      124ページ         太字は原文

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 このように、実現問題を踏まえた「生産性」概念の把握は、労働者だけでなく、中小企業に対する攻撃への反論でも出発点となります。中小企業が物的生産性を上げて良い製品を効率的に生産しても、買い叩かれれば、付加価値生産性は下がります。「技術革新、業務プロセスの見直しによる効率化が行われても、市場取引あるいは『下請取引』において、中小企業が価格決定権をわずかしか持ち得ないような取引上の不利を克服できなければ、『自助努力』による業務の効率化の成果は、『付加価値生産性』の向上に反映しないことにな」ります(125ページ)。

 大企業や親企業の横暴、特に「コスト削減一点張りの下請けいじめ」(127ページ)を是正し共存共栄を目指すべきことは「行政機関の指導原理として認識」(同前)されています。その前向きな内容が「下請中小企業振興法第3条第1項の規定に基づく経済産業省告示」の前文に以下のように記載されています(同前)。

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「親事業者の競争力において、コストの占める比重は大きなものがあり、親事業者と下請事業者の両者が様々な改善活動や合理化努力を通じたコスト削減のための不断の取組を行うことは、双方の競争力向上の観点からも必要であろう」としながら「しかし、競争力はコストのみで決まるものではなく、品質、納期、急な発注にも対応できる柔軟性なども重要な要素であり、下請事業者がこうした付加価値を提供していることに対し、親事業者は正当な評価を行うべきである。加えて、下請事業者が適正な利益を得ることができれば、技術開発や設備投資を通じた新たなチャレンジが行われるとともに、下請事業者の従業員賃上げや働き方改革等による意欲の向上がもたらされ、消費の喚起、地域経済の活性化、経済の好循環を通じて、親事業者自身にもその利益が還元されてくる。親事業者は、下請事業者の存在価値や潜在力を、長期的、かつ、広範な視野から捉え、共存共栄を図っていくべきである」。

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(*注)付加価値という言葉は多義的に用いられる。上記引用文中に「品質、納期、急な発注にも対応できる柔軟性なども重要な要素であり、下請事業者がこうした付加価値を提供」として登場する付加価値は、付け加わった使用価値である。それに対して付加価値生産性という言葉の中の付加価値は、マルクス経済学のタームでは可変資本+剰余価値(V+M)を指す(=価値生産物)。それは商品価値(C+V+M)から不変資本(C)を除いたもの、つまり新たに生み出された価値を意味する。通俗的にはこの使用価値と価値とがあいまいに両義的に使用されている。拙文では後者の意味で使用している。

 このように、親事業者と下請事業者の両者で生み出した付加価値全体を後者にも適正に分配することで、その潜在力を引き出し新たな生産性向上に結びつけることができ、経済の好循環をもたらします。類似の事情は企業と労働者の関係にも言えるでしょう。ただし行政機関の担当部門がそのように正当な認識を持っているとしても、グローバル資本が経済と政治の実権を握っている中で、現実はその「べき論」を無視して進んでおり、だからこそ抗して「べき論」を言い続けなければならない、という関係になっているのでしょう。

 松丸論文は、「中小企業の生産性が低い」という攻撃に対して、まず世上の生産性概念の混乱を指摘し、不公正な下請取引によって下請事業者の付加価値生産性が低下していることが物的生産性の低さと混同されていることを明らかにしています。そこで行政文書を援用しながら、付加価値の分配を適正化することによって、両方の意味で生産性を向上させる道を示しています。

 似たような問題として、デジタル化された電機産業などにおける「スマイルカーブ」の問題があります。グローバルな分業生産体制の中で、中間にある現実の製造過程の取り分が少なく、始めの開発・設計と終わりのマーケティングの取り分が多くなっています。グローバル資本の分業生産体制の中で、途上国・新興国の生産現場に対する本社による価値収奪構造が確立していると言えます。この体制において、低賃金の途上国で過酷な搾取が横行するとともに、相対的に高賃金の本国では空洞化が進み、雇用縮小が労働者の不安を煽り、その歪んだ結果がトランプ現象です。    

 以上のように、国内での下請体制やグローバルな分業生産体制において、付加価値の分配が過少にされている部門が、「低生産性」とされたり、低賃金が正当化されたりするような構造的歪みがあります。いずれでも、個別資本の観点ではなく、国民経済の観点からすれば、分配の適正化によって生産性向上の意欲を刺激したり、内需拡大を通じて経済発展につながります。    

 ただし、下請体制での付加価値分配の適正化が先々の生産性向上に資するとしても、付加価値全体がすぐに増大するわけではありません。すると、大企業と中小企業の生産性格差の一定の是正にはなっても、国際比較での日本の「低い労働生産性」問題は残ります。その解決には、グローバル市場と直結するのでなく、日本各地において地域経済内連関の深まりを通じて、相対的に自立した内需主導の経済圏を形成し、投下労働(したがって付加価値)がそこで十分に実現する状況に結びつけることが大切ではないか、というのが私の仮説です。自然エネルギーや地場産業を軸にした地域内産業連関の形成という畑を準備し、そこに最低賃金の引上げや社会保障の充実等による賃金・所得の増大という種をまくことで、生活を豊かにする経済的果実が実ります。グローバル資本の世界市場での利潤追求(価値視点)から発するトップダウンではなく、個人と地域の豊かさ(使用価値視点

)から発するボトムアップの立場が必要です。それには地方自治体と国の政治的転換が決定的です。

 中小企業は規模の不経済によって生産性が低く、低賃金に依存しており、最賃引き上げに対応できないならば、日本社会や労働者にとって倒産してくれた方がいいと、アトキンソン氏は主張しています。それに対して、松丸氏は次のように批判します。

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 この論法は、労働者の人権を無視し、生活できる賃金の支払いを拒否する「ブラック企業」に対する批判であるかのような外見をとる。しかし、なぜ低賃金を労働者に押しつける企業が存在するかについて、その生産性の低さだけを指摘しても、納得できる説明にはならない。グローバル競争下で、下請け企業を階層化し、その末端の中小零細企業の低賃金を収奪の梃子とする大企業の横暴に対する批判は、まったく見当たらない。

     125ページ

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 さらに「大企業の横暴」に発する不公正な下請取引について、一般論だけでなく、実地見聞に基づいて重ねて指摘しています。

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 もちろん私は、日本の下請取引がすべて不公正だと言っているのではない。パートナーとして下請企業の技術力、競争力を高めるために熱心に指導や援助を継続している親事業者が存在することも知っている。しかし、重層的下請け構造のもとで、直接の下請取引、一次下請と二次下請の関係、二次下請と三次下請の間にパートナーシップが存在しても、下請の層次が下に行けば行くほど、指導や支援の許容範囲が狭くなり、最悪の場合は「原価割れ」での価格設定を下請企業に押しつけ、無理なコストダウンを強いる企業が存在するのには構造的な原因があることはよく知られている。     127ページ

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 この「重層的下請け構造」に、労働問題の側からぶつかっているのが、NPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク」代表理事・鳥井一平氏です。「外国人労働者の支援活動に携わること30年。これまで4千人以上を支援してき」ました(「朝日」別刷 be on Saturday516日付)。次々に語られるのはテレビドラマ顔負け、驚きのエピソードです。

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賃金未払いの差し押さえに立ち会うと、社長にガソリンをかけられ、火を放たれた。大やけどを負い救命救急センターへ。2カ月間入院したが、そこまで社長を追い詰めたものは何かを考えた。「彼もまた弱い立場でなかったか。世界は正義か悪かで二分できない」

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 そんなとんでもない目に合ったのに、鳥井氏は許して言います。

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 でも、相手に損害賠償の執行は求めませんでした。零細企業の社長を追い詰めたのは、社会の構造だと思ったからです。彼からすると私もまた権力の側の人間ではなかったか。正義か悪かと単純に考えると見誤るものがあると学びました。人生観が変わりましたね。    

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 さらにこんなこともありました。

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25年ほど前、インド人労働者から未払い賃金の相談を受け、社長と会うと、「借金でどうにもならない」と。万一倒産しても国の未払賃金立替払制度がある、未払いの証明書をほしいと頼みました。1カ月後、社長が自殺したと聞き、駆けつけると証明書があった。約束を守ってくれた。忘れられません。

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資本主義の中で生きている人間は非情なこともやらざるを得ない。だけど人を信じる。問題は制度にある。鳥井氏のそういう姿勢はこうした経験から生まれたのかもしれません。外国人技能実習生たちが受ける過酷な仕打ちの解決に真正面から取り組みながらも、加害者たる経営者を悪人と決めつけず、あくまで制度に目を向けていく確固たる立場が語られます。

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 低賃金で長時間労働、勤務中の大けがも労災申請をしない。暴力、セクハラ。そんな相談が続いている。交渉で経営者に会うと、ほとんどが「普通の社長さん」。なぜそんなひどいことができるのか。構造の問題です。実習生は制度上、仕事をやめる権利もない。ブローカーが介在し、渡航するために多額の借金を抱え、がんじがらめ状態になっている。そんな「奴隷労働」構造のもとで、経営者は「やめないから何をやっても大丈夫」という意識になっていくんですね。

 こんな制度を続けていると労働基準、倫理観や人権感覚が壊され、社会自体がじわじわ腐っていく。

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 こんな制度を続けさせているのは根本的には資本主義経済そのものでしょう。過酷な経験で培われた透徹した眼は、一方で社会の本質を射抜き、他方で人にはあくまで優しい。個人の困難や過ちを社会問題として捉えるのが社会科学の立場です。そこに成立する、個人と社会の見方のラディカルさ(急進性・根本性)、リクツに支えられたヒューマニズム。ほんの少しでもそこに近づけたらと思います。

 私が社会変革の運動に参加するのはこんな理由です――「無理が通れば道理が引っ込む」のは我慢ならないから、無理を引っ込めて道理が通るようにしたい――。要するにリクツが中心にあります。ところが「人の困難を我が事と感じられる感性」は足りません。ただ勉強したいヤツであって、本質的には活動家でない。そういう「薄情なリクツ屋」に過ぎない自分が、諸活動のヒューマニズムとともにありうるのか、ということをいつも思っています。周囲の活動家への敬意と違和感(=自分の場違い感)とをないまぜにしながら。

 若山牧水の短歌「白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」がとても好きです。もちろん自分がそんな見栄えのいい「孤高」であるわけはないし、そもそも孤高は良いことではありません。しかし憧れる。

逆に、鳥井氏は「人は心が触れあうことで変わっていく」と言います。「人から人へ。この喜びを知ってしまうとやめられません。諦めず続けられるのは、やっぱり触れあっていくことが楽しくてしょうがないからです」とも。それが本当なんだとは思いますが。

話がまったく脱線しました。妄言多罪。

 

 

          コロナパンデミック恐慌と社会変革

 もともと毎日、新聞を読んで情勢を追いかけるのが精いっぱいで、それがまとまった社会認識として焦点を結ぶようなことはあまりないのですが、コロナ禍の発生後はいっそう拍車がかかって頭がパンクしそうになっています。まとまりがつかなくなって、断片を幾つか拾い集めて手探りする他ないか、という感じです。

コロナパンデミック恐慌が新自由主義グローバリゼーションを直撃しています。株価バブルは破裂し、生産のグローバル・チェーンは寸断され、未曾有の失業増と生活苦が世界を覆っています。新自由主義は、それまで積み上げられてきた資本主義への民主的規制をどんどん剥奪し、グローバリゼーション下でむき出しの資本主義を復活強化したものである以上、その危機は資本主義の体制的危機を意味します。コロナ後に向けた新たな社会のあり方が議論されるのも当然と言えます。しかしそれが自動的に実現するわけはなく、すでに厳しい対決の渦中にあると言えましょう。日本でも安倍政権のコロナ対策の圧倒的な不備をめぐって、世論と野党の厳しい批判を受けて、第二次補正予算案では、人々の生活と労働、医療への支援などが一定盛り込まれました。その一方で、スーパーシティ法が成立し、監視社会化に一歩踏み出し、さらには憲法に緊急事態条項を加えるなどの策動が狙われています。『世界』6月号は、コロナ禍への対策と新社会への展望を特集し、コロナ対策の前提として「生存の保障」を徹底し、そのために「利潤を最優先する資本主義的生産システム」を見直す可能性に言及しながら、この対決状況を描いています(生存のためのコロナ対策ネットワーク「総論 生存保障を徹底せよ 危機に際して何が求められているか)。

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 新しいテクノロジーは、大幅に生活水準を落とさずに、それを実現させる可能性を提示している。実際に、テクノロジーの進歩を活用し、テレワークや労働時間の短縮が現実味を帯びてきており、世界のCO2排出量は減少に転じている。コロナ危機は、経済社会の在り方を見直す好機ともなり得る。ただし一方で、「コロナショック・ドクトリン」ともいうべき新自由主義政策の大幅の拡大や監視社会化の進展も、現実の問題としてすでに生じている。

 しかし、ポストコロナ危機の未来がディストピアとなるのか、これまでの経済システムを見直した新しい社会となるのかは、社会運動の実践しだいだ。生存を保障する社会政策を求めることも、新しい経済モデルを打ち立てていくことも、社会運動の実践が原動力となるだろう。       94ページ

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 実際、これまでのショック・ドクトリン=惨事便乗型資本主義では「金融経済危機が発生するたび、少数の巨大企業・金融機関・大口の投資家・富裕層は、減税・特別融資・資本注入など、国家の多様な支援により救済され、危機が収まった後には、独占的な利益と地位を一層強化してきました。他方で、国民と中小零細企業は、賃金カット・失業・生活破壊、経営悪化・倒産のリスクにさらされ、貧困と格差が拡大してきました」山田博文氏の「コロナ・ショックと世界の金融経済危機 ピンチで稼ぐ大資本とリスクを転嫁される国民、本誌所収、86ページ)。しかしそれと同時に人類史を見渡せば、ペストやコレラなどの「パンデミックは、社会制度自体の弱点をあぶりだし、社会変革の契機となってきた。今回の新型コロナ:パンデミックについても、当面の対応に全力をあげるとともに、長期的な視野から現在の資本主義社会のあり方を根本的に見直す機会にする必要があ」ります(友寄英隆氏の研究ノート「パンデミックと再生産過程の撹乱・世界恐慌 マルクスとエンゲルスはどう考えたか、本誌所収、103ページ)。

 そこで問題対象である新自由主義の特徴を3点くらいに整理してみます。第一に市場拡大の時代を切り開いてきたことです。それは外延的かつ内包的と言えます。一方では、ソ連・東欧の20世紀社会主義体制の崩壊を受け、資本にとってのグローバル市場を一挙に拡大し、他方では、資本主義国内において、鉄道・水道事業などを民営化し、医療・福祉・教育などの公共部門の営利化を推進しました。第二に搾取強化です。労働規制を緩和することによる直接的な搾取強化の他に、医療・福祉などを切り捨てて「小さな政府」にすることで、税・社会保険料などの企業負担を軽減しました。第三に金融化を推進しました。これはリーマンショックで破綻が明白になり、オバマ政権では金融規制を一定強化しましたが、逆行するトランプ政権で規制緩和されています。

 2008年のリーマンショックから10年以上が経った2020年にコロナパンデミック恐慌が襲ったのですが、その前にすでに新自由主義グローバリゼーションは危機を迎えていました。金子豊弘氏の「破局的危機に直面する世界経済」(本誌所収)は以下のようにまとめています。

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 現在の資本主義システムは、多国籍企業が主導するグローバル化と金融・デジタル化の下で、経済の構造上の不安定さが露呈し、貧富の格差が極端に拡大している。

 多国籍企業の受け入れ国での過酷な搾取の強化と同時に、多国籍企業本国での産業の空洞化によって国内産業の循環は遮断され、弱体化している。高度に金融化されたシステムの下で、途上国と主要国、国内での貧富の格差も拡大。政府・民間部門での債務の増大とともに、「緊縮政策」の下で公的な公衆衛生、福祉・医療・介護が切り捨てられ、民間任せの体制が押しつけられてきた。リーマン・ショック後の長期化する超金融緩和で家計を犠牲にした大企業優遇策がとられてきた。つまり、グローバル資本主義の危機が進む真っ最中に未曾有のコロナ危機が襲ってきた、という構図になっているのである。

   80ページ

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 このような新自由主義グローバリゼーションの構造的矛盾に対して、まずリーマンショックで金融化の病弊が直撃され、コロナパンデミック恐慌では実体経済が直撃され、格差と貧困の拡大ならびに福祉・医療削減という病弊が露呈されました。これだけでも新自由主義は人々の生存と両立し得ないことが明白になったのですが、資本主義の土台をなす市場経済のなすがままにしていては、何も解決されず、国家介入によって収めるしかないことも暴露され、市場原理主義の無力さだけでなく、資本主義市場経済そのものへの疑問が噴出しています。

 象徴的なのは、NHS(国民保健サービス)によってコロナ感染症から命を救われた保守党のジョンソン英首相が「社会というものがまさに存在する」と発言したことです。これはもちろん彼の大先輩、あのサッチャー元首相の「社会なんてものはない。あるのは個々の男たちと女たち、家族である」という新自由主義の核心を喝破した格言を否定してみせたのです。この危機に臨んでトランプ大統領は私的セクター接収の計画を発表しています。金子氏はIMFの文書が「戦時下の国家による強制的な経済体制にすら言及」していることに触れており、そこでは最近のフランス・アメリカなどにおける生産の国家統制の動きが述べられています(82ページ)。コロナ禍を戦争に例えることは誤りであり、そこに為政者の危険な狙いを見る必要がありますが、それは警戒した上で、下記の結論に注目すべきでしょう(同前)。

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 すでに、企業の国有化や資本注入の必要性が公然と議論されている。危機克服策として導入されてきたこれらの対策は、あくまで生産手段を一握りの巨大資本が握っていることを前提とした経済対策であり、大資本の支援策として機能してきた。しかし、コロナ危機という未曽有の事態に直面しているわれわれは、危機対応策をも抜本的につくり変え、社会体制をもう一歩前に進める歴史的時代に立ち至っているのではないか。

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 これで想起されるのは、第一次世界大戦時に出現した戦時国家独占資本主義体制を革命によって打倒して戦時共産主義体制を築いたレーニンの戦略です。戦時共産主義が本来の共産主義に移行するというのは錯覚であり、後にレーニンは市場経済導入のネップ路線に転換します。21世紀の今日においても市場経済を通じた社会主義への道が本流であり、コロナ危機による一時的な国家統制の動きが社会主義に直接つながるわけではありませんが、これまで支配的だった資本主義市場経済礼賛の声が後景に退き、――その傾向はリーマンショックが一つの画期をなし、コロナパンデミック恐慌がより大きな痛みを伴ってダメ押しとして作用しつつある――人々の生活と労働を第一にした経済のあり方の真剣な追求が広がっていくと思います。

 著名な哲学者スラヴォイ・ジジェクの論稿にも同様な連想を見つけたので、ついでながら紹介します。コロナ禍がもたらした「隔離の日々を生き抜くには基礎的な公共サービスが機能している必要がある。電気、食料、医療用品が確保されていなければならない」として、ジジェクは以下のように続けます(「人間の顔をした野蛮がわたしたちの宿命なのか」、『世界』6月号所収4243ページ)。

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 こうしたものは、ユートピア的なコミュニズムのヴィジョンではなく、むき出しの生き延びという必要性によって強いられたコミュニズムだ。不幸にしてそれは、一九一八年のソヴィエト連邦で「戦時コミュニズム」と呼ばれていたもののヴァージョン違いのような何かである。

 よく言われるように、わたしたちはみな危機に際しては社会主義者となる。トランプさえも一種の普遍的ベーシックインカムを検討し、成人市民一人ひとりに千ドルの小切手を送ることを考えている。これから数兆ドルが、市場法則をまったく顧みずに費やされることになるはずだ。けれどもどのように、どこに、誰のために? このやむをえず採用された社会主義は、金持ちのための社会主義となって終わるのだろうか(二〇〇八年の金融危機に際しては、何百万人もの普通の人びとがささやかな貯蓄を失っていたそのときに、銀行だけが救済されたことを思い出そう)? 今回の伝染病は、ナオミ・クラインが「災害資本主義」と呼んだものの長く悲痛な歴史に新たな一章を付け加えるだけのものなのか、それとも新しい(これまでよりも質素になった、けれどより均衡の取れた)世界秩序が、そこから生まれてくるのだろうか?  

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 ここには先述の数々の引用文が含む、グローバル資本主義の危機における被支配層の受難と支配層救済という実態、市場の無力、危機打開をめぐる支配層と進歩勢力との対決、未来社会移行への期待などの論点があります。ここでは「生き延びという必要性によって強いられたコミュニズム」が「数兆ドルが、市場法則をまったく顧みずに費やされる」と端的に説明されています。ちなみに「自粛要請には補償が伴うべきだ」という最近のスローガンで、私が思考実験的に思ったのは、それを本当に実現するためには膨大な財政支出が必要であり、それは究極的には貨幣によらずに生活できる状態を目指すようなものであり、市場経済を超えることだ、ということです。それは「必要に応じて受け取る」という共産主義の伝統的スローガンに通じるものがあります。ジジェクの論稿に対して片岡大右氏は「ジジェクは、人びとの生き延びのためなら市場メカニズムの放棄をも辞さないこうした動向の先に、『コミュニズム』の理念の再生を展望する」と解説しています(同前、45ページ)。

 ただし繰り返しになりますが、今回のような非常時に戦時共産主義のようなものが想起されるにしても、現実の政策的対応を含む平時の体制移行の議論にそれが適用されるとは思えません。コロナパンデミック恐慌が示したものは、まず格差と貧困の致命的拡大、および市場原理主義の不可能性という点での新自由主義の見事な破綻です。それに付随して資本主義市場経済そのものに対する強固な信仰が崩壊し、それを相対化し、国家介入と社会保障の充実という、経済における市場外の要素の適切な位置づけが広く常識化し、これまでの異常な市場崇拝が後退することで、ようやく社会主義への体制移行の問題が冷静に議論できる基盤が形成されるということでしょう。

 体制移行というような野心的テーマはひとまず措いて、自然と人間社会との関係をも含めた当面の復興の展望を探ることで、新しい社会のあり方を考えていきましょう。未知の病原ウイルスが人類と接触するようになるのは、グローバル資本主義による自然の乱開発が重要な原因の一つであるだけに、自然の問題も必要な視点です。参考にするのは、医療団体がG20に宛てた書簡です。世界90カ国以上からの4000万人超の医療従事者を代表して350の医療関係団体(日本医師会を含む)526日、新型コロナウイルスによる景気悪化を克服する大規模な経済対策を取るにあたって、より強靱で平等な医療体制の確保や気候変動対策からなる「健全な復興」を実現するよう求める公開書簡を発表しました(「しんぶん赤旗」528日付)。

 先の金子論文が、コロナ禍以前すでにグローバル資本主義は危機的であったことを指摘しているのと同様に、この「書簡」によれば、コロナ禍以前に、気候変動をもたらす大気汚染や水の汚染が人類の健康を相当に蝕んでおり、医療制度に重圧をかけていました。その上で、コロナ禍による惨状の性格が次のように描かれています(同前)。

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 われわれは、健康、食料安全保障、働く自由が共通の脅威によって中断されるとき、社会がいかにもろいものであるかを直接体験した。この現在進行中の悲劇は重層的であり、格差と公衆衛生システムの予算不足によって悪化している。われわれは、何十年もの間目にしなかったレベルで、死、病気、精神的苦痛を目にしている。

 これらの影響は、世界的大流行への備え、公衆衛生や環境の管理に適切な投資がなされていれば、部分的には緩和されていたかもしれないし、あるいは防ぐことさえできたかもしれない。われわれは、こうした過ちから学び、より一層強く、健全で、回復力のある形で復興しなければならない。

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 この過ちを正す「健全な復興」は自然と弱者に配慮した真に強靭な社会像を新たに目指します(同前)。

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 真に健全な復興は、われわれが呼吸する空気や飲み水を損ない続ける汚染を許さないだろう。それは、脆弱(ぜいじゃく)な人々に新たな健康上の脅威をもたらす可能性がある弱まることのない気候変動や森林破壊を許さないだろう。

 健全な経済と市民社会においては、われわれのなかで最も脆弱な人々に気が配られる。労働者は、汚染や自然の劣化を進めない賃金の高い仕事に就ける。都市は、歩行者、自転車利用者、公共交通を優先し、河川や空は保護され、汚染されていない。自然が力強く育ち、われわれの体は感染症からの回復力を一層備えたものとなり、だれも医療費が原因で貧困に追いやられることがない。

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 こうした新しい社会実現の具体的方策として、「書簡」は化石燃料から再生可能エネルギーへの移行によって、大気がきれいになり気候変動が抑制され、経済成長効果もあることを強調し、G20に対して「今後数カ月に医療、交通、エネルギー、農業といった主要分野で行う大規模な投資では、健康の保護と増進がその中核に据えられなければならない」とくぎを刺しています。コロナ禍による惨状を前に、G20に向けて暗に新自由主義路線の破棄を迫っていると言ってもいいような内容です。

 以上の医療団体の書簡も合わせて、コロナ後の社会像を考えると、次のようになるでしょうか。第一に化石燃料から再生可能エネルギーへの移行を中心にして、気候変動を招く大気汚染をなくし、乱開発を抑制して病原との接触を防ぐ。第二に新自由主義の経済政策を破棄して、資本への民主的規制を敢行する新たな平和=福祉国家を建設して、医療・福祉・教育を充実させ、格差・貧困をなくし、人々が安心して暮らし働ける経済社会を実現する。第三に人権を保障し民主主義をいっそう発展させる。

 政治に関する第三点について補足します。この間のコロナ対策を通じて、一方ではこれまで書いてきたような進歩的な社会変革の動きが見られるのに対して、他方では緊急事態宣言の下で一定の権利制限が受容されている状況を奇貨として、監視社会化や緊急事態条項を加える改憲の策動などがあります。

先述のように527日にはスーパーシティ法が成立し、監視社会に一歩踏み出しました。監視社会のトップランナーである中国では、個人のプライバシーと権利が侵害され、監視カメラや顔認証技術が政治弾圧に利用されています。共産党の大門実紀史議員27日の参院本会議でスーパーシティ法案(国家戦略特区法改定案)について以下のような反対討論を行なっています(「しんぶん赤旗」529日付)。

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 スーパーシティ構想は、企業などの実施主体が住民の個人情報を一元的に管理する代わりに、医療、交通、金融などの各種サービスをまるごと提供しようとするものです。個人情報と、顔認証やスマートフォンの位置情報により掌握された行動軌跡は、ビッグデータに集積され、AI(人工知能)により分析、プロファイリング(個人の特徴を識別)されます。個人の特性や人格まで推定することが可能となります。

    …中略… 

 いま重要なことは、個人情報を保護しつつ、先端技術を住民福祉の向上にどう生かすのかという落ち着いた国民的議論と、プライバシー保護という時代の流れを視野に入れた中長期的な企業戦略です。哲学もビジョンも深い考えもなく、目先の利益だけを追う一部の企業家などの拙速な要求だけで、社会のあり方を変えようとする本法案は言語道断であり、撤回すべきです。

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 大門氏は監視社会化の中国と、個人情報を守りながら、住民合意に基づいて行政サービス向上に役立てている、スペインのバルセロナとを対比して上記の議論を展開しています。先端技術をめぐっては常にこうした対決があり、利便性だけでなく人権と民主主義の観点で考えていくことが必要です。

 コロナ対策の緊急事態宣言には憲法の効力を停止する効果はありませんが、改憲が狙われる緊急事態条項はいったん憲法の効力を停止し、行政権に強力なフリーハンドを与えるもので、両者は厳格に区別されねばなりません。コロナ禍のような非常時になると、行政に強い権限を与えればうまくいく、あるいはそうせざるを得ない、という考えに陥りがちですが、むしろ憲法の民主的手続きを徹底することが求められます。関西大教授の村田尚紀氏は次のように語っています(「しんぶん赤旗」53日付)。

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 安倍政権は、COVID―19感染症の蔓延防止策として、外出自粛要請や休業要請を行っていますが、自粛は本来、人々の納得が得られて効果を発揮します。

 ところが、安倍政権が提供する情報も補償もまったく不十分です。そのため、人々の間にCOVID―19感染の恐怖が広がるばかりで、そこに日本社会に根強い同調圧力・問責圧力が加わり、人々は強い不安と不満を抱えたまま自粛を余儀なくされる非常に不健全な状態に追い込まれています。

 そのほかにも、検査・医療体制の拡充支援の遅れはもちろん、全社会活動の停止によって生じているあらゆる困難に対する救済・支援の不足・遅れが指摘されます。

 この事態は、行政権にフリーハンドを与えたらどんなことが起きるかを私たちに教えています。行政のフリーハンドは、権限乱用の危険だけでなく不作為の危険をも意味します。人々のために危機的状況からの真の活路を開く措置をタイムリーに執らない人が首相としてフリーハンドを持つと、事態は悪化する悲劇が起きるのです。

 危機に際して、人々の生命と生活を守るベストアンサーを発見する最も確かな近道は、専門家の知見や現場の声を生かし、活発な議論を保障する民主主義を健全に機能させることです。行政権にフリーハンドを与えたら事態が解決するという考え方が幻想にすぎないことは明らかです。

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まさに強権政治ではなく、情報開示に基づくコンセンサスを尊重する民主主義こそが命を守るのです。コロナ後に暗黒社会ではなく、自由・人権・民主主義の輝く社会を実現するため、この非常時にもしっかりとした原則を踏まえて考えていくことが不可欠です。

 

 

          コロナ禍対策と日本社会の性格

 コロナ禍を前に、日本社会の性格をどう捉えるかということが議論になっています。安倍政権の無策・下策にもかかわらず、欧米に比べて死者が非常に少ないという顕著な「成功」がパラドクスとして提起されています。ただし、東アジアにおいては、見事な対応力を発揮した、台湾・韓国・ベトナムなどに比べてはるかに死者が多いとか、第二波が来たらかえって危ないかもしれない、等々いろいろ留保すべき点はあります。しかし人口対比のコロナ死亡率が欧米より少ないことだけは確かです。安倍政権のように自分たちの成功と捉えるのは論外としても、このコロナ禍対策での日本パラドクスをどう捉えたらいいのか。本来はデータに基づいた慎重な議論が求められるので、それがそろう前にどうこう言うのは放言の類ですが、それは承知の上で議論を聞いてみます。

 作家の保坂和志氏は「日本人は勝手にやってきた」論です(「朝日」530日付)。政府が無能でも「日本人は放っておけば、勝手に努力して、勝手にせっせと働いて、勝手にあれこれ工夫する、そういう人たちの集まりなんだと。/日本人は『お上』なんかアテにしないで自分たちで適当に助け合ってなんとかしてきた。日本人の心の中には、国家とか政府とかという概念がそもそもない。逆に言うと、近代国家に相応(ふさわ)しい政府に国民が育ててこなかった」と。確かにそうかもしれないけれども、これからもそれでいいのかと言えば違うだろうと思います。コロナの死者は欧米より少ないけれど、困っている人はたくさんいて、国家にきちんとやってもらわなければならないことは山とあります。「日本人は勝手にやってきた」論は、好きなことを仕事にして十分に食っていける人の議論で、そうでない人の方が多数派でしょう。保坂氏は毎月10万円支給するベーシック・インカムを提唱しており、確かに議論としては補完になっていますが、まあ本気ではないでしょう。

 欧米のように強制しないでも「自粛」で何とかやっていけるのは、日本には「社会」がなく、あるのは「世間」だからだ、というのが刑事法学の佐藤直樹氏です(「朝日」530日付)。歴史学の阿部謹也氏とともに「日本世間学会」を創設した人です。次のような「社会」と「世間」の違いがキー概念です。

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 「社会」とはバラバラの「個人」の集合体で、法のルールによって動く。ところが日本にあるのは社会ではなく「世間」で、その集団の力学こそ物を言い、絶大な力を持つ。

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 コロナ対策での「要請」と「自粛」。「この国ではそれだけで十分なんですよね。言うことを聞かない人には同調圧力が働く」というわけです。「自粛警察」も世間と深く結びついた現象で「同調圧力と相互監視がグロテスクに表出した」ものです。この議論はただ現象をもっともらしく「概念化」しただけのような気もしますが、納得感はあります。

広井良典氏は総合的な日本社会論を展開しています(「朝日」528日付)。

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 日本社会は良くも悪くも集団の中に個人が埋もれ、情緒的な一体感を基盤とし、「空気」や忖度(そんたく)と表裏一体の「農村型コミュニティー」に傾きがち。外出を自粛しない人を非難するような「相互監視社会」「ムラ社会」と重なります。

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 一方、個人が独立しながら、ゆるくつながるような関係性、理念の共有や公共性が基盤にあるのが「都市型コミュニティー」です。新型コロナの感染拡大後、在宅勤務やオンライン会議が増え、家族と過ごす時間なども大事にしながら自分のペースで仕事をする動きも広がっています。個人が自由に働き、多様な人生設計が可能な都市型コミュニティーも芽生え始めているのでは、と思います。

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 もちろん広井氏は「農村型コミュニティー」から「都市型コミュニティー」への転換を推奨しています。先の佐藤氏のタームでは「世間」から「社会」へということでしょうか。ただし広井氏は「都市集中型社会」は批判し、もう一つの課題を提起しています。

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 こうした集中型システムからの転換が、コロナ後の社会の大きなテーマになると思います。これは人々の価値観や働き方、住まい方にも関わるもので、「集団で一本の道を上る」「すべてが東京に向かって流れる」という昭和・平成的な価値観や社会構造から、個人が以前より自由な形で住む場所の選択や人生のデザインをする「分散型社会」へと変わる契機になるでしょう。

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 さらに広井氏はグローバル化も考慮しています。

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グローバル化の行きすぎを抑え、ローカルなところから経済やコミュニティーをつくることが重要です。

 このことは決してローカルで閉じて排他的になるということではありません。たとえば、食糧や自然エネルギーはできるだけ地産地消で、工業製品は他国との分業で生産するというような方向性です。

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 以上が「ポストコロナの時代は、自立した個人がゆるやかにつながる都市型コミュニティー、『分散型システム』への移行、過度のグローバル化からローカル化、といった変化が起こるでしょう」ときれいにまとめられています。「変化を起こさなければなりません」ではなく、「変化が起こるでしょう」とまで言っているのは、日本社会の必然的発展方向の洞察に対する自信の表れでしょうか。

 へそ曲がりの私には、この日本社会論の大局的総合性は美辞麗句のように映り、リベラリズムの脆弱性を表現しているような気がして仕方ありません。以上のような日本社会論について思うのは、いずれも「共同体VS市民社会」という次元の議論であって、その点に意義と限度があるのではないか、ということです。確かに人々の気質や社会のあり方がそこでかなり形成されるのですが、それらが資本=賃労働関係の次元でどう展開するか、さらにはグローバル資本が国家権力の実権を握り、経済政策を支配している中で「世間」や「社会」がどういう変容を遂げるのかが問題となります。人々のヨコのつながりにくさびを打ち込む、搾取(とそれを保障する国家)というタテのつながりを抜きに社会は分かりません。かつて企業社会論が一世を風靡していましたが、私は勉強不足でその内容を知りません。おそらく日本社会論は企業社会論を踏まえることが必要なのだろう、という推測だけを述べておきます。

(追伸)先述の「日本世間学会」での「社会」の定義:バラバラの「個人」の集合体で、法のルールによって動く、というのは、むしろサッチャーが喝破した「社会はない」状態に近いと言えます。ジョンソン英首相の命を救って「社会はある」と言わせたNHS(国民保健サービス)は社会保障制度の一環であり、労働者の階級闘争の成果の一部でしょう。だからその「社会」は確かに「世間」ではないけれども、バラバラの個人の集合体ではありません。今日において、社会保障に象徴される「社会」という言葉は「共同体VS市民社会」という次元だけで捉えることはできず、資本=賃労働関係の次元の洗礼を受けています。人権概念の近代から現代への転換は、自由権に社会権を加えることなどを含んでおり、それに並行して「社会」の定義も近代から現代に転換する必要があるように思えます。

 

 

          アベパラドクスは崩壊するか

 安倍政権の政策は支持されていないのに、世論調査の内閣支持率が高いことをアベパラドクスと称してその謎をたびたびしつこく考えてきました。結局、きちんとした回答は見つけられないできました。そしてついに内閣支持率が危険水準と言われる3割を切りました(たとえば「朝日」525日付29%)。謎の回答はないけれども、今回の世論調査結果は、コロナ劇場でのドタバタ喜劇に人々が愛想を尽かしたタイミングで、検察庁法改正案の今国会での成立断念が重なったことが導き出したものでしょう。この二つの事象が重なったのは偶然ではありません。

 検察庁法案成立断念について、519日に海渡雄一弁護士はこう書いています(「全国商工新聞」61日付)。

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 今回の決定を導いたのは、2月から国会での野党の追及、日弁連をはじめとする弁護士会のゆるぎない姿勢、500万を超えるツイートが発信されたSNSとりわけ小泉今日子さんら著名人が発信を続けてくれたことなどの影響が大きいと思います。このツイートデモが一人の女性のたった一つのハッシュタグから始まったことも画期的なことです。

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 このツイッターデモ(TD)の衝撃について、斎藤美奈子氏は「政権を擁護していれば安泰という神話」の崩壊を語っています(「しんぶん赤旗」527日付、坂井希氏の「論壇時評」で紹介、元は「東京」520日付)。いわば世間の空気が変わっている、という本質を衝く重要な指摘です。「朝日」の高橋純子編集員は法案成立断念についての感想を述べ、その政治的意義と背景にある政治意識の変化を考察しています(527日付)。

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 少しく、意外だった。

 現政権は、民意に成功体験を与えないこと、数の力でねじ伏せ、無力感を植え付け続けることで7年半弱、権力を維持してきた。ゆえに反対が強い時ほど引かない。それがこの政権のやり方だった、のに。

 著名人を含む「ツイッター世論」の拡大がきっかけだったことは大前提として、何かほかに見るべき点はないか。そう問われれば私は、コロナ禍がもたらした、政治意識の「質」的変化に思いをはせる。

 民主主義には本来、時間が必要だ。情報を集め、自分なりに分析し、掘り下げて考える時間。よくも悪くも、そんな時間をいま多くの人が持っている。自分の生活さえ保守できればよく、誠実であるとか信頼に足るとかいった政治的価値は二の次と考えていた人たちが今回、「ん?」と考え始めた。

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 大いに納得のいく分析です。それをさらにネット世論の可能性という視点で深堀りしたのが「朝日」論壇時評の津田大介氏です(528日付)。ネットは誹謗中傷による人権侵害という深刻な問題をはらみますが、社会進歩に貢献する手段ともなり得ます。津田氏はTDに対する肯定的評価を紹介した後で、疑念の議論にも言及しています。それについて「(1)ツイッターは性質上不確かな情報が流通しやすく、(2)不確かな情報に基づいて世論が形成されると偏った民意が形成され、(3)偏った民意を過剰に政治が汲(く)み取ると非合理的な政策が選択され民主主義が損なわれる、という問題意識だ」と読み解いています。その上で「ネット発の民意をどこまで尊重し、政策に生かすかというのは確かに重要な論点だ」と問題提起し、SNS上にあふれる不確かな情報――流言を「情報崩壊ではなく情報構築のプロセスと捉えることができる」としています。今回のTDについて「抗議の声を上げた層は、雑多な情報に積極的にアクセスして自ら学ぶことでこの問題の本質がどこにあるかつかみ、断続的に声を上げていった」と評価し、そこに「情報構築のプロセス」を見ています。そして「ネットが人々の意識を変える」のではなく「意識がネットを変える」と主張し、今回のTDについて、個々人の政治参加意識の高まりがネットの使われ方を変えた典型例だ、と評価しています。

 さらに今回の政治意識の形成について、先述の高橋氏が「民主主義には時間が必要だ」と言っていることに関連して、「コロナ禍における新しい日常で孤独に向き合うことが人間に多くの気づきをもたらし」たとして特に芸能人の立場を以下のように読み解いています。

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コロナによって本来なすべき自分の仕事が不条理に奪われた芸能人たちは、それぞれがこの3カ月間で孤独と向き合い、思考を深める時間が与えられたことで、世界を見る目と走る足腰が鍛えられたのだ。彼らがそれまで遠くに感じていた現実の政治や社会の問題を自分の実存や生き方とつなげられるようになったのは必然だったのである。

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 アベチャンネル=NHKニュースを見ていると、検察庁の問題でも安倍首相がきちんと答弁しているかのような編集をあい変らず施しています。コロナ禍を背景に見ながら、検察庁問題での激動と政治意識の(津田氏の描く)深い変化が、そうした逆流を乗り越えてついにアベパラドクスを過去のものとし、政権打倒に結びついていくのか。今度こそ、市民と野党の共闘が前面に登場できるかが問われます。
                                 2020年5月31日


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